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186 【論 説】 「新しい公共」における行政の役割 NPM から支援行政へ 千葉大学公共研究センターフェロー   宮﨑 文彦 .「新しい公共」の問題性: 「協働による公共性の実現」に潜む陥穽 1-1 市民と行政の協働による「新しい公共」 近年の「公共哲学」という学問動向は、これまで国家がその担い手として独 占的であった「公共性」というものを問い直し、市民や中間団体の役割を重視 するという観点から議論を進めることで、新しい公共性のあり方を検討してき た。そもそも人間は社会的存在であり、コミュニティ・社会に生きる存在とし て初めてその能力を発揮するものであるならば、人間一人ひとりが公共性の担 い手であり、何が公共性であるのかを考え、その実現に貢献することが「本来 的な」公共性ということができる 1 。その意味では公共性を国家のみに「委ねて」 きてしまったことは、行政国家の弊害としてむしろ積極的に改善されていかね ばならず、国家に限らない様々なアクター・セクター、そして究極的には個々 人が公共性の実現へ寄与していくことが望ましいあり方であろう。それこそが、 これまでの国家のみがその担い手である「国家的公共性」とは異なる、「新し い公共性」ということになるはずである。 もちろん公共哲学という理論面のみならず、現実面においても、特に NGO NPO などの中間団体が公共性に関して寄与「できる」ことが大幅に増え、 その存在意義を増していることは、たびたび指摘されているとおりである。と 1 片岡(20026 頁。

「新しい公共」における行政の役割 - Chiba Uopac.ll.chiba-u.jp/da/curator/900047748/atarasimiyazaki1.pdf1-1 市民と行政の協働による「新しい公共」 近年の「公共哲学」という学問動向は、これまで国家がその担い手として独

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【論 説】

「新しい公共」における行政の役割―NPMから支援行政へ

千葉大学公共研究センターフェロー  宮﨑 文彦

1.「新しい公共」の問題性: 「協働による公共性の実現」に潜む陥穽

1-1 市民と行政の協働による「新しい公共」

 近年の「公共哲学」という学問動向は、これまで国家がその担い手として独

占的であった「公共性」というものを問い直し、市民や中間団体の役割を重視

するという観点から議論を進めることで、新しい公共性のあり方を検討してき

た。そもそも人間は社会的存在であり、コミュニティ・社会に生きる存在とし

て初めてその能力を発揮するものであるならば、人間一人ひとりが公共性の担

い手であり、何が公共性であるのかを考え、その実現に貢献することが「本来

的な」公共性ということができる1。その意味では公共性を国家のみに「委ねて」

きてしまったことは、行政国家の弊害としてむしろ積極的に改善されていかね

ばならず、国家に限らない様々なアクター・セクター、そして究極的には個々

人が公共性の実現へ寄与していくことが望ましいあり方であろう。それこそが、

これまでの国家のみがその担い手である「国家的公共性」とは異なる、「新し

い公共性」ということになるはずである。

 もちろん公共哲学という理論面のみならず、現実面においても、特に NGO

や NPOなどの中間団体が公共性に関して寄与「できる」ことが大幅に増え、

その存在意義を増していることは、たびたび指摘されているとおりである。と

1 片岡(2002)6頁。

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りわけ、1995年の阪神・淡路大震災において、行政以上に復興に寄与したこ

とから、極めて現実的な説得力をもちえたことも確かであろう。

 そのようななか、協働による公共性という新しい「公共性」の考え方が、行

政の現場にも浸透してきており、数多くの自治体が、市民や中間団体との協働

による「新しい公共(性)」を基本指針などで打ち出してきている。国家のみ

がその担い手ではないとして、市民や中間団体の意見を取り入れながら意思決

定を行ったり、委託やアウトソーシングと呼ばれる手法により様々な公共サー

ビスの提供に関わる、いわゆる「協働」は、公共哲学にとって歓迎されるべき

ものであると思われる。

 たとえば、横浜市の「協働推進の基本指針」(平成 16年 7月)では次のよ

うにして、新しい公共と市民との協働が謳われている2。

 ……「公共をつくっていく」ことに市民の皆さんが主体的にかかわること

で、参加する人や地域に暮らす人々の満足度を高めることにつながっていき

ます。そのため、市民の皆さんと行政が一緒になって発案し、行動していく

必要があります。

 地域に暮らし、活動する市民や公益的な団体、企業は、意欲と実行力に溢

れ公的サービスの担い手として大きな潜在力と可能性を持っています。そし

て、この力を活かし、様々な分野において、多様な主体が主体性・自主性を

尊重しあいながら協働していくことが大切です。

 また国レベルにおいても、分権や後述の NPMの影響のもとで、「新しい公

共」に関して、次のような報告書が出され、注目されている3。

2 横浜市「協働推進の基本指針」(平成 16年 7月公表)中田宏市長名義による「はじめに」よりの引用。3 「分権型社会における自治体経営の刷新戦略―新しい公共空間の形成を目指して―」(平成 17年 4月 15日 分権型社会に対応した地方行政組織運営の刷新に関する研究会(総務省))13頁。

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   従来の官民二元論では、「行政」から「民間」への一方通行的なものとなり、

「民間」の「行政」への依存、自らの負担を顧みない過剰な公共サービスの要求、

それに対する画一的な公共サービスの提供といった状況がもたらされる。こ

れを「行政」も「民間」もともに「公共」の役割を担えるよう「公共」の概

念を刷新し、新しい「公共」を多元的な主体の参加・活動により形成するこ

とにより、「行政」と「民間」とのやりとりは双方向となり、「行政」の透明

性、説明責任も確保されることが期待される。また、「民間」が新しい「公共」

を自ら担うことにより責任と誇りを持つことにもつながる。これらが共有さ

れることによって「公共」はさらに強くなる。地域における様々な主体がそ

れぞれの立場で新しい「公共」を担うことにより、地域にふさわしい多様な

公共サービスが適切な受益と負担のもとに提供されるという公共空間(=「新

しい公共空間」)を形成することができる。

 公共性は、国家のみが独占すべきでなく、多様な主体が関わることによって、

その協働によって実現されるものであることは、まさに公共哲学の主張してき

たところであり、公共性の担い手として、市民や企業、NGOや NPOなどの

中間団体への期待がよせられていることは望ましいことであろう。

 しかしながら、このような現実の傾向を、これまでの国家的公共性とは異な

る「新しい公共」ないしは「協働による公共性」の実現へと向けてのものとし

て歓迎することは本当にできるのであろうか。そこに何らかの陥穽があるので

はないだろうか。

 次章において詳説することとなるが、昨今の「新しい公共」の流れには、こ

れまでの「小さな政府」や「NPM」による行政減量がその背景として存在し

ている。国も自治体も財政難、人材難に悩まされる中で、それまでの公共サー

ビスの質を維持することは極めて困難な状況になっていることは、改めて指摘

するまでもない。そのような状況で、より安価に簡便に公共サービスの提供を

可能にするために、「新しい公共」や「協働による公共性」というものが利用

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されている面があるのではないだろうか。

 「官から民へ」のフレーズで進められてきた近年の新自由主義的改革による

民営化の動きは、様々な形で公共サービスの崩壊を招いているという。アメ

リカ合衆国におけるカリフォルニアの電力危機なども記憶に新しいが4、『公共

サービスが崩れていく―民営化の果てに』を著した藤田和恵は、「崩壊する

公共サービス」として、病院、奨学金、学校、保育園などの現場で起きている

公務員改革のひずみを伝えており、「医療や福祉、教育といった採算が取れない、

非効率にならざるを得ない分野が真っ先に『官』から『民』への対象とされて

いる」実態を伝えている5。

 ここで注意すべきは、ではかつてのように、あらゆる公共サービスの提供に

国家行政が責任を持たなければならないのであろうか、という点にある。先の

藤田も「高すぎる人件費や、コスト意識にかけた効率の悪さ、浮世離れした特

権意識は見直す必要があるだろう」として、「民営化や民間委託が絶対悪だと

も思わない」6としたうえで先述の問題点の指摘がなされているように、公共

部門による公共サービスの提供に関しては、改革が求められていることは確か

であろう。

 それでは、国家に限らず多様な主体がその実現に寄与するという「新しい公

共」の意義は保持しながら、そこでどのような形で行政が関与すれば、現実に「新

しい公共」は実現されるのか。国家はすでに公共サービスの主体としては不適

格であり、市場や市民、中間団体などの自治に任せるべきであるのか、それを

明らかにすることが本稿の課題である。

1-2 「公」と「私」と「公共」:セクター(部門)と性質(問題領域)

 ここで、「新しい公共」の問題性がなぜに生じる危険性があるのかを考えて4 民営化による公共サービスの質の問題に関する報告は、中島(2002)に詳しい。とくに 74頁~ 75頁。5 藤田(2008)。引用は 46頁。6 同上 45頁。

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みたい。すると、そこには「公」と「私」という概念をめぐる混同があるので

はないかと思われる。その混同とは、セクター・アクターと性質の混同である。

 すなわち「公」と「私」という場合、一方では「公的部門」「私的部門」と

いう区別があり、その対比はそのまま「官」と「民」という対比で捉えられる

ことが多い7。さらに近年では、第三のセクターとして、NPOや NGOを含む

ボランタリー・アソシエーション)が登場し活躍をしているが、このようなセ

クター(部門)の区別は比較的明確なものである。

 一方で、問題の性質ないしは領域の問題としての区別があり、「公的(問題)

(領域)」「私的(問題)(領域)」という区別がある。従来の公私二元論で言えば、

公的問題領域を公的部門が扱い、私的問題領域を私的部門が扱うという、いわ

ば「分業」が存在しており、両者の違いは認識されることはほとんどなかった。

 ところが、近年、現実の政治・行政において、公的問題を私的部門が扱う「民

営化」や、先の第三セクターなどが請け負うアウトソーシングといった動きが

強まってきた。このようにして公的問題領域と私的領域、公的部門と私的部門

の区別は一対一の対応ではなくなり、理論的にも、もはや公私の区分は「時代

遅れ」とみるガバナンス論、NPM理論の見方が台頭し8、従来の公私区分を揺

らがせている。

 この問題を整理するため、セクター(部門)と性質をそれぞれ横軸、縦軸に

とりマトリックスを作成したのが、図表1-1である。7 ただしより厳密に言うならば、「公的部門=官」ではない。なぜならば、公的部門という場合は、わが国における中央省庁のみならず地方自治体なども含み、他の国においても一般的に通用する語法であるが、官という場合、地方自治体は含まれず、中央政府のみをさす。この歴史的経緯については、井出(1982)が詳しい。井出によれば、明治期の地歩制度確立の経緯において、中央の政府は「公府」ではなく「官府」とよばれ、「公」は低次の「政府レベル」と目される地方自治体においてその主要な存在の場を与えられる形になったというのである(53頁)。またさらに公と公共という問題に関しては「現在においても『官公庁』とか『官公吏』といった表現が生き残っており、「公共」ということばは、地方公共団体のように「依然として『地方』に結びつけられていて、『中央』や『国』の場合には『公共』をつけることは、ほとんどみられない」という状態を生じせしめているという(59頁)。8 Peters and Pierre(1998)p. 229

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 もともとは①や④の形で公と私の分業が成立してきたわけであるが、③のよ

うなかたちでの問題も生じる。この象限に入るものとして最も典型的なものは、

全く私的な、個人的な利害関心で動くことから生じる政治腐敗であろう。特に

公共事業にまつわる問題(誘致・陳情合戦や談合など)はその好例であろう。

本来全体の奉仕者であるべき公務員が、一部の利益のために働く、あるいは国

益全体を考えるべき国会議員が、自らの選挙のためにしか働かないなど、一連

の政治腐敗はこの象限に該当する。

 また国家と社会の自同化という意味での行政国家もここに入る。行政国家は、

本来市民社会による自律的な解決が望ましい領域にも関わり、立法措置などを

とる問題である。これは市民の側もあらゆる問題に関して、その解決を行政に

委ねようとすることから生まれるものでもある。公共哲学が問題としてきた国

家的公共性が生じた理由として、この行政国家がその一因であろう。国家が公

共性の担い手として、自ら自発的にその権力でもって独占をしてきたのでは必

ずしもなく、市民社会の側も国家に問題解決を委ねてきたという背景がある9。

 それが②にあるような近年の「新しい公共」へと、矢印のようにシフトして

くことは望ましいことであろう。②では、民営化や NGO/NPOによる諸活動、

また近年、企業の公共性と関連の深い企業の社会的責任が問題となっているが、

このような CSRもここに分類されることとなるであろう。

9 この行政国家の問題性に関しての詳説は、拙稿(2005)を参照。

図表1-1

性質 セクター 公的セクター(官) 私的セクター(民)

公的(問題) (領域) ①政治・行政活動② 民営化、「新しい公共」

NPO/NGOの活動企業の社会的責任(CSR)

私的(問題) (領域) ③政治腐敗・行政国家 ④市民社会の自律的活動

出典:筆者作成

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 さて問題は、「新しい公共」は②ですべてのなのか、という問題である。本

来の協働は、国家をはじめとする公的セクターと私的セクターの「協働」であ

り、公的セクターが従事すべき政治行政の領域も公共性が保持されているはず

である。③→②へのシフトは歓迎されるべきであるが、①→②というシフトも

同時に行われてしまうと、先述のように必要な公共サービスが(量的な面でも

質的な面でも)提供されなくなってしまう危険が生じてくるのである。

 すなわち、図表1-1のような公私二元論のマトリクスでは、公共性の多元

的な側面を捉えることができず、結局のところ、民営化も民間委託も新しい公

共も、すべて「官から民へ」という新自由主義的な文脈でしか捉えることがで

きず、協働の可能性は見えてこない。

 そもそも何が公的問題であり、何が私的問題か、そしてそれを誰がどのよう

に取り組むべきかという問題は曖昧なものであり、むしろ状況に応じてその境

界領域は変動し、その都度議論されるべきものである。そして、その一連の流

れこそが、本来の「政治」というべきものであろう10。すなわち、どのセクター、

レベルにおいて解決されるべきかを議論・検討する必要があるのである。

   私たちの生活は、その人自身の意思で決定し自分の責任で行動が完結でき

る私的領域もあるが、もう一方では、その人自身ではどうにもならず、他人

の意思に多くを依存し他人との共同負担でその多数者の決定に従わなければ

行動の成り立たない領域がある。後者を公共領域と呼ぶことができる11。

10 杉田(2005)などを参照。そもそもポリスに関わることが政治の語源であるとすれば、古代ギリシャより政治は公的問題の確定と関わっていたといえる。「政治の中心にあるのは、公的な意志と公的な目的の形成、公益の決定、保守さるべきものと改革さるべきもの、公的であるべきものと私的であるべきもの、そしてそれによって社会が管理運営されるルールである」A・ギャンブル(内山秀夫訳)『政治が終わるとき?―グローバル化と国民国家の運命』(新曜社、2002年)日本語版へのまえがきⅱ頁。11 佐々木(2006)32頁。

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 個人もしくは特定できる程度の人数(近隣)などで「私的」に解決すること

は困難であるものが「公共的」な問題であり、政治が解決すべき問題である。

もっともそれを解決するのが、果たして国なのか地方なのか、あるいは国際社

会、国際的な機関であるのかはまた別の問題である。かつてのような分業が存

在していた時代であれば問題ないが、価値多元的な現代では、何が公共的問題

として取り上げられるべきであるかを確定することも容易ではなく、ましてそ

の公共的問題を誰がどうやって解決していけばいいのかは一概には答えを出す

ことができない。

 そこで、図表1-2のように公と私と公共をそれぞれ縦横軸にとり、また性質、

問題領域に関しては点線で表現することにより、協働というものを公的問題と

私的問題の間に位置し、特定のセクターによって解決されるべきものではなく、

むしろあらゆるセクターが関わることによって解決されるべきものであるとい

うことが表現されるべきであると思われる。

 もっとも、このような図表のように多様な主体が協働して公共的問題を解決

していくべきであるということはたやすい。むしろ問題は、いかにしてそのよ

うな協働を生み出していくのか、多様な主体によって生み出される新しい公共、

その過程に着目する必要があるのである。

 本稿では、そのような協働、新しい公共において、行政、政府がいかなる役

図表1-2

セクター(部門)

性質公的セクター(官)

公共的セクター(NPO等)

私的セクター(民)

公的領域 ①政治・行政活動 ②委託 ③民営化

公共的領域 ④協働

私的領域⑤政治腐敗・行政国家

⑥ NPO/NGO活動⑦市民社会の自律

的活動

出典:筆者作成

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割を果たす必要があるのかを考察していくことが課題である。以下、まずは

新しい公共が行政において進められている背景にある NPM理論について検討

を行い、NPM理論から新自由主義的な経済効率性だけを重視するのではない、

公共(性)のマネジメントという「公共(性)」志向を導き出し、条件整備と

いう行政の役割に着目する。続いて、補完性原理における介入肯定の原理を参

照しながら、「介入」を自立/自律のための「支援」として捉え、支援行政の

理論の展開へと結び付けていく。

 また、支援行政 enabling administration, Ermöglichungverwaltung12の理

論に際しては、これまで使われてきた「福祉国家」から「支援国家」へという

論述を参考にして、ガバナンスや新しい公共といわれる時代における協働にお

いて、行政は個々人の自由の保障、自立/自律のための支援を行う必要があり、

それによって個々人は公共性を形成する主体として寄与することができるよう

になるという「個を起点とした公共性の実現」への方途を探る。

2.「新しい公共」の議論の背景としての NPM

2-1 NPMとは?

 ところで、このような「新しい公共」なるものが言われるようになった背景

には、冒頭にも述べたように、一方で公共哲学などの理論的な後ろ盾、また現

実においても NPOや NGOなどの活躍という背景があり、積極的に評価され

てきた。行政の側にとっても人的・財政的資源が乏しくなる中で、その資源を

自らの組織の外に求めることができる協働は、大いに歓迎されるものであろう。

 また一方で、その背景にはもうひとつ NPM(New Public Management)

と呼ばれる行政改革が存在している。NPMは、1980年代における英・米・

日の各国において進められた「小さな政府」の延長線上にあるものであり、と12 この言葉の意味については、「4.『福祉国家』から『支援国家』へ」にて詳説する。執筆者の意図としては enablingもしくはドイツ語の ermöglich(ともに「可能にする」といった意味)を採用したいがその訳語として「支援」をあてている。この訳語についてもは、注 43を参照。

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りわけイギリスを中心に先進各国において進められてきた行政改革に共通する

特徴であるとされている。

 そもそも NPM(New Public Management)なる言葉は、イギリスの行政

学者クリストファー・フッドによって提唱されたものであり13、1980年代以降、

先進各国で進められている行政改革の諸特徴の傾向を指摘したものである。稲

継(2003)では、そのフッドによる諸特徴をまとめた教義 7点が以下のよう

にまとめられている14。

 ①専門家による行政組織の実践的な経営

 ②業績の明示的な基準と指標

 ③結果(output)統制をより一層重視

 ④公共部門におけるユニット(組織単位)分解への転換

 ⑤公共部門における競争を強化する方向への転換

 ⑥民間部門の経営実践スタイルの強調

 ⑦公共部門資源の利用に際しての規律・倹約の一層の強調

 「ビジネス・メソッド(の特定の概念)に近い経営・報告・会計のアプロー

チをもたらす公共部門の再組織化の手法」とまとめることもできるであろう15。

 また、我が国における NPMの代表的な論者である大住莊四郎による定義と

しては、以下のようなものが挙げられている16。

 ①専門的なマネジメントシステムの確立

 ②業績についての明確な基準と測定

 ③アウトプット(産出)のコントロールをより重視

 ④政策の企画・立案部門と執行部門の分離

13 Hood (1989)。このなかでフッドは、今日における行政の大きな潮流として「民営化」とともに「New Public Managementの台頭」を挙げている(p. 346)。14 同上、122頁。15 Dunleavy and Hood(1994) p. 916 大住(2002)28頁。

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 ⑤市場メカニズムの活用

 ⑥民間企業のマネジメント慣行の強調

 ⑦経営資源の効率的な使用

 その言葉の意味からしても、public(公的部門)のmanagement(経営)

ということで、「公的部門への経営的手法の導入」が NPMの特徴としてまと

めることができるであろうし、それが NPMにおける効率性 efficiency志向を

生み出しているとも指摘することができるであろう。

 このような NPMの効率性志向は、しかしながら、公的部門内部の改革だけ

を目指すものではない。実際の改革、特にイギリスにおいては新自由主義的な

「小さな政府 cheap government」の延長線上で議論されていることから、フッ

ドの定義の⑤や大住の定義の⑤にあるように、市場競争に公的部門がさらされ

るようになり、市場化テストと呼ばれる私的部門(民間)との競争により、公

的部門よりも私的部門(民間)や NGO/NPOなどによって公共サービスが

提供される方がより効率的であるであると判断されれば、その提供主体へと移

されていくこととなった。

 その結果として生まれたのが、いわゆる大住の定義④にある企画立案と執行

の分離による「エージェンシー化」であり、効率性を重視した組織運営が行わ

れ、それまでの公的部門による公共サービスの提供の図式が崩れていった。

 民営化もその一つであり、それまでは公的部門によってほぼ独占的に提供さ

れてきた公共サービスが、より多元的な主体によって提供されることになる。

「新しい公共」は、このような効率性を志向する NPMの潮流からも説明する

ことができるであろう。

 わが国においても、特に橋本内閣の下で行われた中央省庁改革を端緒に、

1980年代の中曽根内閣の下で進められた小さな政府の志向性もあいまって、

NPM的な改革が取り入れられ、民営化やエージェンシーの日本版であるとい

われる独立行政法人化などが行われてきた。

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 しかし、このような NPMと新しい公共の関係とその問題性も指摘されてい

る。二宮(2005)は、総務省の「地方公共団体における行政改革の推進のた

めの新たな指針の策定について」と先に引用をした「分権型社会における自治

体経営の刷新戦略」から、新自由主義と NPMが合体した場合の自治体像につ

いて検討するなかで、次のような分析をしている。すなわち、これらの報告書

では、新しい公共を「行政の守備範囲の縮小」と言われることを嫌い、民間に

委ねられた公共サービスのことを「公共的サービス」(強調は引用者)と呼ん

で、結局のところは本来の「公共サービス」が企画立案等の戦略機能に絞りこ

まれ、「公共的サービス」が企業や NPOの実働部隊に委ねられるという、ま

さに NPMの主張である「企画・立案と執行・実施の分離」を進めるものになっ

ているという17。

 特に、先述のように現実の改革が「小さな政府」を志向する新自由主義的改

革の延長線上で行われたことから、両者が同一の思想、イデオロギーをもつも

のとして理解されることも少なくない。確かに経営の手法を取り入れ、効率性

を重視することから、先のフッドの定義にある「競争」や、大住の定義にもあ

る「市場マネジメント」などから理解されることも多く、公共性の確保という

面から NPMは批判されることも多い。

 また一方で、そもそも NPMなるものは各国において進められた行政改革の

諸傾向をまとめたものに過ぎず、したがって、「NPM理論」などが存在する

わけではないとの見解もある。稲継(2003)によれば、NPMが「理論」とし

て扱われることは、極めてまれであり、むしろ「諸外国では NPMは実践的な

改革の動きであって、それを支える理論的な流れが新制度派経済学や新経営学

といったものであると考えられている。NPM自体が理論であるなどという広

まり方は、日本独特のものであり、一部の論者によるミスリードであるとの見

方もあり得る」という18。

17 二宮(2005)53~55頁。

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「新しい公共」における行政の役割

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 しかしながら、NPMは改革の指針としての意義をもつようになっており、

理論とは言い難いが、一種の政治的イデオロギーとして機能し、各国における

改革の方便として使われている部分がある。NPMに関係する 20年にわたる

主要論文のコレクションを編集したオズボーンらによれば、規範的な超越に関

するものでなければ、NPMを古いスタイルの行政を越えた公共サービスのマ

ネジメントモデルに関するものか、学術研究・理論の新しいパラダイムとして

の地位に関するものが、NPMに関して書かれてきた主要論文の大半であると

指摘している19。

 NPMは、新自由主義的なイデオロギーとして理解され、公共サービスを市

場競争原理にさらし、経営効率的な観点からのみその提供を考えるものとして

考えられることも少なくない。特に批判をされる場合にはそのような場合が多

いが、果たしてそのように、「小さな政府」を志向する新自由主義イデオロギー

として理解することが適切であるのか。また、そのような NPMから導き出さ

れた「新しい公共」もやはり、批判されるべきものであるのか。次節において

は、NPMの意義とその限界を検討していきたい。

2-2 NPMの経営志向性

 まずは、NPMにおける「経営management志向」の問題について検討し

てみたい。はたして経済効率性を考えるだけが NPMの主眼目なのであろうか。

その効率性の問題に関して、ジュンは次のように指摘している20。

 効率性と生産性の経営は幅広く妥当なものであると認められている。な

ぜならば、理性的な人であるならば、公共サービスの向上が改善されるこ

とに誰も反対はしないからである。しかしながら、公的機関の応答責任

18 稲継(2003)132頁。19 Osborne and McLaughlin(2002) p. 520 Jun(2002)p. xxi

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responsibilityはどれほど内部的な管理ができたかを超えるものである。そ

して、内部的な諸変化はまた外部の影響力を受けるものでもあるからこそ、

公的機関は市民に対して受動的ではありえないのであり、また市民をサービ

スに対する顧客としてみなすのである。市民を代弁者 advocateとしてみな

すほうがより適切であろう。

 すなわち、managementの意味するところは、組織内部における効率性の

追求では必ずしもなく、その行政サービスの受益者たる市民を考慮にいれる必

要があるのであり、行政サービスの効率性は、どれほど効果的であったかを考

慮に入れなければ意味がないであろう。

 さらには、行政サービスの提供には単に顧客たる市民の満足度の向上のみな

らず、公共善・共通善への寄与という側面が看過されてはならない。なぜなら

ば、顧客の支払う税金の対価として行政サービスが提供されるわけではないか

らである。もし対価としてのサービスであれば、あらゆるサービスは民間(私

的セクター)によって提供されるものとなり、国家行政(公的セクター)の存

在意義はなくなる。

 国家が自ら有する権力でもって徴税を行い、公共政策として国民に対して

サービスを提供するのは、税金の対価としてではなく、公共性ないしは公共善

の実現のために行われているものである。そのような対価を超えた超越的目的

がなければ、国家による権力は正当性を有しないであろう。その意味において、

managementの意味するところは、managementによる公共性・公共善の実

現にあるといえるのである21。

 また一方で、NPM改革が行われた背景を鑑みたとき、そこには単なる「小

21 ドイツにおける行政改革の方向性をアングロサクソン諸国における NPMと対比させ、「公共善・共通善のためのマネジメントmanagement for public and common good」を指摘したものとして、Rainer Pitschas’ New Public Management as a Loss of Values’ in Koichiro Agata ed., Beyond New Public Management, Routledge, forthcoming)

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「新しい公共」における行政の役割

200

さな政府 cheap government」(=国家行政活動の量的削減)とは異なるモメ

ントを見出すこともできるのではないだろうか。

 NPM導入の背景には、石油危機や低成長時代、福祉国家の限界などによ

る財政危機、低成長時代の到来(定常化社会22)、また一方で国家の影響力の

低下(ガバナンス、国家の空洞化(Richard Rhodes)、国家の撤退(Susan

Strange)といった事態が存在する。

 NPMは、1980年代に日・米・英などで進められた「小さな政府」の延長

線上にあるものとして考えられるが、福祉国家の変容を見たとき、そこには必

ずしも小さな政府とは異なるモメントを見ることができる。また、特にイギリ

ス労働党ブレア政権の改革に顕著に見られるように、小さな政府の指向性を持

ちつつも、それとは異なる方向性を見出そうとする NPM改革に関しても、こ

の福祉国家の変容から説明が可能ではないかと思われる。

 石田(2004)によれば、福祉国家の変容(国家セクターの後退)には、「量

的限界」と「質的限界」の二つの面からの認識があり、それぞれの認識によっ

て、導かれる改革の方向性が異なるという23。

 まず、国家財政の「量的限界」の認識からすると、国家の責任の縮小と市場

メカニズムの導入による資源の効率的利用、消費者主権の実現を目指す=「市

場指向型」の福祉社会の構想が導かれるという。

 一方で、国家サービスの「質的限界」の認識からは、サービス利用者や一般

市民の参加と権利の拡充を通じて、国家サービスが陥りがちな硬直性、画一性、

非即応性を克服することに改革の重きが置かれる、「参加指向型」の福祉社会

の構想が導かれるという。

 この「量的限界」と「質的限界」の認識を福祉に限定しない国家の在り方そ

のものに当てはめてみると、小さな政府の指向性は、明らかに国家財政の「量22 「定常化社会」という言葉については、広井(2001)を参照。経済成長に依存する福祉国家の隘路を超えて、福祉と環境の統合を目指す持続可能な福祉社会を構想している。23 石田(2004)92頁。

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的限界」の認識に基づくものであることは明らかであろう。国家財政の量的限

界の認識は、そのまま行政サービスの量的削減の志向に向かい、市場指向型、

民営化に重点が置かれるようになる。

 では国家サービスの「質的限界」の認識からするとどうなるであろうか。む

しろその場合、行政サービスを量的に減らす(減量経営)ことよりも、その質

的改善を目指すこととなる。公的セクターに経営的な手法を導入しようとする

ことは、一面において、そのような行政サービスの質的改善を目指そうとする

志向性をもつと解釈することができ、その意味において「小さな政府」と「NPM」

は区別されるべきである。

 しかしながら、そのような経営志向の NPMは、質的改善という面からみれ

ば、あくまで一面的なものであり、効果的な行政サービスの提供という質的改

善を目指するのであれば、参加志向型、市民参加、参画、協働も活用すること

が、当然の選択肢として、視野に入ってこざるを得ないはずである。

 すなわち NPMの経営志向性は、あくまで手段の一つであって目的ではない。

そこで私たちは、NPMをより改善して、国家財政の「量的限界」と国家サー

ビスの「質的限界」の両方を視野に入れた改革の方向性として、経営志向に限

られない、公共志向の NPMを考えてみたいと思う。前述のとおり、NPMと

は先進各国において行われている行政改革の諸傾向を説明するための概念にす

ぎない。しかしながら、既存の言説からも、公共志向の NPM、支援行政のあ

り方を再解釈、抽出していくことは不可能なことではない。

 たとえば、NPMの理論的な背景としても取り上げられることの多いオズ

ボーン=ゲーブラー『行政革命 Reinventing Government』(Osborne and

Gaebler(1992))における「企業家型行政 entrepreneurial government 」の

ための 10か条の内容を確認してみたい。

 ①触媒としての行政 Catalytic Government:船を漕ぐより舵取りを

 ②コミュニティが所有する行政:サービスよりもエンパワーメント

 ③競争する行政:競争が活性化を促進する

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 ④使命重視の行政:規則重視の組織から転換する

 ⑤成果重視の行政:成果志向の予算システム

 ⑥顧客重視の行政:官僚ではなく顧客のニーズを満たす

 ⑦企業化する行政:支出するより稼ぎなさい

 ⑧ 先を見通す行政:治療 Cureよりも予防する Prevention

 ⑨分権化する行政:階層制から参画とチームワークへ

 ⑩市場志向の行政:市場をテコに変革する

 この 10か条のうち、明白にmanagement経営志向ということができるのは、

③・⑤・⑦・⑩のみで、あえていえば⑧をこれに加えることができるかどうか

という程度であろう。④・⑥・⑨などは、むしろ市民のための行政、公共性を

志向としたものと理解できるものである。

 そのように考えると、経営的な(私的セクター)手法を行政(公的セクター)

に取り入れようという志向性は、単に行政の役割を量的に削減しようとする

減量経営とは発想を異にするものであり、むしろ行政の質を改善しようとす

るものであることがうかがえる。そもそも NPMも、新自由主義の発想によ

る小さな政府論の延長線上には存在するが、公的セクター(Public)に経営的

(Management)手法を取り入れようとする新しい(New)行政のあり方を目

指すものであることを考えると、その中から公共(性)志向の NPMを抽出し

ていくこともできるはずである。

 まず、「①触媒としての行政」であるが、NPMの特徴としてたびたびこの「船

を漕ぐより舵取りを」というフレーズが、キャッチフレーズのように使われて

いるが、この、公共サービスの「直接的な」提供、運営からの撤退は、現実には、

「企画立案部門」と「事業実施部門」の分離という形で実現されているが、そ

もそもこの分離はイギリスにおける行政のあり方が、その多くが後者の事務実

施部門に従事していることから可能となったものでもあり、必ずしもこのよう

な形での分離だけが、触媒としての行政の意味するところではないだろう。よ

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り、この「触媒としての行政」の意義を活かすことができるような別の方途が

考えられてしかるべきであろう。

 すなわちそれは、サービスの「間接的な」提供の体制の構築「ガバメント(船

を漕ぐ)」→「ガバナンス(舵取り)」である。その場合、いかにして舵を取る

のか=調整を行うのか、どのような方向へ舵を取るのか=公共性が問題となる。

行政は、直接のサービス提供主体でなくなることで、あらゆる責任を免れるわ

けではなく、触媒として働き舵取りをすることが求められている。もし行政全

体を民営化するような方策をとれば、「集団意思決定のメカニズムがなくなり、

市場ルールを設定する手段もなく、規則を強制的に課すことができなくなる」。

さらに「私たちは公正 equityや他者を愛する精神 altruismをことごとく失っ

てしまい、ホームレスのための住居または貧困者への医療など、利益を生み

出さないサービスのほとんどをなくしてしまう」ような事態に陥るのである24。

行政は、公共サービスをコントールし、調整や公共性の確保に積極的にかかわ

るべきであり、民営化は「一つの」方策ではあるが、「唯一の」方策ではない。

 続く「②コミュニティが所有する行政:サービスよりもエンパワーメント」が、

その間接的な関わりにおいて、何が重視されるべきかを説明しているものとし

て理解することができる。オズボーン=ゲーブラーは、エンパワーメントは「開

拓者時代にまでさかのぼるアメリカの伝統」であり、「アメリカは自助の組織

による国家である」とした上で、公的事業が組織される中で、その教訓が忘れ

去られ「官僚たちに私たちの公共サービスを統制させておいた」のである。そ

の結果として「私たち市民やコミュニティの自信や能力が徐々に失われていき、

『依存症』を惹き起こしてしまった」というのである25。自ら問題を解決する

ことができなくなる「自治」が失われてことで、教育や福祉の問題、また犯罪

の増加などの社会問題に対する有効な解決策を奏することができなくなってお

り、コミュニティが所有権を取り戻し、自治能力を高めることこそが重要であ

24 Osborne and Gaebler(1992)p. 45、高地訳(1995)55頁。25 Osborne and Gaebler(1992)p. 51、高地訳(1995)59-60頁。

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ると主張される。いくつかのケースを取り上げる中で、オズボーン=ゲーブラー

は、中央政府による「標準的な公共サービス」よりも、コミュニティの方がよ

り良い解決策を見つけ出し、柔軟性や独創性においても優れているのだと主張

している。

 しかしながら、では中央への依存をなくすために分権を進め、コミュニティ

に問題解決をすべて委ねることがいいことだと主張されるわけではない。

 確かに、コミュニティが自治能力を高めることは重要であるが、いきなり権

限を与えられたとしても、その権限を生かして問題解決に寄与できるかといえ

ば、それほど簡単に問題は解決しない。むしろ、それまで提供されていたサー

ビスが廃止されることで、それに代替することができないままより問題を拡大

してしまう危険性すら存在する。

 それまで中央集権的な行政が行われてきた社会であれば、なおのことであり、

分権・権限付与がなされたところで、それを遂行するだけのリソースを有して

いないかもしれない(いわゆる「受け皿」論)。「長い間、依存心を植えつけら

れてきた人に移行期の支援もなく、いきなり自分自身でやってみることを強い

る」のである26。

 最終的には自治がおこなわれることが望ましいことであったとしても、移

行期間における支援 transitional supportは欠かすことのできないものであり、

そこにこそ行政の役割が存在する。行政はたとえ直接的なサービスの供給主体

でなくなったとしても、「要望を確実に実現する責任がある」のである27。

 移行期における支援は、「条件整備」として考えることができるであろう。

すなわち、福祉国家・行政国家では、(市民)社会諸分野への介入+行政サー

ビスの直接的提供であったに対して、地域社会の自律性/自立性の支援のため

の条件整備を行うことが行政の役割となるのである。それまでのサービス提供26 Osborne and Gaebler(1992)p. 72、高地訳(1995)77頁。なお、翻訳ではtransitional supportが「時間的余裕」と訳されているが、単なる余裕ではなく、行政の積極的な役割としての「支援」と読むべきであるとの解釈から訳文を変更した。27 Osborne and Gaebler(1992)p. 73、高地訳(1995)78頁。

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を打ち切り、地域社会に問題解決を「丸投げ」するのではなく、地域社会が自

ら問題を解決することが「できるようにする」ため、積極的な支援を行い、条

件整備をすることが行政の責任として求められるべきなのである。

 もちろん、オズボーン=ゲーブラーや NPMの発想は、それまで公共性や公

平性を重視してきた行政、公的部門に企業経営、市場原理を持ち込むことによ

り、効率性ばかりを追求し公共性や公平性を掘り崩している側面も否定するこ

とはできないが、一方でそれまでの非効率的な、それは非効果的な行政を改善

しようとする方向性を持っているという点では、すべてをイデオロギー的に否

定するべきではなく、よりよい要素を救い出すことによって新たな行政理論を

形成することも可能である。

 以上見てきたように、経営managementというものは、必ずしも経済効率

性のみを追求するものではない。NPMには確かに公平性を重視する管理よ

りも、効率性を重視する経営であることから、その要素は含まれてはいるが、

本来それだけに留まらない公共志向の部分も含むものである。public公共の

management経営というものは「社会を管理しようとするものではなく、公

共的諸問題の解決を通じて経営していこうとするもの」と考えられるべきなの

である。その公共的問題解決のためには、国家だけがその任務に当たるのでは限

界があり、「公共部門、民間部門およびシビック部門の横断的協調・協力、連携・

連合によって多様性と複雑性および絶えざる変動のダイナミックによって彩ら

れる現代社会が抱える公共的諸問題を解決していこうとする」べきであり、そ

れこそが「新しい公共」を生み出す NPM、公共経営のあるべき姿であろう28。

 そこで、図表2に対比的に表現したように、本稿の目指す支援行政の理論は、

福祉国家と新自由主義に対する第三の道として「支援国家」ないしは「公共(性)

志向の NPM」としてまとめることができる。

28 以上、片岡(2006)2、30頁。なお片岡は、NPMと目指すべき公共経営とは区別して、後者を「共棲的個人主義」、「公共性の追求」、「政府、市場、ネットワークの共存」といった要素から説明している。(片岡(2004)10頁)

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「新しい公共」における行政の役割

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3. 補完性原理とガバナンス論:縦の補完性と横の補完性

3-1 補完性原理における「介入肯定」と「介入限定」の二重性

 「新しい公共」の理念は、国家のみが公共性の担い手ではないという意味で

大変評価されるべきものであるが、これまで見てきたように、1.アクター・

セクターの問題と性質・問題の混同という問題性、2.NPMとの関係における

「公共」の要素の軽視という問題性について、これまで論じてきたとおりであ

る。本章ではこれらに加えて第 3の問題性として補完性原理に関する問題を

取り上げていきたい。行政の現場において積極的に推進されている「新しい公

共」には、補完性の原理を理由に展開されていることも少なくないからである。

 たとえば、「豊島区自治の推進に関する基本条例」 では、「区長は自立した区

政の確立を図るとともに、区民自治の発展を支えるために区民自らが学習する

ための機会及び場所の提供等の支援に努めなければならない」(第 36条)と

あり、その説明として「補完性の原則」に基づき「身近な地域の課題は区民自

らが解決していこうという意識が高まっていること」を背景として挙げている。

ここでの補完性原理は、自己責任による解決という「公助」よりも「自助」を

という文脈で使われている。

 また早い段階で NPM改革を導入していた京都市では、2000(平成 12)年

図表2

価値観 政府のあり方 行政のあり方

福 祉 国 家 公平性 大きな政府直接的公共サービスの提供

(給付行政)

新自由主義 効率性 小さな政府行政サービスの削減(減量経営)

支 援 国 家 公共性 効果的な政府間接的公共サービスの提供

(支援行政)

出典:筆者作成

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11月 1日の桝本市長定例記者会見において、新たな市政改革の指針である「京

都新世紀市政改革大綱(案)」について説明をしており、そこで改革の理念が

2つ設定されている。その 1つ目が「補完性の原理」に基づく「市民と行政の

役割分担の改革」、2つ目が「NPM〈New Public Management〉理論」に基

づく「行政経営システム」への改革であり、ここでも補完性原理は「市民や民

間市場への移譲や民間委託」として説明されている29。

 このように新しい公共は、様々な主体が補完的に関与することによって形成

されるように語られる場合も少なくない。しかしながら、本来、補完性の原理

はそのようないわば「自助」をもとめ、参加と協働をもとめるものなのであろ

うか。すでに補完性原理に関しては、拙稿においてすでにその源流をさぐり、

意義を明らかにしているが30、本節ではその意義を新しい公共との関係におい

て、簡単に論じていきたい。

 この補完性の原理は、1931年ローマ教皇ピオ(ピウス)11世による社会回

勅における言及が、その代表的なものとして取り上げられることが多い。この

社会回勅では「個々の人間が自らの努力と創意によって成し遂げられることを

彼らから奪い取って共同体に委託することが許されないと同様に、より小さく、

より下位の諸共同体が実施、遂行できることを、より大きい、より高次の社会

に委譲するのは不正であると同時に、正しい社会秩序に対する重大損害かつ混

乱行為である」と言及され31、当時の全体主義が進行する世界的な情勢を背景

に、個人の尊厳を守るための「介入限定」の原理として展開された。わが国に

おいて補完性原理が参照される場合には、この社会回勅が取り上げられ、分権

の議論さらには上述の京都市の例のように、民営化の文脈で使われることもあ

る32。果たしてこのような理解が補完性原理の正当な解釈なのであろうか。

 そもそも、補完性原理はこの社会回勅において初めて言及されたというわ29 京都市情報館ホームページ http://www.city.kyoto.jp/koho/mayor/press/2000/1101.htmlより引用。30 拙稿(2007)を参照。31 引用は澤田(1992)37~38 頁より。

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けでは必ずしもなく、例えば、16世紀の政治理論家ヨハネス・アルトジウス

(Johannes Althusius、1557-1638)にも、多元的な連邦制に近い制度構想の

中で語られている33。このアルトジウスの理論を検討したヒューグリン(2003)

によれば、彼の補完性原理の理論には、①持続的討議(交渉する国家)と②政

策領域を分割しない、という 2つのインプリケーションが含まれている34。持

続的討議によって「市民たちは、中小共同体の自律が、他者との建設的な関係

を通じてのみ、実現可能であることを理解する」ということから、政治=公共

領域の確定のための議論と理解することができるであろう。また、②は、都市、

州、国家はそれぞれのレベルがどのような政策を担当するのか=公共的問題解

決に寄与するのかを、常に議論し検討していくための原理として説明をしてい

る。

 先の社会回勅からは、より下位のレベルに介入をすべきではないという意味

において「分権」の志向性が強いものとして理解されがちであるが、必ずしも

分権の指向性だけで補完性原理を論じているのではない。場合に応じてどちら

を採用すべきかを、継続的に問い直していく必要性をアルトジウスの議論から

引き出すことができるであろう。

 また、ヨーロッパ評議会編『補完性の原理の定義と限界』においても、「補

完性の原理は、中央と周縁の権限関係に関する常に必要な討論を活発化させる

性質をもっている」と言及され、「中央当局に対して、ある任務を国家自身の

手で行うよりも、もっと適切なレベルで行われるよう支援することを奨励する

ものである」とされている35。

 このような補完性原理の 2つの相矛盾するような側面は、内容をあいまい

32 大橋(2004)でも「官民の役割分担の見直しを前提とした法制度設計にあたっては、とりわけ補完性原則が重要である。つまり、民間でできるものは民間に委ね、行政活動の範囲を最小限にとどめるという視点である」とされている(49頁)。33 さらに遡ればアリストテレスなどにも、その源流を見出すことができる。拙稿(2007)62~63頁を参照。

34 ヒューグリン(2003)246頁。35 ヨーロッパ評議会編(2004)134 頁。

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にするものであり、その法原理ないしは政治的原理としての意義を批判される

ことも少なくなかった。我が国においても、『地方自治の保障のグランドデザ

イン』(全国知事会、平成 16年 2月)において否定的な評価がなされている36。

 しかしながら、むしろ補完性原理はもともと、「介入限定の原理」と「介入

肯定の原理」の両側面をもつものであることを、ラテン語の「subsidum」と

いうことばまで遡り明らかにしているのが、遠藤(2003)である。

 このラテン語には、もともと「予備」という意味があり、「なにか正規なも

のがあり、それが本来的には課題にあたるものの、正規のものが困難に陥っ

たときには、補助的なものが介入するというニュアンスがみてとれる」という。

その語源からしてもともと両義性を持ったものであり、一方で消極的な意味、

すなわち「より大きな集団は、より小さな集団(究極的には個人も含む)が自

ら目的を達成できるときには、介入してはならない」という「介入限定の原理」

を有するとともに、積極的な意味、すなわち「大きい集団は、小さな集団が自

ら目的を達成できないときには、介入しなければならない」という「介入肯定

の原理」をも含んでいるというのである37。

 補完性原理の「介入限定の原理」としての側面は、中央政府による過度の介

入を排して、地方分権を推進するため際に重要視されるものであろうし、現に

わが国おける議論はその色彩が強い38。また中央‐地方関係のみならず、公共

サービスを提供することができる、様々なアクターへの分権をも含むものであ

36 この報告書で「補完性原理」を扱った第 4章の結びでは、次のように指摘がなされている。 「この『補完性の原理』は、地方自治の保障の指導原理となりうるのか。まず、『補完性の原理』はヨーロッパ産(その中心は、ドイツであろうが)の考え方であり、それが文化的歴史的背景の異同を乗り越えて、普遍的な地方自治の指導原理となりうるのかという問題がある。また、政治的な指導原理となりうるとしても、その曖昧性ゆえに、法的な指導原理とすることができるかという問題がある。さらに、法的な指導原理とするとしても、やはりその曖昧性のゆえに、その具体的運用はどうするのかという問題が出てくる」(引用は『自治研究』に掲載された全国知事会(2004)154頁より)37 遠藤(2003)210頁。

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「新しい公共」における行政の役割

210

り、それが「新しい公共」として語られているものである。

 しかしその一方で、中央―地方関係では、権限や財源を伴わずに移転されて

しまう危険性も看過できず、財政や人員の側面で十分な規模を持った自治体と、

そうではない自治体で同じ業務を行なうとなると、そのサービスに大きな差異

が生じてしまう危険性がある。あるいは民営化や民間委託によって、経済効率

性ばかりが追求される結果として公共サービスが適切に提供されないことも考

えられるであろう。

 もちろん、逆に効率性を重視することで、適正な価格で公共サービスが提供

されるということも考えられることから、介入限定の原理から、国家による介

入を排して市場に任せるべきであるという議論も成り立つであろうし、中央―

地方関係では、地方の方がより住民のニーズを把握しやすいがために、より効

率的に公共サービスを提供することができる場合もあるであろう。

 補完性原理は、一方で「介入限定の原理」であり他方で「介入肯定の原理」

でもある。その意味するところは、相矛盾する要求を行う曖昧なものなのでは

なく、むしろどの程度まで介入をすべきなのか、問題の解決をどのレベルで行

うのが適切であるのかを検討することを促すことである。「新しい公共」の議

論では、介入限定が強調され、自助や民営化・民間委託といった方向が強調さ

れることが多いが、それだけでは不十分であるばかりか、自立/自律そのもの

が危うくなりかねない。

 ではいかなる介入が適切であるかが問題となるが、前著の拙稿でも明らかに

38 地方分権改革推進会議の「事務・事業の在り方に関する意見」(平成 14 年 10 月 30 日)では次のような言及を見ることができる。 「先進諸国へのキャッチ・アップを目指していた時代はともかく、その段階に到達した今日の我が国にあっては、このような考え方(ナショナル・ミニマム:引用者注)自体を改め、その仕組みを廃止すべきである。そして、それぞれの事務の性質に応じて担い手として最もふさわしいレベルの地方公共団体や国に事務権限を配分するという原則、すなわち『補完性の原理』に基づいて役割分担を適正化することによって、地方の役割とされた事務については、地方が自主的・自立的に最適の形態でそれを実施できるようにすべきである」

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したように、介入限定の原理が出てくるのは「自助、個人の自立のための援

助がもっとも実り多い」からであり39、「個人の尊厳」を護る政治原理である。

そのことから、個人の尊厳を護るための支援は介入として積極的に認められる

ものであり、むしろ積極的に支援すべきものであった。

 それではそのような介入はいかなる形で行われるべきであるのか。その介入

のあり方が議論されるべきであるが、「新しい公共」と補完性原理に関するも

う一つの問題を取り上げておきたい。

3-2 「新しい公共」とガバナンス論:メタガバナンスの問題

 補完性原理はヒエラルヒー重視の組織構造をもつカトリック教会の社会回勅

から言及されることが多いことからも、縦の秩序原理、垂直的統治の議論と理

解される。それに対して、「新しい行政」では、市民も行政も NPOや企業も、

同じレベルでの参加が求められている場合が多く、いわば公共的問題を様々な

主体で「補完」して解決をしていきましょうという、水平的統治の議論として

展開されている。「より大きい、より高次の」主体と「より小さく、より下位の」

主体との「補完」を議論するのが補完性原理であるが、垂直的統治の議論であ

る「縦の補完性」であるとすれば、「新しい公共」は水平的統治の「横の補完性」

として対照させることもできるであろう。

 垂直的統治から水平的統治を主張する議論としては、近年議論が盛んな「ガ

バナンス論」があり、新しい公共との共通性を見ることができるであろう。そ

してそのことは、ガバナンス論が抱える問題と同じ問題、すなわち「メタガバ

ナンス」の問題を抱えているということになる。メタガバナンスはボブ・ジェ

ソップによる用語であり、彼は次のように指摘している40。

39 ネルブロイング(1998)131頁。40 Jessop(2002)pp. 52~3、中谷監訳(2005)71頁。なお、本文との表記を一致させるために、訳文の一部を変更した。

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「新しい公共」における行政の役割

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 社会諸勢力が多様なガバナンス・メカニズムを秤量し(その相対的バラン

スを修正し)、相互の重みを匡正しようとするなかで、メタスティアリング

の概念(メタガバナンスと呼ばれる場合もある)が浮上することになる。

 このような「ガバンナンスの保守、調整」としてのメタガバナンスの概念

を用いながら、新川(2004)では、パートナーシップの失敗という面から議

論されている41。パートナーシップ型のガバナンスが適切に機能するためには、

このようなガバナンスの保守機能が重要であり、そのためには「民主的な責任

を追及する装置の設定、ガバナンス管理上の責務の分担と遂行、そして最終的

な責任分担問題に対する解答を持つことができるかが問われている」という。

 そのメタガバナンスを担うのは、主として政府であろうが、「それ自体が政

治的調整的であり、純粋技術的ではないので、その成功は保障の限りではない」

ことから、「メタガバナンス機能自体が、多元的に分節化されたガバナンスの

中で、多極的に機能していく状況を想定しなければならない」と述べられ、主

体の多様化が主張される。具体的には中間支援 NPO組織や地方議会、住民参

加による監視・評価・統制などが挙げられている。

 確かにメタガバナンスの失敗は考えざるを得ず、そもそもガバナンス論の台

頭は国家の相対的影響力の低下にあることから、メタガバナンスにおける国家

の活動への疑義は当然のこととも考えられる。しかしながら、国家は依然とし

て、唯一の合法的権力の主体であり、様々な権利は国家によって保障されてい

ることから考えても、本来、その役割を果たすべき存在であろう。また、ピー

ターズによれば、以下のような理由から今もなお政府は、当地の構造と過程に

おいて中心的な存在でありつづけていると主張しているという42。

 第一に、行政資源の不況状況はむしろその利用についての優先順位をきめる

役割を政府に負わせる。第二に、政府に対する不信の高まりがガバナンス論台

41 新川(2004)40~42頁。42 西岡(2006)8~9頁を参照。

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頭の背景にあるが、ネットワーク論者が主張するような非定型的な統治様式は

むしろ政策の一貫性を失わせ、不信を高めてしまう。第三に、国際競争の激化

は国内での協調的なプログラムを政府が策定する必要性を増加させる。そして

何よりも、対立の調停と解決は統治機能の重要部分を占めるが、それは正統性

をもつ政府によって主として担われるものである。

 国家、中央政府の地位が相対的に低下していることは否定のしようがないの

であろうが、その果たすべき役割までが失われているわけではない。むしろ、

本来の補完性原理である「縦の」補完性を考えた場合、個人や近隣、自治体や

中間集団では解決できない問題に積極的にかかわる必要があり、むしろ積極的

に介入していくことが求められるはずである。

 メタガバナンスの役割は、「調整」であるが、それはまさに「政治」の役割

である。しかしながらその「政治」は新川の指摘するように、より民主化され

た形で「説明責任 accountability」が確保されなくてはならないであろう。

 それでは以上の考察から、どのような形で国家、中央政府は新しい公共にお

ける、独自の役割を果たせばよいのかを検討していきたい。積極的な介入を行

うことで、メタガバナンスの調整役を果たすためには、いかなる役割を果たし

ていくべきなのか、それを「支援行政」と位置づけ、以下の章において展開し

ていきたい。

4.「福祉国家」から「支援国家」へ

4-1 ギルバートによるパラダイム・シフト論

 これまで私たちは、「新しい公共」の問題を 3つの側面から論じてきた。「新

しい公共」自体は望ましいものであるが、それを正当化する 3つの側面から、

いわば巧みに行政ないし国家・政府の責任が回避される方向で造り上げられ

てきたこと見てきた。以下、本稿では、2の最後に提示したような公共志向の

NPMによる支援国家、支援行政、ならびにその支援は補完性原理における介

入肯定の原理として理解されるということを詳細に論じていくこととしたい。

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 そのまえに、ニール・ギルバートによる福祉国家から支援国家へのパラダ

イム・シフト論を取り上げておきたい。本稿において追求される「支援」と

いうものは、ギルバートによって提示された「Enabling State(可能にする国

家)」43という言葉のもつニュアンスに近い。福祉国家とは異なる「Enabling

State」とはいかなるものであるのかを本節で確認していきたい。

 ニール・ギルバートは 1989年の著作『支援国家(Enabling State)』において、

1970年代半ば以降のアメリカ合衆国における「公的機関によって提供される

給付のための直接的な支出から、より多様な手段による福祉サービスの供給と

財源へ」との潮流の変化をみて、「支援国家」の時代を説明している44。

 その変化はより具体的には、財政面における税控除(tax deduction)や政

府貸与(governmental lending)といった間接的な手段の導入。供給面では、

民間企業が社会サービスの領域に入り、かつては公的なあるいは自発的な供給

者が主流であったところとしばしば競り合うことになった変化を指している。

 このような変化は一般的には福祉国家の限界と、その後の「小さな政府

cheap government」への変容として否定的に描かれることも多い。しかしな

がら、ギルバートは限界を見せ始めた福祉国家が、必ずしもそのまま崩壊へと

向かうのではなく、質的な変容が起こっていることを様々なデータを分析しな

がらその変容を捉えている点で興味深いものであり、支援国家という新しいパ

ラダイムを提示している、と言うことができるだろう。

 ギルバートによれば、いわゆる小さな政府とは異なる支援国家は「市場経済

43 enablingという言葉は極めて日本語にすることが困難な言葉であり、本文にあるような「可能にする」ないしは「促進する」「活性化する」などが意味内容を反映しているものと思われるが、日本語として適切なものであるかは疑問である。特に-ingをつけることで、持続的・継続的な現在進行形を取っている点が重要であり本稿でも重視したい点ではあるが、日本語への翻訳は困難である。そこで極めて暫定的であるが、比較的一般的に訳語として取り入れられている「支援」を訳語として採用する。5-1でも論ずるように「支援」という言葉に新たな意味を付与することで、個々人の自律/自立を促す、促進するための支援という意味で適切なものであると考えられるからである。44 Gilbert and Gilbert(1989)Forward xi-xii。

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との相互作用を通じて、社会福祉を促進している」という。しかし、そのよう

な「権限委譲という役割」は、「困窮者にむけた社会的移転を行う国民の利他

主義を補う福祉資本主義における道徳的側面を維持するとともに、個人の責任

と自助を促進するよう努力することである」と述べ、単に、それまで(福祉)

国家が担っていた福祉サービスの提供を市場に委ね、そこに国家は介入をしな

いというような単純な市場任せの新自由主義の議論とは異なり、個人の責任と

自助を「促進する」ことが国家の使命であり、民間企業が社会福祉サービスの

実施に次第に参加してくる状況においては「市場の創造的エネルギーを抑制せ

ずに、消費者を保護する規制手段を講じること」が支援国家にとっては「緊急

に取り組むべき課題である」というのである45。

 本書の時点では支援国家の基本的な機能は、「民間活動 private activityへ

の補助金の支給、社会的責任に関する期待を敏感にする、民間の活動の規制、

十分な水準の社会保護の提供」として考えられていたが、その後 1995年の著

作において、「フレームワークが広げられ、国家の役割として社会的公正の促

進、生産性や経済的成長とリンクした社会的利益の強調が含められた」とい

う46。本書においては、福祉国家と支援国家の対比で、個人よりも家族に焦点

を当てる、消費としてではなく投資としての福祉の援助、経済的不平等の削減

よりも社会的公正の減少といった点が挙げられている47。

 このような支援国家というものは、純粋な形態としては存在しえないが48、

アメリカ合衆国における現実の変化を分析した結果として導かれたものであり、

さらには同様の変化の兆しは、他の先進工業福祉国家においても進行中のこと

であるとギルバートはみている。このような「私的責務に対する公的援助を通

じた社会的保護の提供」49を特徴とするギルバートの支援国家論は、2002年の

45 以上、Gilbert and Gilbert(1989)p. 154、伊部英男監訳(1999)170~171頁よりの引用。46 Gilbert(2002)p. 56、注 52を参照。47 Gilbert(1985)p. 154 Table 6.1を参照。48 Gilbert(1985)p. 153

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「新しい公共」における行政の役割

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著作において図表3のように整理されている。

 ギルバートによる「支援国家」論は、あくまで分析のための「理念型」(ヴェー

バー)であり、先進工業各国における歴史的・文化的な違いによって、福祉国

家同様に異なる形をとりうるものである。その意味において、ギルバート自身

は特別、支援国家がどのようなものであるか、その任務はどうあるべきものか

については、先の「私的責務に対する公的援助を通じた社会的保護の提供」や、

図表3に示されたものを除いて論じられてはいない。「公的援助」とはいかな

るもので、そこで行政がいかなる責務を担わなければならないのかが論じられ

るべきであろうし、また、図表3においても「民営化」や「就労促進」といっ

た要素では、新自由主義となんら変わらないものと理解されかねない。福祉国

家における画一的な福祉サービスの提供ではなく、選択的対象化によっていか

49 Gilbert(2005)p. 2

図表3

福祉国家 支援国家

公的対策 公的機関による供給 サービスの形での移転 直接の支出に焦点

民営化 私的機関による供給 金銭、ヴァウチャーの移転 間接的支出の増加

労働の保護 社会的援助 労働の脱商品化 無条件の給付

就労の促進 社会的包摂 労働の再商品化 インセンティブ、制裁の活用

誰にでも与えられる権利資格 スティグマの回避

選択的対象化 社会的公正の回復

市民権による結合 共有の権力による結合

メンバーシップの結束 共通の価値観と市民的義務による結合

出典:Gilbert(2009)p.44. Table 2.1

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にして社会的公正を実現するのか、メンバーシップの結束は公共性の問題と大

いに関係するものであり、いかにして公共性が形成されるのか、そのような問

題が議論されるべきであろう。

 そこで本稿では、このようなパラダイム・シフトを念頭に置きつつ、公的援

助や支援の意味内容をより詳細に議論することによって、支援国家・支援行政

の理論を議論していきたい。

 その前に、ギルバート自身はその後の著作においては言及してないが、現実

の政策理念においても、自律した個人―コミュニティにおける連帯を視野に入

れた「支援国家」論が語られるようになっていた。次節では、現実の政策理念

として「支援国家」の理論を展開した、イギリスのブレアとドイツのシュレー

ダーの議論を参照していくこととしたい。

4-2� 第三の道としての「支援国家」―ブレアとシュレーダーに見る支援国

家論

 イギリスのブレア政権は、それまでの保守/革新の対立図式を壊し、サッ

チャリズムの一部をも継承する形で新しい労働党(ニューレイバー)を訴え、

政権の獲得へと至ったことはよく知られている。ブレアは 1998年に『第三の

道―新世紀に向けての新しい政治』を刊行し、社会民主主義の刷新を訴えた。

それは中道左派思想の 2つの主流である、「民主社会主義と自由主義とを合体

させることにより、活力を引き出そうとする」ものである50。

 その理論的に背景には社会学者アンソニー・ギデンズがいるとされる

が、彼のパンフレットである『第三の道』においては、「社会投資国家 Social

Investment State」として表現され、「個人ならびに非政府組織が、富を創造

するポジティブ・ウェルフェアの主役」であり、指針とすべきは「生計費を直

接支給するのではなく、できる限り人的資本(human capital)に投資するこ

50 生活経済政策編集部編(2000)9頁。

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とである」とされていた51。

 このような国家のあり方は、個々人が自律的に市場に参加して、社会の活性

化に貢献をするような「企業家」の精神をもった市民こそが望ましい姿である

とされ、後にも紹介するようにそのような競争からもまたセーフティネットか

らも外れてしまう人々を排除してしまう危険性をもつものとして批判をされて

きた。

 しかしながら、ブレア自身の議論においては、確かにそのような「企業

家」を理想とする社会像も見え隠れはするが、国家のあり方に関しては「支

援 enabling」という言葉を積極的に使っている。人的資本への投資というあ

り方では、すでに望まし企業家的な自律的な市民像が前提とされているような

印象を持つが、enablingという表現を使うことで、そこに過程・プロセスを

重視する姿勢を見ることができるのではないだろうか。すなわち「可能にする

enable」という言葉は、現状は「できない」状態であり、それを支援すること

により可能にするという要素が含まれるからである。

 ブレアの言説では、たとえば自らの使命について言及するなかで、すべての

人々の自由と可能性を最大化する公正な社会にとって必須の価値観の一つとし

てコミュニティを挙げ、国家との関係を次のように論じている52。

   進歩的な政治にとっての大きな課題は、活発なコミュニティやヴォラン

タリーな組織を擁護し、そしてそれらが、必要ならばパートナーを組んで

新しいニーズに対応できるよう成長を促すために、国家を後押し機関とし

て活用していくことである

 また、経済・市場との関係においても、国家はやはり「後押し機関」とし

ての役目を果たし、「公共の利益に奉仕するために市場の力を利用する」とい

51 Giddens(1998)p. 117f、佐和訳(1999)195-197頁。52 生活経済政策編集部編(2000)11頁。

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う53。市民社会との関係では、「4.強固な市民社会:権利と責任」において、「個

人と親たちがそれぞれ責任を果たせるよう、国家と市民社会がこれをよりよい

形で支援していくことは、教育、福祉、犯罪撲滅に関するわれれれの取り組み

と並んで、現在の重要な課題である」と述べ、公共性に寄与する責任を重視し、

共和主義的な自律的市民の育成と、そのための支援に言及している点は興味深

い点である54。共和主義との関係では「共通の善を推進する政府」との表現も

見つけることができる55。

 わが国では「第三の道」は知られているものの、この「支援」への着目は管

見の限り、殆どなされてない。ブレア自身はその後もこの言葉を用いていたこ

とは、2006年のガーディアン紙に掲載されたスピーチでもわかる56。

   1945年のやり方で個々人に命令したり制御するのではなく、むしろ能

力を与える支援国家 the enabling Stateの発想は、重大な意義を持つもの

であり、そのいくつかはまだ日の目をみたばかりである。

 ギデンズ=ブレアにおける「第三の道」における思想は、これまでの福祉国

家に対する批判を行い、国家への依存をできる限り抑えるために、教育や職業

訓練を通じて「就労可能性」の高い人材を育成することに焦点が当てられてい

るように指摘されることも多い。理念上はボランタリーセクターに期待されて

いたのは「市民の参加を促すことで『コミュニティの再生』に貢献する」とい

う側面であったのに対し、政権第 2期になると「『公共サービスの刷新』とい

う『サービス供給者としての役割』が政府から強調されるようになった」とい

53 同上、14頁。54 同上、18頁。55 同上、22頁。56 Tony Blair's speech on healthy living,guardian.co.uk, Wednesday July 26 2006http://www.guardian.co.uk/society/2006/jul/26/health.politicsより引用。なお、1945年は労働党が総選挙に勝利し、NHS創設などの契機となった年である。

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「新しい公共」における行政の役割

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う57。また、結局のところは、公的サービスの供給者として「多様な企業、組織、

団体と契約のネットワーク」を作り上げる「契約国家」であったとの評価など

も見られる58。

 現実の政策評価という点に関しては、個々の政策等に関してさらなる検討が

必要になるものと思われるが、本稿ではこれまでもあまり着目されてこなかっ

た「支援国家 the enabling State」という着想自体の意義を救い出すことに焦

点を絞りたい。すなわち、本来の第三の道の政治・社会的思想は、福祉国家の

限界から新自由主義的な市場競争原理を重視しようとする方向へと舵を切ろう

とするものではなく、むしろそのような効率的な行政を重視しつつも、国家の

役割に関して直接的なサービス提供から間接的なサービス提供、支援へと修正

していくものなのである。

 しかしながら、そのような「第三の道」の政策理念としての評価に関しては、

一方で NPM改革に関してその方法を保守党政権から継承しつつ、一方で市民

参加やパートナーシップなど重視していることから、「第三の道」に象徴され

るような積極的な意味でも融合ではなく、むしろ矛盾を孕んでいると指摘さ

れることも少なくない。その矛盾、パラッドクスとは、NPMは「Plan・Do・

See」というマネージメント・サイクルにおける Seeの部分において、監査・

査察体制を強化することによりアカウンタビリティを向上させ、行政機関の業

績を中央(政府)がコントロールをするという「集権的」な志向性がみられる

一方で、市民参加やパートナーシップといった「分権的」手法が用いられてい

る点である59。

57 永田(2006)48頁。58 谷藤(2007)199頁。また、梅津(2008)では、ギャンブル A. Gambleによる評価などを紹介して「ブレアらにとって重要なのは、結局のところ競争による弊害から社会を守ることではなく、競争の促進化を通じて社会を守ることであった」のであり、「『第三の道』というアイデアには、われわれを魅了するなにかが含まれている。しかし残念ながら、これも単なる歴史のエピソードとして終わるのかもしれない」と結んでいる(12、20頁)。59 安(2006)159頁。

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 さて、このようなパラドックスを単に折衷的な方向性を目指そうとしたがた

めのものではなく、より積極的な意義を見出そうとしているのが、安(2006)

である。

 安は、「ブレアリズム的ガバナンスは、集権・分権のパラドックスの指摘に

もかかわらず、ガバナンス・システムの作動を継続するために、政府はガバナ

ンス秩序の運営・維持・発展へと貢献する諸機能(調整機能等)を持つ必要が

あるというプラグマティックな解釈替えを行うことで、ブレア政権の「民主主

義の新しい実験」のポジティブ性を救出できると考えられる」60として、次の

ようにその解釈替えを行っている61。

 ブレア改革のもつ分権的な志向性は、地方分権の推進による「オープン・シ

ステム・モデル」を目指すこととなるが、その際、NPMを継承していること

から、中央統制によって「顧客志向」「成果志向」を、市民参加の公共サービ

ス提供体制の構築により民主主義を活性化させるという方向性によって実現さ

せようとしている。その点に分権志向と集権志向の矛盾がみられるという指摘

が多いのであるが、そもそも矛盾を指摘する論者が「理想」とするような、よ

り自立度の高いネットワーク・ガバナンスはいかにして実現されるのか、とい

う問題が生じてくる。

 すなわち、確かにより分権を推進していった結果として、中央政府による統

制は限りなく少なくなり、自立的な地方政府による連邦制のような国家が実現

されることは「一つの理想」でありうるが、その実現までの調整は誰がどのよ

うな形で行うのか、という問題である。分権化が進めば、複雑性や多様性が生

じる。そのことは、多元的な利害やコンフリクトを生じせしめるが、それを調

整する役割が不可欠なのである。

 そこでその調整の役割を担う機関として適切なのは、「民主的な選挙の洗礼

を受けて政権の座にあって、国家や地方の舵取りを委託されているのは、公的

60 同上、165頁。61 同上、160~ 166頁。

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「新しい公共」における行政の役割

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な政府である」ということになるという。現時点では、中央・地方の政府が「最

終的なメタ・ガバナンスの運営の責任者である他ない」のであり、集権という

よりは「分権化のあめの不可欠の能力」と解釈すべきであるという。

 このようなメタ・ガバナンスの調整役としての中央・地方政府という位置づ

けは、「支援国家」と極めて親和的であり、単なる調整役としての役割に留ま

るというのではなく、多様な主体による協働によって生み出されるガバナンス

において、積極的にその調整する役割を担わなければならないということは、

積極的な介入=支援によってよきガバナンスを生みだす役割を担わなければな

らないことを意味する。

 そのような積極的な介入=支援に関して、より深い議論を行っているのが、

ブレアとの共同文書(1999年 6月)も発表した、ドイツのシュレーダーであ

ろう。この共同文書後のシュレーダーの政権については、近藤(2006)が詳

しいが、それによれば、共同文書において強調されたフレキシブルな市場、サ

プライサイド的手法やワークフェア政策の必要性、規制緩和の推進、社会保険

など非賃金労働コストの削減などが強調されたが、国内での反発が強く、「こ

の文書はドイツでは世論や労働組合からの猛烈な反発を受け、その後の州議会

選挙での SPD敗北を経て、撤回に至る」結果を迎えたが、現実の政策として

は第三の道に特徴的な「積極的福祉」(「積極化」)の方向性が強まっていると

いう62。

 そのような現実の背景からか、市民活動の支援、条件整備という面におい

て重要な要素を含んだ方向性を見ることができる。ここでは特に坪郷(2007)

を参照にしながら、抽象的なシュレーダーの「活性化する政府 aktivierender

Staat」論の議論を深めた「市民活動の将来」委員会による報告書(2002年 6

月)63の内容を見ていきたい。

 「活性化する政府」は、冷遇者により良いアクセスの機会を創出し、不平等

62 近藤(2006)14~15頁。63 Deutscher Bundestag(2002)

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千葉大学 公共研究 第5巻第4号(2009 年3月)

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を取り除くことが出来るという意味で、「就労可能性」に近い意義をもつもの

であるが、一方で「支援国家 ermöglichender Staat」の重要性が指摘されて

いる。これは、活動のための機会を創出し、市民社会に設計の余地を開くと同

時に、自己組織と自己責任の権限を付与し、社会関係を発展させるものである

とされており、「市民活動の将来」委員会は、両者の概念を結合し発展させて、

政府と市民社会の新しい任務分担を構想し、政府や政治に、市民活動のための

望ましい基本条件を創出する責任を付している64。

 さらに「支援国家」は、市民により多くの参加の可能性を開き、市民の活動

を推進するとともに、資源がないために要求や問題解決ができない市民を支援

するという。給付の内容は、政府や行政により始めから規定されるのではなく、

まず市民自身によって決定されるべきであり、なにより市民のエンパワーメン

トが重要であるという65。

 ここでの「ermöglichender Staat」という言葉は、英語にすれば「Enabling

State」と翻訳することができるものであり、権限付与やエンパワーメントと

いう言葉よりも、ブレアの場合と同様に「可能にする」=「支援」と解釈するこ

とができるであろう。

 さらにシュレーダーの場合には、支援の意味合いがより具体化され強調され

ている点は注目されるべきである。すなわち、支援国家は①市民により多くの

「参加の可能性」を開く、②市民の活動を推進する、③資源がないために要求

や問題解決ができない市民は支援する、④給付の内容は、まず市民自身によっ

て決定されるという 4点である。これら 4点を確認するだけでも、市場原理を

重視した就労可能性を重視する新自由主義的政策との違いは明らかであろう。

 では次章において、ギルバートによる「支援国家」論、またブレア=シュレー

ダーによる政策理念としての「支援国家」を参照にしながら、支援行政の理論

64 坪郷(2007)62頁、Deutscher Bundestag(2002)S.25-6。坪郷訳は「支援国家」ではなく「権限を付与する政府」とされている。65 坪郷(2007)79頁、Deutscher Bundestag(2002)S.163-4)

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「新しい公共」における行政の役割

224

の展開へと移っていきたい。

5.「支援行政」の理論

5-1「支援」とは

 ギルバートによる議論においても、またブレア=シュレーダーによる政策理

念においても、「支援国家」というものは、従来の福祉国家のような手厚い社

会福祉を直接国家が提供するのではないが、かといって市場の競争原理に任せ

て、効率性重視の行政に変えていこうとするのでもない、個人の自律・責任を

支援することに重点を置くものであった。そのような支援の概念は、「3.補完

性原理とガバナンス論」において確認してきたように、補完性原理における「介

入肯定」の側面として考えられるものであった。

 問題はいかなる介入が行われるべきかが問題となるであろう。一方では、各

アクター・セクター間のそれぞれの役割は「政治」の調整によって決められる

べきことであるが、それは先のメタガバナンスの議論においてみてきたように、

民主化された形での「説明責任 accountability」が重視されるべきである。こ

の点は、当然必要とされるべきことであろうが、いかなる介入が行われるべき

かを保証するものではない。

 補完性原理との関係においては、カトリック社会論のラウシャーが、補完性

の語源的由来であるラテン語の subsidium の意味から、「支援」を引き出して

いる。ラウシャーは、個々人の人格を重視しつつ、社会の役割を「支援」にお

き、「人間人格の自発性や自主的取組みや自己責任を制限したり剥奪してはな

らず、却って補助すべきである」66と言及していた。

 また、新しい公共性との関連において、これからの社会構想を「管理型社会」

から「支援型社会」へと捉える今田(2000)は、以下のように支援を定義し

ている67。

66 ラウシャー(2000)150頁。67 今田(2000)11頁。

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 支援とは、何らかの意図を持った他者の行為に対する働きかけであり、そ

の意図を理解しつつ、行為の質を維持・改善する一連のアクションのことを

いい、最終的に他者のエンパワーメントをはかる(ことがらをなす力をつけ

る)ことである。

 そのうえで、支援に要請される条件として「1.自分の意図を前面に出さない、

2.相手への押しつけにならない、3.相手の自助努力を損なわない」を挙げて

いる68。

 このような「支援」の理論において、注視されるべきは支援する側の意図の

みならず、支援される側の意図の尊重が謳われており、支援される側が支援す

る側に依存することに陥ることなく、自律/自立へと促されるようになること

にあるであろう。

 「支援」というものは、支援する側が自らの利益のために行うものではなく、

支援される側のニーズがきちんと把握されていなくてはならず、そのニーズを

満たすために行われるべきものというわけである。

 ラウシャーも今田も、支援というものが他者への介入であることを認めつつ

も、その介入は決して「支援する側」の意図を貫徹させるために「支援される

側」をコントロールするのではなく、むしろ、「支援される側」の人格を尊重

するため、ニーズや意図を把握し、自律/自立を促すための介入を行うべきで

あるとの点で共通している。

 本稿では、「支援行政」という理論を展開するにあたって、このような支援

の定義を活用していくこととしたい。すなわち行政の介入を認めつつも、それ

は最終的には「個人」のレベルまで言及しながら、国家の役割をより下位のレ

ベルが成し遂げられないことに対して、財政、人材、権限、政策等の多面にわ

たる支援を行い、自律/自立を促し、「新しい公共」の担い手としてふさわし

68 同上、15頁。

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「新しい公共」における行政の役割

226

いものにしていくということである。

5-2 支援と公共性

 さて、それではいかにして前節で見てきたような「支援」を行政の役割とし

て位置づけけることができるのであろうか。

 本稿は、様々なリソース(財政、人材等々)の問題から、もはや中央地方政

府が公共サービスの直接的供給を行うことが困難な状況、あるいはその状況を

積極的に肯定するガバナンスの時代において、NPMのような効率性を重視す

る改革や「新しい公共」の意義を積極的に認めつつ、メタガバナンスにおける

調整役として行政の責任・役割を意義づけ、サービスの量的削減ではなく質的

改善の改革を志向してきた。

 そこで、補完性原理を援用することで積極的な介入の必要性を引き出し、そ

の介入のあり方は上からの指示・命令による介入ではなく、介入を受ける下位

の組織(個人)の意図を尊重しながら、その自律/自立を促すものであるべき

であるというのが「支援」の理論であった。

 なおギルバートにおいても、ブレア=シュレーダーにおいても「支援国家」

という表現で、福祉国家との対比から中央政府の役割について論じているが、

本稿においては、補完性原理の介入のあり方は国家、中央政府にのみ限定され

るものではなく、下位の地方政府レベルにおいても、また逆に国家を越えた機

関・組織によってもなされるべきものという立場から、より一般的に論ずるた

めに「支援行政」の理論として展開をしていく。

 上位から下位への介入というものは、その権力性ゆえに大きな危険も孕んで

いる。そのことをまずは確認しておきたい。たとえば、齊藤純一は、第三の道

の問題点に関して、次のように指摘している69。

69 齊藤(2002)147頁。

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 自己統治を「後押し」し、さらに促進しようとする統治は、その能力にお

いて劣ると見なされる人びとに対しては、生のスタイルに深く介入する後見

的な権力としての相貌をはっきりと見せるわけである。

 すなわち、能動性テストが、自己統治の意欲や能力に欠けるとされる人びと

をいわば制度的にマークする効果をもっていることにあり、そうした能力に欠

ける人々は「余計者」として見なされるようになるというのである。

 また同様の問題性を渋谷(2004)が指摘している。渋谷は「義務なくして

権利なし(権利には必ず責任を伴う)」をスローガンとする「第三の道」では、

失業者でさえもが「職探し」という活動に積極的に参加をする「アントレプレ

ナー(活動主体)」にならねばならず、「自発的であるはずの『参加』が福祉の

条件となり、いわば『自発性』が実質的に義務化したといえよう」という事態

を生みだしているという。このような「活動への参加」という、本来個人的で

恣意的な基準がシティズンシップの条件となっている社会は、「エートス(倫

理=道徳)の社会的増進に勤める一方、『エートスなき者』にとって、きわめ

て冷たい社会を作り出す可能性がある」と指摘する70。それは実は「社会的包

摂 inclusion」を目指しているようで、その実、その包摂に加わることのでき

ない人々の社会的な排除 exclusionを生みだす可能性を有しているともいえる

のである。

 また一方で、ギルバートの支援国家論に関しては、加藤(2006)において、

公共性との関係が問題提起されている。加藤は、ギルバートの支援国家論を「最

近流行の浅薄な市場至上主義者」とは区別をして「夜警国家とは違って、民間

の活動を支援する役割を担っているとされる」と紹介した上で、次のような問

題提起を行っている71。

70 渋谷(2004)38頁。71 加藤(2006)329~330頁。

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 とすると、社会サービスの領域は公と私が混合するグレイ・ゾーンが支配

することになるだろう。そこにおける私的利益と公共性の確保はどのように

調整され、担保されるのだろうか。国家が税金を使って公共政策をおこなう

ことの正統性は、市民革命以来長い間の文字通り血を流す試行錯誤の中で形

成されてきたものだが、それに代わる正統性を支援国家はどのように調達

するのであろうか。(中略)今後支援国家がいっそう発展していくにつれて、

社会をまとめ上げる求心力はいよいよ衰弱していくのではないか。

 「新しい公共」についての考察から始めた本稿にとっても、このような「公

共性の確保」は、非常に重要な問題である。

 もっともこの問題提起において、公共性は国家権力の正統性の問題として議

論されているものと解される。「新しい公共」の問題と同様に、支援国家の発

展によって誰が公共性の担保を有するのか、裏を返せば、誰が責任を負うの

か/できるのかという問題が存在する。

 確かに支援国家の発展によって、国家自身が社会サービス、公共サービスの

提供に「直接的に」関わらない傾向は強まるであろう。

 本稿はこういった問題に対して、国家のみが公共性の担い手であり、その確

保において責任をもつ主体であるとの見解を批判し、「新しい公共」の意義を

積極的に認めるために、むしろ公共性サービスの提供に直接的に関わるのでは

ないが、支援という形で公共サービスの提供に「間接的に」関わることを積極

的に肯定していきたい。

 そのことは決して国家の責任が回避されるものでも、軽減されるものでもな

く、むしろ中央一元的、一律的なサービスの提供ではない形で、それぞれの状

況に応じた条件整備の必要性が生じてくるという意味では、国家としての役割

はむしろ増えていく可能性も存在する。

 小さな政府・最小国家論と支援国家論との最大の相違点は、後者においては

依然として国家は公共性に対する責任を(直接的ではないにせよ)担っており、

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むしろ積極的な条件整備に努めなければならないという意味において、より強

い規範、責任を国家に求めるとも言えるのである。

 公共性や公共哲学をめぐる議論においても、公共性を担うことができるだけ

の能力や資力を果たして一般人がもちうるのか、あるいは公共性の担い手とな

りうる「市民」の資格は何かといった問題は、これまでも度々問題とされてき

たことである。

 確かに前章においても概観したように、ブレア=シュレーダーによる「第三

の道」が、個々人の「就労可能性」を持っているかいなかという規準、資格を

迫るものであるという批判についてみてきたが、本来、この改革で重視される

べき点は、現時点においてその個々人が「資格」を有するかどうかという点に

あるのではなく、できないことがあればできるように支援をする、という点に

あったはずである。

 本稿では公共性(あるいは「新しい公共」)の担い手としての資格を議論す

るのではなく、むしろ、一般の人々が公共性を担いうる主体となるための「支

援」にこそ行政の役割が存する、という「支援行政」の理論を展開している。

 これまで国家のみが公共性の担い手と認識されてきたのに対して、公共性は

様々な主体によって担われるべきことであり、一般の人々が公共性を担うよう

な「新しい公共」は歓迎されるべきである。

 いかにして一般の公共性の担い手としてなることが可能という問題もあるが、

それに対して(公共性の担い手たる善き)市民としての資格を設けて、その資

格が身に着くようにすべきであるというのではなく、現実における一般の人々

の活動を支援することによって、公共性にかなったものを生み出していく、本

稿の描き出す「新しい公共」はこのようなイメージである。

 これまでの公共性のあり方は、いわば国家=お上の側からの施しのような形

で公共サービスが提供されていたのに対して、市民や企業、NPOや NGO等

の諸組織を含めた多様な主体が、行政による支援を受けながら、多様な公共サー

ビスの提供を行い、多元的な公共性の形成に寄与することが「新しい公共」の

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理想とする姿である。

 その際、問題は先の齋藤や渋谷の指摘にあったように、行政による支援=介

入をいかにしてパターナリスティックなものとしないか、後見的な権力として

の性格を色濃いものとしないかという点にあるであろう。

 もっとも逆に、国家・中央政府は唯一の合法的権力=強制力を有する主体で

あり、「新しい公共」という形にせよ、ガバナンスという協治の時代にあった

としても、独自の役割を果たしうる存在である。それでは、行政による支援=

介入の基準となるべき最後の拠り所はどこにあるのか、それを次節において検

討したい。

5-3 「個人の自由」のための支援

 留意されるべきことは、5-1で見てきたように、補完性原理における「介

入肯定の原理」を「支援」ととらえつつ、その支援は決して個人の尊厳を冒す

ことなく、個々人の自立/自律を促すようなものでなくてはならない点であろ

う。介入を積極的に認めつつ、それがパターナリスティックなものとしないこ

とが、支援行政理論のかなめとなる。

 その介入のいわば基準となるのは、「個人の尊厳」であるが、「人間の安全保

障」などによってよりその内実は議論されているとはいえ72、依然として抽象

的な理念である。一方「個人の自由」ということになると、すでに政治思想に

おいて十分な蓄積があるものである。本稿においてはもちろんそれらの議論を

72 2000年の国連ミレニアム・サミットにおける日本政府のイニシアティヴをきっかけとし、2001年 6月に緒方貞子・前国連難民高等弁務官とアマルティア・セン・トリニティーカレッジ学長を共同議長とした「人間の安全保障委員会」が設立され、2003年 5月 1日、コフィ・アナン国連事務総長に委員会の最終報告書を提出している。その報告書要旨で、「人間の安全保障」とは、「人間の中枢にある自由を守ること」であり、「人間自身に内在する強さと希望に拠って立ち、死活的かつ広範な脅威から人々を守ること」「生存、生活及び尊厳を確保するための基本的な条件を人々が得られるようなシステムを構築すること」「『欠乏からの自由』、『恐怖からの自由』、あるいは自身のために行動する自由といった様々な自由を結びつける」と説明されている。ホームページ、http://www.humansecurity-chs.org/japanese/index.htmlを参照。

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十分に扱うことは不可能であるが、個人の自由を巡る近年の議論を参照にしな

がら、支援=介入の基準を探っていくこととしたい。

 本稿で議論をしている支援=介入は、いわば条件整備とも言いかえることが

できる。一般の人々の自発性を促し、公共性への寄与へとつなげていく。ただ

し個々人には、さまざまな面で差異があり、条件整備はその個々人の状況、環

境、能力、資質に応じて、その内容が異なってくる。

 その意味では、条件整備は、競争のためのスタートラインを平等にするとい

う「初発的平等」のみを保証するものであっては不十分であり、より包括的

overallな条件の平等が保証されるべきである。

 さて、ここで参照したいのが、平等の意味を問いただしたアマルティア・

センのアプローチである。センは、1980年の論文「何の平等か?Equality

of What?」において、人々のニーズというものを「基本的潜在能力 basic

capability」として解釈することを提案し、「潜在能力アプローチ」としてそ

の後の論考でも展開している。もともとは正統派厚生経済学への批判から、財

と福祉の関係を考察し、このようなアプローチを導き出しているが、現代にお

ける政治哲学の復権に多大なる貢献をしたジョン・ロールズの『正義論』に対

する批判にも展開され、福祉的自由や市民的権利といった議論も含むものであ

ることから、福祉国家以後の支援国家、支援行政のあり方を考える本稿とも関

連が深いことから取り上げることとする。

 センは人々の選択において、近代経済学が前提とするような合理的個人によ

る合理的な選択という考えに対して、その「選択の背後にある動機」が考慮さ

れていないことを指摘し、個々人の個人的な動機、考え、あるいはその選択を

行う人の置かれた状況などが考慮されていなことを批判する。個々人の背景を

考慮しないアプローチでは、個人間の比較をすることはできず、そのようなア

プローチは「福祉概念を実体化するうえできわめて不備なものだというべきで

ある」とセンは指摘するのである73。それに対してセンが着目するのが、「機

能 functionings」というものでる。この機能とは所有する財を用いて「人が成

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就しうること」「行いうること」であり「いわばひとの『状況』の一部を反映

するものであって、これらの機能を実現するために利用される財とは区別され

なければならない」という。人々のニーズが異なる以上、財が与えられれば幸

福 well-beingが達成されるかといえばそのようなことはない。有名な例では、

自転車という財を与えられたとして、それを使うことができない(足が不自由

であるなどの理由により)ならば、その財はその人の効用、幸福にはつながら

ないのである。

 それでは、この「機能」だけを指標として考えれば良いのかといえばそれだ

けでは、個々人の幸福を評価することはできない。たとえば、住居もなく十分

な食糧や水を手に入れることができない状態にある人が自転車を与えられたと

しても、自転車という財に対する効用は高くなったとしても、その人自身の幸

福は増進するとは必ずしもいえない。より包括的に評価をするための基準とし

て、その機能を束とした「潜在能力 capability」への着目が行われる。そして、

このような機能ではなく潜在能力に着目する理由は、その人の自由と関わって

いるからである。センは次のように述べている74。

   選択するということは、それ自体、生きる上で重要な一部である。そして、

重要な選択肢から真の選択を行うという人生はより豊かなものであると見な

されるであろう。このような観点からすると、少なくとも特定のタイプの潜

在能力は、選択の機会が増すとともに人々の生活を豊かにし、福祉の増進に

直接貢献する。

 個々人によって何が価値あるものであるかは異なるものであり、その人が幸

福であるかどうかは与えられる財によって決まるものではなく、十分な選択肢、

選択の機会が与えられているかどうかに懸っている。それこそが福祉的自由で

73 Sen(1985)鈴村訳 32~33頁。74 Sen(1992)池本ほか訳 61頁。

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あり、センが重視するものである。このようなセンの自由論は、一方で競争の

自由だけを重視するのでもなく、また一方で結果の平等のみを重視するもので

もない、自由と平等を両立させうるアプローチとして評価されるものである。

 自由は、ある選択を行う際に、すでに自立/自律した個人が、他に干渉され

ることなく選択を行うことができるかどうかという場合、そこにはすでに「自

立/自律した個人」というものが前提として存在している。そうでない個人に

は、自由は存在しないものであるかのように。

 しかしセンの潜在能力アプローチ、福祉的自由論からいえば、それは選択権

というよりは、選択肢の多さ、複数の選択肢からあるものを選び出すことがで

きる「状態」をさすこととなる。すなわち、一回一回の選択という「行為」で

はなく、選択ができる「状態」が重要なのである。

 そのための条件整備ということになれば、単に行為を可能とするための初発

的な条件整備だけでは不十分であり、つねに複数の選択肢から選択をすること

ができる環境の整備が求められることとなる。それは選択肢を複数用意するこ

とのみならず、その複数の選択肢が存在することを当人が認識し、それらを比

較検討し、そのなかから選び出すことができる能力を持っていることが求めら

れるのである75。そのようにして、個々人が選択可能なように支援をすること

が要請されることとなるのである。

 そのような選択可能な自由=自律の状態は、継続的・持続的に維持されなく

てはならないという意味において、必ずしも行政の役割を軽減するものではな

く、あくまでその役割の内容、質を改善することを目指すものである。

 個人の自由を保障することは、憲法においてそれを明記することによって十

分に果たされるものではなく、「個人が自由であること」という状態を維持す

ることができてはじめて、成り立つものである。状態を維持するために必要と

75 自由を「潜在的な自由(選択肢の広さ)」と捉え、社会保障というものは「(個人の)自由の実現のためにある制度である」として、平等実現のための福祉という発想からの転換を促すものとして広井(2001)、とくに 78-79頁を参照。

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されるのが「支援行政」である。

 支援行政は、確かに公共サービスの「直接的な」供給主体からの「撤退」を

意味するものであり、福祉国家において保障されていた個々人の福祉を減ずる

ように考えられるかもしれないが、必ずしもそのようなわけではない。福祉国

家における一律的な公共サービスの直接的提供から、ニーズに応じた多様な主

体による多様な公共サービスの提供を目指し、量的削減ではなく、質的改善に

よって行政を効果的なものへ変革していくことが目的である。

 以上のようにして、支援行政の理論は、「新しい公共」という公共性の担い

手が多元化し、多様なニーズに対する多様な公共サービスの提供が求められる

時代、あるいはそのような多元的な主体による協治=ガバナンスと呼ばれる時

代にあって、個々人の自由を保障するための条件整備や、様々な活動の支援に

よって、メタガバナンスの調整機能を求めるものである。支援行政は、直接的

に公共サービスの提供に努めるものでは必ずしもないが、多様な主体による公

共サービスを支援することで間接的に寄与することとなる。NPMが本来志向

していた効率的な行政は、一律の公平性のみを重視する行政から、ニーズに応

じたサービスの提供という効果的な行政を理想とするものであり、支援行政は

そのようなニーズ対応型のものへと行政を「質的」に改善していくことを目指

すものである。

 支援行政によって個々人は様々な活動に参与し、公共性の形成へと寄与する

ことができる。個々人が(善き)市民として公共性の担い手としてふさわしい

かどうかという問題よりも、公共性の担い手となりうるように支援を行うこと

が重要である。市民や NGOとの協働の文脈においては、コーディネーターや

ファシリテーターの重要性が指摘されることも多いが76、本稿における支援行

政とは、行政自身がこのようなコーディネーターやファシリテーターの役割を

積極的に果たしていくべきことを求めるものである77。

76 世古(2003)72~76頁などを参照。

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 これまでは公共性の実現にあたり、行政がその意味内容を判断し実現に寄与

してきたわけであるが、「新しい公共」やガバナンスのもとでは、直接その実

現に寄与するのではなく、間接的にその実現を促進する、まさにファシリテー

トすることが重要となっているのである。裏方に回ることは、一見表舞台から

退場したような印象を受けるが、その重要性は変わりないどころか、むしろ一

層増しているといっても過言ではないのである。

5-4 支援行政の実現に向けて

 以上のようにして、個人の自由を保障するための継続的・持続的な支援が、

支援行政の理論の中核に据えられるのである。

 具体的な支援の方策についてであるが、もちろん多様な支援のありようが考

えられるが、「市民公益活動への行政セクターからの一般的な支援策」として、

①補助金や助成金、②公共施設等の貸与、③人材の派遣、④研修会の実施によ

る人材の育成、⑤事業共催や事業委託及び後援、⑥情報提供や相談等が指摘さ

れているとおり、支援行政の具体例としてはまず挙げられるべき必要最低限の

ものであろう78。

 さらに⑥は多様な展開を考えることができるであろう。情報提供や相談に

よって、個々人と活動とのマッチング、さらには活動相互の結びつけや仲介な

ど、個々人、個々の活動を結び付け発展させることによって、より幅広い公共

サービスの提供を可能にすることもできるであろう。行政があらゆる公共サー

ビスの直接の供給主体になるのではなく、行政であるからこそ可能なこと、行

政でなければできないことは何なのかを中心に考えられるべきなのである。そ

して、ある市民活動が公共性に適っているかどうかは、前述のように最終的に

77 愛知県の「NPOと行政との協議の場づくり事業」の報告書である「NPOと行政の協議の場づくり 基本ガイドブック」(平成 20年 6月 3日(火曜日)発表)では、「一般的には、事務局=行政の協働担当、ファシリテーター=中間支援 NPOが考えられますが、状況によって行政が両方担うこともありえます」(32頁)と指摘されている。78 今西(2003)62頁。

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は個人の自由・尊厳にかかわるものである。また、個人の自由・尊厳を損なう

危険性があるのであれば、その活動自体の公共性を否定するのではなく、どの

ようにすれば公共性にかなったものとなるのかを支援していくことも行政に求

められることとなるであろう。それこそが行政と市民活動の「協働」による新

しい公共の創出へとつながっていくものと考えられる。

 法制度面の整備も重要であるが、このような新しい公共における協働を

「コー・ガバナンス」(共治)として捉え、積極的な議論を展開している山本

(2002)によれば、そのスタンダードを考える際のファクターとして不可欠な

ものとして、NPM理論のベースとなる TQM(Total Quality Management)

が紹介されている79。

 このモーガンとマーガトロイド(Colin Morgan and Stephen Murgatroyd)

による発想は、公共セクターの上級マネージャー(管理部門担当者)の責任を

厳格にするものであり、ステークホルダーとしての市民に対するアカウンタビ

リティのみならず、市民によるモニタリングとアウトカム(成果)についての

評価システムを制度化するものであるという。NPMによる効率性志向と市民

と行政の協働という両面が含まれているものとして、NPMの延長線上に支援

行政を考える本稿にとっても重要なものである。

 また、労働・福祉に関する面では、社会的包摂/排除に関して、宮本太郎に

よる議論が参考となる。

 社会的包摂へのアプローチの分類をしている宮本(2006)は、「社会的排除

は当事者のモラルハザードによるところが大きく、まず就労を迫るべきである

という発想がある」ことを指摘して、その傾向の強いアプローチとして「ワー

クフェア」を挙げている。これは、当事者のモラルハザードを原因とするもの

であるだけに「支援よりも強制や指導で就労へ導くアプローチ」であり、この

タイプの改革は「自由主義レジーム、とくにアメリカで進行している」もので

79 山本(2002)41頁。

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あるという。まさに、渋谷の批判はこのようなアプローチに対する批判として

正鵠を射るものであるといえるであろう。

 しかしながら、一方で「職業訓練や保育サービスなどをめぐる強力な支援は

公的責任である」という、当事者個人の就労規範の強弱を問わないアプローチ

も存在する。ワークフェアと同様に「社会的包摂の場として労働市場を重視し

つつも、強制よりも支援に重点を置く」ものとして「アクティベーション」と

いうアプローチが、とりわけ北欧諸国では早くから取り入れられており、また

より当事者個人の意識とは関係なく「無条件で最低限の所得保障を行おうとす

る」アプローチとして「ベーシックインカム」というアプローチも存在すると

いう80。

 社会保障政策に関しては、広井良典による「人生前半の社会保障」という考

え方も、支援行政にとって重要なものとなるであろう。個人の「機会(チャン

ス)の平等」を実現することによって、個人にとっての「将来の選択肢の広が

り」という意味でも「自由」を保障するこの考え方は、支援行政を具体化する

ものとしてより詳細な検討をしていきたいものである81。

 社会保障のみならず、学業支援のみならず職業体験・職業訓練も含めた教育

や、育児支援なども支援行政理論を具体化する上で重要になるものと考えられ

る。

 「福祉国家」から「支援国家」への変化を「パラダイム・シフト」として捉

えたギルバートの説は、現実には「ワークフェア」アプローチを中心とするも

のとなり、結局のところ「雇用可能性 employability」に議論は集中している

ことも指摘されているが82、支援を労働福祉の分野に限定することなく、社会

における個々人の自己実現、それを通しての公共性の実現という、より包括的

な観点から支援行政の役割を意味づけ、意義あるものとしていきたい。

80 宮本(2006)36-42頁。81 広井(2006)21頁。82 Dingeldey(2007)pp. 826-827

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おわりに 「個」を起点とした「公共性」の実現にむけて

 本稿では、公共性は様々な主体の協働によって担われるべきであるという、

新しい「公共」(=横の補完性)の意義を認めつつも、そこで失われてしまい

かねない国家行政が果たすべき役割を、市民社会の自律的活動の支援(=縦の

補完性)として再定義を行い、最終的には個々人の人格を尊重する形で、その

人格形成に寄与するような共同体の支援こそが、現代の行政にとって重要であ

るという、支援行政の理論を展開してきた。

 従来の国家による公共性の独占的な状況から、様々な主体による「新しい公

共」への移行は、単に国家だけが公共性を担うわけではないという「担い手」

だけの議論に留まらない。様々な主体がいかにして公共性を創り出していくの

か、その「過程」が問題となってくるのである。

 そこで本稿において提示した「支援行政」は、あるいは「ファシリテーター

としての行政」とでも表現されるべきものであり、公共性の実現に向けて直接

的な貢献を行うのでは必ずしもなく、間接的にその実現を支援し、促進する役

割を担わされているものである。

 それにより公共性と個人の自由を調和させ、個を活かしつつ公共性を切り拓

いていくことが可能となる。このようにして創出される公共性は、一義的に解

釈されるものではなく、常に問い直され、状況に応じて変容するものとなるで

あろうし、それこそがガバナンス時代にふさわしい公共性のあり方となる。

 現代における公共性の問題は、国家による公共性の独占的状況をいかにして

崩していくかという問題であると共に、藤原保信が「政治理論史における『公』

と『私』」において指摘するように、ではいかにして新しい公共性を生み出し

ていくことができるのか、という問題である83。

83 藤原(2005)61頁。

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   滅私奉公にかわる滅公奉私という言葉が使われてすでに久しい。意識と行

動における 「私人化 」(privatization)はますます進展しつつあるようにも

みえる。しかし滅私奉公という観念においては、なおも「私」に対抗し、「私」

に奉仕すべきものとしての「公」が意識されていた。それに較べるならば、

現代の「私人化」はむしろ「脱政治化」(depoliticization)というにふさわしく、

文字通り公共性の喪失、公的空間の没落を意味するといわなければならない。

 その問題に対して、復古的に国家が公共性の担い手としての役割を過剰に期

待されるのではなく、また他方で民営化やアウトソーシングによって国家が担

い手としての役割を全く果たさなくなるというのでもない、「支援行政」とい

う行政独自の役割を定めることによって、新しい公共性に寄与することを本稿

は目指している。その支援行政なるものはまた、一義的に公共性の内容を規定

するものではなく、多様な公共的問題・公共的ニーズへの多様な主体による解

決を志向している。多様な主体の参加はガバナンスとよばれる時代の到来を意

味したが、その調整役として支援行政が寄与することによって、公共性の実現、

公的空間の再生を目指そうとするのである。

 もっとも支援行政による介入には、「国家は自由の擁護者でありうると同時

に潜在的には自由にとっての最大の脅威でもありうる」以上、本当にセンのい

うような福祉的自由を保障するものであるかということは必ずしも断言するこ

とはできない84。福祉的自由は自由という状態の維持を目指す以上、前述のよ

うに持続的・継続的なものでなければならない。介入が適切なものであるかど

うかを常に問いなおす仕組みが必要であり85、その意味では公共性自体も常に

何が公共性なのかを考えながら、暫定的に実現されていくものであると考えら

れるのではないだろうか。

84 齋藤(2005)45頁。85 そのような問い直しを促すものとして、「異議申し立てのデモクラシー」が参考となる。Pettit(1997)Chapter 6を参照。

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 「公と私」という問題を、「国家と個人」あるいは「全体と個」として対比的

に捉え、二者択一的な思考で捉えるのではなく、両者が補完的・連続的になる

ように、個は全体(国家、共同体)によって活かされ、全体は個によって創ら

れていくその過程こそが重要である。その意味において、「活私(個・自己)開公」

の公共哲学は、個を基準として、個を育てる(支援する)「開かれた共同体」(市

民社会・自治体・国家・超国家的組織)と、その共同体に生きる個々人によっ

て「公共性」や「公共空間」が創出されるものとして理解されるべきであろう。

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