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琉球諸語の衰退と復興について琉球大学・石原昌英
(編按:本簡報檔中圖片,僅供研究報告參考之用,不涉及任何商業行為。 版權歸原作者或原出版單位所有。) 更多內容請參考:【中華琉球研究學會】 https://www.facebook.com/crss.taipei
沖縄のことわざくとぅばわしりーねー、くにんわしりゆん。 くにわしりーねー、うやんわしりゆん。
日本語訳ことばを忘れると、国を忘れる。 国を忘れると、親も忘れる。
名前を取り戻そう!
http://www.news.janjan.jp/column/0712/0712160345/1.php
沖縄語:「きーたたちゃー」 木をたたく者(鳥) 日本語:「ノグチゲラ」野口という人によって採集されたキツツキ
名前を取り戻そう!
http://www.yachoo.org/Book/Show/445/kisekirei/
沖縄語:「じゅーふぃふぃ/じゅーみたみたー」 しっぽを振る鳥
日本語 「セキレイ」 しっぽを振る鳥
本日の発表の流れ琉球諸語とは琉球諸語の現状琉球諸語の衰退の歴史(精神の植民地化) ・ 1879年〜 1945年 ・ 1945年〜現在 琉球諸語の復興(精神の脱植民地化) ・行政組織の取組 ・民間の取組
2015年 8月 6日 琉球大学・石原昌英
琉球諸語とは 琉球諸語とは奄美諸島・沖縄諸島・宮古諸島・八重山諸島の先住民言語である奄美語・国頭語・沖縄語・宮古語・八重山語・与那国語の 6言語を総称する名称である。
奄美諸島は鹿児島県に属し、それ以外は沖縄県に属する。(本発表では奄美語には触れない。)
琉球諸語は言語多様性が豊かである。 日本語の方言とみなされ「琉球諸方言」とよばれることもある。2015年 8月 6日 琉球大学・石原昌英
琉球諸語の現状琉球諸語の全てが UNESCOの『世界危機言語地図』( UNESCO Atlas of World’s Languages in Danger)に消滅の危機に瀕した言語として掲載されている。
2009年の国際母語の日( 2月 21日)の朝日新聞(夕刊)に琉球諸語を含めた日本の危機言語に関する記事が掲載されたが、沖縄県での反応は弱かった。
2015年 8月 6日 琉球大学・石原昌英
琉球諸語に関する能力 琉球新報 2012
回答 合計
年代
20代 30代 40代 50代 60代70代以上
聞くことも、話すこともできる
44.7% 10.1%
13.7%
27.5%
51.8%
75.3%
86.8%
聞けるが、話せない
26.3% 31.0%
37.7%
36.8%
26.4%
17.4%
8.9%
ある程度聞ける(聞いて分かる)
21.7% 38.1%
37.3%
30.8%
18.3%
3.7% 3.2%
聞くことも、話す事もできない
7.3% 20.8%
11.3%
4.9% 3.6% 3.7% 1.1%
合計 100% 100% 100% 100% 100% 100% 100%
過去 10年間の変化 琉球新報 2002, 2007, 2012
能力 合計 20代 30代 40代 50代 60代70代以上
年
聞くことも話すこともできる
55.8%
15.0%
26.2%
56.9%
71.8%
88.8%
88.6%
2001
52.6% 7.9%
18.5%
34.4%
63.5%
82.8%
90.0%
2006
44.7%
10.1%
13.7%
27.5%
51.8%
75.3%
86.8%
2011
聞くことも話すこともできない
4.7%10.2
% 7.0% 6.5% 1.6% 0.0% 1.5% 2001
5.8%17.2
%13.1
% 1.9% 1.6% 3.1% 1.0%200
6
7.3%20.8
%11.3
% 4.9% 3.6% 3.7% 1.1%201
1
沖縄県の琉球諸語は消滅の危機に瀕している
ウチナーグチ[沖縄語]を含め、琉球諸語を話せる者は、日常会話でそのことばをあまり(ほとんど)使わない。→日本語が「生活言語」である。
若い世代は継承言語としての琉球諸語を第 1言語(母語)として習得していない。→日本語が母語となり、琉球諸語の世代間継承が断絶している。
沖縄県の子ども達は、父母・祖父母が彼・彼女達との会話に琉球のことばを使わない/使えないので、継承言語を聞いたり話したりする機会がない。
琉球諸語の衰退の歴史( 1945年以前)
日本による「琉球処分」( 1872年の琉球藩設置、 1879年の沖縄県設置)から琉球諸語の衰退が始まった。
戦前( 1945年以前)は、学校や地域社会での標準語(日本語)励行運動と方言撲滅運動があったが、琉球諸語を母語及び生活言語とする沖縄県民は多かった。
2015年 8月 6日 琉球大学・石原昌英
鍋島直彬沖縄県令(知事)は、師範学校の設置に関する上申書で、廃藩置県後の沖縄における学校教育の目的について次のように述べている。
言語風俗ヲシテ本州ト同一ナラシムルハ当県施政上ノ最モ急務 ニシテ、其法固ヨリ教育ニ外ナラス。因テ至急普通ノ小学教科ヲ制定シ師範学校ヲ設置シ、漸次旧規ヲ改良シ、教育ヲ普及ナラシメ度候(後略)。(「沖縄県ヨリ大蔵省ヘ上申」『沖縄県史』第一二巻、琉球政府、1966、410頁)
沖縄県にとり沖縄県民の言語と文化を日本に同化させることが喫緊の課題であった。
言語・文化の同化は学校教育を通して行うことが最も効果的であり、そのために師範学校を設立し沖縄出身の卒業生が県内各地の小学校の教員となって子供達に教育することを通して、言語同化を達成するという構図があった。
2015年 8月 6日 琉球大学・石原昌英
小学校への就学率が 10%を越えたのは廃藩置県10年後の 1889年であった(太田、 1932)。残りの 90%が学校に行かなかった。
1894年の日清戦争直前に、沖縄県民の意識調査等のために派遣された内務書記官一木喜徳郎は、学校で大和語(標準語・日本語)を学んでも、学校の外に出ると、大和語が通じないので、教育の効果が上がっていないことを内務省への報告書で指摘している。(安里、 1983:近藤、 2006)
地域全体の日本人化が必要であり、学校で日本語を教えることでしかその目的は達成できないというのが、中央政府・沖縄県の言語教育方針であった。
2015年 8月 6日 琉球大学・石原昌英
沖縄県民の言語同化に関する意識が「標準語励行・方言撲滅」へと大きく変化するのは、沖縄県民が出稼ぎ、兵役( 1898年に徴兵制の導入)、国内・国外への移住( 1899年にハワイ移住が嚆矢)等のために沖縄を離れるようになってからである。
県外に出て、言語の異なる社会で生活するようになると、その地域で話されている言語または標準語を話せないというのは致命的である。地域の人々の言語とは異なる言語を使うことは、差別・蔑視を引き起こした。(冨山、 1990:福地、 1985)
2015年 8月 6日 琉球大学・石原昌英
県外・海外における沖縄人に対する差別・蔑視が知られるようになると、その根本的な原因である言語問題を解決するということも一因であったのか、就学率が徐々に上昇し、日露戦争後の 1906年には 90%を越えた。
地域社会では、地域の言葉が主要言語であり、標準語を使う必要はなかった。そのような状況で小学校における教育だけでは沖縄人の言語を日本語化することは不可能に近かった。
2015年 8月 6日 琉球大学・石原昌英
沖縄方言論争 日本が戦時体制下になり、国民精神総動員運動が全国的に展開され、沖縄でも生活改善運動が起こり、その一環として「標準語励行運動」が全県的に展開された。(冨山、 1995:戸邉、 2002:近藤、2006)
沖縄において学校以外でも日常的な標準語使用が徹底されるようになるのは、 1930年代後半からである(戸邉、 2002)。
1940年の「方言論争」標準語励行運動を推進する沖縄県と運動の行き過ぎを指摘した柳宗悦を団長とする日本民芸協会の間で起こった。
沖縄人の主張は、県外に出た沖縄人が、言語に起因する蔑視差別に苦しんでいる実情に鑑み、「方言撲滅」をしてでも標準語の習得に努めるべきである、というものであった。
沖縄の人達が、標準語を習得し、名実ともに「日本人」となり、沖縄人への蔑視・差別をなくそうと努力しているのに、東京から来た、沖縄人の辛苦を理解していない者が勝手なことを言って沖縄人の努力を妨害するな。2015年 8月 6日 琉球大学・石原昌英
沖縄方言論争(2) 大宜見梅子という女性は『沖繩日報』(昭和 15年
1月 13日)に投稿した「お偉いかたがたへ」という一文で、日本民現協会を沖縄の痛みを理解しない発言をしていると痛烈に批判している。確かに本縣は他縣よりも立ち遅れました、文化の程度も低いところがあると思います。(中略)全くの話しが沖繩と云ふところは何一つ他縣に優っているところがないので御座います。(中略)私達は貴方達より沖繩の惨めをよく存じてゐますそれでこそ一生懸命になってゐるので御座います。(那覇市役所、 1970、 p.375)
2015年 8月 6日 琉球大学・石原昌英
精神の植民地化・言語帝国主義 沖縄人の生活言語を軽視し、ひいては、琉球古来の文化をすべて軽視する傾向を植え付けることを教育の重要な方法とした。この方法は、第二次世界大戦終了まで、一貫して、国民教育の名において県当局によって主張され、終いには沖縄人自身が、沖縄の言語、文化を蔑視するような傾向を持つようになった。(安里、1983、p.176)
[言語帝国主義とは]有る言語話者の精神と生活が他の言語に支配されてしまい、その言語話者が教育、哲学、文学、政治、裁判、及びその他の生活の高度な局面におけることばにやりとりにおいては、その外国語だけが使用でき、また使用すべきであると信じてしまう現象のことである。言語帝国主義には、社会において最も高貴とされる人でさえ、その精神、態度、そして願望をゆがめてしまい、自らの生来の言語([母語])の持つ可能性を正しく理解し、実感することができなくなるようになってしまう巧妙な仕掛けがある。(Ansre, 1979, 12-13[Phillipson, 1992, 56]筆者訳)
2015年 8月 6日 琉球大学・石原昌英
日本人の「方言」に対する意識 淵上房太郎知事( 1940年当時)は、標準語を習得することなくして、沖縄県の発展は無いと述べている。さらに、「此の県は日清戦争の時でも支那につかうとした人がゐた位です。」(谷川、 1970、 p131)と述べ、方言撲滅が国防上の課題でもあったことを示唆している。
沖縄は 1945年に日米の戦争に巻き込まれ、はげしい地上戦が壮絶に繰り広げられた沖縄戦を体験した。沖縄に駐屯した第32軍は標準語以外の言語を話すことを禁止し、「沖縄語」を話した者はスパイとして処分するという方針をもって臨んだ(仲宗根、 2002:ましこ、 2002:安田、 2006)。
2015年 8月 6日 琉球大学・石原昌英
琉球諸語の衰退の歴史( 1945年以降) 沖縄における標準語励行・方言撲滅運動は、米国統治下の1950年代1960年代にも繰り広げられた。
この時期の運動は行政(琉球政府)が主導したものではなく、沖縄教職員会等による自発的・自主的なものであった。
沖縄の教員は米国統治下の沖縄において子供達を「日本人」として教育することを重視した。「日本人」が意味するものは共通語(日本語)の習得でもあった。
正しい共通語を習得させるために、琉球諸語と不正語と見なされたウチナーヤマトグチ(沖縄大和口)は矯正の対象となった。 2015年 8月 6日 琉球大学・石原昌英
沖縄教員の意識 生徒自身が共通語で言えることなら方言を使わずに、とにかく共通語で話すという生活態度を養成することである。
教育上、社会生活上きわめて必要であるとするならある程度の矯正をしても督励をしてもよいのではないか。
心の底から日本語の美しさことばのもつたましい、日本語のかもし出す何とも言えない雰囲気を感得し、共通語を話す喜びを感じさせるような指導は極めて大切である。
共通語が励行できない理由として多くの生徒があげていることは話す相手が方言を使うからということであるが、この障害を除くために彼等の集団或いは生活環境の全員に共通語使用の雰囲気を作るように我々教師が計画し指導しなければならない。
共通語を励行する場合、生徒の劣等感を抱かせたり、または卑屈になったりするのではないかと心配する人もいるが生徒はそうは思っていない。
むしろ社会に出てから共通語が十分使えないことによって、劣等感が起こることが予想されるがそれこと大きな問題である。「第三次教育研究大会研究集録」 『沖縄教育』第五号(1957)より
2015年 8月 6日 琉球大学・石原昌英
八重山の小学校で使われた「方言札」 『琉球新報』より
2015年 8月 6日 琉球大学・石原昌英
最後の方言札 ?(沖縄県立博物館・美術館での展示 : 博物館の所有者の
許可を得て 2009年に石原が撮影 )
方言札(個人所蔵、写真提供:沖縄県立博物館・美術館、撮影:石原昌英)
1960年代になると日本本土への集団就職が盛んになった。本土に出るということは、生徒達が日常生活で使用していた沖縄の言葉(琉球諸語とウチナーヤマトグチ)が通用しない地域で生活するようになるということであった。
移動先では、その地域の言語(方言)か共通語(日本語)だけが通用する。沖縄では就職先の地域の言葉に触れる機会などありえないので、共通語能力を向上させるしかなかった。
送り出す側の沖縄は、本土で沖縄出身の若者が言葉で苦労しているという状況は理解していたと考えられる。送り出す子供達に戦前のような蔑視・差別を経験させないためにも、徹底して共通語を教える必要があった。
2015年 8月 6日 琉球大学・石原昌英
1972年の「祖国復帰」により、名実ともに「日本人」となった沖縄人が琉球諸語を使うと言うことはなかった。
日本語が生活言語となっていた。日本語と学力が結びつけられた。都市化と人の移動で共通語の必要性が高まった。
地方では、過疎化が進んだ。
2015年 8月 6日 琉球大学・石原昌英
琉球新報社が 2011年実施した沖縄県民意識調査によると、 20代〜 30代で、沖縄県の土着言語である琉球諸語を聞くことも話すこともできるのは 10%以下である(『琉球新報』 2012年)。
この世代の親は、 1950〜 60年代に「標準語励行・方言撲滅運動」の下で教育されてきたので、家庭で沖縄の土着言語を使用することはなかった。
沖縄では、日本語以外の言語が子ども達に継承されることは困難になっているので、琉球諸語は消滅の危機に瀕した言語となっているのである。
2015年 8月 6日 琉球大学・石原昌英
琉球諸語の復興 1980年代に入り、日本全国的に方言復興の動きがでてきた。(西島、 1990)
日本文化の多様性を維持し、豊かにするためにも、言語の多様性を維持することの重要性が再認識されていると述べている。 (西島、 1990)
沖縄県での組織的な取組が始まったのは 2000年以降である。
1980〜 90年代の取組については、調査が必要である。2015年 8月 6日 琉球大学・石原昌英
「しまくとぅば」「言語」「方言」にかわり「しまくとぅば」が使われるようになる。
「しま」=島( island)、市町村(municipality)、地域コミュニティ( local community)
しまくとぅば=沖縄のことば(うちなーぐち)、 国頭村のことば、 国頭村奥のことば(=うくむ にー)
2015年 8月 6日 琉球大学・石原昌英
行政組織の取組(沖縄県の意識) 文化の源を確認できる環境づくり〜沖縄文化を知る〜文化の創造には「内なるもの」の確立とともに「異なる文化」を体感し、創造意欲を触発するエネルギーを生むことが必要である。「内なるもの」を確立するために、沖縄文化の基層である島言葉(シマクトゥバ)や、海外交易等の歴史資料の保存及び継承を図るとともに、文化財や歴史の中で培われ高められた伝統技能・技術の保存・継承を図り、独自の文化価値を再認識し、沖縄文化の極みを体感できる環境づくりに努める。(下線は筆者)(沖縄県文化振興課 2005、「沖縄県文化振興指針」 p.8)
2015年 8月 6日 琉球大学・石原昌英
行政組織の取組(沖縄県の意識) 沖縄文化の基層であり文化遺産として歴史的な価値を有する“しまくとぅば”については、県内大学の研究機関や教育機関等とのネットワーク化による言語の保存・普及・継承に向けた研究体制を構築するほか、学校教育における幼児児童生徒に対応した教育プログラムの充実や生涯学習機会の提供などの学べる環境づくりに取り組みます。あわせて、若い人たちがしまくとぅばに接する機会を創出し、愛着を育むなど、消滅の危機にある言語の保存・普及・継承に努めます。
(下線、ハイライトは筆者による。沖縄県( 2012)『沖縄 21世紀ビジョン基本計画』 p.30)
2015年 8月 6日 琉球大学・石原昌英
「しまくとぅばの日」に関する条例
平成1 8 年3 月3 1 日平成18年沖縄県条例第35号
しまくとぅばの日に関する条例をここに公布する。 しまくとぅばの日に関する条例(趣旨)第1条 県内各地域において世代を越えて受け継がれてきたしまくとぅばは、本県文化の基層であり、し まくとぅばを次世代へ継承していくことが重要であることにかんがみ、県民のしまくとぅばに対する関心 と理解を深め、もってしまくとぅばの普及の促進を図るため、しまくとぅばの日を設ける。 (しまくとぅばの日)第2条 しまくとぅばの日は、9月18日とする。 (事業)第3条 県は、しまくとぅばの日の啓発に努めるとともに、その日を中心としてしまくとぅばの普及促進のた めの事業を行うものとする。2 県は、市町村及び関係団体に対し、しまくとぅばの普及促進のための事業が行われるよう協力を求め るものとする。 附則この条例は、公布の日から施行する。
2015年 8月 6日 琉球大学・石原昌英
2015年 8月 6日 琉球大学・石原昌英
本条例案は、県内各地において世代を超えて受け継がれてきたしまくとぅばは、本県文化の基層であり、しまくとぅばを次世代へ継承していくことが重要であることにかんがみ、県民のしまくとぅばに対する関心と理解を深め、もってしまくとぅばの普及の促進を図るため、9月 18日をしまくとぅばの日として設けることにより、県は普及促進のための事業を行うとともに、市町村及び関係団体に対しても普及促進のため協力を求めるとする内容であります。 地方分権が進展する今日において、沖縄の文化を大事にし、その価値を認識するとともに、自信と誇りを持ち、本県の文化的特徴を伸長させることも本県の地方自治体としての優位性の向上・発展につながるものと考えています。 しまくとぅばは、沖縄の各地域の暮らしの中ばかりでなく、南米等の沖縄県系人社会の中においても生き続けてきた大切な言葉であり、その地域の物の見方や考え方を理解する大事なものであります。私たちは、先人たちから脈々と受け継がれたしまくとぅばの大切さを唱え、次世代へ継承していくことが重要であると考え、県民一人一人がしまくとぅばに対する関心と理解を深め、しまくとぅばの普及促進を図るため本条例を提出した次第であります。(沖縄県議会議事録 2006年3月)
沖縄県の取組 2013年に沖縄県が史上初めて「しまくとぅば県民運動」を実施し、「しまくとぅば県民大会」を開催した。
沖縄県は全県規模で、「しまくとぅば県民運動推進事業・県民意識調査」を実施した(このようなしまくとぅばに特化した調査も初めてのことであった)。
その結果を公表するとともに、「しまくとぅば普及推進計画」を策定した。推進計画は詳細なものではないが、 10年後のしまくとぅばの将来を描いている。
2015年 8月 6日 琉球大学・石原昌英
沖縄県の取組(2)沖縄県は、 2014年に「(沖縄の黄金言葉を集めた)しまくとぅばカレンダー」と『語てぃ んーだな しまくとぅば』というガイドブックを発行した。
沖縄県立博物館・美術館(文化の杜)のしまくとぅばプロジェクト。
2015年 8月 6日 琉球大学・石原昌英
那覇市の取組市長が、「はいさい・はいたい運動」を提唱推進した。
那覇市の若手の職員が学習会を実施那覇市教育委員会が、『ちかてぃあしばな しまくとぅば(使って遊ぼう しまくとぅば)』という副読本を、低学年用と高学年用に分けて発刊した。同副読本は、市内の全ての小中学校に在籍する児童生徒に配布された。2015年 8月 6日 琉球大学・石原昌英
NPO等の取組 NPO沖縄語普及協議会 NPO沖縄うちなあぐち会那覇市文化協会等のしまくとぅば部会 NPO沖縄ハンズオンしまんちゅスクールニヌファブシ・ウチナーグチ・イマージョンスクール
しまくとぅば連絡協議会、等々
2015年 8月 6日 琉球大学・石原昌英
ウチナーグチ教科書
ウチナーグチ辞典?・民話
翻訳とエッセイ
その他の取組 しまくとぅば復興にむけた取組におけるインターネットの活用 ・沖縄タイムス社の『しまくとぅば新聞 うちなぁタイムス』発行 一部の記事は、ポッドキャストで音声を聞くことができる。 ・ブログ『方言日記(まかびむにー)』(http://yugurihaikarah. ti-da.net/)。糸満市真壁出身の米国在住の女性が日々の暮らし などについて、出身地のしまくとぅばと日本語の二言語併記で 綴ったもの。 ・ブログ『いめんせえびり うちなあぐち賛歌』(http://www. haisai.co.jp/)。書くことを通してしまくとぅばを学ぶことを奨励し、 如何に書くのかとい手引き書的なページも提供している。 ・このブログの管理者の比嘉清氏が、自ら書き上げたしまくとぅば小 説を音声化したものを聞くこともできる。 ・Facebook「うちなーぐち講座」等々
2015年 8月 6日 琉球大学・石原昌英
まとめくにん、うやん わすりてぃや ならんくとぅ くとぅば わしりてぃや ならん。
From discourse of death to discourse of hope 「消滅の話よりは、希望(復活)の話を」 Ghl’ad Zuckermann (2014)p.c.
2015年 8月 6日 琉球大学・石原昌英
2015年 8月 6日 琉球大学・石原昌英
参考文献
安里彦紀( 1983)『近代沖縄の教育』三一書房。福地曠昭( 1985)『沖縄女工哀史』那覇出版社。近藤健一郎( 2006)『近代沖縄における教育と国民統合』北海道大学出版局。ましこ・ひでのり( 2002)『ことばの政治社会学』三元社。那覇市役所( 1970)『那覇市史 資料編第二巻中三』仲宗根政善( 2002) 『ひめゆりと生きて 仲宗根政善日記』琉球新報社。Ngũgĩ Wa Thiong’o (1981) Decolonising the Mind Oxford: James Currey.西島建男( 1990)「方言の復権」『ことば読本 方言と共通語』河出書房新社、 pp.137―140頁。(初出:(『月刊 言語』、大修館、 1988 ・ 5月号)沖縄県( 2012)『沖縄 21世紀ビジョン基本計画』沖縄県環境文化部文化振興課( 2005)「沖縄県文化振興指針」。沖縄教職員会( 1957)『沖縄教育』第五号。(引用は EDGE第 12号、2001より)大宜見梅子( 1940)「お偉いかたがたへ」『沖縄日報』( 1940年 1月13 日)。 (那覇市役所( 1970)『那覇市史 資料編第二巻中三』 p.357)
2015年 8月 6日 琉球大学・石原昌英
参考文献
Phillipson, Robert (1992) Linguistic Imperialism. Oxford: Oxford University Press.琉球政府( 1966)『沖縄県史 第十二巻』。琉球新報社( 2007)『 2006 沖縄県民意識調査報告書』。琉球新報社( 2012)『 2011 沖縄県民意識調査報告書』。谷川健一(編)( 1970)『わが沖縄 第二巻 方言論争』木耳社。戸邉秀明( 2002)「沖縄 屈折する自立」『岩波講座 近代日本の文化史8 感情・記憶・戦争』岩波書店、 pp.281-319。冨山一郎( 1990)『近代日本社会と「沖縄人」』日本経済評論社。冨山一郎( 1995)『戦場の記憶』日本経済評論社。安田敏朗( 2--6)『統合原理としての国語』三元社。