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Title 久米島オモロの特殊性について-神女、君南風を考察し て- Author(s) 島村, 幸一 Citation 史料編集室紀要(25): 189-206 Issue Date 2000-03-16 URL http://hdl.handle.net/20.500.12001/8026 Rights 沖縄県教育委員会

史料編集室紀要(25): 189-206 Issue Dateokinawa-repo.lib.u-ryukyu.ac.jp/bitstream/20.500.12001/...史料編集室紀要 第25号(2000) しまうちしてすもとりよれ 又みおうねかすころたよ

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  • Title 久米島オモロの特殊性について-神女、君南風を考察して-

    Author(s) 島村, 幸一

    Citation 史料編集室紀要(25): 189-206

    Issue Date 2000-03-16

    URL http://hdl.handle.net/20.500.12001/8026

    Rights 沖縄県教育委員会

  • 史料編集室紀要 第25号 (2000)

    久 米 島 オ モ ロ の 特 殊 性 に つ い て

    - 神女、君南風を考察して-

    島村 幸 一☆

    はじめに

    (】)久米 島オモ ロには、一般の地方 オモ ロには見 られない幾つかの特徴が存在する.それ

    は、久米 島オモ ロには中央の高級神女 を謡 ったオモ ロ、いわゆる神女 オモ ロがあ り、 ま

    た、神女 オモ ロ等、中央のオモロに見 られる語や表現が存在するとい うことである。一般

    の地方 オモ ロは、概ね 「地方」その もの を謡い込み、表現がその地域の内部で完結 してい

    ることが多 く、 り夕は 「地方」その もの を謡 うことを目的に しているように見える。 した

    が って、久米島オモ ロは、地方オモ ロにあって特異 なオモロであるとい うことがで きる。(2)

    久米島オモ ロにおいて高級神女 を謡 ったオモロには、次のようなものがある。

    巻11-561-巻21-1413-巻 1-35

    きこゑ大きみかさやはたけおれわちへ

    かふし

    - きこゑ大きみか

    お しやたるせいくさ

    あちあそいしよ世そゑれ

    又 とよむせたかこか

    おしやたるせいくさ

    又 あはれかなしきみはゑ

    しまうちしてすもとりよれ

    又 あはれかなしきみはゑ

    囲うちしてすもとりよれ

    又 もりやゑこたちや囲して

    しまうちしてすもとりよれ

    又 大ころたちや囲して

    くにうちしてすもとりよれ

    又 ゑそこかすころたよ

    きこゑ大きみがさやはたけおれわちへ

    がふし

    一 間得大君が

    押 し遣たる精軍

    〔按司襲いしよ世添ゑれ〕

    又 鳴響む精高子が

    押 し遣たる精軍

    又 あはれ愛 し君南風

    島討ちしてす戻 りよれ

    又 あはれ愛し君南風

    国討ちしてす戻 りよれ

    又 もりやゑ子達大国して

    島討ちしてす戻 りよれ

    叉 大ころ達大国して

    国討ちしてす戻 りよれ

    又 ゑそこ数ころ達よ

    * しまむら こういち (法政大学沖縄文化研究所兼任所員)

    -189-

  • 史料編集室紀要 第25号 (2000)

    しまうちしてすもとりよれ

    又 みおうねかすころたよ

    あおてすもとりよれ

    又 おはつきやめとよて

    あおてすもとりよれ

    島討ちしてす戻りよれ

    又 御船数ころ達よ

    合てす戻りよれ

    又 おぼつぎやめ鳴響で

    合てす戻りよれ

    は八重山の名は出て来ないが、巻 ト33から36まで四首連続 してある 「八重山

    征伐」にかかわると思われるオモロの一つで、久米島にいる高級神女、君南風が先駆けに(3)

    なって 「征伐」が行われたと考えられているオモロである。特に、重複オモロである巻 1

    -35とそれに続 く巻 1-36は、君南風が登場 し宮古八重山に渡航するオモロになっており、

    二首のり夕はおそらくセットになった関係であると考えられる。すなわち、は聞

    得大君の側から、巻 1-36は国王の側から君南風の 「八重山征伐」を謡っていると考えら

    れるのである。前者と後者では、歌い出 し (連続の冒頭部)と反復部が、それぞれ聞得大

    君と国王というふうに入れ替わるかたちで構成されており、興味深い。それはともかく、

    は間得大君のオモロであることから第 1(巻 1)にあり、また、り夕に君南風が

    謡われていることによって久米島オモロにもなっているということなのだろう。つまり、

    オモロが君南風の 「八重山征伐」を謡うことによって、久米島オモロに中央のオモロであ

    る神女オモロが存在することになる。但 し、このり夕は聞得大君を冒頭の句 とし、巻 1-

    33から36までが連続 していることを考えると、やはり、元の出所は第 1にあり、第21(第

    ll)の方は第 1を前提にしたものと推測するのが自然だろう。これは、第21(第11)の成

    立を考える時、無視できない事柄になってこよう。

    Ⅰ.いわゆる君南風の 「八重山征伐」 について

    いわゆる君南風の 「八重山征伐」 といわれる記事は、正史 (『中山世鑑』『中山世譜』『球陽』)が記す ものはあ くまでも国王尚真によるものであり、君南風の名が出てくるの

    は、『球陽』(1745)の一部の記事だけに出てくるものである。そういう意味では、特殊な

    「歴史」である。『球陽』の当該記事の出典は、『女官御双紙』(1706)、もしくは 『君南風由来井位階且公事』(1705)であろう。『球陽』の尚真24年 (1501)は、すべて 「八重山征伐」関連の記事だが、『球陽』はこれらから記事をとり 「八重山征伐」関連の記事の末尾

    (H部に入れたのだと思われる。『君南風由来井位階且公事』によってそれを引いてみる。

    -、昔、神代之時こ、姉妹御三人女あり。御姉ハ 首里所縁に御住居、御両人ハ久米嶋御渡海、御住

    居を御分たまふ.御姉ハ東獄御妹ハ西藤御住居成られ候鹿、御姉ハ八重山嶋御渡海、おもと旗二御

    住居成されたる由候。御株ハ西森二御安堵、君南風成されたる由候。然庭弘治十三申年、八重山嶋

    へ討手御便之時、君南風御渡海成られ候ハ 、、彼嶋之神御磨き候ハ 、、人間ハ自ずから降参仕るべき由、首里之御神みす るゞむめしよわちへ、君南風へ仰せ付けられ、御渡し成されたる由候。彼嶋

    御着船成られ候得は、所β多人数軍支度二而迎へ出で候二面、陸へ寄せ中桟も御座無き故、ちねふ

    を浮へ、其上たいまつ徐多置、夜中こ押流させ候得は、陸ノ銅分寄せ来ルと相心得、たいまつ流行万

    一190-

  • 史料編集室紀要 第25号 (2000)

    ニ迎へ候二付、其間二別所へ船寄せ、人数陸へ下り、陣取仕り候得は、彼嶋きみまもの、君南風へ

    御迎へ摩き成られた候間、人間ハ自ずから降参仕りたる由候。(以下、省略)

    記事は、「首里之御神」の神託によって君南風の 「八重山征伐」が行われたことが記さ.

    れている。「首里之御神」とは、一応 「首里所縁」に住む 「御姉」に降りた神と考えるの

    が、合理的な解釈 ということになろうかoそして、「おもと旗」に移 り住んだ次の 「御

    姉」と君南風が姉妹であったが故に、「彼嶋之神御磨き候ハ 、ゝ人間ハ自ずから降参仕

    る」ということになろう。硯に、『球陽』では 「時に、首里神有 りて日く、八重山の神と

    久米山の神とは、原、是れ姉妹なり。若し君南風、官軍に銀随し往きて八重山に赴き、諭(5)

    を以て暁すを為せば、必ずや以て信服せんと」として解説的な記述をしている。というこ

    とになれば、「彼嶋きみまもの」とは、すなわち、「おもと獄」に移り住んだ 「御姉」に降りた神だということになろう。さて、神託によって 「八重山征伐」に赴いた君南風は、

    「ちねふを浮へ、其上たいまつ鎗多置、夜中二押流させ」、敵の目を欺いて八重山への上

    陸を果たす。これによって君南風の 「八重山征伐」の姿が明らかになってくるが、引いた

    記事では誰が 「ちねふを浮へ」たのか、はっきりしていない。しかし、引用を省略した

    「附」に 「久米嶋嶋尻崎β (たいま)つ取候。此所を今に至る迄、たい山と申博候」があ

    ることによって、「奇謀」(『球陽』)が君南風によるものらしいことが暗示されており、

    『女官御双紙』では該当箇所が 「筏につみ入たいまつハ、久米島しま尻崎より取なり。此

    庭を今に至るまで矩U」といひったふるなり」となって、地名起源欝に展開している。それ

    が、『球陽』になると 「君南風、即ち奇謀有 り。竹筏を作 り為し、上に竹木を装ひ、焼き

    て姻火を連ね、以て放流せしむ」と明確に君南風の 「奇謀」とする記述になってくるので

    ある。『君南風由来井位階且公事』の記述は全体的に整理されていず不明瞭な箇所が多いが、おそらく、「奇謀」は 『君南風由来井位階且公事』の当初から君南風によるという伝

    承であったと思われる。それが書写を重ねるごとに、次第に内容が整ったものになってく(t')

    るのである。 『球陽』の記事は、君南風が八重山に赴 く部分についても解説的な記述にな

    っていたが、我々のイメージにある君南風の 「八重山征伐」は、厳密には 『球陽』の記事

    によるところが大きい。

    それはともかく、伝承とり夕との間には大きな溝がある。『君南風由来井位階且公事』『女官御双紙』は、この記事の後、これを謡った 「くわいにや」(仲里間切 くわいにや、

    具志川間切 くわいにや)を記 しているが、り夕が 「八重山征伐」を謡ったものであること

    が窺えるのはわずかに 「あや手鉾もと/一\/ くせ手鉾もと/・\」(仲里間切 くわいにや)、

    「宮古嶋となめて (宮古島を平定して)/八重山鴫となめて (八重山島を平定して)」(具

    志川間切 くわいにや)ぐらいなもので、引用した記事に少しでも触れてくる詞章はみられ(7)

    ない。り夕の叙事の多 くは、八重山 (宮古)への往還の巡行叙事と国王から褒賞を授かる

    ものが中心になっているのである。しかも、「具志川間切 くわいにや」の 「宮古嶋となめ

    て/八重山嶋となめて」の部分が、「仲里間切 くわいにや」では 「宮古嶋となめて/ひら

    嶋 (平島)となめて」 となっており、「八重山征伐」のり夕になっていない。この部分

    -191-

  • 史料編集室紀要 第25号 (2000)

    に、脱落、もしくは、誤写があると考えても、二つの 「くわいにや」は 「八重山征伐」に

    限定 したものではなく、正確には 「両先島征伐」のり夕になっている。そういう意味で

    は、と巻 1-36の方がはるかに 「八重山征伐」を内容にしているのである。「八重

    山征伐」にかかわると考えられる巻21-1409には、「久米の君南風や/弟君南風や」という(8)

    句がみられ、これは君南風が 「三姉妹」の一番末の妹だとする伝承と重なる。また、巻11

    -558-巻21-1410-巻21-1443には、「おもと獄司子 久米の島 おわちへ/きちやら獄司子

    成さが前 おわちへ」があって、これが久米島から 「おもと綾」に移り住んだ二番目の姉(り

    に関係する句であることが窺われる、。さらに、の謡い出しは、「一 間得大君が

    押 し遣たる精軍 〔按司襲いしよ 世添ゑれ〕 又 鳴響む精高子が 押 し遣たる精軍 又 あ

    はれ愛し君南風 島討ち為てす 戻 りよれ 又 あはれ愛し君南風 国討ち為てす 戻 りよれ」

    であり、聞得大君が尚真のヲナリ神として、出発する王府の軍勢にセチ (霊力)付けを

    し、君南風が 「八重山征伐」をして戻ってくることが謡われている。『君南風由来井位階且公事』の記事とり夕との間には相当の溝があるものの、君南風の名が全 くみられない正

    史 (『中山世鑑』『中山世譜』)と比べれば、一定程度の連続性があると考えるべきであろう。むしろ、「八重山征伐」をめぐる正史とり夕 (オモロ、クェ-ナ)および 『君南風由

    来井位階且公事』の記事との間の断絶こそ、注目すべき事柄だろうと思われる。

    『君南風由来井位階且公事』が初出になっている君南風の 「八重山征伐」伝承は、やは

    り、「八重山征伐」での君南風の働きを強調するために記述されたものであることは間違

    いあるまい。君南風は、その働きがあった故に 「ちよのま (く)び玉井地所ひら (ら)L

    や原」を拝領 したと記されている。考えてみれば、宮古島の最高神女、初代の宮古島大阿

    母は、王府の軍勢の先駆けとなって 「八重山征伐」を果たした仲宗根豊見親玄雅の妻が、

    その勲功にあずかって就任 したものであった。同じく、初代の八重山大阿母も、「謀叛」

    を企てたオヤケアカハチに従わず、抵抗 した長田大主の妹、真乙姥が、就任 している。

    「八重山征伐」にかかわって、君南風、宮古島大阿母、八重山大阿母が 「恩賞」に浴 して

    いるのである。これに類する話は、泊之大阿母の由来もある。これは、尚徳王が 「鬼界島

    征伐」を果たして泊港に帰還 した折、一人の 「婦人」が 「海涯」で 「御手水」を国王に奉(1O)

    り 「忠心」を示 したということで、「泊ノ大阿母職」を与えられるというものである。こ

    れも、国王の 「征伐」にかかわる勲功によって 「恩賞」が授かるという伝承である。泊村

    は、「昔ハ大島 。鬼界島 ・徳之島 一永良都島 ・与論島 ・国頭方 ・西方ノ船、泊ノ津二上納(L

    米積来、公事相勤ルニヨツテ」「泊御殿」が置かれた村であり、泊村の最高責任者泊地頭

    は、泊村とともに硫黄を産出する硫黄鳥島 (徳之島の西方65km)をも管轄 している。泊

    港には、奄美諸島地域の窓口としての機能があったのである。すなわち、泊之大阿母の由

    来が 「鬼界島征伐」にかかわっていることは、偶然ではない。泊村が奄美諸島地域の窓口

    であった故に、泊之大阿母の由来が 「鬼界島征伐」にかかわっているということなのであ

    ろう。宮古島大阿母、八重山大阿母が上回する際、浜之大阿母 (那覇の大阿母)が 「取(12)

    次」をしたように、おそらく、泊之大阿母も、かつては奄美諸島から神女が上回する際は

    -192-

  • 史料編集室紀要 第25号 (2000)

    「取次」役を担っていたと想像される。

    君南風の問題に戻って考えれば、「八重山征伐」にかかわって君南風が登場するのは、

    久米島が宮古八重山への窓口としての役割を担っていたからではないのか。林子平の 『三

    国通覧図説』(1785年)の付図 「琉球三省並びに三十六島之図」では、久米島が宮古 ・八

    重山の中継地になっていることが、はっきりと示されている。先に引いた 『君南風由来井

    位階且公事』は、三姉妹が元々どこにいたかはっきりしないが、一番上の姉が 「首里雛森

    に御住居」、妹 「御商人ハ久米嶋塾塵蓮」とある。そして、さらに二番目の姉が 「八重山鳩

    塾遮逢」ということになるのだが、久米島が八重山渡海への中継地になっていることを示

    している。このほかにも、久米島から宮古八重山に渡る記事を拾うと、例えば 『琉球国由

    来記』に限っても、五穀と鉄器の農具をもたらした船立御縁 (宮古島)の 「男女神」が、

    久米島から渡来したとする記事や、竹富島の幸本御縁の神がやはり、久米島から渡ってき

    たとする記事がみえる。また、『久米仲里間切公事帳』(道光11年)には、「両先嶋船上下

    之時潮懸何角用事申出」があった場合の対応の仕方を記した一条があり、実際に久米島が・卜

    時には宮古八重山-の中継地になっていたことが分かる。久米島に、両島-の窓口、もし

    くは中継地としての役割があったのである。

    「八重山征伐」に久米の君南風がかかわってくるのは、まさに久米島がもつ、以上のよ

    うな位置付けによる故と考えてよかろう。同じ 「征伐」にかかわる 「恩賞」講にしても細

    かくみると、君南風の場合は 「八重山征伐」以前に既に君南風であって、授かった 「恩

    賞」は 「ちよのま (く)び玉井地所ひら (ら)Lや原」であった。君南風 という神職は

    「八重山征伐」の 「恩賞」によって授かったのではなく、既に渡海する以前からのもので

    あった。これは両島への窓口、もしくは中継地としての久米島の位置づけが既に決まって

    いたからであり、そこの選ばれた神女として君南風の位置も既にあったものでなけjMどな

    らなかったのである。微妙だが三人の大阿母と異なる点は、ここにあるといえるのであ

    る。

    ところで、君南風の八重山渡航は、伊波普猷や仲原善忠等が述べるような戦いの先駆け

    としての役割だったのだろうか。すなわち、「イナダヤイクサメサチバイ」 という諺で語

    られるように、君南風が従軍し戦いの前哨戦で相手を呪誼 し、まず宗教的に勝利するとい

    うような役割だったのだろうかということである。もちろん、これはあくまでも歴史的な

    事実の問題としてではなく神話の問題として、また、伝承の問題として、君南風の八重山

    渡航が戦きの先駆けであったかどうかという問題である。確かに、『おもろさうし』にお(J4)

    いて武装する神女の姿は見られる。しかし、この君南風がかかわる 「八重山征伐」に関連

    するオモロには、君南風の武装するり夕は見られないのである。また、君南風が登場する

    オモロすべてにも武装する姿は見られない。さらに言えば、『君南風由来井位階且公事』

    の該当する記事についても君南風は 「奇謀」を講ずるのであって、武装し相手を呪誼する

    という記述はない。オモロに武装する神女の姿がある以上、君南風の八重山渡航について

    従来の説を全面的に否定するつもりはないが、むしろ、それよりも君南風の八重山渡海の

    -193-

  • 史料編集室紀要 第25号 (2000)

    役割は、航海の守護神 としてあったと考えた方が よいのではないのか0

    オモ ロにおいて、表現 としての神女の航海は第10「あ りきゑとのお もろ御 さうし」や第

    13「船 ゑとのお もろ御 さうし」を中心にみ られるが、それは神女の実際的な航海 というよ

    りも、神女の海上 (海中)他界への儀礼的な航海を謡 った ものであ り、あるいは、船の守

    護神 として航海安全 を謡 ったものである。その典型的な表現が巡行叙事であるが、海上渡

    航の叙事 は、第10、第13に集中的に出て くる 「又朝凪れが しよれば 又夕凪れが しよれ

    ば 又板晴 らは 押 し浮けて 又棚晴 らは 押 し浮けて 又船子選で 乗せて 又手輯選で 乗せ

    て」 とい う常套表現である。『君南風由来井位階且公事』の二つの 「くわいにや」 には、この表現 を含 んだ海上渡航の叙事が見 られるのである.その一つの冒頭部 を、以下に引(】r))く、。

    (右之暗仲里)間切くわいにや

    1 あはれかなしきみはい

    2 久米のきみはい

    3 あはれかなしきみはい

    4 おと、きみはい

    5 あはれかなしきみはい

    6 かしらかうのとまり

    7 あはれかなしきみはい

    8 かしらかうのみなと

    9 あはれかなしきみはい

    10 (いたきゆらは)おし浮て

    11 あはれかなしきみはい

    12 たなきゆらは (おし浮て)

    13 あはれかなしきみはい

    14 ふなこゑらてのせて

    15 あはれかなしきみほい

    16 てかぢゑらてのせて

    17 あはれかなしきみはい

    18 なみ (ちや)しごしめいきやち

    19 あはれかなしきみはい

    20 こかねしごもていきやち

    21 あはれ (か)なしきみはい

    22 あやのやほあふらちへ

    23 あはれかなしきみはい

    24 もじろやはあふらちへ

    あはれ愛し君南風

    久米の君南風

    あはれ愛し君南風

    弟君南風

    あはれ愛し君南風

    かしらかうの泊

    あはれ愛し君南風

    かしらかうの港

    あはれ愛し君南風

    枚晴らは押し浮かべて

    あはれ愛し君南風

    棚晴らは押し浮かべて

    あはれ愛し君南風

    船子を選んで乗せて

    あはれ愛し君南風

    手桶を選んで乗せて

    あはれ愛し君南風

    銀櫓締め出して

    あはれ愛し君南風

    黄金櫓持て出して

    あはれ愛し君南風

    綾の弥帆煽らして

    あはれ愛し君南風

    美しい弥帆煽らして

    _194-

  • 史料編集室紀要 第25号 (2000)

    25 あはれかなしきみはい

    26 いとほあけてはれは

    27 あはれかなしきみはい

    28 布はあけてはれは

    (以下、省略)

    あはれ愛し君南風

    絹帆揚げて走れば

    あはれ愛し君南風

    布帆揚げて走れば

    冒頭以降、一節おきに出てくる 「あはれかなしきみはい」は、ハヤシに相当するもので

    ある。これは、にも出てくる詩章で、君南風賛美の重要な表現になっていると考(16)

    えられる。それを除いた詩章は、君南風が 「かしらかう」の港から出航することが謡わ

    れ、10節以下が巡行叙事 となっている。それは、「又朝風れが しよれば 又夕凪れが し

    よれば」はないものの、オモロの叙事表現を含みつつ、船の部分名、櫓や弥帆、帆を美称

    しながら、それよりもさらに詳 しい叙事になっている。この表現は前述 したとお り 「(右

    之時)具志川間切 くわいにや」にもあり、君南風が久米島 (首里)と八重山 (宮古)とを

    往還する巡行叙事になっている。二つの 「くわいにや」は、この叙事 と国王から褒賞を授

    かる詞章がほとんどであ り、「征伐」が謡われた表現はわずか四節 (他は二節)のみであ

    る。君南風の八重山渡航は、「くわいにや」の表現から理解すれば航海の守護神 としての

    それであると考えるのが自然である。同様に、についても、航海の守護神として

    のものと理解 した方がよいと考える。

    Ⅲ.君南風の性格

    実は、この間題は、聞得大君を頂点にして存在 したノロ制度と、それとはまた別個に存

    在 したと考えられる、君君の神女グループの基本的な役割につながる問題になってくると

    考えられるのである.ノロや若君の基本的な役割の一つは、航海の守護神としての役割が

    重要なものとしてあったのではないか。前に 「八重山征伐」にかかわって、君南風、宮古

    島大阿母、八重山大阿母が王府からの 「恩賞」に浴 したことを述べたが、このうち、八重

    山大阿母が 「恩賞」に浴 し大阿母職に就任する 『八重山縁 、由来記』の記事は以下のもの(17)

    である。

    八重山嶋大安母由来井美崎之御縁立始之事

    (赤はつ、ほんかわらが討たれ、妹の古乙姥は赤はつの妻ゆえに課される)今一人、(姉の)真乙

    姥と申者、降参致し、刺、数十娘之兵船二各乗移、ゑらひかねと申御神御たかへ仕、何事無く御守

    給ふ由、御みすすり有。共時、軍兵衆刀頭二宛、誠の神ならは、此兵船一版茂残らず、同時に相

    並、那覇津二守着すべく候。共時は御褒美之れ有るべく候。若し相違はば、其科行はるべLと仰せ

    入られ、御帰朝なされ候。右之儀二付、其乙姥恩様、若し此船自然一腰茂損、又は後先罷成候ハ

    ~、身之為始終如何と念遣仕、海上安穏之ため誓願いたし、美崎山二相寵、(途中省略)念願相

    叶、兵船残らず、同時那覇入津仕候。御褒美せられ、、翌年絹之神御衣裳、御賜り、上回仕るべL

    と仰せ下され候。翌年罷登り候時、多 、屋おなり茂列渡候。共時、八重山之大安母仰付けられ候処

    (以下、省略)

    _195-

  • 史料編集室紀要 第25号 (2000)

    結局、真乙姥は自分の参龍を助けた多田屋おなりに大阿母職を譲ることになるが、真乙

    姥が大阿母職を賜るのは、「征伐」にやってきた王府の兵船が一隻残らず無事に那覇の港

    に到着することを祈願し、それを果たしたということにほかならない。つまり、真乙姥の

    大阿母職就任は、勲功のあった長田大主の姉妹 (ヲナリ神)であるとともに、王府の兵船

    の海上安全を図った功績によるものだった。逆に言えば、そのような能力をもつが故に、

    大阿母職に就いたとも言えるのである。神女の由来が記された資料は少ないが、その少な

    い資料の中にこのような記事が見られることは注目すべきであろう。王府の制度下にある(ほ)

    神女にとって、海上を行 く船の安全を守ることは重要だったのである0

    『八重山撒 、由来記』には、引用 した記事の後に 「大あむ役日勤之事」として、「走納

    船両膿」が上下国する際、美崎御猛以下の七御旗の 「御願之時」と、「御使者、御在番所之役人、出船入船、浜御拝之時」に、大阿母が美崎御縁で 「御願」することが記されてい

    る.さらに今ひとつ、毎月 「酉日、寅日」に、やはり、美崎御旗において 「首里天嘉那志

    美御前御為井完納船両膿、嶋中之為、御願拝申候」ことがあげられており、春秋二李に首

    里と八重山を往還する上納船の志無い運航、および、「御使者、御在番所之役人」等を乗

    せた定期 ・不定期の船の無事な運航を祈ることが、大阿母の重要な 「勤」だったことが分

    かるのである.これは宮古島でも同じで、『宮古島旧記』(廉柁冥46年 〔1707〕本)には、八

    重山の美崎御縁同様、宮古島の御縁の筆頭に立つ御縁、湛水御旗の祭神は 「弁財天女」だ

    とあり、そこには 「首里天加那志美御前御為、諸船海上安穏の為、諸願二付、崇敬仕候(1g)

    事」とある。御族の神を 「弁財天女」とする認識は、『琉球神道記』(1605年、袋中良走)

    に 「託女三十三人ハ皆以王家也。妃モ其-ツナリ。聞補君ヲ長 トス。都テ君 卜称ス。此

    外.夷中辺土ノ託女ハ.数モ走リナシ。(途中省略)都テ弁財天ナリ」(キンマモン事)、(2(J)

    「女人ハ国ノ守護神.弁財天也」(天久権現事)とする記述が既にあり、これを受けた可

    能性があるが、『混効験集』(1709年)の序文冒頭でも 「夫我朝は神国、御本地弁財天な

    り」があって、当時の琉球において受け入れられた認識であったと考えられる。池宮正治

    氏は、これについて 「神女が仏教の本地である弁財天 (女)として垂連とする、本地垂逆

    説の琉球的な認識であったといえる」とし、「弁財天は神女とも垂逃し、嬬姐とも習合し

    ている」と指摘している。そして、聞得大君御殿には弁財天女の画像がかけられ、聞得大(21)

    君以下の神女たちが毎日弁財天を拝み航海の安全を祈っていたと述べている。 「田里筑登

    之親雲上渡唐準備日記」を見ると、田里筑登之親雲上兼賢が北京大筆者の拝命を受けたR

    や旅御拝、三平等之御立願、御暇乞と呼ばれる日には、聞得大君御殿へ参拝 していること(22)

    が分かる。聞得大君が、航海の守護神になっているのである。

    御縁の神を弁財天だとするのは、そこを配る宮古島大阿母の航海神としての性格を語っ

    たことにはかならない。神女の重要な役割の一つが、航海安全を祈 りそれを保障すること

    にあったのである。『宮古島旧記』は溺水御縁の記述の後、広瀬御旗以下15の御旗をあげ、そこが 「船路之為、崇敬仕候」所であると記しているのである。実は、『八重山赦 ゝ

    由来記』(1705年)や 『宮古島旧記』等の地方の公事 ・由来 ・旧記等を集成 して編集した

    -196-

  • 史料編集室紀要 第25号 (2000)

    『琉球国由来記』(1713年)仝21巻の 「各処祭祀」(巻12以下の巻)を見ると、王府が重視

    し王国諸間切諸島で実施することを期待 していたものが、「四度御物参」と 「麦稲四祭」(2i)

    という 「祭柁」だったことが分かる。 「各処祭紀」は、その筆頭となる真和志間切 (巻12)の 「祭紀」の記述に規範があるが、二つの 「祭祀」の記述には、特に 「諸間切四度御

    物参之例、之二倣う」「諸間切、麦稲四祭之時、森々殿々儀式、後之二倣り」という割注があって、以下の諸間切諸島の 「祭祀」がこれに従うことが書かれている。「祭祀」の内

    容は、各間切各島によって必ずしも一様とはいいがたいが、確かに二つの 「祭紀」につい

    ては概ね各間切各島にその記述があり、一応、「祭祀」は行われていたと判断されるので

    ある。「麦稲四祭」 とは、麦穂祭、麦大祭、稲穂祭、稲大祭をさすが、「四度御物参」と

    は、3月と8月に行われる四度御物参という 「祭祀」をさす。その 「祭祀」のオタカベが、以下に引 くものである。

    毎年三 ・八月、四度御物参之祈願有り 。垂御崇之意趣ハ、

    首里天加那志美御前 何之年 何性ノ 何之御齢 御命ノツナ 御星之網 イヂヨク マヂヨク 掛福住栄

    敷ブサへメシャウチへ 首里御真人二 十百年 十百歳 拝レメシャウチヘ 首里御真人 唐・大和・宮

    古・八重山 島々ノ船 上り下リ ノフ事モ 百加保ノアルヤニ 御守メシヨワチへ 首里天加那志美御

    前 御胆保コリ御中ホコリ メシヨワルヤニ 御守メシヨワレ デゝ

    オタカベの内容は、国王の健康祈願と長寿祈願、並びに王国の船の安全な航行を願った

    ものである。引用の記事は、これが各間切各島においてノロ (盃)によって唱えられるこ

    とを意味する。「麦稲四祭」のオタカベは、まさしく王国の農業生産の根幹となる麦稲の

    豊作を祈願 したものだが、国王の健康祈願と長寿祈願はともかくとして、主要な農業生産

    の豊鏡と王国内外の航海の無事が、王国にとって極めて重要なテーマだったことが分かる

    のであるOそれを担ったのが 「兎」、すなわちノロ (ツカサ)であったのだo前述 した『八重山旗 由ゝ来記』や 『宮古島旧記』の記事は、当然、『由来記』のこの 「各処祭祀」

    にかかわる記述であった。

    琉球王府の解体後、「麦稲四祭」の方は村落の祭紀として、あるいは家 (門中)の祭紀

    として生き残っているが、一一万の 「四度御物参」の方は、王府の枠組みの消滅でほとんど

    姿を消 してしまっている。それで分かりにくくなってしまったが、ノロ (ツカサ)の重要

    な勤めとして王国の内外を行 き交う船の安全な航行を祈 り守護する役割があったのだっ

    た。

    君君といわれる神女たちも、それは同じであった。航海の守護神としての性格は、『お

    もろさうし』に表現されているのである。君君の一人、君南風も例外ではなく航海の守護(24)

    神として謡われているのである。

    巻13-762

    正徳十二年十一月廿五日ひのとのとりのへに 正徳十二年十一月廿五日丁の酉の日に

    せちあらとみまなはんに御つかいめされし時 せぢ新富真南蛮に御使い召されし時

    1197-

  • 史料編集室紀要 第25号 (2000)

    におきやかもい天の御みてつからめされ候ゑ

    しよりゑとのふし

    一 大きみはたかへて

    せちあらとみおしうけて

    大きみに

    おゑちへこうてはりやせ

    又 せたかこはたかへて

    又 あちおそいきやおきうせや

    むかうかたしなて

    又 おきやかもいか御さうせや

    むかうかたしなて

    又 あちおそいきやおやおうね

    おしうけかすまふりよは

    又 けらへせちあらとみ

    くりうけかすまふりよは

    又 ふれしまのかみ/へ

    あよそろてまふりよは

    又 きみはへはたかへて

    せちあらとみおしうけて

    又 のろ/へ はたかへて

    におぎゃか思い天の御み手づから召され候

    ゑと

    しよりゑとのふし

    - 大君は崇べて

    せぢ新富押し浮けて

    〔大君に

    追手乞うて走せ〕

    又 精高子は崇べて

    又 按司襲いぎゃ御想ぜや

    向かう方擁て

    又 おぎゃか思いが御想ぜや

    向かう方擁て

    又 按司襲いぎゃ親御船

    押し浮け数守りよは

    又 げらへせぢ新富

    到 り浮け数守りよは

    又 群れ島の神々

    あよ揃て守りよは

    又 君南風は崇べて

    せぢ新富押し浮けて

    又 祝女祝女は崇べて

    このオモロには詞書 きがあ り、それには正徳12年 (1517)に真南蛮 (東南 アジア)へ交

    易船 を派遣する時、お ぎゃか思い (尚其王)が自ら 「ゑと」 (船ヱ トオモロ)を作 り謡っ

    たものだとある。派遣 された船 (セヂ新富)は聞得大君を拝 し大君に守られて、那覇の港

    を出て ミ一二シ (北風)にのって一路南下 して行 くのだが、途中、群れ島 (慶良問諸島)

    の神々を拝 し、次 に久米島の君南風 を拝 し、久米島のノロノロを拝 して真南蛮へ と出走す

    ることが、オモロから分かるO 聞得大君や君南風、ノロは船の守護神なのである.

    先 に君南風の 「八重山征伐」 と考えられているオモロをそう理解するよりも、八重山渡

    海の航海神 を謡ったオモロとして理解する方が自然であるとしたのは、以上緩々述べてき

    たことが理由である。いわゆる 「冊封使録」の 「琉球過海図」(『便琉球録』粛崇業)や

    「針路図」(『中山伝信録』徐裸光)に久米島の名が記 されているように、久米島は中国往

    還の航路であ り東南アジアへの航路にも当たってお り、このオモロによって君南風が海外

    交易の船人等か ら拝 まれていることが分かる。それは近世期の資料になるが、『間切公事(2r))

    帳』で も確認できる。

    唐船方/-渡唐船那覇出船前時分柄見合久米嶋君南風所兼城のろ手根のろ火神之前中城獄いへ之前

    _198-

  • 史料編集室紀要 第25号 (2000)

    合四ヶ所江海上安全之御たかへ之れ有 り候右為供物八月限御船手β渡合之さはくり請取持涯右拝所銘々構入江相届置渡唐船出船近相成候ハ 御ゝたかへ仕るべ く事

    仲里間切公事帳 (逆光11年(1831))

    資料は渡唐船が那覇港を出港する時分を見計らい、君南風殿内、兼城のろ、手根のろの

    殿内の火の神、それと中城森 (仲里城御縁)いべの都合四ヶ所で海上安全のオタカベをす

    るとあ り、その供物は王府から支給され出張 してきた役人 (渡合之さはくり)が受け取

    り、それぞれへ届けるというものである。言うまでもなく、第一にあげられる君南風所と

    は君南風殿内のこと、兼城のろ殿内の火の神は、具志川間切の港である兼城泊を管轄する

    神、宇根のろ殿内の火の神は、仲里間切の港である真謝泊を管轄する神、中城猛 (仲里城

    御縁)は久米島の重要な聖地である。資料は仲里間切のものだが、この四ヶ所が海上安全

    の祈願をする際、久米島の最も重要な祭場なのである。(2G)

    君南風は、唯一、王族に属さない君であった。先に引いたように 『琉球神道記』によれ

    ば、「託女三十三人 (筆者、注。三十三君のこと)ハ皆以王家也。妃モ其-ツナリ。聞補

    君ヲ長 トス。都テ君 卜称ス」とあり、実際、『女官御双紙』下巻を見ると、確かに就任者

    が記されている君君は、一部を除いて 「王の御姫」「王妃」「王子女」「王子妃」「王子室」

    「按司女」「按司室」等であり、「王族」といってよい。そして、これは地方に住む君君、

    伊平屋の阿母加那志や今帰仁あおりやえも同じで、その初代は前者が尚円王の 「御姉」、I.1

  • 史料編集室紀要 第25号 (2000)

    『和州氏家譜系図』に記される、和州氏元祖君南風の記事は注目される。記事は、「首

    里の伯母二養育せられ首里に居住 し和氏浦添親方景明次男宮平親方景護嫡孫久米具志川親

    雲上景懐の室となり其の後当嶋叔母君南風跡目として久米鴫二罷 り渡 り候」とある。父は

    「仲里間切太史氏久米仲城親雲上」とあるから、久米島に縁のある人物であるが、母は首

    里生まれ (号自得か)であり、なんらかの理由でこの君南風は首里育ちだったことが推測

    される。これが 「景懐の室となり其の後当嶋叔母君南風跡目として久米嶋」に渡ってきた

    のである。『君南風由来井位階且公事』の 「由来」もそうであったが、君南風は外部からの渡来者だという 「由来」になっているのである。小川順敬氏は 「君南風の出自伝承につ

    いて」の中で、歴代の君南風は、中城按司と具志川按司をそれぞれ始祖とする按司系統の

    氏 (太史氏と美済氏)と前述 した和州民から出ており、これらの氏はいずれも外来系統の(31)

    氏だと意識され、伝統的な神事には全 く関与していないと述べている。やはり、実態とし

    ても君南風は在地の神女が昇格 して成ったというより、王府から招来された外来神であっ(32)

    たとすることができるのではないか。

    ま と め

    ここでようやく、最初の問題に至 りつ くことができた。久米島オモロには、なぜ中央の

    オモロに見られる表現があるのかという問題である。その一つの理由は、君である神女、

    君南風が久米島にいるからである。に引いたオモロは、王府による 「八重山征

    伐」にかかわったオモロであったが、これに君南風が先島への航海の守護神として関与 し

    ている故に、第1 (巻 1)とも重複 したオモロとして久米島オモロにもあると考えられる

    が、例えば、必ずしも、いわゆる神女オモロと重複しないものであっても、以下に引くよ

    うなものは、中央のオモロと同じ表現が見られ、久米島オモロの特異性を示 しているので

    ある。

    巻2ト1411-巻11…559-巻2ト1499

    くめのきみはゑかふし

    - おほっおてみれは

    さりよこしちへみれは

    あやみやのめつらしや

    又 なかちあやみやに

    ゑんけらへありる

    又 なかちくせみやに

    むかけらゑありる

    又 まとよたかつかいしょ

    くめのしまおわちやれ

    くめのきみはゑがふし

    - おぼつ居て見れば

    ざりよこ為ちへ見れば

    〔綾庭の珍しや〕

    又 仲地紋庭に

    ゑんげらへが有りる

    又 仲地寄せ庭に

    むかげらゑ有りる

    又 其とよたが使いしよ

    久米の島おわちやれ

    ー200-

  • 史料編集室紀要 第25号 (2000)

    又 あかころかつかいしよ

    なさかしまおわちやれ

    又 うきおほちか世やてや

    も かゝめむすへまし

    又 あやみやの大ころ

    あまこあわちへもとらめ

    又 あやみやのころ/-~

    みかをあわちへもとらめ

    又 吾がころが使いしよ

    成さが島おわちやれ

    又 大祖父が世やてや

    百襲む据へまし

    又 綾庭の大ころ

    眼合わちへ戻らめ

    又 綾庭のころ/・・\

    御顔合わちへ戻らめ

    冒頭に出て くる 「おほっ」は、多 くは 「か くら」(神楽)と対句になって出てくる語

    で、注書き (いわゆる原注のこと)では 「空也」、『混効験集』では 「天上のことをいふ」

    と注が付 く語である。この語の用例は 『おもろさうし』全体では重複も含めて60例余 りあ(33)

    るが、地方オモロにその用例があるのは久米島オモロのみで12例ある。用例の多くは、第

    1や第3、第4、第6の神女オモロと神女オモロに準 じた第7、第12である。巻別に見る

    用例の分布からしても、この語が中央のオモロに出る語であることが分かる。それは、

    「又おぼつより 帰て けよの内に 戻て」(巻 3-91)があるように、は首里城

    内の聖地につながった、高級神女が赴 くことができる想念世界であると考え

    られる所であるからなのである。それが、久米島のオモロに出てくるのである。

    実は、久米島のオモロでが出てくる用例のうち、地名とともに用例があるの(34)

    は巻1ト625で、このオモロもと類似 した表現 「叉中地紋庭に 見れば 肝 映て 又

    仲地寄せ庭に 見れば 肝 映て 又おぼつ 居て 見れば 綬庭の 珍らしや 又神楽 居て 見

    れば」であり、と仲地紋庭とが謡われるオモロである。さらに、地名とともに

    は出ないが、その他の久米島オモロのの仝用例 (の巻11-561-巻21-

    1413-巻 1-35、巻1 1-617-巻21-1439-巻 7-369、巻1ト628)を見ると、その全ての用例

    に君南風が登場することが分かる。具志川間切仲地は、君南風殿内のある村である。すな

    わち、本例、およびは巻11-625には君南風は現れないものの、これらのり夕は君南風にか

    かわるものだと考えてよいと思われる。仲地縁庭とは、君南風殿内の祭庭をいうのであろ

    う。以下に、巻11-628を引 く。

    巻11-628

    あおりやへかふし

    一 大きみかうさししよ

    おもかはのせちおろちへ

    あんしおそいしよ

    まふらて おゝれわちへ

    又 せたかこかうさししよ

    あおりやへがふし

    一 大君が御差ししよ

    おもかわのせぢ降ろちへ

    〔按司襲いしよ

    守らて 降ゝれわちへ〕

    又 精高子が御差ししよ

    -201-

  • 史料編集室紀要 第25号 (2000)

    おもかはのせちおろちへ

    又 てるかはかうさししよ

    てらちんのせちおろちへ

    又 てるしのかうさししよ

    てらちんのせちおろちへ

    又 あまみやきみはへや

    てらちんのせちおろちへ

    又 けおのきみはゑや

    てらちんのせちおろちへ

    又 おもかはののろ/-㌔

    てらちんのせちおろちへ

    又 かくらうちにありよる

    こかねうちにありよる

    かみかいのち

    あんしおそいにみおやせ

    又 おほっうちにありよる

    なむちゃうちにありよる

    かみかいのち

    あちおそいに

    おもかわのせぢ降ろちへ

    又 てるかはが御差ししよ

    てらちんのせぢ降ろちへ

    又 てるしのが御差ししよ

    てらちんのせぢ降ろちへ

    又 あまみや君南風や

    てらちんのせぢ降ろちへ

    又 けおの君南風や

    てらちんのせぢ降ろちへ

    又 おもかはの祝女/-〉

    てらちんのせぢ降ろちへ

    又 神楽内に有り居る

    黄金内に有り居る

    〔神が命

    按司襲いにみおやせ〕

    又 おぼつ内に有り居る

    銀内に有り居る

    〔神が命

    按司襲いに〕

    巻1 ト561-巻2ト1413()は第 1との重複オモロであった。同様、巻11-617-巻

    21-1439は、神女オモロに準ずる巻である第 7との重複オモロである。ここに引いたは他巻 と重複 していないものだが、これを神女オモロだとしても違和感がない。と君南風が出所するオモロは、神女オモロ的だといっても問題のないり夕なのであ

    る。本例は、あるいは君南風が上国 した折に、首里城内等で行われた儀礼の中で謡われた(うp))

    り夕かもしれないが、で見たように仲弛緩庭はとつながっていた。 したがって、オモロは、君南風が仲地綾庭において、国王のために謡ったものだという理解

    が充分に成 り立ち得ると思われる。つまり、君南風が主宰する祭紀において、聞得大君、

    テルカワ ・テルシノの指示によって、君南風がオモカワ/テラテンのセデを降ろし、神楽

    内 ・オボツ内にある神が命を国王に奉れと、王府で謡われるような儀礼歌が、そのまま久

    米島で謡われることが考えられるということである。テルカワ ・テルシノは神女オモロに(3〔))

    集中して出る語であ り、高級神女からの太陽にかかわる呼称だと考えられる。テラテンも

    「せ らちへん」巻12-695、「せ らちょん」巻13-853と同 じ語だと思われ、前者は 「嘉靖甘

    四年」の 「君手摩 りの百果報事の時」に 「聞得大君の御前 より給わり申候」 という詞書 き

    が付いたオモロ、後者は御新下 り、もしくは久高島渡海等にかかわるオモロで、いずれも

    高級祁女が謡 うオモロに出所する。これも同様、高級神女が抱 く他界観にかか

    -202-

  • 史料編集室紀要 第25号 (2000)

    (37)わる語であろうと考えられる。つまり、は高級神女が抱 く他界観にかかわる語、

    および、高級神女からの太陽にかかわる呼称が出所する、まさしく神女オモロと呼ぶにふ

    さわしい内容をもったり夕なのである。これが、久米島において君の一人である君南風が

    主宰する祭把で謡われていると考えられる。すなわち、これは王権の儀礼が、久米島にお

    いて君南風が主宰する祭把の中で行われていたということではないのか。これが、地方オ

    モロである久米島オモロに、中央のオモロである高級神女のオモロ、すなわち、神女オモ

    ロが入っている理由ではないか。

    『君南風由来井位階且公事』には、「稲大祭」(旧暦六月)の際、君南風が 「仲地蔵下山

    里ひや家玉那覇蔵下仲里城具志川城たもと所へ」「御通成され候備」の一つとして 「おも

    ろ赤頭弐拾人」があり、「おもろ」が謡われていたことが推測される。資料の前半部には

    「祭礼之時君南風御通成され候との/へ おもろくわいにや」が記され、「仲里城祭礼之時(38)

    おもろ」14首が記載されているが、内容から 「稲大祭」のオモロだと考えられる。つま

    り、「おもろ赤頭式拾人」はこの14首の 「おもろ」の少なくとも一部を、謡っていたと思

    われるのである。近世期だが、地方においてこのように 「おもろ」が謡われていたことが

    分かるのは貴重だが、さらに 「外」の 「備」として 「一 男夫十六人 一 刀壱本 但木

    一 木鑓四本 - 弓四丁 一 六角棒式本 - こは団扇壱対 - 鹿之絵団扇弐対」が記

    されているのも興味深い。というのは、この 「備」の内 「一 刀壱本 但木 一 木鑓四

    本」という 「備」は、ちょうど 「おもろ主取」等の 「官職」を記した 『琉球国由来記』巻

    2 「官職位階之事」に見える記事、冬至 ・元旦 ・十五日の朝拝御規式の記事と重なるから

    である。記事は、国王が王城正面に出御する際、「親雲上役」が 「鍔刀」を、「勢頭部役」

    が 「長刀」を持って近侍するというものである。『由来記』巻 1「王城公事」では、朝拝御規式においてかつて 「オモロミヒヤシ」が謡われていたことが記されている。「おもろ

    主取」等が 「鍔刀」や 「長刀」を持って近侍 したのは、彼らがこの場面でかつてオモロを

    謡っていたこととかかわっていよう。また、国王の式典を担当した当職の控えであった

    『画帳 首方』では、「冬至元旦十五日唐波豊出御之時御備之囲」に 「小赤頭」等が 「縫

    物御国羽」「玉御囲羽」「羽御国羽」等を持つという記事がある。これも 『君南風由来井位

    階且公事』の 「- こは団扇壱対 - 鹿之絵団扇弐対」と対応している。つまり、王城の

    朝拝御規式と君南風が主宰する久米島の 「稲大祭」は、儀礼の場面が異なるものの、王府

    儀礼が久米島に持ち込まれていることを推測させるのである。先に、君南風は外来系統の

    氏から出ていると意識されており、島の伝統的な神事には全 く関与 していないと述べた

    が、これも前述 したとおり、「稲大祭」は 「麦稲四祭」の一つであり、王府が重要視 した(3())

    儀礼である。 したがって、この儀礼に君南風がかかわっているのは、当然だと言えよう。

    儀礼の場面が異なるとはいえ、君南風が主宰する 「稲大祭」に、王城で行われていた儀礼

    が持ち込まれていてもなんら不思議はないのである。

    の最終節部は 「又綾庭の大ころ 限合わちへ 戻らめ 又綾庭のころ/・一\ 御顔合わちへ 戻らめ」があった。この表現も地方オモロに出るのは久米島オモロのみで、他の

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  • 史料編集室紀要 第25号 (2000)

    例は神女 オモロにあ り、高級神女 と国王 との霊的交感を示 したものである。例えば、巻 3

    -112「又按司襲い と 行 き合て 眼合わちへ 遊で 又王 にせ と 行 き合て 御顔合わちへ 逆

    で」がそれであるが、これは他界で霊力 を更新 してきた聞得大君が国王 と 「眼合わちへ/

    御顔合わちへ」(「相互に目とめを見合対面する事 な り」 という注書 きが付 く) とい う儀礼

    的な行為 を遂げて、国王に霊的な力 を付与す ることを意味 していると考 えられる。それ

    が、では君南風がか ら仲地綾庭に降 り立ち、在地の有力 な人物達 と考

    えられる 「大 ころ/ ころ/一\」 と交感する儀礼的な行為 (「眼合わちへ/御顔合わちへ」)

    になっているのである。これは、「鍔刀」や 「長刀」が 「一 刀壱本 但木 一 木鑓四本」

    とい うように、あるいは、「縫物御国羽」「玉御圏羽」「羽御囲羽」が 「- こは団扇壱対- 鹿之絵 団扇弐対」 とい うように、中央での儀礼が君南風の主宰す る祭紀 に持 ち込 ま

    れ、在地の儀礼 として行われていたことを物語 っていると考えられるのである。

    久米島 と今帰仁 とは、王権にとって外界 との要 となる境界的な地域であった。それゆえ

    に、そこは 「地方」であ りながら高級神女である君 とオモロ、それに男性歌唱者 とが一体(40)

    となって存在 し、王権儀礼が行われていたことを別稿で論 じた。本稿 は、君南風 に焦点を

    絞 りその性格 を考察 しなが ら、久米島オモロの特殊性の理由となるものを考察 した もので

    ある。『お もろさうし』 にあって、久米島オモ ロは様 々な例外的な用例が あって興味深い。別稿 も本稿 も、その一側面に触れたに過 ぎない。今後、久米島オモロ全体に及ぶ考察

    が痛感 される。それは王権 を考える上で も、 また、『お もろさうし』その ものを理解する

    上で も、重要な問題 になって くると思われる。

    (1)久米島オモロとは、第11、第21のオモロ、他巻にある久米島関連のオモロをいう。(2)オモロの引用は、比嘉実編 『尚家本 おもろさうし』法政大学沖縄文化研究所 1993年によ

    る。引用にあたっては、意味の通 りやすいように適宜改行している。また、各節に繰 り返す

    反復部は、一字下げている。以下も、同じo

    (3)伊波普猷 「琉球に於ける武備の撤廃と拳法の発達」『歴史公論』第2巻11号 1933年 『全集』5巻所収)他。なお、仲原善息も 『おもろ新釈』琉球文教図書 1957年で巻 1-36のオモロを解

    説するなかで、同様な見解を述べている。

    (4)『君南風由来井位階且公事』の引用は、小島瑛稽校注 『神道大系 神社編52沖縄』神道大系編纂委員会 1982年による。引用にあたっては、適宜読み下している。なお、以下の資料についても、適宜読み下して引く。

    ぐ5)引用は、球陽研究全編 『球陽 読み下し漏』角川書店 1982年による0(6)『君南風由来井位階且公事』、『女官御双紙』、F球陽』の三書では、前者二番と 『球陽』と

    の間に比較的大きな記述内容の違いがみられる。『球陽』が、合理的解説的な記述になってい

    る。なお、「八重山征伐」の記事は、『中山世譜』は弘治13年 (1500)とするが、『球陽』は尚真24年 (1501)として一年ずれて記載されている。

    (7)巡行叙事とは 「神の巡行の叙事」であり、「神が巡行 し見出したものをうたう一人称語 り

    の」表現で、「始源的には村立ての起源を語る神謡としてあった」(『古代和歌の発生』古橋

    信孝 東京大学出版会 1988)。これを琉球弧のり夕でみると、海上渡航の叙事と馬上巡行の叙事に類型化された表現が見られる (「琉球弧のり夕にあらわれたく巡行叙事>表現」拙論

    『南島の文学 ・民俗 ・歴史』三一書房 1992年所収)0

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    (8)「弟君南風」という表現は、二首の 「くわいにや」の中にも見られる0

    (9)この句を伝承に合わせて理解すれば、やがて、八重山に移 り住むことになる二番目の姉神

    が、君南風とともに久米島にやってきたことが謡われているとするか、あるいは、久米島か

    ら八重山に渡ってきたことが謡われているとするか、どちらかだろう。なお、仲原善忠は

    『おもろ新釈』において、このり夕は 「おもと森のツカサなる神女が、久米島を訪問し、仲

    なおりをする」「神の和平」を謡ったり夕だとしている。(10)『琉球国由来記』巻 7 「泊之大阿母由来之事」。

    (ll)引用は、『定本 琉球国由来記』波照間永吉 。外聞守善編著 角川書店 1997年による。

    (12)『女官御双紙』。(13)『沖縄久米島 資料篇』沖縄久米島調査委員会編 弘文堂 1983年参照0

    (14)註 (3)の伊波論文、池宮正治 「武装する神女」(『おもろさうし精華抄』ひるぎ社 1987年所収)等。

    (15)外聞守善 .玉城政美編 『南島歌謡大成 沖縄篇上』角川書店 1980年による。なお、訳につい

    ては一部、私見を入れている。

    (16)具体的な場所は不明だが、これはもうひとつのり夕 「右之時具志川間切 くわいにや」の 「兼

    城御泊」に対応するもので、仲里間切にある地名だろう。

    (17)引用は、註 (4)『神道大系』所収の 『八重山森 由ゝ来記』。引用にあたっては旧字を新字に

    改め、返 り点のあるものは読み下 した。以下、同じ。

    (18)よく分からない話になっているが、泊之大阿母の由来についても、本来は大阿母が 「鬼界島

    征伐」を果たした尚徳等の志無い帰還を祈っていたという話ではなかったのか。それで 「潅

    注」で迎え (『八重山疲 由ゝ来記』に見える 「浜御拝」にあたるか)、「御手水」を国王に奉

    ったということで、王は大阿母の 「忠心」を悟ったということではないのか。

    (19)引用は、註 (4)『神道大系』所収の 『宮古島旧記』。(20)引用は、横山重 『琉球神道記』角川書店 1970年による。

    (21)『琉球古語辞典 混効験集の研究』第一書房 1995年の 「解説」参照0(22)渡名喜明 「田里筑登之親雲上渡唐準備 日記」『沖縄県教育委員会文化課紀要』第 1号 1985

    年、第2号 1986年所収。

    (23)拙論 「『琉球国由来記』の世界認識」『文学』(岩波書店)第9巻3号 1998年所収。(24)宮城栄昌は、『沖縄のノロの研究』(吾川弘文館 1979年)において君君の性格をオモロを引

    きながら個別的に判断しているが、このような方法は問題がある。つまり、それは君君に個

    々別々な機能があったという前提を必要としなければならないが、その検討がまず必要であ

    り、オモロだけで君の個別的な性格を考えるのは、問題があろう0

    (25)註 (13)所収の同書を引 く.なお、薙正13年本の 『仲里間切公事帳』にも 「唐船方/-唐船

    出船之時久米嶋君南風殿内兼城のろ殿内手根のろ殿内中城簸合四所江海上安全之御たかへ為

    造用八月限御船手β渡合之さはくりこ而請取持渡銘々相届置唐船出船近御たかへ仕候事」と

    いう一条がある。道光本と同じことを述べているとすると、「唐船出船之時」 とは久米島に

    潮掛 りした船が出船するということではなく、那覇を出船することであろうか。

    (26)拙論 「『おもろさうし』の神女」『東横学園女子短期大学 女性文化研究所紀要』第4号 1995年所収。

    (27)例外に当たる君君の中に司雲上がいる。司雲上には、三人の就任者の名が記されているが、

    いずれも親雲上と親方の女であり、「王族」とは言い難い。しかし、この神女は聞得大君が

    久高島や知念 ・玉城に参詣する際、屈従する神女 (『球陽』巻7尚貞王 5年)であって、一

    般の君君とはやや異なった侍女的な神女であることが想像される。但 し、「沖縄旧記書類字

    句註解書」には 「司雲上按司、旧藩庁御内原ノ御神ヲ掌ラルル者、是モ藩王ノ姉妹ノ内ヨリ

    努メラルルナリ」とあり、やはり、これも 「王族」から出るとしている。

    (28)註 (24)の 『沖縄のノロの研究』参照。

    (29)註 (4)中の 「大阿母および祝女辞令書集」参照。

    (30)註 (13)中の 「和州氏家譜系図」参照。

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    (31)『宗教学論集』第13輯 1987年所収。上江洲均氏も同 じことを 「ヲヒヤ (ヘ-クー)の出る家は、根所としての伝統を保って来たが、前述の接司系統はすべての神事に参加する機会を与

    えられなかった。つまり、神職をよそ者の中から出さない古 くからの厳然たるしきたりがあ

    ったのであろう」(『まつ り』16号 1970年)と、早 くに指摘 している。

    (32)「美済姓家譜」「四世智固」の記事に、崇禎年間 (1628-1644年)、君南風が上国した際、麻氏儀間親方 (儀間真常)に付けて数カ月滞在 させ、「木綿布調様」を 「細密に伝授 させ」た

    という記述がある。この記事は史実とするよりも、君南風が外部とつなが り、外部の文化を

    もたらした文化神的な存在であったとする伝承と読むことができるかもしれない。

    (33)用例の中に第20「こめすおもろの御 さうし」を出所 とする例が 1例あるが、これは重複オモ

    ロで本来、第 6にあるオモロである。

    (34)混入部の用例は、外 している。以下、同じ。

    (35)君南風の上回は、自身の就任時 (「代合」)ばか りではなく、「美済姓家譜」等によって間得大君の就任時、婚礼時、死去の際にあったことが分かる。上回の機会は意外に多かったよう

    である。その際に、オモロが謡われる場面があったと思われる。

    (36)嘉手苅千鶴子 「『おもろさうし』太陽考 - 太陽に関わる呼称を中心に- 」『専修総合科学研究』第2号 1994年所収。

    (37)さらに、君南風 を含めた高級神女等が共通に持つ他界を意味する語 として、加えることがで

    きる例が、「にるや」 と 「みるや」である。二譜はともに対句が 「かなや」であ り同じ語で

    あることが確認 されるが、「にるや」は、第 1に一首、第 3に二首、第9に一首、第13に一

    首、第19に一首、そして第22に一首あ り、第13を除いて、第 1、第3の例はむろん、第9、

    第19(第22はその重複)の例 も 「知念久高行幸」にかかわったオモロで、高級神女のオモロ

    と見 られる。 しか し、残 りの第13の一例 (955)が久米島のオモロで、これには高級神女が

    謡われていない。一方、「みるや」は久米島オモロに九首出所 し、その他は、第 7に一例 (3

    91、巻22・1546と重複)、第13に一例 (802)がある。 しかし、この二例 も久米島のオモロであ

    る可能性がある。いずれもしても、高級神女が抱 く他界を示す言葉が、「てらちん」「せらちょん」「せ らちへん」同様、「にるや」「みるや」についても、地方オモロとしては久米島オモロに語の形を変えて現れるのである。これも、これも注目すべき重要な問題である。

    (38)仲原善忠 「校注 君南風由来井位階且公事」(『全集』第三巻民俗篇 沖縄 タイムス社 1978

    年)参照。

    (39)君南風がかかわるもうひとつの祭祀が 「九月ウガン」である。これも、元は 『琉球国由来

    記』が、諸間切諸島で実施されることを期待 した祭柁 「二 ・八月四度御物参」 と開通 したも

    のではなかったか。

    (40)拙論 「琉球のオモロ- 「地方」で謡われたオモロ- 」『講座 日本の伝承文学 第 8巻 在地伝承の世界 西日本』三弥井書店 近刊所収。

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