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Title 曹娥の伝記説話について Author(s) 下見, 隆雄 Citation 中国研究集刊. 25 P.1-P.20 Issue Date 1999-12-01 Text Version publisher URL https://doi.org/10.18910/60912 DOI 10.18910/60912 rights Note Osaka University Knowledge Archive : OUKA Osaka University Knowledge Archive : OUKA https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/ Osaka University

Osaka University Knowledge Archive : OUKA · 一とは云えない。注に紹介するものと、話の終始は同じであるが、内容は同七日。遂に江に投じて而して死す。」とある。『世説新語』四、乃ち江に縁りて琥哭して、豊夜、聟を絶たざること、満に訴いて波神を迎え、溺死して、戸骸を得ず。

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Title 曹娥の伝記説話について

Author(s) 下見, 隆雄

Citation 中国研究集刊. 25 P.1-P.20

Issue Date 1999-12-01

Text Version publisher

URL https://doi.org/10.18910/60912

DOI 10.18910/60912

rights

Note

Osaka University Knowledge Archive : OUKAOsaka University Knowledge Archive : OUKA

https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/

Osaka University

Page 2: Osaka University Knowledge Archive : OUKA · 一とは云えない。注に紹介するものと、話の終始は同じであるが、内容は同七日。遂に江に投じて而して死す。」とある。『世説新語』四、乃ち江に縁りて琥哭して、豊夜、聟を絶たざること、満に訴いて波神を迎え、溺死して、戸骸を得ず。

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儒教社会における女性の積極的存在意義や社会的役割に

ついては、古来、その、もっぱら男性に奉仕する面のみが

注目され、提唱され教導されて来た。この故に、近年の女

性史や女性学の諸研究においても、忍従・服従の観点が強

調指摘されて、男性に対する女性の人生意義について、主

として、女性を人間差別から解放する視点で論断する傾向

が著しかった。このような研究姿勢も是認されてよい。し

かし、女性における忍従・服従のすがたを、単に女性差別

の面からのみ論評するのは、歴史的存在・人間存在として

の女性への視野を狭めることにはならないだろうか。女性

もやはり、男性とは異質の原動力を発揮して、人間歴史は

展開した筈である。いままでの歴史は、単に男性を中心と

する権力意志の慈藤・抗争や展開の視点で見る姿勢で処理

はじめに

曹峨の伝記説話について

される傾向が強かったに過ぎない。女性という社会的存在

がいかなる積極的役割を果たす存在であったのか、これを

研究分析する種々の方法論が見いだされなければならない

であろう。しかし、その方面の模索は、必ずしも真剣に推

進されているとは云えない現状である。筆者は、東洋にお

ける女性研究の―つの試みとして、儒教社会における男女

の対応関係について、歴代の女性伝記類や孝子伝記類の資

料をもとに、これらを細かく解析・整理する角度から考察

する一方法を手がけてきている。

ちなみに、儒教社会における男女の対応関係を、父性と

母性の観点から、形式的に整理して、筆者は、次の三点で

まとめた(注1)。すなわち、(一)、子を保護・支援する母の

母性。(二)、父性を実践する夫を保護・支援し、その独断

専行を許容し従順する妻の母性。(三)、父の存立を母と類

似する立場から支援して、父性に身を捧げる娘の母性。こ

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の三点である。

ところで、男女対応で、娘と父のそれは、特異な一面を

見せている。中国歴代の伝記説話を見渡してみると、娘が

父を援助し犠牲的な奉仕をする伝記説話は、きわめて多様

である。そしてこのような娘の行為は、おおむね、孝の観

点で把握されるのが一般的であった。これを、親子の関係

で見ると、この行為は、確かに孝の範疇に在るのであるが、

儒教社会における男女の対応関係の観点で見ると、娘(女

性)が父(男性)にするこの服従奉仕には、父性を支援・

保護する母性という一面を看過できないのである。必ずし

も、これを単なる孝の問題として処理することはできない

であろう。なお、儒教社会の道徳理念の核ともいうべき孝

は、主として、独断専行が許容される男性の責務とされる

性格が強く、女性の孝とは微妙に異なる点が存することも

区別して認識する必要があろう。

本稿では、(三)の父娘対応を確認する資料の一として、

曹蛾についての伝記説話に注目する。古来、独特の関心を

もって伝承されたこの伝記説話の構成や、伝承過程でのさ

まざまのモチーフの変転などを確認しつつ、各資料の特徴

や比較、話の原型や本質について点検してみたいと思う。

東洋儒教型社会における父娘対応への人々の独特の思い入

れや、語られる素材の持つ社会的背景や意義なども、自ず

から理解されるであろう。このようなかたちでの資料研究

作業の意図については、あとで結論する。

『會稽典録』記載の曹蛾の伝記

曹蛾の伝記について、まず次の資料に注目する。『世説

新語』捷悟篇注引『會稽典録』に、「孝女曹蛾なる者は、

上虞の人。父肝、能<節を撫し歌を按し、婆娑して神を

楽しましむ。漢安二年、伍君神を迎えて、濤に訴いて而し

Lずむ

て上り、水の滝する所と為りて、其の戸を得ず。蛾、年十

四、琥して肝を慕思し、乃ち瓜を江に投ず。其の父の戸

を存して日く、父、此に在るなれば、瓜、嘗に沈むべしと。

旬有七日にして、瓜、偶ま沈む。遂に自ら江に投じて而し

て死す。縣長の度尚、其の義を悲憐し、之れが為めに改め

葬り、其の弟子榔椰子證に命じて、之れが為めに碑を作る。」

とある。話のポイントを次の六つにまとめてみる。

(一)、曹蛾の父肝は、拍子をとって歌い、舞をして神

を楽しませた。(二)、漢安二年に、伍君神を迎えて濤に向

かい、水に溺れ死んで、屍が得られなかった。(三)、十四

歳の娘曹蛾は、父を思媒し、その屍を求めた。(四)、瓜に

いのりを込めて、これを江に投げ入れて、屍を捜索した。

(五)、一七日の後、瓜が沈んだ。父の屍がそこに在ると

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信じた曹蛾は、父の後を追って、この場所に投身自殺した。

(六)、県長の度尚が、その義に感じて改め葬り、弟子の

郡椰子證に命じて、碑文を作らせ碑を立てた。

ところで、『類緊』巻四「五月五日」の項に引く『會稽

典録』には、「女子曹蛾なる者は、会稽上虞の人。父、能

<弦歌して巫と為る。漢安帝二年五月五日、縣江に於いて、

満に訴いて波神を迎え、溺死して、戸骸を得ず。蛾、年十

四、乃ち江に縁りて琥哭して、豊夜、聟を絶たざること、

七日。遂に江に投じて而して死す。」とある。『世説新語』

注に紹介するものと、話の終始は同じであるが、内容は同

一とは云えない。

(一)については、「孝女曹蛾」を、「女子曹蛾」と表記

し、「會稽」を「上虞」に加えて掲げ、父の名肝を記さな

い。また、「能<節を撫し歌を按し、婆娑して神を楽しま

しむ」でなく、「能く弦歌して」とし、巫祝であったこと

を明記する。(二)について、「漢安二年」でなく、「漢安

帝二年」とし、「五月五日」を加える。また、場所として

の「縣江」を記し、「伍君神」でなく「波神」とする。(三).

(四)について、「江に縁りて琥哭して、豊夜、整を絶た

ざること、七日」とまとめ、(五)における、屍の捜索の

ために、「瓜」にいのって託した事実を記さない。死んだ

父を求め投身自殺するまでの日数は「旬有七日」でなく、

「七日」である。また、(六)における、県長の度尚が、

曹蛾のために碑を建てた事実を省略する。

同じ『會稽典録』として紹介される同一人物の伝記であ

るのに、かなり表現内容が異なっている。ところで、『御

覧』四一五引の同書では、次のようになっている。

孝女曹蛾なる者は、上虞の人。父肝、能<弦歌して

巫と為る。五月五日、縣に於いて、江の濤に訴いて婆

娑神を迎え、溺死して戸骸を得ず。蛾、年十四歳、乃

ち江に縁りて琥哭して、饗夜、啓を絶たざること、旬

有七日、遂に江に投じて而して死す。縣長、蛾を道傍

に改め葬りて、総めに碑を立てたり。

ここでは、(-)について、「孝女曹蛾」・「上虞の人」.

「父肝」とするところは、『世説新語』注引と同じく、「能

<弦歌して巫と為る」は、『類緊』引と同じである。(二)

について、「漢安二年」・「漢安帝二年五月五日」に対して、

「五月五日」と記し、「伍君神を迎えて、満に訴いて上り、

水の滝する所と為りて」・「縣江に於いて、濤を訴りて波

神を迎え、溺死して」に対して、「縣に於いて、江の濤を

訴りて婆娑神を迎え、溺死して」と表現する。特に、『類

緊』で「縣江に於いて」とするのを、ここでは、「江」を

「濤」に連ねて、「江の濤を訴りて」に変じている。(三).

(四)については、ほぼ『類緊』と同じであるが、「旬有

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七日」とするのは、『類漿』引が、単に「七日」とするの

と異なり、『世説新語』注引に同じである。また、『世説新

語』注引・『類緊』引では、いづれも「年十四」であるが、

ここでは、「歳」を加えている。(五)が無いのは『類漿』

引に同じであるが、(六)においては、「度尚」や「榔椰子

證」の名は出さないが、「縣長」が碑を立てた事実は紹介

する。同

じ『會稽典録』でありながら、それぞれの書に引用す

る文章は、その異同が激しい。原『會稽典録』は、引用記

載する人の主観によって、かなり恣意的にまとめ換えられ

たものと思われる。それは、原典の正確な載録よりも、引

用記載者の持つ孝女の孝実践の感動ポイントが重視され、

省略あるいは増幅がなされた結果であろう。ところで、以

上のうち、どちらかといえば、『世説新語』注引のものが

詳しく丁寧に語られている。そこで一応、原典の素材は、

ここにより豊富に止めていると考えざるを得ないのかも知

れない。すると、瓜で屍捜索をしたことや、県長が碑を建

てたことなども、原典に存したと理解すべき事柄なのかも

知れない。ただし、これは後に改め考える。ところで、『世

説新語』注引には、独特の霊能力を具体的に示して、巫祝

という明確な記載を省き、伍君神を迎えるとして、「五月

五日」の日付も省略したものと思われる。逆に、『類緊』

引・『御覧』引では、(四)の部分を取り去って、父の後を

追って投身自殺を遂げた事実のみを紹介している。

次に、表現の異なりについて、『世説新語』注引には、

「節を撫し歌を按し」とあり、『類緊』引・『御覧』引には

「弦歌」とある。「按歌」が「絃歌」とされるのは、「歌を

按し」が、「歌をかなでうたう」の意であったからであろ

う。もとは、「絃を按し歌う」とあったのかとも思われる。

ただし、確証はない。『世説新語』注引には、「漢安二年」

とするのに、『類漿』で「漢安帝二年」とするが、時代表

記としては、「安帝二年」は落ち着きが悪い。これは、恐

らく『類緊』が誤ったものと思われる。ただし、同じく「漢

安帝二年」とするものが、『異苑』巻十二も見える。この

資料は後で見る。なお、「瓜」に託して屍を求めたことに

ついては、これを「衣」に託したとするものがあり、これ

も後に考証する。

以上、「曹蛾」の伝記は、もとは『會稽典録』で紹介さ

れたものであろうが、同じ『會稽典録』でも、引用者の主

観によって、内容の紹介に変化が認められたように、後世、

この伝記は、さまざまなモチーフを交えあるいは変形して

伝承・紹介されている。

次に、苑嘩『後漢書』列女偲に紹介するものを見てみる。

孝女曹蛾なる者は、會稽上虞の人なり。父肝、能<

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絃歌して、巫祝と為る。漢安二年五月五日、縣江に於

いて、濤に訴いて婆娑神を迎え、溺死して屍骸を得ず。

蛾、年十四、江に沿いて琥哭して、豊夜、整を絶たざ

ること、旬有七日、遂に江に投じて而して死す。元嘉

元年に至りて、縣長の度尚、蛾を江南の道傍に改め葬

りて、為めに碑を立てたり。

とある。

ここに引くものは、『類漿』や『御覧』に引く『會稽典

録』に極めて近い。ただし、細かく見ると、異同が認めら

れる。ある個所では、いずれか一方に似ている。

「孝女曹蛾なる者は、會稽上虞の人なり」では、ここに

は、文末に「也」字があるが、両書の引用では、「也」字

は無い。

「父肝」は、『御覧』に同じ。

「能く絃歌して」は、両書に一致する。

「巫祝と為る」は、いづれでも「祝」字を用いない。

「漢安二年五月五日」は、『類緊』に似るが、かの書に

ては、「漢安帝」に作る。

「縣江に於いて、濤に訴いて婆娑神を迎え」は、基本的

には両書に同じであるが、「婆娑神」を、『類緊』では、「波

神」に作り、「縣江」を、『御覧』では、「縣」に作る。

「溺死して屍骸を得ず」は、両書と同じであるが、ただ、

『類緊』は「屍」を「戸」に作る。

「蛾、年十四」は、『類緊』と同じで、『御覧』では、「蛾、

年十四歳」とする。

「江に沿いて琥哭して、畳夜、臀を絶たざること、旬有

七日、遂に江に投じて而して死す」は、『類漿』では、「江

に縁りて」・「七日」に作る。『御覧』では、「江に縁りて」

に作る。

「元嘉元年に至りて、縣長の度尚、蛾を江南の道傍に改

め葬りて、為めに碑を立てたり」の部分について、『類漿』

はこの部分を削除し、『御覧』は、「度尚」・「江南」を除

去するのみで、他は、『後漢書』に同じである。

『後漢書』の基づいた資料も、『會稽典録』であった可

能性が高い。恵棟(『後漢書補注』)は、疸書は、虞預『會

稽典録』か、或いは別に拠るところがあったのであろうと

{?

'>

以上、後世に伝えられることになった孝女曹蛾の伝記は、

『會稽典録』に紹介されたものが基本資料とされたのであ

ろう。しかし、上に述べたように、同じ『會稽典録』とし

て紹介される伝記に、書毎で、なぜこのように異質の素材

が確認されるのであろうか。それは、儒教社会の人間関係

を、意図的に方向性を与えて語り表示するという話の性格

からして、なまの事実資料よりも、引用者の主観による効

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『會稽典録』を典拠とするであろう上記の四資料につい

て、いづれも相互に類似する内容でありながら、素材に少

しずつの隔たりがあることを確認したが、この内でも、『世

説新語』の紹介する曹蛾の伝記内容は、他のそれらが示さ

ない大きく異なる部分を持っている。それは、「乃ち瓜を

江に投ず。其の父の戸を存して日く、父、此に在るなれば、

瓜、営に沈むべしと。旬有七日にして、瓜、偶ま沈む」の

部分である。従来、この点に注目したものは無い。

ところで、この部分は、本来の『會稽典録』に存在した

のであろうか、後の『類緊』や『御覧』には、なぜこの部

分が無いのであろうか。話の紹介に煩瑣であるから省略し

たとも考えられなくはない。しかし、やはり、『會稽典録』

の資料を参照したであろうと思われる『後漢書』にも、上

に確認したように、この部分は無いのである。

そこで、もう一っ、『異苑』巻十の資料を参照してみよ

話の元のかたちについて

果的な思い入れがさまざまに込められ、効果的の感動的な

脚色が施されることに、表現・伝達の意義が認められたか

らであろう。そして、単なる伝記というよりも説話的伝説

的性格が次第に強められていくのである。

う。すなわち、

孝女曹蛾なる者は、會稽上虞の人なり。父旺、能<

絃歌して、巫と為る。漢安帝二年五月五日、縣江に於

いて、濤に訴いて婆娑神を迎え、溺死して屍骸を得ず。

蛾、年十四、乃ち江に縁りて琥哭して、豊夜、整を絶

たざること、七日、遂に江に投じて而して死す。三日

後、父の戸と典に倶に出づ。元嘉元年に至りて、縣長

の度尚、蛾を江南の道傍に改め葬りて、為めに碑を立

てたり。

とある。これは、特に「三日後、父の戸と典に出づ」の部

分が、新たな素材として加わり、「巫祝」を「巫」に作り、

「波神」を「婆娑神」に作り、「元嘉元年に至りて、縣長

の度尚、蛾を江南の道傍に改め葬りて、為めに碑を立てた

り」を別にして、その他の部分は、『類漿』に引く『會稽

典録』と同じである。また、『後漢書』に「元嘉元年に至

りて、縣長の度尚、蛾を江南の道傍に改め葬りて、為めに

碑を立てたり」が存する点に注目すれば、かれの「漢安」

を、「漢安帝」、「旬有七日」を「七日」に置き換えれば、

他の部分は同じである。しかるに、『後漢書』には、「三日

後、父の戸と輿に出づ」の部分は存在しない。なお、これ

は、父の名を、「旺」に作る。

ところで、『後漢書』に示されるような「孝女曹蛾なる

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者は、會稽上虞の人なり。父肝、能く絃歌して、巫祝と為

る。漢安二年五月五日、縣江に於いて、濤に訴いて婆娑神

を迎え、溺死して屍骸を得ず。蛾、年十四、江に沿いて琥

哭して、豊夜、替を絶たざること、旬有七日、遂に江に投

じて而して死す。」の部分は、『類漿』・『御覧』などとほ

とんど同内容で、『異苑』の内容とも同質であることが分

かる。そ

こで、こちらが、本来の『會稽典録』の基本素材と考

えてよいのではないだろうかと、筆者は想定するのである。

そしてまた、「乃ち瓜を江に投ず。其の父の戸を存して日

く、父、此に在るなれば、瓜、営に沈むべしと。旬有七日

にして、瓜、偶ま沈む」や「三日後、父の戸と典に出づ」

の部分は、むしろ古い資料に存在した素材ではなく、時代

の推移の中で脚色・創作された可能性が高いのではないか

と愚考するものである。

『後漢書』の李賢注は、項原『列女偲』に、「蛾、衣を

水に投じて、祝りて日く、父の屍、在る所、衣‘嘗に沈む

べしと。衣、流れに随いて一慮に至りて而して沈む。蛾‘

遂に衣に随いて而して没す。」とあることを紹介し、「衣」

を、或いは「瓜」に作るという。しかし、ここに『會稽典

録』の名を掲げてはいない。下文の「曹蛾碑」に関して補

説する李賢注は、『會稽典録』から、度尚が、魏朗に曹蛾

碑を作らせようとしたが辞退したので榔椰淳に作らせたこ

となどを紹介する。『會稽典録』を見ている筈の李賢が、

「瓜」に関連して『會稽典録』を掲げぬのは、かれが見た

『會稽典録』には、『世説新語』の注に紹介するような「乃

ち瓜を江に投じ云々」の部分は、無かったからと考えるべ

きではあるまいか。かく見てくるとき、『世説新語』注引

が、必ずしも原典のままの紹介でなかった可能性も想定さ

れて良いのであろう。

なお、ついでながら、「瓜」は、「衣」に作るのが正しい

であろう(どの時期かに、「衣」字を、字体の類似した「瓜」

字に誤り書写したことが想定される。ただし、『類緊』巻

八七引『幽明録』は、「曹蛾の父、溺死す。蛾、瓜の浮く

を見て、屍を得たり。」と)。『水経注』巻四十漸江水に、

「曹蛾碑」を紹介し、「蛾の父の旺、満を迎えて溺死す。

蛾、時に年十四、父の戸の得られざるを哀しみて、乃ち江

介に琥踊す。因りて衣を解きて水に投じて、祝りて日<、

若し父の戸に値えば、衣、嘗に沈むべし。若し値わざれば

常に浮くべしと。落りて便ち沈むを裁りて、蛾、遂に沈み

し隧に於いて、水に赴きて而して死す。縣令の度尚、外甥

の榔椰子證をして碑文を為ら使めて、以て孝烈を彰わす。」

という。娘が、父の戸になんらかの神秘的な接近・接触を

求めるとすれば、瓜であるよりも、衣である方が説得力が

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あるであろう。肌身に付着して人の精神が乗り移つている

と観念される衣が、着た人の思いを帯びて、父の戸を捜し

求めるとすれば、これは、当然、曹蛾の着ていた衣であろ

う。だから、「衣を解きて水に投じ」というのであろう。

さて、衣(又は瓜)を用いて父の遺体を捜索したとか、

投身自殺した曹蛾が、父の遺骸を抱いて浮上したとかいう

素材は、もともとのこの話に存在したか否か定かではなく、

むしろ、これらは、話が伝えられて時間が経過し、この主

人公の行動が、より感動的であることを期待する伝達者や

伝聞者の観念の中で熟して、伝説化され興味深く誇大化さ

れる過程で付け加えられた素材と云うべきではあるまい

Tヽ

Oカ

おそらく、本来は、『後漢書』や『類緊』・『御覧』に紹

介するような事柄がこの話の基本要素部分であったのであ

ろう。父

の遺骸が見つからず、これを悲しんだ娘が、昼夜泣い

て江辺をさまよった挙げ句、己も入水したという話におい

て、父の遺骸が見つからないのを悲しむ娘の心根に対して、

伝・聞する者は、この父の遺骸を、実際に娘が捜索する素

材を期待することになろう。そして、父の遺骸の見つから

ないのを悲しんだ娘が、自分も入水するなら、それは父の

遺骸の有る場所である方が聞く者の心に説得する力は大き

い。そこで、衣を投じて祝る娘の場面や、衣の沈んだ場所

で娘が投身した場面は、当然ながら、興味深い設定となる

だろう。

しかし、この話には、投身した後にも、事の成就を希求

する伝聞者の期待がつきまとう。すなわち、親を思う娘の

真情が、感動的な賞賛を充足する話として完成するには、

父の遺骸を求索して自ら到達しただけではなく、求索した

娘の真情を整えて完成するために、娘の思念の力が、死し

たる己の肉体を動かし、遂に父の遺骸を地上に持ち帰ると

いう結末を求めることになろう。かくして、父の戸を抱い

た曹蛾の遺体が江に浮上する話がもう一っ‘だめ押しの格

好で付け加わることになったのであろう。時間と時代の推

移の中で、これ以上付け加える素材は工夫できないまでに、

この話は増幅されていったのであろう。

娘が父の戸を抱いて浮上する素材は、上記のごとく『異

苑』に見えるが、後世伝えられることになった「孝女曹蛾

碑」にも、この部分が見えている。

『古文苑』巻十九によれば

孝女曹蛾なる者は、上虞の曹肝の女なり。其の先は、

父の戸を抱いて浮上する話の淵源について

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しそん

周と祖を同じうす。末冑、荒沈して、妥荻にて適居す。

肝、能<節を撫し歌を按し、婆娑して神を楽しましむ。

漢安二年五月を以て、時に伍君を迎えて、満に逆いて

而して上り、水の滝する所と為りて、其の戸を得ず。

時に、蛾、年十四、琥して肝を慕思し、澤畔を哀吟す

ること、旬有七日、遂に自ら江に投じて死す。五日を

綬て、父の屍を抱きて出づ。漢安以り元嘉元年に迄り

て、青龍、辛卯に在るに、之れを表するものある莫し。

度尚、祭を設けて之れを誅し云々

とある。

ところで、筆者は、上記の如く、娘が父の戸を抱いて浮

上するというモチーフは、この事件を記録した初め頃の記

載には存在しなかったと考えるが、この話が、このモチー

フを具えることになったのは、『後漢書』や『華陽國志』

などに見える「孝女叔先維」の話が影孵していると思われ

る(このことは、既に拙著(注2)

に指摘したことがある)。

次にこの話を確認しておく。『後漢書』列女偲には、

孝女叔先雄なる者は、健為の人なり。父の泥和、永

建の初め縣の功曹と為る。縣長、泥和を遣わして檄を

拝して巴郡太守に謁せしむ。船に乗りて淵水に堕ちて

物故して、戸喪、蹄らず。雄、感念し怨痛して、琥泣

いさること

すること萱夜、心に存を園らず。常に自沈の計有り。

生む所の男女二人、拉びに敷歳なり。雄、乃ち各々に

嚢を作りて、珠環を盛りて以て兒に繋けて、敷々訣別

の辟を為す。家人、毎に之れを防閑す。百許日を経て

後、梢々悌む。雄、因りて小船に乗りて、父の堕ちし

隧に於いて慟哭し、遂に自ら水に投じて死す。弟賢、

其の夕に夢みる。雄、之れに告ぐ、却後‘六日、営に

父と共に同に出づべしと。期に至りて之れを伺うに、

果たして父と典に相い持して、江上に浮かぶ。郡縣、

表言して、雄が為めに碑を立て、其の形を圃像したり。

とある。この話は、『華陽國志』巻三、撻為郡、符縣に、

先尼和の女の絡として紹介され、「永建元年十二月、縣長

の趙祉、吏の先尼和を遣わして檄を巴蜀守に拝せしむ。成

端灘を過ぎりて死す。子賢、喪を求むるも得ず。女の絡、

年二十五、廼ち金珠を分けて二錦嚢を作り、児の頭下に繋

く。―一年―一月十五日に至りて、女の絡、乃ち小船に乗りて、

父の没せし所に至り、哀哭して自ら沈む。夢に見われて賢

に告げて日く、二十一日に至り、父の戸と典に倶に出でん

と。日に至りて、父子浮き出づ。縣、言し、郡太守の薙登、

之れを高しとして尚書に上す。戸曹の橡を遣わして、之れ

が為めに碑を立てしむ。人、為めに語りて日く、符に先絡

有り。焚道に張吊あり、其の夫を求む。天下に其の偶ぶ者

有る無きなりと。」とある。ここにいう黄吊は、巻十中、

(9)

Page 11: Osaka University Knowledge Archive : OUKA · 一とは云えない。注に紹介するものと、話の終始は同じであるが、内容は同七日。遂に江に投じて而して死す。」とある。『世説新語』四、乃ち江に縁りて琥哭して、豊夜、聟を絶たざること、満に訴いて波神を迎え、溺死して、戸骸を得ず。

2554

「健為郡士女」に見える。すなわち、「黄吊、喪を求めて、

身を中流に沈む。懸精相い感じ、夫を撒えて共に浮かぶ。

黄吊、雙道の人にして、張貞の妻なり。貞、易を韓子方よ

り受く。家を去ること三十里、船覆りて死す。貞の弟、喪

を求む。月を経るも得ず。吊、乃ち自ら没せし慮に往きて、

射ら訪ぬれども得ず。遂に自ら水中に投ず。大小、驚脱す。

積むこと十四日、夫の手を持して浮き出づ。時人、為めに

語りて日く、符に先絡有り。雙道に吊ありて、其の夫を求

む。天下に其の偶ぶ有る無きなりと。縣長の韓子再、之れ

を嘉す。吊の子を召して、之れを幸し縣の股肱と為す。」

とある。夫と父の異なりは有るが、話の性格は酷似する。

この両者の話は、『水綬注』巻三三江水にも見える。す

なわち「縣長の趙祉、吏の光尼和を遣わせて、永建元年十

二月を以て、巴郡に詣らしむ。成濡灘に没死す。子の賢、

喪を求めて得ず。女の絡、年二十五歳。二子有り。五歳を

ば以て還る。二年二月十五日に至るも尚お喪を得ず。絡、

乃ち小船に乗りて、父の没せし慮に至り、哀哭して自ら沈

む。夢に見われて賢に告げて曰く、二十一日に至り、父と

輿に倶に出でんと。日に至りて、父子、果たして江上に浮

き出づ。郡県、上言し、之れが為めに碑を立て、以て孝誠

を施するなり。」とあり、また、「益部者薔偲に日く、張員

の妻、黄氏の女なり。名は吊。員、乗船して覆りて没す。

戸を求むれども得ず。吊、没せし慮の灘頭に至りて、天を

仰ぎて而して歎じ、遂に自ら淵に沈む。積むこと十四日。

吊、員の手を持して灘下に出づ。時人、為めに説きて日く、

符に先絡有り。哭道に張吊なる者有りと。」とある。部分

的にこまかな異同は認められるが、話の骨子は基本的には

客同じといってよい。ただ、固有名詞の表記に異なりが有

り、また、『水綬注』では、絡の子の扱いにやや異なりが

あるようだ。なお、『捜神記』巻―一に、「健為の叔先泥和、

其の女、名は雄。永建三年、泥和、縣の功曹と為る。縣長

の趙祉、泥和を遣わせて、檄を拝して巴蜀太守に謁せしむ。

十月を以て乗船し、城瑞に於いて水死す。戸喪、得られず。

雄、哀慟して暁眺し、命存するを圏らず。弟の賢、及び夫

人に告げて、父の戸を覚むるに勤め令む。若し求めて得ら

れざれば、吾、自ら沈みて之れを覚めんと欲すと。時に、

雄、年二十七。子男有り。貢、年五歳。貰、年三歳。乃ち

各々に繍香嚢一枚を作り、盛るに金珠環を以てし、嬰二子

に預く。哀琥の替、口に絶えず。昆族、私かに憂う。十二

月十五日に至るも、父の喪、得られず。雄、小船に乗りて、

父の随ちし慮に於いて、哭泣すること敷整、党に自ら水中

に投じ、旋流して底に没す。夢に見われて弟に告げて云う、

二十一日に至りて、父と輿に倶に出でんと。期に至り、夢

の如く、父と奥に相ひ持して、井びに浮きて江に出づ゜縣

(10)

Page 12: Osaka University Knowledge Archive : OUKA · 一とは云えない。注に紹介するものと、話の終始は同じであるが、内容は同七日。遂に江に投じて而して死す。」とある。『世説新語』四、乃ち江に縁りて琥哭して、豊夜、聟を絶たざること、満に訴いて波神を迎え、溺死して、戸骸を得ず。

2555

長、表言す。郡太守の癖登、承けて尚書に上す。乃ち戸曹

の橡を遣わして、雄が為めに碑を立てしむ。其の形を圏象

にし、至孝を知ら令む」とある。『華陽國志』・『水経注』

に比べて、名や歳、また子の扱い等に異なりが有る。

以上のこまかな異同は別として、問題は、主人公の名が

一定していないことにある。『華陽國志』・『水経注』では、

「先尼和」(『華陽國志』士女目録では、「先泥和」)・「絡」、

『捜神記』・『後漢書』では、「叔先泥和」・「雄」とある。

従来、諸家のこまかな考証が存するが、このことについて

は、すでに、拙著(『儒教社会と母性ー|母性の威力の観

点でみる漢魏晋中国女性史ー』Il研究篇第八章)に論述

したのでここでは省く。結論だけ簡単にいうなら、要する

に、名の表記は、諸書において異なってはいるが、同一人

物、すなわち、叔先錐についての伝記と見てよいのである。

以上、やや叔先維に関する煩瑣な資料を掲げたが、曹蛾

の伝記説話において、その初期のものには恐らく存在しな

かったであろう話の素材としての、投身自殺した娘の遺骸

が、父の遺骸と一緒に浮上したというモチーフは、時間の

経過の中で、『華陽國志』などに紹介された、叔先維の父

娘伝記の、同様のモチーフに影響されて作りだされたもの

と想定することができるのではないであろうか。

なお、この話は、儒教社会における、父と娘の繋がりの

特殊性を語る興味深い素材であり、さらに、類似の話が夫

と妻の場合にも認められるので、父と娘における精神的絆

の関係が、やはり夫と妻の関係においても類似することを

検証するための素材とも見なし得る。しかし、後世、入水

後、戸を抱いて浮き上がったという要素が借用せられて、

むしろ曹蛾の方が有名な話となってしまったのは皮肉であ

る。それは、曹蛾には、その碑文に関連して、有名人を含

めた興味をそそる話が付随するという特殊条件が具わって

いたからであろう。また、逆にいうなら、これは、叔先維

の話等に具わる「戸を抱いて浮き上がる」というモチーフ

が、さらに一次元高い強烈な教訓の効果を持っていたとい

うことなのであろう。すなわち、父の後を追って入水した

殉死の伝記説話は、娘の父への絶ちがたいおもいの強さを

語るに十分であるが、その思念力が、死してなお肉体を動

かして、終に父の戸を求め出すという話の迫力には勝らな

いのである。

先賢の指摘に対する反省を含めて、次に、もう―つ、『後

漢書』の「婆娑神を迎え」の部分に注目してみたい。従来、

この記載は、すでに『困學紀聞』巻十三に指摘するように、

四婆娑神について

(11)

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2556

「婆娑神」を神の名と見るのは誤りとするのが是認される

傾向が強い。王先謙『後漢書集解』は、恵棟『後漢書補注』

が、何悼が王應麟の指摘を是認するのを引き、また、王先

謙は、沈欽韓『後漢書疏證』の説を引用し、『詩経正義』

(「陳風」の「東門之扮」)引の李巡が、「婆娑」とは槃辟

して舞うことで、神名ではないこと(『爾雅』輝訓にも「婆

娑、舞うなり」と。)。『類漿』に引く『會稽典録』の「波

神」とは、すなわち「伍君」のことで、何時とは分からな

いが、「波」の下に誤って「女」字を著し、また、「娑」字

を増入したものとする。そして、『後漢書』の「婆娑神を

迎え」は、「婆娑して神を迎え」が誤倒したものであると

いう。侯康『後漢書補注績』も、東心棟の称する『典録』(「婆

娑神を迎え」)は、恐らく『御覧』四百十五に基づいてい

るのだろうが、『世説新語』捷悟篇に引く『典録』は、正

しく「婆娑して神を楽しましむ」とあるのであり、『御覧』

の引く所は、恐らく後人が、苑書によって改めたものとす

る。王先謙は、この侯説を甚だ確かとする。なお、施之勉

『後漢書集解補』も、これを是認する。

この考証を覆す指摘はまだ無いように思う。そして筆者

も、前掲拙著において、これらの考証に注目・敬服したの

である。『詩綬』の正義や『爾雅』の説明に目を止め、こ

れに『世説新語』や、「曹蛾碑」の表現を連ね見るなら、

諸家の考証は是認されざるをえないであろう。ただし、改

めて見ると、これらの指摘は、いかにも都合良く出来過ぎ

ているようにも思われるのである。ささいながら、拭い切

れぬ疑いが残るのである。

考えてみれば、『世説新語』には、なるほど、『會稽典録』

と表記して「婆娑して神を築しましむ」と紹介するが、こ

の表現は、すでに上文に確認したように、同じ『會稽典録』

として紹介する他の書、すなわち、『類緊』や『御覧』の

それとは、かなり異質なのである。『世説新語』の引用が、

必ず『會稽典録』そのままと云い切れるのか、疑問が残る。

上述のごとく、『世説新語』において、原典の表現が変え

られ内容の増幅が図られた可能性が無いとは云えないので

はなかろうか。特に、「瓜」(「衣」)によって父の遺骸を

捜索したというような、二次的と思われる話の素材が用い

られているなど、『類緊』・『御覧』のそれに比較して、内

容の豊かである分だけ、逆に、創作部分の存在を否定でき

ない性格を有する資料と疑えるのである。

なお、「婆娑して神を栗しましむ」は、「曹蛾碑」にも確

認される表現である。しかし、『水経注』巻四十に紹介す

る「曹蛾碑」には、「濤を迎える」とある。しかも、『古文

苑』などにも見える「曹蛾碑」の文は、王毅之の書である

と伝えられる「孝女曹蛾碑」のそれに同じであるが、これ

(12)

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2557

は、もともと、「北宋の集古録跛尾、金石録にも載録され

ておらず、南宋になってからはじめて石刻があらわれた。

それで、これを宋人の偽作だとする説もある。」(平凡社『書

道全集』

4に紹介)と云われるのであって、これが、古来

の諸書に指摘される「曹蛾碑」である可能性は、きわめて

低いのである。なお、「曹蛾碑」について、宋の陳思『賓

刻叢編』引『會稽志』に、「其の碑、歳久しく、字訛跛多

し、景徳中に至りて重立す。」とある。また本来、碑文を

誰が書したかについても議論が有り、この碑文の問題につ

いて、施蟄存『水紐注碑録』に論ずる。ただ、本稿ではこ

れを追求しない。

以上により、筆者は、次のようにも考える。諸家の考証

に用いる資料の立脚する基盤は、必ずしも確かとはいえな

い。また、後世の諸書でも、これを波神の名として使用す

るものは多いのである。そこで、われわれとしては、『類

漿』で、「波神を迎え」とし、『御覧』・『異苑』・『後漢書』

で「婆娑神を迎え」とするような表現も、まった<否定せ

ず、「婆娑神」を波神の名とする資料もとどめ置きたい。

是に決する根拠は、なお希薄である。

後世の曹蛾伝記

以上のように、曹蛾の伝記は、早い時期からさまざまの

変転を示している。後世の孝子伝記や列女伝記においても、

さまざまに紹介される。先ず、呂坤『閤範』巻二の「曹蛾

父を求む」には、

曹蛾なる者は、上虞の曹旺の女なり。旺、能<剣を

撫して長歌し、婆娑して神を栗しましむ。漢の建安二

年五月五日、伍君を迎え、濤に逆いて而して上り、水

の没する所と為りて、其の屍を得ず。蛾、年十四。江

に沿いて琥哭すること、十七蜜夜、啓を絶たず。遂に

自ら江に投じて以て死す。経ること五日にして、父の

屍を抱きて出づ゜縣長の度尚、蛾を江南の道傍に改め

葬りて、為めに碑を立てたり。

とある。ここには、『異苑』の「父の戸と倶に出づ」や、

また、『古文苑』などに確認される「曹蛾碑」の、「父の屍

を抱きて出づ」のモチーフが用いられている。ただ、「剣

を撫して長歌し」は、独特である。また、なぜか、「漢の

建安二年」とする。清代の康基淵『女學纂』もこれに同じ

文を採用する。これに類似の文で紹介するのは、藍鼎元『女

學』巻一婦徳上篇、三三章に見える。すなわち、「孝女曹

蛾は、上虞の曹旺の女なり。旺、巫祝と為りて、能<節を

撫して按歌し、婆娑して神を楽しましむ。五月、伍君を迎

え、濤に逆いて而して上り、溺死して、屍を得ず。蛾、年

(13)

Page 15: Osaka University Knowledge Archive : OUKA · 一とは云えない。注に紹介するものと、話の終始は同じであるが、内容は同七日。遂に江に投じて而して死す。」とある。『世説新語』四、乃ち江に縁りて琥哭して、豊夜、聟を絶たざること、満に訴いて波神を迎え、溺死して、戸骸を得ず。

2558

十四。江に沿いて琥哭して、豊夜、替を絶たざること、旬

有七日。遂に江に投じて死す。綬ること五日にして、父の

屍を抱きて而して出づ。」とある。こまかい部分では異な

りも認められるが、藍鼎元は、呂坤『閏範』や『後漢書』

の資料を独自に合成したものであろう。

以上のものと異質のまとめ方が、黄尚文輯『女範篇』(『闇

範園集』・『古今女範』などとも)巻四「烈女」に見える、

「漢の曹蛾は、曹旺の女なり。世々、昌の西に居る。義理

を知り、父母に事えて孝なり。一日、山澗に水瀕るに、

父、竹梓に乗りて度らんと欲す。蛾、水瀕りて清り難きを

以て、父の湖るるを恐れ、之れを祖むも、従わず。行きて

中流に至りて而して溺る。蛾、哀慟して身を顧みずして、

水に投じて父を尋ぬること、三日、屍を抱きて而して浮か

ぶ。里人、其の父の為めにして而して死するを憐れみ、ニ

屍を牧めて之れを積葬す。凡そ九年、之れを表すること有

る莫し。郡守の度尚、祭りを設けて之れに誅し、碑を立て

祠を建つ。」とある。説話の概略は、大差が無いとも云え

るが、まとめ方は、上記諸資料とやや異なる。囚みに和刻

本『列女偲』の、『新績列女偲』後漢部分に収める「孝女

曹蛾」は、これ(『閏範圏集』と、父の名を「肝」と)を

用いている。

この話は、特に、父を巫祝としたり伍君神に祈りをして

いて溺死したというモチーフを採らないところが、新たな

まとめとなっている。溺死の出来事も、独特の視点で紹介

し、「一日、山澗に水瀕るに、父、竹梓に乗りて度らんと

欲す。蛾、水派りて清り難きを以て、父の溺るるを恐れ、

之れを祖むも、従わず。行きて中流に至りて而して溺る。」

としている。何に基づいたのかは定かでない。しかし、他

のものとの異質性や、創作性の高さが興味深く、注目され

る一資料である。なお、後世の資料では、父の名を「旺」

とするが、古い文献では「肝」に作る(ただし、『異苑』.

『水綬注』では「旺」と)。「旺」は、あさや旭の意であり、

「肝」には、目を見張る待ち受けるの意がある。断じ難い

が、どちらかといえば、古来の「肝」がこの役目を持つ父

の名に相応しいように思われる。

次に、明の注氏輯『綺園列女博』巻六には、

漢の桓帝の時、女曹蛾なるもの有り。父、能<巫の

ことを為す。漢安三年五月五日に干いて、濤に訴いて

神を江に迎え、溺死す。蛾、年十四。江に沿いて琥哭

して、豊夜、整を絶たざること、旬有七日。遂に江に

投じて而して死す。敷日にして、父の屍を抱きて出づ゜

縣令の度尚、憐れみて而して之れを葬りて、榔椰子、

記を作る。察昌、之れを識して日<云々

とある。「桓帝の時」としながら、事件を、それより前の

(14)

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2559

順帝の「漢安三年」に設定するのは、なにかの誤解による

ものと思われる。「父の屍を抱きて出づ」のモチーフは、

やはり重視されている。なお、この話は、父の紹介から初

めている。

清の天津延古齋蔵版『賢媛圏説』(光緒丙午年鍋)孝女

こ土‘

Jr,

、~•

漢の曹蛾は、上虞の人なり。父の旺、巫祝に善なり。

午日、濤に訴いて神を迎えて、溺死し、屍、得られず。

蛾、年十四。江に沿いて琥哭して、藍夜、整を絶たず。

乃ち江に瓜を投じて、祝りて日く、父の屍、在る所、

瓜、嘗に沈むべしと。旬有七日にして、流れに随いて

―虚に至りて而して瓜沈む。蛾、遂に江に投じて死す。

三日にして、父の屍を抱きて而して浮かぶ。里人、之

れを濱葬し、縣長の度尚、祠を建つ。今に至るまで江

上に神と為すと云う。

とある。ここには、『世説新語』で紹介された「瓜」のモ

チーフを使用して、これに、「父の屍を抱きて而して浮か

ぶ」をも結び付ける。古来の曹蛾説話の素材を用いて、独

自の表現を交えてまとめていると云えよう。ただ、事件の

日を「午日」とするのは特異である。ただし、これは、次

のような資料といささかの関連を持つのかもしれない。

『日記故事大全』(萬暦年間)巻三の「孝感類」に、「江

日本における孝女曹蛾説話

に投じて父を抱く」として、

曹蛾は、曹旺の女なり。漢安の初、端午の日、父、

巫祝と為りて、濤に訴いて婆婆神を迎えて、溺死し、

戸を得ず。蛾、年十四。江に沿いて琥哭して、饗夜、

啓を絶たざること、七日にして、遂に江に投じて而し

て死す。三日の後、父の戸を抱きて浮かびて出づ。上

虞縣の長の度尚、礼を以て葬りたり。元の順宗、封じ

て懸孝夫人と為す。

とある。ここには、「瓜」のモチーフは用いないが、事件

の日を、「端午の日」とする。上記書の「午日」は、ある

いは、誤って「端」字を脱落したのかも知れない。「七日

にして」・「三日の後」などは、『異苑』の用いるところで

ある。なお、「元の順宗、封じて霊孝夫人と為す」は、特

異である。『孝行録』にも、「孝蛾、屍を抱く」として、伝

記を紹介するが、他書に類するところ多く、「父の屍を抱

く」を用いる他、異なるのは、「江水の大いに骰するに値

いて、而して遂に溺死す」・「後、吏民、改め葬りて碑を

樹つ」の表現くらいである。全文は掲げない。なお、大阪

府立大図書館蔵『二十四孝』には、曹蛾を加え、『孝行録』

とほぼ同文で紹介する。

(15)

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2560

先ず『孝子傭』(京大人文研所蔵)上巻には、

孝女曹蛾なる者は、會稽の人なり。其の父の肝、能

に絃歌を事とす。時に於いて巫婆に引か所て、艇に乗

りて江に浮かぶ。船、覆りて江に没しぬ。曹蛾、時に

年十四なり。江に臨みて葡勾す、葡匈して泣哭するこ

と、七日七夜、其の整を断たず。其の七日に至りて、

衣を脱ぎて、究して日く、若し父の戸骸に値えば、衣、

嘗に之に沈むべしと。衣、即ち沈みたるが為めに、蛾、

身を江中に投ず。女人、父を悲しみ、身命を惜しまず。

懸命(縣令)之れを聞きて、俄に、蛾に碑を立てて、

其の孝を表せり。

とある。「巫婆」・「艇に乗りて江に浮かぶ。船、覆りて」.

「葡術」.「七日七夜」など、用語に特色が認められる。

また、「衣」のモチーフを用い、父の後を追って投身自殺

を遂げたという、殉死のかたちを採っており、中国におけ

る、後世の、父の屍を抱いて浮上したというモチーフを用

いていないのが特色といえよう。この点は、どちらかと云

えば、『水綬注』に引く「曹蛾碑」に近いと云えようか。

次に、陽明文庫本『孝子偲』上巻では、ほぼ同様のモチー

フでまとめるが、やや表現に異なりが認められる。父の名

を「肝」とする。

孝女曹蛾は、會稽の人なり。其の父の肝、能に絃歌

したるが、巫婆神の為めに溺死せしめられて、父の戸

骸を得ず。蛾、年十四なり。乃ち江に縁りて琥泣して、

哭整、豊夜絶たざること、旬有七日。遂に衣を解きて

水に投じて、兜して日く、若し父の戸骸に値えば、衣、

常に沈むべしと。衣、即ち便ち沈む。蛾、即ち水に赴

きて而して死す。懸(縣)令、之れを聞きて、蛾の為

めに碑を立てて、其の孝名を顕わせり。

とある。「巫婆神」として、船の沈没で没したとはしない。

「七日七夜」ではなく、「旬有七日」とする。しかし、こ

れも、「衣」のモチーフを用い、父に殉死したかたちを採

っているのは、人文研『孝子偲』と同質であるが、ストー

リィは単純にまとめ、中国のものに近似する。これも、父

の名を「肝」とする。次に、『今昔物語』巻第九「會稽洲

の曹蛾、父の江に入りて死にけるを患いて、自らも亦た江

に身を投げたる語第七」(岩波書店、日本古典文學大系本)

こ、9

9コ

今昔、震旦の會稽洲に曹蛾と云ふ女人有けり。其の

父、管絃を好て其の事を翫ぶを以て常の事とす。常に

友に被引れて家を出て遊戯す。而る間、曹蛾が父、管

絃の女人等に被引れて江に行て船に乗て水に浮て遊ぶ

間、俄に船漂て江に入ぬ。然れば曹蛾が父、井に船の

(16)

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2561

内の人皆、江に入て死ぬ。浮び出る骸元し。其の時に、

曹蛾が年、十四歳也。此の事を聞て、江に臨て父を懇

泣悲む事七日七夜、音を皐て叫ぶ。其の音不絶ず。然

而も、其の骸をも見る事を不得ず。遂に曹蛾、七日に

至て自ら衣を脱て誓て云く、我れ、若し、父の死骸を

可見くば、裳に此の衣を此の江に投入れむに可沈し。

不然ずば不可沈ずと云て、江に衣を投入れつ。即ち、

其の衣沈みぬ。其れを見て、暫蛾亦、自ら身を江の中

に投げつ。然れば、子有て父母の死せるを懇悲む事、

常の事也と云へども、命を弁つる事は、難有し。然れ

ば、此れを見聞く人、且は曹蛾を哀び、且は此れ、奇

異の事也と思う。亦、其の縣の令、此の事を聞て奇異

也と思て、曹蛾の為に其の所に碑文を立て、永く其の

孝の深き事を示しけりとなむ語り偲へたるとや。(注3)

とある。内容は、むしろ日本独特の捉え方やまとめ方が特

徴的であるが、おおむね、人文研『孝子偲』に類する。た

だ、「巫婆」には、中国での「婆娑神」あるいは「波神」

の雰囲気が残るように思えるが、これが日本的展開を遂げ

ると、この『今昔物語』のように、「管絃の女人等に被引

れて云々」のごとく変転するのであろうか。ところで、『今

昔物語』では、溺死原因の設定が特異である。すなわち、

曹蛾の父は、その波神しずめの巫祝ではなく、管弦を楽し

む趣味人とされ、しかも、女人らとの船遊び中に水没した

とする。ほかに、「衣」や「七日七夜」のモチーフは、『孝

子偲』のとおりと云ってよかろう。なお、これもやはり、

父の屍を抱いて浮上するというモチーフを採用しない。

次に『太平記』巻三四には、かなり、異質で独創的な曹

蛾説話が見える。長いので、概略で紹介する。初めに、「昔、

漢朝に一人の貧者あり。何となく晒巷に苦しんで、朝げの

姻絶えぬれば、……堪へて住むべき心地もなかりければ、

曹蛾と云ひける一人の娘を携へて、他國へぞ落ち行きけ

る。」と話の発端を語る。中国のものに類話を見ないが、

ただ―っ『古文苑』に引く「曹蛾碑」の、「其の先は、周

と祖を同じうす。末冑、荒沈して、妥絃にて適居す」に基

づけば、このような翻案が生まれる可能性はあろう。次に、

旅の途中、増水した「洪河」という河にさしかかり、橋も

舟もないので、娘を岸に置いて、河の瀬ぶみをしていたら、

俄に河から毒蛇が浮かび出て父をくわえて河底に入ってし

まう。これを見た曹蛾は、「如何はせんとあわて悲しめど

も」、すべもなく、「七日七夜まで川のはたにひれ臥し、天

に叫び地に哭して」、かみほとけに祈る。この志が伝わっ

たか、毒蛇は河伯の水神に罰せられて、父を呑んだまま、

身を切りさかれながら、浪の上に浮かぶ。「曹蛾この慮に

空しき骨を収めて、泣く泣く故郷へ蹄りにけり。後の人こ

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Page 19: Osaka University Knowledge Archive : OUKA · 一とは云えない。注に紹介するものと、話の終始は同じであるが、内容は同七日。遂に江に投じて而して死す。」とある。『世説新語』四、乃ち江に縁りて琥哭して、豊夜、聟を絶たざること、満に訴いて波神を迎え、溺死して、戸骸を得ず。

2562

れを憐れんで、この所に墳を築き、石を刻みて碑の文を書

きてぞ立てける」という。なぜ「洪河」とするのか理解し

がたい。「黄河」のこととする指摘も有るが、むしろ中国

原話の「江」が発想のもとにあるようにも思われる。波に

呑まれて溺死したとする中国の原話を、毒蛇に呑まれたと

把握しなおすのは、日本的視点にたつ独創的な脚色である。

「七日七夜」の間、嘆き悲しむのは、中国の原話とのつな

がりを示す。ただし、父の後を追う娘の投身自殺は、日本

人好みでないからか、変じて、娘は生きて父の遺骸を抱い

て故郷に持ち帰る。もう―つ興味深いのは、父の遺骸が浮

かび出る設定である。ここは、遺骸を抱いて浮上するとい

うモチーフを、日本的に変じて採用したというべきであろ

うか。しかし、全体として、日本的な独特の新鮮な人物視

点と物語センスで脚色しまとめなおしている点が注目され

る。日本のもので、もうつ『源平盛衰記』を見ておく。巻

第十九に、「曹公、父の骸を尋ぬ」(三弥井書店刊本)に、

昔大国に曹公と云し者の父、秦泉河と云川を渡ける

に、流烈波高して舟覆水に溺て失にけり。曹公歎悲て、

彼秦泉河の底に入て父が骸を尋けるに、水神憐之、曹

公を相具して其骸の流寄たる所に行、十五里を下て、

柳原の下に被推上たりけるを与たりければ、曹公泣々

七伍君神・波神について

父の骸を懐て臥て、……亡父の骸を懐臥ながら、曹公

七日に死けり。遠近人も是を見て、皆涙をぞ流しける。

(美濃部重克・松尾葦江校注による)

とある。ここでは、「曹蛾」と云わず「曹公」として紹介

する。「河を渡ける」は、やや『女範篇』のまとめに近い

雰囲気もある。ここも水神の導きを得て父の遺骸も手にす

る。「十五里を下て、柳原の下に被推上たりける」の表現

は独特である。「七日」を用い、主人公は、父の後を追っ

て死ぬ設定となっている。中国での曹蛾説話のモチーフを

巧みに採用し、基本的にその理念を手本にしている。『太

平記』に紹介する曹蛾説話に比べて簡素ではあるが、ここ

もやはり素材や設定を日本人好みに作り替えまとめてい

る。しかし、日本のものでは、『太平記』が、尤も大胆か

つ日本的・独創的に物語を作り換えている。

以上、日本で紹介される曹蛾説話は、漢文のものは、中

国的な要素を用いるが、まとめには工夫が見られる。しか

し、和文のかたちで紹介するものは、原資料の意義を主体

的に呑み込んで、かなり異質性の高い興味深いドラマに仕

立て上げているようである。なお、和文で紹介される文献

では、父の名を記さない。

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Page 20: Osaka University Knowledge Archive : OUKA · 一とは云えない。注に紹介するものと、話の終始は同じであるが、内容は同七日。遂に江に投じて而して死す。」とある。『世説新語』四、乃ち江に縁りて琥哭して、豊夜、聟を絶たざること、満に訴いて波神を迎え、溺死して、戸骸を得ず。

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曹蛾伝記説話は、儒教思想を背景として、この社会での

男女関係における父娘結合の理念が提示される意義を担っ

ているが、この事件は、川と水を巡る人間生活という現実

的な問題や、揚子江下流域における特殊な波満現象と関連

を持つ自然現象への慰霊という土俗の信仰などとも関わっ

ていると思われる。詳細な論究の展開はできないが、その

ポイントのみ注目しておく。

『荊楚歳時記』五月五日に、「是の日競渡して雑薬を採

る」とあり、「曹蛾碑」を掲げて、伍君を迎えて水に溺れ

て死んだ事について、「按ずるに、……斯れ又た東呉の俗、

事は子詈に在り云々」とする。『呉越春秋』夫差内偲第五

に、呉王が伍子詈を殺し、「乃ち其の脳を棄て、之れを江

中に投ず。子智、因りて流れに随いて波を揚げ、潮に依り

て束往し、蕩激して岸を崩す。」とある。『論衡』書虚篇に、

呉往に殺された子骨が、「惑り恨みて、水を謳して滴と為

りて、以て人を溺殺す。」という博書の言を掲げて、錢唐

の浙江や山陰江・上虞江などに濤があるという事実を確認

しつつ、王充は、これを迷信として論駁している。この地

方の濤は、死んだ人の怨恨などとは無関係で、この満は、

単なる自然現象の結果に過ぎないと述べる。すなわち、「其

の海中に肢する時、潔馳するのみ。三江の中に入りて、殆

小にして棧狭なれば、水激して沸き起こる。故に騰して濤

と為るなり。」と濤現象の正体をあばいている。なお、『論

衡校繹』巻四が指摘する『浙江通志』杭州府山川の条に引

く『萬歴錢唐縣志』には、錢唐江に、「潮水、豊夜再上し、

奔騰衝激して、整、地軸を撼す。」という。『異録記』巻七

の「異水」に、「錢唐江の潮頭」について紹介し、自殺を

命じられた伍子脊は、臨終に際して、子に、自分の死体を

鰊魚の皮に包んで江中に投げ入れよ。吾は、きっと朝暮に

潮に乗ってやって来て、呉の滅びるのを見てやると遺言す

る。その後、錢唐江には、激しい潮流が毎年押し寄せるよ

うになったという。「海門山自り、潮頭、油湧すること、

高さ敷百尺なり。錢唐を越え漁浦を過ぎて、方に漸く低小

なり。朝暮に再束す。其の啓、振怒して、雷のごと奔し電

のごと激して、百餘里に聞こゆ。時に、子脅の、素車白馬

に乗りて潮頭の中に在るを見ること有り。」という。

曹蛾の伝記説話が伝承された背景には、儒教思想に基づ

く親子・男女の家庭・社会道徳の観点に加えて、このような

歴史的な事情、地理的自然条件と関わる地方的な生活・風

俗の諸事情もからまっているであろう。すなわち、以上の

ような曹蛾の父娘伝記説話は、揚子江下流域のこの地方に

毎年決まって起こる独特の江水の濤現象と、古来の儒教的

人間関係に基づく教訓的伝記説話とが結び付けて語られて

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Page 21: Osaka University Knowledge Archive : OUKA · 一とは云えない。注に紹介するものと、話の終始は同じであるが、内容は同七日。遂に江に投じて而して死す。」とある。『世説新語』四、乃ち江に縁りて琥哭して、豊夜、聟を絶たざること、満に訴いて波神を迎え、溺死して、戸骸を得ず。

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伝承され、さらに、独特の地方的土俗的信仰も加味されて、

形成され、歴史の流れの中でさまざまに変形・展開したの

である。

本稿では、儒教社会における人間関係要諦としての、父

性と母性の関係についての三原則のうち、父と娘の対応関

係を語る歴代の類話の内でも、ことに執拗な関心がもたれ

独特の迫力が期待されつつ伝承された曹蛾の伝記説話を取

り上げた。そして、この話の性格を確認し、話の原型、モ

チーフの変転と、各資料の特徴や比較、また、これに関わ

る歴史的社会的な諸背景などについて、検証・点検した。

儒教主義に基づく歴史展開や社会における、男女関係の一

形態たる父娘対応の、独特の伝記説話形成や変転の意義な

どを明らかにすることをこころみたものである。

中国学の研究方法として、女性学・男性学的観点から、

儒教社会や儒教精神の本質を究明する―つの方向が設定さ

れてよいと思う。従来、伝記説話資料の類は、単なる珍奇

な話とされて、せいぜい文学的関心から一瞥されるに過ぎ

なかった。そして、これらを、正式の思想研究の対象とし

おわりに

注て使用する方法論は、模索もされぬゆえ確立もされず、た

だ軽視・看過される傾向の中に置き去りにされていたので

ある。しかし、男女関係の角度から儒教社会や儒教思想を

究明しようとするとき、ひとびとの心に、常に生々しい迫

力をもっ語りかけ続けてきた、女性に関する、また孝子に

関する伝記説話の類が、さまざまな方法で分析・整理され、

それらが内包する儒教精神の本質が新たな認識の下で明確

にされねばならないことが了解されてくる。これらをもっ

と積極的に研究資料として用いる方法論がさまざまに探ら

れねばならないと思うのである。本稿は、このためにここ

ろみた女性伝記資料への分析・整理作業の一である。

(1)

『儒教社会と母性ー_毎

t

性の威力の観点でみる漢魏晋中国

女性史ー』(-九九四、研文出版)や、『孝と母性のメカニ

ズムー中国女性史の視座ー』(-九九七、研文出版)等。

(2)

前注

(1)

の拙著『儒教社会と母性』

(3)『注好選』上所引、客同じ。

(20)