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Title カントにおける自己関係性と物自体のアポリア -二重触発の問題-

Author(s) 井上, 義彦

Citation 長崎大学教養部紀要. 人文科学篇. 1989, 30(1), p.1-30

Issue Date 1989-07

URL http://hdl.handle.net/10069/15256

Right

NAOSITE: Nagasaki University's Academic Output SITE

http://naosite.lb.nagasaki-u.ac.jp

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長崎大学教養部紀要(人文科学篇) 第30巻 第1号 1-30 (1989年7月)

カントにおける自己関係性と物自体のアポリア

-二重触発の問題-

井上義彦

Die Selbstbezuglichkeit und die Aporie

der Dinge an sich bei Kant.

-Problem der doppelten Affektion-

Yoshihiko INOUE

第一部内感のパラドックス

§1内感のアポリア

カントは、 「如何にして思惟する私が、自己を直観する私と異なっていて、し

かもこれと同じ主観として同一であるのか」 (B(1)155)という問題を、 「パラド

ックス」 (B152)と捉えて、論及する。そしてこの問題に答えることは、 「如何

にして私が私自身に対して一般に一個の客観たりうるのか、しかも私自身の直観

と内的知覚の客観たりうるのか」 (B156)という問題に答えるのと同断である

と言う。

我々は、以後このパラドックスを「内感のパラドックス」と呼ぶ。このパラドッ

クスの問題構造は明らかである。主観(認識主体)として認識する私は、客観と

して認識される私と異なり、しかもそれでいて両者の私は同じ私(同一の主観)

として同一なのである。換言すると、認識する私は、認識主観としての私そのも

の(超越論的自我)を対象化できず、従って認識できず、対象化され認識されう

る私(客体我)は、その現象的形態としての経験的自我なのである。

カントが、かかる事態をパラドックスとして把捉したのは、大きな卓見である

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2 井上義彦

といえる。なぜなら、自己意識(SelbstbewuBtsein)がかかるパラドックスを

惹起せしめるような存在構造を有することを、カントが初めて指摘したといえる

からである。これまでも、自己意識を骨子とする観念論的哲学は、デカルト以来

うすうす自己意識の示す奇妙なパラドキシカルな性格に気付いてきた。しかし自

己意識の有するパラドックス性を明確に指摘したのは、ここでのカントを以って

噂矢とすると言える。カントは言う。 「それがどうしてそんなに難問たりうるの

か、私には分らない。注意という作用(Aktus der Aufmerksamkeit)はすべ

てこれについての例証を我々に与えうるのである」 (B156-'7)ここの文脈

では、注意の作用は自己自身による内感の触発(daB der innere Sinn von uns

selbst affiziert werde.)における作用であり、意識の指向性としては、自己自

身を指向する内省的な注意作用という自己意識になっている。従って、自己意識

は反省において、常に自己遡及的に自己を対象化しようとする意識の構造を示す

ことになる。そしてその際、重要なことは、対象化されて意識されているノエマ

的な自己(経験的自我)が、これを対象化しているノエシス的な自己意識(超越

論的自我)とは同一の主観に属するものとしては存在的に同一であっても、存在

論的には異なることである。

超越論的自我としての自己意識は、超越論的な認識主体として、それ自身決し

て対象化されえない。時間・空間的に対象化されうるのは、それの経験的な現象

的形態としての経験的な自己意識である。 「あらゆる経験的意識は、すべての特

殊な経験に先立つ超越論的意識、即ち根源的統覚としての、私自身の意識に必然

的に関係する。従って、私の認識においてあらゆる意識が一つの意識(私自身と

いう)に属していることは、端的に必然的である」 (A117)c超趨論的自己(患

識)と経験的自己(意識)とは相異なる、即ち存在論的な差異がある。しかし今

引用したコンテキストが示すように、経験的自己意識は超越論的自己意識に必然

的に-つの意識として所属するように、同じ私の意識として必然的に統一される

のである。そして言うまでもなく、ここに、内感のパラドックスが生起する所以

もあるのである。

超越論的な自己と経験的な自己とが存在論的に異なることを自覚している時に

は、パラドックスは生起しない。しかし両者が同じ私の意識として、同一である

とされると、そこにパラドックスが発生するのである。従って、カントによれば、

同じ自己意識として、経験的な自己(意識)は根源的に超越論的な自己(意識)

の下に成立しているが、両者を混同してはならないと主張する。両者を混同して

同一視するところに、パラドックスが生ずる所以がある。それ故に、パラドック

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カントにおける自己関係性と物自体のアポリア 3

スが生ずるのは、 「内感と統覚の能力とが(両者を我々は慎重に区別するのであ

るが)心理学の体系において、好んで同じもののように言いふらされるのが常で

ある」 (B153)そのときである。経験的な(自己)意識は、 「通常内感と呼ばれ、

あるいは経験的統覚と名づけられる」 (AI07)他方統覚とは、 「あらゆる経験

に先立って存し、経験そのものを可能ならしめる制約」 (AI07)としての超越

論的な自己意識である。

従って、自己意識において、内感と統覚、経験的統覚と超越論的統覚を明確に

区別しておけば、パラドックスは生じない。両者を混同するときに、パラドック

スが生起することになる。

内感は経験的統覚として境象であり、統覚は超越論的統覚として物自体である。

物自体はそのままの生の形では時間空間的な経験の野に出現できない。立ち現わ

れ出たのはそれの現象形態としての経験的な物である。だから内感のパラドック

スは、この両者、即ち現象的自己(経験的自己)と物自体的自己(超越論的自己)

を混同し同一視するところに、生起するのである。

ところで、内感のパラドックスを回避するために、両者を区別・識別すること

は、カントにとって当然の帰結であるOなぜなら、同一物が現象と物自体という

二重の存在性格を有することに立脚するのが、カントの批判的業績の一つである

からである。このカントの考え方は、以後の我々の立論の重要な論拠であるが、

従来これほど重大な論点がややもすれば見落されがちであり、そのために誤解に

満ちた解釈がなされてきたのは意外である。

カントは言う- 「 〔同一の〕客観を現象と物自体そのものとの二重の意味に

(in zweierlei Bedeutung)解することを教える点において、批判が誤っていな

いならば、 ・・・-」 (bxxvh)あるいは、経験の対象として認識する「同一の

対象をこの際物自体そのものとしても-認識できなくとも少なくとも-思惟

することができなければならない、ということが依然として保留されている」

(BXXVI)更に「我々の批判によって設定された、経験の対象としての物と、

物自体そのものとしての物との必然的区別が全然なされなかったと想定してみよ

う、云々」 (BXXYH)かかるカントの言から、同一物が現象と物自体という

二重の存在性格を有することは明らかであろう。

すると、同一物としての同一の自己意識に二重の存在性格、即ち現象的な経験

的自己意識と物自体的な超越論的自己意識を識別、区別することは、批判哲学的

な論点として留意されるべきことである。

そしてもうーっ忘れてならないことは、かかる内感のパラドックスが意識を土

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4 井上義彦

台とする観念論的哲学に同様のパラドックスを惹起せしめることをカントが認識

していたことである。 「この場合、あらゆる難点はもっぱら、如何にして主観が

自己自身を内的に直観しうるかにかかっている。しかしこの難点はあらゆる理説

にも共通のものである」(B68)c確かに、デカルト、フィヒテ、ヘーゲル、フ

ッサールなどに、我々は共通の難点を見出すのである。

.要するに、視点を変えると「一般に客観を認識するために前提されるものは、

それ自身客観として認識することはできない」 (A402)。従って「規定する自我

(考える働き)と規定される自我(考える主観)とが区別されることは極めて明

瞭である」 (A402)。

s2自己関係性

内感のパラドックスに関連して、次に論ずべき重要な問題は、自己意識に関す

るカントのこの捉え方が、今日の哲学用語でいう、 「自己関係性」 (Selbstbezug-

1ichkeit, Selbstverh云Itnis )の概念を指示していることである。

「自己関係性」とは、平たくいえば自己言及的な命題や自己意識の在り方に見

られるような、自己指示的な自己遡及的な意味構造における存在関係性(2JL」あるO

一般に、意味論的なパラドックス、例えば「「すべてのクレタ島人は嘘っきだ」、

とあるクレタ島人が言った」という周知の「嘘っきのパラドックス」 、あるいは

「「短い」は短いが、 「長い」は長くない」に見られる、前者のオートロジカル

(autological、自己述語的)とちがい、後者のヘテロロジカル(heterological、

非自己述語的)な関係におけるパラドックスは、自己言及的な意味構造という自

己関係性がパラドックスを惹起せしめていることは明らかであろう。

論理的なパラドックスを論理学的に初めて解決したラッセルの「タイプ・セオ

リー」 (階型理論)とは、単純にいえば、述語の間に一定のタイプの階層を設定

して、各階層の型(タイプ)を区別し、このタイプに合致しないような命題を無

意味とするという考え方である。それは、更に意味論的パラドックスを解決する

ために、述語タイプに位階の順序をつける考え方に発展した。一言注意しておけ

ば、我々がここでラッセルに言及するのは、ラッセルのタイプ・セオリーの正確

な理解や紹介を意図しているのではなくして、パラドックスを解くラッセルの考

え方が、内感のパラドックスを解いたカントの考え方に発想の本質において驚く

ほど類似していることに注意を喚起したかったのである。それは、重ねていえば、

自己関係性に基づくパラドックスに対する共通な洞察である。ラッセルは、ヴィ

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カントにおける自己関係性と物自体のアポリア 5

トゲンシュタインの『論理哲学論考』に寄せた序文の中で、言語のレベルの区別

の必要性について提言している。 「以上の困難は、あるいはこう考えれば解決で

きるかもしれない、という気が私にはする。どの言語も、ヴィトゲンシュタイン

氏のいうように、その言語の内部では何に一つ語りえないような構造をもつ。だ

が、この最初の言語の構造を扱う、それ自身ある新しい構造をもつ別の言語が存

在しても差しつかえあるまい。そして言語のこの階層には、限界がなくてもよい

であろう(3)iこの言語のレベルの区別というラッセルの着眼点は、タルスキー

などによって発展させられて、意味論的パラドックスの解消のための決定的な論

理になったとされている。そのために、ラッセル自身の『プリンキピア・マテマ

ティカ(4)iで展開された複雑な分岐階型理論が不要のものになったのは、皮肉と

しか言いようがないが-0

いずれにしても、意味論的パラドックスを解決するためには、言語のレベルの

区別が肝要なのである。つまり、簡単にいえば対象を表わす対象言語と、この対

象言語について語るメタ言語とを区別することである。語られる言語は対象言語

であり、それについて語る言語はメタ言語である。両者を区別するために、対象

言語をかっこでくくって、メタ言語化する。例えば、魚は泳ぐ、とは言える。し

かし、 「魚」は泳ぐ、とは言えない。 「魚」は漢字である、 「魚」はさかなと読む、

ならよい。 「魚」はメタ言語なのである。

このように、意味論的パラドックスを避けるために重要なことは、同一文中の

対象言語とメタ言語とを混同せず、両者の言語のレベルの差異を明確に考慮に入

れることである。従って、前述のへテロロジカルなパラドックス( 「長い」は長

くない。 )や「嘘っきのパラドックス」 ( 「すべてのクレタ鳥人は嘘っきだ」 、

とあるクレタ鳥人が言った. )における意味論的パラドックスは、同一文中のか

っこを附された対象言語とそれについて語るメタ言語とを、同一文中にあるため

に意味的に同一次元の言語(同一階層の言語)として混同して、両者の言語のレ

ベルの存在論的差異を考慮に入れなかったところに、原因があるのである。

かかる意味論的パラドックスにおいても、明らかに内感のパラドックスと同じ

自己関係性の構造が見受けられるのである。同一文中にあるために、メタ言語化

されたはずの対象言語とメタ言語とを意味的に同一次元、同一位相(階層)にあ

る言語と解するとき、自己関係性の構造より、意味論的パラドックスが生起し、

そして対象化される対象言語と、それ自身は対象化されないメタ言語との、言語

レベルの存在論的差異を識別するとき、パラドックスは解消されるのである。

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6 井上義彦

$3自我の自己同一性

内感のパラドックスは、認識する自我が認識される自我と異なりながらも、

「しかもこれと同じ主観として同一である(das Ich, der ich denke, mit

diesem letzteren 〔 dem Ich, das sich selbst anschaut 〕 als dasselbe Subjekt

einerleisei) 」 (B155)と言えるとき、生起する。

では、如何にして両者の自我が「同じ主観として同一である」と言いうるので

あろうか。これは、自我の自己同一性の問題である。自我の自己同一性がなけれ

ば、そもそも内感のパラドックスも生起しえないのである。

カントは、自我の自己同一性の問題を大略三つの観点から論究していると言え

る。簡単に言えば、第-には、分析的命題として。第二には、総合的命題として。

第三には、誤謬推理(Paralogisme)として。

まず、第-の分析的命題の観点から見ていこう。結論を先取りして言えば、カ

ントの中心的な思想はここで示される。それによると、自我の自己同一性は「我

思う」の形式的同一性として分析的命題なのである。

さてカントによると、 「様々なる表象に伴う経験的意識はそれ自身離れ離れの

もので、主観の同一性とは無関係である」 (B133)それ故に、 「私が与えられ

た表象の多様を一つの意識に結合しうることによってのみ、これらの表象におけ

る意識の同一性そのものを表象しうるのである」 (B133)なぜなら、「我思う」

(Ich denke)は根源的統覚として、 「私のあらゆる表象に伴い」 (B131)ながら、

しかも「すべての私の意識において唯一で同一である」 (B132)ところの表象

であるから。だからこの「我思う」によって意識の統一は可能になるのである。

「私は表象の多様を一つの意識において包括しうることによってのみ、多様な表

象をすべて私の表象と名づける」 (B134) 。なぜなら、さもないと、私が意識

する表象の種類のあるだけ、それだけ多種多様な自我があることになろうから。

従って、 「私が直観において私に与えられる表象の多様に関して、同一なる自己

を意識している」 (B135)ことが可能になるのは、統覚の総合的統一によって

である。 「それに従ってのみ、私が私の表象を私の表象として同一の自我に帰し、

それ故それを一つの統覚において総合的に結合されるものとして≪我思う≫とい

う一般的表現によって統括しうる」 (B138)のである。従って、統覚による多

様の総合的統一において、意識の統一が可能になるのだが、逆に言えば、かかる

意識の統一を可能にする統覚即ち「我思う」は、あらゆる私の表象を私の表象と

して一つの意識に統括するものとして、 「必然的に数的に同一と考えられるべき

もの( das was notwendig als numerisch identisch vorgestellt werden soil )」

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カントにおける自己関係性と物自体のアポリア 7

(AI07)と言われている。それ故に「自己同一性(Identit五t seinerselbst)と

いう根源的必然的意識は、同時に概念による現象の必然的総合的統一の意識であ

る」 (AI08)c従って、自我の自己同一性は統覚あるいは「我思う」について形

式的に言われることであり、しかもそれは分析的命題とされるのである。 「統覚

の必然的統一という原則は、それ自身同一的であり、従って分析的命葛である」

(B134)かくして、自我の自己同一性が、 「我思う」の自己同一性であること

が明らかになった。

しかしながら、我々が今問題にしている自我の自己同一性とは、超越論的自我

と経験的自我との自己同一性、あるいは超越論的主観と経験的主観との主観の同

一性のことである。これは、明らかに「我思う」の形式的論理的同一性ではない。

これは主観(自我)の実質的客観的同⊥性になるはずである。その意味では、こ

れは分析的命題ではなくて、当然総合的命題になるべきものである。だがしかし、

かかる視点はカントに欠けていた。それどころか、後述するように、かかる視点

はまさにカントの論難する「誤謬推理」にはかならないのである。

次に第二の総合的命題の観点から見ると、自我の自己同一性は、本来二重の自

我の自己同一性として、あるいは二重の主観の自己同一性として、総合的命題と

考えられるべき問題である。ところがすでに述べたように、カントはこの間題を、

分析的命題として「我思う」の論理的同一性において捉えているのである。また

この間超を総合的命題として論じることは誤謬推理の一つであると論難するので

ある。ここでは、総合的命題として関係がある箇所を手掛りに簡単に考察しよう。

カントは『人間学』において、 「人間の自我はなるほど形式(表象様式)の上

からは二重であるが、実質(内容)から言えばそうではない(5)」と言い、更に

「心性の内的な種々の変化にも拘らず、かかる変化を意識する人間は、自己が全

く同一の人間(心の上から)であると言いうるかどうか、という問いは不条理な

問い(eine ungereimteFrage)である。なぜなら、そうした変化を人間が意識

するのは、種々の異なる状態にいながらも、自己を同一の主観として表象するこ

とによってのみ可能だから(6)と言うo

カントは、前者では二重の自我の同一性を前提しながら、後者ではそれを問う

ことは「不条理な問い」であるとして否定している。カントは、自分の議論の自

己矛盾に気付いていないのである。次の文にも同じことが指摘できる0 「思惟す

る存在者としての自我は、感覚的存在者としての自我と同一の主観ではあるが、

内的経験的直観の客観としては、換言すると、私が時間における感覚から内的に

触発される限りにおいては、私は私を物自体としてではなく、私が私自身に現象

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8 井上義.彦

として現われるままに認識するにすぎない(7)」 。ここには、両方の自我、あるい

は両方の存在者の主観の同一性が無批判に前提されている。しかもこの主観の同

一性は、明らかにカントが誤謬推理として否定する客観的同一性である。では、

最後に第三の誤謬推理に移ることにしよう。

カントは、 「誤謬推理」の部分を第二版では全面的に書き改めた。そこで、両

版に即してそれぞれの要旨を検討することにしよう。

我々の問題としている自我の自己同一性は、両版共に三番目の「人格性の誤謬

推理」でなされている.第-版では、これは三段論法の形で提示されている。そ

れによると(A361) 、

異なった時間における自己自身の数的同一性を意識している者は、その限りに

おいて人格(Person)である。

しかるに心とはそういうものである。

故に、心は人格である。

カントによると、 「人格の同一性は、私自身の意識の内に不可避的に見出され

る」分析命題である。 「心の人格性は決して推論された命題と見なせず、時間に

おける自己意識の完全な同一的命題と見なさねばならない」 (A362),従って

「種々なる時間における私の自我の意識の同一性は、何ら私の主観の数的同一性

を証明するものではない」 (A363)cこの自我の意識の同一性は、私の思考の形

式的条件として「我思う」の論理的同一性( die logische Identitat )と同じもの

であり、 「そこからなお、私の自我の客観的持続性(die objective Beharト

Iichkeit meiner selbst)を推論することはできない」 (A363)とされる。

第二版の論証は、もっと短く簡明になっている。少し長いが、カントの核心的

な論証を引用する。 「私が意識しているすべての多様において、私自身の同一性

が存しているという(命題)は、概念自身の中に存する命題、従って分析的命題

である。私が主観を表象する場合常に意識しうるこの主観の同一性は、主観が、

それによって客観として与えられるところの主観の直観とは関わりはない。従っ

てまた、主観の同一性は、人格の同一性を意味することはできない。人格の同一

性とは、思惟する存在者としての実体であるところの主観自身が、状態のあらゆ

る変化の中にあって常に同一である、という意味だからである。しかし、人格の

同一性を証明するには、 「我思う」という命題を単に分析するだけでは達成され

ず、与えられた直観に基づくところの、種々なる総合判断が必要とされるであろ

う」 (B408-'9)。

両版の論述の顕著な相違は、 「人格の同一性」に対する取り扱いである.第-

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カントにおける自己関係性と物自体のアポリア 9

版では、それは分析的命題と考えられ、第二版では、それは総合的命題とされて

いる。しかしだからといって、両版の論述が変更しているわけではない。

両版に共通する論調は、 「我思う」という自我の論理的同一性から、直ちに自

我の客観的同一性を導出することはできず、導出できると考えるゐは誤謬推理を

犯すことになるということである。

合理的心理学は、 「我思う」という命題を唯一のテキストにして、そこから思

惟者の自我あるいは心を実体として捉え、それに基づいて不死性や単純性や同一

性などの規定を与える。カントの超越論的誤謬推理は、かかる合理的心理学の推

理が誤謬を犯すものであることを明らかにせんとするのである。しかしカントの

論議は、根本的には自我に対して実体というカテゴリーを適用したという誤りの

一事に尽きる。

要するに、我々の問題にしている自我の自己同一性は、 「我思う」の論理的同

一性の意味では可能であるが、二重の自我の自己同一性という自我の客観的同一

性の意味では不可能である。これは、心に実体のカテゴリーを適用しなければ証

明できないが、心に実体のカテゴリーを適用することは誤謬推理である。従って、

二重の主観の自己同一性は、論証できないのである。

この意味では、ストローソンの批判は正当である。 「経験的に自己意識的な主

観と超感性的な主観との同一性がいささかも解明されることなしに単純に前提さ

れている(8)こと、そして「カントはかかる主観の同「性の諸困難に打ち勝っこ

とに失敗しており、同一性について、思想や知覚の精神的歴史をもった人間と、

いかなる歴史も有さぬ超感性的存在者との間の連絡が、如何にしてなさるべきか

という問題からの支離滅裂以外の逃げ場(refuge)はない」のである。

第二部物自体と二重触発の問題

§1物自体のアポリア

カントは、空間と時間をパラレルに論証しているように、空間と時間をそれぞ

れの形式とする外感と内感とをパラレルに論じているQ.0これは、次の引用文から

明らかであろう。 「我々が外感の規定を空間において秩序づけるのと丁度同様に

して、内感の規定を時間における現象として秩序づけねばならないこと、従って、

もし我々が外感について、我々が外的に触発される( wir auBerlich affiziert

werden)限りにおいてのみ、外感によって我々が客観を認識するのであるとい

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10 井上義彦

うことを承認するならば、我々はまた内感についても、我々が内的に我々自身に

よって触発される( wir innerlich von uns selbst affiziert werden)ようにのみ、

我々自身を直観するということを承認せねばならない」 (B156)。

ここから明らかなように、空間と時間、及び外感と内感のパラレルな論究に対

応して、外的触発と内的触発が同様にパラレルに生起する所以が明確に教示され

ているのである。これは、我々の立論の重要な論拠になる。つまり、この場合、

第一部で論及したように、内感の方には内的触発に即応して「内感のパラドック

ス」が生起したように、もしこの両感のパラレリスムスがカントの示唆する如く

承認されるべきならば、逆に当然ながら我々は外感の方にも、外的触発に即応し

ていわば「外感のパラドックス」とも言うべきものが生ずるのではないかと推測

されうるからである。同一の私でありながら、認識する私は認識される私とは異

なるという「内感のパラドックス」に対応して、同一の対象でありながら、認識

される対象はそれ自体において存在している対象とは異なるという「外感のパラ

ドックス」が考えられるのである。かかる名称では別に呼ばなかったが、カント

はこうした事態を勿論考察していた。 「現象は単に物の表象にすぎず、物は、そ

れがそれ自体においては何でありうるかという面からは、認識されない存在であ

る」 (B164)cカントがことさら言及しなかったのは、かかるパラドックスは同

一物の二重の存在性格という批判哲学の見地から容易に解消されるものと理解し

ていたためかも知れない。しかし果してそうか。内感の場合、意識の自己関係性

の特性により明瞭にパラドックスが出弔した。その際、カントは認識する私(主

体我としての超趨論的自我)と認識される私(客体我としての経験的自我)との

自己同一性を「同じ主観として同一である」 (als dasselbe Subject einerlei sei )

と予じめ前提して、しかも自明なこととして論じているが、これは極めて問題で

ある。ここで語られている「同じ主観の同一性」とは、超越論的自我と経験的自

我という二様の自我の同一性である。これの認識は客観的同一性として総合的命

題になろう。ところが、カントはかかる同一主観の自己同一性を、第三誤謬推理

において論過として明断こ否定しているのである。カントの主張する自己同一性

とは、 「我思う」の形式的論理的同一性である。従ってそれは分析的命題である。

カント本来の立場に立てば、二重の自我が根本的には「同じ主観として同一であ

る」とは言えないのである。カント自身ここでは両方の自己同一性を混同して論

じているのである。従って「内感のパラドックス」は、今やばらばらになった二

重の私がどうして同一の私でありうるのかという「内感のアポリア」になってい

るのである。

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カントにおける自己関係性と物自体のアポリア ll

同じようなことが、やはりパラレルに外感、即ち外的触発において生じてきて

いる。それが「物自体のアポリア」である。

もう一度簡単に問題構造を説明すれば、内感の内的触発において、超越論的主

戟(物自体)としての私が、私自身を内的に触発し、内感を規定するという働き

を通して、私自身に現われる、ところが、この現われ出た私はもはや経額的な現

象的な私(経験的主観)であるが故に、超越論的主観としての私ではないことに

iサ

これとパラレルに外感の外的触発について述べると、物自体としての対象によっ

て、我々の心性は外的に触発され、対象が経験的に与えられる。なぜなら、 「対

象が我々に与えられるのは、対象がある仕方で我々の心性を触発することによっ

てのみ可能である」 (A19、 B33)から。だから、かく我々に与えられた対象は

それ自身我々にとっての現象であり、それがそれ自体においてあるがままの対象

(物自体)ではないということである。

このように、外感は内感の場合と同様の事態を生じている。内的触発において、

触発された私の根底に触発する超越論的な私(物自体)としての「我思う」が存

する。同じく外的触発において、我々を触発した結果与えられた対象(現象)の

根底に触発する超越論的な対象としての「物自体」が存する。 「我々がまさに同

じ対象(dieselben Gegenst瓦nde)を、物自体としてもまた、たとえそれを認識

できないにしても、やはり少なくとも思惟することができねばならないというこ

とが、ここに常に保留されている。なぜなら、さもないと、そこに現象するもの

が何もなくて現象が存する、などという不合理な命題がそこから生ずる結果とな

ろうから」 (bxxvi-xxvn)。ここで、カントははっきり物自体を想定して

いる。

従って、両者の場合に共通なアポリアは、物自体であり、物自体による触発

( Affektion )の問題である。

物自体のアポリアとは、要するに、物自体の想定を学説的に許容できるかとい

うことである。つまり、 「主観は対象によって触発されるという受容性をもつ」

(A26、 B42)c触発される受容性は感性である.しかるに、 「触発される」とは、

感性的経験的な因果関係である。カテゴリーの因果関係は「分析論」で時間、空

間的な経験現象に限定され、それを超えた使用は禁止された。すると、我々を触

発する対象は現象としての対象のみに限定され、現象の根底に存する物自体は経

験の野では語りえなくなる。ここに一言で言えば、ヤコーどの有名な言が出現す

る所以がある。 「私はかの〔物自体の〕前提なくしてはカントの体系に入りえず、

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12 井上義彦

この前提を以ってしてはカントの体系に留まりえぬ仙」。

この物自体のアポリアは、 「今までのところその困難解決に成功していないOBJ

難問とされているが、果たして解決困難なアポリアなのだろうか。

我々は暗黙の内に、物自体といえば外感の外的対象に限定して考えるのが常で

あるが、カントのパラレルな議論からも明らかなように、内感の内的触発におけ

る自我即ち「我思う」も一つの物自体なのである。これは決して見落されるべき

論点ではない。ヤコ-どの言をもじって言えば物自体としての「我思う」を前提

しては、カントの体系にとどまりえぬであろうか。もし「我思う」を否定すれば、

カントの体系は空無に帰するであろう。では、認識主観としての「我思う」は特

別であり、外的物自体とは異なるとすべきであろうか。カント自身にもそう考え

ている面があるのは否定できないが、カントは本来両者を同じように考えている。

カントは、前述したように「我思う」の論理的同一性をもとに考えているのだが、

結果的には「我思う」を物自体の位置に置いてしまった禦ヵントは、両者を経験

を可能にする超越論的な条件として、両者に共通な役割を「或る物一般」 (etwas

iiberhaupt) - Xとして把捉しているのである。

我々は、我々の心性を内と外から触発しつつ、現象として現われ出るものの根

拠を探究しようとして、かかる「或る物」を一般に超越論的主観と超越論的客観

として措定する。この或る物は、それ自身直観されえず、従って認識しえず、た

だ「Ⅹ」として措定されるだけである。 H.コ-エンは、これに関連して、こう

論述する. 「触発する主観を超越論的な或る物にして、そして直観された主観を

現象にする。かくして、今や我々は、かの命題、即ち内感が我々自身によって触

発されるということを人が難解だとする理由が私には分らない(B156)、を理

解できるのであるJ。従って「外的現象の基礎をなし、我々の感官を触発するこ

の或る物は、英知体として、もっと適切には超越論的対象として見られるもので

あるが、この或る物はまた同時に思考の主体になることができるであろう」 (A

358)cあるいは、「そもそも思惟するこの自我、彼、それ(物)によっては、思

想の超越論的主観-Ⅹ以外の何物も表象されない」 (A346、 B404 )。

一般的に言えば、 「我思う」たる統覚の統一において我々に成立する認識に対

応するものは、常に単に「或る物一般」 -Xとしてのみ思惟されねばならない

(AI04)cこの或る物一般は、主観の方にも、客観の方にも両方ともに当てはま

ることである。それ故、それは「非経験的、超越論的対象-Ⅹと名づけられうる」

(AI09)のである。超越論的対象は我々の認識において常に同一のⅩである

(AI09)c同じくあらゆる私の意識に常に伴う「我思う」としての思考の「主体

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カントにおける自己関係性と物自体のアポリア 13

は或る物一般(超越論的主観)を意味している」 (A355)。それ故に、超越論主

観と超越論的客観(対象)は、経験を可能ならしめる超越論的統覚の統一のコレ

ラートである(A250)といえるのである。従って両者は、経験を可能にする或

る物一般として、 「感性に対する真のコレラ-ト」である(A30、 B45)と考え

られるのである。かかる意味において、両者は「感性に対するコレラ-ト」とし

て、経験を可能にする超越論的条件なのである。

さて、演緒論により、触発の因果関係は、時空間的な経験的因果関係に限定さ

れた。従って内外の触発における主観と客観は、基本的には同じ次元の出来事で

なければならないことになる。

そうすると、内外の超越論的なetwasが我々の心性を触発するとは如何なる

事態を意味するのか。ここに、物自体による触発の問題があるのである。

s2二重触発説

物自体のアポリアは、結局煎じ詰めると、物自体による「触発の問題」に帰着

する。

カテゴリーの演緒論により、経験を可能にするカテゴリーは、経験的使用に限

定された。従って、因果性のカテゴリーは経験的使用のみに限定されることにな

った。それ故に、触発の問題もこれに従って経験のレベルで捉えられることになっ

たO換言すると、触発するものと触発されるものとが、経験という同-の次元に

存せねばならないと考えられた。そのために、当然のことながら、経験の野に存

せぬ物自体が考察の外に置かれることが、論理的に帰結したのである。だがしか

し、この考え方は半面哲学の根を腐らせる錯誤を秘めている。これは、ヴィトゲ

ンシュタインの「主体は世界に属さない。主体は世界の限界なのだ㈱」を到底理

解できない。カントの超越論的な思考は、経験を可能ならしめるア・プリオリな

条件を論究しつつ、同時にそのア・プリオリな条件が経験を可能にする所以を論

証することにある。カントもFプロレゴーメナ』において、 「超越論的という語

は、あらゆる経験を超出する何か或る物を意味するのではなくて、なるほど経験

に(ア・プリオリに)先立ちはするが、しかし経験を可能ならしめる以上の規定

を意味するのではない09」と述べているが、超越論的な思考は、経験の可能な所

以の根拠を明らかにすることにより、それはある意味で経験世界を超越する思考

でもある。 「統覚は、それ自身カテゴリーを可能にする根拠である」 (A401),

かかる超越論的思考を行なう主体は、あらゆる経験的意識や認識をすべて私の意

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14 井上義彦

誠として一つの意識に統一する超越論的統覚としての「我思う」である。超趨論

的思考の主体としての「我思う」は、事実問題として、「経験的触発」に基づく

経験的対象を考察の対象にしながらも、同時に権利問題としては、そもそもかか

る「経験的触発」を可能にする所以の根拠を超越論的に考察するのである。そこ

に、初めて超絃論的触発が考察の舞台に登場することになる。従って、「経験的

触発」の成立可能な所以の根拠として、「超蛙論的触発」が想定されることにな

るのである。

ここに、こうした様々な物自体による触発の問題にかかわるアポリアを克服す

るために、「二重触発」(diedoppelteAffektion)のテーゼがカント解釈におい

て導入されたと考えられるのである(16)。まず、ファイヒンガ-は、特にF純粋理性批判』の第二版で附加された「観念

論々駁」は、既に第-版にも見受けられていた論調を強く露呈していると指摘す

る.「カントは、それ故に二重触発(einedoppelteAffektion)を、即ち超越的

触発(einetransscendente)と経験的触発(eineempirische)を教示している

anJと。だが、ファイヒンガ-はそこに困難が見出されるとして、トリレンマを

呈示する。「そこで、我々はカント哲学に対して先述したかの触発する対象に関

して、次のトリレンマ(Trilemma)を得ることになる(1)、ひとは触発する対

象の下に物自体を理解しているのかどうか。その時我々はヤコービーの著作です

でに見出された矛盾、即ち我々が経験の内部でのみ意義と意味を持つべきところ

の、実体性と因果性のカテゴリーを経験の外部に通用するという矛盾に陥入る。

(2)、では我々は触発する対象の下に空間における対象を理解するのかどうか。と

ころがこの対象がカントによれば現象にすぎず、従って表象であるので、我々が

触発に基づいて初めて持っことになる、現象が今やかの触発を我々に供給すべき

であるという矛盾に我々は陥入る(3)、では我々は二重触発を、即ち物自体によ

る超越的触発と空間における対象による経験的触発とを想定すべきであるのかど

うかである。そうしても、超越論的自我はあとでは経験的な自我にとって一つの

物自体であるべきであり、しかもその物自体の触発は、今や対象のかの超越論的

な表象の外にかつ背後にある自我において、なお一つの経験的なまさに同一の対

象を惹起すべきである、という矛盾に我々は陥入るIBMJ。いずれにしても、ファイヒンガ-は「かの二重触発は、カントにより一層強固な自己矛盾をもたらすu聖

と考えて、二重触発説には否定的である。

これに対して、アディッケスは二重触発説こそ触発におけるアポリアを解決す

る考え方と捉えた。彼によると二重触発とは、やはりファイヒンガ-と同じく超

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カントにおける自己関係性と物自体のアポリア 15

越的( transzendente )触発と経験的触発である。超越論的な或る物(Ⅹ)が我々

の心性において触発するのは、もはや感官ではない。そうではなくて、超越論的

自我(Ⅹ)なのである。

「非経験的な対象は非経験的な自我を触発する<2Qiそこにおける触発の関係は、

それ自身非経験的なものとして考えられねばならず、従って由趨由なのである。

アディッケスによると、 「無空間的・無時間的な物自体から出立する超越由な

触発は、無空間的・無時間的な自我自体のみに作用しうる包1)JのであるOこの物ヽ 、

自体としての自我自体(Ichansich)と、それと等しく精神的に思惟された物

自体とは、 「論理的目的論的な仕方で純粋に内的な関係にあるeaJと考えられ、

「かかる関係は、自我自体が物自体のかの純粋に内的な、無空間的無時間的な秩

序を時間的空間的関係において描写するという点に導びく限りにおいて、触発と

して表示されるeaJのである。超越論的な自我(自我自体)は、その統覚の総合

的な棲能において、この超越的触発の結果を経験的な対象や経験的な自我に変様

させるのである。 「超越的触発に基づいて我々の自我自体によって生じた時間と

空間における対象は、カントの力学的理論に対応しつつ力の複合体として考えら

れる*J。こうした対象は、物自体の現象として、 「我々の経験的自我が自我によ

って与えられたものとして見出す現象自体であるJ。そして「経験的自我は、

その総合的な棟能を介して、その諸感覚の結合によって初めてその現象を産み出

すWJのである。そして「経験的触発がこの両種の間の媒介を配慮する聖のであ

る.その際「総合的な機能は、自我自体と経験的自我とにおいて同一である聖。

従ってアディッケスによれば、この超越的触発が根底にあって、我々の経験世界

では、物自体の現象としての経験的な対象が経験的な自我を介して我々の感官を

経験的に触発し、そこに感覚を経験的自我において生起するのである。そこで、

アディッケスは指摘するのだが、超越的触発のみが存在して、経験的触発が存在

せぬとすれば、まず原理的に無空間的・無時間的であるべき物自体は、最も不器

用な仕方で、全く時間空間的な世界に引っぼり込まれることになり、そして超越

的触発があらゆる経験的触発の代りとして全ての場面に立ち現われることになり、

これは不条理であろう。更に経験的触発を全く欠くとすれば、経験現象は一切の

経験内容を欠くことになり、我々の表象はあらゆる内容を欠いた空虚なものにな

ろう。また逆に、もし経験的触発のみがあって、超越的触発がないとすれば、我々

に与えられた現象の根拠を問えぬことになろう。つまり、我々はもはや現象の根

拠としての物自体を語る場を持ちえなくなり、カントが我々に提示する次の命題、

「さもないと、現象として現われる当のもの〔物自体〕が存在しないのに、現象

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res 井上義彦

が存在するという不合理な命題が生じてくるから」 (B xxvi-vn)を説明でき

ぬことになる。これも明らかに不合理である。

かくして、経験的触発と超越的触発は、アディッケスにとって経験成立のため

の必要不可欠な条件と考えられるのである。というよりもむしろ、両者は同一物

の二重の存在性格という意味で、二重触発な.のである。 「非経験的対象による非

経験的自我の触発と、現象的対象による私の感覚器官の触発とは、実際的には異

なる立場から見られた同じ出来事なのであるe9J。だから要するに、アディッケ

スは、二重触発説をカント自身の有名な考え方、 「我々の批判は、客観を二通り

の意味に、即ち第-には現象としての客観に、また第二には物自体としての客観

に解することを教える」 (Bxxvn)という考え方を基にして、触発のアポリア

の解決法として提示している。 「物自体と現象とは二つの相異なる存在者と見な

してはいけないO両者は相異なる立場から見られた同一のものである。つまり同

一の或る物が、一方では経験的に我々の直観形式における現象として我々に与え

られる。だが他方では、それは直線形式から独立に絶対的な存在難を有する」。こ

の言葉は、アディッケスが二重触発説を提出する思考の基調を明白に示している。

5 3二重触発説の検討-ブラウスの場合

今日では、こうしたアディッケスなどの説く二重触発説は、否定的な評価をこ

うむりがちであるが、果たしてそれは正当なのであろうか。論者は、そこには逸

することのできない重要なポイントがあると考えて、修正の上で肯定的な評価を

有している。

ここでは、現代の代表的なカント研究者であるG.ブラウスの解釈を中心的に

取り上げて、次にブラウス説との批判的対決を通して、我々の解釈を明らかにし

よう。

ブラウスは、二重触発を初めて見出したファイヒンガ-とアディッケスについ

て、 「ファイヒンガ-は結局二重触発を承認すると、カント哲学が維持しがたい

ことを発見した。これに反して、アディッケスは維持できる領域を、まさにそこ

に発見したnJと指摘する。しかし彼は、アディッケスは決定的な誤りを犯して

いると論断する。つまり、認識対象の存在次元(段階)を、即ち経験的対象の存

在次元(段階)と超越論的対象の存在次元(段階)との混同を犯しているとする。

「この段階の混同から、まさに触発の問題が生起する馴のだ」。ブラウスによると、

対象を認識する反省の段階には、二つの段階が区別されねばならない。第-には、

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カントにおける自己関係性と物自体のアポリア 17

経験的反省の段階であり、経験的対象としては、心の変様としての現象(主観的

表象)と、それに対応し個別的主観から独立に存在する物(経験的意味での物自

体)との二つがある。 「経験的現象と経験的物自体は、 〔経験的意味では〕数的-

存在的に異なる( numerisch-existentiell verschieden鋤)」のである。第二には、

超越論的反省の段階であり、その同一の経験的物自体が超越論的意味において、

また現象と物自体として捉えられる。 「現象と物自体は、超越論的に理解される

なら、数的一存在的に同一のもの(numerich-existentiell identisch )である(33」。

これが彼の解釈のキー・ワードをなすフェノメナ(phaenomena)とヌーメナ

(noumena)の区別である。この「現象は、カテゴリーの統一に従って対象とし

て思考される限り、フェノメナと呼ばれる」(A248f)という命題をフェノメナ

の定式化にしている。重要なのはこの場合、 「現象と物自体は、超越論的に解す

れば、数的・存在的に同一である」ということである。ブラウスはこの両段階の

混同を、アディッケスは犯していると指弾する。この混同から触発のアポリアが

生まれJそれを解決しようとして二重触発説が考案されたと解するのである。だ

からブラウスは、 「我々が二重触発があるという誤解を免がれさえすれば、この

〔触発の〕問題は自づと解消する伽)Jと考える。つまり超越論的な段階では、同一

物たる現象と物自体の問には触発は考えられない。しかし経験的な段階では、数

的に異なる現象と物自体の間には触発は考えられる。アディッケスは両段階を混

同しているのであり、もし触発があるとすれば、経験的触発しか考えられない。「カ

ントが本来意図していた触発は、経験的物による経験的触発だけなのである(33」。

ブラウスの言語分析的手法に基づく緻密な論議には、それなりに興味深いもの

がある。確かにアディッケスもファイヒンガ-も、「経験的触発」の他に、まさ

に奇しくも同一の表現で「超越的触発」を説明していた。アディッケスは、ある

箇所鵬で" transzendentalen oder besser transzendenten "という表郷こ見受け

られるように、超撞的を超越論的と同義に解している場合もあるが、基本的には

超越的な意味で解している。それ故超越的触発は、超越的な物自体による超越的

な触発の意味である。これに対して、ブラウスは「物自体という表現は、本来の

意味では超越的形而上学的な物自体を表示するのではなくして、経験的な物を

"それ自体において考案する〝ことが必然的になるような、かの超越論的一哲学

的な反省を定式化していることが明らかになるので、それと共に我々を触発する

のは、この物以外の何物でもないこともまた直ちに明らかになる的」のである。

ブラウスの指摘はある面では正しいが、すべて妥当するとは言い難い。なぜな

ら、彼の指摘する難点はそのまま彼自身にも当てはまる面があるからである。プ

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18 井上義彦

ラウスは、同一の物(対象)を超鮭論的意味で数的に同一の現象と物自体と解し、

それはまた経験的意味でも経験的物自体なのである。すると、同一の経験的な物

(対象)は経験的にも超越論的にも同一の物自体であることが判明する。もっと

はっきり言えば、経験的な物自体は超越論的な見地でもやはり物自体なのである。

それ故いずれにしても、経験的な意味でも、超越論的な意味でも物自体であるも

のが、すでに経験的な物として経験の野に堂々と登場していることになる。この

物自体は明らかに我々にとって「超越的形而上学的な物自体」であると言うべき

である。すると、ブラウスのアディッケスに対する非難は、そのままブラウスに

も妥当することを示しているのである。経験的物自体は、あくまでも経験的な意

味のみであり、超趨論的な意味ではないと言っても無駄な遁辞である.彼の主張

に基づくと、彼の立場は経験的実在論であり、同時に超越論的実在論になること

になろう。これは、 「超越論的観念論者は経験的実在論者である」 (A370 od. A

371)というカントの立場とは全く異なる。ブラウスがかかる立場を確信して主

張しているとは考えられない。ブラウス自身がここで考えていることは、 「超越

論的反省の成果は、経験的立場からは物自体として、主観に依存しないものとみ

なされる経験的物自体が、 〔フェノメナとしては〕二重に主観に依存することを

明らかにする脚」ということであるoつまり「フェノメナは、一方では規定され、 ヽ

た東泉として、主観の感性に依存し、他方では痩走きれた現象として、それらを

経験的認識の対象とする主観の悟性に依存する鰯」からである。それ故に、かか、 ヽ

るフェノメナの二重の規定を通して、 「ここに初めて、 〔襲象と物自体という〕両

概念の共通の地平、即ち超越論的反省の地平を開くことが明らかになる㈹」ので

ある。この超捻論的反省の地平において、カントのいう「我々の批判は客観を二

通りの意味に、即ち現象としての客観かあるいは物自体としての客観かに解する

ことを教える」 (Bxxvn)ということが理解可能になるのである。そしてブラ

ウスもカントのこの命題を基にして、次のようなユニークな解釈を展開する。つ

まり、カントのいうDingansich (selbst)とは、実は"Dinge, -ansich

selbst betrachtet " (それ自体において考案された物)という表現の省略形であ

り、 an sich selbstは「副詞的」な用法であると解釈されるOob従って物自体の語

義は本来物を現象としてではなく、それ自体において考察することを意味してい

るとされる。物自体の表現は超越的・形而上学的な物自体でなくして、 「それ自

体で考察された」経験的な物を意味しており、触発に関連させると、今や「我々

を触発するのはこの経験的な物なのである匂勿」。従って、 「超越論的・哲学的な意

味における物自体と、それ自体において考察された物とはまさしく同義であるの

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カントにおける自己関係性と物自体のアポリア fE

で、この意味での物自体による触発とまさにこの経験的な物による触発とはやは

り同義なのである匂紬」とされるoこのことは、我々が「超越論的・哲学的な反省

をもそれ自体において考察する」ときに、明らかになるとされる。従って前述し

たように、ブラウスの場合は、触発は経験的触発のみになるのである。しかし果

たしてこれで、触発の問題はすべて解決したであろうか。彼自身が疑念をもつ問

題がなお依然として残されていないだろうか。それは、 「経験的触発がかの直観

や現象を引き起こすとすれば、それが結局のところ主観それ自身を触発しなけれ

ばならない㈹」ということである。即ち「この触発が経験的触発であり、またこ

の主観が非経験的主観である場合には、このことは如何にして可能であろうか(491

という核心的な問題が残っているのである。これは、まさしくファイヒンガーや

アディッケスが二重触発を想定した所以の問題である。触発する客観は、触発の

結果を基に釈定された客観ではなく、ある意味でそれに先在せねばならない。だ

から、経験的触発のみで果たして旨くいくのかどうかという、 「問題が残ってい

る的」ゐであるOブラウスは経験的触発に主観的側面と客観的側面を分けて、こ

の問題を克服しようとする。簡単に言えば、経験的触発の主観的側面は、非経験

的主観が経験的・物理的触発によって触発されるのは、如何にして可能であるの

かという形で表現できる。これに対して、その客観的側面とは、この経験的触発

によって非経験的主観を触発する、同じ経験的客観がその解釈によって釈定され

たものであることが本来如何にして可能であるのかという形で言い表わせる。し

かしブラウスの解明が旨くいっているとは思えない。

これ以上、ブラウスの見解を追うのは止めるが、こうした彼の経験的触轟を主

客両側面に分けてなされる論議は、形を変えた二重触発説ではないだろうか。ブ

ラウスはアディッケスの二重触発説を拒否して、自己の経験的触発に基づく見解

を提示するが、両者は概念装置の違いを別にすれば、発想の根底においてそれほ

どの差異があるとは思えないのであるoなぜならば、因果性や実体性のカテゴI) -

の教訓に基づく限り、物自体が我々を触発するとか、あるいは非経験的主観を触

発するとかは、軽々に言えないからである。

さて、そこで、 「批判は、客観を二様の意味に、即ち現象としての客観と物自

体としての客観に解することを教える」 (bxxvh)というカントの言葉に即し

て、同一物の二重の存在性格が導出された。同一の対象に現象としての対象(経

験的対象)と物自体としての対象(超越論的対象)、同様に同一の主観にも経験

的自我と超越論的自我が措置されたのである。それに相即して考えると、 「物は、

我々の認識に対する二重の関係( ein zweifaches Verh云Itnis )、即ち感性と悟性

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20 井上義彦

に対する関係を持ちうる」 (A263、 B318)ように、触発にも二重の触発、即ち

「経験的触発」と「超越論的触発」があると想定されるのである。

我々は、今「超越論的触発」と言ったが、これは、アディッケスやファイヒン

ガ-、ブラウスがこれまで一貫して共通に使用していた「超越的触発」とは決定

的に相違することが注意されねばならない。彼等は同じく時空間的に経験を超越

する物自体が我々を触発する事態を超越的触発によって表現しようとしたと思わ

れるが、これはその点では正当な命名といえよう。しかしそれは経験構成にとっ

ては依然として超越的概念である。この意味では超越的触発は、ブラウスが主張

するように排除すべきである。

54超越論的触発

では、我々のいう「超越論的触発」とは、如何なる根拠をもって主張されるの

であろうか。我々はこれを「超越論的反省」の次元において考察したいのである。

カントによると、与えられた諸概念がどの認識能力に所属するかを比較・区別

することを反省といい、概念や表象一般を感性か悟性かに属するものとして「相

互に比較識別する働きを、私は超越論的反省と名づける」 (A261、 B317)とい

う。この超越論的反省の立場で言うと、触発の概念は感性に所属するものとして

は経験的触発が語られるべきであり、また悟性に所属するものとしては超越論的

触発が語られるべきことになろう。

では、物自体による触発は如何に考えられるべきであろうか。

この場合には、概念のTopikとして、概念の超趨論的場所( transzendentaler

Ort)も合わせて考察されねばならない。つまり、この場所論(Topik)は、

「感性か悟性かのいずれかにおいて概念に与える位置(Stelle) 」 (A2餌、 B324)

を意味しており、 「対象の位置に注目し」て、 「客観が現象の内に算入されるべき

か、それとも物自体の内に算入されるべきかという、概念の超越論的場所」 (A

271、 B327)を問題にするのである。すると、物自体は超越論的場所論の観点

から言うと、現象の内、従って感性の内にはなく、その占むべき位置・場所は純

粋悟性の内に求められるのである。

かくして、 「物自体による触発」は、超越論的反省においても、また超越論的

場所においても、純粋悟性において語られるべきことが明らかにされたのである。

カントは自らこう言う- 「我々は或る物一般を思惟し、これを一方では感性

的に規定しながら、しかし他方では抽象的に表象されたかかる一般的対象を、そ

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カントにおける自己関係性と物自体のアポリア 21

れを直観する仕方と区別する。そこで我々に残されるのは、対象を単に思惟によ

って規定する仕方である。この仕方は無内容なる単なる論理的形式であるのに、

我々にとっては、客観が、我々の感性に制限されている直観を顧慮することなし

に、それ自体において実在する(ヌーメノン)ような、仕方であると思われるの

である」 (A289、 B345-'6)。 uns - eineArtzu sein scheint, wie das

Objekt an sich existiere ( Noumenon )、 ohne auf die Anschauung zu sehen,

welche auf unsere Sinne eingeschr云nkt ist.)。

ここで決定的に重要なことは、我々が対象を捉える仕方に二種類あるというこ

とである。それは、一方では或る物一般を経験的に与えられたものとして、感性

において限定し、 「直観する仕方」であり、他方では、それを悟性において、 「我々

の感官に制限されている直観を顧慮せずに」、 「思惟によってのみ規定する仕方」で

ある。我々は、一方では或る物一般を感性的直観の対象として捉えるとき、この

直観の仕方に対応して現象が対象として成立し、他方では或る物一般を我々の感

性的直観を一切顧慮せずに、従ってそれを捨象して、対象一般として思惟すると

き、思惟の仕方に対応して物自体がヌーメノンとして成立するのである。

ここにも、 「批判は、客観を二様の意味に、即ち現象としてか、あるいは物自

体として解することを教える」というカントの考え方に通底するものが-某して

理解されうるのである。それ故に、物自体は悟性において、一切の感性的直観を

捨象して思考されているのである。

では、触発に関してはどうであろうか。

カントはこう言う- 「私が(カテゴT)一による)あらゆる思惟を経験的認識

から除き去れば、何らかの対象のいかなる認識も残らなくなる。なぜならば、単

なる直観によっては何物も思惟されず、感性の触発(Affektion)が私の内にあ

るということは、かかる〔直観的〕表象がいずれかの客観と何らかの関係を有す

ることを示しはしないからである。しかしこれに反して、私があらゆる直観を除

去する場合には、なお思惟の形式、即ち可能的直観の多様に対して対象を規定す

る仕方が残留する。従ってカテゴリーは感性的直観よりもはるかに広い範囲を有

する。なぜならカテゴリーは、客観がそこで与えられうる特殊な仕方(感性)を

顧慮することなく、客観一般を思惟するからである」 (A253-'4、 B309-'10)(

ここから明らかになることは、経験(経験的認識)からあらゆる思惟の契機が

除去されれば、私の内で感性が触発されるというだけでは、そこに生じた直観的

表象にどんな客観も関係せしめることはできないということである。だから、触

発そのものの発生は感性内の問題であるが、触発と対象との関係はむしろ実は悟

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22 井上義彦

性内の問題なのである。触発において、感性を触発する対象は、感性のみならず、

悟性においても把捉されねばならず、特に触発の対象的関係は悟性における思惟

の形式(カテゴリー)において捉えられるのである。

これは、従来の触発論で見落されていた論点である。これまでの触発論は、触

発を感性のレベルの問題として終始し、決して悟性レベルの問題とは考えなかっ

たのである。また物自体による触発に関しても、超越論的反省の次元は殆んど問

題になっていなかったのである。

ブラウスは、確かにこの次元で触発の問題を捉えようとしたといえるが、彼が

経験的触発のみを問題にして、超越論的触発を全く間額にしない点において、我々

と解釈は根本的に別れるのである。前述の引用文に明示されているように、触発

の問題を思惟の契機を一切排除して、感性のレベルだけで論ずることは、触発に

おける対象的関係を捨象することになるのである。触発の対象的関係は、対象を

規定する仕方である思惟の形式によって、初めて可能になるのである。従って触

発の問題は、単に感性においてのみならず、悟性においても考察されねばならず、

また十分なものにはならないのである。

ここに、我々が同一の触発に対して、二重触発を想定する理由があるのである。

つまり、触発が単に感性のレベルでのみ(従って思惟の契機を一切捨象して)考

察されるとき、 「経験的触発」が問題になる。しかしそれが悟性のレベルでも、

従って超趨論的反省の次元でも、考察されるとき、 「超越論的触発」が問題にな

るのである。

さて、経験あるいは経験的認識の成立のためには対象が与えられねばならない。

与えられた対象は我々には現象として経験される。かかる現象は、その「現象の

原因(従って、それ自身は現象ではない) 」 (A288、 B344)として、超越論的

対象としての或る物(物自体)を必要とする。 「もし果てしない循環論が生ずべ

きでないとすれば、現象という言葉がすでに・・・-それ自身としてはなお或る物、

即ち感性から独立した対象たらざるをえないような或る物への関係を示している」

(A251-'2)のである。別言すれば、 「さもないと、そこに現象するものが何も

なくて現象が存する、という不合理な命題が生ずる結果になろうから」 (B XX

Ⅶ)である。

今や、カントが物自体を想定していることは明らかである。のみならず物自体

がカントの経験を可能ならしめる所以の根拠も明らかになる。つまり、かかる物

自体が経験を可能ならしめるものとして、現象の根底に想定されるとき、我々は

この物自体を「或る物一般」としてのⅩ、即ち超越論的対象として把捉するので

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カントにおける自己関係性と物自体のアポリア 23

ある。この超越論的対象は経験の所与性のア・プリオリな根拠として、経験を可

能にする構成的ではないが統制的な制約( die regulative Bedingung)なのであ

る.この超越論的対象が取りも直さず、消極的意味でのヌーメノン(Noumenon)、

即ち「感性を制限する限界概念」としてのヌーメノンなのである。 「ヌーメノン

という概念は、単に感性の不遜を制限するための限界概念( Grenzbegriff )で

あり、ただ消極的に使用されるものにすぎない」 (A255、 B310-'1)。だから

「悟性は、物自体を(弔象とは見ずに)ヌーメノンと名づけることによって、む

しろ感性を制限する」 (A256、 B312)のである。

感性において、対象が現象として与えられる。確かにここには、経験的触発は

生じている。しかし感性のみでは既述のように、対象関係は提示できない。これ

に悟性が合して、客観的な対象関係が成立するのである。要するに、 「果てしな

い循環論が生じない」 (A252)ためには、悟性が対象関係を提示せねばならな

い。そこに、意外にもこれまで常に見過されてきたことであるが、超越論的対象

が経験一般を可能ならしめる消極的な統制的制約として、経験現象の根拠として

措定されるのである6理性の立場でのみ語られる「積極的な意味でのヌーメノン」

としての物自体が、そのまま経験の統制的制約になるのではない。経験の可能性

を論究する超越論的反省の次元では、物自体は感性を制限する限界概念として、

消極的意味でのヌーメノン、即ち或る物一般としてのⅩとしての超越論的対象に

なるのであるOカントは、 「同一の対象を感性体(Phanomena)にいわば

対立せしめてこれを悟性体(Noumena)と名づけることは、もともと我々の考

え方に合致したことである」 (B306)と確認しながら、 「我々が物に対する我々

の直観の様式を捨象して、我々の感性的直観の対象とならない物を、その限りに

おいてヌーメノンと名づけるとすれば、それは消極的な意味におけるヌーメノン

である」 (B307)とする。

このように、感性のレベルだけでは、経験的触発における対象関係を客観的に

は指示できない。現象の循環論を脱して触発の対象関係を指示できるのは、悟性

レベルの考察が必要なのである。更に、かかる経験的触発は、超越論的反省の次

元で考察されねばならないのである。だから、悟性レベルの考察は、経験的触発

に対象関係を与えつつ、超蛙論的反省の次元でなされねばならない。そこに、経

験的触発に対して、しかもかかる経験的触発を可能にする超越論的触発が必要な

所以が明らかになるであろう。

我々人間においては、対象は感性における触発によって与えられる。我々の感

性は対象によって触発される受容性の能力であるから、我々に生ずる感性的直観

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24 井上義彦

は、常に「触発された」という所与的契機を有している。 「直観は全て感性的な

ものとして触尭(Affektionen)に基づいている」 (A68、 B93)。人間の感性

的直観は、直観することが創造することであるような「神的悟性」の知的直観で

はなくて、根源的に所与的・披経験的なのである。

かかる直観の所与性に関して、次の二点が問題になる。一つは、直観の所与性

に相即・対応する「触発する対象」という直観の対象性の契機であり、他の一つ

は、直観の形式としての純粋直観のア・プリオリ性である。

後者から問題にすると、触発によって我々に可能になる直観は、所与的でア・

ボステリオリなものであり、ア・プリオリな純粋直観ではない。しかしかかる直

観では、純粋数学や純粋幾何学の可能性を説明できない。そこで、コペルニクス

的転回による発想の逆転によって、かかる所与的経験的感性直観を可能ならしめ

るものとして、その根底にア・プリオリな直観の形式としての純粋直観が提示さ

れているのである。こうした論究が超越論的反省の次元でなされていることは注

意するまでもあるまい。そして純粋直観が空間と時間であるという点に、前者の

問題の直観の対象性の契機が出現している。なぜなら、触発によって我々に可能

になる直観には根本的に言って、外的触発には空間的表象(外的直観)が、内的

触発には時間的表象(内的直観)が対応しているから。それ故カントは、空間と

時間についてこう言う。 - 「空間や、延長物その他を語りうるのは、人間の立

場からだけ(nur aus dem Standpunkte eines Menschen )である。我々が外的

直観を持ちうるための主観的条件、即ち我々が対象によって触発されるという条

件を捨ててしまえば、空間表象はまったく無意味である」 (A26、 B42)。また、

「時間は、まったく我々(人間)の直観の主観的条件である(人間的直観は、我

々が対象によって触発される限りにおいて、常に感性的である)。そしてそれは

主観を離れては、それ自身において無(nichts)である」 (A35、 B51)c

かくして、空間と時間という直観の形式が、 「我々が対象によって触発される

仕方( die Art, wie wir von Gegenst云nden affiziert werden.) 」 (A 19、 B33 )

から導出されていることは明らかであろう。即ち、外的触発によって外的直観が、

内的触発によって内的直観が生起するように、それに即応する直観の形式として

空間と時間がそれぞれ導出されているのである。またかかる直観の形式が受容的

感性の形式として、我々人間主観の内に存する所以と、それ以外の直観の様式が

一般に可能でない所以も、また自ら明らかになるのである。

「この直観の形式は、ア・プリオリに我々の表象能力中に存しうる。だがしか

しこの直観の形式は、主観が如何にして触発されるかという、仕方以外の何物で

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カントにおける自己関係性と物自体のアポリア 25

もない( die Form dieser Anschauung kann a priori in unserem Vorstellung-

svermogen liegen, ohne doch etwas anders, als die Art zu sein, wie das

Subjekt affiziert wird.) J ( B 129 )c

この直観形式の定式化は、カントの時間・空間論を考察する上で決定的に重要

な意義を有すると思う。この定式化がこれまでややもすれば見逃されてきた理由

は、カントの時間・空間論の中核をなす形而上学的演樺に全然姿を見せないこと

と、既述したように触発に対する一般的な誤解のためであろう。

しかしここに逆に言えば、この定式化の正当な評価は、空間・時間論のみなら

ず、触発と触発するものとしての物自体との意義について正当な評価と認識をも

たらすであろう。

空間と時間の観念性(Idealit云t)も、この定式化によって初めて十分に理解

されることになる。カントによると、「要するに我々の究明の教えることは、空

間は、外的に対象として我々に現われうる一切のものに関しては、実在性(客観

的妥当性)をもつが、しかしそれと同時に、物が理性によってそれ自体において、

即ち我々の感性の性質を顧慮せずに考える場合の物に関しては、観念性をもつと

いうことである」 (A28、 B44)cすでに引用した文で繰り返しになるが、 「我々

が対象によって触発されるという主観的条件を捨象すれば、空間表象はまったく

無意味である」 (A26、 B42)し、また「時間は、 ・・-・我々が対象によって触発

される限りにおいて、常に感性的であり、主観を離れては無である」 (A35、 B

51)c

ここから、カントは空間と時間の観念性を、直観形式は主観の触発される仕方

という定式化を介して把起していることが理解される。このことを念頭において

読めば、次の難解な有名な命題も理解できる。 - 「空間の超蛙論的観念性とは、

我々が一切の経験を可能ならしめる条件を除去して、空間を物自体の根底に存す

る或る物と解するならば、空間は無であるということである」 (A28、 B44)c

従って、空間と時間という直観形式は、何らかの物ではなく、定式化に言うよ

うに、 「主観が触発される仕方」という全く観念的な在り方なのである。だから、

空間と時間は一切の可能な外的、内的直観に関して、 「経験的実在性」をもつと

同時に、 「我々が感性的直観の主観的条件を捨象するならば、それはまったく無

である」 (A36、 B52)という超越論的観念性をもっとされるのである。即ち我

々が一切の可能な感性的直観を捨象すれば、そこにおける感性の構造的構えは超

越論的反省の次元では、形式的には主観の触発される仕方以外の何物でもないの

である。今日的に言えば、それはものではなくて、ことなのである。

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26 井上義彦

別言すれば、カントは「感性論」でとりわけ両感の観念性にふれて、 「外感と

内感の観念性、即ち感官の客観がすべて単なる現象にすぎないという〔意味での〕

観念性に関するこの理説を確証するためには、特に次の注意が有益であろう」

(B66)として、 「我々の認識において直観に属する一切のものは、直観におけ

る場所(延長)、場所の変化(運動)そしてかかる変化を規定する法則(動力)

などの、単なる関係(bloBeVerhaltnisse)だけしか含んでいないということ

である」 (B66-7)とコメントしている。我々の直観的表象はすべて関係表

象である。 「外感が我々に与えるのは関係の表象だけである」 (B67) 、そし

て「このことは、内的直観についてもまったく同様である」 (B67)だから

「もし直観が関係だけしか含まない場合には、それは直観の形式であり、この直

観の形式は心性がそれ自身の活動によって触発される仕方(die Art, wie das

Gemiit durcheigeneTatigkeitaffiziertwird. )である」 (B68)ということ

である。

従って、直観の形式は主観が外的内的に触発される仕方である。そして空間と

時間の有する観念性は、直観形式が主観の触発される仕方であるということに根

本的に基づくと洞察されるのである。

カントは、 「けだし、我々の心性の内に、我々の感性の起源の秘密が存するか

ら。感性と客観との関係、及びこの統一の超越論的基礎は、極めて深く隠された

問題」 (A278, B334)であるとするが、 「対象によって触発されるという、

主観の受容性( die Rezeptivitat des Subjekts, von Gegenstanden affiziert zu

werden.)」 (A26, B42)に、 「感性の起源の秘密が存」しないであろうか。

また「感性と客観との関係」は、感性の形式としての直観形式が「主観が触発さ

れる仕方(die Art, wie dasSubjekt affiziert wird. )」 (B129)であるという

ことから解きほぐされないであろうか。更に両者の「統一の超越論的基礎」を含

めて、こうした問題はこれまでの考察により、解明の糸口を与えられていないで

あろうか。

それ故に、これまでの物自体や触発を巡る問題の考察は、超越論的反省の次元

から言えば、触発を一般に可能にする「超越論的触発」の省察になっているので

ある。なぜならば、かかる省察はそれ自身カントの「超越論的」という語の定義

に言う超越論的認識にはかならないからである。 「私は、対象に関する認識では

なくてむしろ我々が一般に対象を認識する仕方( Erkenntnisart )それがア・

プリオリに可能である限り、 -に関する一切の認識を超越論的と名づける」

(B25)。

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カントにおける自己関係性と物自体のアポリア 27

かくして、超越論的触発の必然性が明らかにされたと論結されてよいであろう。

ところで最後に、カントはF純粋理性批判』の第二版の演樺論において、 「直

観の形式」と「形式的直観」の相違について見逃せない重要な注意をしている。

それによると、 「直観の形式は多様を与えるだけだが、形式的直観は表象の統一

を与える」 (B160)とされるOそして「私は感性論では、この統一を単に感性

に属せしめた」 (B161)とする。ところがこの統一は、本来悟性に属する「総

合」を前提しており、 「この総合によって初めて空間と時間の概念が可能になる」

(B161)のであり、 「この総合によって(悟性が感性を規定することによって)、

空間や時間が直観として初めて与えられる」 (B161)のである。

カントの意図は、コンテキストが蘭潔すぎてよく分らぬところがあるが、少な

くとも言えることは、空間と時間は、概念としても直観としても感性だけでは十

分成立しえず、悟性の総合をまって初めて成立するということである0

このことは、しかし別に驚くには当たらない。それどころかこれは、我々のこ

れまでの論議の骨子の妥当性を再確認している・と言えよう。なぜなら、物自体や

触発の問題は、感性のレベルの経験的触発だけでは不充分であり、悟性のレベル

における超越論的反省の次元において、初めて触発を一般に可能にする超越論的

触発が十分に解明されうることに合致するからである。

要約すれば、我々人間の主観は、 「対象によって触発される感性の受容性」を

もち、感性の形式としての直観の形式は「主観の触発のされ方」にはかならない。

我々を触発する対象は、超魅論的反省の次元では、可能的経験」投を成立せしめ、

経験の境界に存する限界概念としての超趣論的対象にはかならない。かかる超越

論的対象は消極的意味での物自体(ヌーメノン)である.従ってこの意味での

「物自体は、感性の真のコレラート」 (A30, B45)であり、 「感性を制限する

ための限界概念」 (A255, B311)なのである。 「物はいずれも〔経験の〕全

可能性という共通のコレラ-トムに関係せしめられる」 (A573, B601)ので

あるが、 「超越論的客観は、或る物-Xを意味し、 ・・・感性的直観における多様が

統一されるための、統覚の統-というコレラ-トムとして用いられる」 (A250)

のであり、 「この超越論的客観は、決して感性的所与から分離されない。なぜな

ら、さもないと、この超越論的客観がそれによって思惟されるべき媒介者が何も

残らぬことになるから」 (A250-'l)である。だから、超越論的対象は、あら

ゆる個々の経験を可能にするいわば世界地平巾カなのである。

もはや明らかである。そこで、感性について語るということは、物自体によっ

て触発される主観の受容性をそのまま語ることであり、同時に間接的には感性の

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28 井上義彦

コレラ-トのとしての触発する超越論的対象を語ることになるのである。

要するに、超越論的反省の次元において、 「感性の論は、同時に消極的な意味

におけるヌーメノンの論である」 (B307)ということになる。従って、かかる

感性とヌーメノンを媒介して可能な経験の野を世界地平として開示する超越論主

観としての「我思う」 (Ichdenke)は、両者の交流点に存する触発の可能性を

「超越論的触発」として明らめることによって、経験の場としてのトポスを我々

に開示することができるのである。

〔註〕

(1) Kant, Kritik der reinen Vernunft.

本文中の引用文の責付は、慣例に従って第-版をA (1781 )、第二版

(1787)をBとする。

(2)藤沢賢一郎、 「自己関係性の諸形態と思考の類型についての覚え書」、大阪大

学人間科学部年報人間科学、第4号(1978)

加藤尚武「哲学の言葉と自己関係性」 (新岩波講座哲学第1巻『いま哲学と

は』所収)、 183頁。自己関係性に関しては、論旨の都合で本稿では触れるこ

とができなかったが、ブブナ(Bubner)の提起する自己関係性がある。

『現代哲学の戦略』 (加藤他訳、勤葦書房)所収の彼の論文は刺激的である。

「超越論的論述の特徴は、自己関係性である」 (43頁)というように、ストロー

ソンの提起したtranscendental Argumentsは自己関係性にも関連する問題

である。その意味でも興味深い問題なのだが、他日を期したいZurZukunft

der Transzendental philosophie (Neue Hefte fur Philosophie, Nr. 14).

(3) Wittgenstein, Tractatus Logico-Philosophicus. XXii.

『論理哲学論考』 (藤本・坂井訳、法政大学出版会) 49-50頁

(4) cf. Whitehead and Russell, Principia Mathematica.

(5) Kant, Anthropologie in pragmatischer Hinsicht. (Insel-Verlag ) Bd.

VI.ァ4. S417.

(6) Kant, op. cit. S417.

(7) Kant, op. cit. §7. S430.

(8) Strawson, The Bounds of Sense, p 248.

(9) Strawson, op. cit. p248.

Weldon, Kant's Critigue of Pure Reason, p261.

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カントにおける自己関係性と物自体のアポリア 29

Vaihinger, Kommentar z¥x Kants K. d. r. V. Bd. 2. S480.

Jacobi, David Hume dber den Glauben oder Idealismus und Realismus.

1787. S223.

Martin, Immanuel Kant, S 209-'10.

H. Cohen, Kants Theorie der Erfahrung, S429-'30.

Wittgenstein, Tractatus Logico Philosophicus. S 117.邦訳170頁

Kant, Prolegomena zu einer jeden Kiinftigen Metaphysik, die als Wissen-

schaft wird auftreten wird. ( 1783 ) Anhang. S 144.邦訳259頁注

E. Adickes, Kants Lehre von der doppelten Affektion unseres Ich, 1929.

S47.

Herring, Das Problem der Affektion bei Kant.ヘリングは、 「アディッケ

スによる天才的な解決の試み」 (Sll)として、彼の二重触発論をとりわけ

高く評価しているPrauss, Kant und das Problem der Dinge an sich.

Kemp Smith, A Commentary to Kant s Critique of Pure Reason. p614f.

Weldon, op. cit. p253.

Vaihinger, op. cit. Bd. 2. 1922. s52.

a紛Vaihinger, op. cit. s53.

Vaihinger, op. cit. s 53.

Weldon, op. cit. p253.

Adickes, Kant und das Dingan sich.アディッケスは、 「むしろ物自体は正

確にいうなら、我々の自我自体を(その感性に従って)触発しうるのみであ

る」 (15貢)と記す。 『カントと物自体』 (赤松訳、法政大学出版局)。

位かAdickes, Kants Lehre von der doppelten Affektion unseres Ich. S 47.

即Adickes, op. cit. S47.

位3 Adickes, op. cit. S47.

糾Adickes, op. cit. S47.

脚Adickes, op. cit. S47-'8.

¢◎ Adickes, op. cit. S52.

位竹Adickes, op. cit. S52.

榊Adickes, op. cit. S52.

位9 Weldon, op. cit. p254.

8Q G. Prauss, Kant und das Problem der Dinge an sich. S 193.

剛Prauss, op. cit. S192.

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30 井上義彦

83 Prauss, Erscheinung bei Kant. S22 f認識論の根本問題」 (観山他訳、晃洋

書房) 13頁

Prauss, Erscheinung bei Kant. S22邦訳13頁

Prauss, Kant und das Problem der Dinge an sich. S 197.

Prauss, ibid. S 203-'4.

榊Adickes, op. cit. S37.

即Prauss, ibid. S197.

榊Prauss, ErscheinungbeiKant. S21邦訳12頁

Prauss, op.cit.S21邦訳12頁

仏Prauss,op.cit.S23邦訳14頁

(軸Prauss, Kant und das Problem der Dinge an sich. S24ff.

(43 Prauss, op. cit. S197.

(姻Prauss, op. cit. S197.

仏4 Prauss, op. cit. S205.

日9 Prauss, op. cit. S205-'6.

Vgl. Vaihinger, op.cit. Bd. 2. S44.

位9 Prauss, op. cit. S206.

m山崎庸佑「事物経験と世界地平」 (山崎編著『カント超越論哲学の再検討』所

収、北樹出版)。山崎氏は、 「ある物一般-Ⅹ」としての超越論的対象を世界

地平として捉えている。 「事物経験を事物経験として意味あらしめる究極の意

味のありかの一つは、世界地平である超越論的対象に求められる」 (162貞)0

※1 「我思う」 (Ichdenke)の在り方については、カントの次の指摘が重要

である- 「統覚の総合的・根源的統一において私が自分自身を意識するの

は、私が自分に現象するがままでもなく、私が自分自身においてあるがまま

でもなくて、ただ私が存在するということだけである」 (B157)。また「こ

の私自身は、私は考える、という私にとっては単に現象にすぎないこととな

ろうが、しかし私が考えるかぎりでは単に現象ではありえないであろう」

(B429)という指摘から明らかなように、 「我思う」における私の在り方は、

現象でも物自体でもない、両者の中間的な第三の在り方が可能なのである。

これは注目に値する論点だが、すでに別に論じたことがあるので、これ以上

触れない。

※2 Adickes,op.cit.S3.

(平成元年4月28日受理)