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NAOSITE: Nagasaki University's Academic Output SITEnaosite.lb.nagasaki-u.ac.jp/dspace/bitstream/10069/... · 長崎大学教養部紀要(人文科学篇) 第37巻 第2号 25-42 (1996年10月)

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Title 『中国婦女生活史』 陳 東原著

Author(s) 葛城, 明子

Citation 長崎大学教養部紀要. 人文科学篇. 1996, 37(2), p.25-42

Issue Date 1996-10-31

URL http://hdl.handle.net/10069/15401

Right

NAOSITE: Nagasaki University's Academic Output SITE

http://naosite.lb.nagasaki-u.ac.jp

長崎大学教養部紀要(人文科学篇) 第37巻 第2号 25-42 (1996年10月)

『中国婦女生活史』

陳東原著

葛城明子訳

Ch'en Tung yuan: The History of Chinese women's lives

The Chapter one 'The beginning'

Akiko KATSURAGI

一 男尊女卑により女子は〟(2)動もすれば轍ち答を得″るように

なった「

トーテム」社会の中国女性の生活がどんなものであったか、

は本書の論じようとするところではない。本書は有史時代を以て

その始まりとする。上古時代は蛮夷に遠からず、故に女子は、た

だ男子の奴隷として認められただけだ。この観念により多少の哲

理をつ-った。天道は乾なり地道は坤なり、乾は陽なり、坤は陰

なり。陽は男となり、陰は女となる。故に男性は剛に応じ、女性

は柔に応じる。男子は主動的、女子は受動的だ。この哲理は見た

ところ、浅薄でおかしいが、呈図らんやそれが結局三千年来の歴

史を支配し、今日に至るも余勢なおあり、女子の不幸といわざる

をえない。本書はただこれらの不幸な史実をありのままに系統立

ててできるだけ書き出し、今後の中華民国の女性に、その生活の

向かうべき或いは避けるべきところを知らしめるばかりである。

乾坤陰陽の観念は、最初からそんなに整っていたのではない。

男性が女性に戦勝し、社会が男性によって支配されるようになっ

て、初めてこれらの哲理が運に応じて生じた。この社会が、つま

りいわゆる宗法社会である。

宗法社会の中で、最も特殊かつ最も不平等な観念は、すなわち

婦人が「子」でないということだ。子とは繁殖養育の意であり、

男子の尊称であり、子々孫々に伝えることのできるものだ。婦人

とは人に伏するに過ぎず、夫人とは人を扶けるに過ぎない。人と

は第三者つまり他人だから、婦人は他人に伏する者だ。夫人は他

人を扶助する者で、自らは独立性をもたない。「女子」も子と称

するが、その意味はすでに男子の「子」と同じではない。『大戴

躍記』〔(3)「本命」〕に「女は如なり、子は撃なり。女子は男子の

教えの如-して、その義理に長ずる者を言うなり。故に之れを婦

人と謂う。」とある。この観念により、女子に人格がな-ただ男

子に依って人格を成すのは、いわゆる「陰は卑し-自ら専らにす

千明城葛

るを得ず、陽に就きて之れを成す。」(『白虎通』「嫁姿篇」)であ

る。女子の一生の最高の目標は、嫁に行-ことだ。故に婦人には

名がな-、男子の姓と結んで名とする。婦人には謡がな-、よっ

て夫の爵を以て謡とする。社会的な地位はこのようなものだ。嫁

ぐ前は父に従い、嫁いでからは夫に従い、夫が死ねば子に従う。

家庭での地位はこのようなものだ。女子を束縛し、反抗させない

ようにするには、更に各種の風俗、道徳、教条、信仰を作り、女

子を抑圧し訓練する。その結果、女子の能力はますます弱-なり、

地位はますます低-なり、それによって人々は更に女子を軽視し、

女子自身もまた、それに合わせてただ自らを軽-嬢しい者と考え

るばかりだ。因果はめぐって女子は遂に十八層地獄に堕ち、自ら

はい上がることができない。男尊女卑の観念は、遂に鉄の桶のご

とく鋳固められてしまった。

「乃ち男子を生む、載ち之れを林に寝ねしむ、裁ち之れに裳を

表せ、載ち之れに埠を弄せしむ。乃ち女子を生む、載ち之れを地

に寝ねしめ、載ち之れに視を表せ、裁ち之れに瓦を弄せしむ。非

なく儀なく、惟だ酒食のみ是れを議る。父母に催いを話す無けん。

〔男子が生まれたら、寝台に寝せ、裳を着せ、瑞玉で遊ばせる。

女子が生まれたら、床に寝せ、産着を着せ、糸巻きで遊ばせる。

女子は人から答められないようにしなければならないが、別に褒

められることも要らない。ただ酒食のことに勉め、父母に心配を

I

かけないようにする。〕」〔『詩経』「小雅」「斯干」〕この部分を班

昭は〔『女誠』「卑弱」に〕解釈していう。「之れを林下に臥すと

は、(4)明らかに其れ卑弱にて下人なり。之れに瓦樽を弄せしむと

は、明らかに其れ労主の執勤に習うなり。斉し-先君に告ぐとは、

明らかに当主の祭把を継ぐなり。三者は蓋し女人の常道、礼法の

典教なり。〔女子を床に寝せるとは、女子は力がな-奴隷である

ことを明らかに示し、女子に糸巻きで遊ばせるとは、勤勉な妻の

勤めに習うことを明らかに示し、斉し-先君に告ぐとは、主人が

祭把を受け継ぐことを明らかに示す。この三つは思うに、女子の

正しい道であり、礼法の教えである。〕」〔『女誠』「卑弱」〕彼女に

よると、女子がこの世に生まれ落ちるや、すぐこれらの教訓を与

えておいて、将来永遠に己の地位を脱け出して、職分以外のこと

をしようという考えを起こさせない。しかし私から見れば、この

ような挙動は、実に女子への嫌悪感があると恩う。女子は卑棲だ

から、先祖の跡を承けて新しいものを創造することができない。

またしきりに拘束を加えなければ、一度し-じったら、先祖父母

の恥になる。誰が女を産みたいだろうか?だから生まれ出るや彼

女を床に寝せ、しばら-は目も-れないでおいて、後になって憎々

しげに非難がまし-、「非な-儀な-、惟だ酒食のみ是れを議る。

父母に催いを話す無けん。」と言うのだ!このような説教は、全

-嫌悪感を表すものであり、仮に教訓の意味があったとしても、

『中国婦女生活史』

生まれたての嬰児に何がわかるだろう?〔『樺名』「樺長幼」によ

ると〕青徐二州では女を始という。愈理初は「(5)始、件なり。始

め生まれし時、人の意は喜ばず、件件然たり。」と述べているが、

事実にとても近い。

女子は生まれた時に人から喜んでもらえないだけでな-、成人

してからも至る所で差別を受ける。世間で悪いことが起きれば、

全て婦人のせいにされる。しかも婦人が悪いことをしようとすれ

ば、みな定まった運命があり、天候や識緯〔前漠末から後漠にか

けて流行した識記、経書(未来や吉凶禍福を予言した書物)〕で

わかる。『汲家周書』〔「時訓解」〕にこんな話があるが、実に面白

い。それによると一年のうち季節ごとに、それぞれ時節に合った

現象があり、もしその現象が見られなければ、婦人はよからぬこ

とをするという。その幾つかの現象とは?

一、春分の日、(6)元烏〔燕の異名〕至らずんば、婦人信ならず

〔嘘をつ-〕。

二、清明また五日、虹見えずんば、婦人萄乱たり〔淫らになる〕。

三、立冬また五日、稚大水に入らずんば、国に淫婦多し。

四、小雪の日、冬虹蔵まらずんば、婦専一ならず。

五、大寒の日、鶏乳し〔卵を生み〕始めずんば、淫(6)婦男を乱す。

いったい「虻」「稚」「鶏」「元烏」が人とどんな関係があるのか?

婦人の貞、淫、信、乱は婦人が自分で制御できず、却ってこれら

禽類の与り知るところとなるのか?漢代は識緑の説が隆盛を極め、

烏煙痔気が数千年の思想をすっぽり覆った。だから今日に至って

も、人々はなお多くの迷信を受け継いでいる。ひとつの橋、城門、

城内から城外へ流れる溝、水門、河口、塔、峰はみなその場所の

風水と関係がある。最も奇怪なのは、この風水というのが、とか

く女性には不利なものが多いということだ。このことから特に、

女性を差別し、軽視する社会のあり方が窺える。

女性が差別される以上、何かあるとすぐ答められる。こうして

はいけない、ああしてもだめだ、とあちこちで過失を答められ、

それを我慢しなければならない。極端な例を挙げると、男子が女

子に求めるのは、彼の代わりに子供を産むこと、但し子供を産む

のは一つの罪で、つまり不浄なことだった。ならば子供を産まな

ければどうなるか?子供を産まなければ「(7)七出」〔妻を離縁す

る七つの理由。「七去」ともいう。〕の中に列せられる。古来女子

を制御してきた道徳は、全-筋が通らない!全-不平等だ!

夫婦の感情は当然親密であればあるほど相和し、古人もことさ

ら「(8)相敬うこと賓の如し」〔『後漢書』「廟公侍」にある〕と言っ

た。「相敬うこと賓の如し」は固より時には必要だが、もし一日

中朝から晩まで「相敬うこと賓の如し」だったら、どうして親し

い情感が湧-だろう?婦人は私室にあっても、礼節をかなり守ら

-tr

千明城葛

なければならなかった。(a>)『韓氏外侍』〔巻九〕に、孟子の妻が膝

を立てて座っていたので、孟子は彼女を離嫁しようとした、とあ

る。(S)『列女侍』〔「郷孟珂母」〕には、孟子の妻が私室で肌脱ぎに

なっていたので、孟子は遂に去って入らなかった、とある。女子

を蔑視する心理は、自分の女房といえども、免れえなかった。

『世説新語』〔「賢媛」〕にこんな話がある。

趨母、女を嫁がす、去るに臨んで之れに教えて日-、「慎みて

好きこと為す勿れ。」と。女日-、「好きこと為さずんば、将に悪

しきこと為さんとするか?」と。母日く「好きこと尚為す可から

ず、其れ況んや悪しきことをや?」とO

最も早-はォ)『准南子』にもこのような話がある。意志がな-、

縮こまって、独立できず、何に従ったらいいのかわからないという、

今日の女性の様々な弱点は、まさか女子生来のものでもあるまい?

数千年来の随習的、教訓的、心理的あり方が養成したものだ!

二夫の心理と妻の心理の違い

女子は嫁に行-ことを一生の目標とし、その生命を男子に寄せ

なければならない以上、多-の不平等な待遇を甘受しなければな

7て

らない。男子は多妻が許されるが、女子は節を守らなければなら

ない。男子は再婚ができるが、女子はできない。(宋以前はまだ

そんなに厳格でなかった)男子は妻を離縁することができるが、

女子は夫と離婚することができない。(漠代はまだそんなに厳格

でなかった)最も奇怪なことは、女子の心理はとか-借老同穴を

偏重するが、男子の心理は多く古い女房を棄て、新しい妻妾を迎

えることにある、ということだ。これによって生じる苦しみは、

全く筆紙に述べつくし難い。唯一の原因は、当然男子が宗法社会

の騎児で経済権を握っており、天でも神でもあるからなのだ。

男子が自由に妻を離縁するのは、次の三つの原因に他ならない。

一、子供ができない。二、容色が衰え寵愛を失う。三、男子が出

世し、勢力のある者が彼に再婚を迫る。女子の方が受ける苦しみ

といえば、怨んだり憎んだり、夫の同情を待ち望んだり、荘然と

したり、しかも帰るところがない。いずれもいささか一度に離れ

がたい恩いである。この点からして、女性の「一たび之れと斉わ

ば、終身改めず〔一度一緒になったら、一生変わらない〕」心理

が窺える。また一朝にして棄てられ、帰依するところもないとい

う苦況に陥らせる、社会の女性に対する酷い仕打ちも見て取れる。

随意に幾つか例を挙げてみよう。

『中国婦女生活史』

二婦人に子供ができないために棄てられる例

商陵牧子の「別鶴操」〔『楽府詩集』「琴曲歌解」〕にいう。

婿帝比翼今隔天端比翼烏〔雌雄共に一目一翼で、一体と

なって飛ぶ烏。転じて仲睦まじい夫婦〕

が今、天の端と端に引き離されようと

している

山川悠遠今路漫漫二人の問は山川に隔てられ、道は遠く

はてしない

摸衣不来今食忘餐衣を手に取り眠れず、食事も忘れた

夫色衰而愛絶

信古今共有之

傷親猿之無情

恨胤嗣之不滋

甘投身而同穴

終百年之常期

信無子而庶出

自典稽之常度

悲谷風之不答

怨音大之忽故

そもそも容色が衰えて愛が絶えることは

たしかに昔も今もあるもの

孤独で身寄りのないのが悲し-

跡継ぎのできないのが恨めしい

死んで共に同じ墓に入ることを望み

百歳まで一緒にと思っていたのに

たしかに子供ができなければ、出て行かな

ければならない

それは定まった綻のようなもの

「谷風」の応えなしが悲し-

昔の人が古い女房を大事にしなかったのを

怨む

牧子は妻を要って五年になるが子供ができず、父兄がこのため妻

を離嫁しようとした。妻がそれを聞いて、夜半に扉に任凡れて、悲

しげな声で泣いていた。牧子はそれを聞いて、哀れに思い、琴を

弾いてこの歌を作った。(桂豹の古今註に詳しい)夫婦仲はよ-

ても、子供ができないという理由で、父兄が二人を引き離し、自

分も妻を助けることができない。宗法社会において家長権がいか

に大き-、後継問題がいかに重要だったかがわかる。

曹Ttlの「出婦斌」にいう.

これによると、女子は自分でも、子供ができなければ出て行かな

ければならないことはわかっていて、自分を哀れみ、怨むしかな

いが、心ではやはり死んだら夫と同じ墓に入りたいという願いが

ある。夫が結局許して-れないなら、怨みを抱いて去るしかない。

女子が子供ができないために棄てられるのは、全-の濡れ衣でま

さに無念だ。現在、普通の医学常識のある人なら、子供ができな

いのは、女子だけのせいではないということを知っている。古代

にも、女子が当初子供ができないために棄てられ、再婚した後、

gig

千明城葛

一転して子供が産まれたということがあった。しかも子供ができ

ないからといってすぐ棄てれば、女子の失節を促すことになる。

漠魂以前は貞操がそれほど重視されていなかったため、この点は

随分見落とされていた。中古〔上古と近古の間。中国の歴史区分

では、親告南北朝、隔、唐の時期を指す。〕以後、人々はみな妾

を要ってこれを補ったため、婦人が子供ができないために棄てら

れるということは比較的少なくなった。

中心有達

不達伊適

薄迭我畿

誰謂茶苦

其甘如奉

安爾新昏

如兄如弟

⊂⊃

心ならずも去っていく

逮-までとは言わないけど、あまりに近いでは

ないですか

私を城門までしか送って下さらないとは

にがなが苦いとは誰が言ったの

私の苦しみに比べたら、なずなのように甘いわ

寅男は新婚を楽しんで

まるで兄弟のように仲睦まじ-

二、容色が衰え寵愛を失って棄てられる例

「谷風」〔『詩経』「邦風』〕にいう。

習習谷風

以陰以南

覗勉同心

不宜有怒

采蔚采罪

無以下膿

徳音L-t追

及爾同死

行道遅遅

そよそよと吹く谷風

時に陰り時に雨降る

心を合わせて勉め励んできたのに

怒るなんてどうかしてる

黄や非〔いずれもかぶらの類〕を採る時は

根の方だけ採らないで

夫婦で交わした言葉に相違がなければ

寅男と死ぬまで一緒にいれたのに

道をのろのろと気の進まぬまま

引いたのは二章全十六句だ。始めの四句は、夫は私に対して、こ

んな仕打ちをすべきではない、次の四句は、自分は「岩男と死ぬ

まで一緒にいたい」という願い、次の四句はいよいよ出ていくこ

とになり、夫は私を途中までしか送らないが、私は名残惜しい、

最後の四句は、私が苦しんでいる一方で、夫は新妻と新婚生活を

楽しんでいる、と述べている。以下彼女は夫の「放きを厭い新し

きを喜む」や、彼女の昔の苦労、二人の仲の睦まじかったこと、

夫への怨恨など多くを語っている。

王条「出婦賦」にいう。

『中国婦女生活史』

君不篤今終始

柴枯夷今一時

心揺蕩今愛易

忘奮贈号棄之

貴男には終始誠というものがない

枯楊を楽しむのも一時のこと

心は揺れ動き変わり易-

旧い女房のことは忘れ、さっさと棄ててし

ま'つ

曹植(:)「出婦賦」にいう。

悦新婚而忘妾

哀愛患之中零

恨無恵而見西

悼君施之不忠

新婚生活が楽し-て私のことはお忘れだろう

恩愛を哀しむ中、私は落ちぶれている

過ちの無いのに棄てられたことを恨み

寅男の恩恵が途中で尽きたことを悲しんで

いる

憶昔来嫁君

聞君甚周旋

及輿同結髪

値君適幽燕

孤魂託飛鳥

両眼如流泉

流泉咽不下

寓里閲山道

及至見君蹄

君蹄妾己老

物情棄衰残

新寵方折好

昔寅男のところへ嫁いできたのを思い出す

寅男は甚だ交際が広いと聞いていた

結婚したと恩ったら

寅男は幽や燕の国に旅立ってしまった

私の孤独な魂は空飛ぶ鳥に託して

両の目には泉の如-涙が溢れた

涙は呑み込めず

山道が万里にわたって間を隔てた

とうとう童男は帰ってきた

岩男が帰ってきた時、私はもう年をとっていた

年増の女は離縁して

新たに今を花とばかりの娘を寵愛するのが人

の情けというものね

顧況(:)「棄婦詞」

古人堆棄婦

棄婦有蹄虞

今日妾僻君

僻君欲何去

本家零落姦

痛巽東時路

にいう。

古人は婦人を棄てたというけど

棄てられた婦人には帰るところがあった

今日私は貴男の許を去ることになったけど

血員男の許を離れてどこへ行けばいいの

実家は落ちぶれてしまい

嫁に来る時通った道を泣きながら歩いている

上に引いたのはいずれも「新しきを得て旧きを棄つ」を描いたも

のだ。とりわけ顧況のこの一首は、数年問貞節を守ったのに、逆

に棄てられてしまうという、その無限の苦しみを述べている。こ

れと同じような情況が、今日過渡期にある中国でも見られ、夫が

学問で成功した後、家で待っている妻を棄てることが、実に多い

のだ!

しかし年をとって容色が衰えるのは、自然現象であって、婦人

千明城葛

自らに、どうして制御できるものだろう?蓑宏道の(S)「妾薄命」

にいう。燈

光不到明

寵極心還壁

只此讐蛾眉

供得幾回扮

看多日成故

未必虞衰老

辞彼自開花

不若初生草

灯の光が明るくなる前に

寵は極まり、また心変わり

ただ此の眉だけは

何度見られたことか

何度も見られたら、当然珍し-な-なるもの

ほんとうは年をとったのではない

かの数回咲いた花は

生え始めの若草にはかなわないだけのこと

幾度暁放成

君看不言好

妾身重同穴

君意軽借老

何度朝化粧をしても

貴男はきれいと言って-れない

私は借老同穴を願っているのに

寅男は気にも留めてない

男女両性の心理は、こんなにも違う。婦人の苦しみが極まると、

婦人は自ら飾り琢いて男子の心に取り入ろうとするが、それでも

また極まってしまう。これは婦人が男子の力に頼って生活する以

上、どうしても避けられない現象である。その害毒が残留するゆ

え、今日の社会でも、健全な女性はなかなか見つけ出しに-いの

だ!

この数句は、表面的にはこのように自然現象を直接述べているが、

実は女子が容色が衰えて棄てられることが、いかに菟罪であるか

ということを、私たちに明示している。「看多日成故〔何度も見

られたら、当然珍し-な-なる〕」とは、実に意味が深い。いわ

ゆる「女房は他人の妻がいい」というのは、こういうわけだ。白

居易「婦人苦」は冒頭から、

三、男子が出世して再婚する例

蝉賛加意杭

蛾眉用心掃

賢は特に注意して杭かす

眉は気をつけて掃う

これはすなわち古語でいうところの「蕩子名を成さば、必ず糟

糠の婦を棄つ」である。古来その例は甚だ多い。『古詩紀』〔明、

鳩惟訊撰〕に實元の話が載っている。それによると、「實元状貌

絶異なり、天子其の妻を出ださしめ、妻すに公主を以てす。妻悲

怨し、書及び歌を寄せ元に与え、書に云う。棄てられし妻斥けら

れし女、敬して寮生に白す。卑購都随なるは、貴人に如かず。妾

日に以て遠く、彼日に以て親し。何所にか控訴せん、蒼支を仰ぎ

『中国婦女生活史』

て呼ばん、悲しい哉、實生。衣は新しきに如かず、人は放きに如

かず。悲しみ忍ぶ可からず、怨み去る可からず。彼の独り何人か、

而ち斯処に居らん。」

(:)『〔洛陽〕伽藍記』〔巻三「城南」〕にこんな記載がある。「王粛、

字は恭放、娘邪の人なり。腺学多通、才辞美茂なり。高祖新たに

洛邑を営し、造制する所多-、粛旧事に博識たり、大いに事え稗

益あり、高祖甚だ之れを重んず。粛江南に在りし日に、謝氏の女

を解り妻とす。京師に至るに及び、復た公主を尚る。謝遂に五言

詩を作り以て之れに贈る。其の詩に日く、

本烏簿上葦

今作機上麻

得路逐勝去

頗憶纏綿時

もとは姦簿の中の姦

今は機上の糸となる

路を得て勝ちを逐って去り

かつての纏綿たる日々がとても懐かしい

公主粛に代わりて謝に答えて云う、

城是貰練物

日中恒任麻

得吊逢新去

何能納故時

鋤の孔は常に糸を通しておくもの

鋤の目は恒に糸に任しておくもの

絹を得たら、新しい糸で縫う

どうして旧い糸を中に納めていられるでしょうソ・

この二首の意味は共に明白だ。前の1首は謝氏の作で、以前は姦

簿にいて日々相親しくしていたが、それはどんなにか纏綿として

離れ難かったことか、今は糸になって機上に去り、ただ昔の蚕簿

だけが残った。〔私は〕そこで、二人が親密だった昔の恩い出に

ひたっている、と述べている。後の1首は公主の作で、針の孔は

いつも糸を通しておかなければならない、新しい布を縫う時は、

当然新しい糸に換えなければならない、あの古い糸をそのまま使

えるだろうか?と述べている。傷つけられた女性は、自分の傷の

痛みや苦しみを忘れてしまうだけでな-、男子が同性を傷つける

手助けをするという、これはそのいい例だ。だから粛はこの詩を

読んで、さぞかし謝氏にすまな-思っただろう!

昔の詩人は女子は知識人に嫁がないよう主張した。知識人は最

も薄情で、苦学している時は空し-貞操を守らせておき、ひとた

び出世するや妻を離縁して再婚しようとする。事実そうなのだ。

知識階級がこんなふうでは、女性の運命はもっと悲惨なものでは

ないか?

婦人が棄てられた後の悲しみは、どんなものか?戴叔倫の(wJ

「去婦怨」にいう。

千明城葛

下坂車梯輯

畏逢郷里親

空持淋前幌

怯見家中人

坂を下る車が輯鱗と音をたてて行-

故郷の親に合わせる顔がない

独り空し-林前のとばりを引き

家人に全うのを恐れている

孟郊の「去婦」詩にいう。

妾心頼中線

雌断猫牽連

私の心は蓮根の糸のよう

切ってもなかなか切れない恩い

一女事一夫

安可再移天

女は一人の夫に仕えるもの

どうして夫を変えることなどできようか

やはり夫のために貞操を死守しようというのだ。

三女子に才能がないのは才能があるのと同じように辛い

女子は生まれながらにして差別され、嫁に行った後、また1朝

にして棄てられたり或いは〔夫の〕愛が冷めることへの恐れがあ

る。社会の不公平はこれで十分といえる。そのうえ私たちはあ-

Eq

までも女子は生来よからぬものという。「惟だ女子と小人とは養

い難しと為す也。」(孔子のことば〔『論語』「陽貨」〕)とか、「天

下私し易-化し難き者は、惟だ婦人のみ。」(呂樹『春官外署語』)

などいずれも女子には生まれながらに弱点があると考えられてい

る。一人の人間の手足を縛って地面に放っておきながら、彼女が

立って正常な人と同様に競走できないのは、彼女の生来の弱点だ

という。これはどんな論理だろうか?これでもまだ足りず、婦女

を拘束し制御する様々な方法を作った。例えば「帰有園塵談」

〔明、徐学謹撰〕によると「婦人の悲しむや、其の夫益ます之れ

が為に悲しめば、其の悲しみ方に己む。婦人の怒るや、其の夫転

じて之れが為に怒れば、其の怒り平らぐ可し。」また「(5)婦人字

を識らば、多-淫を請う。」という。だからほとんどの婦人には

絶対に字を教えない。「女子は才無きが便ち是れ徳なり」という

言葉は、明代になって初めて見られる。ここでいう「才」とは才

智の才ではな-、狭義の字が読めるという意味だ。だから「女子

は才無きが便ち是れ徳なり」の真相は、「婦人字を識らば、多-

淫を高う。」である。事実がどうなのかについては、後で詳しく

述べよう。ここではただ女子に字を教えない、ほんの僅かの知識

も与えないという考えがいかに狭-、そんな生活がいかに卑随な

ものか、いかに哀れであるか、を説明するにとどめよう。(2)「軒

渠録」〔宋、呂居仁撰〕にこんな笑い話が載っている。当時にあっ

『中国婦女生活史』

ては人を笑わせるものに過ぎなかった。今から見ると、字が読め

ない女子がいかに哀れかということを感じる。その笑い話とは、

で下さい。」と言った。

1族の叔母の陳氏はしばら-厳州に寓し、息子たちは仕官して

他国におり、まだ帰らなかった。一族の甥の大堤がたまたま厳州

を通り、陳叔母さんのところに寄った。陳叔母さんは彼に息子へ

の手紙の代筆を頼み、口授していうには、「子供はいたずら、乳

母もまたいいかげんな女だ。ついでの時でいいから小さな鉄を一

つ買ってきてお-れ。私は足の症を切りたい。」大環は蹟跨って

書けない。叔母さんは笑って「なんだ、この子も字は書けないん

じゃないか!」と言った。この話を聞いた者はみな晒った。

同じような話をもう一つ。昔、都にある軍人の妻がいた。その

夫は従軍してよそにいた。妻はかつてある秀才の教師に数十銭出

して、その夫への手紙の代筆を頼んだ。彼女が言うには、「窟頼

児の母ちゃんから窟頼児の父ちゃんに伝えたいことがあります。

窟頼児は父ちゃんが行ってから、ずっといい子にしています。毎

日キャッキャッと笑ったり、ボンボン跳ねたりしています。最近

の天気は急に寒-なったり暑-なったりだから、食事には気をつ

けて、不衛生な物や変な物は口にしないで下さいね。」秀才は長

いことじっと考え込み、お金を返して「誰か他の人に代筆を頼ん

これは笑い話であり、物語でもある。しかし今日二億の女子がこ

のように「(2)字が読めない」わけで、しかも〔その数は正確には〕

どのくらいいるのかもわからないのだ!

女子は専ら嫁に行って子を産むことを生活の目標とする以上、

知識は必要でない。詩文書画は遊びでしかない。明代以降、この

遊びは正人君子にとって、取るに足りないものとなった。女博士、

女状元、女進士など様々な呼称に至っては、尚更玩弄に過ぎなかっ

た。幾つか例を挙げてみよう。

一、前局〔五代十国の一〕の黄崇敬はいつも男装していた。両

川〔東川と西川、今の四川省〕を遊歴し、あることが原因

で下獄した。詩を局の宰相の周序に献じたところ、序は彼

女を司戸参軍の代理に推薦した。政務を機敏に執り行い、

序はその才を愛し、自分の娘を要らせようとした。蝦は

「幕府若し坦腹〔娘婿〕たるを容さば、願わ-は天速やか

に変じて男児となさん。」と、詩を作って心意を伝えた。

序は詩を読んでとても驚き、彼女に尋ねて初めて彼女が女

だと知った。人々はその才能を尊敬し、女状元と呼んだ。

千明城葛

二、魂の文帝の甑后は九歳で書を好み、常に諸兄の筆硯を用い

た。その兄は「お前を女博士と呼ぼうか?」と言った。

三、「雑録」に魂の明帝は、教養もあり信用できる女子を六人

選んで女尚書とした、とある。

四、北魂の元儀の妻胡氏は拝されて侍中〔皇帝の側近の侍従官〕

になった。

五、南斉の韓蘭英は文才があった。末の孝武帝の時、「中興賦」

を献じ、賞賛され宮中に入って仕えた。斉に入ると、武帝

が博士として彼女に六害〔皇后、皇妃のいる宮殿〕で学問

を教えさせた。

六、「南楚新聞」〔唐、尉遅枢撰〕に、「関図には文章に優れた

妹がいる。人に語るたびに、進士が一人いるが、ただ髪を

杭かないのが残念だと言った。」とある。

七、(g)『南史』〔巻十二「張貴妃列伝」〕に陳の後主は、女官の

蓑大捨らを女学士として、押客を招いて後宮で宴を催した

時、皆に新詩を賦させ、そのうち最も艶麗なものを選んで、

Ei iZI

それを歌曲にして歌わせた。その中に「玉樹後庭花」があ

り、およそみな諸妃嬢〔女官〕の容色を讃えたものだった。

八、末の延芳の五人の娘のうち、長女は若草、次女は若昭とい

い、いずれも文章がうま-、嫁に行きたがらなかった。学

問で以て世に名を成さんとした。末の仁宗はかつて五人を

召して宮中に入れ、経史の大義を尋ね、女学士と呼んだ。

後にこの五人の学士はみな仁宗の特別な寵愛を受けた。

九、末の林妙玉は女進士と号した。

十、斉の東陽の女子婁蓬は、変装して男子になりすまし、将棋

ができ文意をよ-解し、揚州まで行って仕官した。後にあ

る事が原因で、婦人服を着て嘆いて「このような技〔変装

のこと〕があるので、却って老婆になるのか!」と言った。

以上の十人の外に、南唐〔五代十国の一〕の元宗は秋謙の娘を

別院におらせ、秋先生と称した。南漠〔五代十国のこの慮壊仙

は女尚書と称した。明の秦良玉は石柱司の士官〔旧時、少数民族

地区で朝廷から任命された、その民族出身の役人〕になった。女

子は至る所で差別され、人の上に立ちたいと思うなら、男子を標

『中国婦女生活史』

模するしかない。豊図らんや最後はやはり「却って老婆になるの

か!」ということになる。だから女に生まれるというのは苦命で、

一生苦しまなければならないのだ。〔晋の〕侍元〔侍玄とも書く〕

の(;)「苦相篇」は、女子の苦況について述べたものの中では、最

高の作品だ。女子は幼年時代にどんな差別を受けるのか?彼によ

ると、

忽如雨絶雲

低頭和顔色

素歯結朱唇

脆拝無復敷

婦妾如厳賓

突然雨が雲を絶つ

頑を低-垂れて顔色を和らげ

白い歯に赤い唇を結ぶ

叩頭を何度も繰り返し

女中や妾は厳めしい賓客のよう

夫の歓心が得られたらどうか?彼によると、

苦相身鵠女

卑随難再陳

男見嘗門戸

堕地自生神

雄心志四海

高里望風塵

生女無欣愛

不馬家所珍

長大避探室

戒頭蓋見人

苦相をもった者の身は女

卑随なことはこれ以上述べようがない

男児は家を起こし

生まれ落ちると同時に自ら神の力を生じる

雄々しい心は四海に志し

万里に仕官の志を抱-

女に生まれたら欣ばれず愛されず

家の者に珍重されない

大き-なると奥の部屋に龍もりきり

顔を蔵して人に会うのも恥ずかしい

情合同雲漠

英牽仰陽春

情はさながら牽牛と織女のよう

ひまわりが太陽に向かうように、夫を尊敬し

忠誠を尽-す

夫の歓心が得られなかったらどうか?彼によると、

心事甚水火

百戻集其身

心は率いて、水火のように甚だしく

百の答が私の身に集まる

嫁に行く時はどうか?彼によると、

夫の歓心が得られるか否かにかかわらず、年をとって容色が衰え

たらどうか?彼によると、

一七ご

垂涙適他郷涙を流してよその土地にお嫁入り

玉顔随年愛玉顔も年とともに変わる

千明城葛

丈夫多好新

昔鳥形興影

夫は新しい女をより好む

昔は影となり形となって片時も離れなかった

ものを

今鵠胡興秦今となっては胡〔北秋〕と秦の国ほど遠-離

れてしまった

把酒長吟太白篇

懐壮志、欲沖天

木蘭崇蝦事無縁

玉堂金馬生無分

好把心情付夢詮

酒を片手に詩を吟じた李白を羨まし-恩う

壮志を懐き、天を衝かんとする

木蘭や崇蝦のような故事に嫁がない

玉堂金属にも生来嫁がない

好んで心を夢の解明に寄せる

胡秦時相見

一絶倫参辰

胡と秦は時々顔を合わせるが

ひとたび関係を絶つと参星と商星〔参辰は参

商。参星は南南に、商星は東方にあり、二星

は同時に見えることがない。〕以上に遥かに

隔たり、二人は会うこともない

畢秋帆の太夫人は彼女のために詞を二首題した。一首は彼女を慰

める意がある。その詞に、

不鵠海上騎鯨客

暫作花間化蝶人

人間社会において女子は苦しみから逃れられないので、ただ来世

で男に生まれ変わることを願うしかない。現世ではただ自らを怨

むしかない。清の乾隆年間に王竃という女性がいて、いつも自分

が巾梱〔婦人〕に列せられるのを悔し-恩い、「繁華夢」という

伝奇を作って、胸の内を叙述した。自ら「鵬鵡天」という一首の

詞を序にしていう。

是幻是真都是夢

三生誰謹本来身

海の騎鯨客〔李白が自ら著した〕とならず

しばら-は花の中で胡蝶と化した荘周に

なりなさい

幻も現実もすべて夢なのです

三世のうちどれが真実の姿かというのは

誰にもわかりません

「是幻是真都是夢」という七文字は、かつて全ての女子の人生に

対する自慰の蔵言であったのだ!

閏閣沈埋十数年

不能身貴不能仙

讃書毎羨班超志

閏房に埋め沈められること十数年

身は貴-なれず、仙人にもなれない

本を読むたびに壮志を抱いた班超や

『中国婦女生活史』

四この間の歴史的背景

説新語』など〕の(S3)「幽明録」にこんな話が載っている。

女子を職業も知識も意志も人格もな-、男子の奴隷として、あ

る人間の専有の玩弄物として、自分を痛めつけることで、男子に

娘を売るような人間にしたのは、もとはと言えば男尊女卑のせい

である。これを踏襲することすでに久し-、固よりこんなものだ

と思い、また一切の行動がこれに基づいて行われる。つまり女子

は一生ただ柔順貞節でしとやかで、褒められも答められもしない

ことが求められた。この原則を犯したら、大胆で淫蕩とされる。

従って私たちの有史以来の女性は、虐げられた女性で、私たちの

女性の生活の歴史は、虐げられた女性の歴史である!本書は聖母

とか賢母とかを称賛しようというのではない。女帝とか女傑とか

を推戴し、女性のために恨みを晴らそうというのでもない。なぜ

なら彼女らは、大多数の婦人の生活とは何ら関わりがないからだ。

私はただ男尊女卑という恩想が、どのように広められ、女性への

虐待がいかに増長され、現在の女性の背中にどんな歴史の脱け殻

が伸し掛かっているかを示し出したいのだ。

男尊女卑という恩想は、すでに最初に述べたように、宗法社会

の産物だ。宗法社会の組織は男系氏族制の組織であり、それ故に

このような恩想を形成した。今、更に明確にするために、ある故

事を具体的な例として挙げよう。劉義慶〔南朝末の人。著に『世

晋の昇平元年(民国の一五五五年前)刺県〔今の漸江省峡県

の西南、刺中〕の陳素の家は富裕であったが、嫁を要って十

年、子供ができなかった。夫が妾を要ろうとしたので妻が両

の神に祈稿したところ、忽ち身寵もった。隣家の小人の妻も

同時に身龍もった。そこで隣家の妻に贈り物をして「私がも

し男の子を産んだら、願ったり叶ったりだけど、もしうちが

女の子で、お宅が男の子だったら、交換して下さい。」と言

い、互いに承諾した。隣人は男の子を産み、陳の妻は三日後

に女の子を産んだので、約束通り交襖した。素は喜んだ。男

の子が十三歳になり、両の祭把に当たり、家の老女中がはじ

めに霊を見て「お宅のご先祖は、門までいらっしゃったけど、

先頭の方がお止まりになり、ただ小人どもが御座所に来て、

祭把の供え物を食べています。」と言う。素の父が不審に思っ

て、祈稿師を両に迎え、見てもらったところ、同じことを言っ

た。そこで素が妻に尋ねると、妻は恐れてこのことを話し、

男の子を元の家に返し、娘を呼び戻した。

この話で重要なのは、もし男の子が生まれなかったら、父祖は

子孫の祭紀が受けられないということを、明らかに真に迫って表

-n.

千明城葛

明していることだ。私たちは千五百年余りの間に、この影響をど

れほど受けてきたかしれない。この話は、孟子のいう「不孝に三

あり、後無きを大なりと為す」〔『孟子』「離婁」〕という言葉の意

味を、説明しっくしている。私たちのこの『中国婦女生活史』は

上は古代より下は民国まで、三千百年足らずを扱っているが、こ

の話は今から千五百年余り前にできた。つまりこの本で取り上げ

る歴史のちょうど中間の時代に当たる。その精神は全歴史の中に

禰浸しているといってもよい。それは全歴史の背景であるといっ

てもよい。

この十年来社会の状況は変わり、宗法組織は崩れ、女性はすで

に新しい生活のあり方が可能になりつつある。しかし三千年の歴

史の圧迫により、一度に解放されることは不可能である。私は今、

明犀〔角の光る犀の角〕を燃やして、この大きな圧石を照らして、

読者の皆さんに、この三千年の歴史が、いったいどんな妖怪変化

であったかをよく見極め、その後、新しい生活がどこへ向かうべ

きか知っていただきたい。

〔注〕(-)原文は陳東原『中国婦女生活史』(上海商務印書館、一九

二八年)に拠った。

(2)原文は「動輪得答」。韓愈「進学解」に「前を抜み後ろに

贋き、動もすれば轍ち答を得。」とある。

(3)以下〔〕は訳者による補注である。

(4)原文の引用にはないが、『重較説邪』巻七十所収の「女誠」

では「明其卑弱主下人也」と「主」の字がある。

(5)『釈名』(漠、劉鷹の撰)「釈長幼」にある。

(6)原文の「元」「婦」は、四部叢刊本『汲家周書』では「玄」

「女」に作る。

(7)『儀礼』「喪服」の「出妻之子爵母」の疏に「七出、子無し、

一也。淫夫、二也。男姑に事えず、三也。口舌、四也。盗

窃、五也。妬也、六也。悪疾、七也。天子諸侯の妻、子無

くも出さず、唯だ六出有るのみ。」とある。

(8)原文は「相敬如賓」。『後漢書』巻八十三「廃公伝」に「鹿

公は南郡嚢陽の人也。山の南に居り、未だ嘗て城府に入ら

ず、夫妻相敬うこと賓の如し。」とある。

(9)『韓氏外伝』巻九に「孟子が妻、独り居り掘る。孟子戸を

入り之れを視、其の母に白して日く、婦礼無し、請う之れ

を去らしめんと。母日-、何ぞやと。日-、据まれりと。」

『中国婦女生活史』

とある。

(S)『列女伝』「鄭孟珂母」に「孟子既に要り、将に私室に人ら

んとす。其の婦、担ぎて内に在り。孟子悦ばず、遂に去り

て入らず。」とある。

C=!)『准南子』「説山訓」に「人の其の子を嫁がす有りて、之れ

に教えて日く、爾行うや慎みて善を為す無かれと。日-、

善を為さずんば、将に不善を為さんとするかと。之れに応

えて日く、善且つ由為さず、況んや不善をやと。」とある。

¥t-¥)原文の「患」「西」「忠」は、『全上古三代秦漠三国六朝文』

(中華書局)巻十三所収の曹植「出婦賦」では、それぞれ

「恵」「弄」-「終」に作る。意味が通り易いことからそれぞ

れ後者を採る。

sco¥原文の「痛」「下」「残」は、『全唐詩』(中華書局)巻二百

六十四所収の顧況「棄婦詞」では、それぞれ「働」「燥」

「歓」に作る。

蝣^n原文の「自」(第七句)は、『蓑宏道集等校』(上海古籍出

版社)巻十三所収の蓑宏道「妾薄命」では「敷」に作る。

意味が通り易いことから「敷」を採る。

fLO¥原文の「恭」「事」(「大事稗益」の「事」)「簿」「賊」「納」

は花祥薙注『洛陽伽藍記校注』(上海古籍出版社、如隠堂

本に拠る)は、それぞれ「公」「有」「箔」「針」「柄」に作

る。

f^原文の「怯」「見」は、『全唐詩』(中華書局)巻二百七十

三所収の戴叔倫「去婦怨」では、それぞれ「郁」「寄」に

作る。

(」)原文の引用にはないが、『説邪続』巻三十一所収の「帰有

園塵談」では、「婦人識字多致議淫」と「致」の字がある。

(。oN

vi-iy原文の「把」「出」「恨」「借」は、王利器輯録『歴代笑話

集』(中流出版社)所収の「軒渠録」(宋呂居仁撰、滴芥楼

排印明抄本『説郡』巻七に拠る)では、それぞれ「柄」

「苗」「根」「請」に作る。ここでは原文を採る。標点の付

け方は原文では「天色江嚢不要吃、温香煙託底物事。」だ

が、王利器によると「天色江嚢、不要吃温香煙托底物事。」

で、ここでは「江嚢」を「気候が急に暑-なったり寒-なっ

たりする」意(龍潜庵著『宋元語言辞典』に拠る)にとり、

標点は王利器を採る。

原文は「不識不知」。『列子』「仲尼」に「尭乃ち微服にて

康衝に源び、児童の謡うを聞いて日-、我を立てし蒸民、

爾が極に匪ざるは美し。識らず知らず、帝の則に順う。」

とある。

『南史』巻十二「張貴妃列伝」に「宮人に文学者蓑大捨等

有るを以て女学士と為す。後主諸貴人及び女学士と押客を

千明城葛

して共に新詩を賦し、互いに相贈答せしむ。其の尤も艶麗

なる者を采り、以て曲調と為し、新声を以てせらる。官女

に容色有る者を選ぶに千百を以て数え、習いて之れを歌わ

しめ、部を分け迭進し、持ちて以て相楽しむ。其の曲に玉

樹後庭花、臨春楽等有り。其の略に云う、望月夜な夜な満

ち、壇樹朝な朝な新たなり。大抵の帰する所皆、張貴妃、

孔貴嬢の容色を美む。」とある。

原文の「生」「女」「避」「百」は、『先秦漢魂晋南北朝詩』

(中華書局)所収の樽玄「苦相篇」では、それぞれ「女」

「育」「逃」「悪」に作る。

(S3)原文の「若生」「人」「且」は、魯迅『古小説鈎沈』所収の

「幽明録」では、それぞれ「生若」「入」「目2に作り、原

文中「便還男本家」の「便」はない。

(1九九六年七月三十一日受理)