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Florence Nightingale 200 th Anniversary フローレンス・ ナイチンゲール とは クリミア戦争で負傷兵たちを献身的に介護し、公衆衛生や看護教育の分野で大きな改革を起こした フローレンス・ナイチンゲールが生まれて今年で200 年。ここでは、ナイチンゲールによるさまざまな医療改革の中から 衛生の分野に焦点を当て、ヴィクトリア時代の劣悪な衛生環境や公衆衛生の概念がナイチンゲールによって いかに向上したかをご紹介する。また現在、新型コロナウイルスの感染拡大が進むなか、 かつてナイチンゲールも推奨した「手洗い」に関する意外な歴史も併せて伝える。 (文:英国ニュースダイジェスト編集部) 参考:フローレンス・ナイチンゲール博物館、www.nationalarchives.gov.uk、「19 世紀イギリスの日常生活」クリステン・ヒューズ著ほか フローレンス・ナイチンゲール生誕 200年 ナイチンゲールの衛生学 フローレンス・ナイチンゲール(Florence Nightingale、 1820 年 5月12日 ~1910 年 8月13日)は、ヴィクトリ ア時代の英国で看護婦としてばかりではなく優秀な教育 学者としても活躍し、近代看護教育の母と呼ばれる。裕 福な家庭に生まれながらクリミア戦争に看護師として従軍 し、負傷兵たちを献身的かつ進歩的な方法で介護するほ か、統計に基づく医療衛生改革でも大きな評価を受けた。 戦時中に作られたナイチンゲール基金でロンドンの聖トー マス病院内にナイチンゲール看護学校を作り、英国では それをモデルに現在に近い看護師養成体制が整った。ナ イチンゲールの誕生日は国際看護師の日とされている。 Who's Florence Nightingale? Picture by: PA/PA Archive/PA Images ©Florence Nightingale Museum/Photographed by Elizabeth Bosanquet. 1906年、ベッド上のナイチンゲール(86歳)。クリミアでプラリア熱という病にかかったナイチンゲールは、38歳ごろからずっとベッドの上で寝ながら仕事をした 2 April 2020 vol.1552 www.news-digest.co.uk 11

tingale 0 h y ナイチンゲールの衛生学 - NiCoAaward.nicoanet.jp/pdfs/122_5f5f69e2b5f2a.pdf©Florence Nightingale Museum/Photographed by Elizabeth Bosanquet. 1906年、ベッド上のナイチンゲール(86歳)。クリミアでプラリア熱という病にかかったナイチンゲールは、38歳ごろからずっとベッドの上で寝ながら仕事をした

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Page 1: tingale 0 h y ナイチンゲールの衛生学 - NiCoAaward.nicoanet.jp/pdfs/122_5f5f69e2b5f2a.pdf©Florence Nightingale Museum/Photographed by Elizabeth Bosanquet. 1906年、ベッド上のナイチンゲール(86歳)。クリミアでプラリア熱という病にかかったナイチンゲールは、38歳ごろからずっとベッドの上で寝ながら仕事をした

Florence Nightingale

200thAnniversary

フローレンス・ナイチンゲールとは

クリミア戦争で負傷兵たちを献身的に介護し、公衆衛生や看護教育の分野で大きな改革を起こした

フローレンス・ナイチンゲールが生まれて今年で200年。ここでは、ナイチンゲールによるさまざまな医療改革の中から

衛生の分野に焦点を当て、ヴィクトリア時代の劣悪な衛生環境や公衆衛生の概念がナイチンゲールによって

いかに向上したかをご紹介する。また現在、新型コロナウイルスの感染拡大が進むなか、

かつてナイチンゲールも推奨した「手洗い」に関する意外な歴史も併せて伝える。(文:英国ニュースダイジェスト編集部)

参考:フローレンス・ナイチンゲール博物館、www.nationalarchives.gov.uk、「19世紀イギリスの日常生活」クリステン・ヒューズ著ほか

フローレンス・ナイチンゲール生誕200年

ナイチンゲールの衛生学

フローレンス・ナイチンゲール(Florence Nightingale、

1820年5月12日 ~1910年8月13日)は、ヴィクトリ

ア時代の英国で看護婦としてばかりではなく優秀な教育

学者としても活躍し、近代看護教育の母と呼ばれる。裕

福な家庭に生まれながらクリミア戦争に看護師として従軍

し、負傷兵たちを献身的かつ進歩的な方法で介護するほ

か、統計に基づく医療衛生改革でも大きな評価を受けた。

戦時中に作られたナイチンゲール基金でロンドンの聖トー

マス病院内にナイチンゲール看護学校を作り、英国では

それをモデルに現在に近い看護師養成体制が整った。ナ

イチンゲールの誕生日は国際看護師の日とされている。

Who's Florence Nightingale?

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1906年、ベッド上のナイチンゲール(86歳)。クリミアでプラリア熱という病にかかったナイチンゲールは、38歳ごろからずっとベッドの上で寝ながら仕事をした

2 April 2020 vol.1552 www.news-digest.co.uk 11

Page 2: tingale 0 h y ナイチンゲールの衛生学 - NiCoAaward.nicoanet.jp/pdfs/122_5f5f69e2b5f2a.pdf©Florence Nightingale Museum/Photographed by Elizabeth Bosanquet. 1906年、ベッド上のナイチンゲール(86歳)。クリミアでプラリア熱という病にかかったナイチンゲールは、38歳ごろからずっとベッドの上で寝ながら仕事をした

 19世紀の英国は産業革命により都市に急激に労働者が流入したものの、

街にはそれを受け入れる環境もシステムも整っておらず、低賃金で働く労

働者たちの生活水準は劣悪を極め、非人間的なレベルだった。しかも当時

はそうした下層労働者や貧民層に対する支援は「国庫の無駄遣い」と政府

から切り捨てられ、貧しいのは自身の努力が足りないのが原因と考えられ

ていたため、事態はいっこうに改善されることはなかった。

 そんな都市部を避けて中流階級の人々が郊外に引越して行く一方で、労

働者たちはより狭い面積により多くの人間を収容できるように建てられた

通風も採光もない粗末で狭い建物に、多人数で押し合うようにして暮らし

た。そのため、あらゆる感染症が広まったほか、下水道も発達していない

ことから道には汚水が流れ出し、ペストやコレラといった伝染病も蔓延。

この時代の中流階級男性の平均寿命が45歳なのに対し、労働者階級のそ

れはその約半分だった。1840年の国勢調査によると、英北西部マンチェ

スターの労働者とその家族の平均寿命が17歳という驚くべき記録も残っ

ているという。

 19世紀にロンドンには4度のコレラ大流行が起こり、1853~54年に

は1万人以上もの犠牲者を出した。工場排水や下水がテムズ川に流れ込み

井戸水が汚染されたのが原因だが、テムズ川は当時ひどい悪臭を放ってい

たため、腐敗物の不快な臭いを吸い込むことでコレラに感染すると考える

人々もいた。

そんな時代に起きたクリミア戦争(1854~1856年)は、黒海に面する

クリミア半島を舞台に、英国、フランス、サルディーニャ(イタリア)が

オスマン帝国の連合軍として参加した対ロシア戦。その一進一退を繰り返

す持久戦は、敵と戦う以外にも兵士たちに多くの負担と犠牲を強いるもの

だった。将校たちは比較的快適な生活を送っていたものの、一般の兵士は

極寒の時期にも満足な供給物はなく、地面の上で眠るなど悲惨な日々だっ

たという。また、英国軍はイスタンブールのセリミエや近郊のスクタリに

基地を置き、陸軍の野戦病院も設立されていたが、膨大な数の負傷兵や病

人に対処する能力を持っておらず、前線で傷ついた兵士たちは十分な手当

もされず放置された。その結果、その多くが戦いそのものではなく、感染

症や伝染病、飢餓で死亡するという状況だった。

 その様子は新聞社の特派員たちによって本国にも伝えられた。特に「タ

イムズ」紙の従軍記者ウィリアム・ハワード・ラッセルが、前線の負傷兵た

ちの極めて悲惨な状況を鮮明に描いた記事に、本国の市民たちはショック

を受け、当時大きな反響を巻き起こした。ドイツの看護師養成施設で研修後、

ロンドンの慈善施設で管理者としてすでに活動を始めていたフローレンス・

ナイチンゲールも心を動かされた一人で、この新聞記事がきっかけで、自

ら従軍看護師として現地に赴くことを決意した。

都市はスラム化していた1

2 クリミア戦争の死者の多くは実戦からではなかった

ヴィクトリア時代の衛生状況

(写真上)ロンドン西部ケンジントンのスラム街。借りられる家があればまだましで、貧しい人々は数時間から滞在できるドス・ハウスと呼ばれる汚い宿で体を休めては働いた(同左)この時代、コレラは空気感染すると思われていた(同右)かつてロンドン中心部コベントガーデンのセブン・ダイアルズは悪名高いスラム街。雨が降れば地下の家には容赦なく汚水が押し寄せた

(写真上)1856年、フローレンス・ナイチンゲールによって整備された後の、快適な環境になったスクタリの病室。太陽光が差し込む(同右)ロシア軍のセヴァストポリ要塞を攻める連合軍。セヴァストポリは小高い台地にあり、土塁と塹壕で固められていたため、連合軍は苦戦し大量の犠牲者を出した

ナイチンゲールの生きたヴィクトリア時代の英国は、産業革命で近代化する一方で生活環境が悪化。人々の階級格差も大きく広がり、弱者は街でも戦場でも劣悪な状況に甘んじ苦しんでいた。

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Page 3: tingale 0 h y ナイチンゲールの衛生学 - NiCoAaward.nicoanet.jp/pdfs/122_5f5f69e2b5f2a.pdf©Florence Nightingale Museum/Photographed by Elizabeth Bosanquet. 1906年、ベッド上のナイチンゲール(86歳)。クリミアでプラリア熱という病にかかったナイチンゲールは、38歳ごろからずっとベッドの上で寝ながら仕事をした

オンラインでも楽しめる

病院の看護システム改善に一生を費やす

当時の「看護婦」のイメージを一新

 1854年にナイチンゲールが24名の修道女と14名の病院看護経験者とと

もにイスタンブールのスクタリ野戦病院に乗り込んだとき、英軍は諸手を挙げ

て歓迎したわけではなかった。当時の英国で看護師は専門知識の必要がない

職業と考えられており、人の嫌がる不潔な仕事につくしかなかった意地悪で

がさつな年配の女性というのがそのころ定着していた看護師のイメージだった

という。軍としてもそのような集団に来てもらう理由もなく、医務官が指示を

出し、雑役兵が看護をするという、これまでの規律を崩そうとしなかった。そ

こでナイチンゲールはどの部署の管轄でもなかったトイレ掃除に目をつけ、そ

れを皮切りに病院の内部に入り込んでいく。負傷兵の食事の世話や不潔なシー

ツの洗濯など、医療行為以前の基本問題に取り組むことで、着任当時42%だっ

た負傷兵の死亡率が、3カ月後には5%にまで低下した。ナイチンゲールはこ

うしてスクタリ病院のスタッフ総責任者に昇進。看護婦のイメージを根底から

覆しただけではなく、重要なのはまず衛生であることを上層部に気づかせた。

 1856年の終戦とともに帰国したナイチンゲールは、戦地で成し遂げた偉

業を認められ、国民的英雄として迎えられた。クリミア戦争の悲劇を繰り返し

たくないという思いから、ナイチンゲールはその後も統計学を駆使し、兵士の

死因ごとに死者の数をひと目で分かるように工夫した「コウモリの翼」と呼ば

れるグラフを作り報告書をまとめたほか、戦時中に始められた「ナイチンゲー

ル基金」に集まっていた多くの寄付金を使って1860年に看護学校をロンドン

の聖トーマス病院内に設立。また、「看護覚え書き」をはじめとした看護の仕

事に関わる多くの執筆も行った。ナース・コール、病室に設置された水とお湯

の出る蛇口、ナース・ステーションを中心とする現代の病院でも使われている

病棟のシステムを開発したのもナイチンゲールで、90歳で死去するまでその

一生を医療衛生学に費やし、公衆衛生の発展に尽力した。

 ナイチンゲールの著書「看護覚え書き」(原題「Notes on Nursing」1859年)

は現在でも看護師のバイブルとして読みつがれており、「看護とは何か」という

原点に立ち返るには必読の書と言われている。ナイチンゲールは看護を「生活

を整えて、患者の自然治癒力を助けること」だとし、前後して書かれた「病院覚

え書き」(原題「Notes on Hospital」1859年)では、病院がそなえるべき第一

の条件は、「病人に害を与えないこと」と書いている。つまりどんなに強力な薬

剤や高度な医療設備も、新鮮な空気、太陽の光、暖かさ、清潔さ、静かさ、適

切な食事、などの基本的な環境抜きには語ることができないということだ。また、

本来ならば、看護に最適なのはそうした環境を備えた自宅だとも加えている。

 こうして、クリミア戦争で傷ついた兵士たちを救うことで始まったナイチン

ゲールの奮闘は、病院や学校の整備へと広まり、やがて公共施設にのみならず

一般家庭の衛生習慣の改善にも大きく貢献することになった。そこには、現在

では当然の習慣であるものの、当時はまだ目新しかった「手洗い」という行為も

含まれていた。

1860年に建てられたナイチンゲール看護学校の跡地に作られたミュージア

ムでは、5月12日のナイチンゲールの誕生日を記念したエキシビションが開

催中。あいにく現在は新型コロナウイルスの感染拡大で休館中だが、展示の

様子をオンラインで公開中だ。ナイチンゲール自身や同時代の人たちの声を

聞くことができるほか、クリミア戦争に持参された薬箱や、見回り時に使われ

たランプ、ナイチンゲールが飼っていたペットのふくろう「アテナ」のはく製、

体調を崩したナイチンゲールが過ごしていたベッドなども見ることができる。

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将来を見すえて本を執筆

ナイチンゲール誕生200周年記念エキシビションNightingale in 200 Objects, People & Places

ナイチンゲールが取り組んだこととは

Florence Nightingale MuseumSt Thomas’ Hospital, 2 Lambeth Palace Road, London SE1 7EWTel: 020 7188 4400 www.florence-nightingale.co.uk/200exhibits

その形から「コウモリの翼」と呼ばれる、ナイチンゲールの編み出した円グラフ。 クリミア戦争における死者数を視覚で訴えるために作られた

(写真左)クリミア戦争勃発直後、34歳のナイチンゲール。(同下)ナイチンゲールがスクタリの野戦病院に持って行った薬箱

(写真左)博物館でのエキシビションの様子(同右)ペットのふくろう「アテナ」。 クリミアに発つ日に死んでしまい、ナイチンゲールはショックで出発を2日遅らせたという

上流階級出身でロンドンのメイフェア地区に住む身ながら、親の反対を振り切り貧民施設などを

訪れ、何とか社会のためになれないかと考えていたナイチンゲール。クリミア行きで

隠された能力が開花した。

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衛生的な手洗いの歴史は 比較的新しい

 手を洗う行為自体は、古代から複数の宗教の

中に存在してきた。ユダヤ教では食事の前や帰

宅後に、イスラム教では礼拝の前に手を洗う。

神社を参拝する前に手てみずや・ちょうずや

水舎で手を洗う作法と同

じで、そのどれもが身を清めるための儀式にと

どまり、衛生的手洗いとはかけ離れたものだった。

「手に付着した何かが感染症を引き起こす」とい

う仮説が生まれたのは実は1840年代に入って

から。残念ながら当時はまだ細菌学が確立され

る前であり、提唱者であるハンガリー人医師、

センメルヴェイス・イグナーツ・フュレプ(1818

~1865年)の先進的な考え方はなかなか理解

されなかった。

センメルヴェイス・イグナーツの 早過ぎた発見

 1846年、オーストリア帝国のウィーン総合病

院・第一産科で働いていたセンメルヴェイスは、

産後に発熱が続く産褥熱による産婦の死亡率の

高さが、同院の第二産科に比べ著しく高い原因

を知りたかった。恐ろしいことに、この時代はミ

アズマと呼ばれる気体が病気を蔓延させると信

じられていたため、死体解剖を行った医師が手

を洗うことなくお産に立ち会うことはごく当たり

前に行われていた。ある日センメルヴェイスの同

僚が産褥熱で死亡した患者の遺体の検体解剖を

行った際に指を傷つけてしまい、その後産婦と

似たような症状を発し死亡してしまう。これを見

て「死体の粒子が産婦を汚染しているのでない

か」と仮説を立てたセンメルヴェイスは、解剖台

の臭い消しに塩素消毒が使われていることにヒ

ントを得て、次亜塩素酸カルシウムで手の消毒

を実行。結果死亡率が大幅に下がったものの、中・

上流階級出身の医師集団にとって「自分の手が汚

い=貧困層のようだ」という事実は受け入れがた

く、センメルヴェイス医学界から追放されてしま

う。奇しくもセンメルヴェイスが亡くなる19世

紀半ばごろは、ルイ・パスツール、ロベルト・コッ

ホ、英外科医のジョセフ・リフターなど欧州各地

で学者・医師が見えない敵に対し独自のアプロー

チを行っていた時期でもあった。医療業界には

びこる常識が科学的根拠によって打ち砕かれた

のは1890年代に入ってからで、手洗いは医療

現場から一般市民へと広がっていく。

新型コロナウイルスには 手洗いが有効

 先人が生きていた時代と異なり、現在はマス

クや手指用のアルコール消毒など、対策グッズ

が世に多く出回っているものの、新型コロナウイ

ルスに対する感染予防には手洗いの方が有効の

ようだ。

 咳やくしゃみをするときに手で口を抑えたり、

電車やバスなどの手すりを掴んだりすることで、

手は自然と病原体の温床へと化していく。「ガー

ディアン」紙(電子版)によると、人間は2~5分

に1回、手で顔に触れているそうで、汚い手で無

意識に目、鼻孔、口などに触れてしまうとさらに

感染リスクが高まる。大切なのはとにかく手から

ウイルスを洗い流すこと。新コロナウイルスの表

面は脂質二重層になっており、せっけんはその

脂肪層を融解しできるので手洗いにかなりの効

果が期待できるという。アルコール消毒も有効

だが、こちらはウイルスを「死滅」させるもので

あり、手洗いとはその役割が異なる。

自分だけの手洗いソングが作れる ウェブサイトが登場

 現在政府は20秒間の手洗いを推奨している。

これは「ハッピー・バースデー」の曲を2回歌う

時間と同じくらいなのだが、もし自分の好きな曲

でできたらより積極的に手を洗えるのではない

だろうか。新型コロナが流行し出してすぐ、英中

部ノーザンプトン在住のウィリアム・ギブソンく

んは手洗いソングの歌詞カードが簡単に作れる

ウェブサイト「ウォッシュ・ユア・リリックス」を

開発。ウェブサイトにて曲名とアーティスト名を

入力するだけでNHS(国民医療制度)が推奨す

る13ステップの手洗い図解シートに自動的に歌

詞が振り分けられ、オリジナルの歌詞カードが作

れるという楽しいシステムだ。お子さんや身近

に高齢者の方がいたら、ぜひ家族のために作っ

てみてはいかがだろうか。

今だからこそ知りたい

意外な手洗いの話日常ですっかり習慣化されている手洗いだが、ウイルスから身体を守るの

に有効な手段だと認識されたのは案外最近のことらしい。新型コロナウイ

ルス感染防止に一役買っている手洗いにまつわる小ネタを集めてみた。

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センメルヴェイス・イグナーツ・フュレプ博士。 最後は精神病院で亡くなった

歌詞カード。1番人気のある曲は英バンド、 クイーンの「ボヘミアン・ラプソディ」だそう

ⓒhttps://washyourlyrics.comセンメルヴェイスの著作をもとに作成した、第一産科における産褥熱の死亡率の推移。

センメルヴェイスが塩素消毒法を導入した1847年5月半ば(赤線)から明らかに低下している

詳しい新型コロナウイルス対策はP16へ

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