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文学研究論集 論文受付日 富士をめぐる bωε身o暁竃け蜀昌言 ﹈≦什゜岡β旨1 博士後期課程 日本文学専攻 二〇〇三年度入学 内目≦dカ》言コ囲 1 はじめに 1富士の研究についてー 富士は過去から現在に至り、様々な文物・絵画に描き込まれ、また詩 歌・唱歌に詠い込まれてきた。現代においては、日本という国家を示す 一種の記号といった印象も受ける。 その富士に関して、浅間神社社務所が昭和三年に、「富士の研究」と 銘打った一連の富士研究書群を世に送り出している。それらの中で、井 野辺茂雄氏の『富士の歴史』や『富士の信仰』、宮地直一氏の『浅間神 社の歴史』は、研究対象にしている時間枠、深度、資料の豊富さなどか ら、富士研究の集大成たるべき物であると言っても過言ではない。 富士に関するもっとも新しい研究といえるものは、平野栄次氏が編ん だ、民衆宗教史叢書の『富士浅間信仰』である。これは宗教および信仰 という視点から富士を捉えた論集であり、昭和六十二年に初版 ている。 富士に関して地理・歴史・信仰と、これだけ網羅した先行研究がある ため、後の研究者が躊躇したのであろうか、その後富士に関する研究 は、その歩みを止めている状態で、纏まった研究といえるものは皆無で ある。 このように一応網羅された感のある富士の研究だが、翻って古代の富 士研究に目を向けてみると、これは簡潔な記述がなされているに過ぎな い。理由は簡単である。古代において富士という山はどのように見られ ていたのか、古代人は富士に対してどのような信仰を持っていたのか、 ということが明確にされている資料があまりに少ないためである。 実際に古代文献を紐解いてみると、やはり富士への言及の少なさは言 一233一

富士をめぐる王権のまなざし - 明治大学...文学研究論集第20号魍.2 論文受付日 二〇〇三年十月二日 掲載決定日 二〇〇三年十一月十九日

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Page 1: 富士をめぐる王権のまなざし - 明治大学...文学研究論集第20号魍.2 論文受付日 二〇〇三年十月二日 掲載決定日 二〇〇三年十一月十九日

文学研究論集第20号魍.2

論文受付日 二〇〇三年十月二日  掲載決定日 二〇〇三年十一月十九日

富士をめぐる王権のまなざし

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]≦什゜岡β旨1

博士後期課程

日本文学専攻 二〇〇三年度入学

木  村  淳  也

     内目≦dカ》言コ囲

1

はじめに 1富士の研究についてー

 富士は過去から現在に至り、様々な文物・絵画に描き込まれ、また詩

歌・唱歌に詠い込まれてきた。現代においては、日本という国家を示す

一種の記号といった印象も受ける。

 その富士に関して、浅間神社社務所が昭和三年に、「富士の研究」と

銘打った一連の富士研究書群を世に送り出している。それらの中で、井

野辺茂雄氏の『富士の歴史』や『富士の信仰』、宮地直一氏の『浅間神

社の歴史』は、研究対象にしている時間枠、深度、資料の豊富さなどか

ら、富士研究の集大成たるべき物であると言っても過言ではない。

 富士に関するもっとも新しい研究といえるものは、平野栄次氏が編ん

だ、民衆宗教史叢書の『富士浅間信仰』である。これは宗教および信仰

という視点から富士を捉えた論集であり、昭和六十二年に初版が刷られ

ている。

 富士に関して地理・歴史・信仰と、これだけ網羅した先行研究がある

ため、後の研究者が躊躇したのであろうか、その後富士に関する研究

は、その歩みを止めている状態で、纏まった研究といえるものは皆無で

ある。

 このように一応網羅された感のある富士の研究だが、翻って古代の富

士研究に目を向けてみると、これは簡潔な記述がなされているに過ぎな

い。理由は簡単である。古代において富士という山はどのように見られ

ていたのか、古代人は富士に対してどのような信仰を持っていたのか、

ということが明確にされている資料があまりに少ないためである。

 実際に古代文献を紐解いてみると、やはり富士への言及の少なさは言

一233一

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わずもがなであるが、その中で殊に奇異な印象を受けるのは、記・紀に

富士山が全く登場しないということである。井野辺氏はその理由を『富

士の歴史』で次のようにいう。

するものでは、山部赤人・高橋虫麻呂の歌が代表的であり、他にも東歌

やその周辺にも散見できる。本稿では、特に赤人、虫麻呂の歌を取り上

げて検討したい。

 抑も天災地妖は我等の祖先の心を支配せる重大事件で、上代に於け

る国民の生活国民の信仰と、密接なる交渉を有して居る。若し富士山

の噴火爆発といふやうな、恐畏すべき事柄の記憶が存して居たなら

ば、必ず文献上に其反映を示せるに相違ないと思われるのに、何等の

伝説をも存せさるをみれば、既に彼等の記憶から失はれし程の、遠い

遠い過去の事実あったことを示せるものである。

 記憶が薄れるほど過去に噴火が起こったので、『日本書紀』や『古事

記』からその記載が漏れた、と井野辺氏は推測する。確かに噴火の類が

起こったのであれば、それは古代に生きる人々の心に深い印象を与えて

しかるべきものである。しかし、そのように記載が漏れるということ

を、単純に噴火の有無と結び付けて考えてよいのだろうか。以下、何故

記・紀に富士の記載が無いのかを、同時代の韻文や説話等の散文類、ま

た史書類などを渉猟しながら考察してゆくこととする。

2

『万葉集』の中の富士

 さて、記・紀において富士への言及が皆無であるのに対し、

古代文献ではどうなっているのだろうか。

 まず韻文であるが、本稿では『万葉集』を取り上げ考える。

その他の

富士に関

 天地の 別れし時ゆ 神さびて 高く貴き 駿河なる 富士の高嶺

を 天の原 振り放け見れば 渡る日の 影も隠らひ 照る月の 光

も見えず 白雲も い行きはばかり 時じくそ 雪は降りける 語り

継ぎ 言ひ継ぎ行かむ 富士の高嶺は       (三・三一七)

 田子の浦ゆうち出でて見れば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける

                       (三・==八)

 なまよみの 甲斐の国 うち寄する 駿河の国と こちこちの 国

のみ中ゆ 出で立てる 富士の高嶺は 天雲も い行きはばかり 飛

ぶ鳥も 飛びも上らず 燃ゆる火を 雪もち消ち 降る雪を 火もち

消ちつつ 言ひも得ず 名付けも知らず くすしくも います神かも

せの海と 名付けてあるも その山の つつめる海ぞ 富士川と 人

の渡るも その山の 水のたぎちぞ 日の本の 大和の国の 鎮めと

も います神かも 宝とも なれる山かも 駿河なる 富士の高嶺は

見れど飽かぬかも                 (三・三一九)

富士の嶺に降り置く雪は六月の十五日に消ぬればその夜降りけり

                      (三・三二〇)

富士の嶺を高み畏み天雲もい行きはばかりたなびくものを

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(三・三二一)

 前半の二首(長歌及び反歌)が赤人、後半三首が虫麻呂の歌である。

ここで赤人と虫麻呂について少々言及しておく。

 まず赤人についてであるが、奈良時代の歌人であり、制作年の知られ

る歌はすべて聖武天皇の時代のものである。紀伊国行幸、吉野行幸、難

波行幸などに従駕し、土地讃めの歌を作っている。また伊予温泉や勝鹿

真間を読んだ歌などがあり、各地を遍歴していたことがわかる。閲歴は

全く不明だが、下級官人であったのではなかろうか、と推測される。長

屋王の庇護のもと、奈良朝宮廷歌人として詠作する場を与えられていた

形跡が著しい、といわれる。

 一方、虫麻呂の経歴は全くわからない。しかし、巻九の「高橋連虫麻

呂歌集中出」とされる歌には「那賀郡曝井歌一首」、「検税使大伴卿登筑

波山時歌一首 井短歌」など常陸国での作と思われる歌があり、これを

宇合が養老三(七一九)年常陸国守として赴任した時、同行しての作と

見る説がある。地方での詠作は、常陸国の歌や前掲の富士山を詠んだ歌

以外にも様々にあり、旅先で詠んだと思われる歌が極めて多い。「詠水

江浦嶋子一首 井短歌」、「見菟原庭女墓歌一首 井短歌」といった物語

性の濃い長歌を多く残している点から「伝説歌人」と称されたりもする。

修辞・表現も異色であり、いわゆる宮廷歌人の流れとは一線を画する特

異な歌人である。

 ここで二人の歌人に共通するものは何か。両人は旅の歌を詠む下級貴

族ではあるが、一方は長屋王の庇護を受けて宮廷歌人として活躍した人

物であり、またもう一方は、藤原氏という後に宮廷で力を益す貴族の部

下となり、行動をともにしたと推測される人物である。つまり王権に少

なからず汲みした人物であるということが言えるだろう。

 旅に身を置いた(あるいは想像上の詠作かもしれないが)彼らが詠む

歌は、一種土地褒めの歌であるといえる。歌における土地褒めとは、旅

においてその地名を歌に織り混ぜて詠むことにより、何らかの呪的作用

を期待したものであるということが考えられる。旅における土地褒の歌

                          (1)

は、折口信夫に拠ればホカイの「寿詞」にその根源があるという。また

土橋寛氏は、旅先においてその土地を見ることにより、一種のタマフリ

                   (2)

的効果を期待した、と旅の歌の発生を説明する。そういった土地褒めか

ら引き出されるのは、この歌が王権の支配領土を讃える思想を根底にも

ったものではなかったか、ということである。例えば赤人の次のような

歌からは、土地賛美が王権賛美に繋がっている、という思想を指摘する

ことができる。

 やすみしし 我ご大君の 高知らす 吉野の宮は たたなつく 青

垣隠り 川なみの 清き河内ぞ 春へは 花咲きををり 秋されば

霧立ちわたる その山の いやしくしくに この川の 絶ゆることな

く ももしきの 大宮人は 常に通はむ      (六・九二三)

 この歌から天皇賛美・王土賛美の思想を読み取ることは容易である。

赤人の歌にはこのような形式をとったものが他にもいくつかある。これ

らの歌は、赤人が天皇の御幸に同行した際に作歌されたもの、つまり天

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皇の面前で詠作されたものであると推測できる。加えて、これら王権賛

美の思想が歌に詠みこまれる土地は、吉野などのいわゆる天皇が御゜幸し

える地域、王権との関わりが密な地域(吉野や紀伊など)に限定してい

るということがいえる。

 翻って富士の歌に目を向けると、宮廷歌人・赤人の富士の歌は、伊藤

      (3)

博氏が言うように、宮廷でも披露された可能性がある。この歌が天皇の

治める王土を褒め称える意図があったからこそ、宮廷で披露されたので

ある。また、虫麻呂の歌中に表現される「日の本の大和の国の鎮めとも

います神かも」の「大和の国」は王権の所在地であるが、駿河地方にあ

る富士をその「大和の国の鎮め」の神として扱う意識は、あきらかに王

土の賛美であるといえるだろう。加えてこの歌の表現における、「甲斐

の国」「駿河の国」「石花の海」「不尽河」の配し方は、鳥瞼的な構図だ

と言える。それはあたかも国見的な表現であるといえる。富士のある駿

河が、天皇自ら御幸し得ない場所であるからこそ、虫麻呂は名代として

この歌を作ったのではなかろうか。つまりこの歌がいわば遠隔操作的な

国見として詠まれたのかも知れない、とすることが可能ではなかろうか。

3 散文の中の富士

 では散文類ではどうなのだろうか。例えば、七〇〇年代初頭に成立し

た『常陸国風土記』の筑波郡条には、歌垣の場としての筑波山の起源を

説いた説話に、「福慈」という表記で富士山が描かれる。この説話の概

要は次のようになる。

 神祖の尊が諸神を巡り歩いて、「駿河の国」の「福慈」の神ところに

至り宿を請うが、福慈の神は新嘗の物忌みを理由に、神祖の命の宿泊を

断ってしまう。神祖の尊は、「お前の山は冬も夏も雪や霜が降り、寒さ

が厳しく、人も登らず、供物を受けなくなるだろう(汝所居山、生涯之

極、冬夏雪霜、冷寒重襲、人民不登、飲食勿彙者)」という呪誼の言葉

を吐き、今度は筑波の神に宿を請う。筑波の神はこれを快諾し神祖の尊

を歓待する。その結果を『常陸国風土記』は「是を以て、福慈の岳は、

常に雪りて登臨ることを得ず。その筑波の岳は往き集ひ舞ひ飲み喫ふこ

と、今に至るまで絶えず」と記す。

 この記述に関して新編日本古典文学全集頭注は、「富士山に比して筑

波山の栄えをたたえる主題と、外者款待説話の構成という、本来無関係

な二要素を混成させた話」であるとし、「撰述者は外者款待や親孝行に

重点をおいた書きぶりをしたが、現地の伝承はもっと単純なお国自慢の

物語だったのではなかろうか」と推測する。新全集の頭注に概ね従う

が、常陸国に富士に対する認識が一般的なものとして存在していたとい

うことが、はたして言えるだろうか。

 『常陸国風土記』は、文字を持ちえたレヴェルの者が筆記したという

ことを忘れてはならない。新全集『風土記』の植垣氏の解説によれば、

『常陸国風土記』の編述者を国司・石川難波麻呂、介・春日老の二人か、

国司・藤原宇合とその部下であった高橋虫麻呂の二人かに充てる説があ

る。どちらを充てるにしても、編述者達は、都からこの地に訪れた者た

ちであることになる。そうなると都から東に下るその旅の途中で、撰述

老たちの目には富士がしっかりと映っていたはずである。もしかすると

この富士と筑波の説話は、そういった都の人間の意識が書かせた、とい

一 236一

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う可能性もあるのではなかろうか。

 しかしながら、常陸国に富士の言説がもともとから在したか、都から

下ってきた人間によって創作されたかはこの際あまり重要ではなく、

『常陸国風土記』という、王権とは距離を置く、いわば地誌というもの

に富士が表出しているということが、はるかに重要であろうと思われる。

 都良香(八三四-八七九)が著した「富士山記」(『本朝文粋』所収)

は富士について纏まった言及がなされたものの嗜矢といえるが、その一

部を抜粋してここに掲載する(原文は和様漢文体)。

 富士山は駿河國にあり。峰は削成の如く、直聾して天に属す。・

〈中略〉…貞観十七年十一月五日、吏民旧に傍りて祭を致す。日午に加

わりて天甚だ美晴。仰ぎて山峰を観れば、白衣美女二人ありて、舞ひ

て山の嶺上に双ぶ。贔を去ること一尺余、土人共に見る。…〈中略〉…

古老伝へ云はく、山を富士と名つくるは、郡の名を取りしなり。山に

神あり、浅間大神と名つく。

 この「富士山記」の中で特に注目されるのは富士の山容と、天女伝承

であるといえる。天女伝承といえば『駿河国風土記』逸文には、次のよ

うな話も見える。

 案に風土記に古老伝へて言く。昔神女有り。天降より来て、羽衣を

松の枝に曝す。漁人拾得て而之を見るに、其輕軟なること言ふべから

ずなり。所謂六鉄衣か。織女機中の物か。神女之を乞ふ。漁人与え

ず。神女天に上らんと欲して、而羽衣無し。是に於て、遂に漁人与え

て夫婦と為る。蓋し已ことを得さればなり。其の後一旦、女羽衣を取

りて雲に乗して而去る。其の漁人亦登仙すと云ふ。

 三保松原を舞台にした、いわゆる天人女房諌の一ヴァリアソトという

べき話である。このような型の天女伝承は全国的に流布しており、また

この逸文が林羅山(一五八三ー一六五七)の『本朝神社考』に記載され

ていること考えると、参考程度とするしかないが、この漁師が登ったと

いう「仙」を富士に結び付けたくなる誘惑にかられる。薬師寺の僧景戒

の著した仏教説話『日本霊異記』の、上巻二十八「孔雀王の究法を修持

し、異しき験力を得て、現に仙と作りて天に飛びし縁」には、修験の開

祖と仰がれる役行者が「夜は駿河の富砥の嶺に往きて」修行したとの記

事も見える。この『霊異記』の例でもわかるが、王朝期から中世にかけ

て、富士を修験の山や仙境として描いてゆく話-例えば大江匡房の「本

           (4)

朝神仙伝」や竹取説話群などーが多く見られるようになる。

 さて話を戻すが、『常陸国風土記』で富士の山は、神祖の尊が「汝所

居山、生涯之極、冬夏雪霜、冷寒重襲、人民不登、飲食勿彙」という呪

誼の言葉を吐いたことから、「是を以て、福慈の岳は、常に雪りて登臨

ることを得ず」という状態になったという。ところが「富士山記」の

「吏民旧に傍りて祭を致す」という記述を見れば、「吏民」によって「旧」

くから富士に対する祭りが営まれていたということが明らかである。も

ちろんこの富士という高山大嶽を三輪山のような神奈備とする訳にはい

かな転説・この記述は・後に修験や神仙思相お根源となるような・何か

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しら山岳信仰めいたものが古くから存していたことを窺わせるものであ

る。 

このように記・紀以外の文献では数こそ少ないものの、富士は確実に

表現されている。富士の今の山容が成立したのが約一万年前であるとい

われる。そういった長い歴史を持つコニーデ型の美しい山容は、古代人

の目にも捉えられていたことがこれらの記述から明白である。

4 『古事記』の東国

 さて遠回りをしてきたが、改めて『古事記』・『日本書紀』において富

士の記載が無いことを、その周辺の土地について言及した部分を取り上

げて考察する。ある特定の文献で語られないのであれば、そこには何か

しらの理由が存するはずである。

 『古事記』『日本書紀』のテクスト上で富士周辺に言及するのは、所謂

「ヤマトタケルの東伐」条であろう。まずは『古事記』の記述を見てゆく。

 故、ここに相武國に到りましし時、その國造詐りて白ししく、「こ

の野の中に大沼あり。この沼の中に住める神、甚道速振る神なり。」

とまをしき。ここにその神を看行はしに、その野に入りましき。ここ

にその國造、火をその野に著けき。故、欺かえぬと知らして、その嬢

倭比費命の給ひし嚢の口を解き開けて見たまへば、火打その裏にあり

き。ここにまつその御刀もちて草を苅り擾ひ、その火打出でて、向火

を著けて焼き退けて、還り出でて皆その國造等を切り滅して、すなは

ち火を著けて僥きたまひき。故、今に焼遣と謂ふ。

 タケルが国造に謀られ焼き討ちに遭った「焼遣(焼津)」は、富士の

山容が一望できる地点であるが、『古事記』には富土についての記述が

一切無い。またその「焼遣」のある場所を「相武國」、つまり相模国で

あるとし、駿河国であるとは言っていない。とすれば『古事記』中には、

富士および駿河国に関する記述は皆無であるといえる。

 ここで、駿河国を含む「東国」というものを考えるために、『古事記』

のヤマトタケル物語における東伐、西伐の差異を考えてみよう。この話

を二つの物語に分けて考えると、両者は著しく不均衡であるといえる。

              (6)

西伐は、長谷川政春氏が言うように、ヤマトヲグナからヤマトタケルへ

の成長・再生の旅であったといえるだろう。少年的な英雄から大人の英

雄への変身諌が西伐の主題であり、大国主の根国訪問のように成人儀礼

的な側面を有している。逆に、東伐はひたすらに死へと向かった旅であ

った。しかし、その不均衡の原因は、生(再生)の旅か死への旅かとい

う違い以上に、西があくまで人間を征服する話(クマソ・イズモタケル

の征伐)であるのに対して、東は神を討伐する話とされているところに

あるといえるだろう。景行天皇のヤマトタケルに対する勅を西伐、東伐

で比べてみるとそれらは明確である。

西伐…「西の方に熊曾建人二人あり。これ伏はず禮無き人等なり。

   故、その人等を取れ。」

東伐…「東の方十二道の荒ぶる神

   せ。」

、また伏はぬ人等を言向け和平

一238一

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 ヤマトの権力に抗するバルバロイを討伐に行くという明確な目的が、

東伐の勅命には感じられない。西伐と比べると、その具体性が甚だ希薄

であるといえる。

 ではヤマトタケルが勅命を受け、東伐で言向けようとした「東の方十

二道の荒ぶる神」とはいかなる神であったのか。飯田勇氏は『古事記』

                        (7)

の中に三種の神の系統があることを指摘し、次のように言う。

 周知のように『古事記』にあっては、「神代」から「人代」へと時

間が流れている。つまり『古事記』では「神代」の時間がそのまま

「人代」の時間に流れ込む仕掛けになっているのである。それゆえに、

「天つ神」や「国つ神」は、先に述べた神の性格から、「人代」では当

然人間として記述されてゆく。一方これに対して、「山河の荒ぶる神」

の系譜をひく神々は、「人代」にあっても決して人間とはならず、夢

や託宣などを通して、時あって人の世界に揺さ振りをかけてくる、よ

り始源的な神々なのであった。

 『古事記』を見ると、ヤマトタケルが西伐で切り伏せていくのは「国

つ神」由来の人間であるが、東伐で戦いを挑んでゆくのは、山の神や水

の神といった、飯田氏の言葉を借りれば「山河の荒ぶる神」である。タ

ケルが東で征伐してゆくのは、もちろん蝦夷の何某という具体的な人物

もそのような範疇に入るのであろうが、ここではより原初的な土地の霊

ともいえる神々であったと考えることも可能であろう。つまりタケルの

東伐は人を平らげる話ではなく、土地を呪的に平らげる話だったのでは

なかろうか。

 また、『古事記』の東国認識を考えるのに、「天語歌」というものも重

要になってくる。「天語歌」とは、雄略記に表される宮廷歌謡である。

その本質はいまだ詳らかではないが、この歌の古事記内部における取り

扱いは、宴席で雄略天皇に奉る杯に葉を落としたのを気づかなかったウ

ネメが、天皇の怒りに触れ処刑されそうになったとき、歌を詠うことに

よって逃れたという話で、そのウネメの歌に、大后、天皇が共に歌った

二首を加えたものが今に伝わる天語歌になったという。それら天語歌の

なかで特に最初の一首(大系『古代歌謡集』・一〇一番歌)であるウネ

メの歌を取り上げてここに示す。(傍線筆者)

 纒向の 日代の宮は 朝日の 日照る宮 夕日の 日がける宮 竹

の根の 根垂る宮木の根の 根蔓ふ宮 八百土よし い築きの宮

眞木さく 桧の御門新嘗屋に 生ひ立てる 百足る 槻が枝はH「

枝は 天を覆へり 中つ枝は 東を覆へり 下枝は 鄙を覆へり 上

枝の枝の末葉は 中つ枝に 落ち鰯らばへ 中つ枝の 枝の末葉は

下つ枝に 落ち燭らばへ 下枝の 枝の末葉は あり衣の 三重の子

が 指畢せる 瑞玉蓋に 浮きし脂 落ちなつさひ 水こをろこをう

に 是しも あやに恐し 高光る 日の御子 事の 語言も 是をば

               (8)

 この歌を、太田善麿氏の言うように『古事記』の文脈に即して考える

ならば、「天」を大和(都)と採るのが妥当と言えよう。ならば「鄙」

                へな

とは何か。『上代語辞典』によれば、「隔」の転であり、都から隔たった

一239一

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地方、いなか、を指す言葉であるという。東も西も同様に都から遠ざか

っているが、この歌では「東」という語が、「鄙」と明確に区別されて

掲げられている。そういうところからこの歌の世界観を理解しようとす

るのであれば、「鄙」という語には当然西という概念が含まれるであろ

う。太田氏はこの「鄙」を『万葉集』所載の山上憶良の歌(巻五・八八

〇)などから推量し、「東」に相対する西の地方とするに妥当性がある

としているが、西という一地方に限ってしまうのは問題がある。もし太

田氏の言うように、「鄙」を完全なる「西」の地方と限るのであるなら

ば、何故わさわさ西を表すのに「鄙」という語を使用する必要があるの

か。そういう問題が出てくる。

 ここでいう「鄙」とは、「東」に相対する語ではなく「天」に相対す

る語と理解すべきであろう。つまり都からは隔たっているが支配領域と

して認定され得る地域、と考えるべきではなかろうか。そしてそれは、

この時代にはかなり西に偏ったものであった、と考えるほうがより穏当

であろう。『古事記』では、ヤマト王権は日向国⊥局千穂峰に興り東遷

してきたことになっている。つまり、王権にとっては「東」とは当然こ

れから漸次支配に向かう方角であったといえる。そうした王権の意識か

ら考えても、「東」という語は一方角を越えた、「天」「鄙」二つに相対

する語としたほうが自然であり、「鄙」ように支配の手が行き届いては

いない、王土化途上地域と解すべきではなかろうか。

 ここまで述べてきたことを纏めると、『古事記』の東国認識はかなり

曖昧なものであった、ということが言える。前述のヤマトタケル巡行説

話に於いて、駿河の焼津を「相武国」として、その在所を混同してしま

うあたりは、それを端的に示している。『古事記』は尾張以東の土地を、

バルバロイが践雇しているどころか、その前段階である「山河の荒ぶる

神」が未だに調伏されていない土地であると認識していた、と考えられ

る。つまりそこは『古事記』にとっては化外の土地であり、まだまだ完

全に手中に収められた土地ではなかった、と言うことが可能なのではな

かろうか。

   5 『日本書紀』の富士周辺記事

 次に『日本書紀』のヤマトタケル東国巡行であるが、『古事記』との

照応箇所は次のように記される。

 是歳、日本武尊、初めて駿河に至る。其の庭の賊、陽り從ひて、欺

きて日さく、「是の野に、廉鹿甚だ多し。氣は朝霧の如く、足は茂林

の如し。臨して狩りたまへ」とまうす。日本武尊、其の言を信けたま

ひて、野の中に入りて覚獣したまふ。賊、王を殺さむといふ情有りて

王とは、日本武尊を謂ふぞ。其の野に放火僥。王、欺かれぬと知しめ

して、則ち燧を以て火を出して、向焼けて免るること得たまふ。 一に

云はく、王の所侃せる劒、叢雲、自ら抽けて、王の傍の草を薙ぎ撰

ふ。是に因りて免るること得たまふ。故、其の劒を號けて草薙と日ふ

といふ。叢雲、此をば茂羅玖毛と云ふ。王の曰はく、「殆に欺かれぬ」

とのたまふ。則ち悉に其の賊衆を焚きて滅しつ。故、其の庭を號けて

焼津と日ふ。

一240 一

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 もちろんこの巡行の道程にも富士は現れないのであるが、『古事記』

の記述との細かな差異が見られる。まず、タケルが焼き討ちにあった場

を明確に「駿河」であるとしていることが挙げられる。また、国造がタ

ケルを騙す内容にも差異がある。『古事記』では、タケルは国造に「こ

の野には荒ぶる神がいる」と騙されるのだが、書紀では「この野に鹿が

いるので狩をなさい」といって騙される。『古事記』のヤマトタケル巡

行の段全体との比較すると、景行天皇はタケルに「暴ぶる神」や「姦し

き鬼」の平定を詔して討伐に向かわせるが、書紀のタケル東伐段は神の

調伏よりも、主に蝦夷という化外の民の平定を主題としている。神の平

定から、人の平定という物語の変化が、この騙しの内容、つまり神の調

伏から鹿狩りへ、と変化させたのではなかろうか、と考えることができ

よう。

 さて、『日本書紀』のヤマトタケル巡行にも富士は現れなかったが、

「不壷河(フジガハ)」というものは書紀の中に現れる。この「不壼河」

は、富士山をその水源として流れを作る河川である、と言われる。『駿

河国風土記』逸文には「風土記に云、國に富士河在、其水きはめてたけ

く疾し。」と記されているのであるが、その河川に関する記事が皇極紀

に見られる。

 秋七月に、東國の不蓋河の邊の人大生部多、轟祭ることを村里の人

に勧めて曰はく、「此は常世の神なり。此の神を祭る老は、富と壽と

を致す」といふ。巫蜆等、遂に詐きて、神語に託せて曰はく、「常世

の神を祭らば、貧しき人は富を致し、老いたる人は還りて少ゆ」とい

ふ。…〈中略〉…是に、葛野の秦造河勝、民の惑はさるるを悪みて、

生部多を打つ。其の巫蜆等、恐りて勧め祭ることを休む。

 駿河国の不壷河辺に住む、大生部多という人物が「常世の神」と称す

る「贔」を祭っていた、という記事である。しかし大生部多は、民を惑

わしたとの理由で秦河勝に諌され、その後この信仰も衰退したという。

 これは一種の新興宗教の興隆と衰亡の記事であると読める。ここで

「不壷河」の名称は、大生部多という人物の来歴を示すために用いられ

ただけであるので、文脈上「富士山」が出てこなくても仕方がない。

 『日本書紀』には富士に関する記述がこれ以上見つからないので、今

度は「駿河」と明確に記されている記述を探してみる。まずは安閑紀二

年五月条中に見える。(傍点筆者・以下同)

 五月の丙午の朔甲寅に、筑紫の穗波屯倉・鎌屯倉、豊國の縢碕屯

倉・桑原屯倉・肝等屯倉・大抜屯倉・我鹿屯倉、火國の春日部屯倉、

播磨國の越部屯倉・牛鹿屯倉、備後國の後城屯倉・多禰屯倉・來履屯

倉・葉稚屯倉・河音屯倉、姻郷國の謄殖屯倉・謄年部屯倉、阿波國の

春日部屯倉、紀國の経瑞屯倉・河邊屯倉、丹波國の蘇斯岐屯倉、近江

國の葦浦屯倉、尾張國の間敷屯倉・入鹿屯倉、上毛野國の緑野屯倉、

駿河國の稚贅屯倉を置く。

 屯倉が各国に設置されたことを示す記事であるが、屯倉とは大化前代

における朝廷直轄の農業経営地、あるいは直轄領であると解されてお

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り、大系本『日本書紀』補注によれば、「初期の屯倉は主として中央の

経済力を飛躍的に充実させ、後期のものは部の発展と相侯って、朝廷の

基盤を地方に拡大し、国造以下の地方勢力をより中央に従属させる役割

を果たした」とされる。ここで挙げられた駿河の稚賛屯倉であるが、今

の静岡県吉原市付近にとりあえず比定されているが、詳らかではない。

 斉明紀六年の「是年」条には、次のような記述も見つかる。

 是歳、百濟の爲に、將に新羅を伐たむと欲して、乃ち駿河國に勅し

て船を造らしむ。已に詑りて、績麻郊に挽き至る時に、其の船、夜中

に故も無くして、櫨舳相反れり。衆終に敗れむことを知りぬ。

 右記は、駿河国に詔して、百済救援軍を朝鮮半島に派遣するための船

作りをさせたということを示す記事である。しかしその船を伊勢国に運

んだところ、夜中に理由も無く船の舳先が反ってしまうという怪異現象

が起こったという。つまりこれは、この百済救援の派兵が失敗に終る予

兆である、というのだ。なぜ造船が駿河國に委託されたか、書紀は詳し

くは述べていないのだが、応神紀五年条に次のような話がある。

 冬十月に、伊豆國に科せて、船を造らしむ。長さ十丈。船既に成り

ぬ。試に海に浮く。便ち輕く涯びて疾く行くこと馳るが如し。故、其

の船を名けて枯野と日ふ。船の輕く疾きに由りて、枯野と名くるは、

是義違へり。若しは輕野と謂へるを、後人誰れるか。

 いわゆる「枯野の船」という伝承である。「枯野」という名前の船は

『古事記』にも登場する。ただ『古事記』は、船は河内国の大木を使っ

て製造された、としているが、この書紀の記述は、話の舞台を伊豆国と

しており、はるか東国に移動させている。ここで畿内ではなく東国に詔

を発し、それを受けた伊豆国が舟を製作したということは、つまりそう

いった命令が伝達され、それに服従しなくてはならないという中央/伊

豆国(東国)の関係が、書紀のテクスト内で出来上がっていたことを物

語っているといえる。それが史実かどうかは関係なく、『古事記』と

『日本書記』の東国に対する意識に、温度差のようなものがあったと想

像することは難くない。

 『古事記』と比べたとき、『日本書紀』の東国言及の多様さは、王権の

東国を見つめる視点が精密さを増したことを物語っている。つまり、書

紀には『古事記』よりも明確に東国というものを自分の版図に組み込も

うとする意図があった、と言うことが出来るのではなかろうか。しか

し、それでも王権のテクストは富士を描こうとはしない。

6

「浅間」という呼称と東国意識の変化

 『古事記』『日本書紀』から時代が下ると、まばらであるが史書類にも

「富士」や「浅間」という語が姿を現し始める。

 ところで、先述の「富士山記」にも「山に神あり、浅間大神と名つく」

とあったが、この「浅間」という語は一体何なのだろうか。古代に於い

ては、『常陸国風土記』の表記に表れるように、「フジ(フシ・フチ・フ

ヂ)」という名が成立している。これに「浅間」という名称が附加され

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た意味は何であろうか。

 「浅間」の字義に関しては様々な観点からの解釈が存在する。その解

            (9)

釈の主なものを遠藤秀男氏の論から抽出すると、1、富士山と浅間山と

は、両部一体の山であるいう説、2、摂末社に朝熊神社というのがあ

る。その称(アサクマ)が縮まってアサマになったという説、3、浅間、

浅見、浅虫、熱海、阿蘇など同音を持つ地が、いずれも火山や温泉に関

係したところである。これは南洋方面のアソ(煙・湯気)という語と関

係があり、アイヌ語では燃える岩、噴火口という意味を持っている、と

いう三つの説が代表的なところである。

 遠藤氏は3の説を援用しながら、「「浅間」は荒ぶる火の神であり「浅

間神社」はこれを奉斎する神社であり「富士浅間宮」というのは富士山

の祭神である浅間大神を祀る神社という意味だと考えてよいだろう」と

いう。また氏は、「浅間」を富士の山に対する敬名であるとは考えず、

「浅間神または浅間明神なるものは、山霊そのものであり、その霊を祀

った祠堂であったろう」と推測する。「浅間」とは、遠藤氏の言われる

ように「荒ぶる火の神」とするのに蓋然性があるだろう。しかしながら

氏の説では、何故「浅間」という名称が富士山に冠せられていったのか、

ということに関しては不明瞭である。

 このことを考えるために、富士について言及されている歴史的叙述を

実際に見てゆくこととする。年代順に列挙したものを次に掲げる。(括

弧内筆者注)

A・天鷹元年(七八一)七月癸亥、駿河國言、富士山下雨灰、灰之所

 及木葉彫萎…(続日本紀 三六 光仁)

B・仁寿三年(八五三)七月甲午(五日)。以駿河國浅間神、頂於名

 神。(文徳実録)

C・壬寅(=二日)。徳加駿河國浅間大神従三位。(文徳実録 仁寿三

 年七月条)

D・貞観元(八五九)年正月廿七日、授従三位浅間神正三位(三代実

 録)

E・廿五日庚戌…駿河國言、富士郡正三位浅間大神大山火…(三代実

 録 貞観六年(八六四)五月条)

F・十七日辛丑、甲斐國言、駿河國富士山大山忽有暴火…(三代実録

 貞観六 七月条)

G・五日己未。下知甲斐國司云。駿河國富士山火。彼国言上。…(三

 代実録 貞観六年八月条)

 『続日本紀』(七九七年成立)から『三代実録』(九〇一年成立)まで

に右記のような記述が見られる。史書に富士が表れるのは、右記のよう

に『続日本紀』の天鷹元年条からである。それから約七十年後の『日本

文徳天皇実録』(八七八年成立)仁寿三年条では、「富土」の名称は消え、

初めて「浅間」の名が表れる。この『文徳実録』では富士は一応「浅間」

という呼称に統一されているが、『三代実録』になると「浅間大神大山」

「富士山大山」「富士山」と記述が統一されない。他にも「浅間神」「浅

間明神」などの記述も見られ、各文献間には表記の揺れが存在する。と

りあえず、この表記の揺れから、時代によって「富士」から「浅間」へ

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と名称が変遷したとは言い得ない。

 そこで注目しなくてはならないのが、BおよびCと他の記事との位相

差である。B、Cは富士の浅間大神に朝廷が位を授けた、という記事で

あるが、その他の記事は、富士周辺諸国の国司が富士が噴火したことを

朝廷に報告している記事である。というのであれば、階位の昇進記事は

中央の視点に立って書かれた文言である。逆にその他の文章は、国司か

らの報告という所謂国司側からの文言であり、いわば地方側の視点に立

っていると言いえる。つまり富士という山を捉える視点に、「中央」・

「地方」という差があるのだ。これらの記述のみから言える事を整理し

ていうならば、七〇〇年代終わりから八〇〇年代の中ごろまでに、富士

を示す呼称として「浅間」という語が中央の意識の中で生成された、と

いうことである。もっと言ってしまえば、浅間という名称は、富士に神

格を与える際に中央側から与えられた名称ではないか、と推測すること

も可能であろう。

 この想像に示唆を与えるのが、浅間神の神位の急激な上昇である。名

神とされた八五三年に従三位を授かり、そしてその僅か六年後の八五九

年に正三位を授かっている。この異例な神格の上昇は、もちろん噴火と

言う事実が背後にあり、神格を上げることによって怒れる火山の沈静化

を祈ったのであろうという推測も成り立つが、恐らくそれだけではない

だろう。

 この「浅間」という語が見え始める八〇〇年代初頭から半ばというの

は、歴史的なことを言えば、ちょうど平安京に都が遷都し桓武天皇の治

世が行なわれた頃であり、東北経営を本格化し実質的な王権の全国支配

体制が強化されていった時代である。それは遣唐使の派遣などとも同様

の意識上にあるといえよう。つまり日本という国が、唐やその他周辺諸

国との交流のなかで、積極的に国家という意識をもち始めた頃だといっ

てもよい。そういった潮流は国内整備の必要性を王権に迫るものであっ

た。その証としてか、『弘仁格式』『内裏式』等の儀式・法制の整備が始

まるなど、律令制度というものが興隆した時期であった。その時代の中

で肥大化していったのが、この富士の山に坐す「浅間」という神ではな

かったのか。王権神話のテクストが省いてきた富士は、おそらくこの国

内整備のなかで浅間大神を祀るという形で吸収されていったのではなか

ろうか。王権が富士をその権力圏に取り込んだ結果、古代において一切

その姿を現さなかった富士が、俄かに注目され、史書の類にも現れるよ

うになったのだといえよう。

 もうひとつ、富士が表舞台に立つ例を挙げることができる。

 当時、唐という超大国との交流の狭間で、自土意識により対外的に遜

色のない人物として形成された一人の人間がいる。聖徳太子である。そ

の太子の伝説を纏めた『上宮聖徳法王帝説』が、この頃に制作されたと

いわれる。その『法王帝説』を補填する形で編集された『上宮聖徳太子

伝補闘記』(時代が確定しないが八~一〇世紀初頭に成立とされる)に

は、次のような文章が表れる。

 太子所念、威預識之、如太子馬、其毛烏斑、

能錺四足、東登輔時岳、三日而還、…。

太子駅之、凌空賑雲、

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右記は、聖徳太子が馬に乗って富士登山をしたということを記す。つま

り、聖徳太子という国家を代表する人物をモチーフとした説話が、富士

            (10)

という山を回収してしまうのだ。これは国家が富士を吸収したというふ

うに言い換えが可能であろう。

7 結  語

 さて、富士及びその在地である駿河周辺の、古代文献内での取扱いを

ひととおり傭職してきた。

 実際に王権が東国というものをどのように扱い、支配の手を広げてい

ったのか、そういった史実とは微妙な位相差があるだろうが、『古事記』

は明らかに東国地方の地理を観念的にしか把握していなかったといえ

る。それに対し、『日本書紀』はそれなりに東国に対する認識が向上し

ていたことが、駿河国に屯倉を設置したという記事などからわかる。そ

れは駿河地方というものが王権の領土と見なされたことを示しているの

ではなかろうか。しかし、先述した「富士河」のように、その在所を駿

河ではなく「東國」としてしまうような部分には、その認識の暖昧さが

みてとれる。

 駿河地方の取り扱いにおいて、『古事記』『日本書紀』間での差異1

『古事記』には駿河という地名すら表れないのに対し、『日本書紀』はま

ばらながら駿河地方に言及してゆくーがどうして起こるのかは、『古事

記』編纂というものが所謂天皇家という強大な家筋の歴史・伝承の集大

成であり、稗田阿礼といった語部の語りを中心としたものであったのに

対して、『日本書紀』編纂が、『風土記』等の地誌を踏まえた国家規模の

一大事業であった、という両者の成立の違いによるものなのではなかろ

うか。しかしそれでも、『日本書紀』は富士を描かない。これはそうい

った両老の差異が根底では同質の意識、つまり駿河国はいまだ王権の塒

外の地域である、という意識に支えられているからではなかろうか。そ

の圧倒的な高さといい、美しい山容といい、もしそのようなものを己が

権力に取り入れるならば、積極的に描いても良いはずである。しかし王

権はそれをしなかった。否、ここでは、まだ出来なかった、と考えるべ

きなのだろう。

 記・紀に続く『続日本紀』などからは、明確に富士という山が描かれ

ることになる。ここで、王権が駿河地方に根を下ろし、実質的支配を行

なったか否かといった事実検証は無意味である。重要なのは、王権が駿

河地方を掌握し、支配し、増外にあったものを版図に組み込もうとする

意識が文章の表層に表れた、ということなのである。外であったものを

内のものと「見なす」という行為が、それを可能にしたといってよい。

 また、古代において富士を描くのは、前章でも述べたように、旅をす

る宮廷歌人であったり、常陸の国といった王権から見て辺境にある地域

の伝承であったりする。それらは総じて周縁という性格をもつ。その周

縁のテクストを成り立たせた彼等は、富士という高山が存在しているこ

とを知っていた。だから彼等の内にある、富士に対する純粋な驚き、敬

意などを素直に表現し得たのだろう。しかしその当時、歌の形式を知

り、文字を持ち得たレヴェルの人間がそれらを描くということは、王権

の周縁にありつつも、同時に王権の要請を受けていることを示す。旅路

で詠まれる土地賛美の歌、各国の地誌・伝説は、王権にとって全国支配

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のための恰好の情報源となる。それらが反映され王権の文献内部に浸透

してゆくのが、ちょうど七〇〇年代末葉だった、といえるのではなかろ

うか。

 これは少々余談となるが、坂上田村麻呂などで有名な征夷大使という

官名がある。この「夷(エミシ)を征伐する大使」という意味の官命が

成立するのは、延暦十二年(七九三)である。旧来の名称は「征東大使」

であり、討つべきは「東」であったのだ。それが、討つべきは「蝦夷」

である、と意識の変革がなされたことによる改称であると考えられる。

つまりそれは、「東国」という場所自体が、すでに王権に反抗する者た

ちの践唇する場ではなくなった、という王権の意識を明示しているとい

ってよいだろう。そしてその官職名変更の時期が、富士が史書への表出

する時期や、平安京という新都が築かれた時期に重なっているのは偶然

ではあるまい。それら全ては、「新しい国家の創造」という意識のもと

になされた事柄であったろうと思われる。

注(1) 折口信夫全集(中央公論社)巻一「叙景詩の発生」参照。

(2) 土橋寛『古代歌謡と儀礼の研究』(岩波書店 一九六五)参照。

(3) 伊藤博『萬葉集繹注』(集英社 一九九六)巻二に詳しい。

(4) 中世における竹取説話群と富士浅間信仰との結びつきに関しては、皆川

  陽子氏が「竹取説話群における〈乗馬里説話〉の位相」(神語り研究編集

  委員会編『神語り研究 第一号』春秋社 一九八七)で詳細に論じている。

(5) 大場磐雄氏は『まつり』(学生社 一九六七)の中で、「神奈備」を次の

  三つの特徴をもって規定する。1、山容が共通していること(円錐形また

  は笠形した弧峯の小山)2、集落に近い平野に饗えていること 3、古来

  の大社が山麓に鎮座していること。これらの条件から類推すると、富士が

  山岳崇拝の対象とはなるが、標高が高すぎること、富士を祭神とする浅間

  神社が古来の大社かどうか不明なことなどから、「神奈備」とはならない

  ことが言える。

(6) 長谷川政春『〈境界〉からの発想ー旅の文学・恋の文学ー』(新典社 一

  九八九)の「『古事記』・ヤマトタケル伝承の旅」参照。

(7) 飯田勇「『古事記』の表現に関する覚書1『古事記』の神々」(斎藤英喜

  編『日本神話 その構造と生成』有精堂 一九九五 所収)参照。

(8) 太田善麿『古代日本文学思潮論(皿)ー古事記の考察1』(桜楓社出版

  一九六二)第四章「古事記の歌謡詞章」参照。

(9) 遠藤秀男「富土山信仰の発生と浅間信仰の成立」(平野栄次編 民衆宗

  教史叢書『富士浅間信仰』雄山閣出版 一九八七 所収)

(10) 聖徳太子の富士登岳説話の変遷に関しては、久野俊彦「聖徳太子の富士

  登岳説話の成立と地域展開」(中野猛編『説話と伝承と略縁起』新典社

  一九九六 所収)に詳しい。

 〈主要参考文献〉

井野辺茂雄『富士の歴史』名著出版 一九七三(浅間神社社務所編「富士の研究」

 1)

宮地直一・広野三郎『浅間神社の歴史』名著出版 一九七三(浅間神社社務所編

 「富士の研究」2)

井野辺茂雄『富士の信仰』名著出版 一九七三(浅間神社社務所編「富士の研究」

 3)

平野栄次編 民衆宗教史叢書『富士浅間信仰』雄山閣出版 一九八七

石母田正『神話と文学』岩波書店(岩波現代文庫)二〇〇〇

大久保廣行「旅と東国」(上代文学会編『万葉の東国』笠間書院 一九九〇所収)

高橋富雄『古代蝦夷を考える』吉川弘文館 一九九一

多田元「「天語歌」の位相」(古事記学会編『古事記の歌』高科書店 一九九四

 所収)

 〈本文引用〉

『古事記 祝詞』『日本書紀』『万葉集』『古代歌謡集』

(「

坙{古典文学大系」岩波

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書店)『風土記』(新編「日本古典文学全集」小学館)『日本霊異記』(多田一臣校

注「ちくま学芸文庫」筑摩書房)『本朝文粋』(「新日本古典文学大系」岩波書店)

『続日本紀』『日本文徳天皇実録』『三代実録』(「新訂増補国史大系」吉川弘文館)

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