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Meiji University Title �-�- Author(s) �,Citation �, 116: 1-28 URL http://hdl.handle.net/10291/8988 Rights Issue Date 1978-03-01 Text version publisher Type Departmental Bulletin Paper DOI https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/

初期デカルトについての覚え書Ⅰ-旅立ちの前- URL DOI - 明治 …初期デカルトについての覚え書1 一旅立ちの前 飯 田 年 穂 (1) 1628年の冬,ルネ・デカルトはパリをはなれた。彼のうちには,ひとつの決

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  • Meiji University

     

    Title 初期デカルトについての覚え書Ⅰ-旅立ちの前-

    Author(s) 飯田,年穂

    Citation 明治大学教養論集, 116: 1-28

    URL http://hdl.handle.net/10291/8988

    Rights

    Issue Date 1978-03-01

    Text version publisher

    Type Departmental Bulletin Paper

    DOI

                               https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/

  • 初期デカルトについての覚え書1

    一旅立ちの前

    飯 田 年 穂

                         (1) 1628年の冬,ルネ・デカルトはパリをはなれた。彼のうちには,ひとつの決

    意と,そしていまだ漠然としたものではあったけれども,或る確かな計画が揺る

    ぎなく存在していた。彼は母国フランスを捨て,オランダに移り住もうとして

    いたのだったが,かの地での生活のなかに彼が目差していたもの,それはまさ

                         (2)に「哲学」と名付けられるべきものだったのである。そしてそのためには,精

    神の自由を,世俗的拘束にわずらわされることのない静かな環境を,つまり何

                  (3)よりも孤独を彼は必要としていた。

     この旅立ちは,あたかも彼の新たな人生への出発を象徴する行動と見徹され

    もしようが,そこにまで彼を駆り立てていったものは,「実際の自分とちがっ

                    (4)て評価されることを好まない潔白な心」という「方法叙説」の字面だけから判

    断されてはなるまい。そこには,すでに早くも彼の生活全体を貫いていたよう

    にさえ見える,強い方法的意識から生み出された必然性に根差す,深い自覚が         (5)あったと思われるのだ。

     オランダに移ったのちのデカルトの歩みは,われわれにとってすでに親しい

    ものとなっていると言ってよいだろう。彼はかの地で,まず最初に,すべての

    学の第一原理となるべき学たる形而上学の研究に取りかかる。しかしこの研究

    は,1629年3月にローマで観測された幻日現象をきっかけとする自然学研究の

    再開によって中断されてしまう。そして新たな自然学研究の成果は,ひとまず

                   一 1 _

  • 「世界論』LθMondeという形でまとめられるのだが,その刊行はガリレイ事

    件の衝撃によって中止され,結局1637年の「方法叙説』に付せられた「試論』

    Les Essaisとして発表されることになるわけである。その後1641年に「省察』

    が,44年に『哲学原理』が公刊され,そして49年に最後の著作「情念論」が出

    版される。

     このようにして1629年以後のデカルトについては,その著作と彪大な書翰と

    によって豊富な資料が与えられているのだが,それに反してそれ以前のデカル

    トに関しては,はなはだ資料,文献に乏しいといわねばならない。いきおい,

    青少年期のデカルトが具体的にどのような道をどのようにして歩いてきたのか

    ということは,わずかに「方法叙説』が伝える彼自身のことばによっておぼろ

    げなイメージを持つ以上には出ることができないというのが,多くの場合実情

    なのではなかろうか。

     しかし当然のことながら,現実のデカルトは,ことの初めから「コギト」を

    原理にして近代的な主体性の哲学を立てたわけではありえず,そこに至るまで

    の多くの逡巡,探究の過程があったのである。そしてその経緯を確認すること

    なくしては,そのあとに続くデカルト哲学の真の在りようを正しく理解するこ

    とも不可能なはずであろう。われわれが初期デカルトに  ということは,

    1628年以前のデカルトを指していっているのだが 注目するのも,それ自体

    が固有に提供する興味に加えて,そうしたデカルト哲学全体における意味をは

    っきりと見出すからなのである。文献不足はもとよりのこと,断片的な資料を

    いかに読んでそこに生きたデカルトの姿を浮かび上がらせるか,が問題なので

    あって,可能な限り若きデカルトの生きざまを,一歩一歩たどってみなければ

    なるまい。

                     (6) ラ・フレーシュの学院を卒業して以来,オランダ移住に至るまでに14年の時

    が経過している。周知のように,ラ・フレーシュの学院での人文主義的古典教

    育は,「人生に有用なすべての事柄についての明晰で確かな認識」を約束するこ

    とによって,幼いデカルトに初めて学問的理念の輪郭を提示し,彼の内的理解

                   一 2 一

  • を呼び醒ます第一の契機となったのであり,その点で,彼は一時強い期待を学

    院の教育に抱きは q,をのだ・たが・し…そう・た彼の篇は虚しくも鋼ら

    れrるをえなか・た実許でも学院卒業後彼は更に・ポ・テ・エの大学で法律

    と医学を学んだらしい。こうした若きデカルトの態度には,学校教育に対する

    素朴な信頼と純真な向学心といったものさえ,感ぜられなくもないのである。

    彼自身自らを評して言うように,デカルトはもともとは,自分が他人よりも真

    偽の弁別において特に有能ではないと考えて,自分自身でよりよい意見を探そ

    うとするよりは・むしろ他の人から教えられる意見}・従うことで満足するよう

    なたぐいの燗だ。たのだ,とい。てもよ、・のだろ鍔

     ところがそうしたデカルトが,一通りの教育課程を終えたとき見出したもの

    といえば,なおはなはだしい疑問と誤謬にさいなまれている自己の姿以外では

    なかったのであって,彼は自ら告白して,それまでの学習で得た成果とは,「自

    分の無知をますます発見した」ことのみであ。たと嘆くほかなか。たの£!)こ

    のときのデカルトの心情を十分考慮してみれば,「わたくしの教師たちの支配

    からはなれることが許される年齢になると,わたくしはすぐさま人文学les

    1・・t・e・の魎を全・やめてしま。£1)という・うな。、ばに込められて、、、想

    いも,かなりわかってくるといえるだろう。

     「方法叙説」の記述はたしかに,それ以後のデカルトの歩みをたいそう単純

    化して・第一部の末尾に出てくる「或る一日」の1619年11月10日までの約3年

    間,あたかも何ら勉強といったことはせずに,もっぱら「世界(世間)という

    大なる書物」1e grand livre du mondeを相手に,旅と人々との交わりに時を

               (12 費したごとく書いてはいる。ジルソンなどが突いてくるのもそうした点なので

    あって,事実彼が指摘するように,この時期のデカルトがあらゆる学問研究か

    ら完全に遠ざか。ていたわけではな・認識学泊然学の諸隠そして殊

    に応用技術的研究(例え輝事灘とカ、絵画の遠近法な91)に対する関、L,

    は,絶えず強く持ち続けられていた。ただここで注意せねばならないのは,そ

    れに反して,彼がやめたと言っているのが「人文学」の勉強であることであ

    る。すなわち,これは基本的には中世以来の伝統に忠実に則った,具体的には

                   一 3 一

  • 文法学,歴史,詩学及び修辞学を内容とする,古典的学校教育にほかならな

    細従。てデカルトがそうした勉弓鉦全くやめたと言。ているのは,とりも

    直さず既成の教育に対する深い失望と訣別を表明している,ということにほか

    ならないのである。

     われわれはこのデカルトの一言のなかに,彼がおそらくは初めて味わったで

    あろう深刻な挫折の跡を読み取ってよいのかもしれない。学院在学中のデカル

    トは,向学心に富んだ素直で優秀な生徒だったようだ。学問的素質はすでにそ

                           (16)の頃から,いろいろな機会に発揮されていたらしいし,幼い時より身体の弱か

    った彼には,学院生活のなかでさまざまの好意的待遇や,特別な取りはからい

                     (17)が与えられていたことが伝えられている。こうした少年デカルトが,自分の将

    来に楽観的な見通しを持ったとしても,さして不思議なことではなかったろ

    う。「わたくしは,他の者が自分について下していた評価も知っていたし,誰

    も自分を同僚たちより劣っていると見倣していたなどとは思わない。しかもそ

    れら同僚のなかには,すでに将来教師の地位につくことを約束されている者が

       (18)いたのだ」というデカルトの口吻のうちには,明らかにその頃彼が抱いていた

    自信のほどが窺えるというものである。

     けれどもそれと同時に,デカルトの学校教育訣別表明のうちに,一種の愁嘆

    の声とでもいってよいような響きを聞きうるということも・また事実であろう・

    一見乾き切ったような「方法叙説』のことばが,その実複雑な心理の起伏を秘め

         (19)ていることは,常にわれわれが念頭に置いておかねばならぬことなのだが,18

    歳のデカルトに,或るいはその後の大学での2年を加えても20歳にしかならな

    いデヵルトに,「この世には,以前わたくしに希望を抱かせたような学説は何も

          (20)存在しないのだ」とまで言わせたのは,決してたんなる論理的反省のみであっ

    たわけではありえまい。無知の自覚を,既成の学問の無力さに対する彼の批判

    を,深いところで支えていたものは,若きルネの人間全体を揺さぶるような精

    神的動揺であったにちがいない。それが実際にどのようなものであったかを,

    細かい内容にまで立入って描き出してみせようとしても,われわれにはいまの

    ところ無理なことを認めざるをえないし,阿かそのきっかけになるような,青

                   一 4 一

  • 年の心を決定的に変化させてしまった特別の出来事があったのかどうかも,具

    体的にはわからない。ただのちにべ一クマンに宛てた手紙のなかで,彼がそれ

    までの自分の生活を評して無為怠惰の生活と言っていることなどは,その後の

    デカルトが学問研究の面で一種の虚脱状態のようなものに陥っていたらしいこ

                   (21)とを,十分予想させるように思われる。

     いや,この時のデカルトの挫折感の意味を,もう少し探ってみることはわれわ

    れにも十分可能なはずである。彼は人文学の研究を捨てて,「自己自身のうちに

    か,もしくは世界という大なる書物のうちに見出されうるような知識」を求めて

    旅に出ると,以後の数年を志願兵としての軍隊生活に,或るいはさまざまな身

                         (22)分,階層の人々との交わりの生活に費すことになる。そしてその間,もろもろの

    経験を重ねつつ,世の人々が自らの生きるという行為そのもののうちで思考し,

    判断していくその現実を見つめ,かつその場に自身をも置いて彼自らの自己を

    また試みていこうとしたのであった。何故なら,およそ真実というものがあると

    すれば,それは学者たちの現実遊離した概念遊戯のなかにではなく,生きるとい

                                   (23)う現実的経験の場においてこそ見出されるはずだと,彼には思えたからだ。

     「方法叙説」でのこのあたりの口調は,ずい分と強い調子である。そして強

    い口調である反面,内容的には取り立てて新奇な要素を含んでいるわけでもな

    い。「書を捨てよ,町に出よう」的発想は何もデカルトに限ったことではなく,

    絶えず繰り返されてきた陳腐とさえ思われなくもない発想なのだが,ただそう

    したことばがちょうど20歳位の青年の口から出たものであることを考えると

    き,かえってそれなりの真実感を持ってくるということも,また否定できない

    ことのように思えるのである。おそらく「方法叙説」のこのあたりの記述は,

    この時期のデカルトの心理をかなり生の形で伝えているといってもよいのでは

    なかろうか。意識的に彼は俗世間の生活のなかに身をのめり込ませていくこと

    によって,彼はそこにひとつの生活上の革新をはかろうとしていたように見え

    るのである。

     こうしたデカルトのいき方から浮かび上がってくるのは,ほかでもないモラ

    リストとしてのデカルトの姿である。経験という第一の現実に立ち帰り,そこ

                   一5 一

  • に生きかつ思考する自己の在り方を具体的に検証・反省することを通して,そ

    れまで自己にこびりついていたさまざまの爽雑物を取り除き,真実の自己をあ

    らわにしようとする試み,それはちょうどひとつ前の世紀で,モンテーニュが

    その生涯をかけて実践したことにほかならなかったが,若きデカルトもまたそ

    うしたモンテーニュ的歩みのあとを辿り始めていたのだった。

     モンテーニュの懐疑主義は,人間性の基本的枠組を形成すると見倣されてい

    た多くの伝統的観念に対して,その実,それらがたんなる「習慣」のメカニズム

    によって作り出された,従って本来的人間本性の観点に立って見るならば一切

    必然性を失ってしまうような,作り物にほかならないことを,豊富な具体的事

    実を活用しつつ  とりわけ新大陸の発見にともなって,当時のヨーロッパに

    はそれまでの常識を覆すような種々の情報が広く伝えられるようになっていた

    が,そうした実例はモンテーニュにとって恰好の材料であった  証示しよう

    としたのであった。また更には,スコラ論理学をモデルに,概念的な推理能力

    として規定されていた「理性」についても,モンテーニュの批判は,現実の場

    におけるその無力さを徹底的に暴き出すことによって,既成の学問体系と経験

    的現実との乖離を鮮やかに描き出すことに成功していた。

     このような批判を通過することにおいて,「人間性」の概念は中世的付着物

    から純化され,それまで繋ぎとめられていた枠組から自由になることができた

    のである。そしてそこに現われてくる新しい「人問性」の形態を受けとめ,そ

    れを更に概念化していくところに,近代的自我の概念が形成されていくわけで

    あり,デカルト哲学に付与せられた主要な意味もまたそこに根差しているとい

    うことなのだが,いまはその過程にこそ近代にまといついた諸問題の最も深い

    淵源のひとつがある,ということを指摘しておくにとどめよう。

     さてデカルトのほうだが,そうしたモンテーニュ的とでもいうべきモラリス

    ト的反省期も終わりに近づいたころ,彼は振りかえってそれまでの自分の歩み

    に対し,「多くの物事が,いかにわれわれには常軌を逸した奇妙なものに見え

    ようとも,それにもかかわらず別の偉大な民族によってはそれが一般に受け入

    れられ,承認されているのを見て,わたくしは,実例と習慣によってしかわた

                   一6一

  • くしに信じ込まされていなかったような事柄は,どれも決して信じすぎてはな

    らないということを学んだ」という,そのこと以上の成果をあげることはでき

             (24)なかったと評している。たしかに彼はその間,絶えず「自分の行為において明

    らがに見えるように,そしてこの生活のなかで確信をもって歩けるように,真

    と偽を弁別することを学びたいというぎりぎりの欲求」を持ち続け,そのよう

    な判断の拠り所となるべきものを探してきたのであった。しかし書物のなかに

    おけると同じように,直接的経験の世界のうちにも,やはり求める拠り所は得

    られなかった。そこに見たものは,前の場合と同様の「多様性」でしかなかっ(25)

    た。

     自分の人生を確信をもって生きること,それがデカルトにとって端的に存在

    していた目的意識であったろう。こうした意識は,ひとつには当然のことなが

    ら,ことさらデカルトに特有なものであったわけではなく,人間にとって普遍

    的に妥当するところのものではありながらも,ただそれと同時に,いまひとつ

    の面として,それが17世紀前半というヨーロッパ近代の成立期に生きたデカル

    トに課せられた歴史的課題であったことも,忘れられてはなるまい。

     中世がそれ自体においていかに評価さるべきであるかは別としても,ルネッ

    サンスとレフォルマチオを核とする歴史の過程のなかで,それまで人々の意識

    をプラスの方向においてであれ,マイナスの方向においてであれ,等しく規定

    してきた中世の画一的価値体系の枠組が,その特権を無効にされていったこと

    は認められてよいだろう。

     ルネッサンスは,古代文芸の復興という名のもとに多種多様な学説を思想の

    場に登場させながら,既存の思想の体制を相対化していったのだったが,その

    なかでレフォルマチオが突きつけた最終的離反状は,本来絶対的な普遍性と唯

    一性を保持せねばならぬ必然性の承認の上に成立していた教会的イデオロギー

    を根抵から否定しさることによって,価値の相対化を完遂したということがで

    きよう。

     そうした思想状況に置かれた近世的意識の問題性を,十全な自覚をもって受

    けとめた最初の注目すべき人間が,フランスではモンテーニュであったわけだ

                   一7一

  • が,モンテーニュに示されるような16世紀の理性は,自己批判という形を通し

           Kて思想の全般的な再検討を開始し,そこに近代の思想状況はいよいよその問題

    性を鮮明に呈示するようになっていたのであった。

     デカルトが教師たちのもとを去るにあたって鋭く感じていたのは,こうした

    歴史的経緯に裏打ちされた理性の不安であっただろう。そうした不安をもたら

    した状況の特徴は,端的に思想の多様性という形で現われていたのであって,デ

    カルトの前にはすでにあらゆる思想が出揃っていた。しかもそれらの思想の間

    では,もちろん力関係にいささかの優劣はあったにしても,それらの根本を貫く

    相対性の事実は人人の意識にとってもはや覆うべくもなかったのであり,スコ

    ラ学を批判しつつその絶対性の根拠を突き崩すことにおいて,他のもろもろの

    学説もまた各自の正当性を主張することができたわけで,その後には,かつての

    スコラ学に代わるような優越性を獲得しうる思想はいまだ現われていなかった。

    現実には,依然としてスコラ学の体系が一応の中心的地位を保ち続けながら,そ

    のまわりには懐疑論,唯物論,感覚主義や原子論,そして神秘主義,或いは錬

    金術,占星術などの秘教的諸学までもがはっきりとその場所を得ていた,とい

    うような状態であったろう。なかでも,近代自然科学へとつながっていく数学

    的自然学が急速にその地位を高めてきていたことは,いうまでもない。

     このような根源的多様性を前にして,それではそのうちのどれを選び出した

    らよいというのだろうか。いやそれより,いったい何かひとつを選び出すとい

    うことが,そもそもいかなる根拠に立つことによって可能になるのか。しか

    も,こうした態度決定をせまられているにもかかわらず,いまだ何らそのため

    の手がかりがないとはどうしたことなのだろうか。このような疑問はデカルト

    にとって,自らが確信をもってこの世を生きるための判断の拠り所を獲得する

    ことと,根抵において本質的に結びついていたがゆえに,それに答えられない

    ことは,デカルトの人間全体を揺り動かす深刻な不安を生み出さずにはいなか

    ったのだといえよう。

     しかも学の妥当性を現実の人生に直接関わるものとして捉えていこうとする

    理解は,ほかならぬラ・フレーシュの学院における教育により示唆されていた

                   一8一

  • のであって,すなわち「人生に有用なすべての事柄についての明晰で確かな認

    識」という理念は,幼いデカルトの頭から考え出されたものであったのではな

    く,ジェズイットの教育活動の基本理念に則って,ラ・フレーシュの学院の教

                                   (26)師たちが生徒に呈示し,彼らを導いていたところのものにほかならない。

     ここには明らかに,ルネッサンスの教育的理想の反映を見ることもできるわ

    けであって,それに対しデカルトがことさらに鋭く反応していったということ

    であるのだが,それとともに,ジェズイットの教育活動が,終極的にはあくま

    でカトリックの信仰に導くという目的に支配されたものであり,その点で,た

    とえ見かけの上ではルネッサンス・ユマニスムに示されるような近代の立場に

    親愛的素振りを取ってはいながらも,その実,教会の立場に反するような要素

                            (27)は注意深く排除されていたことも見落されてはなるまい。従ってジェズイット

    の判断規準は,基本的に伝統的教会の枠組から一歩も出ることなく,固定的に

    踏襲されたものにほかならず,ために近代的立場に対しては,本来何ら有効

    な仕方で対処しうるものではなかったといわざるをえないのである。とりわ

    け,実験・観察による実証的及び数学的方法に基づく近代科学は,中世的思考

    の原理そのものに対立する本質的アンチ・テーゼとして現われてきていたので

    あったが,彼らはこうした近代科学のもつ意味を正しく理解していたとは思わ

    れないし,それゆえに当然にも,それらの新たな立場全体にわたる根本的反省

    を媒介にした真に綜合的な学の実現など,彼らには望むべくもなかった。

     ところが,それにもかかわらず当時のデカルトにとっては,それ以外にいく

    らまわりを見渡したところで,学院での教育を越える,より以上の何かを見っけ

    出すことができなかったということも,否定しえぬ事実だったのである。この

                           (28)点はデカルト自身慎重に確認しているところであって,実際にも近代初頭の学

    問的状況としては,基本的にスコラ学の体系ほどに整備され,それなりの基礎

    付けをもった体系的学はいまだ現われてきていなかったことが認められねばな

    らないだろう。それ以外のものは,たとえそのうちにいかなる革新的契機を含

    んでいようと,特殊性の域を越え出てはいなかったのであり,或るいはせいぜ

    いのところ強力な批判的勢力を形成するまででとどまっていたというのが実情

                    一 9 一

  • である。従ってジェズイットの教育活動が,スコラ学の体系を基盤に置きなが

    り,ル不ッサンス・ユマニスムのもたらした成果を,限界はあるにせよ取り込

    んでいくなかで自らの独創性を打ち出そうとした姿勢は,当時の状況のなかで

                            (29)は一応の説得力を獲得しえたことが理解されうるのである。

     デカルトの期待と失望も,まさにジェズイット教育のもつこうした特質に根

    差していたわけであり,期待が大きかったのであればこそ,それだけ失望も大

    きかったのは当然のことであろう。そしてその失望の核心をなしていたことこ

    そ・多様な思想状況のただ中にあっていかに判断したらよいのか,そのための

    根拠をどこに求めたらよいのか,という課題に全く答えることのできない無力

    さにほかならなかった。現われてきていた多様性がたんなる見かけの雑多では

    決してなく,根本的・本質的な対立を含むものであったがゆえに,それに対応

    していくためには既成の立場を越えた真に新しい立場に立つことが要求されて

    いたのであって,このことはとりも直さず,既成の立場にとどまっていては最

    早どうすることもできないということを,そして同時にいままで自分を支えて

    きた足場がいっきに取り去られてしまうということを,意味していたのであっ

    た。

     しかもこれは,繰り返しになるけれども,デカルトの生活全体に関わること

    であった。すなわちデカルトのうちには,すでに学院の教育そのものを通じ

    て,学問と現実的生との問に本質的な関係が存在することの自覚が,いまだ十

    分に整理されてはいなかったにせよ存在していたのであったし,それに加えて,

    これまた見逃されてはならないと思われるのだが,こうした問題は卒業後のデ

    カルトの進路の在り方と密接に結びついてもいたのである。

     っまり,デカルトのような資質をもった学生が,学問の昂揚した意義と価値

    に全幅の信頼を置きつつ,学問を学ぶことに大きな喜びを持ったとすれば,そ

    れも貴族という身分からくる生活上の自由さがそこに備わっていたのであれば

    なおさら,将来漠然と学究の道に進もうと考えることがあったとしても,さし

    て不思議ではないだろう。「方法叙説』の記述などには,事実デカルFのうち

    にそうし酵えのあ。たことe+分窺わせるような部分があ理従。て,彼が

                   一10一

  • 学院での勉学に深い興味を抱き,非常な熱心さをもって修得に努めたことのう

    ちには,おそらく上のような方向で自分の将来を考えていたことが含まれてい

    たと思えるのだが,そのような彼にとって,学院での教育に対する懐疑は,と

    りも直さず彼の生活そのものに対する二重の意味での危機感を生み出さざるを

    えなかったといってよいだろう。ということは,まずひとつに彼の生き方一般

    に関する理解において,学問上の諸知識を現実の生活に有効なものとして捉え

    ながら,真なる知識に支えられた確実な判断により確信をもって人生を生きる

    という基本点が,そもそも何ら基礎付けられていなかったことをあらわにされ

    ることによって,無効になってしまうこととともに,それに加えて,デカルト

    個犬の具体的な生活の方向付けにおいては,生活の基本的理解それ自体が失効

    してしまった以上,その上に支えられていた将来の目論見もまた崩れざるをえ

    ないという両方の意味で,根祇からの影響を及ぼす結果を惹き起こさずにはす

    まなかったということであり,そこから若いデカルトのうちには,彼の人生全

    般にわたる激しい危機感が生まれてきたわけなのである。

     学院卒業前後にデカルトを捉えていた問題の意味は,およそ以上のようであ

    ったと思われる。だから,彼が「人文学の勉強を全くやめる」と言ったとき,

    彼がそこで意味したかったことは,端的にスコラ的学校教育に代表されるよう

    な既成の学問の立場は,ひとまず自分の思想的探究の場から取りのけておくこ

    とにしようということにほかならなかったといえるだろう。それらの学問にた

    ずさわる学者たちは,事柄に対する根本的理解を欠いているために,デカルト

    の内的要請に何ら応えることができないのである。そこで,彼は現実的経験の

    世界に目を向け,「世界という大なる書物」と自己自身のうちに見出される知

    識を求め,それを吟味することによって,そこに何らかの一般的要素のごとぎ

    ものがないかどうか探っていこうとするのであるけれども,それは同時に「各

    人にとって重要性をもち,もし判断を間違うならばすぐさまその報いによって

    罰せられるような事柄」と向かい合った場面で,人はいったいどのように行動

    しているのか,いかに思考をめぐらしいかに判断しているのか,を観察すると

                   _11一

  • ともに,更には自ら自身もそうした場面に身を置き「自己を試す」m’6prouver

    moi-memeことによって自己においてもまた,その時の判断の経緯を確かめよ

                (31)うとする意図に導かれていた。

                  (32) デカルト自身あとで言うように,実践の場ではそもそも遅滞は許されないの

    であって,たとえ確信を欠いているとしても,何らかの行動に自らを決定せね

    ばならない。さてそうであれば,その時人は何を拠り所にして自分を決めてい

    るのか。自分の死活に関わる事柄でありながら,薄弱な根拠しか与えられず,

    しかも出来る限りすみやかな態度決定をせまられているという状況のなかで行

    うぎりぎりの判断にこそ,どこよりも人間的真実があるように思われるのは当

    然だが,そのような判断において,それでは何らかの一般的要素といったもめが

    見出せるであろうか,もしそのような何かが見つかるとすれば,それこそ,この

    世を確信をもって生きるための拠り所とすることが十分できるはずであろう。

    そうしてわれわれは,ここにひとつの確実性を獲得しえたことになるだろう。

     だがこの場合にも,前と同様多様性があるのみであって,そこから引き出せ

    る結論としては,せいぜいこの世の大部分の事柄はもっぱら習慣を基礎として

    いるにすぎず,それ以外の必然性をもたない,ということぐらいでしかなかっ

    た。であるがゆえに,デカルトが望むような意味で「自分を確信させてくれる

    もの」を,発見できなかったという。

     デカルトの望むような意味でとは,真なる認識に媒介された確実な根拠に基

    づく判断を可能にするという観点から物事を見る限りでは,ということであ

    る。もし彼が違った観点,たとえば経験的な実践知を得るといった観点に立っ

    ていたならば,そこに十分彼を確信させてくれるものを,彼は与えられていた

    はずである。つまり,この世の事柄は一般に習慣によって決められているとい

    うことからすべての相対化を引き出すと同時に,実際の生活では自分にとって

    関わり合いのある範囲での習慣に従うところに賢明さを見出せば十分だという

    ようなことであって,これがまさしく「方法叙説」第三部の「暫定道徳」の立       (33)場にほかなるまい。

     しかし,当面彼が求めていたものは,そういった実践的確実性ではなかった。

                   -12_

  • たしかに,一面彼の関心は,「自分の行為において明らかに見」,「この生活の

    なかで確信をもって歩く」という実践的性格を有するものではあった。がしか

    し,それはあくまで「真と偽を弁別する」という合理的判断の契機に導かれて

    いたのであって,その限りで,それはたんなる実践の領域にとどまっているこ

    とはできず,カント的な言い方をすれば,理論理性の問題を合まざるをえなか

    ったのである。だから,そうしたデカルトの立場にとってモラリスト的批判が

    意味を持ちえたのは,せいぜい「われわれの自然の光を曇らせ,そしてわれわ

    れが理性に耳を傾けるのをさまたげるような多くの誤謬から徐々に解放され(34)

    た」ということまでであったのだ。

     だがわれわれは,これまでのデカルトの歩みのなかに,事柄の本質に関わる

    多様性を前にしてそれに自己自身はどう判断を下すのかという,すぐれて思想

    的な課題をデカルトが自覚していった経緯を読みとることが可能なことを,見

    逃してはならない。それは,彼が自らの経験のうちで,経験の側から突きつ

    けられた問いかけに対して真摯に応えていこうとする試みの過程に裏打ちされ

    ていた。デカルトは自分が,生来謙遜さゆえに自分でよりよい意見を探そうと

    するよりは,むしろ他の人から教えてもらう意見で満足しているようなたぐい

    の人間に属するだろうと言っていた。ただその場合,ただし,とそのあとに続

    けて彼はこう言うのである。「もしわたくしがただ一人の教師にしかつかず,

    最も学識ある人々の諸説の間に常に存在していた相違を全然知らなかったとす (35 

    れば。」ということは,もしそうでなかったら彼は或る一人の人聞の言うこと

    に従っていたかもしれない,ということでもあろう。ところが,現実はそうで

    はなかった。彼は「他よりもこちらのほうを選ぶべきだと自分に思えるような

    意見をもった人を,だれも選び出すことができなかった」。そしてそれがため

    に,彼は「自分自身で自ら鱒くよ燦f誕ミ訊た」のだ。課

     こう読んでくれば,デカルトの内面の移り行きは明らかになってくると思う

    が,彼が根源的な多様性の前に立たされることによって,そこに合まれていた

    すぐれて思想的な問題に気づかされたのは,まさに経験の側のイニシアティヴ

    によってなのであって,かく経験に導かれつつ,経験の成熟にともなってそこ

                   一13_

  • に出会うさまざまの場面のもつ意味にデカルトの精神が呼び醒され,それに応

    えていったからにほかならない。そして,デカルトの「主体性」が形成されて

    いったのも,それ以外の仕方では決してなかったのである。

     このような段階で,デカルトは「或る一日」,「自己自身の内部においてもま。                                  (37)た学ぼう」6tudier aussi en moi-memeと決意したのであった。

     この「或る一日」には,周知のごとく,初期デカルトをめぐる諸問題の中核

                  (38)ともいうべき内容が伏在している。だがそれにしても,彼はすでにそれ以前の

    段階で「自己自身の内部にか,或るいは世界という大なる書物のなかに」と言

             (39)っていたはずであった。すると,もしここで改めて「自己の内部」を強調する

    のであれば,そこには,それなりの理由がなければならないだろう。

     ところでこれまでの次第から明らかになったことは,デカルトが世界という

    書物と自己の内とに探った知識とは,要するに,人間学的関心に立脚した,人

    間に関する経験的知識を中心としていたことである。すなわち,世界のうちに

    生きる入間に対する経験的考察から得られた知識であり,そしてこの場合に

    「自己」と言われているのも,そうした世界のうちに生きる人間のひとつとし

    て対象化され,他者に対するのと同じ観察のもとに置かれていたのであった。

    従ってこうした知識を,一般に経験的外的な知識と解することができるだろ(40)

    う。

     それに対して,いま新たに「自己自身の内部で」と言うときには,自己の内

    部に本来具わっている,本有的内在的知識の探究を意味すると考えられる。そ

    してかかる知識の典型としては,さしあたって数学的,論理学的知識を挙げる

    ことができると思う。

     すでに史家たちによって明らかにされているように,学院卒業後のデカルト

    は, 「方法叙説』の記述とは一見裏はらに,自然学,数学を中心とした分野に

                    (41)おいてかなり大きな成果を挙げていた。このことは,1618年の11月に彼がイザ

    ーク・べ一クマンと出会った際,べ一クマンがデカルトのことを直ちに優秀な

    「自然・数学者」physico-mathematicusと認めていることからも容易に推察

                   _14一

  •    (42)されよう。べ一クマンはデカルトより8歳年長の少壮気鋭の自然学者であり,

    この頃すでにその新たな自然・数学physico-mathematicaによって名をなし始

    めていたが,そのようなべ一クマンが弱冠22歳のデカルト  しかもその当時

    彼は一兵士にすぎなかった  を,これまで自分が出会ったことのない程,全く

    新しい自然・数学を深く究めていると称讃していることだけでも,その方面に

                            (43)おけるデカルトの進捗ぶりをはっきり.と示すに十分である。

     このようなべ一クマンとの出会いは,デカルトを更にその自然・数学の道へ

    と深く歩み入らせる重要なきっかけとなったのであった。ブレダにおける彼ら

    の直接的交渉は,べ一クマンがすぐにあくる年の1月,ミデルブールに向かっ

             (44)て旅立ってしまうため,わずか2ケ月弱しか続かなかったのであるが,その間

    おそらく二人は毎日のように顔を合わせ,互いに自然学の問題について語り合

                          (45)い,共同研究と呼べるようなものさえしたようである。自然学の分野では,は

    るかにデカルトを凌いでいたべ一クマンのもとにあって,デカルトは彼から多

    くの刺激を受け,新しい知識を吸収していったことであったろう。それらの研

    究がもたらした成果の一部を,われわれは現在実際に目にすることができる(46)

    が,それらを見渡して気づくことは,デカルトが自然学の諸問題をことごとく

                                 (47)数学的に処理し,すべてを謂わば数学化していこうとする姿勢である。自然学

    固有の領域では指導的立場にあったべ一クマンであったけれども,数学的才

                      (48)能ではデカルトのほうがすぐれていたらしい。従って,彼らの共同研究は,べ

    一クマンがそれまで行ってきた自然学研究をもとにして,デカルトが数学的方

    法の面で協力を提供するというような形で成り立っていたと考えてよいだろ

    う。

     すでに以上のことにはっきりと現われていることであるが,デカルトにおい

    て,数学は常に方法に対する彼の関心と本質的に結びついていた。おそらく彼

    が,数学一それはまた彼が子供の頃からもっとも愛好していた科目であった(49)

    が  の諸問題及び数学を手引としつつ,更にそこからさまざまな問題を自

    分自身の力で考えていくなかで,自覚的な方法の意識が徐々に形づくられてい      (50)ったと思われる。そして彼がいよいよ彼の方法形成の作業に全面的に取りかか

                   一15一

  • ったとき,彼の計画に寄与すべき学問として彼は,論理学と,幾何学の解析及

                (51)び代数学とを,挙げるのである。ただ,彼の目にはこれら3つの学問は,それ

    ぞれに欠陥が含まれていると映っていた。そこで彼はそれら3つの学問を参考

    にしながら,「これら3っの長所を含んでいて,しかもそれらの欠陥からはま

                               (52)ぬがれているような,或る別の方法」を捜そうと試みるのである。

     さて,このような方法をデカルトは,われわれの人間精神のうちに宿る或る

    神的な「思想の最初の種子」prima semina cogitationumないし「真理の最初

                            (53)の種子」prima veritatus seminaに基づくものだと考える。すなわち「精神指

    導の規則』のなかで,彼は次のように言っているのである。 「久しい以前から

    すぐれた諸精神が,もっぱらただ自然の導きのみにより,その方法を何らかの

    仕方で会得していたことを,わたくしは容易に信ずる。人間精神は,実際,何か

    しら神的なるものを有しており,そこには有用な思想の最初の種子が備えられ

    ている。そこで,たとえいかようにそれらがおろそかにされ,逸脱した研究に

    よって窒息させられているとしても,しばしば自ずからなる果実を結ぶのであ

    る。われわれはこのことを,もっとも容易な学問たる数論arithmeticaと幾何

             (54)学とにおいて経験する。」かくして,数学を中核とするデカルト的方法は,人

    間精神それ自体に内在するア・プリオリな原理に基礎をもつ,そうした原理の

    自発的展開以外の何ものでもないということになるわけである。

     このような仕方で「思想の種子」,「真理の種子」が持ち出されてくる場合,

    それはもっぱら数学の内在的原理のごときものを意味していると考えられよ

    う。そして,数学がそこから生み出された自然な果実だとすれば,本来数学と

    は,とりも直さず,経験的質料性をぬぐい去った,ア・プリオリな形式的学問

              (55)であることになるだろう。そしてまたそれにともなって,彼の方法も同様の

    ア・プリオリな性格を得てくるのである。

     しかしそれと同時に,この同じ表現が次のような仕方でも用いられているこ

    とが,想い起こされなくてはならない。おそらくかの「或る一日」をめぐって

    デカルトが書き残したと思われる初期の断片のなかに,次のごとき有名な一節

    がある。 r深遠な思想が,哲学者の書いたもののうちよりも,詩入たちが書い

                   一16一

  • たもののうちに見出されることに,驚かれるかもしれない。その理由は,詩人

    たちが霊感enthusiasmusと想像力の力によって書く,というところにある。

    われわれのうちには知識の種子semina scientiaeが,火打石のなかに火があ

    るような具合に,あるのである。哲学者はそれを理性によって取り出すが,詩

                               (56)人はそれを想像力によってあらわにし,それはいっそう光り輝く。」

     このような文脈でこの表現が使われた場合,それが数学的原理を指すよりも,

    むしろもっとユマニスト的で倫理的な色彩を帯びていることを否定できないだ

    ろう。事実ジルソンらがこぞって指摘するように,この表現は明らかにストア

    主義の伝統に起源を持つと考えられるのであって,セネカ,キケロを初め,シ

                                (57)ヤロン,ジュスト・リプスらの著作に散見するものにほかならない。彼らはお

    もに,人間的な徳ないし智慧の内在的原理としてそれを考えており,それによ

                           (58)って人間の倫理的行為を基礎付けようとしたのであった。

     従ってこの点から考えると,デカルトが倫理学の方面においてもまた一種の

    内在論的立場を受け入れていたであろうことはパ想像にかたくない。そしてそ

    こにわれわれは,人生の生き方それ自体を,確実な認識に媒介された判断と結

    びつけ,理論的な必然性を具えた倫理学の可能性を目差していたデカルトの基

    本的ペルスペクティヴにつながる様相を見てとることもできるであろう。

     このようにしてデカルトのうちには, 「真理の種子」というような形で表象

    された,人間精神が本有する内在的知識についての自覚が明確になっていった

    のだといえよう。デカルトが伝統的神学的な内在説の理論について一通りの理

    解を得ていたことは,当時の教育においてむしろ常識的なことであったろう

    し,更には,ルネッサンスのユマニスト活動のあとを受けて,人々の目にしば

    しば触れるようになっていたストア的内在論についても,彼はさまざまな場面

                                 (59)でそれと出会ったであろうことは,史家の明らかにするところである。

     そして,それにいまひとつ付け加えるならば,学院卒業後のモラリスト的反

    省期の過程において行われた,人間に対する経験心理学的な批判的検討が,一方

    では人間精神にこびりついていたもろもろの先入見的付着物を取り去るととも

    に,まさにそのことを通して,人間精神の純粋な活動そのものについての理解

                   _17一

  • を可能にするという帰結をも生み出したことである。それはちょうどモンテー

    ニュが,千変万化,変転きわまることのない存在のあらゆる姿を遍歴したあと

                               (60)に, 「各人は自らのうちに,人間的条件の全形相を担っている」という,自己

    のうちなる普遍性に対するひとつの深い自覚に到達した経緯と,相通ずるもの

    があるといえるだろう。

     もちろん,そこに早くも「コギト」的な形での形而上学的基礎付けを具えた

    デカルト哲学の構図が出来上がってしまっていた,などというつもりは毛頭な

    い。ただ,モラリスb的反省期を通過することにおいて,たんに学問上の諸説

    だけでなく,人間の精神活動それ自体が有する根本的な多様性の経験を獲得す

    る反面,その経験に対して深い反省を行うことにより,そうした経験そのもの

    の根抵にあって経験を支えている或る本質的な存在が開示されていくための道

      そしてこれがほかならぬ後のデカルト哲学の道なのだが  が,漸くそこ

    に開始されかけているのを見ることができる,ということを言いたいのであ

    る。そしてそこには,ものごとを対象的に観察するのではなく,自己が自己自

    身に対して行う自己反省の作用があるのであり,そうした自己反省によって,

    外面的偶然性・非本来性から解放された必然的な確実性が可能となっていく次

    第を,われわれは後のデカルト形而上学の過程に辿ることができることを,こ

    こに付言しておこう。

     かくして,デカルトがかの「或る一日」に改めて「自己自身の内部において

    もまた学ぼう」と言ったことのうちには,外的経験的知識に対して,入間精神

    に内在する本有的知識にまなざしを向け,そこにもろもろの知識を基礎付ける

    必然的確実性を探ろうとする彼の意図が表明されている,と読むことができる  (61)

    だろう。われわれはそうしたデカルトの意図が,どれほど具体化された明確な

    プログラムに裏打ちされていたかを十分確定することができないのであるが,

    しかしそれでもなお,学院以来彼なりにぎりぎりの暗中模索を続けてきたすえ

    に,漸くそのような形で光明が見え始めたのだとすれば,そこには彼をして基

    本的に確信させるに足る何かがあったはずではあろう。

                   _18一

  •  そうした事情の一端を,われわれはたとえばペークマン宛の手紙のなかに探

    りあてることができると思うのである。

     1619年の初めにべ一クマンがブレダを出発したあと,デカルトは彼に何通か

    の手紙を書き送っている。それらはことごとく当時のデカルトの精神動向を鮮

    やかに語り出しているが,そのうちのひとつに次のような内容をもったものが (62)

    ある。彼は自分がこれまでになく研究に打ち込み,短期間のあいだに,コンパ

    スを利用しての,全く新しい4つの注目すべき数学上の証明を見出したことを

    報告する。4つの証明とは,まず第一に角の等分割に関するものであり,他の3

    つは三次方程式の解法に関するものである。そして彼はそれらの解法について

    いまだ完全に調べ終わったわけではないが,しかし「自分の思うところでは,

    或るひとつについて発見したところのものは,それを他のものにも容易に適用

    できるだろう」と述べている。

     ここにはすでに,個別的な場合に限定されない,一般的方法の可能性が明ら

    かに示唆されているが,事実そのあとに続けて,彼は自分の遠大な目論見にっ

    いてこう語り始めるのである。「貴君にわたくしの企図しているところがどの

    ようなものであるかを明らかにするならば,わたくしはルルスの「アルス・ブ

    レヴィス」のようなものではなく,全く新しい基礎をもったひとつの学問を実

    現したいのであって,それによって連続,非連続にかかわらずいかなる量にお

    いても,提出されたあらゆる問題を一般的に解くことが可能となるのであり,

    しかもそれぞれの本性に従ってなすことができるのである。」つまり彼はここ

    で,先の数学上の4つの証明を手がかりにしながら,そこから進んで,量一般

    に適用可能な統一的方法論の理念を抱くに至っていることがわかる。かかる数

    学的方法論は,のちに「精神指導の規則』において彼が提唱した,「普遍数学」

                                    (63)mathesis universalisの構想につながっていくものであることは疑いない。そ

    してそのような形で,デカルト的方法論が一応の整備完成を見ることができる

    のである。

     それゆえに,このべ一クマン宛の書翰が告げている,デカルトの数学におけ

    る研究の展開は,デカルト哲学の体系的構想の観点から見て非常に重要な契機

                   一19一

  • を表わしているといわねばならない。そのような事実の支えがあったればこ

    そ,デカルトは方法の統一性に基づいて学一般の統一的綜合の可能性を目差す

    ことができるようになったのである。

     しかも,それと同時にデカルトの場合,そうした綜合的学の理念が倫理的性

    格をもあわせもっていたことも,忘れられてはならないだろう。

     デカルトの方法的意識は,そもそもたんに数学,自然学の分野だけでなく,

    モラルの領域をも等しく貫いていたことが,たとえば「賢者の道徳的格率はご

                      (64)く少数の一般的規則に還元することができる」というような覚え書にも明確に

    見てとることが可能である。人間の倫理的理想を,ルネッサンス・ユマニスム

    の伝統に立った「智慧」の概念によって表象しつつ,同時にそうした方法的意

    識に支えられて,自然学的知識の集積を彼の方法に従い統寸・綜合しながら,

    そのような入間精神の自覚的操作によってその知識を主体的に活用し,それを

    われわれの生活に役立てていくという仕方で,そのような智慧の新たな実現を

    目差したところに,デカルト哲学の有する独特な倫理的側面が端的に見出され

    る。それは『方法叙説』に記された次のようなことばに,見事な形で表現され

    ているだろう。すなわち,彼は自らの方法から自然学の一般的概念を得ること

    ができたことを述べたあと,こう続ける。「それらの概念はわたくしに,人生

    にとってきわめて有用な知識に到達しうることが可能なことを,そしてまた,

    学校で教えられているかの思弁的哲学の代わりに或る実践的な哲学が見出され

    うることを,示したのであった。その実践的哲学によれば,火や水や空気や星

    や天やその他われわれを取り巻くすべての物体の力と活動について,ちょうど

    われわれの職人たちのさまざまな技術に関すると同様の明確な認識を手に入

    れ,それらの物体を,同じようにしてそれぞれに適した用途に用いることが可

    能となる。かくしてわれわれは自らを自然の主入にして所有者のごときものに       (65)なしうるのである。」ここにはもちろん,「知は力なり」とするべ一コン的発想

                 (66)の響きを聞るうるわけであるが,デカルトはそのような仕方で自然の全体を方

    法的認識に基づいて体系的自然学に綜合し,それを人類の福祉に役立てようと

    する壮大な構想を語っているのである。しかも,かかる近代自然科学の理念に

                   一20一

  • 立ったデカルb哲学は,同時にユマニスト的な文脈で考えられた人問的智慧の

    探究と結びついてもいたのであ・て新た舶然学の構築は,とりも直さず新

    たな智慧の獲得を実現するはずのものにほかならなかった。そこには,近代自

    然科学とユマニスト的智慧との幸福な結合を信ずるナイーヴな意識が,まだ存

                 (67 立しえていたのだともいえよう。

     いまここで改めて言うが,そのような綜合的学の可能性を現実的なものとし

    てデカルトに自覚せしめたものこそ,人間精神に内在的な固有の原理よりの自

    発的展開として考えられた,統一的方法の理念なのである。彼がモラリスト的

    遍歴のあとに,自己自身の内部においても’ ワた学ぼうとする決意を表明するこ

    とができたためには,その背後に以上のごとき探究の経緯とその成果がひそん

    でいたのでなければならなかった。

     「或る一日」はこうして準備された。半年前デカルトはべ一クマンに自らの

    学問的構想を語りつつ,それが「信じられぬほど野心的な計画」であり,「無

    限に大きく,一人の手では到底達成されることのできぬ仕事」であることを吐    (68 露していた。しかしながら,同時に彼はその学問のカオスのなかに「何かしら

    知れぬ光」を感じてもいたのであって,その光の助けによって「もっとも厚い

    暗闇も払いのけられるだろう」と信じていたのであ81)いまやかの「_日」は,

    その暗闇を突きぬける真の第一歩を踏み出させるであろう。用意は整ってい

    る。だが,その「一日」がもたらした事柄の内容は具体的にどのようなもので

    あったのか,そしてそこから最初の一歩はどのようにして踏み出されたのか,

    こうした点については更に詳細な考察がなされねばならない。従って,われわ

    れはその日を迎かえようとする前日にとどまって,新たに稿を起こすまでしば

    し待たなくてはなるまい。

                   注

     デカルトの著作への参照はすべてアダン・タヌリ編集の全集版によって行う。A-

    T,VI,5というように,略号のあとにローマ数字で巻数を,次に算用数字でページ

    数を示す。また必要な場合には,1.7などとして行数も示す。

    (1) 「方法叙説』・A-T,VI,30-31。 Baillet, La vie de Monsieur 1)escartes, t.

                  -21_

  • ))23

    ((

    ))45

    ((

    (6)

    (7)

    (8)

    (9)

    (10)

    (11)

    (12)

    (13)

    (14)

    (15)

    (16)

    (17)

    (18)

    (19)

    (20)

    (21)

    1,pp.167-169。デカルトのオランダ移住は,1629年というのが一般に認め

    られた年である。ただし書翰に見られる次の一節,「わたくしがこの国(つま

    りオランダ)に来る前……,わたくしはフランスの田舎で冬を過ごした」(A-

    T,V,558),を読むと,パリを離れたのは前年1628年の冬の初めであったと

    考えられる。

    「方法叙説』,A-T, VI,30-31。

    「方法叙説』,A-T, VI,31。 Lettre d Bal2ac,5mai 1631, A-T,1,202-

    204。また森有正『デカルトとパスカル』(筑摩書房)Pp.46-51及びp.59参

    照。

    『方法叙説』,A-T, VI,30。

    「方法叙説』,第一部,第二部のそれぞれの末尾の部分を注意深く検討するだ

    けでも,十分その経緯は明らかになってこよう。

    学院在学の期間については,Gilson, Commentaire, Vrin, pp.103-105。

    r方法叙説』,A-T, Vエ,4。

    Gilson, Commentaire, p.105。

    『方法叙説』,A-T, VI,15-16。

    『方法叙説」,A-T, VI,4。

    『方法叙説」,A-T, V工, g。

    「方法叙説』,A-T, VI,9-10。及び同箇所に対応するジルソンの註解を参照

    (Commentaire, pp.150-152)o

    注(12)に示したジルソンの註解参照。なお後注(41)もあわせて参照された

    いo

    Lettre d Beeckman,24 janvier 1619, A-T, X,152。

    Gilson, Commentaire, p.101。また『方法叙説』の記述の仕方を見ると,彼の

    批判は学院卒業後に学んだ法律学と医学にも向けられていたと考えてよいだろ

    う (A-T,VI,9)。

    Baillet, La vie de Monsieur Descartes, t.1, PP.18-19。また特に,デカルト

    が学院在学時よりすでに人々を驚うかしていたという独自の「方法」について

    は,同書t.II, pp.483-484。

    Gilson, Commentaire, p.110;Baillet, La vie de Monsieur l)escartes, t.1,

    P.28。

    『方法叙説』,A-T, VI,5。

    森有正『デカルトとパスカル』P・40,P・145参照。その中で森氏は,アラン

    が『方法叙説』を「その透明な難解さの故に」一度も講義することがなかった

    というエピソードを伝えている。

    r方法叙説』,A-T, VI,5。

    Lett「e d Beecleman’24 janvie「1619, A-T, X,151。並びにGilson, Commen-

    taire, p.151を参照。彼はこの書翰を引いて,その時期にデカルトが知的スラ

    一22一

  • ))))))))))))

    234567890123

    222222223333

    ((((((((((((

    (34)

    (35)

    (36)

    (37)

    (38)

    (39)

    (40)

    ンプのような状態のなかで生活していた,と言っている。ただしそのスランプ

    とは,絶対的なものであったのではなく,むしろ別の面(ということは,テク

    ニカルな方面)では多くの仕事をしており,その点でそれが思弁的sp6culative

    な性格のものであったとしている。

     またグィエは,やはりこの書翰に見られる〈desidiosus>,<desidia>とい

    うことばにふれて,べ一クマンとの濯遁が,「ディレッタンティスム」におび

    やかされていた当時のデカルトの精神を,呼び醒ます結果を生んだと述べてい

    る (Les Premi2res Pens4es de Deseartes, Vrin, P.29)。

    r方法叙説』,A-T, VI,9。

    「方法叙説』,A-T, VI,9-10。             ・

    『方法叙説」,A-T, VI,10。

    同上。

    Gilson, Commentaire, P.102参照。

    森有正『デカルトとパスカル』P.113及びP.118参照。

    「方法叙説』,A-T, VI,5,1.1-18。

    Gilson, Commentaire, P・102,及び森有正「デカルトとパスカル』P.113参照。

    r方法叙説』,A-T, VI,4,1.25-28;5,1.8-13;10,1.2g-31;27,1.3-13。

    r方法叙説』,A-T, VI, g-10。

    「方法叙説』,A-T, VI,25。

    「方法叙説』,A-T, VI,22以下。特に第一の格率は,こうした立場の端的な

    表明と見られよう。

    「方法叙説』,A-T, VI,10。またわれわれは,同時にここに,かのデカルト

    的懐疑の繭芽を早くも見ることができるであろう。

    「方法叙説」,A-T, VI,15-16。

    『方法叙説』,A-T, VI,16(傍点は筆者による)。

    「方法叙説』,A-T, VI,10(傍点は筆者による)。

    すなわち1619年11月10日の「或る一日」に,デカルトは「驚ろくぺき学問の基

    礎」mirabilis scientiae fundamentaを発見し,その晩に続けて3つの夢を

    見たという。そしてそれらの夢によって,彼は自分が神より学問の道へ進むよ

    う啓示を受けたと信じ,そこに哲学者デカルトとしての自覚的な歩みが開始さ

    れたとされている(cf. Baillet, La vie de Monsieur Descartes, t.1, PP.80-

    86;A-T,X,179-188)。しかしここに言われている「驚ろくぺき学問の基礎」

    が具体的にいったい何であるか,或るいは3つの夢と,それに関するデカルト

    自身の解釈をどう評価したらよいのか,などについては,そこに文献上の問題

    も加わって,いまだ諸説の間に一致を見ない。この「或る一日」をめぐる研究

    論文はおびただしいほどにあるが,まさに諸説紛々といった模様である。

    「方法叙説」,A-T, VI,9(傍点は筆者による)。

    森有正氏は,こうした知識に自然学上の知識をも含めることを,提唱している

    _23一

  •    (『デカルトとパスカル』PP.162-163)。すなわち彼によれば,「このようにし

       て,世界という書物の中に学ぼうとし,また,ある経験を獲得しようと努めて

       数年間を費した後に,私は,一日,自己自身の内においてもまた学び,……」

       (A-T,VI,10)とある一節中の「ある経験」について,それがたんなる世間知

       の上での経験のみを意味するのではなく,むしろそれ以上に「自然研究上の経験

       的知識,更にそれにそえて,べ一クマンからの影響,ルルスのアルス・ブレヴ

       ィスの理念,ローズ・クロワの秘法への関心,を含めて考える」べきだ,とい

       うことである。われわれも,氏のこの提案に基本的には同意したい。われわれ

       のいう経験的外的な知識の場合も,人間学的関心が中心的位置を占めていると

       はいえ,決して処世訓的なものを指すのではなく,自然学上の諸知識をそのま

       わりに広い地平としてもつ,経験科学的な知識ともいうべきものなのである。

       デカルトが世界という書物のなかに学ぶと言ったとき,彼の目は,人間と,人

       間を取り巻く自然世界の全体とに向けられていたのである。森氏も指摘するこ

       とであるが,周知のように,この時期のデカルトは自然学研究において大きな

       前進をなしているわけであって,彼の人間学的観察も,むしろそうした経験科

       学的態度に支えられていたというぺきなのであり,そこには一種の方法的共通

       性が見られると考えてよいだろう。そしてすぐあとにわれわれが示そうとして

       いる,内在的知識への移行についても,その移行は不連続なものというより,

       むしろ経験的な自然学研究の探究,深化から導かれた帰結と見倣されうるもの

       なのである。

    (41) ジルソンはこの点で,『方法叙説』の記述が事実をあまりに単純化しすぎてい

       ると批判している(Commentaire, PP.150-152)。だが極度に圧縮された『方法

       叙説』の語るデカルトの「精神史」は,事実の客観的な記録と考えられるべき

       ではないだろう。この場合も,故意にそのような書き方をすることによって,

       彼はそこに自らの内なる精神の移り行きと展開を描き出したかったのだと思わ

       れる。またべ一クマンとの逞遁前後の自然学研究については,代表的な文献と

       してMilhaud, Descartes savant, Alcan, Chap.1,及びSirven, Les annties

       d・aPPrentissage de 1)escartes, Albi, Chap.2などを参照。

    (42) A-T,X,52。

    (43)更にべ一クマン宛の手紙に散見するいくつかのことばによっても,いっそうこ

       のことは確かめられる。たとえば「わたくしはこの非常に短かい間に注目すぺ

       き全く新しい4っの(数学上の)証明を発見した」(26mars 1619, A-T, X,

       154),「わたくしはルルスの「アルス・ブレヴィス』のようなものではなく,

       全く新しい基礎をもったひとつの学問を実現したい」(26mars 1619, A-T,

       X,156-157),「かくして,幾何学にはもはや発見すぺきものがほとんど残らな

       いだろう」(26mars!619, A-T, X,157),「もしわたくしがどこかにとどま

       るならば,……わたくしはすぐさま「力学』と「幾何学』の準備に取りかかる」

       (23avril 1619, A-T, X,162),「(これらの数学上の問題について)断片的

    一24

  •    にそれを貴君に説明するのではなく,いつかそれに関して完全な作品を書くつ

       もりだ」(23avril 1619, A-T, X,163)。

    (44) A-T,X,22。

    (45)べ一クマンとデカルトとの学問上の親交,協力関係などについては,近藤洋逸

    ’   『デカルトの自然像」(岩波書店)第五章「べ一クマンとデカルト」を参照。ま

       た同書第十一章の第二節「落下論」も,あとに挙げる落下の問題〔後注(47)

       を参照〕をめぐる両者の相違について述べている。近藤氏は終始科学史家の立

       場に立つことによって,その範囲内でデカルト批判を試みようとしておられ,

       またそこに同書の特徴があるわけであるが,ただ他方,デカルト哲学の持つ問

       題性はその範囲にとどまらない面も有しているのであって,根本的な「思想」

       の立場に立ってデカルト哲学を捉えようとするときには,自然学上のひとつの

       問題におけるデカルトの姿勢でさえも,もっと違った様相,別の意味を現わし

       てくるといわねばならないだろう。

    (46) これらの文献はアダン・タヌリ全集版の第十巻に収められている (A-T,X,

       46以下)。

    (47)たとえば,「真空中の物体落下」についての論文を見てみよう (A-T,X,75-

        a              77)。デカルトは図1のごとく,縦軸

                         abに落下の距離をとり,横軸bcに

                         運動の力をとる。ところで或る物体

       d                     が落下する場合,その各瞬間におい

                         て,それが下方に向かって行く力に

        f                新たな力が付け加わると考え,その

                         力をde, fg, hiなどによって表わ

                         す。すると地球の引力によりまず最    h               p 初に惹き起こされた第一の運動の極

                         小ないし点primum minimum vel

        b               c Punctum motasは,正方形alde

               図1        によって示されることになる。また

       第二の運動の極小は長方形dmgfにより,更に以下同様にして,第三の運動

       の極小も示されうるだろう。かくして,これらすぺてを加えたものは三角形

       abcになるわけなのであるが,その場合,それぞれに見られる余計な部分ale,

       emgなどは,極小に対して延長を与えていたことか                                   a   らくるものであって,実際には,それらの極小を不可

       分でいかなる部分をも持たぬものと考えねばならない

       のである。従って,もし第一の極小をadよりもずっ       9

       と小さくしていき,ついには点にまで至るならば,そ

       のとき超過部分はゼロになって,そこに完全な三角形  c      b

       が与えられるであろう。そこから結論として,図2の    図2

    l      e

    一25一

  • (48)

    (49)

    (50)

    (51)

    (52)

    (53)

    ))45

    5【D

    ((

    ))ρ07

    【05

    ((

    (58)

    Uとく,真空中を物体がaからbへ落下するとした場合,物体が最初の半分

    agを通過する時間の,次の半分gbを通過する時間に対する比は,3:1と

    なる。何故ならば,空間afgとfgbcによって示されるごとく,あとの場合は

    前の場合に較ぺて,3倍大きな力でもって引っぱられるからである。(ただし,

    周知のごとくこの結論は,残念ながら誤りである。)

     コワレは,この物体落下の問題におけるデカルトの姿勢を,幾何学者,純粋

    な数学者として特徴付けようとする(Koyre, Etudes Galileennes, Hermann,

    p.114)。事実,速度,力,距離,時間などの諸概念は,相互に何ら質的相違を

    持たずに,同一平面の上に幾何学的図形によって表現され,全く量的数学的取

    り扱いが可能な対象となっている。コワレはそこから,デカルトが謂わば「行

    きすぎた幾何学化」la geom6trisation a outranceに陥るまでにいっているこ

    とを指摘し,そこに彼の誤りの原因を探ろうとしている(OP. cit., p,115)。

    つまりデカルトの場合,自然学は完全に幾何学へと還元されてしまったといえ

    るわけである。

    近藤洋逸『デカルトの自然像』P.93,及びP.301参照。

    「方法叙説」,A-T, VI,7。『精神指導の規則』, A-T, X,374以下。

    「思索私記」,A-T, X,214,及び『精神指導の規則』, A-T, X,403-404参

    照。

    『方法叙説』,A-T, VI,17。また「精神指導の規則』, A-T, X,373以下を

    参照。

    「方法叙説」,A-T, VI,17-18。ただし,論理学のもたらしうる積極的な長所

    は,他のふたつに較ぺてはなはだ限られているように思われる。つまりp.17,

    1.16-26の論理学に関する記述は,もっぱら否定的な調子しか持っていない

    し,「精神指導の規則』に至っては,数学のほうのみを取り上げ,伝統的論理

    学については「邪魔物」impedimentaとさえいっている(A-T, X,372)。

    『精神指導の規則」,A-T, X,373,及び376。また『方法叙説」第六部には

    〈semences de verit6>,『思索私記』中の一断片には<semina scientiae>と

    いう表現も見られる(A-T,VI,64;X,217)。

    『精神指導の規則」,A-T, X,373。

    これはまた,アリストテレス以来のスコラ的伝統にそった考え方でもある。

    Cf, Gilson, Commentaire, p.127。

    『思索私記』,A-T, X,217。

    Cf. Gilson, Etudes sur le 761θde la Pensge吻64ゴ吻〃θdans la formation du

    syst2me cart6sien, Vrin, pp.265-266;Gouhier, Les premie’res pensges de

    Descartes’Vrin, pp.93-94;Lewis, Le probl2me de l’inconscient et le

    cartesianisme, P. U. F., P.18。

    前注(57)に示したグイエのところに挙げられている引用文を参照。そこに見

    られる<virtutum semina>,<les semences des grandes vertus et sciences>,

    一26

  • (59)

    (60)

    (61)

    <semina bonae mentis>などの表現は,その倫理的性格を明らかに表わして

    いるといってよいだろう。

    Gilson, Etudes sur le 7δ1θde la Pens4e〃264蜘σ1θdans ta formation du

    syst2me carttisien, Chap.10

    Montaigne, Essais, III-2, Ed。 de la Pl6iade, p.782。

    森有正氏は同箇所の問題にふれて,「『私は,一日,自己自身の内部においても

    また,学び……」という一言における「においてもまた』(〔仏〕aussi〔ラテン

    語〕etiam)という表現を,世の人々の観察に対する自己の内部の考察と解す                              コ        るよりは,自然の物理・数学的諸研究に対して,自己の内部においてもまた,

    という意味に解釈したいと思う」と述べておられる (『デカルトとパスカル』

    P,166)。彼によれば,デカルトはラ・フレーシュの学院卒業後,世界という

    書物のなかに学びつつ,その間に行った自然・数学的研究によって普遍学の構

    想を抱くに至っていた。しかるに,そうした普遍的学問は,その理念そのもの

    において,一人の理性を具えた人間がそれに従事すべき必然性を含んでいる。

    すなわち,このことは『方法叙説』第二部冒頭の建築家その他の比喩に示され

    ているごとくであるが,そこには,この普遍学の形成がたんなる「科学」なの

    ではなく,その根抵をなす哲学的原理を含んだ学問の全体の革新であることが

    意味されているのである。このようにして,自然・数学を手引きにしながら,

    数学的確実性をもった認識の領域を具体的に確定することによって,ひとまず

    彼の,「学院における,確実なる認識を媒介とする智慧の探究は,ここでは,

    自然科学的な普遍的知識の獲得へ向ったのである。しかし,それはまた再び自

    己における智慧の探究へと収敏してゆく。しかし,この自己は,単に世の経験

    の中に自己を試みるというような,モラリスト的な自己ではない。それは,普

    遍学の基礎を含むような,普遍学を媒介として智慧の実現に進む自己である」

    (前掲書,p,175)。それゆえに,問題の箇所に言われている「自己」も,モラ

    リスト的に受け取られるぺきではなく,普遍的自然学の基礎となるような自己

    にほかならないのであり,それに従って,かの「もまた」という表現も,自然

    研究に対して言われていると解さるべきだとされるのである。

     かかる森氏の解釈は,なにげなく読みすごしてしまいがちなところを捉え

    て,非常に重要な問題を提起している点で,注目すべきものといえよう。た

    だ,彼自身認めておられるように,彼の解釈には本文との関連上いささか無理

    があることは否めない。そこでわれわれの解釈は,森説に見られるそうした困

    難を考慮しつつ,できるだけ本文の記述を生かすかたちで,そこに含まれてい

    る意味内容を読み取ろうとしたものである。解釈の基本点においては,両者の

    あいだにそれほど大きな相違はないはずだと思うが,それは,森氏の言うよう

    な,普遍学の基礎となる自己の本性とは,とりもなおさず自己に内在する本有的

    知識にほかならないからであり,そうした原理によって,普遍学の体系的必然

    性も保証されることができると考えるからである。そしてまた