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Title ブレイク最初期の彩飾画本を見る/読む : 『自然宗教は存在 せず』 のヴィジョンについて Author(s) 中川, 一雄 Citation [岐阜大学教養部研究報告] vol.[23] p.[157]-[175] Issue Date 1987 Rights Version 岐阜大学教養部 (Faculty of General Education, Gifu University) URL http://hdl.handle.net/20.500.12099/47620 ※この資料の著作権は、各資料の著者・学協会・出版社等に帰属します。

Title ブレイク最初期の彩飾画本を見る/読む : 『自然宗教は存 …repository.lib.gifu-u.ac.jp/bitstream/20.500.12099/47620/...Title ブレイク最初期の彩飾画本を見る/読む

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  • Title ブレイク最初期の彩飾画本を見る/読む : 『自然宗教は存在せず』 のヴィジョンについて

    Author(s) 中川, 一雄

    Citation [岐阜大学教養部研究報告] vol.[23] p.[157]-[175]

    Issue Date 1987

    Rights

    Version 岐阜大学教養部 (Faculty of General Education, Gifu University)

    URL http://hdl.handle.net/20.500.12099/47620

    ※この資料の著作権は、各資料の著者・学協会・出版社等に帰属します。

  • ブ レイ ク最初期の彩飾画本を見る/ 読む

    157

    『自然宗教は存在せず』 のヴィ ジ ョ ンについて

    中 川 一 雄

    On theVision in The犯 is IV’o Na胎ml Religioll

    Kazuo NAKAGAW A

    岐阜大学教養部(1987年10月12日受理)

    Looking/ Reading Blake’sEarliestmuminatedWorks

    lsaiah answer’d : “l saw no God, nor heard any, in a finite

    organic perception ; but my senses discover’d the infinite in

    every thing. 。 。 。

    ( TheMの7毎geof Heo a 皿d Hd )

    I

    よ く 知 られているよ うに, ブレイ ク (W illiam Blake1757- 1827) は1788年ごろに彼独 自の彫版

    技法を完成させ, それ以後, 英文学史上まれにみる美し さの, だが時に極めて難解な作品を産出し

    ていった。 この技法は彩飾印刷画法 (the muminated Printing) と呼ばれるもので, ブレイクに

    言わせる と, 前年二月に死んだ愛する弟ロバー トが夢のなかに現われ新たな印刷画法を教えて くれ

    た とのこ とである。1) つま りは, 幻 視のなかで技法が生まれたのである。このヴィ ジ ョ ンがはた して

    われわれ (のよ うな一般の読者) の視 野にも像を結ぶ可能性のあるものなのか, あるいはブレイ ク

    とい う幻想家にしてはじめて明視されるものであるのか, この点は実はブレイ クを読む上で重要か

    つ興味ある問題なのであるが, 最後にふれたいと思 う。

    さて, このよ うなブレイ クのヴィ ジ ョ ンが生み出すキャ ノ ンの歴史的先頭に位置するのが, これ

    からと りあげる 『自然宗教は存在せず』 の二つのシ リーズ ( Tk yeisNoNαh4ml Rd槍ioM [ a] ,

    [ b] , c. 1788) と 『あらゆる宗教はひとつ』 (Aa RdgionsA粍 Om, c. 1788) である。 これ

    ら三つの作品群は, ブレイ クの彫版技法の特徴やその発達を探るさいの重要な資料 とみなされてき

    た。 また , その主題面については, あのフ ライ (Northrop Frye) 以来たびたび指摘されて きた こ

    とであるが, 2) これらの作品は, 自然宗教一 理神論 (Deism) にたいする痛烈な批判と これに対置

    させるべ き詩霊 (詩的想像力) の提唱とい う, ブレイ クの生涯を通しての基本思潮を正面から と り

    あげてい る。 タ イ トルと彫 り込まれた主要な語句をつな ぐだけで も このこ とは明らかと思われる。

    すなわち, 「この世に, 理性を万能の指針とするよ うな理神論, 自然宗教などは存在しない。 あるの

    は詩霊 (“thePoeticGenius”) だけであ り, この詩霊を源にお く とい う点ですべて この世に存在す

    る宗教は等 し く 同じ ものである」 と。

    たし かに ブレイ クは, ハダス ト ラ ム (JeanH. Hagstrum) がかつて明快に述べた よ うに, ロ ック

  • (JohnLocke) に代表される経験主義理性論を, そ してそれにも とづ く理神論一 自然宗教を, そ

    して さ らにはこれを倫理的宗教的基盤とする啓蒙主義 (the Enlightenment) を終生批判しつづけ

    た 。3)

    つま り, ブレイクのキャ ノ ンは全体と して 「理性」 を批判しつづけたのであ り, またその対立項

    と して 「想像力」 を唱えた。 そ して, この 「理性」 対 「想像力」 とい う基本的な二項対立が, 最初

    期の三部作では 「哲学的 ・経験的なるもの」 (“thePhilosophical& Experimental“) 対 「詩的 ・予

    言的本質」 (“thePoeticor PropheticCharader”) とい うかたちで明示されている。 これら三つ

    の彩飾画本は, 端的に言えば, ブレイクの作品全体が伝える基本y ツセージの要約であると も考え

    られよ う。

    しかし, その散文アフ ォ リズムの断片性や絵の未熟さや実験 く さ さから く る全体 と しての未完性

    が原因であろ うか, これらの最初期の絵と文字からなる複合テクス トにたいして十分な吟味がほど

    こされて きた とは言いに く い。 「初期の小冊子」 ( “theearlytractates”) とひとからげに呼び慣 らわ

    され, ブレイクの基本的な認識論や反 ロック的スタ ンスを述べるさいに, その散文テクス トが言及

    されてきたにすぎない。 と く に, 絵テクス トの読解 (見る/ 読む) という点では, 批判のエソ トロ

    ピイがずいぶん蓄積されていると思われる。

    そこで, この小論ではつぎのようなことを考えてみたい。まず, 『自然宗教は存在せず』 [ a] , [ b]

    とい う こ とばと絵からな りたっている最初期の複合テクス トの読解, と く に眼による理解を進めて

    いく 。 つぎにこの複合テクス トを見る/ 読む過程のなかから, ブレイ クのヴィ ジ ョ ンのあ りよ う と

    それにたいするわれわれの見方 ・読み方を考えてみたい。 そして, 絵テクス トの理解の過程は, 文

    字テクス トで強 く批判されている経験主義的なす じみちをたどらざるをえないとい う, 最初期の複

    合テ クス トが内在させている 「 逆 説」 を浮かびあがらせてみよ う。

    II 丿

    158 中 川 一 雄

    人の人物によって, 着衣一 裸体, 老い一 若さ, 上方 下方 とい う 「対立項」 が示されている

    では具体的に 『自然宗教は存在せず』 [ a] から見, かつ読んでいこ う。4) 解説的で少 長々広舌に

    なるが, 図版ごとの評釈が未だ十分に行われていない批評状況からすれば多少大目にみて も らえよ

    うかと思 う。

    まず最初に 「口絵」 の図版 (pl. 1参照) がく る。5) ところで俎上にあげている作品は, 基本的には

    十六世紀以来英国に流布した 「寓意画集」 (theEmblemBook) の流れを く むものと考えられ, 6) こ

    の意味で 「口絵」 やタ イ トルペイジは重要である。 とい うのも これらは, 「寓意画集」 においては,

    後に続 く 図版全体の 「要約」 の役割を担わされているからである。 「口絵」 の絵テクス トには二組四

    人の男女が登場 している。 一組は樹の根元に腰かけた老いた男女であ り, 男は長い髪をたjくわえ下

    方を見ている。 女の方は頭巾を被 り上方に視線を なげかけている。 二人と も衣服を まとっている。

    一方右手には二人の裸体の若者が立ってお り, 左側の人物は上方を見つめ, 右側のそれは下方を見

    ている。 さ らに, この最後の若者の左手は樹がかたちづ く るアーチと一体化 している。 背景は, 四

    人を囲むアーチ状の樹木であ り, 遠方の田園風景である。

    同じ頃に彫版された 『セルの書』 ( Tk BOOk Of Thd√口翻 ) に頻出す る牧歌的自然世界がこ こ

    に描かれているのだが, この世界を端的に表わしているのは樹木である。 樹木は [ a] シ リし ズの

    全図版 ( タ イ トルペイジを除いて) に登場し, 3枚 目 (pl. 3) と 7枚 目 (pl. 7) 以外はすべてアー

    チ状に描かれている。 この 「口絵」 の自然の緑のアーチは, 続 く タ イ トルペイジのゴシ ック ・ アー

    チとの 「対比」, 「対立」 状態を表わしているだが, このアーチのなかにも対立が存在している。 四

    のだ。 ブレイク好みのこの 「二項対立」 は後の図版にも登場する。 3枚 目の親一 子, 立像一 臥

  • 159ブレイ ク最初期の彩飾画本を見る/ 読む

    像, 5枚 目 (pl. 5) の母一 子, 着衣一 裸体, 6枚 目 (pl. 6) の天使一 人間, 上方

    As the true method of knowledge is eχperiment the true

    faculty of knowing must be the faculty which experiences・

    This faculty l treat of.

    ( £ 1)

    下方な

    どである。 こ うしてみる と, 要約機能を も った 「口絵」 が伝えているこ とは, 自然のなかでの二項

    対立である と言えよ う。 つま り, 自然のなかの人間の二通 りの存在様式が示されているのだ。 だが,

    もちろん, ブレイ クに言わせれば, 自然界にあっては人間の認識は制限を うしけその発展が妨げられ

    る。 「自然のままでは, 人は感覚に従属した 自然の感覚器官で しかない」 (“Naturallyheisonly a

    natural organ subject to Senseグ “T heArgument,” pl. 3) と い う文 字 テ ク ス ト か ら も こ の こ と は

    明らかであろ う。

    「口絵」 の自然のアーチとあざやかな対比をみせるのがタ イ トルペイ ジ (pL2) のゴシ ック・アー

    チである。 この二つのアーチは, 表面的には 「自然」 (牧歌世界) と 「人工」 (教会) の対立を見せ

    ているのだが, 背後には 「自然なるもの」 と 「霊的なるもの」 の対比が存在している。 下方へ人間

    を囲い込む 「自然」 のアーチにたいして, 人間を上方へ統一的に (尖頭アーチであるこ とに注意)

    押しあげる教会の 「霊的」 な ゴシ ック ・アーチが対置されているのだ。 「自然なる もの」 とは, 自然

    の感覚器官に従属し, 感覚による認識を理性によって統御する ロック的人間であ り, そ してそのよ

    うな人間の精神がっ く りだす 「自然宗教」 (Natural Religion) である。 これにたいして ブレイ ク

    は, 後の図版において, 「自然なるもの」 の限界を示す 「教育」 (“Education,” pl. 3) を し, 無限の

    「霊的なもの」 に読者をめざめさせよ う と している。

    よ く知 られているよ うに, ブレイ クにと って ゴシ ックは 「生命ある形象」 であ り 「永遠の存在」

    であった。7) そ してこのゴシ ック・アーチは生命力を も った隠喩としての 「認識の扉」 を意味し, そ

    の扉の向こ うには 「霊的」 な永遠の存在があるのだ。 ゴシ ック ・ アーチのなかに入るこ と, それは

    『自然宗教は存在せず』 のテクス ト世界のなかに入るこ とであ り, 読者の認識のあ りよ うに変化を

    促すこ と (教育すること) である。 ほぼ5 ×4cmの小さなエムブレムを見る/ 読むこ とは, いわば

    巨大なゴシ ック大聖堂のなかに入 り, 霊的なめざめを経験するこ とである。 この霊的覚醒の「経験」

    こそが, 最初期の三つの複合テクス トが訴えているものと思われる。 もちろん, 「経験」とい う こ と

    ばを使 う こ とによって, 経験主義への批判がアイ ロニカルに一層強められているのは言 うまで もな

    い。 『あらゆる宗教はひとつ』 の 「梗概」 ( “TheArgument”) にはつぎのよ うに明言されている。

    と ころで, このタ イ トルペイ ジは読者にさ らに経験をつませよ う と している。「あらゆる知は個別

    的独自的な ものであ り, 細部での独自性を も っている」8)とい うブレイ クのこ とばに従ってみよ う。9)

    アーチのなかのまんなかの人物は左手をあげ, 「霊的」な知を示しているかのよ うである。 その両側

    の人物は中心 (の人物) に向かって祈る姿勢を とっている。 そして文字“is”ど NO”の間には蛇が,

    “NO”の右側には鳥がいる。 左から右へ読解の視線を動かしてみょ う。 理性や「経験」 を象徴する蛇

    ぱ is” ( 自然宗教の存在) を肯定し, 一方天空へはばたかんとする鳥ぱ NO”を強めている。 ここに

    も細部の, だが見事な二項対立が表現されているのだ。 さ らにいえば, ゴシ ック ・ アーチを支えて

    いる柱は教会につきものり パイ プオルガンのパイプ (音楽の象徴) と も, また鷲ペソ (文字の象徴)

    とも見える。 つま りこの柱は音楽的要素と こ とばからなる 「詩」 を象徴している と考えられる。 と

    ころが, 後に続 く 図版で選ばれた形式は散文アフ ォ リズムである。 それゆえ, こ こでは 「詩」 その

    ものとい う よ り 「詩霊」 (“thePoeticGenius” 『あらゆる宗教はひとつ』) や 「詩的 ・予言的本質」

  • ( “ThePoeticor Propheticcharacter” [ b] 第10図版, pl. 19) を柱が示唆している と思われる。

    すでにふれたが, 3枚 目の 「梗概」 の図版 (pl. 3) では文字と絵の両面から 「教育」 の必要性が

    示されている。 文字テクス トでは 「人間の精神の健全さ」 (“moral fitness”) は学ぶものであって,

    自然の感覚器官を通して得られるものではない, と明言されている。 そして, この 「教育」 が今,

    『自然宗教は存在せず』 ( [ aDを見る/ 読むことによって進行中でもあることをこの図版の絵テク

    ス トが示唆している。 体を横にした左の人物も, まんなかの着衣の女性も, 右側の娘らし き人物も

    すべて読んだ り書いた りしている。 つま り 「読み書き」 とい う教育がすすめられているのである。

    この 「読み書き」 一 教育は, [ a] シリーズ他の図版にも描かれている。 6枚目の図版 (pl. 6)

    は, 樹の根元に腰をおろし読み書きしている着衣の男と, そのかたわらで天上を右手で指さ してい

    る天使が登場する。 読み書き (本) 以上に霊的なも,のがあることを天使は男に伝えよ う (教育しよ

    う) と しているが, 男・は気づかない。 いや本に夢中で気づ く ことがで きないかのよ うである。 これ

    は, 男が視覚とか触覚とかという自然なる認識 (natural perception) に頼っているためと思われ

    る。 こ こでの図像ぱ, 読み書きの教育の限界を示唆していると言えよ う。 その文字テクス トは,

    From ajperception of only 3 sensesor 3 elementsnonecould

    deduce a fourth or. fifth

    ( £ 2 )

    中 川 一 雄160

    であ り, もちろん自然の感覚器官に頼る認識の限界を述べている。 しかし, 第四, 第五の感覚の必

    要性を訴えているのではない。 つぎのことばからもわかるように, ブレイクにとって感覚は数量化

    できぬ無限のものであ り, 彼は有限の感覚 (「自然」 なる認識)。を批判しているからである。

    Thedesires & perceptionsof man untaughtby any thing but

    organsofsense, mustbelimitedto’objectsofsense.(£ 2)

    ところが, 「梗概」 (pl. 3) の絵テクス トを も う少し仔細に見るとわれわれの視界も少し違ったも

    のとなる。 母親的人物をまんなかにして両側に子供らし き人物が配されている構図から考えられる

    こ とは, 「真め人間」 (“thetrueMan” 『あらゆる宗教はひとつ』 第 4図版) へのめざめが老いた者

    から若き者へ伝えられる (教育される) ものである とい う こ とだ。 つま り母なる教育によって 「詩

    霊こそが真の人間であるこ と」 ( “ThatthePoeticGeniusisthetrueMan,” 『あらゆる宗教はひと

    つ』 第 4図版) が伝えられでいるのである。 さ らには, この 「梗概」 の絵テクス トでは, 第 4 , 第

    ‥ . e n l a r g e d & n u m e r o u s s e n s e 5 c o u l d p e r c e i v e

    ( Tk Mayyiageof Heαuey1αlld Hdl, 1793, 第11図版, £ 38)

    さ らにこの6枚 目の図版で, 経験主義哲学で頻繁に使用される「演輝する」 ( “deduce”) とい うこ と

    ばを用いている点で, 批判対象へのブレイ クの辛辣さが うかがわれる と言えよ う。

    9枚 目の図版 (pl. 9) にも限界ある読み書き教育が視覚化されている。 ここで横たわって読み書

    きしている人物も上方で花開 く枝, 葉に気づいていない。 なぜなら, 草らし きもの(Nature) がアー

    チ状に下方へ囲い込んでいるからである。 また, 「霊的なもの」 を示されない (“untaUght”) 人間の

    認識は感覚器官が知覚する事物の範囲に限定されてしま うこ とを文字テクス トが示している。

  • 5の図版 (pls. 4-5) とは違って, 人物は朽ちたアーチ状の樹 ( 自然の限界性を象徴) に圧しつぶさ

    れてはいないのだ。, そして文字テクス トの文字も枝 ・葉 ・花と一体化していわば開花しているのだ。

    このよ うに「教育」が花開く草花にも視覚化されているこ とは注意を要する。 『無垢の歌』 (SOllgS

    が 励加じ四鴎 1789) のタイ トルペイジの絵テクス トもこれに酷似しているのだが, 花開く 「自然」

    は決して地に根をおろ していない。 『経験の歌』 (SOUgS oI E刈)eyi四ce, 1794) の 「ああ, ひまわ り

    よ」 ( “Ah! Sunnower”) の詩テクス トのなかの, 地に張 りついた, 出口のない自然の円環構造に閉

    じ こめられている 「ひまわ り」 とは違 うのである。 つま り, 上方で開花する草花は, 限界ある自然

    の隠喩ではな く , 基本的に霊的なものの隠喩なのである。

    こ う して, 絵テクス トのレヴェルで 3枚 目, 6枚 目, 9枚 目の図版を並置してみる と, 教育にも

    二種類あるこ とが示唆されている と言えよ う。 一方は 「自然」 の認識にと どめおかれるものであ り,

    も う一方は 「霊的」 なめざめへと向か うものである。 この二通 りの方向性を付与された 「教育」 こ

    そが 『自然宗教は存在せず』 [ a] シ リヽース全体の本質であり, またブレイクのヴィジ ョソの基本的

    構図の一つである 「二項対立」 を端的に表わしている と も考えられる。

    さて, 4枚 目, 5枚目, 8枚 目の図版 (pls. 4, 5, 8) では, その複合テクス トは協同して機能し

    ている。 文字テクス トが自然人間の限界状態を示し, 絵テクス トがこの状態を視覚化しているから

    である。 第 4図版の文字テクス トは, 自然の感覚器官によっては「真の認識」 (“Perceive”/ 大文字

    で始まっているこ とに注意) が達成されないこ とを伝えている。 そして, その絵テクス トでは, 覆

    いかぶさ って く るアーチ状の樹 と同じ フ ォルムを老人の体がなぞっている。 腰がまが り杖をついて

    自髪の老人 とい う図像は, あの 「ロン ドン」 ( “London7’ SoRgs可 E肩)e百四ce, 1794) や 『楽園の

    門』 ( Tk Gmsof Pamdise√口93) の 「死の扉」 (“Death’sDoor”) にも登場する。 こ ういった こ

    とからわかるよ うに, この図版の絵テクス トは文字テクス トの内容を さ らに推し進め, 「限界」の先

    にある 「衰退」, 「死」 を も示唆している。 老人が見つめている犬も, 現世の肉体的物理的な苦難を

    象徴しているとのこ とである。lo) だが, こ こで もまた, 上方に花開く枝・葉がうね り, 鳥がはばたいて

    いる。 「霊的なもの」 が巧妙に部分的に, かつ対立的に一枚の図版のなかで も配置されているのだ。

    5枚 目の図版(pl. 5) の文字テクス トは, 次に引用するロックの『人間悟性論』 (A筒Ess砂 CoRcem-

    泌g HM琲・m Uudeystalld緬g, 1690) の 4 巻 1章 2 節 の 「逆 説 的 」 な要 約 で あ る 。11)

    161ブレイ ク最初期り彩飾画本を見る/ 読む

    As none by travelling over known lands can find out the

    unknown. So from already acquired knowledgeM an could

    not acquire more. T herefore an universal Poetic Genius

    ここで も ブ レイ クは攻撃対象の論理を逆手にとっている。 上記のよ うな経験主義の認識論をふまえ

    て, 「人間はその理する力によってはすでに自分が知覚したものを比較し判断を く だす こと しかでき

    ない」 と断言しているからだ。 このアイ ロニカルな戦略を と った批判的論理は, す ぐさ ま 『あ らゆ

    る宗教はひとつ』 の第4原理 (“Prindple4”) に直結する。

    Knowledge then seems to me to be nothing but the percep-

    tion of the conneχtion and agreement, or disagreement and

    repugnancy, of any of our ideas. ln this alone it consists.

    XVherethisperception is, thereisknowledge, andwhereit is

    not, there, though wefancy, guess, or believe, yet wealways

    comeshort of knowledge.12)

  • exists.

    162 中 川 一 雄

    (£ 1)

    自然の感覚器官しか得られないのならば, 霊的なものとは無縁な自然の思考しかもちえない, とい

    う こ とである。 しかし, 仮定法で アフ ォ リズムが刻み込まれている こ とには注意せねばな らない。

    ブレイ クにとっては, あ く まで 「現実」 は霊的なめざめ, 認識なのである。 つま り, このアフ ォ リ

    ズムは表面的には・(字面では) 自然なるものの限界を主張しながら, それと同時に, 無限な 「詩霊」

    を背後に潜ませているのだ。

    この 「詩霊」 は絵テクス トで視覚化されている。 そこでは, 樹の根元に腰かけて笛吹く男と上空

    めざしてはばた く鳥が描かれている。 そして, 樹は存在しているものの, 他の図版のよ うに下方へ

    囲い込む機能を もつアーチと しては描かれていない。 第 5, 第 8図版において 自然界につなぎとめ

    られるこ とを暗示していた 「鳥」 が, ここでは, 笛吹きの音楽 (詩) から湧きあがる霊的なもの (「詩

    霊」) によって空に舞っているのだ。 笛吹きは, 「白痴」 とも 「始源の詩人」 と も考えられるが, 14) い

    ずれにせよこの男は 「詩霊」 (想像力) の側にいる詩人の原型である と考えられる。 よ うするに, こ

    この絵テクス トは, 有限の自然のなかから無限の霊的なものへのめざめを示唆していると思われる。

    長々と評釈をつづけてきたが, ここで [ a] シ リーズをまとめておこ う。 要約の機能をもった「口

    絵」, タ イ トルペイジ, 「梗概」 の図版 (pls. 1-3) において明らかであった よ うに, 対立項の並置が

    Nonecouldhaveother thannatural or organicthoughtsif he

    had nonebut organic perceptions

    (£ 2)

    また, この5枚 目の図版の絵テクス トには, 着衣の母親, 裸の幼児, 鳥, 枯れたアーチ状の樹が

    描かれている。 母親 と樹は, それらがなぞるフ ォルムから明らかなよ うに, はばた く 鳥 (霊的な存

    在の象徴) をつかまえよ う と両手を さ しだしている幼児を下方へ覆 うよ うに囲い込んでいる。 幼児

    を 自然界へつなぎとめんと 「制限」 しているわけだ。 ついでに言えば, この母一 子は他の作品に

    も登場するブレイ クの原型的イ メ ジで もある。13)

    8枚 目の図版 (p1. 8) での文字テクス トと絵テクス トの協同性はひじ ょ うに微妙なレヴェルで働

    いている。 自然の感覚器官によっては知覚されえないものにたいして人は欲望を抱 く ことはない,

    と文字テクス トは主張している。 自然的人間の限界を説いているわけだ。 と ころが絵テクス トは一

    見, こめ主張 (教育) を裏切っているかのよ うにみえる。 制止する母親のいない裸の幼児は, 立っ

    て池に浮かぶ鳥に向かって両手をさ しだし歩んでいる。 鳥をつかまえ, それにのって天空へはばた

    く 「欲望」 を抱いているかのよ うである。 しかし, 実はここで絵テクス トは微妙に文字テクス トと

    歩調を合わせているのだ。 つま り, 鳥は幼児につかまえられてはいないし, 空を飛んでもいない。

    また幼児の両手は上方へではな く前方へさ しだされている。 この視覚上の事実をふまえると, ここ

    での幼児の知覚や欲望は基本的には幼児が自然界のなかにいるこ とを知らせていると言えよ う。 霊

    的世界への指向性が, 鳥, 裸の立つ幼児, 欲望に衝き動かされた両手などによって, 部分的にしか

    示されていないのだ。 もちろん幼児と鳥は第4図版の老人や犬と基本的に 「対立」 しているのであ

    るが。

    さて, 残った第 7図版 (p1. 7) を評釈しておこ う。 こ こでの複合テクス トは一見明らかな, だが

    じっさいは微妙な対立関係を孕んでいる。 文字テクス トは, 他の図版のアフ ォ リズムとおなじ よう

    に自然的人間の限界を述べている。

  • ブレイ ク最初期の彩飾画本を見る/ 読む 163

    このシ リーズの基本構造である。 自然の感覚器官にたよる認識 と この認識から生じ る思考 とい う,

    いわば人間の理性精神の 「限界性」 が一方の項である。 そ して, 文字テクス ト全体が, この自然な

    るものの限界を主張しつづけている。 も う一方の項は, 「詩霊」による認識のめざめ, つま り想像力

    の 「無限性」 である。 この 「詩霊」 (想像力) の無限性は数葉の絵テクス トのなかに視覚化されてい

    る。 タ イ トルペイジと第 7図版で集中的に, また第3, 第 5, 第 6, 第 8図版で部分的に表現され

    て い る のだ。

    キイワー ドである 「教育」 とい うこ とを考えると, 文字テクス トのレヴェルでは自然なるものの

    限界がわれわれに教育されていると言えよ う。 だが, 「梗概」, 第 6, 第 9図版の絵テクス トを視野

    にいれると, 伝えられているこ とが, 実は 「自然」 対 「詩霊」 という二項対立であるこ とがわかる。

    結局 [ a] シ リーズの複合テクス ト全体は, 自然なるものと霊的なるものという対立する二通りの

    人間の (その精神の) あ りよ うをわれわれ読者に 「教育」 しているのである。

    さて, この人間の認識や精神の二通 りのあ りよ うとそれを教育する とい うこ とが, 同じ頃製作さ

    れた ブ レイ クの一枚の絵のなかに集約し て描かれている。15) それは 「若者を教える老人」 (“Age

    Teaching Y outh”/ pl. 21 を 参 照 ) と題 さ れ た 水彩 画 で , そ こ に は三 人 の人物 が登場 し て い る。 一

    人は白髪 ・ 自髪の老人であ り, どっ し りと椅子に腰かけ, 右側の少女に本を示している。 そめ少女

    は左手を上にあげ天上を指さ している。 老人の差し出す本にたいして, 天上の智恵, つま り霊的な

    認識を対置させているかのよ うである。 前景には娘とも青年とも とれる若者が樹の根を思わせる椅

    子に腰かけている。 草花をあざやかにあし らった衣服をま とい, 老人と少女にはまるで関心を抱か・

    ぬかのよ うに背中をまるめて一心不乱に読み書きしている。 そのむきだしの足は大地に根を張って

    いるかのよ うである。 三人は囲われた庭のなかにい七, 二本の樹が描かれている。 右側の樹はまる

    で読み書きする若者の背中から生えているよ うであ り, も う一本の左側の樹は庭の囲いの外で屹立

    し て い る。

    [ a] シ リーズの複合テクス ト全体を記憶から呼びおこ して並置させると, この水彩画の寓意は

    つぎのよ うになろ う。 老人は人間精神にたいする 「教育」 を表わすが, これは二通 りの対立する方

    向性を もっている。 一つは天上をさ し示す少女に視覚化さ れた霊的認識 (spiritualperception) で

    あ り, も う一方は前景の若者に示される自然的認識 (naturalperception) である。 そ して この二通

    りの認識のあ りよ うを, 二本の樹が象徴している。 そり衣服, 丸めて下方を向いている姿勢, 足,

    椅子などから, この若者が自然的存在であるこ とは明らかであろ う。 それゆえ彼の背中からのびる

    樹は囲われた庭 (限界ある自然) のなかにあるのだ。 一方, 天上を さす少女は庭の外にある樹と対

    応している と考えられる。 霊的なものを指さす少女は基本的には自然を超えて (庭の外に) 存在す

    べきものである。 それゆえ, 庭 ( 自然) のなかにいる少女は全身を現わさず トルソーと して しか描

    かれていないのだ。 この絵には自然の状態からの二通 りの発展性一 自然的なものにと どめおかれ

    ることと霊的なものにめざめることー が暗示されている と言えよう。『自然宗教は存在せず』 [ a]

    シ リーズの複合テクス トのヴィ ジ ョ ン全体が, この一枚の水彩画のなかに描き込まれているのだ。

    さまざまな対立項 (たとえば, 上方と下方, 老いと若さ, 閉塞的自然と開放的自然など) は [ a]

    シ リーズの図版にもみられるものであ り, この対立, 対比を通 して, よ り上位のレヴェルでの二項

    対立 ( 自然的なるものと霊的なるもの) が浮かびあがって いるわけである。 そ して, この二項対立

    を示すことー われわれに教育することこそ [a] シリーズのヴィジョンの核であるのだ。

    III

    [ a] シ リーズ全体力い 枚の水彩画に 「還元」 (“reduce”) できること, そしてその基本構図は二

    項対立であるこ とが明視されたのであるが, ここで, 本稿の論述の進行もブレイクの墾に倣おう。

  • 164 中 川 一 雄

    対称性のうちにヴィ ジ ョ ンを示したブレイ クにならって, ここからはヂ演棒」 的に論をすすめたい。

    つま り, 細部から全体へと向かった前節 ( H) にたいして, この節では全体から部分を眺めてみよ

    う。

    [ a] シ リーズの文字テクス ト全体の主張の力点は, 主要に自然的認識や精神の 「限界」 を説く

    ことにおかれていた。 また霊的な認識は, この 「限界」 との対立構図のも とでその存在が絵テクス

    トOレヴェルで部分的に示されていた。 一方, [ b] シリーズの文字テクス トは [ a] シ リーズの主

    題をさ らに一歩すすめている。 自然なるものの 「限界」 を述べる とい うよ り, 「限界」 からの脱皮や

    変化の必要性が説かれ, この変化を促す「詩的・予言的本質」 (“thePoeticorPropheticCharacter”,

    第10図版, p1. 19) が明言されている。 また絵テクス トは全体としてこの変化一 霊的覚醒を明瞭に

    視覚化している。

    この [ a] と [ b] との関係は, 要約機能をもった両シリーズの 「口絵」 の対立として視覚化さ

    れている。 [a] シ リーズの 「口絵」 (pl. 1) では自然なるものと霊的なるものを表わす要素が対立

    的に示唆されながらも, 全体は自然の緑のアーチの影ふかいなかに囲われていた。 一方[b] シリー

    ズの 「口絵」 (pl. 10) では霊的覚醒が明らかに視覚化されている。 ガウンを着た聖人 (あるいはキ

    リス ト) のよ うな人物が左腕をまっす ぐ伸ばして立っている。 その掌の下には, これにこたえて起

    きあがらんと している裸の青年が描かれている。 二人の後方にはあのゴシ ック ・パネルがある。 ベ

    タ ニアのラザルスを よみがえらせるキ リス ト16)を彷彿と させるこの絵テクス トが含意するのは, 「詩

    的 ・予言的本質」 の発動によって人間やその精神がまさにこれから 「再生」 されんと しているとい

    うこ とである。 霊的覚醒がまさに始まるのである。

    この霊的覚醒にいたる予備段階と しての認識論が3枚 目と 4枚目の図版 (pls. 12-13) の文字テク

    ス トで展開されている。

    M an14perceptions are not bounded by organs of perception・

    he perceivesmore than sense・ ・ .can discover・

    (pl. 12, £ 2 )

    Reason or theratio of all wehavealready known, isnot the

    samethat it shall bewhenweknow more.

    (pl. 13, £ 2 )

    ここでは, 人間の認識は自然の (理性の) 限界ある状態にと どめおかれるよ うなものではないこ と

    が述べられているよ

    [b] シリーズの主題である霊的覚醒一 精神の再生は, 絵テクス トの細部で図案化され, ここ

    でも [ a] シ リーズとの対比をみせている。 アラベスク様の若芽 ・枝 ・葉 ・花が9枚目を除くすべ

    ての図版 (pls. 12-17, 19-20) に描かれ, 生命あふれる 「再生」 のエムブレムと して機能している。

    地に根をおろすことなく宙に舞うこれらの植物は, [ a] シリーズの大地に根を張り下方へ囲い込む

    アー=チ状の樹 とはあざやかに対立している。 自然界の運行には二面性がある。 毎 日, あるいは毎年

    同じ こ と ( 日の移ろいや四季の循環) を無機的に無為に繰 り返すしかない側面と, 死から生 (夜か

    ら朝や冬から春) へ至る有機的な 「再生」 をもたらす側面である。 この二つの側面が [ a] , [ b]

    両シ リーズの植物によってそれぞれ差異を示しながら視覚化されているのである。

    自然の循環がもつ無機的側面は, 自然の限界性や経験主義哲学の精神と直結する。 5枚 目(pl. 14)

    と10枚 目 (pl. 19) の文字テクス トがこのこ とを示している。 こ こでは, 「限界性」 が 「同じ愚鈍な

    く りかえ し」 (“thesamedull round”) とい う こ とばで表現されている。

  • そして, 引用した後者の方の 「結論」 (“Conclusion”) 図版の文字テクス トは, 無限な 「詩的・予言

    的本質」 と限界ある 「哲学的 ・経験的なもの (精神) 」 との対立を含意している。 またこの対立は,

    直前の 「適用」 (“Application”) 図版 (pL 18) の二項対立的アフ ォ リズムとつながっている。

    Hewhoseesthelnfinite in all thingsseesGod. H ewhosees

    the Ratio [Reason] 6nly gees himself only.

    ( £ 2)

    lf it were not for the Poetic or Prophetic character. the

    Philosophic& Experimental wouldsoonbeattheratioof aIl

    things& standstill, ilnabletodoother thanrepeat thesαme

    d㎡l yOMUd over again.

    (いずれも£ 2, イタ リ ックスは筆者)

    ブレイク最初期の彩飾画本を見る/ 読む

    The bounded is loathed by its possessor. The same d㎡1

    y01411d・even of a univer[s] e would soon become a mill with

    a complicatedwheels.

    165

    Asall men arealike. ‥ Soa11Religions& asall similarshave

    onesource

    The trueM an is thesourcehebeing the Poetic Genius

    ( £ 1)

    ここで最初期の三部作の結論がついに主張されている と思われる。 それは, 無限の 「詩霊」 を具え

    た人間 こそ真の人間であ り, この人間は宗教的精神を含んだあらゆる精神の源であ り, 神にも等し

    い存在である, とい う こ とである。

    さて, このよ うな 「人間は詩霊であ り神である」 という認識のめざめ, 霊的覚醒を志向する以上,

    [b] シ リーズの絵テクス トにおける 「再生」 の図像化の力点は, 先述したような植物にたいして

    霊的覚醒によ り, 神が人とな り, 人が神となるとい う人間存在の本質的変化がここで述べられてい

    る。 そ して, これら [b] シ リーズの9枚 目, 11枚目の図版 (plS. 18,20) の文字テクス トの主張

    は, 『あ らゆる宗教はひとつ』 の最終第7原理の文字テクス トと反響しあっている。

    こ こにいた ってはじめて, 霊的なめざめのゆ く すえが示されるこ とになる。 無限となった人間の知

    覚が認識する (「見る」) のは 「神」 であ り, 聖なるヴィ ジ ョ ンであるこ とが, この 「適用」 図版の

    前者のアフ ォ リズムで明言されているのだ。 つま り, ブレイクの終生のモ ッ トーであった 「聖なる

    人間のすがた」 (“thehumanform divine”) がこ こで導かれ始めているのだ。

    この 「人は神である」 (“Man= God”) という命題は [b] シ リーズの最終図版 (pl. 20) の文字

    テク ス トによって, さ らに明らかにされている。

    Therefore God becomes aswe are, that wemay be ashe is

    (£ 2)

  • 166 中 川 一 雄

    ではな く , 主要には人間にたいしておかれるはずである。 ち ょ う ど, 「再生」 を示す 「口絵」 の図像

    が人間であった よ うに。

    8枚 目の図版 (p1. 17) の絵テクス トでは, その文字テクス トの 「人間は無限である」 (“himself

    lnfinite”) とい う主張を うけて, 「再生」 が視覚化されている。 そ こには地中から上体を起こ し, 両

    腕を広げて上方を見つめる裸の青年が描かれている。 大地とい う自然的なものから霊的天上的なも

    のへの力感あふれる脱出, 再生が表現されているのだ。 そ して, その左の掌に釘の頭が うかがわれ

    るこ とによ り, われわれの視野のなかで この青年は十字架上のイエスと重な り, 「再生」のモティ ー

    フを さ らに強調するこ とになる。

    この人間精神の 「再生」, 霊的なめざめは, 11枚 目の最終図版 (pl. 20) で も示されている。 だが

    厳密に言えば, ここでの人物は, 覚醒や変化がまさ に始まらんとするその直前の トランス状態にお

    かれているようだ。 この絵テクス トのなかで眠るよ うに横だわっている人物は, 肉体的には人間の

    ようだが, 岩山を覆わんばかりの巨体である。 その頭部からは, まるで神のよ うに光が放散されて

    いる。 つま り, この人物こそ 「聖なる人間のすがた」 を視覚化した ものであ り, ブレイ クの神話に

    おける永遠の巨人アルビオン (Albion) であると も考えられる。 さ らに言えば, この人物が覚醒す

    る存在であるこ とは, 生命あふれて宙に舞 う草花 と一体化した文字テクス トの字体を見れば明らか

    であろ う。 他の図版では字体はブリ ック体であるが, ここではイタ リック体となっている。 この無

    機的な固い字体から有機的な柔らかい字体への変化は, [b] シ リーズの主題である霊的覚醒- 「再

    生」 と重なるものである。 文字もついに生命を吹き込まれたのである。 この生命あふるる状況に包

    まれながら横たわる人物は, 今まさに固い岩山からその身を起こさんと しているのである。

    さて, この11枚目と 8枚目の図版の絵テクス トで示された霊的覚醒一 人間り本質的変化や再生

    は, [ a] シ リーズの場合と同じように一枚の有名な絵のなかに見てとることができる。それは, 「歓

    びの日」 (“GladDay”) と も 「アルビオン立て り」 ( “AlbionRose“) と もあるいは 「アルビオンの

    ダンス」 ( “TheDanceof Albion”) と も呼ばれる彩色版画である (pl. 22 を参照) 。 このアルビオ

    ンの図像は 『ジ ェルサレム』 (jeyltsdem, 1820) の第76図版にも登場し, ブレイクによっていく たび

    も製作された ものである。18) 版画のアルビオンは岩山に裸体で立ちあが り, 両腕を大き く広げ, その

    背後からあざやかな光を放散している。 この図像は, [ b] シリーズの8枚目と11枚目(pls. 17, 20)

    に描かれた人物の特徴 (裸体, 広げられた両腕, 岩山の上, 光彩) をすべて具え, 二つの図版のな

    かの人物を合体させてつ く られたかのよ うである。 いや, 逆に, アルビオンの図像が二枚の図版の

    なかに分散させられているのかもしれない。 いずれにせよ, 「歓びの日」 のアルビオンこそ, [b]

    シ リーズの主題である霊的覚醒一 精神の 「再生」 を端的に表現している図像なのである。

    ところで, 対称性を好むブレイクは [b] シリーズの一枚の図版 (pl. 18) のなかに歓ばしきアル

    ビオンに対立す る図像を彫 りこんだ。 この 9枚 目の図版の文字テクス トは, すでに引用した よ うに,

    霊的なものと 自然的なもの, すなわち詩霊 と理性の二項対立を述べていた。 だが, その絵テクス ト

    は, 対立項の一方, つまり限界ある自然あるいは理性的精神を視覚化している。 [b] シ リーズの他

    の図版とぱちがって, しかし[ a] シ リーズの図版と同じように, そこには下方へ囲い込む樹のアー

    チが登場する。 そのアーチをなぞるよ うに背中を丸めた白髪の老人が, よつんばいになって, 下方

    の大地の上で コ ンパスをふるって図形を描いている。 つま り, この老人は 「理性しか見ない人間」

    であ り ( “HewhoseestheRatioonly”) , 限界ある 自然の認識にと どまった人間のゆ く すえを図像

    化した ものである。 その付属物である コンパスは, 分割 ・分析する知性一 理性を隠喩的に表現し

    たものであ り, また ブレイ クのコンパス ・ モテ ィ ーフの最初の図像で もある。19)

    「再生」 のイ メ ジを 「歓びの日」 のアルビオンが集約して表現しているのな らば, 自然の認識に

    と どまった 「堕落」 のイ メ ジを表現するのが 『ヨ ーロッパ』 (EWO卸, 1794) の 「口絵」 のユ リゼソ

  • 167ブレイ ク最初期の彩飾画本を見る/ 読む

    IV

    r自然宗教は存在せず』 のヴィ ジ ョ ンのあ りよ うをふ りかえっておこ う。 まず, 概略的なこ とか

    ら始めよう。 たとえば, [ a] シ リーズでは, 霊的なものと自然的なものの対立構図が文字テクス ト

    と絵テクス トの相互作用によって浮かびあかっていた。 つま り, 文字テクス トでは自然なるものの

    限界が述べられ絵テクス トでは霊的なるものが部分的に視覚化されていたが, この表現面でのいわ

    ば不調和の調和といったバランスを保つべ く二つのテクス トが相互に補完しあっていたのである。

    もちろん, この相互補完性は, こ こだけでな く ブレイ クのすべての複合テクス トにもあてはまるこ

    とである。

    霊的なものと自然的なものは, ブレイクの作品全体を貫通する基本的な二項対立であるが, [ b]

    シ リーズでは 「詩的 ・予言本質」, 「哲学的 ・経験的なるもの」 とそれぞれ呼ばれていた。 文学史の

    教科書的常識で言えば, これらは想像力と理性と呼んでも さ しつかえないものである。 重要なのは,

    これらの対立的なこ とばの示す概念を こ とばのレヴェルであれこれと抽象的に考察するこ とではな

    く , 対立の構図をわれわれの意識の網膜に具体的に視覚化するこ とである。 このこ と こそ ブレイク

    の複合テクス トが織 りなすヴィ ジ ョ ンを理解するこ とであると思われる。

    さて, このような観点にたつ時, [ a] シリーズの複合テクス ト全体が 「若者を教える老人」 と題

    された水彩画に還元され, われわれの眼にヴィ ジ ョ ンとなって映った。 この水彩画のなかでは, 人

    間の認識にたいする教育がおこなわれていた。 そ して, 自然のなかでの二通 りの方向性が存在して

    いるこ と, つま り霊的なものへ向かうものと 自然的なものにとめおかれる叱のが対立構図のも とで

    示 されて いた。

    [b] シ リーズでは, 文字テクス トは限界からの変化とその変イビを うながす精神を主張し, 絵テ

    クス トは霊的なものの覚醒と自然界での堕落を視覚化していた。 つまり, [ a] シリーズと 「若者を

    教える老人」 が うみだす ヴィ ジ ョ ンのなかで示された二項対立を うけて, それぞれの項の発展と限

    界とい う ヴィ ジ ョ ンが表わされていたのだ。 上方へ, 霊的覚醒にすすめば, 「歓びの日」に示され,る

    人間の聖なる歓喜の世界に入るこ とになる。下方へ, 自然界での限界にとめおかれれば, 『ヨーロッ

    パ』 の 「口絵」 ( 「いにしえの日」) の図像が示す創世時の堕落状態に永遠につなぎとめられることに

    な る。

    結局, [ a] [ b] の複合テクス ト全体が紡ぎだすヴィジ三lソは, これら三枚の絵や版画のなかに

    看取されるものである。 [ a] から [ b] へと視解/ 読解をすすめると, 二項対立とそこからの展開

    が理解される。 この時, 「若者を教える老人」 から 「歓びの日」 へ, あるいは 「いにしえの日」 へと

    われわれの視線は移動していぐ。

    だが, ブレイク神話のなかで述べられる歴史的進行を考えた時, 視線の動きは変化する。 神話の

    (Urizen) である (pl. 23 を参照)。 よ く知られているよ うに。 リゼソは理性を象徴し (Urizenく

    Y our Reason) , こ の世 ( 自然 ) を 堕 落 し た 状 態 に つ く り あ げた ブ レ イ ク 神 話 の デ ミ ウル ゴ ス で あ

    る。 『ヨ ーロッパ』 のユ リゼソは, ひざをつき下方へ向けて コンパスを広げている白髪・白髪の老人

    である。 背景では黒い雲がうずまき太陽が隠されている。 この 「口絵」 は 「いにし えの日」 ( “The

    Ancient of Days”) と も題 さ れ , 創世 の時 を 視 覚化 し た も ので あ る。 だ が こ こ で 創造 さ れて い る世

    界は理性が支配する自然界 (堕落した現世) である。 それゆえ, 創世時にあるはずの歓喜や力感,

    厳粛さ といった ものとはほど遠い無気味な暗い雰囲気しか漂っていない。 つま り, このユ リゼソの

    図像は [b] シリーズでコンパスをふるう老人と同一人物の別の姿であり, アルビオンと明確な対

    立をなすものである。 だからこそ, 「歓びの日」には歓喜や力感, 壮厳さ といった雰囲気が充満して

    い る のだ。

  • 中 川 一 雄168

    出発点は堕落した創造によって出現する自然世界である。 ここには 「いにしえの日」 のユリゼンが

    いる。 そ して 自然世界のなかで 「教育」 がほどこされる。 二通 りの方向性の存在が説かれるわけで,

    霊的な少女の姿 と自然的な青年の姿が眼に うつる。そして神話の終着点は黙示録の世界, 救済のヴィ

    ジ ョ ンである。 神にもひと しい聖なる人間は, この時全身で歓喜を表わしながらおどるのである。

    ち ょ う ど 「歓びの日」 のアルビオンのよ うに。 このよ うな神話の進展は, もちろんキ リス ト教の歴

    史観を反映した直線的なものであ り, われわれの視線も直線的に上昇していく。

    しかし, われわれ読者がブレイクのヴィ ジ ョ ンを理解しよ う としても, 動的な, ブレイクの説く

    無限な認識にめざめなければ, 視線の動きはふたたび変化する。 霊的なものを示す少女の トルソ=

    からその覚醒を表わすアルビオンに眼を移すかわ りに, 自然の束縛を示す青年に眼を固定させ, こ

    の意味で認識を有限の うちにとめおけば, つぎに網膜に像を結ぶのは大地にコンパスをあて る老人

    であ り, 「いにし えの日」のユ リゼソである。 ふたたび, 始源の創造主ユ リゼソの像にも どって しま

    うのである。 つま り, われわれの視線とそ こからの認識は, 「同じ愚鈍な繰 り返し」とい う出口のな

    い閉じた円環を なぞって し ま うのである。

    こ う して, 『自然宗教は存在せず』 の複合テクス トのヴィ ジ ョ ソがいわば三枚の絵 (pls. 21-23)

    に還元されたのであるが, これらの絵がヴェ ク トルを もち動的な関係を構成するこ とに留意せねば

    ならない。 このヴェク トルは, 読者の視線がた どる道すじやヴィ ジ ョ ンの理解をすすめる方向性を

    示すものである。 ヴェ ク トルの誘導のも とに, ヴィ ジ ョ ンが読者の意識のなかで明視されるのだ。

    すなわち, ヴィ ジ ョ ンに生命が吹き込まれるり だ。

    ここまで複合テクス トやヴィ ジ ョ ンの側にたって, それらがあたかも生命を もちわれわれ読者に

    働きかけているかのよ うに話をすすめてきた。 だが, 実際にテクス トを動かし ヴィ ジ ョ ンを視覚化

    するのは読者の方である。 読者の側にたち ヴィ ジ ョ ンを考えるさいには, 二項対立がポイン ト とな

    る。 た とえば, 老いと若さ, 着衣と裸体, 上方と下方, 光と闇, 腕の開閉, 立像と座像, 天上的な

    ものと地上的な もの, 上昇するアーチと下方へ囲い込むアーチ, などといった意味の差異を うむ二

    項対立的要素に注 目せねばならない。

    このよ うな対立要素を表わす フ ォルムやイ メ ジは, いわばヴィ ジ ョ ンの世界を構成す る形態素

    (morpheme) であると言えよ う。問題は形態素の設定にあるのだが, 今さ ら とい う感はぬぐえない

    が同じ よ うに構造主義言語学を比喩にとれば, フ ォルムやイ メ ジにおける示差的特徴 (distinctive

    feature) と余剰的特徴 (redundantfeature) を見分けるこ とが肝要である。 つま りは意味を生じる

    差異を考えねばな らない。

    たとえば, 着衣と裸体の対立といっても, [ b] シリーズの 「口絵」 (pl. 10) のガウンをまとった

    人物と [ a] シ リーズの 「口絵」 (pl. 1) のなかで服を着て腰をおろした老人とを, 着衣という指標

    で同義とみなすわけにはいかない。 とい うのも, 前者の人物は, その姿勢やさ しだされた手, 後方

    のゴシ ック ・ パネルなどによって霊的な聖なる存在である と認められ, 一方, 後者の老人はその姿

    勢やまわ りの自然のアーチからみて 自然的な存在であるこ とが明らかであろ うから。 両者と も, 基

    本的には, 別の図版や同じ図版に描かれた他の人物や事物 (すなわち別のフ ォルム) との関係のな

    かで意味を担わせられるのである。

    また, た とえば前者の人物 (pl. 10) が着衣であるからといって, 「歓びの日」 の裸体のアルビオ

    ンとは異質な存在であるとみなす こ とにも無理がある。 両者にそれぞれ結びつけられる他の形態素

    ( こ こでは再生の意味を担った要素) を考慮すれば, 二人がどち らも霊的な存在であるこ とが判明

    するからである。

    結局, ある図像が描かれる時, い く つかの形態素が組み合わせられるのであるが, 図像を理解す

    るためには, 主要に意味を担 う要素とそ うでない要素を区別せねばな らないのだ。 どれと どれが対

  • ブレイク最初期の彩飾画本を見る/ 読む 169

    立し意味的差異を成立させているのか考えねばならないのである。 そしてこの時, 文字テクス トを

    絵テクス トに浸透させる必要がある。 つま り, こ とばで表現されているこ とを も とにして, 主要な

    意味を担 う形態素を抽出せねばならない。 なぜなら, 絵テクス トの言語性は文字テクス トのコー ド

    と一致しているはずであ り, またそ うでなければ複合テクス トの複合性自体が成立しないからであ

    る。

    さて, このよ うに形態素を設定して, 複合テクス トを読み解き, ブレイクのヴィ ジ ョ ンの把握に

    いたる過程のなかでは, 絵テクス トの理解が最も重要な段階であると思われる。 だが絵テクス ト理

    解の道すじは, じつは, ブレイ クが唾棄した経験主義的な方法をた どらざるをえないとい う点は重

    要である。 経験主義における理性は, 知覚によって認識された事象を一般的抽象的なパタ ンに分類

    するという分析機能と, 分類され貯えられたデータを記憶から呼びおこして一般化, 普遍化を行 う

    とい う統合機能を もっている。 こめよ うな分析し統合する精神こそ, 形態素の設定やそれによる絵

    テクス トの理解, そして複合テクス トのヴィ ジ ョ ンの形成のさいに, 大いに活動するものである。

    たとえば, [b] シリーズ 「適用」 図版 (pl. 18) のなかの老人を読み解く時や, この老人と 「い

    にしえの日」 (pl. 23) のユ リゼソを結びつける時のこ とを考えてみよ う。 老人を理解するさいには,

    たとえば [ a] シリーズの4枚目 (pl. 4) のなかで杖をついた, 背中が樹のアーチと同じラインを

    描く下方を見つめる裸の老人を記憶から呼びおこすこ とになる。 そして, この老人の形態素的特徴

    を 「適用」 図版の老人の特徴 と対置してみる。 すると, 二人の老人の形態上の特徴が重なる面が多

    いこ とが知れ, 二人が基本的に自然世界につながれた存在であるこ とがわかる。 そ して さ らに, こ

    れらの老人に共通する特徴を記憶のなかに整理して, つぎにユ リゼソの図像を眼にする と。 リゼ

    ソの図像がふたたび記憶から呼びおこされた二人の老人の図像と重なるこ とが理解される。 背中を

    丸め, 下方へ向かう姿勢, 白髪, 白髪, 裸体, 老い, といった形態素的特徴のも とで, 三人の老人

    は理性や自然を表わす ( ここで文字テクス トが機能する) 普遍的図像に組みなおされるのである。

    これを代表する図像はユ リゼソであるが, このユ リゼソの図像がわれわれの意識の網膜上に, つま

    り記憶のなかにおかれるのだ。

    このよ うに経験主義的なすじ道をた どるこ とによって, 幻視家ではないわれわれにも ブレイクの

    幻 視が明視されて く るのである。 ブレイ ク と同様に幻視家的性向を もちあわせなければ, そのヴィ

    ジ ョ ンの本質は分からない, などというこ とはない。 ヴィ ジ ョ ンの本質を形成するフ ォルムやイメ

    ジの形態素的特徴は, なんといっても彼の絵テクス トのなかに現に存在しているのだから。 たしか

    にブレイ クは難解であるが, それはけっ して一部の人間にしか理解で きないよ うな難解さではない

    のである。 難解さをほぐすのは, 基本的に彼の絵テクス トであると思われてならない。

    最後に述べておかねばならないこ とがある。 最初期の複合テクス トが紡ぎだすヴィ ジ ョ ンにおい

    ては経験主義的精神が痛烈に批判されていたが, このヴィ ジ ョ ンをわれわれが意識のなかで構成し

    明視するためにはまさに経験主義的精神が必要とされた。 これを, 複合テクス ト自体が内包してい

    るパラ ドクスと考えてもよいが, 視覚をはじめとする肉体の感覚器官にたよらざるをえない読者に

    たいして ブレイクがとった戦略と も考えられる。 つま り, 批判対象を視覚を中心にして 「経験」 さ

    せるこ とによ り, 批判対象の本質を理解させるという, おそろ しいほど巧みなパラ ドクスの戦略を

    ブレイクはその複合テクス トにも りこんでいるのだ。

    だが, ブレイクの戦略のほんと うの意図は, 「想像力」をわれわれに理解させる点にあるよ うであ

    る。 分析 と統合の手法を身につけヴィ ジ ョ ンを理解する力を得たわれわれは, けっ して ヴィ ジ ョ ン

    を無機的に固定化するこ とはない。 すでに述べたよ うに, 最初期の複合テクス トのヴィ ジ ョ ンを集

    約する三枚の絵の順序をいく通 りか並べかえることによって, われわれはブレイクの胸の奥深 くへ

    入 りこむ こ とがで きたのである。 つま り, ヴィ・ジ ョ ソに生命を与え, それを動かしたのである。 結

  • 170 中 川 一 雄

    局, このダイナ ミズムこそ ブレイ クが説きっづけた 「想像力」 そのものであるよ うに思われるのだ。

    本稿は, 第42回日本英文学会中部地方支部大会で口頭発表したものに筆を加えたものである。

    1) げ MonaWilson, Tk L伽 of Wilk m Blake (Oxford : OxfordUniv. Press, 1971) , pp. 26- 27.

    2) げ R αがW Sy77zgg勿 j y1S加心 丿 明//加肖 £加加 (PrincetonN. J. : PrincetonUniv. Press, 1947) , p. 14. ま

    た, 最近の例と しては, EdwardLan・issy, Wm伍m Bぬke (RereadingLiteratureser., 0xford: Basil Blackwe11,

    1985) , pp. 70- 84 がこれらの作品の重要性を述べている。

    3) げ “WilliamBlakeRejectstheEnlightenment”Bほ e: A Colledionof Critical Essays (N. J. : Prentice-Hall,

    1966) , pp. 142- 155. なお, 『自然宗教は存在せず』 や 。『あらゆる宗教はひとつ』 において, またスウェーデソボル

    グやラ ヴァタ ーヘの注釈において, ブレイクの攻撃対象は, 主要にロックであった。 そして後期の『ジェルサレム』

    や 『ミル トン』 においては, ベイ コソ, ニュー トン, ロックの三人がいわば 「悪の三位一体」 と してや り玉に挙げ

    られ, 特に 『 ミル トン』 (図版40) では, 啓蒙主義, 自然主義が痛烈に罵倒されている。

    4) 絵テクス トの底本と しては, DavidV. Erdman, Tk ll臨琲泌αtd BIαk (London: OxfordUniv. Press, 1975)

    を使用した。 他にヴィ ジュアルな面で参照したのは, David聊ndman, TheCom匝 teG剛)hicWo池 of Wilhm

    BI池e (London : Thames& Hudson, 1978) ; Martin Butlin, ThePαintings皿d Dm面昭s of Wilh m Bぬk

    2vo1s. (New Haven : YaleUniv. Press, 1981) ; G. E. BentleyJr. ed., 明 泥z。z召加加ls B今消昭svol. I (Oxford

    : Oxford Univ. Press, 1978) な どで あ る。 研究書 と し て は, 先 に掲 げた Larrissy, Wilh m Blak と Robert N .

    Essick, “TheArt of W illialil Blake’sEarly 111uminatedW orks” ( a facsimileed. of hisdissert. totheUniv. of

    Califomia, San Dieg0, 1969) , pp. 14- 42 を 参考 に し た。 また , 文字 テ ク ス トの底本 と し て は, DavidV . Erdman

    ed、, Tk Com伽 tePoe切 皿 d Pyoseof W ilk m BI

    使用し, 引用のさいには£ と略しページ数をふった。 なお, 本稿の末尾に Bindman版の図版を付しておいた。

    5) じつは, 現在でも 『自然宗教は存在せず』 [a] , [ b] の図版やその順序は完全に確定されているわけではない。

    Bindman, 01). Cit., pp. 468- 7 で述べられているように, [ a] シリーズのタイ トルペイジは他にある可能性も高

    く, また [b] の5枚目の図版 (HIの部分) は未発見である。 しかし, 現時点では, Geoffrey Keynesが1971年

    にファ クシ ミ リ イ版を出版した時の図版や順序に従っている Tk mRm泌ated Bぬkeに依拠せざるを えない。

    6) げ AnthonyBlunt, TkeAyt好 Wilhm Blah (N. Y. : ColumbiaUniv. Press, 1959) , p. 44.

    7) げ On Vi尽il (£ 267) 。

    8) げ AnnotationstotheworksofJoshuaReyn01ds(£ 648 ff.)

    9) これ以後の図版の細密な読みは, 注 4に掲げた作品集や研究書の編者や著者の読みを参考としている。オ リジナル

    図版にあたれないかなしさ, 危険性はあるが, 複数の人物の同一の読みは一応信用できるのではないかと思われる。

    10) げ Essick, “TheArtofWilliam Blake’sEarlymuminatedWorksy Ol) dt., pp. 20- 21.

    11) び Larrissy, O拓 dt., p. 74・

    12) Tk WO迦 Of JOh LOCk 10vo1s. (1823, rpt., Darmstadt : ScientiaVerlagAalen, 1963) , vol. II , p. 308・

    13) げ 『無垢の歌』 の 「春」 や EdwardYoung の N址ht ThOltghtS の第12図 (水彩画) などがその例である。

    14) それぞれ, S. Foster Damon, WⅢiam BI硫e : HisPhilosoj)恥 皿d Symbols ( 1924, rpt. London : Dawsonsof

    PaII M a11, 1969) , p. 267; Essick, “The Art of W illiam Blake’s Early llluminated W orkぐ Oj) . dt、, ppL23- 24.

    15) げ Butlin, 砂. d1, sz7. 91, pp. 35- 36. またこの絵と 『自然宗教は存在せず』 との関連は Larrissy, 0p. d op. 77

    で言及されているものの, 十分に吟味されていない。

    16) げ. JOh , 11 : 1- 44, 12 : 1- 18・

    17) げ Erdman, TkemMm緬αtd BI硫e, ol). dt、, p. 31・

    18) ブレイクが終生この図像を愛でたことは, Butlin, 砂。ぶ。, p. 27 に詳しい。

    19) た とえば, 瓦£yO加 (1794) の 「口絵」 や彩色版画 Nmt匹 (1795) にこのコンパス ・ モテ ィ ーフが使われている。

    また, コンパスは持っていないが, 『天国と地獄の結婚』第24図版のネブカ ドネザルもこの老人と同じ姿態を と って

    い る。

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    一中 川 雄172

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  • f44

    174 雄中 川

    “Age Teaching Y outh”

    (pl. 21)

    (p1. 20)

    (p1. 19)(pl. 18)

  • (pl. 22)

    ブレイ ク最初期の彩飾画本を見る/ 読む 175

    “Glad Day”

    (p1. 23)

    “TheAncient of Days” ( EMy01)e, “1Tonticepiece”)