Upload
others
View
10
Download
0
Embed Size (px)
Citation preview
Title 近世八重山派遣使者在番年譜について
Author(s) 高良, 倉吉
Citation 沖縄史料編集所紀要(5): 42-107
Issue Date 1980-03-31
URL http://hdl.handle.net/20.500.12001/7162
Rights 沖縄県沖縄史料編集所
近世八重山派遣使者在番年譜について
叫
典拠史料のこと
高
良
倉
吉
故事舎場永殉翁の収集した八重山関係史料
(いわゆる菩舎場文書)の中に
『御使者在番記』と称される注目すべ
き史料がある。
「白崇禎四年、至光緒四年
御使者在番記」との表題があ-、扉に
「大浜用博'宮良信明」と記
されているが、おそら-筆写をおこなった人物なのであろう。本文の冒頭に
「従往古八重山嶋江御使者井在番記
無之付而康県三拾壱年壬申年在番蘭相合旧記相考記之」とあって、
『御使者在番記』が康県三
一年
(一六九二)に
時の在番および頭らが旧記を参考に作成した蔵元の公文書
である旨を教えている。同時にまた、右の記事によ
-、この文書の編纂をおこなうまで八重山には
「旧記」を除き類似
の文書が存在しなかった事情も明らかであ
る。
『御使者在番記』
(以下
『在番記』と略称)編纂時の在番は奥平親雲上
(〓ハ九一年着任)、在番筆者は島袋筑豊
之親雲上および野崎筑登之親雲上の両名であるが、この
一〇年後に両先島においても旧記
。由来記の類が本格的
に編纂されはじめることを念頭にお-ならば、
『在番記』はその事業
の端緒ともいうべき位置にあることにな
る。二四行罫紙四七枚に筆写されているこの史料は、その奥書に
「右旧記者沖縄県八重山岳役所在勤中蔵元よ里
- 42-
近世八重山派遣使者在番年譜について
借用し同島大浜間切大川村士族営良信明氏に依托して之を謄写せ-
明治甘五年十
一月甘五日
遠藤利三郎」と
あるように、蔵元格護本
(現存せず)の写しであ-'同本は康県三
一年編纂時
よ-何度かにわたって仕次されて
きた
『在番記』の原本ともいうべきものであったのだろう。遠藤は、よ-知られるように、八重山関係史料の筆
写に多大の功績を残した人物で、八重山における田島利三郎的な位置を占める先駆者である。喜舎場文書中に収
められているこの現存の唯
一の
『在番記』写本を遠藤本と称するが、遠藤本は他の喜舎場文書とともにその写真
複製本が沖縄史料編集所にある。私が利用するのはこの写真複製本である。
『在番記』の内容は、
一口に言
ってしまえば'近世期に八重山に派遣された検便
。使者
。在番
。在番筆者
。詰
医者
。検見使者などの年譜であ-、後述するようにその史料的価値はきわめて高い。にもかかわらず'
『在番
記』を用いた研究は皆無ともいうべき状態にあるのである。
- 43-
三司官
後名糸数敷親雲上
首里
宮古主部役
泊
豊見城親方与力
首里
右同首里
平等之筆者首里
欠所奉行那覇
豊見城親方
豊見城儀保親雲上
久米中城親雲上
船越親雲上
喜屋武筑登之親雲上
沢嶋筑登之
江洲筑豊之
小禄親雲上
同筆者部覇
津花波筑登之
一崇禎四年辛末冬世御使井緒事為御仕置宮古島御下着
1同五年壬申之春八重山島御渡碍同年夏御上国
一豊見城儀保為在番詰越此時より在番初
一小禄親雲上津花波筑豊之未之冬垣八重山鳥江渡海
右に引用した記事は
『在番記』の冒頭部分であるが、書式はおおむねこれと同じように人名
(位階。役職・出身
地含
む)、用向き、来任および帰任年
(月日、季節など含む)'帰任後の改名付記などとなっている。右に明らかな
ように、初代の八重山在番豊見城儀保親雲上は、
「世御使井諸事為御仕置」宮古島を経て来島した三司官豊見城
親方
一行の
一員であ-、
一行の帰任後もとどま
って在番役に従事することにな
ったのである。在番に関する通例
の書式は'
- 44-
首里
島袋親雲上
筆者首里
糸洲筑登之親雲上
石垣二両死去
右同首里
平安名筑登之親雲上
一康県弐拾四年乙丑之春為在番下着
(差)
一同年夏屋らほ崎小唐船漂着破損二付右荷物之内飛脚船β御国元江被着登せ侯御各日二村而同冬代在番下着
一同弐拾五年丙寅之夏上国
近世八重山派遣使者在番年譜について
であ-、在任中の死去
(年月日を含む場合が多い)などについても記している。これらの書式による記事を整理し
て利用の硬に供するためにまとめた-のが付録の
「近世八重山派遣使者在番年譜」である。念のため断
っておき
たいがへ同
「年譜」は
『在番記』の記事に忠実に従
って整理してある。
た
だ
し
'
『在番記』の記事を若干傍証しうるものに
『八重山鳥年来記』があるので、それも参考にした。
『八
重山島年来記』(以下
『年来記』と略称)は、私の知る限-では現在六点の写本が残っている。そのうちの四点は善
舎場文書中に収ま
ってお-'うち①遠藤本①喜舎場本③大浜本
(謄写版)の三点および石垣市立八重山博物館の
収集にかかる我那覇本については'拙稿
「八重山キ-シタン事件について」
(『沖縄文化研究』5'1九七八年)の
注
(5)で触れたので解説はそれに譲る。残り二点のうち
一点は琉球大学付属図書館蔵のものだが'私は
一部コ
ピーを見たのみでまだ全体を検討したわけではないので'写本の特徴の指摘は後日を期したい。残-
一点はやは
-喜舎場文書中のもので'洪武元年
(三
六八)から康県二四年
(1六八五)の分までで、筆写
の事情を知-得る
手がか-は見当らない.全体として見ると'遠藤本と同
一であることから同系統の写本と理解してよい。こ
れら
の諸写本のうち遠藤本が最もすぐれていると思うが、その中にたとえば、
同
(崇禎)六莫酉
……………‥---。(中略)--------
一代在番八木親雲上冬便意御下り次亥夏御帰国被仕候処替り下着不被仕二付丁丑之冬まて中絶申侯
などと在番関係の記事が登坂する。その他検使
・使者関係などの往来も記述されているからへこれを使
って
『在
番記』を傍証することは可能である。ただし、
『年来記』遠藤本は康県二四年までの分しかな-'それ以後につ
- 45-
いては善舎場本
(乾隆三六年まで)と我那覇本
(嘉慶一五年まで)によ-補
った。
なお、
『年来記』は今のところ成
立の事情が明らかではないが'
『在番記』同様蔵元において公文書として編纂されたものであろう。
以上、要するに
『在番記』を定本に
『年来記』を補助史料として整理したものが付録の
「近世八重山派遣使者
在番年譜」である。以下、同
「年譜」から看取し得るい-つかの問題点を提示してみたい。
二
八重山在番をめぐる問題点
巧
在音別の変遷
まず最初にとりあげねばならないのは八重山在番の問題であろう。付録
「年譜」に明示されている如-、
一六
三二年の初代豊見城儀保親雲上から
一八七八年の渡喜次親雲上まで二四〇年余、
一三三代におよぶすべての在番
名が記されている。だがその間、在番制は
11様ではなかったo
初代豊見城儀保親雲上は、先に引用した
『在番記』冒頭部分でも明らかなように、
「世御使井諸事為御仕置」
来島した三司官豊見城親方の随員の
一人であ-、
一行の帰任後も八重山にとどま
って在番役となるのであり、
「
此時より在番初」
(『在番記』)るというわけである。豊見城儀保親雲上は半年ほどしか在任しておらず、すぐに
佐敷親雲上
(二代)に代
ってお-、佐敷もまた半年ばか-在勤したのみで八木親雲上
(三代)と交代している。佐
敷は
一六三四年の夏帰任、八木は同年冬来任していることから二二
二ケ月は在番のいない空白が存在した。八木
は三五年夏に帰任、次の津堅親雲上
(四代)は三七年冬来任
とな
っているから、
一年二二
二ケ月も在番のいない
空白があったことになる。
八木帰任後
「替-下着不被仕二付丁丑
二
六三七年)之冬まて中絶申侯」と、
『年来
- 46-
近世八重山派遣使者在番年譜について
記』も説明している。
障壁後の
一六三八年からは在番が三員とな
ってお-、制度上大きな変更のあったことがわかる。とこ
ろが
一六
七七年からは在番
一員、在番筆者二貝の制に変
っており、それ以後はそのままの体制が存続していることがわか
る。
『球陽』巻七、尚貞王
一〇年
二
六七八)の項に、
「往昔の世,宮吉山
。八重山に在番三員を設置して、国政
を宣敷し公務を弁理せしむ。人数の札を改むるに当りては在番両員の印花を用ふ。今年在番両員を裁少し、改め
(1)
て筆者両員を置-」とあり、三員在番制が在番
一員同筆者
二員制
になったのは
一六七八年であったことがわか
る。その前年の七七年から在番および同筆者の区別があるのは'その年に派遣された書名親雲上らまでは旧来ど
お-であったが、彼らの在任中
(七八年)の変更がその派遣年の記事に記された故であると思われる。
『在番記』
も
「此代β在番壱人筆者弐人二被仰定侯」と説明している。したが
って、派遣数とその内訳に視点をすえて見る
限-では、在番
一員制
(一六三二~三七年)、在番三貝制
(一六三八~七七年)、在番
一員同筆者二員制
(〓ハ七八~
一八七八年)の区別があったことになる。これを在任期間の見地から検討して見ると、在番
一員制の頃は任期がほ
ぼ半年余で
一年にも満たない。在番三貝制では、
一六三八年の島尻真壁親雲上ら
(五代)から四九年の江洲親雲
上ら
(三
代)までは約
一年であるが'次の玉納覇親雲上ら
(一四代)からは二年任期であ-、在番
一員同筆者二
員制も在勤年数は二年である。以上に述べた点を整理すると次のようになる。
-期
(一六三二~三七年)--在番一員任期半年制
(初代~四代)
Ⅱ期
(〓ハ三八~四九年)--在番三員任期一年制
(五代~〓二代)
Ⅱ期
二
六四九~七七年)-・・・在番三員任期二年制
(一四代~二七代)
Ⅳ期(〓ハ七八~一八七八)・・・・-在番一員同筆者二員任期二年制
(二八代~二二三代)
- 47--
2
在音別の成立
先に指摘したように、
Ⅰ期は在番制がスタートしたばか-で二度も空白が存在したように、在番制そのものは
まだ安定してなかったように見受けられる。
それがⅡ期、
Ⅱ期を経てⅣ
期に至
って確立したと思われるがt
で
は、何散に首里王府は在番制を創設せねばならなかったのだろうか。
『年来記』は崇貞五年
(一六三二)の条に
「前代者在番無之所之頭三人二諸事被仰付間々御使者為有之事二御座
候」と述べ、在番制創設までは基本的に在地の頭らに行政がゆだねられ'時折王府よ-使者が派遣される程度で
あった、と吉琉球釆の八重山統治の状況を説明している。在番制創設前の天啓八年
(〓ハ二八)四月
一二日付の
捉
(『年来記』)によれば'当時八重山に
「検者」と呼ばれる役人のいたことがわかるが、これはおそら-王府派
(2)
遣の使者であろうが今のところ手がか-はない。
『琉球国由来記』巻
二および
『球陽』巻六、尚質三年
(一六五
(T).._
..
,、、,、、,
○)の項
に、「尚元王御世'隆慶元年丁卯十月四日、毛氏座間味親雲上盛理、任八重山間切大淀。尚寧王御代'
ヽヽヽヽヽヽ
万暦二年甲成十
一月十三日、毛氏伊計親雲上盛理、任官古間切大淀也⑳
(以上見家譜)此職、自何御代為如乎、未
詳」とあり、かつて吉琉球に八重山間切大淀
・宮古間切大淀と呼ばれる役職の存在したことはわかるが、いかな
ヽヽヽヽ
る性格のものかは不明である。つづけて、
「中頃亦称宮古主部。那覇里主
・御物城二員之聖
兼掌宮古
。八重山
両島。然処、尚質王御代、噸治七年庚寅二月二十八日、改定御物奉行取、而止宮古主部職也」とあって、宮古主
部なる役職の存したことがわかる。
「年譜」を見るとP
一六三二年の豊見城親方
一行の中に船越親雲上がお-、
彼は宮古主部役である。
また、
同じ-
「年譜」
の
一六三六年浦添親方
一行中の渡慶次親雲上も宮古主部役であ
り、その他
一六四〇年の久米具志川親雲上もまた宮古主部役である.こ
の宮古主部も性格が不明であ-、八重山
- 48-
近陛八重山派遣使者在番年譜について
(4)
間切大淀
◎宮古間切大淀と-ども今後の究明課題である。
だが、いずれにしても、在番制創設以前までは、首里王府の両先島支配は常駐の監督官を現地に派遣して万全
を期すようなものではな-、王府機構内に両先島を管掌するポストはあるにはあったが、きわめてルーズなもの
ヽヽヽヽ
で、現地の頭らに差配をゆだねる間接的統治という程度のものだ
ったのだろう。王府が、両先島の直接的な統治
を目指すのは、やは-在番制創設以後のことだと考えられる。
在番制の創設をおこなわねはならなかった理由、換言すれば、両先島の直接統治を実現せねばならなかった事
由は、薩摩支配とそれによる幕藩体制
への編成という新たな状況に関連するが、直接の契機は拙稿
「八重山キ-
シタン事件について」において指摘したごと-、キ-シタン統制および海防監視体制の展開にある。そのことは
初代の豊見城儀保親雲上の就任の事情やその直後の異国船来航
への対処の在-方、また薩摩役人の常駐するいわ
ゆる大和在番の制を見ればうなづける点である。大和在番は
一六四
一年に南蛮船探兄のため八重山入-した薩摩
衆の
一人竹内備前が現地にとどまることによ-スタートしているがpその頃よ-海防監視体制が強化されており
(「八重山キ-シタン事件について」参照)、
これとの関係で八重山在番制の成立を理解する必要があるだろう。
む
ろんこのことと同時に、貢税負担などの面で先島
への新しい要請が王府に生じ、そのためにも先島の直接統治が
検討され、在番制の創設に帰結した点も予想される。いずれにしても、琉球の近世体制
への移行の
一つの動きと
して王府による先島の直接統治への転換があ-、その方策の
一つが在番制を生むことにな
ったと考える。
大和在番制は
一六四
一年から四九年頃までのわずか
一〇年足らずの期間しか存在していないが'その廃止の直
接の理由もあると見られるが、しかし、王府の在番制がⅡ期に入-
一定の効果を発揮しうる時点での廃止である
点には注目してお-必要がある。
- 49-
3
夜番および同筆者をめぐる特徴
在番は首里王府の機構の上では御物奉行に直属する職制であることはすでに知られているが、その権限および
執務規定など役務の具体的内容については今後明らかにせねばならない問題が多い。
さて、
『在番記』は在番や在番筆者の名前のみでなく、
その人物の出身
。死亡についても記している。
そこ
で、初代から
二一一三代までのすべての在番について、その派遣数
◎死亡数を出身別に集計してみると表1の結果
が得られる。それで見ると首里士族が圧倒的に多く全体
一八〇人の七六パーセントを占める
(那覇士族一四%、泊
士族三%、不明七%)。表1をさらに在番制
-。Ⅰ
。韮期とⅣ
期に二大別して集計した表2
。3を見ると、初期
(表2)においては那覇
。泊両士族も比較的多く登用されているが
(首里士族五一%、那覇三一%'泊七%、不明二
%)、中後期
(表3)においては断然首里士族が優勢であ-
(九三%)、
那覇士族は
わずかに
三名
(三%)、泊士
- 50-
計
表 1 在番内訳 (1632-1878)
計
表 2 在番内訳 (1632-75)
死亡数派遣数区 別
計
表 3 在番内訳 (1677-1878)
族は無しといった
状況であ-、首里
士族独占の感が強
い
(不明四%)。久
米士族がこれに全
く含まれないとい
う特徴にも注意す
べきであろう。ま
近世八重山派遣使者在番年譜について
計
在番筆者内訳 (1677-1878)
た、死亡率を見ると、全体
一八〇人に対して二六人、
一四%ときわめて高いの
であ-、死を覚悟の上での赴任とまではいかな-とも、生命に
一定の危険を伴
う仕事であ
ったとはいえよ-。
同様の方法で在番筆者について集計したものが表4である。在番筆者の制は
一六七八年からはじまる
(その前年に派遣された大域筑豊之親雲上らから)が二
二
一名中八人
(不明)を除-人物
の出身がわかっている。比率は首里士族五〇
%、那覇三三%、泊
一三%、不明四%であ-、在番と比較すると同筆者の場合
は那覇および泊士族も比較的多-登用されていることがわかる。死亡率は在番
(5)
と同じく
一四%でやは-高いといわなければならない。
一八〇〇年の在番および同筆者は全員死亡している。在
番もしくは同筆者の誰かが死去しても、
そのポストを
すぐに埋めるため新たな人員が派遣されており、
たとえ
ば、在番死去によ-同筆者がそれを代行したままでいることは例がな-、体制の人的補填が常にはかられている
ことも鬼のがせない。
また、
「年譜」に明らかなように在番
お
よ
び
同筆者は春に釆任し夏に帰任するというのが通例であり、
一時
期、前在番と新在番が八重山現地に同時に滞留するという事情がある。事務引継がどの時点でおこなわれるかは
不明だがpこのことにも注意する必要があるO
在番がその業務の上で失退を生じた時は更迭されている。
一八四六年の在番渡名喜親雲上宗珍'同筆者山田筑
豊之親雲上義唄は頭との蘭にトラブルを生じたらし-、任期半ばの翌四七年に更迭されてお-、新在番がこの
一
件を乳明した模様である。
一六八五年の在番島袋親雲上へ同筆者糸数筑登之親雲上
。平安名筑登之親雲上は難破
- 51-
した小唐船の積荷の処理に-スがあったといわれ、平安名は自害、島袋
。糸数両名は任期満了ならざるうちに更
迭されている。
一七四六年の在番大山親雲上も
「死去」とあるが、その死は柚山仕立松を焼失させたという責任
を問われたものではないかとみられる。
一七二〇年の在番久志里之子親雲上、同筆者森山里之子親雲上の場合は
実質的に更迭と見られ、
その理由は両者の
「入組」にあったようだ。
「入組」とはおそら-係争を指すのだろ
う。このような事例から、在番らは業務上の-スで更迭された-自害におよぶことがあ-、また、地元の東や同
僚同士とのトラブルを生じたこともあ-、そのトラブルの性質によっては更迭されることもあったようである0
高い死亡率の原因はマラ-ヤなどの風土病や航海の危険にあると見られるが、あるいはその他にも死因はあった
(6)
のかもしれない。
三
検使
。使者
。検見使者について
- 52 -
先述したように'在番制は新たな状況に対応するための首里王府による先島
(ここでは八重山)の直接統治をは
かる意図のもとに創設されたと考えられるが、しかし王府は、こ
の在番制のみをも
って先島の直接統治を実現し
えたわけではない。そのことは、まず検使の派遣を考えればおのずから明らかとなる。
「年譜」に散見されるごと-、在番制創設後に首里王府の大物クラスが検使として八重山に派遣されている。
一六三六年に三司宮浦添親方
1行が手札改および仕置のため、
一六六八年に仕置のため稲嶺親雲上ら、
一六七八
年に仕置のため恩納
(佐渡山)親方
一行'
一七
一〇二
一年に諸事見聞のため奥武親雲上らP
一七六七年に仕署
のため漢那
(与世山)親方
一行、
一八四〇年に仕置調
べ方のため石原親雲上宗隆
一行、
一八五七年に仕置のため
近世八重山派遣使者在番年譜について
翁長親方朝典
一行、
一八七四年に仕置のため富川親方盛杢
一行がそれぞれ派遣されて来てお-、先島統治の洗い
直しがその都度おこなわれている。ことに、恩納親方、漢那親方、翁長親方、富川親方らの仕置は重要で、彼ら
(7)
は仕置の後規模帳などを布達し統治を魂化している。在番よ-はるかに強大な権限を持つ彼ら検使は、在番の仕
事をも点検し統治上の改革をおこなうわけであるが、この
一事をとっても在番制のみに王府は先島統治をゆだね
たとは考えられないのである。
また、使者の派遣も重要である。
「年譜」に示されるように異国船来着探兄のためしばしば現地に使者が遺さ
れてお-、その他にも御高札や大和御用手形、五人組手形、御用布手形、御用物手形、布達文書などを持参する
ケース、祭文使者、御加勢米調達使者、未進上納米才覚使者、御冠船御手当につき諸上納催促の使者などその例
が多い。これらの使者は王府の行政的要求を現地に伝えるためのものであ-在番制との間に矛盾はないが、たと
えば'末進上納米の完納化への努力は在番業務の
一つであるにもかかわらずその才覚のためと-に使者が派遣さ
れるケースなどp在番制との間に
一定の矛盾を示す例のあることは注意してよい。
検見使者
。相附制は
一八五八年にはじま
ってお-、任期二年で、その全員の名が判明している。検見使者
一〇
名、相附九名のうちそれぞれ
一名づつの出身不明者を含むが、残-すべては首里士族である。在番制を持ちなが
らなぜ検見使者の制をあらたに創設せねばならなかったのかは今後の検討課題であるが、いずれにしても先島統
治にあたっての常駐官として在番のみでは満足できない状況があったと思われ、
あるいは沖縄本島地方の下知
役
。検者制に相当するものかもしれない。
在番制は'たしかに首里王府による先島の直接統治を実現するための手段であったと思うが、しかし、それは
唯
一の手段であったのではな-、在番制を超えた政治行政的点検が検使によっておこ
なわれ'また、在番制を補
- 53-
強するために使者および検見使者の活動もあったと見なければならないのである¢
四
その他の間題
さて、
「年譜」によ-残されたいくつかの問題を指摘してみたい。まず詰医者の問題だが、その人物名が登場
してくるのは
一八四〇年の亀浜筑登之親雲上からである。表5によってその出身と系持
。無系の別を示したが、
在番および同筆者と比較すると、①那覇出身者の多いこと①無系の人物が含まれること、といった特異点を兄い
3
3
1
0
人 数 !士 族 i無 系
4 4tll13 it†I11 :l1111 : 0
9 i 4
区 別
那 覇
首 里
泊
若狭町
計
表 5 詰医者の内訳 組840-78)
出すことができる。その理由は、おそら-詰医者が技能者であるため、系
持
・無系を問わずその技術が登用されたこと、また、そのような技術保持
者が那覇に比較的多-居た殻であろう。
「年譜」を見ると風水兄の記事が二件出て-る。
lつは、
一六八六年に
宮古島に風水鬼の目的
で赴任していた列間親雲上
(久米村)が八重山にも
来て風水見立をおこなったというもの、今
一つは、
一八六三年に風水見与
儀通事親雲上良佐
(久米村)が来任したというものである。彼らが具体的
にいかなる仕事をしたかは不明だが、先島までその足跡を残していること
は注目に値する。
ところで、
「年譜」によってさらに注目すべき問題を引き出すことがで
き
る
。それは先島往来の船舶の問題である。
- 54-
近世八重山派遣使者在番年譜について
表6 八重山往来の船舶
名 船 船 頭
那覇馬艦馬艦船五反帆馬艦船大和船六反帆馬艦船五反帆馬艦船仲立地船大 和船御米酒馬艦船御米漕馬艦船御米酒馬艦船大和船十反帆馬艦船十 反帆馬艦船久高島七反帆船五反帆船大和船八皮帆馬艦船跡立五度帆船新里船宮城船御米漕六皮帆船大和船大和船御米酒六度帆船大和船七反帆馬艦船六皮帆船十度帆船大和船大和船西村の宮城筑登之親雲上船大和解除連間切東親川の玉城筑登大和解 し之親雲上船
大 和船大里船重早愚大和船軍船重軍船下小船万年丸馬 艦船
馬 艦船御物鷹御 物船馬 艦船御物馬艦船
泊村の比嘉筑豊之親雲上泉崎村切 与座筑登之親雲上泉崎村の比屋定親雲上
泊村の端慶山里之子親雲上若狭町村の屋良筑登之親雲上
久米村の山田筑萱之親雲上東村の比嘉筑登之親雲上内閣筑登之浜村の池味筑登之親雲上
東村の新垣筑登之国頭間切伊地村の地船
久志間切瀬嵩村の地膚
「親雲上知念間切列間村の内聞筑登之
泊村の山田筑管之親雲上金武間切祖慶村の地船西村の宮城筑登之親雲上
左同
左同
久志間切瀬嵩村の地船
- 55 -
山川の長兵衛
知花筑豊之久高島の内閣筑登之上町の英次郎新里内聞筑登之
宮城筑豊之
知花筑豊之親雲上「親雲上
久高島の糸数筑豊之久高島の口内間比嘉
表6は
「年譜」の記事を船舶について整理したものであるが、その
一覧から馬艦船
。大和船
。地船などが八重
山に盛んに往来している状況を想定することができる。それらの船は派遣役人が帰任に際して乗船した船であり
実際はさらに多-の船が往来したと見られるが、単に役人の運搬のために往来したのではな-、責租を運ぶため
と思われ、その他に渡航の折交易品を積載し現地において商行為をおこな
ったといわれている。したがって、そ
れら船舶が先島との流通に大きく関与していた実態を把握し、その歴史的意義を究明することは今後の重要な課
題である。船主に那覇や泊
。久米
。若狭町の
「士族」ばか-でな-、地方の人物も混じっていること、また国東
方面の地船がその所有間切の公務と関係なく往来していることを考えれば、近世琉球において
一種の海商的なグ
(
8)
ループが形成されていたことを想定できる。
なお、
一八七六年に仕置取-調べのため八重山入-した多寡良里之子親雲上らは、実は役人
。奉公人の政事不
安をしずめる任務をも
っていたようだが、おそらく、琉球処分期の政情を反映してのことであろう。
一八七四年
(明治七)の検使富川親方らの仕置もこの文脈に即して検討してみる必要がある0
- 56 -
<付記>八重山の
『在番記』
『年来記』に匹敵する宮古の史料に
『宮古島在番記』がある
(その抄出が稲村貿敷
『宮古島旧記
並史歌集解』
一九六二年p復刻
一九七七年にある)。これを使
って八重山と合わせて先島在番全体を議論すべきところである
が、本稿においてはその作業を劃愛した。なお'本稿に述べたいくつかの内容は
一九七九年
一月
一九日の第六回伊波普献賞受
賞式の記念講演
「先島研究の意義と課題」において触れている。なおその講演と同趣旨の内容を
「先島研究の課題-先島在番
を例として」
(『平良市史だよ-』第四号p
一九七九年)と超して
t部発表したo
近世八重山派遣使者在番年譜について
∩註
〕
(1)
球陽研究会編
『球陽』読み下し福'二一四~二一五ページ。
(2)
『琉球史料叢書』二巻'六七~六八ページ。
(3)
前掲読み下し編、
1九〇-1九
一ページ参照。
(4)
『球陽』巻八㌧尚貞王二三年
(一六九
一)の項に
「往昔の世よ-宮古御蔵は両所に有-。
一は城内金嬉に有り'
一は那
覇渡地に有-て'通夜両蔵を看守す。此れを以て主部両員を加増す」
(前掲読み下し編'二二八ページ)
とあるが'こ
こでいう
「主部」は宮古主部とは異なるように思う。
(5)
1七七〇年の兵栄田筑豊之親雲上のように帰任後に死去した人物はここでは含まないo
(6)
島尻勝太郎は
「在春宵と宮古」と題する小論
(琉球新報
1九七九年四月二六日)の中で、
宮古在番がその現地妻に毒殺
された説話を指摘してお-'この種の
「死去」も当然あったであろう。
(7)
「恩納親方規模帳」は目下現存を確認されてないが'
「参道状」
「年来記」および
「与世山親方規模帳」などによって
その内容の概要を知るこ
とができる。
高良倉吉
「両先島に関する新史料の紹介」
(『沖縄歴史研究会会報』二号、
1九
七八年)参照。
「与樫山
(漢郡)親方規模帳」は宮古島
(写本二点)と八重山の分がある。
宮古の分については沖縄歴
史研究会近世史料部会
「『与世山親方宮古島規模帳』
の検討」
(『沖縄歴史研究会会報』
三
。四号'
一九七八年)参
照。
八重山の分は崎浜秀明編
『沖璃旧法制史料集成』第三巻
(1九六七年)に
「八重山島規模帳」の名で全文の紹介が
ある。
「翁長親方規模帳」の宮古の分は奥野彦六郎が
「宮古島規模帳」の題で
『法務資料』第三二〇号
(一九五二年)
に紹介している。
八重山の分は最近石垣市立八重山博物館が収集した。
「富川親方規模帳」は八重山分について破名城
泰雄が
「八重山鳥規模帳」の名で八重山文化研究会編
『八重山文化論集』二
九七六年)に全文紹介しているが'宮古の
分は知られていない。これら規模帳の研究は最近はじまったばか-であ-、今後研究が進むにつれて多-の問題を提示
- 57-
してくれるであろう。
(8)
先島往還の船舶pことに馬艦船については喜舎場
一陸
「『馬艦船』考」
(『海事史研究』第二三号p
一九七四年)参照。
また'
先島往来の
「大和船」について触れているわけではないが、薩琉間を往来した船と船主などについては仲地哲夫
「薩摩支配における特権商人の役割」
(『沖縄歴史研究』
一〇号'
一九七三年)参照。
∧付録>
近世八重山派遣使者在番年譜
凡
例
写本年譜は
『御使者在番記』
『八重山鳥年来記』をもとに作成したものである。今後の家譜
。古文書および記録類の研究によっ
て訂正もしくは補正されることを期待している。
野
本年譜は種々の興味ある問題を投げかけており、その点については解説論文ですでに指摘したが'その他に史料の年代確定に
も有用であろう。たとえば干支および月日のみしか記されない史料でも、在番および同筆者の名が列記されている場合にはたち
どころに年代を確定することができる。
晋
備考欄には沖縄史全体の重要事項'八重山史関係記事
(人口など)、八重山関係古文書に関する事項などを入れた。それによ
-本文の理解を助け、また本文にかかわる今後の研究課題の
一助にでもなればと思
ったからである。なお、本文との対比で
『年
来記』の全文を検討することをおすすめしたい。
腎月日は原史料のとおり旧暦のままとした。
- 58 -
近世八重山派遣使者在番年譜について
2 1
〔近世八重山派遣使者在番年譜〕
西
暦
中国年号
事
項
備
考
6
∇春'諸事仕置のため豊見城親方
(三
司
官)、豊見城儀保親雲上、
久米中城親雲上
(首里、のち糸数敷親雲上)、船越親雲上
(宮
古主
部役'泊)、善屋武筑萱之親雲上
(豊見城親方与力、首里)、沢臆筑
豊之
(同首里)、江洲筑
豊
之
(平等之筆者'首里)'小禄親雲上
(欠
所奉行'那
覇)
'
韓花波
筑豊之
(同筆者、那
覇)
来島、夏帰任。
ただし小禄
。津花波は前年に
来島。
∇豊見城儀保親雲上は在番と
してとどまる。
∇冬'新在番佐敷親雲上
(のち読谷山親雲上)来島、
一六三
四年夏
帰任。
腎八重山在番のはじめ。
- 59-
∇春、使者阿多
源左衛門、武
宮
内
左衛門来島、翌年夏帰任。
∇冬
、新在番八木親雲上
(首里)来島へ
一六
三
五年夏帰任O
∇こ
の年、蔵
元屋敷を大
川
村
中道
の南から本
営
良
屋敷跡へ移す。
∇一六三四年'薩摩、石
垣永将
(本
営
良
)
の火刑
を命ず。
9
∇冬、手札改および仕置のため浦添親方
(三司官)
、大里親雲上
(首里)'渡慶次親雲上
(宮古主部役'首里)、玉那覇親雲上
(泊t
のち草地親雲上)'当間親雲上
(大和横目役、那覇)、宮城親雲上
(浦添親方与力'首里、
のち末吉親雲上)へ玉寄筑萱之
(同、首
里)'素数筑豊之
(那覇)'高安筑豊之
(頭数攻撃者役、首里)、
糸数筑豊之
(同、首里)へ大湾子
(同、那覇tのち与儀親雲上)'
神里子
(同'首里、のち宮城親雲上)、屋比久子
(同'首里tのち
宜野座親雲上)ら来島'翌年夏帰任。
∇冬、新在番津堅親雲上来島'翌年夏帰任。
∇春、新在番島尻真壁親雲上
(首里)'宮平親雲上
(那覇)'屋嘉比
親雲上
(那覇)ら来島。同年冬、屋嘉比の代-に平敷親雲上
(泊'
与那国にて死去)来島。屋嘉比は翌年夏帰任。
∇冬、宮古島に唐人漂着ならびに波照間島に南蛮人二人漂着により
探兄のため名護親方'宗教親雲上
(首里、のち奥間親方)、与郵嶺
親雲上
(首里、のち長嶺親雲上)、稲福親雲上
(長史役)、上江洲
里之子親雲上
(名蔑親方筆者)、又吉筑豊之
(筆者)、雲善
(那
∇三人
一年任期在番制の
スタート。
∇
薩摩'宮良与人の火刑
を命ず。
- 60-
近世八重山派遣使者在番年譜について
覇)、嘉数筑豊之
(長史筆者、泊)ら来島、翌年夏帰任。
∇冬、新在番摩文仁親雲上
(首里)'小橋川親雲上
(首里、西表島
にて死去)'石川筑登之
(那覇'波照間島にて死去)ら来島へ
〓ハ
四
一年夏帰任。
∇春'慶良問船二鰻にて御高札を持参し玉城親方
(首里)'屋比久
親雲上
(首里)来島。
玉城乗船は川平の中筋沖で破損し玉城は溺
死、童供
一人のみ助かる。屋比久は役目を了え同年夏宮古島へ。
∇秋'西表に南蛮船漂着によ-探兄のため小禄親雲上
(那覇)、宰
地親雲上
(泊)、屋冨祖親雲上
(首里、のち小禄親方)'平川親雲
上
(首里、のち前津波親方)'伊江大域親雲上
(首里tのち上原親
方)、久米具志川親雲上
(宮古主部役'首里、のち久米中城親方)、
害如幕親雲上
(贋物役'那覇)、平敷筑登之親雲上
(与郡原tのち
稲福親雲上)'中村渠筑豊之
(那覇)、安室子
(首里)'比嘉子
(那
覇tのち石川親雲上)'棚原子
(那覇)ら来島。彼らの到着三㌧四
日前すでに南蛮船は出帆していた。同年秋'
一行宮古へO
∇渋谷四良左衛門、喜入吉兵衛門、読谷山按司'宜野湾親方
(三司
官)'大里親方
(御物奉行'のち三司官)'新城親雲上
(申口役、
- 61-
のち池城親方)、島袋親雲上
(のち勝連親方)'与那城親雲上
(の
ち東風平親方)、江洲筑登之親雲上
(のち許田親方)'根指部親雲
上
(読谷山按司付衆、のち玉寄親雲上)へ休意
(首里)'宮城親雲
上
(御物奉行筆者'首里、のち末吉親雲上)、中村渠筑登之
(宜野
湾親方与力'首里、のち糸数親雲上)、中村渠筑豊之
(那覇)、思
かな
(小赤頭役、首里、
のち山城親雲上)、松かね
(同'首里へ
のち知花親雲上)ら大和衆
(薩摩側の手勢)六、七〇人を連れて来
島。
一行は正月に那覇を発ち宮古に停泊中'前年来島していた小禄
親雲上らから南蛮船がすでに出帆したことを知らされたが、着船場
付近の探兄のため予定どおり八重山に来島。同年夏帰任。
∇大和衆の
一人、竹内備前は在番として残る。
晋春、新在番棚原親雲上
(のち三司官兼城親方)二戸口親雲上
(那
覇、のち渡慶次親雲上)、伊佐親雲上
(首里)来島、翌年夏帰任。
晋大和在番のはじめ
(~
一六四九)0
常春p新在番高安親雲上
(首里≠石垣にて死去)p笠理親雲上
(首
里、のち高良親方)、船越親雲上来島、
〓ハ四四年夏帰任。
∇
諏訪神左衛門、村田形部少輔、新大和在番として来島。同行の三
慶
(医者)は来着の時川平にて死去。
一六四五年夏帰任。
- 62-
近世八重山派遣使者在番年譜について
23
∇冬'使者安波根親雲上
(のち中城親方)'安里筑豊之
(筆者、泊)
来島'翌年夏帰任。
∇冬、新在番上江洲親雲上
(首里)'稲嶺親雲上
(那覇)、安里親
雲上
(泊)来島'翌年夏帰任。
春'新在番安室親雲上
(首里、石垣にて死去)、喜名筑登之親雲上
(首里tのち伊波親雲上)、新垣親雲上
(那覇)来島、
一六四七年
夏帰任。
常春'新大和在番平田監物、伊勢六良左衛門、医者休意来島'翌年
夏帰任。
絵図作成および竿人のため鬼塚源左衛門、大脇民部左衛門、柳瀬清
左衛門、藤竹軍介'美里親雲上
(泊)、名苅親雲上
(那覇、のち害
屋武親雲上)'上江洲筑豊之
(首里、のち平安名親雲上)、津波吉
筑登之
(首里、のち瀬底親雲上)来島、検地を了え翌年夏帰任。
∇春'新大和在番最上善次郎'町田宗門
(石垣にて死去)来島、翌
年夏帰任。
∇冬、新在番謝名具志川親雲上
(首里tのち牧志親雲上)、照屋親
- 63-
雲上
(首里)'石川筑豊之親雲上
(那覇tのち具志親雲上)来島、
〓ハ四八年夏帰任。
456
∇春、新大和在番伊地知縫助、遠矢重兵衛'医者休意来島'
一六四
九年夏帰任。
∇冬'新在番善屋武親雲上
(首里)'戸口親雲上
(那覇、のち座間
味親雲上)、儀保筑豊之親雲上
(のち高志保親雲上)来島、
一六四
九年夏帰任。
∇新大和在番竹内備前、鋪根三右衛門来島'翌年夏帰任
(この後派
遣なし)0
常春p新在番江洲親雲上
(首里)、小郡覇親雲上
(首里pのち伊佐
親雲上)p中山親雲上
(那覇)来島p翌年夏帰任。
嘗冬p新在番玉納覇親雲上
(御物奉行役仕置を兼ねるP首里)p浄
花波親雲上
(首里、のち池原親雲上)、和仁屋筑豊之
(泊、薙氏、
のち伊波親雲上)p筆者識名子
(のち崎浜親雲上)来島、
〓ハ五
一
年夏帰任。
∇この年八重山の総人口
五四八二人
(男二五五七
女二九二五)。内訳'坊
主三、老人九九四
(男三
九九'女五九五)'童
1
四五三
(男七六七、女六
八六)'盲
一九四
(男四
八、女
一四六)、はす
(
片輪)六八三
(男二八四'
女三九九)、計三三二七
人は人頭税外人口。5482
-3327
-2)55人は人頭税
課税対象人口。
ヽ
-64-
嘗三人二年任期在番制の
閑始O
近世八重山派遣使者在番年譜について
7
常春'使者真壁親雲上
(平等之側役)p玉納覇筑登之
(首里)来
島'同年夏帰任。
89
∇春'新在番数名親雲上
(首里)'申宗根筑登之親雲上
(首里'石
垣にて死去)'津波古筑豊之親雲上
(のち瀬底親雲上)来島、
一六
五三年夏帰任。
∇前年西表に唐船漂着破損により、春、新約佐左衛門、竹内備前ほ
か道具衆六人'屋冨祖親雲上
(平等之側、のち小禄親方)、上原親
雲上
(長史役、のち池宮城親方)、屋比久筑萱之親雲上
(筆者、首
里、のち宜野座親雲上)ら拝見のため来島へ同年夏'唐人召し連れ
帰任。
∇春'新在番諸兄里親雲上
(首里tのち諸兄里親方)'冨盛親雲上
(那覇)、中村渠筑豊之
(那覇tのち我謝親雲上)来島'
1六五五
年夏帰任。
∇この年八重山総人口五
二八五人。
∇
唐船
(薄州船)八重山
に漂着
(『中山世譜』附
巻
1)0
-65-
常春'新在番豊見城儀保親雲上
(首里)、新垣親雲上
(都覇)p多
嘉良筑豊之親雲上
(那覇'のち花城親雲上)来島、
一六五七年夏帰
任。
∇春、害鳥調兵衛'和田甚兵衛ほか道具衆六人'阿波根親雲上
(辛
等之側tのち安波根親方)、大嶺親雲上
(長史)、中村渠筑豊之親
雲上
(筆者'那覇tのち我謝親雲上)来島。前年西表古見の赤離に
唐船漂着破損によ-その探兄を了え'同年夏、唐人召し連れ帰任。
∇春'新在番新川親雲上
(首里)へ花城親雲上
(那覇、のち安里親
雲上)、船越親雲上
(那覇'石垣にて死去)来島、
〓ハ五九年夏帰
任。
∇夏'大和御用手形を持参し宵里筑豊之
(那覇、
のち素手苅親雲
上)来島、同年夏帰任。
常春、新在番謝名具志川親雲上
(首里t
のち牧志親雲上)、摩文
仁里之子親雲上
(首里tのち津嘉山親雲上)'比屋根筑豊之親雲上
(首里、石垣にて死去)来島'
一六六
一年帰任。
∇冬'五人組手形を持参して柳原筑登之
(那覇、のち伊良波親雲
-66-
近世八重山派遣使者在番年譜について
46
上)来島、翌年春帰任。
甲冬、島袋親雲上
(那覇tのち渡久地親雲上)来島。この年与那国
島に漂着破損の阿蘭陀船跡見のため。翌年夏帰任。
常春、新在番安里親雲上
(泊)'知花親雲上
(首里)、野原筑豊之
(都覇)来島'
一六六三年夏帰任。
常夏、阿蘭陀船荷物標登-の手形を持参して大湾筑豊之
(那覇tの
ち翁長親雲上)来島'同年夏帰任。
∇春'新在番中宗根親雲上
(那覇tのち伊良波親雲上)へ与儀親雲
上
(首里t
のち我如古親雲上)'喜屋武筑豊之親雲上
(首
里)莱
島'
一六六五年夏帰任。
-67-
∇〓ハ六六年'向象貿'
摂政となる。
∇春'新在番知名親雲上
(那覇、のち小波親雲上)、比嘉筑豊之親
雲上
(首里)'新城親雲上
(首里tのち阿仁屋親雲上)来島、
〓ハ
六七年夏帰任。
∇春、新在番高安親雲上
(首里)、津波古筑豊之親雲上
(首里)、
78
与那覇筑豊之親雲上
(那覇)来島、
〓ハ六九年夏帰任。
∇秋'仕置のため稲嶺親雲上
(首里)、申宗根筑豊之
(筆者、那
覇)来島、翌年夏帰任。
写春'新在番前里親雲上
(首里'石垣にて死去)、照屋親雲上
(那
覇、のち桃原親雲上)へ粟国親雲上来島'
〓ハ七
一年夏帰任。
∇春'新在番上間親雲上
(首里'石垣にて死去)、内嶺親雲上
(那
覇)'安次富親雲上
(首里、のち川平親雲上)来島'
1六七三年帰
任。
∇春、新在番中地親雲上
(那覇t
のち我謝親雲上)
'天底親雲上
(首里)'大西筑豊之親雲上
(泊)来島'
一六七五年夏帰任。
∇夏'御用布手形を持参して花城筑豊之親雲上
(那覇)来島'同年
秋帰任。
∇春、中城王子上国につき御用物手形を持参して渡慶次親雲上
(那
覇)来島、同年夏帰任。
- 68-
近世八重山派遣使者在番年譜について
∇春、新在番山川親雲上
(首里)'乎南親雲上
(首里)、知念筑豊
之親雲上
(那覇)来島、
〓ハ七七年夏帰任。
∇春'新在番書名親雲上
(首里)
'同筆者大嶺筑豊之親雲上
(首
蛋)、屋我筑豊之親雲上
(首里)来島'
一六七九年夏帰任O
∇春'仕置のため恩納親方
(首里)、糸満親雲上
(首里)、奥間親
雲上
(首里tのち親里親雲上)'牢宮城親雲上
(大和横目'那覇)、
儀保親雲上
(同'那覇)、山城親雲上
(筆者'首里)'大域筑豊之
親雲上
(同'首里)、其志善筑豊之親雲上
(恩納親方与力、首里)
来島、同年夏帰任。
∇春、新在番長堂親雲上
(首里)、同筆者屋茅部親雲上
(泊)、字
栄里筑豊之親雲上
(首里)来島、
一六八
一年夏帰任。
▽春、新在番翁長親雲上
(首里)'同筆看官里筑豊之親雲上
(泊)~
屋良筑豊之親雲上
(首里)来島、
〓ハ八三年夏帰任。
∇この年八重山総人口五
三
二ハ人。
∇
「恩納親方規模帳」布
達さる。
∇在番筆者二員の制はじ
まる。
-69-
∇春'新在番奥武親雲上
(首里)
'
同筆者字堅筑豊之親雲上
(首
壁)、神里筑登之親雲上
(首里)来島、
一六八五年夏帰任。
∇春、新在番島袋親雲上
(首里)
、同筆者糸数筑豊之親雲上
(首
壁)、平安名筑登之親雲上
(首里、石垣にて死去)来島'翌年夏帰
任。この年やらは崎に小唐船漂着破損、在番らの積荷の処理が問題
となり任期満了ならざるうちに更迭さる。平安名は自害。
∇冬、交替の新在番奥間親雲上、同筆者伊佐筑登之親雲上'瀬嵩親
雲上来島、
一六八七年夏帰任。
∇冬、恩納親方
(御物奉行)'字地原親雲上
(平等之側)'津堅親
雲上
(大和横目)'上地親雲上
(同)へ照屋筑豊之親雲上
(与力)、
糸数筑豊之
(同)来島。帰唐船二鰹、順風を待
って石垣港を出て郵
覇へ向
った。そのうち大唐船は無事帰還したが、小唐船はやらは崎
で難破した。
一行はその探鬼のため采だが'こ
の時在番らの処分も
決められたと思う。翌年夏帰任。
∇一六六四年、八重山総
人口六二八七人。
- 70-
軍宮古島の風水鬼の目的で派遣された外聞親雲上
(久米村)、八重
山にも来島、風水を見立、翌年帰任。
近世八重山派遣使者在番年譜について
∇春、新在番野国親雲上、同筆者座安筑豊之親雲上、当山筑豊之親
雲上来島、
〓ハ八九年夏帰任。
∇春、新在番葺合場親雲上、同筆者親泊
∩筑豊之し親雲上、玉那覇
〔筑豊之〕親雲上来島p
一六九
一年夏帰任。
腎
〓ハ九〇年'八重山総
人口六七七六人。
∇春'新在番奥平親雲上
(首里
、同筆者島袋筑登之親雲上
(首
里'死去)、野崎筑豊之親雲上
(首里)、申宗根筑登之親雲上
(首
里)来島。
一六九三年夏帰任。
常春、新在番字江城親雲上
(首里)'同筆者儀平名親雲上
(泊)p
前里里之子親雲上
(首里)来島'
一六九五年五月帰任。
∇春、新在番渡久地親雲上
(部覇)'同筆者湖城筑豊之親雲上
(邦
覇)、与那嶺筑登之親雲上
(首里)来島、
一六九七年五月帰任。
∇春、新在番大宜味親雲上
(首里)'同筆者西銘筑豊之親雲上
(首
壁)、当銘筑豊之親雲上
(首里)来島'
1六九九年五月帰任。
∇七月
二二日、川平に異国人
一〇人漂着し狼籍をはたらいたので
1
0人とも討果す。この
一件につき西銘は宮良親雲上
(玩)、川平与
- 71-
人'新城目差とともに翌年上国し報告、さらに酉銘、川平与人は薩
摩におもむき
1件を告げた。
一六九九年正月帰島。
常春、新在番渡久地親雲上
(那覇)p同筆者湖城親雲上
(那覇)p
平敷筑豊之親雲上
(首里)来島へ
7七〇一年五月帰任O
∇三月
一〇日、新在番奥原親雲上
(首里)、同筆者掛保久筑萱之親
雲上
(首里)'波乎里之子親雲上
(首里、
一七〇二年六月
一四日石
垣にて死去)来島'
一七〇三年帰任。
∇三月三日、新在番銘可路親雲上
(首里)、同筆者珠数筑豊之親雲
上
(首里)、伊江大域筑豊之親雲上
(首里)来島、
一七〇五年四月
帰任。
- 72-
嘗一七〇六年p八重山総
人口九八七九人。
常春p新在番仲泊親雲上
(首里)p同筆者波乎筑豊之親雲上
(首
壁)p諸兄里筑豊之親雲上
(首里)来島、
一七〇七年五月
山九日帰
任。
軍
一月二二日、新在番小波親雲上
(首里'同年九月二日死去)、同
近世八重山派遣使者在番年譜について
筆者伊良皆筑萱之親雲上'粟国筑豊之親雲上
(首里)来島'
1七〇
九年五月
1八日帰任。
軍
二月二二日、小波死去につき代在番崎浜親雲上
(那覇)来島'翌
年五月
1八日帰任。
∇
二月三〇日'新在番我謝親雲上
(首里、吉氏)、同筆者沢低筑豊
之親雲上
(首里)'山城筑豊之親雲上
(首里'薙氏)来島'
1七
一
1年五月二三日帰任。
野
一月
1八日'検使奥武親雲上
(首里)来島。尚益王即位につき御
世誓神水を持参'また、御国許大飢鰻に対する続米肝煎のため、さ
らに諸事見聞のため。同年五月二三日帰任。
-73-
∇五月二八日'宮古島槽立船より検使奥武親雲上再び来島。同行に
鏡辺名親雲上
(筆者)、山里筑豊之親雲上
(同、首里)。山里は同
年六月八日宮古島へ。
∇四月
一日、新在番久手堅親雲上
(首里)へ同筆者諸兄里筑豊之親
雲上
(首里)へ山城筑豊之親雲上
(首里)来島'
山七
山三年五月二
∇
「奥武親雲上規模帳」
布達さる。
六日帰任。
∇新在番として滞島中の奥武親雲上
(首里)が指命されたが病気の
ため辞退。そこで三月二〇日'新在番として森田筑登之親雲上
(育
壁)、同筆者謝敷筑豊之親雲上
(首里)来島。森田は五月二二日死
去。このため前在番久手堅らとともに帰任予定であった鏡辺名親雲
上が足役として滞留。奥武、謝敷'儀辺名は翌年五月
二一日帰任。
∇三月
一七日'新在番山城親雲上
(首里)'同筆者長田筑豊之親雲
上
(首里)'小波筑豊之親雲上
(首里)来島'
一七
一六年四月二二
日帰任。
∇四月九日、新在番安里親雲上
(首里)、同筆者文吉筑萱之親雲上
(首里)'平敷筑豊之親雲上
(首里)来島。文吉は
一七
一八年浮海
に唐人漂着につきその宰領のため
一八年四月
三
一日へ安里
。乎数は
同
一八年六月六日それぞれ帰任。
∇二月二九日へ新在番玉代勢親雲上
(首里)、同筆者宮地筑豊之親
雲上
(那覇)、熱田筑豊之親雲上
(首里)来島'
一七二〇年六月九
-74-
近世八重山派遣使者在番年譜について
55
一七二四
4
日帰任。
∇四月五日、新在番久志里之子親雲上
(首里)、同筆者森山里之子
親雲上
(首里)'葺合場筑豊之親雲上
(首里)来島。
一七二二年、
久志および森山
「入組」につき森山は六月二日、久志
。喜舎場は六
月
一七日帰任。
腎
一七二一年、八重山総
人口
一万四二九八人。
∇三月
一〇日、新在番松田里之子親雲上
(首里)、同筆者上地里之
子親雲上
(首里)、津嘉山筑豊之親雲上
(首里)来島、
7七二四年
五月二
1日帰任。
∇三月
一〇日へ新在番当銘親雲上
(首里)、同筆者崎原里之子親雲
上
(首里)'城田筑豊之親雲上
(首里)来島へ
1七二六年六月二〇
日帰任。
∇三月
一〇日へ新在番南風原里之子親雲上
(首里)、同筆者奥平里
之子親雲上
(首里)、兼ケ段筑豊之親雲上
(泊)来島'
一七二八年
六月
二
日帰任。
野この年へ琉球の正頭数J
- 75-
68
∇三月二六日、新在番田島里之子親雲上
(首里)'同筆者佐久川里
之子親雲上
(首里)へ津堅筑登之親雲上
(那覇)来島、
一七三〇年
六月二〇日帰任。
二
一万九六四二人という◎
甲この年'八重山蔵元の
因を広げ石垣とする。
甲
察温、三司官となる。
嘗一七二九年、両先島奉
公人に系図家譜の作成を
許す。ただし、二字の氏
姓を用い'
「竹」の字使
用はご法度。
∇この年、八重山総人口
一万七〇九
一人
(男八四
四〇'女八六五
一)。同
年宮古は二万四二六五人
(男
1万二
l五
二
女
一
万二二
四)0
∇三月
一五日'新在番改名城壁之子親雲上
(首里)、同筆者田場里
之子親雲上
(首里)'東恩納筑豊之親雲上
(那覇)来島、
一七三二
年五月
〓ハ日帰任。
嘗三月二九日、新在番稲嶺里之子親雲上
(首里)へ同筆者普天間筑
登之親雲上
(那覇)、小波筑豊之親雲上
(首里)来島、
一七三四年
六月
1五日帰任。
常
この年、
「御教条」布
達さる。
-76-
近世八重山派遣使者在番年譜について
一七三六
乾隆135
∇一〇月二八日、在番稽嶺死去につき代在番として金武里之子親雲
上
(首里、のち普天間親方)来島、
1七三六年六月三日帰任O
∇三月
一五日、在番筆者新垣親雲上
(首里)
、平良筑豊之親雲上
(那覇)来島、
一七三六年六月三日帰任。
∇この年、
「農務帳」布
達さる。
軍
二月二二日、新在番安谷屋親雲上
(首里)p同筆者富川里之子親
雲上
(首里)、池原筑豊之親雲上
(首里)来島'
一七三八年五月二
〇日帰任。
∇三月八日'新在番運天親雲上
(首里)、同筆者島袋里之子親雲上
(首里)'山城筑登之親雲上
(那覇)来島'
一七四〇年五月
〓
日
帰任。ただし島袋は帰任のとこ
ろ柚山仕立の件につきひきつづき在
勤を命ぜられ
一七四二年四月二八日帰任。その任務は
「柚山法式帳
」の趣旨を徹底させ柚山仕立の体制づ-りをおこなうにあったとみ
られる。
四月
〓ハ日'新在番平安座親雲上
(首里)、同筆者西平筑萱之親雲
上
(首
里)、
田名親雲上
(那覇)来島'
1七四二年五月
一六日帰
腎l七三七年'八重山総
人口
山万九三五二人。
-77-
79
晋三月二四日、新在番佐辺里之子親雲上
(首里)、同筆者仲本筑豊
之親雲上
(首里)へ貿手納筑登之親雲上来島、
1七四四年五月二三
日帰任。
∇三月二〇日、新在番手登板親雲上
(首里、毛氏)、同筆者島袋筑
登之親雲上
(首里)'宇根筑豊之親雲上
(首里)来島'
一七四六年
六月六日帰任。宇根は四六年三月二〇日、手札攻のため与都国鳥に
渡り帰帆の時漂流し行方不明となる。
∇四月五日、新在番大山親雲上
(首里'向氏、四六年
一二月二七日
死去)、同筆者高宮城里之子親雲上
(首里、向氏)、山里筑豊之親
雲上
(那覇)来島、高宮城は
一七四八年六月
一〇日、山里は同年七
月
一九日帰任。大山の死は、彼の責任で柚山仕立松を焼失させたこ
とと関連があるとみられる。
甲四月
山八日P大山死去につき代在番牧志親雲上
(首里、翁氏)i
同筆者運天里之子親雲上
(首里、向氏)釆島。牧志は翌年四月
一八
- 78-
近世八重山派遣使者在番年譜について
晋1七五三年、八重山総
人口二万六二八五人。
日死去。
∇三月八日、新在番筆者玉村筑豊之親雲上
(首里、向氏)来島。
常七月
一〇日、新在番野村里之子親雲上
(首里、毛氏)来島、
「語
例調部仕廻帳」をも
って
一七五〇年五月二〇日帰任。
∇
この年、柚山仕立松の焼失
一件につき役々の退職および流刑処置
がおこなわれる。
∇三月
一九日、新在番金城親雲上
(首里'向氏)、同筆者善瀬筑豊
之親雲上
(那覇'李氏)、長嶺筑登之親雲上
(泊'敷氏)来島。
1
七五二年五月
二二日帰任の時'石垣泊よ-川平へ地船を回した折石
城崎で船火事とな-六月
二二日那覇馬艦
(船頭大嶺)に便乗して帰
任に至る。
∇三月九日、新在番与吉田里之子親雲上
(首里、向氏)'同筆者高
良里之子親雲上
(首里'毛氏)'伊江大域筑豊之親雲上
(首里、成
氏)来島、
一七五四年四月二〇日帰任。
∇四月
一三日'新在番摩文仁里之子親雲上
(首里、毛氏)、同筆者
- 79-
真謝里之子親雲上
(首里'阿氏)、西乎筑登之親雲上
(那覇へ静氏)
来島'
7七五六年六月
一日帰任。
常二月二五日p新在番渡久山親雲上
(首里p翁氏)、同筆者長浜筑
豊之親雲上
(那覇'梅氏'同年八月病死)'名城筑豊之親雲上
(首
里、麻氏)来島、
7七五八年五月二三日帰任。
∇五月五日'長浜死去につき代在番筆者新里里之子親雲上
(首里'
向氏)来島'
一七六〇年六月三日帰任。
軍二月二〇日P新在番喜屋武里之子親雲上
(首里、向氏、同年
一〇
月二五日病死)、同筆者喜瀬筑登之親雲上
(那覇、李氏)来島、善
瀬は
一七六〇年六月三日帰任。
常四月六日p善屋武死去につき代在番大山親雲上
(首里p毛氏)莱
島'
一七六二年五月二六日帰任。
- 80-
軍二月二三日、新在番筆者伊江大域筑豊之親雲上
(首里、成氏)p
長堂里之子親雲上
(首里'楊氏)来島、
一七六二年五月二六日帰
∇八重山総人口二万六二
一二人。
近世八重山派遣使者在番年譜について
77
一七六六
∇四月二日、新在番伊良皆親雲上
(首里'毛氏)、同筆者儀間筑豊
之親雲上
(首里、麻氏)、我那覇里之子親雲上
(那覇'呉氏)来島、
一七六四年五月二三日帰任。
∇三月二四日、新在番仲田里之子親雲上
(首里、向氏)、同筆者親
泊里之子親雲上
(首里、向氏)'小橋川筑豊之親雲上
(那覇、封氏)
来島'
一七六六年夏帰任。
∇春、新在番津嘉山親雲上
(首里'向氏)、同筆者長嶺筑豊之親雲
上
(泊)'田名親雲上
(那覇、梅氏)来島'
一七六八年夏帰任。
∇一〇月
〓ハ日、検使漢郵親方
(首里、向氏、与樫山親方)、高宮
城親雲上
(附役'首里、向氏)、津覇里之子親雲上
(同、首里、麻
氏)、名城筑豊之親雲上
(同、首里'麻氏)'安室里之子親雲上
(与
力、首里、向氏)'屋宜休宴
(附医者)ら与郵覇目差
。松原目差
。
金城仁屋
(若文子)を案内に宮古より来島。
一行には高江洲親雲上
(附役)へ屋家比里之子親雲上
(筆者)、仲座里之子親雲上もいた
腎一七六
1年'八重山総
人口二万六七九二人。
∇この年三月'伊良皆
・
儀間らの名で
「所退座加
治例帳」布達さる。
∇
「球陽」巻
1五、尚穆
王
1五年条参照。
- 81-
が宮古から多良間
へ渡る途中行方不明となる。嘆那らは栢癒流行の
沖縄から釆たため来島後しばら-は真謝離に詰屋を仕立て滞在、
一
二月五日石垣に引移-、翌日から石垣島の各村々'翌年
一月
〓ハ日
より各離島の視察をおこなう。翌年春帰任。
∇春、新在番平良親雲上
(首里'馬氏'六九年六月
一四日死去)、
同筆者当山筑豊之親雲上
(首里)、田頭筑豊之親雲上
(那覇)来島、
一七七〇年夏帰任。
∇九月'平良死去につき代在番金城親雲上
(首里、向氏)来島。金
城は
1七七
一年三月
一〇日'明和の大津波により溺死。
∇四月、新在番筆者真栄田筑豊之親雲上
(泊)、翁長筑登之親雲上
(那覇、智氏)来島。其栄田は
一七七二年六月二四日、翁長は翌年
の大津波の時地船作事検兄のため古見村に出張して無事であった
が、同七
一年春、大津波被害報告のため帰任
(那覇にて死去)0
∇
漢部親方らの名で
「八
重山岳規模帳」
「八重山
鳥農務帳」
「八重山島中
与座公事帳」など布達さ
る
。
- 82-
∇五月二九日'大津波被害の祭文使者として源河親雲上
(首里)、
∇明和の大津波。
「大波
近世八重山派遣使者在番年譜について
名城筑登之親雲上
(首里'麻氏)来島'同年七月二二日帰任。源河
らは流失した蔵元の跡に仮小屋を造-そこ
に飾物をし、長老の祭文
朗読がおこなわれ、白衣に着飾
った頭以下の役々が列席した。
∇四月二八日、新在番野国親雲上昌著
(首里、楊氏)、同筆者座波
里之子親雲上
(首里、同年
二一月七日死去)来島。帰任年月日不
明。
∇三月二四日'新在番筆者西平筑豊之親雲上
(首里、同年八月
〓1
日死去)、鏡乎名筑登之親雲上長英
(泊、明氏)来島、
一七七六年
六月
一四日帰任。
之時各村之成行書」によ
れば九三
1三人死亡。
「
在番記」
「年来記」によ
れば九四〇〇人余溺死と
いう。
こ
の結
果、八重
山の総人口二万
一七九八
人、うち五四四四人が
「
逼迫」という。
∇野国
。兵栄田
・座波お
よび三人の東名で
「所通
座加治例帳」
(一七六四
年布達)の筆写および再
公布おこなわれる。ただ
し、現存の同
「例帳」は
「卯十二月」
(一七七
一
年)と記されており'野
国の派遣
年
と
一致しな
ヽO
l■V
- 83-
∇三月二七日、新在番屋嘉部親雲上朝寛
(首里、向氏)来島、
1七
七六年六月
1四日帰任。
一二月二二日、新在番筆者破名城里之子親
雲上政表
(首里、棄民)来島、
一七七六年六月
一四日帰任。
∇三月二三日、新在番有銘親雲上真令
(首里、麻氏)'同筆者石川
筑豊之親雲上
(那覇'同年
八月二〇日死去)、仲尾次親雲上嗣直
(首里)来島'
一七七八年六月二二日帰任。
嘗一七七五年'八重山総
人口
一万八
二
九人。
∇「大波揚候次第」でき
る。殻名城
・鏡乎名の名
はあるが在音名は欠。屋
嘉部であろう。
∇四月二四日、石川死去につき代在番筆者実栄田筑豊之親雲上義仁
(泊)来島'同年
一〇月
1六日死去。
晋この頃'大飢鍵のため
牛馬
1四〇〇東余が盗食
されたという。
甲四月二五日、新在番与那覇親雲上朝起
(首里'向氏)、同筆者池
原筑豊之親雲上
(首里、同年
一〇月
一九日死去)、名渡山筑豊之親
雲上
(泊)来島、
一七八〇年六月二三日帰任。
∇
一七七五年からこの年
ま
で
に
二六八
一人が・餓
死'
1〇五二人が疫病に
て死亡という。
- 84-
∇六月
二一日'池原死去
に
つき代在番筆者翁長筑豊之親雲上
(首
里)来島、
1七八二年七月七日帰任.
嘗三月二七日'新在番佐渡山里之子親雲上
(首里、毛氏)、同筆者
具志筑萱之親雲上
(那覇'八
1年
二
月
一四日死去)来島、
1七八
二年七月七日帰任。
近世八重山派遣使者在番年譜について
∇四月
一八日、新在番伊計親雲上
(首里)'同筆者国吉親雲上
(那
覇)、山田筑豊之親雲上
(泊)来島、
一七八四年七月二日帰任。
∇三月
二二日'新在番稲嶺里之子親雲上
(首里)、同筆者大域筑豊
之親雲上
(那覇、八五年九月
一四日死去)'外間筑登之親雲上
(首
壁)来島、
一七八六年七月帰任。
∇二月四日'御国元
(琉球-沖縄本島地方)飢鯉のため御加勢上米
調達のため使者野里里之子親雲上
(首里、毛氏)来島、同年七月二
三日帰任。
∇四月
一八日'新在番永村親雲上
(首里、同年九月三〇日死去)、
同筆者吉本筑登之親雲上要易
(首里、晃氏)、神山筑登之親雲上康
梶
(泊へ柳氏)来島、
一七八八年七月四日帰任。
腎八重山総人口
一万六〇
七五人という。
- 85-
∇七月二六日、永村死去に
つき代在番長元親雲上朝貿
(首里、向
氏)来島、
一七九〇年六月二六日帰任。
∇四月二二日'新在番筆者高江洲筑豊之親雲上伯倫
(首里、同年八
月二九日死去)、平安山筑萱之親雲上英智
(那覇、同年七月九日死
去)来島。
∇一一月
一九日'平安山死去につき代在番筆者仲村渠筑豊之親雲上
致英
(那覇)来島'
一七九〇年六月二六日帰任。
∇七月三日、高江洲死去につき代在番筆者岸本親雲上将盛
(泊、敷
氏)来島、
一七九二年五月二五日帰任¢
∇三月
一三日、新在番仲里里之子親雲上朝春
(首里、向氏)、同筆
者古波蔵筑豊之親雲上恵隆
(那覇'命氏)来島'
一七九二年五月二
五日帰任。なお苗波蔵は九二年夏帰任予定のところ順風あいつづか
ず年を越し九三年四月二
1日帰任。
嘗五月
一二日P新在番啓屋武里之子親雲上盛応
(首里p毛氏)p同
筆者佐久本筑豊之親雲上嗣伴
(首里、孫氏)、安仁屋筑豊之親雲上
貿昌
(那覇、悦氏)来島p
山七九四年六月六日帰任。
公年座∇う入野布公加害 oローお布治屋 一七こ)例武 万九なの帳 ら 六一わ筆」の 五年れ写(名 三 、るお-で 八八〇よ七「 人重び六所 と山再四遣 い総
∇三月
一五日'新在番奥川親雲上正備
(首里、華氏)p同筆者宮城
- 86-
近世八重山派遣使者在番年譜について
234
里之子親雲上安叙
(首里、毛氏)、親善屋筑豊之親雲上保数
(郵覇)
来島、
一七九六年六月
一三日帰任。ただし我善屋は九六年六月
一四
日馬艦船にて帰任の
常六月二六日へ末進上納米の才覚のため使者花城里之子親雲上朝苗
(首里、向氏)来島'
一七九六年四月二九日帰任。
∇三月二四日'新在番仲本親雲上朝英
(首里'向氏)、同筆者乎敷
里之子親雲上好仁
(首里'紀氏)'伊良波筑豊之親雲上長昌
(那覇、
文民'同年五月二三日死去)来島、
一七九八年五月二三日帰任。
∇九月
一九日'伊良波死去
に
つき代在番筆者比嘉親雲上賀兼
(那
覇)来島'
一七九八年五月二三日帰任。
∇三月
一三日、新在番豊見本親雲上良邑
(首里'馬氏)'同筆者鏡
平名筑登之親雲上長厚
(泊、明氏)'糸嶺親雲上篤孝
(那覇、蘭氏)
来島、
1八〇〇年五月二三日帰任。
∇三月
一日'御冠船御手当につき諸上納催促のため使者奥原親雲上
崇信
(首里)来島'同年七月二七日帰任。
∇八重山総人口
一万五九
五七人という。
- 87-
6
∇四月
一日'新在番村山親雲上盛誉
(首里、毛氏'
〇二年五月六
日死去)、同筆者田頭親雲上恵貿
(那覇、命氏、〇〇年九月七日死
去)、屋我筑豊之親雲上嗣泰
(首里へ孫氏、
〇一年九月二三日死
去)来島。
腎七月二1日へ田頭死蓑につき代在番筆者島袋里之子親雲上盛永
(
首里'宅氏)来島'
一八〇四年五月二三日大和船にて帰任。
7
∇三月二〇日、新在番浜元親雲上朝章
(首里'向氏)、同筆者比屋
定筑豊之親雲上政邑
(那覇)来島。浜元は
一八〇四年五月二三日大
和船にて、比屋定は〇四年六月二一目玉反帆馬艦船
(船主は泊村の
比嘉筑豊之親雲上)にてそれぞれ帰任。
∇
在番・同筆者全員死去。
- 88-
9
腎四月五日P新在番宜野座親雲上朝泰
(首里p向氏)p同筆者乗恩
納里之子親雲上盛秀
(首里、毛氏)'知念筑豊之親雲上善清
(那覇、
李氏)来島'
一八〇六年五月
一〇日帰任。ただし知念のみは〇六年
常
一八〇三年p八重山総
人口
一万五八五八人。去
年よりこの年まで四二五
人が疫病
にて死去とい
うヽ
0
近世八重山派遣使者在番年譜について
五月五日六反帆馬艦船
(船主は泉崎村の与座筑豊之親雲上)にて帰
任。
常三月二三日、新在番野国親雲上昌胤
(首里、楊氏)p同筆者与屋
〔座カし筑豊之親雲上唯宜
(那覇)、根路銘筑豊之親雲上安之
(首
里、毛氏)来島、
1八〇八年五月二九日帰任。ただし与屋は〇八年
六月
一日五反帆馬艦船
(船主は泉崎村の比屋定親雲上)にて帰任、
行方不明となる。
腎
四月六日、新在番源河親雲上朝亮
(首里、向氏)、同筆者与儀筑
豊之親雲上幸巨
(首里、呉氏)、時間筑豊之親雲上麗喜
(那覇、張
氏)来島、
一八
一〇年五月二四日帰任。
管
(月日不明)p新在番渡慶次親雲上盛栄
(首里、宅氏)、同筆者
富永親雲上実知
(郵覇)'伊是名筑豊之親雲上長恒
(泊)来島、
一
八
二一年
(月日不明)帰任。ただし渡慶次は
1二年二月三日、富永
も四月二〇日それぞれ死去している。
腎八重山総人口
山万五五
三三人という。
- 89-
軍
二月
1七日'新在番長堂親雲上朝昌
(首里'向氏)'同筆者伊波
筑萱之親雲上寛亮
(那覇'命氏)'国頭里之子親雲上朝嘉
(首里、
向氏)来島.長堂
・伊波は
1八一四年五月
一八日伸立地船にてp国
頭も同日大和船にて帰任。
∇春'末進上納米機促のため使者伊志嶺里之子親雲上朝義
(首里、
向氏)来島'
一八
一五年五月御米酒馬艦船にて帰任。
∇二月
二
日'新在番兼本親雲上盛白
(首里'毛氏)、同筆者森松
筑豊之親雲上長恒
(泊、明氏)'親泊筑萱之親雲上英恒
(那覇)莱
島'
1八
二ハ年六月六日御米酒馬艦船
(船主は泊村の端慶山里之子
親雲上)にて乗合し帰任。
∇「球陽」巻二一、尚頚
王
一一年条によれば'こ
の年八重山派遣の詰医者
一員をふやしたという。
∇四月五日、新在番宜野座里之子親雲上朝里
(首里、向氏)、同筆
者糸嶺筑豊之親雲上篤智
(那覇)'東恩納里之子親雲上盛白
(首里、
毛氏)来島'
1八
一八年帰任のところ次
一九年四月
一八日御米酒馬
艦船
(船主は若狭町村の屋良筑豊之親雲上)にて帰任。ただし糸嶺
は
一九年五月二一日大和船
(船頭は山川の長兵衛)にて帰任。
晋「球陽」巻二1によれ
ば、この年蔵元
。在番仮
屋を莫崎に再び移すとい
^
つ○
∇イギリス海軍のアルセ
スト号'ライラ号来琉す
- 90-
な役井船按Vわ々破 日貢宜れ勤船本船野る職之他唐座o帳時領人 ら
の名で
「進貢
」八人通船朝鮮人乗
乗船各漂着
重山鳥在番
の確認おこ
近世八重山派遣使者在蕃年譜について
2
軍二月二九日'新在番善舎場親雲上朝張
(首里)'同筆者具志堅筑
豊之親雲上興廷
(泊'薙氏)へ潮平筑豊之親雲上嘉盛
(那覇)来島'
一八二〇年五月二八日大和船にて帰任。ただし具志堅は今帰仁按司
乗船が与那国島に漂着したのでその勤方のため同島へ渡海'帰帆の
節高風に逢う。その後ただちに帰任。
∇八重山総人口
1万五二
五三人という。
∇四月
一三日、新在番善久山親雲上朝傑
(首里、向氏)、同筆者永
村里之子親雲上清智
(首里'毛氏)、仲村渠筑登之親雲上
(那覇、
用氏)来島。永村は同年
一〇月
一四日死去。喜久山は
7八二二年五
月四日十反帆馬艦船
(船主は久米村の山田筑登之親雲上)にて'仲
村菜も同日十反帆馬艦船
(船主は東村の比嘉筑豊之親雲上)にて帰
任。
- 91-
∇四月二八日、永村死去に
つき代在番筆者瀬底里之子親雲上保実
(首里)来島'同年
一〇月九日死去。
∇三月
1五日'新在番伊良波親雲上朝申
(首里'向氏'二三年
一〇
月
1七日死去)、同筆者山城筑萱之親雲上正朔
(那覇へ胡氏)来島。
45
"山城は
1八二四年六月三日久高島七反帆船
(船主は円間筑豊之、船
頭は知花筑豊之)にて帰任。
腎四月二二日、瀬底死去につき代新在番筆者革
∩東カし江里之子親
雲上朝盛
(首里、向氏)来島、
一八二四年六月五日五反帆船
(船主
は浜村の池味筑豊之親雲上、船頭は久高島
の内間筑豊之)にて帰
任。
∇三月二五日へ新在番神谷親雲上庸従
(首里)、同筆者山城筑豊之
親雲上正官
(那覇、胡氏)、高宮城筑登之親雲上朝章
(首里、向氏)
来島、
一八二六年六月
二一日大和船
(船頭は上町の英次郎)にて帰
任。
軍
二月二一日'御国元
(沖縄本島地方)飢鰻につき借上栄の才覚の
ため使者垣花親雲上朝扶
(首里、向氏)来島、同年五月二三日帰
任。
6
嘗五月七日、新在番善友名親雲上盛為
(首里、毛氏)へ同筆者玉
那覇筑豊之親雲上宗衛
(那覇、琴氏)、票数里之子親雲上朝申
(首
里、向氏、二七年
二
月七日死去)来島。善友名は
1八二八年六月
∇八重山総人口一万四〇
九
1人という。
- 92 -
近世八重山派遣使者在番年譜について
8
〓ハ日入皮帆馬艦船
(船主は東村
の新垣筑豊之、船蕗は新里)に
て'玉那覇は二八年六月八日跡立五反帆船
(国頭間切伊地村地船、
船頭は円間筑豊之)にて帰任。
腎五月二1日、新在番上地親雲上昌方
(首里、陽氏)、同筆者嘉手
納筑豊之親雲上宗政
(那覇'琴氏)、金城筑豊之親雲上貫美
(首里)
来島。上地
(嘉手納も?)は
1八三〇年五月二一日新里船にて、金
城は三〇年五月二〇日宮城船にて帰任。
軍
二月二三日、新在番字久田親雲上
(首里、三二年六月二八日死
去)'同筆者慶田筑豊之親雲上室兄
(那覇'李氏)、率地筑豊之親
雲上長庸
(泊、明氏'三二年八月二〇日死去)来島。慶田は
1八三
三年四月御米酒六反帆船
(久志間切瀬常村地船、船頭は宮城筑豊之
)にて帰任。
腎四月七日、新在番湊川親雲上孟孝
(首里)、同筆者佐久川筑豊之
親雲上善呂
(那覇'李氏)、佐久美里之子親雲上盛宝
(首里、毛
氏)来島'
山八三四年六月五日大和船にて帰任o
- 93-
∇四月二日、新在番仲宗根親雲上朝幹
(首里、向氏'同年
10月
1
0日死去)、同筆者渡慶次親雲上串本
(那覇、習氏)、長嶺筑豊之
親雲上紀保
(泊'松氏、同年
10月七日死去)来島。渡慶次は
1八
三六年五月二〇日大和船にて帰任。
∇五月
1八日'仲宗根
。長嶺死去につき代在番知念里之子親雲上政
行
(首里'東氏)'同筆者照屋筑豊之親雲上寛賀
(首里'易氏)莱
島'
一八三八年五月
一七日御米酒六反帆船
(船主は知念間切外間村
の内間筑登之親雲上、船頭は知花筑豊之親雲上)にて帰任。
∇四月
二
日、新在番筆者鉢嶺筑豊之親雲上林良
(那覇、成氏)莱
島、帰任不明。
∇三月二二日、新在番花城親雲上朝要
(首里、向氏)、同筆者翁長
筑豊之親雲上武源
(那覇、察氏)、佐久本筑豊之親雲上義全
(泊、
三九年三月九日死去)来島。花城は
一八四〇年六月
一八日六反帆船
(金武間切祖慶村の地船、船頭は久高島の□口内間)にて帰任のと
こ
ろ順風ならず宮古島で風待ちしてその翌年帰任。翁長は四〇年六
月二八日十反帆船
(船主は西村の宮城筑豊之親雲上'船頭は比嘉)
∇八重山総人口1万四五
九
1人という。
∇
この年'疫病にて六三
六人死去という。
- 94-
近世八重山派遣使者在番年譜について
にて帰任の時、宮古で噸風を待ったが好転せず八重山に舞戻-その
翌年帰任。
∇四月二一日'江戸
(将軍)への献上馬調べ方のため使者実害屋親
雲上
(首里)宮古を経て来島、同年四月二五日宮古へp五月
一九日
大和船よ-帰任。
∇五月二日、佐久本死去につき代在番筆者上江洲筑豊之親雲上由□
(首里、李氏)へ飛船便夷栄里とともに七反帆馬艦船
(船主は泊村
の山田筑萱之親雲上、船頭は久高島の糸数筑豊之親雲上)よ-莱
島'帰任不明。
∇四月七日'新在番登用親雲上安詳
(首里、毛氏)、同筆者糸嶺親
雲上篤語
(那覇'常民)'詰医者亀浜筑豊之親雲上
(那覇、四二年
二月二七日死去)ら前の沖に下着。ところが'御国元
(沖縄本島地
方)梅漬流行中のところなので嘉弥真の津へ船を回ししばらく滞
留'その後五月二日に至り石垣に着船。登用は
1八四二年五月二七
日、糸嶺は四二年五月
一九日大和船にて帰任。
∇三月二五日、仕置調
べ方のため使者石原親雲上宗隆
(首里、孟
氏)、附役上原里之子親雲上助忠
(首里、顧氏)、同大田里之子親
∇
詰医者名の登場。
∇「球陽」巻二二
尚育
王七年の項に石腐らが八
- 95 -
雲上良孫
(首里、馬氏)'同石川筑豊之親雲上春林
(首里'陳氏、
同年四月二六日黒島村巡見の時死去)来島、
1八四四年五月二六日
大和船にて帰任。
重山、宮古の仕置をおこ
なったことが出ている。
軍
二月二五日、新在番仲吉里之子親雲上朝惟
(首里p向氏)、同筆
者佐久川筑豊之親雲上菩寛
(那覇、挙氏)、長嶺筑豊之親雲上紀善
(泊、松氏)、詰医者有銘筑豊之親雲上
(若狭町、林氏)来島。仲
吉
。長嶺は
一八四四年六月五日西村の宮城筑豊之親雲上船にて、佐
久川は四四年五月二六日大和船にて、有銘は四四年
(月日不明)磨
連間切東親川の玉城筑豊之親雲上船にてそれぞれ帰任。
腎九月二七日、石川死去につき使者石原の代附役として外聞筑豊之
親雲上完嘉
(首里)来島。
∇
一八四三年に仲吉らの
名で
「例帳」公布。
- 96-
軍
二月八日P新在番翁長親雲上紹備
(首里)p同筆者屋宜男之子親
雲上盛都
(首里p翁氏)p伊条里之子親雲上保全
(首里)来島p
一
八四六年五月八日久志間切の瀬嵩村地船にて帰任。
腎三月二七日、詰医者喜屋武筑萱之親雲上
(那覇)来島、
一八四六
年五月八日大和船にて帰任。
嘗1八四三年pイギ-ス
船サマラン号'八重山に
釆航O
腎八重山総人口
山万二七
五八人という。
常この年pサマラン号二
度八重山に来航。
近世八重山派遣使者在番年譜について
腎四月
1日、阿蘭侶船来着につき通事新崎里之子親雲上
(久米村)
大和船より来島
(帰任不明)0
腎四月二日、新在番渡名喜親雲上宗珍
(首里、武氏)p同筆者山田
筑豊之親雲上義噸
(泊、容氏)、苗波蔵筑登之親雲上加頼
(那覇、
徳氏)、詰医者我謝筑豊之親雲上
(那覇東村)来島。渡名喜
。山田
は
一八四七年六月二日、苗波蔵は四八年五月二〇日、我謝は四八年
六月七日帰任。
腎九月二六日へ新在番素陽親雲上正元
(首里)、同筆者名素地親雲
上良行
(首里、馬氏)来島。前在番と頭の争いを尋問す。幕陽は
一
八五〇年六月五日、名素地は四八年五月二〇日帰任。
腎四月四日、新在番筆者山城筑萱之親雲上興章
(首里、薙氏)p高
原親雲上景隆
(郡覇、平氏)、詰医者官選筑豊之親雲上乗卿
(那覇、
房氏)p山城
こ向原は
一八五〇年六月五日、宮里は五〇年六月二七
日帰任。
腎この年、ベッテルハイ
ム釆琉す。
常
在番'同筆者
一名の更
迭。
~ 97-
闇二二月
〓ハ日、新在番平良親雲上良恩
(首里、馬氏、五
一年
山二月
八日死去)、同筆者東恩納筑豊之親雲上
(那覇、慎氏)'知念里之
子親雲上改元
(首里'東氏)'詰医者新嘉善筑登之親雲上倫紹
(那
覇、陳氏)来島.東恩納は
1八五二年六月二一日大里船にて、知念
は五二年五月二六日重早船にて、新叢書は五二年五月二七日大和船
にて帰任。
∇三月三〇日、新在番読谷山里之子親雲上朝睦
(首里'向氏)、同
筆者与座親雲上良信
(那覇'祖氏、同年九月三〇日死去)、浦崎筑
豊之親雲上政全
(首里'院氏)'詰医者親泊筑豊之親雲上英全
(那
覇p長氏)素弥真に下着'四月
10日石垣泊に着船.
1八五四年六
月二四日帰任。
∇四月六日'阿蘭腔船崎枝の沖に来航し唐人三八〇人、阿蘭陀人
1
人を降して出帆したことによ-その処置のため使者伊野波里之子親
雲上盛都
(首里'毛氏)、大夫屋富祖親雲上徳潤
(久米、鄭氏)、
大和横目山城筑登之親雲上正棟
(那覇、胡氏)へ通事村山里之子親
雲上克服
(久米、徳氏)、筆者森永筑豊之春綱
(首里、轄氏)来島。
伊野波
。山城は
一八五四年六月四日、残-は五三年五月二一日帰
任。
∇一〇月五日、滞留中の唐人の具体的処置を検討するため使者松島
∇1八五
1年へ八重山総
人口
1万三二八三人。
- 98-
近世八重山派遣使者在番年譜について
3
親方朝詳
(首里へ向氏)'同書屋武親雲上朝張
(首里、向氏)へ大
夫田場親雲上文海
(久米'林氏)'使者附役比屋根筑登之親雲上
(
首里、沢氏)、亭屋武親雲上与力兼評定所筆者亀山里之子親雲上朝
昌
(首里'向氏)'松島親方与力兼御物奉行相附座波筑豊之親雲上
嘉隆
(首里'湛氏'五三年二月
〓ハ日死去)'御用志方仮筆者田名
親雲上其儀
(首里'麻氏)'通事松本親雲上世爵
(久米'林氏)、
同異栄田里之子親雲上文秀
(久米、院氏'五三年
1月二一日死去)
使者附医者安村筑豊之親雲上成孝
(首里、得氏)、仮大台所田里里
之子朝副
(首里'向氏)、同前原筑登之元儀
(首里'自民)、庖丁
宮城筑萱之
(無系)'同玉城筑豊之
(無系)来島。松島
・喜屋武
。
比屋根
・田名
・安村は
一八五三年五月二一日、田場
。亀山
。松本は
五四年六月四日、田里
こ削原
・宮城
・玉城は五三年六月二三日帰
任。
∇四月二日、座波死去につき代-として使者附役諸兄里里之子親雲
上安綱
(首里'嬬氏)、故真栄田の代-として通事冨山通事親雲上
得功
(久米'梁氏)'故与座の代-として新在番筆者具志筑登之親
雲上率叙
(那覇'習氏)'安村'宮古島詰医者転任によ-その代-
として使者附医者吉浜筑豊之親雲上憲従
(首里、安氏)来島。諸兄
∇ペ-1のアメリカ艦隊
釆琉す。
∇去年よりこの年まで
一
八四三人が疫病にて死去
という。
- 99-
4
里
・富山
。吉浜は
一八五四年六月四日帰任。
67
腎四月
1二日p新在番野原親雲上盛房
(首里、毛氏)、同筆者糸洲
筑豊之親雲上草体
(首里、雛氏)、詰医者玉城筑豊之親雲上
(那覇
無系)来島。玉城は
1八五七年七月
l日石垣泊を出帆し同三日川平
の津に着船し七日帰任。野原
・糸洲は帰任年月日不明。
∇四月
一四日、新在番大域里之子親雲上朝祥
(首里、向氏)、同筆
者鉢嶺筑豊之親雲上清英
(那覇'据氏)、花城里之子親雲上朝良
(
首里へ向氏)へ詰医者祖慶筑豊之親雲上
(首里)来島、
一八五八年
六月六日帰任。ただし祖慶のみは五八年五月二八日帰任。
軍
一月五日、仕竃のため検使翁長親方朝典
(首里、向氏)、附授与
世山親雲上政輔
(首里'東氏)'筆者亀川里之子親雲上盛武
(首里
顧氏)、同翁長里之子親雲上助倫
(首里、武氏)'同与儀筑豊之親
雲上害展
(首里、兆民)'同森田筑豊之親雲上孟格
(首里、翁氏)
同安村親雲上盛備
(首里'翁氏)、附医者金城筑登之親雲上紀載
(
泊)来島。
一行は前年宮古島での仕着を了え本年来島したもので同
年五月二〇日帰任。
∇琉米修好条約締結さる0
腎八重山総人口
一万
二一
二ハ人。
∇
翁長親方らは
「八重山
鳥規模帳」
「八重山岳船
手座公事帳」
「八重山鳥
上国役人公事帳」
「八重
山鳥諸締帳」を布達。
-100-
近世八重山派遣使者在番年譜について
8
腎四月
一〇日'検見使者大宜味里之子親雲上朝陸
(首里p向氏)p
附授与儀筑豊之親雲上善展
(首里'武氏)来島、
一八六〇年四月二
八日帰任。
腎四月
〓ハ日'新在番名護里之子親雲上朝其
(首里p向氏)p同筆
者名城筑豊之親雲上良増
(那覇)'新崎筑豊之親雲上興方
(泊)、
詰医者吉浜筑萱之親雲上窟従
(首里p安氏)来島p
一八六〇年五月
二
一日帰任。
腎検見使者の制のはじま
hノ0
∇1八五九年'牧志
。恩
河事件おこ
る。
軍二月
一八日、検見使者天久親雲上朝標
(首里、向氏)、相附永田
里之子親雲上盛升
(首里、毛氏)来島'
一八六二年六月八日帰任。
軍二月
二二日'新在番浦添里之子親雲上朝陸
(首里'向氏)p同
筆者屋幕筑豊之親雲上完元
(那覇'琴氏)'外間筑登之親雲上元椅
(首里、蒋氏)、詰医者新嘉喜筑豊之親雲上偏□
(郡覇、陳氏)莱
島'
一八六二年七月五日帰任。
∇四月
一二日、新在番宜野湾里之子親雲上正憲
(首里、華氏)、同
筆者山里筑豊之親雲上将登
(泊、敷氏、同年
二
一月二六日死去)?
与那嶺筑萱之親雲上崇有
(那覇、陳氏)、詰医者亀浜筑豊之親雲上
腎八重山総人口
1万
1三
二四人という。
-101-
23
(郵覇'無系)来島、
一八六四年七月二日帰任。ただし亀浜は六四
年六月二日帰任。
∇四月
10日、検見使者冨村親雲上朝憲
(首里、向氏)、相附松川
里之子親雲上朝昌
(首里'向氏)来島'
一八六四年六月二日帰任。
∇四月二九日'山里死去につき代在番筆者清原里之子親雲上安葬
(首里'毛氏)来島、
一八六六年六月二二日帰任。
∇10月
1八日'風水見与儀通事親雲上良佐
(久米)釆島、翌年五
月二七日軍船にて帰任。
∇三月三〇日、新在番慶世相親雲上橋門
(首里)、同筆者吉元親雲
上宗保
(那覇)来島'慶世村は
一八六六年六月二1日'吉元は六六
年六月二二日帰任。
∇三月三〇日、検見使者漢部親雲上庸森
(不明)、相附宮城筑豊之
親雲上春長
(不明)来島p漢部は
一八六六年六月四日、宮城は六六
年四月
一三日重軍船下小船にて帰任O
∇三月三〇日、詰医者高良筑豊之親雲上
(那覇、無系)来島、
一八
六六年六月二一日帰任。
-i.02---
近世八重山派遣使者在番年譜について
一八六八
57
‥明治1
)
1八七〇
9(3)
∇三月四日、検見使者翁長親雲上良暢
(首里、馬氏)、相附森田筑
登之親雲上孟格
(首里'兆民)来島'帰任年月日不明。
∇三月
一三日、新在番冨村親雲上朝憲
(首里へ向氏)'同筆者山里
筑萱之親雲上義武
(泊、客氏)、比嘉筑萱之親雲上賀数
(郵覇、静
氏)'詰医者粟国里之子親雲上良恭
(首里、馬氏)来島、帰任年月
日不明。
四月
一二日'検見使者披名城親雲上政朝
(首里、東氏)、相附渡嘉
敷筑豊之親雲上通茂
(首里、呂氏)来島、
1八七〇年五月
一五日帰
任。
∇四月
二言口、新在番玉代勢親雲上孝英
(首里'文民)'同筆者石
川筑豊之親雲上良慎
(那覇、祖氏)'徳松里之子親雲上安治
(首里
毛氏'七〇年
一月
一六日死去)'詰医者玉元筑萱之親雲上慎孝
(育
里、懐氏)来島'
一八七〇年五月二八日帰任。
∇三月
二
日、検見使者伊良皆親雲上盛登
(首里
、相附潮平筑登
之親雲上里美
(首里、益氏)来島'
一八七二年五月六日帰任。
∇四月
一日'新在番辺土名親雲上正蕃
(首里)、同筆者文吉筑豊之
親雲上康明
(泊)'我那覇里之子親雲上宗直
(郵覇)、筈医者与郵
-103-
嶺筑登之親雲上
(那覇'無系)来島、
一八七二年五月二〇日帰任。
ただし与部嶺は七二年六月帰任。
腎二月
一八日、大和人衆来着につきその接遇のため森田筑豊之親雲
上孟照
(首里'兆民)、名護里之子親雲上良岡
(首里、馬氏)馬艦
船にてヨテン津口に下着。森田は検見使者相附として滞留、その後
一八七五年五月
二一日御物船にて'名護は七二年四月二九日万年丸
にて帰任。
腎二月二二日、伊地知小十郎'安谷屋親雲上盛□p多寡良里之子親
雲上、玉元筑豊之親雲上
(医者p首里、懐氏)ら万年丸よ-石垣泊
に来着'同年四月二九日同船にて帰任。ただし多嘉良のみは同年四
月二九日馬艦船にて帰任Q
腎三月二六日p新在番手登板里之子親雲上朝義
(首里、向氏)p同
筆者神里筑豊之親雲上常格
(那覇)、南風原里之子親雲上朝義
(首
盟)p詰医者兼村筑豊之親雲上
(首里)来島。手登板は
1八七四年
五月二〇日馬艦船にて、神里は七五年五月
一二日御物船にて、南風
原
。兼村は七五年五月二七日馬艦船にて帰任。
晋三月二六日P検見使者小郡覇親雲上朝亮
(首里、向氏)来島p
山
八七四年五月二〇日馬艦船にて帰任。
腎明治政府、尚泰を
「琉
球藩王」となす。
-104-
近世八重山派遣使者在番年譜について
∇
二月
一七日'仕置のため検使富川親方盛空
(毛氏)、附役西原親
雲上真起
(麻氏)'同上里筑豊之親雲上嗣房
(孫氏)、筆者屋嘉比
里之子親雲上政受
(東氏十、同糸満里之子親雲上盛苗
(毛氏)、同
高官城壁之子親雲上朝苗
(向氏)、同比嘉筑豊之親雲上盛株
(毛氏
)、同高江洲筑豊之親雲上義模
(奨氏)、附医者宮城筑豊之親雲上
改憲
(郭氏)来島。
一行は前年宮古島の仕置を了えて来島したもの
で'同年五月
1九日帰任。
軍
二月四日、新在番新城親雲上安規
(首里、毛氏)p同筆者新宗善
筑豊之親雲上長棟
(泊)'古堅筑登之親雲上亮宗
(那覇)、詰医者
金城筑豊之親雲上紀有
(泊、松氏)来島'
1八七六年五月六日帰
任。
軍
二月
一九日p検見使者伸吉里之子親雲上良平
(首里p馬氏)莱
島'
一八七六年五月
一日帰任。
腎
一八七三年'八重山総
人口
山万
1六五八人。
∇
一八七三年'手登板ら
の署名のある
「滞在人豊
見城間切真玉橋村知念筑
豊之逢殺害候付係合之者
共問付」できる。
軍富川らはこ
の年付で
「
八重山鳥規模帳」
「八重
山鳥農務帳」
仕上世座例帳」
島諸相公事帳」
島柚山職務帳」
島船手座例帳」
島蔵元公事帳」
島諸物代付帳」
島所退座例帳」
ている。
「八重山島
「八重山
「八重山
「八重山
「八重山
「八重山
「八重山
を布達し
-105-
一八七五
光緒1
(8)
一八七六
2(9)
∇三月二二日、検見使者相附長浜筑豊之親雲上寅雄
(首里、麻氏)
来島'帰任不明。
∇10月
二
日'牛痘植付御雇医者与部嶺筑豊之親雲上来島、
1八
七七年六月
一五日帰任。
∇松田遺之、琉球処分官
として釆琉。
∇四月
二
日'新在番伸美里之子親雲上朝栄
(首
里'向
氏)、
同
筆者崎浜筑豊之親雲上秀倍
(那覇、年氏)'宮里里之子親雲上朝孝
(首里、向氏)'詰医者嘉手納筑豊之親雲上
(首里)来島、帰任不
明。
嘗四月
二
日'検見使者新崎里之子親雲上盛恒
(首里'毛氏)来島
帰任不明。
∇九月
二
日'
一八七四年の富川親方らの仕置によってもなお役人
・奉公人の政事不安なるがゆえに'さらに仕置取り調べをおこなう
べく多嘉良里之子親雲上朝□
(首里、向氏)'祝嶺里之子親雲上春
敬
(首里'牛氏)'新崎里之子親雲上朝信
(首里'向氏、七七年三
月三日死去)、瑞慶覧里之子親雲上朝康
(首里、向氏)、松川里之
子親雲上朝定
(首里'向氏)'島袋筑豊之親雲上慶昇
(首里)来島
多寡良
。祝嶺は同年
一〇月
一〇日御物馬艦船にて、他の三人は七七
年七月三日帰任。
-106-
近世八重山派遣使者在番年譜について
-107-