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千葉大学教育学部研究紀要 第65巻 1~6頁(2017)

 先の筆者の論文(宮下,2015)では,Erikson(1950,1958,1959,1964,1968,1969)を始めとして,鑪ら(鑪・山本・宮下,1984;鑪・宮下・岡本,1995a;鑪・宮下・岡本,1995b;鑪・宮下・岡本,1997;鑪・宮下・岡本,1998;鑪・宮下・岡本,1999;鑪・宮下・岡本,2002),宮下・杉村(2010),鑪・宮下・谷・大倉(2014)等を参照しながら,エリクソン(E.H.Erikson)のアイデンティティ理論のポイント(①ライフサイクルという概念,②心理社会的危機の概念,③相互性の概念,④マイノリティの側の視点,⑤時代・歴史の中を生きる人間,⑥擬似種化と超越的アイデンティティ)について記述するとともに,これに基づいて,いくつかの現代の学校教育にまつわる諸問題について議論を行った。それらの諸問題の第一は,「勉強ができない(得意でない)のは問題か」,第二は,「『みんな(と)仲良くしましょう』はこれでいいか」,第三は,「子どものいじめは問題か」,第四は,これらの諸問題を議論していく上で避けて通れない,「大人は大人らしく,子どもは子どもらしく」という内容であった。それに続く本論では,思いつくままのアットランダムではあるが,計6つの点について議論してみようと思う。その多くに,宮下(2015)で議論した上記の「大人は大人らしく,子どもは子どもらしく」という内容が深く関わっているということを予め申し述べておきたい。

⑴ 子どもにボランティアをさせるのはプラスになるか:

 もちろんこの点は,子どもの側から考えれば,現代社会において手薄になっている体験不足等を補うこと,また,社会の側からすれば,いわば労働力として子どもを使用できる等の大きなメリットがある。しかし,そこに

弊害はないであろうか。エリクソンにいわせれば,子どもは主として,教育を受け取る(いわゆるtakeする)立場,一方,大人は教育を与える(いわばgiveする)立場の存在である。つまり,子どもは,他者や社会のことを考えて行動するよりも,自らのやり方や衝動に基づいて行動し,大人や周囲からそれに対する様々なフィードバックを受け取りながら,徐々に発達を遂げていく存在である。これが,「子どもらしい子ども」である。一方,大人は,こうした「子どもらしい子ども」を見守り,その都度彼らに適切な教育を施す(いわば,giveする)ことにより,彼らを社会にとって有用な存在に高めていこうとする存在である。これが,「大人らしい大人」である。この「give」と「take」の絶妙なハーモニーが,子どもと大人の双方の発達にとって重要であると,エリクソンは考えている。すなわち,子どもは,(発達に伴って徐々に可能になるとはいえ)まだ他者のことや社会のことなどそれほど考えられなくていいということである。 これに基づいて,子どもの「ボランティア」の問題について議論してみようと思う。中谷(2008)によれば,ボランティアとは「単なる無報酬の奉仕活動という意味ではなく,自己の自発的・主体的な意思によって社会問題の解決や必要とされている活動を理解・共感し,勤労とは別に労働力,技術,知識を提供すること」と定義されている。簡単にいえば,社会等に対する無報酬の奉仕を指す。エリクソンにいわせれば,この内容は,子どもではなく,むしろ大人に該当する内容と考えられる。現代は,様々な面で大人が先回りして,子どもを導こうとしているように見えることがあるが,ボランティアもその一環で,子どもを早く大人にしていこうとでも考えているのであろうか。大人としての自らの教育を放棄して,子どもに様々な体験を与えるという名目で,実は,大人にとって使いやすい子どもを大量生産しようとしているだけのように思えてしまう。これは,果たして「教育」

E.H.Eriksonのアイデンティティ理論と教育(2)宮 下 一 博千葉大学・教育学部

E.H.Erikson’s identity theory and education(2)

MIYASHITA Kazuhiro Chiba University,Faculty of Education

 本論の目的は,宮下(2015)に引き続き,エリクソンのアイデンティティ理論の観点から,筆者が考える現代の学校教育にまつわる諸問題を取り上げ,その問題提起とともに,それらに関して若干の議論を行うことであった。本論では,①子どもにボランティアをさせるのはプラスになるか,②教師の体罰をどうするか,③教師が子どもに謝らないという問題,④学校の事なかれ主義(隠ぺい主義),⑤校則をどうする,⑥スクールカーストの問題の6つについて,議論を行った。これらの根幹には,「子どもは子どもらしく,大人は大人らしく」というエリクソンが提起する教育に関わる大問題が存在し,大人である教師が,「子どもらしい子ども」に対して,大人らしく対応することの重要性が指摘された。

キーワード:E.H.Erikson(E.H.Erikson) アイデンティティ(identity) 教育(education)

連絡先著者:宮下一博 [email protected]

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千葉大学教育学部研究紀要 第65巻 Ⅰ.教育科学系

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なのであろうか。この議論をさらに進めていく前に,現代の教育の世界で行われている,子どもを対象とする具体的なボランティアの内容のいくつかについて,紹介してみたいと思う。これらは,筆者が住む千葉県のホームページ(2016)に掲載されていたものである。このホームページには,冒頭に,「平成28年度夏休みボランティア体験情報」とある。まず最初にあるのは,イベント名・内容が「高校生のためのボランティア体験活動:福祉,保育環境等の様々な分野の講義,実習,施設の見学を通して,ボランティアの意義について学んだ後,夏季休業から9月にかけて各自希望するボランティア活動を行う」というものである。続いて掲載されているのが,

「中学生ボランティア講座:障害者とのスポーツによる交流」,さらに,いくつか順不同で記載すると,「小学生のための夏休み体験講座:市内の小学4年生から6年生を対象とした福祉体験講座」,「小中学生ボランティアスクール:小4~中3の児童生徒が夏休みに保育園やデイサービス等でボランティア体験」,「夏休み子どもボランティア体験教室:有料老人ホームや特養老人ホームに出向き,ハンドマッサージボランティアの体験やドッグセラピーへの参加を行う」,「夏休みボランティア体験教室:赤い羽根共同募金について学び,募金活動のPRグッズを工作する活動体験」,「夏休みボランティア体験教室:市内小学4年生から高校3年生を対象に点字・手話・社会福祉施設・児童クラブ・防災・緊急ボランティアを体験」,

「ボランティアスクール:手話講座,認知症講座,車いすダンス体験,施設訪問など」等々,実に様々なものが掲載されている。これらを見ると,ボランティアの内容としては,福祉施設や障害者施設での支援活動,保育園に対する支援が中心であるが,身近なところでは,地域の清掃活動なども一般的に行われているものであろう。 繰り返すが,もちろん,上述したように,これらの活動が子どもの発達にプラスの影響を与えることもある。しかし,筆者には,弊害の方がそれを上回るように思えて仕方がない。それをさらに感じざるを得ないのが,ボランティア等のいわゆる学校外の諸活動に関して,高校や大学等が,それを単位として認定し,さらにその単位の上限を拡大していくという時代の流れである。ボランティアというものは,本来,人の善意の自由意思に基づく奉仕活動であるはずのものであり,そこに「学校の単位」という分かりやすい報酬が持ち込まれることには,かなりの違和感を感じざるを得ない。これでは,子どもにとって,ボランティアというものが,学校での卒業目的や,場合によっては,上級の学校に進学するための道具として利用される可能性があり,ボランティア自体の目的を履き違えた本末転倒の認識を促進させてしまう恐れがある。つまり,ボランティアをすることは,人や社会のためではなく,自分のために行うという認識である。現状のやり方では,子どもをこのように導いてしまう可能性が高いように思われる。 さて,では,子どもを発達させていくことを考える時,ボランティアに代わるものとして何が良いであろうか。いわば少子化等の現代の時代の流れの変化の中で注目されてきたのがボランティア等の体験活動に他ならないが,これに代わるものは,子どもの身近にいくらでも存在す

る。例えば,友人(仲間)との関わりや付き合い,学校での係りの活動,家庭での手伝いを重視した関わり(教育)など,子どもの身近な生活の中に,いくらでも見出すことができる。これらの中には,教師や親等の大人の見守りや支援がより一層求められるものもあるが,それをやり遂げてこその「大人」ではないだろうか。多少の手間暇がかかる可能性はあるが,あたかもそれを手抜きをするかのように,子どもをボランティア活動に追い立てるよりも,遥かに子どものためになるように思われるのである。 教育における拙速は,非常に危険である。子どもに早々と社会体験を積ませ,早めに物分かりの良い大人にしようとでも考えているとしたら,これは弊害の方が上回ってしまう可能性が高い。ボランティア体験は,その一つかもしれない。子どものボランティア体験に関して大人が考えているのは,実は「子ども」のことではなく,「自分自身」のことかもしれないということを,大人らしい大人には再考してもらいたいし,気づいてほしいと考えている。

⑵ 教師の体罰をどうするか:

 体罰に関しては,論外の行為というしかない。しかしながら,教師にとっては,いずれの行為が「体罰」に相当し,またそのいずれがそうでないのか(いわゆる教育の一環という認識)という点に関して,現実的に分かりにくいという理解もあり得るかもしれない。それを判断できないこと自体,教師失格と考えられないこともないが,大人になりきれていない教師の中には,このような教師がかなり存在する可能性もある。この点に配慮して,文部科学省のホームページ(2016)には,「学校教育法第11条に規定する児童生徒の懲戒・体罰等に関する参考事例」が掲載されている。それによれば,「通常,体罰と判断されると考えられる行為」として,①身体に対する侵害を内容とするもの,②被罰者に肉体的苦痛を与えるようなもの,という2点の記載がある。①に関しては,

「体育の授業中,危険な行為をした児童の背中を足で踏みつける」,「帰りの会で足をぶらぶらさせて座り,前の席の児童に足を当てた児童を,突き飛ばして転倒させる」,「授業態度について指導したが反抗的な言動をした複数の生徒らの頬を平手打ちする」,「立ち歩きの多い生徒を叱ったが聞かず,席につかないため,頬をつねって席につかせる」,「生徒指導に応じず,下校しようとしている生徒の腕を引いたところ,生徒が腕を振り払ったため,当該生徒の頭を平手で叩く」,「給食の時間,ふざけていた生徒に対し,口頭で注意したが聞かなかったため,持っていたボールペンを投げつけ,生徒に当てる」,「部活動顧問の指示に従わず,ユニフォームの片づけが不十分であったため,当該生徒の頬を殴打する」,また,②については,「放課後に児童を教室に残留させ,児童がトイレに行きたいと訴えたが,一切,室外に出ることを許さない」,「別室指導のため,給食の時間を含めて生徒を長く別室に留め置き,一切室外に出ることを許さない」,「宿題を忘れた児童に対して,教室の後方で正座で授業を受けるように言い,児童が苦痛を訴えたが,その

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E.H.Eriksonのアイデンティティ理論と教育(2)

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ままの姿勢を保持させた」というものである。このようなことを人から指摘されなければ分からないような教師は,再度,教職課程を受講しなおす必要があるとも考えられるが,裏を返せば,それが現代の教育が抱える大問題といってもいいのかもしれない。 体罰は,当然のことながら,暴力行為の一種であり,刑法が規定する傷害罪(暴行罪)に問われる可能性がある重大な犯罪行為である。発達途上の子どもは,思うようにいかない時などに,他者に対して暴力行為に及ぶこともあるが,大人である教師は,これを行うこと自体が犯罪行為として罰せられ得るし,ましてやこれを自らの教育対象である子どもに向けるというのは,到底他者や社会の理解を得ることなどできない。また,あえてこのような法的根拠を引かなくても,心理学的側面から,簡単に暴力行為が人に与える悪影響を説明することができる。つまり,暴力というものは,程度の差こそあれ,基本的にそれを受けた側に怒り(場合によっては無力感)の感情を引き起こす。これは,いくら事前事後に,子どもがその正当性についての説明を受けたとしても,である。そればかりか,その後にその怒りや不満を増幅させるなど,より一層の反発が生まれる可能性があるということを覚悟しておかなければならない。つまり,そこに教育的効果は,微塵もないどころか,逆効果の可能性が高いということである。 このように考えると,教師が体罰を行うということは,子どもの正常な発達を阻害させ,むしろ発達の停滞や逆向を招く恐れが高い。教師自身も,これまでに1度くらいは他者から暴力を受けた経験があるのではなかろうか。人間は,人から暴力を受けることで,その辛さや痛さを初めて認識するが,そのような経験が,人に対する暴力を抑止するようになるという点も重要である。これにより,自らが受けた辛さや痛みを,どのような他者にも与えてはならないという認識が育まれるのである。筆者も,小学生の時に,1度だけ,当時の親友が突然殴りかかってきたという経験をしたことがある。原因は,その親友の誤解であったが,その時は突然の驚きとともに,怒りが沸き起こったことをよく覚えている。親から,「人に暴力を振るってはいけない」と教えられていたので,殴り返すことはしなかったが,強い憤りの気持ちが湧き上がってきた。その後,その当人が母親同伴で謝罪に来てくれたことで,その友人関係は何とかもとの鞘に収まったが,ショッキングな経験ではあった。その親友とは,高校までずっと同じ学校で,今では行き来こそないが,それでも互いの現況について確認しあうというような関係を維持し続けている。その時の私にとっては,痛い1発ではあったが,重要なことを教えてもらえたような気もしている。 話は少し変わるが,現代の教育現場において,「部活動における体罰は別物」というようなことも耳にしたことがある。その背景には,部活動は必修ではなく,その個人の自由意思で選択ができること,時にスポーツ入学等の関係で,本人も保護者も厳しい指導を期待していることなどがその理由であるが,これをどのように考えれば良いであろうか。これに関しては,現実的には,ここ数年間,様々な問題が提起され,それにより部活動の顧

問が懲戒処分を受けたり,その部活動が廃止になるなどの影響も数多く見受けられた。その趨勢からして,現在では,部活動における体罰も,通常の教育と同様に否定的に捉えられるようになってきてはいるが,学校の部活動にもそれぞれ長い歴史があることから,学校によっては,あるいは部活動の種類によっては,まだそれが完全に徹底されてはいないという可能性もあるではないかと考えられる。 とにかく,暴力は,人の思考を停止させ,怒りを惹起させるという決定的な影響を人間に与え得る。特に,発達途上の子どもが,いわば赤の他人の教師から受ける暴力(体罰)は,教育的効果がないばかりか,逆効果となる可能性が高いということを,教師の側は十分認識しておく必要がある。教師が,子どもに振るっていい暴力などない。もし,「暴力(体罰)」を使用しなければ教育ができない教師がいるとしたら,その人はむしろ決して教師になってはいけない人というべき存在であり,教育現場からレッドカードを提示されている人といわなければならないであろう。

⑶ 教師が子どもに謝らないという問題:

 子どもの側からは,「教師は,子どもの側が遅刻をしたり,授業時間に遅れたりすると怒るくせに,自分が授業に遅れても謝罪の言葉がない」,「子どもには,マナーが悪いと叱るくせに,自らはイライラがコントロールできず,子どもに八つ当たりばかりする」というような話を耳にする。これを現場の教師に聞かせると,「とんでもない教師がいるものだ」とまるで他人事である。その人が模範的な教師なのか,あるいは自分のことが見えていない教師なのかはさておくが,現実問題としては,教師も,教育の専門家であるとはいえ,やはり一人の人間であり,間違いや不適切な言動などをすることも時にあり得る存在と捉えておくべきであろう。もちろん,反面教師そのものは困るが,それが実際のところではないだろうか。その前提でこの問題を考え進める時,実は,そのような際に,教師がどのように対応するか(対応できるか)で,教師人生が大きく左右されると考えるべきであろう。教師にとって,子どもの前で謝るというのは,自尊心が許さないことかもしれない。「死んでも謝らない」と,頑固に自らに言い聞かせてしまうのかもしれない。しかし,それは,果たして教育にとってプラスに働くであろうか。自らのプライドや頑なさを維持したとして,それがその後の教育にどのように生きると考えるのであろうか。「その場を適当にしのいでしまえば,子どもたちは忘れてくれる」とでも考えているとしたら,その後の大きなしっぺ返しを覚悟しておかなければならないであろう。子どもの側からすると,教師がきちんと謝罪をすれば,子どもは教師をバカにすることなど決してない。むしろ,謝罪をしなかったり,うやむやにするというような態度が,子どもからバカにされ,子どもからの信頼を失墜するという結果を生む。人間は誰でも,人前で謝罪することはしたくないし,ましてや大人が子どもに謝罪するというようなことは,大人の側は,絶対に避けたい事柄ではなかろうか。では,人に謝罪するとい

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千葉大学教育学部研究紀要 第65巻 Ⅰ.教育科学系

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う行為は,駄目な行為,情けない行為なのであろうか。心理学的に考えると,実はこれはまったく逆の話に帰結する。人前で謝罪をするというのは,その人の「弱さ」を表す行為のように見えて,実は逆に,その人の「強さ」が現れている行為と捉えるのである。つまり,「人前で自分の欠点や弱さを見せられる人」は,表面上は弱そうな人に見えるが,心理的に「強い人」と考えるのである。むしろ,うやむやにしたり,強がって自己弁護に終始したりする方が,「弱い人」に相当すると考えるのである。 子どもは,発達途上の存在であり,まだまだ心理的に弱い存在であることから,「自らの弱さ」を人前で晒すことを非常に恐れる。いじめられていてもそれを人に言い出せないのも,(もちろんそれだけではないが)ある面,その点が関係している可能性がある。悪いことをして叱られた時に,その行為を否定したり,言い訳に終始するのも,子どもの特権である。それが,「子どもらしい子ども」の姿なのである。しかし,これは,決して大人の特権ではない。大人がこれをすることは,「子どものような大人」のすることであり,それゆえに,子どもから「大人らしくない」と認識され,批判の的にもなるのである。子どもは,自らがまだ弱い存在であることから,自分が

「謝ること」は苦手であるにしても,人が「謝ること」に対しては,本質的にそれを適切に受け止める力を持っていると考える方が良い。子どもは,大人と比べると,遥かに純粋であるし,鋭い直観も有している。それゆえ,

(大人対大人の場合には,そのようにいかないこともあるが)真摯な謝罪に対しては,それをきちんと受け止められるのである。 であるから,教師は教育において,これを活用すべきと考えられる。子どもに真摯に謝罪することにより,教師と子どもの関係は格段に成長するし,それにより,教師自身の発達はもちろん,子どもの発達も進むと考えるべきなのである。子どもの側からすれば,それが心理的な強さを持った「大人らしい大人」の姿であり,自らの未来を照らし出す光の源泉にもなり得る。子どもは,見た目は大人でも中身は子どものような,残念な大人の姿を決して見たくはないであろう。そうではなくて,日々何があっても真摯に努力を重ねていく,「大人らしい大人」の姿を見たいに違いない。そのような「大人らしい大人」の姿に自らの未来を重ね合わせることで,自らの未来に「希望」の光を見出そうとしているのではないだろうか。

⑷ 学校の事なかれ主義(隠ぺい主義):

 現代の学校現場の「事なかれ主義」には,呆れ切っている人も多いのではなかろうか。代表的なものとしては,いじめを巡る学校の対応が挙げられるであろうが,それ以外にも,不祥事の隠ぺいなどが散見される。とにかく,学校にとって不利になる情報は,内部に押し留めて,外部に出さないという態度である。とりわけ,いじめを巡る対応には,酷いものがあると感じている。例えば,いじめ自殺の問題は,ある意味,当該の子どもの究極的な叫びがそこに存在する事件であるが,学校側の見解として,「調査の結果,その背景にいじめがあったとは認め

られない」とか,「担任はそれに気づかなかった」,「当該の子どもからの訴えがなかった」などと,逃げまくる対応が良く見受けられる。百歩譲って,これらが真実であり,教師が本当にいじめに気づかなかったとすれば,それは教師の怠慢に他ならず,いわば子どもとの関係やその信頼関係づくりに失敗した証左になってしまうのであるが,常識的に考えれば,その子どもの最も身近にいる教師が,それを完全に見過ごすということは,余ほどの無能な教師でない限り,難しいと考えるべきであろう。無能な教師は論外として,これらの背景には,体裁ばかり考えて,現実にはそこにいじめがあるにもかかわらず,「いじめはない」といわざるを得ない,現代の教育現場の上意下達のやり方や成果主義の弊害がそこにあるといってもいいかもしれない。 こうした「事なかれ主義」は,いつ子どもの反発を招いてもおかしくはないが,従順で賢い子どもたちからすれば,自らの立場を考えて,これに深く立ち入らずに,そのままやり過ごすという方法を選択する可能性が高い。ただし,これにより,子どもは,一方で,教師(大人)の世界の醜さを意識的無意識的に感じ取ってしまうことにより,大人に対する不信感を抱えてしまう恐れがあるし,他方では,無条件にこの「事なかれ主義」という方略を受け入れ,自らが大人になった時に,この方略を多用する存在になるということも考えられる。いずれにしても,「事なかれ主義」が子どもに与える影響としては,子どもが健全に発達していくという観点から考えた時には,その発達を妨げる要素ばかりが目につき,反面教師にはなっても,子どもの手本にはまったくなり得ないということになる。「嘘をつく」とか,「責任逃れをする」,「自己弁護をする」というような人は,もちろん一般の人の場合でも見苦しく見えるわけであるが,教師の場合には,子どもに与える影響という点を考えると,その深刻さはより大きいということをもっと自覚しておくべきであろう。教師は,包み隠さず真実を語ったり,(これは,前項で論じた点であるが)きちんと謝罪するという行為をすることが,何よりも重要になる仕事と考えるべきであろう。 現代の学校現場では,「事なかれ主義」が蔓延していることに対して,もっと危機感を持つべきだと考えられる。子どもと真に向き合う教育を優先させることは教育の前提であるが,それを行うためには,教師は自らの役割を徹底的に頭に叩き込み,子どものために働くということを肝に銘じておく必要がある。「学校のため」とか

「自分(教師)のため」という間違った教育観を一掃し(これを自覚できていないとしたら,それこそどうしようもないが),「教師らしい教師」になっていくことこそが,子どもの期待に応える道,子どもの発達を支える道であり,教師が「大人らしい大人」へと変貌する近道といえるかもしれない。

⑸ 校則をどうする:

 一時に比べると,非常識と思える校則は減少しているようにも感じられるが,Saori(2016)に,これまでのものも含めて,面白そうな校則が沢山掲載されているの

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E.H.Eriksonのアイデンティティ理論と教育(2)

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で,アットランダムに紹介してみよう。まずは,小学校編。「学校では半ズボンで過ごす。扁平足対策で学校では裸足でいることが義務づけられていた。どんなに寒い日でもマフラーの使用は禁止。ラブレターを渡す時には担任の先生に断りを入れる。シャープペンの使用禁止。自転車で立ちこぎをしてはいけない」。次に中学校編。「スカートの丈は膝から10センチ下。ラインの入った靴下はライン1本のみOK。フォークリフトの運転禁止。日焼け止めは無味・無臭のもの」。最後に高校編。「使用するトイレットペーパーは○○センチ以内。駅での待ち合わせ禁止。校舎内は,紫のサンダルを使用。女子をじっと見つめてはいけない」。 さて,校則とは,なぜ存在するのであろうか。文部科学省(2016)によれば,校則とは,「児童生徒が健全な学校生活を営み,より良く成長・発達していくため,各学校の責任と判断の下にそれぞれ定められる一定の決まり」を意味する。この定義に沿って考えた時,上述のような校則は,ほぼ理解不能となる。「健全な学校生活」,「児童生徒のより良い成長・発達」のいずれの要素も,そこに盛り込まれているとは思えないからである。このような学校や教師の一方的な都合で児童生徒を枠づけしようとするだけの校則は,即廃止すべきであろう。 では,校則に関して,学校や教師が注意すべきことは何であろうか。それを考える時に重要になるのが,上記の校則の定義のうちの,「児童生徒のより良い発達」という点である。この「より良い発達」へと導く重要な要素として考えられるのが,教師が彼らと十分なコミュニケーションを取りながら,場合によっては,現行の校則を変更していくという姿勢である。その際に一つ参考になるのが,教師が児童生徒に対して,「その校則を設定する理由について,説得力のある説明ができるか否か」という点である。例えば,児童生徒から。なぜ,「頭髪の染色禁止」なのかを尋ねられた時に,教師としてどのような説得力を持った説明ができるであろうか。もちろん,「校則で決まっている」という説明は論外であるが,

「中学生(高校生)らしくない」というような曖昧な説明しかできないのであれば,これはまったく説得力のある説明にはなっていない。もし,教師が説得力のある説明ができないのであれば,その校則は,即廃止すべきである。また,児童会や生徒会で校則について主体的に議論させるという点を考えることも重要であろう。とにかく,教師が上から目線で,一方的に,児童生徒を取り締まるというやり方は,むしろ彼らの成長・発達を阻害するだけなのである。ところで,その学校の長い歴史を考えると,何十年も校則をそのままにしておいたのでは。時代錯誤的なものが残存している可能性が残る。先ほどの,Saori(2016)にも,「げたで登校しない。プールでは,ふんどし禁止。男女で話す時は,半径5メートル以内に近づかない」というような,長い歴史を持った学校ならではの過去の遺物がそのまま残されたままというケースもある。これでは校則の意味も薄れてしまうので,教師は,その学校の校則を無条件に受け入れて指導を行うのではなく,適宜,それらが児童生徒に与える影響等も考えながら,校則の吟味を重ねていくという態度が肝要と思われる。

⑹ スクールカーストの問題:

 いつの頃からか,このような恐ろしい言葉を聞くようになった。本学の学生の中にも,この被害にあった者がいるらしく,ゼミなどで話に上ることがある。インターネットのあるホームページ(http://d.hatena.ne.jp)に,このことの詳細が紹介されていた。それによれば,スクールカーストとは,主に中学・高校で発生する人気のヒエラルキーを意味し,俗に1軍・2軍・3軍,A・B・C等と呼ばれる固定化したグループにクラスが分断され,グループ間交流がほとんど行われなくなる現象を指すのだという。また,ここでいう人気とは,特定の人間関係市場における,その人の市場価値を意味するもので,中高校生にとっては,「一緒にいて面白いこと」,「外見的魅力に優れていること」,「運動能力が高いこと」などが上位層になりやすい特徴だという。そして,下位層の者ほど,いじめの対象にされたり,交友関係の剥奪,道化キャラの強要などの被害を被るのだという。 さて,これだけあからさまにスクールカーストの存在が強調されると,現代の教育の現場には,このような恐怖の人間関係の仕組みが必ず存在するという前提で,この議論を進めていくべきとも思われるが,筆者は,これはそもそも教師の生徒指導の失敗と捉えているので,まずその予防を考えるのが先決と考えている。つまり,これを受け入れた上で教育を行うということを考えるのではなく,どうすればこのような学級にならないのか,という点を考えることこそが,教師の使命ではないかと考える。ゼミの中で学生の話を聞いていると,彼らは教員養成課程の学生であるにもかかわらず,上位のカーストに入る苦労や,下位でいることの辛さばかりというのが非常に気になった。まだ学生ということで大目に見なければいけないのであろうが,自らが教師としてこれに立ち向かうという気概はまったく感じられなかった。その時に,筆者は「クラス内にスクールカーストができるのは,生徒指導の失敗だ」とコメントしたことがあるが,学生たちには,その意味が良く分からないような様子であった。これは,現代の教育現場の中に,このスクールカーストの問題が,根深い形で存在しているという証左なのかもしれない。筆者からすれば,これを前提としてどのように生徒指導を行うのかというアイディアは浮かばない。生徒指導とは,「一人一人の児童生徒の人格の尊重」,「個性の伸長」,「社会的資質や行動力の育成」を主たる目的に掲げる教師の重要な教育活動であり,スクールカーストの問題は,これと真っ向から対立する現象のように見えるからである。もちろん,教師の教育の失敗によりスクールカーストができてしまった場合は,教師は,自己責任で,その解消に努めなければいけないが,何よりも,普段の教育の中で,人間の多様な個性や生き様の違い等について考えさせることを通して,人間を序列化したり,差別したりすることの愚かについて,子どもたちの理解を深められるよう,教師が関わることこそが重要と考えられる。それでも,子どもはあくまでも子どもであるわけで,スクールカーストの問題は簡単には解消しないかもしれない。教師としては,それも覚悟の上で,子どもたちに地道にこの問題を考えさせ続け

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千葉大学教育学部研究紀要 第65巻 Ⅰ.教育科学系

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るという努力が必要と考えられる。教師としては,少なくとも,子どもたちが,このような恐ろしい言葉を使わなくなる学校や社会にしていかなければならないという覚悟で,実りある生徒指導を続けていただければと切に願う次第である。

引用文献

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と教育(1) 千葉大学教育学部研究紀要,64,49‒54.宮下一博・杉村和美 2010 大学生の自己分析:いまだ

見えぬアイデンティティに突然気づくために ナカニ

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鑪幹八郎・宮下一博・岡本祐子(共編)1997 アイデンティティ研究の展望Ⅳ ナカニシヤ出版

鑪幹八郎・宮下一博・岡本祐子(共編)1998 アイデンティティ研究の展望Ⅴ-1 ナカニシヤ出版

鑪幹八郎・宮下一博・岡本祐子(共編)1999 アイデンティティ研究の展望Ⅴ-2 ナカニシヤ出版

鑪幹八郎・岡本祐子・宮下一博(共編)2002 アイデンティティ研究の展望Ⅵ ナカニシヤ出版

鑪幹八郎・山本力・宮下一博(共編)1984 アイデンティティ研究の展望Ⅰ ナカニシヤ出版


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