15
The Extension Course of the BEATLES Part2 Instructor : Toshinobu Fukuya (Ube National College of Technology) The 4 th Session : The Beatles in Japan 8/31 2006 1

The Extension Course of the BEATLES PartThe Extension Course of the BEATLES Part2 Instructor : Toshinobu Fukuya (Ube National College of Technology) The 4th Session : The Beatles in

  • Upload
    others

  • View
    2

  • Download
    0

Embed Size (px)

Citation preview

The Extension Course of the BEATLES Part2

Instructor : Toshinobu Fukuya

(Ube National College of Technology)

The 4th Session : The Beatles in Japan

8/31 2006

1

来日公演に至るまでの日本におけるビートルズ受容の推移

ビートルズ来日を語るうえで、そこに至るまでのビートルズの日本における受容の過程

を検証しておくことは、ビートルズの来日を音楽文化論的視点から社会文化論的視点に拡大

するには不可欠な作業である。

1.受容土壌

第二次世界大戦(1945年に終戦)に敗れた日本であったが、1950年代なかばには、

政治的にも経済的にも、そして文化的にもアメリカの強い影響下に、大きく変容を遂げていく

に至る。アメリカの影響下という点では、戦勝国とはいえ、ドイツ軍の空襲などで大きな打撃を

受けたイギリスをはじめとしたヨーロッパ諸国も同様であった。ソビエトや東欧といった共産圏

を除く世界は、アメリカを中心に再編され、日本もその一環に組み入れられたのである。

そのような状況を反映するかのごとく、ビートルズが最も影響を受けたのは、アメリカの

ロックン・ロールであり、その象徴がエルビス・プレスリーであった。ジョンは「エルビス以前に

影響を受けたものは何もなかった」と言うほどエルビスに憧れていた。日本の「洋楽」が大きな

変貌を遂げたのも、やはりエルビスの登場がきっかけであった。

エルビス・プレスリー

プレスリーのレコード・デビューは1956年。これを機に日本ではロカビリー・ブームが

巻き起こっている。小坂和也が「ハートブレイク・ホテル」を日本語でカバー。1958年の日劇

「ウエスタン・カーニバル」では、平尾昌晃、ミッキー・カーティス、山下敬二郎らが大ブレイクし、

ロカビリー・ブームは頂点を迎える。

平尾昌晃

2

この年の「ウエスタン・カーニバル」では、日本ではじめて、声援用の紙テープが販売さ

れている。船が港を出るときの別れの場面から転用されたこの声援方法は、演奏する側と聴

く側が一緒に盛り上がる手段として有効に機能した。

ただ、ロカビリーは、荒々しさと不良っぽさを売りにしていたため、一般的に受け入れら

れるには強い抵抗感があり、ファン層の広がりという点では限界があった。ところが1958年

後半になって、坂本九、守屋浩といったアイドルっぽいロカビリー歌手が登場することで、女

子高校生に裾野を広げていった。

1960年代に入ると、かまやつひろし、森山加代子、飯田久彦、九重祐美子、ダニー飯

田とパラダイス・キングなどが次々とデビューし、「ジャパニーズ・ポップス」全盛期を迎える。

そんななか、1962年、チャビー・チェッカーがアメリカで巻き起こしたツイスト旋風が日本にも

押し寄せてくる。日本のレコード会社からも続々とツイスト関連のレコードがリリースされた。な

かでも藤木孝は、「24000回のキッス」で人気を博した。ほかに弘田三枝子の「かっこいいツ

イスト」、スリー・ファンキーズの「でさのよツイスト」、そして極めつけは、ツイスト娘と呼ばれた

中尾ミエの「かわいいベイビー」であった。ビートルズがイギリスでデビューした1962年、日

本はツイスト・ブームの真っ只中にあった。

中尾ミエ 弘田三枝子

この日本のツイスト・ブームで驚くべきことは、何とビートルズもブームのあおりを食って

いたことである。トニー・シェルダンのバックバンドとしてレコーディングされた「マイ・ボニー」が、

日本ではトニー・シェルダンと彼のビート・ブラザーズという笑えるクレジットで「マイ・ボニー・ツ

イスト」と題してレコード発売されているのである(後にトニー・シェルダンとビートルズの名の

もとに「マイ・ボニー」として再発売されている)。

3

以上のようなロカビリー・ブームやツイスト・ブームといったアメリカの影響を受けた音楽

現象が土壌として存在したゆえに、日本がアジアの国々ではいち早くビートルズを受容し得た

のである。その土壌なしでは、日本のビートルズ受容はかなり後になっていたであろう。

2.日本におけるビートルズ報道

1963年1月、イギリスにおいて、「プリーズ・プリーズ・ミー」がナンバー・ワン・ヒットと

なっても、即座に日本でレコード・発売に至ったわけではない。現在では考えられないほど情

報量が乏しかったのである。その年の4月から5月頃になってやっと、日本でのビートルズの

レコードの発売権を持つことになる東芝音楽工業(現東芝EMI)に、ファースト・アルバム『プリ

ーズ・プリーズ・ミー』が届いたのが実情であった。

では、ビートルズが日本のマスメディアに取りあげられるようになったのは、いつ頃のこ

とだろうか。全国的な影響力という点から、『朝日』、『毎日』、『読売』の主要3紙を調べてみる

と、ビートルズのことを最初に報道しているのは、1963年11月10日の『朝日新聞』夕刊で

ある。イギリスの特派員からの記事で、「人気をさらう四歌手 王女も一緒に手拍子 劇場に

は整理の警官隊」という3段見出しがつけられている。記事の内容は、11月4日の「ロイヤ

ル・バラエティー・ショウ」出演の様子とビートルズがイギリスで空前の人気者になっていること

を報じている。ちなみに、ジョンの名前がジョン・レモンになっている。

1963年11月10日付け朝日新聞・夕刊の記事

1960年代に入って急速にテレビ(もちろん白黒)が普及し始めたこともあって(1960

年に45%だった普及率は1963年には89%に跳ね上がっている)、ラジオはテレビでは得ら

れない情報をもとにした番組に力が入れられていた(ラジオの平均聴取率は3%に落ち込ん

でいた。そんな番組の中に、海外のヒット曲をかけるリクエスト番組があった。1955年10月

から放送を開始していた文化放送の『ユア・ヒット・パレード』がロカビリー・ブームで高聴取率

をあげたこともあって、TBSの『ポップス・ベスト・テン』、日本放送の『ベスト・ヒット・パレード』、

ラジオ関東(現ラジオ日本)の『トップ40』といった洋楽を聴かせる番組がさまざまな局で誕生

していたのである。

1971年の終わりごろから東芝の3代目のビートルズ担当になる石坂敬一は次のよう

に回想している。「最初にビートルズを聴いたのは、1963年の12月頃。ビートルズが何者か

わからない頃で、日本放送で糸井五郎さんがやっていた『ウエスト・イン・ブリテン』っていう深

夜放送のはしりのような番組でだった。曲は『プリーズ・プリーズ・ミー』だったと思う」。

4

石坂氏が聴いた以前にビートルズの曲がラジオでかかったことはあったかも知れない。

しかし、遅くとも1963年12月頃にはビートルズの曲がラジオから流れていたのである。そし

て、新しい音楽にはいつもアンテナを張っていたはずの石坂氏のような人が初めてビートル

ズを聴いた時期は、多少のタイム・ラグはあっても、ビートルズの曲が日本で初めて電波にの

ったときとほぼイコールと考えてよいであろう。

番組収録中の糸井五郎氏

3.高度成長期の象徴的事象~日本が若かった頃

第二次大戦は、戦後の各国にベビーブームを引き起こし、加えて、高度成長をもたらし

た。その経済成長の程度、状況は各国によって異なる。日本の場合は、朝鮮戦争(1950-

1953)の戦需景気が後押しになったことは歴史的事実ではあるが、主には、戦後の焼け跡

から這い上がろうとする国民全体の努力が、1960年代に実を結び、国力を驚異的に向上さ

せた。その国民のエネルギーは、「猛烈社員」あるいは「エコノミック・アニマル」という言葉を

生み出すもとともなった。

1960年代の高度成長を象徴するものは色々あるが、新幹線の誕生ほど明確に日本

の成長とそのスピードを具象しているものはなかっただろう。それは、日本の未来は明るいと

感じさせてくれる魔力を持っていた。

開業前の試運転。都心を走る「ひかり」号。1964年9月

「東京オリンピック」は、戦後からずっと働きつめてきた国民の心に自信と勇気を回復さ

せた。それはまさに、日本が中進国から先進国の仲間入りを果たしたことを世界に告げるエ

ポック・メイキングなイベントであった。1兆円強のオリンピック関連経費は、新幹線も含めた

交通インフラ整備に注がれたわけであるから、精神的側面だけでなく実質的側面でも経済成

長を支える大きな柱であった。「東京オリンピック」は、単なるスポーツの祭典ではなかった。

"sport" の語源は "disport"である。その "disport" は、「我を忘れて遊びに興じる」

という意味である。確かに、スポーツには日常の世界から人を乖離させ、一種の忘我の境地

5

に至らしめる吸引力がある。「東京オリンピック」は、そうした力が、当のスポーツ選手だけで

なく、多くの日本人にまで及んだケースであった。

「東京オリンピック」のポスター

もう一つの象徴は、受験戦争であった。戦後のベビー・ブーマーたちは、「団塊の世代」

と呼ばれ、とにかく圧倒的な数を誇った。加えて、経済成長による収入増が教育熱の上昇を

もたらした。当然のことながら大学は狭き門となり、受験戦争は熾烈を極めた。当時流行した

「四当五落」という言葉は、「4時間しか寝ない受験者は合格し、5時間寝る受験者は不合格

になる」という意味であった。少しでも高い地位や収入を目指してなりふりかまわず繰り広げら

れた受験戦争もまた、まぎれもなく高度成長の象徴であった。

目を若者文化に向けてみると、一つの雑誌が真っ先に思い浮かぶ。1964年4月28

日に創刊された『平凡パンチ』である。何より表紙のイラストが新鮮であった。それまで、男性

雑誌というとヌード写真を売りにしたものが定番であったが、そこへファッション、音楽、政治・

経済、ひいては新しいライフ・スタイルまでをも盛り込んだ男性雑誌が登場したのであった。学

校の先生よりも、父親よりも、たくさんのことを教えてくれた雑誌だったと言える。当時の青年

たちは、『平凡パンチ』を読んでいる瞬間、自分も「時代に乗っている」という感覚を得ることが

できた。

当時、受験戦争を生き抜くための予備校が隆盛を極めた

アイビー・ファッションに身を固め、『平凡パンチ』を手にして、銀座みゆき通りを闊歩し

た連中は「みゆき族」と呼ばれた。一つの雑誌が時代を象徴することは、ときとして起こり得る

現象である。日本の高度成長期、『平凡パンチ』は、時代の豊かさとその豊かさが生み出した

若者文化を象徴していた。

6

1964年に創刊された雑誌『平凡パンチ』 みゆき族ファッション

ビートルズ旋風(Beatlemania)、日本上陸

ロカビリー・ブームに端を発し、日本にも洋楽を受容する土壌が生まれ、そこに、高度

成長期に特有のダイナミックな時代のうねりが押寄せたとき、人々は時代の持つエネルギー

を体現してくれるヒーローを求めた。特に若い世代は、既存の価値観によってではなく、自分

たちも共有できる新しい価値観によって時代を引っ張ってくれるヒーローを希求していた。そ

んな社会風土にビートルマニアはオン・タイムで届いたのである。

1964年1月15日、「抱きしめたい」が、ビートルズにとってのアメリカにおける初のナ

ンバー・ワン・ヒットに輝いて以降、日本でもレコード・デビューの動きが急展開を見せてくる。

その年の2月に「プリーズ・プリーズ・ミー」、3月には「抱きしめたい」と矢継ぎ早に強力シング

ルが発売されている。アメリカが動いて初めて日本も動きだすという今も昔も変わらない構図

は、ビートルマニアにもあてはまるのである。

3月には「プリーズ・プリーズ・ミー」が日本で初めてナンバー・ワンの座につき、「抱きし

めたい」が3位に入ってからは、ビートルズの曲の発売ラッシュとなる。1964年には、シング

ル14枚、4曲入りコンパクト盤1枚、アルバム4枚が発売されている。

1964年に発売されたビートルズのシングルとコンパクト盤

1965年には、シングル15枚、コンパクト盤4枚、アルバム3枚が発売されてる。

7

1965年に発売されたビートルズのシングルとコンパクト盤

1966年1月からビートルズが来日する1966年6月29日までには、シングル3枚、コ

ンパクト盤3枚、アルバム1枚が発売されている。

1966年1月から6月に発売されたビートルズのシングルとコンパクト盤

レコード・デビューと来日までの僅か2年半の間に、シングル33枚、コンパクト盤8枚、

アルバム8枚が発売されている。これは現在では考えられない驚異的数字であり、ビートルズ

の創作意欲のほとばしりを他の何より数字が如実に物語っている。

ベンチャーズ旋風

1965年は、ビートルマニアと並行して、日本独自の旋風が吹き荒れていた。ベンチャ

ーズ旋風である。インストロメンタル曲を中心にしたそのサウンドは、日本人にはビートルズよ

りわかり易かった。ベンチャーズ成功の第一要因は、日本人の苦手な英語に煩わされること

なく、流行のエレキ・サウンドを満喫できる点にあった。その意味において、英語圏では決して

起こり得ない、とても日本的な現象だったとも言えよう。

ベンチャーズ

8

この日本のエレキ・ブームは、日本の若者がちょっと背伸びをすればエレキ・ギターを買える

ほどに日本経済が豊かになっていたゆえにさらに拍車がかかった。日本各地で「勝ち抜きエ

レキ合戦」のようなコンテストが開催され、「テケテケテケ」と電気増幅されたけたたましい音が

響き渡った。当時の様子は、加山雄三主演の映画『エレキの若大将』や芦原すなおの直木賞

受賞作『青春デンデケデケデケ』などからうかがい知れる。

ビートルズを呼んだ男: 永島達司

1966年に入ると、日本のマスコミはビートルズの話題で持ちきりになっていた。発端

は、イギリスの『ニュー・ミュージック・エクスプレス』誌が「ビートルズが夏に日本を訪問する予

定」と報じたことであった。日本の3大紙は翌日の紙面でそろってこのニュースを報じた。しか

し、詳細は何も決まってはいなかった。その過熱状況は、5月11日の『読売新聞』夕刊の、

「好むと好まざるにかかわらず、いまや国民の関心はビートルズ来日問題に集中され」、それ

は「東京オリンピック以来の最大の話題」だったという記事からも図り知ることができる。

それまでに、日本からの打診はいくどか行われたものの、ビートルズ側はすべて断って

きたのだった。それが、急転直下、第三者を通じて、協同企画の永島達司に協力を要請して

きたのが3月14日のことだった。永島はすぐに東芝音工に打診したが、あえてリスクをおかし

てまで呼ぶ気はないと断られた。そこで永島は、ビートルズ側の申し出をいったん断ったが、

「とにかく日本には行きたいので、ギャラについては譲歩するからロンドンへ来てくれ」と言わ

れ、3 月22日に交渉のためイギリスに向かった。

交渉はスムーズに運び、ビートルズ側は、永島の提示した「3ステージで10万ドル」と

いう条件を快く受け入れた。エプスタインが出した条件は、6月30日から東京で3回の公演、

1万人以上のファンが収容できる会場を使うこと、入場料は最高で6ドル(当時のレートでは

2160円)に抑えることだった(『東京タイムズ』5月10日)。この下交渉をふまえ、4月6日に

ビートルズ側は、ハンブルグ、東京を含む夏のツアーを正式に発表した。日本公演は、「低料

金で多くの人に見てもらう」という方針のもとに突然実現したのだった。

永島達司氏

何故、ビートルズは日本に来ることになったのか

当時の日本のマスコミでは、ビートルズの来日の目的を「日本を中心とした東南アジア

市場をターゲットにした高等戦略」(『東京中日新聞』6月22日)と捉える見方が一般的であっ

た。しかし、当時は知るよしもなかったが、現在では、「1965年12月の時点でビートルズのメ

ンバーは、コンサートはもう終わりにしようと考えていた」(『ザ・ビートルズ/全記録』)ことが

明らかになっている。マネージャーのブライアン・エプスタインは、それでも、ビートルズの人気

をさらに大きいものにするために、コンサート・ツアーの続行を主張していた。そこで、両者の

折衷案として、ビートルズが熱望した、下積み時代以来行っていないハンブルグ公演と、東洋

の文化に接するチャンスに胸を膨らませていた東京公演とを含む世界ツアーが浮上したと推

9

測される。その推測なしには、あの強気で知れるエプスタインが、相場よりはるかに低いギャ

ラ提示を受け入れた事実が説明できないのである。

ビートルズ来日

「ビートルズ台風」の上陸が予定されていた6月28日、日本は本物の台風4号に襲わ

れていた。そのためビートルズは、アンカレッジに足止めされ、羽田空港に着いたのは、29日

午前3時44分であった。ビートルズは機内で用意されたはっぴを着てタラップを降りてきた。

ビートルズはすぐさま準備されていたキャデラックに乗せられ、交通規制された夜明け

者会見

翌6月29日午後3時20分から4時45分まで、ヒルトン・ホテル地下2階の紅真珠の間

種の記者会見に嫌気がさしていたと

タラップを降りるビートルズ

の高速道路をパトカーの先導で、厳戒態勢のとられている赤坂ヒルトン(現キャピトル東急ホ

テル)に入った。

で記者会見が行われた。カーテンが上がって4人が姿を現したとき、「ポール!」という嬌声が

あがった他は、厳重な警備体制ゆえのものものしい雰囲気に包まれていたという。通訳は永

島氏がつとめた。形式的な質問が大半を占めたが、「ある日本人たちは、ビートルズの公演

に武道館を使わせることは、伝統的な日本の武道の精神に反すると言っているが」という質

問に対しては、ポールが「もし、日本の武道団がイギリスの王立劇場に出演しても、それがイ

ギリスの伝統を汚すことにはならないと思う。私たちもあなた方と同じように伝統を重んじる」

と、間髪を入れず切り返している。「ベトナム戦争に関心を持っているか」という質問に対して

は、「関心はいつも持っている。それが間違っていることも知っている。しかし、私たちの力で

はどうすることもできない」と、正直な胸のうちを語った。

ビートルズは、同じような質問が繰り返されるこの

いう。しかし、少なくとも日本では、自分たちの考えていることが正確に伝わるよう真剣に答え

ている。軽く流しているように見えても、それぞれの質問の本質を的確に捉え、過不足なく答

えている。考えてみれば、ビートルズのメンバーが自分たちの考えをその国の人に直接聞い

てもらえるのは、記者会見の場しかなかった。日本滞在中も例外ではなかった。

記者会見中のビートルズ

10

厳重を極めた警備体制

ビートルズの来日中は、彼らがどこにいても、戒厳令なみの警備体制がひかれた。理

ピングができなかった。

日公演の評価

ビートルズの来日公演は当初の3回から5回に変更されていた。6月30日から7月2日

ファンの反応は純粋で単純なものであったが、音楽関係者の評価は、二つに割れた。

な会

観客に1人の割で警官が見張っていたことになる。こんな物々しい雰囲気のなかで行われた

由は、極右翼と思われる人間から、「ビートルズの来日公演を中止しなければ、彼らを暗殺す

る」という通告が警察になされていたゆえである。そこで、ビートルズが羽田に着いたときから

羽田を発つときまで、厳重な警備体制が解かれることはなかった。

これによって、ビートルズは、楽しみにしていた東京でのショッ

ホテルではほぼ軟禁状態であった。ジョンは、持ち前の行動力を発揮し、原宿のオリエンタ

ル・バザーと材木町の朝日美術店をまわり、1時間後にホテルに戻った。ビートルズには暗殺

予告は知らされていなかったので、それを知っていてもジョンが同じ行動をとったか否かは、

想像の範疇にしかない。ポールも同じことを試みたが失敗し、警備員に連れ戻され、仕方なく

ホテルに骨董品商を呼び三味線等を購入している。

戒厳令なみの警備体制がひかれた武道館 ホテルでショッピングするポール

までの3日間に5回の公演を武道館で行った。ビートルマニアが日本に上陸して2年半の歳

月が経過していた。ファンにとってはまさに夢にまで見た憧れのアイドルにやっと会えたので

ある。熱狂する者、涙を流す者、呆然とステージを見つめる者、反応はさまざまだが、その後

の人生を変えられるほどの体験をした人は多かった。

会場で熱狂するファン

ビートルズがバンドである以上演奏そのものを評価すべきだという人たちと、演奏を含めた彼

らの来日がはたした役割を多角的に評価すべきという人たちの間で、評価は分かれた。

音楽的に言えば、高い評価は望めなかった。まず、問題は戒厳令を思わせるよう

場周辺の異常なまでの警備である。3日間に会場とその周辺の警備に動員された機動隊と

警官は、延べ5500人に及んだ。5回の公演の入場者は約5万人であったから、実に9人の

11

コンサートは、世界広しと言えども、ビートルズの日本公演以外になかったであろう。さらに、

警備上の理由から、場内の客電は落とされていなかった。それゆえに、4人をより明るく照ら

す必要が生じ、スポットライトはかなり強いものとなった。ジョンは「初日の1曲目はほとんど目

が開けられない状態だった」と、後で語っている。

加えて、音響設備の問題があった。当時の日本の代表的音楽誌『ミュージック・ライフ』

は、「前座のときから気がかりだったことだが、音響装置の不手際から、彼らの作り出すビート

全精力を注ぎこんでいたので、

ビートルズの来日公 こした社会現象を含めて評価され

と考える人々は、概して音楽以外のマスコミ関係者や映画関係者に多かった。例え

ば以下

。この驚異的数字が、すべての批判・評価を飲み込んでしまう客観性を持っていよう。

日の『読売新聞』社会面に、「長髪認めてと騒ぐ、神奈

県松田高校男子全員が授業放棄」という記事が載った。この記事は、自分たちをがんじが

はあまりきれいな音とは言えなかった」と、レポートしている。しかし、1万人規模のコンサート

に耐え得る音響装置など、当時はどこにも存在しなかった。

もちろん、ビートルズ側にも問題はあった。すでにライブへの意欲を失っていたのであ

る。ビートルズは、ツアー前『リボルバー』のレコーディングに

ツアー用のリハーサルをまったくしていなかった。ツアー最初の訪問地であったドイツでの演

奏はかなり悲惨で、「まずい演奏で作品をなぶり殺しにしているかのようであった」と酷評され

ている。それから比べれば、日本公演での演奏は、悪条件を何とか克服しようとベストを尽く

したという点で、一定の評価を下せる。実際、後に発売されたビデオ映像で見る限り、当時の

ライブの平均的レベルは確実に超えていた。

武道館で演奏するビートルズ

演は、彼らが日本中に巻き起

るべきだ

のようなコメントがあった。「とにかく凄い。熱中するファンの気持ちはわかる」(大島

渚)。「ビートルズの音楽を受動的に聴くのではなく、自分自身を燃焼させながら能動的に捉

えようとする聴衆たち。音楽の新しい聴きかたというべきであろう」(『読売新聞』7月2日夕

刊)。

ニールセンの調査によると、来日公演の特集番組の視聴率は59.8%であったとされ

ている

ビートルズ来日公演が残したもの

ビートルズ来日の直前、6月28

らめにしている現実に対して若者たちが怒りをぶつけ始めていた状況を鮮やかに伝えている。

ビートルズがやってきたとき、日本社会は大きな変動期にさしかかっていた。ビートルズは、

その変化のきっかけを「音楽」や「ファッション」という武器を使って日本の若者に与え、後押し

したのであった。ビートルズは、もはや旧体制からの解放を求める流れを阻止することは不可

能だとう現実を浮き彫りにして去って行った。この意味において、ビートルマニアは、音楽現象

の枠を越えた社会現象であった。その後、ビートルズの洗礼を受けた日本の若者は、新しい

若者文化を、新しい日本を創り始めていく。

12

The purpose of this study

a musical phenomenon but also a sociological phenomenon.

he Japanese accepted how the Beatles influenced Japan’s music scene and its social

e way for the acceptance

erica an outstanding economic power. Therefore

merican culture spread out all over the world because of the strong linkage between

he first media reports on t Japan

papers in Japan, reported for the first

me on the popularity of the Beatles in the UK. But the spelling for John Lennon was John

in 1963. As a result, radio programs were mainly forced to cover special news

Beatlemania is not only

T

situations. The purpose of this study is to clarify some aspects regarding the minds of the

Japanese during their period of rapid economic growth by verifying the way the Beatles were

accepted in Japan. This challenge also serves to show a new theory of the Beatles to the

world.

Paving th

The Second World War made Am

A

economics and culture. Elvis Presley, an American rock ‘n’ roll star, swept over the world.

John Lennon decided to be a rock ‘n’ roller the moment he saw Elvis on TV. In Japan,

Masaaki Hirao, Keijiro Yamashita, Hiroshi Kamayatsu copied Elvis’ songs with the lyrics

written in Japanese. Their music is called rockabilly, which paved the way for the

acceptance of the Beatles' rock 'n' roll.

Elvis Presley Masaaki Hirao

T he Beatles in

On November 10, 1963, Asahi, one of the major

ti

Lemon(^^;).

According to statistics, the spreading growth rate of TV in Japan in 1960 was 45%, which

rose up to 89%

that was difficult to be shown on TV (mainly covering daily news). Midnight radio

broadcasters, whose main targets were listeners who were fussy about music, started to play

American and British hits. One of the famous DJs, Goro Itoi played ‘Please Please Me,’ the

Beatles’ first No. 1 hit song in the UK. The Japanese had never heard the Beatles until that

time at midnight, precisely 1 am. December 11, 1963.

13

Goro Itoi

The symbolic phenomena of Japan’s rapid economic growth

The Second World War gave those countries which entered the war baby birthrate booms

at the Korean War boom

ade a similar growth possible, the real driving force was the endeavor of the Japanese to try

the world that Japan was no longer

The rap nese youths t have their own

ulture, the first su Affluent of

alues and life styles. Now they were not copies of their parents at all. The men’s

The article about the Beatles (Asahi, 11/10, 1963)

and the rapid economic growths. In Japan, although it was true th

m

to overcome their miserable situations after the war.

The high speed of the Shinkansen symbolized the Japanese rapid economic recovery.

Its high speed gave the Japanese a feeling that their future was bright. The Tokyo Olympic

Game in 1964 was an epoch-making event which showed

a developing country but a developed country.

The poster of the Tokyo Olympic Game Hikari on a trial run

id economic growth allowed Japa he opportunity to

c bculture in Japan. Japanese youths created their own sense

v

magazine Heibon Punch contributed to the creation of this youth culture.

14

Neo-trad fashion in the 60s The first issue of Heibon Punch

The symbolic phenomena mentioned above were the fundamental elements that helped

Japan to be the only country in Asia which could accept the Beatles in the 60s, which

occurred soon after the acceptance of the Beatles in other Western countries.

The live performance by the Beatles in Japan

The Beatles at Budokan

In 1966, the Beatles came to Japan. Before their live concerts, there was an

anti-movement against the Beatles’ performing at the Budokan, the Mecca of Japanese

martial arts. The protesters, mainly members of the ultra right wing organizations, declared

that they would assassinate the Beatles who were trying to disgrace the Japanese spirituality.

So the police were put on a high alert for a possible riot. Under this heavy police guard, the

Beatles managed to do their live performances. Even though some schools prohibited

students from going to the concerts, many students enjoyed the Beatles’ show at the

Budokan. The Beatles live program on TV had an audience rating of 60.5%.

Conclusion

Japan’s rapid economic growth and the newly born subculture, the by-product of the

growth, allowed the Japanese teenagers to be able to buy records and tickets for the

concerts and to understand the Beatles. In this way, the Beatles taught the youth in Japan

to be themselves and to have a rebellious spirit which previously held under taboo. They

became men and women growing out of their parents' guidance with the rock ‘n’ roll sound of

the Beatles.

15