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THE SERENGETI RULES THE QUEST TO DISCOVER HOW LIFE WORKS AND WHY IT MATTERS SEAN B. CARROLL セレンゲティ ルール 生命はいかに調節されるか ショーン B. キャロル 高橋 洋 生命はいかに機能するのか?人体はいかにして適切な数の細胞を生産しているのか。 アフリカのサバンナに生息するヌーやライオンの数はどのように決まるか。 そして、病んだ生態系の回復は可能なのか。 複雑きわまりない生命現象に共通する論理を見出した 進化発生生物学の第一人者が、蝕まれた生態系の危機に警鐘を鳴らす。 紀伊國屋書店 「さまざまな種類の分子や細胞の数を調節する分子レベルのルールが存在するのと同じように、 一定の区域で生息可能な動植物の種類や個体数を調節するルールが存在する」 分子から人間、ヌーの群れから生態系まですべては調節されている エボデボ

THE セレンゲティ ルール セレンゲティ · the serengeti rules the quest to discover how life works and why it matters sean b. carroll the serengeti rules the quest to

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セレンゲティ・ルール

         生命はいかに調節されるか

ショーン・B・キャロル﹇著﹈ 高橋

洋﹇訳﹈

THE SERENGETI RULES

THE QUEST TO DISCOVERHOW LIFE WORKSAND WHY IT MATTERS

SEAN B. CARROLL

THE SERENGETI RULESTHE QUEST TODISCOVERHOW LIFE WORKSAND WHY IT MATTERS

SEAN B. CARROLL

紀伊國屋書店 紀伊國屋書店

セレンゲティ・ルール生命はいかに調節されるか

ショーン・B.キャロル[著] 高橋 洋[訳]

著者紹介

ショーン・B.キャロルSean B. Carroll

1960年オハイオ州トレド生まれ。ウィスコンシン大学マディソン校教授。進化発生生物学(エボデボ)の第一人者で、2012年にベンジャミン・フランクリン・メダル、2016 年にルイス・トマス賞を受賞。邦訳された著書に『シマウマの縞 蝶の模様―エボデボ革命が解き明かす生物デザインの起源』(光文社)と、共著の『DNA から解き明かされる形づくりと進化の不思議』(羊土社)がある。野球とロックをこよなく愛する。

「世界全体のライオンの数は、五〇年前の四五万頭から、

現在では三万頭に激減している。

過去五〇年間で、世界各地に生息するさまざまなサメの種の個体数は、

九〇〜九九パーセント減少した。

現在、ヒラシュモクザメ、ジンベイザメなど、

二六パーセントのサメの種は、絶滅の危機に瀕している」

          ―

「イントロダクション 奇跡と驚異」より

病んだ生態系を治癒することにより、

激減してゆく動物は取り戻せる―

David Lazar/ Migration/ Getty Images

Courtesy HHMI

分子レベルから

生態系レベルまでを

支配する法則とは

紀伊國屋書店

生命はいかに機能するのか?―人体はいかにして適切な数の細胞を生産しているのか。

アフリカのサバンナに生息するヌーやライオンの数はどのように決まるか。そして、病んだ生態系の回復は可能なのか。

複雑きわまりない生命現象に共通する論理を見出した進化発生生物学の第一人者が、蝕まれた生態系の危機に警鐘を鳴らす。

本書で著者は、生命の恒常性という概念を提唱したウォルター・キャノンや、《食物連鎖》の仕組みを示して生態学の礎を築いたチャールズ・エルトン、分子レベルの調節の原理を解き明かしたジャック・モノーほか、生物学・医学における数々の偉大な発見に至った過程を活写。生体内における分子レベルの《調節》と生態系レベルで動物の個体数が《調節》される様相とのあいだに見出した共通の法則と、蝕まれた生態系の回復に成功した実例を、卓越したストーリーテラーの才を発揮していきいきと綴っている。紀伊國屋書店 セレンゲティ・ルール―生命はいかに調節されるか

「さまざまな種類の分子や細胞の数を調

節する分子レベルのルールが存在するの

と同じように、

一定の区域で生息可能な動植物の種類

や個体数を調節するルールが存在する」

分子から人間、ヌーの群れから生態系ま

で―

すべては調節されている E. O. ウィルソン、ニール・シュービン、

シッダールタ・ムカジーら絶賛 !!(『ヒトのなかの魚、魚のなかのヒト』著者)

(『病の皇帝「がん」に挑む』著者)

エボデボ

ホメオスタシス

エコロジー

ISBN978-4-7664-1972-6C0095 ¥2200E

定価(本体2,200円+税)

ISBN978-4-314-01147-1C0045 ¥2200E

定価(本体2,200円+税)紀伊國屋書店

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セレンゲティ・ルール―生命はいかに調節されるか

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THE SERENGETI RULES by Sean B. Carroll

Copyright © 2016 by Sean B. Carroll

Japanese translation published by

arrangement with Princeton University Press

through The English Agency (Japan) Ltd.

All rights reserved.

No part of this book may be reproduced or transmitted in any form or by any means,

electronic or mechanical, including photocopying, recording or by any information storage and

retrieval system, without permission in writing from the Publisher.

動物と

動物に関心を寄せる人々に

本書を捧げる

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私たちの運命が、たった一試合のチェスの勝敗に帰着するものだったとしよう。

ならば、少なくともおのおのの駒の名前や動きを学ぶことが、

私たちの第一の義務ではないだろうか?

(……)だが、私たち自身や、多かれ少なかれ自分と関係する人々の生命、運命、幸福が、

チェスなど問題にならないほど複雑で錯綜したゲーム、

その有史以前から続けられてきたゲームのルールに対する、

各人の知識に依存することは明らかである。

(……)チェス盤は世界であり、駒の動きは世界内で生じる諸現象である。

そしてそのゲームのルールとは、私たちが自然法則と呼ぶものなのだ *

1

―トマス・ヘンリー・ハクスリー『リベラルな教育(A

Lib

eral Ed

ucatio

n

)』(一八六八年)

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奇跡と驚異

10

    ルールと調節/セレンゲティ・ルール/生存するためのルール

すべては調節されている

第1章 からだの知恵

28

    臆病ネコ/神経質な胃/科学者にして軍人/からだの知恵

第2章 自然の経済

48

    北極圏への旅/北極の食物連鎖/レミングとオオヤマネコ/生命とは食物である

生命の論理

第3章 調節の一般的なルール

76

    前進と中断/細菌は何を好んで食べているのか?/

    酵素調節のルールを追い求めて/リプレッサの発見/

    二重否定論理の発見/フィードバック/生命の第二の秘密/大腸菌とゾウ

第4章 脂肪、フィードバック、そして奇跡の菌類

105

    フィードバックの発見/コレステロールの「ペニシリン」?/菌類から薬品へ

第5章 踏み込まれたままのアクセルと故障したブレーキ

127

    染色体と紙の人形/がん遺伝子の発見/調節のルールを破る/腫瘍抑制因子/

    論理的なセラピーと合理的な薬/汝の敵を知れ、そして殺せ

Ⅰ部

Ⅱ部

イントロダクション

 Ind

ex

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セレンゲティ・ルール

第6章 動物の階級社会

154

    大地はなぜ緑なのか?/蹴っ飛ばして観察する/

    食物網におけるカスケード効果と二重否定論理/

    すべての生物が平等に創られたわけではない

第7章 セレンゲティ・ロジック

179

    なぜスイギュウは増えたのか?/一三万トンのヌー/サイズがものを言う/

    野生動物のフィードバック調節/移動――食べられることなく少しでも多く食べる方法/

    ルールの相違と論理の同一性

第8章 別種のがん

213

    疫病/ヒヒの疫病/枯渇/ミッシングリンク/多すぎ、少なすぎ、やりすぎ

第9章 六〇〇〇万匹のウォールアイの投入と一〇年後

230

    栄養カスケードを操作する/稚魚、幼魚、漁師/オオカミとヤナギ/必要性と十分性

― *

は著者による註で、章ごとに番号を振り、原註として巻末に付す。

―〔 〕は訳者による註を示す。

『 』で括った書名について、邦題のないもののみ原題を初出時に併記する。

第10章 再生

249

    失楽園/実践的なプロジェクトを探して/底辺からの再生/

    巨大なサラダボウル/人々の生活の発展/ゴンゴローザ万歳!

生きるために従うべきルール

273

    社会的ユートピア/学ぶべき教訓

謝辞

290

訳者あとがき

293

参考文献

   

315  原註

   

337  索引

   

343

Ⅲ部

あとがき

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1011

イントロダクション | 奇跡と驚異

 正式にはタンザニアルートB144と呼ばれる砂利道は、アフリカの二つの偉大な驚異のあいだを結ぶ。

このガタガタ道を運転していると、骨はきしみ、歯はガチガチと音を立て、膀胱も試練を受ける。

 東端には、ンゴロンゴロ・クレーターの巨大な緑の斜面が屹立している。この巨大なクレーターは、大

地溝帯にある多数の死火山の一つが崩壊して形成された、幅およそ一六キロメートルのカルデラで、そこ

には二万五〇〇〇頭以上の大型哺乳類が生息する。西方には、広大なセレンゲティ平原が横たわる。絵葉

書の光景のようにみごとに晴れ上がったこの日、私たちはこの大平原に向けて車を走らせている。

 そこにたどり着くまでの道路沿いの景観は、青々と木々が茂ったンゴロンゴロ高地とは鋭い対照をなす。

水源はどこにも見当たらず、鮮せ

んこうしょく

紅色のシュカ〔マサイ族の愛用する、体に巻きつける大判の赤い布〕を着たマサイ

族の牧夫や少年たちが、茶色の刈株〔稲や麦を刈り取ったあとに残る根株〕を見つけては家畜に食べさせている。

しかし車が、セレンゲティ国立公園と書かれただけの簡素な門をくぐると、風景は一変する。

 マサイ族は姿を消し、彼らが暮らす不毛な区域に取って代わり、麦わら色の草原が現れる。ウシやヤギ

の代わりに、光沢のある黒い縞模様をしたトムソンガゼルが現われ、自分たちが朝食にありついている最

中に、あたり一面に砂埃を巻きあげながらやって来る見知らぬ連中を見ようと頭を上げる。

イントロダクション

奇跡と驚異

【図1】セレンゲティ国立公園のナアビ門 Photo courtesy of Patrick Carroll.

 ランドクルーザーに乗る私たちの期待は高まる。ガゼ

ルがいるのなら、高い草むらの背後には他の動物も必ず

や潜んでいるはずだ。私たちは車の天蓋を開けて立ち上

がる。頭のなかでは、アフリカ風のリズムでアレンジし

たポール・サイモンの「グレイスランド」が鳴り響く。

私はあたりを見回す。私にとって、マサイ族が「無限の

平原(Serengit

)」と呼ぶセレンゲティを訪問するのはこ

れが初めてだ。この伝説的な野生の聖

サンクチュアリ

域への巡礼に同行

しているのは、私の家族である。

 私は最初、少し心配になった。野生動物はいったいど

こにいるのか? 確かに今は乾季で、あたり一面ほんと

4

4

4

うに乾いている

4

4

4

4

4

4

4

ように見える。評判倒れに終わらなけれ

ばよいのだが。

 眼下に広がる草原は、コピエ(kopjes

)と呼ばれる岩だ

らけの小さな丘によってたまに途切れるだけで、延々と

続いている。花か

こうがん

崗岩の丸石の上に立てば、動物(や観光客)

は数キロメートル先まで周囲を見渡せる。また、灰色や

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1213

イントロダクション | 奇跡と驚異

赤い色をしたシロアリ塚が、草むらの背後から数十センチメートルほど突き出している。目は自然に塚の

形状に惹きつけられる。

 車のなかから「あれは何?」という声が聞こえてくる。何人かは双眼鏡を覗き、二〇〇メートルほど先

にある孤立した塚に焦点を絞る。

 「ライオンだ!」

 金色の雌のライオンが塚の上に立ち、周囲の草原を凝視している。

 「やっぱりいたか」と私は独り言をつぶやく。しかし、これがかの有名なセレンゲティなのか?

 丈の高い乾いた草が生茂る草原で何かを見つけるのはとてもむずかしい。家族のなかで生物学者は私だ

けだ。何日も四六時中目を凝らしてまで動物を見つけたいと思っているのは私くらいであろう。

 車でさらに進むと、いく筋かの緑の草地と、アフリカを象徴する樹冠の平らなアカシアの木がまばらに

立っている様子が目につき始める。十分な水をたたえた川が曲がりくねりながら緑の草地を貫いている。

小さな起伏を越えて角を曲がると、車はスリップしながら急停止した。シマウマとヌーが道を遮さえぎ

っていた

のだ。そして前方には、見渡す限りこれらの動物が徘徊していた。

 縞模様の動物の海が眼前に広がっていた。大きな水場に、おそらくは二〇〇〇頭以上が集まり、けたた

ましい鳴き声を立てている。「クワハ、クワハ」というシマウマの鳴き声は咆哮と笑いの中間といったとこ

ろだ。それに対しヌーの鳴き声は「ハ?」というつぶやきのように聞こえる。これらの群れは、一〇〇万

頭に達するヌー、二〇万頭のシマウマ、さらには数万頭の他の動物が、雨を追って緑に満ちた草原を求め

て北に向かって移動する、地上最大の野生動物の群れから落ちこぼれた個体から成る。

 私たちの左側にある小さな起伏の向こう側の水場のそばから、何頭かのゾウの一団が、小走りに駆ける

子ゾウを背後に引き連れながら列をなしてやって来る。群れは両側に分かれて道をあける。

 この地点から、セレンゲティはさまざまな大きさ、形、色の哺乳類から成る無限のキャンバスを描き始

める。無線装置のアンテナのように上向きにまっすぐに伸びた尻尾を持つ、灰色の小さなイボイノシシが

いる。レイヨウは多くの種がいて、小さなディクディクに巨大なエランド、他にもインパラ、トピ、ウォー

ターバック、ハーテビースト、トムソンガゼル、それより大きなグラントガゼル、どこにでもいるヌーなど、

少なくとも九種類を目にした。その他にセグロジャッカル、雲をつくようなマサイキリン、さらには初日

だけでネコ科の大型獣三種をすべて見ることができた。数頭のライオン、樹上で眠るヒョウ、道路のすぐ

脇でポーズをとるチーターの三種だ。

 写真や映画ではこれまでに何度も見てきたが、現地で初めて見る、この目の覚めるような光景はまった

く予期していなかったし、過去に見た映像のために興奮が薄められることもなかった。

 広大な緑の谷を眺めていると、新鮮で心地よい感覚が全身を襲ってくる。さまざまな動物の群れやアカ

シアの木がはるか遠方まで続き、周囲の小高い丘が落とす影の背後に日が沈まんとしている。タンザニア

を訪れるのは初めてだが、生まれ故郷

4

4

4

4

4

にいるかのように感じた。

 事実、ここは私たち人類の故郷なのだ。東アフリカの大地溝帯の至るところに、私たちの祖先や、その

祖先の骨が埋まっているのだから。ンゴロンゴロ・クレーターとセレンゲティのあいだには、全長およそ

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イントロダクション | 奇跡と驚異

五〇キロメートルのねじれた荒地の迷路、オルドヴァイ峡谷が横たわる。谷の侵食を受けた斜面(現在のB

144から五キロメートルほど離れた場所)で、メアリー&ルイス・リーキー夫妻とその息子たちは数十年にわ

たる探索の末、一五〇〜一八〇万年前に東アフリカに住んでいた三種のヒト科動物の骨を発見した。また、

のちにメアリーのチームは、ラエトリの南方五〇キロメートルほどの地点で、三六〇万年前の私たちの祖

先、小さな脳を持ち直立歩行していたアウストラロピテクス・アファレンシスが残した足跡を発見している。

 苦労の末に発掘したヒト科の動物の骨は、他の動物の大量の化石が堆積する積み藁わ

のなかから発見され

た貴重な針であった。それは、役者は変わったとはいえ現在でも私たちが見ることのできるドラマ(草食動

物の群れが何頭かの狡猾な捕食者から逃れようとして演じるドラマ)が、何百万年も続いてきたことを物語る。オル

ドヴァイ峡谷の周辺で発見された太古の石器や、骨に刻まれた畜殺の痕跡は、私たちの祖先が単なる観客

ではなく、主役であったことを示している。

                  * * *

 人類の生活様式は、数千年の歴史を通じて劇的に変化してきた。だが、過去一世紀のように大規模かつ

迅速に変わった期間はない。ホモ・サピエンスが存在してきたおよそ二〇万年のほぼ全期間にわたり、生

物学が私たちを制

コントロール御してきた。人類は果物、木の実、草本類を収穫し、動物を狩ったり魚を釣ったりして

きた。そしてヌーやシマウマのごとく、食物資源が枯渇すれば移動した。農耕や文明が誕生し都市が発達

してからでさえ、気ままな天候や飢饉や疫病の影響をもろに受けてきた。

 ところが直近の一〇〇年で形勢は逆転し、私たちのほうが生物学を制御するようになった。二〇世紀の

初期に(すべての戦争による死者の総合計よりはるかに多い)三億

4

4

もの人々の命を奪った天然痘はその後手なず

けられたばかりでなく、地球上から抹消された *

1

。一九世紀には都市住民の七〇〜九〇パーセントが感染し、

おそらくは七人に一人のアメリカ人の命を奪った細菌性の疾病、結核は、先進国ではほとんど見られなく

なった。かつては何百万もの人々に感染し、大きな被害を与え、生命を奪ってきた、ポリオ、はしか、百

日咳などの疾病は、現在では二〇種を超えるワクチンによって予防されている。一九世紀には存在しなかっ

たHIV/エイズなどの致死性の病は、合成薬品によってその勢力を弱められてきた。

 医療と同様、食物の生産様式も劇的に変化した。古代ローマの農夫は、一九〇〇年にアメリカの農場で

使われていた鋤す

、鍬くわ

、馬まぐわ鍬、熊手などの農耕用具なら、その用途がわかったであろうが、その後に起こっ

た農業革新を理解することはできなかっただろう。たかだか一〇〇年のあいだに、トウモロコシの生産

量は一エーカーあたり三二から一四五ブッシェル〔一エーカーは約四〇〇〇平方メートル、一ブッシェルは約三五

リットル〕へと四倍以上の増加を見ている。同様な生産量の増加は、小麦、米、ピーナッツ、ジャガイモな

どの作物にも認められる *

2

。農業技術の進歩によって新たな作物や家畜の品種、殺虫剤、除草剤、抗生物質、

ホルモン、肥料、農業機械が導入されると、同一面積でかつての四倍の動物を飼育できるようになり、の

みならずそれに必要な労力は、一世紀前は労働人口の四〇パーセントを占めていたのに、現在では二パー

セント未満に激減している。

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1617

イントロダクション | 奇跡と驚異

 過去一世紀間の、生物学に対する医療と農業の進歩の影響は甚大だ。世界の人口は二〇億人に満たな

い状態から今日の七〇億を超える爆発的な増加を見た。(一八〇四年に)世界の人口が一〇億に達するのに

二〇万年を要したが、現在では、たった一二〜一四年でそれだけの人口増加を見ている。また、一九〇〇

年生まれのアメリカ人の男女の平均寿命は、それぞれおよそ四六歳、四八歳だったが、二〇〇〇年生まれ

なら、七四歳、八〇歳まで生きられることが期待できる。自然の変化の度合いに比べると、かくも短い期

間に五〇パーセント以上延びたというのは驚異である。

 ポール・サイモンがいみじくも述べたように、私たちは奇跡の時代に生きているのだ。

    ルールと調節

 植物、動物、人体に対する私たちの支配は、現在も急速に進みつつある、分子レベルにおける生命の制

御メカニズムの理解に依存する。人の生命に関して私たちが学んだもっとも重要な分子レベルの知識は、

「すべてが調節されている」というものである。これは次のことを意味する。

◎酵素やホルモンから脂肪分、塩分などの化学物質に至るまで、体内のあらゆる分子の数は、特定の範

囲に維持されている *

3

。たとえば血中において、ある種の分子は、他の物質に比べ一〇〇億倍の数に保

たれている。

◎赤血球、白血球、皮膚細胞、腸細胞など、体内に存在するあらゆる細胞型(二〇〇種以上存在する)は、

特定の数だけ生産し維持される。

◎細胞分裂から糖代謝、排卵、睡眠に至るあらゆる身体プロセスは、特定の物質によって支配されている。

 疾病のほとんどは、特定の物質が過剰もしくは過少に生産される、調節の異常に起因することがわかっ

ている。たとえば、膵す

いぞう臓

でインシュリンの生産が落ち込むと、糖尿病を発症する。あるいは、血中の「悪玉」

コレステロールの量が増大すると、アテローム性動脈硬化や心臓発作が生じる。細胞が、通常はその数や

分裂を制限している制御メカニズムの作用を免まぬかれ

始めると、がん細胞が形成される。

 疾病に介入するには、調節の「ルール」を知る必要がある。分子生物学者(本書では分子レベルで生命を研

究する科学者のすべてを指す)の課題は、特定のプロセスの調節に関与するプレイヤー(分子)と、プレイを支

配するルールを解明することである。私たちは過去およそ五〇年間、さまざまなホルモン、血糖、コレス

テロール、神経化学物質、胃酸、ヒスタミン、血圧、病原体に対する免疫、種々の細胞型の細胞分裂など

を律するルールを学んできた。ノーベル生理学・医学賞の受賞者には、調節を司るプレイヤーやルールを

解明した研究者たちが数多く名を連ねている。

 薬局の棚には、これらの知識の果実が並んでいる。分子レベルの調節の理解を武器に、生命に必須の分

子や細胞型の活動を正常で健康なレベルに戻す、さまざまな医薬品が開発されるようになった。事実、世

界中で流通している医薬品のトップ五〇の過半数(二〇一三年におけるこれらの医薬品の総販売額は一八七〇億ドル

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1819

イントロダクション | 奇跡と驚異

に達する)は、分子生物学の革新なくしては生まれ得なかった *

4

 私も属する分子生物学者という種族は、人の命の延長や質の向上に貢献してきたことを誇りに思ってい

る。ヒトゲノム解読の劇的な進展は、より特定的で強力な医薬品の開発を可能にしたことで医療革新の新

たな波を生み出しつつある。人体を調節するルールの理解の革新は、今後も続くことだろう。本書の目的

の一つは、この革新がいかに達成されてきたのかを振り返り、どこへ向かいつつあるのかを見極めることだ。

 しかしルールに支配される生命の領域は分子のレベルに限られない。また、生物学の下位分野のなかで、

分子生物学だけが過去半世紀間に劇的に変容したのではない。生物学の目標は、生命を調節するルールを

あらゆるスケールで理解することにある。異なる種族に属する生物学者たちが、より大きなスケールで自

然を支配しているルールを発見しつつあり、目立ちはしないが類似の革新をなし遂げてきた。そしてこれ

らのルールは、分子レベルのルールに勝るとも劣らないほど、未来の人類の安寧に強く関与するはずだ。

    セレンゲティ・ルール

 この第二の革新は、何人かの生物学者が、「地球はなぜ緑に満ちているのか?」「動物はなぜ食物を食べ

尽くさないのか?」「ある場所から特定の生物を取り除いたら何が起こるのか?」という、見かけは単純

ないくつかの問いを立てたときに始まった。これらの問いは「さまざまな種類の分子や細胞の数を調節す

る分子レベルのルールが存在するのと同じように、一定の区域で生息可能な動植物の種類や個体数を調節

するルールが存在する」という発見に至った。

 私はこのような生態系レベルのルールを「セレンゲティ・ルール」と呼ぶ。というのもセレンゲティ国

立公園は、長期間に及ぶさまざまな研究を通じて十分に調査されてきた場所であり、たとえばアフリカの

サバンナでは何頭のライオンやゾウが生きていけるのかを、そこで測定することができるからである。こ

のルールは、特定の区域からライオンがいなくなると何が起こるかなどの問いの究明にも役立つ。

 とはいえこのルールは、セレンゲティ国立公園という特定の地域を超えてはるかに広い領域に当てはま

り、世界中で観察されている。しかも、陸地のみならず海洋や湖沼でも作用していることが判明している。

(だからこのルールを「エリー湖ルール」と呼んでも構わないのだが、それでは威厳を欠く)。セレンゲティ・ルールは

深遠で驚くべきものだ。深遠と言う理由は、それによって動植物や私たちの生存に欠かせない新鮮な空気

や水を生み出す自然の能力が決定されるからであり、また驚異的と言う理由は、それが表面には現われな

い生物種間の結びつきを説明してくれるからだ。

 しかし、人体における分子レベルのルールを医療に適用するのに多大な関心と費用が払われているのに

対し、人間の営みにセレンゲティ・ルールを適用する試みはほとんど見られない。いかなる薬品も人に対

して使用するためには、効果と安全性に関して一連の厳格な臨床テストがまず実施され、疾病を治癒する

能力に加え、人体内の他の物質や調節メカニズムに干渉して副作用を生まないか否かが検査される。かく

して認可の基準は高いハードルとして機能しており、候補の八五パーセントは臨床テストの段階で落と

される *

5

。このような基準の厳しさは、医薬品にしばしばともなう副作用に対する、医師、患者、製薬会社、

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2021

イントロダクション | 奇跡と驚異

監督機関の厳格な姿勢を反映する。

 ところが二〇世紀のほとんどのあいだ、世界の多くの地域で、多様な生物種の個体数や生息環境を変え

ることで生じる副作用について理解したり考慮したりすることなく、人々は、勝手気ままに動物を狩り、

魚を釣り、農場を造成し、木を切り倒し、手当たり次第に資源を燃やしてきた。そして世界の総人口が

七〇億に達した今日、私たちの繁栄がもたらしている副作用が、おぞましいニュースになりつつある。

 たとえば、世界全体のライオンの数は、五〇年前の四五万頭から現在では三万頭に激減している。かつ

てはアフリカ全域やインド亜大陸をうろつき回っていた百獣の王も、二六か国からその雄姿を消した。ち

なみにタンザニアには、現在アフリカのライオンの四〇パーセントが生息している *

6

。そしてセレンゲティ

国立公園には、地球上に残された最大のライオン生息地の一つがある。

 海洋でも状況は変わらない。サメは四億年以上にわたって大海原を自由に泳ぎ回っていた。しかし過去

五〇年間で、世界各地に生息するさまざまなサメの種の個体数は、九〇〜九九パーセント減少した。現在、

ヒラシュモクザメ、ジンベイザメなど、二六パーセントのサメの種は、絶滅の危機に瀕している *

7

 「だからどうしたというのだ? われわれは勝ち、彼らは敗れたにすぎない。それが自然の掟というも

のだ」と言う人もいるかもしれない。だが、自然が原因でこれらの動物の数が減っているのではない。セ

レンゲティ・ルールの作用を考慮すれば、身体の主要な器官の活動レベルが高すぎたり低すぎたりすれば

健康が損なわれるのと同じように、特定の動物の数が多すぎたり少なすぎたりすると、生態系全体が「病気」

になり得ることがよくわかるはずだ。

 地球上の生態系が病んでいる、あるいは

少なくとも疲弊している証拠はあまたある。

生態学者が考案した尺度に、食用や家畜の

飼料に供する穀物の生産、放牧、森林の伐

採、漁獲、宅地やエネルギー資源の開発、

化石燃料の消費などの人間の活動によって

生態系に残された総体的なつフ

ットプリント

め跡を測ると

いうものがある。この値を地球の総生産能

力と比べると、私がこれまで科学文献のな

かで見てきた図表のなかでも、もっとも単

純かつ意味深長なグラフの一つが描かれる

(図2参照)。

 人口がおよそ三〇億人であった五〇年前、

人類は毎年、地球の年間生産能力のおよそ

七〇パーセントを消費していた。この数値

は一九八〇年に一〇〇パーセントを突破し、

現在ではおよそ一五〇パーセントに達して

Number of Earths used by humanity

Number of Earths available,representing the total biocapacity

Num

ber o

f Ear

ths

Year

1.40

1.20

1.00

0.80

0.60

0.40

0.20

0.00

1961 63 65 67 69 71 73 75 77 79 81 83 85 87 89 91 93 95 97 99

【図 2】地球の総生産能力と比較した生態系に対する人類の需要私たちは現在、地球の生産能力のおよそ5割増しの資源を蕩尽している。Figure from Wackernagel, M., N. B. Schulz, D. Deumling, A. C. Linares et al. (2002) “Tracking the Ecological Overshoot of the Human Economy.” Proceedings of the National Academy of Sciences USA 99: 9266-9271. ©2002 National Academy of Sciences Photo courtesy of Patrick Carroll.

人類が利用してい

る地球の個数

バイオキャパシティによって示される利用可能な地球の個数

地球の個数

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2223

イントロダクション | 奇跡と驚異

の乗客のほとんどが、船の速度や緯度より、その晩のディナーのメニューのほうが気になっていたのは疑

うべくもない。

 だから私たち自身のためにも、人体に関するもののみならず、すべてのルールを知っておく必要がある。

より包括的に理解したうえで、生態系に関するこれらのルールを適用できるようにならなければ、己の手

で地球全体に及ぼしつつある副作用はいつまでも解消できないだろう。

 とはいえ本書は、いかに実践的であろうが喫緊であろうが、単なるルールの提示に終始するわけではな

い。これらのルールは、生命のあり方を理解しようとする長年の、そして現在も続く努力を通じて得られ

た一つの報酬なのであり、本書を執筆した目的の一つは、この探究の努力と、それによって得られる喜び

を生き生きと描くことにある。世界中の科学者や実験室での営みを忠実に追い、彼らの激闘と勝利を追体

験できれば、科学が喜びにあふれ、誰にも理解可能で、注目されてしかるべきものであることがわかるは

ずだ。このような指針に基づき、本書は、大きな謎に挑戦して並外れた業績を残した人々のストーリーを

主体として組み立てられている。

 彼らの発見には、人体や生態系の操作マニュアル以上の意義を見出せるはずだ。生物学に対して多くの

人が抱いている信念の一つに、生命の理解には事実に関する厖大な量の知識が求められるという誤解があ

る(生物学者や生物学の試験にも責任の一端はあるだろう)。ある生物学者が指摘するように、生命は「ほぼ無限

に近い多様性をケースバイケースで示す」かのように見える *

9

。この種の見方が正しくないことを示すのが、

本書のもう一つの目的である。

いる。これは、私たちが毎年使っている資源を再生するには、一個半分の地球が必要であることを意味する。

今や毎年行なわれているこの調査の結果の執筆者が述べているとおり、私たちはちょうど一個分の地球し

か手にしていない *

8

 生物学を支配することは可能になったのかもしれないが、私たちは自己の欲望のなすがままになってい

るのだ。

    生存するためのルール

 生物学者が言うと身内びいきのように聞こえるかもしれないが、過去一世紀における生物学の強い影響

は、あらゆる自然科学の分野のなかでも、この学問が人間の営みにとってもっとも重要であることを示す。

食料、医薬品、水、エネルギー、住居、生活手段の調達という難事に直面しなければならない近未来において、

生物学が中心的な役割を担うであろうことは間違いない。

 私の知る、生態系に詳しい生物学者は皆、地球の健康の悪化に強く懸念を抱き、私たちの生活はもちろん、

他の生物の生存を支える能力の低下を真剣に心配し始めている。分子レベルにおけるあらゆるミクロの脅

威に対抗する治療法を競うように探し求め、次々に発見しておきながら、より大きなスケールで生命がい

かに機能しているのかについて無理解でいることによって生じる脅威と、私たちが共有する生活環境の劣

化を知ってか知らずか、のほほんと無視していられるのなら、こんな皮肉はないだろう。タイタニック号

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イントロダクション | 奇跡と驚異

 人体の機能や、セレンゲティ国立公園で遭遇したできごとについてよく考えてみると、細かな事象は圧

倒的に細かく、無数の部分が存在し、それらのあいだの相互作用はあまりにも複雑に思えてくる。私が本

書で示す少数の包括的なルールの力は、複雑な生命現象を単純な論ロ

ジック理に還元する能力にある。このロジッ

クは、私たちの細胞や身体が、特定の物質の生産を増やしたり減らしたりする方法をいかにして「知る」

のかを説明する。また、サバンナに生息するゾウの数が増えたり減ったりする理由を説明する。個々のルー

ルは異なっていても、包括的なロジックは酷似するのであり、このロジックを把握することは、分子から

人間、ゾウの群れから生態系に至るまで、さまざまなレベルにおける生命の機能のあり方について正しい

認識をもたらしてくれるのだ。そのように私は考えている。

 生命の大きな謎に挑戦して輝かしき知見を手にし、私たちが住む世界をよりよい方向に変えるために並

外れた努力をしてきた類た

ぐいまれ稀な

る人々のストーリーを通じて、読者が、さまざまなレベルにおける生命の驚

異に関する新たな洞察を手にして本書を読み終えられることを、私は切に望んでいる。

                  * * *

 セレンゲティで五日間を過ごすあいだ、私たちはある一つの種しゅ

を除きあらゆる大型哺乳類を観察するこ

とができた。麦わら色の草原地帯を通って帰る途中、あたかも誰かにけしかけられたかのようなみごとな

タイミングで、特徴的なツノを生やした動物のシルエットが地平線上に浮かんできた。クロサイだ。セレ

ンゲティ国立公園全域でたった三一頭のサイしか残っていないことを考えれば、それはスリリングかつき

わめて貴重な光景だった。しかし、かつてここには一〇〇〇頭以上が生息していたことを考えると、これ

から対処していかねばならない挑戦がいかに困難なものかがわかる。勃起に関する分子レベルのルールが

解明されたおかげで、少なくとも五種類の安価なその手の医薬品が生産されている一方、サイは現在でも、

非常に高価な東洋の催淫剤の原料として使われる立派なツノのために密猟の対象になっている。