3
10 10 10 ( ( 3 5 7 10 11 16 1 ( 1 21 23 23 10 ( 7 ( 11 11 ( 15 17 13 37 38 3 16 3 5 16 ( 11 10 23 ( 14

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10

わたしのヨハネによる

福音書 

第10章

10章のメッセージ

イエス・キリストは、羊(

たち)

の為に命を捨てた真

の羊飼いである神、私たち

の救い主です。

注目すべき聖句(

節)

3~5、7、10~11

、16

1良い羊飼い(

1~21節)

 

昔からこの地方では牧畜を

生業とする人が多く、当時こ

の話を聞いた人々には生活実

感としてとてもよく理解出来

た事柄だったようです。それ

ばかりか、古くから多くのク

リスチャンに親しまれたイエ

スのお話の一つであったろう

と思われます。と申しますの

は、旧約聖書の詩編23編とい

うところで、神への信頼を、

羊と羊飼いの関係にして歌っ

ていて、これがほとんどのク

リスチャンに暗誦されている

だろうと思われる程、多くの

人々を慰め生かしてくれたの

でした。記しますと、

︿詩編

23編﹀ダビデの詩

主は羊飼い、わたしには何も

欠けることがない。

主はわたしを青草の原に休ま

せ、憩いの水のほとりに伴い

魂を生き返らせてくださる。

主は御名にふさわしく

わたしを正しい道に導かれ

る。

死の陰の谷を行くときも

わたしは災いを恐れない。あ

なたがわたしと共にいてくだ

さる。

あなたの鞭、あなたの杖

それがわたしを力づける。

わたしを苦しめる者を前にし

ても

あなたはわたしに食卓を整え

てくださる。

わたしの頭に香油を注ぎ

わたしの杯を溢れさせてくだ

さる。

命のある限り、恵みと慈しみ

はいつもわたしを追う。主の

家にわたしは帰り、

生涯、そこにとどまるであろ

う。

 

どうぞ、暗誦して下さい。

イエスをご自分の唯一の救い

主と仰ぎ、この詩編を暗誦し

て下さい。どんなに大きな恵

みでしょう。例えば、司法試

験にパスしたり会計士の国家

試験にパスして資格を獲得す

るのは、スペシャリストとし

て活躍するのに大きな武器と

なります。しかし、更にすば

らしい、しかもすべての人に

提供されている恵みがここに

あります。一人の人間として、

豊かに、神と共に、隣人と共

に、愛に生きる深い秘密が、

この詩編の中にあるのです。

信仰生活の年輪を加えるに従

い、心からこの詩編の告白の

中に身を置く様に願うことで

しょう。それは、この詩編が

ご自分にとって計り知れない

主イエスの恵みの体験に基づ

いた告白となるからに違いあ

りません。

 

さて、ヨハネによる福音書

の本文に戻りましょう。一体

この羊飼いの話が、どうして

始まったのでしょうか。これ

は実は9章の論争に最後のと

どめをさす役割を果たしてい

るのです。つまり、主イエス

は今、自分を葬り去ろうと陰

険なたくらみをしている人々

を前にしておられるのです。

しかし、それに対して憤激し、

烈しい復讐を企てて、怒りに

満ちた言葉を投げ返してもよ

さそうな雰囲気の中で、この

愛と信頼の美しい話がされて

いるのです。10章の限りない

深さは正にここにあります。

疑惑と憎悪に満ちた攻撃に対

して、愛の歌で押し返してお

られるのです。

 

この章に二つ﹁わたしは~

である﹂があります。一つは

﹁わたしは羊の門である﹂(

7

節)

。次が﹁わたしは良い羊飼

いである﹂(

11節)

。特に注目

していただきたいのが、11節

のことばで﹁わたしは良い羊

飼いである。良い羊飼いは羊

のために命を捨てる﹂と言っ

ておられるところです。中で

も二つの言葉を正しく理解し

ていただきたいと思います。

第一が﹁良い羊飼い﹂の﹁良い﹂

とは、﹁私は良い人です﹂など

という言い方でおっしゃって

いるのでは勿論ありません。

むしろ﹁理想的﹂とか﹁完全

な﹂という、つまり﹁わたし

こそ正にあなたの羊飼いなの

です。命を捨てても羊を守る、

羊飼いの責任と愛を全うする

羊飼いです。﹂というお方で

す。次に﹁命を捨てる﹂の﹁捨

てる﹂はヨハネ特有の用語の

一つで(

15、17節。

13章37、

38節。ヨハネ第一の手紙3章

16節)

ある学者は、多分それ

は古典ギリシャ語の﹁払う﹂

という意味を含んでいるので

はないかと申します。そうだ

とすると贖罪と同義と言える

し、事実主イエスが言わんと

しておられることが、十字架

の死を指し示していることは

明白であるといってよいで

しょう。

 

3節から5節の間に﹁声を

聞き分ける﹂﹁声を知ってい

るので﹂﹁声を知らないから﹂

と、羊が自分の羊飼いとそう

でない者を何で区別するかと

いうと、﹁声﹂だと言っていま

す。これは当時の人々にとっ

ては、誰でも羊の最大の特色

としてよく知っている事でし

た。これこそ、主イエスが私

共と関わろうとしていて下さ

る愛の関係を、人格的な関係

をどんなに大切にして下さる

かを理解するよい手がかりで

はないでしょうか。愛する者

の声が聞こえた時、例えば東

京の大学に行っていた息子の

声が﹁ただいま﹂などと聞こ

えたら母親はどんなに喜ぶこ

とでしょう。声は人格です。

聖書は神様のお言葉です。耳

にこそ聞こえませんが、聖書

の言葉が、信仰をいただいて

読む者の心に主イエスの声と

して、血の通った声として語

りかけ約束して下さることを

経験するのです。

 

16節では、主イエスの恵み

が能力ある人もない人も、富

める者も貧しい者も、男も女

も、すべての人を何の差別も

なく羊として招いていて下さ

るのを知ります。ここでは特

に﹁囲いに入っていないほか

の羊﹂と、教会に行けない方々

を思わずにはおれません。そ

のようなお一人お一人をこ

そ、主はよく知っていて下さ

います。

わたしは良い羊飼いである。﹂(

11

節)

このイエス様のお言葉は私

にとって大きな慰めです。この

10章を読む時に、私はいつも詩

編の第23編を重ねて心の中で読

んでいます。イエス様にさえつい

て行けば、私はいつも守られ牧

草にありつく事が出来、何よりも

心から安心していられる、と私

は本当に毎日の生活の中で信じ、

このイエス様の約束が真実であ

ることを経験しています。でもこ

の様に信じることが出来る迄、私

は色々な試みに会って来ました。

私は今、悲しい事や辛い事も、そ

のまま受けて、それでいいんだ

ナと心から思えるのです。イエ

ス様が私の羊飼いでいて下さる、

それで全てが満たされているん

です。

﹁わたしは自分の羊を知ってい

る。﹂(

14節)

これは、イエス様が

私の過去と現在と将来を知って

いらっしゃるということですか

ら、今日の私の涙も、喜びも、ま

た人から誤解されて残念だった

り、憤りさえも知っていて下さ

るという事なんだなぁ、と嬉しく

思います。子供の頃いつも聞い

ていたラジオ・ドラマ﹁アンクル・

トム﹂のテーマソングに﹁神様は、

知っていなさる、見てなさる﹂っ

ていうのがあって、今でも誰に

も分かってもらえない、と思え

る様な気持ちの時に口ずさむの

ですが、イエス様は知っていて

下さるんです。

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11

11章のメッセージ

イエス・キリストは、死に

打ち勝たれた神、私たちの

救い主です。

注目すべき聖句(

節)

25~27、35、40

この章全体を通して一つの

物語が記されています。それ

は﹁ラザロの復活﹂という出

来事です。

 

死。これを広辞苑で見ます

と﹁死ぬこと、生物の生活機

能の停止すること。﹂つまり

死んだ状態について言ってい

るだけで、死そのものについ

ては何一つ説明しておりませ

ん。でも親しい人の死に直面

して、その人の人生が終わり

もう会えない。その様な経験

をする時に考える死とは決し

て、生物的な機能停止という

ことですまされるものではあ

りません。しかもそれは他人

事でなく﹁私のこと﹂でもあ

ります。例外なく確実にこれ

だけはすべての人に平等にお

とずれてくるものです。しか

し不思議なことに私たちは死

そのものについて考えようと

しません。これほど確実な、

人生で一番厳粛な時に対して

不用意なのです。それは死の

先が分からないからです。そ

れならば考えないですむの

か、迎えないですむのかとい

うと、そうはまいりません。

必ず誰でもこの死を演ずる主

役として立つ日が来るので

す。死をどう生きるかについ

て明らかな意味を見出してい

ないとするならば、現在の生

そのものについてもその意味

が何一つ明らかになっていな

い事になります。死を見つめ

ることは生を見つめることに

他なりません。先日この様な

お話を伺いました。﹁昔、中世

の修道院の中では日常の挨拶

としてお互いに﹃メメント・

モーリ﹄と言っていたそうで

す。ラテン語で﹃あなたは死

ぬんだ、ということを忘れて

はいけない﹄という意味です﹂

と。その意味でこの11章の

テーマは死なのです。このラ

ザロの死の物語は、今これを

学ぶ私たち、あなたや私一人

一人に厳かに﹃メメント・モー

リ﹄と語りかけていることを

聴かなければなりません。

何故なら、私たちの人生の

最後にこの死と対面しなけれ

ばならない、その様なゴール

が待っているからです。

そして同時にこの物語が私

たちに語りかけているもの

は、私たちが決してのがれる

ことのできないこの私の死の

現実の只中に、その真ん中に

イエス・キリストは入って来

て下さり、この死の運命を完

全に受けとめ、これを滅ぼし、

生命へと変えて下さる方、勝

利の主であること。すでに為

しとげられた十字架の御業の

勝利を、主は、主を信じるす

べての人にお約束下さったこ

とです。従ってこの章を読む

時のよい助けになるのが新約

聖書コリントの信徒への第一

の手紙15章です。ぜひお読み

下さい。その最後の方にこう

あります。

﹁死は勝利にのみ込まれた。

死よ、お前の勝利はどこにあ

るのか。死よ、お前のとげは

どこにあるのか。﹂

死のとげは罪であり、罪の力

は律法です。わたしたちの主

イエス・キリストに よって

わたしたちに勝利を賜わる神

に、感謝しよう。(

15章54~

57節)

 

この11章が大好きで、中で

も40節を私が病気になると必

ず引用して祈ってくれた父が

息を引き取った早朝、私は空

を見上げて﹁わたしは復活で

あり、命である。わたしを信

じる者は、死んでも生きる﹂

を口ずさみながら心からアー

メン感謝します、と喜びがこ

みあげてきました。勿論人間

的には悲しくとも、勝利です。

1奇蹟前(

17~32節)

 

﹁イエスは言われた、﹃わた

しは復活であり、命である。

わたしを信じる者は、死んで

も生きる﹄﹂(

25節)

はこの物

語全体をつらぬいているすば

らしいことばです。主イエス

は、人を甦えらせることが出

来るすごい能力があるなどと

いうことではありません。こ

のことばを通して、話題の中

心がラザロではなしに、ラザ

ロの出来事を通して主イエス

御自身が誰であるかを明らか

にしていることに気付く時、

私たちは目を見張らざるを得

ません。もはや、ここにある

のはラザロの物語ではなく、

私の生と死にまで入って来て

下さる主イエスとの対面だか

らです。この﹁わたしは⋮で

ある﹂は決定的真理表現その

ものです。しかも、主イエス

が﹁もう一度、ユダヤに行こ

う﹂(

7節)

と言われたことに

対して、驚いた弟子たちが﹁つ

いこの間もあなたを石で打

ち殺そうとしていたのに、ま

たそこへ行かれるのですか﹂

(

8節)

とあります通り、こ

の出来事とこのことばの語ら

れた背景には、正に主イエス

が御自身と生命を引き換えに

されていることを聖書は語っ

ています。

 

主イエスの25節の宣言的お

約束は続いて、﹁(

あなたは)

このことを信じるか﹂と言っ

ておられることに注目したい

と思います。

(1)﹁あなたは﹂

みんながどう思っているか

ではなく﹁あなた﹂自身が生

涯を傾けてこの私と対面する

のだと言われています。

(2)﹁このことを﹂

ただイエスにまかせるとい

うのでない、死と甦りの主、

十字架と復活、このことに対

して告白がせまられていま

す。

(3)﹁信じるか﹂

よいと思うか、とか好きだ

と思うか、ではなく生涯を傾

けるか。自分で自分が信用で

きない様な私たちをつかまえ

て、生涯的生命的決断を問わ

れています。主イエスを信じ

ることをゆるして下さる主イ

エスの真実と業に圧倒されま

す。

わたしのヨハネによる

福音書 

第11章

﹁このことを信じるか﹂とイエス

様は私の目を真正面から見て聞

いていらっしゃいます。私はこ

の時主に対して﹁信じたいと思

います﹂でも、﹁ちゃんと信仰告

白はしました﹂でもなく、今、そ

していつも﹁はい、主よ、あなた

が世に来られるはずの神の子、

メシアであるとわたしは信じて

おります﹂と告白します。

この問いは私に向けられてお

り、私の言葉で﹁信じます﹂と言

う時に、私は両親や教会の人々、

お友達や同僚から切り離されて

一人で立っているんだなぁ、と

改めて思います。それはみんな

と無関係になるというのではな

く、そう自分の言葉で告白する

時に初めて﹁主に在る兄弟姉妹﹂

が成り立つと思うのです。

でも、そうやって公に言えない

様な悲しみを持っている人を主

イエス様は相手にして下さらな

い、という事ではない。むしろ、

その様な心の痛みこそ、誰より

もイエス様は御存知であり、そ

のままイエス様に差し出してい

いんだなぁ、とつくづく思って

いるんです。

よく昔の踏み絵みたいなことが

あったらどうしよう等と聞きま

すが、私はそんな事は少しも心

配していません。信仰に自信が

ある、というのでなく、主はそ

の時その時に必要な信仰を与え

て下さると信じ切っているので

す。

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ヨハネ福音書

〒180-8691 武蔵野支店郵便私書箱36号日本FEBC「ティールーム係」

キ リ ト リ 線

わたしのヨハネによる

福音書 

第12章

12

12章のメッセージ

イエス・キリストは、王

として主として神として

迎える為に来て下さる

神、私たちの救い主です。

注目すべき聖句(

節)

12~15、36

、47~48

1ナルドの香油

     

(

1~11節)

ナルドの香油はインドの

植物からとったもので、非

常に高価なものでした。宴

会に於いて主賓に油を注ぐ

ことはユダヤの風習であっ

て、珍しいことではありま

せん。しかも婦人が髪をと

くことは、極度のへりくだ

りを意味します。﹁一リト

ラ﹂(

一斤)

それはおよそ労

働者の一年分の収入に相当

するほどの高価なもので

した。マリヤは金持ちだっ

たのでしょうかというとそ

うとも思えません。それな

ら何故これほどのことを惜

しげもなくしたのでしょう

か。私は思います。マリヤ

は当然のこととして自分の

考えられる全存在をあげて

イエスに投げかけているの

です。私たちが主イエスを

信ずるということは、単な

るキリスト教教理の同意と

か、神学の理解とか、信仰

の先輩に対する尊敬から始

まるかもしれませんが、そ

の様なところにとどまって

いたのでは、風が吹いてき

たらひとたまりもない信仰

です。主イエスの十字架な

しには復活なしには自分の

存在はないと、心からなる

感謝を本気でした人間は価

値観が一変するのです。福

音の為に、主イエスの為に

献げることが喜びとなるの

です。それは慈善事業と次

元を異にしたものです。(

善事業が無意味であるとい

うことではありません。)

あふれ出る感謝が、主イエ

スの為には何でもしようと

喜びをもって主に仕え人に

仕える様に変わるのです。

もしも、社会問題に無関心

な信仰であるならば、それ

は観念化した信仰として正

されねばなりません。社会

実践が信仰告白と共に当然

なされるべきでしょう。反

対に、社会問題にだけ関心

を深め、十字架と復活の主

を伝えず、悔い改めの信仰

を告白しようとしないキリ

スト者があるとするなら

ば、その人は神を知らない

人と言ってよいでしょう。

主を信ずることは全存在を

この主イエスに賭けること

なのです。

2勝利の入城(

12~19節)

この輝かしい入城につい

ては、新約聖書のはじめの

四つの福音書がみな書いて

いるのです。それはよほど

人々の心に深く、しかも素

晴らしいものとしてその光

景がとどめられたのであり

ましょう。主イエスは今や

救い主(

メシヤ)

として公

然とエルサレムに乗り込ま

れたのです。民衆は凱旋将

軍に対するが如くこれを迎

えたのでした。勿論民衆の

期待する救い主ということ

と主イエスの意識に於ける

それとは大きな隔たりがあ

りました。しかし、この出

来事は大変象徴的な事柄と

して注目する必要がありま

す。と申しますのは、この

出来事は、日曜日のこと、

なつめやしの枝(

しゅろの

葉)

をふってイエスを迎

えたということから︿しゅ

ろの日曜日(

パームサン

デー)

﹀と言います。そし

て、この日が実は受難週の

初日となるのです。つまり

この週の金曜日に主イエス

は十字架に架けられてしま

うのです。それだけに、こ

の出来事は人々に印象的で

した。一体何を意味するの

でしょうか。イエスを信ず

る、換言すると受け入れる

とは、主イエスをどのよう

な方としてお迎えすること

が期待されているかを明ら

かにしているのです。イエ

スに対する姿勢は、沢山数

え切れない程あるでしょ

う。パンも与えてくれる病

気も癒しくれる利用価値の

ある方、よい話をする方、

心の持ち方を教えて下さる

方。しかし聖書は全く違い

ます。ここで教えているこ

とは、三つあります。

(1)イエスを王として迎える

こと。

私の人生も私の生命まで

もこの方におまかせし、こ

の方に私の生涯と生命の王

様としていらしていただ

こう。私はこの方に私とい

う城をあけわたしましょ

う。この方に降伏しましょ

う。この方の愛にうち倒さ

れ涙をもって、﹁主イエスよ

私の心に王としておいで下

さい﹂と心からなる感謝を

もってお迎えするのです。

彼はいななく軍馬に乗って

来られる方ではなかった。

政治的解放者が、やがてふ

たたび圧政者に変わって行

くという歴史的事実に照ら

して見るとき、力による支

配は決して人を救わないの

です。人々はその様な王と

して来ることを期待したが

主イエスはろばの子に乗っ

て来られた﹁平和の王﹂な

のです。十字架の主イエス

は、真の神との平和を私た

ちに与えて下さる平和の主

です。この方に自己の主権

をおわたしするのです。

(2)イエスを神として迎える

こと。

ホサナ(

ヘブル語で﹁今

救って下さい﹂の意)

とい

う神への祈りが、歓呼に用

いられています。

(3)イエスを主として迎える

こと。

この方を主人として私と

いう家庭にお迎えするので

す。この方におまかせする

時最善をして下さると信ず

ることです。それは愛と信

頼の世界です。私共は不真

実で疑い深い者ですが、一

度主イエスを心にお迎えす

る決断をし告白した者を主

は信頼し愛して下さり、私

たちと私たちの人生を主

イエスが変えて下さるの

です。私が努力して変わる

のでなく、主イエスの恵み

に感謝してゆく時主が変え

て下さるのです。本当に今

も主は生きておられるので

す。

﹁お願いです。イエスにお目にか

かりたいのです﹂(

21節)

この単

刀直入の願いを持ち、具体的に

そのことを願うことが出来るこ

とはどんなに幸いかと改めて今、

思っています。

私も、ひと頃は聖書の中のあの

箇所、この箇所が分からない、納

得いかない、と質問しました。

いえ、神様の存在そのものが人

間の、自分の思い込みから発し

ているのではないか、その所を

﹁ヤーメタ﹂と言ってしまえば、

要するに何もなくなるではない

か、なんて本気で考えた時もあ

りました。高校1年の時は朝か

ら晩まで﹁死﹂という事が心から

離れずに、自分はもう死んでし

まうかもしれない、と恐れたり

悩んだり。

でも、聖書を読んでいくうちに、

あぁ、全ての鍵はこのイエス様

にあるナ!と分かって﹁イエス

様にお目にかかりたいのです﹂と

祈り、聖書の中に書かれている

イエス様を信じたのです。その

時に神様というお方を知り、そ

こで永遠の生命が与えられる約

束を受け、このお方によって今

日が支えられている事を感謝す

る信仰を与えられました。聖書

の分からないあの事もこの事も、

結局はイエス様に帰って行くん

だな、という事を教えられてい

ます。私の中に不信仰が入り込

む時、私はいつも﹁イエス様にお

目にかかりたいのです﹂と祈るの

です。

13~15