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Title 『救荒本草』考 Author(s) 白杉, 悦雄 Citation 中国思想史研究 = JOURNAL of HISTORY OF CHINESE THOUGHT (1996), 19: 211-230 Issue Date 1996-12-25 URL https://doi.org/10.14989/234382 Right Type Departmental Bulletin Paper Textversion publisher Kyoto University

Title 『救荒本草』考 Citation THOUGHT (1996), 19: 211-230 ......『救荒本草』考 白杉 悦雄 はじめに 農 中国における救荒書は、宋代に至ってはじめて出現する。

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Title 『救荒本草』考

Author(s) 白杉, 悦雄

Citation 中国思想史研究 = JOURNAL of HISTORY OF CHINESETHOUGHT (1996), 19: 211-230

Issue Date 1996-12-25

URL https://doi.org/10.14989/234382

Right

Type Departmental Bulletin Paper

Textversion publisher

Kyoto University

Page 2: Title 『救荒本草』考 Citation THOUGHT (1996), 19: 211-230 ......『救荒本草』考 白杉 悦雄 はじめに 農 中国における救荒書は、宋代に至ってはじめて出現する。

『救荒本草』考

白杉 悦雄

じめに

 中国における救荒書は、宋代に至ってはじめて出現する。その後、清末まで多くの救荒書及び救荒部門を含む

農書が著

されたが、後世に影響を与えた最も重要な書といえば、南宋の嘉泰年間(一二〇一~四)に董煩が編纂

した『救荒活民書』三巻をあげて太過なかろう。救荒書という書物の形式や内容は、この書によって確立された

         (1)

といっても過言ではない。『救荒活民書』の基本的な性格は、董煩の自序に「歴代の荒政を編次し、麓めて三巻

と為す。上巻は古を考へ以て今に証し、中巻は今日の荒政の策を条陳し、下巻は則ち本朝名臣賢士の議論施行す

所の、整とすべく戒めとすべく、衿式と為すべき者を備述し、以て緩急の観覧に備ふ」(『救荒活民書』自序)

というように、歴代及び当代の救荒に関する政策や実践例を集成して、為政者が参照しやすい構成にまとめた参

考文献である。後世の救荒書は、この基本的性格をほぼ踏襲する。

 明代になると、救荒概念に大きな変化がおこる。『救荒本草』(一四〇六)によって「救荒植物」という概念が

創立されたためである。それは、救荒書の歴史ばかりでなく、植物研究の歴史においても新局面を切り開く画期

一 211一

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的なできごとであった。

 

「救荒植

物」という新しい概念は、農学における「食用」、本草学における「薬用」という既知の有用性のほ

に、野生植物に「救荒」という新たな有用性を発見することによって成立したものである。換言すれば、身近

な植物

ありながら、それまで農学や本草学の領域の間隙にあって見過ごされていた多くの植物が、「救荒」と

う有用性の発見によって、はじめて知の対象として認識され記述されたのである。

 さらに、『救荒本草』は、「救荒の一助」としての「救荒植物」を、凶歳飢饅に苦しむ民に知らしめるために編

されたものである。従来の救荒書が、為政者の参照に供することを目的として編まれたものであるのに対して、

『救荒本草』は、民に向けて書かれた最初の救荒書であるといってよかろう。『救荒本草』の成立を境に、以後の

救荒書は「荒政」すなわち救荒政策のほかに、「救荒植物」という新しい領域を分化してゆく。

 本稿は、救荒書及び植物学の歴史に新しい時代を開いた『救荒本草』の内容を分析し、さらにその成立にかか

る思想的背景を考察しようとするものである。

一 212一

『救荒本草』の内容及び特徴

 

『救荒本

草』は、明の永楽の初めに、周定王繍の開封府において編纂され刊行された。周定王政府の左長史で

あった下同の序によれば、永楽四年(一四〇六)の序刊である。その後、この版は一時失われるが、開封府下の

      (2)

祥符の人、李濠がその善本を訪求し、晋書按察使の察石岡がこの書を見て嘉みし、巡撫都御史の畢蒙斎に告げ、

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畢蒙斎が

「荒政

に神するところ有り」として刊布させたといわれる(李濠「重刻救荒本草序」)。これが嘉靖四年

(一五二

五)李濠序のある重刻本で、この刊本が最古のものとして現在に伝わる。

 李

濾の序によれば、『救荒本草』はもとこ巻であったが、嘉靖四年重刻本は、上下二巻をさらに前後に分けて

る。『明史』芸文志の農家類は、「周定王救荒本草四巻」と著録する。

 

『救荒

本草』は、『明史』芸文志及び『四庫提要』では、子部農家類に分類されるものであるが、その後、万

          (3)

年間に刻された愈汝為の『荒政要覧』十巻に抄録され、さらに、徐光啓『農政全書』六十巻(一六三九)の荒

政部門に重刻本の全てが収録されて、明末には救荒書として広く流布するようになる。

 

『救

荒本草』の編者周定王朱繍の伝は、『明史』巻百十六に見える。繍は明の太祖朱元璋の第五子として生ま

た。成祖永楽帝の同母弟である。洪武三年(一三七〇)に呉王に封ぜられ、十一年(一三七八)に周王に改封

され、十四年(=二八一)に開封に就封する。二十二年( 三八九)に「繍其の国を棄て鳳陽に来る」をもって

洪武帝の

りをかい、京師南京に留め置かれた。許されて帰藩したのは二十四年(=二九一)十二月である。建

初(一三九九)には、「異謀有り」として京師に召還され、禁鋼されたが、成祖が南京に入城するに及んで復

し、永楽元年(一四〇三)正月に旧封の開封に帰藩する。『救荒本草』の編纂はこの頃のことであろう。「国土

夷らかに膿く、庶草蕃庶するを以て、其の鱗饅を佐くべき者四百鯨種を考核し、図を絵き之を疏し、救荒本草と

名」づけた。永楽二年、来朝して駿虞を献上する。この時、「汁梁(開封)に河患有るを以て」、洛陽への改封を

勧められるが、「重ねて民力を労すること無かれ」という繍の固辞により沙汰止みとなった。開封は、その西南

一 213一

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来薬物の産地として知られる中岳嵩山を控える豊かな土地柄であったが、黄河が峡谷を出て、はじめて平野

に流出する出口に当たり、しばしば黄河の決壊によって水害に見舞われることを免れなかった。繍は永楽十八年

(一四

二〇)にも謀反の罪に問われるが、このときは謝罪により、事なきを得た。その没年は仁宗即位の洪煕元

年(一四二五)である。享年未詳。禰は「学を好み、詞賦を能くし、嘗て元宮詞百章を作」り、別に医書『普済

       (4)

方』の著作がある。

 

『救荒本草』は、凶歳飢饅のときに食用に供することができる四百十四種の野生植物を図説した書である。記

される植物の中、百三十八種は従来の本草書にすでに記載されていたものであり、残りの二百七十六種は本書

によって初めて記述されたものである。全体は、伝統的な本草の分類に従って草(二百四十五)・木(八十)・米

(二十)・果(二十三)・菜(四十六)の五部に分けられている。この分類法は、最初の勅撰本草書である唐の

『新修本草』(六五九)から、北宋の『政和本草』(=一六)に至るまで、その植物部において踏襲されてきた

ものである。本草では、さらに『神農本草経』によって確立された上薬・中薬・下薬の三品分類を下位分類とし

て採

用する。ところが、『救荒本草』は、この三品分類を全く独自の分類に置き換えてしまった。たとえば草部

「葉可食」「実可食」「葉及実皆可食」「根可食」「根葉可食」「根及実可食」「根筆可食」「根及花可食」「花可

食」「花葉可食」「花葉及実皆可食」「葉皮及実皆可食」「茎可食」「筆可食」「第及実皆可食」に細分されている。

 本草という学問の在り方、記述の形式は、宋代になると容易にはそこから脱出することのできない強固な伝統

を形成していた。一方、『救荒本草』は、飢餓を救うことが第一の課題であり、本草の記述形式を借用しながら

一 214一

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も、その伝統の拘束力から比較的自由であった。食べられるものと食べられないものを確実に区別するという目

的が、植物を部分に分解させ、新しい分類規準を採用させたばかりか、植物学的記載という点でも『救荒本草』

             (5)

画期的な書となったのである。

 細分類された各部の内部では、「本草原有」種、「新増」種の順に個々の植物が記述されてゆく。各植物は、ま

図示され、ついで文によって説明される。図について、†同の序は、「田夫野老に購ひ、甲堺勾萌する者四百

鹸種

を得て、一圃に植え、躬自ら閲視し、其の滋長成熟するを侯ち、逼ち画工を召して之を絵き図を為らしむ」

という。初版の図は、救荒植物の苗を農夫から買い求め、それを菜園に植えて成長を観察し、画工に描かせたも

ある。また、下同序の後文に、「是の編の作らるるや、蓋し嘉植を辮載し、其の用を没せざらんと欲し、『図

本草』と並びに後世に伝へられんことを期す」という。『救荒本草』が図を採用したのは、『図経本草』を意識

したためであったことが知られる。

 中国の本草史上、図が用いられたのは、唐の顕慶四年(六五九)に『新修本草』が編集されたときにはじまる。

しかし、このときの図は、北宋の頃にはすでに失われていた。北宋の嘉祐三年二〇五八)、『嘉祐本草』を編纂

中であった掌萬錫らは、唐の先例にならって薬図と図経とを編纂することを請い、全国の産薬地に令して所産の

薬物の標本や薬図とともに開花結実、採集時期、薬効などを書いて送らせ、外国品については海港の商人に詞問

し、薬物の標本を送らせた。それを蘇頒が整理編纂したのが『図経本草』二十巻である。嘉祐六年(一〇六一)

完成

し、翌年に刊行された。本草書が図を用いるようになったのは、薬物の真贋を弁別するためであったが、

一 215一

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『救荒本草』はこれを食べられる植物と食べられないものを確実に見分けるために援用したのである。

 図に

つづ

く説明文は次の形式で記述されている。①名称。②原産地、本草記載地名、現生地。③形状。④気味、

情。⑤救飢(食べ方)。⑥治病。以下、草部の葉可食から本草原有の「刺葡菜」と新増の「竹節菜」を例にと

て、記述の特徴をみてゆく。引用文の傍線部分は、すでに本草(『政和本草』巻九、草部中品之下、翼州小葡

根)に記載のある語句である。

⑥⑤④③②①③②①刺葡菜、本草名小鮪、俗名青刺葡、北人呼為千針草。

出翼州、生平沢中、今処処有之。

高尺鯨、葉似苦芭葉、茎葉倶有刺而葉不綴、葉中心出花頭如紅藍花而青紫色。

性涼、無毒、一云、味甘、性温。

救飢、採撤苗葉、燥熟、水浸淘浄、油塩調食甚美、除風熱。

治病、文具本草草部大小蔚条下。

竹節菜、一名翠醐蝶、又名翠蛾眉、又名宣竹花、一名倭青草。

南北皆有、今新鄭県山野中亦有之。

葉似竹葉微寛短、茎淡紅色、就地叢生、損節似初生徽葦節、梢葉間開翠碧花、

状類醐蝶。

一 216一

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其葉味甜。

救飢、採撤葉、

煤熟、油塩調食。

 植物の

名称は、本草原有種であれ新増種であれ、本草と同様に知られる限りの別名が記されている。しかし、

草原有種百三十八種中、三十六種の見出しの名称は、本草書に記載されている植物名ではない。刺葡菜の場合、

草名は「小葡」であり、「刺葡菜」という名称は、本草書の別名にもあげられていない地方名である。このこ

とと、次に述べる産地の記述を考えあわせると、一つの推測が成り立つ。すなわち、『救荒本草』は極めて限定

された地域の人々を対象として編まれた書であり、植物名もその地域に通行していた名称が優先された、という

推測である。

 産地及び現

生地は、本草原有種の場合、歴代の本草書に記載されている原産地・現生地が最初に記述される。

それ

に加えて、全体の中、百七十四種(本草原有種三十八・新増種百三十六)では、「今某某有之」と具体的な

地名が記されている。地名とその出現頻度を以下に示す(表参照)。

一 217一

『救荒本草』に「今某某有之」と記される地名の出現頻度

  

名    出現頻度(本草原有/新増)

鈎州

9 (3/6)

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 鈎州密県

 鈎州新鄭県

輝県

 中牟

 鄭州

 祥符

※南陽府

 氾水県

 榮陽

 許州

※汝南

 古嶋関

翠県

 延津県

2 3 3 5 6  12  13  35  13  691111

(15

/54)

(4/9)

(5/30)

(2/11)

(4/8)

(2/4)

(0/5)

(0/3)

(0/3)

(1/1)

(0/1)

(1/0)

(1/0)

(0/1)

一 218一

 上記の地

名の中、輝県は開封府の北西に隣接する衛輝府に在り、南陽府は開封府の南西に隣接する。汝南は開

封府の

南に隣接する汝寧府に在り、輩県は西に隣接する河南府に在る。その他は全て開封府に在る地名である。

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具体的な地名のほかに、「今慮慮有之」「所在有之」「在慮有之」等の出現頻度が百十五例、「人家園圃中多種之」

「人

家園離中多栽」等の出現頻度が三十九例、ただ「生田野中」というものが五十三例、ただ「生荒野中」とい

うものが十九例ある。これらはみな周定王が『救荒本草』を編纂した当時の収録植物の現生地を示したものであ

る。したがって、『救荒本草』に記載された救荒植物は、周定王の藩である開封府及びその近傍に見られる植物、

及びい

たるところに普通に見られる植物であったことが知られる。このことと、植物名称における地方名の優先

とを考えあわせると、周定王がどのような方針で『救荒本草』の編纂に臨んだかが分かる。彼は自分の領地開封

という極めて限定された地域の民のために、できるだけ実用的で有効なマニュアルを作ろうとしたのである。

 

図を重視すると同時に、『救荒本草』は植物の形状記述にも意を用いている。そして、この点においても『図

経本

草』がその先駆者であった。『救荒本草』に見える形状の記述は『図経本草』からの引用が最も多い。しか

し、記述はしばしば『図経本草』よりも詳細であり、独自の観察によるものが付け加えられている。反面、出

芽・開花・結実の時期については『図経本草』の記載をしばしば省略している。これらはみな、飢饅のさいに、

実に食べられる植物を見分け、食べられる部分を見分けるための実用的マニュアルとして作成されたことに起

因する。だが、結果として、植物学的記述において最高の水準に到達し、その地位は清の呉其溶『植物名実図

考』(一八四八)が現われるまで代わることはなかった。

 本

草では、その成立の初期から、薬の性質は五味(酸・苦・甘・辛・戯)と四気(寒・熱・温・涼)及び有

毒・無毒によって決められていた。五味はもともと食物の味であったものを薬に転用し、それによって薬の作用

を生理学的に基礎づけようとしたものであり、四気は薬性というべきものである。『救荒本草』もこの本草の原

一 219一

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を継承している。本草原有種では、原則として五味・四気・有毒無毒を記している。また、四十二種について

は、薬の配合原理である「七情」にも言及する。新増種では、原則として五味を記し、約一割の二十八種では四

気に

も言及する。ここでも、本草の強固な伝統の影響がうかがわれる。

 

「救

飢」は、野生植物の食べ方を教えるものであるが、刺蔚菜や竹節菜の条にみえるように、「若い苗葉をと

て、よくゆでた後、水に浸してよく洗い、油と塩で味を調えて食べる」といった簡単なものがほとんどである。

飢鐘

という緊急時のことを想定して書かれたものであることを考えれば、簡単であるのが当然であろうが、それ

も日本の場合と比較すると、明代初期の中国人の食習慣をいくぶんかは反映しているように思われる。『救荒

草』の影響を受けて成立した最初の日本の救荒書は、建部清庵『民間備荒録』(一七五五)である。建部清庵

は、「貧民大豆麹を求ることならぬゆゑ、味噌を不食して、木葉草根のみ食ゆゑ、多其毒にあたる者あり、故貧

民の

ために、米枇味噌の法を載するなり」と、六種の味噌の製法を記している。死活線上にあるときにも、中国

人は「油塩」を、日本人は「味噌」を忘れないというのは興味深い。

 最後は

「治病」である。本草原有種の場合は、刺葡菜の条に「文は本草草部の大小葡の条下に具はる」という

ように、本草を参照するように指示している。新増種は原則として「治病」をいわない。ただし、若干の例では、

本草の代用薬及び民間薬としての放用を記載している。たとえば、草部新増の「独掃苗」条に、「治病、今人其

を将って亦た地膚子の代用と作すもの多し」という。その他に水蔓著(地膚子の代用)、草零陵香(零陵香

用)、杜当帰(当帰の代用)、野山薬(薯預の代用)、細葉沙参(沙参の代用)、杏葉沙参(沙参の代用)、望

南(草決明子の代用)がある。みな草部新増種である。民間薬としては、草部新増の「董童菜」条に、「治病、

一 220一

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今人

説すらく、根葉掲きて諸もろの腫毒に傅す」という。その他に螺顯児(治痢疾)、胡蒼耳(治諸般瘡、消

腫)、透骨草(傅腫毒)、蛇葡萄(傅鮎瘡腫)、野西瓜苗(傅瘡腫抜毒)、天茄児苗(傅貼腫毒金瘡抜毒)、無花果

(治心痛)がある。無花果は木部新増種、その他は草部新増種である。

 

『救

荒本草』は、飢えを凌ぐに足る救荒植物を弁別し記載して、その有用性が見失われないようにすることを

目的として編纂された。上述した編輯方針及び記述形式を見る限り、その目的は十二分に達成されたといえるだ

ろう。また、『図経本草』と並んで後世に伝えられることを期した編纂者たちの志も、みごとに実現された。『救

荒本

草』は、救荒植物及び植物学的記載に関しては教科書的地位を獲得し、清末に至るまで、この書の水準を越

るものは現れなかったからである。

二 『救荒本草』成立の思想的背景

                                         (6)

 中国歴代の救荒書及び救荒部門を含む農書は、管見の限りでは二十五点を数えることができる。それらを時代

別に見ると、宋代(三)、元代(二)、明代(十四)、清代(六)となり、明代に成立したものが半数を越える。

しかも万暦崇禎年間のものが十点あり、明末に著されたものが多数を占めている。救荒書の歴史は、その大略を

ば、南宋の『救荒活民書』を境として、先には先秦以来の荒政論議があり、後には明清時代の救荒書があり、

救荒書の作成は明末にその極盛期をむかえる。このような救荒書の歴史の中に、突如として現われたのが『救荒

一 221一

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草』である。その成立に関して、とりあえず二つの疑問が浮かぶ。}つはその特異な内容についてである。も

ちろん、すでに本草が強固な伝統を形成し、くわえて手本とすべき『図経本草』及びいわゆる食物本草が存在し

てい

たことを、大きな要因としてあげることができる。しかし、それらを考慮してもなお、「救荒植物」という

新しい概念の提唱や、それまでの水準を凌駕する植物学的記述、そしてとりわけ民に向けて語られた書であると

うことを考えるとき、『救荒本草』の内容は突出しているといわざるをえない。もう一つの疑問は、明初とい

う成立時期についてである。救荒書が盛んに作成された明末清初まで、まだ約二世紀という長い時間が残されて

るからである。はたして『救荒本草』のような書物が生みだされる特筆すべき情況が明初にあったのだろうか。

本章では、明初という時代の、周定王をとりまく思想的情況を考察することによって、これらの疑問に対する解

を模索してゆくことにする。

『救荒本草』編纂の経緯について、†同はつぎのようにいう。

周王

殿

下、仁を体し義に遵ひ、華華として善を為す。凡そ以て人を済ひ物に利すべきの事、意を留めざる無

し。嘗て孟子書を読み、「五穀熟せざれば、黄稗に如かず」に至り、因りて念へらく、林林総総の民、不幸

して早湧に罹り、五穀登らざれば、則ち以て飢えを療すべき者、恐らくは止だに葵稗のみならざるなり。

筍も能く知悉して諸を方冊に載すれば、巳むを得ずして食を求むる者をして、甘苦を茶齊に惑はず、昌陽を

り、烏壕を棄てしめん。因りて以て五穀の映を神ふことを得ば、則ち豊に救荒の一助と為さざらんや。

(『救荒本草』†同序)

一 222一

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 周

定王は、『孟子』告子篇の文「五穀者、種之美者也。荷為不熟、不如夷稗」に出会って、救荒植物の存在に

気づい

た、というのである。かれは『普済方』を編纂するほどの医学・本草の知識の持ち主でもあったから、直

ちに「夷稗」以外にも救荒植物が存在するはずだ、と考えを進めることができた。後は救荒という有用性をもつ

野生

植物を調査し、記録するだけである。救荒に有益な植物についての知識は、農民たちの経験的な知識のなか

すで

にあった。その作業は、農民たちから四百鯨種の野生植物の苗を買い取り、菜園に植えて成長を観察する

ことによって行われた。ここにおいて、「五穀の敏」を補い、救荒の]助たらんとする救荒書が成立する。しか

も、できあがった書は、民のために民に向けて語られた救荒マニュアルという性格をもつ画期的な書であった。

 

しかし、古来『孟子』の文を読んだ人は、周定王だけではない。四書の権威が確立する宋代以降になれば、

『孟

子』を読みかつ医学・本草の知識に通じた人は、決して少なくなかったはずである。とすれば、『救荒本草』

成立

を周定王の個人的な資質に還元する†同の序文は、われわれに歴史の中の幸運な偶然を告げているだけで

ある。民のための救荒マニュアルの作成という画期的なできごとの背景は、少しも浮かびあがってはこない。

一・ 223一

 背景を探るてがかりの一つは、周定王の父である朱元璋の生い立ちにあるように思われる。明の太祖朱元璋は、

純粋の庶民

出身である。貧農の家に生まれた朱元璋は、十七歳の年に飢饅と疫病のために父母と兄を失っている。

飢え

しむ農民たちの姿は、周定王の家族の歴史に刻みこまれていたものであった。さらに、王室の一員とし

て育

ち自身には飢餓の経験はなくとも、この家族の歴史を周定王に忘れさせない事情が、明初には存在していた。

それ

は、明王室の教化政策である。

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 明

朝は歴代王朝のなかでも徹底した教化政策を採ったことで知られる。教化方針は、主に儒教の説によるが、

さらに古くから中国の民間信仰及び規範意識を貫いて行われていた因果報応思想によって勧善懲悪を説き、それ

を民衆に実践させる方策がとられた。こうした規範意識や道徳実践の態度は、儒教・道教・仏教を混合した民衆

                                   (7)

宗教一般の傾向でもあり、少なくとも宋代以降民間に広く見られたものであった。民間から起こった朱元璋は、

自分が育った道徳的基盤である民間信仰や民衆道徳を大量に採用し、王室及び臣民の教化に利用したのである。

 

明朝の教化政策の特徴は、勅撰勧戒書・道徳書を通してうかがうことができる。勧善懲悪を説き教化を意図し

諭や訓戒書が勅撰されたのは、歴代王朝のなかでは明朝が最も著しいといわれる。酒井忠夫氏は、『皇明実

録』、『明史稿』芸文志、『明史』芸文志及び諸書目から、明朝の勅撰道徳書の主なものを五十六点抄出列挙し、

                (8)

教化という観点から説明を加えている。以下、いくつかの特徴をひろいあげて、周定王をとりまく思想的環境を

検討する

ことにする。

 まず、明朝の勅撰道徳書は、その半数以上の三十四点が洪武のときに、ついで永楽のときに十点が出されてい

る。教化の対象別にこれを分類すれば、帝王及びその子孫、皇太子、皇妃公主、宗藩外戚、官僚、武臣、臣民一

などになる。そのうち帝王の家と宗族関係を対象とするいわば家訓、族訓に類するものが四十二点に達し、宗

教化が重視されていたことがうかがわれる。しかも、それらの多くは明初の洪武:氷楽の両代に出されてい

た。 

つぎ

に、その内容であるが、これらの教化の書は、いずれも勧善懲悪の意図をもって作られ、善悪二類に分類

してその意図を明示した体裁をとるものも多い。こうした勧善懲悪の方式は、三教一致的な民間信仰のなかで広

一 224一

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く行われていたものである。明代の教化のための勅撰書には、この民間の因果応報思想による規範意識の方式が、

その

まま採用されたものを含んでいるのである。

 三つ

めの特徴として、図説の体裁の採用と俗語の採用とをあげることができる。図説の体裁を採用したものに

『外戚事鑑』と『帝鑑図説』とがある。

 

『外戚事鑑』は、宣徳元年(一四二六)四月に作られ、外戚に頒賜された。御製序によれば、漢以来の歴代の

外戚の

中、七十九人の善悪の跡とその結果得た吉凶の大略を類別して書としたものという。写本で、各人につき

と彩画を載せている。

 

『帝鑑図説』は、張居正が講官の馬自強等に歴代の事例を考究させ、その「善可為法者八十一事」「悪可為戒

者三

十六事」を採り、一事ごとに図を加え、さらに伝記本文および解説を付記して成ったものである。隆慶六年

(一五七

二)十二月に進上された。『四庫提要』によれば、本書の成ったときは穆宗(一五六七~七二)の没後で、

神宗はなお幼少であったため、その記述は理解しやすい文章で書かれ、僅俗であると評されている(史部史評類

存目二)。

 

図説の体裁は、宋元時代にも行われていたが、とくに明代に民間で流行していた形式である。図説の体裁を採

用して理解しやすい形としたことについて、『帝鑑図説』の撰者である張居正は、つぎのように説明している。

  且

目に触れ感を生ぜしめんと欲し、故に像を丹青に仮り、但だ明白にして知り易きに取り、故に僅俗を嫌

  は

ず。条目は僅かに百鯨に止まると難も、而れども上下数千載の理乱の原、略ぼ備はらんことを庶幾ふ。

  (『張文忠公全集』奏議三進帝鑑図説疏)

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 また、明代の勅撰勧戒書には、俗語をもって書かれたものが少なくない。『四庫提要』では、『公子書』は「其

詞較永鑑録尤裡浅。蓋以訓開国武臣之子弟、故務取通俗云」と、『永鑑録』は「以俗語演之、取其易通暁也」と、

『歴代鮒馬録』は「亦演以俗語」(以上、子部雑家類存目八)と評されている。

 俗語が採用された理由は、『四庫提要』がいうように、「開国の武臣の子弟に訓ふるを以て、故に務.めて通俗に

取」ったためであるが、それは太祖朱元璋の教化にたいする態度に由来するものであった。『明実録』(呉元年前

一年丙午十↓月壬辰条)は『公子書』および『務農技芸商買書』の成立の事情についてつぎのようにいう。

  上

(朱元璋)之(熊鼎・朱夢炎)に謂ひて曰く、公卿貴人の子弟、書を読むこと多しと難も、而れども奥義

  

に通暁すること能はざれば、古の忠良好悪の事実を集めて、恒辞を以て之を直解し、観る者をして暁り易か

  

らしむるに若かず。他日縦ひ学成ること無くとも、亦古人の行事の以て勧戒すべきを知らん。其れ民間の農

  工

商賢の子弟も、亦書を読むを知らざるもの多し。宜しく其の当に務むべき所の者を以て、直辞もて解説し、

  農技芸商買に務むるの書を作り、之をして大義に通知せしめ、もって民を化し俗を成すべし。

 

「図

説」形式の採用や「俗語」による「直解」の採用は、これらの勅撰勧戒書が広く民間に浸透してゆく起縁

ともなった。明末に善書思想が下層士大夫層や民間で盛んに行われるようになる発端は、まさに明初にとられた

教化方針

にあったといえる。

一 226一

 上

した明初の勅撰道徳書の特徴と周定王の『救荒本草』との影響関係を考えてみよう。『救荒本草』の成立

は、永楽四年(一四〇六)であるが、この年までに完成・刊行された勅撰道徳書は三十九点にのぼり、そのうち

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宗族関係を直接対象にするものは十九点ある。太祖朱元璋の第五子として生まれた朱繍が、いかに濃密な道徳的

雰囲気のなかで成長したか、想像するに難くない。しかも、道徳教化の内容は因果応報思想にもとつく勧善懲悪

の実践を主とするものであった。

 そ

もそも救荒書は、南宋の董煩『救荒活民書』のときから禍福応報思想とかかわりの深いものであった。『救

活民書』巻三の末尾には、四話の「救荒報応」説話が収められている。説話を収録する意図について、董燗は

なに

も語っていないが、説話の内容から、救荒を積善の一行為として推奨しようとしていることは明らかである。

さらに想像を逞しくすれば、救荒書を著述することそれ自体を、陰徳を積む行為であると考えていたのかもしれ

ない。南宋時代は、後世善書の鼻祖として最も重んじられ、明末清初の功過格の流行に大きな影響を与えた『太

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感応篇』が広範に流伝し受容され、禍福応報思想が一大思潮となっていた時代だからである。

 もう一つの情況証拠は、善書の歴史的展開と救荒書のそれとの符合である。善書は『太上感応篇』をはじめと

して数多く著わされたが、その流通は明末清初を頂点として、明清時代にその極盛期をむかえる。これは、本章

じめに述べた救荒書の歴史とぴったりと重なり合う。すでに述べたように、明末に善書思想が下層士大夫層

間で盛んに行われるようになる発端が、明初の教化方針にあったとすれば、朱元璋の子である周定王が、明

末に

頂点

をむかえる救荒書の歴史を遥かに先取りするように、『救荒本草』を編纂し、以後の救荒書の歴史に一

つの

画期

をもたらしたことも、いくぶんかは了解しうるのである。

 勅撰道徳書の述作態度と『救荒本草』のそれとの間にも相通ずるものが見られる。前章で述べたように、『救

荒本草』の特徴の一つは、食べられる野生植物と食べられないものを確実に見分けるために、図と説明の双方を

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重視

したことにある。これは、直接には『図経本草』に倣ったものである。しかしながら、『救荒本草』は農民

に教えることを前提して編まれたものである。それは降って十六世紀後半に、張居正がいまだ「沖齢」なる神宗

めに、「目に触れ感を生ぜしめんと欲し、故に像を丹青に仮り、但だ明白にして知り易きに取り、故に僅俗

を嫌はず」とした述作態度に通ずるものであり、それを遥かに先取りするものであった。両者はともに、「観る

者をして暁り易からしむるに若かず」という太祖朱元璋の実践的な教化態度を継承しているといえないだろうか。

 

『救荒本草』のもう一つの特徴に、植物名に関して先行する本草書に記載される名称よりも地方名を優先した

ことがある。もし『救荒本草』が学術書として編まれたものであれば、当然本草名が最初に掲げられたであろう。

しかし実際は、その植物に地方名がある場合には、本草名よりも先に掲出されている。これは『救荒本草』が飢

饅のさいの実用的マニュアルとして編纂されたことに由来する。†同はそのことを誇らかに宣言する。「萄も或

荒歳に用ゐらるれば、其の人の功利に及ぼすや、又薬石の擬すべき所に非ざるなり」(『救荒本草』下同序)。

この地方名の優先もまた、「恒辞を以て之を直解」すべし、という太祖朱元璋の実践的な態度の延長上にあるも

といえるだろう。

一 228一

 

『救荒

本草』は、王室の子孫や宗族にたいする明初の教化策の影響を色濃く受けて成立したものであったと考

る。そのように考えれば、明初という時期に、民のための、民に向けて書かれた救荒書が成立した理由も、ほ

了解しうるだろう。また、『救荒本草』の他の特徴も、実践的な教化態度とのかかわりのなかで理解すること

                         而}

がで

きるだろう。さらに、中国の歴史を貫く善書思想の流れのなかに、救荒書の歴史を重ね合わせてみるとき、

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明初はまさに『救荒本草』という稀有な書物の出現を可能にする条件が整えられた時期であった。後は結晶の核

となる人物が必要なだけである。われわれは、もう一度†同の序文に戻らなければならない。

  周王

殿

下、仁を体し義に遵ひ、華華として善を為す。凡そ以て人を済ひ物に利すべきの事、意を留めざる無

  し。

りに

 

『救荒本

草』は、本草及び食物本草という実用書の伝統のなかで成立したものである。周定王は領地開封府と

う、ある限られた地域の民のための実用的なマニュアルとして『救荒本草』を編纂した。ただし、その地方性

は、野生植物に「救荒」という新たな有用性を発見し、「救荒植物」という新しい概念を創立したことによって、

はじめから超克されていた。そのことは、後世の中国ばかりでなく、日本においても盛んに受容され、教科書的

                   ⌒11)

役割を果たしたことによって証明されている。

 

『救

荒本草』の成立には、また、明初の実践的な教化方針の影響が見て取れた。明初の教化政策は、宗室の教

を重視し、禍福応報思想によって勧善懲悪を説き、しかもその実効を得るために、図説の体裁や俗語を採用す

るなど、極めて実践的なものであった。とりわけ、積善を説く禍福応報思想は、救荒書の歴史全体にとっても、

また民のための救荒マニュアルとしての『救荒本草』にとっても、重要な役割を果たしていたと考える。『救荒

草』成立の思想的背景に禍福報応思想があったとすれば、『救荒本草』の成立は、明末に頂点をむかえる救荒

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書の盛んな述作

を先取りし、それを予測するものであった。

られた最初の救荒書が成立した。

くして、飢餓に苦しむ民のために、民に向けて語

(1) 白杉「董婿『救荒活民書』の成立とその受容史」参照。『中国技術史の研究』所収、京都大学人文科学研究所、印刷中。

(2) 『明史』巻二八六、文苑二、「李濠、字川父、祥符人。挙正徳八年(一五二二)郷試第 、明年成進士。授汚陽知州、

  梢遷寧波同知、擢山西愈事。嘉靖五年以大計免帰、年纏三十有八」。

(3) 愈汝為、字毅夫、華亭の人、隆慶五年(一五七一)進士。その伝記は、『松江府志』巻五四、古今人伝六に見える。

{4) 『明史』芸文志・子部・芸術類、「周定王普済方六十八巻」。『四庫全書提要』子部・医家類二、「普済方四百二十六

  巻」。

(5) 山田慶見「効分け・食分け・見分けー本草から博物学へ」参照。山田慶見編『物のイメージ 本草と博物学への招

  待』、朝日新聞社、↓九九四。

(6) 白杉、前掲論文、付録資料参照。

(ヱ 明朝の教化策については、酒井忠夫『中国善書の研究』第,一章参照。弘文堂、一九六〇。

⌒8∀ 酒井、前掲書、八~二七頁。

(9) 白杉、前掲論文、参照。

(10) 酒井、前掲書、第五章参照。

(11) 白杉「[口本における救荒書の成立とその淵源」参照。山田慶見編『東アジアの本草と博物学の世界』上巻所収、思文

  閣出版、一九九五。

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