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Title 欧陽脩の学問と芸術論
Author(s) 宇佐美, 文理
Citation 中国思想史研究 = JOURNAL of HISTORY OF CHINESETHOUGHT (1987), 9: 29-58
Issue Date 1987-01-31
URL https://doi.org/10.14989/234330
Right
Type Departmental Bulletin Paper
Textversion publisher
Kyoto University
欧陽脩の学問と芸術論
宇佐美文理
緒論
第一章
第第
章章欧陽脩の学問論
(こ
経学
(二)史学
(三)文学
三学を離れた欧陽脩の思想
芸術論
(一)書論
(二)絵画のモティーフ
(三)絵画論
一 29一
結語
緒論
北宋期
が、学術文化の各方面において画期的な時代であったことは、諸書が指摘することであるが、中国書画
(論)史においてもまた然りである。書では北宋四大家の出現、画では山水画に北方の李成、郭煕、南方の米帝、
さらには蘇載らのいわゆる文人画家を生んでいる。
一体、この北宋期の書画における指導者としては、これまで蘇載や米苛が取り上げられることがしばしばあった
が、本稿が取り上げるのは、この蘇載ー米帯という線上にあるもう↓人の人物、欧陽脩である。欧陽脩の芸術論
に
関しては、これまであまり取り上げられることがなかった。しかし、彼は蘇載の師であり、中国書画論史を語
る上で見逃せない人物だと思われる。本稿は、その欧陽脩の「儒者」としての方面に焦点をあて、儒者の側から
見
た芸術観を探っていきたい。従って、本稿はその目的を達するため、最初に欧陽脩の経史文三学の中の芸術論
に
関わる考え方を概観し、以下、三学に対する見解と、彼の書画論との関わりを考えていく。さらに、『歴代名画
記』、蘇載との比較を通して、中国書画論史上の彼の位置を見定めてみたい。
一 30一
第一章欧陽脩の学問論
(→)経学
欧陽脩の詩の一節に、°次のような一句が見られる。
聖言は簡にして且つ直 (居士集巻一 送黎生下第還蜀)
これが欧陽脩の経学を貫く大命題として見え隠れするのである。以下、経学を通覧してこれを明らかにしていき
た㌧-.
欧陽脩
は六経の中でも、特に春秋を尊重する。
(墓誌)其の(師魯の)文を述べては則ち曰く、簡にして法有りと。此の一句、孔子の六経に在りては、惟
だ
春秋のみ之に当つべし。其の他の経は孔子自作の文章に非ず。故に法有りと錐も、而れども簡ならざるな
り。(居士外集巻二十三 論弄師魯墓誌)
春秋
は「簡而有法」なるが故に尊ばれるのであり、この考えから、いわゆる経伝の「伝」も「簡直」でないとし
(2)
て
批判される。
経
は簡にして直、伝は新にして奇。簡直なれば耳を悦ばすの言無し。而れども新奇なれば喜ぶべきの言多し。
(3)
是
を以て学ぶべき者は聞くを楽しみて惑ひ易きなり。(居士集巻二十八 春秋論上)
(4)
その理念はまた、経に対する注釈においても示される。
蓋
し毛鄭の二家詩人の意を得ず。故に其の説、之を迂遠に失するなり。(詩本義巻二)
また、詩本義・易童子問においてもこの考えが繰り返されており、この考えの欧陽脩における重要性が窺われる。
論に
曰く、経義は固より常に簡直明白。(詩本義巻三)
孔子の
文章 易春秋、是れのみ。其の義は愈いよ簡にして、其の義は愈いよ深し。吾れ聖人の作ること、繁
衙叢挫なるの此の如きを知らず。(易童子問 三)
一 31一
従ってまた、欧陽脩は、「誕」を嫌う。
其の道 知り易くして法るべく、其の言 明らめ易くして行ふべきも、誕なる者の之を言ふに及ぶや、乃ち
混蒙虚無を以て道と為し、洪荒広略をもって古と為す。其の道 法り難く、其の言 行ひ難し。(居士外集巻
ら
十六 与張秀才第二書)
しかし、欧陽脩が伝を批判するのは、この「簡直」という視点だけではない。一体、伝を批判して経に帰るとい
う態度は、注釈を書く人間の基本的態度であり、宋に至っても、この「経尊重」の態度は、例えば、
(柳開は)六経皆な自ら暁らかにして、注と疏とを見ず。(但裸石先生集巻二 過魏東郊)
に
見
られる。が、単なる「経尊重」は、欧陽脩にとっては、批判の対象である。
余れ嘗に
哀れむ。夫の学ぶ者、経を守りて以て篤く信ずるを知りて、偽説の経を乱すを知らざるを。(居士集
巻四十三 彦氏文集序)
(6)
で
は、何を基準にしてその偽説を排するか。それは「師説」である。
欧陽脩のこの「師説」を重んずる考えは、以下の文章に窺われる。
(焦氏
易)師授する所無し。自ら言ふ、之を隠者より得たりと。………
(費氏易)亦た師授無し。………
田何の易、始め、子夏 之を孔子より伝へられしより、卦象交象と文言説卦等と、離して十一篇と為す。而
して説く者自ら章句を為る。易の本経なり。(崇文総目序釈)
わ
某れ聞く、古の学ぶ者、必ず其の師に厳たり。………(居士集巻十八 答祖択之書)
一 32一
欧陽脩が師説を重んじたのは以上の如く明らかである。だが、理念的には師説を重んずべきも「北宋という現実
に
戻った場合、既に師は存在しないのである。
(漢代)然り而して授受相伝し、尚ほ師法有り。晋宋に聾びて而下、師道漸く亡ぶ。………学ぶ者 荘昧に
して帰する所を知る莫し。(奏議集巻十六 論冊去九経正義中繊緯割子)
従って、現実的には次のような意見となる。
夫れ世に師無きや、学ぶ者 当に経を師とすべし。経を師とするに、必ず先づ其の意を求め、意得れば則ち
心定まり、心定まれば則ち道純、道純なれば則ち中に充つる者実、中充つること実なれば、則ち発して文と
為る者輝光あり。(居士集巻十八 答祖択之書)
要す
るに、経を師とするという意見に帰着してしまうことを指摘しておかねばならない。
以上、欧陽脩の経学において、「簡直」と「師法」が重要な理念であることを考察した。
(二)史学
経学において見た如く、緯書などの「奇」を嫌い、「簡直」を求める欧陽脩は、史学においても、次のように発
言する。
史冊の之を書する所以の者は、蓋し特に後世の愚儒なる者を警し、事の当に然るべくして避くるを得ざるあ
るを知らしめんと欲せしのみ。以て奇事を為りて人に詫るに非ざるなり。(居士外集巻十七 与弄師魯書(第
一書))
一 33一
で
は、欧陽脩における作史の原理は何かといえば、それは「奇」ならぬ「信」である。
然れども予れ実録に考ふるに、二人の死状明らかならず。………夫れ史の閾文、慎まざるべけんや。其の疑
はしきは以て疑はしと伝ふれば、則ち信なる者 信なり。(新五代史 漢家人伝賛)
この「記事」における「信」は、もともと孔子の立場であると欧陽脩は考えている。
(孔子)乃ち詩書史記を修正するに、紛乱の説を止むるを以て、而して其の伝の信たらんことを欲するなり。
(居士集巻四十三 帝王世次図序)
従って、彼の史学は、後世、其の春秋との関連を指摘されるが如く、経学における基本的な考え方を出るもので
はない。
本稿が問題にするのは、欧陽脩の金石収集に関する問題である。欧陽脩は拓本を多く収集して、金石学のいわ
ば泰斗と目されるわけであるが、この古物賞玩に対して、後世、次のような批判がある。
古物を宝とするは、凡そ古人を重んずるなり。然れども其の物為るや、神智に益し、身心を治め、学識を広
め、義理を精にするに足らず。亦た僅かに把りて玩ぶに供するのみ。………故に善く古を慕ふ者は、書を読
む
に
若くは莫し。(憺園文集巻三十六 好古)
徐乾学
は、欧陽脩の集古録自序を冒頭に引いたのち、右の如く批判する。即ち、彼ら儒者には、経史文という書
物ではなく、「物」を扱う場合には、同文の末尾に、
此れ玩物喪志
なる者と、何を以て異ならんや。
と言われる如く、「玩物喪志」という批判が待っている。この場合には、欧陽脩には、
一 34一
因りて井せて夫の史伝と其の閾謬を正すべき者を載せて以て後学に伝ふ。(居士集巻四十一 集古録目序)
というタテマエが備わっている。しかし、書画に関してはどうであろう。「経」の部分で見たように、「簡」とい
う要素を持っていたり、「師説」を受け継いでいれば、非難を逃れる理由ともなるであろうが、書画は所詮「簡」
だ
けでは押し切れるものでもなく、「師説」なるものはもともと存在しない。かくて、書画に対して、この批判を
逃れ
るための何らかの原理が必要になるのである。
(三)文学
因りて蔵する所の韓氏の文を取りて復た之を閲、則ち噌然として歎じて曰く、学は当に是に至りて止むべき
の
み
と。(居士外集巻二十三 記旧本韓文後)
という韓文賛美に始まる欧陽脩の古文尊重は今更説くまでもなかろう。
本稿が問題にするのは、一つは「平淡」の説である。朱子はこの「平淡」を
或
るひと曰く、其の詩亦た平淡なるかと。曰く、他(梅聖楡)是れ平淡ならず。乃ち是れ枯稿なりと。(朱子
語類巻百三十九)
道夫因りて言ふ、欧陽公が文は平淡なるやと。曰く、平淡なりと錐も、其の中は却って自ら美麗なり………
と。(同右)
として、詩文ともに適用している。即ち後世において「平淡」は、欧陽脩・梅聖愈の文学全体に対する評語とし
て
定着してしまったと考えてよいであろう。しかし、
一 35一
文辞
は雅正深粋、………詩は尤も清淡閑隷にして喜ぶべし。(居士集巻四十四 江鄭幾文集序)
唐の時、子昂李杜沈宋王維の徒、或は其の淳古淡泊の声を得、………(居士外集巻二十三 書梅聖愈稿後)
聖愈 平生吟詠に苦しみ、閑遠古淡を以て意と為す。(詩話)
子の言 古淡にして真味有り。(居士集巻五 再和聖愈見答)
というこれらの文章から注意したいことは、いわゆる「平淡」の語は、欧陽脩が使う場合には、「淡」の方に重点
(7) (8)
が置かれていること、さらに、欧陽脩の「淡」は、文でなく、主に詩について使われる言葉だということである。
欧陽脩自身の意見としては、
其の
為れ
る文章 簡古純粋、世に荷説せらるるを求めず。世の人徒だ其の詩を知るのみ。(居士集巻四十二 梅
聖愈詩集序)
と言われる如く、「文」については「簡」を尊ぶのである。これは、勿論、経学の所で述べた「聖言簡且直」に基
づい
て
「簡」が尊ばれるのであり、欧陽脩において、文に「淡」を強調する必然性はない。凡そ「淡」とは、「薄
味也」(『説文解字』)の如く、その味・味わいを言う言辞であり、敢えて「簡直」に通ずべきは、「平」であろう。
ここで注意すべきことが一つある。それは、この「淡」は、
老氏 独り清浄遠去・霊仙飛化の術を言ふを好み、其の事 冥深にして質究すべからざれば、則ち其れ為に
常に淡泊無為を以て務と為す。(居士集巻三十九 御書閣記)
に
見
られるように、「老荘」のにおいを持つ言葉であることは否めず、この「淡」を強調することは、儒者にとっ
て
危険ですらある、ということである。然らば、「儒者」欧陽脩は如何なる意味合いでこの「淡」を持ち出してく
一 36一
るのか。それが探るべき課題となる。この問題に関しての詳しい議論は第三章に譲るとして、ここでは、欧陽脩
に
つ
い
て一般に言われる「平淡」は、主に詩について言われることであり、しかも、「淡」に重点が置かれている
ということを確認しておく。
また、先に朱子を引いて、その欧・梅理解を見たが、そこには重要な考え方が見られる。即ち、表面的平淡と
内面的美麗とを分ける考え方である。朱子はこの考えを他の文においても、欧陽脩との関連において、
是の
実
中に有れば、則ち是の文 外に有り。(晦庵先生朱文公文集巻七十 読唐志)
と言っているが、これに関して欧陽脩自身は次のように語っている。
其の
思
を致すこと必ず精なれば、其の辞を発するや必ず易にして、其の中に足るを待ちて後に外に見はる。
(居士外集巻十四 送陳子履赴緯州翼城序)
この考えは、先に引いた答祖択之書(三十三頁)にも見えた考えであり、また、学問との関わりにおいて、次の
ような発言もある。
脩の
愚の如きは、少くして師伝無く、学は己の見に出で、未だ一も其の緬を発せず。忽として発するや、果
して軌ち罪を得たり。是れ其の学、実に本つかずして、其の中 空虚無有にして然るなり。(居士外集巻十七
回丁判官書)
しかし、もともとこの考えは、
和順
中に積もりて、而して英華外に発す。(礼記楽記)
に
遡
り得るものである。従って、この考えも儒教の伝統に基づくものであり、先の「簡」とともに、欧陽脩の作
一 37一
「文」観には、経学が基礎にあると言ってよかろう。では一体、書画においては「充於中者実」と言われるその
内容は何なのか。それは、「意」として示されるが、これについては、第三章において解明されるであろう。
第二章 三学を離れた欧陽脩の思想
本章で
は経史文三学の学問的議論を離れたところでの欧陽脩の思想を考察する。
まず、士大夫としての欧陽脩の姿を追ってみよう。
君子
たるもの、民政を第一に考えるべきことは言うまでもない。欧陽脩は言う、
其の
心、又た夫の人の憂患を去りて易きを楽しむに就くを喜ぶ。詩の所謂榿悌たる君子なる者なり。(居士集
巻三十九 峡州至喜亭記)
即
ち、民の幸福が、自身の楽しみとなることが必要なのである。また言う、
霜かに惟ふに、希文、朝廷に登り、国論に与かり、毎に事の是非を顧み、自身の安危を顧みざれば、則ち東
南の楽
しみ有りと錐も、量に能く天下を憂うる心有る者の楽しみと為さんや。(居士外集巻十七 与萢希文書)
ここに見える政治上の「民の楽しむを楽しむ」考え方をさらに広げたものが、著名な「酔翁亭記」である。
人
は大守の遊に従ひて楽しむを知りて、大守の其の楽しむを楽しむを知らざるなり。(居士集巻三十九 酔翁
亭記)
またこの考え方は、自己の栄達富貴を望まないことに通ずる。欧陽脩はその理由を二つ挙げている。一つはその
一 38一
無意味さである。
富貴声名 登に論ずるに足らん 死生栄辱 埃塵に等し
(居士外集巻七 同年秘書丞陳動之挽詞二首(其二))
これ自体はさして重要ではないが、もう一つの理由が注目される。
寵栄 巳に至りて、憂患 之に随ふ。(居士集巻四十四 思穎詩後序)
そしてその「憂患」は、自身にとって決定的な損失をもたらす。
十載の栄華 国寵を倉り 一生の憂患 天真を損ふ (居士集巻十四 再至汝陰三絶(其二))
この「天真」こそは、蘇載において、また米帝において非常に重要な概念として登場してくるものである。また、
先に
文学の項で見た「淡」についても、
淡爾
として栄利を軽んずれば 何ぞ常て無有を問はん (居士外集巻二 送劉学士知衡州)
とあり、この一連の考え方が非常に重要であることがわかる。そしてこの問題を考えるにあたり、ヒントを与え
て
くれるのは、欧陽脩の顔回に対する考え方である。欧陽脩は、
人生 固より善悪を以て寿天を較ぶべからず。(居士外集巻十七 与サ師魯書(第五書))
(10)
という、善悪と寿天の関係を認めない考え方をもとに、いわゆる顔回・盗妬の問題を、次の如く考える。
(顔回は)惟だ其れ生を之れ楽しむ 登に妬の栄とする所より減ぜん
死
するや今に至るまで在りて ・ 光輝 日星の如し (居士集巻一 顔距)
ここで顔回は、「楽生」・「至今在」の二点において、その夫逝は単なる不幸とされない。この内、「至今在」は、
一 39一
其の聖賢為る所以の者は、之を身に脩め、之を事に施し、之を言に見はすなり。是の三者、能く朽ちずして
存する所以なり。(居士集巻四十三 送徐無党南帰序)
と同種のもので、注目には値しないが、問題は「楽生」の方である。欧陽脩は、顔回の姿を次のようにも描写し
て
いる。
顔子粛然として随巷に臥し、箪食瓢飲たり。外は物に誘はれず、内は心を動かさず。至楽と謂ふべし。(居士
外集巻十五 側正黄庭経序)
この考えは、欧陽脩の詩文にしばしば現れる考え方である。
高談 放紛を遣り 外物 累はすこと能はず (居士外集巻一 七交七首)
この外物に累わされて心を動かさない状態が顔回の優れた点であり、その状態が保てれば、そこには「寿」なら
ぬ
「無窮」があるのである。
至人 無心にして心を算へず 無心なれば自ら無窮を得 (居士集巻九 贈許道人)
即
ち、天真を損なう原因であった「憂患」を遣る方策である、この「外物に累わされない」状態こそが、「天真」
を保つカギと考えられる。ここで、更に、この問題を解くもう一つの重要な概念、「常理」について考えてみよう。
「常理」は、蘇載がその「浄因院画記」において、その重要性を説いて以来、絵画において重要な概念の一つ
となるのだが、欧陽脩に次のような議論がある。
凡
そ物には常理有り。而れども之を推せども知るべからざる者なれば、聖人の言はざる所なり。(筆説 物有
常理説)
一 40一
常理なるものは存在する。しかし深遠な常理そのものを理解することはできないのである。人が知り得るもの、
それは、
衰盛
物の常理 循環の勢窮まる無し (居士外集巻四 乞薬有感呈梅聖愈)
盛
なれば必ず衰ふる有り。生ずれば必ず死する有り。物の常理なり。(居士集巻五十 祭察端明文)
という現象面のみである。この欧陽脩の衰盛・循環に対する考えを示す詩を見てみよう。
昨日 枝上の紅 今日
物理 固より此の如し 去来
達人 但だ酒を飲み 壮士
造化は無情 物を択ばず
山桃・漢杏 意思少なきも
この衰盛・循環に対する感嘆は、
流波に随ふ
知
るや如何
徒だ
悲歌するのみ (居士集巻六
春色亦た深き山中に到る
自ら時節を越いて春風に開く
次の
ように言われる。
説刑部海業戯贈聖愈二首)
(居士集巻三 豊楽亭小飲)
作文に関しても、
聖人の
事に於ける、之を知るを之を知ると為し、知らざるを知らずと為す。言出でて万世の信たる所以なり。
夫れ
日、中すれば則ち之を呉むけ、月欠くれば則ち之を盈つ。天、吾れ其の心を知らず。吾れは其の物に劇
(11)
盈あるを見る者なり。(居士外集巻十 易或問)
つ
まり、衰盛・循環を唯だ静観するというのが欧陽脩の態度であり、またそれこそが史学の項で見たところの「信」
なのである。そしてこれもまた天真を保つ方策と考えられる。しかし、その衰盛を乗り越えんとする者がいる。
いわ
ゆる「養生」である。これに対して欧陽脩は言う。
一 41一
故
に、上智は之を自然に任せ、其の次なるは内を養ひて以て却って疾あり。最も下なるは妄りに意ひて貧ぼ
る。(居士外集巻十五 剛正黄庭経序)
この「任自然」も、欧陽脩の言う天真を保つ方策であることは明らかである。逆に言えば、先に見た如く、物に
累わされない状態、さらには「任自然」によって得られる態度こそが「天真」なのであり、そしてその態度を持
ち得た人物、それが顔回なのである。
で
は、残された問題、「淡」は、この「天真」等と、如何に関わるのだろうか。これは第三章で考察することと
したい。
第三章 芸術論
(一)書論
世の其の
書
を学ぶを好みて之を悦ぶ者有るは、茗を飲むを嗜み、画図を閲ると異なる無し。但だ其の性の一
僻のみ。宣に君子の務むる所ならんや。(居士外集巻十六 与石推官第二書)
ここに見られる世の人々の状況は、欧陽脩をも含めた儒者全員に対する警告でもある。そして、「玩物喪志」とい
う批判を避けんとする欧陽脩は、書においても、単なる玩物ではないことを強調する。
因りて其の遺 を録して之を蔵し、実に其の人を思ふ。独り其の筆を玩ぶのみにあらざるなり。(居士外集巻
二十三 践観文王尚書挙正書)
一 42一
これは、柳公権の
心正
しければ筆正し。(旧唐書巻百六十五)
に
淵源
し、蘇載も支持する「作者の人と為り」を重視する考え方であるが、これは既に当時の一般的風潮でもあっ
たようである。
使
し顔公の書なれば、佳ならずと錐も、後世の見る者は必ず宝となすなり。……:・其の書を愛する者は、兼
ねて
其の人と為りを取るなり。(筆説 世人作肥字説)
そして、欧陽脩の評書において、この考えは常に見られるものである。
李公の
人
と為りは端重正方、当時の重んずる所と為る。徒だ其の筆蹟を愛するのみにあらず。(居士外集巻二
十三祓李西台書(其二))
また、もう一つの「玩物喪志」でない理由は、金石学上の理由である。
かつ
浮
屠老子の誰妄の説、常て吾が儒に鹿絶せられし者なりと錐も、往往にして之を取りて、逓かに廃すに忍び
ざる者は何ぞや。宣に特に其の字画の工なるを以てのみならんや。然らば則ち字書の法、学ぶ者の余事為り
と錐も、亦た金石の伝に助くる有るなり。(居士外集巻十九 与察君誤求書集古録序書)
さらにまた欧陽脩は書の正当化を周礼に求める。
然れ
ども書に至りては、則ち法無かるべからず。古への始めて文字有るや、事を記すに務め、而して物に因
りて類を取りて其の象を為る。故に周礼の六芸、六書の学有り。其の点画曲直、皆な其の説有り。楊子曰く、
じレ
木
を断ちて棊を為り、革を杭りて鞠を為るに、亦た皆な法有りと。而るを況んや書をや。(居士外集巻十六
一 43一
与石推官第二書)
(13) (14)
石介の
「書無法」に敢然と反対した意見であるが、ここでは明らかに学問の対象として書をとらえようとする欧
陽脩の態度が窺えるであろう。
以上、書の正当化について見たが、しかし書の持つ意味はそれにとどまるものではない。
筆を試みて長日を消し 書に就りて百憂を遣る
余生 此の如きを得れば 万事 復た何をか求めん (居士外集巻七 試筆)
ここに言う「遣百憂」は、取りも直さず先に見た「天真」を保つ方策であり、この「消長日」即ち「消」は、「試
筆」の中で繰り返し述べられるものである。
然れども此れ初め其の心を寓して以て日を錆せんと欲す。
往往にして以て日を消すべし。(共に試筆)
しかし、単に「消日」と言うだけでは、「性之一僻」と批判される危険がある。そこで欧陽脩は次の如く言う。
暇有れば即ち書を学ぶは、以て芸の精を求むるに非ず。直に心を他事に労するに勝れるのみ。(筆説 学書静
中至楽説)
ここでも「有暇」と、断わり書きを入れるあたり、いかにも欧陽脩らしいが、ともかくここまでは「消日」の考
えを出るものではない。問題はその続きである。
此を以て知る、心を物に寓せざる者は、真に所謂至人なるを。(同右)
ここに見える「心」と「物」に関する考え方は、他処では、
一 44一
以て
其の
意を寓する有りて、身の労を為すを知らざるなり。以て其の心を楽しますこと有るも、物の累を為
すを知らざるなり。然らば則ち古へより心を累はさざるの物無し。而して物の楽します所と為る心有り。(試
筆 学真草書)
とある。これは、蘇載においても
筆墨の 、有形に託す。有形なれば則ち弊有り。(東披題祓巻四 題筆陣図)
と言われる如くである。即ち、「物に接すれば、必ず物に累わされる」のであり、先に言う所の「至人」は現実に
は存在すべくもない。従って、先の「筆説」に対して
夫の至人
なる者は、荘子の戯言を創為せるにて、以て聖人を薄すなり。果して其の人有るに非ざるなり。(慈
漢黄氏日抄分類巻六十一 欧陽文 筆説)
と批判を浴びるわけであり、これは荘子の本文が既に其の矛盾点を露呈している。
宋元君 将に画図せんとするに………一史の後れて至る者有り。檀値然として趨らず。揖を受けて立たず。
因りて舎に之く。公、人をして之を視しむるに、則ち解衣磐嚇して巖なり。君曰く、可なり。是れ真の画者
なりと。(外篇 田子方)
この「至人」の考え方によれば、書画という営み自体が否定されることになってしまうのである。しかし、欧陽
脩に
は一つの考えがある。
益有
るに寓する者は、君子なり。性を伐ち情を泪して害を為すに寓する者は、愚惑の人なり。書を学ぶも、
労せ
ざること能はず。独り情性を害せざるのみ。要すれば、静中の楽を得る者は、惟だ此れのみ。(筆説 学
一45 一
書静中至楽説)
欧陽脩
も「不能不労」は認めている。ただ「情性」が害されないこと、これを書の効用とみるのである。そして
これが「至楽」と呼ばれている。従って遡って考えれば、先に「天真」を保つと言われたのは、ここに言う「情
性」を伐泪しないことと考えることができるであろう。即ち、ここで解決せねばならない一つの問題が生ずる。
「物累」と「不能不労」を避けられぬものと認めたならば、いわゆる荘子の「至人」・「至楽」は欧陽脩において、
如何に解釈すべきかという問題である。今一度「至楽」と彼が使った例を見てみよう。
顔子粛然として晒巷に臥し、箪食瓢飲たり。外は物に誘はれず、内は心を動かさず。至楽と謂ふべし。(居士
外集巻十五 剛正黄庭経序)
ここに描写された顔回は、明らかに論語に描写された顔回である。
子曰
く、賢なるかな回や。一箪の食、一瓢の飲、随巷に在り。人は其の憂いに堪へず。回や其の楽しみを改
めず。賢なるかな回や。(論語 雍也)
ここで、「至楽」とは言うものの、そこには微妙な欧陽脩の読みかえがある。顔回の至楽とは、「荘子」の中に示
されるー坐忘に代表されるー「離形去知」(大宗師篇)なる顔回のものではない。「離形去知」は先に見た如く
「儒者」欧陽脩には排されるべきものである。従って、「物累」・「不能不労」を認める欧陽脩は、荘子流の「至楽」
を認めるわけにはいかない。即ち、ここに儒者にも認め得べき理念を提出することによって初めて、物を扱い、
形を扱う所の「書」が、「至楽」として、君子の楽しみとして存在価値を持つことになる。要するに、先の欧陽脩
の
意見
は、「天真」の範囲を「情性」に限定したことに意味がある。そして
一 46一
要
するに自適に於てするのみ。(筆説 夏日学書説)
という経学においては考えるべくもない「自適」が、明確な根拠ー即ち至楽ーを持って主張されることになるの
である。
(二)絵画のモティーフ
絵画論の
検討に
はいる前に、一般に中国絵画のモティーフとなる諸々の自然物に対して、欧陽脩が如何なる意味
を見ていたかを考察しておこう。まず、雲である。
万物は各〉役せらるること有り 無心なるは独り浮雲のみ (居士外集巻四 送朱生)
「無役」・「無心」とは、まさに先に見た外物にとらわれぬ「至楽」の世界であり、また、
悠悠
として世に身あること浮雲に比す 白首して穎水の潰に帰来せん
(居士外集巻七 退居述懐北京韓侍中二首(其一))
として、山水へ帰る気持ちを涌き起こす作用もそこにはみられる。その山水は、
須
く知るべし我は是れ山を愛する者なるを 一詩中に山を説かざる無し
(居士集巻十四 留題南楼二絶(其一))
と、欧陽脩が好んだことが窺われるが、その山水を楽しむにも、実は条件がある。
固
より能く進退窮通の理に達せり。能く此に達して而して心に累はさるるもの無くして、然る後に山林泉石
は以て楽しむべし。必ず賢者と共にして、然る後に登臨の際、以て楽しむ有るなり。(居士外集巻十九 答李
一47 一
大臨学士書)
これによれば、まさに先に見た「天真」の状態があって初めて山水が享受できるのである。それは後に山水画の
鑑賞者を「君子」たる士大夫に限定したのと対応する。
次
にへ後に文人画の主要モティーフとなる竹松について見てみよう。
瀟疎
として竹の勤きを喜ぶ (居士集巻三 秋晩凝翠亭)
この竹と「粛」のイメージは、墨竹画において、
粛薫として意は亦た真 (公是集巻二十二 墨竹)
と言われる如く、当時の通念であろうが、欧陽脩にとって、この「粛」は、
顔子 講然として随巷に臥す (居士外集巻十五 刷正黄庭経序)
として、取りも直さず顔回をイメージさせるものであったことに注目したい。即ちまた、
雪霜を待たずして常に凛凛 風雨無しと錐も自ら粛粛
(居士外集巻七 張仲通示墨竹、嗣以嘉篇、豊勝欽玩、柳以四韻仰酬厚睨)
.青松 節を守り危に見臨するも 正色凛凛として犯すべからず (居士集巻三 新霜二首(其二))
凛凛た
る心節の奇なるは 惟だ応に松と竹のみなるべし
(居士集巻九 寄題劉著作義受家園、敷聖愈体)
とも言われ、これも、
塵庫、風采有るを言ふなり。(漢書巻八十九 顔師古注)
一 48一
(15)
と言われる如く、君子の貌を表現する言辞である。この凛凛とは、『説文解字』によれば「寒也」であり、これら
か
ら考えれば、いわゆる李成の寒林、欧陽脩の言葉を用いれば、
成 官は尚書郎に至り、其の山水寒林、往往にして人家に之れ有り。(帰田録二)
は、まさに欧陽脩に気に入られるべきモティーフと言えるのではなかろうか。さらに、書との関連において言う
ならば、
世の
人 肥字
を作るを喜ぶ者有り。正に厚皮の饅頭の如く、之を食せば未だ必ずしも佳ならずんばあらざる
も、其の状為るを視れば、已に其の俗物なるを知るべし。(筆説 世人作肥字説)
と言う欧陽脩の考え方は、
制に
曰く、………(王)献之………其の字勢の疏痩なるを観るに、隆冬の枯樹の如し。(晋書巻八十)
に
見
える如く、その松のイメージと関連させて考えれば、容易に理解できるであろう。
また、先に見た「淡」が、松に対して用いられる例もある。
意は淡なること宜しく松鶴のごとくなるべし (居士外集巻七 酬浄照大師説)
さて、以上の各モティーフの持つ意味を踏まえた上で、絵画論の検討に移ろう。
(三)絵画論
欧陽脩も、画の古くから認められている意味、即ち鑑戒の目的を認めている。
図を披きて以て古に鑑みる。(居士外集巻十四 仁宗御集序)
一 49一
ところが、こと聖賢をみることに関しては、欧陽脩は否定的である。彼は『論衡』に源を発する考え方、
人 図画を好む者有り。図上に画く所は、古の列人なり。列人の面を見るは、其の言行を見るに執与ぞ。(論
衡 別通篇)
を受けて、次の如く語る。
復
た夫子の容を賭んと欲するか、復た夫子の道を聞かんと欲するか、如し止だ夫子の容を賭んと欲するのみ
なれば、則ち之を図けば可なり。之を木れば可なり。(居士外集巻九 代曽参答弟子書)
欧陽脩の経尊重の立場から言っても、あくまでも聖賢に関しては、六経が重要なのである。しかし、南斉・謝赫の
図絵なる者は、勧戒を明らかにし、升沈を著さざるは莫し。千載は寂蓼なるも、図を披きて鑑るべし。(古画
品録 序)
に
代表
される伝統的な鑑戒の意味を、完全に否定しきることはできない。欧陽脩は、表面的には、先に見たよう
に
鑑戒
を認め、さらに聖賢画という限定を離れた場合には、
其の書を読みてすら尚ほ其の人を想ふ。況んや其の像を拝するを得るをや。(居士集巻三十四 王彦章画像記)
に
見られる如く、単にその人を想見するという意味においては積極的な発言をしている。この「想其人」に関し
て
は、既に書において見た如く、また文においても、
余れ仲君の文を読むに、其の人を想見するなり。………其の文為るや、抑揚感激、勤正豪適、其の人と為り
に
似たるなり。(居士集巻四十四 仲氏文集序)
と言われるのに対応する。
一 50一
また、欧陽脩はもう一つの伝統的な考えを否定する。
画を言ふを善くする者、多く云ふ、鬼神は工を為し易しと。画は形似を以て難しと為すは、鬼神は人の見ざ
お も
ればなりと以謂へばなり。(居士外集巻二十三 題醇公期画)
この形似を重んずる考え方は、言うまでもなく韓非子を意識するものであるが、これに対して欧陽脩は続ける。
然れ
ども、其の陰威滲淡、変化超騰して、奇を窮め怪を極むるに至りては、人をして見れば蝋ち驚絶せしむ。
徐
うにして定め視るに及びては、則ち千状万態も筆簡にして意足る。是れ亦た難しと為さざらんや。此の画、
妙本より伝ふと錐も、然れども其の筆力は精動、亦た自ら嘉処有り。(同右)
ここでは、形似からは明らかに遠ざかっている。これは蘇載の有名な句、
画
を論ずるに形似を以てするは 見 児童に那す
(蘇文忠公詩合註巻二十九 書鄭陵王主簿所画折枝)
(16)
に
先行するものとして注目すべきであろう。そしてさらに注目すべきは、「筆簡意足」である。この文句において、
欧陽脩には「聖言簡」が連想されたであろうことは想像に難くない。とすると、「(文)簡而有法」と「筆簡而意足」とが
対応すると考えられよう。そこで「意」の重要性が浮かび上がってくる。この「筆簡意足」は欧陽脩の創見ではない。
張呉の
妙、筆纏かに一二にして、像は已に応ぜり。点画を離披し、時に欠落を見る。此れ筆は周からずと錐
も、而れども意は周し。(歴代名画記巻二 論顧陸張呉用筆)
しかし、問題はこの「意」の内容である。
粛条淡泊、此れ画き難きの意なり。(試筆 鑑画)
一51 一
ここで「粛」と「淡」が現れる。ここにおいて、先に考察した竹松というモティーフの重要性が明らかとなるで
あろう。というのは、この欧陽脩の「講条淡泊」は、明らかに彼の言う「天真」、彼の考える「君子」のイメージ
⌒17)
なのである。さらにまた、次の如き詩がある。
古画
意を画きて形を画かず 梅詩 物を詠じて情を隠す無し
形
を忘れ意を得ること 知る者少なし 詩を見ること画を見るが如くするに若かず
(18)
(居士集巻六 盤車図)
ここに言われる詩画の同一視から考えれば、当然、描かれる「意」の中心となるのは、先に詩の考察で見た「淡」
で
あることは明らかであろう。即ち、欧陽脩における詩作の意義は、絵画の持つ意義と同じであり、これまで見
て
きた「粛条淡泊」の持つ意味から、欧陽脩が詩において「淡」を強調する理由もおのずと明らかとなるであろ
う。また、この詩の続きの部分、
乃
ち知る 楊生は真に奇を好むを 此の画此の詩兼ねて此れ有り
楽しみは能く自ら足れば乃ち富為り 宣に必ずしも金玉名高の賀あらんや
朝に画を看 暮に詩を読む 楊生此れを得れば飢ゑざるべし
に
お
い
て
は、作文に関しては徹底的に排除すべきであった「好奇」が、堂々と賞賛の言葉として用いられている
ことが注意を引く。この「自足」は先に見た「自適」にあたるが、それは欧陽脩に先立つ張彦遠においても、
画は又た 意に逮ばず。但だ以て自ら娯しむのみ。夫の熱熱汲汲として名利の胸中に交x戦ふ与りは、亦
た猶ほ賢ならざらんや。(歴代名画記 論鑑識収蔵購求閲玩)
一 52一
と主張されるものである。しかし張彦遠ではまだ単に「名利を求めるよりは」という消極的な意味づけに止まっ
て
い
るが、欧陽脩はそれに対して「至楽」という積極的な意味づけをした点が重要である。またこの詩に言う詩
画の
同一視は、蘇載の著名な
摩詰の
詩
を味わうに、詩中に画有り。摩詰の画を観るに、画中に詩有り。(茗渓漁隠叢話前集巻十五引)
に
先行
するものであり、注目されねばならない。欧陽脩は蘇載の如く、
古来 画師は俗士に非ず 妙想 実に詩と同出す (蘇文忠公詩合註巻三十六 次韻呉伝正枯木歌)
と明言して、画家の文化的地位を引き上げるまでには至らなかったが、原理的には蘇載の考えの基盤となったと
言ってよいであろう。凡そ絵画には「経」は存在せず、まして「師法」も存在しない。そしてこの「無経無師」
こそが、絵画を君子の楽しみと中国人が認めることが出来なかった大きな理由であると考えられる。画家に対す
る一種の蔑視は、例えば閻立本や韓滉に対する次のような文に見える。
(閻立本)退きて其の子を戒めて曰く、吾れ少きより書を読み詞を属るを好むも、今は独り丹青のみを以て
知
らる。廟役の務めを躬らし、辱しめ焉より大なるは莫し。爾宜しく深く戒むべし。此の芸を習ふこと勿れ
と。(歴代名画記巻九)
(韓滉)絵事は急事に非ざるを以て、自ら其の能を晦まし、未だ嘗て之を伝へず。(旧唐書巻百二十九)
(19) (20)
この「絵画は君子の芸にあらず」という思考は、「君臣事 」たる冊府元亀にもこの二条が載せられていることが
(21)
端的に
示
す様に、宋代当時においても根強く残っていたと想像される。その様な時代においては、以上の如き欧
陽脩の意見は重要である。
一 53一
今一つ問題としたいのは、いわゆる老荘的な絵画論である。張彦遠は言う。
物我両つながら忘れ、形を離れ智を去り、身は固より槁木の如くならしむべく、心は固より死灰の如くなら
しむべくんば、亦た妙理に榛らざらんや。所謂画の道なり。(歴代名画記 論画体工用揚写)
これは言うまでもなく荘子斉物論に基づく考え方である。しかしこの「稿木」「死灰」という言わば老荘的「至人」
の
状態
は、先に書において見た如く、欧陽脩が否定する所のものであり、欧陽脩においては、「情性」を害さない
という意味の上で「至楽」が語られるのみである。そして、あくまでも「粛・淡」という「意」、即ち「君子」の
意
を描くことが最重要視される。この点に儒者欧陽脩と老荘的絵画論との間の決定的違いがあるのである。
結語
欧陽脩の学問論を貫くものは、「簡」であった。従って、彼の芸術論においても「簡」は重要な意味を持つ。し
か
し、所詮芸術は「簡」だけでは説明しきれない。欧陽脩はそこで「天真・至楽・淡」等の概念を持ち出す。と
ころがこれらは一見老荘に基づく概念であるから、これらの概念をそのまま使ったのでは玩物喪志と批判を浴び
る危険がある。そこで欧陽脩は微妙な読みかえを行う。それが本文で見たような顔回との関連である。後の中国
書画論史上において、この欧陽脩の「粛条淡泊・天真」が無造作に使われていくわけだが、その意味づけ、即ち
書画を君子の営みとして認め得るものにしたことを本稿は明らかにし得たと思う。また、それによって、「無経無
師」であるという欠点を持った絵画に対して、儒者の立場から正当化を行った意味は大きい。それは『歴代名画
一 54一
記』がなし得なかったことであり、画論史上において画期的なことと言わねばならない。
しかし、蘇載の「天真」・米市の「平淡天真」と欧陽脩の「淡・天真」とは、微妙な違いを持つ。即ち、蘇載に
(22) (23)
お
いて
は「信手自然」、米帝においては「不装巧趣」がその理念を表しており、欧陽脩の考えとの相違点はまた
綿密な考察を要する問題であり、これに関しては次稿に期したいと思う。
注(1)
(2)
(3)
(4)
この「簡」が欧陽脩の作文観を貫くわけだが、後世二十二史剤記が批判するのを待つまでもなく、既に容斎随筆・鶴
林玉露等においてそのあまりにも「簡」を尊んだことが批判されている。
此の
「簡直」という思考法から疑問を投げかけられるものに周礼がある。
然漢武以為漬乱不験之書。何休亦云六国陰謀之説。何也。然今考之、実有可疑者。………夫為治者故若是之煩乎。
(居士集巻四十八 間進士策三首(第一首))
詩本義においてしばしばあらわれる「人情に近からず」という欧陽脩の批判は、この簡直ー新奇の考え方と関係が深
い。
是以尭舜三王之治、必本於人情、不立異以為高。(居士集巻十八 縦囚論)
即
ち欧陽脩の考え方は r
大抵南北所為章句、好尚互有不同、………南人約簡、得其英華、北学深蕪、窮其枝葉。(北史巻八十一 儒林伝序)
一 55一
(5)9 87 6 ) ) )
12 11 10
に
言われる「南人」型注釈が合致する。
そしてその考えから緯書も排されることになる。
如河図洛書、怪妄之尤甚者。(居士集巻四十三 塵氏文集序)
しかし、現実的な問題としては、緯書を完全に排することができないこと、次の朱子の欧陽脩批判に見られる如くで
ある。
夫以河図洛書為不足信、自欧陽公以来已有此説、然終無奈顧命・繋辞・論語皆有是言。(晦庵先生朱文公文集巻三
十八 答衰機仲第一書)
凡
そ雑説を排さんとする態度は、その『詩本義』なる書の命名に明らかである。
漢
興、魯申公為詩訓詰、而斉韓固生、燕韓生、皆為之伝、或取春秋、采雑説、威非其本義。(漢書芸文志 六芸略)
欧陽脩が「平淡」と使う例は、梅聖愈墓志銘(居士集巻三十三)のみではなかろうか。
文に
つ
い
て欧陽脩が「淡」と言わぬわけではない。例えば、居士集巻二・読張李二生文贈石先生、居士集巻九・読書
に
見られる。
欧陽脩の自覚はともかく、彼の詩が平易だと一般にみられていたことは確認でき、
或疑六一居士詩、以為未尽妙、以質於子和 子和云、六一詩只欲平易耳。(菖渓漁隠叢話前集巻三十引雪浪斎日記)
朱子に「平」と言わしめたのも、うなづけないことではない。
い
わ
ゆ
る「積善余慶」を欧陽脩は認めないわけではない。
為善之効無不報、然其遅速、不必問也。故不在身者、則在其子孫、或晦於当時者、必顕干後也。
同様の発想が易童子問(巻↓)にも見える。
聖
人、人也。知人而巳。天地鬼神不可知者、故推其 。人可知者、故直言其情。
法言・吾子篇の引用であるが、この「続」字は、このままでは注栄宝が指摘するように、意味が通じず、注栄宝が「抗」
一 56一
A1413(15)
(16)
(17)
1918) )
字に改めるのに従って、「けつる」と訓じておく。詳しくは法言義疏巻四を参照されたい。なお、この法言の文は、
試筆・用筆之法にも引かれ、そこでは「別(けずる)」に作っている。
但裸石先生文集巻十五 答欧陽永叔書
以
上、同様の考えが夢漢筆談に見え、欧陽脩が批判する世の書の状況を確認することができる。
予従子遼喜学書、嘗論日、書之神韻、得之於心、然法度必資講学、常患世之作字、分制無法。(巻十七)
後漢書列伝五十六、注
懐慎、有風采之貌也。
説文通訓定声、痩
字亦作凛,又作慎。
欧陽脩のこの「意」と「形」を分ける考えは
琴声錐可聴 琴意誰能論 (居士集巻四 弾琴効貿島体)
琴声雌可状 琴意誰可聴 (居士外集巻一 江上弾琴)
に
見
えるように、琴に対する理念と関係が深い。また書において見た「自適」が琴に関しても語られている。
琴曲不必多学。要於自適。(居士外集巻十三 三琴記)
欧陽脩の「筆簡、意兼条淡泊」は、表面的には
上古之画、 簡意澹而雅正、顧陸之流是也。(歴代名画記 論画六法)
と一致するが、問題とすべきは、本文で述べた如く、その「意」の内容である。
この詩の重要性はつとに沈括の指摘するところである。(夢湊筆談巻十七)
続資治通鑑長編巻六十二 真宗景徳三年 四月
丙子、幸崇文院、観四庫図籍及所修君臣事 、………謂侍臣日、朕此書蓋欲著歴事実、為将来典法、使開巻者動有資
一 57一
21 20
)2322
益也。
巻八百六十九
冊府元亀は
景徳四
年九
月戊辰、上謂輔臣日、所編君臣事 、蓋欲垂為典法、異端小説威所不取、観所著篇序、援拠経史、頗尽
体要、………(玉海巻五十四 景徳冊府元亀)
と言われる如く、材を経史に取った書ではあるが、太平御覧巻七百五十が引く旧唐書に載る画家の諸記事と比べると
明らかに厳選している。
東披題祓巻四・題魯公書草(清河書画肪により「乎」字を「手」字に改む)
画史・董源の条
一 58一