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古代文明と環境文化①
環境文化論第1②講 Oct.07, 2011
1.環境文化とは
2.古代文明の崩壊理由
3.崩壊した文明の事例
~マヤ文明~
福島大学共生システム理工学類 後藤 忍
1.環境文化とは
2.古代文明の崩壊理由
3.崩壊した文明の事例~マヤ文明~
環境と文化
環境とは何か
環境とは、ある主体が存在するときに、それを取り巻くものすべてを表す。
文化とは何か
漢語の「文」は「飾り」→「美」→「教養」へと意味が発展した。英語のcultureやドイツ語のKulturの訳語に用いた。語源はラテン語の動詞colereであり、これには「敬神」と「農業」の二つの意味があった。名詞の農業=culturaは、natura(生まれたもの)と対比された。
「カルチャー」は「農業」に始まった人為(アート)という意味を含み、道徳・学問・芸術などが人智の最も高度な結晶だと考えられるようになった。
一方、社会学・文化人類学等では、「集団が歴史的に形成した行動の様式」すべてを文化と呼ぶ。
環境とは何か~人間環境系~ 環境:「環」+「境」
「環」:「◎型の輪の形をした玉」→「輪の形をしたもの」「○型に取り囲むもの」
「境」:「一定の広がりをもった場所、地域」
環境とは、ある主体が存在するときに、それを取り巻くものすべてを表す。つまり、「環境」は主体を設定したときに初めて現れるものであり、相対的な概念で、主体中心的な性格のものである。
人間環境系とは?相互作用によって関係づけられた、人間とそれをとりまく環境の要素の総体。
環境
人間
相互作用
環境
主体
環境の分類
人間を主体とする環境は、その種類により次のような分類が考えられる。
自然環境:水、大気、土壌、地形、気候、資源、動物、植物など
社会環境:家族、学校、職場、社会、経済、法律など
文化環境:言語、宗教、道徳、風習、学問、芸術など
自然環境だけが環境ではない。
ただし、それぞれの境界は必ずしも明確ではない。
自然
人間
社会文化
環境文化とは 環境文化とは
環境の分類における「文化環境」全般を意味するのではなく、環境問題に関係する文化を意味する。
自然環境に対する人間の接し方に関する文化のことを、ここでは環境文化と捉える。
より詳細な表現例 「人間が自然の脅威を凌ぎ、また自然からの恵みを得て自らの生存を支えていくなかで育んだ知恵やその結晶としての技術・制度・規範・倫理、およびこれらを基礎とする生活様式の総体を意味する。言い換えれば、環境文化は「いのちを担い大地に住まう人間」の自然への関わり方の本質的表現である。」(開龍美,2007?)
「環境意識をもった生活者が行う生活行為、行動様式、情報発信活動などを、「文化」の下位概念と考え、サブ・カルチャーとしての「環境文化」とよび、環境観や環境意識、環境行動を改善するための具体的な方法と考えたい。」(矢内秋生,2002)
環境文化を学ぶ目的 持続可能な社会を構築していくにあたって、「人類が欲望をコントロールする方策をいかに見出すか」が必要最低条件となる。
人類史の中で見られた様々な文化の中にその答えを探る。自然環境を過剰に利用して破壊してしまった文化
→第2,3講「古代文明」、第5講「中世ヨーロッパ」、第6講「イースター島」
自然からのしっぺ返しを受けて欲望のコントロールを図ってきた文化
→第4講「宗教」、第7講「江戸文化」、第9講「環境思想と環境倫理」、第10講「先住民思想」
自然を学問や芸術の対象として愛でた文化
→第8講「南方熊楠(生態学)」環境意識の啓発を図る文化
→第11講「手塚治虫と宮崎駿」、第13講「新しい環境文化」
文化と文明
文化の物質的・技術的側面を、特に「文明」(civilization)として区別する考え方がある。
文化≒ソフトウェア 文明≒ハードウェア
文明civilizationは、ラテン語のcivis=「町の人」がもとで、文明は、都市文化とそこを先端とする行動・事物、またそこから特に有力な都市を中心にその支配下にある広い地域の文化を指していた。
物のシステムを中心とする文明は、文化よりもボーダーレスで、民族・国家を超えて流通しやすい側面も指摘される。(建築様式、道具の製法など)
いずれにしても,文明の基底には文化があり,文明の興亡には自然環境との関連が指摘されているため,本講義では,文明についても取り上げる。
自然環境と文化の関係性 和辻哲郎『風土』(1935年)
人間存在の構造契機としての風土性について考察。
自然と文化に共通のベースがあることを指摘したのは、世界の近代哲学者でも和辻が最初とされる。
ユーラシア大陸の風土を「モンスーン」,「砂漠」,「牧場」の3つに類型化した。
モンスーン耐え難い湿潤と暑熱が結合した自然の暴威が人間を襲う。
→人間は自然に対して受容的・忍従的になる。 砂漠
乾燥は人間に水を求むる生活を迫る。
→人間は自然に対して対抗的・戦闘的になる。 牧場
夏の乾燥と冬の湿潤は人間にとって従順な自然を生む。
→人間は従順なる自然への支配を自覚する。
環境決定論をめぐる論争 環境決定論について
環境決定論は,環境が人間の生活様式を決定するという思考。
原語はenvironmental determinism。1920年代から批判や論争が行われてきた。
和辻の風土概念に対しても、環境決定論との批判が浴びせられた。
環境可能論環境可能論は,人間の生活様式を創造するのは人間であり、環境はそのための可能性を与えるものでしかないという思考。
環境決定論の反意語とされるが、その境界はあいまいであり、環境の重要性をどの程度見積もるかによる。
解釈にあたって自然環境と社会環境・文化環境には相互に関係を持っており、社会環境・文化環境は自然環境を基礎として初めて成立することに留意しておく。
環境考古学等の知見により、過去の自然環境の変動が文化・文明の存亡に大きな影響を与えたことが明らかになりつつある。
1.環境文化とは
2.古代文明の崩壊理由
3.崩壊した文明の事例~マヤ文明~
古代文明と環境文化
古代文明における環境問題
人間活動に起因する環境問題は、近代に始まったものではなく、古代から起きているものである。
古代からこれまでの文明や社会の中には、滅びたものと持続できたものがある。
滅びた文明の崩壊理由として、環境問題の深刻さや、それへの対応の失敗が大きな原因と考えられているものがある。
逆に、持続できた社会の中には、環境問題への対応を考える上で、学ぶべき点が見られる場合がある。
滅びた文明と持続できた社会の例 ジャレド・ダイアモンド(2005)『文明崩壊-滅亡と存続の命運を分けるもの』における事例
滅びた文明の例
中央アメリカのマヤ文明
ヨーロッパのミュケナイ文明ギリシアとミノス文明クレタ
メソポタミアのシュメール文明
アジアのアンコールワットとインダス文明の諸都市
イースター島
持続できた社会の例
エジプト
ニューギニア高地
ティコピア島
江戸時代の日本
古代文明の主な崩壊要因
古代文明の崩壊を招いた主な5つの要因① 環境破壊
② 気候変動
③ 近隣の敵対集団
④ 友好的な取引相手
⑤ 環境問題への社会の対応
崩壊した古代文明における環境破壊
環境破壊の類型の例
森林乱伐と植生破壊
土壌問題(浸食、塩類集積、地力の劣化など)
水資源管理問題
鳥獣の乱獲
魚介類の乱獲
外来種による在来種の駆逐・圧迫
人口増大
1人当たり環境影響量の増加
意思決定の失敗
崩壊した古代文明に対する疑問
「環境破壊が主な原因の場合、なぜその社会は、明らかに破滅的な決断を下してしまったのか?」
「危機を予測し、対応することはできなかったのか?」
考えられる失敗のパターン
実際に問題が起きる前に、集団が問題を予期することに失敗する場合
問題が起きたとき、集団がそれを感知することに失敗する場合
問題を感知したとき、解決を試みることに失敗する場合
問題の解決を試みたとしても、それに成功しない場合
崩壊した古代文明から得られる教訓
社会の急落が、人口や富や権勢の絶頂期からわずか数十年後に始まる可能性がある。ゆるやかな老衰という形ではなく、最盛期のすぐあとに始まる場合がある。
その理由は、人口、富、資源消費、廃棄物排出が最大値に達したとき、環境影響も最大になり、資源を滅ぼす限界点に近づくことになるから、と考えられる。
1.環境文化とは
2.古代文明の崩壊理由
3.崩壊した文明の事例~マヤ文明~
崩壊した文明の事例~マヤ文明
(http://heartbox.hp.infoseek.co.jp/oshirase/kodai2/)
マヤ文明について
メキシコ南東部、グァテマラ、ユカタン半島など、いわゆるマヤ地域を中心として栄えた文明のこと。
紀元前2000年頃から村落生活が開始され、紀元前400年~紀元900年頃に繁栄を極めた後、衰退していったと考えられている。(※ただし、その子孫であるマヤの人々は今も生活し、独自の文化を持っている)
16世紀にスペイン人によって征服された。 チチェン・イッツァの神殿
(http://www.y-asakawa.com/chu-nanbei/tikal1.htm)熱帯林とティカル遺跡
http://www4.airnet.ne.jp/tomo-san/history/tomo-san44history102.htm
マヤ地域の地形
(NASA World Windにより作成。垂直方向×10倍に強調)
マヤ文明の特徴
マヤ文明の特徴青銅器や鉄器など金属器を持たない新石器時代の都市文明であった。
地域全体を統一する王朝が生まれなかった。
いわゆる「大河」の周辺に興った文明ではなかった。
牛や馬などの家畜を持たず、車輪の原理も実用化されなかった。
トウモロコシの栽培のほかにラモンの木の実などが主食だった。
焼畑(ミルパ)農法や、段々畑・湿地での集約的な農業を行った。
数学を発達させた(二十進法を用い、幾何学を発達させた。)
天文学を発達させ、正確な暦を持つとともに、循環的な時間概念を持っていた。
マヤ文字、高度な建築技術などを持っていた。
ラモンの木とは 学名:Brosimum alicastrum クワ科の植物で、別名としてMaya nutやBread nutなどと呼
ばれる。
実は粉にして、薄いパンケーキ状にして焼くトルティジャにして食用に供したと考えられている。
マヤ文字 マヤ地域で使用された一種の象形文字。
全部で4万~5万の文字があり、673ほどの文字素(漢字のヘンやカンムリに相当)を組み合わせて文字を構成した。
大英博物館に展示されているマヤ文字のレリーフ
キリスト教の布教過程で絵文書が焼き捨てられたため、現存する先スペイン期のマヤの絵文書は4冊しかなく,正確な解読はまだ60%程度とされる。
『ドレスデン・コデックス』の一部
建築に用いられた天文学の技術 チチェン・イッツァの神
殿(「城砦」を意味するエル・カスティーヨと呼ばれる。底辺60m高さ24m)では、階段の数が(91×4+1)、常用暦として用いていた365日と同じ数になっている。
北側の階段では春分と秋分の1日直前に特定の影ができる。雨期の到来を告げるものとして、羽毛のあるヘビの神「ククルカン」が天から降りてきたことを表している。
ケツァール(Quetzal) 学名: Pharomachrus mocinno
和名:カザリキヌバネドリ
海抜900~2500mの中央アメリカの高地に生息する鳥で、全長は35cm程度。オスは長い飾り羽をもち、これを含めると全長は90~120cmになる。
先スペイン期のメソアメリカでは神聖な鳥として崇拝された。
羽根は青緑色で、頭飾り、扇、衣装の装飾など、支配層の威信財として遠距離交換された。
グァテマラでは国鳥に指定されている。貨幣の単位もケツァールである。
手塚治虫の漫画『火の鳥』のモデルになったとされる。
http://pentaxplus.jp/field/tsuyuki/002/index_2.html
マヤ文明の歴史
先古典期(紀元前1550年頃~紀元後250年頃)、古典期(紀元後250年頃~900年頃)、後古典期(紀元後900年頃~16世紀)の大きく3つに区分される
(※ただし、青山(2005)によれば、最近の研究から、古典期のマヤ文明は開始時期がもっと早く,衰退も一世紀以上に渡って部分的に衰退したと考えられるようになっている)
マヤ人にとっての神
マヤ人にとっての神々についてはあまり分かっていないが、多くの神を識別することはできる。
スペイン征服以前のマヤ絵文書の中でも30体以上の神を識別できる。太陽神、若い月の神、年老いた月の神、雨神チャク、トウモロコシの神、ウサギの神、商業の神、etc.
マヤの神は、いろいろな要素が結びついた超自然的存在として現れる。
マヤ人は、人間と動物の区分を必ずしも明確にせず、それぞれの動物種ごとの違いもあまりはっきりさせていなかった。
2001年にサンバルトロ遺跡で発見された、マヤ最古の壁画
世界の創造と、トウモロコシの神から王位を授かる王が描かれている。紀元前100年頃に描かれたとみられる。壁画は幅約9メートル。(National Geographic ウェブサイトより)
死神 雨神チャク ク「神」(他の神像の代用)
イツァムナー トウモロコシの神
太陽神 若い月の女神 王統の守護神カウィール
商業の神エク・チュワー
年老いた月の神薬の女神イシュ・チュル
マヤの神々とその名を表す文字
ここで問題
マヤ文明では、インダス文明と並んで、数学上の重要な概念を独自に発明したとされていますが、それは何でしょうか。
マヤの20進法の例
マヤ暦 循環暦を用い、さまざまな周期が複雑に組み合わされた。
すべての日付は、神聖暦にあたる260日暦(ツァルキン)と、太陽暦に相当する365日暦(ハアブ暦)が、対になって表記された。(※ハアブ暦と太陽の動きがずれることは認識していたが、閏年のような調整は行わなかった)
単位 1キン(=1日)
1ウィナル(=20キン=20日) 1トゥン(=18ウィナル=360日) 1カトゥン(=20トゥン=7,200日) 1バクトゥン(=20カトゥン=144,000日)⇒1周期は13バクトゥン(≒5126年余り)⇒紀元前3114年8月11日(グレゴリウス暦)の暦元から数えられ、
2012年12月21日に一巡する。(cf.映画「2012」)
キン
ウィナル
トゥン
カトゥン
バクトゥン
マヤ文明を崩壊に導いたもの(1) 環境破壊
焼畑(ミルパ)農法や建造物に使用する漆喰(モルタル)を造るために森林伐採を続けたことにより、土壌浸食が起こった。
食糧生産が落ち込んだ兆候を現すものとして、古典期後期(A.D.600~900)の終わり頃の人骨に栄養失調の傾向があったことが判明している。
土壌と湿度を保持するための段々畑、灌漑設備、水路網、干拓や盛土をした耕地などの工夫を行っていたが、支配層・軍人が増加したこと、祭祀用建造物の建設が引き続き進められたことなどにより、人口増加を支えられなくなった。
建造物における漆喰の利用
マヤ文明の建物や道路では,接合や装飾,部材として,石灰岩を原料とするモルタルやセメントが使われた。
石灰岩を一日半から二日間ほどかけて焼き,原料のセメントクリンカをつくったと考えられている。
高さが90cm程度の山となるセメントを得るには,成長した木を20本焼く必要があったと言われる。
サクベ(白い道)と呼ばれる道路
ティカルの神殿
サクベの建設工程
マヤ文明を崩壊に導いたもの(2) 気候変動
干ばつが何度となく起こったことが、湖底の沈殿物における酸素同位体の分析などから分かってきた。
紀元前5500年ごろから紀元前500年ごろまでは比較的湿潤な気候だった。
紀元前475年から紀元前250年まで乾燥した気候となり、その後再び湿潤な気候となった。
西暦125年から、古典期の始まりである西暦250年頃には干ばつに見舞われた。
→先古典期後期の巨大都市の衰退に対応西暦862年をピークとして800年から1050年まで、異様に厳しい干ばつが続いていた。この時期は過去3500年間で最も乾燥した時期であった。
→古典期の崩壊時期と対応
マヤ文明を崩壊に導いたもの(3) 近隣の敵対集団
考古学者たちは長い間、古代マヤ族が平和主義の穏やかな民だと思ってきたが、現在では、都市間の熾烈な戦争が絶えず繰り返されてきたことが、石碑や壁画などから分かっている。
食糧の減少、干ばつ等によって奪い合いや反乱が発生した。
食糧の供給と輸送に限界があって、どの小国も全地域を統一して帝国を建てることができなかった。
古典期の崩壊が近づくにつれて、戦争が激しさと頻度を増していった。
(http://www.ancientmexico.com/content/map/bonampak-mural.html)
マヤの人々の平和的なイメージを覆したボナムパクの壁画
マヤ文明を崩壊に導いたもの(4)環境問題への社会の対応
王や貴族たちは、社会に内在する問題の解決よりも、戦争と石碑の建造を重視した。
社会の持続可能性に関わる長期的な問題ではなく、短期的な問題(私腹を肥やすこと、戦争を行うこと、石碑を建てること、他と競うこと、農民から十分な食糧を取り立てること等)に関心が注がれていた。
マヤ文明の崩壊理由
①環境破壊
②気候変動
③近隣の敵対集団
④友好的な取引相手
⑤環境問題への社会の対応
古代マヤ文明は、実質的には16世紀のスペイン人による侵略により崩壊した。ただし、マヤの子孫は生き残っており、千数百万人にまでなっている。
参考文献 渡辺光(1977)『環境論の展開』、環境情報科学センター 矢内秋生(2002)『環境文化の時代』、角川書店 多田道太郎編(2000)『環境文化を学ぶ人のために』、世界
思想社
石弘之・安田喜憲・湯浅赳男(2001)『環境と文明の世界史』、洋泉社
クライヴ・ポンディング著、石弘之・京都大学環境史研究会訳(1994)『緑の世界史』(上・下)、朝日選書
ジャレド・ダイアモンド著、楡井浩一訳(2005)『文明崩壊-滅亡と存続の命運を分けるもの』(上・下)、草思社
安田喜憲(2004)『文明の環境史観』、中公叢書 マイケル・D.コウ著、加藤泰建・長谷川悦夫訳(2003)『古
代マヤ文明』、創元社
青山和夫(2005)『古代マヤ 石器の都市文明』、京都大学出版会
青山和夫(2007)『古代メソアメリカ文明』、講談社 落合一泰(1984)『マヤ-古代から現代へ』、岩波書店
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