4
2-2 台湾人の移住と民族構成 日本殖民地期,移民村開拓により日本農民の移住が 進められ,一方で台湾西部の新竹、桃園から漢民族 を主とする客家人と花蓮の原住民のアミ族が小作人と して雇われ,彼らは次第に各移民村の周辺に住みはじ め,「工寮」と「台湾村」などの台湾人集住場所が形 成された *2 。終戦直後,彼らは移民村に移住し,さら 1950 年代土地改革によって台湾西部からの漢民族と 1. はじめに 明治 42 年(1909)に台湾総督府は官営移民事業に 着手し,1911 年に台湾東部の花蓮港庁に吉野移民村は 最初の官営移民村として設立され,1913 年に豊田村と 1914 年に林田村も設立された。 終戦直後に日本の移民者が日本に戻った後,移民村 の土地と建物は台湾人により継承され,新たな居住形 態が形成された。終戦から 60 年以上を経て,日本人農 業移民村だった集落は,台湾人の居住者によって新た な集落空間構成と地域社会が形成される。本研究は, 豊田村森本(以下,森本)と林田村南岡(以下,南岡) を対象に,集落ごとの土地建物と地域社会の変容を明 らかにすることを目的としている。 本研究に際して,2013 8 12 日から 15 日まで各 移民村を視察し,10 5 日から 19 日までに森本及南 岡において戦後の移住者に対するヒアリングを行い, 11 3 日から 7 日までに両方の集落図面と建物図面採 取調査を行った。 2. 対象地の概要及び沿革 2-1 豊田村と林田村の成立 対象地は台湾東部のほぼ中央に位置し,台北から南 東約 120 kmの所にある。日本殖民地期に建設された 移民村の配置は,村の中心的位置に公共施設を集中さ せ,その周囲に数箇所に分けて集住集落を配置する計 画である(図 1)。森本は北東 - 南西 415 m、北西 - 380 mのほぼ正方形をなし,西北側に農業用水が流 れている。南岡は北東 - 南西 445 m、北西 - 南東 270 mの長方形をなし,北東側に幹線用水路が流れている。 各集住集落は格子状の地割・道路で構成され,森本に 84 個区画の敷地に 65 戸が入居し(T6 年),南岡に 63 個区画の敷地に 52 戸が入居した(T6 年) *1 (図 2豊田村と林田村は「塩水港製糖拓殖株式会社」の豫 約開墾許可地として官営移民村が開拓されたので,砂 糖の原材料である甘蔗は主要作物となった。さらに農 業用水路は 1917 年と 1918 年に建設されたため稲作が 増えられているとともに,台湾総督府により葉煙草の 栽培と乾燥作業が始まった。こうして農業移民村が形 成された。 台湾における旧日本人移民村の土地建物と地域社会の変容に関する研究 -豊田村森本と林田村南岡を対象として- 琮慧 林田村 豊田村 吉野村 戦前の台湾人集住地 花蓮港街 1 豊田村と林田村の開発と産業の変遷 8-1 1 花蓮港庁移民村(吉野村・豊田村・林田村)の位置 出典:台湾総督府官営移民事業報告書 1919 2 移民村計画における建物配置図(豊田村森本・林田村南岡) 出典:台湾総督府官営移民事業報告書 1919 年をもとに作成 至豊田駅 至指導所 至鳳林駅 至指導所 【林田村南岡】 移民小屋 区画 0 100(m) 【豊田村森本】 1913 1914 1917 年 1918 年 1945 年 1946 年 1949 年 1951 1969 年 1979 1987 2002 2011 豊田村が設立され、甘蔗の栽培が始まった。 林田村が設立され、甘蔗の栽培が始まった。 豊田神社と林田神社が建立された。 豊田村の農業用灌漑水路が完成されたによる稲の耕作が拡大された。 両集落は煙草耕作区域内に編入され、煙草栽培を開始する。 林田村の農業用灌漑水路が完成されたによる稲の耕作が拡大された。 移民村の日本人は日本に帰還した。台湾人は次第に移民村に移住してきた。 国民政府の「臺灣省接收日人房地産實施辦法」により移民村の土地は国有地 になる。 「臺灣省公有耕地放租辦法」が実施され、農民は国の小作人になった。 「臺灣省放領公有耕地扶植自耕農實施辦法」が実施され、小作人は耕地の地 租を十年間で払い切れれば土地所有権がもらえることになる。 敷地は地租を二十年間で払った後、450 坪敷地区画は一筆土地として所有権 は住民に移転した。 豊田村で煙草と甘蔗の栽培は次第にに停止し、農協により西瓜の栽培が行わ れた。 林田村における葉煙草の乾燥作業は電気化煙草乾燥施設にすることが普及さ れた。 「開放洋菸進口」により煙草の輸入販売が行われ、煙草栽培は次第に減少し ていた。 台湾の WTO 加盟により煙草栽培は激減になった。 林田村で煙草栽培と煙草乾燥作業は全て停止した。

台湾における旧日本人移民村の土地建物と地域社会の変容に ......花蓮港街 表1 豊田村と林田村の開発と産業の変遷 8-1 図1 花蓮港庁移民村(吉野村・豊田村・林田村)の位置

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Page 1: 台湾における旧日本人移民村の土地建物と地域社会の変容に ......花蓮港街 表1 豊田村と林田村の開発と産業の変遷 8-1 図1 花蓮港庁移民村(吉野村・豊田村・林田村)の位置

2-2 台湾人の移住と民族構成

 日本殖民地期,移民村開拓により日本農民の移住が

進められ,一方で台湾西部の新竹、桃園から漢民族

を主とする客家人と花蓮の原住民のアミ族が小作人と

して雇われ,彼らは次第に各移民村の周辺に住みはじ

め,「工寮」と「台湾村」などの台湾人集住場所が形

成された *2。終戦直後,彼らは移民村に移住し,さら

に 1950 年代土地改革によって台湾西部からの漢民族と

1. はじめに

 明治 42 年(1909)に台湾総督府は官営移民事業に

着手し,1911 年に台湾東部の花蓮港庁に吉野移民村は

最初の官営移民村として設立され,1913 年に豊田村と

1914年に林田村も設立された。

 終戦直後に日本の移民者が日本に戻った後,移民村

の土地と建物は台湾人により継承され,新たな居住形

態が形成された。終戦から 60 年以上を経て,日本人農

業移民村だった集落は,台湾人の居住者によって新た

な集落空間構成と地域社会が形成される。本研究は,

豊田村森本(以下,森本)と林田村南岡(以下,南岡)

を対象に,集落ごとの土地建物と地域社会の変容を明

らかにすることを目的としている。

 本研究に際して,2013 年 8 月 12 日から 15 日まで各

移民村を視察し,10 月 5 日から 19 日までに森本及南

岡において戦後の移住者に対するヒアリングを行い,

11 月 3 日から 7 日までに両方の集落図面と建物図面採

取調査を行った。

2.対象地の概要及び沿革

2-1 豊田村と林田村の成立 

 対象地は台湾東部のほぼ中央に位置し,台北から南

東約 120 kmの所にある。日本殖民地期に建設された

移民村の配置は,村の中心的位置に公共施設を集中さ

せ,その周囲に数箇所に分けて集住集落を配置する計

画である(図 1)。森本は北東 - 南西 415 m、北西 - 南

東 380 mのほぼ正方形をなし,西北側に農業用水が流

れている。南岡は北東 - 南西 445 m、北西 - 南東 270

mの長方形をなし,北東側に幹線用水路が流れている。

各集住集落は格子状の地割・道路で構成され,森本に

84 個区画の敷地に 65 戸が入居し(T6 年),南岡に 63

個区画の敷地に 52戸が入居した(T6 年)*1(図 2)。

 豊田村と林田村は「塩水港製糖拓殖株式会社」の豫

約開墾許可地として官営移民村が開拓されたので,砂

糖の原材料である甘蔗は主要作物となった。さらに農

業用水路は 1917 年と 1918 年に建設されたため稲作が

増えられているとともに,台湾総督府により葉煙草の

栽培と乾燥作業が始まった。こうして農業移民村が形

成された。

台湾における旧日本人移民村の土地建物と地域社会の変容に関する研究-豊田村森本と林田村南岡を対象として-

 呉 琮慧

林田村

豊田村

吉野村

戦前の台湾人集住地

花蓮港街

表 1 豊田村と林田村の開発と産業の変遷

8-1

図 1 花蓮港庁移民村(吉野村・豊田村・林田村)の位置出典:台湾総督府官営移民事業報告書 1919年

図 2 移民村計画における建物配置図(豊田村森本・林田村南岡)出典:台湾総督府官営移民事業報告書 1919年をもとに作成

至豊田駅

至指導所

至鳳林駅

至指導所

【林田村南岡】

移民小屋 区画0 100(m)

【豊田村森本】

1913年

1914年

1917 年

1918 年

1945 年

1946 年

1949 年

1951年

1969 年

1979年

1987年

2002年

2011年

豊田村が設立され、甘蔗の栽培が始まった。

林田村が設立され、甘蔗の栽培が始まった。

豊田神社と林田神社が建立された。

豊田村の農業用灌漑水路が完成されたによる稲の耕作が拡大された。

両集落は煙草耕作区域内に編入され、煙草栽培を開始する。

林田村の農業用灌漑水路が完成されたによる稲の耕作が拡大された。

移民村の日本人は日本に帰還した。台湾人は次第に移民村に移住してきた。

国民政府の「臺灣省接收日人房地産實施辦法」により移民村の土地は国有地

になる。

「臺灣省公有耕地放租辦法」が実施され、農民は国の小作人になった。

「臺灣省放領公有耕地扶植自耕農實施辦法」が実施され、小作人は耕地の地

租を十年間で払い切れれば土地所有権がもらえることになる。

敷地は地租を二十年間で払った後、450坪敷地区画は一筆土地として所有権

は住民に移転した。

豊田村で煙草と甘蔗の栽培は次第にに停止し、農協により西瓜の栽培が行わ

れた。

林田村における葉煙草の乾燥作業は電気化煙草乾燥施設にすることが普及さ

れた。

「開放洋菸進口」により煙草の輸入販売が行われ、煙草栽培は次第に減少し

ていた。

台湾の WTO加盟により煙草栽培は激減になった。

林田村で煙草栽培と煙草乾燥作業は全て停止した。

Page 2: 台湾における旧日本人移民村の土地建物と地域社会の変容に ......花蓮港街 表1 豊田村と林田村の開発と産業の変遷 8-1 図1 花蓮港庁移民村(吉野村・豊田村・林田村)の位置

住宅(以後,日式)は僅か何軒が残され,さらに増改

築されたことが伺える(図 4)。これらは 1950 年代木

造漢式住宅(以下,漢式)に建て替られたと,1960 年

代切妻一階建て漢式が新築されるにつれてだんだんな

くなったそうだ。漢式は道路からのアプローチに関ら

ずにほとんど南東方向に向いている。1970 年代から

分家により,両集落において敷地内に何軒かの二階建

て鉄筋コンクリート造住宅が点在して建てられたそう

だ。また,不動産業界の集合住宅地の開発により集合

住宅 *3 は森本 5 箇所,南岡 4 箇所に開発されたことが

分かっている。 

3-3 敷地内の煙草乾燥小屋

 現在,森本の中には煙草乾燥小屋(以下,煙草小屋)

が残されていないが,南岡は 11 箇所に煙草小屋が残っ

ている(図 4)。残存する煙草小屋は一棟建てと二棟

連続建てがあり,南岡に点在して道沿いに主屋とほぼ

平行的に配置されるがほとんどである。これらの主屋

はほとんど南東に向いているが,各煙草小屋は道路か

らのアクセスにも関らず南東向きと北西向きもあるこ

とが分かる(図 5)。

4.住宅の変容

 台湾人の移住者によって家屋の増改築のあり方が異

なる。ここで日式住宅の増改築、漢式住宅の新築、集

合住宅の開発,三つの事例を取り上げる。

4-1 日式住宅の増改築

 図 6 の [ 森本 Yin 邸 ] は日式の左側部分は台風で壊

されてからその後方と左側に二階建て鉄筋コンクリー

ト造住宅が増築された。日式は移住した第二代目の家

主が住んでおり,畳部屋の一部は土間にし,接客兼団

欒の「客庁」として使われる。残存する畳部屋は昼寝

として使われ,現在でも正月に家族の重要な団欒場所

として使われるという。

 図 6 の [ 南岡 Li 邸 ] は 5 世帯の大家族が住んでいた

時に畳部屋は寝室兼団欒の「客庁」として使われ,後

方の土間で食事をし,食事空間のそばに「神明机 *4」

が置かれ,前方の土間は接客空間になったという。前

中国大陸からの外省人も流入してきた。現在,戦後両

集落に移住した小作人は南岡により多くの戸数が見ら

れ,なおその内煙草業を行っていたのは 8 戸であるこ

とが分かっている。

 現在,森本と南岡には漢民族である客家人、閩南人

の順に多く,次いで原住民のアミ族と外省人が暮らし

ている(図 3)。ヒアリングによると,地縁や血縁に

おける大規模に両集落に移住することがなく,分家に

よって敷地内で住宅を増築することと飛び敷地に住む

ことがあるという。なお,分家によって街区を越えて

住むことは客家人により多くの戸数が伺える。

2-3 産業の変遷

 両集落が開拓されてから終戦にかけて主な栽培面積

の農産物は果樹、甘蔗、水稲であり,主要生産量は甘

蔗、甘藷、蔬菜などであったが,煙草は主要な産量総

額であった。戦後,台湾人は農地を継承してから,

2002 年までに甘蔗は主な作物として栽培されていた。

ヒアリングにより南岡では 2011 年までに稲作と煙草と

の輪作が行われており,森本では 1969 年に煙草栽培が

停止された後,西瓜の栽培が一時期に盛んであったと

いう。現在,各集落は主に二期稲作を行っている(表

1)。

3.集落空間

 森本 198 戸と南岡 138 戸(空家含め)に対する集落

図実測調査と 11 棟建物に対する実測調査,並びにそれ

ぞれ 50戸と 41戸に対してヒアリングを行った。

3-1 道の性格と店舗の立地

 現在,両集落は移民村が計画された時と同様な道路

配置が維持される。森本から豊田駅に繋がる南東 - 北

西道路は 2002 年までに甘蔗の運搬道として使われてお

り,今でも幅員は変わっておらず,集落の主要道路で

ある。更に,道沿いには店舗と住宅が連続的で密に建

てられた。それに対して,南岡は 1979 年に「鳳林都市

計画」により道幅が広げられ,主要道路は集落の中に

通らずに外部に設けられたので,道沿いに店舗用建物

が存在しないことが分かる。

 南岡は市街近郊部に立地する農村集落であり,日常

生活は街の商店を頼っていることが伺える。それに対

して,森本は主要道路に店舗ができ,住民は柔軟に敷

地内で畑を作ることによって集落の自立性が生まれた

と考えられる。

3-2 住宅タイプとその分布

 対象地は今でも農村集落として位置づけられてい

る。現在,各集落の計画範囲は拡大していないが,周

辺の農地に住宅が点在に建てられた。調査により日式

図 3 森本と南岡における居住者の民族構成

客家人 46.9%

閩南人 15.2%

外省人 1.5%

アミ族 9.8%

空家 26.6%

閩南人 21.1%

アミ族 2.2%

外省人 8.9%

空家 26.7%客家人 41.1%

豊田村森本 林田村南岡

8-2

未調査0 50(m)

0 50(m)

Page 3: 台湾における旧日本人移民村の土地建物と地域社会の変容に ......花蓮港街 表1 豊田村と林田村の開発と産業の変遷 8-1 図1 花蓮港庁移民村(吉野村・豊田村・林田村)の位置

漢式住宅日式住宅

集合住宅

住宅の向き

住宅付属屋その他用途

0 10 50(m)至豊田駅

至旧豊田村指導所

至旧豊田神社

農業用水路

鳥居遺構

(現在 豊田碧蓮寺)

漢式住宅日式住宅

集合住宅

住宅の向き

住宅付属屋

0 10 50(m)

その他用途煙草乾燥小屋

煙草乾燥小屋へのアクセス

田圃

幹線水路

社区公園 至旧林田移民村指導所

至鳳林鎮市街区 至鳳林鎮市街区

社区コミュニティセンター

方土間の屋根小屋部分にはかつての煙草倉庫であった

そうだ。分家後敷地の後方に住宅が増築され,日式は

一人住まいになっている。

4-2 漢式住宅の新築

 図 7 の [ 南岡 Lai 邸 ] は木造漢式の「三間起」形式

住宅の両側にコンクリート造建物が増築され,三世代

が共に住むという。「正庁」は接客兼団欒として使わ

れるが,奥に「神明机」が置かれて祭祀空間としても

使われる。片廊下で左右対称の部屋が繋がれ,その外

部の「亭仔脚」と呼ばれる空間は近所の方と雑談する

場所として使われるそうだ。敷地にあるもう一棟の漢

式は分家により建てられたそうである。それに対して,

図 7 の [ 森本 Huang 邸 ] は売地により木造漢式の「五

間起」形式住宅の一部が取り除かれたという。

 戦後,台湾人は一世帯の小規模な移住が多く行われ

たため,最初に建て替えられた漢式は三間起や五間起

の形が多い。その後,[ 南岡 Lai 邸 ] のように家族成

員が増えることにより住宅のそばに増築された例が見

られるが,三合院は形成されなかった。なお,ヒアリ

ングにより 1960 年代までに新築された住宅には家族人

数が多い,冬は暖かいといった理由から畳部屋が設け

られたそうだ。このような住宅の空間様式の混在は両

集落の特徴だと思う。

4-3 集合住宅の開発

 森本には二階~四階建ての集合住宅があり,これら

は幅員 9 mの道に沿って建設られたものがほとんどで

図 4 豊田村森本集落図(2013年) 図 4 林田村南岡集落図(2013年)

8-3

K

K

K K K

K

K

K K

K

KK

K K

KK

K

KK

K

K

KKK

K

K

K

K K

K

K K

K KK

K

K

K

K

K

K

K

K

K

K

K

K K

タタ

タ タ

図 5 林田村 [南岡# 48] 屋敷図・煙草乾燥小屋平面図と断面図

① [南岡# 48煙草小屋 ]

② 戦前煙草小屋遺構

③ 煙草小屋 1960年代建設

④ 電気化煙草乾燥施設

⑤ 移民小屋だった場所

⑥ 一階建て住宅

⑦ 二階建て住宅

0 0.5 1.5(m)

【a-a断面図】

換気小屋

葉煙草

葉煙草倉庫畳葺き

作業場

煙道鉄管窯

【二階平面図】

葉煙草干し場所

葉煙草倉庫 (未乾燥)

葉煙草干し準備作業場

南岡#57煙草乾燥小屋一階平面図

南岡#57煙草乾燥小屋二階平面図

葉煙草倉庫(乾燥終了)

葉煙草干し場所

015(m) 2

葉煙草干し場所

(乾燥終了)葉煙草倉庫

【一階平面図】

葉煙草干し場所

葉煙草倉庫 (未乾燥)

葉煙草干し準備作業場

南岡#57煙草乾燥小屋一階平面図

南岡#57煙草乾燥小屋二階平面図

葉煙草倉庫(乾燥終了)

葉煙草干し場所

015(m) 2

葉煙草干し準備作業場

葉煙草倉庫(未乾燥)

約 6.1坪葉煙草干し場所

【屋根伏せ図】

0 5 15(m)

田圃

①②

⑤⑥

 [ 南岡# 48 煙草乾燥小屋 ] は 1939 年に継承した煙草小屋の傍らにもう一棟ほぼ同じ規模,土壁構造の煙草小屋が建てられたという。壊された換気小屋を合わせて「大阪式煙草

乾燥小屋」と呼ばれるそうだ。平面は継承された煙草小屋とほぼ同じ規模であるが,葉煙草は 8 段吊りとなり,建物の傍らには二階建て小屋が連続的に建てられた。煙草小屋は道

から 5M 程離れて主屋と平行に配置され,窯は道側に造られ,煙草小屋へのアクセスは継承した煙草小屋と同じ方向である。堀窯で燃やした熱を鉄管を用いて煙草小屋を加熱し,

葉煙草を乾燥される仕組みである。現在,兄弟三人共に煙草小屋を持ち,分家によって二つの敷地内に三棟ずつの煙草小屋と住宅が配置される。1983 年に電気化煙草乾燥施設が建

設されてから煙草小屋は使わなくなったそうだ。

Page 4: 台湾における旧日本人移民村の土地建物と地域社会の変容に ......花蓮港街 表1 豊田村と林田村の開発と産業の変遷 8-1 図1 花蓮港庁移民村(吉野村・豊田村・林田村)の位置

ある。一方,南岡で二階、三階建ての集合住宅は集落

内に点在していることが伺える。それぞれは移民村計

画の一筆区画土地や土地の細分化により建設された。

図 8 の [ 森本# 48] は 1995 年に一筆区画土地により開

発された集合住宅である。長方形敷地の中央に縦道が

設置され,両側に対称配置の三階建て 12 戸住宅が建設

された。各住宅は専用階段と車庫が設けられている。

5.地域社会の再編 

 終戦直後,対象地に移住した台湾人は日本人の寄生

地主から土地建物を買ったり勝手に空家に住み込んだ

りしたという。このようにして民族は分散に住んでい

たが,近所と付き合うにつれて言葉・風俗・習慣に慣

れてきたそうだ。さらに煙草業により集落内は家族単

位における農作業の助け合いが行われ,農民は民族と

関係なく,お互いに作業を手伝い合うことでながら,

言葉が混ざり合うようになり二つ以上の言語 *5 が話せ

るようになったという。森本の客家人は「家で客家語

を話し,職場で国語 *5 を話し,売店で閩南語を話す。」

という。南岡ではアミ族住まいの亭仔脚で近所とアミ

族語、国語、閩南語を混ぜて雑談している様子が見ら

れる。

 終戦直後,半分以上を占める漢民族の移住者により

寺が建設され,各集落は全体的に祭礼 *6を行っている。

ヒアリングにより寺に祀るのは漢民族だけではなく,

全ての民族において寺を祀ることがあるという。客家

人は移住と他民族との結婚等によって民族的な祭りを

だんだん行わなくなるが,寺の祭礼は一緒に参加する

という。それに対して,人口が少ないアミ族は現在で

も村落範囲において恒例の「豊年祭」を行っているそ

うだ。更に,行政により農会の農業団体組織及び社区

というコミュニティ組織 *7 が作られ,民族の違いを越

えて活動が行われている。

6.まとめ

 移民村の土地建物は細分化により住宅形式の多様性

が形成されるとももに移民村の屋敷区画配置が見られ

る。

 また,多民族の居住者により構成された地域社会は

民族を超えて産業と祭礼を一緒に行うことに対して,

日本人移民村を継承することと新移住者は集落共同領

域を認識することが共同的な意識になると考える。

 百年前に政策により計画された農村集落は,戦後そ

の土地を生活の基盤としながら,多様な生活空間が生

まれた。社会情勢や政策の影響だけではなく,産業の

継承により建物の形態が残され,そして民族の混在に

よって柔軟な地域社会が構成されたといえる。

0 5 15(m)0 1 3(m)

増築 土間

*1「三移民村」,花蓮港庁,1928年*2ヒアリングにより日本殖民地期に森本の北西側に「工寮」(現 豊裡村四維路周辺)と南岡の南東側に「台湾村」(現 中原農場)と呼ばれた場所に台湾人が集住していたという。*3 連続的な複層の建物が一棟の単位に一家族が居住し,一所有単位とする住宅である。また「透天集合住宅」と呼ばれる。*4仏壇及び神棚を置く場所である。*5民族によって言語は客家語・台湾式閩南語・台湾式国語・アミ族語がある。*6 調査により林田村南岡と豊田村森本にはそれぞれ「壽天宮」と「豊田碧蓮寺」に関る祭礼は集落全体で行われることが伺える。*7 森本は現在の「豊裡社区」に所属し,南岡は現在の「大栄社区」に所属する。それぞれ集落の中にコミュニティセンターが配置される。

主屋 主屋

付属屋

付属屋

作業庭

道路

(埕)

(Lai 邸)

作業庭(埕)

寝室

寝室

(厨房)

寝室

風呂

物置

神明机寝室

寝室

寝室

洗濯

台所

食事

トイレ

正庁

亭仔脚

1968年住居部分 現在空間の使い方(1968年空間の使い方)

物置

主屋

畑売れ地

道路

道路

(埕)作業庭

田圃農業用水路

(倉庫)(寝室)台所 正庁

神明机

寝室

書斎

物置風呂・トイレ

洗濯

0 1 3

1980年代増築

1957年住居部分 現在空間の使い方(1968年空間の使い方)

[ 南岡 Lai邸 ] 屋敷図と平面図

[森本 Huang邸 ] 屋敷図と平面図

図 7 漢式住宅の新築

図 6 日式住宅の増改築

日式住宅の一部

RC増築

倉庫

付属屋

果樹

(埕)

鶏小屋

鳥居

道路

道路

作業庭

寝室

(寝室)

台所

物置

台所 食事寝室 寝室

リビング 騎樓

客庁団欒・昼寝

倉庫

二階に神明机が置かれ

1947年日式住居部分 現在空間の使い方(1947年空間の使い方)

[ 森本 Yin邸 ] 屋敷図と平面図

(夫妻房)

接客(客庁)

(神明机)

台所

食事

(浴室)

倉庫

1951年日式住居部分

 現在空間の使い方(1951年空間の使い方)

寝室

客庁

(台所)

物置

(寝室)空き室

(寝室)空き室

(寝室)

台所(食事)

日式住宅

二階建て住宅

田圃

道路

道路

[ 南岡 Li邸 ] 屋敷図と平面図

図 8 集合住宅の開発

【一階平面図】

0 5 15(m)

【二階平面図】 【三階平面図】 【屋上平面図】

道路 敷地

敷地内の道(巷)

未実測未実測

8-4