42
編輯2011 Taiwan Study Tour 東アジアとアメリカ合衆国 Act. 2 ―台灣とアメリカ合衆国:冷戦から現在まで― 8/188/25 台北・貢寮・台中・南投 1 / / 2 3 16 20 31 37

Taiwan Tour 2011

  • Upload
    eaphet-

  • View
    221

  • Download
    3

Embed Size (px)

DESCRIPTION

Eaphet conducted a study-tour in Taiwan for the second time. It was the second study-tour on "East Aisa and the United States of America" following the Okinawa tour in July-August.

Citation preview

Page 1: Taiwan Tour 2011

編輯部

2011 夏 Taiwan Study Tour

東アジアとアメリカ合衆国 Act. 2

―台灣とアメリカ合衆国:冷戦から現在まで―

8/18-8/25

台北・貢寮・台中・南投 主意書 p1 ツアー日程/参加者/謝辞 p2 アメリカ合衆国と台灣:背景(事前資料) p3 台湾の原発 p16 活動報告 p20 ツアーで考えたこと(参加者報告) p31 付録資料 p37

Page 2: Taiwan Tour 2011

1945年以降アメリカ合衆国は東アジアにとって、それ以前と比べて格段に無視できない存在となりました。アメリカ合衆国の冷戦体制の下に東アジア(政治、経済、軍事)は再編成されてきました。東アジアの「戦後」はアメリカ合衆国の影響を無視しては語れないのですが、各国の歴史の中から、アメリカ合衆国の影は奇妙に「拭い去られて」います。台湾・韓国・日本はいわゆる「美援」(アメリカ合衆国からの援助)によって経済発展を遂げましたが、その代償は親米・反共の独裁政権となり冷戦終了時まで“民主化”は棚上げされました。こうした歴史は政治にだけではなく食料事情、宗教、エネルギー、社会運動にまで反映されています。このツアーでは、台湾におけるアメリカ合衆国の足跡を辿りながら、私たちの「今」を考え直していこうと思います。

1945年以來,美國對東亞而言已成為無法令人乎視的存在了。在美國的冷戰體制之下東亞各方面(政治、經濟、軍事)皆重新洗牌了。跳過美國的影響便無法談論東亞的「戰後」,然而美國的蹤影卻奇妙地從各國歷史中「被抹除」了。台灣.韓國.日本因接受「美援(來自美國的援助)」而促使經濟發達,然而其代價是直至冷戰結束以前都成為了親美.反共的獨裁政權,"民主化"便被擱置一旁。這樣的歷史不只反映在政治上,也延續到食品狀況、宗教、能源乃至社會運動。此次的台灣之旅,我們將追溯美國在台灣所留下的足跡,同時重新思考我們的「現在」。

1

東アジアとアメリカ合衆国Act.2

台灣とアメリカ合衆国―冷戦から現在まで 主意書

アメリカ合衆国と“台灣”の関係を、どこから語り出したらいいでしょうか。台灣が中華民国に接収されてそれが直接に現在に繋がっていると考えると、接収を直接に支援し可能にしたアメリカ合衆国の存在から語り出すことにも一定の妥当性があるでしょう。「現在の台灣はアメリカ合衆国が作った…」そんな言い方にさえ、一定の妥当性があるのかもしれません。左の写真はTimes誌が報道した1970年前後の台灣の観光パンフレットの写真の一枚。ベトナム戦争時にアメリカ合衆国政府が行った兵士のための慰安施設(東南アジアを中心に10箇所が慰安場所として指定された)のひとつであった台北。 右の写真は貢寮にある第四原子力発電所。台灣の原発は、50年代からアメリカ合衆国エネルギー企業が独占的に開発し、現在に至っています。日本、韓国、台湾の“奇跡の経済成長”を支えたのは、同地域を太平洋の防共線と規定したアメリカ合衆国の、冷戦(防共)政策と、これに伴う巨額の援助でした。 そのアメリカ合衆国は現在の台灣でどのように語られるのか。それはなぜなのか、ツアーを通して考えます。

Page 3: Taiwan Tour 2011

2

ツアーツアーツアーツアー日程表日程表日程表日程表

8/18(木)19:00 新北市中和区景新街212号2F 集合・顔合わせ 8/19(金)午前中 総督府、台北市228紀念館(蕭錦文先生)、228国家紀念館、国軍博物館見学。本田親史先生と合流して夕方から勉強会。 8/20(土)午前中 国立図書館「台灣におけるアメリカ合衆国の足跡」展示見学。午後、陽明山の米軍寮探索。夕方から中山北路周辺、晴光市場付近の探索。夜、勉強会。 8/21(日)午前中に貢寮(福隆駅)に移動。13:30福隆駅前で、貢寮自救会の楊木火さんと合流、核四の見学(Eaphet「随邊走走」と合同)。夕方、台中に移動。 8/22(月)午後2時、台中の清泉崗空軍基地(CCK)内「米軍足跡館」見学(Eaphet「随邊走走」と合同)。夕方、Eaphetにて勉強会。 8/23(火)午前中に南投に移動。山の歴史の中にアメリカ合衆国を捜す。霧社抗日紀念碑。清境農場の松崗部落で「異域」展を見学。ルビー・ナブさん、バカン・ナウイさんに戦後の話を聞く。夜、台中に戻って勉強会。 8/24(水)台中の探索(自由行動)。夜、民視のドキュメンタリー「美援」を見る(Eaphet定例「聊聊」に参加)。 8/25(木)午前中、発表準備。夕方から最終発表会。夜、BBQとパーティ。 参加者参加者参加者参加者(敬称略) 江田舞さん:東京から参加(全日程) 比屋根亮太さん:台灣留学中(全日程) 劉芸芳さん:台灣在住(全日程) 宮平杏奈さん:台灣留学中、Eaphet会員(全日程) 阮欣婷さん:台灣在住、Eaphet会員(23日と24日を除く) 古川ちかし:コーディネーター、Eaphet会員(全日程) 沈惠萍さん:台灣在住(21日を除き全日程) タコさん:台灣在住(台北の三日だけ) 美微さん:台灣在住(台北の三日だけ) 本田親史さん:台灣訪問中(台北の二日だけ) 畑中さん:台灣留学中(台北の一日だけ) 李茹如さん:台灣在住、Eaphet会員(貢寮のみ)

Jessicaさん:台灣在住 (8/21以降) 吉田藍さん:台灣在住、Eaphet会員(土日のみ) 黄雅芬さん:台灣在住、Eaphet会員(21日のみコーディネーター) 黄淑燕さん:台灣在住、Eaphet会員(貢寮と台中、南投) Stephanieさん:台灣在住(台中と南投) Wendyさん:台灣在住(台中と南投) 紅如さん:台灣在住(台中と南投) イーフェイさん:台灣在住、Eaphet会員(貢寮、台中、南投) 陳思懿さん:台灣在住、Eaphet会員(発表会とパーティ) 趙庭妤さん:台灣在住、Eaphet会員(発表会とパーティ) Joyさん:台灣在住、Eaphet会員(発表会とパーティ) 游重器さん:台灣在住、Eaphet会員(台北での世話役) 感謝感謝感謝感謝:(コーディネーター記)多くの参加を得て、無事に終了できたことを皆様に感謝します。台北の宿泊に関しては、游重器さんと(株)吉貿社の皆さんに大変お世話になりました。228紀念館ボランティアガイドの蕭錦文先生、貢寮自救会の楊木火先生には、このツアーのためにお忙しい時間を割いてくださったこと、特に感謝します。阮欣婷さんには、CCK見学のための手続き一切をお願いし、また黄雅芬さんには貢寮自救会との連絡等の一切をお願いすることになり、恐縮しています。台中での探索に際してもいろいろな方々にお世話になりました。お名前を挙げ切れませんが、感謝します。

諸経費 ▽台北事務所宿泊 一人100元/一泊 ▽台中事務所宿泊 一人150元/一泊 ▽資料等コピー費 一人20元 ▼それ以外の交通費・食費・入館料等はその都度、各自で! 結果:飛行機代を除き、一人(最大)経費は 4600元/ 1万 2千円 で納まりました!

Page 4: Taiwan Tour 2011

3

アメリカアメリカアメリカアメリカ合衆国合衆国合衆国合衆国とととと台灣台灣台灣台灣――――背景背景背景背景(文責Awil Kazuo, Eaphet:本ツアー事前勉強資料から) 1898年、スペインとの戦争に勝ったアメリカ合衆国はフィリピンを植民地にした。でも、全フィリピンを制圧、特にフィリピンの南端のミンダナオ島はイスラム王国があり、それを制圧するのに1915年までかかった。アメリカ合衆国がフィリピンにてこずっている間に、イギリスは清に香港を割譲させるなど中国侵入に成功していた。 アメリカ合衆国は気がついたら中国大陸の利権争奪戦に「出遅れ」ていた。そのアメリカ合衆国に、中国への扉を開いたのが蒋介石だとも言える。日中戦争を戦う上で、蒋介石はイギリスの支援を必要としたけれど、イギリスだけに頼ることはその後の中国でのイギリスの力を大きくしてしまって危険だ。そこにアメリカ合衆国という競争相手を入れておくことが、イギリスを牽制することになる。蒋介石はアメリカ合衆国に支援を要請した。アメリカ合衆国は、戦争不介入、中立という国家政策をここでは都合よく忘れて(蒋介石も日本も相互に戦線布告はしていなかったけど)、蒋介石国民党支援という既成事実を作った(アメリカ合衆国議会は1941年5月「対中武器貸与法」を成立)。蒋介石が日本を追い出すことに成功したら、アメリカ合衆国が日本に替わって中国の利権を狙える立場に立てる。イギリスも同じことを考えていた。また、1937年から1941年までアメリカ合衆国は、アメリカ義勇部隊AVG(American

Volunteer Group)を組織し、新鋭戦闘機の供与、米国人パイロットの供与を行っていた。これもボランティアであって国としての行為ではない、というのがアメリカ合衆国の言い分だった。 日本が真珠湾攻撃(1941年12月8日)を決断した背景には、アメリカ合衆国による蒋介石への援助を断ち切って日中戦争の局面を打開したかったのではないか、と言う人もいる。アメリカ合衆国はイギリスとともにいわゆる援蒋ルートを通じて蒋介石国民党軍に石油や軍需品を送り続け、逆に日本に対しては石油の輸出を止めた(1941年8月1日)。写真は仏印援蒋ルート、英米が仏領ベトナムでフランスから物資を買い、蒋介石のもとに送っていた。 真珠湾攻撃直後、アメリカ合衆国は日本に宣戦布告。蒋介石国民党も12月9日に日・独・伊に対して宣戦布告し、連合国の一員として名乗りを上げた。結果、中国での内乱状態は、第二次世界大戦という大きな流れの中に組み込まれることになった。この大きな流れの中では、ソビエトはアメリカ合衆国と同じ側、つまり連合国だ。つまり、蒋介石の国民党も、毛沢東の共産党も、バックにいるアメリカ合衆国とソビエトが仲間なのだから、大きな流れの中では仲間になったわけだ。敵はとりあえず日本だ。 1942年1月、アメリカ合衆国陸軍からジョセフ・スティルウェルが蒋介石国民党軍参謀に就任した。左の写真:左から蒋介石、宋美麗夫人、ジョセフ・スティルウェル。3月には5億ドルの資金援助を行った。戦争終結後の中国を代表するのは蒋介石国民党だ、アメリカ合衆国はそう読んで、それまで蒋介石を軍事面で支援してきたドイツに代わって肩入れしていった。反共を掲げる蒋介石は、戦後の冷戦体制においてもソビエトを押さえる力になるはずだ、と。 1943年11月、カイロで連合国の対日方針を決定する会議が行われ、有名なカイロ宣言が出された。右の写真がそのときのメンバー。左から蒋介

Page 5: Taiwan Tour 2011

4

石、ルーズベルト、チャーチル。蒋介石が英米の首相、大統領と肩を並べたこの写真は、英米が(特にアメリカ合衆国が)蒋介石こそ中国の正統な代表であると認めたことを印象付けた。 日本日本日本日本のののの降伏降伏降伏降伏、、、、第二次大戦第二次大戦第二次大戦第二次大戦のののの終結終結終結終結 日本の敗戦によって、中華民国は戦勝国となり国連の常任理事国となった。しかし、日中戦争、第二次大戦という流れの中では手を組んできた共産党と国民党は、手を組む理由がなくなったから新たな内乱に突入した。アメリカ合衆国の援助を得た国民党軍と、ソビエトの援助を受けた共産党軍は、ほぼ拮抗する兵力で対峙した。大戦後の米ソ代理戦争、第一号だ。アメリカ合衆国が疲弊したヨーロッパへの援助に力をそがれている間に、共産党軍は旧日本軍から武器を取り上げ、徐々に戦局は共産党軍有利に展開するようになる。 そしてついに1949年、共産党が中華人民共和国の成立を宣言し、国民党軍は一時的に(と称して)台灣に逃亡する事態に追い込まれた。台灣には1945年10月5日、アメリカ合衆国空軍の飛行機で80名ほどの先遣人員が乗り込んで準備をはじめ、24日には陳儀自身が上海からやはり米軍機で来台。翌25日、総督府から施政権を引き継いだ。1949年に、そこに大量の国民党敗残兵とともに蒋介石率いる国民政府そのものがいわば「遷都」してきたのだ。(左写真:国民党を歓迎する台灣女子学生/下:台灣に上陸する国民党兵) 国民政府にとって、台灣への撤退は一時的なものだと考えられていた。「反攻大陸」という標語を掲げ、いずれ近いうちに大陸を奪回するのだ、と言い続けた。1949年に大陸各地から引き揚げてきた敗残兵の中には、大陸に妻子を残してきたものもいた。国民政府は彼らに、台灣での結婚を禁止した。そんなことをしたら台湾に根付いてしまう。いずれ反攻大陸するのだから、それを忘れてはいけない!大陸を奪回したら、軍人たちにはこれこれの土地を与えると言って、結果的に空手形になる証書まで発行している。 しかし、時間が経つうちに、反攻大陸は現実味を失っていった。 アメリカアメリカアメリカアメリカ合衆国合衆国合衆国合衆国とととと、、、、遷都遷都遷都遷都したしたしたした国民政府国民政府国民政府国民政府 1949年に中華人民共和国が成立するが、当初、アメリカ合衆国はこれを承認せず、これを孤立させ、封じ込める戦略をとった。1945年9月2日、アメリカ合衆国極東軍総司令部(GHQ)は、 (イ)支那(満洲ヲ除ク)台湾及北緯十六度以北ノ仏領印度支那二在ル日本国ノ先任指揮官並ニ一切ノ陸上、海上、航空及補助部隊ハ蒋介石総帥ニ降伏スヘシ という命令(GHQ一般命令第一号a)を出している。先に触れた陳儀は、カイロ宣言とこの命令を根拠に10月25日、台北で最後の総

Page 6: Taiwan Tour 2011

督、安藤利吉から台灣の施政権を引き取った。(左は、安藤【右】から降伏文書を受け取る陳議【左】) 1949年の12月に国共戦争に敗退した国民党敗残兵を、台灣海峡を越えて台灣まで輸送したのはアメリカ合衆国から援助としてもらい受けた舟艇だけでなく、そこには米海軍現役の舟艇までも含まれていた。 この時点までは同じ連合国で戦った中華民国、蒋介石をこれまでと同じように支援し続けているように見える。が、そこには微妙な変化が生まれていた。アメリカ合衆国の中で蒋介石に対する意見が割れてきていた。 蒋介石は「中国は自分のものだ」という妄想にとりつかれた独裁者であり、これ以上アメリカ合衆国が彼を支援し続けることは国益に沿わない。中共の孤立化、封じ込め作戦が功を奏したら、むしろ中共政府と何らかの妥協点を見つけて仲間に引き入れる道を模索すべきだ。そのために中共が蒋介石を差し出せというのなら差し出すべきだ。… そういう意見も出てきた。1949年8月5日、米国務省は『中国白書』の中で、国民党政権の腐敗と無能を指摘している。しかし、朝鮮半島の緊張が高まるにつれてこうした声は徐々に小さくなった。 1953年1月、アメリカ合衆国議会は台灣防衛を決議し、2月にはアメリカ合衆国海軍第七艦隊が台灣海峡封鎖という挙に出た。中共に対して、もし台灣を攻撃するなら、アメリカ合衆国が相手だと思え!という警告を発したわけだ。1953年6月、朝鮮戦争が始まり、中共の人民解放軍がこれに参戦(左の写真)してきたとき、蒋介石切捨て論は潮が引くように後退していったかに見えるが、アメリカ合衆国の内部には燻り続けた。 台灣台灣台灣台灣のののの事情事情事情事情 今までは、1911年に南京で誕生した中華民国が共産党や日本と戦って、日本には勝ったものの共産党には敗れて、台灣を接収、1949年にはその台灣に大挙して押し寄せた… と、まあ、こういう話をしてきた。でも、その間ずっと、台灣にも台灣の人々が住んでいて、台灣には台灣の事情というものがあった。 1895年、日清戦争に勝利した日本は、清朝に台湾を割譲させ、植民地を作る。左の絵は台灣割譲を決定した下関条約(中文では馬関条約)。台北は無血開城したが、抗日運動は何度も起きた。 台灣島は、清朝時代には「化外(けがい)の地」と言われたくらい、中華帝国から見れば辺境のそのまた辺境の地だった。 17世紀にオランダ東インド会社が(今の台南に)ゼーランジャ城を設け、ここを拠点に東アジア交易を行おうとしたことがあるが、中国本土での戦乱の結果、(国民党と同じように)一時的に台灣島に逃げてきた鄭成功の軍によって追い出されてしまった。それが1660年くらいの話。鄭成功軍がいることによって、それまで恐れられていた台灣原

5

Page 7: Taiwan Tour 2011

住民たちからも守ってもらえるということで、福建省などから移民が台灣島に来るようになった。 以来、台灣は、原住民、福建からの移民(閔南あるいは福老人)、客家人などによって人口が増えていった。もっとも、原住民は移民たちによって土地を奪われ、平地に住んでいた原住民は移民に同化、山地だけが彼らの居住区として残されたのだが。 日本が台灣を植民地にした理由は①南進基地として地の利があったこと、そして②資源が豊富だったこと、だとされる。南進(あるいは南進北鎖)というのは、字義通り、南へ勢力を拡大していくことで、これは②の資源問題と密接に絡んでいた。南には日本に不足している資源が豊富にある。例の「富国強兵」には欠かせない資源と領土の拡大を南に求めたのだ。台灣の主に資源は、当時戦争に欠かせない火薬、それも無煙火薬の原料であった樟脳。そして米、砂糖などの食料、石炭、木材など。 日本の50年の支配は、山地の原住民にいたるまで日本語で教育を受け、日常生活で閔南語(台灣語とも言う)を使う人達でも書き言葉は日本語しか分からないという人たちを作り出した。(右の写真は霧社の原住民Sediqの女性が当時の日本警察の前で日の丸を掲揚しようとしているところ、1930年代後半と思われる) 日本統治下の台灣は基本的には閉ざされていて、1911年の中華民国の成立なども(一部の知識人を除いては)一般民衆の知るところとならなかった。1900年初頭から上海を中心に展開されていった民主化思想、社会主義運動などの情報は、日本の総督府によって遮断されていた。 台湾台湾台湾台湾のののの社会運動社会運動社会運動社会運動 第一次世界大戦が終わり、ロシア革命(1917)、アメリカ合衆国大統領ウィルソンの「十四か条の平和原則」(1918年、アメリカ合衆国議会での演説、『民族自決』を謳ったことで有名)、中国の五・四運動/朝鮮での三・一運動(1919)などが、連続して起きた。 そんな中、1921年、台湾人の社会教育を行うという(総督府向けの)趣旨で『台湾文化協会』が設立された。林献堂(下)、蒋渭水、連温卿といった当時の台湾人エリートが設立メンバーだった。台湾文化協会は、精力的に民衆の教育活動を行い、後には1920年代から簡吉(下写真)の指導の下に組織化されてきた農民解放運動ともつながっていった(簡吉は後に総督府に逮捕され11年間投獄された)。台湾文化協会自体は社会主義運動という体裁はとっていないが、日本支配の下でエリートだけが制限された知識を享受していた時代に、民衆教育、農民教育に力を注ぎ、ある意味で“台湾人意識”を培養していく力となった。台湾文化協会は同じ6

Page 8: Taiwan Tour 2011

1921年に始まった台湾議会設置運動の母体でもあった。 この台湾文化協会には、後に台湾共産党結成に参加する謝雪紅(左写真)も加わった。謝雪紅は1919年に自分の目で大陸の五・四運動を見て、台湾に戻った人物だ。1928年、謝雪紅は林木順らと上海で「台湾共産党」を結党した。「台湾共産党」は、当時のコミンテルン(ソビエトが主導する共産党の国際組織)の“一国一党主義”の下では「日本共産党台湾支部」とされた。台湾共産党は日本の弾圧に3年間耐えたが1931年6月に主要幹部が逮捕され活動停止に追い込まれている。 台灣台灣台灣台灣にとってのにとってのにとってのにとっての光復光復光復光復 朝鮮でも光復に際して「自分達の手で国を作ろう」という運動があった。台湾でも同じことがあった。 50年間の日本統治があった。抗日運動はことごとく潰されてきた。1920年代に盛り上がった台湾人による民族自決、台湾人自治の思潮は、日本が去った後には「自分達の手で国を作ることができる」という期待につながっていた。 南コリアでそうした期待を潰したのはアメリカ合衆国軍という外国の軍隊による占領だった。台灣では中華民国による接収と、国民党軍という(外国の、と言い切れないところに問題の複雑性があるのかもしれないが)軍隊による占領だった。自分たちの知らないところで台灣が中華民国に売り渡されてしまった、そう感じた人も当時の知識人には少なくなかったかもしれない。祖国に復帰だ!と単純に喜んだ人も、もちろん少なくなかっただろうが。光復は期待と不安が混じる中、進められていった。 1945年10月、謝雪紅は台中で人民協会及び農民協を設立した。しかしこれらの組織は国民党の台灣統治行政官だった陳儀によって即時に解散させられた。 台灣独立運動家で当時日本にいた廖文毅は、台湾の光復に「台灣独立」の好機を見て台灣にもどり、国民政府機関で働き始めたが、日本統治下で台湾人が受けていた種々の差別的な待遇が中華民国統治下でも変わらないことや、中華民国の台湾統治機関の腐敗ぶりにすっかり幻滅したという。 今でも語り継がれている光景というか、お話がある。基隆の港で最初の国民党軍を迎えた台湾人たちの前に、船から降りてきたのは一国の正規軍とはとても思えないぼろぼろの服を着て鍋釜を腰にぶら下げた乞食の集団だった、という話だ。まだある。国民党が支配してから始まった学校では、台湾人の教師が首にされ、代わりに大陸から連れてきた教師と称する人たちが教え始めたが、彼らは九九(掛け算)さえろくに出来なかった… 役人たちの腐敗振りはものすごく、何でも賄賂によってしか動かなかった… そういったお話で“台灣人”のおじいさん・おばあさんは盛り上がるのだ。 光復までの台灣は「台灣円」を通貨としていたが、国民政府は台灣接収後に、1台灣円を1台灣元とし、大陸の通貨だった法幣との交換レートを固定した。これは第一に大陸からの移入品の値段を押し上げた。第二に大陸のインフレを台灣に波及させる効果をもった。1年もしないうちに台灣経済は極度の悪化を見せた。そこに、大量の留学生、軍人、軍属の(日本や日本の前線から)帰還があった。さらに事態を悪化させたのは、台灣の米が(国共戦争を戦う国民党のために)大陸に移出され、台灣が食料難に陥ったことだった。悪条件が重なって、30万人とも言われる失業者が路頭に迷う事態になった。 1946年3月、台湾人知識人たちは「人民自由防衛委員会」を組織し、これはたちまち台湾各地に波及したそうだ。林茂生は当時『民報』の社説で「もはや台湾の法と秩序の維持は、完全に警察に任せられない状況にあり、光復して間もない今日、人民は自衛措置をとらざるを得ない」と論じた。こうした台湾人側の認識と、「台湾人民は長期にわたり日本の統治下におかれたため、政治意識が退化しており自治能力を欠く」(1947年1月陳儀発言)として1946年12月に制定された中華民国憲法の台灣への適用を先延ばしにすることを発表した陳儀の認識との間には、大きな隔たりがあった。二二八事件は、こうした状況下で起きた。 二二二二・・・・二八事件二八事件二八事件二八事件 1947年2月27日、台北で事件が起きる。国民党が台灣を接収してから煙草・酒・塩などの専売権は総督府から国民党に移った。これらの販売には国民政府の許可が必要だった。人々は当7

Page 9: Taiwan Tour 2011

然、闇市場を作った。そんな“闇煙草”売りの女性に対して、国民政府の官憲が暴力を振るい、周りの群集が止めに入ったところで官憲の持つ銃が暴発(故意に発射という説もある)、群集に死者が出た。これが群集の暴徒化を生み、群衆が官憲を追いかけて膨れ上がっていった。翌 28 日、抗議のデモ隊が市庁舎へ押しかけたところ、国民政府の憲兵隊は市庁舎の屋上に機関銃を据えて、非武装のデモ隊へ向けて無差別に掃射を行った。事件は収拾がつかなくなっていく。台灣人デモ隊は台北のラジオ局を占拠し、軍艦マーチ(日本の軍歌だ)にのせて日本語で『台湾人よ、立ち上がれ!』と全国に放送した。(と、まあ、こんな感じに「語られ」る。) 国民政府、陳儀は大陸の蒋介石に援軍を要請、蒋介石は3月に入って第 21 師団と憲兵隊を大陸から援軍として派遣し、鎮圧にあたった。日本時代に高等教育を受けた台湾人エリートは狙い撃ちにされ、暴動に関わったかどうかの証拠もなく逮捕・拷問、そして処刑されていった。台湾人側も、日本語や台湾語(閔南語)で話しかけても答えられないものは敵とみなして暴行、殺害するなど、双方に多くの死傷者を出した。ちなみに台湾人を「本省人」(中華民国台湾省出身の人間)と呼び、大陸から新たにやってきた人を「外省人」(台灣省以外の省の出身者)と呼ぶ呼び方があるが、それを使うなら、本省人と外省人が殺し合い、その後長い間続くことになる省籍対立を作り出したわけだ。本省人犠牲者は約3万人と言われるが、外省人犠牲者数は分かっていない。先に触れた『民報』の林茂生などは逮捕された後に即刻処刑され、遺体は麻袋に詰められて、淡水河に捨てられたという。本省人は家族や親戚がいるから誰がいなくなったか、誰が殺されたか、分かりやすい。外省人は大陸から単身で来ているものが多く、いなくなっても分からなかったのではないかと思われる。 南投縣埔里は、謝雪紅の率いた二七部隊を中心とした国民政府に抵抗する勢力が最後の戦いに敗れた場所だ。謝雪紅は台中にあった旧日本軍の倉庫から盗み出した航空服と白いマフラーを纏い、颯爽と同じ服装の若者たちを率いていたそうだ(霧社の葉綉清さん談)。事件後、謝雪紅は花蓮港から上海に脱出している。 二二八事件二二八事件二二八事件二二八事件のののの意味意味意味意味 陳儀は蒋介石に対して援軍を要請する電報で『政治的な野望を持つ台湾人が大台湾主義を唱え、台湾人による台湾自治を訴えている』と書き『組織的反乱だ』と訴えている。本省人側の話は、上で見たように、ちょっと違う。事件の原因は(廖文毅が言うように)日本統治下で台湾人が受けていた種々の差別的な待遇が中華民国統治下でも変わらず、国民政府の腐敗ぶりに本省人の怒りが爆発したということだったのかもしれない。 しかし、そう説明してしまうと、台湾人は国民政府に対して、日本統治に対して感じた怒りをぶつけた、という風に聞こえる。日本の統治も、国民党の統治も、同じように反発すべきものだった、という風に聞こえる。もしそうであれば、「台湾人よ、立ち上がれ」というラジオ放送を日本語でしかできなかったことは、植民地支配が作り出した皮肉というか、捩れ(ねじれ)だ。支配者の言葉でしか支配に抵抗することができない、と。こうした言い方はちょっと8

Page 10: Taiwan Tour 2011

単純すぎる。 国民党は大陸で日中戦争を戦って、その戦争には(連合国の一員として)勝利した。自分たちは中国を解放した、という自負がある。ついでに、台灣も解放した、と自負している。しかし、国共内乱はまだ続いている。これに勝利しなければ、大陸は今度は共産党という(国民党にとってはソビエトに洗脳された外来の)怪物に支配されることになる。台灣がこの戦いに持っている戦略的な意味は小さい。小さいけれど、最後に逃げ込む場所としては確保しておきたい。ところが、台灣の連中は、大義の戦争を戦っている国民党に対して反旗を翻した。彼らは一体何を考えているのか。答えは一つだ。彼らは共産党に洗脳されつつあるのだ。共産党のスパイが台灣にもぐりこんで人々を扇動しているのだ… 国民党にとって二二八事件は国共内乱=共産党との戦争の一環だった。 台湾人にとっては、そんな国民党の気持ちを押し付けられても、そもそも応えられるわけがない。中華民国が「自分たちの国」だということさえ、理屈では分かるかもしれないが、実感はないのだ。同胞と称する外省人たちが支配者としてやってきたけれど、彼らの言っていることは(中国語だ言うけれど)分からない、言葉がそもそも通じない。彼らの態度は、台湾人を馬鹿にしている。日本の方がまだ「まし」だった。『犬が去って豚が来た!』と。 アメリカアメリカアメリカアメリカ合衆国合衆国合衆国合衆国にとってにとってにとってにとって、、、、事件事件事件事件はどういうはどういうはどういうはどういう意味意味意味意味をもったのだろうかをもったのだろうかをもったのだろうかをもったのだろうか。アメリカ合衆国軍は、当時東京のGHQを拠点に、朝鮮情勢の悪化を見守っていた。南コリアにも北コリアのスパイ網が張り巡らされ、洗脳された人々が人民委員会などというものを組織して共産化を狙っている。そんなとき、蒋介石が押さえたはずの台灣で民衆蜂起が起きた。蒋介石の説明ではそれも共産主義勢力が引き起こしたものらしい。翌年には南コリアでも四・三事件が起きるが、それをアメリカ合衆国軍政庁はメディアに流さず、いわばもみ消している。共産主義は怪物だというイメージを維持しようとするとき、そう言っている自分たちが住民虐殺や言論の弾圧を行っているようなイメージが公になってはいかにもまずい。二二八事件は、そのアメリカ合衆国の盟友である蒋介石が直接関わって弾圧を行った事件として世界に報道されてしまう。中共に対して台灣を守ることは必要だが、蒋介石を支持し続けることは得策ではない。 前(9ページ)でも触れたが、アメリカ合衆国の内部には反蒋介石の言説が出てくる。前述のように1949年8月5日、米国務省は『中国白書』の中で、国民党政権の腐敗と無能を指摘した。1950年8月25日、アメリカの国連代表グロス(Earnest A. Gross)は国連で、蒋介石国民政府について「旧連合国の台湾占領軍であるに過ぎない」と発言、つまり蒋介石国民政府が台灣の正統な統治権を持つという主張に不快感を表している。アメリカ合衆国にとって、蒋介石は一種のジレンマとなる。(南コリアの一連の“独裁者”がアメリカ合衆国にとってどんどんジレンマとなっていった事情を思い出してください。あるいはアメリカ合衆国が肩入れした後、自ら排除せざるを得なくなった、サダム・フセインその他の“独裁者”を思い出してください。) 社会運動社会運動社会運動社会運動とととと二二八事件二二八事件二二八事件二二八事件 1920年代から盛り上がってきた民主化運動は、当時、社会主義と密接な関係があった。共産主義的な色が濃かったといってもいいが、それは今では誤解を生む可能性が高いかもしれない。当時の社会運動家一般には、共産主義に対して「独裁」とか「全体主義」とか怪物的なイメージはない。 戦争が終結し、植民地が“解放”され、人々が自分たちの手で自分達の社会を作ろうとしたとき、それは「共産主義者の陰謀」として弾圧された。でも、台湾の社会運動が(そして南コリアの社会運動もまた)共産主義化、つまりソビエトの傘下に入ることにつながったかどうか、はっきりと断言することなど誰にもできない。アメリカ合衆国の公式見解としては、しかし、断言するだろう。私たちは東アジアの共産化を防いだのだ、と。台灣の社会運動は当時まだ未成熟だった、もし国民党が統治していなかったら共産勢力に飲み込まれていただろう、と。南コリアも同じだ。日本も同じだ。これらの地域の社会運動を成熟へと導いた功績は、主にアメリカ合衆国にあるのだ、と。 光復直後光復直後光復直後光復直後ののののアメリカアメリカアメリカアメリカ合衆国援助合衆国援助合衆国援助合衆国援助 まず人々の記憶に残るのはララ物資だった。ララ(LARA; Licensed Agencies for Relief in Asia:アジア救援公認団体)はアメリカ合衆国のキリスト教団体が戦争で荒廃したアジア復興支援のために、さまざまな物資をアジアにばら撒いた。日本にも来ている。台灣にも来ている(右写真

9

Page 11: Taiwan Tour 2011

はララの小麦粉)。 貧困は共産主義の温床 ― これはアメリカ合衆国の冷戦戦略の標語的なものだった。二二八事件では、なぜ共産主義につけこまれてしまったのか。それは長期に渡る日本支配の下で台灣の人民、特に農民が貧困状態に置かれ、不満が高まっていたためだ。それを解決するためには、まず封建的な土地所有制度を改革する必要がある。つまり、農地改革だ。 アメリカ合衆国は占領下にあった日本でも1947年に農地改革を実行している。1949年からは南コリアで同じ趣旨の農地改革を実施。台灣では1948年、アメリカ合衆国援助で作られた「中国農村復興連合委員会」を実行母体とし、前年の日本の農地改革にも携わった米国務省のウォルフ・レジンスキーを顧問として農地改革(三七五減租)が実施された。実体は、小作料の大幅な引き下げであり、国民党がすでに大陸で行った改革をほぼそのまま台灣にもってきただけのものだった。アメリカ合衆国も国民党も「我々は台灣人民の福利のために頑張っています」という宣伝の要素の方が強かったかもしれない。それでも本来であれば台灣内に(主に地主からの)反発があってもおかしくない改革だったが、二二八事件で戒厳令がしかれ、軍による武力支配の下、何の抵抗もなく改革は実施された。 軍事独裁体制軍事独裁体制軍事独裁体制軍事独裁体制のののの確立確立確立確立 1948年5月10日、国民政府は「動員散乱時期臨時条款」を中華民国憲法修正条項として追加した。この条項は、本来は臨時措置である戒厳令をその後38年間続行する憲法上の根拠を与え、言論統制権、反政府運動家の任意逮捕権など、独裁政権維持に必要な法的根拠を与えた。(2001年の911直後にアメリカ合衆国で作られた「愛国者法」も、これと似たようなものなのだが、さしたる抵抗もなくアメリカ合衆国社会に受け入れられた。これは余談ですね。) 10日後の5月20日には、蒋介石が中華民国の第一期総統(第一代大統領)に就任した(右写真)が、国共内戦の只中であり、同じ側に立って戦っている軍閥からも総統選びの手続きがフェアでないと反発が強まったため一年後に辞任。しかし、台灣に撤退した後の1950年、再度総統に就任し、それから死ぬまで(1975年)25年間、5期に渡って総統の座に留まった。台灣ではこの時期を(今だから言えることだけど)白色テロの時代と呼ぶ。 1948年9月1日、廖文毅は国連に対して台灣の信託統治を求める請願を行った。台湾を国連の信託統治下におき、台湾の帰属または独立を台湾人の投票で決めるよう訴えたのだ。国際世論にはこれを認める動きもあったが、アメリカ合衆国としてはこれを認めることは台灣の不安定化を招き、防共ラインをゆるがせることになる。そのアメリカ合衆国が牛耳る国連がこれを認めることはなかった。 こうして1949年5月20日、戒厳令が敷かれ、独裁体制が出来上がり、白色テロの時代が始まった。 アメリカアメリカアメリカアメリカ合衆国合衆国合衆国合衆国のののの台灣援助台灣援助台灣援助台灣援助((((美援美援美援美援)))) この時期、日本のGHQは「逆コース」に入っていた。本格的な冷戦体制へ向けて東アジアを再編成する仕事にアメリカ合衆国はとりかかった。 急いで台灣での事態の展開だけ記すと、こうなる。 10

Page 12: Taiwan Tour 2011

朝鮮戦争勃発直後の1950年6月27日、アメリカ合衆国は「台湾海峡の中立化(台灣中立化)」を宣言して第七艦隊を台湾海峡に派遣した。翌1951年1月、台湾への軍事援助を開始し、2月には米国と共同防衛相互援助協定を調印。5月にはチェイス少将(William Chase)を団長とする約5百名のアメリカ軍事顧問団が台灣に来て常駐。1954年12月には米華共同防衛条約を締結。アメリカ合衆国は台灣防衛にのめりこんでいった。左の写真は台北、楊明山に置かれた『美國軍事援助顧問團(Military Assistance Advisory Group - MAAG)』のMAAG Taiwan。 アメリカ合衆国内部に蒋介石に対する懐疑派がいたことは前にも触れた。台灣防衛は必要だが蒋介石は要らない、簡単に言えばそういう議論だ。朝鮮戦争と、それへの中共軍の参戦はこうした懐疑派の力を減少させ、反共十字軍における蒋介石のそれまでの功績を賛美する世論が大勢を占めるようになった。その背景にはチャイナ・ロビーChina Lobbyと呼ばれる活動があったとも指摘される。「チャイナ・ロビー」とは国民政府からの金を使ってアメリカ合衆国議会に対して「蒋介石を徹底的に支持せよ」という活動を行ったロビー活動のことだ。その資金源の詳細は明らかではないが、蒋介石が大陸から持ち込んだ(盗んだ、という人もいるが)資金、貴金属、美術品などの売却費用や、1945年以降もゴールデン・トライアングル(中国南国境からラオス、カンボジア、ビルマの北方に広がる麻薬地帯)を拠点に活動していた国民党軍が麻薬売買で得た利益がチャイナ・ロビーに廻ったという説もある。 1950年11月のアメリカ合衆国議会中間選挙において、蒋介石支持派の(赤狩りで有名な)ジョセフ・マッカーシー(右写真)やロバート・タフト、リチャード・ニクソン、ホーマー・ケープハートらが上院で勢力を伸ばした。タフトは、アメリカ合衆国は蒋介石の反攻大陸を許可すべきだと主張。ケープハートに至っては、アメリカ合衆国は中共に宣戦布告すべきだとまで主張した。こうした反共勢力の台頭が、先に述べたアメリカ合衆国の台湾への軍事支援再開へとつながった。 アメリカ合衆国が1945年から1960年までに台灣に与えた経済援助(美援)は、1950年までは主に非軍事の経済援助だったが、朝鮮戦争後は、防衛支持援助、つまり軍事費に変わっている。1950-51年には9千万ドル、51-53年に約3億ドルが供与されている。その後、ベトナム戦争前の1960年ころまでにアメリカ合衆国が拠出した経済援助は約11億ドルののぼり、全部合わせて約15億ドルが蒋介石に流れ込んだわけだ。台灣はこの大部分を軍事費に使ったが、関連した石油化学産業、また原子力開発にも“おこぼれ”が回され、“奇跡の台灣経済復興”を下支えした。 台灣独立派台灣独立派台灣独立派台灣独立派 こうしてアメリカ合衆国の関心が台灣社会から蒋介石=国民党へと移り、台湾人社会は(国連に対する信託統治請願が切り捨てられたように)見捨てられていった。 二・二八事件を切り抜けた廖文毅は、香港へと渡り、謝雪紅と「台湾再解放連盟」を設立した。そして、1950年には更に日本へと渡り、台湾独立党を設立した。廖文毅は台湾の前途を決める公民投票を実施することを求め、1955年に台湾共和国臨時政府を樹立して自らその大統領

11

Page 13: Taiwan Tour 2011

を務め、政府機関紙「台湾民報」を創刊して台湾独立を訴えていった。1960年、日本で「台灣青年」が発刊され、いわゆる台灣独立派(台独派)の機関紙的な存在となった。台独派は1960年4月、赤坂プリンスホテルで記者会見を開き、日本のマス・メディアに「台灣独立」という文字が初めて躍った。 台独派台独派台独派台独派とととと日本日本日本日本のののの右右右右・・・・左翼左翼左翼左翼 白色テロ全盛の時代、台独派は台灣には住めなかった。多くが日本に逃げた。悪名高い“国民党のブラックリスト”に名前が載った人達はもちろん、その家族まで国民政府の厳しい監視の下に置かれていた。 1965年、廖文毅が台灣独立運動を放棄し「台湾に帰順」、というニュースが伝えられた。その背景には国民党の特務機関と当時の日本政府の働きがあったことは明らかだが、詳細は明らかになっていない。 1965年時点では、日本政府の中にはまだ戦後の親台派が力を持っていた。親台派とは、反共の立場から、蒋介石と中華民国政権に対して好意的だった人達―たとえば賀屋興宣、岸信介、佐藤栄作、石井光次郎ら自民党保守派の政治家や旧日本軍人を指す。旧日本陸軍軍人の中には、日中戦争を通じて日本軍の実力を高く評価していた蒋介石の招聘により台湾軍の軍事顧問となった者もいる(白団)。 中華人民共和国が成立(1949年)して、占領下の日本には、今後、大陸と台湾のいずれの政府と講和条約を締結するかという問題が生じた。1950年の朝鮮戦争の勃発により、中国とアメリカ合衆国の関係が決定的に悪化したためもあり、日本は1952年に台湾を選択し日華平和条約を締結する。このとき、蒋介石は『日本は戦火で荒廃して金もないのだから中国(中華民国)は戦争被害への賠償請求権を放棄する』というようなことを言ったそうだ。これに恩義を感じただけでなく、日本では終戦時の蒋介石政府による寛大な処置(日本軍のスムーズな引き揚げを保証したこと)に恩義を感じている人々が大陸からの引き上げ者や元軍人にたくさんいた。彼らの代表が保守派の政治家の中で親台湾派=親蒋介石派を形成していたのだ。(右の写真は日本の千葉県にある蒋介石の記念碑) 台独派が、なぜそのような状態の日本で活動できたのか。GHQが逆コースに入って反共路線がむき出しになっていく中で、日本の知識人の中に新たに形成された戦争反対派は1949年の中華人民共和国の成立をもろ手を挙げて歓迎した。日本は間違った戦争をして中国を侵略した、その中国が今、自力でアメリカ合衆国帝国主義と戦って独立を果たした―そう考えて、その“米帝(アメリカ合衆国帝国主義)”によって守られた反共・親米の独裁者である蒋介石国民党に対して批判的な人達もいたのだ。これを仮に「左翼」と呼ぶとすると、前段で説明した親台派(親蒋介石派)が「右翼」ということになる。留学生を受け入れる大学において左翼が力を持ち、受け入れ行政機関である外務省や入国管理局において右翼が力を持ち、それらの思惑が絡み合う間隙を縫って、台独派留学生たちは日本の大学にかろうじて籍を置いていた。 台独派が日本で「旗揚げ」したことに対して、日本の行政当局内部にはこれを牽制して蒋介石国民政府をなだめる必要があった。廖文毅の台灣帰順騒動の背景には、さまざまな綱引き、駆け引き、裏取引―陰謀めいたことがあったのではないか。 台灣独立派の戦中からの中心人物である廖文毅が台灣帰順した後を引き継いだのが、先にも触れたが、「台灣青年」を立ち上げた許世楷や黄昭堂、金美齢および夫の周英明などの次世代だった。廖文毅帰順事件以後、日本において右翼の台独派いじめは激しくなる。1964年6月、許世楷、黄昭堂ら7人が、台灣青年社に潜入した国民党のスパイを査問した件で、警視庁に逮捕さ12

Page 14: Taiwan Tour 2011

れた。有罪判決を受けたものの、しかし強制送還にはならなかった。日本警察は蒋介石の顔色を見て逮捕・拘留はしたものの、彼らを蒋介石に引き渡してしまったら左翼の猛反発を招く。蒋介石の側も、この時期の日本でことを荒立てることを不利と見た。1967年には林啓旭と張榮魁の強制送還未遂事件が発生するが、このときも送還は行われなかった。ところが翌1968年3月、柳文卿が逮捕され翌日に送還されるという事件がおき、案の定、左翼を中心にメディアから批判が出た。不当強制送還として台灣青年側は訴訟を起こし、裁判の中で入管局長が蒋介石と密約を交わしていたことが明らかにされた。台独派の強制送還は柳文卿事件を最後に、その後は行われなくなった。 日本日本日本日本のののの左翼左翼左翼左翼にとってのにとってのにとってのにとっての「「「「台灣人台灣人台灣人台灣人・・・・台灣社会台灣社会台灣社会台灣社会」」」」 ここまで、日本の左翼は台独派を支援したという印象を持つかもしれないが、正確に言えば、そうではなかった。彼らは、反蒋介石、反米という点では台独派を歓迎するものだったが、台灣独立という台独派の主張の根幹には共鳴していない。なぜなら、(これも前に言ったけれど)中華人民共和国が正当な中国だ、と考えていたからだ。台独派が蒋介石政権に反対して、中共と一体化した台灣を作り出すことこそ正しい、単純に言えばそうなるだろう。だから台湾人が“台灣独立”という方向に進むことは、アメリカ合衆国帝国主義に踊らされている、と見たのだろう。台独派の主張の中には、台灣も韓国と同じようにアメリカ合衆国の支援の下に独立できるはずだ、という主張が確かにあった。左翼にとって台独を信奉する台湾人は、自分達の祖国(大陸)で人々がいかに社会主義を勝ち取ったかという歴史も知らず、独裁者に騙され、アメリカ合衆国に洗脳されている“哀れな人々”に見えたのかもしれない。左翼にとって台灣は中国の延長でしかなく、台灣が独自に辿ってきた歴史にも、その社会にも関心は薄かった。 1972年に日本が中国と講和し(日中共同声明)、日本政府は中華人民共和国を正統な中国と看做して台灣を「地域」と決めつけ、国扱いを停止した。これによって台独派は、それまでわずかながらもあった日本での後ろ盾を本格的に失うことになった。台湾独立運動は徐々にその拠点をアメリカ合衆国へと移していくことになる。日本で台独派が再び顕在化するのは1990年代に入ってのことだが、そのことはまた別の場所で考えよう。 ベトナムベトナムベトナムベトナム戦争戦争戦争戦争とととと台灣台灣台灣台灣 アメリカ合衆国にとってのベトナム戦争がいつ始まったかについてはいろいろ解釈があるけれど、1962年にケネディ大統領が「南ベトナム軍事援助司令部(MACV)」を設置したあたりから考えることにしよう。急ぎ足でその展開を見ると、1965年、アメリカ合衆国軍による北ベトナム爆撃(いわゆる「北爆」)が開始され、戦局は徐々にアメリカ合衆国にとって悪化し、1973年のパリ協定によってアメリカ合衆国軍はベトナムから撤退、1975年4月30日、北ベトナム軍が(アメリカ合衆国とフランスが作った傀儡政権であった)サイゴン陥落、南ベトナムが消滅してアメリカ合衆国の負けとなる。 ベトナム戦争は、朝鮮戦争の焼き直し、つまり、アメリカ合衆国とソビエト・中共の代理戦争だった。ケネディは、韓国と台湾のそれぞれの参戦がもたらす利害得失を比較した結果、台湾の軍事的介入が中共との軍事的緊張を激化させ、ベトナム戦争を必要以上にエスカレートさせることを危惧して、台湾ではなく韓国に対して戦闘部隊の派兵を要請した。戦争は台灣にも対米輸出面(兵站業務)で大きな利益をもたらしたと言われる。日本もまた同じだ。 アメリカ合衆国はベトナム戦争中、アジア各地に兵士の休養のためと称して、指定保養地を設けている。R&R(rest and recuperation)と言われた。左の写真は、台灣政府が「台北に遊びにきてください、こんな楽しい経験が待っていますよ」という宣伝用に作ったパンフレットに使われた写真の一枚だ。60年代終わりから70年代初期にかけて、台北の町には米兵相手の歓楽街があった(中山北路)。

13

Page 15: Taiwan Tour 2011

ベトナムベトナムベトナムベトナム戦争戦争戦争戦争ととととアメリカアメリカアメリカアメリカ合衆国合衆国合衆国合衆国のののの台灣政策台灣政策台灣政策台灣政策のののの転換転換転換転換 ベトナム戦争の泥沼化と、実質的な敗戦は、アメリカ合衆国の中に「今までの反共十字軍」政策への大きな反発をもたらした。 1971年7月にアメリカ合衆国は、「中国封じ込め政策」を転換して、「中華人民共和国を安保理常任理事国として国連に加盟させ、中華民國は一 般の加盟国として国連に残す」方針を発表した。キッシンジャー大統領特別補佐官が中共を公式訪問し、周恩来首相と会談(右写真)。ベトナム戦争からきれいに身を引くためには中共と何らかの 妥協を計る必要があったのだ。しかし、どうもここで蒋介石の面子とアメリカ合衆国の思惑との間にすれ違いが生じたようだ。結果は10月の国連総会で中共の常任理事国入りと同時に蒋介石の国連追放(国連総会決議2758号)という最悪のシナリオとなって現れた。翌、1972年2月、ニクソン大統領が中共を公式訪問し、中華人民共和国を正式承認。これに足並みを合わせて日本の田中角栄首相(左写真)が9月に中共を公式訪問して、日中国交正常化(実質上の講和)を行った。日本の外相は「1952年の日華条約はその意義を失い、終了した」と発表し、これに対して国民政府は「対日断交」を宣言したのだ。 アメリカ合衆国と台灣とが(正式に)断交するのは1979年1月の米中国交正常化にともなってのことだった。先に触れたようにアメリカ合衆国のもともとの方針は、国連一般議席に国民政府を残して常任理事国として新たに中共を入れる、というものだった。それが思わぬ展開で国民政府の追放となってしまったが、アメリカ合衆国としてはこのまま台灣が中共に飲み込まれていくのを指をくわえて見ているわけにもいかない。そこで台灣関係法という国内法を作って、中共との関係を維持しながらも台灣支援ができるような仕組みを作り出した。この台灣関係法に基づいて、アメリカ合衆国は台灣に対してその後も武器の供与、売却を続けることができた。 美麗島事件美麗島事件美麗島事件美麗島事件からからからから戒厳令解除戒厳令解除戒厳令解除戒厳令解除までまでまでまで 1971年12月、台湾キリスト教長老教会(以下、長老教会)は台湾住民の自決を求める「国是声明」を発表し、民主化を訴えた。長老教会は1977年8月には「人権宣言」を出し、国民政府による白色テロを糾弾している。長老教会は、戦後にアメリカ合衆国とカナダの長老教会が台灣に入ってきて山地も含めて一挙に台灣全島に勢力を広げていた。だから外国勢力だ、と言うことはできないが、北アメリカのキリスト教的ヒューマニズムの影響をまともに受けている。 1977年中壢事件、1978年12月、美麗島事件、と国民政府に反発して民主化を求める事件が起きてきた。美麗島事件は、世界人権デーにあわせて高雄で行われた民主化要求のデモ(雑誌『美麗島』主催だったので、美麗島事件と呼ばれる)が、警官隊と衝突、多くの逮捕者が出た(左写真)。1980年の南コリアのソウルの春、光州事件と同じくらいの時期に、台灣でも同じように民主化運動が当局によって弾圧されていた。しかし、これをきっかけに、民主化要求はいきおいを増していく。 中壢事件も美麗島事件も、蒋介石の死(1975年)後、14

Page 16: Taiwan Tour 2011

1978年から総統の座についていた蒋家の息子、蒋経国が総統になってから起きている。息子が後を継いだ、このままでは独裁者一家の支配が延々と続く… そんな不安もあったかもしれない。また、蒋経国という人物は両岸関係(大陸と台灣の、台灣海峡の両岸をはさんだ関係という意味で、大陸と台灣の関係を指す言葉)を取り巻く微妙なアメリカ合衆国の思惑を理解しており、反攻大陸というような妄想から自由な人物だった、そういうことも民主化運動が(弾圧されたとは言え)盛り上がっていった背景にあった。実際、蒋経国のおかげで台灣経済が復興し、民主化がもたらされたと評価する人も少なくない。(左写真は、蒋経国【左】と、父親の蒋介石【右】) 1980年代に入ると、もはや民主化は蒋経国の政治日程にも上っていた。長年声を出せなかった台灣原住民が、「原住民権利促進委員会」(原権会)を発足させたのは1984年のことだった。二年後には、長老教会が肩入れして民進党が結党する。 1985年8月、当時のアメリカ合衆国大統領ロナルド・レーガンが台灣に対して民主化勧告を行った(右写真はレーガン)。具体的には戒厳令の解除、憲法修正条項の動員散乱時期臨時条款の停止によって、軍事独裁的な政治形態をやめて、“民主化”せよ、ということだ。南コリアの場合と同じように、冷戦終了後の体制に向けて東アジアを再編成しようとするアメリカ合衆国からの分かりやすい圧力だった。ただ、台灣の場合には、蒋経国がすでにそれへの道を開いていた。後は、外省人第一世代(万年議員)の説得あるいは排除が成功裏に運べば、アメリカ合衆国が望む民主的体裁は整うというところまで来ていた。レーガンの勧告は、いかにもアメリカ合衆国が台灣の民主化に貢献したというアリバイ作り的な印象があった。 しかし戒厳令が解除されたのは蒋経国の死(1987年1月)後、1987年7月のことだった。そのときの総統は李登輝。李登輝は蒋経国の副総統だったため、総統の死後、総統職を代行。1990年の、台灣で最初の総統選挙で、第8代総統に選出された。1991年5月に動員戯乱時期終了、臨時条款は廃止され、レーガンが要求した体制が実現する。 最後最後最後最後にににに ここまで、台灣について、駆け足でアメリカ合衆国とのかかわりを見てきた。すごく単純に言ってしまうと、アメリカ合衆国がその反共十字軍としての役割を遂行するために、東アジアのそれまでの旧支配層(それは往々にして前近代的な社会体制の下で権力を培ってきた人々だけど)と手を組んで、社会改革・民主化・近代化を目指そうとした人々(それは往々にして前近代的な社会体制に不満を持った知識人たちや農民、労働者だけど)を弾圧した。東アジアが“民主化”を手にするのは、そうしたアメリカ合衆国自身の役割変化に伴って(アメリカ合衆国の意向に沿って)東アジアが再編成された結果でしかない―と言ってもいいかもしれない。

美麗島事件で逮捕者の弁護に当たった陳水扁弁護士、2000年に総統に当選した。

15

Page 17: Taiwan Tour 2011

台湾台湾台湾台湾のののの原発原発原発原発台湾台湾台湾台湾のののの原発原発原発原発台湾台湾台湾台湾のののの原発原発原発原発 古川ちかし 背景背景背景背景::::一九五四年一月、アメリカ上院は台湾防衛を決議し、翌日には大統領に台湾防衛の軍隊使用権を白紙委任した。これに基づいて二月、アメリカ第七艦隊が台湾海峡を封鎖。一九五五年四月、ソ連が、中国などに原子炉を供与する協定に調印したことは、アメリカ合衆国に大きな圧力となったことは間違いない。二ヵ月後の六月、台湾政府は行政院に「原子力委員会」(略称「原能会」)を設置、台湾電力はこれに合わせて原子力研究委員会を設け、七月にはアメリカ合衆国との間に中米原子力協力協定を結んだ。翌五六年には国立清華大学を設立して原子力科学研究所を併設。ここには小型の実験炉(GE製)が設置された(アメリカ合衆国は一九六〇年十二月にも清華大学に原子炉を供給している)。 アメリカ合衆国は一九五五年に日本との間に原子力協力協定を、一九五六年に韓国との間に同様の協定を結び、防共ラインにおける原子力開発を支援する体制を作り上げる。戦略的には平和利用を謳いながら(一九五四年国連での「原子力平和利用決議」、一九五六年のIAEAの創設)も、こうした原子力開発は軍事的脅威を狙ったものだったことは明白だった。一九五五年七月のラッセル・アインシュタイン宣言(核戦争、核武装批判)は直接的には米ソの核武装競争に向けられたものだが、間接的にはアメリカ合衆国のこのような姿勢に対して向けられた批判だった。アメリカ合衆国はソビエトとの冷戦激化の中で、防共ラインに軍事力とともに原子力開発を「配備」していった。 アメリカ合衆国が開発、提供したのは軍官共用のウラニウムを用いた軽水炉サイクルであり、このことが後の核拡散防止体制との間に大きな矛盾を引き起こすことになる。ウラン軽水炉サイクルにいわゆる機微核技術が加われば、それは核兵器開発に直線的に結びつくからだ。(日本にはその両方が保持されているが、その問題は次回に論じることにする。) その後、一九七〇年に台湾も核拡散防止条約を批准するが翌年に国連から追放され、台湾が核拡散防止条約上に占める立ち位置は不確定性を帯びた。ソビエトから核技術の提供を受けている中国への牽制策として台湾が核開発の可能性を持つことはアメリカ合衆国にとっては「ある程度」必要なことだったが、台湾が暴走することに警戒感も抱いたであろう。その後一九七九年にアメリカ合衆国が「台湾関係法」を議会通過させて何とか微妙なバランスをとることになる。 外交政策外交政策外交政策外交政策としてのとしてのとしてのとしての原子力開発原子力開発原子力開発原子力開発:一九六三年、蒋経国は「原子力発電を将来の台湾の電力供給の根幹に据える」と宣言した。同じ年にアメリカ合衆国大手原発建設会社、ベクテル社が台北に事務所を構えた。石門第一原発がGeneral Electrics(GE)社の原子炉と、Westinghouse(WH)社のタービン(発電機)を輸入して建設を開始した(一九六九年)。この第一原発が稼動したのは一九七八年のことだった。当初予算百二十七億元に対して、運転開始時点では建設費は二百九十六億元に膨れ上がっていた。 一九七三年に発表された十大建設計画にも原発開発が盛り込まれた。翌七十四年に万里郷で第二原発の建設が開始された。第二原発もGE社、WH社と第一原発同様の契約を結んで着工、一九八一年~八十二年に運転開始となったが、当初予算二百二十億元に対して、実際の建設費は六百三十億元に達した。 一九七八年には恒春郷に第三原発建設が始まった。今度はWHが原子炉を、GEがタービンをと変わったがGE、WH社への台湾政府の依存は変わっていない。原発プラント輸出全体を請け負ったのはベクテル社だ。第三原発運転開始の八十四年~八十五年までに、これも当初予算三百五十八億元に対して実行額は九百七十四億元に達している。 当時の日本と同じように台湾にも商用原発開発、原発建設に関する技術はなかった。GEの設計担当者も実際に現地を見て設計したのではなく、規格品として原子炉を設計している。日本、南コリア、台湾、フィリピンとも、そのような規格品を(当時の国際価格からしても相当割高な価格で)アメリカ合衆国から「買わされ」ていたと言われる。台湾は一九七二年の国連追放以降はアメリカ合衆国との有効関係を維持するために法外な価格を外交費として甘んじたのではないかと想像される。 原発は外債を発行してその費用を賄ったが、その台湾の外債の購入主はアメリカ合衆国輸出入銀行だった(輸出入銀行は一九八一年までに台湾に原発関連で十二億ドル貸し付けていると16

Page 18: Taiwan Tour 2011

言われる)。返済は原発運転開始後の電力料金によってなされたが、運転開始までの間の利息は台湾電力ではなく台湾政府が支払っている。GEとWH、ベクテルという当時のアメリカ合衆国原子力産業の中心企業との癒着、さらに(台湾の外貨備蓄から考えればほかにも弁済方法があるにもかかわらず)利息の高いことを承知で輸出入銀行と癒着する―こうしたことは、台湾の原子力政策がエネルギー政策であるよりも外交政策であったと考えないと納得できにくい。 国民党国民党国民党国民党とととと原発建設原発建設原発建設原発建設:一九七九年、アメリカ合衆国でスリーマイル島原発事故がおき、アメリカ合衆国内での原発増設は打ち切られた。これによってアメリカ合衆国の原発輸出政策は転換し、原発産業は国内がだめなら国外への輸出に力を入れるしかなくなった。 台湾の原発建設を請け負うことになったのはベクテル社だ。ベクテル社は第三原発建設に際して台湾の大手建設業者「中興工程社」との合弁(ベクテル社六割、中興工程社四割出資)で蒋経国の三男、蒋孝勇を代表に「泰興工程社」を創業した。台湾南部の退役軍人組織(補導委員会)は第三原発建設参入するため会社を作り台湾電力の工事事務所に参入を求めたが実績も技術も経験もない会社に工事事務所は工事参入を認めなかった。『補導委員会は軍の人脈に働きかけ、数人の大物軍人が工事事務所を訪れて台湾電力の関係者を「説得」し、工 事 を 請け負 え る よ う に な っ た。』(田中 宇、http://www.tanakanews.com/a7rupo.htm)泰興工程社を頂点として国民党と軍のコネクションによって何層もの下請け構造ができあがり上から順番に取れるだけのマージンを取っていく。そうすると最下層の現場工事を請け負う業者が利益を出すには手抜き工事しかなくなる。完成したばかりの第三原発の原子炉建屋のコンクリートが崩れた事件はこうした手抜き工事の実態を暴露したわけだが、政府の検査官も実態を知られたくないので崩れた部分だけコンクリートを上塗りして合格となったそうだ。 一九八五年七月七日、第三原発一号炉で大火災が起きた。鎮火し、修理して再運転に漕ぎつけるまで一年二ヶ月を要し、損害額は七十億元に上ったという。当初、台湾電力は「事故の原因は電気系統の故障であり、放射能に関係した部分は問題がない」と強調していたが、その後の調査の結果「発電機のタービンの設計に重大なミスがあった」と発表し直した。タービンの設計、製造はGEだがこの調査結果が出た後もGEに対する賠償請求はなされず、七十億元の損失は結局電力消費者に回されたかっこうだ。なぜ台湾政府はGEに賠償請求しなかったのか。何かの裏取引があったことも想像されるが、アメリカ合衆国原発産業への依存度が高く、彼らの機嫌を損ねることができなかったと解釈されてもしかたがない出来事だった。 核四核四核四核四:貢寮に原発建設の話が持ち上がったのは、第一原発建設工事が始まる前の一九六六年のことだったらしい。その後九年間この話は進まなかったが一九七五年に再浮上。台電と国民党が蘭嶼に「魚缶詰工場」(核廃棄物貯蔵所)を建設開始した一九八〇年五月、政府は正式に第四原発建設を申請し、一九八五年四月、立法院での予算案審査にまで漕ぎつけた。しかし一ヵ月後に、あまりにも巨額な建設費(一千八百億元)に対して立法院では建設延期(凍結)を決議する。先に触れた第三原発火災はこの二ヶ月後に起き、翌年にはチェルノブイリ原発事故が発生。一九八七年七月の戒厳令解除も手伝って、同年十一月には「台湾環境保護連盟」、第二原発周辺の「北海岸反核自救

蒋孝勇と蒋経国

17

Page 19: Taiwan Tour 2011

会」、第三原発の恒春周辺の「恒春反核団体」、第四原発予定地である貢寮の「貢寮反核自救会」結成など、反原発市民運動も活発化した。二年後の一九八八年にアメリカ合衆国CIAが中山科学院原子力研究所の副所長の張憲義博士の告発に基づいて台湾を「核拡散防止条約違反の疑い」で告発するという事件がおきるなど、これまでのアメリカ合衆国とその原発産業への前面依存体制にヒビが入っていく。反原発市民運動も激化していった。その結果、一九八八年五月、行政院原子力委員会が「反核廃棄物」声明(蘭嶼の廃棄物貯蔵庫第二期工事の即時停止/蘭嶼への核廃棄物の運搬停止)を出すに至った。 ところが、これと平行して別の動きがあった。一九八六年に、日本原子力産業協会と台湾原子力委員会との共催による「日台原子力安全セミナー」が開催され原子力分野に関しての台日協力体制への布石が打たれ、また一九九二年には行政院が核四の予算凍結を解除したのだ。このころから原発推進の国民党と、反対の民進党の綱引きが激化していく。 一九九六年五月二十四日、立法院において賛成76、反対42で「すべての原子力計画を廃棄する」決議がなされる。この直前に台電はGE社と核四建設の主契約を結び、東芝と日立が原子炉を、三菱重工がタービンを製作することになっていたので、台電と国民党政府はパニック寸前となった。七月十二日、原発は台湾にとって不可欠なものだとする行政院が立法院に対して決議の再審議を求めた。台湾の憲法によれば、行政院からの再審議要請に対して立法院構成員議員の三分の一が同意すれば、その決議は拒否権の対象となり再審議されなければならない。立法院内の反原発派は全体のおよそ半数、つまり賛成派は三分の一以上はいる計算になる。十月八日、立法院は再審議を決議し、十八日、結局廃案となった。 「日台原子力安全セミナー」を毎年開催して十一年目の一九九七年一月、日立と東芝は、両社が米GE社や東京電力とともに開発したABWR(改良型沸騰水軽水炉)の輸出に向けて、「アジアABWR推進機構」を設立し、台湾の核四だけでなくさらなる顧客を求めて体勢を組んだ。五月にはアメリカ合衆国原子力規制委員会NRC に、ABWR を標準型炉として認定させるに至った。「日の丸原発輸出」に向けて舞台は整った。一九九九年三月に核四1号機、八月に2号機が着工。 ところが思わぬ政変が台湾を襲った。2000年三月、陳水扁が総統に就任し、原発廃止派の民進党が政権をとったのだ。 核四建設中止核四建設中止核四建設中止核四建設中止からからからから再開再開再開再開へのへのへのへの政治劇政治劇政治劇政治劇 2000年三月、「核四(第四原発)計画停止、既存原発を十年以内に廃止」を掲げて民進党の陳水扁が総統選を制した。(このとき、すでに核四の1号機はちょうど一年前に、2号機も約半年前に着工している。) 民進党政権は早速五月に核四建設続行の是非を問う再評価委員会を立ち上げ、工事は一時停止状態におかれた。九月には経済部が核四建設中止を求める報告書を行政院に提出。当時の行政院委員長だった唐飛は「もうついていけない」と辞任(十月六日)し、民進党の張俊雄が行政院長に就任。張俊雄は十月二十七日、核四建設中止を発表し(「宝島を毒島に変え、子孫に害毒を及ぼすわけにはいかない」という有名な台詞を残し)GE社に対して工事凍結を通告した。ここから約三ヶ月余りに渡る政治の大混乱が始まった。 十月二十七日の行政院発表に対して立法院は即時に異議申し立てを行い、野党は団結して決定の白紙撤回を求めた。張俊雄院長は大法官会議に判断をゆだねることで一時的に国民党をなだめたが、野党は総統罷免法案を提出、政局運営をボイコットした。 十一月六日、陳水扁は混乱を招いたことを謝罪するにいたった(当時の世論は陳水扁の核四建設中止に対して批判的な向きが強く、民進党側はせっかく手にした政権を一年も経たないうちにもぎ取られようとしていた。陳水扁も必死だった。)が、核四建設中止の意志は曲げなかったため、野党によるボイコット状態が続いた。 2001年一月十五日、大法官会議が最終判断を示した。いわく「行政院の建設中止決定には手18

Page 20: Taiwan Tour 2011

続き上の不備があり、建設続行・中止の決定は行政院と立法院で再度意見調整すべし」と。一月末に立法院では予想通りの大差で建設続行を決議。二月には両院は建設続行を条件付で合意するに至った。 その条件とは①行政院は即刻建設続行を発表し、予算措置は関連法で処理すること、②エネルギー不足を生じないという前提で非核体制を最終的な目標とすること、③行政院は将来の原子力政策をまとめ(原子力エネルギー関連法案)、立法院の審議に付すこと、だった。 民進党側は「非核体制を最終目標にする」という『名』を勝ち取ると同時に何とか政権を維持した。国民党側は核四建設続行という『実』を勝ち取った。なんとも絵に描いたような「政治的」な妥協だった。混乱期間中、無期限に停止状態に置かれた核四建設工事は工程を一年半ほど遅らせて、1号機は2006年七月に、2号機は2007年七月に工事再開することになった。違約金を含めて、これは四百三十億円ほどの工費上乗せを意味した。結果的に続行であればGEも日立も東芝も損害がないばかりか漁夫の利を得たようなものかもしれない。 台湾台湾台湾台湾のののの原発推進派原発推進派原発推進派原発推進派とととと日本日本日本日本 一九八六年以来毎年続けられてきた「日台原子力安全セミナー」は、台湾側では原子能委員会、台湾電力公司、核能研究所、放射性物質管理局、中華核能学会が、日本側では原産協会【日本原子力産業協会(原産協会、JAIF)】が主催してきた。中華核能学会は一九七二年(日台断交、台湾の国連追放の年)に結成されたアカデミックな団体だが、アメリカ合衆国や日本と原子力開発協力交渉を行う際にアカデミアの隠れ蓑が必要とされたのだろう。ちなみに原産協会はすでに一九七九年に韓国の原子力産業界との間に「日韓原子力産業セミナー」を開始している。 日台原子力安全セミナーが最初に開催されたのは蒋経国政権が翌年の戒厳令解除を約束し、民進党が結党された一九八六年だ。一九八六年は、アメリカ合衆国が冷戦体制の終焉とその後の自由市場主義の導入へ向けて、冷戦初期に自らが作り出した反共・親米の独裁体制にさまざまな圧力をかけて体制転換を迫り、韓国や台湾に“民主化”を作り出した年として記憶される(台湾が戒厳令を解除し大統領選挙を開始、韓国の民主化宣言―これらは一九八七年の出来事だったが一九八六年にはすでにこれらは日程に組み込まれていた)。 なぜこの時期に台湾の原発推進派は日本とのパイプの強化を必要としたのか。考えられる一つの理由は、アメリカ合衆国が直接に(中国から非難されるあからさまな形で)原子力に関して台湾援助ができにくくなっていたこと。そしてこの年、日本では蒋介石生誕百周年を記念して「蔣介石先生の遺徳を顕彰する会」が東京で開催されるなど親台の動きが目立った。こうした親台派には岸信介を筆頭に自民党幹部が相当数入っており、彼らの動きがアメリカ合衆国の意向と大きくずれていたとは考えにくい。一方でアメリカ合衆国に追随して台湾を形式上切り捨てた自民党があり、もう一方で台湾関係法を制定して中国を牽制しようとするアメリカ合衆国の意向に沿おうとする自民党があったわけだ。後者の策謀の中には台湾の原子力開発援助が組み込まれていた。日本の原発産業にとって将来の顧客として台湾は魅力的だった。原産協会は同じ年に中南米原子力事情視察団を組織するなど、顧客開発に力を入れ始めていた。 核四に初の「日の丸原発」採用となった背景には、こうした日台のコネクション作りがあった。 最後最後最後最後にににに 貢寮(核四が建設されている町)の人々は民進党に裏切られたという感覚を拭い去れないだろう。現在、核廃棄物処理場の予定地に確定している台東の達仁の人々にしても同じだ。民進党の総統候補者、蔡英文は2025年までの脱原発を公約に掲げているが、現実には核四も達仁の処理場も、台電と現国民党政府のほぼ計画通りに進められている。三一一(東日本大震災と津波の台湾での呼称)後、台湾議会は核四建設に対して百四十億元(四億八千六百万USドル)という巨額の増額を許可した。民進党が提出していた非核法案は十一件ともに否決された。 19

Page 21: Taiwan Tour 2011

活動報告活動報告活動報告活動報告 古川ちかし 8/19 228紀念館紀念館紀念館紀念館でででで蕭先生蕭先生蕭先生蕭先生のののの話話話話をををを聞聞聞聞くくくく 蕭錦文さんは日本時代に志願兵でシンガポール、ビルマなどに従軍した台灣兵だ。シンガポールで「英国の植民地では人々がろくに教育を受けていないのを見て、日本の植民地との差を痛感した」と言う。復員し

てから228事件に遭遇。拷問を受けるも生き延びた。今、228紀念館のボランティアガイドをしている。生え抜きの「台灣本省人」であり、知日派。蕭先生は太平洋戦争はアメリカ合衆国が起こしたもので、日本に一方的な責任があるというのはおかしい、と話を始めた。 蕭さんの意見には、アメリカ合衆国と結託した国民党 対 日本と結びついた台湾人―ちょっと単純に言ってしまうと、そんな対立構図が見える気がする。彼は「戦後は一番上に白人(アメリカ合衆国人)、次に外省人、そして一番下に台灣…そんな社会でしたよ」と言う。 この話には、参加者一同、驚きというかある種のショックがあったようだ。 8/19 228紀念館紀念館紀念館紀念館とととと、、、、228国家紀念館国家紀念館国家紀念館国家紀念館をををを見見見見るるるる この二つを見比べると、台北市の紀念館(新公園内、元のラジオ局の建物)は去年の改装後、省籍“対立色”は希薄になって、同時に台灣の民主化通史という側面を失った。228事件に特化され、事件を解釈するのに必要な前後の文脈が希薄なのだ。方や、国家紀念館(元のアメリカ合衆国情報サービスUSISの建物、中文では美國在台新聞處)は植民地時代から戦後までの通史的展示をしていて、その中に特別にアメリカ合衆国との密接な関係に特化した展示もある。 蕭先生は台北市の紀念館でのガイドを勤めているが、彼の案内を聞いていると、改装後の展示内容にいろいろ不満があることが感じられた。もっとも彼の不満は台灣民主化の歴史の通史性が失われたことというよりも、日本と日本人がしたことの評価が不足しているとう点にあるようだったが。

20

Page 22: Taiwan Tour 2011

8/19 国軍博物館 国軍博物館 国軍博物館 国軍博物館をををを見見見見るるるる その後、一行は国軍博物館に徒歩で移動した。ここには台灣軍の歴史が展示されている。しかし、米軍との協力関係についての展示は極めて少なかった。 以前来たときには黒猫飛行隊など、米軍の監督下、指揮下、訓練下での米軍との合同作戦などの特別展があった。今、常設展としては米軍の影は希薄。 夕方、かねてメールで連絡を取っていた明治大学兼任講師の本田親史先生と合流。夜の勉強会にも付き合ってくれた。 8/20 国立図書館国立図書館国立図書館国立図書館「「「「台灣台灣台灣台灣におけるにおけるにおけるにおけるアメリアメリアメリアメリカカカカ合衆国合衆国合衆国合衆国のののの足跡足跡足跡足跡」」」」展示見学展示見学展示見学展示見学 宿泊している場所から徒歩で20分ほどで、国立中央図書館についた。タコさんの友人で畑中さんという若い男性がここだけ合流した。 前日夜から参加の本田先生も同行した。展示内容はアメリカ合衆国の功績を讃えるという感じ。台灣近代化の功績を日本に与える人たち(例えば「認識台

灣」参照)と、アメリカ合衆国に与える人たち・・・ここにも、蕭先生が言う「米=外省人、対 日=本省人」的な対立構図が見える。 展示を見終わって、すぐ外の喫茶店の屋外テーブルを勝手に占拠して、討論会をした。この展示に「見えないもの」は何か、というのがテーマだった。まず見えなかったものはアメリカ 合衆国軍の「反共」性だ。なぜアメリカ合衆国が台灣に肩入れしてきたのか、その直接の動機が「見えない」ようになっている。善意の、他意なき援助なのだ。 その後、場所を移して昼食を取りながらも討論は続いた。 21

Page 23: Taiwan Tour 2011

8/20 陽明山陽明山陽明山陽明山 米軍寮米軍寮米軍寮米軍寮 昼食後、バスを乗り継いで、一行は陽明山に向かった。 文化大学の隣に、今はほとんどが空き家となって再開発を待っている、元の米軍軍事顧問団(MAAG)宿舎、米軍寮がある。50年代の初期に、顧問団用に国民党が住民を立ち退かせて接収したまま、現在も返還されておらず、近くの住民の中には今でもこのことについて恨みの気持ちを持つ人がいることを発見した。 当時の土地の接収のしかたは、白色テロ時代のことだから、なかなか乱暴だったらしい。一応、買い上げではあるのだが、国家による地上げであり、Noと言えなかったようだ。現在、台灣銀行が土地を管理している。 一般住民と米軍寮とは塀で仕切られている。寮内には一般人は入れなかったそうだ。近くの 老人に偶然話を聞いて、こういうことが分かった。塀は今でも残されている。 米軍寮の中には人が住んでいる家もある。どうも金持ちが、コネを使って?購入したもののようだがはっきりしない。話が聞けたのは、ある家のインドネシアの労働者だった。この家族がどんな人たちなのか、彼女は多くを語らなかった。 その後、一行は再びバスに乗って“下界”に降り、中山北路三段あたりを目指した。 22

Page 24: Taiwan Tour 2011

8/20 中山北路中山北路中山北路中山北路 中山北路三段に、晴光市場というのがある。米軍が増えたベトナム戦争時代、好景気に沸いた地域だ。 ここでは手分けして、当時のことを覚えていて話をしてくれる人などを捜して歩いた。 以前にもこのあたりで話を聞こうと試みたことのある宮平杏奈さんが指揮者になって、皆で探索を開始した。 結果は、近くの教会で(このときには不在だったが)当時を知る牧師さんがいるという情報を得た。また、米軍の払い下げ品 を売っていたという人も発見。(本当に「払い下げ」品だったのか、PXなどからの横流し品だったのか、不明だが。) 性産業も盛んだったらしい。米兵の奥さんになってアメリカ合衆国へ・・・そんな SOFAドリームもあったようだ。当時売れっ子だった女性は今でも存命らしいが、見つけることはできなかった。 コーラが5, 6元した。高級な飲み物だった。ハーシーズのチョコレート、コーンビーフの缶詰、何でも晴光市場に来れば(高いけど)手に入ったようだ。(右写真は、民視「美援-吃美國飯的歳月」より)

23

Page 25: Taiwan Tour 2011

8/21 貢寮貢寮貢寮貢寮、、、、核四核四核四核四 翌日は、朝から荷物を担いで台北駅へ。駅の荷物預かり所に大きな荷物を預け、李茹如さんやEaphetから来た吉田藍さん、黄雅芬さんなどと合流、電車で福隆駅に向かった。貢寮自救会の楊木火さんとは1時半に駅前で待ち合わせだ。今日のプログラムは、Eaphetの随邊走走プログラムでもあり、担当は黄雅芬さん。台灣ツアーはこれに相乗りする格好になる。 時間通りにやってきた楊さんだが、移動する車はない。そこでタクシーに分乗、核四の正面玄関を目指した。雨が降り始めた。

楊さんは大きな身体だが柔和そうな人で、実に懇切丁寧に核四の問題点、現在の状況を説明してくれた。 上写真は核四の一号炉と二号炉、一般道路のすぐ脇に建てられている。 今回のツアーに核四を入れたのは、台湾の原発開発がこれまでずっと(戦後すぐから)アメリカ合衆国との外交関係を担保する材料に使われてきていたからだ。この事情はEaphetニューズレターNo.6およびNo.7「台灣の原発」/「東アジアと原子力」を参照してもらいたい。 核四もまたGE社とWH社が請け負ったものだが、現在その製作に直接関わっているのは東芝と日立だ。その意味でも、核四の現在の中にはアメリカ合衆国が見えにくくなっている。(が、じゃあ日本企業の影が見えるかと言えば、それも希薄な感じだった。楊さんの話に出てくるのは台灣電力であり、台灣政府だ。「台灣電力は、自分では制御できないシステムを、世界中のいろんな会社に分担させている。全体としてシステムが機能するはずがなく、台灣電力に制御する専門的な能力もない。核四は自滅しますよ」とのことだった。 正門横の守衛室で話を終えたあと、一行は楊さんに率いられて、遊歩道を歩いて駅まで戻った。この遊歩道は自然を大事にしましょう的な場所なのだが、核四のすぐ近くにあり、放射能のモニタリング・ポストがところどころに設けられている。「自然を大事に」とモニタリング・ポストとの、なんともいえないミスマッチの中、2時間は歩いただろうか。 24

Page 26: Taiwan Tour 2011

台北駅に戻った一行は、荷物を受けだし、バスで台中に向かった。今夜からEaphet泊まりだ。古川は高鉄で一足先に台中に戻り、車でバスの到着を待つことになった。が、疲労からか電車の中に車のキーを入れたかばんごと置忘れ、とんでもない騒ぎに。ともあれ、無事に荷物を取り戻して、バスを迎えることができたのは幸運だった。 8/22 CCK 米軍足跡館米軍足跡館米軍足跡館米軍足跡館をををを見学見学見学見学 台中空軍基地、清泉崗基地(通称CCK)は、元は日本軍の台中飛行場だったところを中華民国軍(国民党軍)が接収、1958年の八二三砲撃戦の際に、初めて米軍機が駐留。1963年からは本格的に米軍の部隊が駐留 した。駐留したのはC-130輸送機の部隊だった。ベトナム戦争の兵站業務、輸送業務の基地だった。 台中にも軍事顧問団は(1963年以前から)いたが、63年からの大人数の駐留によって、台中でもベトナム戦争景気のようなものがあったようだ。当時の台中市の写真を見ると、米兵相手の店(バー、ダンス・ホール、繁華街)がけっこうあったらしいのが分かる。 後で、同基地の米兵を慰問するため、コメディアンのボブ・ホープが訪れたときの映像をYoutubeで見つけた。見てみると、本当に大量の米兵が駐留していたことが分かる。 CCKは台中市の中心部からちょっと距離があるので、米兵たちは中心部まで遊びに出る

のにバスや自動車などを使っていたようだ。当時は中心部から郊外まで田んぼや野原だった。何もなかった。 CCKは見学の予約をするにも、実際に入るにも、やたらと面倒くさい。軍事施設だからしょうがない?すべての労をとってくれたのはティンティンさんだった。見学には2時から5時くらいまでかかった。 25

Page 27: Taiwan Tour 2011

8/22 Eaphetにてにてにてにて感想会感想会感想会感想会 基地から戻って、Eaphetで感想会をした。こ の 日特別に 参 加 し て く れ たStephanieさん、Wendyさん、紅如さんなども参加してくれた。Stephanieさん、Wendyさんはアメリカ合衆国国籍だそうだ。 古川も台中にこんな大規模な米軍駐留時代があったことに驚いた。彼らはもちろん中華民国軍のお客さんとして、一時的に(と言っても10年以上に渡って)駐 留していたわけだが。 左は70年前後の台灣の米軍地圖だ。台北、台中、台南が大きな拠点だったことが分かる。台北が本部、台中は空輸部隊、台南が空軍基地…。 当時の台中市のバーなどの写真を見てびっくりする参加者もいた。これって沖縄みたい…。米兵に媚を売る女性たち…英語でメニューや値段が張り出された店…。それらはこんな近い過去に、私たちの町にあったんだ。 米軍が大量にやってきて、

CCKが日本時代の10倍にも拡張され、住民は例のごとく強制的な立ち退きに遭った。そのこともびっくりしたことのひとつだった。陽明山の米軍寮だけではなかったのだ。 立ち退かされた人々は南投にも行っているとのこと。まさに沖縄がここにもあったのだ。 米軍は自分たちの食料用に、豚までもアメリカ合衆国から空輸していた、という写真が展示されていた。それを見て「台灣のものは信用していなかったんだね」と感想を述べる人もいた。豚に限らず、食料品や日常品を台灣で調達するのではなく、すべて空輸していたらしい。アメリカ合衆国国内にも食べるのに困る貧乏人がいたのに、軍隊とはなんと贅沢なものなのか、そんな感想もあった。 沖縄と違うのは、米兵の犯罪という話が聞かれないことだ。台北では有名な「劉自然」事件(1957年)があったが、台中では同様の事件は聞かない。白色テロ時代のことだ、事件があったとしても公にされなかったかもしれない。被害者は泣き寝入りだったのかもしれない。すぐ足元の台中市で、どんなことがあったのか、まだまだ明らかにはされていないのだろう。 26

Page 28: Taiwan Tour 2011

8/23 南投南投南投南投 翌日、一行は一路南投へ向かった。まず向かったのは霧社だが、その入り口である人止めの関で小休止。1902年の人止めの関の戦いなど、山の近代史を少し勉強。霧社、抗日紀念碑、日本人慰霊塔などを見学した。 山に向かった理由は、アメリカ合衆国との関わりやアメリカ合衆国への気持ちが、平地と山とでは違うのではないかという考えがあったからだ。 山は戦後数年間、国民政府の関心の外にあった。その間に山に入っていったのはアメリカ合衆国のキリスト教団体だった。彼らは山に医療と食料をもたらした。そんなものがなぜ珍重されたか?それは50年間の日本支配の下で、山も平地の資源に頼るように構造化されていたからだろう。それが日本の敗戦で資源供給を絶たれた。それがなかったら、キリスト教が入っていって物資を配ったところで「これなあに?」という状態だったかもしれない。山の人にとってのアメリカ合衆国とは、その意味でキリスト教だったのかもしれない。アメリカ合衆国軍人というもの自体を見ていないから、埔里でもあった爆撃をやったのが、このキリスト教と同じ人たちだったという感覚もないのかもしれない。 一行は次に、清境農場近くの松崗部落に向かった。松崗部落は1961年建村。ゴールデントライアングルで戦後もゲリラ戦を戦ったビルマ遊撃隊が、1961年にようやくと帰国し、蒋介石からこの土地をもらいうけた。アメリカ合衆国との関係は、このビルマ遊撃隊による麻薬栽培と麻薬取引の収益がアメリカ合衆国でのチャイナロビーに流れたという点にある。麻薬で國を救った…あまり外聞のいいことではない。その歴史は、しかし、公然の秘密。 部落の2世たちが、親たちの戦い、歴史を展示しようと始めた写真展。それが今は異域展という名前で常設になった。外聞の悪い部分は多少削られ、ケシ畑で誇らしげに記念撮影された写真などはなくなった。 ここは眷村、栄民の村だ。元来は山の人の土地だったものを日本が取った。それを国民党が接収した。それを国民党兵士に与えた。

27

Page 29: Taiwan Tour 2011

われわれは次にサクラに向かった。サクラには知り合いが多いから、誰かに昔の話を聞こうという計画だ。 Lubi Nabuさんが在宅だったので、彼女に戦後すぐの話をしてくれるように頼み込んだ。Lubiさんの話は、もちろんキリスト教(プロテスタントの長老教会)との出会いの話だ。その後、同様にBakan

Naweeさんにも話を聞いた。Bakanさんは天主教、カソリックだ。 二人の話は微妙に食い違った。プロテスタントのLubiさんの話では、最初に山に入ってきて信者を増やしたのはプロテスタントだったが、その後カソリックが入ってきて物資によってプロテスタントから信者を奪ったという。Bakanさんの話ではカソリックが物資をばら撒いたということはない。物資によって山の人たちの信仰が買われたという話をほかではよく聞くが、確認はできなかった。 しかし、むしろ興味深いのは、アメリカ人(カナダ人も混じっているようだが)というものに対して「軍隊」イメージがないことだろう。さらに言えば悪いイメージがない。Lubiさんは小さいとき、中原部落でアメリカ軍の空襲を受けたことがあるけれど、それをアメリカ合衆国と結びつけてはいないようだ。 8/24 台中市内探索台中市内探索台中市内探索台中市内探索 翌日は各自が思い思いに台中市内でアメリカ合衆国の足跡を探索した。比屋根・宮平はCCKの米兵たちがどこでどのように“遊んだ”のかを調べるために、まず目に付いた教会に飛び込んで、当時のことを知る人がいるかどうか尋ねた。幸いある教会

関係者(アメリカ国籍)が話に乗ってくれた。その人の秘書(台灣籍)の女性が偶然にも、CCK関係の仕事をしていたという叔父さんを紹介してくれた。叔父さんに連絡したところ、話をしてもいいが今日は都合が悪いとのことで、後日会う約束を取り付けた。(後日談としては、この叔父さんの知り合いでCCKの将校クラブでバーテンをしていたという人にも会うことが出来た。) 二人はその後、米兵たちも通ったという五権路の「白雪ダンスホール」を捜した。ダンスホールはすぐに見つかったが、さっと入って話を聞くという雰囲気ではない。入り口に門番がいて客以外は入れそうにない。しかたがないので近所で古くから店を出している感じの店に話を聞きに入った。お茶屋さんだった。「そうなのよ、米兵もこのあたりによく来ていたのよ」と話はすぐに盛り上がった。この御茶屋のすぐ裏に台中市の「中央市場」というのがある。地下に降りたところだ。そこは米軍の放出品でにぎわっていたのだそうだ。現在は広い地下街に数軒の店が開いているだけで閑散としている。 江田舞さんは、初めての台中を一人でバスに乗って探索。劉芸芳さんと阮欣婷さんはそれぞれ別件で別行動。 28

Page 30: Taiwan Tour 2011

8/24 夜夜夜夜 Eaphet定例定例定例定例聊聊聊聊聊聊聊聊でででで民視民視民視民視「「「「美援美援美援美援----吃吃吃吃美國飯的歳月美國飯的歳月美國飯的歳月美國飯的歳月」」」」をををを見見見見るるるる 夜7時から、Eaphet定例の活動「聊聊」で、台灣の民視テレビが製作したドキュメンタリーを見て討論した。イーフェイさん、陳思懿さん、趙庭妤さん、吉田藍さんらが合流した。 吃美國飯的歳月-直訳すれば“アメリカ合衆国の飯を食った時代”というタイトルだ。「美援」、それはアメリカ合衆国の台灣援助のこと。人々の記憶の中ではLara物資として残っている。台湾万葉集の中にも歌われている。 しかしアメリカ合衆国は1971年の暮れに、極めて唐突に、かつ一方的に中国と国交を正常化したことを通知してきた。クリントン政権が「台灣関係法」を制定して正式に台灣と断交ということになる1979年までの間に、台灣にいた米兵はすべて引き揚げて行った。 討論では比屋根亮太さんが沖縄の米軍のことを話し始めたが、まとまらないまま議論を翌日に送ることにした。 8/25 発表会発表会発表会発表会 夕方の発表会までは、各自がその準備をした。発表するメンバーは、比屋根亮太さん、江田舞さん、劉芸芳さん、阮欣婷さん、宮平杏奈さん、そして古川(これは感想でしかないけれど)。 発表会には、イーフェイさん、陳思懿さん、趙庭妤さん、吉田藍さん、Joyさん、黄雅芬さんなど、参加してくれ

た。 比屋根さんの発表は、昨日の「聊聊」でうまく言えなかったことを整理したものだった。自分の出身地である沖縄の状況と、今回のツアーで考えたこととをどうにか結びつけようという試みだった。まだ上手に整理できているとは言えないけれど、そこには考えるべき事柄の萌芽がちりばめられていた。 江田舞さんの話は、歴史の語り方というものがいかに立場によって異なってくるかについての気づきが中心だっ

29

Page 31: Taiwan Tour 2011

た。今後整理したい、というところで終わった。 劉芸芳さんの発表は宗教についてだった。戦後、山の人たちの多くがキリスト教化した。その原因を知りたい。それはアメリカ合衆国的価値を受け入れたということなのか。平地とは異なるアメリカ合衆国受容をそこに見ることができるのか、それとも・・・ 阮欣婷さんは、少し大きな視点からシステムと個人という話をしてくれた。今回のツアーで出会った人々―陽明山の米軍寮のために土地を奪われた人々、CCK拡張のために同様に住居を追われた人々、彼らは国家システムを支えたといえるのか、犠牲になったと言えるのか… 宮平杏奈さんはR&Rプログラムについて話した。台湾では国家がこれを受け入れ、支援した。それは対米関係維持のためであり、ベトナム戦争に直接参戦できなかった台湾政府の一種の補償行為だったのかもしない。そこで働いた女性たちは、そうした国家の思惑の犠牲なのか、 それとも… 古川も感想を述べた。台北から貢寮、南投と、いろんなところを廻ったけれど、足元の台中にも、大きな歴史の痕跡が発見できたことに感動した。私たちそれぞれに、自分の身近なところでそのような発見をしていくことができるはずだ。… 台灣ツアーの幕引きとして、BBQパーティを庭で行った。BBQ奉行にはJoyさんが名乗りを上げて、最後まで鉄板の前を離れなかった。この一週間、共に勉強した仲間と、ここで一旦別れることになるのはさびしいが、後日の再開を期して―(了)

30

Page 32: Taiwan Tour 2011

アメリカアメリカアメリカアメリカのののの対反共政策下対反共政策下対反共政策下対反共政策下のののの沖縄沖縄沖縄沖縄のののの米軍基地米軍基地米軍基地米軍基地――――台湾台湾台湾台湾、、、、沖縄沖縄沖縄沖縄のののの米軍足跡米軍足跡米軍足跡米軍足跡をををを例例例例にににに---- 比屋根亮太 なぜそれになぜそれになぜそれになぜそれに興味興味興味興味をもったかをもったかをもったかをもったか????

2010年の普天間移設問題で揺れた、日本、沖縄で、やはり、沖縄の現状を打開するには、米軍と政治を勉強するしかないと思ったから。 なぜなぜなぜなぜ台湾台湾台湾台湾???? 台湾には、アメリカの反共政策下の変遷の中で、変化がはっきりと現れているから。それを掘り下げて研究し、当時の沖縄、日本、韓国、フィリピンの米軍基地の歴史、現状を照らし合わせることにより、新たな発見や、アメリカの思惑を暴き、予想し、今後の東アジアの米軍基地の存在に、疑問を提示し、今現在ある米軍必要論を打破し、平和的東アジアの構築を最終目標としたい。その目標達成のための第一歩として、台湾の、アメリカ反共政策下での変遷を、地元の市民の視点から、また国際政治の視点から考えていきたい。 今回今回今回今回ののののツアーツアーツアーツアーでででで考考考考えたことえたことえたことえたこと 台湾がアメリカと断交後、台湾関係法を米法律に取り入れてもらうために、チャイナロビーで、国民党が三角地帯で稼いだ莫大なお金を流していた。それだけではなく、戦後から原発を台湾に作る際も、実際かかる費用の何倍ものお金を出して、台湾は買った。(古川先生)これらの行動は、台湾はアメリカとの関係を悪くなるのを恐れていた、いるからだと言う。 その構造は日本もきっと韓国も同じで、戦後から、現在に至るまで、アメリカに有利な日米安保条約、日米地位協定、韓国は韓米相互防衛条約、韓米駐屯軍地位協定を結び、たくさんのお金をアメリカにつぎ込み続けている。アメリカ反共政策の線を理由に、原発をたくさん建設し、アメリカ企業はぼろ儲けした。当時のアメリカの資本主義、新自由主義の発展に貢献した。現在も、日本政府、韓国政府?はアメリカとの関係のために、米軍の駐留費(思いやり予算)等、たくさんのお金を払い続けている。 アメリカがくしゃみをすると日本は風邪を引くというのと同じで、アメリカがくしゃみをすると、東アジアのアメリカに依存してきた?アメリカが依存させてきた国々も同じように風邪を引くだろう。アメリカ、自らの利益のために、現実主義で東アジアを動かしてきている。 それではなぜ米軍がこの東アジアにあるのか?いや、なぜ世界中にあったのか?それは、第二次世界大戦後、また冷戦の為だと考える。しかし、ソ連が崩壊し、冷戦の緊張がそれほど無くなった現在、軍事、経済のアメリカの一極主義は終わった。ヨーロッパではEUができ、東南アジアではASEANができ、北南アメリカではNAFTAができ、経済の多極化が進んでいる。また、ヨーロッパの米軍基地はEU軍に任し(古川先生)、東アジアの日本にある米軍基地も縮小し、自国の軍に任せるという動きも見える、という、軍事の多極化が進んでいる。 米軍が世界中から撤退、縮小しているのは、世界が多極化に向かっているだけではない。アメリカの景気そのものが影響を与えていると考える。米議会が、未曾有の米軍事費削減に圧力をかけている今日、アメリカ軍は、イラク戦争も終結し?、ビンラディンも殺害し、アフガニスタンからの撤退を始めている。 海外の米軍基地管理費に莫大なお金がかかる上、中東へ、出撃する理由が減少した沖縄の米軍基地は、現在その必要性が低下している。(沖縄の米軍基地はベトナム戦争同様、イラク、アフガニスタンへの、出撃の重要な基地だった。)フィリピンから米軍基地が撤退したひとつの理由に、フィリピン政府が、米軍維持費の莫大なお金を支援できなくなったとも伺ったことがある。皮肉にも、そのフィリピンの米軍が撤退後、沖縄への負担が増えたとか。 それに加え、台湾の対中関係が良くなっている今日では、沖縄の米軍基地の重要性は減って

31

Page 33: Taiwan Tour 2011

いると考える。それはつまり、両岸関係と沖縄の米軍基地の関連性も減るということに繋がるのではないか。 中国と台湾の冷戦は安定に向かっているが、北韓国と南韓国との冷戦の緊張は未だに安定していない。ゆえに、米軍基地が南韓国に必要だという、理論は未だに大きい。(米軍が居るゆえに緊張が走るという、理論もあるかと思われるが)。 沖縄の普天間基地移設問題に関して、普天間基地を沖縄県名護市の辺野古に移し、残りをグアムに移動する案がある。その移設費が、アメリカ議会の予算がなくし、経済的に厳しいアメリカで、その案は不可能だという人が出てきた。今は、新しい基地を辺野古に作るのではなく、直接、南韓国へ移すという案もアメリカで浮上している。それにもかかわらず、日本政府は以前の案に固執している。その理由は良好な日米関係を維持していくためだと考える。3.11後の日本の大惨事で、財政的にも、戦後最高値の円高で経済的にも、厳しい日本で、日本政府はどのように、対米予算を日本の国民に納得いくように、維持していくか、必死だと思われる。日本政府は、その予算を減らさないために、尖閣諸島沖で中国漁船の衝突事件、南シナ海の領有権問題、中国初の空母の試験運行など、中国脅威論を理由に、沖縄だけでなく、日本本土、韓国の米軍基地の重要性を訴えているのだと考える。 それではそれらの中国脅威論はどこから来ているのだろうか?私は、それはアメリカから来ているのではないか考える。アメリカの一部の権力や、お金にしがみついている人々がもっと、日本や、韓国にお金を払ってほしい。そして今までどおりに、海外に米軍基地があることで、潤っている権力者、アメリカの高官、退役軍人は、海外米軍基地の重要性を中国脅威論という形で、現在維持しているのではないかと考える。 しかし、それに内情、トリックを知っているように、米議会は、軍事費の削減を厳しく要求している。日本の政治家は、アメリカ軍事権力者たちに踊らされて、沖縄の基地は、必要だと言っているのかもしれない。いや、その権力にしがみついているアメリカ軍関係者のように、沖縄に基地があることで、また辺野古に基地を作ることで、潤う日本の権力者(大手建設業、基地ができる予定地に改めて土地を買った政治家など)が必要だといっているかもしれない。 たくさんの想像で色々とお話させて頂きましたが、今後は想像ではなく、史料に基づいて、しっかりとそれらを証明してき、新たに米軍必要論に風穴を開けて行きたいと考える。また、今回のツアーで、地元の人々に直接お話を伺い、地元の人々の視点から、新しい歴史を掘り起こすという作業を行った。今後、このような地元史の創造がもっと広がれば、中央からの意見ではなく、地元の意見を尊重し、反映できる社会になるのではないかと切望する。 最後に、このようなすばらしい機会をくださった古川先生をはじめとするEAPHET皆様、大変お世話になりました。ありがとうございます。今後とも末永くご指導のほど宜しくお願いします。

32

ツアーツアーツアーツアー後記後記後記後記 劉芸芳劉芸芳劉芸芳劉芸芳 今回台湾ツアーを参加してうれしかった。いろいろ勉強した。仲間と一緒に討論して自分のことを相手に伝えて楽しんだ。まず、台北でふらふらと歩いて、知らない人に声をかけた。もちろん、自分が勇気を出さなきゃ。幸いに、親切をくれた人もいてそんなに緊張しなかった。もっと人にあれば会うほど、自分の視野を広げられる。なぜなら、「他者」に会うというのは自分の鏡としての存在だと思う。「他者」を通して、自分が足りない、探す部分を見つか

劉芸芳劉芸芳劉芸芳劉芸芳 這是七月的事。七月時我接到台灣Tour的通知,二話不說馬上答應要參加,因為我知道我可以從中學習很多,這些是坐在教室也學不到的東西。當我知道這次主題關於美國時,我覺得十分興奮,因為我已經對美國文化有種又愛又恨的

Page 34: Taiwan Tour 2011

けられるかなぁ。「他者」は自分のことが反応できるし、投射できる。「他者」の前に、またもう一人の自分を作る。そうしたら、私は一応台湾人だと思う。台湾って私の心の中に、どんな意味や意義を持っているだろう。毎回、台湾と中国の関係と聞かれて揉め事が絶えないと気をもんでいる。あまりそんな話を聞きたくないし、避けたい。だが、自分が決められることじゃない。私より台湾のことを愛する人々の意見が大切だと思う。でも、自分は台湾のことにまったく関心しないって自分に聞くと、はっきり「はい」、「いいえ」といえなくてしまう。結局に、自分は頭を振って、ニヤニヤしている。これは私の課題なのか。その上に、台湾湾人だけ(?)の課題なのか。 今回のテーマに戻って、だいたいアメリカ合衆国に関することが多い。分かりやすいことに、アジアの国々は西洋から深く影響された。西洋の中に、ひとつの中心はアメリカ合衆国だ。軍事、経済、何でも、影響を与えるはずだ。例を挙げて、小さいときから、英語を勉強しなければならないことからみると、少しでも分かるだろう。言語の侵略としてみられるかもしれない。でも、言いたいのは、アメリカ合衆国のせいだけじゃなく、ある程度は、アメリカ合衆国絶対責任があるが、しらない人はずっとしらないという言い訳が持つことがわるい。どうして「あなた」はそんなことを知らないといえるのか。みんなは知る権利、義務がある。だから、よく考えて決められる。 ところで、「核四」というのは台湾原子力発電で、貢寮にいる。近頃、日本で地震で福島の原子力発電の事故は大きな話題になって、一体人間は原子力が必要なのかと深く考えなければならない。今回、楊木火さんは私たちに台湾の原子力について紹介してくれた。その日、楊木火さんに始めて会った。すごく優しい人と思う。楊さんは「核四」に反対したあげく、台湾電力会社が彼の名前をブラックリストにした。電力会社が開催する会議になかなか入りにくい。楊さんの意図をわかりやすい。彼は自分の家を守ってほしい。知らないうちに、家を奪ってはいけない。でも、台湾原子力をやめることができるかどうかとまたわからない。

感覺。其實我知道我學得不夠多,不夠透徹,我無法用很漂亮的專有名詞,像是「美國這種行為根本就是後殖民侵略」等,藉以提出後殖民理論,來說明、舉證美國是多麼霸道的國家,我們光從英美語成為全球語言就可以有很多反對聲浪。當然,英美語成為全球語言固然是有她的好處,但無法讓人苟同的是現今台灣社會存有「萬語皆下品,只有美語高」,對語言的差別待遇。當台灣小朋友年紀還小時,父母捧著大把錢將自己小孩往雙語幼稚園送,看著英美語老師是白皮膚、藍眼睛、黃頭髮才覺得可以,因為我們認為那種人說的英文一定特流利、特動聽、特正確,至少一定比黑頭髮、黃皮膚的人好。當然,我相信並不是很多人都這麼認為。其實我沒什麼資格說別人,我自己也曾是那一群,我也是曾迷思於外國人教的英文就會比較好的那一群,也就是所謂的「外國的月亮就是比較圓」。我想參加此台灣之旅,說不定能激發一些火花、懂得去思索目前自己的現況。 其實這次看似有特定行程,不過又好像沒有,很多時候就是一群人隨處走走,跟現在在台灣的人攀談說話。這種看似很唐突的行為,不過卻十分有趣,因為總是能聽到大家不同的聲音。我記得這次我們到晴光市場,想要在那找天主教教堂問有誰能知道20年前的事,於是隔不久就看到一位有著東南亞國家面孔的外籍人士,於是我們就向前攀談,一開始他露出有點驚慌的表情,不過我們隨即用英文交談,我們向他表示:「我們在找天主教教堂,不知道他知不知道?」,他十分友善,所以他決定帶我們去,在行走之間他告訴我們他在等朋友,也詢問我們的名字,我們也告訴他我們現在在做什麼。類似這種攀談,往往都會讓我興奮不已。對方友善的態度總會解除我的緊張,讓我能享受與人對話。 回歸到這次主題,這次的關鍵字為美國、台灣、韓國、日本,副標題可以有 核電、越南戰爭,當然也免不了228事件跟霧社事件,尤其今年「賽德克‧巴萊」在台灣上映,此電影帶來的效應實在令人期待。這台灣之行的資料關於政治的部分相當的多,越戰時,美軍能來台休假,就是相當具有政治性。其實中華民國退守來台灣,本身就具政治性,在國民、共產黨之間,無權的人隨著有權的人擺布。其中讓我比較有興趣的是美國軍隊在亞洲滯留的問題,還有宗教改信(conversion)的問題。值得一33

Page 35: Taiwan Tour 2011

そういえば、去年「亜洲コンクリート工場」の事件を思い出した。亜洲コンクリート工場は工場を作るために、巧みに地元人に土地を奪うそうだ。私から見ると、重なるところは、彼らは財閥のような企業にあって、マイノリティーになった。もし現在議題を出したら、みんなは自分に対する有利な選択を選ぶ。全部は多数、少数になる。ひとつは二つ以上の声がでる。その中に、多数に対して、少数という概念がある。少数はマイノリティーになることが避けない情況ではないじゃない。しかし、誰か自分の選択は必ず正しいといえるだろうか。彼ら(楊さんとか)はどんな目的を持っているだろうか。私はまだ勉強不足なので、彼らからただひとつのことが勉強できる。彼らは自分に関する台湾の土地を愛する。台湾のことを愛して、台湾のために、何か今しかしらければらないことをしている人々は彼らだ。彼らはこちそち蜂のような姿や努力して汗が流れる様子を見て心から感動して尊敬した。だから、たくさんの台湾に住んでいる人に意見をもらったりすることは意義がある、必要だ。以上のとおり、なんか偉いくせに、本当にそう思った。私は台湾に住んでいる人だから。 まとめに入る。実は、以上のことは自分の感想みたいだ。たぶん来年、この文章を見ると、今の考えと違う可能性が高い。でも、ツアーを通して、少しでも、自分が成長できていいじゃないのか。もう一度、今回ツアーのおかげて、出会った人々に感謝している。すばらしい思い出になる。おおきに。

提的是,美軍滯留在日本沖繩跟韓國本身就是一件令人匪夷所思的事。日本無法擁有自己的武力,所以要美軍協防嗎?那現在所謂的敵人又是誰呢?誰是日本的敵人呢?誰才是美國的敵人呢?另外,美國傳教士挾帶物資進入山區,使住在山裡的人走進教會,這難道不像是有條件的信教嗎? 商業電影常被用來置入性行銷。之前看「X戰警前傳」,片頭就有提到蘇俄共產勢力瓦解,美國自由民主思想才是王道。不可否認的,近年好萊塢的影片總有關於反賓拉登、反蘇俄古巴共產思想之類的「置入性行銷」。而在中國影片「非誠勿擾」這種唯美的現代愛情片,也有出現父親對於女兒去學共產思想感到十分欣慰。我多少能感覺到潛移默化中美國所認為對的事,可以變成普世價值,我們有種「只要美國說的對」的價值觀。美國在台協會這次舉辦的特展,針對美國(美國教會、美軍在台消費)都認為是對台灣的金援,具有正面意義。我們為對美國金援賦予正面的意義,真的事情就如同策展的美國在台協會所呈現給我們的這樣嗎?另一方面,在這裡值得讓我思考的是美國挾帶而來的資本主義好嗎?我記得我曾與一群母語為普通話的人爭辯過,在座有來自雲南白族、回族、四川、湖南、台灣等人士,在討論中國貧富不均,尤其是雲南偏遠地區的孩童,因地形阻隔而沒有受教權,也沒有電力供給,他們對此感到憐憫。我在此想要表達的是,我個人是在思考為什麼在座的人覺得有電力的地方,才是有文明,為什麼在座的人會有受教權是好的。我不經捫心自問所謂我們覺得好的東西,就是好的嗎?而那些我們覺得好的觀念,又是從哪來的呢? 阿川老師堅持(?)加上鼓勵大家說說自己的感想與表達自己的意見,我覺得更能激發新的火花,衝擊新的想法。其實自己仍需要學習很多,像是我還是對美軍沖繩問題不是很清楚,這都會變成未來的目標。雖然我們做的事很像是在「海邊種花」,那有些事沒有嘗試怎麼知道不行。然後在此要感謝大家的合作,沒有大家沒有這次這麼棒的回憶。

34

Page 36: Taiwan Tour 2011

「「「「東東東東アジアアジアアジアアジアととととアメリカアメリカアメリカアメリカ合州国合州国合州国合州国」」」」台湾編台湾編台湾編台湾編 感想 阮欣阮欣阮欣阮欣婷婷婷婷((((ティンティンティンティンティンティンティンティン)))) 今年の台湾ツアーで、惹かれたキーワードは「国家」と「人民」である。 まず、自分のことから考えてみたい。私は「中華民国」からID番号を受け、「中華民国」のパスポートを持っている。「中華民国」に認められた一人の人間であろう。そして、生まれた土地は、「台湾」というところ。外国へ行って、 「どこから来ましたか?」と聞かれたら、 「台湾から来ました。」と答える。 でも、「台湾は国家ですか?」という質問は出てくるかもしれないが、台湾では「中華民国」政府の存在があるから、一応国家のかたちで運営していると思う。勿論、台湾のことを国家だとは思わない人がいる。けれど、その議論はちょっと横に置いて、ここで「国家」と「人民」の話に戻りたい。 今回のツアーで、総督府や、国軍歴史文物館、「美国人在台湾的足跡」特展、清泉岡基地の米軍足跡館など、国家の歴史や国家と国家の交流を語る場所を回ってきた。それらの場所から伝えてきたメッセンジは、「以前の人たちがどんだけ頑張ったから、今の人々によりいい環境が与えられたよ」、「アメリカの援助があって、さまざまな国家建設ができた」など、国家のおかげで人民の幸せな生活が送れた、というメッセンジが溢れた。しかし、国家建設ができた前に、だれの利益が犠牲になったか。その部分を触れた展示内容が、見たところではなかった。 ツアーの二日目、陽明山の米軍寮へ行ったとき、米軍寮を建てるために中華民国政府から強制的な力で土地を奪われたおじいさんにたまたま出会った。そのおじいさんの話により、土地を譲りたくないけど、当時台湾社会での雰囲気では「断る」権力はなかったから、いくら不服があっても声を出せなかった。米軍寮が建てた後、近所の台湾居民と分けるために壁を作った。それで、近所の台湾居民がアメリカ軍と交流してなかった。しかし、米軍が去ったことと関わらず、壁は今でも残っているし、奪われた土地も政府から返してこない。今土地の所有権は台湾銀行にある。おじいさんが今でも、中華民国政府のことを恨んでいると言った。 話してくださったおじいさんの怒りをなかなか頭から離せない。おじいさんのように国家暴力を受けた人が何人がいるかも分からない。話をちょっと変わって、今の清泉岡基地の大きさは日本植民地時代のより20倍幅広い、当時の国民政府はまた数の少なくない居民を引越しさせ、土地を奪っただろう。その人たちは今どこにいるか、不平な声をどこに伝えているか、普段感じられない私は鈍感だろうか。けれど、国家からの圧迫で利益を犠牲した人が、確かにいる。私たちは彼ら/彼女らのことを見てない、聞いてないだけ。 「少数の人の利益を犠牲して、多数の人の幸福になれるなら、それはそれでいいじゃない?」という考えはあるかもしれないが、それは自分の利益が犠牲されたではないから、そう言えたか?それとも本当に多数の人のために考えているからそう言ったか?よく分からない。ところが、政府の弁解ではそういう「多数決」パターンがよく出てくる。しかし、それは本当に多数の人のためだろうか、権力層にいる少数の人が自分の利益のために決めたことでもあるではないか。結局、「少数決」で動いていて、多数の人が少数の人に合わせている。数の重さは一体どう計算すればいいか、よく分からなくなってきた。 また、おじいさんの話を聞き取った私は、これからどう行動すればいいだろう。話を聞いても、現状を改善られない、自分の力では何も出来ない…毎回そう考えると、巨大な無力感に呑み込まれてしまう。こんな私に対して、思懿先輩からのアドバイスは「急がないで、いつか他人の力になるかもしれないし、自分のペースで、自分なりの方法でやっていけば、それがいい。例えば、協会の活動に参加することも、一つの方法になると思うよ」。そして、去年の台湾ツーで知り合った頼采児さんの話がまだ覚えている。「今私が伝えた話がタネである、そのタネをみんなのココロに埋めて、いつか芽生える日がくると信じています。」と頼さんがそう

35

Page 37: Taiwan Tour 2011

言った。そう考えると、今ツアーに参加できる私は、ラッキーだと思う。ツアーを通して、実際に人との交流ができ、教科書の歴史と違う歴史を学ぶチャンスをいただける。これから、ツアーに参加できる機会が何回あるか、分からないけど、毎回を大事にしたいと思っている。 「先生、八十歳になってもツアーを行ないますか?」それはばかばかしい質問だけど、ツアーに参加できて本当によかったと毎回思う。そして、そのチャンスを与えてくださった古川先生に、こころから体から頭から、まことに感謝している。今回一緒にツアーに参加したみんなも、お疲れ様でした。

36

8/21核四守衛所にて(左から楊木火さん、李茹如さん、宮平杏奈さん、黄淑燕さん、江田舞さん)

8/22Eaphetにて(左からWendyさん、Stephanieさん) 8/19 228紀念館にて(左から沈惠萍さん、タコさん、美微さん) 8/22 Jessicaさん 8/23 紅如さん 8/20 本田親史さん 8/20 畑中さん

Page 38: Taiwan Tour 2011

The U.S. Military Recreation Center in Taipei The U.S. military recreation center in Taipei mainly attended to the “rest and recreation” matters of the several hundred thousand U.S. soldiers during the Vietnam War period from 1965 to 1972. The U. S. Army Military Assistance Group was located in the vicinity of Mintsu West Road and Chungshan North Road of Taipei City. The U.S. military recreation center had several hectares of facility grounds. It was also generally known as the Military Assistance and Advisory Group (MAAG) Officers Club. When the Korean War broke out on June 25, 1950, the United States decided to renew its financial assistance to the Republic of China Government in Taiwan, and the U. S. Army Military Assistance Group became an official part of the U.S. military aid package. The official title of the U. S. Army Military Assistance Group was the Military Assistance and Advisory Group. In March 1965, U.S. military troops landed on the Danang of Vietnam and escalated the war into U.S. troop predominated local war. In view of the “rest and recreation” demands of the several hundred thousands of U.S. troops, the U.S. government constructed a number of U.S. military recreation facilities in the southern part of Vietnam, as well as a number of different types of recreation areas outside of Vietnam. In line with which, the U. S. Army Military Assistance Group constructed U.S. military recreation centers in Taipei, Taichung, and Pingtung to accommodate the rest and recreation needs of U.S. troops stationed in Vietnam. Including the MAAG Officers Club in Taipei, the U. S. Army Military Assistance Group constructed a number of U.S. military recreation centers in Taiwan to cope with the rest and recreation needs of U.S. military officers and troops during the Vietnam War period. The more notable ones of these facilities included the officers club in Kenting and the MAAG Officers Club in Ching Chuan Kang. During the Vietnam War days, these clubs were among the favorite destinations of the U.S. troops stationed in Vietnam. A key factor contributing to their popularity was none other than the affordable prices in Taiwan and excellent peace and order conditions; moreover, the people were quite friendly to the U.S. troops. Hence, statistics showed that among the 500,000 troops and officers dispatched to Vietnam during the Vietnam War period, over 210,000 had been to Taiwan, spending around US$52.8 million during their stay. In May of 1968, the Democratic Republic of Vietnam and the United States had a dialogue in Paris. Thereafter, the United States started to withdraw its troops from Vietnam. On April 12, 1972, the United States announced that the U.S. officers and troops would no longer be taking their rests and recreations in Taiwan, and thereafter, these clubs became empty. Although the MAAG Officers Club in Taipei was later renamed to the Linkou Club, the facility remained under the ownership of the U. S. Army Military Assistance Group. On January 1, 1980, following the severance of U.S.-ROC diplomatic ties, all the personnel of the MAAG Club were repatriated to the U.S. Thereafter, the ROC military and the Taipei City Government took over the administration of the U. S. military recreation clubs, the U.S. Navy Cooperative, as well as all other structures and camps of the U. S. Army Military Assistance Group. In the mid-1980s, majority of the west side building structures of the MAAG Club were reconstructed and placed under the jurisdiction of certain headquarters in Taiwan; the east side recreation open grounds were included into the grounds of the Taipei Art Park in 1990. http://lov.vac.gov.tw/OverSeas/eng/Content.aspx?Para=65&Control=1 1950-1980人與時代的交會 美國人在臺灣的足跡特展 http://www.ait.org.tw/zh/american-footsteps-in-taiwan.html 國立中央圖書館台灣分館的開放時間為週二至週五 9:00~21:00; 週六、日 9:00~17:00,地址﹕新北市中和區中安街85號。電話﹕02-2926-6888 。

付録

37

美國人在臺灣的足跡特展美國人在臺灣的足跡特展美國人在臺灣的足跡特展美國人在臺灣的足跡特展

Page 39: Taiwan Tour 2011

38

陽明山陽明山陽明山陽明山、、、、米軍寮米軍寮米軍寮米軍寮

Page 40: Taiwan Tour 2011

39

台北台北台北台北のののの米軍施設一覧米軍施設一覧米軍施設一覧米軍施設一覧

Page 41: Taiwan Tour 2011

40

台北台北台北台北のののの米軍施設一覧米軍施設一覧米軍施設一覧米軍施設一覧((((続続続続きききき))))

Page 42: Taiwan Tour 2011

編輯:Eaphet編輯部

内文:古川ちかし・劉芸芳・比屋根亮太・阮欣婷 ・宮平杏奈

圖片:Eaphet編輯部

美編:Awil Kazuo

出版時間:2011/10

「東亞與美國Act. 2」台灣與美國:従冷戦到現在

社團法人台灣東亞歴史資源交流協會