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コミュニケーション・メディア史⑤ 流行歌―大衆文化の開花

コミュニケーション・メディア史2017 05

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コミュニケーション・メディア史⑤

流行歌―大衆文化の開花

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蓄音機

エジソンが1877年に発明

フォノグラフ

銅製の円筒に錫箔(のち蝋)

を巻く,蝋管レコード

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ベルリナー式

エミール=ベルリナーも

1877年に錫箔円筒式蓄

音機を発明

グラフォ(モ)フォン

円盤型記録装置を再生し拡声

1888年,錫箔から硬質ゴム(のち塩化ビニール)に記録面の素材を変更

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蓄音機とレーベル

エジソンとベルは「フォノグラフ」で「コロムビア」を設立(1895年:米)

ベルリナーは「グラモフォン」(1897年:英)。1901年にビクター・トーキング・マシーン設立(米:His Master’s Voice:HMV)

1931年にコロムビアとHMVが合併し「EMI」。グラモフォンはRCAの傘下に(29年)

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日本流行歌前史

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日本の伝統音楽(邦楽)

長唄(歌舞伎の伴奏音楽。三味線歌曲)

新内節・清元節・常磐津節(浄瑠璃)

端唄(劇歌から独立した小歌曲)

小唄(花柳界で奏唱される短い端唄)

都々逸(三味線で歌う七五調の俗曲)

謡曲(詩吟にメロディーをつけて詠唱)

民謡・俚謡 浪曲都々逸―惚れて通えば 千里も一里 逢えずに帰れば また千里

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歌舞音曲

明治・大正の日本人は,日常生活の中で,歌を歌っていたか?

歌舞音曲は遊蕩(道楽)に属するもので,真っ当な人間は嗜まないもの

文部省唱歌の制定は明治43(1910)年

音楽を慰安,思想の表現物,全人格的なものとして捉えるのに,日本人は実に長い準備期間が必要だった

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高村光太郎の嘆き

語るに足る専門家が多く出ないのは,日本人全体の音楽的でたらめが根本に禍しているのだと思ふ。一般人に耳の無い事が悪いのだと思ふ。女学生の合唱,路傍で人が口ずさむ流行歌,応援歌などの大衆の蛮声に耳を傾ける。そこには音楽も何もない。ただ,ちぐはぐな音の上り下りがあるばかりだ。

高村光太郎「ラヂオの児童音楽」1931年

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オッペケペー節新派俳優の川上音二郎が流行

させた演歌。時事的・啓蒙

的内容を盛り込む(→浪曲

における“新聞(しんもん)詠

み”)

1900年にパリ万博で,日

本人として初めてレコードの吹込み

男女の機微について歌うものは「艶歌」と呼ばれた

演歌はその後「書生節」とも総称された

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日本のレコード産業事始

1909年,日本初のレコード会社,日米蓄音器製造株式会社設立(日蓄)。1927(昭和)2年にコロムビアと提携し,日本コロムビアに

1927年,日本ビクター設立

他に日本ポリドール蓄音器商会(独グラモフォンと提携)など(27年に初の“電気吹き込み”のレコードを発売)

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初の“ヒット曲”

• 女優・松井須磨子が1914(大正3年)にリリースした 『カチューシャの唄』

• 劇団芸術座の第3回目の公演『復活』の劇中歌

• 詞:島村抱月・相馬御風,曲:中山晋平• アイドル的人気の須磨子により,2万枚のヒットになった

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松井須磨子『カチューシャの唄』

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ラジオの開始

1925年3月

当初は音楽をレコードでかけることはきわめて稀だった

①レコード会社が「営業妨害」と反対したため(専属歌手は出演を拒否した)

②放送での音楽著作権支払い方法が未決定だったため(→プラーゲ旋風)

1925年の蓄音機普及は推定450万台

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流行歌の誕生

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大福帳課題

日本の流行歌の起源をどこに求めるかは定説がない。これから五つの説を紹介する。「最も妥当性がある」と判断した説を,大福帳の本日の欄に記述しなさい。別の説について論じても構わない

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流行歌の誕生①添田啞蟬坊。川上音二郎らの「壮士演歌」「革命歌」の流れを受けて,政治批判ではない純粋な演歌(艶歌)を1892(明治25)年頃から1925年頃まで(=大正年間に)全国を放浪しつつ作曲

レコードでは残っていないが,色街などでは歌い継がれ,1960年代後半のフォークソング運動の頃にも,日本固有の演歌としてリバイバルした

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マックロ(ケ)節

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復興節演歌師は縁日・夜店などで,時事ネタの歌を吟じ,歌詞を収録した「演歌本」(↓)を売った(新流行唄とある)。その意味では,「読売(瓦版)師」の直系でもある。政治・社会諷刺で何回かは罰金刑をくらっている(出版社ではないので発禁にできない)。

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大正ロマン主義『船頭小唄』1921(大正10)年,民謡『枯れすすき』として,詞:野口雨情/曲:中山晋平が作成。演歌師がレコードを出し,映画も公開。「俺は東京の焼け出され同じお前も焼け出されどうせ二人はこの世では何も持たない焼け出され」と啞蟬坊は替え唄として(地震小唄),関東大震災の被災者の声を代弁した。

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流行歌の誕生②東京音楽学校(現・東京藝術大学)で声楽(西洋音楽)を学び,クラシックに進まず,「はやり歌」に転身した人

発声法・歌唱法(+作曲法)などはクラシック(歌曲)に準拠

藤原義江・佐藤千夜子・羽衣歌子・藤山一郎・松平晃ら

根深いクラシック・コンプレックス

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『波浮の港』(1928)

詞:野口雨情/曲:中山晋平

歌:佐藤千夜子/藤原義江(競作)

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新民謡

• 1920年代(大正末~昭和)に,地方自治体や地方の企業などの依頼により,その土地の人が気軽に唄ったり踊ったりでき,愛郷心を高め,その地区の特徴・観光地・名産品などを全国にPRする目的で制作された歌曲で,はやり歌の一ジャンルとなった。「ご当地ソング」の先がけでもある

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新民謡『ちゃっきり節』1927年詞:

北原白秋・曲:

町田嘉章。静岡市近

郊に開園した狐ヶ崎遊園地の広告用と

して、静岡鉄道が依頼して制作した。

地元芸妓衆の歌・踊りにより発表。

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『東京行進曲』

詞:西條八十/曲:中山晋平

/唄:佐藤千夜子 1929(昭和4)年

小説(菊池寛)・映画(溝口健二監督)とのメディアミックス(平行企画の映画主題歌第一号)で,25万枚のヒット

佐藤千夜子は音楽学校中退者

意図的に流行らせたという意味で,「流行歌の誕生」(②)という評価

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昔こいしい 銀座のやなぎ仇な年増を だれが知ろジャズで踊って リキュルで更けて明けりゃダンサーの なみだ雨

恋の丸ビル あの窓あたり泣いて文(ふみ)書く 人もあるラッシュアワーに 拾ったバラをせめてあの娘(こ)の 思い出に

広い東京 恋ゆえ狭い粋な浅草 しのび逢いあなた地下鉄 わたしはバスよ恋のストップ ままならぬ

シネマ見ましょか お茶のみましょかいっそ小田急で 逃げましょか変る新宿 あの武蔵野の月もデパートの 屋根に出る 小田原急行

1927年開業

銀座線1927年

丸ビル1923年

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雑誌「キング」

1924年12月創刊–庶願ふところは我が国民の全部に亘り,職業,階級,貧富貴賤の差別なく,老若男女,智識あるものも,智識なきものも,翕然として爰に集り,限りなき興味を以て耽読しつつある間に,自ら高尚なる気品と,堅固なる道念とを涵養せられ,一世是によってその風を改むるに至らんことである

「日本一面白く,為になる」修養雑誌1925年末の新年号は150万部を完売

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『女給の唄』

昭和6(1931)年,羽衣歌子(音大卒)

詞:西條八十/曲:塩尻精八

廣津和郎『女給』の映画化主題歌

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流行歌の誕生③古賀政男(明治大学マンドリン倶楽部)

大学卒業後,日本コロムビア専属の作曲家に(1934年,テイチクに移籍)

レコード会社専属で「はやり歌」を量産

大正ロマンチシズムの流れを汲む,和音階(ヨナ抜き短調)で朗々たる「哀愁の古賀メロディ」で,2016年の今日もなお歌い継がれる

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『酒は涙か溜息か』

昭和6(1931)年,藤山一郎(音大卒)

詞:高橋掬太郎/曲:古賀政男。30万枚

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『影を慕いて』

昭和7(1932)年,佐藤千夜子/藤山一郎(競作) 詞・曲:古賀政男

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『丘を越えて』

昭和7(1932)年,藤山一郎

詞:島田芳文/曲:古賀政男

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『サーカスの唄』

昭和8(1933)年,松平晃

詞:西條八十/曲:古賀政男松平晃も、武蔵野音楽学校→

東京音楽学校師範科で声楽

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『人生の並木路』 詞:佐藤惣之助/

曲:

古賀政男

昭和十二(

一九三七)

年。ディック・

ミネ

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妹(いもうと)

日本では古来,愛しい女性を示す用語であり(=いも),年齢の上下・肉親であるか否かを区別する言葉ではなかった

川内康範の『おふくろさん』が普遍的な母性を歌っているのと同様,『人生の並木路』は普遍的な男女関係(路の両側に立つ男木と女木による“並木路”)を歌っていると解釈すべきか?

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流行歌の誕生④音楽学校声楽科以外の「はやり歌プロパー」の歌い手の誕生

伝統音楽(俗謡)の担い手で,歌舞音曲を生業としていた「芸妓」からの転身

浅草の軽演劇・軽音楽など大衆芸能の担い手(俳優・専属歌手)の兼業

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『島の娘』

芸妓出身の小唄勝

太郎(当時29歳)昭和8(1933)年

詞:長田幹彦

/曲:佐々木俊一

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小唄勝太郎

音楽学校で正統な教育を受けなかった初めての「流行歌手」

日本で初めて50万枚を突破した(といわれる)

レコード歌手としてメディアに露出

彼女に憧れて歌手志望者が生まれた。市丸,新橋喜代三,美ち奴ら

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『東京音頭』(昭和8年)詞:

西條八十/

曲:

中山晋平。歌唱:

小唄

勝太郎・三島一声。もともとは日比谷

の百貨店(

美松)

が大盆踊り大会向けに

制作させた「丸の内音頭」。

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勝太郎の戦時歌謡

『明日はお立ちか』1942(昭和17)年

詞:佐伯孝夫/曲:佐々木俊一

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『あゝそれなのに』(美ち奴)

詞:星野貞志/曲:古賀政男。1936年

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田谷力三

浅草で庶民向けオペラのテノール歌手

『恋はやさし』など歌曲で支持

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流行歌の誕生⑤邦楽ではなく,西洋大衆音楽のリズムとメロディを総括して「ジャズ」と称した

夜の酒場(キャバレー/ダンスホール)など「洋の遊び場」で演奏される,「チョイワル」な“不良”オトナのための音楽

教育現場・家庭などからは「子ども向けではない」と排斥される

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『君恋し』

和製ジャズ第1号。昭和3(1928)年,二村定一がレコード発売

詞:時雨音羽曲:佐々紅華ジャズとは,ヨナ抜き短調以外の自由律の曲。戦後も,フランク永井が昭和36年にリバイバルさせ,スタンダード・ナンバーとして定着している。

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『アラビヤの唄』

昭和3(1928)年,二村定一

外国曲(フィッシャー)に詞(堀内敬三)

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流行歌その後

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『赤城の子守唄』1934年,歌:東海林太郎(音大卒)

詞:佐藤惣之助/曲:竹岡信幸

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『旅の夜風』詞:西條八十/曲:万城目正昭和13(1938)年,藤島昇/ミス・コロムビア

映画『愛染かつら』主題歌として、

八十万枚を超える大ヒットに。

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『蘇州夜曲』

詞:西條八十/曲:服部良一昭和15(1940)年,山口淑子(競:渡辺はま子)

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対照• 二人の国民栄誉賞受賞作曲家(*)である古賀政男は戦時協力していく(作詞家では山田耕筰)。一方の服部良一はほぼ沈黙して,戦後に『青い山脈』『東京ブギ』など“民主主義的歌謡曲”を生み出す(『青い山脈』の作詞は西條八十である)。古賀政男は“戦時責任”の総括をしなかったばかりに,戦後に大スランプに陥った?

*戦後に活躍した,吉田正と遠藤実も国民栄誉賞を受賞

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大福帳課題

日本の流行歌の起源をどこに求めるかは定説がない。紹介した五つの説の中から「最も妥当性がある」と判断した説を,大福帳の本日の欄に記述しなさい。別の説について論じても構わない