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愛知教育大学研究報告, 40 (人文科学編), pp. 53~69, February, 1991
Saptapadarthiの和訳解説(5)
菱 田 邦 男
Kunio HISHIDA
(哲学教室)
これまで,第2句義である性質(guリa)に含まれる24種のうち,色(rupa)から合(sam‘
yoga)・離(vibhaga)までの9種について,定義が説かれた。次に, Sivadityaは,遠近
観念の原因とされる遠在性(paratva)・近在性(aparatva)に対する定義づけに入る。勝
論学派(Vaisesika)によれば,「あれは彼方のものである」「これは此方のものである」と
いうように,「彼方のもの」「此方のもの」という遠近の観念が生ずる時,それらの観念の
原因になっているのは遠在性・近在性の両gunaである。
遠在性(paratva : 彼体)は遠在性性(paratvatva : 彼体性)という普遍を有し,「彼
方のもの(para)」という言語表現(vyavahara)の特殊因である。近在性(aparatva :
此体)は近在性性(aparatvatva : 此体性)という普遍と結びつき,「此方のもの
(apara)」という言語表現の特殊因である(84-85)。
paratvatva-samanyavat para-vyavaharasadharana-karanam paratvam ‖ apara-
tvatva-samanya-yogi apara-vyavaharasadharana-karanam aparatvam
84-85
遠在性・近在性には,時間によって生起されたもの(kala-krta)と方角によって生起さ
れたもの(dik-krta)とがあり(SP 23, 71, 72),前者は時間的な遠近観念の,後者は場
所的な遠近観念の因となる(1)。 Jin.は上記遠在性の定義に対して,「老いた(sthavira)人
に関しては,若者(yuvan)を基準にすると,〔老人の〕皺・白髪・固さ等を目のあたりす
ることから,『彼(老人)は時間的に〔若者よりも〕隔たっている(viprakrsta)』という
遠在的言語表現が生ずる。同様に,遠くの場所にある(vidura-desa-stha)物体に関しては,
近くの(asanna)物体を基準にすると,『あれはこれよりも隔たっている』という遠在的言
語表現が生ずる。それら2つの表現の特殊因となるのが『遠在性』である」と注釈する(2)。
故に,観察者の基準点(avadhi)を若者から老人に移し,近くの物体から遠くの物体に移
すと,若者と近くの物体に関しては,観察者に近在的表現(又は観念)が生ずる。そして,
その表現(又は観念)の特殊因が近在性である。 Mita.は,遠在性性(paratvatva)に対
しては,「近在性たる性質に存せず,一切の(sakala)遠在性に存する普遍「」ati)」と注釈
し,近在性性に対しては,「遠在性に存せず,一切の近在性に存する普遍」と注釈する。こ
の注釈中に,「近在性に存せず」「遠在性に存せず」とあるのは,上位の普遍たる存在性
(satta)と性質性(guりatva)を除くためである(3)。
| 覚(buddhi)は覚性(buddhitva)という普遍を有し,アートマンを基体(asraya :
-
53-
菱 田 邦 男
Mita.にしたがって説明しよう。覚性(buddhitva)とは,楽(Sukha)等には存するこ
となく,一切の覚(buddhi)に存する普遍(jati)である。定義が「アートマンを基体とす
る(atmasraya)」とのみ記されるならば,定義は楽等に対してまで及び過ぎること
(ativyapti)になってしまう。楽等もアートマンを基体とするからである。故に,「輝き
(prakasa)である」という言葉(定義)があり,これによって楽等を除くことができる。
一方,「輝きである」とのみ定義づけられるならば,定義は焚火等の輝きにまで及び過ぎる
ので,「アートマンを基体とする」という文句を有するのである。 Jin.によれば,覚は,あ
たかも灯火(pradlpa)のように,光り輝いている(dedipyamana)。何故なら,無知なる
者(ajnana)の暗闇(andhakara)を除去し,あらゆる対象の意義を明らかにするからで
ある(4)。
楽(sukha)は楽性(sukhatva)という普遍を有し,無条件な(nirupadhi)快さ
(anukula)として感受されるものである(87)。
sukhatvasamanyavan nirupadhyanukula-vedyam sukham 87
「楽は無条件な快さ(nirupadhy-anukula)として感受されるもの」とは,楽は,他の手
段を経ることなく(ananyad-dvarak a),それ自体でそのまま快適に感受されるもの,とい
う意味である。即ち,楽の定義は楽の手段(sukha-sadhana)までも含んではいけないの
である。何故であろうか。この理由をJin.は次のように説明する。見事に飾られた花冠や
白檀等は楽の手段或は対象とされるが,これらの対象から楽を感受するのは,心が迷妄
(moha)に沈溺している(avastabdha)人である。故に,これらは本来的な楽の原因に
はならない。真実知(tattva-jnana)が現われて,迷妄の汚染が消え去り,透明な水晶のよ
うに輝く人は,もはやこれらの対象を快さとして感受しない。彼にとっては,「ヨーガより
生ずる法の恩恵(dharmanugraha)から,アートマンに生じ得る最高の歓喜(paramah-
lada)」こそ楽である(5)。
勝論学派にとっては,要するに,楽は対象の側に存するのではなくて,アートマンに内
在する。誰にとっても無条件な楽の存在はアートマン内に限られるからである。Gurumurti
は,「アートマンの経験であるから,楽は主観的なもの「subjective)」と説明する(6)。
苦(duhkha)は苦性(duhkhatva)という普遍を有し,無条件な(nirupadhi)不快
(pratikula)として感受されるものである(88)。
duhkhatva-samanyavan nirupadhi-pratikula-vedyam duhkham 88
苦の定義の論法は楽のそれと同じである。苦の手段(duhkha-sadhana)とされる毒蛇
(ahi) ・荊(kantaka)等への遍充過度(ativyapti)を避けるために,定義中に「無条件
な(nirupadhi)」という言葉が用いられている。苦の定義はアートマンを基体とする苦に対
してのみ及ぶ。毒蛇等が苦の定義から除かれる理由について, Mita.は,「解毒医療の専門
家(visa-vaidya)が毒蛇も捕獲するのは,彼等にとって,毒蛇は不快なものとして感じら
れないからだ」と説明する(7)。一般に,毒蛇を見ると,人が逃げるのは,毒蛇は人に苦(不
快感)を引き起こすからである。しかし,解毒剤の研究に従事する人は毒蛇から逃げるど
ころか,それを捕獲して研究材料にする。毒蛇を捕獲できるのは,彼に不快感が生じない
からだ,とMita.は考える。このように,一般に苦の手段と見做される対象は,ある人に
-54-
55-
Saptapadarthiの和訳解説(5)
とっては,苦の原因とならないので,苦の手段は苦の定義から除外される。
欲(iccha)は欲性(icchatva)という普遍を有し,求利性(arthitva)を特相とす
る(89)。
icchatva-samanyavaty arthitva-laksanaiccha 89
欲(iccha)には楽(sukha)を対象(visaya)とするものと楽の手段(sukha-sadhana)
を対象とするものとがある(SP 32)。したがって,「求利性(arthitva)」とは,楽及び楽
の手段(花冠・白檀・食物等)を希求することである。 arthitvaについて, Mita.はprarthana
と注釈し, Jin.はabhilasaと注釈する。これら両語は共に「何かを希求すること」を意味
する(8)
嫌悪(dvesa)は嫌悪性(dvesatva)という普遍を有し,炎上(prajvalana)を本質
とする(90)。
itva-jatiman prajvalanatmako dvesah 90
(iccha)が対象を希求する性質であるのに対して,この嫌悪(dvesa)は対象
dvesatva-j
を拒否する性質である。故に,両性質は全く相反する働きを持つ。アートマン固有の性質
前項の欲
が「炎上「pra」valana)を本質とする」とは如何なる意味であろうか。この定義は,嫌悪の
持つ拒否的な働きを比喩的に強調しているのであろう。したがって, dvesaという性質にJS_ ●
は憎悪や怒りも含まれていると解せる。Tin.は,「ある性質によって,人はアートマンが燃
え上がっているかのように(prajvalitam iva)思う。それが嫌悪である」と注釈する(9)。
Jin.も「炎上」を比喩として捉えている。
Mita. によれば,「努力(prayatna)」という言語表現とは,「私は努力する(aham
prayate)」「私は実行する(aham karomi)」という言語表現である。努力はアートマン固
有の性質であるから,外的な行動からは区別される。それはアートマンに内在する意志的
な力であり,外的行為の原因となる。上記の「私は実行する」(Mita. )という表現は,外
的行為ではなくて,内心の行為を指している。Ghateは努力を「実際の(actual)行動を
引き起こす,ある心的な活動(some mental activity)」と説明する(10)。
努力(prayatna)は努力性(prayatnatva)という普遍を有し,「努力(prayatna)」
という言語表現の特殊因である(91)。
prayatnatva-samanyavan prayatna-vyavaharasadharana-karanam prayatnah91
重さ(gurutva)は重さ性(gurutvatva : 重体性)という普遍を有し,1つのものに
存し,最初の落下(adya-patana)の不和合因である(92)。
gurutvatva-jatimad eka-vrtty-adya-patanasamavayi-karanam gurutvam
92
-
「1つのものに存し(eka-vrtti)」と定義されるのは,合(samyoga)を除くためである。
合は最初の落下を生じ得るが,2つのもの(dravya)に存するからである。例えば,球遊
び(kanduka-krida)の際に,手で打たれる球は下に落ちる。この球の最初の落下にとっ
ては,球と手との合(kanduka-hasta-samyoga)が不和合因(asamavayi-karaリa)であ
る,とJin.は説明する(11)。つまり,合も最初の落下の不和合因であるが,球と手という2
つのものに存している。
次に,上記定義の中に「最初の(adya)」とあるのは,勢用(vega)を除くためである。
菱 田 邦 男
前に論じたように,勢用は形態を有する実体の継続運動(kriya-prabandhana)
ある。したがって,勢用も落下運動の原因にはなるが,最初の落下ではなくて,
の原因で
「後の」落
下の原因になる。形態のある物体を手から離すと,物体に存する重さという性質によって
「最初の」落下が起こり,その落下運動から勢用が生じる。
の」落下運動が生起する,と勝論学派では主張される。重
質であるが,
そして,その勢用によって「後
さは形態のある実体に存する性
句義の点から言えば,地と水にのみ存する。又,重さは超感官的(atindriya
過根)であって,現量によっては把捉されず,落下運動を通して推理される(12)。
流動性(dravatva : 液体)は流動性性(dravatvatva : 液体性)という普遍を有し,
1つのものに存し,流れること(syandana)の不和合因である(93)。
dravatvatva-i atimad eka-Vrtti-(13)syandanasamavayi-karanam dravatvam
93 11
流動性(dravatva)には本来的なもの(samsiddhika)と依因的なもの(naimittika)と
があり,前者は水に存し,後者は火と結合せるバターや金等に存する(SP34)。 Mita.によ
れば,上記定義中の「流れること(syandana)」という言葉は,色(rupa)等への適用過度
(ativyapti)を避けるために用いられる。色等に流れはないからである。又,「1つのもの
に存し(eka-vrtti)」と定義されるのは,合(samyoga)等に対する適用過度を避けるため
である。 Jin.によれば,流水が低地(nimna)へ移動する際にも3種の原因がある。即ち,水
が和合因(samavayi-karana)であり,流れる状態(dravl-bhava)が不和合因(asamavayi-
karana)であり,そして堰の無いこと(setubandhabhava)等が動力因(nimitta-karana)
である。故に,「『流れること(syandana)』には合とは異なった不和合因があり,それが流
動性」である(14)。
粘着性(sneha : 潤)は水にのみ存する性質であり,粉末を固形化(samgraha),つまり
団子状態(pindi-bhava)にする原因とされる(SP 35)。豆の粉末を団子にする場合には,
水を混入するからである。定義の中に「流動性性(dravatvatva : 流動性の普遍)を欠き」
とあるのは如何なる意味か。勝論学説によれば,水の粘着性のほかに流動性も粉末固形化
の原因になる。水結した水では固形化の役に立たないからである。豆粉を団子にするため
の水は流動状態でなければならない。固形化のもう1つの原因である流動性を除外するた
めに,「流動性性を欠き」という言集が付けられている。では,何故「流動性を欠き」とし
ないのか。それは,「性質は性質を有しない」という『勝論経』(C本I-i-15;U本I
一i -16)の規則によって,粘着性が流動性を有しないことは必然的に決定済みだからで
ある。「流動性性を欠き」という言葉(定義)によって,粘着性は流動性性の基体
(adhikarana)ではないこと,つまり流動性とは異なることが明らかになり,更に,流動
性とは異なる固形化原因であることが確立する。「特殊(asadharana)因」と定義づけられ
ているのは,共通(sadharana)因である不可見力(adrsta)等に対する適用過度を避ける
ためである,とMita.は説明する(15)。
慣性(samskara)は慣性性(samskaratva : 行性)という普遍を有し,自己発生時
-
56-
粘着性(sneha)は粘着性性(snehatva : 潤性)という普遍を有し,流動性性を欠き,
固形化(samgraha)の特殊因である(94)。
snehatva-samanyavan dravatvatva-sunyah samgrahasadharana-karanam
snehah 94
Saptapadarthiの和訳解説(5)
の〔基体の〕状態を生ぜしめる性質である(95)。
samskaratva-jatiman svotpatty-avasthSpadako gunah samskarah 95
慣性(samskara : 行)には勢用(vega)と印象(bhavana)と弾性(sthiti-sthapaka)
の3種があり(SP36),定義はこれら3種のすべてに適合するように説かれている。「自己
発生時の〔基体の〕状態を生ぜしめる」という箇所について, Mita.は「自己,即ち慣性
の発生時に実体(基体)の状態があり,それ(状態)を生ぜしめるもの(apadaka)である。
何故なら,勢用・印象・弾性を特相とする3種の慣性は共に自己発生時(svotpatti-samaya)
の状態を実体に生ぜしめるからである。それらのうち,勢用は活動(calana)の状態を,
印象は有知性(jflanavattva)の状態を,弾性は巻き戻り(vestana)等の状態を生ぜしめ
る」と注釈する(16)。
Mita.の注釈に基づいて,定義が慣性の3種のすべてに適用され得るかどうか検討しよ
う。勢用は形態を有する実体の継続運動因である。例えば,勢用発生時の矢(勢用の基体)
は飛行状態にあり,勢用は矢の飛行活動の状態を生ぜしめる。アートマン固有の性質であ
る印象は見聞等の経験知より発生して,アートマン(基体)に留められてから,自己発生
時の状態であるアートマンの有知性状態を想起(smrti)・再認(pratyabhijnana)として
生ぜしめる。弾性は基体を本来の状態(形)に戻す力である。勢用・印象とは異なって,
弾性は基体にもともと具わる性質であるから,それの発生時は基体の成立時と変りない。
したがって,弾性にとって,「自己発生時の状態を実体に生ぜしめる」とは,基体を本来の
状態に戻すことに他ならない。例えば,元来曲がっている角を手で延ばして,後に手を角
から離すと,角の弾性が基体(角)を最初の曲がった状態に戻す。このように,3種の慣
性は,それぞれ働きは異なるが,いずれも上記の定義に当てはまることが分かった(17)。
法(dharma)は法性(dharmatva)という普遍を有し,楽(sukha)の特殊因であ
る(96)。
dharmatva-samanyavan sukhasadharana-karanam dharmah 96
輪廻の要因とされる不可見力(adrsta)は法(dharma)と非法(adharma)の2種に分
けられ,前者の法は善き果報(楽)をもたらす力であり,後者は悪しき果報(苦)をもた
らす力である。両者共にアートマン固有の性質である。上記の法の定義について, Mita.は
「『法は楽の原因である』と説かれただけでは,〔共通因である〕自在神(Igvara)等に〔定
義が〕及び過ぎることになる。故に,『特殊〔因〕』と説かれる」と説明する。又,「特殊因」
という言集によって,楽の和合因たるアートマンも定義領域から除かれる。 Jin.は「楽は
法の存在(dharma-sattva)の証相(linga)である。何故か。楽は何らかの特殊因から生
じたものである。結果であるから。布の如し。故に,そこに何か特殊因があるとき,それ
は法である」と論証式を用いて説明する。法は現量によっては把捉され得ないので,それ
の結果(karya)である楽を証拠として,法存在は推理される(18)。
SesanantaはPad.の中で次のように説明する。姦通(paradarya)は非法行為であるに
も拘らず,楽を生ぜしめることがある。どうして楽は法からのみ生ずると言えるのか。こ
の疑義に対する彼の答えはこうである。姦通時に得られる楽はその時以前の法を特殊因と
するのであって,姦通行為の非法を特殊因とするのではない。聖典によって禁じられてい
る(niがddha)姦通行為は,非法を通して(adharma-dvara),必ず悪しき果報(naraka-
phala)をもたらすはずである。楽はやはり法を特殊因として生ずる(19)。
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菱 田 邦 男
非法(adharma)は非法性(adharmatva)という普遍を有し,苦(duhkha)の特
殊因である(97)。
adharmatva-samanyavan duhkhasadharana-karanam adharmah 97
非法(adharma)は,法(dharma)が善き果報(楽)をもたらす力であるのに対して,
悪しき果報(苦)をもたらす力である。 Jin.は,法の場合と同じ論法で,「苦は何らかの特
殊因から生じたものである。結果であるから。布の如し。そこに,ある特殊因があるとき,
それは非法である」(P.56)と説明する。現量によっては把捉され得ない非法は自己の結
束である苦を証拠として,その存在が推理される。法は,聖典によって命ぜられている
(vihita)行為を行うことによって,アートマンに残される潜勢力であった。これに対して,
非法は,聖典によって禁じられている行為を行うことによって,その結果アートマンに残
される潜勢力である。この潜勢力たる非法から生ずる結果が苦である。 Pad.に上れば,川
で沐浴(snana)をする際に,水の冷たさ(sita)に苦痛を感じることがある。しかし,そ
の冷たさの苦は以前の非法から生ずるものであって,その沐浴が原因になっているわけで
はない。沐浴自体は法をアートマンに残す行為だからである(20)。
声(sabda)は声性(sabdatva)という普遍と結びつき,耳(srotra)によって把捉|
される性質である(98)。
| sabdatva-samanya-yogi srotra-grahyo gunah sabdah 98
声(sabda)は虚空(akasa)にのみ存する性質であるから,虚空の存在を根拠づける証
相(linga)とされる(SP 70)。 Mita.は,まず,「声性(sabdatva)とは,虚空に存する
特殊な性質(=声)に存し,色には存しない普遍(jati)である」と,声性を注釈する。更
に, Mita.によれば,定義の中に,「耳によって把捉される(srotra-grahya)」という文句
が用いられているのは,定義が楽等にまで及び過ぎることを防ぐためである。次に,「性質」
という語は何故必要なのか。それは,声性も耳によって把捉されるので,定義の声性への
及び過ぎを避けるためにある(21)。
遠方で発生した声がどうして耳にまで届くことができるのか。正理勝論学派は波動(vieト
taranga)の法則によってこの理由を説明する。水上に発生した波が順次に第2,第3等の
波を引き起こして,遠くにまで広がっていくように,発生した声も,先の声(purva-§abda)
が後の(uttara)声の原因となって,順次に新しい声を生み出しつつ,遠くに広がり,やが
て最後の声が耳の穴に届く。最初の声(発生音)と最後の声とは,極めて類似しているの
で,我われは発生音を捉えたと自認する(22)。
ここまで(SP 75-98)をもって,24種から成る性質(guna)のすべてについて,定義
が示された。次に, Sivadityaは運動(karman)の定義を個別的に示していく。
上昇(utksepaリa)は上昇性(utksepanatva)という普遍を有し,上方地点(urdhva-
de§a)との結合因たる運動である。
下降(apaksepana)は下降性(apaksepanatva)という普遍を有し,下方地点(adho-
desa)との結合因たる運動である。
屈折(akuflcana)は屈折性(akuficanatva)という普遍を有し,曲折(vakratva)
を生ぜしめる運動である。
伸長(prasaraひa)は伸長性(prasaranatva)という普遍を有し,真直(rjutva)を
生ぜしめる運動である。
- 58-
Saptapadarthiの和訳解説(5)
進行(gamana)は進行性(gamanatva)という普遍を有し,不特定地点(aniyata-desa)
との結合因たる運動である(99)。
utksepanatva-jatimad urdhva-desa-samyoga-karanam karma utksepanam 1
apaksepanatva-jatimad adho-desa-samyoga-karanam karma apaksepanam I
akuflcanatva-jatimad vakratvapadakam karma akuficanam l prasaranatva-
jatimad rjutvapadakam karma prasaranam gamanatva-jatimadaniyata-desa-
samyoga-karanam karma gamanam 99
運動(karman : 業)には上昇(utksepana)・下降(apaksepana)・屈折(akuncana)・
伸長(prasarana)・進行(gamana)の5種がある(SP5)。これら5種のそれぞれについ
て定義が示される。Jin.によれば,結合(samyoga)という性質は形態のある物体(vastu)
と上方地点の両実体に和合して生起する。したがって,和合因としての実体も上方地点と
の結合因であり,又,努力等の性質も動力因になり得る。これら和合因や努力等を除外す
るために,上記定義の中に「運動」という言葉が用いられる。更に,屈折と伸長の定義に
おいて「運動」という語が用いられるのは,慣性(samskara)の1種である弾性(sthiti・
sthapaka)を除外するためである。物体の巻き戻り作用と伸び戻り作用の原因である弾性
も物体の屈折と伸長を生ぜしめるからである。しかし,弾性は性質に属するため,この「運
動」という語によって,定義から除かれる。
進行(gamana)は,上昇・下降・屈折・伸長の4種の運動が一定方向の運動であるのに
対して,不定方向の運動である。定義の中の「不特定地点(aniyata-desa)」とは「上方の
(urdhva)・下方の(adhas)・水平の(tiryac)」等の言葉によっては決定されない
(aniyamita)場所を意味する。「ある運動によって,それら不特定地点と有形態の実体と
の間に結合(samyoga)が生ずるとき,それ(運動)が進行である」とTin.は注釈する。
施転(bhramana)・放物(recana)・流動(syandana)・迂回(namana)・導入(pravesana)・
出行(niskramana)等は進行に含まれる(23)。
次に,普遍(samanya)句義の3種のそれぞれについて定義が示される。
上位のもの(para)は能遍充(vyapaka)のみの普遍である。下位のもの(apara)
は所遍充(vyapya)のみの普遍である。上下位のもの(parapara)は所遍充と能遍充
(vyapya-vyapaka)の両方を特相とする普遍である(100)。
vyapaka-matram samanyam parami vyapya-matram samanyam aparam l
vyapya-vyapakobhaya-rupam samanyam paraparam(24) 100
Sivadityaは普遍(samanya)を上位のもの(para)・下位のもの(apara)・上下位のも
の(parSpara)という3種に分類する(SP6)。能遍充(vyapaka)とは,他のものに遍
在すること,換言すれば,他のものよりも広い領域に存在することである。上位の普遍た
る存在性(satta)は一切の存在物に遍在しつつ,しかも他のものによって決して遍充され
ることがないから,「能遍充のみの普遍」である。所遍充(vyapya)とは,能遍充者によっ
て遍充されること,つまり包括されることである。したがって,所遍充は能遍充よりも狭
い領域に存在する。例えば,下位の普遍たる瓶性(ghatatva)は実体性(dravyatva)の中
に包括され,且つ他の普遍を包括することがないから,「所遍充のみの普遍」である。能遍
充と所遍充の関係は火(vahni)と煙(dhuma)の例によって示され得る。「凡そ煙あると
ころには火あり」という例証においては,火は煙に対して能遍充の関係を,煙は火に対し
- 59-
菱 田 邦 男
て所遍充の関係を持つ。完全燃焼の鉄火球(ayo-golaka)や炭火(angara)は無煙である
ため,大の領域は煙の領域よりも広いからである。
次に,上下位の普遍(parapara-samanya)は,何故所遍充と能遍充の両方を特相とする
のか。上下位の普遍には実体性(dravyatva)・性質性(guリatva)等が相当する。実体性・
性質性は,上位の普遍たる存在性(satta)に対しては,所遍充の関係にある。存在性によっ
て包括されるからである。 Jin.によれば,「凡そ実体性・性質性のあるところには存在性あ
り」という必然的関係(avibhina-bhava)が成り立つ。その一方で,実体性は地性(pr-
thivitva)等に対して,性質性は色性(rupatva)等に対して能遍充の関係を有する。実体
性は地性等を,性質性は色性等を包括するからである。 Jin.は,「
Saptapadarthiの和訳解説(5)
する」未生無と「始まりを有する」已滅無を除くことになる。もし「始まりも終りも有し
ない」とのみ定義づけられた場合には,常住なる虚空等への適用過度が生ずるので,「無
(abhava)」という語が用いられる。次に,定義の中の「関係(samsarga)無」とは何か。
まず,関係(samsarga=sambandha)とは存在物とそれが住する基体(adhikarana)との
関係である。次に,関係の無とは存在物と基体との関係が否定されることである。 Mita. は
「交互無(anyonyabhava)への適用過度を避けるために,『関係(samsarga)』と言う」
と注釈する。 Jin.によれば,未生無等が存在物の否定(vastu-nisedhaka)であるのに対し
て,畢竟無は存在物自体を否定するのではなくて,2つの存在物間の関係(sambandha)
を否定する。例えば,兎の角(sasa-srnga)の畢竟無においては,兎と角は別個の(viyukta)
ものとしてはそれぞれ存在しているが,両者の結合関係の非存在が説かれている。もし定
義に「関係」という言葉がなければ,畢竟無はありとあらゆる場合の非存在(sarvathabh-
ava)を指すことになるため,対応者(pratiyogin)の名前すらも成り立ち得ない。無は対
応者に準拠する(adhina)から,対応者が成立しなければ,「無も言及され得ない(abh-
avasySpy anuccaryatvam)」と, Jin.は主張する。
交互無(anyonyabhava)は相互に同一性(tadatmya = aikya)が認められない場合の無
を指す。存在物の相互に本性上の区別(svarupa-bheda)がある場合に,交互無は成立する。
例えば,「瓶は布にあらず」とは,瓶に対して布との同一性が仮想されてから(aropya),
その同一性が否定されることであり,これが「同一性の否定(tadatmya-nisedha)」である,
とMita.は説明する。故に,交互無の実質上の対応者(pratiyogin)は同一性であると言
えようo Ghateによれば,「瓶は布にあらず(ghatahpato na)」は「瓶と布には同一性の
否定がある(ghata-patayoh tadatmya-nisedhah)」を意味するから,ここには交互無が
ある。又,彼は,「瓶には布性がない(ghate patatvam na)」という場合には,交互無で
はなくて,畢竟無がある,と主張する。ここでは,瓶と布性は基体と存在物の関係にあり,
その関係(samsarga)が否定されているからである(26)。
ここまで(SP 56-101)をもって,「句義の定義」という第II章は終了したのである。
第Ⅲ章 諸概念の考察
前章(第II章「句義の定義」)では,まず7句義の定義が示されてから,更に7句義の細
別の各々について定義が示された。本章(第III章)では, Sivadityaは勝論学派の句義論を
支えている諸概念の考察を進める。
常住性(nityatva)とは滅(pradhvamsa)からの離脱である。無常性(anityatva)
とは滅を有すること(有滅性)である(102)。
nityatvam pradhvamsa-virahah l anityatvam pradhvamsavattvam 102
Jin.によれば,「地(prthivi)には常住なるものと無常なるものとがある」(SP 10)と
説かれているが,では「常住なるもの」とは何か,「無常なるもの」とは何か,という問い
かけを予想して, Sivadityaは常住性・無常性の意味を明らかにする。常住性(nityatva)
は常住なるもの(nitya)に存する普遍(samanya),無常性(anityatva)は無常なるもの
(anitya)に存する普遍である。 Pad.は「常住性は滅の非対応者性である(nityatvam
dhvamsapratiyogitvam)」と注釈する。このように,「滅の非対応者性」とすれば,固有の
性質たる覚・楽・苦等の滅を具有するアートマンヘの未適用(avyapti)は生じない,と説
61一
菱 田 邦 男
明する。言い換えれば,本文の「滅からの離脱(dhvamsa-viraha)」では,覚・楽・苦等
の滅を具有するアートマン(自らは常住)を除外する恐れが生ずる,というのがPad.の
見解である。更に, Pad.は「無常性は滅の対応者性(dhvamsa-pratiyogitva)である」と
注釈し,これによって,覚等の滅を有するアートマンヘの適用過度(ativyapti)を防止す
ることができる,と説明する(27)。
極微(paramanu)とは部分がなくて,作用を有するものである(103)。
niravayavah kriyavan paramanuh 03
「極微」の原語, paramanuはparama (極限の)十anu(原子:微塵)から成り,単独
原子を意味する。単独原子は最も微小であり,分割され得ないから,部分を持たない。又,
他の単独原子と結びついて複合体(果)を形成するから,作用(運動)を有する。「『部分
がない(niravayava)』という言集は結果たる実体(karya-dravya)を除外するために,『作
用を有する(kriyavat)』という言葉は天空(visnu-pada)等を除くために用いられる」と
Tin.は注釈する。常住なるマナスも極微の大きさ(量:parimana)であり,活動を有する
から,上記の定義は内宮マナスにも当てはまることになる(28)。
部分(avayava)は実体の和合因である。究極的全体(antyavayavin)は実体を構
成しない結果たる実体である(104)。
dravya-samavayi-karanam avayavah dravyanarambhakam karya-dravyam
antyavayavi ||104 11
前項(103)において,「部分を有しないもの(niravayava)」が言及されたが,「それの
前提となる部分(avayava)が判っているはずであるから,それ(部分)が明らかにさるべ
きだ」という反論を予想して,この項では,まず,部分が定義づけられる,とJin.は説明
する。「実体の和合因である」の和合因(samavayi-karana)とは,「そこに果が和合して
生起する(yatra samavetam karyam utpadyate)」因であり,布に対する糸がそれの例
としてよく挙げられる。布(果)は糸(因)に和合することによって(tantu-samavetatvena)
生起するからである。「実体の」という語は何故必要か。この語がないと,声(sabda)の
和合因である虚空(akasa)も部分になってしまうからである。声は虚空にのみ依存する性
質であるため,「実体の」という語によって除外される。「2個の極微(単独原子)は2微
果(2原子体)の部分である。 2個の原子によって,2微果は生ずるからである。 3微果
(3原子体)にとっては,2微果が部分である。 4微果(4原子体)にとっては,3微果
が部分である。 4組の3微果によって,それ(4微果)は生起するからである」とJin.は
注釈する。勝論学派の原子論では,2個の極微の結合(samyoga)から2微果は成り,3
組の2微果の結合から3微果は成る,という順序・方法で,地・水・火・風の複合体は構
成される。
部分(avayava)に対するものとして全体(avayavin)がある。「全体」の原語, avayavin
は「部分を有するもの(有分)」を意味する。究極的全体(antySvayavin)とは,出来上が
りの複合体,つまり完成品としての結果を指している。この究極的全体は他の実体(複合
体)の部分とはならないから,「実体を構成しない(dravyanarambhaka)」結果である。
例えば,2微果(dvy-anuka)は,極微に対しては全体であるが,3微果(try一司uka)に
対しては部分であるから,究極的全体ではない。しかし,瓶や身体(sarira)は出来上がり
の複合体(結果)であり,もはや他の実体の部分とならないから,究極的全体である。 Jin.
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Saptapadarthiの和訳解説(5)
は,「多くの諸身体によって,より大きな(gariyas) 1つの身体が構成されることはない」
と,身体が究極的全体である理由を説明する。「結果たる実体(karya-dravya)である」と
いう文句の「結果」という語は虚空等を除くために用いられる。虚空等は「実体を構成し
ない」実体であるが,「結果たる実体」ではないからである。「結果たる実体」の「実体」
という語は性質や運動を除外するために用いられる。瓶や身体に依存する諸性質(色・重
さ等)・運動は「実体を構成しない結果」であるが,実体ではないからである(29)。
結果(karya)とは未生無を有するものである(105)。
prag-abhavavat karyam II105 II
「未生無を有するもの(prag-abhavavat)」とは,結果が未生無と共存することを意味す
るのではない。未生無は,結果が生起するや否や(karyotpatty-anantaram),消滅するか
らである。では,上記の定義は如何なる意味か。 Mita.及びPad.は「結果とは未生無の
対応者(pratiyogin)である」という意味に解する。未生無は結果たる存在物が生起する以
前の非存在を指すから,結果は未生無の対応者であり(SP 101),「終りを有する(santa)」
未生無を前提として成立する。「このように解しなければ,果の有未生無性(prag-abh-
avavattva)は成り立ち得ない」とMita.は主張する。Jin.は,「以前には存在していない
もの(avidyamana)が,後になって諸原因から生ずるとき,それが結果である」と注釈す
る。「未生無を有するもの」については,「あるものに未生無が存するとき,それが未生無
を有するものである」と文字通りに解している(30)。
Gurumurtiは,「結果とは未生無を有するものである」というこの定義こそ勝論学派の因
中無果論(asat-karya-vada)を示す根拠になると主張する。因中無果論とは,原因の中に
結果の存在を認めない説,言い換えれば,結果は生起以前には非存在であり,そして自己
の原因とは全く別な存在であるとする説である。この説はサーンキヤ学派の因中有果論
(sat-karya-vada),即ち結果は生起以前にあらかじめ原因の中に含まれているとする説
と対比される(31)。
身体(sarira)は享受(bhoga)の住処である究極的全体である(106)。
bhogayatanam antyavayavi sariram 106
Jin.は,「『身体は究極的全体である』と〔のみ〕言われた場合には,瓶等への定義の及
び過ぎが生ずる。瓶等も究極的全体であるからである。それを避けるために,『享受の住処
(ayatana)である』と言う。『身体は享受の住処である』と〔のみ〕言われた場合には,
手・足・頭・首(kara一carana-sirogriva)等も享受の場所(sthana)ではないか,とい
う推定過度がそこに起こる。それを避げるために,・『究極的全体』と言う」と注釈する。即
ち,「享受の住処」という語は,究極的全体である瓶等を除くために用いられ,「究極的全
体」という語は,享受の住処である手・足・頭・首等を除くために用いられる。手・足等
は身体の部分であって,究極的全体ではないからである。又,「究極的全体(有分=部分を
有するもの)」という語は,享受の主体であるアートマンも除くことができる。アートマン
は複合体ではないからである(32)。
享受(bhoga)とは,自己に和合している楽と苦のいずれか(anyatara)を直接に経
験することである(107)。
svasamaveta-sukha-duhkhanyatara-saksat-karo bhogah 107
「享受」の原語bhogaは動詞語根√bhuj (食う,経験する,報いを受ける)から派生
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菱 田 邦 男
した男性名詞である。上記の定義を順に説明しよう。「自己に和合している(svasamaveta)」
という語は自在神(Isvara)の直接経験を除くために用いられる。 Mita.によれば,自在神
には本来身体等がないため,不可見力(adrsta)が起こらない。不可見力が生じないから,
白已に和合している楽・苦もない。自在神は専ら他者のアートマンに住する楽・苦のみを
直接経験するのであるから,享受を有しない。享受の対象は自己のアートマンに依存する
楽・苦でなければならない。「楽と苦のいずれか(sukha-duhkhanyatara)」とあるのは,
楽と苦が同時に(yugapad)生起することは決してないからである。Jin.は,「相互に対立
する(paraspara-viruddha)楽と苦に対して,1つのアートマンにおいて同時に直接経験
が生ずるのは不可能であるから」と説明する。楽と苦の場合に限らず,勝論学派や正理学
派では,2つ以上の知覚が同時に生起することを認めていない。この「いずれか」という
言葉からも,勝論学派の知覚順次生起説を知ることができる(33)。
何かに限定されたアートマンにおいて享受(bhoga)が起こるとき,その何かが住処
(ayatana)である(108)。
yad-avacchinne atmani bhogas tad ayatanam 108
Mita.によれば,「何かに限定された(yad- avacchinna)」とは「身体(sarira)等によっ
て束縛された(sambaddha)」という意味である。「アートマンが享受の住処ではないか」
という定義適用過度を避けるために,「何かに限定された」という文句が「アートマン」の
直前に付けられている。「身体等によって限定された」とだけ説かれても,アートマン以外
の別の所では享受は存在しないから,定義は遍充不可能になってしまう。それを避けるた
めに「アートマンにおいて(atmani)」と説かれている。
享受は認識主体たるアートマン(個我)において生ずるのであるが,アートマンは本来
的には遍在者であるから,アートマン自体は享受の住処にはなり得ない。アートマンは身
体と結びっくことによって,はじめて享受を可能にする。身体は,個我が自己に和合せる
楽・苦を直接経験する場所である。身体を離れて,個我は享受を生起させることはできな
い。アートマンが個々の身体によって限定されているからこそ,果報の間違いや混乱,つ
まり,自己に責任のない果報を受けること(akrtabhyagama)或は自己の果報が奪われる
こと(abhyupeta-hana)は起こらないのである(34)。
感官(indriya : 根)は直接経験知の手段(karaリa)である(109)。
Saksat-kari-jnana-karanam(35)indriyam 109
感官(indriya)には鼻(ghraリa)・舌(rasana)・眼(caksus)・皮膚(tvac)・耳(srotra)・
マナス(manas)の6種がある(SP 24)。これらのうち,マナスは内的感官として,鼻等
の5感官は外的感官として分類される。 Mita.によれば,「感官は手段である」とのみ説か
れた場合には,切断作用(chidi-kriya)の手段である斧(kuthara)等への定義の適用過
度が生ずるので,「知「」nana)」という語が用いられる。「知」の直前に,「直接経験(saksat-
karin)」という語が付けられているのは,煙(dhuma)等の証相(linga)を除くためで
ある。煙等は比量知(anumiti)の手段(証相)にはなるが,直接経験知(現量知)の手段
にはならないからである。Jin.は,「現量知(pratyaksa-pratiti)の特殊(asadharaリa)
因となるもの,それが感官である」と注釈する。現量知は自在神によっても把捉されるが,
この「特殊因」という語によって,自在神(共通因)は感官の定義から除かれる。 Ghateは,
感官ではない自在神を除くために,「直接経験知」を「生起される「」anya)直接経験知」
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Saptapadarthiの和訳解説(5)
の意味に解している。生起される知は無常であり,自在神の常住なる直接経験知から区別
されるからである(36)。
対象(visaya)はアートマンの享受の原因である(110)。
atmano bhoga-karanam visayah 10
対象(visaya:境)とは,アートマン(個我)を認識主体とし,諸感官を認識手段とす
る認識対象(客体)を指す。 Mita.によれば,「対象は享受の原因である」とのみ説かれた
場合には,享受の和合因であるアートマンヘの定義適用過度(ativyapti)が生ずる。故に,
「アートマンの」という語が用いられる。この語によって,対象がアートマンとは別な
(atmStirikta)享受因であることが理解される。 Jin.は,「身体と感官とは全く別に,アー
トマンに対して享受を生ぜしめるもの,それが対象である」と注釈する。主観側にある身
体と感官とは全く別に,対象は客観の側からアートマンの享受原因となるのである(38)。
上記,SP106-110において,身体(sarira)・感官(indriya)・対象(visaya)に関する
考察及び身体の定義を支える享受(bhoga)・住処(ayatana)について考察が行われた。
地的なもの(bhauma)とは,地に属するものだけを燃料(indhana)とする火であ
る。天的なもの(divya)とは,水のみを燃料とする火である。腹中のもの(audarya)
とは,地に属するものと水を燃料とする火である。鉱物性のもの(akaraja)とは,燃
料を有しない(nirindhana)火である。そして,それは黄金(suvarりa)等である(Ill)。
parthiva-matrgndhanam tejo bhaumam l jala-matrSndhanam tejodivyam l par-
thiva-jalendhanam teja audaryam l nirindhanam teja akarajam l tac ca suvarnadi111
無常なる果としての火は身体・感官・対象という特相を有し,それらのうち,対象には
地的なもの(bhauma)・天的なもの(divya)・腹中のもの(audarya)・鉱物性のもの
(akaraja)という4種があることはすでに説かれた(SP12)。この項では,これら4種に
関する定義が示される。定義は,4種のそれぞれと燃料(indhana)との関係に基づいて説
かれる。「燃料とは燃え立たしめるもの(dipana)である」とMita.は注釈する。地に属
するものだけを燃料とする地的な火は,植物系の薪・牛糞等のみを燃料とする地上の火で
ある。天的なもの,即ち天的な火は天空に存する火であり,具体的には太陽(sura)・稲妻
(vidyut)等を指す。では,この火が「水のみを燃料とする」とは如何なる意味か。それは,
雨は天空から降るので,天空には水が存在し,その水を太陽・稲妻は燃料とする,という
意味である。「水のみ」の「のみ(matra)」は腹中の火への遍充過度を避けるためにある。
腹中のもの(audarya),即ち腹中の火は腹(udara, jathara)の中にあって,飲食物を
排泄物(mala)・汁(rasa)・要素(dhatu)の状態に変化させる消化熱を指すが,地に属す
る食物(ahara)と飲水を燃料とする。 Jin.によれば,上記定義の中の「火「te」as)」とい
う言集は身体等を定義から除外(nivrtti)するために用いられる。身体等も食物と水(ahara-
nira)によって成育(posa)するからである。鉱物性のもの(akaraja)は,文字通りに
は,「鉱山(akara)から生じたもの」を意味し,実例としては,光沢(輝き)を具える黄
金(suvarリa)・銀(rupya)等を指す。黄金の放つ光沢・輝きが火と見做されているが,こ
の火は,「燃料を有しない(nirindhana)」という点て他の3火と大きく異なる。火には熱触
(usna-sparsa)という固有の性質がある(SP 68)。しかし,黄金の有する熱触は,黄金
に含まれる地の非冷井熱触に阻まれて,知覚されない(39)。
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(平成2年9月6日受理)
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