1

昭和59年1月10目 第167号 思 と 上 策 が 大 る う す い っ 下 に 統 … · 昭和59年1月10目 第167号 前 途 風 雨 強 か る べ し 明 け ま し て

  • Upload
    others

  • View
    0

  • Download
    0

Embed Size (px)

Citation preview

Page 1: 昭和59年1月10目 第167号 思 と 上 策 が 大 る う す い っ 下 に 統 … · 昭和59年1月10目 第167号 前 途 風 雨 強 か る べ し 明 け ま し て

昭和59年1月10目 第167号

前途風雨強かるべし

明けましておめでとう

す。年明け早

々物騒な話ですが、

うも今年

は荒れ

る年、波乱

の年

にな

るような気がして仕方がな

い。米国

大統領選挙

の年

は荒

れると

いいます

が、

レーガンが再選

を賭け

て内外政

にど

のような手を打

ってく

るか、

上下両院議員選挙も

からんで日本

っても極めて大きな影響があ

ると

います。

↓方

の超大国

であ

ソ連

まアン

ロポ

フ書記

の病

気退陣

と政権

交代

理事長

第167号

1984年

1月10日 発 行

動きがしき

りに伝えられており、中

断している

ヨー

ロッパの中距離核

サイ

ル制限交渉

の行方

にも深く

かか

ってく

るでし

ょう。イラ

ン・イラ

戦争も終結

メドが立たず、

フガ

ニスタン、

ンボジ

ア内戦も未解決

です。さら

に昨秋のビ

ルマで

の韓国

要人

に対す

る爆弾テ

ロ事件以来、韓

国と北朝鮮

の関係は緊張

の度

を増

ております。と

にかくキナく

い。

一方、国内情勢

ロッキード導件

にかかわ

る田中角栄元首相

一審

罪判決を機

に政局は激しく動

き、総

選挙

一区

切り

ついたとは

いえ、政

権の安定度

いう点では衆院

二百八

十六名を擁

した前三年間

の自

民党

権時代

と比

べると、はるかに落

ちて

東京都千代田区内幸町

ニノニノ

レスセンターピル9F

@㎜

社団法人

日本記者

クラブ

五〇三ー

二七

一(代)

ています。

こんな中

で行政改革

はじ

め防衛費負担増、所得税減税

伴う税源調整と財政再建

理、米国、EC諸国と

の貿

易摩擦軽

減策

の実行、高齢化社会

の到

に伴

う対応策

の推進など、どれ

一つをと

っても政府

にと

っては不人気

覚悟

決断を要する問題が積

み重な

ってい

ます。

「前途風雨強

かるべし」とい

えまし

ょう。

こんな中で日本記者

クラブの果

べき役

割はますます大きくな

って

いますQ記者会見、研

どを

通じて時代

の流れと共

に生起

してく

る問題

の核

心をつきと

め、

+ーナ

リスト活動

に十分生かし得

るよう努

める

ことが大事です。

の意味

では

日頃

ご苦労願

っている企画委員会

一層

のこ奮闘をお願

いする

ことにな

りま

しょう。幸い日本記者

クラブは

創設以来、先輩諸氏の運営宜

しきを

得たこと、また会員各社

の強

い支持

と協力

によって逐年発展

一途をた

どり、会員総数

は二千人を超える

至りましたQ

クラブ財政も安定して

ています。ますます

クラブ機能

充実

に努

め、現役、

OBを問わず楽

しく活用

できる場にしたいと願

って

います。

昨な+十

一日月二十轟ハ日、中国の胡團雁

邦総書記を招いての記老会見で、

氏は中国指導層

の変化

に触れ

「郡小

平、陳雲、李先念らを第

一部隊だと

すれば、私や趙紫

陽、

呉学謙

は第

部隊、しかしこのあと

には四十二歳

の王兆国をはじ

め若

い第三部隊が

つつあ

る」と語りました。さしづ

め日本記者

クラブでいえば原、高

田、

渡辺諸氏

らの第

一部隊

に続

いて、

井、若松、新井らは第

二部隊、第

部隊

の新しい波が出

てくるまでのつ

なぎとして

一生懸命頑張ります

ので

会員諸賢

のご支援

、ご鞭達をお願

して年頭

のご挨拶

と致

します。

一月

一目現在

の会員状況

「四六社

六三四人

一、

=

五人

法人

・個人賛助会員五

九社

一七四人

別賛

会員

七八人

一二人

二〇五社

二、○

=二人

(1)

Page 2: 昭和59年1月10目 第167号 思 と 上 策 が 大 る う す い っ 下 に 統 … · 昭和59年1月10目 第167号 前 途 風 雨 強 か る べ し 明 け ま し て

昭和59年1月10日 第167号

日本テ

レビが百

万円

記者クラブ賞基金

に寄付

日本テ

レビ放送網

は昨年放送開

始三十周年を迎えた

て、

H本記者

クラブ賞

基金に百万

円を寄贈することとな

り、十二月

日午後

に高木盛久同社社長は常

盤恭

一同社常務取締役

(当

クラブ

副理事長)ととも

ね、新井明理事長

に寄付金を手渡

した。

(写真左から高木、常盤、

新井

の各氏、

クラブ応接室

で)

千葉雄次郎元日本新聞学会会長

(クラブ名誉会員)がジ

ャーナリ

ムの向上に役立

ててほしいと寄

した百万円をもとに、昭和四十

七年に創設された日本記者

ラブ賞基金には、そ

の後読売、

日、毎日の三社ならびに西

村二郎、白石古京、江尻進

三氏および故人とな

った横

実、小

田善

一、小野秀雄、大

軒順三の四氏

の遺族が

つぎ

ぎに寄付金を

つみかさね、

のたびの日本

テレビ放送網

百万円を加えて、寄付金合計

額は千百五十万円

に達し、当

面、賞

の運営

にことかかぬよ

うにな

って

いる。

0回企画

1

…昭

58年12月12口

(月)

一日本記者

クラブ宴会場

前月の行事

について、司会を担当した

各委員から報告が

あり、その後、

一月十

九日

(木)の新年

互礼会

の席上実施す

「昭和59年予想

アンケート」の問題十間

を作成した。

出席

藤村委員長

。本島、伊藤、森

本、

友田、広瀬

、平田、有賀、藤岡、

石丸、高野

、水野、藤川、鈴木、

永町、有.馬

、石山、中沢の各委員。

第77回会

員会

∵昭

田年12月13日

(火)

日本記者クラブ小会議室

一月

一日付

の入退会を審議し、理事会

に答申した。

出席

水上委員

長。細川、赤松、長沢、

吉田、亀

山、上野、埜邑

の各委員。

5回施

営委

`

昭和58年

12月20日

(火)

……日本記者

クラブ小会議室

前回に引き続

き、会員がクラブを利

する際

のルールブ

ック

「クラブ利用に関

するお願い」

の内容

ついて検討した。

出席

小林委員

長。宮地、山崎の各委員

「その翌日」

の猛威

「その翌日」。現職

の文相、労相、防衛

庁長官が倒れ、自民大敗の惨状が

レビ

放映されている。十二月十九日正午。事

務局の電話が

【斉

に鳴りだす。

「ザ

・デイ

・アフター」・試写券

込み受付開始。

リソリ、リソリと鈴虫

らぬ電話が襲う。「社名、氏名をどうぞ

!

どういう字を書

きますか?」。

猛威十分。すでに八〇枚が

る。そして、

一時間四十八分後、

一五〇

“完全消滅ウ。

問題はここから。事務局女子職員

ーウツが始まる。

「申しわけ

ん。すでにい

っぱ

いにな

ってしま

いまし

た……」。大げ

さに

エモーシ

ョナ

まるもの、

サラリと事務的に対応するも

の、それぞ

これまでの経験から避雷措

置を無意識

に講じる。

同時に発

送しても、会員の手元

に届く

までにはどうしても時間差が生じる。話

題作で希望が殺到しそうな

は、

「受付開始日」をさだめ

会員

一枚」

でお願

いしているが、やたらに

「受付開

始日」を設定すると、今度は試写券があ

まってしまう。試写券の枚数を

ふやす努

力もしているが、

〃公平”

の実施

は容易

でない。

試写券は大切

に有効にご利用を!

(2)

Page 3: 昭和59年1月10目 第167号 思 と 上 策 が 大 る う す い っ 下 に 統 … · 昭和59年1月10目 第167号 前 途 風 雨 強 か る べ し 明 け ま し て

昭和59年1月10日 第167号

「任期満了をも

ってよしとす

る」と

「貫して言

い続けてきた

中曽根首相が

ついに

「,年内解散

.年内総選挙」を決断した。

公式にそ

の意向

を喪明したの

は十

一月十二日、衆参両院議長

に対してである。く

しくも田中

判決後ちょうど

一か

り、衆院解散は中曲日恨政権が発

足してち、“うど

一嗣年を迎えた

時期と暇なった。

人の心を推察する

のは容易で

はない。まして中曽根首相

の心

境ともなれば取材

にあたる政治

部記習が想像する以ヒ

に、複雑

多岐にわ肛る思

いを

めぐらせて

のo決断タであ

ったに違

いない。

10

・12判決以後、まる

】か月国

会空転が続き、自民党内、野党、

さらには衆参両院議長を巻ぎ込

んでの、首相にと

っては身動き

ならな

いレ略うな解散包囲網の中

での追

い込まれ解散

とはいえ、

解散権が首相

の専権婆項である

以上最終的にはやはり

「首相の

決断」というべぎだろう。

10

・12直後、首相は解散

につ

いて

「これ

(有罪判決)があ

ても、任期満了をも

ってよしと

る原則を堅持するという考え

は守

るLと強調した。解散と公定歩合に

ついては嘘をついてもかまわな

い、と

う慣例

はあるが、41曽根首相

の場合はこ

うした予法はあまり用いな

いo

「解散し

たくな

い」という素直な

心情

の吐露だ

ろう。

10

・28の田中元首相と

の会談まで、首

は何を聞

かれても

「平常

心」

「長考

番」を繰り返した。

首相が田中元首相と

のサシの会談を決意

するまでの党内情勢

は省略するが、会談

で自分が直接、苫し

不本意ながらの

”伝

” 月十八日投票Lを報じた時、首相

「え

らいことを書くも

んだ。新聞はよく誤ま

るよ」と言

ったが、

「では年内解散

はな

いのか」との突

っ込みに

「な

い」とは断

せず、

「私

の考

えは任期満了をも

って

よしとする、だ」と

原則論を繰り返

した。

最終決断は四日

から五目にかけ

てとみ

るのが妥当だろう

。四口早朝、田中派

金丸信氏と極秘

の会談を持ち、五H夜、

突然に二階堂幹事

と首相公邸で会談し

た。四日昼、金丸

はある野

(共岡

通信社政

捨都)

い立場、心情を吐露す

れば角さんも分か

ってくれる。ひ.{っとすれば辞めてくれ

るかもしれない、と

いう

〃甘い期待クが

った

ことも事実だ

ろう。その首相

の期

を高

めるような

ことを進言に来た田中

派幹

部も

いた。だが

結果はすべてウラ同

に出た。救

いといえば、会談三日後の三

「日に発表された

「田中所懐」だけで

る。

このころから

首相

「任期満了」

の信念

は大きくぐら

つき始

めた。

一月二日、各紙

「年内解散、十二

「中

バラは

るが

↓↓階

の一ん甥談

の会

で首

【.一点

一つ

(解

)

であ

つ目

は自

、分

党党片と直接会う

つもウは

い。議長を介入さ

せて野

党側と話をつけて

ほし

い。

つ目は、野党が

(法案成

立で)ぐずぐず言

うな

ら、

会期を大幅に延長

しても

いんだ・ー

の内容

といわれ

る。二

階堂氏は

「必ず全法案

を成立させる。出来な

かっ

たらパ

ッチをはず

します」

とまで言

い切り、首相もこ

「年内解散、十

二月十八日投酊爪」に

「.コ

ー」の了解

をゲ

えたようだ。

その後、桜内義雄氏ら中曽根派幹部

らから会期

「、「.↓十口間延長」説ぜ、出

たが、これは首相の

ウ最後の抵抗”

いう、{り、早期解放を願う野党

へのけ

ん制とみた方が正しいようである。

ともあれ、不本意ながらとは

いえ首

相決断

に、仏って選.挙は始ま

った。自民

党にとって厳

い選挙である

ことは問

進いな

いo-も泥丁もと党内第四の

る傍申皿

派閥ク。安定多数

の二百七卜議・掲を確

できれば、秋

の総裁選での再選も可

能性は十分あ

るが、安定多数を大ぎ

割り込めば党内抗争は必至である。

中曽根首相

にと

っては、政権存続

否かの非潜

に危険率

の{尚い賭牒りとな

.

(十

.月.

一・r

)二 階胞 幹亭 艮 を見送 る中 曽機 首相

(左ぽ 蔦子夫人,U月5日 夜.菅 柑 公邸〕

(3)

Page 4: 昭和59年1月10目 第167号 思 と 上 策 が 大 る う す い っ 下 に 統 … · 昭和59年1月10目 第167号 前 途 風 雨 強 か る べ し 明 け ま し て

昭和59年1月10日 第僻 号

三八度線

は板門店会議場寄

りの、極

めて安全な米軍前哨

碁地を選

んで、

しかも影武者

すら仕立て、

レーガン米大統

領が立ち、思

い入れたっぷり

に、

「自由」

の意義

を訴えた

時、それは、北朝鮮

(朝鮮民

主主義人民共和国)に対して

というよりは、むしろ米国内

の選挙民

に向けてであ

ったろ

う。戦争

の脅威

におびえ、沈

つの時代

に突入した韓国国

にと

っては、あまりにも成

のな

い、

レーガン訪韓

であ

った。

共同声

明は、

「大韓民国

安全が東北

アジアの平和

と安

の主軸となり、

ひいては米

国の安全

に直

結する」と

の、

従来

の安保認識を再確認し、

在韓米軍増強

の韓国側

の要求

に対しても、

「そ

の戦力を強

化する」と約束したにとどま

ったのである・

しかしそれは、韓国国民が

十分予知して

いたことではあ

る。十五人

の警察官が過労

ら命を落とす

ほど

の厳

勢、路上をうずめる歓迎の人波

とは

裏腹に、

レーガ

ンを迎える国民

の心

は、ど

こかさめていた。

大学

のキ

ンパ

スではレー

ガソ訪

韓反対を叫

ぶデ

モが、各地で、連

のように、

しかもいささか過激

に展

開された。解放

・独立の救世主、守

護老としての米国

に、反対

の声

をあ

ることは、体制

・反体

て、

これまであ

り得ないこと

った

のである。

一方

、全斗燥政権も、あくま

でも

「北方政策」

は遂行するという。

ウル

・オ

リンピ

ック誘致

をテ

コとす

る国際

的認知獲得と

いう政治外交も

さる

こと

ながら、広大

な中国市場、

非同盟圏

のアジア

・アフリカ市場は

オイ

・ショックで中案進出が

頓挫

した韓国経済

にと

って、無視で

きな

いと

ころである。

このた

めにも、韓国みず

から、今

後も

「自制」

の姿勢をとり続けるだ

”沈

つの時

”が

(日本放送協会ソウル特派員)

大韓航

空機

撃墜事件、ラ

ング

ーン

の爆弾

ロを通じて、韓国は「自制」

「自制」を

かさねた。もちろん、

陰に陽

に米国

の要請があ

った

からに

ちがいない。

しかし、グ

レナダをめぐ

っては迅

速な報復措置

をとり、有権者

の圧倒

的支持を得

レ!ガンの意識

のなか

で、朝鮮半島がどれほど

の比重

を占

めるか、冷静

に見

つめる時、

かなり

の疑惑が生じ

るのである。

ろうし、中

の胡躍

邦総書記が

日本滞在

中に明

「韓国とは政経分離

でいく」

の発言

に、大き

な期待

せるだ

ろう。

この

「北方政策」と対をなす国

「開放政策」は、二年間

で韓国.

社会

を変質、

「欧米化」

した。若

者は

シンナ

ー遊びに走り、

ソグ

ーン事件

の夜も、酔客

た。国防意識、安保認識

をなげく

声も高

っている。

つて民族

アイデ

ンテ

ィティの

原点

を反

日にすえていた韓国

は、

曽根訪

韓で

「日韓新時代」

に入

ってからは、朝鮮動乱

を民族

アイ

ンテ

ィティの基点

とした。離散

家族探しもその文脈

にある。その

かでのラソグーン・テ

ロであり、

の後も続く

「武装

スパイ」の浸

である。しかし韓国

は、

「開放

政策」

は継続すると断言す

る。

全斗換政権の政治

日程は、国会

解散、総選挙で国民

の信を問い、

政権後期

に入る、

との噂が盛んで

る。

つまり、あ

いついだ事件、

レーガ

ソ訪問

によ

っても、路線を

変更

できな

いところに、分断国家

の悲

劇があるのだろう。

歴代 ス続 唄`し て切 めて36艮 猷に立 ったレー ガン氏だ が一 ・・(写 真 騙AP提 俄)

(4)

Page 5: 昭和59年1月10目 第167号 思 と 上 策 が 大 る う す い っ 下 に 統 … · 昭和59年1月10目 第167号 前 途 風 雨 強 か る べ し 明 け ま し て

昭和59年1月10日 第167号

田中元首相

の二+二万票

“異様な迫

”だ

った。野坂

㎝…昭如氏の二万

八千票は

”新鮮

な驚き”だ

った。

五議席

の大勢が判明した十

ヒニ月十八日午

後十時半すぎ、

「敗戦の弁

を」とテレビ

マイク

・を突き

つけられ

た野坂氏は、

「敗北官言

はしな

い。必ず

〔つか田中

さんを倒す」と、顔

を紅潮させた。

の表情

には

落胆

の色が

ったのが印象

的だ

った。

緊急出馬

から約

一か月、野

坂旋風が吹き

け、三区

に残

したものは何

か。

まず、二人

の闘

いぶりは、

あまりに対照

であ

った。表

面的な

”対決ガ

ではない。選

挙と民主主義

の根本のところ

で、二人はま

“激突”し

ていた。

これまでの三区選挙では、

当選を目指す

めに有効なの

「組織」

であり、それを基

にした

「票

み」が戦術展

開に不可欠だ

った。野坂氏

は、

いず

れも

ったし、ま

た作ろうともせず

、まさに

「言葉

だけが武器だ

った。

元首相は、強大

な越山会組織

ル動員、ほぼ

日程、三十三市町村

べてで演説会

を開き、約三万人を

めた。

一方の野

坂氏

はと

いえば、個

人演

説会を設定

でき

のは中盤以降が

で、計十回ほど。聴衆は

「視察

にき

た他陣営運動員多数」を含

めても、

二千人足らず

。も

っぱら、行きあ

「東京なら

いざ

しらず、三区

ではそ

う票

は流

れな

い」とまず反応

したの

も、淋

いかな実態

である。

組織

を維

持するには

「使え

る政治

家」

「利益

誘導

の政治力」

も、

アピ

ールしなけ

れば

ならない。

元首相

には、すべての点

で、

これ

ら勝利す

るため

の条件が備

ってい

ると

いえよ

う。

二十二万票

には、

これらとは別

「マス

コミに対する反発」

いうも

のがあ

ったにせよ、基

豪雪の風

土に変化

の兆しも

(新

潟口報

取東支袴轍道獅)

りば

ったり

の辻説

法。

しかも

「効率

を求

めるのは民主

主義選挙でな

い」

と、前半は山村部

を走り回り、聴衆

十数人はザラ。

出馬当初

”見えざ

る敵”と不気味

さを覚

えていた他陣営が、公示

四、

五日後

には、「恐

るるに足らず」と

泡末評価

に変

えた最大の理由も、「組

織が背後

にな

いことが分かった」。

野坂氏が十

五日白昼、テ

ロの恐怖

にさらされたときも、

一部を除

いて

本的には、

「りまだμ

使える」と

いうカ

への

期待と、過去

の功

績や

同情心に対す

るも

のと

みて間違

いな

い。

また、

三区

には昔から

「浮

動票

ない」と

った神話がある。

つまり

組織化でき

ると

いう意味であ

り、

れは三区

の政治家

の経験則でも

たQこ

うした組織とカ

への期待

にがん

じがら

めにされた三区の風土

を知

他陣営が

「野坂はせいぜ

一万五

千」とみる

のも

ムベな

た。ところが

結果

は二万八千票。次

点であり、

かも組織を持

つ社会党

新人候補

を上回

ったのであ.る。

い選択を三区有権者がした

こと

は間違

いな

い。

「新潟

は必ず

変わ

る」

と野坂氏は選挙戦を総括

した。二万八千票に

こめられた有

権者

の心

の内を

…番感

得したのは

野坂氏

である。

のこれからの活動

に注〔した

い。

それを見

つめること

で、変わ

りつ

つあ

る三区が発見

でき

るかも

しれ

いと思

っている。

最 前列は報遊帥(黄 閃訂門での野衷啖補 の鎚説 法)

(5)

Page 6: 昭和59年1月10目 第167号 思 と 上 策 が 大 る う す い っ 下 に 統 … · 昭和59年1月10目 第167号 前 途 風 雨 強 か る べ し 明 け ま し て

昭和59年1月10日 第167号

新春 随想

夢綜懲総⑳ハシゴ灘

ことし昭和五十九年

(一九八四

年)

ロサソゼ

ルスでオリ

ソピ

ック

が開

かれる。

正十五年

(昭和元年)

に東京

日日新聞(現在

の毎日新聞)に入社

以来、

μ新聞があ

って酒があ

る”

を信条

に「ハシゴ

サケ」ならぬ

「新

ハシゴ」

の生活

の中

で、

「オリ

ソピ

ック」

という言葉

を聞くと

クワクする。

自称、オリンピ

ック馬鹿

はいまも薪聞記者

の末席

につ

らな

って

いると思

って

いるが、や

はり編集

の現場

で最後

た、

うれしい仕事は昭和

三十九年

十月

の東京

オリソピ

ックである。

はサ

ソケイ新聞の編隼甜総長をして

いたが、そ

の時

から、

はや二十年た

。さら

に、さかのぼる

こと三十二年、

つまり、

いまから五十二年前

の昭和

七年

(一九三二年)

ロサソゼ

ルスで

かれ

た第十回オリンピ

ックは、東

日の整理記者七年目、油

ののりかか

った時期

であ

った。

こで、

この二

つの思

い出を

つづ

ってみたい。

ロサンゼ

ルス大会

のそ

の日の成績

が、電

信で入りだす

のは午前

一時過

から、ごく

一部

は最終版

にたた

こめるが、そのあと

は毎朝、

タブ

ロイドニページの号外を

出した。

この

ロス大会は、

日本

スポーツ

一気

に花ひら

いた大会

いって

よく、南部忠平が

三段

跳びに、水泳

では競泳六種目中

四百

メートルを除

五種目

の優勝を

り、なかでも、

わず

か十四歳

の北

久寿雄が千五百

メート

ル自由形を

し、馬術大障害

では西竹

一が金

ルを獲得するなど大

活躍した。

四本見出しだけの号外

日本中

は、

これら

の朗報で沸き

いたが、そ

の第

一報が最初に入る

聞社も例外

ではな

った。

ロスー

京間を普通二十分

かか

った電信を

一分半

という新記録も

つく

った。

南部忠平の時

の第

一号外

「南部

三段跳

に優勝

世界新

記録に輝き

メーソ

マスト高く

威心激

の日章旗は

る」

と、おどるような四本大見出

のただそれだけ

であ

った。

いて第二号外

「わが同胞

のは

ふり落

つる感激

の涙

のう

ちに、

メ!

マスト高く日章旗が

ひるがえり…

…」

にはじまる特

である。原稿

を受け取る深夜

の整理デ

スクは黒

山の人だかりとなり、本当に記事

どおり涙をこぼ

す記者もいた。

ち遠しい現場

の写真は、

いま

サのように電送も航空便もない時代

で時間がかかる。

ロスから客船で

横浜港着ま

で十

日以上もかかる。

それを、のんびり待

っていられな

い。小舟を仕立

て房州野島崎沖五

カイリまで出し、客船

から写真

った梱包を海

に落としたのを

って、船上に立てた二本

の柱

ロープを渡し、

これ

につるした梱

を自社

の軽飛行機

でつり上げる

極秘軽業作戦

であ

る。ふたを開け

てみたら朝

日も同

た。それではと、

ついには小名浜

五十

カイリまで出動する争

いに

った。

東京五輪は

”人閥ドラ

マ”

一秒でも早く写真号外を、と

う闘

いは期間中

六回あり、三勝三

敗だ

ったと記憶

して

いる。

こうし

たツバゼリ合

いが

、新聞の普及拡

抽… ……

(6)

Page 7: 昭和59年1月10目 第167号 思 と 上 策 が 大 る う す い っ 下 に 統 … · 昭和59年1月10目 第167号 前 途 風 雨 強 か る べ し 明 け ま し て

昭和59年1月10日 第167号

につなが

っているよう

に思う。

さて昭和三十

九年の東京

オリ

ックは、東洋

ではじめて、

それ

日本で開

かれる。まさ

に世紀

祭典

である。そして戦後

を脱

した

日本が、世界

に羽ばたこうとす

跳躍台でもあ

った。

新聞の立場からいえば、す

でに

テレビ時代

に入

っていて、映像が

音声ととも

に即時、国民

に伝

えら

れる、そんな時

に新聞

の独自性は

どうすれば発揮

できるか。

私はオリ

ンピ

ックは人間

のドラ

マにつき

る、と考

えた。競技

内面に燃え

たぎ

る闘争心、葛藤、

歓喜、悲哀

の壮大な人間劇を、読

岩佐直喜

(いわ

裳き)氏略歴

三十

.二年〔一九〇〇

年)福岡県生まれ。

八十

三歳

。大

正十五年早稲

田大学

蘇門

部政

経科卒

年東東

日口新聞

入社、

和十

五年整理部長、同

二十年

退社。

時事新報、

眈売類聞

(東京

・大阪

)を経

て、

昭和

三十五年

ンケイ新

聞枷駒集

局長、

網紺集

糎長を歴

任後

、東

氷新聞編集局

畏。現在

同参与

者は新聞に求

めると判断

した。

私は取材

チー

ムの中心を、東

西両

本社社会部記者グ

ループ

におき、そ

れに運動部

の専門記者を配

て編成

した。

紙.面も朝刊

を第

一、第

二分冊

に分

け、第

一にオリ

ンピック

ニュース、

第二は

一般

ニュースで、社説も

ここ

に移した。当時の国内外情勢

は、そ

ほど

のこと

はなかった

ので、読者

の関心

はオリンピ

ックに集

まると考

え、思

い切

った構成

にした。

若いチエを総結築

一分

には目玉として、連

日見

開き

の特

集ペ

ージを設け、若

い記者

諸君に案

を練

ってもら

った。人間ひ

とりのチ

エはたいしたも

い。みんなの

エを引き出して結実

させる

ことが大事

である。

い競技プ

ログラムは決

ってい

るので、ど

のようなドラ

マを組

み立

てるか

であ

る。出

てきたタイト

ルは

面白か

った。

「開会

『94の

エピソード』

でい

きます」

「そり

ゃなんだい」

「全参

国に総当たりし

て、

コメソトを求

めるん

です」

「『10秒7の前とあと』とは

ね」

「女子80

ハード

ルのホ:プ

は依

田郁子

です。国民

の期待

を背負

って

いるが、実

は彼女は限界

にきている

のです。重圧の中

で走

る彼女

のレー

スの前とあとを追う

のです」

『2時間12分

の独

白』?

「マラソ

ンの全

レース中、

.、へは、円

は、何

を考えながら走

るのか、ザト

ック

(ヘルシンキ大会優勝者)

ってもらう……」等

々。

そして会期中、

サトー

・ハチ

ロー

さんに連

日、詩

を書

いてもらうとい

のであ

った。

期待

以上に総が

かり

で魂

のこも

いい紙面を

つくる

ことが

でき、期

間中、毎

日が楽しか

った。読者から

「む

さぼり読

んだ」と

いう話もし

しば聞かされ

た。また当時

「新

聞研究」四十年

一月号

「オリ

ンピ

ック報道

の紙面を分析す

る」で、「思

い切

った紙面構成

と意表

つく企画

で成

功したサソケイ

であ

た」と、

おほめにあず

かり面

はゆ

いであ

った。

ただ、

日本

人の心をゆるがした

依田郁

子も円谷幸吉も、自ら

の命

を縮

めて、

いまは亡いことは痛

しい。

この時

の新聞づくりに魂を燃

した仲間たちも、

やはり思

い出

つかしいと

みえ

「もう

一度

んな紙面を

つく

ってみた

いです

」と、

この頃

は毎年、十月頃

に「同

窓会」と名付け

て設営してくれ

酒席で楽

しま

せてもら

っている。

さて、今度

ロス大会は五十

年前と全く同じ

スタジ

アムで

「世

界は

一つ」

の祭典が、繰り広げ

れると

いう。おそらく

で、そ

の情景

は同時

に、われわれ

のところに届く

だろう。

この時代

に新聞

は、ど

のような演出

をみせ

てくれるか。

オリ

ソピ

ック

・バ

の八十三歳

にな

る老兵は心待ち

している。

最後に私

の夢

を……。私

一九

〇〇年すなわち

一九世紀末

の生ま

れ、あと十七年

を幸

いにして、

の世

にあれば二〇〇

一年に、

19↓

20↓21の三世紀

にわたる

”世紀

ハシゴ酒〃を呑

みた

い。

(7)

Page 8: 昭和59年1月10目 第167号 思 と 上 策 が 大 る う す い っ 下 に 統 … · 昭和59年1月10目 第167号 前 途 風 雨 強 か る べ し 明 け ま し て

昭和弱年1月10日 第167号

五尺七寸の毛む

くじ

ゃら。含差

(はにかみ)

のため

に死す。

太宰治

「悶悶

目記」

昭和二十四年十

一月二日夜。東

・銀座の新聞社

三階

の編集室

数皿多

い電話の

一つが鳴

った。夜勤

の社会部記者、

わたしが受話器を

ると、相手は、

三鷹

の病院長

を名乗る人だ

った。

「田中

エイ

コーと

いう人が、三

鷹禅林寺の太宰治

のお墓

の前で、

スリを飲んだ。

いま、うちの病

で手当てをしている」

すぐ車で、三鷹

の病院

へかけ

つけ

ると、病院

の奥

のタタミの上

フトソが敷かれ、大男が仰向け

に寝

て、大きないびき

をかいてい

た。

六尺近く、二十貫

はあろうか。

腕力

の強そうな男

で、顔

は意外に童

った。

いたことは、大

いびき

の男

の枕

に座

っているや

せた男が、わたし

の京

都の高校時代

の級友野平健

一君

った。今

「フォーカ

ス」と

「週刊

薪…潮」の責任者、野平君は、当時新

の編集部員

で、お互い

一番

こき

使

われるころだ

ったので、その前会

ったのは前年六月、太宰治

の亡きが

らが、入水後、何

日かして玉川上水

で見

つかったとぎだ

った。

野平君は、編集者として太宰と格

別じ

っこんで、

つ飲み仲間でもあ

ったらしい。書き置きを残して行方

知れず

にな

った、大宰と愛人

の山崎

富栄が入水した場所を見

つけ

は、野平君だと聞

いて

いる。

「やあ、どうして君

ここ

へ?」と異

口同

に言

ったが、野平君

知らされたのは、警一

から

の電話

で、

この

日、太宰治

の墓前

で睡

眠薬を飲んで自決

をは

った田中英光

の手帖に、野平君

住所と電話番号が書

かれてあ

ったと

いう。

電話をと

った人が

「田中

エイ

コと

いう女性が

スリを飲んだんです

て」と伝えたも

ので、野平君は

「周

囲から変な目で見

られて弱

ったよ」

と笑

った。

医師は

「このまま寝て、あしたは

元気にな

って

いますよ」と言

って去

った。夜もふけて、膝のあたりが寒

くな

ってきた。

「家内が今夜出産なんで、失礼す

るよ」。もう大丈夫と思

ったの

う、野平君は帰

っていった。

野平君の奥

さんは、おかっば

で、

面白

い人な

のだが、野平君が

この人

と結婚するとき、太宰治

た。太宰

は、自分の弟分

のような

友だちが結婚す

るとき

は、反対す

る性癖があ

だ。鏡花

「婦系図」

の真砂町の先生

をわざ

と気

って

「オレを捨

てるか、女

を捨てるか」と芝居の科

白で迫

たが、野平君

はあえて結婚

した。

その奥

さんの出産だ。

昭和二十

三年六月十九日、朝。

玉川上水

の堤

の上から、水量が減

って赤土

の見

える川底

と、二、

三人

の男が、白木

の棺

そばにいた。

あとでその

一人が野

平碧だ

と知

ったが、その時

は気が

つかな

った。

堤の上を髪を乱してや

ってきた

中年の男が、私は山岸外史

で、山

から汽車

でかけ

つけたと

ころだ

と言

った。

「私が太宰を死

なせた

ようなも

のだ」とも言

った。

いた

く興奮

して

いる様子があ

りありと

見えた。

六月の雨が降

っていて、道ば

のムシ

ロをぬらしていた。

のム

シロの端

から黒い髪が見

えた。太

宰と

一緒

に入水した山崎富

の亡

きがらだ

ったo戦死した三井物産

(8)

Page 9: 昭和59年1月10目 第167号 思 と 上 策 が 大 る う す い っ 下 に 統 … · 昭和59年1月10目 第167号 前 途 風 雨 強 か る べ し 明 け ま し て

曙和59年1月10日 第16ア 号

の未

亡人

で、

の愛人

だ。

の方

は、

いち早

く棺

に納

めら

のに、

彼女

の方

道ば

に投げ

出さ

いる

のが、

かわ

いそう

な気

た。

の亡き

がら

コウ

モリ傘

を差

いる小柄

な背

のお年寄

りが

いた。話

しかけ

と、

の人

「娘

が、

こんな

こと

て、済

こと

だと思

って

います」と、

のわたし

にま

で噛..Uう

では

いか。山崎富栄

の父

で、口本最初

の美

を経営

こと。

んな場合

でさ

え、

に謝

ら机上に置かハ た太禦 と山笥霜栄 の写 貞

ねば

ならないなんて、娘

をもつ父親

いうものは、何

とあわれな存在だ

ろう、金輪際、娘

はほしくないな、

の時、独身

のわたしは思

った。

由[崎官田栄の下宿旧は、太由羊が二階を

事場

にしていた

「.千草」という小

理屋

の向かいにあ

った。階段を上

ると、二階の六畳が彼女.の都屋

で、

こには、もう死者

のための飾り

けが

してあ

った。線

き、

ふとみると、白

い紙

に墨で描

た彼女

の似顔絵が壁

にピ

ンでと

めら

てあ

った。

「昆」と

いう罵名は漫

画家、清水毘だ

ろう。

社会部記者

のわた

しは、その紙

はが

して社

へ持

ち帰

った。写真部

したが、結局、紙、肉

使

、そ

の絵は返しそびれ

て、わたしが

っていた。ひどく疲れた日、そ

をみると、たとえようもなく

いや

な気持ちにな

って、

の絵を破り捨

てた。後年そのことを野平君に話し

たら

「あの絵は、ど

うな

ったろうと

っていたんだ」と言

った。

は、それてしま

ったが、その野

君が引きあげたあ

と、看護婦も姿

を消

して、田中英光

のそばにわたし

一人が

った。

つか

て、

そろそ

ろ引

あげ

よう

かと

たと

き、さ

っき

で聞

こえ

た大

イビナ,が

閲…こえ

いのに気

。急

いで田中

って

、手足が冷

っている。

これ

いけな

いと思

って、

巨体

の手

から盛

こす

ったが、

一向

が回復

しな

い。

看護

婦を探

て異

を告

医師が

てカ

ルを注射

した

はそ

のまま

った。

ここでこの男

田中英光

いて

ひと

こと述

この作

時代、

ロサ

・オリ

ンピ

のボ

ート

の選

て渡米

ことを書

「オリ

γボ

スの果

で、

昭和十

六年

池谷賞

を受

。今読

んでも

々し

い感性

た作

だが、

さが

て、戦後

は、

カダ

γスの作

ストリ雑誌

で書

いていた。

ては太宰

の人

に比ぶ

べく

ったが、太

の友

で、太

の墓

で自決

した

ほど

でな

ても

、社

して、

かな

われ

のでは

かと思

った

。が

翌十

一月

.二口朝

一.面、

三.画

は、湯

ーベ

ル賞「受

の・記事

で埋

めら

れ、

わたし

の書

いた

田巾英

の死

は、

社会

に小

さく

べタ記

で載

って

いた。

「いや、薄

っぺらな

の新

とし

は結構

目立

ったG

の裏

ストリ

ッブ

の記事

った

、後

年わた

に言

った

のは、

、セで

ストク

ラブ膏貝瓜又轡貝者

の旧卜川

占艮

一甜即

さんだ。

「.田中

は、

クの母

の弟

す。鎌

で水

を教

た。

なたが

田-中の最期

の場

いて

った

こと

を、

田中

の.r供

に話

よ」

のお子

聖、」んた

ちの

一人

は広

会祉社

】人

は、

の書

にな

って

いる。

むらお

きよ

かず氏

略歴

大正十

一年

(㎜九

一=一

年)香川県

生まれひ

一歳,

京大

学法

学部卒、

昭和.一十

.二年読売新

聞社入社冒

社会部、記者

とし

中東、

セイ

ロソ、

ンド

へ特

二十九

年、

ビキ

∴事件

.取材

の瞭

“死

の灰

8

いう欝

葉を

作る。

四十

四年

八月から夕刊

=ラ

「よみ

うり寸

評」を揖当

。現

在、取

締役論説委員

会委員。

昭和

h十{ハ年日本釦山者ク

ラプ̀寅膚又艀夙。ク一フ↓ノ名

融賀△夙邑ハo

(9)

Page 10: 昭和59年1月10目 第167号 思 と 上 策 が 大 る う す い っ 下 に 統 … · 昭和59年1月10目 第167号 前 途 風 雨 強 か る べ し 明 け ま し て

昭和59年1月 伯 日'第f67藤

藤木平八郎

軍事問題評論家

テー

マは

「深

く静かな戦

い」。

潜水艦の概要

ソの潜水艦建

造競争

の話o今

の発展動向か

ら潜

つい

【七日

(水)

研究会

一.軍亭技術」

(W)

司会

武曝

慧企画委員

出密

六七人】

稲山嘉寛

経済団体連合会会長

.「わが国

の経済運営

のあり方」

マで

っぷ

ヅド

・イ

・ワ

、「経

れば

つい

込醐を

o

【一五口

(木)

昼食会

司会

一郎企画委員

出席

六二人】

西村

住友銀行常務取締役

途上国

の累積

務問題に対応する

ため、緊急

SDR

ファシリテ

ィ創設

を説く、住友銀行

の西村常務・

一月

「世

の研

て、講

て年

二度

の登

【二

一日

(水)

司会

平.田真巳企画婁員

出庸

三九人】

83総選

七党

続記者

会見

片桐政美

民社党選挙対策副委員

【=二口(火)

出席

五Q人】

山口敏夫

新自由クラブ幹事長

・選挙

対策委員長

【=二日

(火)

出麿

三八人】

桑原信夫

共産党選

・自治体局長

【二一日(火)

出席

四二人】

大野

公明党選

挙対策委員長

四日(水)

出贈

五孤人】

小沢

一郎

自民党総

務局長

・選挙本部

事務局長

四日(水)

出席

六四人】

英夫

社会毘主連合代表

【一四日

(水)

出庸

三三人】

安恒良

社会党選挙対策委員長

四日(水)

出席

五一人】

2日▽在京九社編集局長会

(協会

宝子

山幸充会員)▽第22回みちのく懇話会

年末懇親会

(坂田二郎会員)

5日▽第

2回日

ソジ

ャーナリスト会議ー

ハチ却,ツ

ロフ

・ノーボ

スチ副…社長、

エヒーモソ

・イズ

スチャ第

一編集長ら五名

のソ連

ジャーナリ

スト、在京

ソ連特

派員、各社

論説委員

らが出席

(共同

大塚喬重会員)

6日▽文

教論説懇談会

(日経

黒羽亮

会員)

▽座談会ー

コレスニチ

ェソコ・プ

ラウダ外

報部長と大迫、岡本、椛の各外

報デ

スク

(西日本

田窪敏朗

会員)

日▽

「世界子供白書」発表記者会見

(国

速広報

セソター

デビ

ット

・エクセレイ

会員)▽日本

工ッセイ

ストクラブ忘年会

〔殿木圭

}会員)▽座談会-

新企画

「新

日本人論

」シリーズ①「なぜ今

日本人論な

のか」山本七乎、矢野暢、小此木啓吾の

諸氏と山本編集局長

(山陽新

藤岡進会

員)

8

日▽報道資料研究

(協会

町敏昭会員)▽JNN系列編成連絡会

懇親会

(TBS

束守之会員

)

9日▽

▽座談ム本「秋田のくにづく

り1

20世紀の

宿題

への回答」白根榿吉電気

通信科学財

団理事長

、山崎貞

一TDK相談役

(秋田

遠藤欽

「会員)▽全国

地方紙”社会

(京都

尾関史郎会員)▽道新東京OB

(道新

太田俊郎会員)

▽民放合同忘

年懇親会

(NTV

平井文夫会員)▽国

際連合年末

レセプション

(デ

ビΨ卜

・エ

クセ

レイ会員)

10日▽第

10回ふるさと

東山爪ま

つり写真

コンクー

ル衰彰式

(東タ

徳間康快会員)

12日

▽姻メガ実験

懇談会

(協会

佐藤耕太会員

)▽

「金」

研究会忘年パーティー

(日経

立花明正

会員)

▽防衛政策研究会ー秦豊参議院議

員、青木

日出雄氏、河曽沼広郷氏他

(フ

ジ新

岡芳輝会員)

13

日▽二火会

(日

本農業

木村睦会員)

14

日▽放送番組

上委

員会

(矢野輝雄会員

)

15日▽情

報研究会懇親パーティー

(共同

西崎哲

郎会員)

16日▽59年

ナイ

(T

VK

神名玲二会員

)

17日▽各社

文化事業部会議

(東京

夏目十郎会員)

21日

「親

の目、fの目」番組企画委員

ム茶

(テ

レビ朝日

A7井」慶

一A苫昌ハ)

笈日

▽BAS

-審同の日

]記者会見

(朝日

浅井泰範会員)▽関東

U四局会議懇親会

(TVK

田代昌史会員)▽84リ

コージ

ャパ

ンボウル記者発+衣

(スポ

ニチ

石井

経夫会員}

27日▽東北民放懇話会

(山

形放

滝島寛会員)

会員

がクラブ施設を利

用して行

った

の主なものです。十

二月の総回

は九五回でした。

ッコ内は申し

込み会員名。

(10)

Page 11: 昭和59年1月10目 第167号 思 と 上 策 が 大 る う す い っ 下 に 統 … · 昭和59年1月10目 第167号 前 途 風 雨 強 か る べ し 明 け ま し て

昭勃5g年1月16昌 第167号

二月

六口

とL

二曳

の煽

、翁

、1

n、そ

に見

肉羅

Lた

一月

. 口

い.誘

ムで

父「(σ

レリ、・知

配煮

二娘

(.張

焦μ珍・さ

〕孤

01対

5.…を

ーた

、.p.の

”レ・・銚は焼

同か

配.信

5

豊日

,に己掲

}(、h

孤独な重圧の下で写真 香丸 宏(共 同通信社写真部)

当方が納得せざ

るをえない

理由

で、取材対象

から

「カメ

ラは

一人に」と要請してくる

ことがあ.る。

“悪名高

い協定

”で、たい

い共同さんの代表

取材とい

ことになる。各祉

へのオγ

ライ

ン配信シ

ステ

ム完備

の社

からでもあ一る。

「各社」側

った私など、

タテ

マエとして独自取材放棄

を残念がり、

ホンネと

して楽

をさせて貰

ったわけだが、代

取材

に当た

った記新

の重圧

には、中しわけな

いが思い

及ば

なか

った。

山梨県長坂町

の老人ホーム

で、中国残留孤児

の親チ再会

を代表取材

した共同

の香丸記

へ写冥部)

は、そ

の瞬間の

圧を、

こう語

つて

いる。

「このシーンを記録するカ

メラ

ガ、ンは自分

一人

しかいな

いのだ」

えてみると、現場

で取材

に当

たる記者は常

この重圧

と、孤独

に戦

っている

のであ

る。

(文

中沢道明会艮)

(翼)

Page 12: 昭和59年1月10目 第167号 思 と 上 策 が 大 る う す い っ 下 に 統 … · 昭和59年1月10目 第167号 前 途 風 雨 強 か る べ し 明 け ま し て

昭蓼059年1月10日 第167号

彰囲碁同好会縁

二回大軒杯争奪の囲碁大会

は十

二月十七日、史上

最高

の二十七名が参加

(遅刻組

のオープ

ン参加が他

二名)、

午後

一時

からおよそ八時間、

熱戦がく

りひろ

げられた。

段級位

により四クラスに分けて、先ず

クラスご

との

優勝を争

ったo先陣はDク一7スの井出二級

(D会員)

で、二勝同士

の小林四級

(時事)を下して

け。Aクラスは石綺

(会友V、伊藤

(毎口)の両五段が

三勝無敗、進行の都合でやむなく抽選し、石崎五段。

Cクラ

スも

二勝同士の河田二段

(会友)と田村初段

(D

会員)が争

い河田二段の勝ちc最後

に残

ったBクラス

は本島

(朝目)、山根

(会友)の両四段が二勝

一敗

の同

率で抽選、本胤四段に幸

いした。

決勝矧トーナメントは、石崎-辱河

田戦は河田二段、・本

島-

井出戦

は本島

四段

がそれぞ

勝ち、両者

で総合優勝

を争

った結

果、第

二回

大軒杯は本

島宏四段が

獲得し

た。

次軒

杯目

しで

み.毘/、.

カー

ド電話をご利用く

ださい

材記老

の皆さんの中

にも最

近は、テレホンカード

を持

つ方

がふえています。

「どうして記者クラブ

には

カード電話が

つかないの」と

の声が窮務局

へ寄

せられ

いましたが、ようやく電

々公社

の格別の配慮

で、十

二月十

六日

(金)、カード電話が設置されました。

ご利

用くださ

い。

お、

レホンカードはブ

レスセアタービ

】階

売店

で販売

しています。

・ミー

(カ

レジ

.

ラブ

)

/

{

ニズ

・デ

・ア

(デ

ーー

・デ

)

12

11

/

!

計報

余阿勲会員

(中国時報

個人

D)が、十

二月七

日、気管支ゼ

ンソクのため、前

田義徳会員

(飼

D)

が、十二月十七日、呼吸不全

のため逝去されま

した。

んで両会員

のこ冥偏をお祈

いたします。

新企画

「写真回廊」始まる

号から新企画として

「写真回廊」が

λタ

ートし

ました

(1ーベージ)。報道写真

と矩文

でブ

スクラ

の会撮

にふさわしい

一ページを

つくりたいと思

ています。会員社写真部

の皆

さんのご協力を

お願

いたします。なお、執筆陣は三樹精吉、山崎英

祐、

中沢道明

の諸氏

です。ご期待

ください。

テレビ大阪

が入会

会員は左記の方がたです。これ

で放送関係

の法人会員社は六三社となります。

佐々木誠

代喪取締役社長

加藤

義行

常務取締役

・業務本部長

吉田

晴雄

制作局長

小林

貞夫

東京支社長

住所

(本社)⑰脚

大阪市東区京橋前之町ニー二

電話

(〇

六)九四七100

一九

(東京支社)⑲掴

東京都中央区銀座ニー

一一-

一五

電話

(〇

三)五四五-六二六六

=

=

=

19

(木

)一一=

午後6時~

8時

新年互礼会員懇親会

レスセンターホール

(10階)

新年

あけましておめでとうござ

います。

恒例

の新年互礼懇親会

は右記

の通りです。席

駆年予想アンゲートの結果発麦と黄彰、な

らび

に59年予想

アソケートを実施するほか、毎年好

評を得て

いる全員総当

たり

(空クジなし)

の福

引を行

います。多数ご出帝くださいますようお

待ち

いたします。

会報

委員長

11深谷憲

委員

11桂敬

井出新

斎藤吉史

安延久夫

連緒

11長谷川

河野

(事

務局)五〇三ー

二七

(12)