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明治期における宣教師 A.L. ハウの保育実践について ― 保育への自然導入についての一考察 ― 浅見 キーワード:A.L.ハウ、保育内容「環境」、自然、理科教育 Keywords:A.L.Howe,Childcare contents“environment” , Nature, Science education はじめに 1886年アメリカンボードの宣教師デイビス(Davis,Jerome Dean)が帰米、その折キ リスト教主義幼稚園の設立が急務であることを認識した摂津第一公会(現在の日本基督教 団神戸教会)の婦人たちがデイビスに専門家の派遣を依頼したのである。それに対して名 乗り出たのがアメリカ人女性宣教師 A.L.ハウ(Annie Lyon Howe 1852-1943)であっ た。 ハウは直ちに準備し1887(明治20)年来日した。2年の準備期間の後、1889(明治22) 年神戸の地に頌栄幼稚園及び頌栄保姆伝習所を設立した。彼女の保育の基礎は当時アメリ カに入ってきた、ドイツ人フレーベルの幼稚園の思想であった。わが国では明治9年東京 女子師範学校付属幼稚園が最初の幼稚園として開設され、ドイツでフレーベルより直接教 育を受けたドイツ人松野クララが中心となり、フレーベルの考案した保育教材「恩物」を 中心とした、形式主義的な保育が行われていた。ハウはアメリカに入ってきたフレーベル の思想を学んでのものであったが、当時の形式主義的なフレーベル理解と違い、真の意味 でのフレーベルの幼児教育思想の展開をはかった先駆者であると位置づけられている。来 日時35歳であったハウはフレーベルの著作の翻訳、唱歌、講演と精力的に活躍した。女史 の日本の幼児教育界に及ぼした影響はキリスト教主義幼児教育のみならず、幼児教育界全 般にわたるものであるといえる。本稿では、様々な彼女の功績の中より自然教育(保育内 容領域「環境」)に於ける貢献を中心に見ていく。

明治期における宣教師A.L.ハウの保育実践について...明治期における宣教師A.L.ハウの保育実践について 保育への自然導入についての一考察

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  • 明治期における宣教師A.L.ハウの保育実践について―保育への自然導入についての一考察―

    浅見 均

    キーワード:A.L.ハウ、保育内容「環境」、自然、理科教育

    Keywords:A.L.Howe,Childcare contents“environment”,Nature,Science education

    はじめに

    1886年アメリカンボードの宣教師デイビス(Davis,Jerome Dean)が帰米、その折キ

    リスト教主義幼稚園の設立が急務であることを認識した摂津第一公会(現在の日本基督教

    団神戸教会)の婦人たちがデイビスに専門家の派遣を依頼したのである。それに対して名

    乗り出たのがアメリカ人女性宣教師A.L.ハウ(Annie Lyon Howe 1852-1943)であっ

    た。

    ハウは直ちに準備し1887(明治20)年来日した。2年の準備期間の後、1889(明治22)

    年神戸の地に頌栄幼稚園及び頌栄保姆伝習所を設立した。彼女の保育の基礎は当時アメリ

    カに入ってきた、ドイツ人フレーベルの幼稚園の思想であった。わが国では明治9年東京

    女子師範学校付属幼稚園が最初の幼稚園として開設され、ドイツでフレーベルより直接教

    育を受けたドイツ人松野クララが中心となり、フレーベルの考案した保育教材「恩物」を

    中心とした、形式主義的な保育が行われていた。ハウはアメリカに入ってきたフレーベル

    の思想を学んでのものであったが、当時の形式主義的なフレーベル理解と違い、真の意味

    でのフレーベルの幼児教育思想の展開をはかった先駆者であると位置づけられている。来

    日時35歳であったハウはフレーベルの著作の翻訳、唱歌、講演と精力的に活躍した。女史

    の日本の幼児教育界に及ぼした影響はキリスト教主義幼児教育のみならず、幼児教育界全

    般にわたるものであるといえる。本稿では、様々な彼女の功績の中より自然教育(保育内

    容領域「環境」)に於ける貢献を中心に見ていく。

    ― ―

  • 1 来日以前のハウとアメリカの幼児教育の状況

    ハウは、アメリカにおいて幼児教育、特にフレーベル主義に基づく幼稚園教育を学び、

    園長など保育経験を積んでの来日であった。その意味では、日本に来ての幼稚園教育およ

    び保育者養成のための準備期間とでも言えるような感さえある。ここで、ハウが来日する

    までのアメリカの幼稚園運動の様子、アメリカに幼稚園が伝わるまでの経緯の概略を述べ

    ておく。そのことによりハウがどのような学びをして来日したかが解明できると思われ

    る。

    1-1 アメリカに於ける幼稚園の状況(1860年以降)

    幼稚園」(Kindergarten)はドイツ人フレーベル(Friedrich Wilhelm August Frober

    1782-1852)によって1840年ドイツ、チューリンゲン地方のバートブランケンブルクに創

    設された。1837年、フレーベルは同地に「自己教授と自己教育とに導く直観教授の教育

    所」を創設し、1839年母親の教育力の向上と保育者養成を目指し、講習会を開催。受講生

    の実習の場として村の6歳以下の子どもを集めて開設したのが「遊戯及び作業教育所」で

    ある。そしてそれは翌年フレーベル自身によって、Kindergarten(幼稚園)の名がつけら

    れるのである。

    フレーベル思想は1850年代にアメリカに伝えられドイツ人学校の実践に生かされていた

    という。そしてアメリカにいるドイツ人の子どものための、ドイツ語で指導するフレーベ

    ル主義幼稚園が1850年代に設立されている。1860年にピーボディー(Miss Elizabeth

    Peabody)によって、アメリカに於ける最初の英語による幼稚園がボストンに設立され、

    さらに、1862年には、彼女によって「幼稚園とは何か」(Kindergarten What Is It?)とい

    うテーマの論文が出され、アメリカの幼稚園運動は加速していく。1870年から1880年の10

    年間に幼稚園運動は発展し始め、各地に幼稚園教員養成学校が設立されるに至る。アメリ

    カに最初に幼稚園教員養成所を設立したのはマチルダ・クリュージュ夫人とその娘であ

    り、それはボストンに開設された。「1870年には、アメリカの幼稚園教員養成学校は1校で

    あったが、1880年には、10の大都市とそれ以上の多くの都市で養成学校が設立されるに

    至った」 のである。このことはとりもなおさず、幼稚園が多く存在するに至ったことを物

    語るものである。

    1-2 ハウの生い立ちから来日まで

    ハウは1852年1月12日アメリカのマサチューセッツ州ボストン郊外ブルックラインに生

    まれた。両親はピューリタンの血をひくキリスト教徒であった。

    1867年彼女はロックフォード・セミナリー(現ロックフォード大学)に入学、音楽を専

    攻している。一家は1871年シカゴ近郊のワシントンハイツに転居している。そんな中1871

    年より生まれ故郷のボストンで過ごし「自宅就学奨励会に入って音楽と歴史を通信教育に

    ― ―

  • よって勉強」 したのであった。1870年代にはボストンにおいて幼稚園運動が盛んに行わ

    れ、幼稚園教員養成学校が設立されている。その様な状況下において、そこに身をおいて

    いるハウに幼稚園運動に対しての感化、影響は多くあったことと推測される。やがて、

    1876年ハウはシカゴにあるシカゴフレーベル協会幼稚園教員養成所に入学するのである。

    そして2年の養成期間を終え、1878年シカゴにて私立幼稚園を開き、園長として働く。幼

    稚園は「シカゴ市民運動の指導者であり、中部婦人伝道会幹事でもあった、ブラッチ

    フォード夫人(Blachford.E,.W.)がその邸宅の一部を提供」 してくれることにより実現

    したものである。当然保育はフレーベル思想に基づくものであった。ここで3年間の保育

    活動をした後に1881年、「ミス・グラントのセミナリーに移り、さらに6年間を同じよう

    に保育の実務に従事」 したのである。この間、世界の詩、理科教育、音楽、フレーベルの

    「母の遊戯及育児歌」を研究している。この時代アメリカでは「学校制度の一部としての

    幼稚園の有用性が立証され…小学校の教育課程に、しばしば『流行』と呼ばれる諸教科

    ―音楽、図画、手工、自然学習、体育―を付け加え強化を豊富にした。これらの諸教科が

    幼稚園の有機的な部分を構成しているという事実が、それまでほとんど無関心であった多

    くの人々に幼稚園に対する関心を呼び起こした。そして彼らは、幼稚園のゲームの中に子

    どもの真の身体的発達の基礎を、お仕事遊びの中に芸術・手工科教育の基礎を、園庭遊

    び・自然観察の中に自然に関する実際的知識の基礎を、見出し始めた」 という時代背景が

    あり、ハウが音楽、理科教育などを学び保育に導入することを考えていたことは推測され

    る。また、後述するが、フレーベルの保育思想においても、自然は重要な位置を占めるも

    のであることはいうまでもない。いずれにしても、ハウは、アメリカに於ける幼稚園運動

    の発展のただ中にあり、大いに刺激を受けながら、向学心に燃える敬虔なクリスチャンの

    保育実践家として、まるで日本で幼児教育を展開するために、生まれ、準備をしていたよ

    うな35歳までの半生を送ったのであるといえよう。

    2 ハウ来日以前の日本の幼児教育事情

    ここでは、ハウの来日までのわが国の幼児教育の状況について概観しておく。

    2-1 明治9年から20年までの幼稚園の状況

    前述したように、1887(明治20)年ハウは宣教師として来日し、2年間の準備期間を経

    て1889(明治22)年幼稚園と保母養成所を設立した。即ち頌栄幼稚園と頌栄保姆伝習所で

    ある。そして、ここで幼稚園の創設者フレーベルの思想を正しく理解し展開したのであ

    る。ここから日本の幼児教育は第2段階に入るといってよいであろう。

    ここで、わが国の明治20年以前の幼児教育事情について概観しておきたい。わが国の最

    初の幼稚園は明治9年創立の東京女子師範学校付属幼稚園であることは周知のとおりであ

    る。当時の幼稚園はドイツ人で直接フレーベルより教育を受けた松野クララを首席保姆と

    ― ―

  • しての保育展開であったが、松野は保姆になるための来日でなく、結婚による来日であっ

    た。当時の保育内容を見ると、フレーベルの考案した教材の「恩物」を中心とした保育で

    あったといえる。ハウが明治22年に幼稚園を設立するまでの間にもわが国では幼稚園が各

    地につくられつつあったが、東京女子師範学校の影響は大きく、わが国の幼稚園教育の次

    の段階つまり、恩物中心の形式的なフレーベル主義に基づく保育展開からフレーベルの保

    育思想の本質に迫る保育展開への転換はハウの登場によってなされたといえる。

    2-2、明治9年から20年までのわが国幼稚園教育における保育内容「環境」

    ハウ以前、つまり明治20年以前のわが国の幼稚園教育における現行保育内容「環境」領

    域に該当する内容を見てみると、明治9年の東京女子師範学校附属幼稚園の保育内容の中

    に「修身話か庶物話(説話或は博物理解)」 とある。博物の中で身近な動物や植物の話が

    出てきたことは翌年に出された幼稚園規則からも推察される。つまり、明治10年「東京女

    子師範学校附属幼稚園規則」ができ、そこでの「保育科目」において「第一物品科 日用

    ノ器物即チ椅子机或ハ禽獣花果ニツキ其性質或ハ形状等ヲ示ス」 とある。即ち絵などに

    よって鳥や獣、花や実について性質などを含めた話をしていたと思われる。実体験を伴わ

    ないあり方での自然への関心であるといえる。

    関信三は明治11年に「幼稚園創立法」を著しているが、フレーベルの幼稚園思想に基づ

    いて書かれている。その中で、「園庭の景況」において「園庭ヲ幼稚園ニ附設スルハ徒ニ

    眺望ノ佳趣ヲ賞シ其結構ヲ装飾スルニアラズ是レ亦幼稚保育ニ欠クベカラザル一個ノ至要

    物ナリ…布列別氏欣然トシテ曰ク子輩ノ日課初テ忙シト是子女ヲシテ草木等ノ如キ天造ノ

    物體ヲ目撃シ且ツ是ニ親接セシムルハ教育法ノ一大緊要ナル科目」 であると述べている。

    幼稚園をつくるには園庭をつくることが必要だが装飾された庭ではなく、フレーベルが言

    うには天(神)の造った植物等を見たり触れたりすることが、つまり実体験を通して感じ

    る教育が大切であるということを述べている。この時点でそのことについて言及してはい

    るが、実際の日課や保育科目にはそれが反映されていたかどうかは定かでない。しかし、

    明治10年代において注目すべきは大阪の愛珠幼稚園(明治13年創設)の創設当初の保育時

    間表を見ると「第一ノ部」の水曜日と木曜日の「従十時 至同十時二十分」に恩物と並ん

    で「耕作」 が取り入れられていることである。詳しい内容については不明であるが、畑の

    ようなものが用意されそこで20分ではあるが実体験としての栽培活動がなされたのではな

    いかと推察される。しかし、愛珠幼稚園の明治26年の「保育規定」 によれば「耕作」の

    科目は消滅している。またそれに代わる内容の科目も存在しないのは残念である。

    明治14年になると東京女子師範学校附属幼稚園は保育科目を改正し「保育の要旨」、「保

    育科目」、「保育課程表」などを制定しているが、「保育の要旨」において、「幼児ノ生育ノ

    タメニハ、室外ノ遊ビヲ最緊要ナリトス。故ニ天気ヨキ時ニハ放課ノ際ナト務メ、庭園ニ

    ハ、其快楽ヲ増シ観察ヲ導クヘキ、草木ヲ植エ魚鳥等ヲ養フヘシ」 、つまり、草木や鳥や

    魚などを庭に準備して、天気の良い時には子どもたちを外に出して遊ぶことを通して観察

    ― ―

  • をするようにすることが重要であると記されている。また「保育科目」に「三 庶物ノ話

    庶物ノ話ハ専ラ日用普通ノ家具、什器、鳥、獣、草、木等幼児ノ知リ易キ物或ハ其標本、

    絵図ヲ示シテ之ヲ問答シ以テ観察注意ノ良習ヲ養イ兼テ言語ヲ習ワシメンコトヲ要ス」 と

    ある。ここでの目的は、身近な自然物に対して注意してよく観察させて良い習慣を身につ

    けさせ、併せて言葉を覚えさせることを目的としていることが理解できる。

    このあたりから、或はそれ以前にそのようなことが行われており、明文化したものとい

    えよう。明治10年代には日本の幼児教育の中で、恩物は確かに重視されていることは理解

    できるが同時に自然に対しての知識と実際の観察、遊びに着目し始めていることが理解で

    きる。

    3 ハウの日本に於ける保育展開 1887~

    ハウの保育内容としての自然の導入の実際

    前述したように、ハウが来日する以前のわが国の幼稚園教育においても保育内容の「環

    境」に当たる部分つまり自然、観察などが着目され始めていることが理解できる。しか

    し、ハウによってさらに深化した内容に展開されていくことになる。

    ハウは、1887年の来日から1927年任務を終えてアメリカに帰国するまで折々に家族に当

    てて手紙を書いている。その書簡集から「環境」領域に該当する保育内容についての記述

    を多数発見することができる。又それ以外では、著者の「幸福なる可能事」及び多くの写

    真の資料などでも該当箇所を発見できるので、それらを通して、どのような保育が行われ

    ていたのかを見ていく。

    3-1 フレーベルの保育思想に於ける自然とキリスト者ハウ

    ハウが自然を保育の重要な内容として考えるに至った理由はいくつか考えることができ

    る。第1に、前述したが、1876年ハウはシカゴにあるシカゴフレーベル協会幼稚園教員養

    成所に入学し学んでいることである。その中でフレーベルの教育思想に大きな影響を受け

    たことは当然考えられる。事実彼女は、日本にやってきてからフレーベルの「人間の教

    育」を訳して出版している。また、1888年2月の妹メアリーに宛てた書簡にフレーベルの

    保育思想について述べている。即ち「フレーベルはすべての子供を終始、神の愛を認識す

    るものとして描きました。子供は常に神の御手によって作られた花や鳥、太陽、月、星に

    よって、神の愛を認識します」 としてキリスト者であるフレーベルの理解をし、「フレー

    ベルの理論をよき手本とする教師が、最善のキリスト者」 であると述べている。また

    1917(大正6)年「幸福なる可能事」の中で「自然界に於ける神様の御働きに対し、児童

    をして敬虔なる愛と賛美の念を起こさしむること、この宇宙万物は、すべて神様のおきめ

    になった規則によって支配されて居ること、此の自然界には神様でなくてはつくる事の出

    来ぬ神秘と栄光と美があること」を幼児に知らせることが保育者としての務めであると述

    ― ―

  • べている。これらのことはフレーベルの「人間の教育」の冒頭にある「すべてのもののな

    かに、永遠の法則が、宿り、働き、かつ支配している。この法則は、外なるもの―すなわ

    ち自然のなかにも、内なるもの、すなわち精神のなかにも、自然と精神を統一するもの―

    すなわち生命のなかにも、つねに同様に明瞭に、かつ判明に現れてきたし、またげんに現

    れている」 (ここにおける永遠の法則とは自然科学的なものにとどまることなく、神に

    よって統一されることを意味するものであろう)。そして「このすべてのものを支配する

    法則の根底にすべてのものを動かし、それ自身において明白である、生きた、自己自身を

    知る、それゆえに永遠に存在する統一者が、必然的に存在している。……この統一者が神

    である」 としている。そして「それぞれのもののなかに働いている神的なものこそ、そ

    れぞれのものの本質である。」 と説いている。このことは自然が神であるということを意

    味するのではなく、それぞれの自然に神的なものが宿っていることを意味している。「人

    間をとりまいている自然に内在し、自然の本質を形成し、自然のなかにつねに変わること

    なく現れている神的なもの、永遠なものを、教育や教授は、人々の直観にもたらし、人々

    に認識させるべきであり、またそうでなければならない。」 とし、「人間と自然とは、共

    に神から生じ、神の制約を受けながら神のなかに安らう存在であることを、教育、教授、

    教訓によって、人々の意識に高め、又それを人々の生命の中に有効に働かしめること、こ

    れが、教育全体の義務である」 、と言いきっている。さらに「神・お・よ・び・自・然・の・子・と・し・て・の・

    人・間・の使命は、神と自然の本質を、自然的なものと神的なものを、地上的なものと天上的

    なものを、有限なものと無限なものを、一致調和させて表現することにある」 と、天上

    と地上の調和表現が人の使命であるという。この意味において幼稚園において幼児が自然

    に出会うことは、極めて重要なこととして位置づけており万物神性論的な考え方である

    が、ハウの考え方は此のフレーベルの教育の根本的思想に合致するものであり、敬虔なク

    リスチャンであるハウにとっては非常に受け入れやすい思想であったといえよう。ハウと

    いう畑にフレーベルの万物神性論的思想が種として蒔かれたのである。

    3-2 幼稚園の「庭」

    ハウは、幼稚園の庭に力を入れているが、

    これはフレーベルに於ける幼稚園の「庭」論

    に通じるものがある。岩崎は「フレーベル教

    育学の研究」の中でフレーベルの庭論に言及

    している。フレーベルは保育において4つの

    柱になるものを考えていたとし、「恩物」と

    「運動遊び」(円陣遊び)、「小旅行」、「庭」を

    挙げる。「フレーベルは庭を幼稚園にとって

    非常にだいじであると考えていた。庭のない

    幼稚園は幼稚園とはいえない」 とまで考え

    ― ―

    写真1 幼稚園児植物培養

  • ていたと指摘し、庭とは「当時のドイツの中産階級、すなわち中流の堅実な農家のそれで

    ある」 とし、「そこには花も植える。花壇もある。しかし、また同時に野菜をつくる畑も

    ある。大麦とか小麦とかライ麦とかをつくる畑もある。フレーベルは幼稚園の庭としてそ

    のような畑を考えている」 のであるという。そうであるとすれば、ハウが豆の収穫をし

    たり、植物の種を収穫したことは非常によく理解できる。またそのことは自分自身の生命

    の保育や保護へと通じていくものといえよう。写真1は頌栄幼稚園の明治期における庭の

    様子「幼稚園児植物培養」 である。瓦を巧に組み合わせ淵にして花壇を造っている。ま

    た、花壇には樹木の若木や低木が植えられ、右側の花壇は種まきがなされた後のように見

    える。中庭は植物栽培に大きな面積をとっていることが理解できる。

    3-3 保育に於ける「植物栽培」

    1889(明治22)年12月すなわち頌栄幼稚園開園当初の書簡には、ハウの仕事予定表が記

    されており、その中に植物栽培に関する記述がある。「9時に子どもたちが席に着く、9

    時半までに幼稚園でのお祈りとお話と歌、9時半に2クラスは遊戯室へ、他の2クラスは

    保育室でお仕事、10時に交代、10時半に全員が20分間園庭へ、その間、助手は窓を全部あ

    けて新鮮な空気を入れ、子どもたちの机に植物を置きます。11時10分前に子どもたちは植

    物に水をやり、……。」 ここからは既に開園当初より幼稚園において個人所有の鉢を持

    ち、日課として植物の栽培を体験させていることが理解できる。書簡集より当時幼稚園で

    栽培していた植物を挙げると、アサガオ、ゼラニウム、キンレンカ、スイセン、カラーな

    どがある。このことは、フレーベルの「人間の教育」に於ける「少年が、自分で世話をす

    べき小庭園を持つことができなければ、すくなくとも箱か植木鉢に、二、三の植物を植え

    て、彼らの所有にしてやるのが良い」 であろうと述べ、そしてそれは、栽培の難しいも

    のではなく、極めてありふれた植物にすべきであると指摘していることに起因するもので

    あろうと思われる。フレーベルは、その活動を通して「たとえきわめて低次の段階のもの

    にせよ、ある外的な生命の保育や保護にたずさわったことのある幼児や少年にとっては、

    自分自身の生命の保育や保護に導かれることも、いっそう容易であろう。植物の世話をし

    ておれば、生きた自然物、たとえば甲虫とか蝶とか小鳥とかを注目したいという、少年の

    他の憧憬もまた満たされる」 との考えを述べており、その思想を受け継いでの実践とい

    うことがいえよう。

    また、ハウはこの活動を通して、園生活の中における自立即ち「自分の事は自分です

    る」ことも含めているといえるがこのことについては後述する。

    3-4 昆虫や小動物との触れ合い(生命への気づき)

    ハウは昆虫や小動物との触れ合いも非常に重要視している。これはいのち(生命)に対

    しての気づきを期待してのものであろう。「幸福なる可能事」には、幼稚園の子どもたち

    が「生命―即ちこの神秘なる、しかも驚嘆すべき力を持って居る生命が、眠りの状態にあ

    ― ―

  • る小枝に潜伏して、それが春になると芽や蕾をふき出すと云う事実、また、縫針のさきほ

    どあるかないかわからないほど小さい卵の中にかくれて居る生命が遂に発展して魚にな

    り、水中を泳ぎまはるようになるという事実、…を悟りました。これ実に1個の小天国が

    私共の幼稚園に出現した様なもの」 であると述べその神秘を子どもが目の当たりにした

    ことを喜んでいる。また書簡集には「秋には青虫を捕えて、子どもたちはそれぞれに蚊帳

    用の網をかぶせた箱を用意して、毎日餌をやって育てました。今では全部の青虫が寝巻に

    包まって、2階で蝶になる春を待っています。」 との記述があり、それは復活に繫がるこ

    ととして神の法律、愛が稚い子どもの心に認められていることを信じずにはいられないと

    述べている。宗教的側面を基盤として自然を科学しようとしていることがよく伺える部分

    である。

    3-5 保育に於ける理科の系統性

    1890(明治23)年12月の書簡においてハウは頌栄幼稚園に於ける理科教育について述べ

    ている。「昨年の冬には金蓮花を植えて、春と夏にそれはそれはたくさんの花束を作りま

    した。お客様や、病気の子どもたちにあげたり、園児が家に持って帰ったりしました。豆

    を植えて篭に数杯分収穫しましたし、朝顔を植えて、来年の春に蒔く種を取りました」

    との記述があり、草花や野菜を収穫していることが分かる。ここで重要なことは、花や野

    菜の栽培だけに止まらず日用にそれを生かしたり、収穫し、おそらく食したり、次の年に

    蒔くことも考えられていることである。活動を点でなく、線として、連続として捉えてい

    るところは着目すべき点であろう。そして、栽培を通して生命の連続性や不思議について

    も子どもたちに観取させようとしているのであろう。「自然界の事物を、その規則正しき

    連続的発展の順序に従って活用」 するのだ。秋には果実が、冬は就眠、春は命の復活、

    開花、夏には新緑という「自然の新陳代謝の順を追ふて教材を見出す」 のだという。こ

    の考えは、四季を通じて子どもに自然界の変化、法則に気づかせようとするものであり幼

    稚園において四季が3回巡ってくる中で子どもたちに発展的に生命の不思議、科学への芽

    を育てようという、スパイラルカリキュラムを考えているということもいえよう。自然界

    を線として捉えながらも今に於ける観察、つまり実物を観察して認識を深めようとしてい

    る。

    3-6 保育における観察・実物教育

    ハウは前述のとおり植物について系統性をもった保育を強調しているが、虫などの生き

    物についての観察も非常に重視している。たとえば蚕の飼育についての記述が1891年の書

    簡に確認できる。即ち「今年は蚕の観察を、去年の蛾の産みつけた卵に始まって、繭から

    絹糸のできるまでを観察しました」 と述べており、成長のプロセスを、観察を通して学

    ぶ保育実践をしている。現代の保育においては、学年を越えての長期の観察はなかなか考

    えられないことである。さらに「私たちは何を教えたわけでもなく、急き立てて観察させ

    ― ―

  • たわけでもありませんが、子共たちの興

    味は終始強く、この経験はおそらく決し

    て忘れることがないでしょう」 と述べ

    ている。つまり本物(実物)と出会い、

    直に向き合い学び取る体験こそ子どもに

    適しており、保育に重要であるというこ

    とを述べているのである。「フレーベル

    の原理『思考よりも事物』が、全き真理

    である」 ことが分かったとも述べてい

    る。さらに1892年の書簡によれば「子ど

    もたちは毎日、水と餌をやって育て、繭

    ができました。1人の老婦人を幼稚園に

    呼んで、絹糸をつむいでもらったところ、大きな糸巻きが4かせ」 できたということで

    ある。写真2はその繭から生糸を紡ぐ様子である。結果だけでなくそのプロセスを重要視

    するハウの姿勢がここにも現れている。

    同時に2点見落としてはならない保育の視点がある。第1点は、「地域との連携」とい

    うことがここではもう始まっているということである。保育を幼稚園の中だけで完結する

    のではなく、地域の人を巻き込んで保育を行っている、保育を外に向けて開いていくとい

    うことである。つまり、ここでいえば地域にいる農家の人を招いて生糸の採取を実際にし

    てもらって学ぶということである。さらにもう1点は、「異世代間交流」ということであ

    る。今でこそそのことが一般的に意識されているが、当時もう行われていたということに

    なる。明治24年に於ける保育内容にそのようなことが盛り込まれていることが先ず驚きで

    ある。

    同時にハウは実物をもってリアルにダイレクトに子どもに伝えることに労を惜しまな

    かったようである。写真3は「土の

    なかに生きるもの」 というテーマ

    を持った集会の様子であるが、これ

    をよく観察すると集会室の中央に箱

    が用意され実際に土のようなものが

    用意され、その土のなかに育つ野菜

    として根のついたキャベツや白菜、

    人参、稲穂、果実のようなものなど

    が確認できる。徹底した直観、実物

    の観察教育を試みていることが理解

    できる。

    ― ―

    写真2 蚕のまゆから糸をとる

    写真3 土のなかに生きるもの

  • 3-7 視聴覚教材の保育への導入

    ハウは実物を直観する保育を重視し行ったが、そこには限界もあることを示している。

    ハウが訳し、頌栄の保母伝習所の教科書として用いたウイギンスとスミスの「幼稚園原理

    と実習」には、身近な動植物に親しむことが重要ではあるが、年齢が進むにつれて「森林

    原野及び遠国にある、同種類のものを知ることを学ぶに至る」として、思考の発展的な展

    開として絵などを用いることの有用性を述べているが、ハウは月ごとに「小共に見せて自

    然界の変遷を知らしめる」ためにたとえば9月は「虫ニ草」、4月「イロイロ卵ガカヘル

    所」といった具合に絵を持って効果的に視覚的に訴えた方法を導入している。「この様な

    きれいな絵を見せて小共の美的感情を養い、併せて自然界の事物を知らしめる」 といっ

    ている。また、「一つの黒板は、鳥や果物やお米の描かれた、秋を主題にした風景です。

    …他の場所には、綿の木の畑、そして紡いだ綿、そして着物を縫っているお母さんが描か

    れています。もう一つの場所には、ほとんど葉っぱのない木、そして枝についたみの虫」

    が描かれていると記されている。黒板も自然界のものを子どもたちに伝え、観察させるに

    有効な視聴覚の環境として利用していたことが伺える。

    3-8 内発的動機の重視

    自然界を幼児に系統的に示すことの重要性と共にハウは、自然を教材にするにあたり、

    説明したり、教えたりするのではなく「自然の賜物―人の心を動かす様な自然物を子ども

    に見させる」 こと、つまり直に子どもが自然に触れ、心・を・動・か・す・つまり感動体験をする

    ことが必要であり、そうすることによって、子どもは内発的に動機付けられ「自分で面白

    がり、自分で研究するようになる」 のだという。そして子どもは「何者を見ても、まづ

    その色を面白がり、味を面白がり、その物の不思議なことを面白がり直ちにその物の根底

    に横たわっている自然法を直覚的に認識」 するようになるというのである。神の被造物

    としての自然という捉えだけではなく、科学の芽をも養うことを認識していることが伺え

    る。しかも、それは教え込むことでの学びではなく自然という環境を保育者が準備して、

    子どもが内発的動機によって自ら学び、気づく、〝アハ体験〟の重要性を考えているとも

    言えるところに現代に通じる素晴らしさがある。

    3-9 保育(生活)に於ける仕事の導入

    ハウは保育を生活と捉えていたことが上記に述べたことでも理解できるが、ハウは当時

    の日本の幼児、特に幼稚園に来る子どものような富裕層の子どもの甘やかされている状況

    を見て、例えば転ぶとそのままになって大人が起こしてくれるのを待っているし、大人も

    かまいすぎると指摘し「自分のことは自分ですると云ふ習慣を、子供の時からつけておか

    ねばなりません」 といっており、片付けなどは自分でさせるべきであるし、「鶏や小鳥の

    世話もよく致します」 と述べている。また、1892年の5月の書簡にも「子供たちは毎日、

    水と餌をやって育て、繭ができました 」と蚕の飼育について記述がある。さらに1898年

    ― ―

  • の書簡にも「冬中窓辺に植えていた60か、それよりたくさんのゼラニウムの植木鉢を、庭

    に出すため大移動させました。…雑草を抜き、雨水をためた樽(樽には蛇口がついていま

    す)から自分たちのジョウロに水を入れ、あちこちに水をやり」 、あるいは前述したが、

    日課として自分の鉢に決まった時刻に水をやるなどの活動が行われていた。保育は生活で

    あるという捉えの中で、自分のできること(仕事)は自分でする。そのことを通して学ぶ

    ことは多岐にわたる。何よりも子どもの自立を目指した活動として位置づけていることが

    理解できる。さらには当時としてはさほど珍しいことではないにしても、雨水を樽に貯め

    て植物に撒くというエコロジーの発想を、体験を通して子どもに伝えようとしているハウ

    の考えが見て取れる。「仕事」については、フレーベルのドイツ中産階級における庭とい

    う考え方の影響であろうとも考えられるが、フレーベルが影響を受けたペスタロッチの生

    活陶冶の思想によるものかもしれない。いずれにせよ、明治の20年代においてこのような

    保育実践をしていることは特筆すべきことといえよう。

    3-10 生活に於ける美と自然

    ハウは自然とりわけ植物を愛していたことは見てきたとおりであるが、ハウが植物栽培

    を非常に好んでいることもあり、植物に囲まれた生活を美しい環境として捉えて保育の中

    に展開しようとしていることが理解できる。すなわち開園に際しての書簡には、「園舎は

    本当に美しく、保育室(訳注:当時は開誘室と呼ばれていた)には長い引き戸の窓があっ

    て、ピンクがかったカーテンやグレーの壁、植物を置く棚」 があると述べられている。

    写真4は「会集の作業」 の部分写真であるが、窓とカーテン、棚の様子がよく理解でき

    る。さらに1890年の書簡には「幼稚園の棚は今、美しいゼラニウムと、ちょうど芽を出し

    始めた金蓮花と水仙の球根と、シダでいっぱいです。一方私は見事なカラー、棕櫚、シダ

    を育てています。窓辺は大変きれいで、子どもたちはとても楽しそうに植物を育てていま

    す」 と記述している。ここでは子どもたちが、生活の中で大変楽しく植物を栽培してい

    る様子が伝わってくる。確かに当時の写真を見ると保育室には広く大きな窓が用意され、

    窓の内側には折りたたみ式の棚が用意さ

    れ、薄いカーテン越しに陽の光が部屋に差

    し込んでいる様子が伺える。棚にゼラニウ

    ムなどの花が飾られ、日の光を通した鮮や

    かなゼラニウムの赤が、そして葉の緑が子

    どもたちの目に優しく写ったものと思われ

    る。

    1908年の書簡には「2つの細長いテーブ

    ルを蔦できれいにおおって、1つ1つに2

    匹のバッタを入れた小さな虫篭をたくさん

    用意」 して子どもたちの誕生日プレゼン

    ― ―

    写真4 会集の作業(部分)

  • トにしたとの記述があるが、これなどもハウの、生活に自然を、美意識をもって取り入れ

    ている例である。

    ハウは幼児期には知育の前に「美を愛する情を養はなければなりません」 と指摘、自

    然界に生まれ出た子どもは朝太陽が出て夜は星が輝くといった自然界に触れるとし、それ

    らを奇妙な世の中という風に表現している。「奇妙な世の中に存在する自然の美と云ふ事

    及びその自然が如何に興味のあるものか」 ということを子どもに知らしめることが重要

    であるとしている。神の被造物である自然の美について子どもに知らせるということにな

    るのであろう。そのことは教えるのでなく「総て具体的に実物とか標本とか又は絵画など

    によってただ『観なさいよく観なさい』と云って自然に悟らしめる」 、つまり前述したこ

    とであるが子どもに具体物に直接触れ、自ら気づかせること「直観」を重視しているとい

    える。ペスタロッチ、フレーベルの直観教育の思想の流れのなかにあることを感じさせる

    ところである。

    11月には秋の実りの感謝の会を開くが果物などを

    供えてそこに「佛国で買った最高価な絵画を正面に

    掲げました」 と述べている。それはミレーの「晩

    鐘」をさしているようであるが、神からの自然の恵

    みを効果的に子どもに感じ取らせるためにそのよう

    な環境を整え、保育環境としていることが理解でき

    る。美意識が強く感性の豊かなハウの一面が現れて

    いるともいえよう。

    むすび

    わが国の保育黎明期における宣教師A.L.ハウの働きは非常に大きいものであった。それ

    は、幼稚園設立、保姆養成所の設立、保育関係書の翻訳、キリスト教保育の発展、そして

    真のフレーベル思想の保育展開などが指摘されることは序で述べたとおりであるが、現代

    に於ける保育内容領域「環境」に相当する自然或は理科教育の展開においても豊かで革新

    的な保育実践をしていることが明らかになった。

    明治9年からのわが国に於ける保育展開はフレーベルの保育思想の真髄にまで達するこ

    とができなかったといえる。即ちそれは、キリスト者としてのフレーベル理解の限界で

    あったともいえよう。つまり、フレーベル思想の根底にあるキリスト教の考え方を抜きに

    した保育展開は、ある意味において表面的となり、「恩物」を取り入れた保育が幼稚園教

    育であるという結果になってしまったといえよう。フレーベルの「人間の教育」の冒頭に

    ある「すべてのもののなかに、永遠の法則が、宿り、働き、かつ支配している。この法則

    は、外なるもの、すなわち自然のなかにも、内なるもの、すなわち精神のなかにも、自然

    と精神を統一するもの、すなわち生命のなかにも、つねに同様に明瞭に、かつ判明に現れ

    ― ―

  • てきたし、またげんに現れている」という万物神性論的な思想を理解し、保育を展開する

    にはキリスト者で宣教師であるハウの出現を待つより他なかったといえるのではないだろ

    うか。

    ハウはいう、「子供は常に神の御手によって作られた花や鳥、太陽、月、星によって、

    神の愛を認識します」と。これはキリスト者であるハウの自然界を保育に取り入れる根本

    思想になる。その意味において宗教教育として自然を保育に取り入れているのである。し

    かし前述したが、また学問的な見地からの自然へのアプローチつまり実物観察などによる

    知的好奇心の涵養をも考えていたことが明らかになった。このことはハウが強く影響を受

    け、女史の書を教科書に使っているところのウイギンスとスミスも言うように、「幼稚園

    に於ける自然界研究も吾人が推定するが如く、学術の為にすると等しく、また宗教の為に

    せられ、宗教の為にせらるるが如く、学術の為になすべきもの」 で相受け入れられるべ

    きものであろう。またハウはそのように実践しているということが明らかになった。ま

    た、幼稚園生活において、飼育栽培という労作(活動)を通して自己の保育(自己教育)

    を意図し、また責任を持って栽培することを通して、観察する態度の涵養及び自立に向か

    わせたことが分かった。さらに、地域に保育を開いていくこと、異世代間の交流或は、文

    化の伝承などを、蚕を育て繭から生糸を紡ぐ過程を通して自然に行っていることも驚きで

    あった。さらに神の御手によって作られた自然を幼稚園生活に美意識をもって、環境とし

    て取り入れることによって、神の愛を認識できるようにしたこと等々、ハウの明治の中葉

    に於ける保育展開は、特に自然を保育に取り入れることに限ってみても、わが国の幼児教

    育に大きく貢献したといえる。ハウの自然を取り入れた保育の影響は明治30年以降、中村

    五六、東基吉、和田実らの力も加わり、他の幼稚園でも盛んに取り入れられるようにな

    り、やがて大正期を迎えると体験による自然教育がさらに盛んになっていく。そして現代

    においてもハウのこの実践は色あせず、むしろ輝きを増し、学ぶべき点が多くあることに

    驚かされる。

    こうしてみてきた中でハウに学んだ大きな点は、思想なき保育は滅びるであろうという

    ことである。保育者は思想を持ち未来を見据えた今を子どもと共有することが必要となろ

    う。子どもが人として成長することを支える仕事に携わる者は、少し先を歩く大人として

    子どもに何を伝えたいのかという明確な思想、理論に裏打ちされた、情熱と信念とを持っ

    た実践が必要となり、さらに云えば実践に裏打ちされた理論の確立も必要となるだろう。

    1)ニーナ.C.バンデウォーカー著「アメリカ幼稚園発達史」中谷彪監訳 教育開発研究所 昭

    和62年、p.20

    2)西垣光代「A.L.ハウの生涯」神戸新聞総合出版センター、平成19年、p.7

    3)同上書、p.9

    4)同上書、p.9

    5)前掲「アメリカ幼稚園発達史」、pp.20-21

    ― ―

  • 6)日本保育学会「日本幼児保育史第1巻」フレーベル館、昭和43年、p.91

    7)同上書、p.94

    8)岡田正章監修「明治保育文献集」第二巻、日本らいぶらり、昭和52年復刻、pp.352-353

    9)文部省「幼稚園教育百年史」ひかりのくに、昭和54年、p.73

    10)同上書、p.75

    11)前掲「日本幼児保育史第1巻」、p.97

    12)同上書、p.98

    13)A.L.ハウ「A.L.ハウ書簡集」山中茂子訳、頌栄短期大学、平成5年、p.28

    14)同上書、p.28

    15)フレーベル著「人間の教育」荒井武訳、岩波書店、昭和48年、p.11

    16)同上書、pp.11-12

    17)同上書、p.12

    18)同上書、p.15

    19)同上書、p.15

    20)同上書、p.32

    21)岩崎次男著「フレーベル教育学の研究」玉川大学出版部、平成11年、p.618

    22)同上書、pp.618-619

    23)同上書、p.619

    24)頌栄保育学院「み翼のかげ 写真で見る頌栄100年の歩み」、平成元年、p.12

    25)前掲「A.L.ハウ書簡集」、p.79

    26)前掲「人間の教育」、p.146

    27)同上書、p.146

    28)A.L.ハウ著「幸福なる可能事」頌栄幼稚園保母伝習所、大正6年、p.16

    29)前掲「A.L.ハウ書簡集」、p.94

    30)同上書、pp.93-94

    31)前掲「幸福なる可能事」、p.16

    32)同上書、p.16

    33)前掲「A.L.ハウ書簡集」、p.123

    34)同上書、p.124

    35)同上書、p.123

    36)同上書、p.138

    37)前掲「み翼のかげ 写真で見る頌栄100年の歩み」、p.20

    38)京阪神総合保育会雑誌 第19号、明治40年、p.27

    39)前掲「A.L.ハウ書簡集」、pp.208-209

    40)前掲「幸福なる可能事」、p.17

    41)同上書、p.17

    42)同上書、p.17

    43)同上書、p.55

    44)同上書、p.56

    45)前掲「A.L.ハウ書簡集」、p.138

    46)同上書、p.197

    ― ―

  • 47)同上書、p.65

    48)前掲「み翼のかげ 写真で見る頌栄100年の歩み」、p.19

    49)前掲「A.L.ハウ書簡集」、p.94

    50)同上書、pp.266-267

    51)前掲「京阪神総合保育会雑誌 第19号」、p.25

    52)同上書、p.25

    53)同上書、p.26

    54)同上書、p.26

    55)ウィギンス・スミス共著「幼稚園原理と実習」エイ・エル・ハウ訳、頌栄幼稚園保姆伝習

    所、大正6年、p.29

    ― ―