1
「カーサ・マニラ」はマニラ市の歴史 保存地区イントラムロス内、レアル通り とパラシオ通り交差点にある。鮭色瓦を 持つ石造3階建で、現在は博物館として 一般に開放されている。壁にははげ落ち た漆喰(しっくい)の跡が残り歴史を感じ させる。建物の中には家具・調度類、衣 装、書籍、銀食器類 などが展示されてお り、19世紀中ばのス ペイン時代の裕福な 都市生活を「再現」して いる。写真中央の2階 部分にあるのが「アソ テア」と呼ばれるお勝 手用屋外テラス。洗 濯や調理などの水仕 事の場所として使わ れていた。当時は天 水桶も利用していた らしい。アソテアの 下にはアーチ型をし たカバレリーサ(厩舎) も見える。馬車馬が つながれていたので あろう。石づくりの「飼葉桶」もある。 スペイン語で「マニラの家」を意味す るこの建物は、パシッグ川対岸ビノンド のハボネロス(石けん商人)通りに1850年 代ころにあった、ヨーロッパ風の商店兼 邸宅の外観を模してつくられたと案内パ ンフレットにはある。1階部分はブラカ ン州から切り出したアドービ石(火成疑 灰岩)でできている。2階より上層が木造 のこうした建築様式は「バハイ・ナ・バト (石の家)」と呼ばれている。歴史的に見 てイントラムロスにとって最大の脅威は 「海賊」よりも「地震」だった。幾度か の地震による倒壊を教訓に、耐震強度の あるものへと建築様式は時代毎に変化を 遂げてきた。 表通りから入るア ーチ型の馬車道は 「カーサ・マニラ」の パティオ(中庭)につ ながっている。うす 暗い馬車道を抜ける と庭に入る。その中 央には泉水跡が残っ ている。海が近いに もかかわらず井戸か らは新鮮な真水が噴 き出していたらし い。石造りの中を通 って冷やされたひん やりとした風が肌に 心地よい。 フィリピンの国民 作家、ニック・ホアキン(1917-2004年)は その著書『Manila, My Manila』で 「1590年代のイントラムロスには、約 600の家屋があった。それらはいずれも 1階が石造りで、2階が木造、そしてカピ ス貝を張り付けた格子を持つ横滑り式の 窓、さらに、中庭と赤い瓦の屋根を備え た、現在ではアンティリアン・スタイル と呼ばれている、スペインとフィリピン の文化が融合した建築様式をすでに備え ていた」と描いている。 しかし、この壮麗さを誇った城壁都市 は、太平洋戦争中の1945年2月、マニラ 攻防戦のただ中に置かれた。米軍にとり、 分厚い石壁に囲まれたイントラムロスは 難攻の拠点であり、ここを制することは マニラの占領を意味した。籠城する日本 兵はわずか500人。米軍は全火力あげて 城内の焦土作戦に打って出た。各城門か らは戦車部隊を突入させた。日本兵は兵 糧の補給のないまま孤立したが死力を尽 くして戦った。2週間の攻防戦の末、守 備隊は壊滅し、マニラ大聖堂はじめ歴史 的な建造物はほとんどが焼け落ちた。戦 闘に巻き込まれた多数のマニラ市民が犠 牲となった。幾たびの地震でも潰えなか った「スペイン国王への気高き永遠の忠 誠都市」マニラ。350年の歴史をもつ城 壁都市は、こうしてわずか2週間で無惨 にも、がれきの原となった。 イントラムロスは戦後30年以上も復興 のめどが立たず廃のまま放置されてい た。都市の再建が本格的に始まったのは 1980年代に入ってからだった。故マル コス大統領は79年、イントラムロス行政 委員会を創設し歴史的遺産として城壁都 市の再興に本腰を入れた。こうしてやっ と「コロニアル建築物」の雰囲気をたた えた町並みが再建された。 中でも「カーサ・マニラ」は、行政委 員会の肝いり事業で「19世紀の家屋と生 活スタイルが蘇った」とその「ショーケ ース」になった。反面、「フィリピン全 土からかき集めた骨董品で飾った20世紀 のハロハロ(ごちゃまぜ)博物館」との批 判も生まれたようだ。 ノスタルジックに語られるスペイン時 代の「古き良きマニラ」、ニック・ホアキ ンが描いた「中庭と赤い瓦の屋根とカピ ス貝の窓」はもはや絵画や写真でしか知 ることできない。灰の中から生き返るこ とはない。しかしそうだとしても「カー サ・マニラ」は、古都マニラの、ひとつ のレプリカとして、その雰囲気だけは今 も伝えている。 Rice Terraces in Sierra Bullones, BOHOL (Photo by Mr. Roger Gatal) ⇩ ボホール島内陸部、シェラ・ブリョネス町のライステラス 16ページに続く→ 表紙の写真: カーサ・マニラ (Casa Manila) 18世紀のマニラ市街図 No. 1 便利なクーポンは33-34ページにあります。 Column ボホール島へようこそ! Travel and Tourism - BOHOL Island ボホール・ビーファーム Bohol Bee Farm P13 ターシャ(めがねざる)自然保護区 Tarsier Sanctuary P13 ロボック川の川上りツアー Loboc River Cruise P14 ボホール島のエスカヤ人 ESKAYA Community in Bohol P15 ボホール島のライステラス Rice Terraces in Sierra Bullones P16 新刊紹介『大和魂☆マニアーナ』(光文社/内山安雄著) P26 People ぴーぷる: Lolita Carbon (Folk Singer) ロリータ・カルボンさん (フォーク歌手) P30 フィリピン医療ボランティアの旅 1回 バタン島 in 1989 バタネスと「スズキ事件」 P39 レガスピ・ビレッジの日曜市訪問―わらじ職人マイク細谷さん P56 In and Around Manila: Penafrancia Street in Paco ペニャフランシア通りとホセ・P・ラウレル元大統領の旧邸跡 P59 (文+写真 橋本信彦)

No. 1...その著書『Manila, My Manila』で 「1590年代のイントラムロスには、約 600の家屋があった。それらはいずれも 1階が石造りで、2階が木造、そしてカピ

  • Upload
    others

  • View
    0

  • Download
    0

Embed Size (px)

Citation preview

  • 「カーサ・マニラ」はマニラ市の歴史

    保存地区イントラムロス内、レアル通り

    とパラシオ通り交差点にある。鮭色瓦を

    持つ石造3階建で、現在は博物館として

    一般に開放されている。壁にははげ落ち

    た漆喰(しっくい)の跡が残り歴史を感じ

    させる。建物の中には家具・調度類、衣

    装、書籍、銀食器類

    などが展示されてお

    り、19世紀中ばのス

    ペイン時代の裕福な

    都市生活を「再現」して

    いる。写真中央の2階

    部分にあるのが「アソ

    テア」と呼ばれるお勝

    手用屋外テラス。洗

    濯や調理などの水仕

    事の場所として使わ

    れていた。当時は天

    水桶も利用していた

    らしい。アソテアの

    下にはアーチ型をし

    たカバレリーサ(厩舎)

    も見える。馬車馬が

    つながれていたので

    あろう。石づくりの「飼葉桶」もある。

    スペイン語で「マニラの家」を意味す

    るこの建物は、パシッグ川対岸ビノンド

    のハボネロス(石けん商人)通りに1850年

    代ころにあった、ヨーロッパ風の商店兼

    邸宅の外観を模してつくられたと案内パ

    ンフレットにはある。1階部分はブラカ

    ン州から切り出したアドービ石(火成疑

    灰岩)でできている。2階より上層が木造

    のこうした建築様式は「バハイ・ナ・バト

    (石の家)」と呼ばれている。歴史的に見

    てイントラムロスにとって最大の脅威は

    「海賊」よりも「地震」だった。幾度か

    の地震による倒壊を教訓に、耐震強度の

    あるものへと建築様式は時代毎に変化を

    遂げてきた。

    表通りから入るア

    ーチ型の馬車道は

    「カーサ・マニラ」の

    パティオ(中庭)につ

    ながっている。うす

    暗い馬車道を抜ける

    と庭に入る。その中

    央には泉水跡が残っ

    ている。海が近いに

    もかかわらず井戸か

    らは新鮮な真水が噴

    き出していたらし

    い。石造りの中を通

    って冷やされたひん

    やりとした風が肌に

    心地よい。

    フィリピンの国民

    作家、ニック・ホアキン(1917-2004年)は

    その著書『Manila, My Manila』で「1590年代のイントラムロスには、約

    600の家屋があった。それらはいずれも

    1階が石造りで、2階が木造、そしてカピ

    ス貝を張り付けた格子を持つ横滑り式の

    窓、さらに、中庭と赤い瓦の屋根を備え

    た、現在ではアンティリアン・スタイル

    と呼ばれている、スペインとフィリピン

    の文化が融合した建築様式をすでに備え

    ていた」と描いている。

    しかし、この壮麗さを誇った城壁都市

    は、太平洋戦争中の1945年2月、マニラ

    攻防戦のただ中に置かれた。米軍にとり、

    分厚い石壁に囲まれたイントラムロスは

    難攻の拠点であり、ここを制することは

    マニラの占領を意味した。籠城する日本

    兵はわずか500人。米軍は全火力あげて

    城内の焦土作戦に打って出た。各城門か

    らは戦車部隊を突入させた。日本兵は兵

    糧の補給のないまま孤立したが死力を尽

    くして戦った。2週間の攻防戦の末、守

    備隊は壊滅し、マニラ大聖堂はじめ歴史

    的な建造物はほとんどが焼け落ちた。戦

    闘に巻き込まれた多数のマニラ市民が犠

    牲となった。幾たびの地震でも潰えなか

    った「スペイン国王への気高き永遠の忠

    誠都市」マニラ。350年の歴史をもつ城

    壁都市は、こうしてわずか2週間で無惨

    にも、がれきの原となった。

    イントラムロスは戦後30年以上も復興

    のめどが立たず廃墟のまま放置されてい

    た。都市の再建が本格的に始まったのは

    1980年代に入ってからだった。故マル

    コス大統領は79年、イントラムロス行政

    委員会を創設し歴史的遺産として城壁都

    市の再興に本腰を入れた。こうしてやっ

    と「コロニアル建築物」の雰囲気をたた

    えた町並みが再建された。

    中でも「カーサ・マニラ」は、行政委

    員会の肝いり事業で「19世紀の家屋と生

    活スタイルが蘇った」とその「ショーケ

    ース」になった。反面、「フィリピン全

    土からかき集めた骨董品で飾った20世紀

    のハロハロ(ごちゃまぜ)博物館」との批

    判も生まれたようだ。

    ノスタルジックに語られるスペイン時

    代の「古き良きマニラ」、ニック・ホアキ

    ンが描いた「中庭と赤い瓦の屋根とカピ

    ス貝の窓」はもはや絵画や写真でしか知

    ることできない。灰の中から生き返るこ

    とはない。しかしそうだとしても「カー

    サ・マニラ」は、古都マニラの、ひとつ

    のレプリカとして、その雰囲気だけは今

    も伝えている。

    Rice Terraces in Sierra Bullones, BOHOL (Photo by Mr. Roger Gatal)⇩ ボホール島内陸部、シェラ・ブリョネス町のライステラス

    16ページに続く→

    表紙の写真: カーサ・マニラ (Casa Manila)

    18世紀のマニラ市街図

    No. 1

    便利なクーポンは33-34ページにあります。

    Column■ ボホール島へようこそ! Travel and Tourism - BOHOL Island

    ボホール・ビーファーム Bohol Bee Farm P13ターシャ(めがねざる)自然保護区 Tarsier Sanctuary P13ロボック川の川上りツアー Loboc River Cruise P14ボホール島のエスカヤ人 ESKAYA Community in Bohol P15ボホール島のライステラス Rice Terraces in Sierra Bullones P16

    ■ 新刊紹介『大和魂☆マニアーナ』(光文社/内山安雄著) P26■ People ぴーぷる: Lolita Carbon (Folk Singer)

    ロリータ・カルボンさん (フォーク歌手) P30■ フィリピン医療ボランティアの旅

    第1回 バタン島 in 1989 バタネスと「スズキ事件」 P39■ レガスピ・ビレッジの日曜市訪問―わらじ職人マイク細谷さん P56■ In and Around Manila: Penafrancia Street in Paco

    ペニャフランシア通りとホセ・P・ラウレル元大統領の旧邸跡 P59

    (文+写真 橋本信彦)