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Title A・スミス価格構成説とK・マルクス価値構成説批判 : 賃金 と利潤の現実と真実 Author(s) 神田, 敏英 Citation [岐阜大学地域科学部研究報告] no.[21] p.[1]-[21] Issue Date 2007-08-31 Rights Version 岐阜大学地域科学部 (Faculty of Regional Studies, Gifu University) URL http://hdl.handle.net/20.500.12099/15569 ※この資料の著作権は、各資料の著者・学協会・出版社等に帰属します。

Title A・スミス価格構成説とK・マルクス価値構成説批判 : 賃 …repository.lib.gifu-u.ac.jp/bitstream/20.500.12099/15569/...岐阜大学地域科学部研究報告第21号:

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  • Title A・スミス価格構成説とK・マルクス価値構成説批判 : 賃金と利潤の現実と真実

    Author(s) 神田, 敏英

    Citation [岐阜大学地域科学部研究報告] no.[21] p.[1]-[21]

    Issue Date 2007-08-31

    Rights

    Version 岐阜大学地域科学部 (Faculty of Regional Studies, GifuUniversity)

    URL http://hdl.handle.net/20.500.12099/15569

    ※この資料の著作権は、各資料の著者・学協会・出版社等に帰属します。

  • 岐阜大学地域科学部研究報告第21号: 1-21 (2007)

    A・スミス価格構成説とK・マルクス価値構成説批判

    一賃銀と利潤の現実と真実

    神田敏英

    (2007年7月6日受理)

    A・ Smith's Composed Price Theory vs. K. Marx's Critique of the

    Composed Value Theory: Actualityand Reality of Wage and Proflt

    Tbshihide KAUDA

    本論文の意図 前回拙論1においてマルクス「A・スミスのドグマ」の一環として価格

    構成説をも検討したが、 「スミスのドグマ」検討自体は『資本論』第2巻再生産論の中であ

    り、価値また価格の構成説の検討部分はいわば付随的論点であった。 2 拙論ではさらに第

    3巻における俗流経済学批判の主内容としての価格構成説をも対象としたが、後で、この

    論点はマルクスの生産価格並びに第3巻次元の認識と関連してなお論ずべき点があると考

    えるに至った。即ち、マルクスの転化による生産価格規定は優れたものであるが、猶不十

    分な箇所が残されそれが彼の認識にも反映し価値規定から生産価格規定-の原理的転換を

    明確にしえず、その結果価格構成を価値構成説として一義的に否定するに至らしめた、と

    するものである。本論文では、この点をまずスミス説並びにマルクス説に即し、次に我が

    開発した価値並びに価格定式によって検討する。

    Ⅰ アダム・スミスの価値論:支配労働価値説と価格構成説

    スミスは文明社会では商品は全て貨幣により売買ないし交換されるが、貨幣を尺度とす

    る「名目価格」は貨幣の価値変動やその制度的条件の変動に左右されるとして、それと区

    別される「財貨の相対価値または交換価値」を規制する原理を究明すべきとし、そのため

    に第1に「交換価値の実質的尺度」 (真実のあるいは本当の尺度)は何かを明らかにしたい

    と提起し、次のように説明する。『国富論』第5章 諸商品の実質価格と名目価格について、

    即ち労働価格と貨幣価格について、の冒頭文である。

    1神田敏英、 「マルクス「A・スミスのドグマ」の批判的検討」、 『岐阜大学地域科学部研究報告 第20号』、 2007年2月2マルクスは第2巻において、 「「諸商品の価格の構成部分」即ち「全ての交換価値の構成部

    分」に関するA・スミスの学説」と紹介し、すぐ後で、 「価値構成諸部分」と解釈する。

    (『マルクス資本論Ⅱ』新日本出版社、 19卯年、 58ト583頁)

  • 2 神田敏英

    「あらゆる人は、その人が人間生活の必需品、便宜品及び娯楽品をどの程度に享受でき

    るかに応じて富みまた貧しい。ところで、一旦分業が徹底して行われると、一人の人間が

    自分自身の労働で充足しうるのは、これらのうちのごく小さな部分に過ぎない。彼はその

    圧倒的部分を他の人々の労働から引き出さざるを得ないのであって、彼は自分が支配しう

    る労働の量つまり自分が購買できる労働の量に応じて富んだり貧しかったりせざるを得な

    い。従って、ある商品の価値は・・

    ・その商品がその人に購買または支配させうる労働の

    量に等しい。それ故、労働は一切の商品の交換価値の実質的尺度なのである。」 3

    スミスは近代文明社会における富の増大の原因として分業の発展を挙げる。分業社会で

    は個人の豊かさは自己労働ではなく他人労働-社会労働に依拠し、それは直ちに交換社会

    とされ、貨幣が現実の交換手段かつ尺度として示される。しかし貨幣による売買はその時

    の市場条件や貨幣価値またその尺度単位量の変動にさらされる「現実価格」であるが故に、

    別に、長期的平均的「自然価格」が、そして貨幣による「現実の尺度」と別にそれを測る

    「真実の尺度」が提起され、 「真実の価格」 -購買力として労働が示される。 「あらゆるも

    のの実質価格、つまりあらゆるものがそれを獲得しようとする人に現実に費やさせるもの

    は、それを獲得するための労苦や煩労である」 4から、労働は「他人労働に対する支配力」

    である。 5 自分労働と他人労働との交換で、スミス価値論を特徴付ける「支配労働価値説」

    である。マルクス価値論はよく「投下労働価値説」と言われ対比されるが、マルクス自身

    はスミス価値説をこう評価した。

    「ここで強調されるのは分業によって惹き起こされた変化である。その変化とは富はも

    はやその人自身の労働生産物の内にではなく、この生産物が支配する他人労働の量即ちこ

    の生産物が買いうる社会的労働の内に存するということ、そしてこの量はこの生産物その

    ものに含まれる労働の量によって規定されている、ということである。ここで事実上言わ

    れるのは、ただ、私の労働は社会的労働としてのみ、従って私の労働の生産物は等量の社

    会的労働に対する支配としてのみ私の富を規定するという、交換価値の概念だけであ

    る。 ・・

    ・ここでアダム・スミスが事実上言うのは、諸商品の価値はそれらに含まれる労働

    の量によって規定されており、商品所有者の富は彼の自由になる社会的労働の量の内に存

    する、と言う事に他ならない。」 6

    スミスの規定が自分労働も他人労働も同じく社会的労働とする事にあると、明確にされ

    る。即ち「真の価値尺度」たる「労働」は社会的労働で、個々の商品価値はその支配量で

    あり、その獲得を規定するのが自分労働なのである。スミス価値説-の最高の肯定的評価

    と言えよう。7 支配労働量は自分の商品と交換に取得できる他人商品の労働量であるから、

    3アダム・スミス著大内兵衛・松川七郎訳『諸国民の富Ⅰ』岩波書店、昭和44年、 105頁4同、 105頁5

    「ホップス氏が言うように富は力である。」同、 106頁6マルクス、 『資本論草稿集⑤』大月書店、 1980年、 61-2頁7スミス支配労働価値説は、特にマルクス経済学派において上のマルクスの評価を前提にし

    つつも様々に解釈されてきたように思われる。羽鳥卓也は「支配労働量を真の価値尺度と

  • A・スミス価格構成説とK ・マルクス価値構成説批判

    一賃銀と利潤の現実と真実

    3

    その取得のために「等量の労働」が必要である。 「様々な物を獲得するために必要な労働量

    の割合がこれらの物を互いに交換するためのある基準になりうる唯一の事情であるように

    思われる。」 8 即ち自分の投下労働量-支配できる他人の労働量である。我はマルクスの評

    価を全的に支持するが、しかし尚、スミスの支配労働価値説はより広い世界を包摂する、

    と考える。自分労働量-他人労働量がそのまま行われるのは「資財の蓄積と土地の占有と

    の双方に先行する社会の初期未開状態」に限られる。

    第5章で商品の実質価格と名目価格を分析した後、スミスは第6章を「諸商品の価格の

    構成部分」と題する。 「資財が個々人の手に蓄積されるや否や」それらは他人を就労させる

    ために使用されうるが、その目的は利潤即ち就労者-の賃銀を支払った残余を得る事であ

    り、 「それ故、職人達が原料に付加する価値は二つの部分に分解される。」 9、 10 労働者が

    付加する価値と受け取る報酬は一致しなくなり、投下労働と支配労働の幸福な一致は終わ

    る。そこでスミスは大きく前進する。資財の所有者が得る利潤は監督・指揮労働の賃銀で

    はなく全く別の原理によって規制され、労働量に照応するのではなく、 「自分の利潤は自分

    の資本に対して規則的な比例を保つはずだ、という事を期待している。」 11投下資本とそ

    れによる充用労働量は諸部門において一致しないから、ここに投下労働と支配労働との第

    二の裂け目が現れる。二つの裂け目はいずれも資本の存在により生ずるが、一つは労働者

    の投下労働とその報酬-支配労働量との不一致、一つはその残余である利潤が投下労働量

    に一致しないと言うより比例しない事である。スミスにあって両者が同時に提起されてあ

    る事を確認したい。彼にあって一体のものなのである。

    労働者が付け加える価値は賃銀、利潤とともに土地所有者に対する地代をも支払わねば

    して捉えたスミス」と表現し、スミス価値論を「支配労働価値尺度説と投下労働価値源泉説との共存と言う二元論的構成」と特徴付ける。 (羽鳥卓也『『国富論』研究』未来社、 1990

    年、 82頁) 「支配労働-価値尺度説」は、 「真の価値尺度は、市場で通常の商品や貨幣と交

    換されるものとしての「労働」という特殊な商品でなければならないという見解」 74頁)、と説明される。後に示すマルクスの「(スミスは)労働の交換価値を商品の価値尺度にして

    いる」 (注16)、と照応する一文であるが、上のマルクスの規定には、商品としての労働は

    全く問題にされてないから、合わないと考える。藤塚知義は、 「ここで言われる「労働」は、

    支配労働量ではあり得ない。もし支配労働を以て価値尺度とするならば、支配労働を尺度

    として支配労働を計ると言う事になり、それでは意味のない同義反復になってしまうだろ

    う」 (藤塚知義『アダム・スミスの資本理論』日本経済評論社、 1990年、 42頁)、と支配労

    働-価値尺度説を「通説」としつつ「理解できない」と反論する。我も、 「真の価値尺度」

    たる労働は無形容だから全ての労働以外あり得ないと考え賛成である。商品の価値-支配労働量だから、支配労働量は価値規定要因である。

    8同、 131頁9同、 132頁10

    「アダム・スミス『国富論』においては、とくにその第2編において、 stockとcapitalとは厳密に区別され、ストックー般が、直接消費にあてられるべきストックと資本として用

    いられるものとに分けられ、この資本の使用(employment)を中心として資本蓄積(accumulationofcapital)が論ぜられている・ ・ ・

    。」藤塚知義『アダム・スミスの資本理論』日本経済評論社、 1990年、 77頁。藤塚はスミスにおけるこのキャピタルの用法が「当時としては極めて異例」とし、彼の概念規定を詳細に研究している。ll

    『諸国民の富Ⅰ』、133頁

  • 4 神田敏英

    ならないから、三部分に分解する。そしてマルクスの言う「A・スミスのⅤ+Mドグマ」即

    ち投入生産手段価値分の消去と共に、商品価格について規定される。

    「どのような社会でも、あらゆる商品の価格は、結局これら三部分のいずれか一つにま

    たはその全てに分解されるのであって、あらゆる進歩した社会では、この三つの全てが圧

    倒的部分の商品の価格の中に、その構成部分として多かれ少なかれ入り込んでいるのであ

    る。」 12

    価格についての規定をまずあらゆる社会に適用されるべきものとして設定する。次いで

    そこで価格部分-の分解とそれによる価格の構成が同一視される。そこでこの規定が「価

    格」のものとされる事が注目されるが、尚その前に「価値」と言う言葉を用い、こう言わ

    れる。

    「注意されなければならないのは、価格のありとあらゆる構成部分の実質価値は、その

    各々が購買または支配しうる労働の量によって測られる、と言う事である。労働は、価格

    のうちで、労働に分解される部分の価値を測るばかりでなく、地代に分解される部分の価

    値と、利潤に分解される部分の価値をも測るのである。」 13

    連続するこの一文(我の引用では前後逆)で、彼が価値と価格を区別している事が分か

    る。 14 労働は価格ではなく価値を計るのである。構成部分-の分解とか構成は価格だけに

    属する事で、価値は一体なのであり、価格に対して「実質(真実、本当)」と位置づけられ

    る。故に彼の主張はただ「価格構成説」とのみ名づけられるべきである。価格において、

    投入生産手段価格の賃銀・利潤・地代-の遡及還元を含んで、分解と構成は同じ事の順逆

    関係でしかない。 15 さらに、スミスはこの分解された各要素に彼の自然価格論を適用し、

    それぞれの自然率を想定し、それらの市場価格変動の収欽軸とする。すると、労賃につい

    ては様々な労働種類の熟練度・複雑度・強度・社会的評価度等の相違を含みつつも投入労

    働量に正比例するが、利潤と地代の率については明らかに労働量に正比例しない。投下労

    働と支配労働との一致は、こうして価格の全要素に関しては成立しない。しかし、それら

    も労働を「本当の尺度」として各々の帰属量即ち支配労働量を言う事は出来る。スミスに、

    労働にとって付加された価値量が各々分解され独自な法則と割合で再構成される全体関

    係:マルクス転化論で言えば総計一致関係:についての説明はないが、ただ尺度として社

    会的労働-の即ち価格要素の価値-の帰属を素朴に確認した、と言えるだろう。スミスに

    あって、価格構成説は労働価値説の支配下にあり、両者一体である、スミスはそれによっ

    12同、 136頁13

    『諸国民の富Ⅰ』、135頁-4羽鳥は、 「『国富論』初版では、 - ・三箇所に、賃金・利潤・地代こそが「価値の源泉」をなすという趣旨の文言が書かれていたのに、第二版では、これらのうちの二箇所(上に

    引用した文はその-一神田)が改訂されて、 「価格の構成部分」に書き改められたのであっ

    た。」 (羽鳥卓也、前掲書、 94頁)、と指摘する。スミスが用語の厳密化に努めたといえるの

    ではないだろうか。羽鳥は、 -箇所の未改訂はスミスの見落としであろうと推測する。15

    「スミスのいう分解価値説と構成価値説とは、スミスにおいては同じ事なのであって、

    決して前者を否定して後者に移行するといっているのではない。」藤塚知義、前掲書、 49頁

  • A・スミス価格構成説とK ・マルクス価値構成説批判

    一賃銀と利潤の現実と真実

    5

    て資本制を含め「あらゆる社会」に一般的に適用できるものとして支配労働価値説を主張

    した、と言えるだろう。

    Ⅲ マルクスのスミス理論評価

    マルクスは「経済学はA・スミスにおいて-全体にまで発展し、包括する領域はある程度

    まで確定された」、と経済学史におけるスミスの位置を示す。しかし、その理論体系に対し

    て「スミス自身は絶え間ない矛盾の中で動揺している。一面では彼は経済学的範時の内的

    関連を即ちブルジョア的経済体制の内的関連を追及する.他面で彼は競争の諸現象のうち

    に外観的に与えられている通りの連関を・-併置している」 16、と言う。創始者であるが故

    に、 「奥義を掴んだ所」と「通俗的な所」が入り混じり、ヤーヌスのような両面性を見せて

    いる、ということであろう。 「奥義を掴んだ所」 - 「ブルジョア体制の生理学-の突入」は

    「商品の交換価値の正しい規定一即ち商品に費やされた労働量または労働時間によるそれ

    の規定-を堅持している」 17 事並びに「剰余価値- ・剰余労働を一般的範時として掴(ん

    でいる)」 18 事である。マルクスはそれを強調し賞賛すると同時に、それがスミスにあっ

    て一貫せず別の観点が混入すると指摘する。

    「A・スミスが交換価値の規定においていかに動揺しており、特に諸商品の生産に必要な

    労働量による当該商品の価値の規定と、それを以って一定量の生きている労働の量とを、

    または同じ事であるがそれを以って一定量の生きている労働の量が購買されるところの商

    品の量とを、ある時はいかに混同しまたある時はいかにこれによって押しのけているかを、

    (前に)指摘した。この場合、彼は労働の交換価値を商品の価値の尺度にしているのであ

    り、事実上は賃金を尺度にしているのである。」 19

    支出された労働量の(貨幣的)評価と採れば、 「労働の価値」は労働量による価値規定と

    同義つまり言葉だけの事であるが、 「生きた労働量の購買価値」と採れば、それは賃金であ

    り、全く・異なる。 「労働力の価値」範噴の未確立が概念規定に混乱を招き、スミスの著書か

    らあらゆる一貫性を奪っている、と言うのである。その展開が「通俗的な所」あるいは「競

    争の表面に現れるままの表象」である。マルクスはスミスにあって両者が無造作に混同さ

    れ並存すると言うが、また一方で「剰余価値の性質や源泉に関する研究を妨げていない」

    と剰余価値論の事実的堅持だけでなく、 「A・スミスの場合には、この矛盾と、一方の説明

    方法から他方-の移行-の移行とは、もっと深い所に根拠がある。それは、リカードがこ

    の矛盾を暴露した際に見逃し正当に評価せず従って解決しなかったものである」 20、とスミ

    スの洞察の深さを高く評価する。

    マルクスは「A・スミスは全く正当に商品及び商品交換から出発する」、とスミスの立地

    16マルクス『資本論草稿集⑥』大月書店、 1981年、 233頁17

    18

    19

    20

    同、 (9、 54頁同、 ⑤、 72頁同、 53頁

    同、 ⑤、 55頁

  • 6 神田敏英

    が『資本論』冒頭における「近代社会の富の集積の要素形態」たる商品提起と同じである

    事を確認する。そこで価値規定が分析され労働価値説が提起される。しかし次に、 「資財の

    蓄積された社会」即ち資本と賃労働との提起において問題が起る。 「スミスは、資本と賃労

    働との、対象化された労働と生きている労働との交換では、一般的法則が直ちに廃棄され、

    諸商品はそれが表す労働量に比例して交換されない、という事を発見する(と彼には思わ

    れる)。それ故、彼は、労働条件が土地所有と資本の形態で賃労働と対立するようになれば、

    もはや労働時間は諸商品の交換価値を規制する内在的尺度ではない、と結論する。」21マ

    ルクスはスミスの問題意識を資本と賃労働との不等価交換と解する。そこでは、 「労働の量」

    と言う表現と「労働の価値」とはもはや同じものではないのだ、と。それはまた、 「A・ス

    ミスは諸商品の交換を規制する法則から、外観上はそれと全く対立し矛盾する原理に基づ

    く資本と労働との交換を導きだすのに困難を感じている」。あるいは「資本家と労働者の間

    での生産物の価値の「分配」そのものは、諸商品の一商品と労働能力との間の-交換を基礎

    としているのだから、 A・スミスがびっくりして立ち止まったのは当然である」 22、と表現

    される。

    マルクスにあってこの「裂け目」は「貨幣の資本-の転化」によって解決される。そこ

    では、 「労働の価値」ではなく「労働力(商品)の価値」の提起により、資本と賃労働との交

    換において不等価交換が起るという「A・スミスの疑念は商品経済の交換を規制する法則と

    は少しも関係がない」ものとして全て処理される。この観点から、 「労働力商品」範噂はな

    いものの商品交換において価値法則を堅持するリカードに対してスミス説は二元論として

    痛烈に非難される。しかし、我は、このスミス説解釈はスミス自身の意図とはずれがある

    と考える。前に我々が見た所では、ここでのスミスの問題提起は、確かに労働者がそのま

    ま生産商品の所有者であり投下労働-獲得・支配労働である状態- 「初期未開の状態」か

    ら「資財が蓄積された状態」即ちマルクスの「資本と労働の交換」社会-の移行であるが、

    そこで二つの事柄が提起される、即ち上でマルクスが指摘する事と共に、投下労働とは異

    なる交換規定要因が入り、交換価値が変化する事をも含むのである。マルクスで言えば、

    後者は「価値の生産価格-の転化」即ち『資本論第3巻』で提起される事である。 『資本論』

    において r~貨幣の資本-の転化」と「価値の生産価格-の転化」の二つの転化には長い距

    離と断絶が有る。スミスでも両者は「状態」即ち時代によって区別される。ただスミスで

    は、 「資財が蓄積された状態」即ちマルクスの資本制社会の条件において直ちにその「自然

    価格」に至り、その規定要素が分析される。マルクスはその方法を非難する。

    「スミスは、始めに交換価値は労働量に帰着するという事、また交換価値に含まれる価

    値は原料等を控除した後、労働者に支払われる労働部分と労働者に支払われない労働部分

    に分解し、後の方の部分は利潤と地代に(・ ・ ・)分解すると言う事を説明した後に、に

    わかに主張を変える。交換価値を賃金と利潤と地代に分解させるのではなく、むしろこれ

    2Ⅰ同、 56-7頁22同、 58-9頁

  • A・スミス価格構成説とK ・マルクス価値構成説批判

    一賃銀と利潤の現実と真実

    7

    らを交換価値の形成者にし、それらが独立の交換価値として生産物の交換価値を形成する

    のだとして、商品の交換価値を独立のそれとかかわりなく規定された賃金と利潤と地代と

    の価値によって構成する。価値がこれらのものの源泉なのではなく、これらのものが価値

    の源泉になるのである。-

    ・彼が内的関連を述べた後で、突然彼を支配しているのは現象

    の観点であり競争の内に現れる通りの事物の関連である。」23

    「にわかに主張を変える」と、同じ場所・時点で正反対の2主張の提起を非難する。価

    値規定の場であり、スミスはそれを正しく規定しかつ資本と労働との交換に伴う価値分解

    をも適切に処理したのに、と言う事である。一方でマルクスはスミスの当該の「自然価格」

    が資本制下の「平均価格」即ち「生産価格」である事を認めはする。

    「スミスが「諸商品の自然価格」とそれらの「市場価格」との相違を述べているのは、こ

    の後の方(「競争に現れる通りの事物の関連一神田」の転倒した出発点からである。-

    ・A・

    スミスの「自然価格」とは- ・競争の結果として生ずる費用価格に他ならないと言う事、

    またスミス自身の場合にこの費用価格が商品の「価値」と同じものであるのは、彼が自分

    の深遠な方の見解を忘れて、商品の交換価値が独立に規定された賃金と利潤と地代との価

    値の合成によって形成されると言う表面的な外観から生み出される間違った見解に留まる

    限りの事である・ ・ ・。 ・ ・ ・彼の自然価格に関する全研究は、価値に関する彼の第二の間

    違った見解から出発している・ ・ ・。」 24

    スミスの「自然価格」はマルクスの「費用価格」 (-生産価格)と同定される。しかし、

    それは長い距離といくつもの連関を隔てた「転化」の後に提起されるべき事なのに、 「一般

    的形態の剰余価値から我々はいきなりそれと直接に何の関係もない一般的利潤率のところ

    にやって来る。」 25、と場所の違いを指摘する。マルクスは、ここは価値規定の場なのだ、

    その中で資本と労働の不等価交換とその結果である「一般的形態の剰余価値」の価値規定

    による被支配だけを論定する所なのだ、という大前提でスミス説を評価する。その中に[自

    然価格]を持ち込んだのだから、それと価値との混同であり、価値として間違った見解即

    ち現象把握なのだ、と言う事である。彼が「スミスは賃金を価値の尺度にする」と規定し

    た文もこの脈絡の中で理解されようo 賃金を価格の構成要素とした事をマルクスは尺度に

    すると解釈したのだ。我々が見たようにスミスは賃金を「実質価値の尺度」に決してして

    いないのに。この場所あるいは次元認定にスミスとマルクスの経済学体系にかかわる違い

    があろう。では、その距離と時間を越え到達した「価値の生産価格-の転化」でマルクス

    はどのように規定し展開するのか。

    Ⅲ マルクスの生産価格規定と「価値構成説」批判

    23『マルクス資本論草稿集⑥』305-6頁

    24同、 306頁。上に見るように『草稿』では生産価格を「費用価格」と言うが、ここでは後

    の『資本論』での用語に統一する。25同、⑤、85頁

  • 8 神田敏英

    マルクスの上向法展開において「転化」は論理の重要な結節点を成す。 「価値の生産価格

    -の転化」はまたさらに「剰余価値の利潤-の転化、及び剰余価値率の利潤率-の転化」

    と「利潤の平均利潤-の転化」の2段階から成る。第1段の「剰余価値の利潤-の転化」

    は価値式のW-C+Ⅴ+Mから= (C+Ⅵ+M= (C+Ⅵ+P= (C+Ⅴ)(1+p')-の転換即ち「費用価格」

    と利潤、利潤率の設定である。利潤は可変資本ではなく総資本に関係するものとして新し

    い概念を得、それは、価値概念における(Ⅴ+M)の一体性がもはやなくなった事を含むが、マ

    ルクスにその点の明確な指摘はない。直ちに第2段の転化: 「利潤の平均利潤-の転化」が

    展開され、 「価値とは異なる生産価格」が設定される。我々はこの2段階転化によって『資

    本論』の第3巻の次元が第1 ・ 2巻と異なるものとして即ち「資本制生産の総過程」を独

    自に設定する意義を持つと考える。しかし、その際、彼が価値と生産価格の次元差をどの

    ように規定してあるかが、我々の問題としたい所である。

    「費用価格」は商品の「資本制的費用」 ・資本支出量であり、 「労働の支出で測られる商

    品の現実的費用」と区別される。マルクスはそれを「価値部分の自立化」であると明言す

    る。しかし、価値規定からすれば、本来、 「価値部分の自立化」など有り得ない事である。

    そこで彼は「資本経済においては、費用価格が価値生産そのものの-カテゴリーという虚

    偽の外観を受け取る」、 26 と規定する。矛盾の表白と言えるが、価値規定が真実で費用価

    格が虚偽的と言う事は象徴的に見える。

    生産価格転化は、外観的差異をもたらすだけでなく、次に平均利潤率法則により量的差

    異を結果する。価値からの生産価格帯離であり、これまた原理的には有り得ない事で、原

    理の転換が追及されるべきであるが、マルクスにその観点はなく、むしろ個別差異の総計

    一致として価値法則の貫徹が主張される。彼の総計2一致転化式の然らしむる所であり、

    後で示す我々の転化式からは有り得ない規定であるが、やはり、彼の(Ⅴ+M)価値式と次元認

    識の所産と言えるだろう。

    さらに生産価格設定後、労賃変動が体系全体に影響し諸価格を変動させる事をも補遺を

    含め2章を費やして論ぜられる。彼が常に強調し、その点でスミスに対するリカードの優

    位を評定する所であるが、価値体系においては決して起りえない事である。従って、より

    深く追求すれば、生産価格体系の独自な特質が価値体系との対比において明らかになった

    であろう。が、彼の関心はそこになく、それらをただ平均利潤率-の影響を通じ諸価格に

    収束される変動として措き、価値法則の生産価格支配の一例証と強調し、あまつさえ、そ

    れらを「二次的問題」27と片付ける。言い換えれば、それらが生産価格体系の独自性を示すと

    いう認識はない。生産価格転化論全体として、マルクスの説明は独自の生産価格規定を分

    析・提示しながらも、基本的にその総体系の価値法則による支配証明に主眼が置かれる。

    他方、価値構成説または価格構成説は『資本論第3巻』最終篇収入論で-論点としてと

    言うより、前回拙論で述べたように、この篇の-主題なる「俗流経済学」批判の主論点その

    26『マルクス資本論Ⅲa』新日本出版社、 1997年、 48頁

    27同、 145頁

  • A・スミス価格構成説とK ・マルクス価値構成説批判

    一賃銀と利潤の現実と真実

    9

    ものとして採り上げられる。第3巻で諸収入範噴の独自な質量とその自立性が規定された

    事を前提に、最終篇でそれらが俗流経済学者達の認識の源泉である事が徹底的に暴露され、

    批判される。前回拙論との重複を避け、その主論点と思えるものを引用する。

    「諸商品の価値または諸商品の価値によって規制された生産価格は次のものに分解する。

    (1) 不変資本を補填する一価値部分、または諸商品の生産に際し生産諸手段の形嘩

    で消費された過去の労働を表す一価値部分。・ ・ ・

    0

    (2) 労働者の所得を計量し、労働者にとっては労賃に転化する可変資本の価値部

    分。・ ・ ・

    (3) 剰余価値o 即ち不払労働または剰余労働がそれに現れる商品生産物の価値部分。

    この最後の価値部分はまた同時に収入諸形態である次のような自立的形態を採

    る。即ち資本利潤という諸形態(資本としての資本の利子、及び機能資本とし

    ての資本の企業者利得)と、生産過程に関与する土地所有者に帰属する地代。 ・ -

    不変的価値部分を度外視すれば、商品の価値は・ ・ ・常に三つの収入形態を成

    す三つの部分に即ち労賃、利潤、地代に分解される-その場合、それぞれの価

    値の大きさ即ちそれらが総価値中で占めるそれぞれの価値部分は、異なる独自

    な先に述べた諸法則によって規制される-と言うのは正しい。しかし、逆に、

    労賃の価値、利潤の率、及び地代の率は自立的な価値構成部分を成し不変資本

    部分を度外視すれば、これらの諸要素の合計から商品の価値が生ずると言う事

    は誤りであろう。言い換えれば、これらの諸要素は商品価値または生産価格を

    構成するそれぞれの構成部分を成すと言う事は誤りであろう。」 28

    マルクスは価値と生産価格を並列し、ともに価値成分-の分解は認めるが、その分解さ

    れた成分からの価値並びに価格の合成または構成は否定する。生産価格について総価値に

    よる規制は言われるがその独自性は無視される。収入諸範暗が独自な法則に従う、故にま

    た独自な量的規定性を持つ事は認められるが、その価格-の規定性は否定される。

    続けて、価値による規制を本に価値並びに(生産)価格の構成説の誤りが徹底的に追及され

    る。かいつまんで説明したい。基本は「新たに付け加えられた労働がそれに対象化される

    構成部分の総体・ -の大きさは、労賃、利潤、地代-の分解とはかかわりがない」、29 と

    言う事である。また、 「価値諸成分の総額の絶対的限界」 30 とも表現される。価値規定そ

    のもので、それが全てとも言える。不変資本の場合は基本的に省略される(一我もこの点

    は容認する)が、労賃や労働生産性変動の場合が分析されその影響が吟味されて、上の主

    張を変える必要が全くない事が確認される。その上にそれが生産価格さらに市場価格にも

    次のように適用される。

    「諸価値の諸生産価格-の転化は利潤の限界を取り除きはせず、ただ社会資本を構成す

    28『資本論Ⅲb』新日本出版社、 1997年、 1497-8頁

    29同、 1500頁30同、 1507頁

  • 10 神田敏英

    る様々な資本の間-の利潤の分配を変えるだけで・ ・ ・ある。市場諸価格はこれらの規制

    的生産価格の上下に騰落したりするが、しかしこれらの変動は相互に相殺される。比較的

    長期間に捗る価格表を見れば、諸商品の現実的価値が労働の生産力変動の結果変化した場

    合、同じくまた自然的社会的な不慮の出来事によって生産過程が撹乱された場合を除外す

    れば、第一に諸帝離の限界が比較的狭い事に、第二に諸帝離の均等化が規則的に行われる

    事に、驚かされるであろう。ここには・ ・ ・規制的平均の支配が見出されるであろう。」31

    生産価格の場合については、結局、利潤の再分配に伴う量的転換だけが再認され終る。

    個別量的ずれ(蔀離)はあるが全的に調整され、 「価値」構成-の原理的転換はないとする立

    場である。更に、市場価格の説明については、それが生産価格を規制値とする事が指摘さ

    れ、事実上、価値-生産価格-市場価格、の上向序列が呈示されてある事が興味深いが、

    ここでの彼の関心はその序列の質差にあるのではなく、変動の狭い限界と相殺にある。そ

    れらは直接には市場価格の場合であるが、生産価格の場合をも包摂する、と見る事もでき

    よう。価値分解説と価格構成説はまた次のように対比的に説明される。

    「商品価値のうち生産諸手段の価値に新たに付け加えられる労働が現れる部分が様々な

    部分に分解し、これらの部分が収入の形態で相互に自立的な姿態を採るにしても、だから

    と言って、決して労賃、利潤、及び地代が構成諸要素-その合計または総計から諸商品そ

    のものの規制的価格( "自然価格" "必要価格'')が発生する構成要素-であると見なされて

    はならない。即ち商品価値から不変資本部分を控除したものがこの三つの部分に分かれる

    本源的な単一体ではなく、逆にこれら三つの部分それぞれの価格は自立的に規定されてお

    り、これら三つの独立した大きさの加算から初めて商品の価格が形成される、というよう

    に見なされてはならない。」 32

    前に紹介した文とほぼ同内容であるが、ここでは価値ではなく価格即ち「自然価格」、 「必

    要価格」一生産価格に相当-と明示され、その価格構成が否定されるのが注目される。そ

    の論拠はこれ以上ない明確な「本源的な単一体」規定と「総価値の全体」であるから、価

    値規定の観点から価格構成説が否定されるのである。

    さらに次に、 「誤った見解」 :価格構成説の論理そのものに立ち入って批判がなされる。

    三要素の中では労賃が最も主要であり、それが「諸商品の価格の構成要素」と前提すれば、

    その大きさは資本を前提しそれに規定されるが、資本は商品価値の規定要素ではなく逆に

    それに規定されるから循環論である。競争を持ち込んでも役に立たない。残された道は労

    質-労働の必要価格を労働者の必要生活手段の価格によって規定する事だが、これまた商

    品価格だから「労働の価格」によって規定される。やはり「労働の価格はそれ自身によっ

    て規定される」と言う循環論となる。ここで我々は循環論とする批判がマルクスの価格構

    成説否定の-強力論拠である事を知る。後で論ずるボルトキビッチ説とは反対となる所で

    ある。 「商品の第二の価格構成要素を成す平均利潤」は、資本家間の競争によって形成され

    31同、 1510頁52同、 1514頁

  • A・スミス価格構成説とK ・マルクス価値構成説批判

    -賃銀と利潤の現実と真実

    ll

    るが、 「競争は利潤率不等を均等化しうるだけ」であり、利潤率を作り出しはしない。 「我々

    が知りたいのは正に競争の運動とはかかわりのないむしろ競争を規制する利潤率である」、

    とマルクスはそれは価値法則を前提してのみ明らかになると高らかに主張する。価格構成

    説否定の第2の明白な論拠と言えるだろう。そして「地代について同じ手順を展開する事

    はもはや不要だろう」と勝ち誇る。要するに、価格構成説は「利潤及び地代を、まず第一

    に労賃によって規定される商品価格-の不可解な諸法則によって規定される単なる価格-

    の付け加えとして現れさせる」だけだと断ずる。こうして価格構成説は、労賃規定は循環

    論であり、利潤及び地代は、価値から出発する分解でない限り、その量的規定は明らかに

    ならないとして否定される。もっとも、上の文で、事実上、その「自然率」は認められる

    と言えようが。

    Ⅳ 価値式と生産価格式:規定要因と規定様式

    我々は、価値式と生産価格式を次の定式で表す。 33

    個別商品価値 w,・ -cL・+vi+mt・-C,+l,- -I,-(k,I+1)部門総価値 WL -Cj+VL+Mi =C,・十Li -L,I(Kj+1)

    社会総価値 W-C+V+M=C+L-L(K+1)

    マルクスに従い、価値をwi,,Wj,Wにより表した.34 添記号iは部門を示すo部門量、

    総量は単純総計したものである。 k、 Kは投入生産手段価値量(不変資本価値量)に対する直

    接労働1, Lにより形成される価値量の比率c/(v+m)-c/l,C/(V+M)-C/Lで、置塩信

    雄がマルクス「資本の有機的構成C/V」の真の意味として「生産の有機的構成」 35と名づけ

    たものである。これを価値式に用いるのは我の工夫である。

    マルクス式との違いは(v+m)を一体化して労働による価値生産即ち価値量が直接(投入)

    労働量の乗数であることを明確にしたことである。即ち、我々の式において価値は労働量

    -投入労働により付加される価値だけを要素として表明され、価値量の絶対値が示される。

    この式を元に生産価格式も設定できる。生産価格では労働単位当りの労働賃銀と平均(一般)

    利潤率を新たに加えねばならない。単位賃銀はマルクス価値式において労働力の価値(Ⅴ、

    Ⅴ)としてまず規定され、次いでそれを元に剰余価値率(m')が設定される。我は単位賃銀

    を表すため、独自に単位労働に対する支払労働の比率即ち単位時間労働により形成される

    価値量に対する支払賃銀の比率を「必要労働率(w)」と名づける。 Ⅴ=L(りである。必要労

    33以下の定式は、神田敏英『価値と生産価格』御茶の水書房、 2002年、 140頁、 170頁他o

    で初めて提示した。

    34価値を、拙著では置塩に従いtで、前回拙論では和田豊に従いvで表した.置塩信雄『マ

    ルクス経済学』筑摩書房、 1977年、 24頁。和田豊『価値の理論』桜井書店、 2003年、 94

    頁。いずれもマルクス記号や通常用いられる賃銀記号wとの重複を避ける含意があると思われる。今回論文ではマルクス記号も用いるため、その可変資本v との重複を避けた。ま

    た、賃銀記号vは用いないが、ただ「必要労働率」としてcoを用いる。

    35置塩信雄『マルクス経済学Ⅱ』筑摩書房、 1987年、 182頁

  • 12 神田敏英

    働率wはm'=(1- w)/wで剰余価値率と互換できる,必要労働率が基礎的かつ簡明な比率で

    剰余価値率はさらに相対化したものだから二重比率概念である。平均利潤率をrで表す。

    個別商品生産価格 pj -l,・(α.ki+βzzT)(1+r) wと打は同記号

    部門商品生産価格 P,--LL・(αjKi +PzzT)(1+r)

    社会総生産価格 P - L(aK + βzzT)(1+r)

    上は現実の生産価格式を労働量還元した式である。そのため、これらの要素価格の価値

    とのずれ(偏倍率)を表す記号として総生産手段部門α、総賃銀財部門β総利潤財部門γ

    を使用する。 α、 β、 γは同一単位当りの価格・価値比率であり、最初にこのように生産

    価格式を提起したボルトキビッチのⅩ、 y、 zに当る36。

    式値を労働量として表しても生産価格式の特質は何ら失われず、価値式と生産価格式の

    異同が明瞭に浮かび上がる。価値式では価値量は総投下労働量だけによって決まる、それ

    を価格として表してもその正比例量となるのに対し、生産価格はその生産物の総投下労働

    量に一致しないしそれをさらに価値尺度財により相対価格として表せば二重のずれが生ず

    る。それは既に確認された事である(ただし、相対価格化によって生ずる総価値一致ただ

    し総価格不一致が混乱を招いた事はあった。)ここで我が強調したいのは、この量的ずれと

    ともに両式に質的差異が生まれる事である。価値式は単純に労働量だけから成る「本源的

    単一体」マルクス)である。生産価格式では労働の付加する価値は賃銀と利潤に分れ各々

    付加される。両者は式要素と成る。するともはや価値ではなく価格部分と成る。それは既

    に「剰余価値の利潤-の転化」に含まれる事だったが、平均利潤率による価値からの量的

    ずれにより顕現する。我々の還元式はその本質を明示する。即ち、価値式の(K+1)の1

    がw(>1)となり従って外に(1+r)を掛け、合わせると言う計算である。方程式と見ると、

    価値式は式数と未知数がともに商品数nだから、労働量だけで価値量が絶対値として決ま

    る。対して、生産価格式は式数n、未知数は商品価格数nと平均利潤率rのn+1だから、

    ただ未知数の相対値のみ決まる。複合要素化の結果であり、両式の本質的違いである。し

    かし、商品交換は相対価値・相対価格さえ決まれば可能だからあるいはむしろ絶対価値に

    よってではなく相対価値によって交換されるのだから、この生産価格式によって全面的商

    品交換-社会的再生産を行いうる。 (oとrは相互規定にあるが、我々は価値からの規定性を

    見るためマルクスに従いwを先決とする。すると利潤率rも示しうる。ただし、その前にマ

    ルクス転化論に基づく生産価格を上式と同じく労働量式として示し比較する事が適切と考

    える。個別生産物式、部門式は略し、社会的総生産物式のみ示す。

    マルクス生産価格式 P-(C+V)(1+r)-L(K+ZZT)(1+r)

    我々の式と同じ要素と構成を持つと分かる。従ってこの式もcoとrは相互規定で相対値のみ

    決まる。この式の利潤率は簡単に与えられる。我々の式もこれほど簡単な計算ではないが、

    36ラディスラウス・フォン・ボルトキェヴィッチ「『資本論』第3巻におけるマルクスの基

    本的理論構造の修正について」、 P. M.スウイ-ジー編玉野井芳郎/石垣博美訳『論争・マルクス経済学』法政大学出版局、 1969年、所収、 232頁

  • A・スミス価格構成説とK・マルクス価値構成説批判

    一賃銀と利潤の現実と真実

    要素的にやはり同様に与えられる。

    マルクス生産価格利潤率r--

    1 -ZZT

    K+ZZT我々の生産価格利潤率r -

    (1- ZZT)xKα +

    ZZTP

    13

    左式が価値式により一義的に決まる事はすぐ分かるo 右式もα, β、 γは一生産価格体

    系において一定だから、左式の値と通常ずれるが確定値である。上式は、利潤の実体が(1

    -w)即ち引き算で剰余価値である事を明示する。故に上式は利潤の真実(実質)式・価値

    式である。対して、マルクスは利潤率をpr-m,-1-m・」Lと表した。37

    これは利潤をvLI c+v

    を本に掛け算即ち構成で求めるから、利潤の現実式・ (構成)価格式である。

    こうしてマルクス転化式だけでなく我々の式からも生産価格は価値式に∽を与えれば一

    義的に決まる式即ち価値に規定される式である事を示しうる。我々の式は生産価格を労働

    量に還元し価値式との同一性を示す。しかし猶、実質要素に還元しても、生産価格式は価

    値式と異質である。それは複合要素からそれらを加算するあるいは一要素に一定比率を掛

    ける事で与えられ、ただ相対値のみ決まる。即ち構成法による式なのである。実質量還元

    もその計算法をなくす事はできないから、実質と現実は対立ではなく本質と現象の関係と

    言えよう。

    我々の式は生産価格の独自要素:賃銀をwで表す事により体系の-特質を描き出しうる。

    通常、現実体系では賃銀は所与とされ、すると価値・生産価格体系とも一義的に決定される

    が、そこで賃銀変動を考えた場合、価値体系は全く影響されないが生産価格体系は変動す

    る。即ち一つの価値体系に複数の生産価格体系が対応する。 1>=co>0だから、 w-1にお

    いて生産価格は価値に一致する、と言うより存在せず、 1から小さくなるに連れ生産価格

    体系は価値体系から蔀離して行き、 w-0即ち極大利潤率において蔀離は最大値に達するが、

    なお変動範囲は価値体系により特定される。即ち、 「1対一定範囲対応」である。 38

    価値体系は本源、生産価格体系は派生系と言えるだろう。 39

    Ⅴ マルクス「価値(並びに価格)構成説」批判の批判

    生産価格体系は再生産体系として価値を直接前提せず展開しえ、また価値からの転化と

    して設定した場合も、相対価値体系として自立しえ、かつ「本源的単一体」から成る価値

    世界と違い複合要素からその合成または構成から成る、即ち価格構成説の成り立つ世界だ、

    と言うのが我々の主張となる。そしてその本質摘出はマルクス転化論・式においても基本

    的に可能であった。しかし、それを彼がどう認識し規定したかは別である。

    「転化」は論理次元が一段異なる事を明示する。まず提起される「費用価格」は「価値

    37『資本論第3巻Ⅲa』 82頁

    38拙著 220頁

    39スラソファ体系では、逆に、ゼロの賃銀-極大利潤率が各部門の「バランスを保つ」比

    率で、そこから利潤率が漸減する。ピエロ・スラッフア『商品による商品の生産』菱山泉・

    山下博訳、有斐閣、昭和53年、 27-36頁

  • 14 神田敏英

    部分の自立化」であり、 「労働の支出で測られる商品の現実的費用」と異なる「資本家的費

    用」である。価値計算にその実体たる労働と別の原理が介入し「本源的単一体」でなくな

    るのだから、価値原理はなくなる事はないが、いわば棚上される。次の剰余価値の利潤-

    の転化は新用語によって未だ同量でも質転換を明示する。とはいえマルクスはその転換を

    増分分母の可変資本から総資本-の移行と描いた。が、そこに重大な質転化がある事は指

    摘されない。即ち、可変資本との関係なら価値の枠内で済む話だが、総資本-費用価格と

    なると超え、従って利潤の源泉は不明になりただ付加されるしかないと言う事である。剰

    余価値1 (1-w)は引き算なのに対し、利潤C (1+p')は足し算(掛け算)で与えられる

    しかない。続く平均利潤率による生産価格も「剰余価値」部分再分配は価値原理枠を超え

    足し算で為される。実は、マルクス転化論・式は価値法則に規制されはするが、要素加算に

    よって価格構成するのだ。マルクスはそれを行う、しかし自覚しない。マルクス式そのも

    のは価値もそして生産価格も依然としてc, Ⅴ, mで表す。剰余価値が引き算で表される事

    はなく、従って利潤との質差は見出し難かったろう。それにしても、利潤が剰余価値の本

    質を隠蔽する事の明白な指摘はあるが、価値計算と価格計算との差異に全く結び付けられ

    てない。結局、マルクスは生産価格をただ剰余価値が再分配されたものに過ぎない、と見

    なすのである。これは彼の総計2一致転化式からの帰結であるが、それに対するボルトビ

    ッチ以来の批判は措いてそれを前提したとしても、我はそれは転化をただ量的問題だけに

    壊小化するもので、価値原理の質的転換を看過する決定的な誤謬で有る、と主張する。結

    論として、我々は生産価格こそ価格構成説の成立する原因であると考えるが、マルクス転

    化論・式はその構成を持ちながら、彼の転化論全体(第3巻第1・

    2篇)にその認識はない、

    と判定する。

    他方、俗流経済学とその価格構成説との批判は『資本論』第3巻最終篇の主論点だった。

    第3巻は我々の主張では転化論によって次元を画され、その転化論こそ価格構成説の原因

    だったから、最終篇で価格構成説が採り上げられるのは何の不思議もないかに見える。し

    かし、前回拙論(163頁)で見たようにそこでマルクスは価格構成説の論拠を5つも挙げる。

    即ち決定的な原因を挙げないだけでなく、むしろ「収入の自立化」が優勢な論拠である。 「収

    入の自立化」は本質的に平均利潤率設定により理論的に規定しうるが、本来、派生的事象

    である。生産価格の価格構成説に対する意義を明確にしなかったからこそ、それを主論拠

    にしたと言えるだろう。しかし、 A・スミスはもちろんさすがに俗流経済学でも収入を価格

    または価値の原因とはしない。現在の「国民経済計算」即ち付加価値論においても賃銀(雇

    用者報酬)と利潤(営業余剰)は付加価値を形成するが、それは労働と資本(この場合生産手段)

    が「生産要素」とされるからであり、利子や地代は派生的・再分配所得として付加価値の

    原因とはされない。 40

    40ただし、金融業の「受取利子と支払利子の差額」 :いわゆる利ざや:は「金融業の帰属利子」として一旦、当産業において付加価値生産と認められ、後の総計において「ダミー産

    業」の負の付加価値生産を作り相殺される。利子従って利ざやは付加価値形成者でない、

  • A・スミス価格構成説とK ・マルクス価値構成説批判

    -賃銀と利潤の現実と真実

    15

    以上のようにマルクスの価格構成説成立根拠理解の多義性・暖昧さは、その内容批判に

    も反映し、それらを現象として捉えた上で基本的に価値規定の観点から批判される。マル

    クスは価値も生産価格もこの点では同一視する。最も批判したい点である。彼は、価格構

    成説を本質的に「価値構成説」として批判した。その中で、循環論とするのは有力なかつ

    正当な規定である。マルクスはそれを構成説否定の論拠とする。その上で、 Ⅲで引用した

    箇所に続いて、マルクスは価格構成とした場合の事態を例式により具体的に分析しかつ批

    判する。彼の論理と考え方を端的に示すように思えるので、改めて論ずる。

    不変資本は省略され、 「ある商品の労賃によって規定される価格」として労賃を1 00、

    利潤率は労賃に対し10%、地代は15%とする。すると商品価格は125。彼は、この

    やり方では、価格が100として労賃80、利潤8、地代12でも良いと言う。労賃が1

    10なら、利潤11、地代16.5、価格137.5。彼が言うように割合が全てで、いずれ

    も同じである、不変資本を省略する事は単純化して本質を示す事であり、労賃を基礎とす

    るとする事は再生産を保証する事である。その上で彼はこのやり方を「一切の価値概念が

    脱落する」 41と根底的に批判する。

    我々はマルクスのこの設例に同意する。不変資本-投入生産手段価値の省略もまた事柄

    の単純化として容認する。この例式は労賃を起点とするもので、我々が生産価格式の特質

    として指摘した労賃の要素性に照応する。それによって利潤率(この場合剰余価値率に一致)

    も式内で一義的に決まっているあるいは前提されているから、式値も決まる。しかし、彼

    が言うように、労賃の値次第でそれはいくつでもありうる。正に労賃を起点とする循環論

    である。その上で彼がそこで「一切の価値概念が欠如する」と規定したのも全的に妥当す

    る。しかし、その故に彼がこの式を否定したのは正当ではない。と言うより、彼はこの式

    とやり方を事実としては認めているのだ。それを「価値概念の欠如」と非難するのは、正

    当であっても、当事者は痛くもかゆくもないだろう。 「(生産)価格式は相対価値だけ分かれ

    ば良いので、価値概念は無用の長物だ」、と。我々はマルクスの価値視点からする価格構成

    説批判・否定は外在的批判そのものだと考える。価格式は価値式なしでも成立・展開しう

    る。あるいはむしろ価格式から価値式に戻る事はできない。相対価値が分かっても内在価

    値そのものは分からないからである。しかし、内在価値からは相対価値=価格を展開しうる。

    上の例式でも価値式から例式を導くのは容易である。そして例式に成ってしまえば、絶対

    値が1 2 5である必要はなくなる。従って両式は矛盾ではなく本質と現象あるいは基本と

    派生の関係にある。本質と違うと現象を批判しても何にもならない。現象だけ採り本質の

    存在あるいは必要を否定すれば労働価値説否定となるが、本質から現象を展開すれば必要

    性を主張できる。マルクスの論理はそのいずれでもなく、我は労働価値説による現象と派

    との認識の帰結であるが、奇妙な扱いである。我は、むしろ金融サービスによる付加価値生産として個別的にもGPPにも加えるべきと考える。 『平成1 9年度国民経済計算年報』内閣府経済社会総合研究所国民経済計算部編、平成1 9年6月、 550頁参照。41

    『資本論第3巻Ⅲb』、 1515頁

  • 16 神田敏英

    生の関係説明とは言えない。マルクス例式と本質的に同じ式をボルトキピッチが提起し、

    価値の必要性を否定した。この問題を逆の面から照射する事ができよう。

    Ⅵ 補論 ボルトキビッチの価値計算と価格計算

    マルクスが例式として示した不変資本を省略した上に労賃を本に一定の利潤率(-剰余

    価値率;地代率は無視する-神田)を乗じて「価格」とする式をボルトキピッチは「価値

    式」として示す。両者の観点の異同が如実に現れる所である。

    ボルトキピッチはマルクスの価値から価格-の転化を総価値と総価格の一致は価値尺度

    財の条件を考慮に入れてないから一般的には不成立で必然性はないと否定し、しかしなが

    ら「二重計算の思想そのものは否定できない」として独自に「価値」式と「価格」式を設

    定し比較する。我々はまず、マルクスの総計一致が事実上労働時間計算で価値も価格も単

    純にそれに照応するとしたものなのに対し、ボルトキピッチの観点は労働時間計算を「絶

    対価値」とし価値を相対価値とし両者を区別した上での事で、次元が異なる事を指摘せね

    ばならない。 42 彼の「二重計算」において価値式と価格式は互いに独自に形成される。

    価値式は価値をw、生産物に体化されている労働時間をA、単位時間(日)当りの賃金

    を1、剰余価値率をr、として。

    W=Al+rAl=( 1+r)lA

    この式は貨幣価格により表現されてあるが、仏は単位時間当り労賃だからマルクスの可変

    資本-労賃Ⅴであり、上式はW=Ⅴ(1+m')に同定できる。正にマルクスが価格構成説の式と

    して示した例式である。マルクスはそれは価値式と違う誤った例式として示したのだが、

    ボルトキピッチは価値式そのものとして示す。即ち、彼はこの式によって「生産物の価値

    は賃金Alと資本家の利益あるいは剰余価値によってどのように構成されているかがあらわ

    されている」 43、と言う。さらにこの式は価値が労働量に比例する事を示すが、マルクスの

    ようにそれだけで価値決定問題の答が分かると信ずるのは誤りであると主張する。何故な

    らそこで剰余価値率と賃金を所与として扱うのは不適切で、未知数とせねばならないから

    である。すると、未知数は生産物価値数プラス2となり、式数の生産物数より2多くなる

    が、一つは価値尺度財の式、今一つは剰余価値率を規定する実質賃銀式を立てればよい、

    と言う。実質賃銀を構成する諸商品の価値式から彼はFL.Al +FL2A, +...+FLnAn -Uなる式

    を導出し、 「あきらかに、 Uは実質賃銀を構成する商品複合体に体化されている労働量を現

    42平石修はボルトキピッチ式の検討において、貨幣式である事についてこう言う。 「貨幣に

    よる表現を問う前に、労働による表現を問うべきであり、それによってこそ、本来の関係

    を明確に示し得るのである。 - ・マルクスの一次生産価格式での式も、かれ自身叙述に不

    明確なものを含むししても、事実上労働による表現としてのものである。」平石修「資本の価値構成と生産価格」 『札幌学院商経論集』第22巻第2号、 2005年9月、 12頁

    43ラディスラウ・フォン・ボルトキェヴィッツ「マルクス体系における価値計算と価格計

    算(1906-7年)」、 『転形論アンソロジー』石垣博美/上野昌美編訳、法政大学出版会、 1982

    年、 74頁

  • A・スミス価格構成説とK ・マルクス価値構成説批判

    一賃銀と利潤の現実と真実

    17

    す」 44、と言う。 〃は生産物の一定量の比率(

  • 18 神田敏英

    定する。すなわち、この式の本質は相対価値式だという所にある。それはボルトキビッチ

    の言う「絶対価値」式を前提してのみ与えられる。ボルトピッチの「価値」式は我々の見

    地からは価値式ではない。何故なら、価値式は絶対値が与えられる式なのに、彼の式は実

    はそれを与えないからである。それは実は相対価値式即ち価格式である。彼は価格式を「価

    値」式として提起したのだ.しかし猶、彼の式は現実的でありえ、価値概念の欠如故にそ

    れを否定したマルクスは誤りである。相対価値さえ決まれば商品交換従って再生産可能で

    ある。前にも言ったように、商品交換ではむしろ価値は消え去るのだ。

    価格式は同じく投入生産手段(不変資本)は捨象され呈示される。すると各生産物の相

    違は回転期間だけとなり、それを勘案して一定期間(例: 1年)利潤率が各部門で等しく

    なるように価格が設定される。各価格p、年利潤率β、回転期間t、必要労働時間A、単位

    時間賃金九、従って総賃金A九、として。

    p-(1+p)tAス

    式数は生産物数n、対して未知数は価格数nとp並びに賃金見で、 2式不足するが、価値

    式の場合と同じく価値尺度財が設定され、また賃金は一定の生産物比率として設定すると

    し、価格は一義的に決定される.一部記号は率量差異のため変えられているが、すぐ分か

    るように価値式と要素は同じで、従って違いは回転期間の有無だけである。しかしそれに

    よって、 「体化されている労働量が等しい二つの商品の価値は互いに等しいが、これらの商

    品の価格は一般に等しくなく、両商品の回転期間が同一であるという条件のもとでのみ等

    しい。即ち、より長い回転期間を持つ商品の価格はより高いであろう。このように不変資

    本が全く存在しなくとも、価格は価値に一致しないという上述の主張は実証されることに

    なる。」 47

    「価値」式と「価格」式はこうしてそれぞれ独自に設定される。 48 あるいは「価格」式

    は「価値」式に対してただ回転と言う条件を加えただけのものとして設定される。その上

    で彼は両式の関係についてこう主張する。

    「マルクス及び追随者達は、単に価値計算によって、資本利潤の性質を明らかにし、こ

    れと価格計算を対照する事によって、ある程度対照の効果をあらわすだけでは満足しない。

    彼らは更に進んで価格計算の体系に独特なある種の数量的関係を見出し、そうすることに

    47同、 79頁48平石修はこの式に対して、まず、部門の別が為されていないとして、独自の式を設定す

    る。賃銀財と利潤財の別がなく、価値式におけるものとの費用価格変動が現われない、と

    言う事である。転化に伴うこの変動は、本来、ボルトキビッチが指摘したもので、妥当す

    る指摘である。平石修「可変資本の回転期間と生産価格」 『札幌学院商経論集』第21巻第

    3/4合併号、 2005年3月、 71頁。氏はその式においてボルトキビッチの利潤複利計算を批判し、 「各部門の商品は、可変資本の回転期間の相違にかかわらず、 1年を単位として売買されるという仮定が要請されることになる」同71頁)と主張する。我も、ここでの問題は、

    「利子が利子を生む」と言う資本の神秘ではなく、労働による付加価値の再生産だから、複

    利計算は適切でないと考える。複利計算でなくてもボルトキピッチ「価格」式の独自な意

    義はなくならない。また、部門別の欠如即ち費用価格変動の無視も、ここでの本質的欠陥

    ではないと考える。

  • A・スミス価格構成説とK ・マルクス価値構成説批判

    一貸銀と利潤の現実と真実

    19

    よって、価値に補助数の性質をもたせる。このような補助数を作り上げる理論家の権利を

    何人も否定できない。しかしながら、このような補助数を導入する事によって、問題の数

    量的関係の分析が容易になるか、あるいは初めて可能になるかは問題として残る。この論

    文の後半の議論からすると答は否である。何故なら、価格、賃金、利潤等の相互関係は、

    価値及び剰余価値の大きさから出発する事なしに、これを具体的に数学的に表現すること

    ができるばかりでなく、もしも厳密な式を用いるなら、これらの大きさは全く計算に現れ

    ないからである。」 49

    彼の式は価値尺度財による価格式として呈示されるが、労働量を要素とし式値がその乗

    数となり、実は我々の式とその点で同じである。その「価値」式では式値- 「価値」は生

    産物の投入労働量に一致し、 「価格」式では式値- 「価格」は一致しない。ただ、両式とも

    労働量の乗数だから、生産物の労働量投入関係から展開しえ従って還元できる。しかし、

    ボルトキピッチは「絶対価値」と両式との関係を切断し、価値尺度財による式値決定がそ

    れに外見的正当性を与える-なぜなら両式とも相対価値式だから。それ故、両式はともに

    同じ要素から成り、ただ計算方法のみ異なる。両式は同格の関係になり、現実の「価格」

    決定方法としては「一間間口に戸が2枚」、あるいは回転期間と言う条件の有無による選択

    決定、となる。 50 即ち、両式は論理次元によって接続されるべき関係、あるいはボルトキ

    ピッチ流の言い方では「価格」計算のために「価値」計算が「補助数」として要る、とい

    う関係にない。彼が、二重計算を認めながら、マルクスの方法としての「転化」を否定し

    たのは彼の方法の中では誠に当然であった。

    我々の観点からは、彼は二つの価格式を「価値」式と「価格」式として呈示した。彼が

    その存在を認めながら切断した「絶対価値」 -この呼称の是非は別に一式こそ本当は価値

    式なのである。そしてそれから二つの式に至る事は何の障害もない。ただ、逆に、それか

    ら展開しなければ言い換えれば転化と言う方法を経なければ、 「価格」式は得られないか、

    と言うと、否、である所に論者の認識が分かれる原因があると思われる。労働価値説否定

    論者は、現実の価格-生産価格が、その生産物の投入労働量に一致しない事、そして価格

    49同、 134頁

    50サミュエルソンは、回転数問題は入れず、投入生産手段を入れたモデルにおいて、政府

    が労働者-付加価値生産者-所得者に税をかける二つのやり方:付加価値税と取引税:を提起する。付加価値税はこの場合労働所得にかけられるから、剰余価値率に同定できる。

    付加価値-労働量に比例するから、各部門の相対価値が変わる事はない。彼はそれを「価値」

    式と同定する。取引税は生産・販売総額即ち投入生産手段と投入労働の総費用にかけられ

    るから、一般利潤率に同定できる。生産手段と労働量の費用比率は各部門等しくないから、労働に照応した相対価値は変動する。彼はこれを「(生産)価格」式に同定する。その上で、

    それらを「「価値」と「価格」という相互背反的な2者を比較し対照する問題」あるいは「択

    一的な互いに調和しない二つの体系(を考える問題)」、と、転化を事実上否定する。 ([マ

    ルクス搾取概念を理解する:マルクス的価値と競争価格との間のいわゆる転形問題の総括]『サミュエルソン経済学体系9』勤草書房、 1979年、 117頁他。ボルトキピッチの2式と同

    じく、明らかに両式は賦課方式の2法だから、同格であり、正に彼が言うように択一であ

    る。設例の仕方に転化否定の答が存在している。

  • 20 神田敏英

    が労働価値を前提せずに計算できる事、を論拠にする。ボルトキビッチは「価値計算」を

    認めつつ、 「価格計算」のための必然的段階である事を即ち「転化」を否定する。対してマ

    ルクスは、ボルチキビッチが「価値」式として示したものを「価格」式として示しそこで

    価格が現実に計算可能である事を事実上認めながら、それを「価値概念の欠如」と批判し

    た。我は、 「価値概念の欠如」批判は正当であるが、その故に「価格」式を否定するのは、

    労働価値説否定論と超絶的対立になると見る。転化によって価値と生産価格が完全に接合

    可能であり、そして両式を対比する事で質量的差異を明確にし、価値式の独自な意義を基

    礎にする事が必要と考える。

    Ⅶ 小括

    我々は独自の定式によって、価値から生産価格-の転化を個々の価格の量的転換即ち偏

    借(帝離、背離、偏差、ずれ)とともに質的転換を把握すべきと主張した。そこにこそ価値式・

    体系と生産価格式・体系の本質的違いがあり、量的変動はその結果だ、と言う事である。

    質的転換を押えてこそ「転化」と言う手法が真に意味を持つ。価値の実体はただ労働であ

    り、個々の並びに総価値量は投入労働の乗数として表される。絶対量が「本源的単一体」

    量として表される、と言う事である。生産価格式では投入労働量が価格を表すと言う関係

    は直接には消えるo 我々の定式では生産価格は投入労働量の乗数として示されるが、それ

    は還元した式であり、実際は投入生産手段価格と賃銀価格の和= 「費用価格」に一定比率を

    掛け与えられる。投入生産手段価格は量的には本質的規定要因だが、質的には価値の場合

    と同じくそれ自体規定される存在であり、独自の要素ではない。従って生産価格式で独自

    の要素として現れるのは賃銀であり、それはマルクスが強調するように価値では決して規

    定要素にならないものだった。生産価格では従って労働が付加する価値が賃銀と利潤(さ

    らに地代一本論文では捨象)に分解し、それと共にそれぞれ独自の価格または比率を持つ

    ものとして現れる。即ち、価値の単一体に対し、生産価格は複合体であり、その分解と構

    成は一体である.費用価格-の付加が利潤の現実であり、剰余価値と言う利潤の真実はそ

    こから価値式により還元して初めて可視となる。

    我々の評価では、アダム・スミスは価値と資本と共に成立する自然価格の違いをむしろ

    的確に捉え、かつ後者においても労働を「実質的尺度」とする事で労働価値説を一貫した。

    彼にあって、価格要素の分解と構成は一体であり、支配労働価値説は「あらゆる社会」に労

    働価値説を一貫させる論理であった。

    マルクスは「転化」と言う手法によって価値次元と生産価格次元の違いと連続性を鮮明

    にした。それによって価値次元を基礎にその上に生産価格次元を積み上げ、さらに次に市

    場価格次元を乗せる彼の壮大な経済学体系構築が可能になった。しかし、彼の「価値の生

    産価格-の転化」に二つの問題点を指摘しうる。一つは、従来指摘されてきたように、転

    化が量的に最後まで遂行されなかった事そしてそれを彼が是とした事である。今一つ我々

    が強調したい事は、彼の規定と式が生産価格の特質を基本的に的確に呈示しながらもその

  • A・スミス価格構成説とK ・マルクス価値構成説批判

    一賃銀と利潤の現実と真実

    21

    特質性を意識的に認定できず、むしろ逆に価値との質的同一性あるいは価値体系による生

    産価格体系の包摂ばかりを強調した事である。生産価格の特質こそ価格構成説成立の原因

    なのに、彼にその点についての明確な指摘はないから、彼はこの点を認識しなかったと判

    定する。それ故、彼は俗流経済学の価格構成説を資本制生産の現象から現れる表象と規定

    し、 『資本論』第3巻一我々からすれば転化と生産価格によって画される即ち生産価格体系

    の次元-の対象としながら、転化論ではなく収入論で取り扱った。我々からすればその取

    り扱いは不適であり、故にまた内容規定においても、結局、価値と生産価格の違いを明確

    にすると言うより逆に両者並列し、価格構成説を価値構成説として規定かつ批判・否定し

    た、と考える。価値・生産価格ともに分解は可、構成は否、とする規定は特徴的である。

    我々からすれば、価値は正に「本源的単一体」だから収入源泉としてでなくそれ自体とし

    ては分解も従って構成もなく、生産価格は複合要素から成るから分解と構成は表裏一体で

    ある。彼は価格構成説を現象表象としては認めながら価値規定欠如として否定したが、我々

    からすればそれは本質と現象に関する全く誤った見解・非耕である。

    マルクスの目がねからはスミスの自然価格規定と価格構成説は「外面的把握」 ・俗流性と

    なる、我々からは逆で、それはマルクスの誤った価値構成説批判に起因する。我々はスミ

    スは自然価格をも労働を尺度として規定したのであり、自然価格において価値即ち労働に

    よる規定は無用とすればマルクス的見地から「俗流」と評価されうるが、彼に俗流的要素は

    全くない、と評価する。従来、マルクス経済学では労働価値説はA・スミス-リカード-マ

    ルクスと発展・継承され、マルクスにおいて基本的に完成した、と見なされてきたように

    思う。我も、その発展・継承系列とマルクスの偉大な業績に異存はないが、ただ彼の所説

    が全て正当とは考えない。転化論だけでなく彼に不十分な所誤った所がいくつもありうる。

    一石を投じたっもりであり、波紋の拡がる事を期待する。