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日本の教育政策における 異文化理解教育の位置付け ──問題点と今後の方向性に関する一考察── (社会学研究科教育学専攻博士課程後期) 日本において,異文化理解や多文化共生の試みが様々な場で行われるように なっている。特に学校において国際理解教育,異文化理解教育という名の下 で,それらの試みがなされている。その試みの特徴を見てみると,例えば,中 島智子は日本の国際理解教育においては外国に関する知識理解に重点が置かれ ていることを指摘している。さらに,外国や外国人をステレオタイプに捉える 傾向にあり,これは日本社会をも均質化して捉えることにつながっていること を指摘している 1。加えて,永井滋郎や小池生夫が述べているように,日本人 としての自覚を高めようとしていることもその特徴として挙げられ,固定化し た日本文化を教えていき,一元的な日本人観が作られていくことが考えられ 2確かに,以上のような実践の特徴の指摘はあるものの,教育政策との関連を 持たせた特徴に関する十分な議論がなされているわけではない。また,教育政 策との関係性を批判して,今後の異文化理解教育の方向性が示されてもいな い。そこで本論文では,日本の教育政策を批判してその特徴を考察し,進めら れようとしている異文化理解教育の特徴との関係性を示す。さらに,この点を ふまえて,多文化共生のための異文化理解教育の方向性とはどのようなものか を考察する。マクロな視点から異文化理解教育を考察することは,国家と教育 193

日本の教育政策における 異文化理解教育の位置付け · 日本の教育政策における 異文化理解教育の位置付け ──問題点と今後の方向性に関する一考察──

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日本の教育政策における異文化理解教育の位置付け

──問題点と今後の方向性に関する一考察──

沼 田 潤(社会学研究科教育学専攻博士課程後期)

は じ め に

日本において,異文化理解や多文化共生の試みが様々な場で行われるように

なっている。特に学校において国際理解教育,異文化理解教育という名の下

で,それらの試みがなされている。その試みの特徴を見てみると,例えば,中

島智子は日本の国際理解教育においては外国に関する知識理解に重点が置かれ

ていることを指摘している。さらに,外国や外国人をステレオタイプに捉える

傾向にあり,これは日本社会をも均質化して捉えることにつながっていること

を指摘している(1)。加えて,永井滋郎や小池生夫が述べているように,日本人

としての自覚を高めようとしていることもその特徴として挙げられ,固定化し

た日本文化を教えていき,一元的な日本人観が作られていくことが考えられ

る(2)。

確かに,以上のような実践の特徴の指摘はあるものの,教育政策との関連を

持たせた特徴に関する十分な議論がなされているわけではない。また,教育政

策との関係性を批判して,今後の異文化理解教育の方向性が示されてもいな

い。そこで本論文では,日本の教育政策を批判してその特徴を考察し,進めら

れようとしている異文化理解教育の特徴との関係性を示す。さらに,この点を

ふまえて,多文化共生のための異文化理解教育の方向性とはどのようなものか

を考察する。マクロな視点から異文化理解教育を考察することは,国家と教育

―193 ―

とのつながりが強い日本社会における異文化理解教育の在り方を探る上で意義

のあるものになると考えている。

なお本論文では,文化を国家のレベルだけでは捉えていないので,国際理解

という用語は使わない。国家だけではなく,使用言語や価値観,思想・信条,

社会的地位,職業,学歴,年齢,ジェンダーなどのサブカルチャーを文化を規

定する要因として考え,そのような文化的背景が異なっている人々の理解を目

指すという意味で異文化理解という用語を採用する(3)。

第 1章 日本の教育政策の文脈における日本の異文化理解教育

本章では,日本の教育政策の流れを概観した上で,現在の教育政策を新自由

主義的側面と新国家主義的側面から述べ,その特徴や問題点を指摘する。そし

て,そのような教育政策の中で,異文化理解教育がどのように進められようと

していて,その問題点がどのようなものかを述べていく。

第 1節 日本の戦後教育政策の概観

戦前の日本では,国力・治安維持という視点で教育が捉えられていた。そし

て,天皇に主権があり,天皇や国家のための国民という忠良な臣民の育成を教

育目的としていた(4)。一方で戦後になると,1947年に旧教育基本法が施行さ

れ,1人 1人の人格の完成が主要な教育の目的とされ,また教育は一般行政か

ら独立し,教育の自律性が守られなければならないと考えられるようになっ

た(5)。そして,国家は教育の整備の責任を負う役割を担うようになった。しか

しながら,1950年代に入ると,早くも教育基本法の方向性を戦前の国家を中

心とする教育の方向に変更する圧力が加えられるようになる(6)。例えば,1955

年以降では,教育は国家の監督下に置かれるべきであり,学校は国家的な営造

物であるという解釈が叫ばれるようになった。また,1960年代に入ってから

は経済界の要求によって競争原理と能力主義による再編の動きが強化されてい

き,教育における競争と選抜の機能が注目されていくようになった(7)。つま

日本の教育政策における異文化理解教育の位置付け

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り,1950年代と 1960年代が戦後日本の教育の最初の転換期であり,教育基本

法を中心とした個人の尊厳,そして真理と正義と平和を求める教育は,国家中

心の方向へ向けられ,学校が競争と選抜の場に変わっていくように方向付けら

れていったのである。そして 1970年代の低成長期に入ると,能力主義の激化

により学校は人材選抜の場と化したことで,偏差値序列が重要視されるように

なり,学校化社会へと変貌していったのである(8)。

さらに 1984年には,当時の首相中曽根の下で臨時教育審議会(以下,臨教

審とする)が組織され,「第三の教育改革」(9)の推進の重要性が述べられた(10)。

その「第三の教育改革」とは,情報化や国際化,生活様式の多様化が進む中

で,豊かな生活を享受し,また経済のグローバル化に対応するために,教育の

個性化・自由化・国際化を目指すというものである。この流れの中で,公教育

の解体路線が進められ,さらに選抜原理も強調されることで,教育における競

争がますます強化されていったのである。

現在の日本においても,教育改革の必要性が叫ばれており,それは 1984年

に設置された臨教審による「第三の教育改革」の流れを汲んだものと言える。

では,現在の日本の教育改革の背景としてどのようなものが考えられているの

であろうか。藤田英典は,3つの視点からその背景を説明している(11)。ここで

は,藤田の説明に沿いながら現在の日本の教育改革の背景を説明していく。

先ず教育改革の背景として挙げられるのは,いじめや校内暴力などの教育病

理問題である。解決しなければならない問題として,教育改革の必要性を強調

する基盤となったこれら教育病理問題は,学校や教育制度に何か問題があると

確信させ,教育改革を動機付けるものであると考えられた。第 2の背景とし

て,受験競争や管理主義教育,画一的教育など日本の学校教育の特徴に対する

批判がある。日本の学校教育の特徴として,詰め込み教育や内申書による生徒

管理,過剰な生活指導や校則などが挙げられ,こういった特徴がいじめや校内

暴力といった教育病理問題の原因だと見なされたのである。この側面のみが強

調された教育改革が進められると,理想主義的な議論が通りやすくなり,どの

ように教育を変えるのかという議論が十分になされないまま,現行教育制度の

日本の教育政策における異文化理解教育の位置付け

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良い面も変更させられてしまう可能性があることが指摘されている。第 3の背

景として,社会変化への対応の必要性が挙げられる。社会変化の例として,情

報技術の革新やグローバル化による国際経済の展開,異文化交流の増大などが

あり,教育に様々な課題を提起していると考えられたのである。こうして,日

本の学校教育の特徴である管理主義教育や画一的教育への批判が高まり,教育

の個別化や自由化が正当化されていったのである。これら 3つの側面を背景に

して,1989年の学習指導要領改訂において「新しい学力観」が強調され,子

どもが自ら学ぼうとするその意欲や態度による評価が重視されるようになっ

た(12)。さらに,1998年の改訂では,「生きる力」を重視することで,学習内容

が 3割削減されることになり,また総合的な学習の時間の創設や学校五日制の

完全実施により,授業時間も大幅に減少した(13)。

以上のような背景のもと,教育改革の最も重要な柱だと考えられてきたの

は,教育基本法「改訂」(14)である。高橋哲哉が指摘するには,今国家が求めて

いるものとは,グローバル化に伴う大競争(メガ・コンペティション)の時代

において,経済的・軍事的に日本が勝ち抜いていくための「国際競争力」と

「国民精神」であるという(15)。教育基本法の「改訂」によって,国家を愛する

ことが新教育基本法の中に明記され,愛国心の育成が正当化された。そして,

愛国心を育成することで日本という国が大国として大競争の中で生き残ってい

くことを肯定するようになると考えられている。したがって,国家としての日

本が「国際競争力」と「国民精神」を確保していくために,教育基本法「改

訂」はどうしても必要であったのである。この点は,1950年代からの教育政

策の流れと性格を同じくするものであり,また藤田が指摘した教育改革の背景

として考えられている 3つの側面が,教育基本法「改訂」を伴う教育改革を促

進させたと言えるだろう。

第 2節 新自由主義が貫く日本の教育政策

新自由主義の考え方が日本の教育に対して提起されたのは,中曽根が設置し

た臨教審においてであり,その臨教審の答申の中で教育の個性化や自由化とい

日本の教育政策における異文化理解教育の位置付け

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う方針が打ち出された(16)。教育の個性化や自由化が打ち出された背景として,

校内暴力やいじめを生み出した画一的で管理主義的な教育が考えられており,

教育を個性化・自由化することでそれらの諸問題を解決しようと考えられてい

た。さらにその背景として,経済の多国籍化が考えられる。つまり,国外の安

い労働力や原材料で商品を生産する一方で,国内では少数のエリートがその生

産の流れを管理するという知識集約型の経済のスタイルが日本においても採ら

れるようになってきたため,教育を自由化することで効率的にエリートを養成

しようという考え方が力を得てきたのである(17)。

そもそも,新自由主義とは個人の自由・責任に基づいた競争と市場原理を重

視する考え方であり,国家の責任を縮小し,責任は個人が負うことを求めるも

のである(18)。つまり,個人に対して選択の自由を認めるが,成功しようが失敗

しようが責任は全て個人が負わなければならなくなるのである。そして,新自

由主義的な改革路線とは,医療や福祉などの公共的サービスを市場原理で自由

化し,また民営化しようという政策である(19)。そうすることで,税金で支えら

れてきた公的な枠組みに経済の論理を徹底するのである。

では,そうした新自由主義と教育基本法「改訂」はどのように関連している

のであろうか。先ず旧教育基本法は,教育機会の平等原理・開放性原理(20)と能

力主義原理(21)の両者に配慮し,これらの調整に関しては一義的に規定すること

はせず,その時々の政策担当者や国民の意向によって具体化の方針を決めてい

くという性格を持っていた(22)。それに対し,新教育基本法では能力主義原理が

強調されており,義務教育の段階から能力に応じた教育の差別化を是認してい

るのである(23)。それは教育機会の複線化を意味しており,中高一貫校や教育特

区校の設置といった,教育を供給する側の自由化をもたらし,さらに学校間に

競争を導入することで,教育内容水準の上昇を図ろうとしているのである。加

えて,学校選択の自由化をももたらし,教育の受け手側の学校選択に関わる地

域的な規制の撤廃を促すと考えられる。また,能力に応じた教育の差別化が是

認されているので,教育カリキュラムの選択制や飛び級制度の導入といった教

育内容の自由化ももたらされると考えられる(24)。

日本の教育政策における異文化理解教育の位置付け

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そもそも中高一貫校や教育特区校は,特別な期待の下に作られるために,予

算や教員配置といった運営面で,一般の中学校や高等学校よりも優遇されるも

のであると指摘されている(25)。さらに,教育の受け手側の自由化が進むことに

よって,中高一貫校や教育特区校において広域選抜が行われると,教育熱心な

家庭の子どもが集中し,エリート校化するものと考えられる。このようにし

て,親は学校がより良い教育を提供するかどうかという消費者としてのまなざ

しで学校を捉えるようになり,学校が購買対象としての商品となってしまうこ

とが考えられている。この現象は,学校が商品の地位に転じてしまうことを意

味しているので,藤田はこれを学校に値段を付けて序列化する学校商品化市場

の出現であると指摘している(26)。

以上で述べたような,中高一貫校や教育特区校,学校選択性の導入・拡大が

進められることで,義務教育の段階から経済的に恵まれた家庭の子どもや学校

の勉強ができる子どものための特別なルートを築いていくという政策が採られ

ていると言える。そして,義務教育段階の学校を格差化・差別化した上で,そ

の格差化・差別化されたそれぞれの学校に子どもを振り分けていくのであ

る(27)。こうして,一部の子どもには優れた教育を提供し,将来国家を先導して

いくエリートに育て上げようとし,その他の大多数の子どもには十分な教育を

提供しようとはしないのである。さらに,学校の自由化・多様化の改革と共

に,このような政策を推し進めるためになされた教育改革が,「ゆとり教育」

改革である。この点に関して,前教育課程審議会会長である三浦朱門は以下の

ように述べている。

学力低下は予測し得る不安と言うか,覚悟しながら教課審をやっとりまし

た。いや,逆に平均学力が下がらないようでは,これからの日本はどうに

もならんということです。つまり,できん者はできんままで結構。戦後五

十年,落ちこぼれの底辺を上げることにばかり注いできた労力を,できる

者を限りなく伸ばすことに振り向ける。百人に一人でいい,やがて彼らが

国を引っ張っていきます。限りなくできない非才,無才には,せめて実直

日本の教育政策における異文化理解教育の位置付け

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な精神だけを養っておいてもらえばいいんです。〔…中略…〕今まで,中

以上の生徒を放置しすぎた。中以下なら,“どうせ俺なんか”で済むとこ

ろが,なまじ中以上は考える分だけキレてしまう。昨今の十七歳問題は,

そういうことも原因なんです。平均学力が高いのは,遅れてる国が近代国

家に追いつけ追い越せと国民の尻を叩いた結果ですよ。国際比較をすれ

ば,アメリカやヨーロッパの点数は低いけれど,すごいリーダーも出てく

る。日本もそういう先進国型になっていかなければなりません。それが

“ゆとり教育”の本当の目的。エリート教育とは言いにくい時代だから,

回りくどく言っただけの話だ(28)。

以上の三浦の発言にもあるように,学校の自由化・多様化の改革と「ゆとり

教育」改革を同時に行うことによって,国際競争力を持ち国家を導くエリート

を無駄なく育て上げようとしていることが分かる。つまり,一部の優秀な子ど

もには教育機会の充実を図る一方,多くの子どもの教育機会が劣化させられ,

教育への権利を奪っていくのである。さらに新自由主義の考えの下で教育が自

由化されたことによって,劣悪な教育を選んだという責任を負わされ,国家は

劣悪な教育の下にいる子どもたちを支援する責任を放棄する正当性を得るので

ある。このように新自由主義は,少数のエリートを育成し,それ以外の子ども

の教育を軽視することに正当性を与えるものであり,国家としての日本が求め

る「国際競争力」の育成を無駄なく効率的に行うプロジェクトに適合した考え

方であると言えよう。

第 3節 新国家主義が貫く日本の教育政策

新自由主義を教育政策の中に取り込むことによって,少数のエリートを育成

していくことに正当性を持たせ,「国際競争力」を高めていくことが目指され

ていることを以上で述べた。しかしながら,少数エリートの育成とは裏返せ

ば,自己責任の下で多くの子どもは教育の機会を奪われ,差別されることを意

味するのだから,切り捨てられた側の不満が募るのは明らかである。したがっ

日本の教育政策における異文化理解教育の位置付け

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て,その不満が爆発し,少数のエリート層に対する反発が起こらないとも限ら

ない。それを防ぐためにも,上述の三浦が述べているように「非才,無才に

は,せめて実直な精神だけを養っておいてもら」(29)うということになるのであ

る。高橋は,その実直な精神を「差別され不満があっても現実を受け入れ,そ

の不満を言動に表さず,ただ黙々と,ひたすら従順に,『国策』を遂行するエ

リートたちに付き従っていく,そのような精神」(30)であると説明している。つ

まり,差別される多数者が「少数のエリートも同じ日本人であり,彼・彼女ら

を支えていくことで日本人である自分たちにも恩恵が回ってくる」と考えさせ

ることで,競争や差別による不満を日本への愛で抑え込ませようというのであ

る。このような「実直な精神」を育てるために,愛国心教育を通して日本人と

しての自覚を持たせることが進められていると言えよう。つまり国家は,教育

を日本人としての自覚を涵養する装置として利用しようとしているのであ

る(31)。

国家の枠組みの中に人々を導く教育を通して日本人としての国民意識が育て

られると,高橋が言うように,人々は国家の方針に批判することなく,ただひ

たすら従うようになるだろうと考えられる。つまり,批判することを認めない

のであるから,人々が思考停止することを狙っていると言える。さらに,国家

に従順になると,国家のために必要な犠牲は尊い犠牲へと美化され,国家のた

めの犠牲が容認されることになる(32)。以上の点から,国家は国家に忠誠を誓

い,思考を停止した,判断能力を失った人々を養成することによって,新自由

主義的教育政策によってもたらされる多くの人々の不満を抑え込むことを狙っ

ていることが分かる。

では,どのようにして国家は日本人としての国民意識を育て上げるのであろ

うか。その方法として,第 1に日の丸・君が代の強制が挙げられる。1999年

に国旗・国歌法が成立したことをきっかけに,日本全国の卒業式や入学式で日

の丸掲揚・国歌斉唱が実施されることになった(33)。例えば,2003年 10月 23

日に東京都教育委員会が「国旗・国歌に関する通達」を出したことによって,

東京都の公立学校では日の丸・君が代の強制が極端な形で行われた(34)。教職員

日本の教育政策における異文化理解教育の位置付け

―200 ―

は入学式や卒業式で日の丸に向かって起立し,君が代を斉唱することを命じら

れ,さらにもしその命令に従わなければ処分されることが言い渡されたのであ

る。実際に,その指示に従わなかったとして 2004年 5月までに約 250人の教

職員が処分されたのである。こうして,日の丸・君が代を強制することによっ

て教職員や子どもの態度は国家が求めるものへと導かれていくのである。この

日の丸・君が代の強制から分かることは,態度の善し悪しの基準を公権力が恣

意的に決定するということである。

さらに,日本人としての国民意識を育成することが目指された教育的行為と

して,通知表での愛国心の評価が挙げられる。例えば,2002年 4月福岡市の 69

の公立小学校で,6年生の社会科の学習記録に「我が国の歴史や伝統を大切に

し,国を愛する心情を持つとともに,平和を願う世界の中の日本人としての自

覚を持とうとする」という愛国心を 3 段階で評価する項目が入ったのであ

る(35)。これは,愛国心を評価する側の国のイメージを子どもに押し付けるとい

うことに繋がるために,心が国家によって採点されて支配されてしまうことを

意味している。こうして,個人が国家に対して持つ様々な見方は,国家によっ

て心を操作されることによって国家が求める 1つの方向に収斂されていくと考

えられる。

通知表における愛国心の評価に加えて,日本人としての国民意識を育成する

方法として『心のノート』の使用が挙げられる。『心のノート』とは,2002年

4月に導入された補助教材であり,日本の全ての小中学校に 1200万部が送ら

れた。その『心のノート』の特徴として,第 1に国を愛することが目指されて

いる点が挙げられる。『心のノート』の中では,家族,学校,地域,故郷,国

家,世界という順番で集団が描かれていき,家族への愛情が学校,地域,故

郷,そして国家へと拡大していくことが予定されている(36)。例えば,中学校用

の 114ページには,「ふるさとを愛する気持ちをひとまわり広げると それは

日本を愛する気持ちにつながってくる。 私たちが暮らすこの国を愛し その

発展を願う気持ちは,ごく自然のこと」と書かれている。ここから,それぞれ

個人が抱く「故郷」が,人為的で政治的な存在である「国家」に恣意的に繋げ

日本の教育政策における異文化理解教育の位置付け

―201 ―

られていて,またその国家を愛せないことは許されていないことが分かる。つ

まりこの点から,国家の枠組みの中に閉じ込められた日本人の育成が目的とさ

れていることが分かる。

また第 2の特徴として,人間の多様性の否定が挙げられる。例えば,小学低

学年用 12ページでは「にこにこ してるかな きょうの あなたは どんな

えがおかな」と書かれており,子どもが自分の笑顔を確かめている絵が添え

られている(37)。人間の心は複雑であるが,ただ笑顔が要求されていることか

ら,『心のノート』はありのままの多様な子どもの内面性を受け入れようとは

していないことが指摘されている(38)。さらに,中学生用 45ページに「思いや

る心は,きっとあたたかい」と大きく書かれ,その下に「人の気持ちがわかる

人間になりたい」という質問に対して「そう思う」62.2%,「どちらかという

とそう思う」31.2%,「どちらかというとそう思わない」4.4%,「そう思わな

い」1.5%,「わからない」0.9%というアンケートの結果が記されている(39)。

同様に,中学生用 85ページには「多くの仲間が,人の役に立ちたいと考えて

います」と書かれ,「人の役に立つ人間になりたい」という質問に,「そう思

う」59.7%,「どちらかというとそう思う」30.8%,「どちらかというとそう思

わない」7.3%,「そう思わない」1.3%,「わからない」0.9%という結果が出た

ことが示されている(40)。そして,こういった質問にどう答えるかと子どもに尋

ねていて,暗に多数派の意見を選ぶように促している。ここから,多数派意見

が正しいということに決められ,少数派の意見は排除されていることが言える

のではないか。これらの点からも,人間の多様性が否定され,国家が求める 1

つのあるべき姿に人々をはめ込もうとしていることが分かる(41)。

そして第 3の特徴として,懐疑や批判の否定が挙げられる。例えば,小学校

中学年用 84ページでは,「あなたの先生の好きなところや,楽しいところを書

いてみましょう」と書かれていて,先生の笑顔を描くスペースも設けられてい

る(42)。ここでは,先生に対しての不満や批判を表に出すことが許されていな

い(43)。また,小学校高学年用 52−53ページでは,お世話になった人への感謝

をするのかしないのか,「はい」と「いいえ」のどちらかを選ぶように促して

日本の教育政策における異文化理解教育の位置付け

―202 ―

いる(44)。そしてその下には,「あなたの心には,必ず『はい』のボタンにふれ

ようとする『あなた』がいます」と記されていて,「いいえ」を選ぶことはで

きなくなっている。つまり,無批判的感謝がここでは強制されているのであ

る(45)。『心のノート』とは,その特徴から,無批判的な判断を下すような態度

育成を目指していると言えよう。

日の丸・君が代の強制,愛国心通知表,そして『心のノート』を取り上げな

がら,現在の日本の教育がどのように日本人としての国民意識の形成を促して

いるのかを考察してきた。それぞれが,国家の求める,つまり国家の意向に従

順な国民の育成を目標としていて,国家に対する多様な考え方を排除すること

を狙ったものであることが分かる。

第 4節 日本の教育政策における問題点

日本の教育における新自由主義の流れの中で,経済のグローバル化に伴う新

しい経済のスタイルに適応するために,少数の優秀なエリートが必要とされて

いることを指摘した。つまり,教育に競争と市場原理を導入し,国際競争力を

効率的に高めようとしているのである。これは,あらゆる子どもに対する平等

な結果へと導く教育機会を減少させることを意味している。さらに,新自由主

義的教育政策から生じる不満をそらすために,新国家主義的教育政策を取り入

れて,人々に愛国心を植え付けようとしていると述べた。そして,愛国心を育

てることで,従順で無批判な国民,思考を停止する国民の育成が図られている

と指摘した。つまり,人々が国家の進める政策に対して疑問や批判を持たなく

なるよう教育していくことが目標とされているのである。

ところで齋藤純一は,民主的な社会統合を以下のように述べている(46)。先

ず,社会統合は同化のない統合でなければならないことが指摘されている。つ

まり,ある特定の価値観・世界観から社会統合が図られると,それとは異なる

考え方を持つ人々に対し,抑圧的に作用し,一方的な同化が進められるように

なるというのである。よって,民主的な社会統合には,価値観・世界観の多元

性が確保されていなければならないのである。次に,社会統合は排除のない統

日本の教育政策における異文化理解教育の位置付け

―203 ―

合でなければならないと述べられている。これは,社会の一部の成員を排除

し,困窮の状態に放置することのない統合である。社会から見棄てられている

と人々に感じさせる状態をもたらす統合は,決して民主的な社会統合とは言え

ないことが指摘されている。

日本の新自由主義的教育政策によって,国家の経済的発展に都合のよい人材

の育成が促され,その副作用として多くの子どもたちはその犠牲となり,自己

実現を可能にするような教育を十分に享受することができないようになってし

まう。これは,国家の利益のために,多くの子どもたちが,それぞれに適した

教育へアクセスするための機会から排除されていることを意味している。つま

り,自己実現への教育の不平等を新自由主義的教育政策がもたらしていること

は明らかである。さらに,新国家主義的教育政策によって,愛国心を植え付け

ることで,思考を停止した,国家の意向に従順な人々が育成されようとしてい

る。これは,様々な価値観を一様化する圧力を加えることになるので,多様な

国家への考え方を持つ人々を抑圧し,同化することになるのは明白である。し

たがって,日本の教育政策は,教育における排除をもたらし,人々を国家にと

って都合のよい価値観に同化させる政策であり,決して民主的な社会形成をそ

の目的として標榜したものであるとは言えないのである。

第 5節 “初等中等教育における国際教育推進検討会報告”における異文化理

解教育の特徴と問題点

前節では,日本の教育政策が排除や同化をもたらすものであり,民主的社会

の形成には必ずしも貢献しないものであることを指摘した。では,そのような

教育政策の中で一体どのような異文化理解教育が進められようとしていて,ど

のような問題を有しているのであろうか。この点を明らかにするために,文部

科学省の調査研究協力者会議の初等中等教育における国際推進検討会の報告

書(47)を取り上げて,現在進められようとしている異文化理解教育の特徴を指摘

していく。そして,その特徴からどのような問題が見られるのかを考察する。

日本の教育政策における異文化理解教育の位置付け

―204 ―

特徴漓 “異文化イコール外国,自文化イコール日本”という枠組みの強調

先ず,「はじめに」において,「日本の国内においても,多くの人々を外国か

ら受け入れるようになってきている。日本にいながらにしても,異なる文化や

生活習慣をもつ外国の人々と,日常的に接する機会が多くなり,地域において

はそれらの人々と相互に理解し協力し合いながら生活することが求められる」

と述べられていて,異文化を持つ外国人と相互に理解しあうことの必要性が述

べられている。さらに,「第 3章 国際教育の充実のための具体的方策 1.学

校教育活動における国際教育の充実 (1)学びが広がり深まる授業づくり」に

おいても,日本と世界のつながりを学習するため,日本と外国の文化の学習を

通しての理解が強調されている。そして,「同章 1.学校教育活動における国

際教育の充実 (4)外国人児童生徒教育の充実」では,「外国人児童生徒の母

語や母文化を紹介し,国際理解を進める」ことが述べられている。以上の点か

ら,外国文化は全て異文化である一方,日本文化は全ての日本人にとって自文

化であるということが強調されていて,文部科学省が進める異文化理解教育で

は文化を捉える視点が,国家レベルであるということがわかるであろう。

特徴滷 国際問題学習の強調と国内における多文化共生問題の軽視

「はじめに」において,「世界の中の日本という視点を持ち,国際社会の一員

としての責任を自覚」する必要性が指摘され,「地球環境,エネルギー・資

源,人口,平和,人権などの地球規模の諸問題」の解決に貢献しなければなら

ないことが述べられている。次に,「第 1章 国際教育の意義と今後の在り方

2.国際教育を推進するための基本的視点」において,国際社会で通用する

人材を育成するために「平和,人権,環境,開発などの地球規模的課題や今日

的課題を子どもたちの身近な課題として学校の教育活動に取り入れてい」くべ

きであると述べられ,さらに日本人学校の教員や青年海外協力隊に参加した経

験のある者,海外勤務の経験のある企業関係者や海外からの留学生などの人材

を活用して異文化理解教育を進めることが有益であると述べられている。加え

て,「第 3章 国際教育の充実のための具体的方策 1.学校教育活動における

日本の教育政策における異文化理解教育の位置付け

―205 ―

国際教育の充実 (3)直接的な異文化体験の重視」において,留学や海外研修

旅行,海外の学校との交流の促進による異文化交流の充実が意義あるものとし

て述べられている。したがって,国際レベル,地球レベルの諸問題の学習や,

海外経験者や外国人との交流の必要性が強調されていて,異文化理解教育の内

容は日本社会の外側に注意を向けたものになっている。その一方で,日本社会

の内にある多文化共生に関する諸問題の学習の必要性は指摘されていない。

特徴澆 言語学習や文化の知的理解の強調

先ず「第 1章 国際教育の意義と今後の在り方 1.いかなる人材を育てる

べきか~国際社会で求められる態度・能力」において,他者理解や共生のため

に,対話の必要性が主張され,対話のための能力として「外国語を含めた言語

運用能力の育成」が必要であると述べられている。この点に関しては,「第 3

章 国際教育の充実のための具体的方策 1.学校教育活動における国際教育

の充実」においても,文化の異なる人々とのコミュニケーションのための手段

としての言語の教育の重要性が指摘されている。さらに,「第 2章 国際教育

を取り巻く現状と課題 (4)外部資源の活用という観点から」では,海外生活

経験者がその経験を基にして,外国の文化や政治・経済を教えることが望まし

いものとして述べられていて,「第 3章 1.学校教育活動における国際教育の

充実」において,日本や外国の文化を学ぶにあたって,「社会科の学習を通じ

て理解を深め,美術や音楽の学習を通じてよさを感じとり,総合的な学習の時

間を使い,調査や発表,ものづくり体験を行う」ことがその実践例として挙げ

られている。したがって,異文化理解教育では英語をはじめとした言語教育が

重要なものとして捉えられていて,さらに固定化された文化を楽しみながら,

知的に理解していくことが目指されていると言えよう。

特徴潺 外国人の子どもに対する適応の強調

「第 2章 国際教育を取り巻く現状と課題 (5)学校の多国籍化・多文化化

という観点から」において,学校の多国籍化・多文化化の現象として外国人の

日本の教育政策における異文化理解教育の位置付け

―206 ―

子どもの公立学校への受け入れ増加が指摘されている。そして,その外国人の

子どもの教育上の課題として,日本語指導の問題が強調されている。また「第

3章 国際教育の充実のための具体的方策 1.学校教育活動における国際教

育の充実 (4)外国人児童生徒教育の充実」においても,日本語指導の充実が

外国人の子どもの学校への適応を促進させるものとして述べられている。よっ

て,日本の学校では,外国人の子どもたちに対して主に日本語教育を通して日

本に適応していくことを求めていることが明白であり,その一方で不就学や母

語未修得の問題も指摘されているが,具体的な対処方法は示されていない。

特徴潸 国際社会に通用する人材養成の言及

「はじめに」において,「我が国が競争力のある国家であり続けるためには,

人間力の向上を図り,国際社会に通用する優れた人材を育成していくことが必

要である」と述べられており,さらに「第 1章 1.いかなる人材を育てるべ

きか~国際社会で求められる態度・能力」においても「我が国が,国際社会か

ら理解・信頼され,国際的な存在感を高め,一層発展していくためには,国際

社会に通用するリーダー的人材を育成することも極めて重要である」として

「個の特性に応じて,基本的な資質・能力に加えて,リーダー的資質の伸長に

も配慮しつつ国際教育に取り組むことも重要である」ということが指摘されて

いる。そして以上の文脈における国際社会に通用する人材とは,「はじめに」

の中に,「国際企業や国際機関の一員」であることが記されていることから,

異文化理解教育の目的の 1つに国連といった国際機関の職員や国際 NGO のメ

ンバーだけでなく,国際経済の舞台でも活躍する人材の育成が考えられている

ことは明らかである。この点から,国家の経済活動に有益な人材の養成を重視

した新自由主義的教育政策の方向性とも合致していることが分かる。

特徴澁 日本の歴史・文化への尊重の強調

「第 1章 国際教育の意義と今後の在り方 1.いかなる人材を育てるべきか

~国際社会で求められる態度・能力」において,「異文化や異なる文化を有す

日本の教育政策における異文化理解教育の位置付け

―207 ―

る人々に対して敬意を払い,理解し受容することは,自分自身の国やその歴

史,伝統・文化を理解・尊重し,その上に立脚した個性をもつ一人の人間とし

て自己を確立することによってはじめて可能となる」と述べられていて,異文

化の理解・受容の名分として日本の歴史・文化を理解・尊重することが必須の

条件として指摘されている。また参考資料として添付されている中央教育審議

会の「21 世紀を展望した我が国の教育の在り方について(第 1 次答申)

(抄)」「新しい時代にふさわしい教育基本法と教育振興基本計画の在り方につ

いて(答申)(抄)」においても,日本の伝統・文化を理解し,尊重し,日本を

愛し,誇りに思うことが国際社会の一員としての条件であることが記されてい

る。したがって,日本の異文化理解教育では,日本への愛国心の育成が正当な

教育活動として認められていることが分かる。

では次に,以上の特徴からどのような問題点が考えられるか,いかに述べて

いきたいと思う。

問題点漓 日本社会内の共生に関する議論の欠如

先ず,日本の異文化理解教育の内容が,国際社会の一員であることの意識化

や国際社会での活躍の重要性を強調したものであり,日本社会の外に意識が向

けられている。この点は,国際経済で勝ち残りを導く人材の育成が異文化理解

教育の目的となっていることと関連があり,新自由主義的教育政策の方向性と

親和的なものである。そのため,日本社会内の共生に関する議論の重要性が十

分に指摘されることはなく,国際レベルの議論に偏り過ぎていると言えよう。

問題点滷 社会変革の重要性に関する認識の欠如

異文化理解教育において,言語や文化の知的理解が重視されたり,外国人の

子どもたちに日本への適応が求められていることが,その特徴として考えられ

るが,この文脈においては不平等や差別を日本社会の共生に関する問題として

取り上げるという視点が欠落している。そのため,日本社会が不平等や差別の

日本の教育政策における異文化理解教育の位置付け

―208 ―

問題を直視し,日本社会内部の何がそれらの問題を生じさせているのかという

ことを考え,それらの問題に挑戦するため日本社会がいかに変わっていかなけ

ればならないかを探ることの重要性が認識されていないことは明らかである。

例えば,外国人の子どもたちに日本への適応を求めてはいるが,外国人の子ど

もたちの教育を受ける権利を認め,日本の教育制度を変え,外国人の子どもた

ちの不就学の問題に対処するという考え方は全く取り上げられていない。

問題点澆 人間の多様性の無視

日本の異文化理解教育では,新国家主義的教育政策の考え方と合致する,日

本の歴史・文化の理解・尊重の重視によって,日本人としての自覚が高められ

ようとしていると述べた。さらに,“異文化イコール外国,自文化イコール日

本”という枠組みが強調されることで,一層日本人としてのまとまりを強化し

ようとしていると考えられる。そして,“自文化イコール日本”という国家レ

ベルで文化を捉えることに加えて,年齢やジェンダーなどのサブカルチャーか

ら生じる差異も見ていないので,日本の人々の多様性が無視されることにもな

る。これは,日本人はみな均質的・同質的であると考える文化本質主義的見解

を助長するので,多様な考え方の排除や同化に進展することも考えられる。そ

れゆえに,日本の異文化理解教育は,多様な考え方を持つ自由を制限する力を

持つものであると考えられるために,多文化共生実現へのプロジェクトである

とは言えないのである。

第 2章 日本の異文化理解教育の問題点に対する批判的考察

前章では,日本の教育政策が自己実現への教育における不平等の正統化や国

家に従う国民の育成をもたらすものであることを述べた。そして,そのような

教育政策は,教育における排除や,同化圧力を加えるものであり,民主的社会

の形成には貢献するものではないことを指摘した。一方,文部科学省の調査研

究協力者会議の初等中等教育における国際推進検討会の報告書で示されている

日本の教育政策における異文化理解教育の位置付け

―209 ―

異文化理解教育の問題点として,国際社会や国際経済において活躍する人材育

成を強調する一方で,国内における共生に向けた取組みの重要性の指摘が欠落

しているということ,外国人の適応を求める一方で,日本社会の変革を目指し

てはいないこと,そして文化本質主義的理解を助長し,多様な考え方の排除を

もたらす可能性があることを挙げた。これらの問題点から,現在進められよう

としている異文化理解教育は教育政策の目指す方向性と重なっていて,多文化

共生の実現への試みにはなっていないと考えられる。そこで本章では,人間 1

人 1人の自己実現の自由の平等を考えていく上で,また他者との共生を考えて

いく上で重要であると考えられる,ピエール・ブルデューの文化的不平等,ア

マルティア・センの潜在能力,そしてハンナ・アレントの公共性論の視点か

ら,教育政策や異文化理解教育の問題点にさらに批判を加え,今後の多文化共

生へ向けた異文化理解教育の方向性を探っていく。

第 1節 ピエール・ブルデューの文化的不平等の視点からの批判

宮島喬は,能力というものには社会的背景が存在することを指摘してい

る(48)。つまり,子どもたちは学校で教育を受ける前から,ある社会階層に属し

ている家庭で,また学校に入学した後も様々な社会的な場において,それぞれ

が異なった質・量の文化資本を与えられ,かつ獲得することで,1人 1人の能

力が形成されていくのである。例えば,ある家庭では,幼い時から子どもに本

を読み聞かせたり,美術館に連れて行ったりすることで,その子どもは学校に

入学する前から教養を身に付けていくことができると考えられる。しかしなが

ら,子どもたちに本を読む機会や美術館などに行く機会を提供しない家庭や,

また経済的な理由でそのようなことができない家庭の子どもたちは,学校入学

前の段階で教養を身に付けることはできず,前者の子どもたちとの間に学校で

有利に働く教養の質や量の格差があることが分かる。つまり,家庭環境や社会

環境によって,異なる能力の形成条件が存在するのである。しかし,このよう

な文化的な資源の不平等による能力の差異が問題にされるということは稀であ

り,能力は努力によっていくらでも高められるという考え方が支配的であると

日本の教育政策における異文化理解教育の位置付け

―210 ―

言えよう。確かに,日本の学校で支配的な能力観は,社会的な条件によっても

たらさせる能力の差異に対しては関心は向けられず,個人の努力によって学業

成果の向上は可能であるとする個人主義的・努力主義的なものである(49)。

一方で日本の学校文化に目を向けると,恒吉僚子が指摘しているように,日

本の学校では単一文化化への志向が存在する(50)。その特徴として,先ず上履き

や体操着など指定された所持品や服装が多いことが挙げられる。これは,所持

品や服装が規格化,共有化されることで異質性が見えにくくなり,指定された

もの以外は,「相応しくない」ものと見なされるようになり,「相応しくない」

ものを持ってきた子どもは,「相応しい」ものを持ってきた多数の子どもの中

で,逸脱として目立つことになる。そして,「相応しくない」ものを持ってき

たことを逸脱として捉えるまなざしが同化圧力として働くのである。

さらに,指定された所持品や服装の多さに加えて,学校で,学年で,学級

で,班で,一緒に同じことをするという協調的な一斉行動の多さが挙げられ

る。例えば,入学式,卒業式,運動会,給食,掃除などがある。一斉に同じ活

動をすることで,変わり者や異質な者は,集団の和を乱す者という否定的な意

味で目立つようになる。こうして,行動面での同調への圧力が子どもたちにか

かりやすくなるのである。

また,学校において「正しい」姿勢,「正しい」鉛筆の持ち方,「正しい」あ

いさつの仕方など,様々な領域において「正しい」方法が提示されていること

も,その特徴の一つである。ここにも,全ての児童・生徒に対して,学校が

「正しい」と考える行動をとらせる仕組みができ上がっている。そして恒吉

は,以上の 3つの特徴をまとめて,「同質的で自己完結的な共同体を前提とし

た協調的共有体験,共感・相互依存・自発的な協調などの価値の共有に依拠す

る共同体的な特徴と,皆が,同時に,同じ事をするという一斉体制とが一緒に

なることによって成り立つ」(51)一斉共同体主義が,日本の学校には存在すると

述べている。

つまり,日本の学校は社会的背景を軽視,または無視する個人主義的・努力

主義的な能力観が支配的であり,また同質性が求められる場であるために,子

日本の教育政策における異文化理解教育の位置付け

―211 ―

どもたちの社会的背景や文化資本の質・量の差異から生じる能力が認識されに

くい。よって,子どもたちの問題は社会的なものではなく個人的なものである

と捉えられるようになる。このような日本の学校における能力観に,新自由主

義の圧力が加わることによって,子どもたちは自分たちではどうすることもで

きない社会的背景から生じる文化的不平等も自己責任のもと正統化されていく

ことが考えられる。

ここで,新自由主義が貫く教育に対してのピエール・ブルデュー(Pierre

Bourdieu)のコメントを見てみたい。ブルデューは,以下のように述べてい

る。

真に民主的な教育というものが,可�

能�

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と�

を�

,その無条件の目的

とするような教育であるということが認められるならば,それは生まれの

いい人々のエリート集団の形成と選別をめざす伝統的な教育にも,規格通

りのスペシャリストの生産をめざすテクノクラート教育にも,ともに対立

するものであることがわかる。しかし,教育の真の民主化を目的とするだ

けではじゅうぶんではない。〈幼稚園〉から〈大学〉にいたるまで,文化

的不平等を生み出す諸要因の作用をあらゆる手だてを活用して徹底的に,

かつ持続的に無力化するような合理的教育学が不在であるならば,すべて

の人々に教育にたいする平等な機会を与えたいという政治的意志は,たと

えあらゆる制度的・経済的手段を備えていたとしても,現実の不平等に打

ち勝つことはできないだろう。また反対に,真に合理的な,すなわち文化

的不平等の社会学の上に成り立った教育学が存在するならば,それはおそ

らく,〈学校〉を前にした不平等を縮小することに寄与することだろう。

ただしそうした教育学も,合理的な教育学の確立をはじめとして,教師と

生徒の募集が真に民主化されるためのあらゆる条件が与えられるのでない

限り,本当の意味で事実の中に分け入ってゆくことはできないだろう(52)。

日本の教育政策における異文化理解教育の位置付け

―212 ―

日本の新自由主義的教育は,人々が平等に能力を高めていく機会を提供せ

ず,一部の恵まれた人々に対してのみ質の高い教育を効率的に進めていくこと

に関心がある,非民主的な教育であると述べた。さらに,日本の学校は個人主

義的・努力主義的で,同質的であるために文化資本による不平等が認識されに

くい場であることも指摘した。このような流れの中で,日本の異文化理解教育

も,国際社会や国際経済で活躍する人材の育成に力を入れる一方,様々な社会

的背景の子どもたちが抱える文化資本の不平等に焦点を当てて教育を行い,そ

の不平等の縮小に努めるという視点は見られない。しかしながら,ブルデュー

は真に民主的な教育は,少数のエリートを形成し選別を目指す教育とは対立す

るものであると述べていて,さらに文化的不平等に着目して教育を行わない限

り,不平等を縮小することはできないとも述べている。現在の異文化理解教育

が,教育政策や学校文化と調和的なものであり続けることで,不平等の再生産

に批判的になることはできず,現状維持に貢献してしまうものと考えられる。

不平等の縮小を重視していくことによって,日本社会内の多様な社会的背景の

人々の共生の議論が活発になっていくことが考えられるため,異文化理解教育

を実施する上で,人々は文化的に不平等な関係の中で生きているということを

その前提にしなければならないと考えられる。

第 2節 アマルティア・センの潜在能力の視点からの批判

アマルティア・セン(Amartya Sen)は,人間は互いに異なった存在である

ことを指摘していて,その多様性を構成する要因として,自然的・社会的環境

などの外的要因と年齢や性別,身体的・精神的能力などの個人的要因を挙げて

いる(53)。さらに,このような個人間の多様な差異を無視することは,反平等主

義的であるということを主張している。この点をふまえて,センが提唱する潜

在能力という概念を取り上げながら,異文化理解教育の批判を展開する。

センは,潜在能力を,人々が行うことができる様々な機能の集合体であると

説明している(54)。ここでいう機能とは,栄養の状態が良いことや回避できる病

気にかからないことといった基本的なものから,自尊心を持つことができると

日本の教育政策における異文化理解教育の位置付け

―213 ―

いった洗練されたものまでを含んだ概念であり,人々が達成し享受することが

できる行動や状態の範囲を示したものである。そして,この機能を組み合わせ

たものが潜在能力であり,人々が多様な生活を選択し達成することができると

いう実質的自由を示すのである(55)。すなわち,センの言う潜在能力とは,生活

の質(生活の良さ)としての福祉の水準を表すものであると言うことができ

る。

従来の不平等に関する議論は,財や所得の量といった「手段」に関心が向け

られていた。しかし,潜在能力アプローチから不平等を捉えることによって,

人間の福祉の構成要素である「機能」に焦点を当てることができるようにな

る(56)。そしてこれは,人間が享受する実質的自由の不平等を問題にする視点を

提供するものである。人間は 1人 1人外的,個人的要因によって差異があるこ

とを指摘したが,これらの差異は自由の享受に影響を与えるものであることが

指摘されている(57)。例えば,病気やハンディキャップを抱えている人は,抱え

ていない人よりも自由を享受するのにより多くの資源が必要になることは明白

である。さらに,社会的差別や抑圧に苦しむ人々は,そのような問題に直面し

ていない人々に比べて,同一の資源で享受できる自由は減少するであろう。そ

してこれは,実質的自由の平等の実現を目指していく際には,個人的要因だけ

でなく社会的要因も考慮に入れなければならないことを意味している。なぜな

ら社会的な差別や抑圧といった社会の仕組みが人間の自由を制限するものであ

るからである。このように,潜在能力アプローチを導入することで,結果の平

等の享受の問題,つまり実質的自由の不平等という問題に光を当てることが,

人間の福祉を考える上で肝要であることが明らかになる,

齋藤は,新自由主義において,自由を機会の平等として捉えていて,自由の

実質的な達成や享受には関心が向けられていないという(58)。確かに,日本の新

自由主義的教育は,全ての子どもたちの自己実現への自由の享受という点は無

視しているので,子どもたち 1人 1人に対してアプローチの仕方を変えること

を許してはいない。よって,潜在能力の不平等を生じさせている要因であると

考えられる。また,新国家主義の流れを汲む日本の教育政策によって,国家は

日本の教育政策における異文化理解教育の位置付け

―214 ―

恣意的に国家への愛を人々の中に植え付けようとしていることを述べた。つま

り,国家を愛することが当然であるという考えを押し付け,その逸脱は認めな

いということである。この流れの中では,人々は国家の求める考え方以外の意

見を発言することができないようになる。つまり,国家が正しいと認める考え

方以外の多様な考え方を持てなくなる状況が形成されつつあると言えよう。こ

のような状況では,人々は自分の意見を表明したり,様々な考え方に出会って

世界を見る視野を広げるという潜在能力を持つことが不可能になってしまう。

したがって,新国家主義的教育は,人々の福祉を犠牲にし,人々から多様な生

き方を享受するという自由を奪うものであることが分かるであろう。

現在の異文化理解教育は,人々の潜在能力達成の不平等の原因となっている

社会の構造に対して批判的な態度は取っていない。それゆえに,新自由主義的

教育政策によってもたらされる不平等に挑戦するどころか,温存させる働きを

担っていると考えられる。さらに,国家を尊重することを当然のこととしてい

るが,以上で述べたように,国家の尊重を強制することは,多様な考え方へア

クセスする自由に制限を加えるものであると考えられる。この点で,新国家主

義的教育政策のように,人間の多様性を擁護するどころか,踏みにじる教育に

なる可能性を持っていることは確かである。したがって以上の議論から,1人

1人が独自な考えを持つ自由や,自己実現への自由の達成を人々の福祉と考え

る潜在能力アプローチを通して異文化理解教育を考えると,それらの自由の享

受を妨害する社会構造を問題視する視点を取り入れなければ,異文化理解教育

は多文化共生実現へ向けた試みにはならないことが分かるであろう。

第 3節 ハンナ・アレントの公共性論の視点からの批判

ハンナ・アレント(Hannah Arendt)は,人間の活動力を 3つに分けて説明

している(59)。第 1の活動力は,労働である。これは,生物学的存在である人間

に対応する活動力である。労働は,人間が生まれてから死ぬまでの間に絶えず

消費する生活の必要物を生み出す活動力であり,その人間的条件は生命であ

る。第 2の活動力は,仕事である。この活動力は,自然環境と異なる人間の周

日本の教育政策における異文化理解教育の位置付け

―215 ―

りの人工的世界を作り出し,世界に永続性を与える。よって,仕事の人間的条

件は世界性であると言える。そして第 3の活動力は,言論と行為からなる活動

である。活動は,最も高次の活動力であり,人間と人間の間で直接行われるも

のである。活動の人間的条件である多数性は,地球上にはそれぞれの個性を持

った多数の人間が生きているという事実を意味している。

活動の特徴として,自分が誰であるのかを示すために,人格的アイデンティ

ティが明らかにされ,可視性が整えられ,そして人間の繋がりが構成されるこ

とが挙げられる(60)。そして,アレントは活動することによって共通世界が現わ

れると述べている(61)。共通世界には,言論と行為によって万人に見られ聞かれ

る舞台としての現われの空間が存在する。現われの空間では,言論と行為によ

って自己を顕在化させることで,人々は唯一な人間としての姿を見せる。言い

換えると,人間は“who”つまり「誰」であるかを示すことができるのは,言

論と行為によってのみなのである。そして,“who”というアイデンティティ

が言論と行為に対する応答によってはじめて生成するということが意味するの

は,そこに他者の存在が要求されるということである。また,人間は完全に非

対称的な位置(62)にいるので,“who”としての人間は交換不可能な存在であ

る。当然のことながら,これは「何」であるかという交換可能な“what”とし

ての人間(63)ではない。したがって,共通世界では人間的唯一性が見られ,人間

は平等である。

さらに,アレントは共通世界を人間関係の網の目であると指摘している(64)。

これは,言論と行為によって形成される人間的な事柄の世界である。網の目に

関わる人々はそれぞれユニークな意見を言うことができ,コンセンサスを取る

必要もない。つまり,人間関係の網の目の中で意見を述べるということは,多

種多様なパースペクティブから世界に対して発言するということである。そし

て,様々なパースペクティブから世界に対する発言がなされなくなると,共通

世界は終焉を迎えるのである。このように,人間関係の網の目の中で人々はユ

ニークな差異性を明らかにするので,共通世界は複数性という特徴を持ってい

る。

日本の教育政策における異文化理解教育の位置付け

―216 ―

アレントによると,言論と行為によって自己を顕在化させることで,交換不

可能な“who”としてのアイデンティティを示すことができ,多様なパースペ

クティブから世界に対して意見を述べることで共通世界が形成される。つま

り,多様な文化的背景を持つ他者の様々な意見に耳を傾けることによって,

人々が住む世界に存在する問題,また今までに気付くことが困難であった問題

やそのような問題に対する多様な考え方が明らかにされていき,他者と共に生

きる社会のあり方をより深く考えることができるようになる(65)。自己のパース

ペクティブからは見えなかった部分が見えてくることで,世界に対する認識は

さらに深まっていくのである。要するに,活動によって自己と他者が互いに現

われ,世界に対して様々な視点で意見を交わし合う関係性を創出・維持するこ

とで,公共的な関係性が保障されるのである(66)。

ここでアレントの視点から教育政策を批判したい。先ず,新自由主義的教育

政策においては,学校選択制によって比較的恵まれた家庭の子どもたちが 1つ

の学校に集中することが指摘されている(67)。こうして,様々な家庭で育った子

ども同士のコミュニケーションを通して,他者の異質性を知る機会は消え,多

様性から生じる摩擦を経験しない子どもたちが増加することが考えられる。こ

のような状況が生じると,均質的な空間に生きる子どもたちは,身の回りの価

値観のみで世界を判断する傾向を持つようになるという(68)。さらに,同じよう

な文化的・社会的背景の子どもたちのみが集まると,異質な他者との生活世界

の分断が生じるので,他者に対しての無関心や不寛容が生じるようになる。一

方で,アレントによると,他者の声を失えば,他者が直面する問題は自らの視

野に入らず,自らが他者とどのような関係であるか見えなくなる。そして,他

者と共に生きる社会の在り方を考える必要性を見失ってしまうと考えられ

る(69)。さらに,生活空間である社会の分断によって,立場が異なる人々の間で

なされるコミュニケーションが妨げられるようになり,異質な他者に対する無

関心がもたらされるようになる(70)。これは,高橋が指摘する,人々が共生して

いく上で最低限の責任である,呼びかけに対する応答としての責任を持たなく

なることを意味するだろう(71)。したがって,社会の分断を生じさせる可能性の

日本の教育政策における異文化理解教育の位置付け

―217 ―

ある新自由主義的教育政策は,人々を共生に対して無関心にさせてしまうもの

と考えることができる。

次に新国家主義的教育政策においては,国家の意向に従順な人々の育成がそ

の目標となっている。これは,国民的アイデンティティの感覚によって社会的

連帯を形成するプロジェクトであると表現することができる(72)。このプロジェ

クトは,国家に関する考え方に対して同一化の圧力を加え,国家が求める価値

観とは異なる価値観を抱く自由を阻止するものである(73)。一方アレントにとっ

ては,共通世界において人間は唯一の存在であり,交換不可能な存在である。

しかし,同一化を進めて「日本人」を作るのは,交換可能な“what”としての

人間を作ることになる。これは人間の唯一性という特徴を消し去ることにつな

がると言える。また,多様な考え方を認めないことから国家の求める「日本

人」になれない者に対しては排除をもたらす力を持つ点で,様々な視点から発

言がなされなくなるので共通世界がその姿を消すことになると考えられる。つ

まり,新国家主義的教育政策は極めて非公共的な政策であることが分かる。

ここで日本の異文化理解教育に目を向けると,国際社会,国際経済で活躍す

る人材育成を目指し,個人の能力育成が重視されている。また,異文化として

の固定化・本質化された外国文化の理解を目標としていると考えられ,不平等

や差別に挑戦し,人間間のコミュニケーションを高めるものではない。したが

って,社会的分断を温存するものであり,活動を通した他者とのコミュニケー

ションによる多文化共生の実現を目指したものではないことが考えられる。さ

らに,日本の歴史・文化への尊重を当然視し,また“異文化イコール外国,自

文化イコール日本”という枠組みが日本人の均質化を進めて,多様性を排除し

ていくことが考えられる。よって,アレントが指摘する人間の唯一性や複数性

を否定するものであり,様々な文化的背景の人々が多様な考え方を持って生き

る社会の形成には貢献するものではないことは明白である。

日本の教育政策における異文化理解教育の位置付け

―218 ―

第 3章 日本における異文化理解教育の取るべき方向性

日本の教育政策には,新自由主義的側面と新国家主義的側面があることを指

摘した。新自由主義的教育政策において,国家の経済的発展に都合の良い人材

の育成が目指され,多くの子どもが自己実現を可能とする教育を享受できない

環境が形成されていると述べた。この点においては,教育における排除が見て

取れる。そして,新国家主義的教育政策においては,国家の意向に従う人材の

育成が目指されていて,多様な価値観の画一化が進められていると述べた。こ

の点において,教育における同化が正統化されていることが分かる。

一方,日本の異文化理解教育に目を向けると,国際経済のリーダー育成,愛

国心の育成が目指されている点で,現在の日本の教育政策の目指す方向性と親

和的であることが分かるであろう。さらに,文化相対主義的な立場に固執して

いるので,人々の間にある不平等は注目されてはいない。したがって,抑圧さ

れている人々の声に耳を傾け,抑圧や差別を生じさせている社会構造を批判的

に考えていくということは目指されていないことを指摘した。また,本質化し

て文化を捉えているので,本質化された文化の中に存在する多様性は無視され

ている。そして,本質化された文化の知的理解が目的とされているために,多

様な他者とのコミュニケーションを通した共生の重要性が指摘されているとは

言えない。

やはり,今後の異文化理解教育においては,他者との共生を考えていくため

に,立場の異なる他者とのコミュニケーションを積極的に行えるように,他者

の問題を自己の問題として受け止め,他者の声に耳を傾けるように教育しなけ

ればならないであろう。一方,社会には不平等が存在するため,立場の異なる

人々の関係性の理解を進めることが重要になってくるであろう。そして,自ら

がどのような立場に立っているのかという自己反省を促すことが大切であると

考えられる。現在の異文化理解教育は,日本の教育政策の流れを汲んだもので

あり,その政策によってもたらされる問題点を温存するものであると言えよ

日本の教育政策における異文化理解教育の位置付け

―219 ―

う。やはり,日本の教育政策によってもたらされる排除や画一化に挑戦するた

めに,異文化理解教育はそのような教育政策に対して批判的でなければならな

いのではないか。

盧 中島智子「『国内理解』と『国際理解』」『異文化間教育』第 2号,1988年,62−63

ページ。

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ージ。

眇 同書,37ページ。

眄 同書,38ページ。

眩 同書,42−43ページ。

その学校化社会の現象として,教育家族の出現が挙げられる。教育家族とは,偏

差値序列という学校的価値を信奉し,子どもにより良い学校に入学させるために

早くから塾に通わせたり,家庭教師をつけたりすることでその準備を徹底してい

く家族のことである。

眤 第 1の教育改革は,明治期の学校制度の創設にはじまり,近代的学校社会に向け

ての基盤整備であった。また,第 2の教育改革は,戦後における教育の民主化や

平等化,大衆化に向けての改革である。

眞 堀尾,前掲書,13ページ。藤田英典『教育改革』岩波書店,1997年,7−8ペー

ジ。

眥 同書,49−52ページ。

眦 斎藤貴男『教育改革と新自由主義』子どもの未来社,2004年,120ページ。

眛 同書,121ページ。

眷 2006年 12月 15日に教育基本法は「改訂」された。

眸 高橋哲哉『「心」と戦争』晶文社,2003年,13ページ,113ページ。

睇 高橋哲哉他編著『緊急報告教育基本法「改正」に抗して』岩波書店,2004年,12

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睚 広田照幸『教育』岩波書店,2004年,72ページ。

睨 斉藤,前掲書,44−50ページ。

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―220 ―

睫 堀尾輝久『いま,教育基本法を読む-歴史・争点・再発見』岩波書店,2002年,

13−14ページ。

睛 教育機会は,人種や信条,社会的身分などの属性によって差別されることなく,

誰に対しても開かれているということを意味する。

睥 個々人の能力に応じた教育を提供するということを意味する。

睿 藤田英典『教育改革のゆくえ-格差社会か共生社会か』岩波書店,2006年,103−

104ページ。

睾 同書,104−107ページ。119ページ。

睹 渡辺治『企業社会・日本はどこへ行くのか-「再編」の時代・日本の社会分析』

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瞎 藤田,前掲書,78ページ。

瞋 藤田,前掲書,衾-衵ページ。

瞑 藤田,前掲書,20−21ページ。

瞠 斎藤貴男『機会不平等』文藝春秋,2004年,49−50ページ。

瞞 同書,49ページ。

瞰 高橋,前掲書,114ページ。

瞶 堀尾,前掲書,34ページ。高橋,前掲書,11−13ページ。

瞹 高橋,前掲書,45−46ページ。西原博史『学校が「愛国心」を教えるとき-基本

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磆 他者の位置を占めることができない,立場交換ができないということを意味す

る。

磋 例えば,日本人であるとか,女性であるとか,学生であるといった仕方で表され

る。

磔 アレント,前掲書,286−290ページ。齋藤,前掲書,304−308ページ。

碾 齋藤,前掲書,110−113ページ。

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日本の教育政策における異文化理解教育の位置付け

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The Position of Intercultural Education

in Japan’s Educational Policy──A Consideration about its Problems and Future Direction──

Jun Numata

The purpose of this study is to clarify the characteristics and problems of inter-cultural education in Japan’s educational policy and to show the direction to over-come the problems. I suggest that there are neo-liberalistic and neo-nationalisticthoughts in Japan’s educational policy. In such educational policy, it is encouragedto train the elite who work for Japan’s economic development and the people whoobey the nation’s intention. From these perspectives, I point out that the educationalpolicy brings the educational environment that many children cannot enjoy fully thepossibility for self-fulfillment, and the conformity of the sense of values.

In Japan’s intercultural education, the purposes of this education include thetraining of economic leaders and the nourishment of the patriotism. Therefore, it isobvious that this is common with the direction of Japan’s educational policy. How-ever, for coexistence with others, intercultural education must be critical of Japan’seducational policy that brings exclusion and conformity, and foster the dialogue withothers and the understanding of inequality in society.

Key words:intercultural education, Japan’s educational policy, coexistence

日本の教育政策における異文化理解教育の位置付け

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