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創造社会の思想と方法 井庭 崇(Takashi Iba) 慶應義塾大学 総合政策学部 准教授 [email protected] takashiiba 2012年1月28日 井庭研 2011年度最終発表会

創造社会の思想と方法(井庭研 2011年度最終発表会講演)

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「本格的な「創造」とは、自分と創造物との間の主客の境界があいまいになるなかで、意識の外にある必然的な流れをつかまえるということである。」このような考え方を述べている作家の言葉を紹介します。

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創造社会の思想と方法

井庭 崇(Takashi Iba)慶應義塾大学 総合政策学部 准教授[email protected] takashiiba

2012年1月28日井庭研 2011年度最終発表会

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C CCConsumption Communication Creation

消費社会 情報社会 創造社会

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本格的な「創造」とは、自分と創造物との間の主客の境界が

あいまいになるなかで、意識の外にある必然的な流れをつかまえるということである。

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つくっているのではなく、つくらされているという感覚

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「外からみると、アニメーションをつくる世界が華やかにみえ、やりがいのある仕事とうつっているようだ。確かに華やかな面もあり、私はこの仕事をやりがいのあるものと思っている。しかし、華やかな部分は、ホンの一部分であり、隠れた多くの部分は、とても地味なのだ。」

宮崎駿, 『出発点 1979~1996』, 徳間書店, 1996

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「映画を作っているつもりが、映画の奴隷、下僕になってしまうんです。映画というのは映画になろうとしますから、その道筋をこちらが間違いないように見定めて、映画が映画になろうとするのを、ちゃんとやらなきゃいけないんですよ。自分がこれで何かを訴えたいというよりも、映画がこれを言いたがっているんだから、それを言わなきゃ仕様がないですよね」

宮崎駿, 『出発点 1979~1996』, 徳間書店, 1996

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「映画のある部分までは論理で作れるんですよ。企画段階では、頭で考えて、「こうやればできるだろう」と。「こうやれば終るだろう」と組み立てるわけです。でも、実際に映画づくりに入ると、途中からわからなくなるのですよ、駄目になるのですよ。論理で作った部分を、僕は大脳皮質で作った部分と言うのですが、それに頼ると駄目で、それが役にたたなくなる。無意識の部分が考えてくれないとできあがらない。だから、追い詰められないと駄目ですね。「これは駄目だな」と本当に困る。」

宮崎駿, 『出発点 1979~1996』, 徳間書店, 1996

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「「映画というのは自分の頭の中にあるのじゃなくて、頭上の空間にあるんだ」と思うんです。映画はすでにあるんです。クリエイティブというとかっこいいけれども、そうではなくて、自分の今の能力と、与えられている客観的な条件の中で、最良の方法は、ひとつしかないはずで、この路線、方法を決めてしまった以上(この方法を決めるまではいろいろな決め方があるのですが)、その方法は毎回、ひとつしかないはずだ。それにより近い方法を見つけていく作業にすぎない。映画は映画になろうとする。作り手は実は映画の奴隷になるだけで、作っているのではなく、映画につくらされている関係になるのだ、と。」

宮崎駿, 『出発点 1979~1996』, 徳間書店, 1996

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「映画を作るって言うと、なんかクリエイティブとか創造、そういう恰好いい言葉並べますけど、実は、こういう映画を作るっていう素材を選ぶまでは、自分が決める。………それは決められますが、一旦決めて映画を作りだすと、映画作ってるんじゃないですね。映画に作らされるようになるんです。」

宮崎駿, 『出発点 1979~1996』, 徳間書店, 1996

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「この映画のためにいい音楽を作る、という目的は一つだ。その到達点を目指して自分を追い込んでいったとき、見えてきたのは違う景色だったのだ。つくりたいものというのは、最初から全貌がしっかり見えているわけではない。別の道に変わってしまうこともしばしばある。このときも、僕自身の直感が、「こっちを行くんだ!」と叫んでいたとしかいいようがない。

頭で考えていたものを凌駕するものが生まれてくるとは、こういうことだ。このひらめきをうまくつかまえられると、その曲づくりは間違いなくうまくいく。」

久石 譲, 『感動をつくれますか?』, 角川書店, 2006

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つくるというのは、冒険である。

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「本を書くというのは、言葉でひとつの現実をつくることです。そして、この言葉たちはある意味で自律性を持っている。言葉は(作家が)自分で作るわけじゃない。それはすでにそこにあるものです。それに、言葉は、現れるものでもある。そして、つかみかたが乱暴でなければないほど、さわりかたが、そっとやさしうあればあるほど、現れるものも多くなるし、言語がおのずから提供してくれるものも多くなります。わたしはそれを頼りにすることがよくあるのです。わたしの旅には大雑把な地図があって、残りはわたしに向かって生じるのだし、どこかから与えられるわけであり、わたしに起きるのです。」

ミヒャエル・エンデ, 『ものがたりの余白:エンデが最後に話したこと』, 岩波書店, 2000

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「わたしはよく言うのですが、わたしが書く行為は冒険のようなものだって。その冒険がわたしをどこへ連れてゆき、終わりがどうなるのか、わたし自身さえ知らない冒険です。だから、どの本を書いた後もわたし自身がちがう人間になりました。わたしの人生は実際、わたしが書いた本を節として区切ることができる。本を執筆することがわたしを変えるからです。」

ミヒャエル・エンデ, 『ものがたりの余白:エンデが最後に話したこと』, 岩波書店, 2000

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「本を書き始めるとき、僕の中には何のプランもありません。ただ物語がやってくるのをじっと待ち受けているだけです。それがどのような物語であるのか、そこで何が起ころうとしているのか、僕が意図して選択するようなことはありません。」

ミヒャエル・エンデ, 『ものがたりの余白:エンデが最後に話したこと』, 岩波書店, 2000

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「どんな長い小説でも、最初はいくつかのプロットと、登場人物程度しかありません。いかなる設定も持たずに書き始め、ただただ日々書くことによってストーリーを発展させていく。まわりにあるすべての要素を日々吸い込み、それを自分の中で消化することによってエネルギーを得て、物語を自発的に前に進めていくのです。」

村上春樹, 『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』, 文藝春秋, 2010

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「主人公が体験する冒険は、同時に、作家としての僕自身が体験する冒険でもあります。書いているときには、主要な人物が感じていることを僕自身も感じますし、同じ試練をくぐりぬけるんです。言い換えるなら、本を書き終えたあとの僕は、本を書きはじめたときの僕とは、別人になっている、ということです。小説を書くことは、僕にとって本当にとても重要なことなんです。それはたんに「書くこと」ではありません。数ある仕事のうちのひとつというわけにはいかないんですよ。」

村上春樹, 『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』, 文藝春秋, 2010

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「一日に三時間か四時間、物語ることに没頭し、毎日ほとんど同じ枚数を創作します。どんな物語になるかは僕自身にもわかりません。つまり僕が最初の読者となるので、これから起こることは知らないでいる必要があります。そうでなければ僕は「既に知っていることを書く」という作業に大いに退屈することになるでしょう。」

村上春樹, 『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』, 文藝春秋, 2010

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「僕自身は自分で物語を書きながら、「誰が殺したか」を知らないのです。そういう意味では僕は読者と同じ地平にいます。物語を書き出すときには、僕はそれがどんな結末を迎えるのか知らないし、次に何が起こるのかもわからない。最初に殺人事件があったとしても、誰が犯人なのか僕は知識を持ちません。僕はそれが誰なのかを知りたくて、小説を書き続けるわけです。もし誰が犯人なのかわかっていたら、小説を書く目的がなくなってしまいます。」

村上春樹, 『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』, 文藝春秋, 2010

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「もし物語の結末がわかっているなら、わざわざ書くには及びません。僕が知りたいのはまさに、あとにつづくことであり、これから起こる出来事なんですから。」

村上春樹, 『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』, 文藝春秋, 2010

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「構想……なるたけ考えないことにしている。構想に重きを置かない理由……構想を寝ることと、作品の流れを自然に任せることはとうてい両立しない。」

「ここはよくよく念を押しておきたい。作品は自律的に成長するというのが私の基本的な考えである。作家の仕事は作品に成長の場を与え、その過程を文字に写し取ることだ。」

スティーヴン・キング, 『小説作法』, アーティストハウス, 2001

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「私は構想よりも直観に頼る流儀である。………はじめに情況ありきである。そこへ、まだ個性の陰翳もない人物が登場する。こうして設定が固まったところから、私は叙述に取りかかる。すでに結末が見えている場合もあるが、私の思惑で人物を行動させたことはただの一度もない。何を考え、どう行動するかはまったく登場人物に任せきりである。時として私が予想した結末になることもあるが、少なからぬ作品が思いもかけなかった大詰めを迎えている。」

スティーヴン・キング, 『小説作法』, アーティストハウス, 2001

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「サスペンス作家にとって、これほど結構なことはない。それはそうだろう。私は作者であると同時に、一番乗りの読者である。先々何が起こるのか知っている私にして結末を正確に予想できないとすれば、読者が期待に急かせてページを繰るであろうことは疑いない。それに、結末にこだわる必要がどこにあるだろうか。作者が支配欲に駆られてやきもきすることはない。世の中すべて、遅かれ早かれ何らかの形でおさまるところへおさまるではないか。」

スティーヴン・キング, 『小説作法』, アーティストハウス, 2001

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「取りかかった作品は、完成するまでペースを落とさずに書き続ける。毎日きちんと書かないと、頭の中で人物が張りをなくす。生きた人間ではなく、切り絵のようなただの登場人物になってしまうのである。語り口の切っ先が鈍って、全体の構成や流れが制御できなくなる。なお悪いことに、話を紡ぎだす感興そのものが色褪せる。こうなると、仕事は苦役と変わりない。」

スティーヴン・キング, 『小説作法』, アーティストハウス, 2001

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土屋「初めにプロットとか考えて書き始めるわけじゃないそうですね。」

森「十ページ先のことぐらいまでしか考えていません。」

土屋賢二, 森博嗣, 『人間は考えるFになる』, 講談社, 2007

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土屋「誰が死ぬとかそういうことも決まってないんですか?」

森「最初、書き始めるときは決まっていません。」

土屋「トリックも決まっていない?」

森「トリックも、そうですね・・・。まず、場所を決めます。で、登場人物を揃えて、書き始めてから、どうしようかな、と考えます。トリック、トリックとそればかり考えても、思いつきませんよね。この場所で、こういう人たちがいて・・・、そういうふうに限定されてくると、じゃあ、この部屋でこうしようかなと。ですから、トリックだけ決まっているということはないです。」

土屋賢二, 森博嗣, 『人間は考えるFになる』, 講談社, 2007

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土屋「実際に書くとき、そもそも何から書き始めたらいいのかわからないんですよね。」

森「それは、事件さえ起こせば。」

森「たとえば「アキラはドアを開けた」と最初に書くんです。「そこに死体があった」とか。あとは何の死体かって書くしかないですから、そういう具合に、否が応でも話が進んでいきますから。」

土屋賢二, 森博嗣, 『人間は考えるFになる』, 講談社, 2007

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森「まずストーリィがちゃんとあって、どうなるんだろうという展開がある。……小説はきりが良いところに来ても、「そのときだった」とかって書いてあると、そこでやめられませんよね(笑)。先を読まずにいられない。書いてしまうんですよ、そういうふうに。理由を考えていなくても、「そのときドアがノックされた」とかって。書いてから、いったい誰が来たんだって考える(笑)。自分も書くのがやめられませんね。」

土屋賢二, 森博嗣, 『人間は考えるFになる』, 講談社, 2007

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小川「… 小説を書いているときも、書いている本人が全能の神で、全部を操れるはずなんですけれど、やはり何か自分の手におえないことが起こってくる。」

河合「それはピッチャーなんかも同じでしょう。良く、球が走った、と言う。自分が上手く投げたとは言わない。」

小川「球が切れるとか。主語が球なんですね。」

河合「プロになるほど、そう言う。素人は自分の投げた通りに投げてる。」

小川「自分の能力をそのまま投げている。」

小川洋子, 河合隼雄, 『生きるとは、自分の物語をつくること』, 新潮社, 2008

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小川「小説を書き終えた時に、自分の力で書いたっていう意識が、実はあんまり残らないんです。」

小川洋子, 河合隼雄, 『生きるとは、自分の物語をつくること』, 新潮社, 2008

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「天才的な作家っていますね。何も考えないでもどんどん着想が湧いてきて、すらすら書けちゃう人。…僕はそういうタイプではなくて、自然には湧いてこないから、自分でシャベルを使って井戸を掘りながら書く。……大事なのは、きちんと底まで行って物語を汲んでくることで、物語を頭の中で作るようなことはしない。最初からプロットを組んだりもしないし、書きたくないときは書かない。僕の場合、物語はつねに自発的でなくてはならないんです。」

村上春樹, 『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』, 文藝春秋, 2010

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「書くことによって、多数の地層からなる地面を掘り下げているんです。僕はいつでも、もっと深くまで行きたい。ある人たちは、それはあまりにも個人的な試みだと言います。僕はそうは思いません。この深みに達することができれば、みんなと共通の基層に触れ、読者と交流することができるんですから。つながりが生まれるんです。もし十分遠くまで行かないとしたら、何も起こらないでしょうね。」

村上春樹, 『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』, 文藝春秋, 2010

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「文章にもミューズがいる。しかし、彼は書斎へと舞い込んでタイプライターやパソコンに創造力を引き出す魔法の鱗粉をふりかけてはくれない。彼は地底の住人である。力を借りたければ、作家は自分から地底に降りて行くほかに仕方がない。」

スティーヴン・キング, 『小説作法』, アーティストハウス, 2001

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「秩序立てて考えられないところで苦しんで、もがいて、必死の思いで何かを生み出そうとする。その先の、自分でつくってやろう、こうしてやろうといった作為のようなものが意識から削ぎ落とされたところに到達すると、人を感動させるような力を持った音楽が生まれてくるのだと思う。」

久石 譲, 『感動をつくれますか?』, 角川書店, 2006

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「頭の中でこんな曲にしようと考えている段階は、あくまで入り口でしかない。作曲の本質は、もっと無意識の世界に入り込んで、カオスの中で自分でも想像していなかった自分に出会うところにある。つくろう、つくろうという意識が強いときは、まだ頭で考えようとしているのだと思う。」

久石 譲, 『感動をつくれますか?』, 角川書店, 2006

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「無意識といっても、何も考えていないということではなくて、どういうものをつくろうかと必死に頭を悩ませ、全精力を傾注し、自分をどんどん追い込んでいく中で、つまり潜在的にはつねにそのことを考えているような状況の中で、ぽっとアイディアが浮かんでくる。」

久石 譲, 『感動をつくれますか?』, 角川書店, 2006

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「私が思うに、人間には驚嘆すべきふたつの現象がある。ひとつは「記憶」で、これについては誰もが取りあげている…。もうひとつは、「忘れる」といういとなみで、これは私は「記憶」以上に重要なことだと見ています。忘れる能力をもっているということは意味ふかい。いちど記憶したものが、消えていってくれる・・・それはどこへいくと思いますか? 無意識のなかへですよ。それは私の人生の全継続性の基礎になります。ふとした機会によみがえる記憶もあるだろう。が、たいていのものは無意識の深みで、すっかり変形し、変容し、それら膨大な意識下記憶の総和が、私に自分はひとつの人格だ、という感情を可能にしてくれます。」

子安美知子, 『エンデと語る:作品・半生・世界観』, 朝日新聞社, 1986

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「意識的に記憶している過去にとどまらず、すっかり忘却の底に沈んでいるであろう過去が、それぞれの人間のなかで、かたちを変えつつ未来に反映していく。」

子安美知子, 『エンデと語る:作品・半生・世界観』, 朝日新聞社, 1986

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必然的な流れ

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養老「さっきからずっと久石さんが話されていた中で、僕が考えていたのは、それぞれの音、音ないしはそれぞれのパッセージが、ある種の必然性をもって組み上がることが、良い作品になっている、おそらく。要するに、ここはこれでなきゃだめなんだと、そういうものを見つけ出したい。それが時間の中で構築していくということではないか、ということなんですね。これがこの位置からここへズレていると話にならないんだよというものがあって、その必然性を求めているわけでしょう?」

久石「はい。」

養老孟司, 久石譲, 『耳で考える:脳は名曲を欲する』, 角川書店, 2009

【必然の答え探し】

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養老「創作をされる方は、みんなそう考えているでしょうね。それぞれの石がきちんとはまっている状態をイメージしているのだと思います。そのはまり方が、単純に絵に描いた餅のようなものではなくて、さまざまな要素を含み込んでどこから見ても必然性がきっちりとしたもの。それができると創作者はいいものができたと思う。………そういう本当のことというか、どの部分もまったくゆるがせができないような構築物を、創作する人はおそらくみんな望んでいるんでしょう?」

久石「ええ、おそらく。僕なんかは一番夢見ていますね。」

養老孟司, 久石譲, 『耳で考える:脳は名曲を欲する』, 角川書店, 2009

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久石「そうすると、それは自分で勝手に音をいじっていいかどうかという問題になるわけです。選んでいるのは俺だと思うのか、という。

その本当のものは何かを追い求める道をある程度進んでいくと、自分がつくっているわけではない、自分が音を選んでいるわけではない、と思えてくるんです。選んでいるのが自分なのではなくて、どこかにベストの答え、必然的な、すべてのピースがきちんとあるべきところにはまったようなそんな答えが、どこかに必ずある、それを探さなきゃいけないんだと。」

養老孟司, 久石譲, 『耳で考える:脳は名曲を欲する』, 角川書店, 2009

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久石「となると、作曲家といっても、自分の感性を動かして曲を書いているわけじゃないんです。こうしたならばどうなるんだ、これは何か違う、何か違う・・・と思って探していくような作業なんです。」

養老孟司, 久石譲, 『耳で考える:脳は名曲を欲する』, 角川書店, 2009

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「なぜあなたは詩をつくるか、という問は、詩人、楽しみに詩をつくる人ではなく、自分の人間といての仕事として詩をつくることを選んだ本当の詩人にとっては、なぜあなたは生きているのか、という問と変わらないと僕は思う。そのまず第一の答は、そうしたいから、という答であり、そして次の答は、そうしなければならないから、という答だ。この二つの答は、時にとけあって一つの答になってしまう程、互いに密接に関係している。詩人が詩をつくる時、つくりたい、とそして、つくらねばならぬ、という二つの気持ちは、つくる、という行為の中に昇華されて一つのものになる。」

谷川俊太郎, 『詩を書く:なぜ私は詩をつくるか』, 思潮社, 2006

【なぜ私は詩をつくるか】

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「一つの詩は、作者の意識的であるなしにかかわらず、つくりたい、に出発して、つくらねばならぬ、を通って完成へと導かれるものだと僕は考える。」

谷川俊太郎, 『詩を書く:なぜ私は詩をつくるか』, 思潮社, 2006

Page 45: 創造社会の思想と方法(井庭研 2011年度最終発表会講演)

「僕が小説を書く意味………僕も、自分を表現しようと思っていない。自分の考えていること、たとえば自我の在り方みたいなものを表現しようとは思っていなくて、僕の自我がもしあれば、それを物語に沈めるんですよ。僕の自我がそこに沈んだときに物語がどういう言葉を発するかというのが大事なんです。物語というのは常に動いていくものであって、その動くという特性の中にもっとも大きな意味があるんです。だからスタティックな枠みたいなものをどんどん取り払っていくことができます。それによって僕らは「自己表現」という罠を脱することができる。」

村上春樹, 『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』, 文藝春秋, 2010

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「「天命を感じる」というのは、人が受け身ではなく、もっと積極的に状況全体への価値の創造への寄与という方向で考え行動していったときに起こるものだと思う。だから、天命を感じている人というのは必ず、自分を取り巻いている全体状況、これをたいへん感受性豊かに受けとめている人だということになる。」

川喜田二郎, 『創造性とは何か』, 祥伝社, 2010 (1993)

【天命を感じ、絶対感で事を行なう】

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「つまり、自分がやりたいからやるんだという底の浅いものではなく、全体状況が自分にこういうことをやれと迫ってくるから、やむなくやっているという絶対感があるもので、それは絶対的受け身ということでもある。」

「主体性については、よく人に強いられてやるのは主体的ではないと言われるが、それは一般論であって、本当は全体状況が自分にやれと迫るから、やらざるをえないというほうが、じつは真に主体的だと私は思うのである。」

川喜田二郎, 『創造性とは何か』, 祥伝社, 2010 (1993)

【絶対的受け身から、真の主体性が生まれる】

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創造に求められるタフネス

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「作家はどちらかといえば孤独な職業である。一人きりで書斎にこもり、何時間も机の前に座り、意識を集中して文字の配列と格闘する。そのような作業が、来る日も来る日も続くことになる。集中して作品を書いていると、一日ほとんど誰とも話をしないということがけっこうある。」

村上春樹, 『雑文集』, 新潮社, 2011

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「小説を書くのは、一般の人が考えるよりはずっと体力を必要とする仕事です。」

村上春樹, 『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』, 文藝春秋, 2010

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「長編小説を書いているときは、書きながら身体の組成そのものが刻々と変化していくようなところがあって、それは何ものにもかえがたい興奮であり、充実感です。でも「楽しいか?」と質問されると、そんな単純な言葉ではとても形容できないというしかないんですね。見通しの悪い未知の大地をどんどん前に進んでいくようなものだから、そりゃしんどいし、きついし、不安がないといえば嘘になります。」

村上春樹, 『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』, 文藝春秋, 2010

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「だから僕がまず一番に考えるのは、書くのが楽しいという状況に、できるだけ自分を起き続けるということですね。………小説を書く苦しみについてはよく語られるけど、苦しいのは当たり前のことでしょう。僕はそう思う。ゼロから何かを生み出して立ち上げることが、苦しくないわけがないんです。そんなこといちいちことわるまでもない。僕にとって大事なのは、それがいかに楽しいかということです。」

村上春樹, 『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』, 文藝春秋, 2010

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「長編小説を書く時期に入っていれば、毎朝四時に起きて、五時間か六時間執筆します。……来る日も来る日もその日課をだいたいぴたりと守ります。休日はありません。そういう機械的な反復そのものがとても大事なんです。精神を麻痺させて、意識を深いところに運んでいくわけです。しかもそんなふうに、六ヶ月から一年のあいだ、休みもなく反復を続けていくというのは、精神的にも肉体的にも強靭でなくてはできないことです。そういう意味においては、長い小説を書くのはサヴァイヴァルの訓練のようなものです。そこでは芸術的感受性と同じくらい、身体の強靭さが必要とされます。」

村上春樹, 『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』, 文藝春秋, 2010

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「そのときに逃げちゃ駄目なんです。困るしかないんです。それで、うんと困ってると、もう少し奥の脳が考えてくれるんです・・・と思うしかないんですよ。自分の記憶にない過去の体験とか、いろんな物が総合されて、これなら納得できるっていう、それが自分の能力の限界だと思うんですけど、そういうものがポッと出てくるもんだと思うんです。

だから、要はそこまで自分を追いつめられるかどうかなんです。それが一番大事なこと。そうするとですね、映画を作ってるんじゃなくて、実は、映画に作らされるって感じになります。」

宮崎駿, 『出発点 1979~1996』, 徳間書店, 1996

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「初稿はだいたいにおいて混乱しています。ずいぶん何度も書き直しをします。そのままでは作品になりません。………場合によって違うけど、だいたい四回か五回くらいかな。場合によって違います。初稿に六ヶ月をかけた場合なら、同じくらいの長さを改稿にかけます。」

村上春樹, 『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』, 文藝春秋, 2010

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「ものをつくるというのは、そういう多様な面を併せ持った自分を総動員させながらも、本人が意識しているものを剥ぎ取ったところに妙味が出るものではないだろうか。

そのためには、その時々の自分に限界まで行ききることが必要で、その行ききった先に、何か新しく魅力的なものが待っている。そんなふうに思う。自分が考えているものの範疇で勝負していたら、月並みなものしか生まれてこないだろう。」

久石 譲, 『感動をつくれますか?』, 角川書店, 2006

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創造の“ふるさと”

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「創造のいちばん初めには、何が何だかわからないという状況がある。何が問題で、何が悩みの種かということすら、まだ漠然としていて掴めない、いっさいがもやもやとしている状況。これを私は「混沌」と呼んでいる。創造は、この混沌から出発するのである。」

「この混沌ということは、ひじょうに大切なことで、私たちが、これまでまったく経験をしたことのない難問題にぶつかったとき、最初に来るのは混沌であって、その混沌のなかから、“何とかしなければならない”という意思が生まれてくるのである。」

川喜田二郎, 『創造性とは何か』, 祥伝社, 2010 (1993)

【混沌、出会い、矛盾葛藤、そして本然】

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「「何とかしたい」という自分自身も、混沌の一部、あるいは一面を構成しているのである。けっして、混沌の外から、涼しい顔をして混沌を眺めているのではない。」

川喜田二郎, 『創造性とは何か』, 祥伝社, 2010 (1993)

【混沌、出会い、矛盾葛藤、そして本然】

Page 60: 創造社会の思想と方法(井庭研 2011年度最終発表会講演)

「江戸時代からの庶民の言葉に「ひと仕事やってのける」というのがあって、私は「これだ!」と思った。「ひと仕事する」、これはひとつの問題を初めから終わりまで解決し達成することにほかならない。」

「創造とは何かを、観念的ではなくとらえれば、それは「ひと仕事やってのける」ということで、創造性とは「ひと仕事やってのける能力を持つこと」であると言える。」

川喜田二郎, 『創造性とは何か』, 祥伝社, 2010 (1993)

【「ひと仕事」という創造的問題解決学】

Page 61: 創造社会の思想と方法(井庭研 2011年度最終発表会講演)

「創造的行為は、まずその対象となるもの、つまり「客体」を創造するが、同時に、その創造を行うことによって自らをも脱皮変容させる。つまり「主体」も創造されるのであて、一方的に対象を作る出すだけというのは、本当の創造的行為ではないのである。そして創造的であればあるほど、その主体である人間の脱皮変容には目を瞠るものがある。」

川喜田二郎, 『創造性とは何か』, 祥伝社, 2010 (1993)

【創造的行為によって自らが変わる】

Page 62: 創造社会の思想と方法(井庭研 2011年度最終発表会講演)

「人間というものは、自分が最も創造的に行動したそこ̶̶̶そこで何かビューティフルなことを達成したときには、そこが第二のふるさとになるということである。さらに同じような達成体験があれば、そこも第三のふるさとになる。……クリエイティブな人生を送るならば、ふるさとは何カ所できても、ちっとも不思議はないということである。」

川喜田二郎, 『創造性とは何か』, 祥伝社, 2010 (1993)

【創造的行為がふるさとを生む】

Page 63: 創造社会の思想と方法(井庭研 2011年度最終発表会講演)

「では、創造的行為において「客体」と「主体」の双方が創造されるだけかというと、その行為を通じて主体と客体とは、ひじょうに深い「愛と連帯感」で結ばれるのである。創造的行為が達成された当座は、きわめてホットな愛であり、時がたつと連帯という形で落ち着く。」

川喜田二郎, 『創造性とは何か』, 祥伝社, 2010 (1993)

【創造的行為によって自らが変わる】

Page 64: 創造社会の思想と方法(井庭研 2011年度最終発表会講演)

「しかも、主体と客体が創造されるだけではなく、その創造が行なわれた「場」も、また新たな価値を付加されて生み出されるのである。

したがって、ひとつの創造的行為が達成された場合、そこには「主体」と「客体」と「場」の三つが生み出されるということで、その「場」というものが、第二の、第三の「ふるさと」となるということである。」

川喜田二郎, 『創造性とは何か』, 祥伝社, 2010 (1993)

【創造的行為によって自らが変わる】

Page 65: 創造社会の思想と方法(井庭研 2011年度最終発表会講演)

「創りたい作品へ

造る人たちが

可能な限りの到達点へと

にじりよっていく

その全過程が

作品を創るということなのだ」

浦谷年良, 『「もののけ姫」はこうして生まれた。』, 徳間書店, 1998

Page 66: 創造社会の思想と方法(井庭研 2011年度最終発表会講演)

本格的な「創造」とは、自分と創造物との間の主客の境界が

あいまいになるなかで、意識の外にある必然的な流れをつかまえるということである。