(一九九〇〜二〇〇四年) 岐路に立つ短期大学 - …239 に立短期大学(年) 第一節 短大志望者の減少と女性のライフスタイルの変化 高等教育機関、特に短期大学にとって、一九九〇年から二〇〇四年までの一五年間は激変ともいえるべ

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第四章

岐路に立つ短期大学

(一九九〇〜二〇〇四年)

239 第四章 岐路に立つ短期大学(一九九〇~二〇〇四年)

第一節 短大志望者の減少と女性のライフスタイルの変化

高等教育機関、特に短期大学にとって、一九九〇年から二〇〇四年までの一五年間は激変ともいえるべ

く大きな変動にさらされた年代であった(

1)。

主たる受験者である一八歳の人口は、一九七四年の一五四万人から増え続け一九九二年には二〇五万人

にまでなり、四年制大学・短期大学への進学率も四〇%を超えてさらに増え続けていた。その結果として、

全国の短期大学受験者数も八五年に四八万人だったものが九二年には九三万人を超え、最多を記録した。

しかし、その受験者数は翌九三年から減り続け、九五年は七〇万人、二〇〇〇年には二八万人となった。九

二年を基準にすると、二〇〇〇年の短期大学受験者数の減少率は七〇%であり、二〇〇〇年でも一五一万

人であった一八歳人口の減少率二六%をはるかに超えていた。この間、短期大学校数は八五年で五四三校、

九五年で五九六校、そして九六年の五九八校をピークに二〇〇〇年では五七二校、一〇年では三九五校と

減少したが、受験者数の大幅な減少に比べるとはるかに少ない。これは、同時期の入学者数が一七万人、二

三万人、一四万人、七万人であることからわかるように、受験生の減少に合わせるようにして、短期大学

校数ではなく各校がその規模を縮小して対応してきたのであった(表1、2、図1、2)。

四年制大学入学者における女性の割合は、高等教育を受ける女性の増加のなかで、九五年から二〇〇〇

年ころの不況期を除けば、一九五〇年の一一%から増え続け、九一年には四〇%を超えた。同時期には短

期大学志向の女性も増加していた。先に述べたように、それ以降の短期大学志望の受験者数や入学者数が

減っていったが、その理由は、女性の高学歴化志向によると一般に説明されている。この高学歴化志向は、

� 240�

大学卒業後に実社会で働くことは皆同じであるが、女性の場合も数年後に結婚を理由に退職して家庭に入

ることではなく、より長い期間実社会で働き、自活して自身の人生を送るための基盤として四年制大学へ、

そして花嫁修業ではない実社会で要求される高度な学問を修めようとするものである。政治経済面でも、

八五年に国連の女子差別撤廃条約を批准し、さらに八六年の男女雇用機会均等法施行に始まり、九九年に

は努力目標であった男女差解消が男女差禁止規定とされた。同年男女共同参画社会基本法が制定されるな

280,000

260,000

240,000

220,000

200,000

180,000

160,000

140,000

120,000

100,0001986年

1987年

1988年

1989年

1990年

1991年

1992年

1993年

1994年

1995年

1996年

1997年

1998年

1999年

2000年

2001年

2002年

2003年

短期大学 入学定員短期大学 入学者

図1 短期大学の入学定員と入学者数の推移(2)

表1 学校数(1)

年 短期大学 大学1950 昭和25 149 2011955 30 264 2281960 35 280 2451965 40 369 3171970 45 479 3821975 50 513 4201980 55 517 4461985 60 543 ⑴ 4601990 平成� 2 593 ⑴ 5071995 � 7 596 ⑴ 5651996 � 8 598 ⑴ 5762000 12 572 ⑵ 6492005 17 488 ⑷ 7262010 22 ⑴ 395 ⑹ 7782011 23 ⑴ 387 ⑹ 7802012 24 ⑴ 372 ⑺ 7832013 25 ⑴ 359 ⑺ 7822014 26 ⑴ 352 ⑺ 7812015 27 ⑵ 346 ⑺ 779

(注)1 国・公・私立の合計数である。   2 本校・分校の合計数である。   3 「大学」は新制大学のみである。   4 �( )内の数値は通信教育のみを行う学校で

別掲である。

241 第四章 岐路に立つ短期大学(一九九〇~二〇〇四年)

ど、女性が男性と同じように働くことをサポートする体制が整えられてきたのであった。

表2は全国短期大学の総受験者数と、本学における一般入試の実受験者数である。本学の受験者数はす

でに述べた短期大学全体のそれとは異なる動きを示し、最大が一九七九年度、ついで一九八六年度であっ

た。他短期大学よりは早いこの受験者数の減少と同じ変化を高等部よりの推薦入学者数減少にみることが

できることから、本学を希望する当時の受験者層は前述の高学歴志向が比較的高い層であり、社会の流れ

に早くから沿って動いた層であったといえよう(

3)。

また、二番目に受験者数が多かった一九八六年入学生

表2 全短期大学受験者総数と本学一般入試受験者数(3、4)

年 受験者総数(千人)

受験者数(人)

1979 474 8,070

1986 613 7,530

1987 659 4,605

1988 680 4,774

1989 751 3,908

1990 834 5,410

1991 910 4,879

1992 932 5,449

1993 886 4,343

1994 792 4,222

1995 696 3,937

1998 449 4,337

2000 284 2,952

2002 233 2,052

2004 204 1,664

2006 166 1,346

2008 128 1,082

� 242�

への学生調査結果において、過去の調査ではなかった

四年制大学への入学を希望していた学生数が短期大学

入学希望の学生数をわずかながら上回ったことから

も、高学歴志向の影響が他短期大学より早く始まった

ことがうかがえる。

  第二節 新大学構想委員会の活動

短大併設四大化構想と短大充実構想、学院の最終判断

学内において本学の将来を計画する委員会は、一九

九〇年四月から九二年三月まで第二次将来計画委員会

(委員長 

阿部幸子)が設置され、九一年一二月の委員

会報告書の作成をもって解散した。その主な内容は、

教養教育を中心とする総合文化学部一学部五学科編成

の四年制女子大学を構想したものであった(

5)。

これ以

前に、九一年三月二〇日に院長、理事長、常務理事を

招いての本学の将来に関する懇談会後、九一年四月三

日の教授会記録に「今後理事会で短大問題を最緊要事

50%

40%

30%

20%

(年度)

(注)進学率=当該学校種への入学者/18歳人口。

10%

0%

19651967196919711973197519771979198119831985198719891991199319951997199920012003

大学 男

大学 女

短期大学 女

専門学校 男

短期大学 男

専門学校 女

26.1%

21.5%

13.5%

1.8%

35.2%

49.3%

進学率

図2 高等教育への進学率(男女別)(2)

243 第四章 岐路に立つ短期大学(一九九〇~二〇〇四年)

項として検討することを要望している」との島崎通夫学長発言が載っているが、構想だけで全学的な流れ

を作ることができなかった。一九九二年六月三日の教授会にて、栗坪良樹学長より将来を構想する委員会

の再出発として新大学構想委員会の設置を考えているとの発言があり、一九九三年二月二四日の教授会で

委員会設置の提案と意見交換を経て、四月一四日の教授会にて正式に委員会として発足した(委員長���

井孝彦)。委員会には、学長より⑴本学の自己点検、自己評価、⑵小規模四年制大学の検討、という二つの

検討課題が諮問された。四月二八日の教授会にて本年度の委員会目標を自己点検・自己評価の実施と決定

した委員会は、一九九五年三月に、本学において初めての『青山学院女子短期大学 

1994 

─自己点

検・自己評価報告書』(

6)を

発行した。四年制大学構想の検討は、九四年六月、委員会内に「四年制大学の

可能性」と「学位授与機構(認定専攻科)」についての小委員会を設置して、始まった。

九五年二月一八日の教授会にて、魅力ある教養型の大学で、全学科を全面改組一括転換の一学部三学科

案と全学科を全面改組段階的転換の短期大学部併設の一学部案を報告し、次年度にはそれらの理念・目的

などを継続審議することとした。九六年三月八日の教授会では、次の二案が提案された(

7)。

①一学部二学

科(人間文化学部─言語文化学科・社会文化学科)+併設短期大学部(教養学科を除く五学科)、②一学部

三学科(人間文化学部─表現文化学科・社会文化学科・人間環境文化学科)+併設短期大学部(国文学科・

英文学科・家政学科)

さらに、九八年三月四日および九九年三月一〇日の教授会において、次の三案が提案された(

8)。

A案:一学部二学科(社会文化学部─表現文化学科・社会文化学科)+併設短期大学部(英文学科・家政

学科・児童教育学科)、B案:一学部二学科(社会文化学部─表現文化学科・社会文化学科)+併設短期大

� 244�

学部(教養学科を除く五学科)、C案:一学部一学科(社会文化学部─社会文化学科)+併設短期大学部

(教養学科を除く五学科)

人間文化学部、社会文化学部といった学部名称や学科構成の違いはあるが、第二次将来計画委員会の総

合文化学部と同様、既存の短大の資源を基礎にした教養系の一学部を想定している点で一貫している。た

だし、学部と短期大学部の併設方式という点では異なっている。短大との併設方式を採用したのは「全教

員の雇用」や「実現可能性」を追求したためであった。新大学構想委員会は二〇〇〇年三月に昼夜開講制

に関する報告書(

9)を

提出して解散した。

二〇〇〇年四月に阿部幸子学長のもとで新たに新大学構想委員会(委員長 

加藤由利子)が発足し、こ

れまでに検討されてきた内容と内外の状況に関する情報を提供して、教授会構成員全員の意見を聴取する

ことで、将来構想を構築するための基礎資料を作ることになった。この委員会は、教員全員を対象とした

「本学の将来構想に関する懇談会」を二回、学科別懇談会を八回、そして一二回の委員会を開催して、〇一

年三月に報告書を作成し三月一四日の教授会にて説明を行った。この報告書には、「現状でよい」という意

見から「四年制への移行へ」「短大組織の中での大幅な改組を」との意見、「男子学生も含めた学院大学の

一学部」というように、多様な意見が載せられている(

10)。

一九九一年一月の理事会で青山学院全体の二一世紀へ向かっての将来計画委員会設置が承認され、同年

五月には第一回の委員会開催、そして月一回の定例会議とその前後の議事運営委員会での検討を経て、九

二年四月には「青山学院の充実発展のための基本構想─二一世紀へ向けての指針─」を冊子にまとめた(

11)。

そのなかで「女子短期大学は九一年の短期大学設置基準の大幅な改正の趣旨を念頭に置きつつ、新しい時

245 第四章 岐路に立つ短期大学(一九九〇~二〇〇四年)

代の要請に応えられる独自の特性を有した女子高等教育の場となるような施策の検討を期待したい」とさ

れた。さらに、一九九八年七月の理事会において「青山学院第二次将来計画委員会」設置が承認され、第

一次の委員会とは異なり、各設置学校長や常務理事など多くの構成員でもって翌年三月から審議が開始さ

れ、二〇〇三年七月に報告書「青山学院の課題と展望─歴史に学び未来を拓く─」(

12)が

理事会に提出され

た。そこでは女子短期大学に七ページを割き、将来計画に関しては「

一九八四年以来一六年にわたる将来

計画の検討は……検討過程とその結論は真摯に受け止められ充分尊重されなければならない。……女子短

期大学の将来像に関する検討は慎重な状況判断を必要としている。即ち、高等教育が総体的に極めて微妙

な局面にある中での四年制大学併設、四年制女子大学への改組、大学との併合などの施策は、それ自体時

宣を得ていないと判断される。……したがって、高等教育全体の改革動向に一定の見通しがつくまで、女

子短期大学には、当面、現状の体制を充実させつつ推移することを期待するとともに、これまでの検討が

次の機会に必ず生かされるよう、学院全体として調整するための方法の検討に着手すべきことをここに明

記することとしたい」

とされ、ここにおいて、女子短期大学の四年制大学化への短大側からの動きは停滞

することとなった。

第三節 改組改革委員会の活動

子ども学科案

本学の過去に検討された短期的・長期的な充実・発展の具体的な案は、二〇〇二年の自己点検・評価報

� 246�

告書にまとめられているが、それに続いて青山学院第二次将来計画委員会で二〇〇三年七月にまとめられ

る報告書「青山学院の課題と展望─歴史に学び未来を拓く─」(

12)に

おいて将来構想について具体的に提起

される事柄も含めて、阿部学長提案の改組改革に関する検討委員会設置が二〇〇三年三月十二日の教授会

で認められた。この改組改革委員会(委員長 

加藤晃)には、⑴短大の現状とその抱える問題点の分析、⑵

短期的な改組改革の在り方の検討、⑶改組改革の素案を作成し、その結果を協議会に提出することが、諮

問された。そして、一〇カ月間で二三回開催された委員会において検討された結果を中間報告とし、二〇

〇四年一月七日の協議会に向けて報告書を作成した(

13)。

そこでは、「現時点で考えられる本学の改革のあ

らゆる可能性を考慮しつつ、今年度の検討課題を、①二〇〇五年実施を目指すものと、②五~六年後を視

野に入れた本格的な改組改革、の検討を同時並行的に行う」こととした。その間、二〇〇三年に実施可能

な本学の教育課程の強化実施策として、次の三項目、⑴児童教育学科三年制への改組、⑵専攻科全課程の

認定専攻科への改組など専攻科の充実、⑶教養学科での社会科教員の中学校二種免許など資格取得の強化

について、検討を行ってきた。この三項目のうち、保育士の資格を得るには当時では三年目に狭き門であ

る入学定員五〇名の専攻科児童教育専攻に入学し直さねばならない問題を解決するため、スケジュール上

最も急がれる児童教育学科三年制への改組を教授会に提案し、準備委員会を立ち上げるべく、三年制への

改組についての検討結果をまとめた。二〇〇四年一月一四日の教授会にて委員会報告と改組内容の提案を

行い、準備委員会立上げの承認を得た。続いて児童教育学科三年制改組準備委員会(委員長 

加藤晃)発

足が二月九日の教授会で承認された。改組案自体は、すでに二〇〇三年四月から委員会内と児童教育学科

が検討を始め、九月には児童教育学科が改組案を委員会に提出、これを受けて委員会内にカリキュラム検

247 第四章 岐路に立つ短期大学(一九九〇~二〇〇四年)

討部会を設置し、一〇月にはその結果を協議会に経過報告し、二〇〇四年一月の教授会での提案となった

のであった。二月には、三年制改組案を学院経営執行会議に提案し、前之園幸一郎学長となった四月に、再

度、学院経営執行会議に三年制改組案を提案し教授会に提案することの承認を受け、二〇〇四年五月二六

日に教授会において三年間で幼稚園教諭と保育士資格が同時に取得できる改組案が承認された。二〇〇六

年四月に入学定員一〇〇名の三年制子ども学科が開設された。

第四節 �短期大学設置基準の大綱化と一般教育の改革

一九八七年九月八日、「学校教育法及び私立学校法の一部を改正する法律」の成立により設置された「大

学審議会」は、大学制度に対し多くの提言を行った。この審議会の答申に基づいて、短期大学関連事項と

して、九一年の設置基準の大綱化や「短期大学及び高等専門学校の専攻科の認定に関する規定」を制定し、

学位授与機構が設置された。

さらに、審議会は九八年に「21世紀の大学像と今後の改革方策について─競争的環境の中で個性が輝く

大学─」

を答申し、短期大学において必要な改革の課題を示すとともに、短期大学の制度問題を継続して

審議することとした。

九一年の設置基準の大綱化は、設置基準の規定を基本的事項に限定し大綱化するという考え方に基づい

た抜本的改正であり、弾力化した内容であった。主な改正点は以下の三点であった。⑴一般教育科目、専

門教育科目等の科目区分の枠組みを外し、自由に教育課程の編成を行えるようにし、卒業要件は二年制短

� 248�

大で在学二年以上、修得単位六二以上のみとした。⑵科目登録制・コース登録制の新設、昼夜開講制、単

位互換制度、四年制大学への編入学枠の拡大など、学習機会の多様化による生涯学習への対応をするなど。

⑶自己評価に関する規定を努力規定として定めた。

以上の審議会の答申を受けた規則の制定によって、本学においてもさまざまな改革が行われた。

五時限制

時間割を作成するにあたって、学科数も多く授業科目も多いが教室数には限りがあるので、同一学科で

必修科目と選択科目が同一時限中に開講されることが避けられず、また教職課程や司書課程を履修する学

生は希望する選択科目がとりにくい等の問題があった。これを解決するため、従来の四時限制(九:一〇

から一限開始で四限は一六:五〇終了)を五時限制にすべく検討を進めることを栗坪学長から依頼された。

教務委員会での検討の結果、九:〇〇から一限開始で昼休みは一二:〇〇から一三:一〇までとし、五限

は一七:四五終了として八五分を一コマとした五時限制案が一九九五年六月一四日の教授会で承認され、

一九九六年四月より五時限制が開始された。折しも、同年一月に発生した阪神淡路大震災の災害状況を受

け、時限を増やすことにより授業を分散させ、校舎内の学生の集中を回避するリスク管理上の効果も期待

された。これによって新たな授業科目の開講も可能になり、一般教育科目の改革による授業科目のコマ数

増加も受け入れることができた。その後八五分で一コマとする授業時間は二〇一二年度から九〇分に戻し、

九:〇〇からの一限開始は変わらなかったが、五限終了を一八:〇〇とし、従来からの礼拝を含む一二:

〇〇~一三:一〇の昼休み時間を一二:一〇~一三:一〇へと短縮した。

249 第四章 岐路に立つ短期大学(一九九〇~二〇〇四年)

一般教育(外国語、保健体育の内容変化)、履修方法の変化(14)

一般教育科目科会では一九九五年度より一般教育科目、外国語科目、保健体育科目など、全学生が共通

に履修する科目のカリキュラム改革の検討を開始し、九六年九月に教務委員会に「一般教育科目の再編に

関する提案」を提出した。その内容は以下の五点に要約される。

㈠ 

本学の教育は、青山学院の女子教育の伝統に基づく人間教育を目指すものであり、全体として「教

養教育」的性格に特徴があったが、今後もそうあるべきである。

㈡ 

その「教養」とは、幅広く深い知識の獲得を踏まえ、それを基礎とした判断力・問題解決能力を発

揮できること、またそれが可能となるような実践的・人格的力量を含むものである。

㈢ 

これまで本学では、このような教養教育を一般教育と各学科の専門教育との有機的な結合を通して

志向してきた。それは〈専門性のある教養教育〉と表現し得る性格のものであり、今後も目指すべき

ものである。

㈣ 

一般教育科目は、従来から広い視野に立った総合的で的確な判断力を養い、自己の歩むべき方向性

を発見し、豊かな人間性を養うことを目的とすると位置づけられてきた。一般教育のこのような役割

は今後も変わることはないが、学生の変化、社会情勢の変化等に伴い、その内容や枠組みにおいて見

直すべき点も少なくなく、また専門教科目との相互調整も必要な時期にきている。

㈤ 

以上を踏まえ、従来の一般教育科目・外国語科目・保健体育科目を「共通教育科目」として再編す

ることとする。まず一般教育科目を「主題科目」と改称し、その内容や単位、履修方法等を改革する

� 250�

とともに、引き続き外国語科目・保健体育科目についても改革を実施に移していく。

この提案は、教務委員会および各学科での検討に付された後、一一月には全学的な懇談会が持たれ、「教

養」の捉え方、教養教育と専門教育の関係等について議論が重ねられた。翌九七年五月一四日には学長の

諮問機関として「共通教育科目検討委員会(委員長 

出雲朝子)」が設置され、改革の基本理念や具体的論

点について検討されることとなった。五月には委員会案が作成され、学科での意見を聞いて最終案「『共通

教育科目』に関する一九九八年度改革の提案」がまとまり、七月二日の教授会で承認を得た。この提案は

全学生が共通に学ぶ共通教育を担当する科目を「

共通教育科目」

として再編成し、高校カリキュラムの多

様化、大学教育への社会的要請の変化などに対応することが主眼であった。そのため科目履修上の選択の

幅を拡大して、教員・学生が学科を超えて教育・学習に参加できる体制を作り、共通教育科目の内容の編

成原理を見直して全学的なカリキュラム構造のあり方を検討し再編するものであった。その結果、従来の

一般教養科目を「主題科目」と改称し、この編成内容、履修方法、申請手続きについて定め、それ以外の

キリスト教学・外国語・保健体育を含めたものを総称して「共通科目」と呼ぶこととした。これらは主題

科目に限定して、翌九八年度より実施に移された。

共通教育科目検討委員会は、引き続き外国語科目・保健体育科目についても検討を続けた。外国語科目

については、一般教育科会内に設置された「外国語教育検討小委員会」および一般教育科会で確認した原

案をもとに、九七年一一月、共通教育科目検討委員会がまとめた提案「外国語教育の改善について」が教

務委員会に提出された。この提案は、本学における外国語教育の現状と問題点を踏まえ、改革の趣旨とし

て次の三点を挙げた。

251 第四章 岐路に立つ短期大学(一九九〇~二〇〇四年)

㈠ 

学生の目的意識に応じた履修を可能にし、学習へのモチベーションを高めること

㈡ 

履修すべき外国語能力の目標・到達点を明確にする

㈢ 

授業の効率化を図る(週二回授業の検討やクラスサイズの適正化)

ここには具体的提案として、従来の英語の指定必修やクラス指定を改め、複数の外国語からの選択必修

制とする、週二コマ履修方式の採用、一年次に卒業要件四単位を集中履修する外国語アワーの設置、等が

含まれていた。

この具体案に対して各学科で検討が行われたが、履修方式に大幅な変更を含むこともあり、容易に意見

の一致がみられず、九八年三月より一般教育科会外国語教育小委員会が「外国語教育改革FORUM」を

発行して教員個人の意見を紙上討論の形で発表し合うことで全学的なコンセンサスを得る努力を続け、三

号までで延べ二七名の意見が掲載された。こうしたプロセスを経て、九八年六月に「

九九年度外国語教育

改革実施案(第二次案)」が提案された。内容は、外国語科目に必修科目「共通英語」(英文学科を除く)

通年二単位と、選択必修外国語科目通年二単位を置き、木曜日三、四限を共通英語のための語学アワーと

し、月曜日四、五限を選択必修外国語のための語学アワーとすることであった。七月一日の教授会で教務

委員会から提案され承認、改革は九九年度から実施された。

保健体育科目についても並行して検討が続けられた。九七年一一月に一般教育科会内に「健康教育科目

検討小委員会」を設置して検討を続け、その成果をもとに一般教育科会で原案を作成した。共通教育科目

検討委員会はこの原案をもとに「共通教育科目『健康教育』実施案」を作成し、教務委員会に提出した。教

務委員会は前述の外国語教育改革案と同時にこの保健体育科目改革案を九八年七月一日の教授会に提案し、

� 252�

承認を得た。その主な内容は、科目名称を保健体育科目から健康教育科目へと変えること、科目には講義

科目「健康科学(仮称)」と実技科目「スポーツ実技(仮称)」を置く、必修単位として健康科学一単位と

スポーツ実技一単位の合計二単位を課す、であった。なお、実技科目は最終的には「体育実技」と呼称す

ることとした。この改革は九九年度に部分実施され、二〇〇〇年度から全面実施された。

これら一連の改革の骨子を整理すると、次のようになる。

① 

従来の一般教育科目を「主題科目」と改称し、これにキリスト教学・外国語科目・保健体育科目を

あわせて「共通教育科目」と総称することとする。

② 

主題科目は、従来の人文・社会科学・自然科学および総合科目に「創作・表現」を加えた五系列を

基本とし、総合科目以外はすべて半期・二単位とする。また、「人文・社会・自然科学」の三系列各二

単位は必ず履修することとした。これは、学生の興味を活かした履修と、より調和のとれた幅広い教

養とを両立させる工夫であった。

③ 

主題科目の第六系列として、各学科の専門教育科目のなかから他学科の学生に開放できるものを

「他学科専門科目」として指定し、学科間の垣根を越えた履修を可能にした。

④ 

各学科の卒業必要単位数に変更を加え、新たに「任意に選択した授業科目」という枠組みを設けた。

これは、区分ごとに定められた卒業必要単位数を超えて修得した共通教育科目・専門教育科目(二〇

〇〇年度からは教職科目の一部も含まれた)のいずれかから修得した単位を卒業必要単位に算入する

システムであり、学生の自由かつ重点的な科目選択の余地を拡大しようとの意図による。

⑤ 

学生の興味関心に応えるため、授業科目のテーマや授業方式をより明確にする。そのため『講義内

253 第四章 岐路に立つ短期大学(一九九〇~二〇〇四年)

容』の様式を一新し、科目名のほかに授業テーマを掲げ、さらに授業のねらい、内容、進め方、テキ

スト、評価方法等を具体的に明記するようにした。

⑥ 

外国語科目は、一年次の必修科目として「共通英語」(通年二単位)と選択必修外国語科目(英語・

フランス語・ドイツ語・中国語・ロシア語・スペイン語・韓国語から選択。いずれも通年二単位)の

合計四単位を履修するものとする(英文学科は共通英語およびロシア語・韓国語を除く)。これは従来

の英語四単位必修と比べると、必修単位数は同じであるが、学生の選択肢を大幅に拡大する意図が

あった。選択必修を設けたことにより、大学で新しい語学に挑戦したいという学生の希望と意欲に応

えつつ、英語の場合は内容を分化し、リーディング、ライティング、リスニング、オーラルから選択

できるようにすることとした。「共通英語」の内容は五分野から選択する方式としたが、これは高校ま

での英語学習を踏まえ、学生の興味に応じた内容を学べるようにしたものである。

なお、共通英語と選択必修外国語については「外国語アワー」をそれぞれ二コマずつ設置すること

で時間割上の工夫を行い、クラス規模は四〇名を原則、一部の選択必修英語については三〇名規模と

することで、学習の効果を図った。これら共通英語および選択必修外国語は、いずれも一年次に履修

するため、二年次にはさらに中級程度の外国語(自由選択)を履修できる余地が拡大することとなっ

た。

⑦ 

従来の保健体育科日を再編して健康教育科目と改称し、「健康科学」(講義)と「体育実技」とに分

け、それぞれ半期一単位、合計二単位を必修とした。いずれも選択制とし、健康科学はⅠからⅤまで

前・後期各七コマ設置し、体育実技は前・後期各二四コマと集中授業を三コマ設置し、バドミントン、

� 254�

フットサル、エアロビクス、日本の踊り等、およそ二〇種類にわたるバラエティに富んだ種目を用意

した。選択制を採用することで学生の興味や関心に応えるとともに、特に体育実技で人数制限制を採

用し、授業の効果に加え安全上の配慮をも図った。

以上のように、この間実施してきたカリキュラム改革の方針は、選択制の大幅拡大、半期制の導入、学

科の垣根を越えた履修、任意選択科目の設定等により、学生の学ぶ「動機」を重視し、多様な興味関心に

応えることを中軸に据えてきたといえる。

自己点検・評価

一九九一年六月の短期大学設置基準大綱化では、短期大学が教育内容を自由に行うことを認めるととも

に各短期大学自身による自己点検・評価についての規定も努力規定として定め、さらに一九九九年九月に

は、設置基準で実行と結果の公表を義務づけ、大綱化による各校の取組みを公表することを課した。

本学は、一九九五年三月に第一回の自己点検・自己評価報告書を作成・公表し(

6)、

ついで二〇〇三年三

月に第二回目の「青山学院女子短期大学 

二〇〇二─自己点検・評価報告」を作成した(

14)。

第一回は新

大学構想委員会(委員長 

石井孝彦)、第二回は自己点検・評価委員会(委員長 

谷本信也)と、それぞれ

専門委員会が担当し、第一回は二年、二回目は一年を費やして、教育理念、教育内容、学生の受入れ、学

生生活、施設、研究活動、管理運営など全般にわたって広く点検・評価を行った。その報告書を受けて一

般教育の見直し、入学者選抜方法の改善、認定専攻科の一部導入など、学内組織の全般にわたって幅広い

改善・改革が行われた。この報告書作成後、学則第一条の二で「自ら点検及び評価を行い、その結果を公

255 第四章 岐路に立つ短期大学(一九九〇~二〇〇四年)

表するものとする」とし、第二項には「自己評価等に関する規則等は、別に定める」と規定した。二〇〇

三年五月二一日の教授会にて五年ごとに本学における教育研究活動および管理運営に関する分野の自己点

検・評価を行い、全学自己点検・評価報告書を作成・公表する規則を制定し、二〇〇七年度に再度自己点

検を行うことになった。

この流れのなかで、二〇〇二年八月に中央教育審議会が「大学の質の保証に係る新たなシステムの構築」

の答申を行い、新たな第三者評価制度として国の認証を受けた認証評価機関による定期的な評価を受け、

その評価結果に基づき教育研究の改善を行うシステムの導入を提案した。これを受けて二〇〇二年一一月

に学校教育法が改正され、一〇九条第一項に「文部科学大臣の認証を受けた者による評価を受けるものと

する」と定められた。これにより、二〇〇四年度からすべての短期大学が少なくとも七年間に一度は、認

証評価機関による認証評価を受けなければならなくなった。すでに二〇〇三年には活動していた短期大学

基準協会は、二〇〇五年に私立短期大学協会と公立短期大学協会との働きもあって「財団法人短期大学基

準協会」として、一月に文部科学大臣の認証を受け、三月に財団法人の許可も受けて正式に活動を始めた。

本学もこの機関の加盟校三八〇校のうちのひとつとなり、二〇〇五年度に第三者評価を受けることを二〇

〇四年六月二三日の教授会で決定し、全学自己点検・評価委員会�

(委員長ならびにALO 

谷本副学長)�

が報告書作成の中心となることとなった。委員会は短期大学基準協会の定めた自己点検・評価報告書作成

マニュアルによって二〇〇五年六月に報告書を作成し(

15)、

作成した報告書を翌月短期大学基準協会に届

出し、基準協会の評価チームによる訪問調査を一〇月三日と四日に受け、基準協会内での審議を経て、二

〇〇六年三月に「適格である」との評価を受けた。

� 256�

第五節 各学科の教育および認定専攻科

教育目的・理念ならびに教育目標

本学開学時に文部省に届けられた学則第一章の目的綱領第一條に「この大学は青山学院にある初等部か

ら大学にいたる各部と相たずさえ基督教の精神にしたがって女子の教育に専念する。即ち女性本来の特質

をみがき、清らかな人格をきずくと共に高く香はしい教養と実際に役立つ専門の学藝とを授けて愛と奉仕

に生きる人物を育てることを目的とする。」と、教育目的を定めていた。しかし、二〇〇〇年一二月六日の

教授会において、開学五〇周年である二〇〇〇年を迎えるにあたって、目的要綱の条文を見直し、二一世

紀における女子高等教育にふさわしい表現に文言を修正し、次のように学則第一章(目的)第一条に定め

た。 

青山学院女子短期大学は、青山学院にある幼稚園から大学に至る各学校と相たずさえ、キリスト教

の精神にしたがって女子の教育に専念する。即ち「地の塩、世の光」として社会に貢献しうる覚醒し

た自立的な心を養うとともに、高度な教養と実際に役立つ専門の学芸を授けて、愛と奉仕に生きる人

物を育てることを目的とする。

また別に、青山学院一貫教育検討委員会において設置学校の教育理念を策定するため、委員会から設置

学校ごとにその案を提出するよう要請があり、この要請を受けて、各学科等でそれぞれの教育理念案を出

257 第四章 岐路に立つ短期大学(一九九〇~二〇〇四年)

し合うことになった。その結果、二〇〇〇年一〇月四日の教授会において、本学全体の教育理念とさらに、

六学科と共通教育科目の教育目標案が提案された。ここでは全体の承認には至らず、一部検討を要すると

して、教育理念・目標案が各学科会・協議会において再検討され、その内容を受けた改定案が二五日の教

授会において提出され、原案どおり承認された。ついで二〇〇一年度の青山学院一貫教育検討委員会にお

いて設置学校ごとの案が審議され、本学の教育理念は二カ所の語句訂正のみを受けて、最終的に次のよう

に定められた(

16)。

 

女子短期大学は、青山学院のキリスト教信仰にもとづき、「女子小学校」から「青山女学院」を経て

現在に至る本学院の女子教育の伝統を継承し、女子の教育に専念する。本学は、愛と奉仕に生き、社

会のあらゆる局面で積極的な貢献をなしうる覚醒した女性の育成を目指し、現実に即した有用な専門

の学芸のみならず、全人的で世界的な視野に立つ高度な教養教育を授ける。

同時に定められた六学科と共通教育科目の教育目標は、それぞれの文言が長いことから半分以下に訂正

され、また、六学科とは異なる組織である一般教育科目については、青山学院一貫教育検討委員会での検

討対象からは外された。六学科の教育目標は以下のとおりである。

 

国文学科は、日本の言葉と文字、文化を学ぶことによって、読解力、表現力を養い、幅広く息の長

い包括的な教養や思考を身につけた人間の育成をめざす。

� 258�

 

英文学科は、英語運用能力の訓練にとどまらず、広く世界の文化を理解できる教養と知識を身につ

けた人間の育成をめざす。

 

家政学科は、快適で人間性豊かな生活のあるべき姿を地球規模の視点から学び、現代社会の主体的

な一員として生活できる知識・教養・技術を身につけた人間の育成をめざす。

 

教養学科は、学生の創造・自主性と知的コミュニケーションを重んじ、人文・社会・自然科学の様々

な分野にわたって幅広くかつ深く学ぶことを通して、広い視野と優れた判断力をもつ人間の育成をめ

ざす。

 

芸術学科は、芸術の知的理解と創作活動を通して芸術人間学を探求し、これからの次代を担う創造

性豊かな人間の育成をめざす。

 

子ども学科は、教育と保育、こころとからだ、福祉とケア、芸術と文化などを幅広く学び、現代に

おける子ども人間学の探求を通して、主体的に時代を支え切り拓くことのできる人間の育成をめざす。

すべて、開学からのキリスト教信仰に基づく愛と奉仕の精神、教養教育、女子高等教育に沿った立場か

らの教育姿勢が、継承されていることになる。

総合文化研究所設立

学院大学の総合研究所は八八年からスタートしたが、本学では八八年四月四日に研究所問題等委員会

(委員長 

前園主計)が設置され、九〇年一月に学長へ報告書「本学付設研究所について」が提出された。

259 第四章 岐路に立つ短期大学(一九九〇~二〇〇四年)

別に「青山学院女子短期大学総合文化研究所運営規則」は九〇年二月の教授会で報告されたが、最終的な

教授会承認は九〇年一〇月となり、九一年二月二七日の教授会で初代所長を村武精一とする学長提案が了

承され、青山学院院長への推薦、常務委員会と理事会を経て研究所設立と所長人事が承認された。

一九九一年四月にスタートした総合文化研究所は、青山学院の教育理念のもと、学院からの基金の果実

を資金源として、学術研究の発展および本学の定める教育と研究の目的を達成することを目指し、キリス

ト教、女子教育、家族を主なテーマとして毎年複数の研究プロジェクトを企画し、研究活動を展開してき

た。家

政学科二コース制廃止

一九五〇年の開学時からの学科であった家政学科は、当初の学科名称は「家政科」であり、六九年には

他の学科と同じく「家政学科」と名称変更を行った。この間に、六六年には入学定員を一〇〇人から一五

〇人へと増員するとともに、生活の科学的理解を深化させるAコースと生活デザインを主旨とするBコー

スへと二コース制へ移行し、入学者をそれぞれのコースに一〇〇人と五〇人へ分ける改組を行った。その

後、A、BコースはⅠコース、Ⅱコースと名称を変え、七六年には入学定員をⅠ、Ⅱ各々一〇〇人、合計

二〇〇人の学科へと変わっていった。その後八九年には、生活科学と生活デザインに重点を置いた二コー

ス制の編成を整理再編成して、新たに生活福祉関係を補充した学科課程とした。また、芸術学科の開設時

の入学定員四〇人を家政学科の四〇人定員減で賄うために、Ⅰ、Ⅱそれぞれ八〇人ずつの入学定員とした。

この間に、教養教育を教育方針とするなかで、生活科学と生活デザインそれぞれの主旨およびその差異が

� 260�

受験生や入学した家政学科生に十分に伝わらないことを理由として、九四年には、二八年間続いた二コー

ス制を廃止し、両コースの内容が自由に選択できる入学定員一六〇人の学科として再スタートした。

青山学院大学への推薦編入

本学卒業生のなかで、本学専攻科を含めてさらに学業を続ける進学者の一九五二年から二〇〇〇年まで

の状況は、開学五〇周年記念誌『五〇年の歩み』(

17)の

表一二「卒業後の進学状況」で知ることができる。そ

こでは、入学定員が九五〇人となった一九七六年から八七年までは進学者数は減少傾向を示し、ついで入

学定員の二五%程度まで増えてきていることを示している。そのなかでは専攻科入学がおおよそ半数以上

を占めているが、四年制大学への編入者割合は三〇%を超えていることが多く、学院大学への編入は四年

制大学編入全体の三割ほどである。学院大学への編入は一九五二年の卒業生から始まっていたが、一九九

二年までは、第三章二節に述べたように本学から編入する学生は文学部の四学科、経済、法、経営の三学

部の行う二月の学校推薦なしの一般編入試験に臨むだけであった。短大側からの働きかけの結果、九四年

には文学部英米文学科が、本学からの推薦を受けて本学英文学科卒業見込の学生を対象に三年次編入五名

までを認める推薦編入の道が開けた。その後、九五年度は文学部教育学科が教育系の講座を開設している

児童教育学科と教養学科の学生を対象に推薦制度を設け、九六年度には文学部日本文学科が国文学科を対

象に、ついで九九年度には経済学部が全学科の学生を対象にと、推薦編入制度が広まった。この推薦編入

制度は一一月に推薦を行うので合格不合格が一二月には判明し、不合格者はさらに二月の一般編入試験に

臨むことができた。二〇〇四年度の編入推薦枠は、日本文学科へは三人、英米文学科へ一〇人、教育学科

261 第四章 岐路に立つ短期大学(一九九〇~二〇〇四年)

へ五人、経済学部へ一〇人、経営学部へ三人、学院大学厚木キャンパス開設とともに設置された国際政治

経済学部へは二〇〇四年度から二年次編入で二人となった。この二年次編入は、大学のカリキュラム改訂

によって二年次から必修専門科目の履修が始まり、編入しても卒業までに三年間を必要とするからである。

二〇〇四年度で一般編入学の窓口を本学生に開いている学部学科は八つあるが、三年次編入は、英米文

学科、教育学科(児童教育学科と教養学科に対して)、日本文学科、経済学部であり、教育学科(教職課程

のある国文、英文、家政学科に対して)、史学科、法学部、経営学部、国際政治経済学部は二年次編入と

なっている。

オープンキャンパス

二月に行われている一般入学試験受験者数が減るなか、広報企画委員会(委員長 

奥村健一)は大学進

学希望者を対象に学校紹介や入試案内を行うオープンキャンパス開催の検討を進め、一九九五年一月二五

日の教授会で高校の夏休みに合わせてオープンキャンパスを行うことを報告した。学長からも志願者増へ

できることから始めてほしいとの要請があわせて行われた。七月二二日に初めてのオープンキャンパスが

広報企画委員会主催で行われ、五五四人の受験生が来校してアンケート回収率も八〇%と確かな手ごたえ

があった。またこの翌年は指定校推薦入試に新たに五〇校を指定校としたので、このオープンキャンパス

日時に合わせてその五〇校の教員を招いて進学説明会も開催した。この後も広報企画委員会、事務部入試

広報課を中心として、それに全学科教員、全職員が協力する学校行事として、年度はじめの教授会で日時、

内容が承認され、その年度の進学案内(九四年度から「入試案内」として発行)に掲載されている。その

� 262�

後、本学ウェブサイトにもオープンキャンパス関連記事を載せるようになった。九六年は七月、九月、青

山祭の進学相談会と回数を増やし、学園祭時の来校者数は六七三人であった。九七年は七月二六日(土)

に九六四人、九月二七日(土)に七七七人で、九八年は七月二五日(土)に一二八八人、九月二六日(土)

に八一〇人となり、二〇〇〇年では、七月が一四二三人で前年度より二三三人増、九月が八五〇人で一七

〇人増となり、一二月三日(日)開催では六五〇人であった。〇一年は七月と九月開催を学院大学と同時

に行い、六月二三日(土)は六〇五人、七月二一日(土)は一四〇二人、九月八日(土)は八一三人であっ

た。二〇〇五年は、六月一八日(土)六〇六人、七月一七日(日)一八〇七人、九月二四日(日)九九九

人であり、この時期には大きな変化はみられず、オープンキャンパス開催によって一定の受験生数の確保

がなされていたといえよう。

認定専攻科への動き

一九九一年の設置基準大綱化では学位規則改正もあり、それによって学校教育法が改正された。一九九

一年七月に設置された学位授与機構(以降、授与機構と称す)は、授与機構の審査に合格した者に対して、

学士の学位を授与することができると定められた。すなわち授与機構が認定した課程の短期大学専攻科

(認定専攻科)生は、必要な単位を履修し授与機構の審査に合格すると学士の学位が授与機構によって認定

される。このことを受けて一九九四年六月に栗坪学長より新大学構想委員会に対し、専攻科の認定専攻科

移行に関しての諮問があり、上記委員会を中心とし各学科も協力して検討した。その結果、新任教員を迎

えることなく、授業科目を認定されるべき内容に改めるだけで実現できることが確認された。専攻科国文

263 第四章 岐路に立つ短期大学(一九九〇~二〇〇四年)

専攻は一九九六年四月から、教養専攻は九七年四月から授与機構より認定を受け、認定専攻科となった。

一方、家政学科などは、授与機構が指定する科目内容と本学の教育目標に沿った科目内容との調整ができ

ないとの理由で、移行には至らなかった。一九九七年三月に国文専攻を修了した学生のうちの二人が、他

大学で修得した単位をあわせて審査の申請をし、九八年九月一六日に授与機構からの学位認定を受けたの

が学位取得の始まりである。しかし、認定専攻科を修了した後にさらに他大学で科目履修まで行う学生は

少なく、学士を取得した学生はそれほど多くはなかった。

科目等履修生制度

設置基準の大綱化は、科目等履修生制度を定め、正規の学生以外でも公式に履修単位が得られることに

も及んだ。聴講生制度では、従来の教育職員免許状取得に係る聴講生課程の認定を受けている大学のみで

正規の学生以外でも単位の修得ができるなど、公的には教育職員免許状の授与申請にしか利用できなかっ

た。しかし、社会人などに対してパートタイムによる学習の機会を拡充し、その学習の成果に適当な評価

を与えるため科目等履修生という身分を設け、広く単位認定の機会を設けたのであった。本学では一九九

七年二月七日の教授会での教務委員会提案が承認され、四月から始まり、単位の修得を希望する者を科目

等履修生A、履修のみを希望する者を科目等履修生Bとし、履修料は授業料を卒業単位数で割ったものと

したが、Bではその1/4ほどとした。二〇〇四年度の履修生はAが七人でありすべて資格につなげるも

のであって、Bは一人であり、各年の履修生人数は一〇人以下であった。

� 264�

三年制子ども学科への改組準備

二〇〇〇年ころの短期大学で三年制をとる学校は、看護系などごく少数であったが、教育を学修・

研究

する学科である児童教育学科は幼稚園教諭免許や保育士資格に係る科目も含む二年間の学修を終え、卒業

時に幼稚園教諭免許を取得し、さらに一年間、本科のカリキュラムを有機的に連携させた専攻科において

学習を深め保育士資格を取得するという、見かけの三年制制度(俗に青山方式と呼ばれていた変則的学制)

を行っていた。本学初代学長の向坊長英は、短期大学三年制構想を一九五五年に『短期大学教育』で述べ

ているが(

18)、

一九六二年開設の児童教育学科にこの考えが反映されていたのかもしれない。そして、保

育士資格を取得すべく専攻科児童教育専攻へ進学を希望する本科卒業生が増え続けたのを受け、二〇〇〇

年度から専攻科入学定員を二〇人増して五〇人とした。しかし、進学希望者は本科入学定員一〇〇人の半

数を超えており、定員が五〇人の専攻科では、保育士資格取得希望者全員の進学希望をかなえることがで

きず、また、専攻科の更なる増員も不可能であり、本科二年+専攻科一年でのカリキュラムの問題を是正

するためにも、改組改革委員会(委員長 

加藤晃)は二〇〇四年一月一四日の委員会中間報告において、児

童教育学科三年制への改組を挙げ、細かい改組案の概要を伴うこれまでの検討結果をまとめたのであった。

一月二一日の教授会において三年制改組に向けての準備委員会設置が認められ、二月の教授会において児

童教育学科改組準備委員会(委員長 

加藤晃)が二〇〇五年二月九日までの任期で承認された。改組案自

体は、二〇〇三年四月から委員会と児童教育学科が検討を始め、九月には児童教育学科が改組案を委員会

に提出、これを受けて委員会内にカリキュラム検討部会を設置し、一〇月にはその結果を協議会に経過報

告し、二〇〇四年一月の教授会での提案となった。二〇〇六年四月には三年制学科の名称も変更して、入

265 第四章 岐路に立つ短期大学(一九九〇~二〇〇四年)

学定員一〇〇人の子ども学科が発足した。

教職課程

教育職員免許法が一九九八年六月に大幅に改正されたことを受け、一般教育科目と児童教育学科で検討

を行い、一九九九年七月の教授会において教職免許法に沿って学内規則を改正し課程認定の再申請を行う

ための学内規則の変更が認められ、「教員の免許状授与の所要資格を得させるための大学の課程の認定」の

再申請が行われた。その結果、二〇〇〇年二月二九日付で文部省教育助成局長名の認定通知を受理し、二

〇〇〇年四月入学の新入生から適用が始まった。

内容は、教科専門科目総単位が二〇から一〇へ半減し、教職専門科目が新たに増加して総単位数が一五

から二一へ変更された。また、新たに「教科専門または教職専門」という区分を設け四単位を課した。総

単位数は変わらないが、教科専門科目の単位は学科専門科目であるため実際上単位数低減はなく従来どお

りの単位数での授業が続けられた。さらに教職専門科目の教育実習単位が三単位から五単位へ増えたため

教育実習期間が二週から三週間に延長された。さらに九八年度から「介護等体験特例法」によって七日間

の介護等体験が義務づけられていたので、学生や指導側の負担が増加した。二〇〇二年度からは教職課程

科目の土曜日開講も始めた。教職課程登録者数は年五〇~六〇人ほどであるが、免許取得者はその七〇~

八〇%であった。

� 266�

司書課程

司書課程は、一九六六年度に教養科の学生を対象にスタートし、一九七六年からは幼稚園教諭や保育士

資格取得を目指す児童教育学科以外の国文、英文、家政、教養学科の学生に対象を広げた。教職課程との

重複履修はできないが、二年次での履修登録者数は七〇人前後であって資格取得者はそのうちの六五%程

度であった。一九九六年に文部省が資格取得に必要な科目と単位数を変更し、原則として九七年度から新

課程への移行を義務づけたため、本学も九七年度には従来必修計一七単位であったものを二一単位とし、

科目数も必修一一を一四と変更し、また専任教員も二人に増員した。新課程では、共通教育科目や各学科

専門教育科目からの読替え科目がなくなり、また、一科目(図書館特論Ⅱ)以外は必修科目であって、受

講する学生にとって時間割の面でかなりの負担となった。

各学科の履修の内容変化

授業科目や履修方法、授業内容については、学科ごとに毎年のように検討が加えられ、学則改正も行わ

れるのであるが、国文学科は一九九八年度から学科専門科目の大幅な改正を行った。九七年七月二日の教

授会での学科主任からの趣旨説明は、以下の四点であった。①一科目についての単位数計算方法で他学

科・他大学と異なっている科目については、通常の単位数に改めた。②すべての学生が、少人数で行われ

る演習科目を履修できるようにした。③学則上の科目を増やし、学生の科目選択の幅を広げた。④一年次

の科目をできるだけ半期制にして科目数を増やし、学生の科目選択の幅を広げた。従来からの文学作品中

心の領域から表現の領域も増やした。この改正の結果、必修単位数はこれまでの二四単位から二二単位へ

267 第四章 岐路に立つ短期大学(一九九〇~二〇〇四年)

と減ったのであるが、開講された選択科目の総単位数は六〇単位から一六四単位へと大幅に増えたので

あった。

英文学科は、一九九一年一一月一三日の教授会において、外国人特別非常勤講師であるジョン・E・ボ

イランを専任待遇外国人教員として任用し、肩書きは英文学科所属の助教授とすることが認められ、九二

年四月に就任した。続いて英文学科は二〇〇〇年、全英文学科学生共通の英語基礎教育の「読み」「書き」

「聞く」「話す」のすべてを含む授業を一つのものにし、すべてこの外国人特別非常勤講師が担当する「外

国人による英語のコーディネート授業」を始めた。そして、専任待遇外国人教員であるボイラン助教授が、

その中心となった。一年次には「Introductory�College�English

Ⅰ,�

Ⅱ,�

」、二年次には「Interm

ediate�College�English

」として、少人数クラスで、教材(自主作成したものを三年周期で改訂)・副教材(プリン

ト・ビデオ・

CD・

DVD等)・宿題・試験問題すべて内容を統一し、週単位で進度をそろえたものであっ

た。英語の科目名の頭文字をとって「アイス」「インチ」と呼ばれるようになった。この「外国人による英

語のコーディネート授業」は、その内容が評価されて二〇〇三年度の文部科学省の「特色ある大学教育支

援プログラム」に選ばれている。その採択理由は、

 

キリスト教に基づいた教育と学問研究という建学の理念のもとに、国際理解を深め英語力を高める

取り組みであり、十年以上英語教育の経験のあるネイティブ・スピーカーによる語学のコーディネー

トがされ、「読む、聞く、書く、話す」の四技術が総合的に訓練されることにより、学生達にとって確

実に語学力のつく授業です。日本の語学教育を向上させるすぐれた教育方法であり、小、中、高の英

� 268�

語教育を見直すことにも大きくつながります。国際社会での日本のあり方を考える面でもぜひ定着さ

せたいプログラムです。

とされている。

教務委員会は、多くの選択科目のうちから学生が自分自身の学修計画によって科目を選択する幅をさら

に広げるために、二〇〇一年一二月五日の

教授会において新たな提案をした。

従来、科目履修の選択幅を広げるために、

共通教育科目の「主題科目」は人文関係、

社会科学関係、自然科学関係、創作・表現、

総合科目に加えて、「他学科専門教育科目」

という区分を置き、学科専門科目の一部を

他学科の学生が履修できる科目として開

放してきた。今回の改正は、「他学科専門教

育科目」を「指定専門教育科目」と改称し

て主題科目に残し、改めて「他学科の学生

が履修できる専門教育科目」という区分を

設置したことである(表3)。ここには科目

表3 科目区分の改正

2001年度 2002年度

主題科目

人文関係科目 人文関係科目社会科学関係科目 社会科学関係科目自然科学関係科目 自然科学関係科目創作・表現科目 創作・表現科目総合科目 総合科目他学科専門教育科目 国文2 英文2 家政23 児童4 芸術3  計34

指定専門教育科目 国文2 英文2 家政7 児童4 芸術3  計18

任意に選択した授業科目

共通教育科目・専門教育科目で卒業に必要な単位数を超えて取得した単位

共通教育科目・専門教育科目で卒業に必要な単位数を超えて取得した単位他学科の学生が履修できる専門教育科目国文12英文5家政22児童5教養24

269 第四章 岐路に立つ短期大学(一九九〇~二〇〇四年)

数が少ない自然科学系科目を多く配置し、「任意に選択した授業科目」の単位として算入できるようにし

た。旧学則では「任意に選択した授業科目」の単位として算入できる科目は「共通教育科目」、所属学科の

「専門教育科目」で必要単位数を超えて取得した単位と「教職に関する専門科目」であったが、「他学科の

学生が履習できる専門教育科目」を追加することにより学生の履修幅を広げる方向へ誘導し、学修へのモ

チベーションを高める方策であった。実施に向けては各学科に他学科に開放できる専門教育科目を選んで

ほしいと提案し、了承された。

結果として、二〇〇二年度の指定専門教育科目に残った科目は、国文二科目、英文二科目、家政二七科

目、児童教育四科目、芸術三科目であり、他学科の学生が履修できる専門教育科目は、国文一二科目、英

文五科目、家政二二科目、児童教育五科目、教養二四科目、芸術五科目となり、共通教育科目ではない任

意の科目群で選択できる他学科の専門教育科目が大幅に増えたのであった。

専攻科の学生に対しても同様な提案が、二〇〇三年一月二二日の教授会にて教務委員会からなされた。

〇三年度から、修了に必要な三〇単位には含めないが、他専攻の任意科目を履修でき、さらに、本科の人

数制限科目や必修科目などを除く科目も履修でき単位も取得できることになった。他専攻の学生が履修で

きる科目は、英文一六科目、家政七科目、児童教育九科目、教養一六科目、芸術二科目が各専攻によって

指定され、専攻科学生も他専攻科目履修の機会が増えたのであった(

19)。

学生による授業評価

二〇〇三年一一月五日の教授会において、教務委員長から授業の質を高める具体的な方法として、「学生

� 270�

による授業評価」に向けての検討案の説明と今年度は試験的に実施し、その結果を踏まえて来年度以降か

ら本格的に実施したいとの提案がなされ、了承された。そして年度末に初めての学生による授業評価が行

われた。翌〇四年五月二六日の教授会にて教務委員会内に「二〇〇四年度学生による授業評価実施小委員

会」設置の提案および委員の委嘱が行われ、教務委員会委員他四人の教員による委員会が発足した。この

小委員会は、二〇〇四年度に前期と後期に各一回ずつ学生による授業評価を行った。二〇〇四年一一月一

〇日の第一二回教授会において二〇〇五年以降の組織的体制、アンケート内容、実施授業範囲(実習・実

験や演習科目も含むか)や、公表形態、について今年度中に確認し、昨年度からの三回のパイロット版の

結果を分析して二〇〇五年度からの本格的な実施につなげたいと提案して、教授会の承認を得、〇五年か

らは、本格的な授業評価が始まったのであった。

第六節 国際交流活動

姉妹校契約(20)

本学では短期語学研修、海外の大学での一年間の修学を希望する学生の増加への対応、国際的な文化交

流と外国での修学体験による本学での学修内容を充実させることが必要とされ、八六年一〇月二九日の

「将来計画委員会第二回報告」にも国際協力の一環として姉妹校提案がなされていた。姉妹校に関しては留

学を希望する学生への便宜を図ることを主な目的として、一九八六年一二月三日の教授会において、カラ

マズーにある、ミシガン州立ウェスタン・ミシガン大学との姉妹校契約締結が承認されたことが始まりで

271 第四章 岐路に立つ短期大学(一九九〇~二〇〇四年)

あり、八七年二月に契約が結ばれた。この大学には、締結以前から、英文学科酒向登志郎助教授がウェス

タン・ミシガン大学の国際事務局所属の曽我道敏教授を介して、本学を休学しての短期留学生や卒業後の

編入留学生を送っていたという関係があったからであり、先方の姉妹校提携案を受けてのことであった。

八八年三月末をもって学内改革に多大の調査、提言を行ってきた将来計画委員会はその任務を終えたが、

代わりに、同年四月に委員会提案に記された国際交流委員会が設置され、以後はこの委員会が国際交流活

動の中心となった。

ウェスタン・ミシガン大学との姉妹校提携の後、翌年四月に国際交流委員会委員となるE・M・クラー

ク教授はアメリカでの宗教会議出席の際に姉妹校候補を調べ、その報告を受けた学長が、八八年一月二〇

日の教授会でニュージャージー州ハケッツタウンにあるプロテスタント系の私立校であるセンテナリ・カ

レッジを二校目の姉妹校として提案し、承認を得、一二月には契約を締結した。八九年八月から九月にか

けてクラーク教授が同校とウェスタン・ミシガン大学を訪問し、在学中の本学留学生と会談を行った。九

〇年には、家政学科の阿部幸子教授が短期留学として八月から一一月までの三カ月をセンテナリ・カレッ

ジにて過ごしている。さらに、カレッジ�

オブ�ノートルダム�

オブ�

メリーランド(現在はメリーランド・

ノートルダム大学)に酒向登志郎助教授が八九年に、九〇年には寺村眞佐子教務係長も訪問し、本学で取

得した単位の認定や学習環境等の情報を得、それらを国際交流委員会で精査し、九〇年一〇月一七日の教

授会で姉妹校案承認後、カレッジ�

オブ�

ノートルダム�

オブ�メリーランドのシスター 

ミディアルが来校

して姉妹校契約を行った。

その後、さらに姉妹校候補を求め、メソジスト系の世界宗教会議で得た情報をもとに�Board�of�H

igher�

� 272�

Education�of�United�M

ethodist�Church

のケン・ヤマダ博士の協力のもとで国際

交流委員会が姉妹校候補を絞った結果、

ネブラスカ・ウェズリアン大学とコーネ

ル・カレッジが候補として残った。九六

年二月二〇日から候補二校を委員会委員

二人(ランデス・ハル教授と橋本典子教

授)が訪問し、その報告を受けて国際交

流委員会はアイオワ州のマウントバーモ

ンにある私立のコーネル・カレッジを選

び、九七年六月二七日にはレスリー・

ガーナー学長夫妻を迎えて短大礼拝堂にて姉妹校契約を結んだ。

一方、センテナリ・カレッジは留学を希望する学生がなくなったことにより九六年末で姉妹校の契約を

終了した。現在の姉妹校は残りの三校のみである。ウェスタン・ミシガン大学には八八年から一六人、七

人、八人、一五人、一五人、六人と卒業生が毎年留学しており、コーネル・カレッジには一人、三人、七

人、二人、〇人、〇人、カレッジ�

オブ�

ノートルダム�

オブ�メリーランドへは九〇年から九三年まで毎年一

人の学生が留学していた。その後は姉妹校三校ともに編入学のみならず一年間の語学研修や単位修得を希

望する学生も少なくなり、二〇一六年現在では少数の本学卒業生が編入して卒業を目指す姉妹校となって

姉妹校協定第1回目の契約書

273 第四章 岐路に立つ短期大学(一九九〇~二〇〇四年)

いる。一方、二〇〇〇年からはコーネル・カレッジ(本学開学五〇周年記念事業であった二〇〇〇年は教

員二人と学生五人)とカレッジ�

オブ�

ノートルダム�

オブ�

メリーランドから毎年交互に約一週間の日程で

教員一人と五人の学生を受け入れ、授業に出席したりさまざまな企画を通して本学学生とともに日本文化

に触れる機会を持ち、学生はシオン寮に宿泊して寮生との交流も行っている。たとえば、二〇〇一年一一

月一八日から二四日までカレッジ�

オブ�

ノートルダム�

オブ�

メリーランドから教員一人と学生五人を迎え

た。二〇〇二年一一月一〇日から一六日までは、コーネル・カレッジから教員一人と学生五人を迎え、前

年と同様に学生はシオン寮へ宿泊し授業へ出席した。この後二〇〇〇年代後半からは本学からも学生と引

率教員・事務職員を両校へ交互に送り出して、授業への出席や多くの交流を行うようになってくるので

あった。

また、国際交流委員会は後述の「アメリカの文化と社会」(四単位)の閉講に代わるものとして、語学学

習を主にした海外研修のみを姉妹校で行うことを検討し、カレッジ�

オブ�

ノートルダム�

オブ 

メリーラン

ドにて二週間の学習とその後ワシントンDCにて見学(二〇〇四年八月一日に出発し一九日に帰国)を行

う「姉妹校で学ぶアメリカ体験の旅」を提案し、二〇〇四年一月一四日の教授会にて承認された。しかし、

この年は参加希望者が少なかったため中止となった。

さらに、個別の交流も持たれていた。一九九一年五月一五日には、ウェスタン・ミシガン大学の曽我道

敏教授が来校し留学説明会が行われた。一九九六年には、三月にコーネル・カレッジからウェッデル教授、

五月にネブラスカ・ウエスリアン大学のクレン国際プログラムディレクターが、七月にはコーネル・カ

レッジのガーナー学長が来校した。一九九七年五月一〇日には、ウェスタン・ミシガン大学のマーガレッ

� 274�

ト・ライリー氏(D

irector�of�Study�Abroad�O

ffice,�Internal�A

ffairs

)が来校した。一九九八年四月三日に

は、カレッジ�

オブ�

ノートルダム�

オブ�

メリーランドの学長就任式に招待され、国際交流委員会橋本典子委

員長が出席した。同年五月一六日には、ウェスタン・ミシガン大学のマーガレット・ライリー教授が来校

した。一九九九年八月一三日には、橋本典子委員長が韓国ソウルにてコーネル・カレッジ�

のガーナー学長

と面会し、秋の青山学院国際交流行事に本学へ教員と学生を招くことについての打合せと、後期に教員一

人の本学来校についての話し合いを行った。八月二〇日にはガーナー学長夫妻が来校し、深町正信院長と

タヒューン国際交流委員会委員が面会し、ついで本学にて「アメリカの文化と社会」のコーネル・カレッ

ジでの実施について話し合った。一一月二日から五日に橋本典子委員長がカレッジ�

オブ�

ノートルダム�

ブ�

メリーランドを訪問し、副学長と会談。そして秋の青山学院国際交流行事に本学へ教員と学生を招くこ

とについての打合せを行い、翌年度も開催される「アメリカの文化と社会」について担当者と打合せをす

るとともに、本学からの留学生七人に面談して現地の現状を確かめることを行った。二〇〇一年一二月三

日には、カレッジ�

オブ�

ノートルダム�

オブ�メリーランドの学長メアリー�

パッド�

シューカンプ夫妻と国際

交流プログラム・ディレクター�

シスター�

ミヤリン�

ジャンセン氏の訪問があった。

国際特別奨学生制度(21)

三章で述べたように、一九九一年度に初めてタイ王国より奨学生を受け入れた。そして、この年度の成

果をみて、次の奨学生を迎える体制を整えるため、九二、九三年度の募集は行わなかった。九二年度になっ

ての検討は時間がかかり、ようやく九三年三月一三日の国際特別奨学生委員会にて、一九九四年度は再度

275 第四章 岐路に立つ短期大学(一九九〇~二〇〇四年)

タイ王国のチュラーロンコーン大学東洋言語学科日本語講座卒業生を対象に募集し、受入れは教養専攻と

限定した。九五年は応募者がなく、一九九七年はタイ王国よりの奨学生の事情によって事前辞退となり一

九九八年はタイ王国北部の大学を対象に募集したが応募者がいなかった。このため、一九九九年の募集は

応募締切りを一九九八年五月二九日必着とし、対象国をタイ王国およびフィリッピン共和国の二カ国とし、

各国一人で奨学金支給期間は四月から翌年三月までの一二カ月間、受入れ分野は広義の日本研究で、本学

専攻科国文専攻、英文専攻、教養専攻のいずれかの学生として受け入れるとした。結果は、タイ王国から

は国文専攻へ、フィリッピン共和国からは教養専攻へ入学した。二〇〇〇年度は三回に分けて募集し、一

九九九年一月二九日にタイ王国北部のパヤップ大学とチェンマイ大学の両校へ、この応募状況をみて第二

回目がフィリッピン共和国へ、第三回目はタイ王国のバンコク市街に位置しているチュラーロンコーン大

学へ募集要項を送ることにした。その結果、タイ王国からパヤップ大学卒業者を教養専攻へ受け入れるこ

とが決まったが、推薦者であるパヤップ大学から、推薦学生がミャンマー国籍であるため留学後の再入国

が難しいとの理由で辞退願が出て、この年の奨学生はないこととなった。二〇〇一年度はタイ王国から国

文専攻へパナッダー・

ロイケオン、フィリッピン共和国から教養専攻へジョビータ・サンチョを迎えた。二

〇〇二年度はタイ王国とフィリッピン共和国どちらからか一人の枠で募集を行い国文専攻にタイ王国から

タッサワン・チョンペンスクラートを迎えた。二〇〇三年度もタイ王国とフィリッピン共和国どちらから

か一人の枠で募集を行いフィリッピンから教養専攻にルーシーリン・タバダを迎え、二〇〇四年度も両国

に募集を行い、タイ王国から教養専攻にワイウイサー・クンパソタラニランを迎えた。これではじめの一

九九一年から数えてタイから六人、フィリピンから三人を専攻科生として受け入れており、タイの大学で

� 276�

日本語教師となった人も出ている。

外国人留学生と海外留学希望者

本学への外国人留学生は専らアジアからで、台湾、韓国、中国からであった。本学「五〇年の歩み」(

17)

の巻末統計によると、その数は一九八〇年代後半から一九九四年までは志願者が平均して年四二人であっ

て、一九九〇年では手続者数が二一人、九四年まではおおよそ二〇人以上であった。その後、志願者は二

八、一九、一六、四、六、四人と大幅に減り、手続者数も九七年に至るまでは一〇人ほどであったが、そ

の後は五人以下となり、二〇〇二年は〇人であった。国内でのいわゆる短期大学離れと同じように、日本

での学びを希望する外国人留学生も、四年制大学を希望するものが大多数を占めてきたころとなってきた

のであった。また、九〇年代のアジア通貨問題も関わっているのであろう。

一方、姉妹校契約の項でも述べたが、本学在学中での短期留学希望者は九〇年代後半から非常に少なく

なってきていた。卒業後の留学生数はこれとは異なり、一九九二年、一九九三年は一〇人未満であったが、

九四年は一六人と増えこの後九八年の二〇人を最大として二〇〇〇年まで一〇人を超えていた(

17)。

この

間の総留学者数は一一三人であるが、そのうち三姉妹校への留学生は四〇人であって、姉妹校契約が留学

に結びついていたといえよう。三姉妹校への留学生四〇人の内訳は、ウェスタン・ミシガン大学へは二〇

人、カレッジ�

オブ�

ノートルダム�

オブ�

メリーランドへは一四人であった。しかし、二〇〇一年以降は〇一

年の六人を境に二、三人と大幅に減ってきてしまった。このことは、バブル経済後のデフレーション期と

重なり、そして、一般入試受験者数がかなり減ってきてしまった時期と重なることから、受験者層そのも

277 第四章 岐路に立つ短期大学(一九九〇~二〇〇四年)

のが変わってきたことによるのではないかと、考えられ

るであろう。

 

総合科目 「アメリカの文化と社会」(20)

姉妹校との関係強化、異文化との接触を通しての国際

理解、アメリカの教会との交流を通してキリスト教への

理解を深めるとの考えのもとで、一九九二年一〇月二八

日の教授会において、姉妹校への留学と本学の一般教育

科目をあわせて新しい形の総合科目を開設することを国

際交流委員会から提案があり、実行委員会が設置され、

一二月二日には教授会にて実施案が承認された。実施は

一九九三年からであり、一般教育科目の総合科目のひと

つである「アメリカの文化と社会」で、前期に本学での

授業を受け、夏季休暇中にウェスタン・ミシガン大学で

のSummer�Institutes,�English�Language�and�A

merican�

Cultureを本学向けにアレンジした授業とアメリカ視察

を行うことによって、履修四単位が得られる新しい形式の科目が始まった。アメリカでの研修には教職員

が引率者として同行した。一九九三年は授業聴講後メソジスト教会の会員宅でのホームステイと礼拝参加、

「アメリカの文化と社会」のパンフレットウェスタン・ミシガン大学での予定表

� 278�

ニューオーリンズ、グランドキャニオン、サンフランシスコ視察後、帰国してのオリエンテイション二日

とディスカッションおよび研究レポート指導を受け、一〇月末には研究レポートを提出した(

22)。

一九九四年はコロラドやワイオミング視察があり、一九九六年では、三五人の学生と引率の教員二名・

職員一名が参加し、七月二〇日から八月一〇日の間で行われた。二週間のウェスタン・ミシガン大学での

研修では、英語研修とアメリカの文化と社会の講義が、文学(詩)・音楽・マイノリティ・女性と家族・教

育・宗教・福祉制度・政治制度・日米関係の一〇項目にわたって行われた。講義は二人の通訳もあり対話

形式も持たれた。授業後のアクティビティには男女四人のスチューデント・

リーダーが先頭となり、小学

生のキャンプとの交流やアーミッシュ・カントリィ訪問、ブルーベリー摘みなどがあった。この後一週間

でコロラド州のロッキー山脈国立公園を訪ね、ボウルダーではファースト・コングリゲーショナル教会員

宅にて二泊のホームステイを行い日曜礼拝と教会での親睦会に出席し、デンバー市郊外のシンプソン合同

メソジスト教会で第二次世界大戦当時の日本人強制収容所で体験談を聞くなどのアメリカ視察を終え帰国

した。参加学生は帰国後自己学習を通して学びを深め一一月にレポートを提出したのであった。

翌年一九九七年は実施せずプログラムの性格や内容を一年かけて検討することとし、計画実施のための

海外研修実務委員会を組織して実行案を図ることとした。一九九七年一〇月二二日の教授会において総合

科目Ⅳ「アメリカの文化と社会」の実施要綱が承認され、前期の本学での授業は一般教育科会で、アメリ

カでの研修は国際交流委員会と英文学科の協力を得て一般教育科会において決定することとした。実施計

画に関しては、一般教育から主任を含む二名、国際交流委員会および英文学科等からの若干名による海外

研修実務委員会で作成した。

279 第四章 岐路に立つ短期大学(一九九〇~二〇〇四年)

一九九八年度は「受講希望者が一七人であったこともあり条件が整わず、一九九八年五月一三日の教授

会で海外研修実務委員会(委員長 

宮田雅智一般教育科目主任)の提案を受け中止となり、一九九九年か

らは別の姉妹校であるカレッジ�

オブ�

ノートルダム�

オブ�

メリーランドでの語学研修と近隣のワシントン

DC視察を行うものへと変えていった。この年の参加学生は二九人であった。この変更には、ウェスタン・

ミシガン大学の曽我教授が一九九六年九月をもって退職されたことによる不都合も関わっていた。

カレッジ�

オブ�ノートルダム�

オブ�

メリーランドでの二〇〇〇年の計画は始めた当時と同様に、前期は

学内でアメリカ概論、アメリカの文化、アメリカの社会、日米関係の授業とオリエンテイションを履修し

た。七月三一日に成田を発ってワシントンDC空港に着き、バスでボルティモアへ向かった。翌一日から

一一日までは、五日のニューヨーク一泊研修以外は大学での語学研修、一二日から一五日まではアーリン

トンでホームステイし教会にも出席、一六日はアーリントンのホテルに宿泊して近隣を見学し、一七日に

たって翌一八日に成田空港着というスケジュールであった。

二〇〇一年九月一一日にアメリカで起こった同時多発テロ事件を受けて、二〇〇二年はこの授業は閉講

になった。そして、翌年からは研修内容や実施方法の見直しも行われ、二〇〇三年度からは国際交流委員

会主催の夏期海外研修「姉妹校で学ぶアメリカ体験旅」として引き継がれた。しかし、二〇〇三年および

二〇〇四年度は前述のテロ事件の影響により夏期海外研修は実施されなかった。二〇〇五年度は三〇名の

学生がカレッジ�

オブ�

ノートルダム�

オブ�

メリーランド夏期海外研修に参加したが、二〇〇六年度は参加

者が募集定員を満たさずプログラムは中止され、この年をもって終了した。

� 280�

青山学院国際交流基金と国際交流(20)

国際化する世界のなかで青山学院が果たすべき新しい役割をテーマに、青山学院における国際交流のた

めの基金として、一九九三年一月二九日の理事会承認を得て、「青山学院国際交流基金」がスタートした。

この制度は、設置学校における教育研究の国際交流に関する事業を助成することにより、これを振興す

ることを目的とし、基金は、三号基本金から組み入れられたものを主体とした。目的達成のために行う事

業は、(一)教職員及び研究員の国際交流の振興、(二)学生・生徒・児童の国際交流の振興、(三)帰国子

女・外国人留学生の受入及び教育の充実、(四)外国人のための日本語教育の充実、(五)外国語教育の充

実、(六)学術研究の国際交流の振興・助成、(七)その他国際交流の振興に必要な事業、と定めた。

学院の委員会である青山学院国際交流委員会では青山学院にふさわしい具体的なプログラムを検討する

なかで、基金設立記念行事を学院創立一二〇周年である一九九四年の記念行事の一環として行う計画を

持ったが、準備期間が短く一九九五年へと日程を遅らせて、各設置学校ごとの記念行事と学院全体での行

事を行うことになった。女子短期大学の国際交流委員会はこれを受けてアメリカの姉妹校二校とアジア諸

国との一層の交流と相互理解を促進すべき具体的プログラムとして、一一月一三日から一六日まで、学生

にとって意義深い交流と異文化への深い理解を高めることのできる三つのプログラムを独自に実施した。

一三日、二時限、姉妹校のカレッジ�

オブ�

ノートルダム�

オブ�

メリーランドからシスターであるアン・

ショルツが「平和社会をつくるための女性の役割」、三限、姉妹校のウェスタン・ミシガン大学からチモ

シー・ライトが「一〇〇才までに国際人に」の講演、四限、両姉妹校の学生各二人(本学の授業、シオン

寮生活、ホームステイも体験し学生間の交流を持った)も交えての交流および意見交換が行われた。翌一

281 第四章 岐路に立つ短期大学(一九九〇~二〇〇四年)

四日、二限、タイ王国パヤップ大学のアムヌアイ・タピングカエ学長が「地球における全人教育」の講演、

四限、シンポジウム「国際理解と高等教育」が講演者三人のパネリストによって行われ、夕刻、青学会館

にて短期大学主催のレセプシヨンも開かれた。一五日、姉妹校の学生の授業参加、韓国の児童文学者であ

る吉志蓮氏(一九九〇年本学児童教育学科卒)による「日本に留学して」の講演、氏は在学生宅に一泊ホー

ムステイも行った。翌一六日、学院創立記念日であり、午後一時のオープニングセレモニー、二時から四

時半、学院公開シンポジウム「今、青山学院の国際交流は……─幼稚園から大学院まで─」が総研ビル一

二階の大会議場において行われ、学院主催のパーティも持たれた。この後も本学では、国際交流委員会が

国際的な内容を持つ女子教育に関わる講演会を催すようになった。

一九九六年度:一一月二六日、サンフランシスコ州立大学日米関係研究所前所長であるデュアラー・斉

藤美津子氏による「働く女性の問題─日米比較」、翌二七日、「現代学生気質:アメリカの留学生の受入れ

窓口から見て」が行われた。一九九八年度:一〇月一五日、二時四五分から四時一〇分、聖心女子大学名

誉教授・ミュンヘン大学客員教授であるエリザベート・ゴズマン氏による「フェミニスト神学と女性神学

者の歴史」、一〇月二二日、二時四五分から四時一〇分、S�A

ssociates�International�

代表・早稲田大学非

常勤講師である清水道子氏による「可能性は拡がる─これからの女性のキャリアとインターネット」、一〇

月二三日、一時一〇分から二時三五分、日本電気常務取締役兼C&Cマルチメディア事業推進本部長であ

る古川栄一氏による「国際交流におけるインターネット技術の現状と未来」、二時四五分から四時一〇分、

米国合同メソジスト教会沖縄地区宣教師であるキャロリン・B・フランシス氏による「国際社会と女性の

参加」、一一月一六日、四時二〇分から五時四五分、神奈川大学短期大学部教授である田島泰彦氏による

� 282�

「国際化社会の情報と人権」について講演が行われた。二〇〇二年:一一月七日、吉志蓮氏の「韓国女性た

ちは 

いま……」、一一日、キャロリン・エンス博士の「Psychological�A

pproaches�to�Emotional�Problem

s�of�Y

oung�Wom

en

」が行われた。二〇〇三年:一〇月二四日、チャールズ・リッター博士の「A

mericans’�

Attitudes�T

oward�the�W

orld�After�9/11/01

」、一一月一七日、森沢典子氏の「女性の目で見たパレスチ

ナ」、二五日、三浦富美子氏の「女性の自立を考える」が開催されている。二〇〇四年:一一月一一日、池

住圭氏の「国際子ども学校の子どもたち」、一二月三日、船曳建夫氏の「男女平等について─『負け犬』と

『勝ち犬』の言い分」の講演が行われ、それぞれ一八〇人、一一三人の出席があった。

また、一九九九年一一月七日からの二週間に学院一二五周年記念式典のひとつとして青山学院の「国際

交流ウィーク」が行われた。本学国際交流委員会は「姉妹校から教員と学生を招く」として、コーネル・

カレッジから教員一人(キャロリン・エンス)が一一月一四日から二〇日の間に、カレッジ�

オブ�

ノート

ルダム�

オブ�

メリーランドからは教員一人(ジョン・R・ショパート)と学生二人が一一月二七日から一

二月三日の間に来校し、全学での会合に参加する以外に、英文学科の授業参加や初等部のコンピュータ授

業とクリスマス昼食会に参加し、シオン寮に宿泊し寮生とも交流を持った。両先生は、家政学科や英文学

科、一般教育の授業に参加された。

この後の交流については、この第六節の「姉妹校契約」を参照されたい。

国際交流基金規則制定に続いて、「青山学院国際交流基金奨学金規則」が、一九九五年五月二九日の理事

会承認を受けた。第一条で設置学校の学生・生徒・児童を対象に奨学金を給付することにより海外留学を

奨励し、国際化時代に対応できる有能な人材を育成することと定めた。さらに、外国人留学生を対象に奨

283 第四章 岐路に立つ短期大学(一九九〇~二〇〇四年)

学金を給付することにより、本学院において国際交流に貢献し、勉学意欲を高揚させ、学業に専念できる

よう経済的援助を行う、というものであった。この結果、本学における海外留学生への奨励と外国人留学

生への経済支援を高めることができるようになったが、このころから海外留学生と外国人留学生ともにそ

の数が減ってきてしまい、せっかくの制度が多くの学生や卒業生に対して有効に活用できたとはいえない

状況になった。

第七節 管理運営制度・

施設の整備

新校舎建設

記録には残っていないが一九八八年度の教授会において島崎学長が、「中庭の青学講堂寄りに新しく校

舎を建設する方向での検討を進めることを担当理事も認めているので、短大内で検討を進めたい」との意

向を表明した。これを受け、一九八九年には新たに学内整備委員会が設置された。また、一九九一年二月

二七日の島崎学長最後の教授会でも、「非公式に、女子短期大学別館を名実ともに短大所属としてはとの意

向が出された」、学長としては「教室、会議室等が不足している現状から、将来的大構想に先立ち、短期的

措置としての建築計画もありえる」ということを表明したことが教授会記録に残っている。一九九二年六

月三日の教授会では、栗坪新学長の所感の記録が「現在預かりになっている短大将来計画委員会の再出発、

懸案の建築問題等……(中略)……軌道に乗るようにしたいと思っている」とあり、九月一六日の教授会

� 284�

では建築委員会が、「……九月四日の学院将来計画委員会のヒアリングで、本館の再開発を含め七〇〇〇~

九〇〇〇㎡のC案に至ったことの説明をすることができた。この案は島崎前学長が中庭の奥に約三〇〇〇

㎡で計画された案から出発し、エレベーターや階段などに取られない有効面積を増やすことから出発した

もので、これで俎上に乗(

ママ)る

ことになった。これからは職員や同窓会の意見を加えて、計画を進めていく」

と、報告した。しかし、翌年には建築委員会は学内整備委員会と合同して建築整備委員会として新たにス

タートし、新校舎建設について学院執行部全体のさらなる理解が得られないなかで、現状の校舎、校地の

中での整備が委員会の主な活動となった。

図書館(23)

一九九〇年度にD

IALO

G

、NACSIS-IR

、日経テレコンの三システムが、図書館内で利用可能となった。

また、この一九九〇年には、研究棟とあわせて屋上防水工事も行った。一九九一年度は、学院大学図書館

が開発した図書館管理システム「A

URO

RA(A

oyama�gakuin�U

niversity�library�Resources�Online�

Retrieval�Assistance�system

)」を導入し、これに合わせて当時オフィス・コンピュータと呼ばれた

ACO

S3100/90

を導入し、図書管理と閲覧管理にコンピュータ利用という大きなメリットを得ることがで

きた。一九九三年には、書誌情報もこのシステムに乗せ、より多くの情報を迅速かつ正確に提供できるよ

うになった。一九九六年では図書館管理システム「A

URO

RA

」をオンライン図書目録O

PAC�

(Online�

Public�Access�Catalog

)に変更した。一九九八年には、二階閲覧室に参考図書架を三本設置し、学生の勉

強に利するため辞典等を配架し、また、コピー機を一台増やして二台とし、学生の需要に応えた。さらに

285 第四章 岐路に立つ短期大学(一九九〇~二〇〇四年)

AVルームの工事を行い、冷房の効き方を高めた。一九九九年には、学生証や教職員証のIDカード化も

あって八月に自動入館装置を設置した。さらに、新館B1にスチール書架を増設し、新館BM2にも壁面

書架を設置することによって、手狭となりつつある状況に対処した。二〇〇〇年には、新館B1壁面の

キャレル(個人用閲覧席)を撤去して書架を増設し、AVコーナーの機器を新機種に入れ替えてDVDも

視聴できるようになった。また、現行システムであるLICSU

(Library�Computer�System

�of�University

を新バージョンに切り替え、O

PAC

も改善されて利用者の利便性が増した。二〇〇一年には、貴重書庫を

旧館地下に設置して貴重な資料を一括保存し、あわせて閲覧についても便宜を図れるようにした。前年発

生した旧館一階北側の漏水問題は、旧館一階閲覧室の外壁部分を補修するなどして解決した。新館地下の

異臭問題は、屋上へ排気筒を設置することで改善した。またさらに、新館B1壁面のキャレルを移動して

スペースを作り書架を増設し、前年に続いてAVコーナーの機器を新機種に入れ替えた。二〇〇三年には、

旧館地下一階の電動書庫制動装置をリニューアルし、新館B2・BM2の書架を増設、グループ学習室の

パーティションを透明ガラスに変更して明るく使いやすい形にし、また、マイクロ・リーダープリンター

を新機種に交換した。さらに、地下書庫の冷房設備増設も行った。二〇〇四年には、四月から学術情報シ

ステムを日本電気のLICSU

/21

から富士通の図書館パッケージに移行し、新着図書情報のWEB公開など

新しいサービスも行えるようになった。館内図書目録検索用PCを合計三二台設置し、インターネット接

続が可能なPCを一三台設置して、通常の学生利用以外にガイダンスにも幅広く利用できるようになった。

旧館二階閲覧室に書架五二連を増設し、学生の勉強時に利用の多い言語関連の図書を移した。BM2Fか

らB1Fへのドライエリアに抜ける避難口を設け、緊急の場合は避難梯子を使って脱出できるようになっ

� 286�

た。図

書館の特別コレクション

本学図書館は、一九八六年に増築工事が終了し、広さ三二五一㎡、座席数三二九で、二〇一五年現在、資

料約三一万冊、視聴覚資料約一万、雑誌・紀要類約二二〇〇タイトルを所蔵し、短期大学図書館としては

有数の規模と資料の充実ぶりとなっている。さらに貴重な資料を収集した六つの特別コレクションを持っ

ているのでそれらの概要を紹介したい。�

①「オーク・コレクション」

英米の絵本と児童文学書の古書を中心するコレクションで、古くはヴィクトリア朝以前の子どもの本の

原点といわれるチャップブックから米国絵本作家センダック初期の作品まで、一九世紀~二〇世紀前半の

一四〇年にわたる絵本をカバーしている。

一九九三年、絵本輸入業オーク・ブックセラーズの社主・大高公夫氏の個人コレクション約二七〇点を

購入したのに始まり、その後関連資料を購入したり寄贈を受けたりして、三六四タイトル三九二冊を所蔵

している。大高氏が青山学院大学経営学部卒で、コレクションの内容が英文学科、芸術学科、児童教育学

科等のある本学の教育に相応しいという判断に基づいて購入した。コレクションには、マザーグース本や

トイブック、珍しい仕掛け絵本だけでなく、A・ミルン『熊のプーさん』、ルイス・キャロル『鏡の国のア

リス』の初版本や著者サイン本、一九世紀フランス絵本の至宝と評されるモーリス・ブーテ=ド=モン

ヴェル『ジャンヌ・ダルク』豪華限定版といった貴重な資料も含まれている。

287 第四章 岐路に立つ短期大学(一九九〇~二〇〇四年)

図書館では、オーク・コレクションの紹介を兼ねて、ギャラリーで二〇〇四年、〇五年、〇六年、〇八

年と四回展示を行い、主要な資料をカラーで収録し、資料リストのついた『オーク・コレクション図録』

を二〇〇九年に刊行した。

②「幕末・明治の外国人の見た日本」コレクション

一九九三年より「外国人は明治以前の日本をどのような目で見ていたか」に関わる資料を収集し、特別

コレクション「幕末・明治の外国人の見た日本」と呼んでいる。青山学院の源流は、明治初期に来日した

アメリカ人宣教師によって創始された三つの学校にさかのぼるが、建学当時の困難と労苦を理解しようと

するとき、明治初頭の前後に来日した欧米人がどのように日本を見、日本を捉えていたかは、青山学院の

発祥に密接に関係していると考えられることがテーマ設定の理由であった。

幕末・明治に来日したオランダ商館関係者、駐日公使、軍関係者、学者、旅行作家などの記した日本研

究書を中心に、その時代以前のキリシタン史資料も加え、収集した資料は八一タイトル一二八冊になって

いる。トリゴー編『日本キリシタン殉教史一六一二―一六二〇』、ポンぺ『日本滞在五年間』、オールコッ

ク『日本の美術と工芸』などを含んでいる。

このコレクションの紹介を兼ねて、二〇〇三年、〇七年、一一年、一五年にギャラリーで展示を行った。

③「一八五〇年以前に刊行の中国に関する欧米図書」コレクション

二〇〇二年八月、文部科学省科学研究費補助金・特定研究「我が国の科学技術黎明期資料の体系化に関

する調査・研究」に参加した教養学科八耳俊文教授が補助金を得て、図書館にこのコレクションを購入し

た。これは、ロンドン大学東洋アフリカ学院図書館が所蔵する中国関連の図書六五四件をマイクロフィッ

� 288�

シュに収めたもので、フィッシュの総枚数は四七一四枚に及ぶ膨大な資料群である。その内容は、百科全

書・総記、地理、旅行記、歴史、国際関係、宗教、言語、科学等全領域に及び、一五五〇年代以前の著作

から一八五〇年代の刊行物までを収録している。

④「讃美歌の初版本」

一八〇〇年代後半から一九〇〇年代前半にイギリスやアメリカで出版された讃美歌初版本一五八冊を所

蔵している。キリスト教の精神に基づいている本学に相応しいコレクションである。

⑤�The�Studio�:�an�illustrated�m

agazine�of�fine�&�applied�art.�vol.1�no.1�(A

pril�1893

)�-vol.167�no.853�(May�

1964

ロンドンでC・ホームによって創刊された月刊美術誌『Studio

』の創刊号から最終号まで八五三冊を所

蔵している。同誌はアールヌーボーやアーツ・アンド・クラフツ運動に影響を及ぼしたといわれる。

⑥「楢崎文庫」

一九九〇年四月、芸術学科開設を記念して設置されたコレクションで、浮世絵研究の第一人者で本学・

学院大学非常勤講師でもあった楢崎宗重氏からの寄贈書を整理し公開している。文庫の内容は、浮世絵関

係の資料を中心とした図書二四二〇冊、パンフレット類、売立目録、雑誌・紀要などである。

教育メディア関連他

一九九二年に、南校舎三階の情報処理実習室の三一台あるコンピュータをPC9801U

X21

から

PC9801DX01

へと更新した。一九九五年夏には、建築整備委員会の提案に沿って、LL施設の老朽化に伴

289 第四章 岐路に立つ短期大学(一九九〇~二〇〇四年)

う機器の更新、さらに二室のLL室のうち一室をMLL(マルチメディアLL)室としてLL機器とコン

ピュータとを融合させた仕様に変更した。学内LANも完備させ、インターネット接続も終えた。また、情

報処理実習室を二室に増やし、南校舎三階の普通教室を情報処理実習室に改修し、コンピュータも

PC9821Xa7e/s15

へと更新した。一九九六年三月には、MLL室のLL機器を更新する際に、教師用の

PowerM

ac9500/120AV�

と学生用のPow

erMac7500/100 

三〇台に切り替えた。一九九七年には、短大

ネットワークサーバー用ワークステーションを入れ替え新規設置した。さらに、MLL利用者管理用サー

バーを導入した。二〇〇〇年二月八日の教授会で情報処理実習室、LL施設、学内コンピュータネット

ワーク等、教育用メディアの管理運営のための教育メディア運用室を設置することが承認された(室長 

宮田雅智)。以降は、情報処理施設とLLを一つの組織に統括し、これらの管理運営を教育メディア運用室

が担うこととなり、事務職員二人が勤める教育メディア運用室は南校舎三階のMLL教室の隣に置かれた。

二〇〇二年には、教育メディア運営委員会からの提案に沿って、富士ゼロックス社提案のコンピュータシ

ステムの導入を行った。W

WW

のブラウザが利用できるPCであれば世界のどこでもメールの送受信が可

能になった。また、このメールの送受信は各自の携帯電話でも利用可能となった。

二〇〇三年は、教員研究室へ事務用書類作成印刷用のコンピュータとプリンターが、設置された。

耐震工事の着手

一九九四年には、南校舎の中庭側窓ガラスを網入りのガラスに換え、震災時のガラス落下によるケガを

防げるようにした。また、翌年夏には北校舎中庭側窓ガラスも同様に交換した。一九九五年一月一七日に

� 290�

起こった阪神淡路大震災では、大学の建物も多く被災した。青山学院全体で「A

OYAM

A�SPIRIT

S 

震災

チャリティコンサート」を三月六日にサントリーホールで行ったほかに、日本私立短期大学協会全体とし

ての義援金搬出以外に本学独自の支援として六月二日の定例チャペルコンサートをチャリティとし神戸市

や西宮市所在のキリスト教学校教育同盟校八校への救援募金もあわせて送金した。ほかに、入学志願者一

四人に対し受験料(三万五〇〇〇円)を返済し、被災の大きな二年生一名に対して後期授業料一括給付、困

窮度が高い二年生二名へは一括貸与、一年生一名には貸与月七万円一九カ月間の対応を行った。さらに、

一一月一三日に行われた学内ランチタイムコンサートでの献金四万一六〇六円を聖和大学(二〇〇九年に

関西学院と法人合体)へ送った。本学の地震への対策として、二〇〇一年度には建築整備委員会の発案に

沿って阿部学長が二〇〇二年度予算のなかにまず南校舎の耐震工事費を計上し、夏季休暇中に柱や壁を補

強する形での耐震工事を行った。翌年は続いて北校舎の耐震工事を行った。この年はさらに、本館の外壁

塗装、南校舎の内壁塗装、北校舎の外壁塗装も施工された。そして、南校舎耐震工事の二期工事として、各

研究室、実験室内部の什器(各書棚等)の一五一カ所固定工事も施工した。

防災・防犯

一九九五年に、建築整備委員会が敷地内の設備点検を行い、その結果に基づいた提案に沿って、消火器、

避難梯子、非常口表示等を、追加設置した。一九九七年には、各所に非常口表示設置、非常口内鍵設置、北

校舎三階、四階に渦巻き型救助袋を設置した。二〇〇三年には、女子トイレ、部室は防犯上の死角となる

場所であることから、建築整備委員会の提案に沿って、これらの場所に北校舎一階ビル管理員室に通じる

291 第四章 岐路に立つ短期大学(一九九〇~二〇〇四年)

非常ベルを設置した。また、避難経路図設置場所が少なくまた図自体も見づらいものであったので、二〇

〇三年から数年にわたって誘導経路図交換や避難経路図新設を行った。

空調設備

一九九〇年以前には、北校舎一階美術準備室、四階ピアノ室、地下一階図工室、一階版画室、学生相談

室、三階音楽準備室、研究棟一階織物実習室、染色実習室など、主に実習を行う教室に空調設備が導入さ

れていた。一九九〇年には北校舎四階のL四〇二教室(劇場型教室)へ、一九九一年には北校舎一階ビル

管理員室、一階受付、二階造形準備室・絵画室Ⅱ・美術室Ⅰ・芸術学科研究室、四階四〇一B演習室に空

調機を設置した。さらに、一九九四年には、北校舎三階の音楽室Ⅰにも設置した。一九九五年には、南校

舎の空調工事を行い、翌一九九六年には北校舎でも工事を行った。また、一九九八年には南校舎四階の空

調設備を各研究室個別に操作ができるように改修し、北校舎で残っていた一、二階の教室への空調工事も

行われた。ほかに、南校舎地下部室の空調設備設置と南校舎空調用の配管改修が二〇〇二年に行われた。ま

た、二〇〇三年には、北校舎地下にある吸収式冷凍機の取替えや、本館他の空調用配管の改修も行われた。

青学講堂地下食堂の整備

地下食堂は収容人数約七〇〇名といわれていたが、厨房、売店(奥に従業員食堂、倉庫)、職員食堂、右

側は売店と部室への通路、和室などがあり座席数は三七〇席であって、くくり付けの椅子付きテーブルが

置かれていた。間仕切りがあって手前の学生ロビー部分は一八〇席のソファが置かれていた。大勢が座れ

� 292�

るがそれでも狭く、数人のグループでゆっくり食事を楽しむことができないという状態が二〇年以上も続

いていた。学生からの不満の声も聞こえてくることから、学生部委員会は委員会内だけではなく事務室や

本部管理部の職員まで含めた学生食堂改装企画委員会(委員長 

菊池純一学生部長)を設置しそのなかに

作業部会も設け、一九九六年五月から新しい学生食堂案を作ることに着手し、 

翌年度の予算も得ること

ができ、一九九七年の夏休みに改装工事を行い九月一二日に工事が終了した。座席数は減ったがセブン

チェアを導入し、ゆったりした余裕のある状態で食事ができるようになった。また、アートワークニッチ

は、教員のアートワークなどが設置され、心安らぐ空間となった。二〇〇三年には食堂の反響音が大きい

ことから反響音解消のための吸音板を取り付ける工事を行い、また、教職員の食事スペースとして使用し

ていた一隅を売店と調理場へと改築し、教職員は昼食時のみ茶道部、筝曲部が使う和室を食堂として使う

ことにして、学生の使用できる空間を拡大した。さらに、食堂に隣接する部室を二カ所なくし、食堂テー

ブル、椅子を増やすことによって、新たに八〇席以上確保したのであった。

L四〇二教室

舞台を持つ階段教室で劇場型となっていることから、子ども学科学生や部活動の発表会にも使われてい

る。一九九二年、一九九三年そして一九九四年には、大幅な改修を行いAV、音響、舞台設備・機器の購

入や椅子の交換も行った。

293 第四章 岐路に立つ短期大学(一九九〇~二〇〇四年)

体育関連

一九九三年に、短期大学と高等部が使用するテニスコートの大幅なコート改修工事を行い、凹凸のない

状態になった。一九九五年は、体育実技(ゴルフ)で使用している体育館屋上の人工芝を張り替え、翌年

にはテニスコートの照明設備を新設した。二〇〇二年には、体育館空調設備の大幅な改修を行った。

シオン寮

一九九三年には食堂改修を行い、調理室からの配膳もよりスムーズになった。一九九九年にはエレベー

ターの更新が行われた。すでに各特別室には設備が導入されていたが、二〇〇〇年には寮各室に冷暖房設

備を導入し、二〇〇二年には、ロビーにもエアコンを設置した。二〇〇四年には、東側外壁の改修工事が

行われた。また、一九九六年には五階の寮室に三台のコンピュータを置いたが、ついで九九年に三階と五

階にそれぞれNECのコンピュータPC-MA453/CHBT64五台とプリンターPR-L1250

三台ずつ設置した。また、学内サーバーとネットワーク接続して学内の設備と同じ環境で利用できるよう

になった。

中軽井沢寮

一九九四年に、長野新幹線線路建設のため敷地の一部を提供したことにより、四面あったテニスコート

が二面に減り、壁打ちを行う壁も移設した。この二面のコートの修理を行ったが、修理が不十分で体育実

技の集中授業やテニス部のクラブ活動に支障を来すため、翌年にも新たにテニスコート改修工事を行った。

� 294�

一九九九年には建屋内の排水に不都合があり改修工事を行い、二〇〇二年には、寮本館の屋根などの補修

工事を行った。

学生相談室

一九八八年に「談話室」がN一〇二教室の向かいの倉庫として使用されていた部屋に開設された。一九

九三年には、面接スペースの仕切りも兼ねて本棚を設置し、学生相談室と改称した。一九九五年には室内

に防音ブースを設置し面接室を作った。

その他

二〇〇〇年一〇月二五日の教授会にて、卒業生の遺族の方から、記念となるものを寄贈したいとの申し

出を受け、掛井五郎本学元教授作の彫刻作品「思想」をいただくことにしたと、学長から報告があり、図

書館入口に設置した。

第八節 学生生活

談話室から学生相談室へ(24)

教員によるアドバイザー制度ではくみ取れないまたは対処しきれない学生の悩みなどを受け止めるもの

として、一九八八年に「談話室」がN一〇二教室の向かいに開設された。はじめは曜日を決めて一名の学

295 第四章 岐路に立つ短期大学(一九九〇~二〇〇四年)

生課職員が対応するものであり、一九九〇年は学生課長と定年退職した事務部長(両名とも女性である)、

翌年は本学卒業生で学院大学大学院文学研究科心理学専攻修士課程の大学院生が担当した。当時の利用者

は年間三〇~四〇人であった。一九九二年になって教職課程の教員増が必要になり、教職課程教育心理学

担当専任教員が採用されて、この教員が談話室責任者を担当するようになった。翌九三年、「学生相談室」

として名称・体制を改正し相談室長(大野愛子)を専任教員のなかから教授会で選任し、非常勤のカウン

セラー一人と前から続いて修士課程の大学院生で週四回九時から一七時まで、その翌年、翌々年にはさら

に一人ずつ増員として毎日二人の体制を整え、心理テスト実施、絵画やコラージュ療法なども行い、利用

者も大幅に増えて二〇〇四年度には相談とテストで実数一二六人(延べ六四九人)となった。相談室内部

も、部屋を書棚で仕切り、防音ブースを設置して面接室を独立させ、残った部分を「オープンスペース」

として、集まってきた学生が自由に使える場所として使用するなど、孤立している学生への居場所提供も

行った。なお、学生部長が関わっていた学生相談室の運営は、二〇〇二年四月より、学生相談室運営委員

会(委員長 

学生部長)が運営の管理を行うようになった。

学芸懇話会

学生運動がいわゆる学園紛争までに高まるなか、一九六七年一二月に懇話会会誌『學藝』第一号が発行

された。「発刊にあたって」として、本学第二代学長幸田三郎が懇話会の意義を「教職員による研究活動の

成果を広く学内に普及するとともに、学生の自主的学習の機会を一層広げることを目的として、一九六七

年度に新たに設けられた」「五学科をもつ本学の利点を積極的に活かし、これによって学生生活をいっそう

� 296�

充実させるために設けられた」と述べている(

25)。

学芸懇話会は、主として専任の教員によって執筆され

る単行本の出版、講演会・研究会の開催、ならびに機関誌の発行などの事業を行うとも述べている。そし

て、会誌は、教員の専門に即した論説、随想、書評などによって学生が専門以外の領域に対して目を向け、

新しい世界に対する興味と関心を持つようになることを期待している。また、学生自身の執筆による論説、

随想、創作などもまとまった形で発表する場ともすると、述べている。教員と学生の共同体意識を高め、学

びの共同体の形成に寄与したい、ということでもあった。この年(一九六七年)は会誌発行以外に七月六

日に淀井敏夫東京芸術大学教授の「ヨーロッパの古典芸術」、一〇月一二日に松岡洋子氏の講演「日本にお

ける女性と政治」、一〇月一七日に江藤淳氏の「夏目漱石と英文学」、一一月一四日に桜井芳人日本女子大

学教授の「たべものの保蔵」と山本健吉氏の「日本の詩歌」、一一月一八日に古川哲史氏の「純粋と全力

的」の講演が持たれ、さらに秋の学園祭では児童教育科松崎巌助教授が「北欧の文化と教育」の講演を行っ

ている。また、児童教育科の掛井五郎助教授と小畠広志非常勤講師による「デッサンの会」が一一月から

毎週放課後の午後五時から八時まで木曜日に八回完結で行われ、日本合唱協会による音楽会も一九六八年

一月二〇日に開催された。六八年六月には第二号が発行され、そこには学生と卒業生からの研究報告が五

件と座談会などの報告も掲載されている。さらに、学芸懇話会双書(シリーズ)として、町野静雄著『古

典主義とローマン主義』が五月末に発行された。

このようにして、五号(七〇年三月二五日発行)から学生編集委員として三人の学生の参加も得て、教

員からの三人とで編集が行われるようになり、毎年二回会誌と学芸懇話会シリーズを発行し、講演会の開

催も行ってきたが、一九七四年からは年一回の発行となった。一九九二年二月に三一号を発行した後、懇

297 第四章 岐路に立つ短期大学(一九九〇~二〇〇四年)

話会自体発足時の状況とは異なってきたこと、大学共同体の形成が懇話会方式では難しくなってきている

こと、会誌の編集の困難さもあって大きな改革を行った。それは学生編集委員が主となって編集を行い、

内容も学生の生活に関わることを多くするものであった。この学生主体の編集による会誌の一九九三年度

版が三月に発行され、二〇〇一年三月発行の三八号まで続き、この号をもって発行が終った。

講演会やシリーズ発行を行っていた学芸懇話会自体も、一九九九年に教授会承認を得て学芸懇話会将来

検討委員会(委員長 

石引正志)が設けられ、五回の委員会での検討を経て、編集、シリーズ発行、集会

の三役割をそれぞれ学内の他の部局に担ってもらい、委員会は解散するという結論を年度末の教授会で提

案し、承認を得た。

二〇〇一年六月二〇日の教授会後に同じメンバーによる学芸懇話会評議委員会が開かれ、会計報告の承

認の後、残務整理委員会委員長(石引正志)より、二〇〇〇年からの次年度繰越し金二一六万九八八〇円

を総合文化研究所の特別会計(出版物補助等)へ移し、過去に出版したシリーズ二二冊の管理は総合文化

研究所に委託、その他の資産の整理は事務室に依頼、講演開催などの集会は学生部、宗教活動委員会、学

友会、国際交流委員会、総合文化研究所などで受け継ぎ、会誌は学友会活動のなかで受け継ぐとの提案が

了承され、二〇〇〇年度をもって解散した。

学生部主催課外活動プログラム

学芸懇話会の項にあるように学生の課外活動が停滞するなか、学生部は学生へ授業やクラブ活動以外の

活動の場を提供する新しい試みとして、一九九六年に学生部主催課外活動プログラムを始めた(

26)。

その

� 298�

課外活動連続講座は、ボランティアや社会的な課題を考えるきっかけとなるような内容を取り上げ、講師

は実際に活動している外部講師を招くとされている。九六年は、連続講座、手話講習会、上級救命講習会

(学友会との共催にて前年度も七月二八日金曜日九時から五時まで受講料一〇〇〇円にて開催)を実施し、

翌年以降もさらに鑑賞会、各種コンテスト、などが加わってきていた。この年のプログラムのそれぞれを、

みていくこととする。

連続講座は、環境問題連続講座「宇宙船地球号のいま」としてN三〇二教室で受講料無料にて、一〇月

二日四限に「いま、何が問題なのか」を教養学科菊池純一教授が、次週水曜四限は「いま、地球環境問題

に政府はどう対処しているか」を通産省産業政策局宮本融総括班長が、一一月一三日四限に、「いま、都市

の中で何が起きているのか」を教養学科加藤由利子教授が、翌々週水曜四限は「ダイエット食品をテスト

する」を国民生活センター商品テスト部宗林さおりが、そして、一二月四日四限に「いま、命の水は」を

渡辺真利代兼任講師が担当した。受講者数は約五〇人であった。

手話講習会は、「まじめに取り組む初級手話」と題して学内のあおやまボランティアワークの協力を得

て、一〇月九日を皮切りに一二月一八日まで計一一回それぞれ水曜日午後四時二〇分から五時四五分まで

の五限の時間にN一〇二教室にて、渋谷区社会福祉協議会の紹介による井崎啓子を講師に招いて行った。

受講者は先着順の募集の三〇人とした。翌年からは一〇年ほどの間は、国文学科卒業生でシャンソン歌手

の朝倉まみを講師に迎えて続けていった。最大三〇人までで無料としている。二〇〇〇年には五月二四日、

二六日、三一日、六月二日で同じく五限の時間を使って行った。上級救命講習会は、渋谷消防署の協力を

得て九月一七日の八時四五分から午後五時まで体育館地下のプレイルームにて募集人数三〇人としたが、

299 第四章 岐路に立つ短期大学(一九九〇~二〇〇四年)

結果として受講者は二六人であり受講料一〇〇〇円として行われた。

翌年から、連続講座は「現代社会と訴訟」「卒業生に聞く仕事と私」「創る」、二〇〇〇年度は開学五〇周

年記念講演会が多数行われたため実施せず、二〇〇一年度からは「ボランティア・スタディ」としてワー

クショップとアジア学院での二泊三日のワークキャンプを取り入れ、より体験型の講座へと特色を持たせ

るように変わってきた。二〇〇二年度では、講座「共に生きる<

自然編>

」でアジア学院での二泊三日の

ワークキャンプを含む事前と事後のワークショップ、それに報告書作成と、清里キープ協会での二泊三日

のワークキャンプを含む事前と事後のワークショップ、それに報告書作成も課される講座の二つと、「沖縄

を学ぶ手作りの旅」という本学でのワークショップを受けて二〇〇三年一月四日から七日までの三泊四日

の沖縄での戦跡、基地見学、文化、自然体験、現地交流を含むスタディ・ツアーに広がった。

二〇〇〇年度の学生部「月報」によると、以前よりの手話講習会を講師は朝倉まみで五月二四日、二六

日、三一日、六月二日に開催し、能楽鑑賞教室を六月二一日に国立能楽堂にて一四時より、解説「能楽の

たのしみ」、狂言「雁礫」、能「殺生石」を鑑賞、歌舞伎鑑賞教室を七月一九日に国立劇場大劇場にて一四

時より、参加費一〇〇〇円で演目は「恋女房染分手綱 

重の井子別れ」「雨の五郎」、出演 

中村時蔵他、な

らびに解説「歌舞伎のみかた」も行われた。九月一四日には、上級救命講習会も開催された。さらに、第

五回フォトコンテスト、第四回短歌大賞が、作品募集され、青山祭期間に展示され、その後学生部長室に

て授賞式が行われた。第三回マイ・パフォーマンス・コンテストも、一月一七日にL四〇二教室に午後四

時二〇分から六時まで開催された。

二〇〇四年度の「月報」には次の項目が報告されていた。痴漢対策講座として護身法講座がフェアウイ

� 300�

ンドの八木るみ子を講師として、五月一五日に体育館プレイルームで九時半から午後三時まで行ったが、

二〇人限定のところ七人の参加だけであった。お掃除ボランティア・ビル管理さん体験も、五月二〇日一

二時一〇分から一時までと五月三日昼に行ったが、予定参加人数一五人のところ数人の参加に終わった。

ボクササイズ入門は、六月二日、九日、一六日、二三日の昼に五〇人を限って行われたが、七割を超え

る参加があった。これら以外に、六月に能楽鑑賞会、七月に手話講座と上級救命講習会、一一月にパソコ

ン講座(初級と中級に分かれ同日に一回のみ開講)、青山祭中の書道コンテスト・フォトコンテスト・歌舞

伎セミナー(すべて学友会と青山祭実行委員会と共催)、続いて短歌大賞(学友会と学生部が共催)が持た

れている。またさらに、数年前から始まっていたインターンシップでもある三つのワークショップがこの

年も持たれていた。アジア学院が行っているワークキャンプ(七月に行われた二泊三日の西那須野の農場

での農作業体験、参加学生七人)を柱とし、その前後に本学で行われるワークショップと(

27)、

九月の清

里での自然体験を主とする二泊三日のワークキャンプ(参加学生一八人)とその前後の本学でのワーク

ショップを含むキープ協会清里ワークキャンプ(

28)、

そして二月の「沖縄戦や基地、沖縄のくらし・文化・

自然を学び、体験し、平和、環境、日本や世界について考え見つめ直す。また、ともに生きるために自ら

にできることを発見する」沖縄三泊四日のワークキャンプとその前後の本学でのワークショップを含む沖

縄ワークショップである(

29)。

この年は、沖縄本島の読谷村と那覇市に宿泊して学ぶ本島組が学生三人と

引率の齊藤修三学生部委員と、石垣島と西表島に宿泊して学ぶ離島組が学生六人と引率の菅野幸恵学生部

委員というように、それぞれの学びたい内容に応じて二手に分かれて、行動した。また、実施は他の団体

であるが、たとえば八月六日から二〇日に行われるACEF(アジアキリスト教教育基金)のスタディ・

301 第四章 岐路に立つ短期大学(一九九〇~二〇〇四年)

ツアーやバングラディシュへのスタディ・ツアーなどに参加する学生へはその費用の一部となる奨学金を

贈る短大特別奨学金給付制度の対象とし、三月一二日から一九日のバングラディシュへのスタディ・ツ

アーへは輪島達郎学生部委員と学生一人が実際に参加している(

30、31)。

このような多彩な課外活動プログラムは、本学の教育理念にある「愛と奉仕に生き、社会のあらゆる局

面で積極的な貢献をなし得る覚醒した女性の育成を目指し、現実に即した有用な専門の学芸のみならず、

全人的で世界的な視野に立つ高度な教育を授ける」ことに沿ってのプログラムであるといえよう。文化・

教養・趣味の広がりを促すもの、実践的な知識や技術の習得・向上を目指すもの、大学の授業に近い性格

を持つ総合教育科目的なもの、と幅広く行われ、これらの課外活動支援が多様な教育につながっているこ

とがうかがわれる。

青山学院女子短期大学主催社会人大学生涯学習講座(32)

一九九八年一二月九日の教授会において、学長から、再度本学で新たな学びを希望する本学卒業生の声

が多い状況を受けて、卒業生を対象に本学主催の「社会人大学講座」

を開くことの提案があり、承認を受

けた。次の一月二〇日の教授会にて学生部長から、募集内容、講座内容、講師、プログラム等の説明があ

り、「創造と生活─その原点を再発見するために」と題する講座であり、募集定員は二五人、期間一九九九

年二月一九日から二一日、シオン寮にて二泊三日、費用計三万円、複数のテーマに分かれて受講するが、講

義六コマ、演習六コマ、討論一コマが用意されて行われ、講師は栗坪学長ほか一五人が担当すると報告さ

れた。一九九九年三月一〇日の教授会にて、学生部長より卒業生の参加人数は約二〇人であり、第二回の

� 302�

生涯学習講座を八月下旬に中軽井沢寮にて行う予定で

あるとの報告があった。第二回目の講座は、「夏の講

座」として一九九九年八月二三日から二五日まで、同

窓会第一八回軽井沢キャンプと同日程で、二〇人の参

加で中軽井沢寮にて行われた。ついで、同窓会活動で

生じるさまざまな事務処理のコンピュータ化を行うに

あたって、同窓会会員が情報処理について学びたいと

の要望を受け、「秋の講座(情報社会)」を一一月一三

日と二〇日に一〇時から午後四時まで本学内で開催、定員五〇人で募集したが、参加希望者は百数十人に

上った。第四回目の社会人大学生涯学習講座「冬の講座(映像社会)」は、二〇〇〇年二月一八日午後四時

から一九日午後四時まで、参加者一四人で、シオン寮に宿泊して行われた。そして、秋の講座を定員超過

で受講できなかった人のために、改めて三月四日と一一日に開講し、参加者は約五〇人であった。

二〇〇〇年度の講座は、再び「情報社会(一)」として二〇〇一年一月一三日と二〇日に本学にて二人の

専任教員によって一〇時から午後四時半まで行われた。応募者は六七人であったが、受講は四八人であっ

た。二〇〇一年度の講座も情報社会であったが、一二月一日は「情報社会(一)」と、すでに(一)を受講

した人に向けての「情報社会(二)」を同時開講し、八日は(一)の後半が本学内で行われた。また、この

年度は、「古典を読む」として、本学専任教員六人が内外の古典を一〇月二七日から一月二六日まで毎土曜

日計六回午後二時から四時まで講義を行った。翌二〇〇二年度は、「古典を読む(二)」としてヨーロッパ

1999年1月20日配布「社会人大学生涯学習講座」のプリント

303 第四章 岐路に立つ短期大学(一九九〇~二〇〇四年)

の古典を中心に、一一月三〇日から一月二五日まで毎土曜日午後二時から四時まで計四回の講義と、「情報

社会(二)」が一一月三〇日一〇時から午後四時半まで、二人の専任教員によって行われた。この後は新し

いテーマの提案もなく、一一回の講座開催だけで終わっている。

同窓会活動の展開と本学への貢献

一九七四年の同窓会設立については第二章において述べた。ここではその後の展開を紹介する。

同窓会組織は、一九八八年改正の会則によれば、会長・副会長・会計委員・監査委員の役員の他、運営

委員会が組織されて日常の会務を実施している。運営委員会の選出母体はクラス代表委員会、事業部会、

学科会である。これらの役員や組織は原則二年任期である。また同窓会は、青山学院評議員会の評議員の

選出母体ともなっている。同窓会の重要な活動として名簿作りがあるが、これまで一九八〇年、八七年、九

四年、二〇〇〇年と四回発行した。九八年以降はコンピュータによる会員管理システムを稼働している。機

関誌である『青山学院女子短期大学同窓会会報』は年に二回ずつ定期発行されている。

支部組織は、一九七九年に関西支部、東海支部が設立されたのを皮切りに、八二年に中国支部、九州支

部が、八三年に北海道支部が設立された。さらに九一年に東北支部が、九四年に四国支部が設立されて今

日に至っている。毎年一回の支部総会には女子短期大学の学長や学科主任などが招かれ、本学の近況報告

や講演などが行われており、和やかな懇談と交流のひとときとなっている。日常的には会員相互の交流や

ボランティア活動などが展開されている。また女子短期大学同窓会は青山学院校友会の一部でもあり、各

校友会支部とも日常的な交流が行われている。

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学科会は、児童教育科が一九六四年に結成した童友会の活動を先例とし、同窓会結成後は他学科にも機

運が高まり、八八年より五学科で設立された。芸術学科会は九八年に設立された。それ以前から各学科で

は各種の学習会や講座、講演会等が行われていたが、学科会設立後はこうした活動が一層活発に展開され

ることになった。これらの講座や学習会などには本学の教員も積極的に参加している。なかには、児童教

育学科(のちの子ども学科)の『童友』、国文学科会の『菁菁』のような研究誌を発行しているところもあ

る。同

窓会全体として行っているボランティア活動、文化活動、スポーツ活動等は、「事業部」に組織され、

それぞれ会員の登録制としている。このうち、ボランティア活動はその実績が認められ、九一年には東京

都社会福祉大会第四〇回特別功労の団体表彰を受け、九二年・九三年には社会福祉に功労のあった団体と

して東京善意銀行から表彰を受けている。

同窓会はまた、本学および青山学院の教育活動に対し積極的な協力・援助を惜しまなかった。八八年に

は、青山祭バザー収益金より、アジアからの留学生奨学基金への寄付を行った。九一年以降は「青山学院

女子短期大学国際奨学基金」によるアジアからの留学生に対しホームステイに協力した。九四年には発足

直後の青山学院維持協力基金に、バザー収益金より一二〇万円を寄付した。二〇〇五年の青山学院創立一

三〇周年記念を機に始まった「A

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」には一三〇万円を寄付した。二〇〇〇年の女

子短期大学五〇周年記念に際しては一〇〇万円を、二〇一〇年の六〇周年記念に際しては六〇万円を寄付

した。さらに特筆すべきは、一九九四年以降、女子短期大学奨学基金に継続的に寄付をしていることであ

る。具体的は、二〇〇九年まで毎年、学術奨学金および国際奨学金として各二五万円、計五〇万円が寄付・

305 第四章 岐路に立つ短期大学(一九九〇~二〇〇四年)

活用されてきたが、二〇一一年以降は青山学院スカラーシップのなかの「青山学院女子短期大学同窓会奨

学金」(給付型)として毎年六〇万円が寄付され奨学金に活かされている。また同窓会の先輩格にあたる青

山さゆり会も、青山学院スカラーシップの一環として「青山さゆり会奨学金」(給付型)を毎年二〇万円寄

付し続けている。

このような多様な支援活動の背景には、女子短期大学執行部と同窓会役員との意思疎通が日常的に行わ

れてきたことがある。毎年五月には本学執行部との懇談会が定例化されており、定期総会はもちろん地方

の支部総会でも、本学から派遣された教員が学内の様子を地方の同窓生に報告している。また同窓会行事

である夏の軽井沢キャンプには宗教主任が参加するのが通例であった。同窓会の側もまた、毎年の青山祭

におけるバザー実施、ギャラリーにおける「さつき会展」という同窓生作品展の実施、青山学院校友会が

実施している学生の就職活動への支援として模擬面接に参加するなど、恒例の学内行事に継続的に参加し

ている。こうしたことも同窓会の存在感を増している。さらに、数回にわたって実施した大規模な卒業生

調査は、同窓会の全面的な協力なしに実施できなかったといってもよい。一九九九年から本学が企画した

社会人大学生涯学習講座は、もともと卒業生を主なる対象としたもので、多くの参加者を得た。また東日

本大震災に対する本学の復興支援ボランティアにも同窓会役員が同行するなど、本学の取り組みを積極的

に受け止め、ともに取り組んでいる。

このようにみてくると、女子短期大学の同窓会活動は、同窓生相互の交流と学習の場としての本来の目

的を十分に実現しているだけでなく、さまざまな形で本学の教育活動への直接的な貢献をも果たしている

のである。

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なお、同窓会の姉妹組織として青山学院校友会の一翼を占めてきた「青山さゆり会」は二〇〇八年を

もって解散した。戦前の青山女学院同窓会の発足(一九〇〇年)から数えて実に一〇八年、戦後の青山学

院校友会女子短期大学部会としての再出発(一九五六年)から五二年、本学同窓会発足(一九七四年)以

後三四年という歴史を閉じることとなった。

(1) 

文部科学省『学校基本調査報告書』http://w

ww.e-stat.go.jp/SGI/N

ewlist.do?tid=000001011528

(2) http://w

ww.m

ext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo4/gijiroku/03090201/003/002.pdf

(3) 

将来計画委員会データー作業部会報告、一九九一年九月一八日

(4) 

谷本信也「青山学院女子短期大学入試制度の歴史」『青山学院女子短期大学 

総合文化研究所 

年報』第二三号

二〇一五年一二月、八一~一一八頁。

(5) 

将来計画委員会「将来計画委員会報告書」一九九一年一二月一八日、一九九一年一二月二二日教授会配布資料

(6) 

新大学構想委員会「青山学院女子短期大学 

一九九四年─自己点検・自己評価報告」一九九五年三月

(7) 

新大学構想委員会「新大学構想委員会報告書」一九九六年三月八日教授会配布資料

(8) 

新大学構想委員会「新大学構想委員会報告書」一九九八年三月四日教授会および一九九九年三月一〇日教授会配

布資料

(9) 

新大学構想委員会「新大学構想委員会報告書」二〇〇〇年三月八日教授会配布資料

(10) 

新大学構想委員会「報告書」二〇〇一年三月一四日教授会配布資料

(11) 

青山学院将来検討委員会「青山学院の充実発展のための基本構想─二一世紀へ向けての指針─」一九九二年四月、

一七頁。

(12) 

青山学院第二次将来計画委員会「青山学院の課題と展望─歴史に学び未来を拓く─」二〇〇三年七月、二一~二

七頁。

307 第四章 岐路に立つ短期大学(一九九〇~二〇〇四年)

(13) 

改組改革委員会「改組改革委員会中間報告書」二〇〇四年一月七日

(14) 

自己点検・評価委員会「青山学院女子短期大学 

二〇〇二─自己点検・評価報告」二〇〇三年三月

(15) 

全学自己点検・評価委員会「青山学院女子短期大学 

自己点検・評価報告 

二〇〇五年度」二〇〇五年七月

(16) 

全学自己点検・評価委員会「青山学院女子短期大学 

自己点検・評価報告 

二〇〇五年度」二〇〇五年七月、一

〇~一二頁。

(17) 

青山学院女子短期大学開学五〇周年記念誌編纂委員会『50年の歩み』二〇〇〇年一一月、二八〇~二八三頁。

(18) 

向坊長英「女子短期大学の一伸展策」日本私立短期大学協会編『日本私立短期大学協会会報三号』一九五五年、

三一~三三頁。 

(19) 

青山学院女子短期大学「履修要覧 

二〇〇三(平成一五)年度」七一~七二頁。

(20) 

国際交流委員会「国際交流委員会記録」一九八六年度から二〇〇四年度まで 

(21) 

青山学院女子短期大学開学50周年記念誌編纂委員会『50年の歩み』二〇〇〇年一一月、二九〇~二九一頁。

(22) 

青山学院女子短期大学「総合科目アメリカの文化と社会 

ご案内 

一九九三年」パンフレット、一九九三年

(23) 

青山学院女子短期大学図書館「青山学院女子短期大学図書館 

年次報告書」一九九〇年度~二〇〇四年度

(24) 

青山学院女子短期大学学生相談室「青山学院女子短期大学学生相談室 

報告」一九九三年度、九八年度、二〇〇

三年度 

(25) 

青山学院女子短期大学学芸懇話会「學藝」第一号、一九六七年一二月、一頁。

(26) 

青山学院女子短期大学学生部「学生部月報」 

一九九六年年度NO1からNO8、一九九六年

(27) 

青山学報編集員会「青山学報」二一〇号、二〇〇四年一二月、六七頁。

(28) 

青山学報編集員会「青山学報」二一〇号、二〇〇四年一二月、六八頁。

(29) 

青山学報編集員会「青山学報」二一三号、二〇〇五年一〇月、九四~九五頁。

(30) 

青山学報編集員会「青山学報」二〇八号、二〇〇四年六月、一二四~一二五頁。

(31) 

青山学院女子短期大学学生部 「学生部月報」 

二〇〇四年度NO1からNO8、二〇〇四年

� 308�

(32) 

青山学院女子短期大学同窓会運営委員会「青山学院女子短期大学同窓会会報」一九九九年度~二〇〇二年度