N 加古川流域の歴史と地誌

加古川流域の歴史と地誌...藩 主 藩 治 藩 主 藩 治 池田三左ヱ門 1 3年 榊原刑部大輔 3年 輝 政 政 房 池田武蔵守幸。 3年 松平大和守 1 5年

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N

加古川流域の歴史と地誌

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播磨園地図ー宝歴 12年(1762)

播 磨 鑑 よ り

-103-

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播磨国造りを簡単に述べると、第一期は神武天皇から三十六代孝徳天皇(六五四年〉までの聞である。第二期

は国守時代となり、大化新政〈六四五年〉より八十一代安徳天皇まで約五百四十年間である。第三期守護時代は

八十二代後鳥羽天皇ハ千百八十四年〉文治元年、源頼朝が奏講して諸国に守護職を置いて天下の兵権を掌握して

から、百六代正新町天皇(千五百五十五年〉即ち天正八年羽柴秀吉が播磨全国を平定し、後天下を統一するまで

の約四百年間となっている。第四期藩治時代は天正十四年十二月十九日豊臣の姓を賜り、太政大臣に任ぜられて

より明治四年七月十四日廃藩に至る迄の約三百年間

-104-

である。

「兵庫県の歴史」より

秀吉豊太閣の時、天正十七年から文蔽四年迄の七

年間に天下の検地を行い、

一段三百六十歩の古制を

一百歩に改め、寺社領を削減し、私領荘園を全廃し

た。これが世に云う太閤検地である。

この時から前代行政区、園都は殆ど空名となった。

亦兵農分離して庶民は姓を廃し名をのみ用いさせた。

百姓の武具を禁じ万狩りを行なったのはこの時であ

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る。検地は更に慶長六年、元和六年、貞享、元品開等全国的に行なわれ地租は文様三年制は収穫の三分のこであっ

た。慶長五年(千六百年〉関ケ原の役後、池田三左ヱ門輝政五十二万石播磨国姫路城主となる。慶応三年十月十四

日将軍徳川慶喜大致事中還、十二月九日王制復古を宜す。明治元年三月四日五ケ条の御誓文を発し、旧幕の高札を

取除き新に第三札を掲げた。加古川の高札場は加古、印南二郡の分境(分自停車寸川国道北側)にあった。明治二年

姫路藩は版籍奉還、藩主は華族として藩知事に任ぜられ明治四年県となり、旧藩主は東京移住を命ぜられた。

藩治時代の歴代姫路域主は次の通りである。

-105-

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藩 主 藩 治 藩 主 藩 治

池田三左ヱ門 1 3年 榊原 刑部大輔 3年輝 政 政 房

池田武蔵守 3年 松平大和守 1 5年幸。 隆 直 矩

池 田 新 太郎 1年 本多中務大輔 22年光 政 忠 国

本多美濃守 1 4年 榊原式部大輔 22年怠 政 政 邦

本 多 甲 斐守 7年 榊原式部大輔 6年政 朝 政 結

松平下総守 6年 柳原式部大輔 9年忠 明 政 今

" 4年 訟平大和守 7年忠 弘 義 知

松平大和守 酒井雅楽頭 24年直 基 忠 恭

松平大和守 1年 酒井雅楽頭 1 8年直 矩 忠 以

榊原式部大輔 1 6年 酒井雅楽頭 24年忠 次 忠 道

酒井雅楽頭 2 1年 酒井雅楽頭 大老2若年忠 実 忠 績 老中1

酒 井 雅 楽頭 9年11 老中1年

忠 学 忠 惇 1年

1/ 9年

1/ 3年

忠 宝 忠 邦

1/ 7年

忠 顕

一106一

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藩治は家老数人年番を定めその局に当り、その下に年寄番頭、物頭があって庶政を分家した。その役場を御用

場という。別に家老の耳目となって庶政の得失を監察するのが大目付である。郡部には郡奉行、郡代官などを置

いた。酒井家時代には御代官と呼ぴ、自宅を役所として手付と云う下役があった。代官は家品開百俵以上の家臣の

中から選出した。

郡政は郡奉行の下に十数ケ村の組合を設け、大正屋をして支配をせしめ、村々には庄屋、年寄・かあって大座屋

の支配を受けた。大庄屋支配の石高は一千石以上、七、

,八千石に及ぶものがあった。

庄屋の下に組織があって、圧屋、組頭、百姓代表を村方三役と称した。尚、大庄屋に苗字・かなかったが、酒井

家時代である明和二年十二月二十五日より姓を名乗ることを許された。そして明治三年九月十九日より一般にも

大化二年(六四六)

-107-

姓を名乗ることが許された。

明石国(明石、美嚢、加古の三郡)

国(加束、加西、多可の三郡)

針問国へ印南、神崎、飾磨、捧束、揖西、赤穂、宍莱、佐用の八郡V

以上の十四郡三国を併せて矯磨固と称す。

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「兵庫県の歴史」より

-108ー

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播磨園 年表

西 暦 年 号 事 項

先土器 山之土、神野城山、新植池遺跡 α日古川市)

逆池遺跡〈加西市)

縄文中期 日笠山貝塚(高砂市)

古墳前期 養久山5号墳墓(縛保川町〉天神山古墳

経塚山古墳(高砂市〉青島古墳(新宮町〉

中期 玉丘古墳 α日西市〉聖陵山古墳〈加古川市〉

愛宕山古墳(三木市〉

後期 稚児ケ窟古墳(加古川市〕

垂仁 3 新羅王子天日槍播療に来朝、淀川をさかのぼり近

江を経て但馬園出石にとどまる。

安 閑 播磨の越部(新宮町)に屯倉をおく

6伍 推古 1 3 聖徳太子法華経を講し 天皇より矯磨国に水田を

賜わり斑鳩寺(太子町)に施入

6W 文武 1 播磨飢鐙

713 和同 6 諸国に風土記の編纂を命ずる

747 天平 1 9 播磨丹波飢鍾

748 " 20 婚磨飢鐙

1,019 寛仁 3 丹波国氷上郡百姓ら国司の不法24条を具して陽

明門に押寄せる

1,112 天永 3 鶴林寺法華堂(現太子堂)建立

1,159 平治 1 源義朝矯磨守に任ず

1,1π 承安 1 加西市一乗寺三重搭建立

1.IW 建久 8 浄土寺浄土堂落慶(小野市)

1.笈)() 正治 2 浄土寺薬師堂落慶

1.235 嘉禎 1 浄土寺鎮守八幡宮建立

1,沼3 元弘 3 赤松円心護良親王の令旨を奉じて挙兵

-109ー

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西 暦 年 号 l 事 項

1,441 嘉吉 1 赤松満紡将軍足利義教を誘殺

1,5押 天正 5 羽柴秀吉中国征伐の途中姫路城に入る

1,578 天正 6 別所長治三木城にて信長に反す

1,日狗 天正 8 三木落域別所長治一族白書

1,594 文様 3 大関検地

1,印l 慶長 6 姫路波主池田輝政播磨菌検地

1,臼)9 " 1 4 姫路主主竣工 西国大名の助役により訟平康重篠

山に築城

1,697 正保 3 国絵図の改正を名じる

1,762 宝暦 1 2 平野康、矯磨鑑を撰する

1,加5 文化 2 伊野忠敬 山陽道摂津、播磨二国を測量する

1,814 " 1 1 11 播但街道測量

1,8お 天保 4 加古川筋に百姓ー撲おこる

1,871 明治 4 姫路県生る 姫路県を飾磨県と改称同年 11月

20日現在の兵庫県となる

1,鎖)6 明治39年 山陽鉄道が固有となり山陽本線となる

1,9招 昭和 13年 三木電鉄鈴蘭台一"三木間開通

1,鎖56 昭和41年 中国縦貫自動車道滝野ーー福崎間 22.3km

ルート決定

1,967 昭和45年 加古川パイパス開通

1,974 昭和49年 中国縦貫自動車道滝野一ー福崎間 22.3km開通

-110-

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国 名

丹波

国.郡沿革表

延書式 吾妻鏡 郡名考 郡区S目制現 在

郡 市

氷多 紀上多 紀

氷多 上紀 氷多 紀上 多氷 紀上氷上

宍粟 宍 粟 宍粟 宍 粟 宍 粟

揖東舞 穂

携縛 束西 ま舞母 東西 揖保 竜網野市揖西 干町大海舞 保 村姫路市へ

多可 多 可 多可 多 可 多 可 西脇市

賀茂加加 茂西

加 西 加 西 加 西 加西市

加加 東東加東 加 東 加 東 小野市

印 南 印 南 印 南 印 南 印 南

賀古 加 古 加古 加 古 加 古高砂市加古川市

美事E 三美 嚢木 美嚢 美 嚢 美嚢 =木部市一神戸市

室町時代の播磨国「赤松円心.満前」より

-111ー

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加古川市

明治二十二年

昭和

昭和

十二年

昭和二十五年

昭和二十六年

昭和三十

昭和三十一年

昭和三十三年

高砂市

明治二十二年

昭和二十九年

昭和三十一年

昭和三十二年

四年年

四月

三月二十日

月六月十五日

十月

四月

九月三十日

七月

四月

七月

九月三十日

沿

町制施行

加古郡鳩里村編入

五日

加古郡氷丘村編入

神野村野口村平岡村尾上村合併市制徳行

-112ー

別府町(昭和三年十一月五日町制)を編入

八幡村印南郡平荘村上荘村を編入

印南郡東神吉村西神吉村米田村の一部を編入

五日

高砂市一部を編入

町制施行

加古郡高砂町荒井村印南郡曾綾町(大正二年四月一日町制》伊保村合併市制施行

印南郡阿弥陀村米田町(昭和三年二月十日町制施行V

の一部を編入

十日

印南郡北浜村を編入

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小野市

大正

昭和三十一年

昭和二十九年十二月

四年

五月

西脇市

大正

昭和二十七年

昭和二十九年

三木市

明治二十二年

昭和二十六年

昭和二十九年

加西市

昭和四十二年

北条町

加西町

六年十一月

四月

四月

四月

三月三十日

四月

三月十五日

六月

町制施行

加東郡小野町河合村来住村市場村大部村下東条村合併市制施行

加東郡社町の一部を編入

日日

多可郡西脇町

町制施行津万村を西脇町と改称

日野村

重春村

加西郡芳田村を編入

町制施行

美嚢郡久留美村を編入

細川村

美嚢郡三木町

別所村

比延庄村合併市制施行

円。唱

-A''A

日吉川村合併市制施行

加西郡北条町(昭和三十年一月十五日町制施行〉泉町(昭和三十年三月一日町朝

合併市制施行加西市となる

昭和三十年一月十五日加西郡北条町

昭和三十年三月三十日加西郡九会村

昭和三十年三月一日加西郡多可野村

富田村

賀茂村

富合村合村

西在田村

下里村合併

在田村合併

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加東郡

社滝野町

東条町

多可郡

中加美町

八千代町

黒田圧町

氷上郡

氷上町

沼貫村

柏原町

車問垣町 町

昭和三十年三月三十日加東郡社町(大正元年六月一日町制)福田村

町制施行社町となる

米田村

上福田村

昭和三十年三月三十一日加東郡中東条村

昭和二十九年三月三十一日加東郡滝野町〈大正十四年四月一日町制)加茂村合併

上東条村合併町制施行東条町となる

大正十三年四月一日町制施行

昭和三十年一月一日多可郡訟井庄村

杉原谷村合併加美村となる

昭和三十五年一月一日町制施行

昭和二十九年三月二十五日多可郡野間谷村

加西郡大和村合併八千代村となる

昭和三十五年一月一日町制施行

昭和三十五年一月一日町制施行

昭和三十年七月二十三日氷上郡成松町(大正元年十月一日町制〉

葛野村

季世村

生郷村合併町制施行氷上町となる

昭和三十年十月一日氷上町柏原町(明治二十二年四月一日町制)新井村合併町制施行柏原町となる

昭和三十年四月一日氷上郡佐治町へ大正十年十月一日町制)芦田村

青垣町となる

鴨川村合併

-114ー

神楽村

遠阪村合併町制施行

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春日町

山南町

市島町

多紀郡

篠山町

今回町

多紀町

合併町制施行春日町となる

昭和三十年三月二十日氷上郡黒井町(大正十二年四月一日町制〉春日部村

昭和三十年七月二十一日氷上郡久下村

昭和三十二年三月三十一日氷上郡山東町

昭和三十年三月二十日氷上郡竹田村

上久下村

小川村合併町制施行

和田村合併

大路村

国領村

船城村

前山村

鴨庄村

美和村合併町制施行市島町となる

吉見村

合併町制施行篠山町となる

昭和三十年四月二十日多紀郡篠山町《明治二十二年四月一日町制)域北村

昭和三十五年四月一日町制施行

西紀町

丹南町略

畑村

八上村

岡野村

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「我心鹿子の渡りの綱手縄、

加古渡とは加古川の渡しで、古くは鹿子の渡しという。古来よりその名高く、

たゆたふ心やむときもなし」

この外多くの歌がよまれている。昔の加古川は河幅三里(十二粁)に及んだといい、流れは三瀬五瀬に分れ、

往古より加古、印南両郡の堺をなした分

山陽道を往き還りする者にとっては難所の一つでもあったo

岸寺川も、元は加古川の本流であったと云

ぅ。亦その東二丁ばかりは名を大川町とい

ぃ、この附近もまた土地が低く加古川の

つの分れであった。その中聞に当る常住寺

内の名木である鹿児の松、増田屋の松、加

古島松などは加古川の中州、亦は堤防にあ

った。近年分岸寺附近を二間ばかり堀った

ところに柳の大木が発見されている。古代

にさかのぼれば、東は折居坂、

西は神瓜あ

加古渡 G番州名所巡覧図絵より)

-116ー

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たりまでが河帽であったことは明らかである。

加古渡しは、一克山陽本線の下流五十米の所に在ったが、

「相生の松」

後百三十米下流へ、更に江戸末期より明治維新にかけては、

現在の加古川橋のあたりと渡船場が変っている。この渡船

場よりの跳望は極めてよく、北は日間の森や斗形山を望み、

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大正 13年当時の高砂神社

高砂神社享保3年 Q番州名所巡覧図絵による)

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西南には加茂の諸山がある。斗形山は風土記に八十橋の事蹟で有名であり、更に加茂山についてはその近くに日

本の三奇岩の一つに数えられる石の宝殿(官滅県の塩かま、宮崎県の天の逆鉾)などの大作石もあると風土記に

紹介してある。

南腹には観鴻処の三大字を彫み、眺望絶佳の名所である。東は印南の大平野、南は一塁たらずで全国的に有名

な尾上、高砂の松などありて、加古川の渡しは難所であることからも亦眺望がすばらしい点からも古来より有名

であった。

亦別の資料によると、加古川の渡船場は東西二三ケ所とあり、徳川幕府劃拾年後には加古川村の西に一ケ所だ

けとなった。

大宝令(七

O一)に水駅(渡船場)

の事が見えて、駅別に船二隻から四隻対配置色村ガいる。国守時代野口村

ハ現在の加古川市)に賀古駅があり、当時はその西に水駅があった。万治年間(一六五五

i一六五八)

の渡船場

-118ー

は加古川西、船頭村東に定め常時渡船二鍍ばかり備え両村より船子を出すのが例であった。

船頭村は、もと船元と呼んだが加古川村に属していた頃は向島といい、加古川の中州の一部であった。江戸時

代には御用船と一般旅人船とに分けられていたという。

尚加古川の渡しより江戸日本橋までは一五二塁(六

O八粁》であることを書き加えておく。

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生石神社の説明文

-119-

生石神社の正殿

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聖徳天皇の御世

弓削大連(ゆげのおおむらじ)の作

播磨風土記より

石の宝殿石生神社(播磨名所巡覧図絵による)作石(日本三奇岩の一つ)

-120-

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兵庫県の地図を広げると東播地方に溜池の多いのが印象に残る。近畿で河内、和泉、摂津、淡路国にある池と

比ぺ、

その数においてまさるとも劣らないであろう。この加古川流域には池が七千三百余(昭和四十四年、神戸

新聞社理問)もある。

そのうち加古郡稲美町蛾草にある入之池は、和銅七年(七一四)に築かれたという(加古郡誌)。しかし大部

分の池は、

いつ頃誰れの手によって作られたかは不明である。

-121-

天智七年(六六八)渡来人系一一族として河内国に生まれ、十五才で出家して大和の飛鳥寺で渡来人系の高僧、

道昭について学んだ行基と、当地方の溜池とは、深い関係があるといえる。

道昭は弟子の指導に当ると共に、渡来人の特技である水利土木技術を生かして井戸を堀り、渡し場には舟を作

らせ、舟で渡ることや小川に橋を架ける技術等を教えた。これらの技術を身につけた行基は、仏教を広める為、

大和国をあとにして諸国行脚の旅に出た、

たまたま摂津国に足を踏み入れたとき、

豪雨によるはんらんに会い、

その惨状を見て、溜池と水路の必要性を感じ、蒐原郡宇治郷、

河辺郡揚津村、山本里、昆陽塁等を中心に、

五つ

の池と二つのみぞ(水路)

からなる大規模な水利施設を作ったと伝える。

この内、現在残っている昆陽池は行基が作った五つの内の一つである昆陽上池だという。この播磨固において

も各地に井戸、池、仏像など行基の作ったものと伝えられているものが多い。

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溜池は、

その地形及ぴ目的に応じて築かれ、

とえば印南郡キ山方町では、谷池が多く作られてい

る。谷池は一方をせき止めると山の斜面の水を容

易に集めることができる。叉工事も堤防を一方だ

け築けばよい。その上、耕地を演さずにすむ利点

があるから、全国的にもこの種類の溜池が多い。

谷聞に作るところから、これを谷池という。

溜池にはこの他、川池、野池、予備池、中継油

(つなぎ池ともいうo

d

等々がある。これらはい

ずれも、

かんがい用水確保の溜池であることに間

違いないが、

丘陵、段丘地帯に作られた溜池には、

用水以外の目的をもっていることを見のがすわけ

にはいかない。

行基が昆陽里を中心に作った溜池は、地形的判

断をしても多目的ダムであったといえる。豪雨の

恐しさは、

丘陵文は段丘に住居を構えた者のみが

知るものである。

行基が初めて歴史に登場するのは、続日本書記 た

丘陵地帯を氾濫から守る純然たる溜池の例

(小野市内にて〉

-122ー

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養老元年(七一七)である。

「小僧行基ならびに弟子ら、

みだりに罪福をとき、朋党を合せ構え、

いつはりて聖

道と称し、

百姓を妖感す、四民は業をすつ」と見え、

五十才の行基を小僧との』しっている。

それから十数年たった天平三年(七一二一)、行基の諸業が認められ同十五年聖武天皇大仏造立発願の詔を出す

や一転して、大仏勧進に起用し、

その巧により七十八才のとき、大僧正と云う最高位を授けられている。

さて、河川からの引水に頼っていた農地も、十一世紀頃より荘園として農地が寺社管理に移ると、溜池の開発

により耕地の増加をはかり、河川かんがいプラス溜池依存による水図面積の拡大に成功している。

平畑一部にありては、

四方に堤を築いてかんがい源とした。叉、

丘陵地帯においては、自然現象による低地、陥

没地、段丘にありでは、河川の変遷によって生じた池に一部人工の手を加えて溜池としている場合が多い。

定して、

この播磨国においても、

その当時すでに数多くの溜池があったことが考えられる。溜池には、地名をと

-123ー

和銅六年(七一一二)播磨風土記より遅れること二十年、出雲風土記にいくつかの池の名が見えるところから推

って名付けたものであろうと想像されるものとが多い。中には池の形をそのま』池の呼名としているのもある。

近畿地方においての荘園の発達は、溜池の開発の最盛期と時を同じくしている。諸国を行脚して仏教を広め合せ

て利水土木技術を授けた高僧は次記の三人である。

いずれも、上人、菩薩(ぽさつJ

と呼ばれた人であり、渡来人系であった東播地方の溜池も、摂津菌、昆陽池

などの影響を受けたと見るべきであろう。

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瀬戸に面した広大な印南野を行く旅人、海路はるかに見渡して、ごう然とそびえる費古駅家館の「いらか」を

目のあたりにして、床もなく堀つ立て柱にカヤ葺きだけの家に住む当時の民衆たちは、

どんな気持でこの建物を

仰ぎ見たことだろう。

天平十年(七三八年)周防国に置かれた駅家の馬と、利用した人数が半年間に弐百弐拾人と云う記録がある。

駅家は、

一般民衆には、

およそ縁のないもので、これが利用出来るのは、巡察使、検税使、地方監督官、国可、

-124-

僧それに外国の使者に限られていた。

駅家には、地方の有力者から、駅長を選びその配下に多くの駅予を置いて維持管理させていた。駅子の仕事と

いえば駅家に置かれた伝馬の飼育、維持費を生み出す駅回の耕作、駅を利用する貴人たちの送迎である。

当時、この地、印南野が放牧地であったという記録も残されている。

「私たち駅子は世間の百姓より苦しい生

活をしています。私たちは、

一人当り二反の日分回を貰って耕作していますが、

そのあい聞に雨の日も風の日も

往来される役人を、半日・かかりでとなりの駅まで送ってゆかねばなりません。

それなのに、この間まで家の近くにあった口分回を四天王寺にとり上げられ、隣の郡の回をもらいました。こ

れでは耕しに行くことも出来ません。

賃租(小作)に出すにしても値切られます。一万どうりにして下さい」と播磨国草上駅の駅子一八

O人が国府へ

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訴えている。

これは駅子だからこそ、このような訴えが出来たが、大きな声すら上げ得ない一般の農民たちは当時どのよう

な生活をしていたのだろうか、農民は駅家の建て物が自分の生活に直接関係がないからと云って、

知らぬ顔で

すまされるものではなかった。駅家を利用するのは雲上の人たちであっても、駅家を建てたり、修理したりする

のはほかならぬ彼らであったからである。

当時の農民たちには、租、腐、調、

箔(ょう)役、

なかでも「そうよう」と呼ばれる公共土木事業の労役、都

造りをはじめ、地方官庁、寺院建築、油、河川、道路の修築などに一人前の男子なら、

一年間に六十日は出なけ

ればならない義務があった。

叉、租というのは、男女共に口分回にかかるものであって、

ひと握りの中央官人たちの為に、重い負担に苦し

-125ー

む農民と駅家制のあったことを忘れてはならない。

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丹波園、

登り窯、

兵庫県多紀郡今田町立杭、この地は古くより丹波焼として広く知られている立杭焼の本場である。

伝えるところによると、大同元年(八

O六)長門の産れの風呂薮惚太郎が、この立杭に焼物を伝えたのが始ま

りで、

ために風呂薮惚太郎は神として陶姐神社に砲(まつ)られている。

この立杭の登り窯は、無形文化財に指定されている。巨大な竹筒を二ツ割にして、十度前後の傾斜地に伏せた

立杭は二ケ所に分かれ、

上と下とがあり、上立杭の焼きものは民芸品風、下立杭の焼きものは工芸物としての

-126ー

形の登り窯は、長さ四

O米にも及ぶものである。

名声が高い。この立杭あたりの旧道を行くと古風な鍛治屋などが残り、土こね場、

ログロ場など半aR半陶の家が

一部に見られる。足で廻す独特のログロも立杭焼の特長のひとつで、

その他に「流しかけ」、

「筒書き」の薬か

け技術なども見られる。立杭焼の上紬は、器物内側にもすべてかけるのが特色で、窯焼は「ぬくめ」から始まり

焼上り六

0時間、瞬間温度千三百五十度にも達する。

立杭部落の南、三木峠付近には、古丹波焼の窯跡が発見されている。立杭の登り窯で焼かれる重厚で素朴な作

風は、江戸時代に入ると、京、大阪の通人達に珍重されるようになり、

』のころから丹波焼の名声は全国的なも

のとなった。京、大阪の一般家庭の器物は丹波焼、

とまでいわれるほど愛用され現在に至るものである。

近年、重厚で素朴な作風に心ひかれ、全国各地より丹波焼の塁、立杭を訪れる人が、年毎に多くなっている。

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道路は交通とともに発達し政治、経済、産業、社会などと密接な関係にある。道路の変遷は歴史的にも大いに

関心がもたれる。現在矯磨地方におけるもっとも大きな道路である山陽道の変遣について少し考えて見ょう。

山楊道は、我が国八道の一つで京から筑紫の大宰府に通じ、

その起原は最も古く続靖天皇三三年に、

はじめて

通じたことが皇代記に見える。

つまびらかでないが、崇神天皇の十年士口備津彦命を西道将軍

として派遣されることが日本書記巻五に見え、古事記中巻には、これを大吉備津日子命とし忌定を居えて、針間

当初、山陽道が擦磨園の何処を通っていたかは、

-127ー

の道の口とし、吉備園を言向け和せられたことが見える。

針聞は播磨の古字で矯磨から士同備に向われたのは、山陽道を通られたものであろう。氷河は、丹波に氷上郡が

あり、播磨を横断する加古川はこの氷上郡から流れ、

その下流の丘陵に日間があるが、これは氷河と相対的な名

でつまり、氷上郡は氷河の上流を称したもので、これから見れば今の加古川が氷河であることは疑いない。万葉

集巻三柿本人麻呂の旅歌に「稲日野も、ゆきすぎかてに思へれば、心こいしき可古の島見ゆ」と云うのがある。

印南野は印南、加古、明石の三郡にわたる山陽道の荒野で古歌にも多く詠まれている。

こいしく思っている可古の島が見えた、可古の島とは現在の高砂で、この歌はおそらく今の野口か寺家町あた

りで詠んだものであるう。

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これによると、当時の山陽道は明石の大蔵谷から印南野を過ぎ、寺家町、字居屋河原の辺りから加古川を渡つ

ところが姫路附近になると、

たもので、今の山陽道もほぼこの道筋を通っているので、明石から加古川のあたりまでは現在と変っていない。

いちじるしく変遷している。

姫路旧地絵図、姫路府中巡之図、姫路近傍之古地図、姫路近境古図などの古地図を見ると、

古、近世の往還が記入してあって、

それぞれ上古、中

その内上古の往還は高木村(姫路市)松顧の渡(市川〉を渡り、

さらに西中

島の辺りで渡し(飾磨川)を渡って自国に入り増位山、広峰山のふもとを平野から大野に出て、梅ヶ谷を越え御

立から書写山のふもとの西坂本にと抜けている。

これは、加古川の渡しを渡り加古川の右岸を現在の志方町から荒神谷、豊園、高木村へと通したものである。

幅縮磨鑑(かがみ)にも、古の駅路として「古の播磨駅路は今の海道より北にあり、眠路の北を通り増位山の下

より書写坂本に至り飾西を経て大市郷相野、中村の聞を通り

-128ー

播磨鐙播磨園地誌宝歴12年(1762)編さん

今の宕村に歪り、夜比良の渡しを越え、布施の郷にかかり小

犬丸光明山の下より高田、野磨を通り舟坂に至る。山陽道是

なり今に背の海道残れり。」とある。

上古の山陽道が自国を通ったのは播磨国の首府がそζに在

ったか、

それとも、山陽道が白国を通っていたのでそこを、

国府と定めたのか詳(つまぴ)らかでない。

姫路の西に船越山と云うのがある。その昔、この山を舟が越

したと伝へ、叉地名で琴ケ岡と一五うのがあるのはこの附近

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現在の 書 写山

書写山円教寺 西の比叡山とも云う

西国 27番札所(播州名所巡覧図絵より〉

-129ー

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帯まで海が迫り、琴が流れついたので琴ケ岡と名付けられたと云うのも、海と関係があるのではないか、その後

地震の変動によるものと夢前、市川、両河川などの沖積作用により海岸は南へ移ったのであろう。古代は、海道

と云う文字を使用しているのも何か解があると考えられ、古の海道は比較的高い土地を通っているが現在の須磨

明石あたりの道のように古は海岸ぞいの道であったことも充分考えられる。

中世の山陽道は、

やや南に移ったが、もとの山陽道は旧道として現在も大いに利用されている。

昔の国道には、駅があった。中世の山陽道を知るには一応駅名を標準とする。駅は大化二年(六四六)に置か

れ道路を大路、中路、小路に分ち駅制を定め駅馬及ぴ伝馬を置き、宮吏の往来、官文書の伝達等に利用した。な

お山陽道は大路に指定された。

延喜式による播磨の駅と伝馬数は、明石三十疋(ぴき)、賀古四十疋、草土三十疋、大市二十疋、布勢二十疋、

-130一

高田二十疋、野磨二十疋、越部五疋、中川五疋となっている。

延喜式では新任官人の山陽道への赴任には海路をとらしめ、大弐以上に限り陸路を取らしめた程で、中世京よ

り山陽道へ下るものは、海路を取るものが多かった。寛和二年(九八六)及ぴ長保四年(一

OO二)

の二固にお

よぶ花山法皇の書写山行幸、承安四年

〆「

一七四〉後白川法皇の厳島及び書写山行幸、治承四年ハ一一八

O)

高倉上皇の厳島行幸などもみな海路である。

万葉集で播磨の歌を海上で詠んだものが多いのも、海路を多くとったためであろう。

しかし、印南野の歌もず

いぶんと残っているのを見ると陸路を通るものもかなりあったと思われる。

ところで、姫路附近の駅路であるが、旧地絵図などの古地図を見ると、中世の往還は小川の辺で市川を渡り、

更に志深(現成東町〉

の辺で市川支流(窪手川〉を渡り白井(橋之町)

の辺で、亦、渡しハ飾磨川藍染川)を渡り

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至 北 条 至 加 古 111

古の

播磨

の街

道路

至 し か ま

至 室 津

;jt

至 高 田 至 有 年

l H ∞同 l

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ったことが知れる。

八代、辻井を経て六本に出ている。橋之町から白園まで約二・四粁あって、

その分だけ上世の山陽道から南へ移

』れまでの駅路は官吏の用のみ馬、宿泊、給食に充て、

鎌倉時代にはいって、建久三年(一一九二〉源頼朝が首都府を鎌倉に開くと新らしい交通、道路政策をとった。

一般庶民には馬も宿もなかったが新らしい宿制によ

って

庶民も利用できることとなり、交通は大い

に発達した。

この頃、加古川は加古川宿と野口の聞を流れたもので、すなわち加古川宿は野口にあった。賀古釈とはまった

くその位置を異にし、賀古駅が廃ハすた)れてから、

あらたに加古川の右患に起ったものである。大平記に延元

元年(一三三六)新田義貞が赤松則村を攻め

江戸時代の旅の様子(播州名所巡覧図絵より〉

播磨に下り、賀古河に留ったこと.か見える・か、

-132-

」れは加古川を渡って加古川宿に陣をとり渡

しを確保して後陣を待っていることを述ぺた

ものである。

加古川宿の西を流れるようになったのは、

おそらく室町時代のことであろう。国衛庄の

宿村は、官吏を宿泊させる所で宿村といった

もので、今宿は宿村のあとに起った地名でや

はり鎌倉時代のものである。

姫路の宿村は東は平野町から西は二階町ま

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といった。

で、また南は国鉄の南から、北は総社の辺りにわたる大きな村であった。現在の元塩町から二階町あたりを本村

今坂田町にある願八寺はもと総社の西にあって、宿村と中村の境にあるので宿分院といった。

鎌倉時代の山陽道は姫路附近のみ変り、

その他は中世のま』で、

つまり加古川から阿弥陀を通り御着から小川

を渡り志染(城東町)から府中(姫路〉に入った。

そして、橋之町の辺りから南へ下り平野町から宿村に入り、今宿、手野を経て飾西、

さらに中世の山陽道を大

市に出て、小犬丸から高田を経て山野里へと出たのである。

義貞が赤松則村を攻めたとき、賀古河から斑鳩まで行ったことで、当時今宿から斑鳩を経て郡波に出る(現在

の国道)道もあったことが知れる。

これが後の山陽道であるから、鎌倉

i室町時代にはいるころは、山陽道の変遷過渡期であった。

播磨は、

。。no

はじめ赤訟則村が守護職として赤訟に在って兵馬、政治を掌り、二男貞範をして姫路にある姫山に縄

張をせしめた後、小川の東庄山に移り小寺頼季を姫路に置き、庄山、姫路、赤松と山陽道によって連絡を保った。

嘉吉の乱に赤松が亡ぴたが、応仁の乱(一四六七〉

に赤松政則が再興し姫路を本拠とした。しかも後

に置塩城に移ってからは再び小寺を置いたが、こ

れも御着に移り黒田氏に姫路を守らした。御着か

ら一直線に市の郷を通って姫路に入る道は、この

噴出来たものである。

一里塚の例

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指磨鑑に「中むかしは、御着より山の脇鞍測を直下に下市の郷の方へ通り船婦、博労町へ行き夫より今宿、手

野を通りし由なり」とあるのは、この頃の山陽道であろう。

安土桃山時代に入り全国的に交通の発達を見るようになり、従来の六町一皇制を三十六町一塁とし、

一里塚を

築いた。秀吉が中国攻めの最中に本能寺の変が起こり、秀吉は毛利と和し、兵をかえしたその道も備中高松より

岡山・有年を経て姫路へと帰っている。

この頃の山陽道は、青山から斑鳩、有年から総〈なまず)峠を越えるのが本街道となり、もとの大市から高田

を経て山野里に出る道はすでに旧道となっていた。

慶長九年三六

O四)織田氏の遣法にならって、

一里塚を築いた。播磨では土山、寺家町、平津、魚橋、御着

ハごちゃく〉などが知られている。

明治維新となり、道路は面白を一新すぺく明治六年、まず道路の等級を定め国道、府県道、皇道に分け、山陽

-184ー

道を一等国道に指定、同十八年国道幅員を四間以上に定め等級を廃し山陽道を国道第四号とした。

大正九年、東京から大津、姫路、下関を経て鹿児島に至る道路を第二国道に指定した。

昭和二十七年道路法を布き一級国道、二級国道、都道府県道、市町村道に分ち、山陽道を一級国道に指定した。

昭和二年二号国道のうち、明石

i姫路間の改良工事に着手、同八年旧姫路地区の工事を竣工した。

戦争で中止した工事も二十一年に再開、二十八年地区を全通した。これが現在の国道である。

この新国道は旧国道を標準としており、沿道の町村ではあまり変っていない。これは旧国道を利用して幅員を

広げたからである。

加古川では、旧国道は野口から坂本、平野、居屋河原、寺家町を通り加古川本町(元加古川村)に入り、加古

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川を渡って船津村から平津へ出たが新国道は坂元から旧国道の南に出て、もと田園地帯であったが、今市街地化

西河本町を通り、西本町から加古川を渡って船頭〈ふなもと)から平津へ出ている。

している。東本町および南、

姫路では、旧国道は御着の酋から国鉄の南へ出て山脇から国鉄を北へ折れ、

一本松から市川を渡り九所御霊天

神の北を通り、天神町から京口に入り、福中町から船場川を渡り竜野町へ出るなど曲折を極めた・か、新国道は御

着から直線に一本経に出て市川を越えて九所御霊天神の南の通り、神屋町から平野町に入り、旧国道の北を総社

鳥居前から元の城南練兵場の南に出て元町、船丘町を経て今宿にと出ている。

こうして、山陽道は上世以来国造りの居館、政庁、守護、領主の居城などの設置にともない変遷しているが、

近世江戸時代に入ってからは、余り変らず、明治維新に及んでいる。上世の山陽道及び中世の山陽道もまだ多く

その跡、古の面影を残している。

-135ー

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鎌倉初期は浄土宗、浄土真宗、禅宗など新宗派が次つぎと起り、宗教界に新たな気風を吹きこんだ時代である

と同時に、寺院建築においても唐様、天佐一〈てんじく)技術が渡来してはなはだ多彩な時代となった。

中でも、天竺様建築は構造においても力学的な原理に即したもので

あった。

加古川流域において、それを代表するものに、小野市の浄土寺があ

-136ー

る。

浄土寺にある浄土堂

鎌倉時代のはじめ東大寺の再建工事が始められた際に、大勧進職と

なった俊乗房重源が、播磨国大部庄(小野市一帯)を給ったことから

この地を巡見したところ聖武天皇の勅願によって、僧行基の開基した

広渡寺が平安時代より荒廃したままになり、仏像な

Eも雨ざらしにな

って、今や廃滅の状態であるのをなげき新らしく堂字を埋立した。

これが、現在に見る浄土寺の建物で、建久八年(一一九七〉に落慶供

養を行った。その後、仏教の発達と共に浄土寺も次第に栄え、天正年

聞には秀吉より、叉慶長年聞には徳川家康から、

それぞれ寺領を与え

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られ、近世に至る迄、寺緑百五十石であった。

浄土堂ハ阿弥陀堂)は重源によって建立されたもので、明治三十四年三月二十七日国宝に指定、昭和二十七年

一一一月一二十一日(新)国宝に指定された。

当時中国の宋より渡来した新建築様式(天竺様)を使用

している。方三間約六十四尺四方の宝形造りで外観は簡単

に見えるが、細部にその特長がある。

内部の屋根裏構架には雄大な建築美を見せている。

この天竺様式で純粋なものとしては東大寺大門と、

この

浄土堂の二つだけが、現在我が固に残っており、

その特色

は遺憾なく発揮されている。

この外に、重要文化財として薬師堂、

八幡神社木殿拝殿

の各一一棟などがあり、浄土堂内部には阿弥陀如来、両脇に

侍立像(木像三躯)がある。阿弥陀如来は高さ一丈七尺、

両脇侍の観音、勢至は各、

八尺ある。快慶の作で浄土堂の

本尊である。

阿弥陀如来は高さ七尺で、現在東京博物館に陳列してあ

り俊乗坊重源坐像一一艇は東大寺再建の時に全国を勧進行脚

した名僧、重源の性格をそのまま表現した彫刻であって、

浄土堂と八幡神社(鎌倉初期)

wt 。。

神仏習会

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東大寺、三重県の新大仏寺、山口県の阿弥陀寺など重源と関係の深い寺院には、

いずれも重源の木像を安置して

おり、大体同じ様式につくられており国宝に指定されている。

開山堂は明応七年ハ一四九八〉本堂と共に焼失、大永から永厳にかけて再建されたもので、更に元厳時代に大

修理が加えられている。浄土寺を閉山した重源について述べると、重源上人はもともと紀秀重の子で、保安二年

ハ一三二)に生れ俗名刑部左エ門尉重定という。十三才にして、山城の園、上醐醍に入り名を重源と改め真言

宗を学ぴ法然上人に帰依し中国に渡り、明州の阿育王山が建立されるとき、周防の園(山口県)より木材を渡し

大規模な舎利殿を建てている。

この技術に対する自信が、東大寺再建に天竺様式を採用する根底となっているといえる。

東大寺の南大門や浄土寺の浄土堂は上人の新技法を最もよく残した建築物として、広く内外よりの注目をあっ

-138-

めている。

建永元年六月四日三二

O六)上人は東大寺浄土堂において八十六才の生涯を終えているが上人が興した寺院

は移しい数にのぼっている。

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加古川をさかのぼると、織物の町として知られた西脇市が

ある。そこでたもとを分けるのが杉原川である。川に沿って

北上すると東播磨の北端、多可郡加美町、杉原谷小学校内に

記念碑が建っている。石碑には「杉原紙発祥之地」と銘打つ

てある。もともとこの地は奈良時代美紙の産地として聞こえ、

平安時代すでにその産地として聞こえ文献にも多く現われる。

最も古い記録では十二世紀初頭にその名が見える。

杉原紙は国内を風ぴし、上下の人々に愛され、中世には、

紙の品種を示す普通名詞となった。このように、永い歴史

を持つのは他に類を見ない。しかし、惜しむらくは今杉原谷

に紙をすく者がないことである。大体以上のようなことが彫

りこまれている。この碑は昭和四十一年三月に地元の人達の

手で建てられている。

今日、杉原紙を知る人は少なくなった。しかし加古川流成

「杉原紙発祥之地」 記念碑

多可郡加美町杉原谷小学校に在る

-139ー

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の祖先、

およびその足跡を尋ねるとき、古代から中世、近世にかけて日本の文化を支えてきた杉原紙の歴史を見

逃すことは出来ない。

正安二年〈一一二

OO)に脅かれた、高野山記録に用紙はすぎ原と明記してある。

日本の木版印刷は、奈良時代において仏教の経典の出版を主に始まり、平安時代末期から鎌倉時代にかけて大

きな発達をした。

江戸時代にはいると、図書出版は益々盛んになり武士、町人階級の文学、国学、儒学にも、この杉原紙が数多

く用いられるようになった。さらに明和二年〈一七六五)鈴木春信によって多色刷り版画法が始められ、錦絵と

名付けられたが、ここにも杉原紙が使用されている。

元議十五年(一七

O二)三月九日大石蔵之助が、山科から豊岡在住の勇である石東源五兵ヱにあてた手紙の中

-140一

に杉原の名が出ている。

中世において杉原紙は祝儀贈答品として愛用されている。秀吉が安土城の織田信長へ数々の献上品をさしだし

ているが、中でも杉原紙がそのトップであった。

江戸時代後期の本に杉原紙を次のように説明している。

「この紙は上々様の献上の紙なり、十帳一本といい、

この紙を一帳ずつ二つ折りにやり違え十候重ねて中を水引きで結び、末広一本を添えて献上することをいう。」

と当時の様子を語っているのに対して、地元の杉原谷一帯でかつて製紙が行なわれていたことを裏づけるものは

ほとんどない。総て、中央の資料に頼るもので、

その歴史についても同じである。

日本へ紙の製法が伝わったのは、推古天皇の御代十八年〈六一

O)と云う。杉原紙が記録の上にあらわれた文

久四年(一一一六)までの聞にどのような経路で、

いつ頃杉原谷へ紙すきの製法が伝わったのかは不明である。

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永久四年(一一二ハ)

この杉原紙が固有名詞としてはっきり記録に残っているのを年代願に見ると

仁安二年(一二ハ七)

承久元年〈一二一九)

正安二年(一三

OO〉

徳治二年(二ニ

O七〉

殿暦に椙原庄紙

兵範紀原本の紙背文書に椙原紙

北条九代記に杉原紙始而流布

高野版印板目録に料紙椙原

東寺評定引付に杉原一帳

正平元年(一三四六)噴庭訓往来播州椙原

年代もこの頃になると杉原紙の名が圧倒

いる。

的で、多くの人達に知られるようになって

さて、この当時杉原谷が紙すき村として

成長した条件は、紙の原料である「コウゾ」

が生える山野と水が豊富であったからであ

る。だがその生産を支えるには多くの入手

と施設が基盤となっているはずである。こ

のことはこの杉原谷が早くより聞けたこと

は地史の項で述ぺている。

を実証するものであり、このことについて

杉原谷の鎮守の森の中にある四宮神社

「椙原j の文字が今も残る

-141ー

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室町時代の中頃まで「杉原」と書けば、杉原谷からすき出される良質の紙そのものだった。ところがそれまで

紙といえば、杉原紙というイメージがあまりにも強烈だったため、室町時代の終り頃から諸国の紙の産地が杉原

の名をかぶせて自分の紙を売り出すようになった。

丁度、紀州、

雲州といえば、

みかん、結域(ゅうき)、大島といえば紬というように、

いつのまにか杉原とい

う固有名詞が普通名請となったのである。

江戸時代になっても杉原谷で紙すき作業が続けられたが、江戸も末期ともなると八

OO年の歴史を誇り、日本

の代表的な紙と言われた杉原紙も衰微の一途をたどり始めたのである。原因は述べる迄もなく、江戸末期より治

水の為に雑木林がその名の通り人工植林により次々と杉林に姿を変えてゆき、杉の生長するにつれて紙の原料で

ある「コウゾ」が不足し、

やがて杉原紙の名とともに姿を消したのである。

-142ー

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いまはただうらみもあらじ諸人の命に

加古川流域を代表する城と云えぱ、二年半の間秀吉をしてくぎづけにした三木城をあげるべきであろう。

かわるわが身と思えば。

矯州太郎加古川の支流美察ハみの)川を見おろす三木市上の丸の丘には、戦国の世の悲劇を伝える歌碑が夕日

に赤く燃えていた。

青年威主別所長治が、二年半にわたる秀吉の攻囲に万

折れ、矢っきて士卒領民の助命を条件に自害した行為は、

今なお人々の心を打つものがある。

別所氏の始祖は赤松氏の庶流、別所頼清といわれてい

る。播磨国別所村の豪族頼清が保元二年(一一五七)

木城を築き移り住んだと伝へる。当時京都と山陽道の交

通は有馬、三木、姫路の街道によっていたので、赤松氏

は頼清をこの要衝三木に封じて守護させたのであろう。

その後、赤訟満拡が足利六代将軍義教を私邸に招き殺

-143ー

別所長治の辞世

三木城本丸跡に建つ

三木域主

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国脅圃骨園事

図画珊緩

tム」と却曲

.111.近t量初期総IB分命11

「兵庫県の歴史」 より

-144-

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害した嘉吉の乱(一四四一)に別所跡則が加担して、山名軍のために三木撲を追われたが、結則の子則治が、赤

径の遺臣たちと計って播磨から山名氏を追放し、東嬬二十八万石の領主として別所家の再興、明応元年ハ一四九

二)に前の城あとに釜携を築いた。それから八八年ののち天正八年三五八

O〉

一月十七日、秀吉に敗れて落域

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4

して別府家は滅亡したが、この三木域政略戦は信長の天下統一のひとつの「かぎ」だったと後世の史家は評して

織田信長から中国征伐を命じられた秀吉は、天正五年の秋播磨へ兵を進めた。信長の勢威はすでに播州路をひ

とのみし、姫路城主黒田孝高を始め、

ほとんど戦わずして陵伏、秀吉の軍門に下った。しかし、長治の奏照子は

は丹波国八上城主波多野秀治の妹で、

また波多野と毛利は親族関係にあり、コ一家の聞には信長に対する密約がで

きていた。

秀吉は第一回の矯州攻略に成功したあと、

-145-

いったん

より

安土へ帰り、翌天正六年三月、本格的な毛利攻めのた

め二度目の播磨入りをした。近郷の威主たちは、

つぎ

「兵庫県の歴史」

つぎとごきげん伺いに出仕、三木健掛からは長治の叔父

別所育相続と重臣三宅治忠が派遣されたが秀吉との会談

は予想通り決裂、六月末に秀吉の三木城攻略の火ぷた

が切られたが、別所配下一一車となっての抵抗は意外に

強く、軍師竹中半兵Z

の進言により兵糧攻めの策を取

らねばならなかった。

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この兵糧攻めは半兵ヱがしばしば用いた方法である。

秀吉は兵七千もって、三木域の周聞に配置、延長十二粁に渡る包囲網を張りめぐらし長期体制をとった。そし

て、三木の春は去り秋も過ぎたが包囲網は解かれず、別所軍もよくねばった。しかし天正七年その年の暮れる頃

には域内の食糧が底をつき餓死者.か続出、草根、木皮はもちろん軍馬の肉までも喰いつくしたので城の運命はも

はや明らかとなった。

翌天正八年一月十五日、別所長治はついに覚悟を決め、

「別所一一族は城中で自書するから、土卒、農民、婦女

子の命だけは助けてほしい」と書状を秀吉に送った。さんざん自分をてこずらせた長治に対し秀吉は酒、

さかな

を送り、その態度を称賛した。十六日に按兵は最後の酒宴をして、翌十七日に長治の妻照子ら婦人が先ず自害し

これを見とどけたのち長治、友之兄弟が前記、の辞世を残して切腹した。長治二十五才、友之二十一才の若さ

-146ー

であった。

落成後の域下町は荒れ果て』いたが、秀吉は無税を布告して復興を早めた。

域は一万和九年(一六二三)に小笠原忠信が解体、明石城の用材としたので石垣と井戸だけが残り現在に至って

いる。い

まも残る別所公まつりは、この一族をしのぶ町民の憂情でもある。

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は、加古川の河口の右俸に開けた町である。

万葉の背より高砂は「相生の訟」とか謡曲聞の「高砂」などでその名声は、広く天下に知られている。この高砂

天正十三年(一五八五)、秀吉は、指磨園

姫路に木下家定(二万五千石〉を封じ、当時

伏見にあった百軒米倉を高砂にも造ることを

命じた。この米倉を北と南に分け、北に五

軒、南に四八軒、他に小蔵として、

一聞のものを十軒、更に脇蔵をも建てた。こ

れが完成したのは、姫路五十二万石、池田輝

政の時代であった。これを世に、播磨、高砂、

百軒蔵といった。

輝政戊

河口から一塁(約四キロ)にわた

って掘川の改修工事を行い、両俸の百軒蔵に

は大阪の堂島へ送る東矯磨の年貢米を収納し

高砂百軒蔵の面最多〈江戸時代〉

高砂市今津町在

-147-

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江戸時代の倉番所の名残り

軒の丸瓦に歴代藩主の家紋がある

-148ー

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たのである。

この他、掘川の両岸に、

一橋、久留米、笹山など合せて二十四藩の米倉が立ち並び、港には加古川流域より高

瀬舟が年貢米を運ぴこみ、ここから千石船がこれらを大阪へ積み出すことから、高砂は米の一大集散地として、

明治維新まで繁自の地であった。

ころはげ落ちてはいるが住時の高砂百軒蔵の面影を今もとどめている。

その後、明治末期より大正にかけて大企業の進出で、米倉は壊され、現在残っている米倉も白壁は、

寛延ハ一七四八

1一七五一〉

の頃より代々姫路藩蔵役人であった赤井家

の現在の当主裕治氏の語るところによると、

「先祖は代々姫路藩高砂米蔵

番所役人として仕え、年貢米の検査、蔵納め、蔵出し等をその役として、

明治四年廃藩まで続き、現在私の住んでいる所は元蔵番所跡である。

砂市藍屋町藍屋)白壁造りの二階建ての武者窓から百軒歳、小蔵が見られ

窓に接して脇蔵があったと父より伝え聞いている。」とのことであり、今

では古文書も殆んど四散して、次記の帳面が残されているのみである。

文政十年(一、八二七)南御蔵御出来控帳

高砂御蔵納内控帳〈四四八ケ村〉

姫路蔵御家中分限帳、これは嘉永四年〈一八五一)と記されている。

村々町里控帳、

文化八年三八一一)この里控帳によると姫路から

里程は、すぺて京口を起点として高砂港までの里程を定めている。

ところど右が三ツ巴

-149ー

左が源氏車

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この他に御用箱が一個あり、赤井氏宅のひさし瓦は、

五七綱、源氏車、三ツ巴、剣酸祭など歴代姫路滅主

の家絞入り瓦で、.当時の船番所を偲ぶには余りにもわぴしい感じであった。

五七の桐

:ji--:木下家定

源氏車

-・・榊原

三ツ巴

松平

剣酸媛

:・・・・・・・・・・酒井

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慶長十八年(一六一三》東照権現公〈徳川家康)御霊の十五条のキリシタン取り締りの条文は、

キリスト教が

神国を妨げる邪法なりと云う考え方であるために取り締りは徹底していた。

江戸時代初期の加古川流減でのキリシタンの足跡は、今のところ明らかではないが、当時村々の外れには高札

場があり、各種の禁令が揚げられた。その中にこんな高札も一枚加えられていた。

五百枚、いるまん訴人に銀三百枚、

立ちかえり者訴人に銀三百枚、同宿並びに宗門の訴人に銀百枚、上記の通りほ

-151-

「キりシタン宗門は、累年御制禁たり、不審の者があれば申し出ること、ほうびとして、ばてれんの訴人に銀

うぴを与える.か、もし穏しおき、

よそから露見した場合、庄屋、

五人組まで一類共に処罰する。」

宗門人別娠は、現在の戸籍簿の役目を果していた。もともと住民の一人一人をキリシタンでないか識別するた

めに、所属する寺を明らかにして書きあげたものである。

一家の戸主はもちろん妻子、使用人にいたるまで、男

女の別、年令、所属する寺が記入してある。

奉行が一年に一回人別帳改めを行ないあとは正屋・か改めるという方法を取っていた。宗門改めは、

一般住民だ

けでなく寺院の僧たちに対しても行われた。万田山鶴林寺の宗門改帳によれば、嘉永二年(一八四九)、同寺で

は住職浄心院恵圭五十四才、弟子良圭二十二才、同圭寅二十才ら八人の出家が著名押印して、宗門奉行に届けて

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もともとキリスト教を取締るために始められたこの帳への記畿が、

その後、戸籍簿の役目を果すようになった

のは、住民の戸績が結婚や養子などで、異動するごとに寺請け状などが発行され、寺より発行されたこの身分証

明が当人について廻ったためである。

結婚の場合を例にとって見ると、人別手形が村役人の聞で取りかわされるわけであり、文化九年三八一二)

願い主ハ当人)嘉次兵エが、村年寄二人に添え書きしてもらって、町大年寄衆中へあてたものに

「中二階町、亀屋嘉次兵ヱと云う者ですが、妻に御領分印南郡加古川村小兵エの妹(二十八才)を呼びたいと思

-152ー

います。仲人は当町、京屋利右エ門です。みねの宗旨は同村真言宗称名寺且郵ですが、呼ぴ取ったあとは飾東都

亀山乗土真宗正竜寺旦那になります。嫁取りがすむと中二階町の年寄、普七、仁ヱ門連名で印南郡加古川組同村

庄屋平兵ヱにあてて、人別請取手形を出す。

おたくの村の絹屋小兵エの妹みね、この度、亀屋嘉次兵ヱの奏に縁付いて来ました。寺を改める一札も受け取

りましたので、今後当町の帳面に記載しますから、御村の帳面から除いて下さい。」とある。

このあと、当人と年奇二人と町大年寄二人連名で、宗門奉行にめヲて承認を頭い出て許可されると、この手続

きが終り、このとき寺院から寺院へ一札が因されることになっている。この為に、寺院の改寺一札が発行されな

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旦郵寺がないことになるので、

キリスト教信者と見なされるのである。この為に寺院は絶大な権力を持た

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されたことになり、中にはこれが為に寺への寄付を強要する寺院もあったと云う。

結婚、養子、旅行、この他家族の移動については、総て旦那寺の身分証明がなければ、

れなかったのである。

一般民衆は身動きがと

-153ー

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悪、

績といえば大部分の人は、高い山を想像する。実際自然は地球の表面を海、山、川、野、湖等と大別して五種

類に分け、形づけており、嶺は高く、海は広いというのが、小学生でも知っている一般知識である。ところがこ

の観念を根底からくつがえすからくりが、加古川流域にある。

国道百七十五号線と百七十六号線が出合いする兵庫県永上郡永上町

石生、ここに南北に架かる小さな僑がある、

よほど気をつけないと気

-154ー

水分橋(みわかればし〉

づかずに通り過ぎてしまう。橋の名は水分橋(みわかればし)で、普

よりこの石生のあたり、水分れと呼ばれているのである。さりげない

石生の姿が秘めた「自然のからくり」を先人は、これをとっくに見故

いて、橋の名に水分橋とはうまくなずけたものである。文字通り、水

分に降った雨を二分する。すなわち水分橋に降る雨は、北と南に分か

れて流れ、南へ落ちた雨は高谷川l柏原川l加古川を経て瀬戸内海へ

注ぎ、北へ落ちた雨は黒井川l竹田川

l由良川を経て若狭湾へ注ぐ、

水分橋に降る雨にとっては、

その運命を決める橋であり、別離の橋と

もいえる。

水分橋の東方、

石生の奥山に発する高谷川、これをさか

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のぼる北岸の道が分水界で、この間

約千三百米、標高は、水分橋で百一

米、低い所で九十五・四米の平担地

が日本海側と瀬戸海側との分水果と

なっており、全国で最も低い分水嶺

である。

水分の分水界地図

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国道176号線

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矢印は水の流れる方向

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今と昔、

米と金と人間の価値

今から二千五、六百年前から日本で稲作が始まっている。それは畳

呂の弥生式遺跡から米を「つく」ために用いる「きね」と「うす」が

発掘されこれを実証した口

古代社会では通貨と云うものはなく、欲しいものは総て物々交換、

中でも米は大変貴重なものとされ、米が現在の金の役目を果していた

のである。古文書に稲千束で「どれい」

一人を買う、馬一八頭と稲六

千四百東と交換したなどが記されている。

奈良時代即ち和同一克年(七

O八)日本最古の貨幣である和同開亦が

作られた。これは銀貨と銅貨の二種類で和同三年には米一石(百五拾

託)が銅銭十五文と云う記録が残っている。

建久三年ハ一一九一一〉鎌倉幕府以前より地方豪族達はその支配下に

ある農民から年貢として収獲の半分を取りあげ、この米によって家臣

を養ぃ、余分があれば売却して武器を手に入れた。

織田、農臣、徳川幕府時代には全国で米一、八

OO万石ハ二十七万ト

古銭のいろいろ (筆者秘蔵〕

-156-

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ン)の収獲があった。この一、八

OO万石の内四

OO万石を天領すなわち徳川幕府のものとして、

のこり一、四

OO

万石は諸大名の領地として分け与えている。

一万石以上を大名といい、大名が二四

O家、拾万石以上の大名は四五家となっている。徳川家を除くと最大の

石高を有していたのは、加賀前回一

O二万石である。この一

O二万石は領地内の収獲高で、これを金に換えて諸

費用にあてたのである。

このように我が国では長い間、米・か国の経済の基本となっていた。

徳川幕府約参百年の聞に米の価格は約二倍にしか上がらなかったのに、明治元年米一石ハ百五拾庖)五円九八

銭、明治三年三円八八銭、明治二十七年日清戦争時には八円八十銭、明治三十七年十三円二十銭、大正八年は五

-157-

十五円八十九銭、当時労務者は一日九十二銭、昭和六年になると米一石十八円三十六銭、同じ十五年には四士二

円三十銭

へとはね上っている。

昭和二十年弐百五拾円、昭和十九年政府は米を生産者米価と消費者米価とに分けたのが現在も続いている。

昭和四十三年米一石約二万円、首相の月給六拾万は昔の録高にすると参百六拾石で、

せいぜい侍大将である。

さて、明治四年五月袋が国最初の貨幣法ハ新貨条令)を制定、これに基づいて金銀の硬貨が発行され、雨、分

朱、に変って円、銭、盛が登場した。貨幣の単位も四進法を改め十進法となった。

明治五年に発行された金貨は弐捻円、拾円、

五円、

一円の四種類である。

稲一把は米五合

一O把は一束

一東は米五升

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四ツ晴れに笠取るな

八せんに日和なし

朝夕立に川越すな

ヨ毛

川の瀬が高くなると、雨が降る。

-158-

朝、とんぴが舞うと雨が降る

守りのつらい聞は朝間と晩と

雨の降る日と風吹きと

守り子、もり子と沢山なげに

守がありやこそ

子が育つ

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守りよ

守り子よ

なぜ子を泣かす

泣かしゃしません

なきなさる

嫁と姑はいぱらの花よ

見てはうつくし

よれば刺す

とろりとろりと

眠むたい時は

馬に五十駄の金もいや

茶摘して

でも養

いまする

私しゃあなたの妻じゃもの

猶か

いたちか地蔵さんか

-159一

盆の十三日

踊らぬ者は

お婆ばどこ行く

三升だる下げて

嫁の在所え孫つれて

唄の先生はないかと思や

姫路の殿機

うたのかみ

向うの山みりや

木の葉が落ちる

あれが落ちたら

雪が降る

奥山に

ひとり米つく

あの水車

誰れを待つやら

くるくると

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V

佐治川の歴史

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(加古川上流〉

瀕戸内海に注ぐ矯磨国の名川、加古川は古名を氷河とい

った。現在河口近くに日岡という地名があり、叉その上流

に、丹波国氷上郡があるのは、何れもそれに因んだもので

あろうと、井上通泰博士が推断している。

この氷ノ河という河川名は「古事記」に出ている。考え

方によっては、この河川名は編者の追記でもある。もとも

と呼称不明の川に「古事記」時代の名称をはめこんだ疑い

も起ろう。古事記時代には加古川は氷ノ川とはいっていな

ぃ。下流に関する限り印南川と呼ばれていたことは、古事

記と時を同じくして編纂された嬬磨風土記によっても明ら

かで、氷ノ河と云うのは古代の河川名と推測され、其の河

川名は上流である佐治川にも及んでいたものであろう。

その理由は、佐治川流域に古くから氷上という地名があ

ることからしても判断される。

佐治川上流 氷上郡青垣町にて(河口より約80Km附近で上流を望む)

-161ー

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何れにしても、氷上という名称は非常に古く播磨風土記〈七一四)

の中に氷上万売ハヒカミトメ)と称する女

性の名が出て来る。

これは女曾長で同書にある丹波万売と同一人物ではないかといわれている。これがもし同一人物であれば、昼

食に乾飯を水でもどして食べていることからして、農耕時代の女性であったと思われるのである。

氷上万売が四国の讃岐から押しかけて来た。そして讃岐日子の求婚を退けて争そっている、現在の神崎郡福崎

町に本拠を構えていたところの、建石命の救援を受けて圏外に退けたと伝えている。このような私闘が行なわれ

たと云うことは大和朝廷の威令が全国になりひびいていた以後のことではあり得ない。それによっても氷上とい

う名の古さが想像される。

上古の佐治川流域に女曾長が権力を誇っていたことは山威風土記逸文にも出ている。即ち丹波国神野の神伊賀

女酋長は、佐治川だけでなく竹田川流域まで支配力を揮い、

しかも出雲系氏族と深い関係を持っていたことを

-162ー

古夜日売が賀茂建角身命と結婚している、イカコヤ姫もまた地方の豪族の女酋長であった。

暗示するものと見ることが出来よう。

さて、

それらの支配者階級が土着かそれとも他国から進入してきたものか決定的根拠はない。

機磨風土記によると、播磨国に於いては、出雲氏族が天日槍の一一族を角逐して後者を但馬の出石に退け、全盛

を誇ったことははっきりしている。と同時に北九州より海神族、宗像三女神が結束して矯磨地方に進出している

ことにも注目したい。

宗像三神のうち二神までが大国主命の妃となって、播磨平野に足跡を留め原始農耕時代にはいっている。

大体宗像女神の本社は北九州の筑前にあって、航海の安全を守るものとしてよく知られている。

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これら紀子、氏族は航海や漁業を得意とした。舟にのって沿津、河川を遡って湖沼地帯に進出する技術を持つ

だけに、出雲系の勢力圏内に入りこみ加古川の上流、佐治川流域にまで進出することは自然であろう。叉氷上郡

内には、幸世村(氷上町〉に油良があり沼貧村ハ氷上町)に池利がある。

ユ-フ、

ユリ、

などという地名は全国に

多く何れも海人の根縄地を意味している。

では、何故丹波山中に海人の部落名が実在するのであろうか。これは一見不思議であるが、原始林の生い茂る

上古に舟運を持つ者が最も移動し易かったことを考えれば、海人遣が加古川伝いに佐治川まで遡上することは、

比較的容易であったと思われる。そのため季世村、沼寅村にも海人進出の跡を留めているのであろう。

それ等の海人は、今の生郷村石生(いそう〉

(氷上町)

の、平地同様に過ぎない所の分水嶺を越えれば、竹田

-163ー

川流按に進出できるのをみのがす筈がなかった。

黒井川を下って竹田川に出て日本海に下ったことは、舞鶴の近くの大雲川の河口に、由良と呼ぶ海人縁故の地

名が存続しているのでも推測せられる。

加古川に於いて、滝野の如き激流となっている個所では、舟を陵上に引場げ障害を突破する習慣で、播磨風土

記にある一例の如く海上の舟でさえも、加古川河口近くより明石市の近くまで、陸上十数キロメートルを運鍍し

ている。

佐治川の舟を小水流伝いに石負の近くまで乗り入れ、

それを陸に揚げて車問弁川に移すなどは海人たちにとって

は甚だ容易なことであったに相違ない。

最後に想起しなければならないことは、上古の九州に女酋長が多かったことである。古代中国の史書には九州

のことを女曾長の国と記述してある。

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女性が神懸りの状態で神意を伝達する宗教的意義に基くものだと、何れにしても氷上郡でも女信長が支配の実

権を鍾っていたのである。この者らを高い家を造って住まわせ、高い梯子(はしご)で昇り降りして育てたので

ある。その古蹟は高帰郷と名づけられ出雲人はタガシと呼んでいるという。これは高い梯子すなわちタカハシの

つまったものである。

掠保川、加古川流成に進出した出雲族、海人等も三世紀頃には大和族の弾圧を受けて衰運に向い、

て新らしい勢力が搭磨地方に入り込んで来たのであろう。

それに代つ

-164一

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古代は此の地方に一大湖沼があり、神功によって干拓されたと云う。そして丹波、但馬にかけて湖沼伝説が幾

つも残されている。

多紀郡郷土史話によれば、今の多紀郡一円は湖水であり、山岳を切り開いて水を落したものだという。多可郡

杉原谷にも同じような伝説がある。

氷上郡の沼寅ハ氷上町)船城ハ春日町〉は共に古代湖沼に因んだ地名であり、

そこは湖水の水底であったとい

-165-

ぅ。氷上郡誌によると、風間井川の水路改修工事の際巨木を姻り当てたと云う事実がある。これは船銭村から黒井

町にかけての低地が古代原始林であった事、

そしてそれらは大洪水によって破捕概されたものであろうが、定かで

はない。

沼貧湖沼伝説は、沼を貫いたので沼貫というのだと簡単に説明している。その湖水と云うのは、沼貧村朝坂を

南限とし、北は幸世村沼に至る広大なものであって、欽明天皇の御世(五四

01五七二)奴々伎神社祭神の助け

によって大洪水が起り朝顔山を切り開くことが出来たので、湖水は流れ落ち、

その跡に今の佐治川の水路が出来

たのだともいう。日本書記によると五六七年諸国に大洪水があり、人々は人肉を食うほどの大水害を被むった。

朝顔山の切崩しも、

その時の大洪水によるものとすれば、

一応の説明はつく。しかし、佐治川一帯の標高を調べ

ると朝顔山麓で約一

OO米、沼部落の辺りで約一二

O米とその差は僅かである。もしもこの間一帯が満々とした

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湖水であったとすれば、水はその吐け口を生郷村の石生の分水点に求め竹田川に流れ落ちたであろう、何故なら

この分水点は海抜百米余しかないからである。従って佐治川中流古代大湖水説は積極的な証拠がない限り疑わし

いといえる。

海人達の佐治川上流への進出については、先にも記したが氷上郡誌の見解は、古代人の交通には湖沼や河川は

大きな障害であり、古昔丹波民族が逮坂谷から南下しなかったのは佐治川中流に存在した大湖水に阻まれたもの

だというが、事実はその逆である。上古の原始林を突破することは頒(すこぶ〉る難事であったので山岳を通過

するには帥障を伝い水路があれば舟を利用したのである。

それには、次の理由があった。当時原始林の中には多くの熊や狼が住み、

それに怯えながら迷路のような原始

林を進むより、舟を利用した方がどれだけ便利であり気楽であったか知れない。

その上、当時の独木舟は水路に障害があれば陸路を曳いて行進できる便宜もあった。従って古代に於ける独木

-1 nnー

舟の需要は想像以上に多く、出雲風土記の編者が出雲ヒノ河の状態を述べるところでは、沿俸の土地が肥沃で箪

木繁茂、魚類は豊富、深湖、急流に並ぴ泳ぎ、河口から河上まで五都の百姓が皆河に便り、

一月から三月まで木

材を運ぶ船が往来している、

と云っているのは同じ氷の河である加古川にも当てはまることである。当時の舟材

の浮き宝は杉と僚であった。その杉は佐治川沿岸の到る処に良材があり、船木一一族が佐治川に進出するのに随踏

したとはとうてい想像出来ない。事実はまったく逆で彼らが遡上してその根拠地と定めた所が、今日の氷上郡春

日町船披村なのであろう。ここは佐治川だけでなく竹田川本支流から更に遠く由良川方面へも舟を供給し得る絶

好の位置にある。この船城村を中心として犬、多、王のついている地名が相当に多いのはそのためではないか。

船域村の周囲には古墳時代の遺跡が存在している。何れにしても、多美族の船木一家が尾張氏族と並んで佐治

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川流嫌に進出、発展したことは間違いない。

古代の佐治川流域の開発は、これ等両族の発展欲と大和朝廷領の鉱張とによって実現されたものであろう。こ

の期聞に各種の職業をもつものがこの地方にも現われている。例えば鳩加という地名があるがそれはハッカシベ

(泥部〉部民の居住地であり土を焼く工人の集団であった。成松町に犬同と云う部落があってイヌカと呼ばれて

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hと均

」れは

(犬養部、犬甘部)部民の住んでいたものであろう。狩を職業としたものである。同町と沼貫と

の境、生郷村本郷の辺りに才家とか、才とかという字のついている地字が幾つもあるが、

これは才伎の転じたも

ので手人、

工匠とも書きテヒトと読んだのである。船嫌にある石才、新才などの地名も手人の住居を示すもので

ある。以

上のような職業集団は大和朝廷なり豪族の配下に過ぎなかった。氷上部内の各地に残されている古墳郡の内

-167-

に大なるものには彼等のものがない。古墳はさきの海人、出雲両族の衰退に乗じて進出して来た頃すなわち四

1

五世紀のものである。

佐治川流域の発展に貢献した民族に帰化人の集団である泰民族がある。

1七世紀に佐治川地方に進出したのは何故かと考えるに、土木工事で京都平原を開拓したその手腕を、所領

拡大のためとあらば佐治川流繊にも当然派遣するということからであろう。泰氏族の佐治川進出は六

i七世紀と

されている。以上の氏族、集団による大小の私領も、大化の改新を転機として佐治川から一掃されることはなか

った。地

方において強豪を誇った氏族制度は崩潰して、佐治川流域も面白か二新することになり、

そこに氷上郡が一

行政区劃として出現したが、

その監督官庁たる都家が何処で郡の首長、当時の言葉でいえば大領小領は、何れの

氏族から出ているかも詳らかでない。

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河川の土砂流出量を推定するため北海道の石狩川で、雪解け期に河口を通過する浮泥量から計算したところ、

二五

O万トンの湿土すなわち体積に換算すると一二

O万立方米になり‘しかもその外に熔解物資が七十万トンあ

り、河水の搬出量総計は雪解け時期だけで三

OO万ト

γにも及んだという。

佐治川の下流、加古川幹流の河口にその一例が実在している。現在その地域には高砂市があり、

工場が立ち並

ぴ港には大小の船が出入りしている。その向い側には、尾上の松の名所もあるが、

それ等の地区は一克は海中であ

-168-

った。そ

れも一二

OO年ぐらい前にもそうだつたことは、婚唐風土記によって立証されている。同書には、鹿子水門

ハカコノミナト)という地名が出てくるが、

それは現在の加古川市稲屋附近であり、ここの旧名が大津であって

船着き場を意味する。ここに立って南瀬戸の海を望見すると、この平地が一二

00年間の河水の仕業かと驚く。

稲屋から河口までは明治二十六年(一八九一一一〉頃の実測に基づく五万分の一図で測って見ても、直線距離にして

一塁近くある。

この大三角州を造った加古川流出土砂の中には、上流の佐治川地方のものも少なからず含ま九ている。

これは何も加古川に限らず、姫路市網干区も同じである。中古において佐治川流域でも官庁は治水に対して無

関心ではなかった。それは井料固という地字が季世村伊佐口に、成後町犬同と生郷村にも亦井領国というのがあ

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り、これは今日でいう河川改修費を支弁するための田畑であった。これは佐治川に限らず同じ地字は何処の河川

流悼械にも残っている。

古代の歴史を知るのに出土遺物、古社寺の由来や地名を調べてみることで古代への大切な手がかりを得ること

が多い。それは上古、中古の記録がほとんど全滅同様になっているからである。この他にクゲ固というのがある

が、これは、地方の役所に必要な費用に使用する田畑であった。

河川に関してのもので、船掴酬と古語にあるのは、舟溜りおよび舟着き場のことで、舟額功徳田、造船瀬料回の

地名は前記は由汚濁りを造った賞として、朝廷より賜わったもので、後記は舟溜りの費用に当てる固であった。

井料固について今ひとつの見解がある。この井料困の井は弁堰料困ではなかったかということである。溜畿の

-169-

ための堰堤は中古でもイセキといったことは和、名、妙によって明らかである。井料回の場合も初め纏料国次に

井堰料固となり、更に簡略化して井料固となっているのだという説もある。

さて、佐治川の変換は各地の河川?も実例があるように佐治川の貫流する盆地は勾配の比較的ゆるやかな部に

属し、蛇行による河道の変換は容易であったと考えられる。芦田村との村境でその幅を狭められた沖積地帯は、

伊佐口近傍になると幅を鉱げている。これは、この近傍に於ける渓流の作用もあるが、佐治川幹線の蛇行が主因

であろう。佐治川古代の本流は季世村の沼、御油の辺りでは現在よりも商を流れ、方町、伊佐口、番良、絹山、

柳町によって包まれている小盆地に於ては今よりも東に幽り、更に下って北国井、賀茂の辺では現在より西寄り

になっていた、

との伝説があると問時に推測もされる。伝説は更に続くが佐治川の本流は見回井堰の附近に於い

て西方の山麓を流れていた。それが中古一

O八二年の大洪水によって水路の大変換があり、成飢怖から見回井寝辺

りにかけての川筋が今よりも西よりであった。而もこのような河道の変遷は和田村、小川村(山南町)方面の下

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流部に於いても相当にあった。

佐治川の水源地方である神楽谷あたりは、もとは樹木が繁り谷深いものであった。叉逮坂谷も同じであり中古

の佐治川上流は、この両川が合流する地点まで、舟筏の通う水量があったことも考えられる。

これを少し下ると芦田川を始めとして小流の水を集めているからである。幸世村にある船戸、並びに対埠の御

油の向船戸の地字は中古の水運に関係があることが充分考えられる。

というのも全国各地の河川周辺にあって何

れも船戸、船渡という地名が残っているのは、下流の船がこの辺まで遡上したことを証明することになるが、こ

れは古代の独木舟でなく江戸時代の高瀬舟の前身と云うべき舟であろう。しかしそれがいつ頃のことであるか詳

細は不明である。地名について、追記しておきたいものは、各地に見られる五反田、六反国は斉田と云って、却制

廷の神事に使用する費用にあてるものである。斉周は五反、又は六反という規定があったからである。

この当時の租税は金納でも穀納骨、もなく稲東納で、外に絹や雑布などの物納も認められていた。これ等を納め

-170ー

る倉庫を正倉?、グラ)といい、正倉の建並んだ一劃を正倉院という。これらの倉は奈良の正倉院式の所謂アゼ

クラ式であり、中古には叉倉とも摩とも書いているが正式には甲倉と書いて、

カワグラと呼んでいた。

その頃の租税は収獲の三割程度であり、徳川時代の五公五民あるいは六公四民などに比べると軽い方だと考え

られるが、

その収獲たるや肥料はほとんど施こさない自然農業であったので、後世の農業とは比較しょうもない。

その中には兵役も含まれていた。

農民には租税の他に膚といわれ毎年十日間の労役、雑役が謀せられ、

兵士になるのは幾民だけに隈られ、二十一才から六十才迄服役の義務を負わさせられ、其の問、近くの軍団に

配置されるならまだしも、

一年間は防人として九州方面へ、

また三年間は衛土として、京都へ派遣されている。

しかもこの場合、食費、武器、旅費等はすべて自弁であり、こうした苦役を背負わされた農民兵士の任務といえ

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ぱ、訓練と警備だけでなく武器、武具の製造はもとより輸送にもあたらしめた。

身分制度としては、貴族、公民、賎民とに分けられ、賎民は売買、贈与、寄進など、物品と同じ扱いをなされ

ていた。

「万葉集」

〈七六

O年頃)にその惨状を次のように写している。

「わら葺の小舎の中で地面にわらを敷き、父母

妻子と共にごたごたと眠り飯を炊く米もなく岬吟して居る、枕もとに村長が鞭をもって怒鳴っている。」有様を

われにとって狭くなった。日月は明るいといっても、我がためには照って呉れぬ。

世の中の道はそれほどまでに仕方のないものであろうか」と自らをして深い嘆息の言葉を吐かしめて居たのは実

述ぺ「天地は広しといえども、

にこの頃である。奈良の都に天平の文化がおこり大仏造営、諸大寺の建立などが盛んだったのは七世紀の末から

八世紀にかけてのことであり、貧農民はその生活に追われて故郷をすてて諸国を初盆ハさまよ)

いつつ、

その生

-171-

涯を終える者も少なくなかった。

叉、兵士として兵役に服した者も任地への道中において餓死したり、一二年、

一年の任期が過ぎても役を解かれ

ずして任地へ行ったま』帰郷しない者もあった。

これ等、流浪者の中にあっては、賎民、乞食仲間にはいる者、盗賊団に加わる者、盗賊団に備えて豪族の傭兵

となるか、俄か坊主になって諸国を流浪して食にありつくなど、生きるがために、

あらゆる手段をこうじたので

ある。「

楽しい事・かあっても大きなロをあいて笑うことが出来ず、悲しい事があっても高い声を婦げて泣くことが出

来ず、

いつもびくびくして不安におののき、恰(あたか〉も雀が鷹に近寄られたときの有様」と当時のことを文

人が、

このように書き残している。

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寛仁三年三

O一九)氷上郡の食民が京都御所の陽明門前で大騒動を起こしたのもその一例といえる。このとき

数百人が上京し、二十四ケ条の解文ペケプン)即ち上申書を差し出し首謀者十数名がつかま

っており、この騒ぎによ

っては国司藤原額任も解職とな宮た。これより前、延喜二年内九

O二)越前の農民が騒ぎを起こし国守を捕えて縛

りあげ、丸坊主にして手織まではめたという。以上のような有様で大化の改新によって断行された土地固有、人

民解放はわずか三

OO年にして旧に逆行し、人民の多くは再ぴ荘園の農奴と化すことになった。

荘園の興隆が主因となって、武士の出現となったことは、別紙荘園の個所で述べているので略すことにする。

中世とは、鎌倉に幕府が創立してから武家時代までを云うが、中古末期の寛治七年三

O九三)に幸世村に荘

園を持ち始めた京都の上賀茂神社は、引続き武家時代までそこに領地を持っていたと云う。荘民に食事を奨励し

堤防を修築させた、

それが加茂堤と称せられて今日まで残っているというが施工の時期は明らかでない。

-172-

天正年間、姫路城主池田三左ヱ門輝政、加東郡滝野の阿江与助、多可郡黒田庄船町の西村伝入斉などの請願書

により加古川上流の改修の話も残されているが、この時の工事が佐治川中流にまで及んだものだと推測されること

を述べると、近世になって徳川幕府が樹立してより、領主たちも佐治川の治水について考慮したことは確かであ

るが、当時氷上郡を三十数家が分割領有し、佐治川地方に於いても水源地から河口まで流域は分断されて、

それ

ぞれの統治を受けていたのであるから、

一貫した治水方針はなかったであろう。しかし、部分的に芦田村の粟住

野に織田上野介築造の高堤防というものがあり、

また沼貫村の見田井堰については後援醐天皇の代に創設された

ものを、上野介によって大改造されたと伝へられているから、領主も治水には無関心でなかったことは明らかで

あり、別章益田築堤でその説明をしている。沼寅村新郷にある疎水碑文に「そこの暗渠は天保十四年〈一八四一二)

泉安右ヱ門が計画したものを、代官有国敬造が手を打って賛成し、直ちに起工命令を出した」と刻まれている。

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盲目

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久下村北太田〈山南町)に筏座が設けられたのは徳川十代将軍の代(一七六

01一七八六)であった。佐治川

の方はそれよりも早く秀吉の頃にはすでに船座があったという。

織田上野介が伊勢より丹波に封ぜられたのは慶長三年(一五九八)でそれより三代、

四八年間続き、

その聞に

柏原川を引き込んで新井村母坪(柏原町)に船着き場を設け、船八般に許可を与えたという。推測すれば信長は

武器、兵員の翰送に河川を利用していることが多く、

それが、この川においても行なわれたのが後に物産の搬出

-173-

等に利用する舟運へと発達したものであろう。尚舟着き場は多可郡小酋と本郷にも設けられ、共に船八般の許可

が与えられている。

その後、母坪と小首の船座は廃止され多可郡田高ハ黒田庄町)に船座が新たに設けられ、本郷、滝野聞を区間

として運航した。多可郡誌には、舟運を次のように簡単に記述している。

『維新前にありては荷物は主として牛

馬文は人の肩で運搬したが、唯甫へ運ぷときに限り加古川を利用して舟の便りに依り、当時加古川を三部に分ち本

郷川(佐治川〉を奥川、船町より滝野這を中川、滝野以南を下川と名づけたり、船町に船座と称する問屋ありて

南へ運ぶ荷物を同所より高瀬舟に積毅して滝野ヘ下げる。本郷川を南下する上納米(年貢米〉も此の船便に依れ

り、高瀬舟に依らずして南へ陸上運送するものには、物品の運上を船座より徴収したる由、舟運は明治維新後に

廃せられ舟運の便全く絶えたり、但し木材竹材は筏として水運の使によれり。」

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また「明治十年頃より荷車と云うものを陸上運送に使用するようになり牛をして税(ひ)かしめるをもって牛

車と云う名称が生る。周三十年頃には大輪車を新調するようになり馬をして般かしめた。明治三十八年谷川より

西脇に至る常使を開始せしより運送便利となれり。」とある。

さて、氷上郡の年貢米は総てこの舟運を利用して大医の蔵屋敷に運ばれたのである。飢周波村(春日町)、歌道

谷には船城神社がある。享保六年(一七二一)宮家より寄進された鳥居を京都から運ぶのに淀川を高額舟で下り

大飯より年貢米とは逆コースで加古川を高瀬舟で上り氷上郡へと輸送している。船着き場の跡は母坪の北の谷川

で、船川と呼ばれ本郷のは稲継にある古川がそれである。

明治維新後、高瀬舟は衰微したとはいえ、明治十五年は米、塩、木材、石炭、雑品など合計七千六百五十九駄

(一駄は四十貫一五

O粁)を輸送して、江戸時代には年平均四千八百四十駄となっている。高瀬舟は二十石で舟

-174ー

には櫓も帆も備え、帆はむしろであった。舟の運航は秋の彼岸に始まり初夏の八十八夜迄と云うの・か定めであっ

た。これは農業用水の必要な期聞は避けたものであり、船主は井堰を通過する毎に越し料と云う名の通航税を各弁

組に支払っている。

これは筏も同様である。船主側としてみれば免許を受け運上金を納め、

その上に弁堰通航料まで支払っている

のであるから、当然通航自由なわけであるが農民側の反対にあって、

その申出は認められなかった。

嘉永田年(一八五回)篠山川、佐治川の船筏主連合で陳情奮を役人に差出しているのは、其の一例であって、

その文書によると、

「この川筋は荒れ川である。水が出る度に水路が変る。前年のように度々の出水で船筏の通

路は砂洲となってしまった。そのために船筏を陵上に引揚げ二丁余りも人力で運ばねばならぬことになった。し

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かし、この不便を避ける途はある。井堰の水勢の強い所に通路を変えることである。」と述べてある。ところ・か

二回も陳情したが取り上げてくれない。これでは鉛筏の運上金が納められないだけでなく、山村も文年貢滞納と

なるだろう。これは良国が少く木材を伐り出し高砂へ送り、

その売上金で年貢を納めている十七ケ村の百姓にと

つては死活問題である。回答の如何によっては江戸表へ訴えるかもしれない、

と役人に再考を求め廻りくどく述

べているが、佐治川流域は米作第一主義の建て前から船主や、筏主および山村の利益を・無視している。所詮佐治

川は農村のための水路であり、決して船筏業者や水運業者のためのものではなかったのである。

-175-

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私達にとって家庭において日常生活の上で直面するもの、社会にあって常日頃祭するもの、それらについてよ

く知るということは非常に大切なことです。

人間関係は勿論のこと、大にしては固と国とが友好関係を保っていく上で、相手について考え、知る必要があ

ります。

日常生活の上で、

あるいは仕事の上で、自らが直面するものに対し、

』れを充分知る必要があり、特に現在、

河川関係の仕事に携わっている私遣にとって往古より幾度か流れを変還して、今日に至る河川の姿、

その素顔、

-184一

歴史を知ることが急務であるという坂本忠彦調査課長、山元茂継調査係長の一致した見解のもとに、私は本書作

成にとりか‘ふりました。そして、御二人の適切なる指導と励ましにより、

その完成を見たのが、

」の「加古川の

流れ」です。私この尽力に対し、深く感謝し、御礼を申し上げる次第です。

ところで、今から十数年も前のことですが、私は加古川や揖保川の素顔と素性を知りたいと図書館を訪ずれ、

古書庖まであさり廻りました・か、

それらについてまとめられたものは見当りませんでした。

母なる川は、無視されている。なんとかして両河川のせめて水害年表だけでも、この手で作成出来ないものか

と考えたのがこの時です。

十年ひと昔と申しますが、あれからそのひと普を上まわる歳月が流れています。

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やっと集めた数々の参考資料、

その中から一行半句の史実を探し出し、それらひとつひとつを積み重ね、書き

撮るということは、無学の私にとって非常に難事であり、

それに加えて忍耐と努力を必要としたことは確かです。

自分から求めた事とはいえ、誰れも一片の同情すら寄せてはくれなかった。そして、

いたずらに流れた歳月、

今、それを静かに娠り返るとき、

その聞の様々な労苦はどこかに消え、

それよりも良き上司に恵まれたことが、

出版に当り何ものにも換えがたい私の喜ぴでした。

「加古川の流れ」は本書で終了したのではなく、多くの書き残しの部分と、婦治から今日に至るまでを、合せ

補足した「加古川の流れ」を後日、

まとめ上げたいと考えています。

最後になりましたが、本書に対して各種の資料を提供して頂いた方々と調査課の皆様をはじめとして御協力を

なお、私、現在、舞保川の部をまとめつ』あります。

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願った皆々様に対して厚〈御礼を申し上げますと共に、このたびの出版の喜ぴを分かちあいたいと存じます。

そこで、本書に対する皆様方の御批評を拝聴して今後の参考とし、少しでも内容の充実した「舞保川の流れ」

として仕上げたいと思っておりますので、重ねて御協力を乞う次第です。

本書

の写真撮影、企画、校正すべて山元係長の手を煩らわせました。

昭和五十年正月吉日

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加古川の流れ

1975年 1月印刷 非発品

1975年 1月発行

発行所建設省近畿地 方建設局

姫路工事事務所

姫路市本町 6 8

印刷所阪神企画印刷(株)

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