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剰余価 恨説の 成立 「剰余価値説はマルクス経済理論の礎石である。」(レーニ ン『マルクス主義の三つの源泉と三っの構成部分』)という ことほど、明白なことがらはない、、なせなら、労動煮の剰余 労働 それはすべての階級社会の存立の基礎である を、 まさに剰余仙値の形態におい一、坂得するところに、資本欄生 産様式の基本的特質があり、そし一、この剰余価値の生産は、 「その州囲に今日の社会秩序全体がこりかたまった結晶核」 であるからである、それゆえに、この剰余伽値搾取の事実を いかに曝露し、または隠蔽するかに、科学灼経済学と俗流的 弁護論的経済学との決定的分岐点がおるといっ一一.よかろ、トソ。 3) 剰余価値の理論的に完全な解明による資本制生産の秘密の曝 剰余価値説の成立過程(一) (松田) 過程一一一 露は、唯物史観の定式化とともに、社会主義を科 ころの、マルクスのコ一つの偉大な発見」 (エンゲル デューリング諭』)である、、それは今日では、全世界の意 ある労働者と進歩的イソテリゲソチヤの思想的共有財産とな つている。 邦訳『レーニンニ巻選集』第一巻第一分冊 八七頁、 弓.■轟¢ぎ■雪;■自びqgH)夢}肩・こ、一毒竺・肩宗・ ≠ぎ9。・O豪P『デューリング論』邦訳『マルクス・エン ゲルス選集』第一四巻三六三頁、 ブルジョア経済学者のマルクスに.たいするさまざまの 論難中傷 たとえば、 ボェーム・バウェルク(冒プ昌. ま姜÷)の『マルクス体系の終結』(ぎ冒≧碧三易閉宗・n ま嚢・ブ;U。ヱ;・二き¢)や、そのやきなおしであるわ が小泉・高田博士のものなど-;-た拍いても、蔵接剰余 九五(六一七)

剰余価 恨説のritsumeikeizai.koj.jp/koj_pdfs/02505.pdf · 2016. 10. 29. · 剰余価 恨説の 成立 「剰余価値説はマルクス経済理論の礎石である。」(レーニ

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  • 剰余価

    恨説の

    成立

           一

     「剰余価値説はマルクス経済理論の礎石である。」(レーニ

    ン『マルクス主義の三つの源泉と三っの構成部分』)という

    ことほど、明白なことがらはない、、なせなら、労動煮の剰余

    労働  それはすべての階級社会の存立の基礎である  を、

       、  、  、  、

    まさに剰余仙値の形態におい一、坂得するところに、資本欄生

    産様式の基本的特質があり、そし一、この剰余価値の生産は、

                            つ

    「その州囲に今日の社会秩序全体がこりかたまった結晶核」

    であるからである、それゆえに、この剰余伽値搾取の事実を

    いかに曝露し、または隠蔽するかに、科学灼経済学と俗流的

    弁護論的経済学との決定的分岐点がおるといっ一一.よかろ、トソ。

                 3)

    剰余価値の理論的に完全な解明による資本制生産の秘密の曝

       剰余価値説の成立過程(一) (松田)

    過程一一一

           松  田  弘  三

      露は、唯物史観の定式化とともに、社会主義を科学にしたと

      ころの、マルクスのコ一つの偉大な発見」 (エンゲルス『反

            D

      デューリング諭』)である、、それは今日では、全世界の意識

      ある労働者と進歩的イソテリゲソチヤの思想的共有財産とな

      つている。

       ○ 邦訳『レーニンニ巻選集』第一巻第一分冊 八七頁、

         弓.■轟¢ぎ■雪;■自びqgH)夢}肩・こ、一毒竺・肩宗・

        ≠ぎ9。・O豪P『デューリング論』邦訳『マルクス・エン

        ゲルス選集』第一四巻三六三頁、

         ブルジョア経済学者のマルクスに.たいするさまざまの

        論難中傷  たとえば、 ボェーム・バウェルク(冒プ昌.

        ま姜÷)の『マルクス体系の終結』(ぎ冒≧碧三易閉宗・n

        ま嚢・ブ;U。ヱ;・二き¢)や、そのやきなおしであるわ

        が小泉・高田博士のものなど-;-た拍いても、蔵接剰余

                     九五(六一七)

  •  立命館経済掌(第二巻・第五号)

     価値説を論駁したものがぽとんどみられないことー-そ

     の基礎理講である労働価値説に.たいするいろいろの無理

     解な非難にもかかわらず  は特徴的である、、

    @ 目轟oぎ亭芦邦訳『選集』第一四巻 一〇一頁。

      なおエンゲルス『マルクス葬送の辞』に.はつぎのよう

     にのべられている。 「ダーウインが生物進化の法則を溌

     見したように■、マルクスは人間の歴史の発展法則を発見

     した。それはしげりすぎたイデオロギー的繁茂のもとに■

     拍おわれていた簡単な事実である、、すなわち、人間は政

     治や科学や芸術や宗教などをいとなむまえに1、まず食い、

     飲み、住み、着物をきなければならない。したがって、

     直接的な物質的生活資料の生産が、それとともに、ある

     国民またはある時代のそのときどきの経済的溌展段階が

     土育をなし、その土台からその人々の国家制度や法偉思

     想、芸術や、また宗教的観念さえも、発展したし、した

     がってこれらのものもまたこの土台から説明さ払なけれ

     ばならず、これまでのように.その逆に説明されてはなら

     ないということ、これである。

      それだけではない。マルクスは、今巨の資本制生産様

     式とそれによってうみだされたブルジョア杜会との特殊

     な運動法則をも発見した。剰餓価値の溌見とともに1、こ

     の分野には突然光明が生じた。こ牝までのいっさいの研

     究は、ブルジヨア経済挙者のものも杜会主義的批判家の

     ものも、 くらやみのなかをさまよっていたのである」

     (邦訳『選集』第一七巻 二頁)と。

                  九六(六一八)

     それでよ、剰余価値説二すでに自明の真理とし一、、いまさ

    ら問題にする必要のないものであろうか。そうではないでお

    ろう、 「支配階級の思想はいずれの時代にあっても支配的な

        5)

    田心想である。」ブルジョァジーはブルジョァジーであるかぎ

    り、いついかなるとぎにも、剰余価値搾取の事実を承認する

    ことをあくまで拒否する。剰余価値論を完全なかたちであた

    えた、『資本論』第一巻(二〕羨穴・貝巳、、屋.H)の刊行(一

    八六七年)以後のブルジョア経済学の歴史は、剰余価値の搾

    取を隠蔽するためのさまざまの破産したこころみ(いわゆる

    利子学説、すなわぢたとえぱ、時差説、節欲説、生産力説、

                       6)

    動態説、等々)として要約することがでぎる。いわゆる社会

    通念の領域においては、ブルジョァ・イデオロギーの支配は

    いっそうはなはだしい。しかも他方において、現代資本主義

    のすべての複雑・高度な諸現象、たとえぱ最近スターリソが

    現代資本主義の基本的経済法則としてあげた、最大限利潤の

    間題(スターリン『ソ同盟に拍ける杜会主義の経済的諾間

          7)

    題』一九五二年)にしで、も、ただ剰余価値論の基礎のうえで

    のみ、これを正しく解明することがでぎるであろう。すべて

    の経済間題の蝿解の鍵とし一、の剰余価値説の基本的重要性は

    むしろいよいよ深まり、それにあらゆる方向から光をあてる

    ことはますます必要となっている。ソ同盟の経済学界におい

  • て、剰余価値説の間題があらためてとりおげられていること

     (ブリュi、、、.ン「剰余価値説はマルクス経済理論の礎石であ

                      )

    る」 『経済学の諾問題』 一九五三年第三蜘ソもゆえなしとし

    ない。

     @ 呂曽、米n目自oq。ぎ冒o宗巨・〔争o星8一轟ダ邦訳『選集』

      第一巻 五一頁。

     @ ドッブ『経済学と資本主義』(竿U◎一・F雰一まs一まo・

      目。冒}、邑O、且邑一。。~お○oべ)第五章参照。なお、労働

      価値説の効用価値説にたいする決定的優越性は、後者が

      剰余価値を説明しえないのに反して、前者がこれを説明

      しうる点に.あるとするドツブの所説(第一章参照)は注

      目に値する。

     ¢ 邦訳 五月書房版 五二頁。

     @ 邦訳『経済評論』一九五三年七月号。

     わたしも以下において、剰余仙値説を一つの観点から、す

    なわち剰余価値がマルクス以前の諾学者によっていかにし二

    次第に認識されてぎたか、そし一、マルクスの剰余価債説はい

    かにして形成され、またいかなる煮昧で劃期的なものであっ

    たかという観点から、とりあつかつてみたいとおもうつもっ

    ともマルクス以前における剰余価値思想の発展については、

    イルクス自身が『剰余伽値学説史』 (…弓ま・ま易夢曾育箏

    峯。一一、秦、一、。一饒冒・・お◎↑HO)  それは薯者が『資太論』

      剰余価値説の成立過程(一) (松囲)

    第四巻(経済学説史)として刊行する予定であった遺稿を、

                          9)

    ヵウッキーが独立の著作として出版したものであり、したが

    ってかならずしも剰余価値説の歴史のみをおつかったものと

                          の

    はいえないが  のなかで詳細に検討しているので、簡単な

    素描にとどめる。

     @ な拍『資本論』第二巻の序文(旨-甲■H冨葦巨>自潟p・

      一、900・甲Hメ長谷部文雄訳〔青木文庫版〕働一七-二八

      頁)における、エンゲルスの剰余価値説史  マルクス

      をふくむ  の簡潔で示唆に富む叙摘を参照。

     ¢ ヵウソキiによるマルクスの手稿の歪曲  それは配

      列の変更や原文の改作や創除に拍よんでいるという

      については、 ブルシリンスキー、 プレイス「マルクス

      『剰余価値学説史』の科学版の準傭について」(『経済学

      の諾間題』一九五〇年第九号 紹介 マルクスーーエンゲ

      ルス蓬集月裸第一九号)参照、、ただしこの科学版はまだ

      刊行されていないようである、、

     まずはじめに、マルクスによる剰余仙伎説の完成した定式

    化の大要を、示しておくことが必嬰でおろう、、いうまでもな

    く、それは『資本論』第一巻第二篇より第五篇まで  とく

    に第二篇策四章、第三篇第五章第二節、および第六、七章

      にみられる、

     @ 剰余価値説のもっともすぐれた要約はエンゲルス『反

                  九七(六一九)・

  •    立命館経済挙(第二巻・第五号)

      デユーリソグ論』第二篇「経済学」第七章「資本と剰余価

      値」 (邦訳『選集』第一四巻三六〇1三六四頁)にある。

     マルクスは第一篇において「商品と貨幣」を分析し、交換

    の発展が、商晶のなかにふくまれている使用価値と価値との

    対立を、商品と貨幣とへの商品の二重化によって確立するこ

    とを明かにし、貨幣の機能を分析したのお、第二篇第四章

    「貨幣の資本への転化」を、この貨幣の媒介によっておこな

    われる商品流通と、資本の流通との形態的区別をもって、は

    じめている。商品流通の公式が、考(商品)  ○(貨幣)

      考(商晶)、購買するための販売であるのにたいして、

    、  、  、  、  、  、  、  、

    資本の一般的公式に、Q(貨幣)  老(商晶)  c(貨

    幣)、販売するための購買である、その運動においてこの後

    煮の流通を描く貨幣は、資本に転化するのでおる。形式的に

    はこの二つの循環を区別するものは、おなじ対立的な二つの

    流通段階の順序が逆なことだげである。だがそこからすべ一、、

    の梢違がはじまる。商品流通においては、運動の出発点およ

    び終点が質的に異る使用価値でおり、その目的は消費、欲望

    の充足である。しかるに貧本の流通においては、その両極は

    ともに貨幣でおり、質的には同一で、ただ量的に異りうるだ

    げである。それゆえ、最初に投げいれられたよりもより劣く

    の貨幣が最後に流通から引ぎあげられなければ、この流通は

                  九八(六二〇)

    無目的となる。だからこの過程の完全な形態は、 c-、!く

    --○、(より多くの貨幣)であっで、、このぴは〇十」(ル(G

    の増加分)に等しい、この最初の価値以上の超過分を、マル

       、  、  、  、

    クスは剰余価値と名ずげる、最初に投下された価値は、流通

    において自らを緯持するぱかりでなく、その大きさを変じ、

    ある剰余価値をつげ加える。すなわち白らを増殖する。そこ

    でこの運動によって、その価値は資本に転化する、以上は剰

        、  、  、

    余価値の現象的な規定である(第一節「資本の一般的公式」)。

     しかしながら、剰余価値は商品流通から発生することはで

    きない。商品の交換は、1その純粋な姿にあいては等価交換で

    あるが、剰余価値は不等価交換の場合、すなわち販売者が商

    品をその価値以上に売る場合にも、購賞者が商品をその価値

    以下に買う場合にも生じえない、狂ぜなら、各人は交互に販

    売者となり購買者となるであるから、右のいずれの場合に

    も、各人の利得と損失とはたがいに棉殺されるからである。

    また剰余価値は詐欺からも生じえない。なぜなら、なるほど

    詐歎は一方を犠牲にし一、他方を當ませることはできるが、L

    かし両者によって所有される価値の総額、したがってまた社

    会に存在する価値の総願を増大させることはでぎないからで

    ある。

     しかもなおわれわれは、資本家階級が全体とし、-.、購入し

  • たより五局く阪売することによって剰余価値を獲得し、たえ

    ずその資六の総額を増大させているのをみる。かくして、剰

    余仙値はどこからうまれるかというこの間題は、詐歎や暴力

    の手段によらないで純経済的に解決されねぱならない。しか

    も商品交換の法則、すなわち等価交換の基礎のうえで説明さ

    れねぱならないのである(第二節「一般的公式の矛盾」)。

     マルクスはこの問題を、第四章第三節「労働力の購買と販

    売」および第三篇第五章第二節「価値増殖過程」において解

    決している。その解決はこうである。資本に転化さるべき貨

    幣の価値増大は、この貨幣そのものからも、また商品の購買

    および販死からも生じえない、、なぜなら、貨幣はここでは商

    品の仙格を実現するだけであり、そして等価交換が前提され

    ているからでおる。それゆえ、この変動は購賞される商品と

    ともに生じなげればならないが、それの仙値とともにではな

    くて、それの使用価値から、すなわおその商品の消費から生

    じなげれぱならぬ。 「一商品の消費から価値をひきだすため

    には、わが貨幣所有煮は運よく市場で、それの使用価値が価

    値の淑泉であろという特殊の性質をもつており、したガって

    また、それの現実の消費そのものが労働の対象化、すなわぢ

    価値創造であゐような一商品を発見」なけれぱならないであ

    ろう。そして実際に、貨幣所有者は、市場でこのような特殊の

      剰余価値説の成立過程(一) (松固)

                            )

                            2

                     ■  、 U             1

    商品をみいだす11労働能力すなわぢ労働力がそれである」

    労働力というのは、人間の身体のうちに存在していて、彼が

    なにらかの使用価値を生産するときにはいつでも運用すると

    ころの、肉体的およひ精神杓な諸能力の総計のことである。

    そしてこの労働力の発現が労働なのである。

     しかし労働力の商品化のためには一定の条件が必要である、、

    マルクスはいう。 「貨幣が資本に転化するためには、貨幣所

       、  、  、  、  、  、

    有者は白由な労働者を商品市場にみいださねばならない。こ

    こに白由とは、一方では、彼は白由な人楮として白分の労働

    力を自分の商品として処分するという、また他方では、彼が

    売るべぎ他の商品をもたず、自分の労働力の実現に必要ない

    っさいのものからひきはなされ、白由にされているという、

               3)

               1

    二電の意味においてである。」と。だが、 一方の側に貨幣ま

    たは商品の所有者が、他方の側に白分の労働力以外のなにも

    のも所有していない寿が存在するというこのような関係は、

    けっして白然史的な関係でもなく、またすべての歴史的時代

    に共通した社会的関係でもない。このような関係は、封建的

                、  、  、  、  、

    生産様式の分解といわゆる本源的蓄積、すなわも直擦生産者

    と生産手段との分離、とくに農民からの土地収籍の結果とし

    て、十五世紀末ないし十六世紀はじめ以来大規模にあらわれ

    たのである(第七篤第二四章「いわゆる本源的蓄械」参照)。’

                  九九(六二一)

  •    立命館経済学(第二巻・第五号)

    だから労働力の商吊化、すなわち賃労働ユ資本制圭産様式の

    指標なのでおる。

     さて労働そのものはなんらの価値をもたないが、労働力よ

    そうで二ない、労働力の価値よ、 「他のすべての商品の価値

    とおたじく、この特殊の商品の圭産に、したがっレ、またその

                         14

    再生産に必要な労働時間によって規定されている。」すなわ

    おそれは、労働者自身を労働可能の状態に保持するために、

    また彼の種族を繁殖させるために、必要た生活資料の生産に

    要すろ労働時問によってき玄るのである(第四章第三節)。

     @戸5~妻香貝具塞.H.つ。.ヨ長谷部訳閉三

      一五頁。

     @ ;芦○o.-豪 訳三一八頁。

     0 H三・一・○○・ミoo 訳三二〇頁。

     いまこれらの生活貧料が日々に六労働時間を代表するもの

    と仮定しよう。資本家は生藤手段(原料および労働手段の磨

    減分)の購入に、たとえぱ二四労働時間を代表する貨幣願を

    支出し、労働力の購買に六労働時間を代表する貨幣纈を支払

    う。それによって資本家ユ労働米に、その労働力の一日分の

    価値全部を支払ったわげでおる。ところで、労働者がこの資

    本家のために六時間だげ労働した衣らぱ、彼は資本家にたい

    して支払われた労働力の一日分の価値を全部補償したことに

    一一、1、 黛  {.、,「一  妻一 .、・,. 、 、、篭 一 、, 、季、「匁,義一〃山、 .

                  一〇〇(六二二)

    なる、.だがそれでは生産物の価値、すなわち三〇労働時間に

    相当する価値二、その生産に投下された価値に等しく、すこ

    しも増大していない。投下された価値は次んらの剰余価値も

    生みださず、貨幣ユ資本に転化しなかったのである。それゆ

    え、労働力の購買者は彼一」よっ一、おこなわれる取引の峠質に

    ついて、まったくちがった見解をもつのでおる、、苧働者を二

    四時間生かしておくために六労櫛時問しか必要でないという

     ことユ、労価者が二四時間のうぢ一二時間労働することをけ

     っしてさまたげるものではない。労働力の価値と争働過程に

    おけるその価値実現とは、二一ノのちがった量である。杓、貝幣所

    有者は労働力の一日分の価使を支払った。それゆえ学働力の

     一日間の使用、すなわち一円間の労働もまた彼に属する一、労

    働力の一日間の使用がつくりだす価値が、労働力そのものの

     一日分.の価値の二倍の大浄きであるということは、購賢寿に

     とっては非常に好都令であるが、しかL商品交換の渋則から

     すれぱ、けっして販売考にたいす不なんらの不正でもない。

    資木案にはこの事怖がおらかじめわかっていたのでおり、だ

     から労働者は六時間分のみでなく、二蒔間分の労働過程に

     必要な生産手段を見出す、すなわお四八労働蒔間が対象化さ

     れていろ生産手段を白いまや、生産物の価値は六〇労働蒔間

     を代表するものでムろが、しかろに投下された価値は五四労

  • 働時風-…生産手段に四八労働時間、労働力に六労働時間

      に相当するものにすぎない、手品はついに成功した、六

    労働時間に相当する剰余価値がつくりだされ、貨幣は資本に

    転化したのでおる(第五章第二節)。

     ところでこの剰余価値の生産過程、すなわお価値瑚殖過程

    においで、、生産手段、すなわお原料・補助材料および労働手

    段に転化する資本部分と、労働力に転化する資本部分とはち

    がった役割を果す。前者は生産過程のなかでその大きさを変

                  、  、  、  、

    じないから、マルクスはこれを不変資本と名ずけ、後者はそ

    の大きさを変じ、それ白身の等価とそれ以上の超過分たる剰

                    、  、  、  、

    余価値とを再生序するから、これを可変資本と名ずける(第

    六章「不変盗本と可変狩本」)、

     剰余伽仇のその直接の源泉でお7、可変章不にたいすろ比率

      、  、  、  、  、

    は、剰余仙値率とよばれる。剰余価値が生みだされたのは、

    労働寿が彼の労働力の一日分の仙使を再生産するための時間

     、  、  、  、  、  、

    (必要労働時間)を超えで、、資本家のために無償で一定の時

      、  、  、  、  、  、

    間(剰余労働時間)労働させられたからでおる、資本がそれ

    を強制したのである一、マルクスはいう、 「価位をたんなろ労

    働時間の凝結、たんなる対象化された労働として把握するこ

    とが、価値一般の認識にとって決定的でおるように、剰余m

    値をたんなる剰余労働時間の凝結、たんなる対象化された剰

       剰余価値説の成立遇程(一) (松囲)

    余労働として把握することは、鶏余価値の認識にとって決定

    的である。」そして「種々の経洛的社会構造を  たとえぱ

    奴隷制の社会を賃労働の社会から  区別するものは、この

    剰余労働が直接生産者・労働者から搾りとられる形態にほか

       5)

    ならない。」と。剰余価値率は剰余労働の必要労働にたいす

    る比に等しい。だからそれは、資本による労働力の搾取度の

    正確な表現である(第七章「剰余価値率」)。

     @旨胃ク亭芦Qに.曽び訳三八五頁 なおっぎのことばを

      参照。 「マルクスはいっている。 「資本が剰余労働を発

      明したのではない、杜会の一部のものが生産手段を独占

      しているところではどこでも\労働者は自由であろうと

      不自由であろうと、生産手段の所有者のための生活資料

      を生産するために.、自己保存に1必妥な労働時間のうえに、

      余分な労働時間を迫加せねばならぬ」(葦{.○o.虞◎o 訳

      四一一頁)……だが、この剰余労働の生産物が剰余価値

      の形態をとるときに.はじめて、すなわち生産手段の所有

      者が自由な労働者を搾取の対象としてみいだし、商晶生

      産の口的でこれを搾坂するときにはじめて、マルクスに

      よれば、生産手段は資本という特殊の性質をおびるので

      ある。」(■湯巴♂>具二)肇己奏.邦訳前掲書三六七頁。)

     剰余仙依の生産は二つの主.要な方法によっておなわれ不、

    すなわも、労働日  労働時間の絶対的大きさ  の延長

     、  、  、  、  、  、  、

    (「絶対的覗余伽値の生産」  第三篇)による方法と、必

                 一〇一(六二三)

  •    立命館経済学(第二巻・第五号)

    要労働時間の短縮、およびこれにともなう労働日の両構成部

              、  、  、  、  、  、  、

    分の量的割合の変化(「相対的剰余価値の生産」  第四篇)

    による方漆とでおる。前者に関連してマルクスユ、労働日の

    制限をめぐる労働者階級と資本家階紋との闘争を分析し、後

    者に関連し一、、資本主義によっ一1、なされた労働生産力発震の

    三っの主要な歴史的段階--仙協業、似分業とマニュファク

    チュァ、ゆ機械と大工業  を研究している、そし、一、、第五

    篇「絶対的および相対的剰余価値の生距」の最後の章におい

                    塑粉責毒  塑愉膚寓

    て、剰余価値率をおらわす公式 司料鳩廿11劃寧判-葺商

    ふ雛苧誰繁一を示したのち、つぎのよ嘉剰余価

      、  、  、

    値の実体的規定をおたえている、、「すべての剰余仙値は、そ

    れがのちに利潤・利子・地代などのいかなる特殊的姿態に結

    晶しようとも、実体的にみれぱ不払労働時間の物質化でおる。

    資本の自己増殖の秘密なるものは、これを解い!、みれぱ、資

    本が他人の一定分量の不払労働を白由に処分するということ

      6)

    でおる、、」と、、第二補のはじめに貸本の一股的公式に関連し

    ナ一、おえられた、剰余仙倣の現象的槻定∴、ここにその内容を

    えた実体的規定とし一.払らわれ、本来のないし狭義の剰余価

    値論は以上をもっ一、おわっ!、いる。なお、剰余価値のその特

    殊的竣態への結晶二、旧知のように『資本論』第三巻におい

    て、すなわち剰余仙値の利潤(平均利潤)への転化は第一篇

                  一〇二(六二囚)

    および第二篇におい一、、利潤の一部の商業利潤への転化ば第

    四篇において、利潤の利子および企業者利得への分裂は第五

    篇におい一一、、超過利潤の地代への転化は第六篇において、そ

    れギ、れとり払つかわれているのである、、

     @ H一ま.叩山-蟹c 訳閉八三八頁つ

     さ!、以上の剰余仙値論が、マルクスの労働価値論の基礎の

    うえにたち、それと緊密な関係にあることは、一見しただげ

    でおぎらかでおろう。ここではマルグス価値論の素描をもあ

    たえる余地はないが、その主要な諸契機、すなわお商品の二

    要因  使用価値と価値との対立と統一、価値の実体の抽象

    的人間的労働による、その大ぎさの杜会必要労働蒔間による

    規定。複雑労働の簡単労働への還元。使用価値を生産する具

    体的有用的労働と、価値を生産する抽象的八間的労働との労

    働の二重怜格。使用価値と価値、具体的労働と抽象的労働と

    の矛盾の展開とし一、の、貨弊形態にいたろ価債形態の発腰、、

    商品の物神的惟格、これらの想論を基礎とせずに∴剰余価鮭

    論が成立しえないことはいうまでもない一一なによりもLまザ、

    さきにみたよ三、に、剰余価依の剰余労働への雌元}ふ、商品…

    値の抽象的八間的労働への迷元苧某礫,とすろものでおり、労

    働力の価但決定は一般商晶の仙値決定を某準とし、労働の二

    董性絡は、箭本欄生産過程の、労働、過程と伽依増煎過程とし

  • 一、の二重存在を基礎とL、また生産過程におげる新価値の創

    造1-抽象的人間的労働による-…と、旧価値の維持と移転

      具体的有用的労働によ弔…主の、労働の成果の二面性

    となっ一、あらわれる。等々。それゆえ、以下の剰余価値説の

    史的考察にあたっても、剰余価値論それ自体の成立過程とと

    もに、労働価値論の発展過程にもまた、必要なかぎりふれる

    であろう。

     それでは本題にはいって、まずマルクス以前のブルジョァ

    経済学者および杜会主義者たちが、いかに次第に剰余価値を

    認識してきたかの問題を概観することにLよう。

            1

     ちかく刊行が予定され一-、いる『剰余価値学説史』の科学版

    (マルクスーーエソゲルスHレーニソ研究所版)におい!-、は、

    ジェームス一ステユァート(盲一嚢○c…三ニコデoc○)の学説

                7)

    の考察が冒頭におかれている、、それユ、重金主義と電商主義

    とに合理的な表現を払たえようとしたステユアートのこころ

    みの批判は、重商主義のみならず、重農主義の理論の分析の

    手引きとなるからであるとされている、そこでわれわれもス

    テユアートの見解からみてゆくことにしよう。

       剰余価値説の成立過程(一) (松固)

     @ 前掲論丈の目次プラン参照、阜、れはマルクスの手稿の

      配列にしたがうものである、.

     「近代的生産様式の最初の理論的とりあつかい  重商主

    義  は、必然的に、商業資本の運動において白立化した流

    通過程の表面的諮現象から出発し、したがって仮象だげをと

    りあげた。……現実の近代的経済科学は、理論的考察が流通

                          8)

    過程から生産過程に移行する場合にはじめて始まる。」重商

    主義者たちは、剰余価値を純粋に交換、すなわち商品のその

    価値を超えての販売から説明した。ステユァートは全体とし

    てはこの愚昧からぬげだしていなかったのでおって、むしろ

                     9)

    彼はその「科学的な再生産著」であった。科学的というのは、

    彼は個々の資本家が商品をその価値以上に販売することによ

    っで、獲得する剰余が、あたかも新しい富の創造であるかの

    よらな幻想をともにしなかったからである。それゆえ、彼

     、  、  、  、  、      、  、  、  、  、

    は積極灼利潤と梢対的利潤とを区別すろ、積極的利潤は「労

    働、勤労および熟練の増大」から発生し、「一般的福阯の増

    大」をもたらす。ステユァートがこれをもっ一、、労働の生産

    力の発匿の結果つくりだされる使用仙依のより大なる量以外

    のなにものをも理解し一一、いないことは、明かである。相対的

                      の

    利潤は「当事者間における當の均衡の動揺」から発生し、一

    般的財産の増加をつくりださない、、個カの資太・家の利潤はつ

                  一〇三(六二五)

  • 一ヨ 一一。、、ら凄、二、く一出今、妻、、革,∴、害、一一」壬、^、ら、、一吉、圭、一ツ、、三角”、もぺ一、,ぷ一.一・、

        立命館経済掌(第二巻・第五晋)

                     D

                     2

     ねに相対的利潤、すなわぢ「譲渡利潤」であり、商品がその

     価値以上に売却されるということから発生する。したがって

     一方のもの利得は、他方のものの損失を意味する。このよう

     にステユァートの剰余価値にたいする目兄解は、一面において

     重商主義者を超えたものをもっているが、他面においては基

     本的に彼らの見解をで一、いない、それゆえ、 「ステユァート

                     の

                     o’

     は重金主義および重商主義の合理的表現である。」

      価値論におい〆-、はステユァートの見解は混乱しているが、

     彼が「その先行者および後継者にくらべてすぐれていた点は、

     交換価値であらわされる独自的・杜会的労働と使用価値をめ

                           3)

                           o.

     ざす現実的労働とを、よっぎり区別したことでおる。」すな

     わお、彼には労働の二重性楮の理解の茄芽があった。さらに

     彼は資本の本源的蓄積過程を分析したほとんど唯一の経済学

     者で払ったこ「資本の把握におげる彼の貢献は、一定階紋の

     財産としての牛産条件と労働力とのあいだの分離過程が、い

                        D

                        o’

     かにしておこなわれるかを証明した点にある。」ステユァー

     トが、ブルジョァ古典経済学者たちにはみることのできない、

     これらの貸本渕生産の歴史的件絡の想解を示したのは、彼が

     封蓮斑族の出身で払っで、、資木主義にたいして批判的でおっ

     たためであろベノ、

      ¢ 峯冥!-)註竈{;-ポ崖戸自Hげ.ぴ… 訳似四七八頁、

    ~、曇讐二一’、、・一  ユ、… .!、 ..,一{、、、刮 、、ま一、 、,、、.,、.白

         、     、  一〇四(六二六)

    @ 曽胃ぎ弓ぎ◎亭目夢曾宗目ンー争暮2戸話昌豪びq品9し竃

     く昌穴暮房喜一舅戸H0D・竈 邦訳『マルクス・エンゲル

     ス全集』第八巻五三頁。

    ゆ寸豪・・○。言買戸軍ぎ号一9亀雲妻邑厚昌;・ざミ書

     く〔)-一HP心べqI9

    @ 旨戸勺.N宝.

    ゆ 室胃戸弓ま◎ユ9・舅戸H○に・O◎N 訳五六頁、

    ゆ 旨胃♂N…穴幸岸序・宅一{豪争90県昌◎邑¢.(峯・一二・

     H豪葦臭・>畠すqき・)o○・き邦訳『選集』補巻3五〇1五

     一頁。

    @ 嵩胃ざ弓ま◎ユ彗・寅戸HQc・cooo 訳五七頁。

            2

     しかし重商主義の支配のもとで、すでにステユァートより

    一世紀もまえに、古典経済学の先駆者があらわれていた。ウ

    ィリアムペテイ(!≦;昌一黒け{H竃○○looべ)がそれでおる、、

    ペテイは労動価値説の創始者としで、著名であり、彼が「近代

          5)

          一2

    経済学の建設素」とさえ評価されるのも、主としてそのため

    である。彼が労動面値説をもっともはっともはっきりと定式

    化しているの^」『租税貢納論』 (>、ラ邑ぎ◎{宗、$・邑

    (〕C巨ユ巨三C享一-CQに)のなかのつぎのことばでおる.、 「もし

    、る入が、一ブッシェ八の、穀物を生産しべ、るのとおなじ砕閉

    をもって、一オソスの銀をペルーの地中からロソドソヘ運ん

  • でくることがでぎるならが、一オソスの銀は一ブッシェルの

    穀物の白然価格である、、そこでもし採掘のいっそミノ容易な新

    しい鉱山によって、ある人が従来の一オソスとおなじ容易さ

    をもってニォソスの銀を獲得することがでぎるならぱ、他の

    事情を同一と仮定し、-、、以前には五シリソグであった穀物は、

                            蝸

    いまや一ブッシェルにつき一〇シリソグとなるであろう。」

    ここで彼が自然価格とよんでいるものが商品の価値でおるこ

    とはいうまでもないが、それはたんなる価値ではなくて交換

    価値であり、しかも交換価値は工、の貨幣的表現において、す

    なわち価格においてとりあつかわれ、貨幣よ現実に存在する

    商品すなわお金および鍛と考えられ、「、いる、そして彼は金お

    よび銀を採掘する特殊の種類の労働だげが直擦に交換価値を

    創造し、その他の種類の労働は、その生産物が金および銀と

    交換されることによ二上父換仙値となるとのべ一、いる。その

    ことによ二一「彼は実際には、ブルジョァ社会における労働

    は、直接的た使州仙値を生産せねばならぬのではなく、商品

    を・交換過程におげるその譲渡により、金銀とし、・、、すなわ

    お交換仙値とし一、、すなわち対象化された一般的労働とし一.、、

    みすからを表示しうる使用価値を生産せねぱならぬ、と考え

    7)

    の’た

    。」のであろ、

     ところで、ペティにまた労働のはかに土地をも価債の尺度

       剰余価値説の成立過程(一) (松囲)

    と考えているのでおるが、これも彼が商品の価値を金録と同

    視したことから生じたものである。なぜなら、金銀の生産に

    は労働のみならず自然も参加するからである。かくしてh労

                            28

    働は富の父にして能動的原理であり、土地はその母である。」

    という彼の根本思想から、ただちに価値決定にかんする、

    「すべてのものは二つの自然的単位、すなわち土地と労働と

    によって評価さるべぎである。」 という主張がみちびきださ

    れる。ペティの労動面値説はこのような敏陥をふくんでいた

    けれども、諸商品の交換を規制する原理としてはじめて投下

    労働量を洞察したことは、資本制生産様式の内的連関の把握

    として、まことに天才的なものであった。

     ゆ 旨冒ざピ一8ユ9一Hさ.HOC.H 訳ニニ頁。

    ゆ皇・冒…旨一・書姜ぴ…二岸峯豪、一、H、。享、二、}

      H星ポく・一.H?S-日.

     @ 曽胃さh・三万OC・さ1自 訳四二頁、

     ゆ崖8;旨一二くま轟・。一一・・婁-・

     @ ■)巨一勺.{卜

                       、  、

     さてペティの剰余価値恩想であるが、彼は地代をもって剰

    余仙値の本来的形態とみなし一、いる、彼はい、、ノ、、「おる人が

    自分の手で一定面積の土地に穀物を裁培すること、ができると、

    すなわちこの土地の耕作に必要なだけ、掘ったり、箪いたわ、

                 一〇五(六二七)

  •    立命館経済掌(第二巻・第五、号)

    室 ぐわ                     と

    馬鍬で掻ぎならしたり、草を除ったり、刈上げたり穫人れた

            ひ

    り、脱穀したり、簸たりすることがでぎ、かつまた、この土

    地に蒔くべぎ種戸をもっていると仮定しよう。この人がその

    収穫から、彼の種子および白分の食ったものと、衣服その他

    の自然的必需品と交換に他の人々にあたえたものとを控除L

    たとぎ、残りの穀物はその年の自然かつ真実の地代であると

    わたしはいう。そして七年、あるいはむしろ凶作と豊作とが

    循環する週期をなすような数年を平均すれぱ、普通の穀物地

         0)

         3

    代がえられる。」と。この現物地代から、彼は貨幣地代を、

    その労鰯価値論の基礎のうえに、みちびきだしている。 「し

    かし附随的でよあるげれども、さらにすすんでこの穀物ない

    し地代が、どれほどのイキリス貨幣に値するかが問題となり

    うるであろう。わたしは答える。他の一人がまったく貨幣の

    生産と製造とに従事する場合に、同一期間にその支出以上に

    蓄えうるだけの貨幣であると。すなわち他の人が銀のある国

    へ行き、そこで銀を採掘し、精錬して、それをいま一人が穀

    物を裁培するのと同一の場所えもっ一、ぎて、貨幣に鋳造する

    等のことをなし、またおなじ人が銀のために働い一、いる期間

    を通じて白分の暮しに必要な食物をおつめ、かつ自分で衣服

    を獲得する等のことをするとするつそうすれぱ一人の人の銀

    は、他の人の穀物と価値が等しいと評価されるにちがいない、

                  一Q六(六二八)

    前者を二〇オソス、後者を二〇ブッシェルとするならば、こ

    の穀物一ブッシエルの価樒は録一オソスということになるで

      3

    あろう、Lと、、すなわち、彼は総生産物から原料と生産者の

    生活維持費をひぎさった残余、またはその価値が地代となる

                           、  、  、  、

    と考えていたのであって、したがってそれは事実上剰余価値

    でおった。しかしここでは賃労働が歓げていることが注意さ

    れねぱならない。

     つぎに彼二この地代から、剰余価値の副次的形態とし〆、の

    、  、

    利千をひきだL一、いる。すなわち彼は利子の標準を、貸付げ

    られる貨幣が購買するだげの土地の地代に求め一、いる。そし

    て、ペティは独立の範犠とし一、の利潤を知らなかったのであ

    るが、それは資本制生産が未発達な当時の歴史的段階におい

    てはやむをえないことでおっイ、、むしろ地代と利子とを一括

    しイ、とりあつかい、これを生活維持のため以上の労働に還元

    し一、いるすぐれた分析が高く評価されてよいでおろう。

     かくし一一、ペティは労動而直説をはじめ一.定式化したばかり

    でなく、また剰余価値をもはじめて生産過程におげる労働の

    超過分  それが土地にむすびついた特殊の種類の労働であ

    り、また独立生産者の労働とし一、とらえられ一、いたにしても

      に還元することによっ一、、剰余価値説の端締をひらいた

    のである。マルクスが、イギリスの古典経済学はベティには

  •                    32

    じま二.りカ、ドにおわるとし!、いる二とも、この意沫でに

    埋言とはいえないて」島ろう、、

     ゆ -;(-二).お.

     ゆ 掌芦一・.お.

     @ 六幸デコD・○oo.訳四一頁。

            3

     つぎにわれわれは、重農主義の創始者フラソソァ・ヶネー

    (手竃“多一~一嚢暮ざまo↑一ミら)の剰余価値にかんする見解

    に移ろうつすでにのべたように、電商主義者二剰余価値を商

    品の交換過程から、商品のその価値以しLの販売から説明した。

    ケネーよ重商主義を批判しつつ、等価交換の蝿論を展開し一、

                   ふ

    いる。すなわちいう、、「純粋の商業」ユ「等価交換にほかな

    らない。これらの価値についてユ、両当事者いだに損失も利

       4)

       3

    得もない。」と、、剰余価値が流通過程から発生しえないとす

    れば、それはただ生産過程から生じうるだげである。だが剰

    余価値の理論が確立されるためにヱ、まず価値の概念が正し

    く把握されねばならぬ。

     しかるにヶネiの価値にかんする見解はぎわめて多岐であ

    り、一貫していない。彼は一方では、「土地は富の唯一の源

       5)

       3

    泉である。」とのべ一-、、価値を一面的に使用価値として理解

    しているが、また他方では、 「土地が生産するものは、それ

       剰余価値説の成立過程(一) (松囲)

                        禍

    自体勤労、また二八間の労働の生産物でおろ、」といっ一.、

    労働価依説な見解を示し、きらに「収人は土地と八間との生

        7)

        qり

    産物であるつ」と書い一、、ペティとおなじように二元論的な

    揮論を展開している。

     ヶネーはさらに使用価値と売上価値(”交換価値)とを区

    別し、おるところで二、.「生産物の売上価値子-…入間の労

              8)

              3

    働と勤労との結果である、」とさえのべ一、いるが、Lかしヶ

    ネーの価債論を労働価値説であるとすることはできない。そ

    れ二ヶネーにおいては、 「農業が唯一の生産的労働とされ一-、

    いる。すなわち労働はまだその普逓性と抽象性におい一、把握

    されていず、まだその素材としての特殊な白然的要素〔土

    地〕にしぱ乃つげられており、それゆえにまた労働は、まだ

    特殊た自然に制約された定在様式〔-農耕〕において認識さ

          談

    れたにとどまる一」からでおる。要するにヶネーは、右にみ

    たように人間労働が価値の実体でおるという認織の荊芽を示

    しながらも、その労働が農業労働にかぎられており、また価

    値と使用価値との同視の傾向がつよかったために、ついに一

    つのまとまった価値諭をかたちづくることができたかったの

    である。

     ゆ 02く8・・♂◎;邑{2oけ呂ま閉毛三毛g,o司.(ン鶉・

      昌ざ勺弩>.へ);ぎp?竃~

                  一〇七(六二九)

  • 、青、、“ぽ、肩ヂ一.、∴….、コ芦一、。,jぷ、ぷ、、、,、、タ一刊皇、、三嶋、苫、、、、、申山白ベヨ,外、Lぷ呉吊

       立命館経済掌(第二巻・第五晋)

     ゆ 宇巨.p轟co.

     ゆ (官弩鼻予旨簑ぎg胴竃似邑g旨胴・;賢冒お巨仙8昌.

      旨5幕{、旨;事;お品ま◎一9()9言厚PoocoH.

     ゆ (官婁員ざ■圭)Q8g勺冒○.○c〇一色ポ干けoo.

     ゆ (官o・・冒予(};一pへ)g…2二).曽○.

     @ (~鳥げ暮ざ匡o…罵・・二・冒戸-w昌o『二).9

     ゆ 戸曽買!()祭C一=邑。・争~書婁・言ぎ一5峯P、、豪一、、^、ダ

      邦訳『浬集』補巻4三三四頁  〔 〕内は引用者、

     ケネーの剰余仙値論、すなわち「純生産物」(雫・・一毒冒け)

    の理論もおなじ嵌陥をもっ一、いる。ケネーによれぱ農業のみ

    が純生産物を創造することによって富を増殖する。なぜなら、

    土地は自然の賜物を包蔵し、農業はこれを領有する行為だか

    らである、、したがって農業においては、その総生産物からそ

    れを獲得するに要した一切の費用を控除し一、なお、この自然

    の賜物に相当する純生脈物が残る、商工業においてはこのよ

    うな費用を趨える純生産物は生産されない、、原料の変形や移

    転による価値の増加は、その間に消黄されろ生活汽料の価値

    に等しい、、そこには価値の追加がおろのみで、創造ユない、

    それゆえ彼にと二-、は、「土地は富の唯一の淑泉でおり、岱

                柵

    を増加するものに農業でおるい」ことになり、農業のみヂ..一

    政他で、商工業∴不生椎的ギ」とい正、ゲで、ふ7・.、

     ヶ不1がこのように剰余仙他∴農業におい一一、のみ生産され

    一、噌、ぷオい岨、、。壬〕,.弓 ,一、、1 、 、、ヘノ」ミ古二 一,、. 、.、,、

                   一〇八(六三〇)

      ると考えたのは、つぎのような理由にもとずくのである。す

      なわち剰余価値はすべての生産部門のうち、農業においても

      っともわかりやすくはっきりとあらわれる、それは農業にお

      いては、生産者が生産期間中に消費する生活資料以上に生産

      された、生活資料の剰余におい一、あらわれる、、したがって価

      値一般の分析なくして、価値の性質にかんする明白な理解な

      くして、認識されうる。これに反して工業においては、人は

      一般に労働者が直接にふたたび彼の生活資料・またはそれ以

      上の剰余を生産しているのをみない、この過程は流通によっ

      て媒介されており、したがっ一、その理解のためには、価値一

      般の分析を必要とする、しかるにヶネーには、さきにみたよ

      うに、明確な価値の概念が献けで、いる、、それゆえ彼にとって

      は、農業労倒は剰余価値をつくりだす唯一の生産的労働汀あ

                              幻

      り、地代は彼の知る剰余価値の唯一の形態だったのである。

      かくし一.、ヶネーよ剰余仙値の発生にかんする研究を流通過

      程から生産過程に移すことによっ一、、資木制生産の分析の基

      礎をすえたので払るけれども、その生産過程はどこまでも農

      業という特殊の生産部門にかぎられ一-.いたのでおる、

       このような純生産物の理論と、それにもとずく資本理論

      :-土地仙払ブ農耕斉一可搾にするために地主〃なす投淡)、

     原前払二ち∴岡定汽木に祁当する)、年前払(如tじく流

  • 動資本に細当する)への資本区分--および、階級理論--,コ

    生産階級(小作農業者)、地主階級、不生産階級(商工業者)

    への階級区分  を基礎とし一、、ケネーは彼の経済理論の総

    括としての『経済表』(一一・一を昌一、一s;旨三員ミ似・。『経済表

    範式』-、・昌巳・岸弓巴・一g自まo目o邑毛2-ぎo)を作成した、、

    『経済表(範式)』は「六つの出発点と帰着点とをむすぶ五

    本の線からなる一つの表」のうちに、「資本の全生産過程を再

    、  、  、  、

    生産過程とし一、、流通をたんにこの再生産過程の形態とし一、

    叙述し」、「同時にこの再生産過程のうおに、収人の起源、資

    本と収入との交換、再生産的消費と終局的消費との関係を包

    括せしめ」ようとした、 「経済学の幼年期」におげる「もっ

           2)

           全

    とも天才的な着想」でおった。しかしそこにも、ざきにみた

    彼の理論の畝陥に対応する誤謬がふくまれ一、いた。すなわち

    不生産階級(商工業者)はなにらの剰余をも獲得せぬたんな

    る賃労働者としてとりおつかわれ、また彼らは原前払を用い

    ず年前払だけで生産を営むものとされ、さらに彼らの生産額

    よ社会の再生産総額のうおにふくまれぬものとみなされイ、い

    る、ことぎでおる。

     かくLてわれわれは、ヶネーが農業のみを生産的と解し、

    地代を唯一の剰余価債と考えた点に、彼の学説の封建的性.格

    をみるのである。彼はアソシャソ・レジーム(旧-制笈)のな

       剰余価循説の成泣過程(一) (松用v

    かから新しく生まれでようとL!、いたブルジヨア社会を、自

    然的理想社会とし!、つかみ、それが彼の経済学の対象となり、

    その実現が彼の政策の目的であったのでおるが、しかも彼の

    場合にユそのブルジヨァ的進歩性が封建的外皮沈まとってお

                         郷

    り、彼の体系は「封建制度のブルジョア的再生産」としてあ

    らわれているのである。

    @o@@

    (官祭暮ざ旨簑}旨oyへ)雪…夢一).○0Jo].

    冒彗ぎ、三一Sユ竃・屋・HコC・ぎ-○Oべ・訳六〇頁

    目・芦コO.竃.訳一一六頁。

    ;芦コ○.き・訳六四頁、、

    参照、一

     われわれ二つぎに重商主義と電農主義との成果を総括しで、、

    費本主義杜会をユじめ一一、全両的に把握し、一つの独立の科学

    とし一.の経済学  古典経済学  を創始したところの、ア

    ダム・スミス(>3昌○○旨亭二嵩・。-一べ竈っ○)の剰余個値思想に

    移ろう。 スミスの『国宮論』 (>目テ・亘q麦。皇一、オ、一一亘、o

    昌{9豪鶉まユき1く邑{プまズ峯・易Hミ3の劃期的斎義

    注なによりもまず、彼が當を創造するところのすべで、の規定

    性を放棄した労働一般  商業労働でも、農業労働でも、工

    業労働でもなく、そのいずれたる杉間わぬ労働一般  を価

          D

          4

    値の実体と考え、この労働価値説を全経済学体系の基礎にす

                  一〇九(六ご二)

  •    立命館経済掌(第二巻・第五号)

                       5)

                       4

    えたことである。若ぎマルクスはエソゲルスとともに、アダ

    ム・スミスを「国氏経済学的ルッター」とよび「労働をその

                 6)

                 4

    原理として認識」た国民経済学」の祖としたのである。

    @夢~睾雪凄N膏穴・…・家旦奏睾二一事?

      昌ぎh奉宗(H豪津巨o声おp茅¢yo○・爵甲♂・訊二八二頁

      参照 そこに■はつぎのように、のべられている、 「重金主

      義は富をまだまったく客体的に■、自己の外に■ある、貨幣

      の姿をした物だと考えた。工業主義または商業主義〔H

      重商主義〕は、富の源泉を対象から主体の活動  商業

      労働拍よび工業労働11におきかえたが、これは重金主

      義の立場にたいする一大進歩であった。だがそれでもな

      抽、この活動自体は、貨幣をもうけるという限定性に■お

      いて把握されていたにすぎなかった。この主義に1たいし

      て、攻農主義は〔さらに一進歩をとげたのであって、そ

      れは〕労働の一定の形態-農業  を、富を創造する

      労働と考え、稗体そのものをもはや貨幣の仮裟に。拍いて

      ではなく、生産物一般として、努働の一般的結果として

      把握したビだがこの生産物は活動の限定性に和応して、

      やはリなお自然によって規定された生産物…1農業生産

      物、たんなる土地生産物  にすきなかった、アダム.

      スミスは常を創造する活動のすべての規定性を放棄し、

      工業蛍働でも碗業労働でも農業螢働でもなく、そのいず

      れたるを閑わず、労働一般を〔富を創始する労働だと考

      えた”てあるが、これは〕彼の巨大な逃歩イ、あった、宮

                 一一〇(六三二)

     を創造する済動の抽象的な一般性とともに.、いまやわれ

     われはまた、富として規定される対象の一般性を、生産

     物一般を、すなわちやはり努働一般ではあるが、しかし

     対象化された過去の労働としての労働一般をえたのであ

     る。この推移がどんなに.困難で大きかったかは、アダム

     ・スミス自身がまだときどき重農主義に■逆もどりしてい

     ることからもあきらかである。」と。

    ゆ夢胴・ア9言艮・暮・一曇胃童・宗・オ邑9・一8パ昌・・

     昌河 邦訳『選集』補巻5二〇一頁。

    ゆ 峯冒さ室暮享一・ユヌo.訳三三〇頁。

     スミスの労動面値説は、麦配労動面値説  交換価値の真

    実の尺度は商品がその所有者をし一、購買または支配するをえ

    せしめる労働量である  と、投下労動而値説  交換価値

    値の真実の尺度二商品の生産また二獲得に要する労働量であ

    る  との二つの燕味をもつが、彼によれは「脊本の蓄積と

                       7)

    土地の私有とにさきだつ初期未開の社会状態」、すなわお前

    資本主義社会においては、労働の全生産物二労働者に属し、

    「ある商品の獲得または生産に通常使用される労働量が、そ

    の商品の通常購賢ないし支配または交換する労働量を決定し

             8)

             4

    うる唯一の事情である、」だから彼は、羊.こでに「さまざま

    の対、象を獲得するために必要な労働量の、いだの割合が、阜.

    れらをたがいに交換し、つにさいし.。、なんらかの準則を方

  •            )

               犯

    たえうる唯一の事情である。」という。しかるに資本主義杜

    会にはいり、利潤および地代が発生し、労働の全生産物が労

    働者に属さなくなるとともに、彼は利潤や地代も商品の交換

    価値の構成部分となり、投下労働最は支配労働量を決定しう

    る唯一の事情ではなくなると考える。すなわち彼はすべての

    商品の交換価値よ、賃金・利潤・地代の「三つの部分に分

    解」するということから、逆に「賃金と利潤と地代とは、す

                   0)

                   5

    べての交換伽値の三つの本源でおる。」と主張するのである。

    すなわおスミスは、資本主義社余については投下労働面直説、

    すなわお本来の労働価値説を放棄し、椛成価値説あるいは生

    産費説をとるわげであろ、、

     スミスのこの移行には深い根拠がおる。支配労動量は「労

    働の価値」、すなわち賃金を意味する。労働者が独立の商品

    生産者でおるとぎ  雌純商品生産村会  にに、労働者は

    二一労働時間の生産物でおる商品をもって、他の商品に実現

    されていろ二一労働時間を買う、、それゆえ彼の労働の価値は

    彼の商晶の仙値に等しい。生きた労働の一定量は対象化され

    た労働の同一量と交換され不。このような前提のもとにおい

    ては「労働の価値」は、商品にふくまれ一、いろ労榊量とおな

    じく価値の尺度たりえた。しかるに生産手段が特定の階級に

    属し、労働力は他の階級に属すス生産様式--資本制生産様

       剰余価値説の成立過程(一) (松田)    -

    式-においては、正反対のことがおこる。労働の全生産物

    またはその価値は、労働者には属さない。生ぎた労働の一定

    量は対象化された労働の同一量を支配しない。または商品に

    対象化された労働の一定量はそれ以上の生きた労働最を麦配

    する。スミスは商品交換から出発し、そこでは生産者は商帰

    の販売者および購買者としてのみ対立するのであるから、彼

    は資本と賃労働とのおいだの、対象化された労働と生きた労

    働とのあいだの交換においては一般的法則が止揚され、商品

    (労働という商品)がそのあらわしている労働量の比率にお

    いて交換されないことを発見した(発見したように彼にはお

    もわれた、、)、、そこで彼は資本主義社会では、労働時間は価値

    の尺度ではなくなると結論したのでおる。彼はむLろ、リヵ

    ードが彼にたいし一、正しくいっ一、いるように、その反対苧結

    論せねぱならなかった。すなわち労働の量と「労働の価債」

    とはもはや同一では狂く、したがっで、商品の交換価値はその

    なかにふくまれている労働蒔間によって規定されるが、「労

                    D

                    5

    働の価値」によってu、一規定されないと。

     ここでスミスによって「労働の価値」として意識されてい

           、  、  、

    るものは、実ユ労働力の価値でおる。それは労働者の生存に

    必要な生活資料の生産に要すゐ労働時間にょって規定される

    が、労働者は現実におい一、、労働力の価値を、すなわち賃金

          ’    二一(六三三)

  •    立命館経済学(第二巻・第五普)

    の等価を再生産する労働時間を超えて、資本家のために無償

    で労働させられ一、いる、、したがって商品にふくまれている労

    働時間、すなわち商品の価瞳は、労働力の価値よりも利

    潤および地代として資本家と地主によってえられる剰余価値

    の大ぎさだげ  大ぎいのである。スミスの議論はただこの

    現実の顛倒された表象にすぎない。生産過程におげる資本の

    労働力にたいする搾取が、流通過程におげる資本と労働との

    不等価交換とし一、意識されているのでおろ。したがってスミ

    スは毛とより誤っ一、いるのであるが、しかもこの誤りにおい

    て資本制生産の秘密にふれ!、いるわげでおる。このことをス

    、ミスを批判したリヵiドは理解しなかったのでおる。

    @つ。旨事二!、8三;{乞ま婁二戸ブK.O§暮’ま二一・.

      お・大内兵衛訳(岩波文庫)H一〇〇頁。

     ゆ 旨芦勺.お占9 訳一〇一頁。

     ゆ宇芦勺.お.訳一〇〇頁。

     @ 旨戸p墨. 訳一〇九頁。

     @嵩P、、一昌一8ユO~曳{・HOC・嵩甲]J○○・訳一五三-五買

      参照。

     さてス、、、スによれば、瞥本の蓄積とともに利潤が発生L、

    生産物の価値は賃金と利潤とに分れる。彼ぱいっている。

    「資本が特定の人々の手中に蓄積されるやいなや、彼らのう

                 一二一(六三四)

    ぢのあるものは、自らその資本を用いて勤勉な八々に原料と

    生活資料とを供給しで、仕事をなさしめ、そ、の製品の売却によ

    っ一、、す在わちその労働が原料に附加するものによって、利

    潤を獲得しようとするでおろう。……労働者たちが原料に附

    加する価値はこの場合二つの部分に分解し、その一部分は彼

    らの賃金を麦払い、他の部分二彼らの雇主が前貸ししたとこ

                          幻

                          5

    ろの原料と労賃との全資木にたいする利潤を支払う。」と。

    ここで利潤は労働者が附加した価値の一部分とし一、とらえら

    れている。それは資.本家が支払うこと征くし一、売るところの

    労働量である。彼の利潤は、彼がその商品にふくまれている

    労働の一部分を支払わなかったが、しかもこれを売るという

                            、  、  、

    ことからでてくる。それゆえ、スミスはここで利潤を剰余価

    、値としてとらえているわげでおる。 「これによって、 アダ

                       3)

                       5

    ム・ス、ミスは剰余価値の真の源泉を認織した。」

     地代についてもおなじことがいわれる、スミスは書いてい

    る、、「おる同の土地がすべ一、私有財産となろやいなや地主は

    他のすべ一一、の人々とおなじく、彼らがかって蒔いたことのな

    い場所で収穫するのを好み、その白然的な生産物にたいして

    すら地代を要求する、、……いまや彼〔労働者〕はそれ〔白然

    の果物〕を採取するための許可にたいして代償を支払わねぱ

    ならず、そして彼の労働が採取もしくは生産するものの一部

  • 分を地主に提洪しなけれぱならない。この部分、またはおな

                             り

                             5

    じことであるが、この部分の価格は土地の地代を構成する。」

    ス、・・スにおいては、地代は直接労働者から汲みとられる剰余

    価値として観念され、利潤の分化部分としてはとらえられて

    いないが、ともかく地代も利潤とおなじく剰余価値として把

    握されているのである。

     この利潤および地代の剰余価値としての把握は、のちの箇

    所(第八章「労働の賃金について」)ではいつそう明白にあ

    らわれている。すなわち、「土地の私有と資本の蓄積とにさ

    きだつ原始状態においては、労働の全生産物は労働者に属す

    5)5

    る。」しかL、「土地が私有財産となるやいなや、地主は労働

    者がその土地から生産し、または採取しうるほとんどすべて

    の生産物について、一種の分げまえを要求する。彼の地代は

    土地に使用される労働の生産物からの第一の控除をなす。土

    地を耕す人がその収穫のときまで、白分自身を維持するのに

    必婁な手段をもっで、いることは稀である。彼の生活維持費は

    一般に彼を傭う傭主、すなわち農業者の資本から彼に前払さ

    れる、、そして農業寿は耕作者の労働の生産物の分前にあずか

    ることがでぎなけれぱ、あるいは彼の資本を利潤とともに回

    収することがでぎなければ、彼を傭うことになんの利益をも

    感じないであろう、、この利潤は土地に使用される労働の生産

       剰余価値説の成立過程(一) (松固)

    物からの第二の控除をなす。ほとんどすべての他の労働の生

    産物も利潤の控除を免れない。一さいの手工業と製造業とに

    おいて、大部分の労働者は彼らの仕事の原料と、その仕事が

    完成するまでの賃金と生活維持費とを彼らに前貸ししてくれ

    る傭主を必要とする。彼は彼らの労働の生産物、またはこの

    労働が原料に附加する価値の分げまえにあずかる。そしてこ

                    6)

                    5

    の分げまえこそは彼の利潤なのである。」と。

     したがってスミスはここで率直に、利潤おび地代を労働者

    の生産物、または労働者によって原料につげ加えられた労働

               、  、

    量に等しい価値からの、控除として示しているのである。そ

    してこの控除は、さぎにスミスがみずから説明しているよう

    に、労働者がただ彼の賃金の等価のみを提供する労働量を超

                           、  、  、  ■

    えて、原料につげ加える労働の部分、すなわち彼の剰余労働

    あるいは不払労働からのみ成りたちうるのである。ここにス

    ミスが剰余価値の分析において、重農主義者を超えてなした

    大きな進歩をみるのでおる。電農主義者においては、剰余価

    値をつくりだすものは、ただ労働の一定の種類  農業労働

      にすぎない。そしてこの特殊の労働において現実に剰余

    価値をつくりだすものは、自然であり、土地であるへ、しかし

    ながらスミスにおいては、価値をつくりだすものは一般的社

    会的労働であり、必要なる労働量である。剰余価値は、生産

                  一一三(六三五)

  •   ,、一 、、一 工、ぷ,皿 ・∴、一入、揮一、ぺ中∴素劣拙、為一一蕩序一芋,一、.、灘、∴り,

       立命館経済学(第二巻・第五号)

    手段の所有者が生きた労働との交換によって取得するところ

    の、この労働の部分以外のものではない。それゆえに、重農

    主義者においては、剰余価値はただ地代の形態においてのみ

    あらわれる。スミスにおいては、利潤・地代・あよび利子が

                  7)

                  5

    剰余価値の異った形態にすぎない。

     もっともスミスはさぎにみたように、この商品価値の賃

    金・利潤・地代の三部分への分解から、ただちにこの三部分

    からの商品価値の構成に移り、労働価値説を放棄して、剰余

    価値説とはあいいれない生産費説に移行しているのであるが、

    ここではスミスのこのような外面的・現象的分析ではなくて、

    その内面的・科学的分析こそが間題なのである、、

     ゆ o○昌5仁亭戸p8・訳一〇一-二頁。

     ゆ峯胃ぎ弓プ8ユ彗一霞・HOO・崖H・訳一六四i五頁。

     @ oc邑芦婁戸p呂.

     @ 旨芦勺・竃・ 訳ニニ○頁。

     ゆ 旨巨.℃.o「 訳一三二-三頁。

     @ 旨冒♂亭芦件崖ooIり・訳一七一-二頁参照。

            5

     古典経済学の創始者アダム・スミスは、かくして労働価値

    説をはじめて広汎な基礎のうえにすえただげでなく、また剰

    余価値の源泉を明白に指摘することによって、剰余価値説の

    、、甘

    一ト

                 二四(六三六)

    成立への大ぎな寄興をなしとげた。しかるに古典経済学の完

    成者デヴィッド・リカード(U彗崖冒S邑・ニミ甲-oo轟)に

    おいては、剰余価値にかんする説明は、一方においては理論

    的な厳密さを加えたげれども、他方においてはス、、、スのよう

    な率直さを失い、一面的な理解に陥ったのである。

     まず、リヵードの労働価値説がどのような点で、ス、ミスか

    ら本質的に前進したかをみることにしよう。ブルジョア的経

    済体制の内的連関の、その生理学の、基礎であり、出発点で

    あるものは、労働時間によって価値が決定されるということ

    である。ここからリカードは出発し、それからこれまで経済

    掌者たちによって叙述されてぎた経済上の他の関係や範溝が、

    どこまでこの基礎・出発点と一致するか、あるいは矛盾する

             酬

             5

    かを探究するのである。ここにリヵード経済学の大きな歴史

    的意義があり、彼においで、は、価値論の経済学の基礎蝿論と

    しての地位が、スミスの場合よりもはるかに明確となってい

    るのである、

     つぎに彼はスミスの支配労働価値説をしりぞけ、資本主義

    社会においても投下労動而値説が妥当することを明かにする

    ことによって、労働価値説を擁護している。彼は、「一商品

    の価値、すなわおそれと交換される他の商品の量は、その生

    産に必要な相対的労働量に依存し、その労働にたいして支払

  • われる報酬の多少に依存しない。」 (『経済学およぴ課税の原

             9)

             5

    理』第;早第一節標題)と主張し一、、スミス∴授下労働亘里と

    麦配労働量とがあたかも同義であるかのごとく、この二つを

    価値尺度として使用しているといって非難する、事実はすで

    にみたように、スミスはこの両者は資本主義社会においては

    相異るものであるから、商晶のうおふくまれる労働量は商品

    の価備を決定することをやめ、むしろ商品の価値は労働の価

    値によって、一定量の労働をもって買い、または支配しうる

    ところの労働量によって決定されるといっているのでおる、

    しかしリヵードがスミスにたいしてつぎのようにいって、いる

    のは正しい、すなわち、二つの商品にふくまれる相対的労働

    量は、この労働量のうぢどれだげが労働者自身にあたえられ

    るか、この労働がいかなる報酬をうげるかによっては、まっ

    たく影響されない。だから相対的労働量が労働賃金のおこな

    われる以前に価値の尺度であったならぱ、労働賃金のおこな

    われたのちにそうではなくなるという理由はまったくない。

    ス、ミスはこの二つの表現が同義であるかぎり、それらをとも

    に使用しえた、しかLそれは、この二つの表現が同義でなく

    なるやいなや、正しい表現のかわりに誤った表現を使用する

    理由にはならないと、、だがリヵードはこれによってなんら問

              )                              ●

              6

    題を解決したのではない。

       剰余価値説の成立過程(一) (松固)

     リヵード価値論のスミスにたいするいま一つの大ぎな進歩

    は、彼が価値を決定する労鰯の衣かに商品に直擦加えられた

    労働とならべて、器具・道具・建物に投ぜられた労働をもふ

    くませている点である(第一章第三節)。しかるに彼はこの

    器具・道具・建物、すなわち生産手段を、スミスのいわゆる

    未開社会、すなわち前資本主義社会についてさえ資本とよん

    でいる、ここにリカードの資本制生産を、社会的生産の永遠

    の自然形態とみなす、非歴史的抽象性がとくには狂はだLく

    あらわれているc彼は資本を定義してト「資本ドニの富のう

    ち生産に使用せられる部分であって、労働に効果をあたえる

    に必要な食物・衣服・道具・原料・機械等よりなるものでち

    D6.る。」といっている。そしで、彼はこの資本を、問擦労動ある

    いよ蓄積労働とし一、のみとらえているのである。このような

    資本の概念をもち、そしてそれを問擦労働とみるにしても、

    その間接宙働が直接労働と相対立する関係のもとにおいては

    じめて資本として浮びおがることを、すなわち筏■本は生きた

    労働を吸収することによってのみ活気ずく死んだ労働でおる

    ことを、いいかえれぱ資本は物ではなく、一つの歴史的社会

    的生産関係であることを、まったく理解しなかったリヵード

    が、剰余価値の正確な概念を把握しえなかったことは当然で

    ある、、

                  一一五(六三七)

  •    立命館経済掌(第二巻・第五号)

     すでにみたようにリヵードは、資本主義社会について労働

    価値説を放棄するスミスを批判しつつ、そこにおいても労働

    価値法則が貫徹することを主張しているのであるが、しかも

    彼自身価値法則と平均利潤法則との矛盾に直面して、ついに

    その労動面値を修正し、わずかながらも一種の生産費説と妥

    協するのやむなきに至ったのである(第一章第四、五節)。

    もつともこの修正の及ぼす影響が比較的軽微であり、以下の

    部分においてはこれを度外視するとの彼自身の言明からも明

    かなように、彼の価値論は結局あくまでも労動面値説であっ

    たげれども。すなわち彼は、商品の相対価値はその生産に要

    する労働量の変化のほか、固定資本と流動資本と割合、固定

    資本の酎久性、および資本がその使用者に回収される速度が

    不等な場合には、賃金の騰落によっても変化をこおむるとい

    うのである。それは事実においては、商品の価値が、平均利

    潤率の法則の作用によって、価値とは異るところの生産価樒

    に転化する場合、したがって剰余価値が平均利潤に転化する

    場合である、Lかるにリカードは、商品価値の決定から剰余

    価値を説明し、この剰余価値の平均利潤への転化によって同

    時に価値が生産価格に転化することを説明しえずして、かえ

    っ一一、平均利潤率をあたえられたものとし、一、前提し、中問の環

    をとび一」えて、これと価値法則との直接的一致を証明Lよう

                  一一六(六三八)

    としたために、そしてまた価値と生産価格とを同視したため

    に、このような間題がおこったのでおる。したがって、それ

    はリカードの方法の根本的鹸陥  ブルジョア的諸関係の絶

    対化・永遠化  につながる問題であるとともに、また他方

    では、すべてのブルジョァ経済学者のうちで、ひと彼のみが、

    この資本糊生産様式の本質  価値法則  と現象形態

    平均利潤法則  との矛盾を意識し、その解明に苦しんだこ

    とは、それを解決しえなかったとはいえ、彼の優越性を示す

          2)

          6

    ものでもあったo

     ゆ 冒胃♂弓訂o着~罠{・自Hoc.中 訳『全集』第九巻一

      八頁 参照。

     ゆ U.室s邑9牢巨o{o。・◎{雪一まs-冒昌g{p目p弓宇

      曽巨◎~o早~○o昌胃勺・q・.堀経夫訳五頁。

     @ 曽冒!亭匡・oo・HH中 訳一五四頁 参照。

     ゆ 星s昆9亭戸p富・訳九四頁。

     @ この間題の解決は、『資本論』第三巻第一、二篇に。拍

      いて、マルクスによってなしとげられたこというまでも

      ない。

     さてリヵードの剰余価値にかんする見解であるが、彼の分

    析がつねに量的分析であって質的分析を鹸いていたように

      彼自身の言明するように彼の価値論は「絶対価値」(-価

    値)ではなくて「相対価値」 (-交換価値)の変動を研究対