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1 大阪府柏原市、雄略天皇、高井田横穴の構造と分析 -古墳、百済の昆支王、凝灰岩、線刻壁画、観光洞窟- 沢 勲 * ・小山 博 ** ・中 良紀 *** ・藤田康雄 * (洞窟環境 NET 学会 * ・河内新聞 ** ・大阪経済法科大学 *** Structure of Takaidayama-Cave and it Analysis The Emperor Yuryaku, Kashiwara-City, OSAKA - Kofun, Konki-King, Tufa, Petroglyph, Sightseeing Cave- Isao SAWA ** Hiroshi KOYAMA ** Yoshinori NAKA *** Yasuo FUJITA ** ABSTRACT This study clarifies the local history and is intended to make the document of cultural heritage studies. This report is a part of the general academic investigation of the Cave Environmental Net Society which went in "Takaidayama-Cave" which is Kashiwara-City, OSAKA, an area of ancient Settsu Province. The writer analyzed data by a scientific management method. The location of Takaida-Cave is 34°34'22" N and 135°38'38" E, and altitude is 82.5m. This report is part of the general academic investigation of Cave Environmental NET Society for a region of Osaka Prefecture Kashiwara of ancient "Takaidayama-Cave". The scale of Kofun is respectively (1.Grave way-width /2.11-1.52m, 2.Endou-width /1.32-0.90m, 3.Endou-length/1.54-1.02m, 4.Endou-height/1.28-1.04m, 5.Genshitu-Width/3.23-2.26m, 6.Genshitu-length/3.51-2.60mcm and 7.Genshitu-height/1.82-1.25m). Petroglyph in Group 3 No.5 mound has thought to carry the soul of the ship / dead person to the next world. Furthermore, the ship which expressed sail and a rudder is seen. Petroglyph in Group 3 No.7 mound are those depicting the lotus flower in Sen-Gate. Considered similar Buddhist thought to Baekje system. Petroglyph in Group 3 No.10·13 mound, the weapon / spear, seemed halberd, bow, the arrow, it is the purpose to protect the dead from evil spirits. Petroglyph in Group 3 No.13 mound is related to thought that the soul of the person from bird / becomes the bird posthumously and goes to the next world. キーワード古墳、百済の昆支王、凝灰岩、線刻壁画、観光洞窟 KeywordsKofun, Konki-King, Tufa, Petroglyph, Sightseeing Cave [洞窟環境 NET 学会 紀要 8 号][Cave Environmental NET Society(CENS), Vol.8(2017) - pp目次 1.はじめに、 2.高井田山古墳の構造、 3.高井田山古墳と百済、 4.高井田横穴第 3 支群、 5.高井田横穴第3支群の規模の情報処理、 6.おわりに

NET *** Structure of Takaidayama-Cave and it …Takaida-Cave is 34 34'22" N and 135 38'38" E, and altitude is 82.5m. This report is part of the general academic investigation of Cave

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大阪府柏原市、雄略天皇、高井田横穴の構造と分析

-古墳、百済の昆支王、凝灰岩、線刻壁画、観光洞窟-

沢 勲*・小山 博**・中 良紀***・藤田康雄*

(洞窟環境 NET 学会*・河内新聞**・大阪経済法科大学***)

Structure of Takaidayama-Cave and it Analysis

The Emperor Yuryaku, Kashiwara-City, OSAKA

- Kofun, Konki-King, Tufa, Petroglyph, Sightseeing Cave-

Isao SAWA**・Hiroshi KOYAMA**・Yoshinori NAKA***・Yasuo FUJITA**

ABSTRACT

This study clarifies the local history and is intended to make the document of cultural heritage

studies. This report is a part of the general academic investigation of the Cave Environmental Net

Society which went in "Takaidayama-Cave" which is Kashiwara-City, OSAKA, an area of ancient

Settsu Province. The writer analyzed data by a scientific management method. The location of

Takaida-Cave is 34°34'22" N and 135°38'38" E, and altitude is 82.5m. This report is part of the general

academic investigation of Cave Environmental NET Society for a region of Osaka Prefecture

Kashiwara of ancient "Takaidayama-Cave". The scale of Kofun is respectively (1.Grave way-width

/2.11-1.52m, 2.Endou-width /1.32-0.90m, 3.Endou-length/1.54-1.02m, 4.Endou-height/1.28-1.04m,

5.Genshitu-Width/3.23-2.26m, 6.Genshitu-length/3.51-2.60mcm and 7.Genshitu-height/1.82-1.25m).

Petroglyph in Group 3 No.5 mound has thought to carry the soul of the ship / dead person to the next

world. Furthermore, the ship which expressed sail and a rudder is seen. Petroglyph in Group 3 No.7

mound are those depicting the lotus flower in Sen-Gate. Considered similar Buddhist thought to Baekje

system. Petroglyph in Group 3 No.10·13 mound, the weapon / spear, seemed halberd, bow, the arrow,

it is the purpose to protect the dead from evil spirits. Petroglyph in Group 3 No.13 mound is related to

thought that the soul of the person from bird / becomes the bird posthumously and goes to the next

world.

キーワード:古墳、百済の昆支王、凝灰岩、線刻壁画、観光洞窟

Keywords:Kofun, Konki-King, Tufa, Petroglyph, Sightseeing Cave

[洞窟環境 NET 学会 紀要 8 号][Cave Environmental NET Society(CENS), Vol.8(2017) - pp]

目次

1.はじめに、

2.高井田山古墳の構造、 3.高井田山古墳と百済、

4.高井田横穴第 3支群、 5.高井田横穴第3支群の規模の情報処理、

6.おわりに

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1.はじめに

柏原市は、面積:25.33km2 で、大阪府中河内地域に位置する市である。柏原市は、ぶどう栽培が盛ん。また古墳

や遺跡も多く、市内にある横穴墓が高井田横穴群、玉手山横穴群2箇所にある。柏原市は大和川と石川合流点に

ある。市域北西部は比較的平坦である。市域北部には生駒山系から続く山がそびえている。大和川を挟んで南側

は金剛山系に連なる山地となる。隣接している自治体は、大阪府の八尾市、藤井寺市、羽曳野市と奈良県の香芝

市、王寺町と三郷町である。歴史は古く、3万年ほど前の後期旧石器時代、4世紀から7世紀頃に作られた遺跡や

古墳は現在でも市内に数多く残っている。古代より大和川が大和から難波へと抜ける地点に位置している為、交通

の要所としても栄えた。

高井田山古墳は、生駒山地最南端に位置する柏原市高井田付近の丘陵

の崖(軟弱な凝灰岩層)を掘削した。横穴式石室に似た構造に造られた墓室

が 200基以上も構築されてあるものと推測されおり横穴墓群の規模としても

最大級。大正6(1917)年に発見されており、その当時から線刻画の存在が

報告されている。

高井田横穴群は地形などから4グル-プに分けられ第1-4支群と呼ばれ

る。この中で、第2から4支群が国の史跡に指定され、史跡公園として整備さ

れている。横穴は第3支群 22-24号墳である。

線刻画の内容は人物、船、鳥、馬、魚、樹木、花、渦巻文、太陽、家屋な

どであり、人物の服装、船体のゴンドラ風の形から、古墳時代に彫り描かれた

ものであるのは明らかである。6世紀前半から構築が始まり、7世紀まで構築が続いたようである。当時の風俗、宗

教思想を知る上で貴重な資料となっている。

本論では、第 3支群の 5, 6, 7, 21 と 22の 5つの号墳について、情報の数値解析を行った。高井田横穴群

第3支群の玄室面積において、最小玄室は 21号墳:5.88m2で、準最小玄室は5号墳:6.79m2である。中間玄室

は7号墳:6.94m2である。次に大きい玄室は 22号墳:8.51m2である。最後に、最大玄室は6号墳:11.34m2であ

る。高井田横穴群第 3支群の玄室体積において、最小玄室は 21号墳:7.35m3で、準最小玄室は5号墳:10.32m3である。中間玄室は7号墳:11.03m3である。次に大きい玄室は 22号墳:13.62m3である。最後に、最大玄室は6

号墳:20.63m3である。

『日本書紀』によると、雄略天皇 5(461)年 4 月、百済王子の昆支王は、父の加須利君(21 代蓋鹵王)により日本

に遣わされた。その際、蓋鹵王の夫人を一人賜り、身籠っていたその夫人が6月に筑紫の各羅嶋(加唐島)で男児

を産んだ。この男児は嶋君(斯麻)と名付けられて、母子ともに百済に送り返され、後の武寧王となった。7月宮廷に

入ったが、この時既に 5 人の子があった。21 代雄略天皇 23(479)年 4 月、百済の文斤王(23 代三斤王)が急死し

たため、昆支王の5人の子供のなかで、第2子の末多王が幼少ながら聡明だったので、天皇は筑紫の軍士 500 人

を付けて末多王を百済に帰国させ、王位につけた。これが 24 代東城王である、という。しかし、短時間の調査であ

ったため未解明の事項が少なくない。今後も調査を継続する予定であるが、とりあえずこれまでの成果の所見を整

理した。国際化時代に相応すべく、由来について年表と内容を纏めることができた。

写真 1-1.高井田山古墳

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2.高井田山古墳の構造

2-1.高井田山古墳の墳丘

墳丘とは一般に、上に土あるいは石を積み重ねて丘のような形である。墳丘は塚、マウンド(Mound)、土饅頭な

どと呼ぶ。日本の古墳は、弥生時代から現代の陵墓に至るまで造られている。高井田山古墳の墳丘の北側は宅地

として造成され崖となり、西側は道路建設中に削られ、急斜面になっている。南側と西側は人為的な改変を被って

いないが、発掘箇所では表土下数十センチで地山から盛土の大半が流失している。前方後円墳の可能性もある

が一応、直径 22mの円墳と推定できる。

石室内の土砂からは円筒埴輪や朝顔形埴輪さらに蓋形埴輪が合わせて9個体分出土しているが、後述する横

穴式石室の上部が盗掘などにより崩落した時に墳頂部から転落したものと考えられる。弥生時代の墳丘墓を古墳

時代の古墳と区別して特に墳丘墓(弥生墳丘墓)と呼ぶ。古代の王あるいは権力者が巨大な墳丘墓、庶民が葬ら

れたのは小型の群集墳などもある。石造の四角錐状のものは特にピラミッドと呼ばれる。

2-2.羨道部

羨道部は閉塞石を保存したため正確なところは不明である。近畿地方の横穴式石室の最古の時期に属する藤

の森古墳との類似点や朝鮮半島百済の初期横穴式石室の影響も指摘されている。当古墳の横穴式石室を畿内

型横穴式石室の最古型式とする考えもある(白石太一郎)。出土須恵器の編年から見て藤の森古墳の石室より 1

段階降るとしながらも、玄室が藤の森古墳より幅広のプランの高井田山古墳の石室が後の近畿地方の大型横穴式

石室の系譜の初現ではないかという指摘もある(一瀬和雄)。

2-3.横穴式石室

横穴式石室とは、古墳時代後期に古墳の横穴に遺体を納める玄室である。通路に当たる道の羨道を造りつけた

石積みの墓室という。日本の場合は、古墳時代前期の粘土槨による竪穴式の墓室や竪穴式の石室に対する概念

として、5世紀頃に百済や伽耶諸国を経由して日本にも伝播したと考えられ、6世紀中頃から7世紀前半にかけて

の古墳で盛んに造られた。奈良県の石舞台古墳のような巨石を用いた典型的な石室がある。墳丘頂部で多数の

石材が検出され、石室の存在が確認された。石室は地山を平坦に整形して掘り込まれた楕円形の墓坑上に構築さ

れた。石室の構造は扁平な板石を積み上げて築かれた片袖式横穴式石室もある。

2-4.高井田横穴群

横穴が密集している高井田横穴群は、国の史跡に指定されている。横穴は、苔監に掘り込まれた人工洞窟を墓

とする。高井田横穴群では、162 基の横穴が発見され、約2000万年前の大噴火それ以上と思われる。大噴火によ

って飛ばされた火山灰が花崗岩から変成した凝灰岩の岩盤である。凝灰岩盤の横穴は、羨道から狭い、広い芳形

の部屋を入れる。すなわち、3人前後の人が埋葬されている。横穴からは、副葬品が発見されるのは、①刀や矢な

どの武器や馬具、②鎌やナイフなどの農具や工具、③金銀の耳飾りや首飾り。④最も多いのは土器である。土器

は、現在の葬式のような儀式が行われ、年代測定の結果を確認するのに重要である。土器の形や特徴から横穴が

造られたのは、6世紀中頃から7世紀初め頃(今から 1400 年くらい前)で、ひとつの横穴が 30~40 年にわたって使

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用されたことがわかる。

所在地は大阪府柏原市安堂町1番 43号にある「史跡高井田横穴公園」の敷地内にある円墳である。位置/北緯

34 度 34 分 22 秒, 東経 135 度 38 分 23 秒、形状/円墳、規模/直径 22m、築造年代/5 世紀後半、史跡整備に伴

い発掘調査が実施され、出土品/銅製の熨斗(うっと)、銅鏡、ガラス玉、甲冑、武器、須恵器など様々な遺物が出

土した。

2-5.二上山

二上山周辺は、約2000万年前の大噴火により形作られた。活動時期は、新第三紀と推定され、最終活動時期

は、約1400万年前と推定。火成岩や火砕流堆積物が分布して所在地/ 奈良県葛城市加守,大阪府南河内郡太

子町大字山田、位置/北緯 34度 31分 32秒 東経 135度 40分 39秒、標高/雄岳517m、雌岳474m、山系/金剛

山地である。

2-6.高井田山古墳の岩石

凝灰岩とは、火山から噴出された火山灰が地上や水中に堆積してできた岩石。成分が火山由来であるが、生成

条件から堆積岩(火山砕屑岩)に分類される。典型的な凝灰岩は数 mm以下の細かい火山灰が固まったもので、

白色・灰色から暗緑色・暗青色・赤色までさまざまな色がある。

凝灰岩には、火山灰の生成状況や堆積状況によって分類できる。1.軽石凝灰岩(浮石凝灰岩)/噴火の際に地

上に噴出された軽石(浮石)を主な構成物質とするもの。成分は流紋岩~安山岩質。2.溶結凝灰岩/巨大なカルデ

ラ噴火に伴う火砕流によって、一時に大量の高温火山灰が堆積した場合に生成される。3.緑色凝灰岩/新生代第

三紀の大規模な海底火山活動に由来すると考えられる。4.輝緑凝灰岩/塩基性凝灰岩ともいう。緑色や赤色をして

いる。5.礫質凝灰岩/火山灰の噴出時や移動・堆積中に岩石礫を含むもの。軽石を含むものも多い。

2-7.横穴を掘る手順

横穴は次のような手順で掘る手順。①横穴を掘る場

所を選択/高井田横穴群の場合、横穴は必ず凝灰岩の

岩盤に掘られて、凝灰岩のないところには掘られていな

い。②墓道(ぼどう)を掘る/羨道や玄室を掘っても崩れ

る心配のないところまで墓道を掘る。③羨道(せんドウ)

を掘る/いよいよトンネル状に羨道を掘り始めながら、羨

道部分も同時に美しく仕上げる。(例:第3支群 11 号横

穴)。④玄室(げんしつ)を掘る/羨道からさらに奥へ掘り

広げていく。このときには、羨道の天井や壁は美しく仕

上げる。玄室は手前から奥へと掘り進み、天井、壁、床

の順に掘り広げていく。(例:第2支群 13 号横穴、第3支

群 13 号横穴)。⑤壁や床を仕上げる/玄室を掘り広げる

一方で、玄室の手前から順に仕上げていく。壁と天井の

写真 2-1. 高井田横穴式石室の名称

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境にみられる段や造り付け石棺を掘り、壁や床を平らに仕上げて横穴は完成する。(例:第2支群6号横穴)。

2-8.出土遺物

石室内は攪乱されていたが木棺と鉄製の鎹(かすがい)の分布状況、副葬品の配置などが置かれていた。玄室

の中央に置かれた棺の位置からは純金製耳環1個、鉄刀1口が検出されている。玄室東側壁に沿って置かれたも

う1つの棺は棺材にコウヤマキを使用しており、棺に伴う遺物として、神人龍虎画像鏡1面(中国鏡 直径 20.6cm)、

熨斗1口、純金製耳環2個、鉄刀1口、刀子2口、ガラス玉が5群に分かれて検出されている。2つの棺の周囲の石

室内からは槍と判断される鉄製品が破片も含めて7点、矛が9点、槍または矛の附属金具である石突 18 点以上、

鉄鏃多数、横矧板鋲留衝角付冑、頸甲、肩甲、小札、馬具である鐙の破片、鉸具、鎌、釶、刀子、金銅片、須恵器

多数、土師器などが出土している。熨斗は近年までアイロンとして利用されていた火熨斗(ひのし)の形をした銅製

品で中国では漢代以降、朝鮮半島では 5 世紀以降の墳墓からしばしば出土するものであるが、日本国内の古墳

からは新沢千塚古墳群の 126号墳など 4例しか出土していないものである。

朝鮮半島百済の武寧王の陵墓からは当古墳出土品と最も良く似た熨斗が出土している。木棺から出土したガラ

ス玉の内 1 個は金装ガラス(直径 12 ミリ)で心材のガラス管と外側のガラス管の間に金箔が挟まれている。日本の

古墳では、やはり新沢 126号墳を始め 5例しか出土例がない。また上記の武寧王陵からは同種のものが大量に出

土している。出土品は 2008年に一括して柏原市指定有形文化財に指定されている。

2-8.第3支群の線刻壁画

線刻壁画とは、絵画や彫刻を施した古墳(横穴を含む、人工洞窟)を装飾古墳であり、全国で600基ほど確認さ

れている。装飾は、絵具で描いたもの(彩色)、線を刻んだもの(線刻)とレリーフのように浮き彫りに分類できる。装

飾古墳の半数以上が横穴での線刻壁画である。これは軟らかい岩盤に線を刻みやすい。高井田横穴群では、27

基の横穴で線刻壁面が確認され、彩色や浮き彫りは確認されていない。壁面の種類は、人物、馬、船、家、鳥、蓮

の花、樹木、葉、そして記号のようなものなどである。

凝灰岩は軟らかいため、先端の鋭い鉄の道具、たとえば釘のようなもので、壁に刻むことができる落書きが多い。

古墳時代の人でないと描くことができない壁面がある。たとえ、古墳時代にのみ存在したもの、古墳時代の人の服

装を描いたものなどで、メッセージといえる?

第3支群の線刻壁画について要約できる。①船/死者の魂をあの世へ運ぶ思想よる。3支群 5 号墳・横穴のゴン

ドラの船以外に、2 支群 12 号墳横穴には帆や舵を表現した船がみられる。3支群5号横穴。②木・葉/木は神の降

臨する榊の表現であるか。葉は落葉広葉樹と考えられ、落葉樹のもつ生命のよみがえりを期待したものであろうか。

3支群 10 号横穴。④花/2基の横穴にみられるが、羨門に蓮の花を描いたものである。百済系の素弁蓮華文軒丸

瓦とよく似ていることから、仏教思想と考えられる。3支群 7 号横穴。⑤鳥/人の魂が、死後、鳥になってあの世へ行

くという思想に関連する。3支群 13 号横穴。⑥武器/槍、戈、弓、矢、「ゆき」と思われ、死者を悪霊から守る目的。3

支群10号横穴、3支群13号横穴等である。

3.高井田山古墳と百済

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3-1.百済の昆支王(死 477 年)

倭国(日本)から子供たちを置いて百済に戻って内臣佐平(

ナイシンサヘイ・財部担当)をしていた昆支王は(死 477 年

7 月)は、百済の王族。『三国史記』によれば、第21代蓋鹵王

の子で22代文周王の弟である。24代東城王の父。『日本書

紀』では、蓋鹵王の弟で、東城王と武寧王の父とある。別名は

昆支王、昆枝、崑枝、崑支、軍君(こにきし)である。『日本書

紀』によると、百済の昆支王は次男であるから、雄略天皇5

(461)年高句麗の侵攻に危機を抱き、日本との関係強化のた

めに人質として献上された(図 3-1)。

『日本書紀』によると、雄略天皇5(461)年4月、兄の加須利

君(21代蓋鹵王)により日本に遣わされた。その際、蓋鹵王の

夫人を一人賜り、身籠っていたその夫人が6月に筑紫の各羅

嶋(加唐島)で男児を産んだ。この男児は嶋君(斯麻)と名付

けられて、母子ともに百済に送り返され、後の武寧王となっ

た。7月宮廷に入ったが、この時既に5人の子があった。21 代

雄略天皇23年(479 年)4月、百済の文斤王(23 代三斤王)が

急死したため、昆支王の5人の子供のなかで、第2子の末多

王幼少ながら聡明だったので、天皇は筑紫の軍士 500 人を付けて末多を百済に帰国させ、王位につけた。これが

24代東城王である、という。

日本の 25 代武烈天皇(498-507)は、百済の第 25 代武寧王(501-523)で、「日本書紀」(8 世紀編纂)などによる

と、昆支王の子又は甥(兄の子)とされる。韓国の歴史書「三国史記」(12 世紀編纂)では、昆支王の孫となっている。

いずれにせよ、血縁関係が近いことに変わりはない。

3-2.昆支王と飛鳥戸神社(Asukabe-jinja)

所在地/大阪府羽曳野市飛鳥 1023。位置/北緯 34度 32分 06秒、東経 135度 38分 19秒。例祭/10月 17日。

主祭神/素盞嗚命。社格等/式内社(名神大社)・旧社格は村社。本殿の様式一間社流造桧皮葺。 祭神/現在は

素盞嗚命が祭神となっている。江戸時代に牛頭天王が祭神となり、神仏分離に素盞嗚命。

当地は5世紀に渡来した百済王族・昆支王の子孫である飛鳥戸造(あすかべのみやつこ)氏族の居住地であり、

本来は飛鳥戸造の祖神として昆支王が祀られていたものと考えられている。『三国史記』の百済本紀には昆支王は

熊津時代の始めに百済で没したとあり、昆支自身は帰国したとしても、その子孫が日本に残留したものと考えられ

る。なお、付近にある新宮古墳群(横穴式石室)は飛鳥造氏族の墓域とされる。

歴史創建の年代は不詳で、明治初年に村社に列格したが、明治 41(1908)年に近隣の八幡神社(現 壺井八幡

宮)に合祀された。昭和 27(1952)年に分祀され、旧社地の近くに再建された。

3-3.高井田古墳の埋葬者は百済の昆支王

図 3-1.百済王統の 20~26代

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文化財課(2013年 6月 11日)によると、柏原市高井田の史跡高井田横穴公園内にある、5世紀の円墳、高井田

山古墳に葬られているのは、百済(7世紀後半まで朝鮮半島南西部にあった国)の昆支(こんき)王か?柏原市教育

委員会文化財課によると、可能性はゼロではないという。昆支王は、477年百済で亡くなっていますので、昆支王

を忍んで墓を作ったものか、親族の誰かの墓かもしれません。日本武尊の3つの白鳥の古墳も忍んで作られたもの

で人々にそれだけ影響力のあった証拠と言えると思います。高井田山古墳は、日本で最古級の横穴式石室を持

つ古墳で、韓国の武寧王陵と規模(直径約 20m円墳)や石室の状況、夫婦が埋葬されていると見られる点、さらに

火熨斗(ひのし)型青銅器や金層ガラス玉製品が副葬されているなど共通点が多く、当時の百済との結びつきの強

さを物語っている。ことに火熨 斗は、双子といってよいほど形が似ている。

しかし、須恵器の編年の別の見方によれば、高井田山古墳の築造時期は、西暦 470~490 年頃だと考えられる

という。もし、そうであるとするなら、昆支王が葬られている可能性は極めて大きくなる。むしろ、昆支王以外の人物

に候補者を求める方が難しくなるだろう。ここで、表3-3のように 5世紀、古墳時代、日本史とアジア史を表示した

表3-3. 5世紀の古墳時代、日本史とアジア史

西暦 天皇 高井田横穴と昆支王に関する日本史とアジア史の政治/外交

454 20代安康 454-456年、穴穂皇子(あなほのみこ)が即位し都を石上の穴穂宮に遷す

457 21代雄略 456-479年、大泊瀬皇子(おおはつせのみこ)が朝倉宮で即位しそこを都とする

458

21代雄略

百済王余慶(百済 21.蓋鹵王(455-475))が宋に上表文を提出し、百済の将軍11名

が宋から将軍号を認められているが、その中の征虜将軍の号を受けた左賢王余昆

を、昆支王と同一人物とする説もある。

461

21代雄略

昆支王は、日本書紀によると来日とされる。昆支王の父の加須利君(カスリノキシ・

蓋鹵王)により日本に遣わされた。蓋鹵王の夫人を一人賜り、6月に筑紫の各羅嶋(加

唐島)で男児を産んだ。男児は嶋君(斯麻)と名付けられて、母子ともに百済に送り返

され、後の百済 25代武寧王(501-523)となった。

462 21代雄略 興/宋に遺使、雲岡の石窟掘り始める。

475 21代雄略 東アジア略史/高句麗軍は百済に侵入、高句麗に慰礼城(現ソウル)を落とされ、百済

の蓋鹵王が殺される。百済は、長男の文周王が即位し、熊津に遷都した。

477

21代雄略

昆支王は 7月死亡し、その後に築造した。ゆえに、高井田横穴は 477年後であ

る。昆支王は、百済、第 21代蓋鹵王の子で 22代文周王の弟であり、24代東城王

の父。『三国史記』の 百済本紀文周王には、百済 22.文周王(475-477)に「王の弟

の昆支を拝し内臣佐平と為す」とあるが、同年7月に「内臣佐平の昆支卒する」とある。

柏原市の南に隣接する羽曳野市飛鳥には、昆支王を祭神とする飛鳥戸(あすかべ)神

社。紀大磐が高句麗と結び百済に反乱

478 21代雄略 倭王武、宋に朝貢し、順帝から安東大将軍の称号を受ける。宋に遺使

479

21代雄略

東アジア略史/宋/滅び、斉/建国(~502)。百済の文斤王(百済 23.三斤王(477-

479))が急死したため、倭国(日本)で育った昆支王の5人の子供のなかで、第 2子の

末多が幼少ながら聡明だったので、21代雄略天皇は、筑紫の兵士 500人を付けて末

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多を百済に帰国させ、王位につけたのが百済 24.東城王(479-501)である。

480 22代清寧 480-484 年、白髪皇子(シラカノミコ・22代清寧天皇)即位、磐余甕栗宮に都を置く

485 23代顕宗 484-487年、弘計王(おけ)、近飛鳥八釣宮(ちかつあすか-やつりのみや)で即位。

485北魏の6代文孝帝の時世で、均田制を施行。

488 24代仁賢 488-498年、億計王(をけ)、石上広高宮で即位

493 24代仁賢 竜門の石窟始める

499 25代武烈 498-506年、小泊瀬稚鷦鷯尊(オハツセノワカサザキノミコト・武烈天皇)、泊瀬列

城(はつせのなみき)宮で即位して、ここを都とする。

4.高井田横穴第 3支群

写真 4-1.史跡高井田横穴第 1-4支群のマップ 写真 4-2.史跡高井田横穴第 3支群のマップ

玄室に関する玄室長は 3.51 と 2.60mの範囲、玄室幅は 3.23 と 2.26mの範囲および玄室高は 1.82 と 1.25mの

範囲である。墓道幅としては 2.11 と 1.52mの範囲である。羨道に関する羨道幅は 1.32 と 0.90mの範囲、羨道長は

1.54 と 1.02mの範囲および羨道高は 1.28 と 1.04mの範囲である。

3支群5号墳にある線刻壁画は 船/死者の魂をあの世へ運ぶ思想よる。帆や舵を表現した船がみられる。3支

群7号横穴にある線刻壁画は、花/2基の横穴にみられるが、羨門に蓮の花を描いたものである。百済系の素弁蓮

華文軒丸瓦とよく似ていることから、仏教思想と考えられる。3支群10号横穴と13号横穴にある線刻壁画は、武器/

槍、戈、弓、矢、「ゆき」と思われ、死者を悪霊から守る目的。3支群 13号横穴にある線刻壁画は、鳥/人の魂が、死

後、鳥になってあの世へ行くという思想に関連する(写真 4-1 と 2)。

4-1.高井田横穴第3支群3号墳

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写真 4-3.高井田横穴第3支群3号墳と線刻壁画

高井田横穴第 3 支群 3 号墳において、➀時代/古墳後期。②所在地/大阪府柏原市高井田。③位置/34 度 34

分 22 秒、135 度 38 分 38 秒。④標高/82.5m。⑤遺構/横穴。⑥立地/丘陵腹。⑦現況/山林。⑧保存/完存⑨其

他/概要国指定史跡。写真 4-3は高井田横穴第 3支群 3号墳と線刻壁画である(写真 4-3)。

4-2.高井田横穴 第3支群5号墳

➀時代/古墳後期。②所在地/大阪府柏

原市高井田。③位置/34度 34分 22秒、

135 度 38 分 38 秒。④標高/82.5m。⑤

遺構/横穴。⑥立地/丘陵腹。⑦現況/

山林。⑧保存/半壊。⑨其他/国指定史

跡。⑩規模(墓道幅 211cm、羨道幅

115cm、羨道長 113cm、玄室幅 246cm、

玄室長 276cm、玄室高 152cm)。⑪線刻

壁画/高井田横穴群では、船に乗る人

写真 4-4.高井田横穴第3支群5号墳と由来

写真4-5.袖を振る女性 写真4-6.羨道左壁、乗船の人物 写真4-7.羨道右壁人物レフリカ

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物線刻壁面がある。羨道両壁面には、多数の人物が描かれ、その中で、当初に描かれたのは、右側壁の3体の人

物である。右上には船に乗る人物である。船は両端が直角に反り上がっており、「ゴンドラ形」と表現される。中心人

物は手に旗か槍のようなものを特っている。その両脇にはオールをもつ人物と、碇をもつ人物が小さく描かれてい

る。その左の人物も、船に乗る人物と同じ人物を描いている。長めの上着を腰で帯かベルトでしばり、太めのズボン

は膝で折っています。当時の人物埴輪と同じ服装を表現しており、古墳時代の壁面と考えて間違いない。その下

の人物は袖幅の広い上着に「ひだのある裳」を着け、高松塚古墳の壁面女性に通じるものがある(写真 4-4~7)。

4-3.高井田横穴第3支群6号墳

➀時代/古墳後期。②所在

地/大阪府柏原市高井田。③

位置/34度 34分 22秒、135度

38 分 38 秒。➃標高/82.5m。

⑤遺構/横穴。⑥立地/丘陵

腹。⑦現況/山林。⑧保存/半

壊。⑨其他/概要国指定史跡。

⑩規模(墓道幅 175cm、羨道

幅 122cm、羨道長 154cm、羨

道高 126cm、玄室幅 323cm、

玄室長 351cm、玄室高 182cm)(写真4-8)。

4-4.高井田横穴第3支群7号墳

写真4-9.高井田横穴 第3支群7号墳

➀時代/古墳後期。②所在地/大阪府柏原市高井田。③位置/34 度 34 分 22 秒、135 度 38 分 38 秒。④標高

/82.5m。⑤遺構/横穴。⑥立地/丘陵腹。⑦現況/山林。⑧保存/半壊。⑨その他/概要国指定史跡。⑩規模(墓道

幅 173cm、羨道幅 97cm、羨道長 129cm、羨道高 128cm、玄室幅 256cm、玄室長 271cm、玄室高 159cm)。⑪図文

の場所・方法/羨道側壁+羨門、線刻、図文の種類/人物+蓮華、その他/実測図未公表。高橋健自「河内高井田な

る藤田家墓地構内の横穴」(『考古学雑誌』9-9、1920)。

和光大学古墳壁画研究会『高井田横穴群線刻画』(1978)、柏原市立歴史資料館『線刻画は語る』(2002)。第

51 回埋蔵文化財研究集会『装飾古墳の展開 彩色系装飾古墳を中心に』資料集(2002)。3支群7号横穴にある

写真4-8.高井田横穴 第3支群6号墳

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線刻壁画は、花/2基の横穴にみられるが、羨門に蓮の花を描いたものである。百済系の素弁蓮華文軒丸瓦とよく

似ていることから、仏教思想と考えられる(写真4-9)。

4-5.高井田横穴 第3支群21号墳

➀時代 /古墳後

期。②所在地/大

阪府柏原市高井

田。③位置/34 度

34分22秒、135度

38 分 38 秒。➃標

高 /82.5m。⑤遺

構/横穴。⑥立地/

丘陵腹。⑦現況/

山林。⑧保存/完

存。⑨其他/大正

2(1913)年・平成

2(1990)年追加、

指定/文化庁および大阪府・柏原市教育委員会。⑩規模(墓道幅 186cm、羨道幅 132cm、羨道長 102cm、羨道高

114cm、玄室幅 226cm、玄室長 260cm、玄室高 125cm)(写真4-10)。

4-6.高井田横穴 第3支群22号墳

➀時代/古墳後期。②所在地/

大阪府柏原市高井田。③位置

/34度 34分 22秒、135度 38

分 38秒。➃標高/82.5m。⑤

遺構/横穴。⑥立地/丘陵腹。

⑦現況/山林。⑧保存/完存。

⑨史跡指定/大正2(1913)年・

平成2(1990)年追加、指定/

文化庁および大阪府・柏原市

教育委員会。規模(墓道幅

152cm、羨道幅 90cm、羨道長

150cm、羨道高 104cm、玄室

幅 272cm、玄室長 313cm、玄

室高 160cm)写真(4-11)。

写真4-10.高井田横穴 第3支群21号墳

写真4-11.高井田横穴 第3支群22号墳

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4-6.高井田横穴群の第3支群23号墳

➀時代/古墳後期。②所在地/大阪府柏原市高井田。③位

置/34度 34分 22秒、135度 38分 38秒。④標高/82.5m。⑤

遺構/横穴。⑥立地/丘陵腹。⑦現況/山林。⑧保存/半壊。

⑨史跡指定/大正2(1913)年・平成2(1990)年追加、指定/

文化庁および大阪府・柏原市教育委員会。⑩規模(墓道幅

110cm、羨道幅 82cm、羨道長 180cm、羨道高 142cm、玄室幅

150cm、玄室長 136cm、玄室高 108cm)。図文の場所・方法/

玄室天井+羨道側壁+羨門、線刻,図文の種類/騎馬人物+馬

+渦+「×」写真(4-12)。

5.高井田横穴第3支群の規模の情報処理

5-1.高井田横穴第 3 支群の規模

高井田横穴第3支群横穴の名称と最高値は、墓

道幅 211cm、羨道幅 132cm、羨道長 154cm、羨道高

128cm、玄室幅 323cm、玄室長 351cm と玄室高 182cm

である。高井田横穴第3支群横穴の名称と平均値

は、墓道幅 179cm、羨道幅 111cm、羨道長 130cm、羨

道高 118cm、玄室幅 265cm、玄室長 294cm と玄室高

156cm である。高井田横穴第3支群横穴の名称と最

小値は、墓道幅 152cm、羨道幅 90cm、羨道長 102cm、

羨道高 104cm、玄室幅 226cm、玄室長 260cm と玄室高

125cmである(表5-1)。

図5-1.高井田横穴第3支群の規模 図5-2.高井田横穴第3支群の玄室規模

写真4-12.高井田横穴第3支群23号墳

表5-1.高井田横穴第3支群の規模(cm)

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高井田横穴第3支群の規模において、玄室は大きく、墓道幅は中間であり、羨道は小さいことが確認された

(図 5-2)。図 5-2 の高井田横穴第 3支群の玄室規模において、玄室長は大きく、玄室幅は中間でそして

玄室高さは小さいことが確認できた。

5-2.高井田横穴群第 3支群の羡道の長さ

表図5-1.高井田横穴群第 3支群の羡道の長さ(cm)

高井田横穴群第 3 支群の羡道の長さにおいて、羨道幅は 90-132cm 間にあり、羨道長は 102-154cm 間にあり、

そして羨道高は 104-128cm にある。高井田横穴群第3支群の羡道幅の長さについて解析を行った。表図 5-1 は5

つの号墳と長さとの関係図のデータである。5号墳の高さの関係を究明するため考察方法として、次のような 2変数

(X と Y)の曲線回帰方程式を与えられる。ここで、X は各号墳で、Y は長さ、決定係数は R 2である。決定係数は、

0.9795であることが判明した。

Y(各号墳の長さ) = 0.357(各号墳) 2 +13.04X +76 ……決定係数(R2 =0.9795) …測量値……(5-1)

表図5-2.高井田横穴群の第3支群の遺構(cm)

高井田横穴群第3支群の羡道距離について解析を行った。表図 5-2は5号墳と距離の関係図のデータである。5

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号墳の羡道距離の関係を究明するため考察方法として、次のような 2 変数(X と Y)の曲線回帰方程式を与えられ

る。ここで、Xは各号墳で、Yは羡道距離、決定係数は R 2である。決定係数は、0.9702であることが判明した。Y(各

号墳の距離) = 14.1(各号墳) 2 +87.3 ……決定係数(R2 =0.9702) …測量値……(5-2)

5-3.高井田横穴群第 3支群の玄室

表図5-3.高井田横穴群第 3支群の玄室面積(m)

高井田横穴群第 3 支群の玄室面積において、最小玄室は 21 号墳:5.88m2で、準最小玄室は 5 号墳:6.79m2

である。中間玄室は7号墳:6.94m2 である。次に大きい玄室は 22 号墳:8.51m2 である。最後に、最大玄室は6号

墳:11.34m2である。高井田横穴群第3支群の玄室による面積について解析を行った。表図 5-3 は5号墳と横穴面

積の関係図のデータである。5号墳の玄室距離の関係を究明するため考察方法として、次のような 2 変数(X と Y)

の曲線回帰方程式を与えられる。ここで、X は各号墳で、Y は玄室面積、決定係数は R 2 である。決定係数は、

0.9738であることが判明した。

Y(横穴面積) = 0.3749(各号墳) 2 -0.985X +6.72 ……決定係数(R2 =0.9737) …測量値……(5-3)

表図5-4.高井田横穴群第 3支群の玄室体積(m3)

高井田横穴群第 3 支群の玄室体積において、最小玄室は 21 号墳:7.35m3で、準最小玄室は 5 号墳:

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10.32m3である。中間玄室は7号墳:11.03m3である。次に大きい玄室は 22号墳:13.62m3である。最後に、最

大玄室は6号墳:20.63m3である。高井田横穴群第3支群の玄室による体積について解析を行った。表図 5-4は

5号墳と(カスリノキシ)の関係図のデータである。5号墳の玄室体積の関係を究明するため考察方法として、次

のような 2変数(X と Y)の曲線回帰方程式を与えられる。ここで、Xは各号墳で、Yは玄室面積、決定係数は R 2で

ある。決定係数は、0.9553であることが判明した。

Y(横穴体積) = 0.711(各号墳) 2 -1.278X +8.60 ……決定係数(R2 =0.9553) …測量値……(5-4)

5-4.高井田横穴群第 3支群の築造年代/被葬者像

築造年代/古墳時代中期以降の古墳の築造年代を推定するため最も手がかりとしやすい須恵器は壷、器台、脚

付壷、有蓋高杯、無蓋高杯、ハソウなどが出土している。これらの須恵器の型式は田辺昭三による陶邑窯出土須

恵器の編年(陶邑編年)の TK23型式から TK47型式に位置付けられるもので、西暦 480-490年頃が考えられると

いう。平尾山古墳群や高井田横穴墓群より半世紀近くも先行する時期の古墳であることが明らかとなった。被葬者

像/当古墳の被葬者としては横穴式石室の構造、規模が韓国宋山里古墳群など百済の王族クラスの古墳の石室

に類似し、出土遺物にも熨斗のように共通点があることから百済からの技術工人らと共に渡来した集団の長で、王

族に匹敵する人物を想定する説もある。氏族構成の反映/この現象を7世紀における氏族構成の姿にあてはめて

見ると、大群はちょうど氏族集団の現われであり、小群は集団を構成している世帯であろうと推測される。さらに小

群の単位である 2-4基は世代ごとに掘られたようである。これらの群構成は近隣にある平尾山古墳群などの群集墳

で見られるものである。

5-4.史跡高井田横穴

5世紀後半の築造とみられ、畿内最古の横穴式石室を持つ。韓国の武寧王陵(6世紀前半)と共通点が多く、二

つの古墳からは、ともに火熨斗(ひのし)型青銅製品や金層ガラス製品(装身

具)などが出土している。昆支王(こんきおう=武寧王の父)の墓の可能性が示

唆されている。石室内には、火熨斗など出土品のレプリカが置かれ、発掘当時

のようすが再現されている。線刻壁画古墳の石室と似た構造を持つ同時代の墓

で、内部に「ゴンドラに乗る人物」などの線刻壁画が描かれていることで全国的

に有名。古墳と異なり、崖面に直接、墓室などが掘られているのが特徴。第3支

群には舟に乗った人物像、蓮華文、「大家乃ツカ」などの線刻の壁画や文字が

見られる。史跡に指定/大正 6 年(1917)に発見され、大正 11 年(1922)に国の

史跡に指定された。現在、162 基が確認されているが、総数は 200 基以上に上

ると推定されている。平成 2年(1990)、高井田山古墳を含んだ約 36000平方m

の区域が、国の史跡に追加指定された。現在は、一帯が史跡高井田横穴公園

として整備されている。

5-5.雄略天皇

21代雄略天皇(456-479)の在位期間/安康天皇 3(456)年 11月 13日-雄

図5-3.雄略天皇の系図

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略天皇 23(479)年 8月 7日。先代/20代安康天皇(454-456)、次代/22代清寧天皇(480-484)、(図5-3)。別称

/大泊瀬幼武尊, 大長谷若建命, 大長谷王、大悪天皇、有徳天皇。父親/19代允恭天皇(412-453)、母親/忍坂

大中姫。『宋書』、『梁書』に記される「倭の五王」中の倭王武に比定される。『万葉集』や『日本霊異記』の冒頭に雄

略天皇が掲げられて、ヤマト王権の勢力が拡大強化された。

雄略9年3月、天皇は朝貢してこない新羅を征伐するため、大伴談・紀小弓・蘇我韓子・小鹿火宿禰(オカヒノスク

ネ)らを新羅に派遣する。雄略21(477)年、百済に任那の一部を割譲し、百済はこの地を新都として再興する。日

本書紀には、他にも小さな闘いを全て武力で鎮圧した記事が見える。

雄略天皇の陵は、宮内庁により大阪府羽曳野市島泉 8丁目にある丹比高鷲原陵に治定。写真 5-1は雄略天

皇の陵墓遥拝所。写真 5-2 は雄略天皇の札舎。写真 5-3は雄略天皇の鳥居と史跡碑である。

写真 5-4.高鷲丸山古墳 写真 5-5.高鷲丸山古墳と平塚古墳 写真 5-6.平塚古墳

写真 5-4は高鷲丸山古墳。写真 5-5 の左は高鷲丸山古墳と右は平塚古墳、写真 5-6は平塚古墳である。

考古学名は高鷲丸山古墳(島泉丸山古墳、円墳、径 76m)と平塚古墳(方墳、辺 50m)(2つの古墳を 1つとして

治定)。すなわち、雄略陵は高鷲丸山古墳という円墳と池を隔てた東にある平塚古墳をセットにして作られた。2つ

の古墳を大改造したのは江戸幕府の命による文久(1861-1964)年の時代に修復した。三段構築の前方後円墳であ

る。

写真 5-1.雄略天皇の陵墓遥拝所 写真 5-2.雄略天皇の札舎 写真 5-3.雄略天皇の鳥居と史跡碑

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皇居では、皇霊殿において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。その他、伊勢神宮外宮を建

立した。元々、豊受大神は葛城氏が代表して奉祀しており、葛城氏没落後、あまり省みられなかったが、崇敬の声

が大きくなり、丹波国にも祀られていたものを、雄略天皇 22年(崩御前年)に外宮を設立することで収拾を図ったの

ではないかとする説がある。『古事記』では、即位前の雄略天皇に対し、大長谷王(おおはつせのみこ)という表記

が度々見られる。通常、即位前の天皇に命(みこと)の称号を用いる『古事記』に於いて、王(みこ)の称号が用いら

れているのは、異例である。https://ja.wikipedia.org/wiki/雄略天皇

謝 辞

論文作成時には、関西大学校友会、柏原支部主催、八尾支部協賛「歴史散策の集い」参加した校友の関係各

位から助言と資料提供や助言のご協力を頂きました。一方、査読には LSI 技師である木村和生教授および大阪府

神社庁の関係各位に感謝申し上げます。

(2016年 12月 1日受稿、2017年 1月 25日掲載決定)

参考資料

1)梅原末治:『河内高井田における横穴群について』、人類学雑誌、1917年。

2)大阪文化財センタ-:『大阪府柏原市高井田所在遺跡試掘調査報告書』、大阪文化財センタ-、1974年。

3)藤沢一夫・他:「高井田横穴墓群」『柏原市史 第四巻 史料編 1』、柏原市編纂委員会、1975年。

4)和光大学古墳壁画研究会:『高井田横穴群刻壁画』、和光大学古墳壁画研究会、1978年。

5)瀬川芳則・中尾芳治: 『日本の古代遺跡 11 大阪中部』、 保育社、1983年

6)柏原市教育委員会:『高井田横穴群Ⅰ』、柏原市教育委員会、1986年。

7)柏原市教育委員会:『高井田横穴群Ⅱ』、柏原市教育委員会、1987年。

8)松村隆文:『畿内の横穴墓』、研究紀要Ⅰ、大阪府埋蔵文化財協会、1988年。

9)花田勝広:『河内の横穴墓』、考古学論集、1990年。

10)花田勝広:『近畿横穴墓の諸問題』、おおいた考古第 4集、1991年。

11)柏原市教育委員会:『高井田横穴群Ⅲ』、柏原市教育委員会、1991年。

12)柏原市教育委員会:『高井田横穴群Ⅳ』、柏原市教育委員会、1992年。

13)柏原市教育委員会:『史跡高井田横穴公園整備事業報告』、柏原市教育委員会、1993年。

14)柏原市立歴史資料館:『展示ガイド』、柏原市歴史資料館、1995年。

15)柏原市歴史資料館:『線刻壁画を語る』、柏原市歴史資料館、2002年。

16)柏原市歴史資料館:『高井田横穴群の線刻壁画』、柏原市歴史資料館、2003年。

17)柏原市教育委員会:『高井田横穴線刻壁画保存事業報告書Ⅱ』、柏原市教育委員会、2010年。

18)柏原市立歴史資料館:『高井田横穴群』、柏原市歴史資料館、2012年。

21)http://www.pref.osaka.lg.jp/bunkazaihogo/bunkazai/高井田横穴公園。

22)http://www.city.kashiwara.osaka.jp/大阪府柏原市。

Page 18: NET *** Structure of Takaidayama-Cave and it …Takaida-Cave is 34 34'22" N and 135 38'38" E, and altitude is 82.5m. This report is part of the general academic investigation of Cave

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23)http://www.pref.osaka.lg.jp/大阪府文化財。

24)https://ja.wikipedia.org/wiki/高井田横穴。

25)https://ja.wikipedia.org/wiki/線刻壁画。

26)http://inoues.net/ruins/高井田横穴。

27)http://blogs.yahoo.co.jp/線刻壁画。

関西大学校友会、柏原支部主催、八尾支部協賛「歴史散策の集い」参加しました。

2016年 10月 15日/史跡高井田横穴公園/大阪府柏原市大字高井田/種類/国指定史跡