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お問合せ先 茨城大学学術企画部学術情報課(図書館) 情報支援係 http://www.lib.ibaraki.ac.jp/toiawase/toiawase.html ROSEリポジトリいばらき (茨城大学学術情報リポジトリ) Title デューイの教育思想における経験と系統 Author(s) 関. 勤 Citation 茨城大学教育学部紀要(11): 41-57 Issue Date 1962-03 URL http://hdl.handle.net/10109/10722 Rights このリポジトリに収録されているコンテンツの著作権は、それぞれの著作権者に帰属 します。引用、転載、複製等される場合は、著作権法を遵守してください。

ROSEリポジトリいばらき (茨城大学学術情報リポジトリ) - …に論理的(logica1)という意味はデューイによつて合理的(rationa1) という意味と同義

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お問合せ先

茨城大学学術企画部学術情報課(図書館)  情報支援係

http://www.lib.ibaraki.ac.jp/toiawase/toiawase.html

ROSEリポジトリいばらき (茨城大学学術情報リポジトリ)

Title デューイの教育思想における経験と系統

Author(s) 関. 勤

Citation 茨城大学教育学部紀要(11): 41-57

Issue Date 1962-03

URL http://hdl.handle.net/10109/10722

Rights

このリポジトリに収録されているコンテンツの著作権は、それぞれの著作権者に帰属します。引用、転載、複製等される場合は、著作権法を遵守してください。

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デューイの教育思想における緯験と系、統、                                                                                     f

一端緒的形態……論理的系統に対する心理的系統の強調  一

教育学研究室 関     勤

1 デューイの批判した系統

(1) 学習者の経験から離れた論理的系統

デゴーイは「学習者の立場から見れば科学的形式(論理的形式)は到達せんとする理想

であつて,これから進みだす出発点ではない」という基本的観点をもつて旧教育の学科課

程に対し終始批判をしたのであるが,先ず彼の旧学科課程観をその1三要著作により史的に

辿つてみる。初期の著作「学校と社会」で彼は旧教育の「学科課程は,精神及びその諸能力●   o   ■   ●

が徹頭徹尾同一であるが故に成人の教材即ち論理的に(logically)配列された事実及び原理

が児童の白然な「教科」であるという仮定によつて,よし無意識的にではあつても一貫して@      (1)x配されていた」と見傲し,更に「伝統的教育においては出来合いの教材(書物・実物教

授・教師の話・等4)を児童に提示することに多くの力が入れられてきたのであって,児童

はもつばらこの出来合いの教材を暗調する一・途な責任を負わされているだけなので,反省

的注意を発達させるための機会や動機はただ偶然に存在するのみであつたといつても過言(2)

ではないであろう」とその欠陥をつく。中期の著作「民主主義と教育」ては「学科課程は

大部分種灯の部門の学科に配分された報道(infomlation) から出来ている。各々の学科

は課業に細分され,それは学科の内容全体を連続して切断した部分をあらわすものであo   ●  o   ●   ●  ●

るpだから学問の各部門に亘つて報道の少量を獲得することが小学校から大学までのカリ

キュラム構成の原理であつて,低学年では容易な部分が割当てられ高学年にはより困難な@             (3)舶ェが割当てられるようになる」とその学問依存性を指摘し,かかる結果は知識そのもの

(4)

の本質(the nature of knowledge itself)についての人間の考え方に誤りがあり,「吾々     一

の知識,即ち実際問題との実地交渉の結果である知識が保存されている叙述や命題(the

statements, the propositions)が知識そのものであると考えられていること,また知識の

紀録が研究の結果としての,また今後の研究の資料としての役割とは無関係に知識である

と考えられていること(に起因し),このように知識(knowledge)と報道を叙述する命

題(propositions stating information)とを同一視することが論理学者や哲学者にとりつ

いているとすれは,その同じ理想が教授 (instruction) をほとんど支配しているのは驚

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(5)

くには当らない」と旧学科課程の背後にある知識観にまで批判を透徹させる。後期の著作

「経験と教育」では若しも伝統的教育についての基礎観念が正確なる叙述を要求するとい

う制限なしに率直に提示されるとすれば,それはほぼ次のようになされるであろうという

前提のもとに「教育の題材(the subject-matter of education)は過去に造り出された知識

や熟練の集積から成立する。それ故に学校の主要な任務はそれを新しい世代に伝達するこ(6)

とにある」と概括し,かかる教育内容の組織は伝統的(教育)組織が本質において上からの

外部からの賦課(imposition)という組織であることに起因し,それは「成熟に向つて徐

々に生長しつつあるにすぎない者に対して,成人の標準と教材と方法とを賦課するもので

ある。その間の溝は非常に大きいのでその要求された教材と学習及び行動の方法とは年少

者の現有の能力には適しないものである。それらのものは年少の学習者が現にもつている

経験をもつてしては到達しえない範囲のものである。従つてそれは賦課されねばならない(7)

のだ」と既成の文化遺産伝達中心主義の教育の内容組織と方法とに論難を加える。以下同

書中に一貫してあらわれる旧教育の学科課程に対する同趣旨の批判を列挙してみると「伝

統的学校の教科目は,将来何時かは子供にとつて有用であろうという成人の判断を基盤と

して選択され排列されたた教材から成立していたから,学ばれるぺきものとしてのその材

料は学習者の現在の生活経験の外で決定されていた。従つてそれは過去に関係あるもの,(8)

過去において大人に対して有用であつたものであつた」のであり「旧教育の実質を構成し(9)                                  ・  .  。  .  ●

ていたものは切れ切れのまた無味な教材」なのであり「伝統的教育は知識の組織という概(1①

念に立脚して,生きた現在の経験をほとんど完全に軽蔑した」ものなのである。

以上デューイの教育思想を示す代表的著作「学校と社会」・「民主主義と教育」・「経験

と教育」によつて彼の旧教育の学科課程観を年代的に部分的には彼の批判をまじいながら

概観したのであるが,それを要約すると旧教育の学科課程は成人の教材・出来合いの教材・

学問の各部門に亘る教材・過去に造り出された知講や熟練の集積から成立する教材・成人

の判断を基盤として選択され排列された教材・知識の組織という概念に立脚した教材・から

成るといつてもよいように思われる。更にこれらの種々に表現されている教材を一言で特

色づける構成要素を見出すならばそれは「論理的に排列された事実及び原理」 (logically

arranged facts and principles)であると断言しても差し支えないように思われる。ここ

に論理的(logica1)という意味はデューイによつて合理的(rationa1) という意味と同義

に用いられるものであり,それは知識の科学的組織の理想(the ideal of scientific orga一

nization) となるものである。科学的組織の理想は「あらゆる概念及び叙述が他の概念及⑳

び叙述から生じ,また他の概念及び叙述へ導かれるような種類のものとなること」 (that

every conception and statement shall be of such a kind as to follow from others

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関:デューイの教育思想における経験と系統            43

and to lead to others)であるが,これは「概念や命題が互に他を包含しまた扶助し合う⑫

こと」(Concepts and propositions mutually imply and supPort one anotheL)を意味

⑬する。この「他へ導くことと他を確かることとの二重関係」 (this double relation of

‘‘

Peading to and confirming”)が論理的という言葉の意味するものなのである。要する

にデューイの批判した旧教育の学科課程は成人の教材,即ちそれは論理的に排列された事

実及び原理から成る教材で組織されたものであり,これは「論理的系統を主軸として構成

された教材」で組織されたものであると換言することができるであろう。

次にこのような性格をもつた教育内容の組織,即ち学科課程が何故に旧教育の教育内容

の組織において合理的なものと認められていたのか,という経緯をデューイは古い心理学

の精神観(結局は児童観一関)にあるとし,これを「学校と社会」の第3章初等教育の心

理学(The Psychology of Elementary Education)の中で「古い見解に従えば,精神と

は精神のことなのであつて,一切はそれで終つていた。精神は徹頭徹尾同一のものであつ

た。というのは児童におけると成人におけるとを問わず,精神は同じ取合せの能力を具備す

るように出来ているものであつたからである。もしいくらかの差異をつけるとすれば,これ

らのすでに出来上つている能力のあるもの一例えば記憶力のごとき一は比較的初期にはた

〆    らきを開始するが,一方判断力や推理力のごとき他の能力は,児童が記憶力の訓練を通じて

他人の思想に完全に依存するようになつた後において,はじめてあらわれてくるというこ

とぐらいのものであつた。そこに認められる唯一の重要な差異は,量的な差異・大きさの

差異であつた。少年は小さな大人であつて,その精神は小さな精神であつた。大きさの点

を除けばすべての点において成人の精神と同一で,注意力・記憶力等の諸能力がちやんと㈹

それなりに具つていた」と認められていたと説明している。デューイによつて古い心理学

の見解と称せられたこの精神観は近代の心理学によつて「機械論的要素観」と呼ばれ「古

くは個体は感覚,表象,簡単感情などの相互に独立した心理要素から加算的に結合したも

のと考えられ,子供が大人へと発達することは,一定の繭芽が量的に開発され,今までな

かつた心的要素が年令とともに漸次付加されることであると考えられた。子供は大人の縮

図であるという見方も,高等の段階から一定の心的要素を減算することによつて下等の段05)

階に達するという考え方も,ともにこの機械論的要素観にもとついたものである」と解釈αθ

されているものである。この点における「教育と心理学との一致」 (the agreement of

education and psycholo9ソ)が伝統的学科課程合理化の直接の要因であつて,「そのなか

においては,児童の精神と成人の精神とは,単なる力の分量という一点を除けば,ふたた働

び全然同一視されているのである」から,成人の教材,即ち論理的に排列された事実及び  一

原理から成る教材により組織された学科課程,換言して,「論理的系統を主軸として構成

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された教材」から組織された学科課程が旧教育内容の組織において主権を握つて君臨する

ようになつたのは,極めて当然であつたといわなければならない。デューイはかかる論理

的系統を主軸にして組織された教材から成る学科課程が学習者の経験と全く隔絶されなが

ら組織され教授されることを批判したのであつて,次にその批判の内容と根拠とを明らか

にするつもりである。

(2) 批判の内容とその根拠

デューイは前述したように旧教育の学科課程の論理的系統を主軸とした教材組織に批判

の眼を向けたのであるが,この場合注意しなければならないのは,彼が論理的系統によつ

て組織された知識(教材)そのものを教育的に無価値なもの,或いは非教育的なものと考

えたのでは決してないということである。むしろ彼はそれを教育内容としてきわめて重要

なもの,学習者の立場から見た場合,到達せねばならぬ理想となるものであると見てその

教育的価値を重視しているのである。がしかし彼は「それ」が本質的には彼の教育思想の

中核である経験の本質,即ち経験における相互作用の原理(「相互作用の原理は,個人の必

要や能力に教材を適合させることができないことが一つの経験を非教育的なものたらしめ

ることは,個人が白分を教材に適合させることができないことが一つの経験を非教育的な〔18

ものたらしめることと全く同じだということを明かにしている」)を考慮せずに組織教授㈹

せられることに,直接的には所謂彼の「学習者における教材の発達」(The Development

of Subject-Matter in the Learner)の段階(2の(2)でやや詳述)を考慮せずに組織教授

せられること(その最後の段階で学習者によつて到達せらるぺきものが最初から教授せら

れること)に強い批判を与えたのである。先ずデューイは「民}三主義と教育」14章「教材

の本質」の中で「教育者の教材と学習者の教材」の区別を論じているが,それは取りも直

さず旧学科課程の成人の教材による組織に対する痛烈な批判であると同時に新しい教材組

織に対する彼の示唆でもある。『教授者が生徒の現在の知識よりも遥かに進んだ教材に関

する知識を持つことの意義は,それが教授者の教材についての「一定の標準」 (definite

standards)を与え,また「未成熟者の未熟なる活動の可能性」 (the possibilities of the

crude activities of the immature)を彼に示すことにある。即ち第一に,学科の材料は

伝達するのが望ましい現在の社会生活の諸意味を具体的に又仔細に表現したものでなけれ

ばならない。またそれは永続せらるぺき文化の本質的要素を組織された形で教授者に示す

ものであり,若しその意味が標準化されなかつたとすれば教授者がぶけつたかもしれない

偶然的努力から彼を保護するものである。第二に,教師が,活動の結果として過去におい

て獲得された諸観念の知識をもつていれば,「一見衝動的・盲目的反応」 (the seeming

impulsive and airnless reaction) と思われる児童の行為の意味を理解することがでさる

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関:デューイの教育思想における経験と系統            45

し,またそれらの行為を有効なものとするよう指導するのに必要な刺戟を与えることもで

きる。換言すれば教師の立場から見た学科は仕事を実行する資源(working resources)で

⑳あり有用な資本(available capital)である』。従つて教師が完成された知識一論理的に

組織された知識を持つことは極めて必要であるといわれなければならない。しかしそれら

が年少者の経験と縁遠いものであることも事集であつて,それ故に『学習者の教材は「組

織的に述ぺられた,結晶化された,系統化された成人の教材」 (the formulated・the

crystallized, and systematized subject matter of the adult),即ち書物や芸術品等にあ

らわれた材料などと同…ではなく,また同一ではありえない。成人の教材は学習者の可能

性を示すものであつて,学習者の現在状態(exiSting State)を示すものではない。成人の教

材は専門家や教育者の活動と直接に結びつくが,初心者即ち学習者の活動とは直接に結び

つくものではない。教師と学習者の夫々の立場から見て教材にこのような相異のあること

を忘れたことが,「教科書やその他の観念的に存在する知識の表現物」(texts and other

expressions of pre6xistent knowledge) を教材として使用する上において多くの誤りを

生ずる所以とな謂わけである.「教師1ま縦がただ竜納に醒するものを魂鋤に提

示する(The teacher presents in actuality what the pupil represents only in posse・)・

換言すれば教師は生徒が現在学びつつあるものを既に知つているのであるから両者の問題

は根本的に相異している。直接教授の際,教授者は教材に精通している必要があり・生徒

の態度や反応に注意しなければならない。生徒が教材といかなる交渉(生徒と教材の相互

作用一広くは個人と環境の相互作用で経験の一原理一関」を保つかを理解するのが彼の任

務である。一方生徒の心は当然,自分自身に注意するのでなく,当面の問題に注意しな

ければならない。いいかえれば教師は教材そのものに注意するのでなく,教材と生徒の現

在の必要や能力との相互作用に注意しなければならない。従って教師は単なる学者という

だけでは充分ではない。実際,教授者がいつでも生徒自身の経験と教材との交渉に関心を

持つ態度をとらないで,ただ学者である,ただ教材に精通しているというだけの特色を持

鋤つなら,それは有効な教授を妨げるものとなる」のである。更に「既に学び終つた人に

とつては教材は詳細な,正確に定義された,論理的に相互関係をもつたものであるが,し

かし現に学びつつある者にとつては,教材は流動的,部分的(fluid・partial)なものであ

つて,彼自身の仕事(hi・pers・n・1・ccup・ti・n・一帆足訳,民主議と教育では伽身の

経験潤)}・より織されるものである・教授(in・t・u・ti・n)の問題噛F稼が既に樋

している教材の方向に向つて生徒の経験を進展させてゆくことである」。従つて教師は

教材に精通すると同時に生徒に特有の要求及び能力を知悉する必要があることになる。

これまで教師の教材と学習者の教材とでは相異があるという観点から,旧教育の学科課

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程が成人の教材をもつて組織されていたことに対するデューイの批判の内容とその論拠及

び新組織に対する示唆とを述ぺてきた。次に彼は同書17章「課程における科学」の中で

「論理的なものと心理的なもの」(The Logical and the Psychological) を問題とし,

論理的な教材が直接には学習者の経験と結合しないから,従つて心理的方法(教材組織に

おいても教授方法においても)が尊重せられねばならぬ所以を論じているが,この中の論

理的なものに関する部分もまた旧学科課程の論理的系統に対する批判として受け取ること

ができる。前述したように論理的という意味は知識の科学的組織の理想となるものである

から,逆にいうと「科学は知識に含まれた論理的なものを表現したもの.1であることにな

る。「論理的秩序(logical order)は既知の事物に外からあてはめられた形式ではなく,

完成されたものとしての知識本来の形式である。何となれば論理的秩序は,その知識材料

についての叙述を理解する人に対して,その叙述の由来する前提とその叙述の指示する結図

論とを示すような性質を持つた(知識の)材料についての叙述であるからである」。だが,

デューイは科学の知識材料(論理的秩序を本質とする知識材料)はそれ自身を目的として

の知識の増進ということに参照して叙述されたものであるから,科学の知識材料と日常生

活の材料との結合は隠蔽されており,従つて専門家でない人にとつて,この完成した知識

の形式はつまずきの石であると見るのである。即ち「学習者の立場から見れば,科学的形

式(論理的形式一関)は到達せんとする理想であつて,これから進みだすという出発点では

ない」というのが彼の論理的形式(教材)に対する基本的観点である。従つて彼は「完成

した形で教材を学習者に与えることは学習の捷径だと思う」強い傾向に対して同情を寄せ

ながらも次のように批判を加える,「有能な研究者が完成してくれたところから始めるこ

とによつて,未熟者は時間と労力を節約することができ,必要もない錯誤をしなくてもす

むと考えることは,まことに当然である。しかしその結果は教育史上明らかである。生徒

は,材料が専門家の順序に従つて項目別に組織されている教科書を使つて科学の学習を始

める。そこで専門的な概念や定義が最初に導き入れられる。法則はそれが如何にして得られ

たかをほとんど説明することなしに始めから教えこまれる。生徒は日常経験の見慣れた材

料を科学的な方法で取扱うことを学ぶのではなくて一個の”科学”(a“science”)を学ぶ但5}

のである」と。この批判の趣旨は『伝達された知識が学習者の現在の経験の中へ組織立て

られるのでなければ,それは単なる言葉にすぎない。即ち「意味の欠除している純粋の官

覚的刺戟」(pure sense。stimuli, lacking in meaning)であるにすぎない。従つてそれ

は機械的反応を,即ち教師の説明を繰返すために声帯を使用する能力を,また書いたり計㈱

算したりするために手を使用する能力を呼び起すにすぎない」と極言されて誤りないもの

であろうQここにデューイは論理的(科学的)教材の重要性を認めながらも,それが学習

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関:デューイの教育思想における経験と系統            47

者の現在の経験と結合なしに組織教授せられることを戒めたのであるが,それに対立する

伝統的主張即ち論理的教材は学習者の経験と直接結合しなくても学習者の能力を鍛練する

教育の材料として価値ありとする学説,具体的には形式陶冶説(the theory of fomal di・

scipline) に対しても「経験と教育」の中で,原理的には彼の教育思想の本質である経験

における相互作用の原理を基礎として,直接には教材の面から「教育的であるとか,或い

は生長に役立つとかということだけでは教材にはならない。それ自身の中に,そしてそれ

自身のみで,或いは学習者によつて達せられている生長の段階というものを考慮しない

で,個有の教育的価値が付随しているような教材はありえない。個人の必要と能力への適

合を考慮しなかつたことが,或る種の教材と方法とが精神的訓練のために本質的に教化的

(cultural)であり本質的に役立つという考えの源である。抽象的な教育的価値(educational㈲

value in the abstract)というようなものは存在しない」と厳しく批判を与えている。

今まで述ぺたところにより論理的系統主義の立場をとる教材組織に対するデューイの批

判の大要は了解されると思われるが,ただここで彼の批判についての論究を終るにあたり,

彼のかかる批判の基底にあると考えられる新しい心理学的観点についてだけは素描してお

きたい。「さて今日のわれわれの信念によれば」とデューイは「学校と社会」の中で主張

する,「精神は生長しつつあるものである。それ故に精神は本質的に変化しつつあるもの

であり,時期を異にするにつれてさまざまに異なつたすがたの能力と興味とをあらわすと

ころのものである。それらの能力や興味は,生命の連続性という意味においてはすべてが

一つのものであり,同じものであるが,しかし各々のものがそれ自からの特異な要求と任

務とをもつという意味においては,すべてが相異しているものである。 ”はじめには葉,

つぎには穂,さてそのつぎには穂のなかに充実した穀粒”(“First the blade, the ear,圏

and then the full corn in the eaL”) なのである」と。この精神を生長するものとする

精神観は古い心理学の機械論的要素観にとつて代つた近代心理学の有機的全体観や力学的

全体観に近い立場をとるもののように思われる。この立場に立つことによつて彼は「もし

われわれが生長としての精神という観念についてもう一度真剣に考えて見るならば,この

生長はその種々なる段階に応じて特徴的な様相を呈するものであるから,教育上の変革が

ふたたび示されるということは明かである。学科課程における教材の選択や等級編成は,す

でに出来ている知識という世界の切り刻まれたあれやこれやの部分に関して行われるので

はなくて,或る一定の時期における活動の主要な方向のための適当な栄養に関して行われ(2窃

るのでなければならないということは明かである」と述べて学科課程改革の必然性,即ち

論理的系統の組織から心理的発達に即する組織への転換の必然性を認めているのである。

ともあれ,この「精神を生長するもの」とする精神観が,旧学科課程の論理的系統を主軸

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とする組織への彼の批判の重要な一基底であることは,これ以上贅言するまでもなく明か

であるQ

2 デューイの思想における系統の端緒的形態

(1) 心理的系統     ,

1においてデューイの批判した論理的系統とは何であつたか,またそれは如何なる根拠

と内容とをもつて批判されたのかを明かにしたのであるが,以下彼が「如何なる系統をも

つて教材を組織しようとしたか」についての端緒的形態を究明することにする。敢えて端緒

                 ⑳Iというのは「デューイの系統の本質」がこの小論の意図を遥かに超えたデューイの教育

思想の中心問題であり,筆者にとつて今後の研究により解明せられねばならぬ課題でもあ

るから,本論においては比較的端緒と思われる形態(註30参照)を中心として取扱うという

ほどの意味である。さてデューイの新しい教材組織の意図が旧学科課程の「論理的系統の

組織」から「心理的発達に即する組織」への転換にあるとは既に述ぺたところであつて,

この「心理的発達に即する組織」ということを土台にして,彼の系統を理解すれば,それは

「心理的系統」と称名しても妥当ではないかと思われる。先ず「学校と社会」に披渥され

ている思想を引用してこれを例証する。彼は「実際的方面における実験学校の問題」にふ

れて,それは「児童の能力及び経験の方面においての”生長の自然的過程”(the natural

history of the growth)と調和する学科’果程の構i成という形をとるものである。 この間

題は生長の或る一定の時期における主要な要求及び能力に最も的確に相応する学科の種

類,組合せ,及びその適当な割合を選択することであり,また生き生きと生長の過程のなGO

かに入り込ましめるような提示の様式を選択することである」と述べている。この場合,

学科調程が調和すぺき「児童の能力及び経験の方面においての生長の自然的過程」を単純

に「心理的過程」と置き換えることには多少の無理が感じられるが(とはいつても発達過●   ●   ●   ●

程を自我一環境体制と見れば無理ではない。)しかし,それが心理的発達過程を中心にし

●   ■   ●

スものであると考えることには無理がない。次に彼は「生長としての精神」観の心理学

(1の(2)において論理的系統に対する彼の批判の基底にあつたものと説明,具体的には近

代心理学の有機的全体観や力学的全体観に近い心理学)と教育との一・致の問題について

「さてこれから上述の心理学上の仮説のために探求された教育上の解答について語ろうと

          ●  ●       ●  ●  ●

キるに当つて,生長の段階という問題(the matter of the stages of growth)から出発

         ㈱キるのが便利である」とし,初等教育におけるその段階を具体的な三段階に分けてやや詳

細に説明している。以上から推論してデューイの新しい学科課程の教替組織の原則が心理

学の発達に関する仮設に強く基いたものであること,従つて心理的系統によつて貫かれて

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関:デューイの教育思想における経験と系統            49

いるのであることは容易に認められるところであり,ここに少くとも彼の端緒的形態にお

ける系統を心理的系統と呼んでよい理由があるように思われる。更にデゴ」イは前述した

「論理的なものと心理的なもの」(「民主主義と教育」17章「課程における科学」参照)に

ついての論究の中で論理的方法に対する心理的方法の卓越性(論理的方法についての批判

は1の②で叙述済)に関し「学習者の経験から出発し,そしてこれによつて科学的研究の

正当な様式へ進むという年代順的な方法は,熟練家又は専門家の論理的方法と区別して心

理的方法と屡々呼ばれている (The chronological method which begins with the

experience of the learner and develops from th孕t the proper’modes of scientiflc

tさeatment is often・call6d the.‘‘psychological”method in distinction from,the Iogica1

1ηethod of the expert or specialist,)。これは…見,時間の損失があるようだが,それに

よつて生徒のうる卓れた理解と生きた興味とは,これを償つて余りあるのである。こうす

れば生徒は学習したことを少くとも理解するのである。更に,日常熟知の材料から選ん

だ問題に関して,科学者がその完成した知識に到達した方法を辿ることによつて,生徒

は自分の扱いうる範囲内にある材料を独立に取扱う力を得,かつその意味が単に符号的

意味しかもたないところの教材(論理的系統によつて組織された教材一関)を学習するこ

                                     G3ニに伴う心的混乱や知的嫌悪(intellectual distaste)を避けることができるのである」と

称揚している。この場合に用いられた「心理的方法」(psychological method)という概

念は,教材組織と教育方法とにかかわるものであるから,この含意もまた彼の教育思想に

おける教材組織の原則が心理的系統にあることを立証するものといわなければならない。

(2)教材組織における原理的展開と心理的系統

デューイは「教材は未成熟者の現在の経験に合まれている諸意味の実現を促進するとい

う機能を持つ」(its function in promoting the realization of the meanings implied

in the present experience of immature)という教材観に立ち,教材組織の原理は「社会

成員として発達しつつある生徒の活動の中に教材を組織立てること」にあると確定し,さ

て「この教材組織の絶対の原理は」と彼の「教材の本質」論(「民主主義と教育」14章)

の総括において「児童を最初,社会的な起源と用途をもつている実際上の仕事に従事さ

せ,次に,一層大きな経験を持つている他の人々によつて伝達された観念や事実を彼等の

より直接的経験に同化させることにより,直接的経験に含まれている材料や法則の科学的                ㈱

洞察に向つて進ませる時に維持される」(The positive principle is rnaintained when

the young begin with active occupatlons having a social origin and use, alld proceed

to a scientific insight in the materials and laws involved, through assimilating jllto

their more direct experience the ideas and facts communicated by others who have

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50              茨城大学教育学部紀要 第十一号

had a larger experienco)とこの原理をやや具体的に展開する。ここに彼が教材組織の

原理を「生徒の活動の中に教材を組織立てる」ことにあると確定して,その原理的展開を

やや具体的に示した根拠の本質は,勿論彼の教育思想の中核である経験の本質,即ち経験

の相互作用(ここでは教材と学習者の相互作用)の原理にあると考えられるが,直接の根

拠は,この教材組織の原理とその展開を結論的に示す直前に洞察された「学習者における教

材の発達」の段階にあるということができるのである。彼によれば学習者の経験の中での

教材の発達は三つの分明な典型的段階に区分されるもので,それは「第一段階においては,

知識は叡知的能力の内容即ち実行力として存在する(Knowledge exists as the content

of intelligent ability-power to do.)。この種の教材,或いは既知の材料は事物との(直

接)交渉による「精通或いは熟知」(familiarity or acquaintance)としてあらわれる。

第二段階においては,これらの材料は伝えられた知識又は報道(information)によって

序々に広くかつ深くなる。第三段階においては,これらの材料は合理的又は論理的に組織

された材料,比較的に言うなら,その事柄について熟達した人の材料まで拡大され,改造岡

されるものである」と分類され系統的に連関づけられるものである。各段階についての詳

細な叙述は次のように要約的に説明される。第一段階,人が最初に得,かつ最も深く滲み

込む知識は「いかになすぺきか」(how to do)ということにかかわる知識である。「知

識は実行の能力と関連したもの」であり, 「事物を賢明な方法で取扱うことから精通

(acquaintance)とか熟知(familiarity)とかが生ずるのである。われわれが最もよく精

通している物というのは,われわれが屡々使用する物である」。従つて「アッケンタンス

一(知識ということと同時に知合いということ)一という言葉で示される事物についての

知識(それは親密なしかも感情的な意味で言われるのだが)はわれわれが目的をもつて事

物を使用することから生ずるのである」(Knowledge of things in that intimate and

emotional sense suggested by the word acquaintance is a pr㏄ipitate from our em一

ploying theln with a purpose.)。このように知識を実行能力と関連したもの,目的をも

つて事物を使用することから生ずるものとしたデューイが「科学的に組織立てられた事実

や真理以外のいかなる知識も無視する形式的知識観の影響をうけた教育の場合に,教授の

材料が学習者の必要や目的から切り離され,従つて教師に要求された場合,単にこれを記

憶し再現するが如きものとなるのは,基本的・初歩的教材は常に身体の使用と材料の取扱

いとを包含する実際的行為の材料として存在する,ということを認めることが出来ないか

らである」と旧教育の批判をするのは当然であつた。これに反対して彼は「学習者におけ

る教材発達の自然的過程を承認すれば,為すことによる学習を含むところの実際の事態か

ら常に始められることになる」(Recognition of the natural course of development, on

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関:デューイの教育思想における経験と系統            51

the contrary, always sets out with situations which involve learning by doing)と自己

の立場を明かにしているのである。第二段階,第一段階の知識は実際に思慮を費やした専

門的研究の結果でないあらゆる知識を包含する。だが目的を有する活動の方法は,事物と

の交渉は勿論人との交渉を含んでいる。この他人との交通・交渉(communication・inter一

action)の結果,莫大な社会的知識が生じたのであり,またこの相互交通の一部としてわ

れわれは他人から多くのものを(話をきくことにより,報告書を続むことにより)学ぶこ

とができる。かくして時間・空間的にかけはなれた,即ち直接経験の世界を超えた事物

が,われわれが嗅いだり,さわつたりする事物と全く同様にわれわれの行動に影響を与え

ることになる。それら(時空的にかけはなれた事物)は実際にわれわれに関係し,しかも

結果としては,われわれが当面の事物を取扱う上に助力となる遠隔な事物についてのあら

ゆる説明は,われわれの個人的経験の中へ入つてくるのである。報道(information)とは

通常この種の教材に与えられた名称であると言うデューイは,これから教育の問題に入り

「個人的行為における経験交流の地位(役割)こそ,学校における報道的材料の価値を定

める一つの標準となるものである」 (The place of communication in personal doing

supplies us with a criterion for estimating the value of informational material in

school.)と見て,その地位(役割)吟味の二観点を提示する。「(a)それ(報道的材料)は

生徒が興味を持つている問題から自然に生ずるものであるか,(b)それは生徒の持つより直

接的な知識(more direct acquaintance)に適合して,その動力を増し,その意味を深め

るものであるか」がそれである。彼はこの二つの要求に合致する報道的材料は教育的材料

であり,聞き読む分量は問題でないとする。もし生徒がそれを必要とし,かつ自分の事柄

に適用しうるならば,多ければ多いほどよいにきまつているのである。報道的材料をかく

の如く見たデューイはこの段階の終りに「実際に知るということは通擁することである。

それはある問題を有効に処理するために必要な,その問題の解決の探求にまた解決それ自

身に意味を与えるのに必要な,材料を白由に使用しうることである。(他から報道された

知識はある疑わしき問題がある場合に,一定の確定し安定したところの,それに信頼する

ことのできる材料である。それは心が疑惑より発見へと渡りゆくための一種の橋である。そ

れは知的仲介人の職務をもつInformational knowledge is the material which can be

fallen back upon as given, settled, established, assured in a doutful situation. It is

akind of bridge for mind in its passage from doubt to discovery. It has the ofice

of an intellectual middleman.)。それは人類の過去の経験の結果の正味を,新しい経験の

意味を増大するための媒介として,有用な形に凝縮し,記録したものである」と述ぺてい

るが,ここに彼の「知識は経験改造の道具」であるとする道具主義(Instrurnentalism)の思

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52             茨城大学教育学部紀要第十一号’

想が端的に表現されているのを見る。第三段階,科学即ち合理化された知識の段階。科学

を特徴づける事実はそれが人工的(獲得された技術)なもの,学習されたものであつてジ

自然発生的なもの,生れついたもの(native)でないことにある。かかる簡明な科学観に

立つてデューイは「この事実こそ科学が教育において独特の莫大な価値ある地位を占める

所以であり,またそれが教育における科学の正当なる行使を脅やかす所以でもある」とこ

の事実認識の重大性を指摘する。一面において科学的精神に導かれなければ,われわれは

有効に導かれる思索のために人類が案出した最良の道具をわがものとすることはできな

い。この場合,われわれは単にこの最良の道具なしに研究・学問を行わねばならぬばか

りでなく,知識の意味を充分に理解することもできない。何故なら,これでは権威ある

確信と単なる意見や承認とを区別する特徴(trait)について精通できないからである。

他面において「科学を高度に専門化された技術の諸条件において知識を完成したものと

するという事実」 (the fact that science marks the pe㎡ecting of knowing in highly

specialized conditions of technique)は,科学の結果そのものを日常の経験からかけはな

れたもの,世に言うところの抽象的なものとして孤立的性質をもつものたらしめる。この

孤立(isolation)が教授の際にあらわれると,科学約知識は他の形態の知識よりも,一層

出来合いの知識を提示することに伴う危険にさらされるのである。かく科学の結果と日常

経験との孤立を憂慮したデューイは「科学は研究及び試験の方法であると定義することが

できる」 (Science has been defined in terms of method of inquiry aud testing.) と

その観点を変える。彼によれば,一見この定義は,科学は組織され系統立てられた知識で

あるとする通常の定義に反対するように見えるが,しかしこの反対は単に見せかけであ

り,通常の定義を押しつめてゆけば消えてしまうものである。単に組織ということが科学

の特質ではなくて,試験された適切な発見の方法によつて出来上つた一種の組織が科学を

特色づけるものである。科学的知識(材料)は特に発見という事業を有効に処理するとい

うことに,即ち「専門的事業として知ると、・うこと」 (to knowing as a specialzed un

dertaking)に特別に関連して組識されたものである。この説明は科学に伴う確実性とい

うことの本質を見れば明瞭になるのであり,この確実性ということは「合理的確実」(rati一

onal assurance)一「論理的確実」(logical warranty) ということであつて,それは

優れて科学的知識の組織における方法的性質を示すものである。この段階での彼の強調点

は科学を研究及び試験の方法として位置づけることにある。その真意は科学を学習者の経

験と密接に結合させようとすることであり,その根底には道具主義(知識を経験改造の道

具と見る)がはたらいているQ以上デューイの「学習者における教材発達」の段階を局部

的に私見をまじいてその大要を述べたが,この段階は「経験の中での発達」の段階といわ

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関.デューイの教育思想における経験と系統           53『

れることからも明かなように極めて心理学的な発達に即する段階である。何故なら発達段

階の問題は「結局,自我一環境体制の問題であるということになる。何となれば,いわゆ

る発達段階というものは,一定の時期における自我一環境体制にほかならないからであ

贈として現代発齢鮮の鞍な追求縄であるからである.従つてこの心理学的醗

達に基礎をおくデューイの教材組織の原理とその展開は心理的系統によつて貫通されてい

ると認められるのである。

(3)経験の本質と現代心理学の発達の概念(自我一環境体制)との類似

デューイが「経験の本質は経験が特別に結合した能動・受動の二要素を含むことを知る

ことにより理解さ潟としたことは周知のことである.捌的方面にお、・ては繍は試

みることであり,受動的方面においては経験は受けることである。経験のこれら二面の結

合が経験の効果や価値を評価する。試みとしての経験は勿論変化をひきおこす。しかしそ

の試みとしての経験がそれから生じた反射的波動(the return wave) としての結果と意

識的に結びつけられないならば,その変化は無意味な移動にすぎない。一つの活動が結果

を受けることと連続するとき,活動によつて生じた外界の変化が反響してわれわれの内部

に変化をおこす時,その単なる経験の流れは意味をもつのである。かくしてわれわれは何

かを学ぶのである。「経験から学ぶというのは,われわれが事物に対してなすところと・

その結果として事物から受けるところとの間にある因果関係を明かにすることである」。

以上デューイの経験の本質は結局「個人と環境との相互作用の結果創造されるもの」と認

められるが,この場合の環境とは何を意味するのか。彼によれば「環境(envirollment)と

か媒介物(medium)とかいう言葉は単に個人を取巻いている周囲の事物のみを意味する@                                岡ものではない。環境とは自己の活動傾向と周囲との特殊な連続を意味する」のであり,ま

た「環境とは生物独特の行動を促進し或いは阻害し,刺戟し或いは抑止させる外界の事情をいう監であり,更には縢境は,どのような条件であれ,繍を創造するために個人                              ㈹

の必要・欲求・目的・及び能力と相互作用するところの条件である」と述ぺられる。かか

るデューイの経験の本質観と環境観とは現代心理学の発達の概念(自我一環境体制)に類似

しているように思われる。前述したが現代心理学においては「発達段階は,一定の時期に

おける自我「環境体制にほかならない」としており,この自我一環境体制は次のように

説明されている。「コフカ (K.Koffka) が環境を地理的環境(geographical environ一

ment)と行動的環境(behavioral environment)とに区別したことは周知のことである。

前者は個体がその時にとりまかれている物理的空聞の総体概念であり,後者は自我がその

時に,現実にその中におかれている生活環境で,いわば自我は経験され意識されている世界

であるQかくしてコフカは,自然科学の場の概念をここに導入して,自我と行動環境とを

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54             茨城大学教育学部紀要第十一号

一つの心理学的場の中に包摂させたのである。この場(デュー・イも場situationの概念を              軽Do験の構造の中へ導入している)をわれわれは自我一環境体制と名づける。かくしてわれ

の行動は,すべてこの自我一環境体制の中に生ずるのであつて,白我を離れた行動的環境                       ㊨はなく,また行動的環境を離れた自我はないのである」。以上に引用した自我一環境体制

とデューイの経験の本質とを比較すると行動と経験との相異はある (行動の方が広い概

念)が,しかし考え方の基盤とその組立てとにおいて驚くべき類似があることに気付く。

尚デューイは経験の標準として二つの原理「相互作用」 (interaction)の原理と「連続」

(continuity)の原理とを重視しているが,この二つの原理の教育的に意味するところも,

また現代心理学が「発達についての概念」において追求する任務と類似する。 「相互作用

という言葉は」とデューイは説明して「経験というものをその教育的機能と力とにおいて

説明するための重要な原理である。それは経験における二つの要素一客観的条件と内部的

鮒一に鴨な権利を与える.正常な経験はどれも,これら二組の条件の相互作用であ調

と言いながら平等に重視された個人と環境との両者の相互作用が教育的経験において尊重

せらるべきことを要請しているが,これは「児童は他の生活体と同じく空間的な存在であ

る。児童は一定の地域に住み,一定の家庭に生活し,一定の学校に学んでいる。これらの

地域的,社会的環境はたえず児童の行動を規定するのみならず,児童はまたこれらの環境

を時には選択し時には変形して,自分自身の環境を形成創造する。児童のすぺての行動●  ●  ●  ●

は,児童の自我とその環境との間の密接な相互関係によつて生ずるのである。つまり,児

童は自我と環境との不可分の全体的体制(これを自我一環境体制という)として存在し,

その行動は,一定の法則にしたがつて生ずる自我一環境体制の力学的表現である。(児童)

心理学の第一の任務は,このような児童の自我一環境体制の法則,換言すれば児童の行動㈹

の法則を探求することにあるのである」とする現代心現学の自からに課する任務とまこ

とによく類似している。次にデューイは「経験の連続の原理とは,あらゆる経験は前の

経験から何かをうけとり,そして後に来る経験の性質をあるやり方で変容するという二つ㈲

のことをするということを意味する」のであるとし,従つて「教育的に適用された場合の

味する」と言つて教育的経験においては経験の質が充分に吟味されるべきことを要請して

いるが,これも「児童はまた他のすべての生活体と同様に,時間的な存在である。それは

過去から現在へ,現在から未来に向つて発達するところの統一的な全体体制である。した

がつて,現在の児童を正しく認識するためには,その過去を理解し,その未来を予見しな

ければならない。すなわち,われわれは,児童の現在の姿をとらえるのみならず,それが

過去から現在へ,現在から未来に向つて発達してゆく過程を明かにすることが必要であ

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関:デューイの教育思想における経験と系統           55

る。つまり,児童の発達の事実と原理とを探求することが(児童)心理学の第二の重要な幽

課題となるのである」として現代心理学が発達の概念において自からに課する任務とよく

類似しているのである。以上においてデューイの教育思想の中心概念である経験の本質と

現代心理学の発達の概念(自我一環境体制)との類似点を明かにしたのであるが,これも

彼の経験を中心とする教育思想における系統一般が,特には教材組織の原理的系統が,心

理的系統たることを例証する一要素と考えられる。しかし本質的要素は「彼の認識論の心

理主義」たることの考究を侯つてはじめて明らかにされよう。

む  す  び

論理的系統を主軸として組織された教材の価値を認めながらも,デューイは経験の本質

即ち経験における相互作用,具体的には学習者と教材との相互作用の機能に着目する教育

的立場をとることによつて,学習者の経験から離れた論理的系統を批判して,それに対し

経験と密着する心理的系統を強調的に対置させたことは,少くとも彼の経験と系統の端緒

的形態において明かに認められるところである。その心理的系統は彼の教材組織の原理と

そのやや具体的な展開とにおいて明確な姿を現わしている。更に彼によるかかる心理的系

統の強調の一つの理由が,その教育思想の中心概念である経験の本質と現代心理学におけ

る発達の概念(自我一環境体制)との類似にあるとは,本論において結論的に述べられた

ところである。この小論においては,これらの経緯を少しでも明かにしたいとつとめたつ

もりであるが,未だ充分でないことは論を侯たない。

更に,完成された形態における彼の系統が如何なるものであつたのか,論理的系統と心

理的系統とは如何にして止揚されたのか,心理的系統の強調が論理的系統の批判のままに

彼の系統において固定してしまつたか,特にデューイ研究者による彼の教育的系統の根拠

によせる致命的批判(それが妥当ならば)とも思われる彼の「操作経験主義の認識論の欠㈹

陥」等々の問題はここでは少しもとり上げられなかつたし,従つて考究・検証・吟味が行

われておらない。今后の課題として残すことにする。 (1961年10月)

(註)

(1) J.Dewey, The School and S㏄iety,1899, P.95.

(2)ibid. P.151.

(3)J.Dewey, Dem㏄racy and Educaton,1916, P.220.

㈲ デューイの知識の本質観については2の②学習者における教材の発達の中でやや詳細に述ぺた

が,それにもられていない内容,即ち「知識が実行の能力と関連したものであること」は,アカ

デミックな哲学では見失われたが,知識を意味する世俗的な言葉にそれが残るという例証は注意

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56               茨城大学教育学部紀要 第十一号

すべきである。

(5)J。Dewey, Dem㏄racy and Education,1916, P.220.

「6}工’Dewey, Experience and Education,1938, P.2.

(7)ibid. P.4.

(8)ibid. P.g2.

(9)ibid. P.95.

(1① 量bid. P.102.

α1)働⑬ 工Dewey, Dem㏄racy and Education,1916, P.224.

働 J.Dewey, The School and S㏄iety,1899, P.94.

㈲ 上武正二,児竜心理,昭和25年,PP.15-16.

(16}J.Dewey, The School and S㏄iety,1899, P.95.

「この点における教育と心理学との一致」とは具体的には,心理学の機械論的要素観と教育学の

形式的陶冶説との一致であると考察される。

α711bid. P.95.

「18 」.Dewey, Experience and Education,1938, PP.46-47.

α⑨ J.Dewey, Dem㏄racy and Education,1916, PP.216-226.

⑳ ibid. P.214.

(21) ibid. PP.214-215.

國 ibid. P.215.

圏 ibid. P.216.

図 ibid. P.256.

⑫5)量bid. P.257.

㈲ ibid. P 221.

鋤 J.Dewey, Experience and Education,1938, PP.45-46.

圃 J.Dewey, The School and Society,1899, PP.94-95.

⑳ ibid, P.96.

働 デーユイの系統の本質については未た明確な通説はないと思われる。広島大学,佐藤正夫氏は

カリキュラムの心理化(主として「学校と社会」・「民主主義と教育」)の指導者として(本稿

においてはこの段階を端緒的とした),また論理的系統と心理的系統との統一を提議(主として

「経験と教育」・「児童とカリキュラム」)したものとしてデューイをあげ,(佐藤正夫,現代教

育課程論,昭和27年,参照)

名古屋大学,広岡亮蔵氏・大阪大学,森昭氏は知識の主体的組織を重んずる者としてデューイを

あげている。 (広岡亮蔵,学習形態,1956,参照)

㈱ J.Dewey,The School and S㏄iety,1899, PP.88-89.

働 ibid. P.97.

G3 J.Dewey,Dem㏄racy and Education,1916, PP.257-258.

働 ibid. P.227.

G勾 ibid. P.216.

G⇔ 上武正二,新発達心理学,昭和36年,P.5.

Gの J.Dewey,Dem㏄racy and Education,1916, PP.163-164.

幽G今 量bid. P.13.

㈹ J.Dewey, Expein㏄and Educatiom,1938, P.42.

⑳ 永野芳夫,デューイの経験哲学と教育学,昭和25年,PP.15-16.171-188。

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関:デューイの教育思想における経験と系統            57

㊨ 上武正二,新発達心理学,昭和36年,P.7.

㈹ J.Dewey, Experien㏄and Education・1938・ PP・38-39・

㈹ 上武正二,児童心理,昭和25年,PP.1-2.

㈲ J.Dewey,Experience and Education・1938・ P・27・

㈹ ibid. P。47.

⑳ 上武正二,児童心理,昭和25年,P.2.

㈹広岡亮蔵,学習形態,1956,P.236.

(第三章 問題解決学習の省察・三 実践と理論体系・3知識の主体的組織と客体的組織)

「デューイの操作主義の論理においては,主体の活動がそこへ探求的に喰い入つてゆく,所与の

環境の客観的実在性が,十分の重みで取上げられてはいない。デューイもそれを認めていないの

ではないが,しかし所与の事実を,それ自体として見るよりも,それを素材にする主体の活動

(問題解決の活動)の帰結の方へ,傾斜をかけてつかもうとしている。・@                               ■  ●  ●  o  ●  ●しかし所与の環境には,主体の活動の素材に還元しつくすことのできない客観的実在牲があり,

これが主体の活動を限定しているのである。この所与的環境の実在1生は,時間論的にいえば,過

去の様態に属するものである。デューイは以上のことを全く認めていないのではないが,しかし

過去的な現在の所与を,それのもつ歴皮的な重みにおいて十分に根拠づけていない。これを正し

く根拠づけるためには,操作主義的な認識論を止揚するリアリズムの認識論が必要であるように

思える。」

(以上は広岡氏による森昭「経験による学習指導」(「カリキキュラム」誌26年5月号,43頁)

の引用である。)

〔追記〕

デューイの教育思想における系統一般が,特には教材組織の原理的系統が心理的系統たることを

例証する一要素として,私は彼の教育思想の中心概念である経験の本質と現代心理学の発達の概

念(自我一環境体制)との類似点をとり一ヒげたが,彼の系統が心理的系統たる根本的要因は,彼

の認識論(実用主義一プラグマティズムの認識論)が心理主義的たることにあるようである。こ

の見透しは次の資料に示唆されて立てられた。

高橋里美,認識論,昭和23年,P.7.

「現代の認識論の諸傾向のうちには,実用主義や実証主義等の如くに,心理主義的又は生物主義

的認識論を主張するものも少くないのである」。