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Hokkaido University of Education Title �ATEJAuthor(s) �, Citation � : , 10: 159-172 Issue Date 2020-02 URL http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/11169 Rights

日本技術教育学会(ATEJ)の発足と消滅 ― 国立大 …s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/bitstream/123456789/...1 はじめに -筆者にとってのOOPARTS- 平成12年(2000)の冬、筆者が教室の整理・清掃をしていた折、見慣れない冊子を目にすることに

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Hokkaido University of Education

Title日本技術教育学会(ATEJ)の発足と消滅 ― 国立大学附属学校教員が発

足させた学会の顛末 ―

Author(s) 阿部, 二郎

Citation北海道教育大学大学院高度教職実践専攻研究紀要 : 教職大学院研究紀要

, 10: 159-172

Issue Date 2020-02

URL http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/11169

Rights

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日本技術教育学会(ATEJ)の発足と消滅― 国立大学附属学校教員が発足させた学会の顛末 ―

阿 部 二 郎*

概 要

 本稿では、かつて存在した詳細不明の「日本技術教育学会」の実態について調査し、設立の経緯や時期と自然消滅の時期を特定しつつ、1次資料の所在やその内容を明らかにした。学会の設立経緯は東京大学附属中・高校教諭の野津佐吉らが細谷俊夫に会長就任を要請したものであり、現職の学校教員が主導して学会を成立させた稀少な事例である。学会の設立時期は昭和34年末頃、学会誌の発行は第4号まで、活動停滞期から自然消滅へと向かう時期を昭和42年と結論づけた。

キーワード:日本技術教育学会(ATEJ) 技術科教育研究紀要 細谷俊夫 日本工作教育学会

1 はじめに -筆者にとってのOOPARTS-

 平成12年(2000)の冬、筆者が教室の整理・清掃をしていた折、見慣れない冊子を目にすることになった。現代技術教育史としての技術科教育史研究を進めていた筆者にとっては、存在自体を知らない未見の技術科教育資料はほとんどないと自負していた。ところが突然目の前に現れたのは、日本技術教育学会という団体が刊行した『技術科教育研究紀要 第四号』という名のただ1冊の小冊子であった。日本技術教育学会という団体、『技術科教育研究紀要』という冊子は未知のものであった。筆者にとって当該冊子は、OOPARTS(out-of-place artifacts)とでもいうべきものであった。その後、いくら調べても団体の存在した証拠が見つからず、紀要所蔵の大学図書館は皆無、国立・公立図書館で収蔵しているところも皆無、技術教育研究者に尋ねても情報を持っている者は皆無で、雲を掴むような状況であり、実際に紀要が目の前になければ、何かの誤情報か錯覚と断じるような状況であった。 その後、4年程かけて調査を続け、その成果を「日本技術教育学会(ATEJ)の設立と消滅」と題して日本産業技術教育学会技術教育分科会『技術科教育の研究 講演論文集第10巻』(同分科会、平成16年12月)で報告した。その後、日本技術教育学会(ATEJ)事務局役を務めていた、元お茶の水女子大学教育学部附属中学校副校長の曽我部泰三郎と連絡を取ることができ、僅かに残された資料と、曽我部の証言内容をクロスチェックしつつ、研究を進めてきた。その後の研究成果は、日本産業技術教育学会の平成17年8月開催の第48回全国大会(長崎)で口頭発表した。しかし、さらに継続調査の必要があると考えて論文にまとめずにいたが、平成28年5月に古書ネット上で『技術科教育研究紀要』の第1号と第2号が売りに出されていたので入手した。結果的に、3冊の現物を筆者が所持していること、筆者以外にこの団体について研究を行っている者がいないこと、研究資料自体が極めて稀少で

北海道教育大学大学院高度教職実践専攻研究紀要 第10号

─────────────────────*北海道教育大学教職大学院(大学院教育学研究科高度教職実践専攻)函館

自由投稿論文

阿 部 二 郎

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あることから、本稿では1次資料の存在場所を明示し、「技術科」教育の創始期に設立された「日本技術教育学会」の実態と存在意義と影響について評価し、記録に残すことを目的とすることにした。 なお、「附属」の表記は、戦後の一時期に「付属」表記とされていたが、その後に「附属」と改められているため、本稿では固有名詞上の「付属」は「附属」に統一している。ただし、個別の証言で証言者が「付属」と書いていたものについてはそのまま「付属」として表記している。

2 日本技術教育学会(ATEJ)の概括

 日本技術教育学会(ATEJ)は、法定教科「技術・家庭(以後「技術科」と表記する)」教育の創始期に、細谷俊夫を会長として全国規模の組織展開を目標に設立された研究団体であった。岩崎書店から47冊の文献を世に送り出す際の母体となったものであるが、その後、自然休会・消滅の途を辿った。全国規模の展開、自然休会・消滅という事例には、『教師の友』を刊行していた「教師の友の会」などがあるが、これは大槻健によって記録に留められている(『あゆみ教育学叢書9 戦後民間教育運動史』あゆみ出版、1982)。ところが、日本技術教育学会(ATEJ)の場合には、そうした第三者の手による記録や先行研究が皆無であり、この学会がどのような経緯で設立され、そして消滅に至ったのか、研究団体として何をなし得たのかという事を知るための基本的な資料もほとんど残されてはいないし、実在したという“痕跡”もほとんど残されてはいない。

3 調査活動の経過と研究方法上の問題点

 すでに消滅している研究団体のため、文献調査と存命している元会員への書簡による取材調査を中心として行った。残されている記録は極端に少ないが、可能な限り会長を務めた細谷俊夫の著作を調査し、日本技術教育学会に関する記述部分の発見に努めた。また、教科調査官であった鈴木寿雄が関わっていたようだとの回顧もあり、可能な限り鈴木寿雄の著作(開隆堂「鈴木寿雄文庫」も含む)を調査した。併せて、各種の「技術科」教育文献(各種雑誌、広報誌を含む)や当時の技術教育実践家、技術教育研究者への取材を行ったが、何一つ手がかりを得ることができなかった。 そこで、手元にある同学会の学会誌『研究紀要技術科教育第4号』を唯一の手がかりとして、書簡による取材を試みたが、元会員も高齢となり、すでに鬼籍に入られた方も多かった。存命でも取材に応じられる状況にない方も多く、直接取材や追跡取材は極めて困難であった。加えて、「個人情報の保護等に関する法律」により、連絡用の個人情報取得にも障壁が生じた。そのため、書簡による取材ができたのは、日本技術教育学会(ATEJ)事務局役を務めていた元お茶の水女子大学教育学部附属中学校副校長の曽我部泰三郎と東京大学附属中・高等学校副校長を務めた川城一郎と同校に勤務していた清水龍慶、第3号に寄稿していた北海道の松本謙太郎、羽山達夫、両者との関係で当時の北海道の技術教育のリーダーであった鷲下 清、調査協力として旭川市立常盤中学校長(平成17年当時)小澤良紀といった方々にすぎない。その結果、「曽我部証言」とその他の方々の証言、僅かに残された資料とのクロスチェックにより、可能な限り内容精査をしているがその精度には限界があり、「資料」研究として十分なものとはなり得ていない。しかし、今後さらに精度を高めるための手段が失われていると判断し、現時点での成果を最終成果として報告する。

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4 日本技術教育学会に関する1次資料とその所在

 日本技術教育学会の名の下で刊行された文献は、岩崎書店から刊行された47冊しか存在していない。総て日本技術教育学会長の細谷俊夫監修で、『中学生の技術科全集』全7巻と『少年少女技術・工作文庫』40巻である。この2つのシリーズの書名には日本技術教育学会の名称が見られるが、学会に関する記述は一切ない。『少年少女技術・工作文庫』では当初の100巻刊行予定が40巻の刊行で終了されている。著者についても、前者では現職名が付されているが、後者では著者名しか記述がない。従って、これら47冊の文献からは日本技術教育学会について何の情報も得ることができない。「曽我部証言」によれば「(当時の日本技術教育学会は、図工の先生中心だったので)岩崎書店とは意気投合する事があったから話が急に決まったのだろうと思います。当時岩崎書店は景気が良く、社長がロシア〔旧ソビエト連邦 阿部:注〕へ旅行し、百冊全集のあることを知り、企画から学会に丸投げしたのを引き受けたのです。それが途中で隠滅してしまったのですが、あまり粗製乱造でどこかからか非難が起こったのかも知れません。その辺は誰も知らないのではないでしょうか。」とのことである。 学会として活動していた以上、学会誌が存在するはずであるが、筆者が国内の各種データベース検索システムを利用して調べた限り、全国の大学・研究機関・国公立図書館等で当該の学会誌を所蔵している機関はない。前述したように、筆者の手元には日本技術教育学会誌『研究紀要 技術科教育第4号』があり、少なくとも第1号から第4号まで刊行されたのは間違いない。継続調査の結果、東京大学教育学部図書室に第1号から第4号まで各1冊の学会誌が現存していることが判明した。これは、CiNiiBooksなどの図書検索システムにはかからない。元会員を除けば、第1号から第4号の学会誌が揃って保存されているのは、唯一、東京大学教育学部図書室だけだと思われる。筆者は、本多満正(東京大学附属中等教育学校教諭 当時)の助力で全冊の完全コピーを入手したが、第4号は表紙に東京大学教育学部図書室39.6.27〔昭和39年6月27日の意味 阿部〕の受領ゴム印が押されている。1号から3号は、表紙に東京大学教育学部図書室39.7.2〔昭和39年7月2日の意味 阿部〕の受領ゴム印が押されている。このことから、最初に4号が図書室に納入された後、1号~3号が遡って納入されたということになる。筆者が調査した結果を踏まえれば、それ以降の納入は行われなかったと推測できる。結局、筆者自身の手元には、1号~4号の完全コピーと、1号、2号、4号の研究紀要の現物がある。この1次資料3冊については、筆者の退職時に国立国会図書館への寄贈を申請する予定である。 最も会員の多かったと思われる時期でも、おそらく総正会員数は支部(秋田、盛岡、徳島の各50数名)を含めても300名を下回っていたと予想される。そして、学会消滅時に新人教員年齢(最低で21歳)であった人物でも、令和元年時点で推定年齢70歳代半ばである。多くは80歳代半ばを越えており、鬼籍に入った方々も数多いと予想される。以上を考え合わせると、今後は筆者が入手したような古書販売ルートに日本技術教育学会の学会誌(研究紀要)の現物が載ることは想定しにくいと思われる。

5 学会誌(研究紀要)の概要と特徴

 以下、日本技術教育学会の学会誌(研究紀要)の概要とその特徴、各号の内容の概要について示す。① 学会誌名は「研究紀要 技術科教育」である。②  学会誌の表表紙は、第1号から第4号まで大きな違いはないが、第2号と3号にのみ表表紙 下

の部分に「THE ASSOCIATION FOR TECHICAL EDUCATION OF   JAPAN(ATEJ)」と表記されている。

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③ 第4号のみ、表表紙に目次が印刷されており、上記②の表記は削除されている。④  第4号には会則の変更、新役員一覧などが掲載されており、第3号で予告された「次号」の内容

が完全無視されている。③で述べたように、表紙の写真だけは共通であるが、編集スタイルが大きく変わっており、⑤で述べるような違いも見られる。これらのことから、推測の域を出ないが、編集担当者が交代したことも考えられる。 

⑤  第1号から3号までの裏表紙には、頒価70円の記載と、学会事務局として東京大学附属中・高校の住所・電話番号も記載されている。第4号では頒価記載、学会事務局住所の記載がなく、事後にゴム印により学会事務局住所・電話番号が押印されている。〔ただし、全国に発送された学会誌には押印されていない。これは後述するように、PR用に無償配布されたものであり、筆者の手元にある4号がまさにその冊子である。この冊子にはゴム印が押されていない。〕

⑥  第1号から第3号までは、本文は約29頁であり、第4号は31頁である。第1号から4号まで、巻頭に作品事例のグラビアがあるが、1号と2号にはカラー印刷がある。3号は不明。4号は白黒印刷だけである。

⑦  第1号から第4号に至るまで、学会誌の発行年月日が記載されていない。⑧  第1号から第4号まで、会則や規約、組織図、支部詳細や会員名簿の類は掲載されていない。前

述したが、役員改正の関わりから判断すると、第1号から第3号までは第1期の役員組織の下で刊行され、第4号からは第2期の役員組織の下での刊行である。ただし、事務局はすべて東京大学附属中・高校内に置かれている。

⑨  賛助会員数は、第1号で13団体(名古屋1、東京都12)、第2号・第3号で15団体(大阪1、名古屋1、東京都13)、第4号で12団体(大阪1、東京都11)であった。

 第1号(創刊号) 巻頭に、日本工作教育学会会長の山下俊三による祝辞、会長の細谷俊夫による「日本技術教育会

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の創立に当たって〔傍点 阿部:注〕」、庶務部の宮内太吉による「本学会の創立について(経過報 告)」、お茶の水女子大学家政学部長谷田閲次による「生活における技術」の他、7名の論文(実践記録・指導計画と指導方法・材料と工具解説)が掲載されている。 また、月例研修会への誘いも記載されている。発行時期は、山下の文中に「来る昭和37年度」、細谷の文章末尾に(1962.1)との記載、編集後記に「37年度の計画樹立に幾らかでも会員の参考に活用していただけたらと考えて」との記述があることから、1962(昭和37)年1月から3月の発行と推測される。 第2号 夏季実技研究会報告書とでもいうべき内容となっており、17名の論文・原稿が掲載されている。 夏季実技研究会は、1962(昭和37)年8月4日から8月10日まで、1週間にわたって東京大学附属中・高校を会場として開催され、46名の参加者の名簿と参加者の感想も掲載されている。この参加者中には細谷俊夫や日本工作教育学会の山下俊三、各地の附属学校教諭(山口大、山形大、千葉大、広島大福山、東京学芸大小金井・大泉、東京教育大学駒場、東京大学)の名前が確認できる。編集後記では、秋田支部が発足し他にも準備中のところがある旨の記述が見られる。編集後記末尾に(37.11)とあり、第2号は少なくとも1962(昭和37)年度中に発行されたと推測される。 第3号 巻頭のことばとして、副会長の津田忠一(横浜市磯子職業訓練所)の文章が掲げられ、他8名の論

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文が掲載されているが、著者は千葉県、北海道2名、名古屋、仙台(宮城県)在住者が含まれており、全国組織への拡大が意識されている。 また、庶務部の宮内により、「支部設置についての質疑について」が掲載され、組織拡大への運動が積極的に行われようとしていたことが伺われる。編集後記には、「支部も秋田、盛岡、徳島と各50数名以上の会員を中心に研究をすすめています。」と述べられている。また、夏期研修会の予告もあり末尾に-5月22日記-とあることから、1963(昭和38)年の夏休み前の時期、少なくとも7月頃までには発行されていると推測される。 この、北海道の投稿者については直接書簡での質疑応答ができている。興味深いのは、投稿した2名ともが学会会員ではなかったということである。松本謙太郎は当時上川教育局指導主事であった が、北海道教育庁学校教育課の矢原指導主事(技・家担当)から「このような依頼が学会からあるが、上川はよくやっている地区なので、上川の現状ということで全道的な立場で書いて届けてほしいとのことで寄稿したものでしょう。」との回答であった。また、この学会に対する認識として興味深いのは「この学会の存在は知っていましたが、これは大学・専門学校などの関係者の研究団体と思っていた。中学校の現場には、技術家庭科教育研究の全国組織、全道〔全北海道の略 阿部:注〕組織があります。」ということである。もう1人の羽山達夫からは、「私が書いたものに相違ございません。」との回答を得た。その際に、「昭和37年7月東神楽村教育研究会、9月上川管内中央部方面総合教育研究集会、北教組12次上川管内教育研究集会、北教組 全道教育研究集会(小樽市)で発表したもので、どのような経緯で投稿されたものか記憶にはない。」とのことだった。 2人の投稿者の立場が教育行政の指導主事と日教組組員ということで、当時の北海道の状況を考えると両者が激しく対立していた経緯があるので不思議に思えるが、書簡の中で「技術・家庭」教育実践に関しては深くかかわっていたこと、同窓(旭川校)としての関係もあること、共に学校長で退職をする人材であったことなど、が判明し、結局、松本謙太郎経由での原稿依頼ではなかったかと推測される。 松本の証言にある「北海道教育庁の指導主事からの依頼」に関しては、「曽我部証言」の中に「私の発案による全国の国立大学附属中学校への日本技術教育学会への加入案内か、その返答として寄稿なさったのだと思います。〔中略 阿部〕全国の教育長、教育委員会への学会案内は確実に発送していると思います。」ということに起因する依頼だったのではないかと考えられる。 なお、羽山から紹介された、当時の北海道における「技術・家庭」教育のリーダーの1人である鷲下清からは「当時の状況から申しまして行政の担当者、全日本技・家研役員からも思い当たる情報を耳にした記憶はございません。」との証言を得た。つまり、前述のように曽我部らが広報活動を展開したものの、学会の存在に対する認識が教育実践現場までは十分に浸透し切れておらず、教育実践現場における認知度が高いものであったとは言えない状況にあったようである。 第4号 本号から編集方針に変化があったようで、「総合実習特集号」との表記があり、事務局長の野津佐吉(東京大学附属中・高校教諭)の巻頭言、他5名の著者による論文が掲載されている。この号において初めて「学会だより」が庶務部長の宮内によって書かれており、昭和38年度の通常総会を臨時総会として7月31日に実施し、会則改定が議決されたことが述べられている。ただし、会則そのものの記載はない。また、細谷俊夫による講演会が開催されたことも記載されている。臨時総会後に開催された夏季講習会には全国各地から約50名の参加を得たこと〔参加者の名簿記載はなし 阿部:注〕、徳島支部の設立大会が8月31日に開催されたこと、岡崎地方で支部設立の動きが活発化していること

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や新役員紹介として役付と氏名のみが記載されている。編集後記では、「文部省の鈴木先生〔鈴木寿雄 阿部:注〕のご指導を得て」の記述が見られる。本号では、出版時期を特定する記述が全くない。 ただし、前述の「学会だより」の中で、「中国地区技術・家庭科研究大会が4月18日福山市広島大学福山分校付属中で開催され本学会から蔭山副会長、野津事務局長、その他の会員が出席し、学会支部設立について必要性を力説した。」とある。筆者の手元にある第4号は、「曽我部証言」で明らかになったように、組織拡大を目的として全国各地の指導的立場にあった「技術科」教員に郵送された勧誘資料の1つで、当時の北海道渡島管内のリーダーであった森中学校教諭の宮本貞夫に送付されたものを、退職時にその他の雑誌資料と共に函館校で譲り受けたもので、それが本稿の「はじめに」で述べた経緯で筆者の手元で保管することになったわけである。表紙には「北海道茅部郡森町森中学校39.5.16受」の受領印が押されているので昭和39年の4月18日以降5月16日以前に発行されたと推測できる。先に「曽我部証言」から引用したように、この時期には全国各地に対して入会勧誘が行われていたようで、昭和38年から昭和41年まで北海道教育大学函館校に助手として勤務していた館田光弘からは、「当時の助教授から勧誘資料を提示され、実際に入会していた時期がある。」との述懐証言を得ており、全国各地の教育系大学にも入会勧誘資料を送付していたことは間違いない。 以上のように、4冊の学会誌(研究紀要)からこの学会がどのような活動を行おうとしていたのか、どのような構成員によって組織されていたのかということはある程度知ることができる。けれども、何を目的としてどのような経緯で学会が設立されたのか、いつ頃に消滅したのかという点については知ることができない。

6 細谷俊夫と日本技術教育学会の関わり

 会長であった細谷俊夫と同学会の関わりを見ていくと、細谷の各種の著作物や教育出版から昭和60年に刊行された細谷俊夫教育学選集(全5巻)には、日本技術教育学会との関係に触れた記述は見あたらない。同選集の第3巻は「産業教育論」であり、第3章で技術科教育論が展開されているが、同学会については一言も言及されていないし、解説を担当した元木健も言及していない。同選集の別巻には、細谷俊夫略年譜が掲載されており、転居の詳細や身内の冠婚葬祭、健康優良学校児童表彰会の中央審査委員となったことなどまで事細かに述べられており、ローカルな学会組織についても、昭和26年の東海教育学会発足に協力したことまで記述されている。ところが、全国規模の日本技術教育学会の会長に就任したことには一言も触れていない。細谷俊夫と学会の関わりでは、前述の東海教育学会の他、昭和33年の教育経営学会の設立や昭和34年の日本産業教育学会(JAPAN SOCIETY FOR THE STUDY OF VOCATIONAL AND TECHNICAL EDUCATION=SVTE)の設立が述べられているが〔正確には昭和35年10月 阿部:注〕、日本技術教育学会会長就任に関しては述べられていない。同書には、「細谷俊夫著作目録」も掲載されており、細谷の著作を5つのカテゴリに分類しているが、この中にも「日本技術教育学会」との関わりを示す著作、例えば第1号の「日本技術教育会の創立に当たって」は含まれていない。筆者の憶測を述べると、細谷自身は日本技術教育学会を「学会」とは考えていなかったのではないかと思われる。「学会」の定義にもよるが、細谷の文章の標題は「日本技術教育会

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の創立」である。文章中では「学会」という言葉を用いているが、細谷レベルの研究者が標題を書き間違うとは考えにくい。誤植の可能性も考えられるが、創刊号における会長の記念すべき文章での誤植という可能性は小さいと思われ、筆者には細谷の作為的な表現であったように思われる。例えば、細谷が日本技術教育学会会長に就任中で、しかも最も学会活動が活発であったと思われる昭和38年に刊行され

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た、細谷俊夫編『技術科用語辞典』(国土社)には日本技術教育学会員は執筆者として参加してはいないようである。著者は細谷を含めて6名、稲田茂(東京工業大学附属高等学校)・斎藤健次郎(東京大学教育学部)・佐藤興文(國學院大學)・田口直衛(長野市立柳町中学校)・原正敏(東京大学教養部)であり、むしろ細谷自身が創立に奔走した日本産業教育学会(SVTE)」の会員の名前が見られるのである。書名が『技術科用語辞典』であり、日本技術教育学会が「技術科」教育を直接の研究対象に据えていたにもかかわらず、どうしてこのような状況が生まれたのであろうか。また、細谷が日本技術教育学会会長に就任した経緯はいかなるものであったのだろうか。 細谷が「日本技術教育学会」に対して消極的姿勢に終始した理由については、「曽我部証言」では「学会のことは一文字も書かなかったと思います。書くと国家的大事業であった技術家庭科の根本が崩れたからです。気の毒なことをしたと思います。」と述懐している。

7 日本技術教育学会設立への経緯と時期

 前述したように、学会誌である「研究紀要 技術科教育」からは学会設立への経緯を知ることはできない。しかし、学会設立の一翼を担った曽我部泰三郎からは詳細な証言が得られている。その証言を基にして学会設立の経緯とその時期について検討する。「曽我部証言」によると、この学会は東京大学付属中・高校教諭であった野津佐吉によって発案され、「ある晩、5名程度の発起人で〔細谷の〕御自宅へお願いに伺った」ということだったようである。筆者の追加調査によれば、発起人として細谷宅を訪問したのは野津佐吉、曽我部泰三郎、宮内大吉(港区教育委員会指導室指導主事)、岡野弘(東京都立日本橋高校 美術担当教諭) らであることが判明している。 曽我部自身は、お茶の水女子大学附属中教諭だったが、当時は東京大学附属中・高校の非常勤講師も務めていた。曽我部によると、「技術・家庭科の生みの親でもありましたし」「当時細谷先生は東大附属の校長でしたので、会長は引き受けざるを得なかったと思います。」とのことである。 東京大学附属中・高校同窓会名簿によれば、細谷の校長在任期間は昭和30年10月から昭和33年10月であり、中学校学習指導要領(文部省告示第81号)は昭和33年10月1日に告示されている。従って、野津や曽我部らによる会長就任要請は、昭和33年の教育課程審議会中間報告から同年10月末までの間に行われたものと推測される。 この後、野津と曽我部らは学会設立準備に奔走するが、当初から全国組織として展開することを目標に置いていた。組織名称やその設立目的については、野津と曽我部らの間にも微妙な違いがあったようである。「曽我部証言」によれば、「私は研究会として理解していましたが、野津氏は当初から学会という原案を固守しました。」「発足の当初から少々目標がズレていて

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私共若い者もかなり反論していました。でも役立つことも多いので学ぶことは学んでいたというのが実情です。〔傍点 阿部:注〕」とのことである。この「曽我部証言」からは、2つの疑問が生じる。即ち、何故に野津は「学会」という名称に固執したのか。もう1つは、野津と曽我部らの目標の「ズレ

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」とは何かということである。「曽我部証言」によれば、設立準備における組織作りのために、事務局は東京の附属学校の教官、公立学校の美術の教諭(旧制中等学校美術の検定試験合格者)が担ったことになっている。現在のところ、日本技術教育学会の会員名簿は入手できていないが、筆者が学会誌や岩崎書店から刊行された文献の著者名などから著者なりに名簿を復元したところ、学会の構成員にある特徴が見られた。それは、附属学校教官が比較的多く含まれていることと、工業高校教諭の会員比率が予想以上に低く、東京都立工芸高校教諭が多数含まれていることであった。「曽我部証言」の中の美術教諭に該当するのが東

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京都立工芸高校教諭ということであろう。 また、曽我部らは学会員への勧誘のためにまず全国の附属学校に連絡をしたことになっている。当時の「技術科」教育界の全国連絡組織としては、全国国立大学附属学校連盟以外にはなく、野津や曽我部自身が国立大学附属学校教官であったことを考えれば必然的な方法選択であったと言えそうであり、附属学校教官の会員数が多いという現象の要因になっていると思われる。このことの裏付けとなるのが、前述した1号の細谷俊夫の文章にある「こうしたさいに全国国立大学校およびその附属学校において技術教育に当たっておられる研究者の有志が中心となって、日本技術教育学会を創立されたことはまことに喜びにたえない。」である。 ところで、「曽我部証言」によれば野津は「工作の教員としては鍛造に至るまですばらしい力の持ち主でした、しかし機械、電気については・・」ということである。記念するべき学会誌第1号の巻頭言に祝辞を寄せた、日本工作教育学会長の山下俊三も日本技術教育学会に会員として参加しており、「工作教育的『技術科』教育観」を持った教育関係者も多数参加していたようである。 他方、曽我部はむしろ「科学技術振興のための生産技術的『技術科』教育観」の立場に立っており、それは学会誌第1号に掲載された曽我部の「技術・家庭科の研究課題」で明確に表現されている。前述した「曽我部証言」における「ズレ」には教科観の相違も含まれているようである。 「曽我部証言」によれば、学会の創立総会はお茶の水女子大学講堂で昭和34年10月に開催されたことになっている。筆者は、この創立総会で提案された会則を入手できていないが、この創立総会が紛糾したことは「曽我部証言」と学会誌第1号の宮内報告から確認できる。前述したように、学会誌第1号が刊行されたのは昭和37年1月から3月頃である。創立総会から2年半以上の時間が経過しており、しかもその時点で宮内が経過報告としか書けないような紛糾の仕方をしたということのようである。以下、少々長くなるが宮内の文章を引用する。〔原文のまま 阿部:注〕  「〔前略〕これら全国各地(北は北海道から南は鹿児島)から貴重な意見や希望がありましたので準備委員会を

重ねて再検討し新たに新規案を成文化し創立総会に提案するようになったのであります。(注)アンケートを出す

までには何回も準備委員会を持って議論した末に、ようやく如何なる内容で全国的に問題を投げ掛けたにより効果

的かということで原案を作成したのであったが・・・。)以上が創立総会までに私たちが出来るだけ努力した態様

であります。

  創立総会について

  私が、正直にありのまま記してみますと、会の創立総会などというものが、本学会のような事態に立ち至った

ものを幾多のそうした会に出席してみてもかつてない状態であったということを残念に思わざるを得ません。その

根本が如何なる原因であるか、と、考えてみると前述したような(事実はそれ以上の細心の考慮を払ったと自負し

ておりますが)準備委員の努力や注意が足らず、また郵便送達関係も当時スムースに行かなかったようでもあった

ので〔中略 阿部〕さて、創立総会では通常通り準備委員会の予定提案に対してパチパチ拍子をもって大体の議事

進行をみるのが通例であるようでありますが、本会の発足に当たっては教育界は勿論のこと各階層より異常なまで

に注目を浴びて進発しなければならぬ状況の下に会がもたれたと考えられるからです。すなわち、最も重要な問題

として考えられるのは、学会規約をアンケートの意見を取り入れ修正して原案として提案したにもかかわらず修正

通過どころではなく案の全面的な修正を要求され通過できなかったであります。これは勿論より良い、より民主的

に、より普遍的に、という気持ちから,よりよい将来性のある学会創設への熱意が実現されたものと解することも

できると考えて,準備委員会としても数の可否等ということではなく当日特に改正小委員会を設けて別掲のような

改正新規約を成文化した次第であります。〔後略 阿部〕」(『研究紀要 技術科教育1号』p. 3) 含みを持たせた、隔靴掻痒の感がある理解しにくい文章であるが、創立総会が学会規約案を巡って

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大紛糾したこと、総会当日の紛糾後に急遽改正小委員会を立ち上げて新規約を作成して成文化するという異例な状況であったことが伺われる。「曽我部証言」では、この顛末が詳しく説明されている。大変重要な内容であるため、全部を引用する。  「会の目的、野津氏及びそのグループの考え方が技術家庭科の発足当時の、教育会〔ママ 阿部〕の流れと、違っ

ていた。野津氏は自分たちがこれまで学びつくして来た工作で十分に間に合う。なお自分たちの領域としてマスター

してきた鍛造などの方が進んでいるという錯覚に陥っていたと思います。これは其の当時から、私にははっきりわ

かっていましたので、よく議論をしました。そして規約が出来た時に、今回の技術家庭科の学習指導要領の内容は、

機会電気〔ママ 阿部〕に偏しているとまで書いてありました。其の規約を持って、私は文部省の鈴木寿雄氏に持

参してみて貰いましたが、やはり此の機械電気の偏重を指して相手にしてくれませんでした。その時は、技術家庭

科の主任は伊古田昇二氏でしたので、此の先生にも見て貰いましたというより、置いて帰りました。その後初中局

の視学官徳山氏にも個人的に後援を依頼しましたが、時勢が・・・と言って取り合ってくれませんでした。私には

此の流れはよく分かっていたので、それ以上は文部省対策はいたしませんでした。それで文部省の鈴木氏も何も此

の会の事には触れていなかったのではないでしょうか。」「設立総会の流会について 此の会の設立総会は、すんな

りいくと思っていましたが、其の頃には既に参加者の殆どが伝達講習を受けていて、新しい技術家庭科の目的や内

容は勉強していて、反論する内容はいっぱい持っていて、混乱していたのです。谷田家政部長も控室で待っていた

のですが、しびれを切らして帰ってしまいました。従って、谷田さんの挨拶もなかったのです。」

 この「曽我部証言」の詳細な事実確認(検証)は困難であるが、当時の状況説明を見る限りかなり正確であり、証言内容は大筋で間違いないと思われる。結局、文部省との対峙・対決姿勢を強めて先鋭化していった当時の日教組の立場に立つ何割かの参加会員と、告示によって法的拘束力を持つに至ったとされた学習指導要領の「技術・家庭」の内容解釈を巡るイデオロギー上の対立であったものなのか、それとも「技術科」教育実践の推進運動における「工作教育的『技術科』教育観」派と「科学技術振興推進のための生産技術的『技術科』教育観」派との対立であったのか、それとも「さらに別の要素」が関わった複合的な対立であったのかは不明であるが、その他にも、東大附属中・高等学校教員組織のダブルスタンダード的動向が参加者から疑問を持たれたことも考えられるのである。 当時の、東大附属中・高等学校(東京大学教育学部附属学校研究部)が刊行していた『東大附属論集 第五号』(1960年3月)には、昭和34年度中学校研究協議会と銘打たれた川城一郎の手による職業・家庭科「職業・家庭科より技術・家庭科への移行と問題点」(pp.49-54)が掲載されている。冒頭で「移行措置をどうするかは現場で最も問題になっていることである。本校では、講師として文部省教科調査官(技術・家庭科担当)伊古田昇二氏を招き」と述べつつ、「本校では国立の中学校として、新しい学習指導要領については、いくつかの意見を持つものであるが、まず、忠実に改訂の趣旨に沿って、移行措置を行い、研究あるいは、実施上、生じた問題を実践的に解明して、将来のあり方を求めるという立場をとることにした。」(p.49)というように、同じ学校に勤務する野津とはかなり異なる主張をしている。このことは、外部から見た時に困惑する要因にはなりえたであろう。この点について、川城との書簡による質疑応答をしたところ、曽我部同様に懇切丁寧な証言が寄せられた。「川城証言」から一部だけ必要な部分を引用すると「いわゆる、学会という存在とは認識していませんでした。この学会と称する団体が、高齢の芸術関係の人材が中心で、名前だけ立派で、内容に脆弱さを感じたとこもあり、〔ママ 阿部〕技術・家庭科教育を委ねてよいものか不安を感ずる面もあり、同じ校内なので、離れずといった関係であったと思います。」ということであった。 東大附属中・高等学校に機械分野担当の非常勤講師として勤務していた清水龍慶にも書簡による質疑応答をしたところ、同様に証言が寄せられた。正式には京華高等学校の正規教員であった清水は、

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物理・理科・数学を担当しており、東大附属では製図・機械・電気分野を担当していた。また、日本技術教育学会に対しては「忙しい中、極力出席しました。」との感想と「学会という名、お好きです か」という質問と共に、筆者からの「日本技術教育学会に対する感想は」という質問には「淋しいところ」との回答が寄せられた。丁寧な回答が寄せられたが、決して良い印象を持って振り返るわけにはいかないという印象を受ける。清水が筆者に開示した経歴は、完全に理系の教科担当教員であり、「技術教育」に対する考え方では、工芸畑の野津とは「全く相いれない部分」があったのかもしれない。こうした、学会参加者の思惑の違いや、周囲の人々の対応の仕方の違いは決して小さいものではなかったと見做すべきなのであろう。ただし最終的には、昭和35年頃から日本技術教育学会としての活動が展開され、月1回の研修会が活発に開催されていたようである。「曽我部証言」によれば、「毎月1度技術実技研修会を首都圏で行いました。月例の会場は東大の付属、お茶の水女子大の付属学校、をよく使っていました。刃物の研ぎ方、掃除機、洗濯機の機構、刃物の製作などを実習したことを覚えています。」とあるが、学会誌第1号でも「毎週1回〔毎月の間違いか誤植と思われる 阿部:注〕次のような実技講習を行っています。」として「1.設計・製図・木工 東大付属中・高校、2.金工・機械・電気 お茶の水女子大付属中学 3.家庭(機械・工作・電気)お茶の水女子大付属中学 3.金工成蹊学園中学校〔4.の誤植と思われる 阿部:注〕4.現場研修 各社工場〔5.の誤植と思われる 阿部:注〕」と記述されている(同誌p.30)。  前述したように、この時期は、野津、山下らの「工作教育的『技術科』教育観」を持った教員も多数参加していたと考えられる。野津は昭和26年から昭和43年まで、東京大学附属中・高校の教官として勤務しており、教員としての晩年の10年間でこの学会に参加したと考えられる。 前掲の山下俊三は、明治31年の生まれで、埼玉師範卒業後、東京市視学・東京都主事・指導主事の後、昭和30年に東京都台東区立育英小学校校長の立場で『図工家庭の研究授業』(明治図書)を著している。日本技術教育学会の設立は、山下の校長退職後のことになる。 当時は、どちらかといえば旧世代に属する教員層との教育観の違いや、工作・美術教育との関わ り、職業・家庭科との関わりなどが複雑に混じり込み、混乱をきたしていた時期であったと言えそうである。この当時の状況について、元筑波大学附属中学校教諭の辻次雄は、筆者からの問いかけに対して「当時は教科の創成期で内容もまだ決まらず、理科、工業科、芸術科などの系統の流れがあり、中々まとまらなかったように思います。」と述懐している。さらに、「曽我部証言」でも触れられているし、清原道寿や原正敏らも幾度となく指摘していることであるが、この時期に生産技術的な工業技術、例えば機械や電気領域に関する素養を身につけた教員が甚だ少なかった事実がある。「曽我部証 言」ではこの点について、「技術プロパーの工的先生は3分の1もいなかったのです。新卒の採用をするにも企業の誘因力が強くなかなか補充できませんでした。」と述べている。 日本技術教育学会の会員でもあり、後に岩崎書店の『少年少女技術・工作文庫5 自転車の分解と整備』(昭和38年)を執筆した椙山松良は、昭和31年に東京学芸大学を卒業し、板橋区立第四中学校教諭となって僅かに5年目、昭和36年6月27-28日に開催された北海道職業・家庭科教育研究大会第14回研究大会(砂川大会)で、「エンジンの分解」と「室内配線の練習」という2日間にわたる特設授業の講師として招聘されている。この大会では、埼玉大学講師となっていた元春日部中学校長で教材等調査研究技術・家庭小委員会委員だった日向 凞も講演会講師として招聘されている。 筆者が、大学院生時代の昭和57年4月から杉並区立杉森中学校で技術科の非常勤講師を務めた時に、同校の技術科専任教員であった椙山から指導を受けている。当時、椙山は40代後半であったと推測されるが、「力量の高い技術科教員」として地域で一目置かれる状況があったという印象がある。 

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 ただし、椙山の「技術科」教員としての力量が大変に高いものであったとしても、県レベルの教育研究大会への招聘講師としては「その若さ(年齢)」に注目せざるを得ない。そのことが、当時の「工的(工学的・工業的)養成教育を受けた教員」の人材不足の証ということになるのかもしれない。 前述の辻は、日本技術教育学会について「私は入会していませんでした。時を経るに従って、工業的内容が濃くなってきたように思います。文部省調査官の鈴木先生が音頭をとっていた記憶があります。」と述べるが、これは学会誌第4号での記述内容と符合する。第4号に東京学芸大学附属大泉中学校教諭の小池伝三郎が寄稿した「総合実習のねらいと総合実習における考案設計の進め方」の末尾の謝辞部分に「以上総合実習運営上の基本的な考え方と運営上の留意点というべきものを、文部省職業教育課鈴木寿雄先生の御指導を骨子とし、学会研究部諸氏と研究討議に私見をまじえながらまとめたものであることを付記します。」(p. 4)が確認できる。 また、前述したように編集後記において「文部省の鈴木先生〔鈴木寿雄 阿部注〕のご指導を得て」(p.31)の記述が見られるからである。日本技術教育学会が「生産技術的『技術科』教育(機械・電気領域)」重視へと徐々に変化していったという状況は、岩崎書店の『少年少女技術・工作文庫』の構成を見ても確認できる。同文庫は、昭和38年から毎年10巻ずつ、昭和41年まで計40巻刊行されたものであるが、内容別に区分すると、木材加工領域に属するものが8冊で全体の20%、電気領域が12冊で30%、金属加工領域が6冊で15%、機械領域は4冊で10%、栽培領域は3冊で7.5%、製図領域は2冊で5%、その他(プラスチック標本の作り方など)5冊で、12.5%となっており、電気領域的内容の比重が大変大きくなっている。 ただし、当時の教科調査官であった鈴木寿雄と日本技術教育学会の関係が深かったということなのではないと筆者は考えている。先に「曽我部証言」から引用したように、この学会と当時の文部省の間に太いパイプが構築されていたとは考えにくい。むしろ時は「総合実習」の適切な実施が課題となっており、文部省は「モデルにできる適切な実践事例」を欲していた時期である。その意味で、文部省の膝元である東京都の国立大学附属中学校における技術・家庭担当の技術科教員と教科調査官の鈴木寿雄の接触度が多くても不思議ではない。 そして、この学会が東京都にある国立大学附属学校教員に主導・結成されたことを考えれば、学会の会員にそうした人々が多く含まれていることになり、見かけ上は学会と文科省が繋がっていたかのようにも思えるが、それは見かけに過ぎないと考えるべきで、繋がっていたのは、あくまで在京の附属学校教員と教科調査官という関係においてであろう。 なお、「総合実習」は、結果的に昭和44年(1969)告示の『中学校学習指導要領』では残るもの の、昭和52年(1977)告示の『中学校学習指導要領』で廃止されることになる。つまり、当時の技術科教員にとって、教育課程上の教科経営の面でも、指導内容についても実践が困難なものであったということであろう。

8 活動の停滞と消滅の時期

 「曽我部証言」によれば、自身の学会活動期を昭和34年から昭和38年頃としている。前述の岩崎書店の少年少女技術・工作文庫は、昭和41年まで刊行されており、学会は存在しているにも関わらず曽我部がそのように述べているのは、学会全体としての活動が昭和39年頃から停滞していったこと意味しているのではないかと考えられる。  事実、昭和39前半期の学会誌第4号以降、第5号が刊行された形跡は確認できない。事務局から寄

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贈されたと思われる学会誌も、東京大学教育学部図書室では第4号までしか所蔵されていないことは前述した。当初100巻刊行予定だった文庫が昭和41年までの40巻で終了となっていることから、昭和42年頃からは実質的な休会状況となり、以後自然消滅の途を辿ったと推測される。この時期は、この学会の筆頭発起人であり、強力に学会活動を推進していた野津佐吉が退職した昭和43年3月と符合している。ただし、細谷俊夫がその設立に積極的に尽力した日本産業教育学会(SVTE)とは別の、日本教育大学協会第2部「職業・職業指導部門」の教官が中心となって昭和33年6月に設立した日本産業教育学会が、昭和41年7月の第9回総会で「日本産業技術教育学会(JSTE)」へと改称する際に、「日本技術教育学会」と混同されないような名称にするべきである旨の討議が行われたということを筆者自身も非公式に聞いたことがある。少なくともこの時期まで「日本技術教育学会」の存在は関係方面の人々には認識されていたようである。 以上のことを踏まえると、昭和39年後半以降には、学会誌は刊行されることがなく、岩崎書店による少年少女技術・工作文庫の刊行のみが行われた期間を経て、昭和41年の岩崎書店の文庫刊行が終了した時点から休会状態となり、やがて自然消滅に至ったのではないかと考えられる。 岩崎書店とのかかわりについて、「曽我部証言」では「当時の手帳記録」から情報を追加提供してくれている。それによれば、岩崎書店との出版打ち合わせも、当該巻の内容について著者個人と会社の間で行われており、学会が組織的に出版社と深く関与しながら刊行したものではなかったようである。つまり、多くの学会会員がそれぞれに著述をするので、肩書・冠として「日本技術教育学会」の名を認めていたということだったのであろう。それゆえに、各著作物に「日本技術教育学会」についての紹介文が欠落しているのであろう。 以上は、筆者の推測に過ぎないが、当時出版社側で関わっていた方々は全て退職しており、年齢的に鬼籍に入られた方が多いと推測され、生存者についても「個人情報の保護等に関する法律」による個人情報保護により、追跡調査はもはや困難である。

9 学会活動の停滞と自然消滅の要因

 本節では、学会活動の停滞と自然消滅の要因について「科学技術振興推進のための生産技術的『技術科』教育観」の立場から検討し、整理を試みた。①  野津を中心とする「工作教育的『技術科』教育観」のグループの人々と、「それ以外の技術科教

育観」の人々の乖離。特に野津の『技術科』教育観については様々な人々が、その特異性について指摘しており、看過できない要因である。そして、野津及び野津とかかわりの深い人々の高齢化、退職などが活動の停滞を引き起こしていたと考えられる。川城証言からも明らかである。

②  全日本中学校技術・家庭科研究会やその下部組織である県単位の技術・家庭科研究会等、各種の全国組織の確立、各種研究会の乱立による会員への求心力の低下。

③  北海道の事例や川城証言の部分で指摘したように、団体名に対する、一般教員層からの誤解と敬遠。つまり、教科研究会には入りたいが、それは学会である必要はないし、理屈より実践についての研鑽がしたいという教員には魅力的ではなかった。国立大学附属学校教員が多数会員として加入している事も、そうした誤解に拍車をかけたことも予想される。

④  学会と銘打ちながら、研究的活動よりも実技研修に力点が置かれており、細谷以外の学者が参加した形跡が見られず、会長の細谷自身が学会とは見做してはいなかったと考えられることから、早晩学会としては行き詰まらざるを得なかったと考えられる。

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⑤  1週間連続の実技研修会を催すなど、当時としてはニーズに対応しようという意図は感じられるものの、昭和30年代前半から活発化した民間教育団体や民協連の結成という劇的な動向の中では埋没せざるを得ず、むしろ毎月のように機関紙が発刊される民間教育団体、例えば産業教育研究連盟や技術教育研究会といった組織に参加する方が実益も大きいし効果的でもあると考えられた可能性が大きい。前掲の両団体とも、技術教育専門の学者が多数参加しており、単なる実践だけではなく、研究的活動の支援もしてもらえるというメリットがあるからである。

⑥  上述のように、身近なところに多数の教育研究組織や団体が結成されることで、一般の教員の側が取捨選択しつつ選択することになるが、当時は日本教職員組合の教科研究会への参加と、全日本中学校技術・家庭科研究会の下部組織になる市町村での教科サークルに加入するだけで十分であり、積極的な実践家であっても、せいぜい1つの民間教育団体に加入すれば十分だと考えたはずである。加入費や年会費なども合わせれば相当な金額になるからである。そうした中で、「日本技術教育学会」は参加するだけの魅力に乏しくなっていたということである。

⑦  昭和30年代初頭頃からは市販の教育雑誌が多数刊行されるようになり、何らかの団体に加入しなければ研修できないということではなくなってきていた。年1~2回しか紀要が発刊されない「日本技術教育学会」は、その意味でも魅力を喪失していったということなのであろう。

10 日本技術教育学会は何を残したのか

 日本技術教育学会(ATEJ)には、全国の教育行政機関の職員、附属学校教員や高校教員を中心とした人々が参加していた。学会とは呼べない内実の組織であったものの、昭和30年代に教育現場の教員が主導して学者を巻き込みながら「学会」を構築しようとした事例は多くはないと思われる。寡聞にして筆者は他の事例を知らない。その意味で、この学会で目指そうとしたものは貴重であり、現実的には果たせなかったが、今日の教職大学院が目指そうとしているものと大差がないように思われる。 この学会が構築しようとした人的ネットワークは、ほぼ全日本中学校技術・家庭科教育研究会組織と重複するものであった。学会設立の時期は全日本中学校技術・家庭科研究会の設立よりも先であり、各地の技術科教育の実践リーダーが参加していたことと合わせて考えると、この学会活動が全日本中学校技術・家庭科教育研究会活動への1つの橋渡しとして機能したとも考えられ、文部省が後押しをする全日本中学校技術・家庭科教育研究会(全国組織)の活動が本格化する中で、徐々にその存在意義(全国組織としての意義)を消失していったものと考えられる。

11 残された課題

 本稿で繰り返し述べた、野津佐吉らの技術教育観とは具体的にどのようなものだったのか、どうしてそのような教育観を前面に据えた活動を展開しようとしたのか、その背景として考えられることは何か等々、検討するべきことが残されている。また、日本技術教育学会に参集した人々の属性とはどのようなものであったか、名簿の再現と分析も研究資料としては不可欠である。今回、紙数の関係で割愛した「日本技術教育学会(ATEJ)紀要」からの詳細な内容の再現や画像データの提示は、1次資料としての稀少性と考え合わせると欠落させることはできない。

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12 おわりに

 本稿では、学会活動の停滞と自然消滅の要因について「科学技術振興推進のための生産技術的『技術科』教育観」の立場から検討し整理を試みたが、それだけでは「学会活動の停滞と自然消滅の要 因」の説明としては不十分である。「残された課題」として前述したが、「工作教育的『技術科』教育観」からの検討と整理は不可欠である。次稿においてその報告を行い、総括したい。

謝 辞 本研究では、数多くの方々からのご協力・情報提供や示唆、ご教示を得ることができた。お名前(50音順)を記し、この場をお借りして厚くお礼申し上げたい。小澤良紀氏、川城一郎氏、児島邦宏氏、曽我部泰三郎氏、清水龍慶氏、館田光弘氏、辻次雄氏、林俊郎氏、羽山達男氏、藤木勝氏、本多満正氏、松本謙太郎氏、宮本貞雄氏、鷲下清氏。

参考文献1 .阿部二郎、日本技術教育学会(ATEJ)の設立消滅、技術科教育の研究 講演論文集第10巻、日本産業技術教育

学会技術教育分科会、平成16年(2004)12月。2.技術科教育実践講座刊行会、技術科教育実践講座資料編・総目次15、ニチブン、1990。3.中里真之編集、会員名簿、東京学芸大学技術・工学同窓会、1985。 4.細谷俊夫編著、新教育課程双書・中学校篇9中学校技術・家庭科の新教育課程、国土社、1958。5.40周年記念誌特別委員会、軌跡-40周年記念誌-、北海道技術・家庭科教育研究会、1988。