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2015 年 11月 「バプテスマ」 「千年期の間の天と地」 「印があるか、印がないか」 

永遠の真理 2015 / 11

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sdarm, eternal truth, daily devotional

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2015 年 11月

Eternal Truth

永遠の真理

  「バプテスマ」 「千年期の間の天と地」 「印があるか、印がないか」 

永遠の真理いま永遠の真理の土台の上に堅く立ちなさい。(3T p.45)

目次

「バプテスマ」

聖書の教え

「千年期の間の天と地」われらの主よ、きたりませ

「印があるか、印がないか」三重のメッセージ - もう一人の御使のメッセージ

「麦茶ゼリー」

「だれの功績?」

4

8

39

4850

今月の聖書勉強

朝のマナ

現代の真理

力を得るための食事

お話コーナー

教会

【正丸教会】

〒 368-0071 埼玉県秩父郡横瀬町芦ヶ久保 1607-1 電話:0494-22-0465FAX: 0494-40-1045

【高知集会所】

〒 780-8015 高知県高知市百石町 1-17-2 電話:088-831-9535

【沖縄集会所】

〒 905-2261 沖縄県名護市天仁屋 600-21 電話:0980-55-8136

アクセス

ホームページ:http://www.4angels.jpメール:[email protected]

発行日 2015 年 10 月 30 日編集&発行 SDA 改革運動日本ミッション〒 368-0071 秩父郡横瀬町芦ヶ久保 1607-1

Illustrations: Dreamtimes on front cover; HighRes on pages 8, 52

Printed in Japan

3永遠の真理 2015 年 11 月

「賢い者」、すなわち正直な者は理解する

はじめに

誤謬というちりとごみが尊い真理の宝石を埋めてしまったが、主の働き人たちはこれらの宝を見出すことができる。こうして幾千もの人々がそれらを喜びと畏敬をもって見ることができるためである。神の御使たちは謙遜な働き人のかたわらにいて、恵みと神聖な啓発を与える。そして幾千もの人々がダビデと共に「わたしの目を開いて、あなたのおきてのうちのくすしき事を見させてください」と祈るように導かれる。

時代を越えて認められることも、注意を払われることもなかった数々の真理が、神の聖なるみ言葉の光を受けたページから輝き出る。全般的に真理を聞いたが、拒み、踏みにじってきた諸教会は、ますます悪を行うが、「賢い者」、すなわち正直な者は理解するようになる。本は開かれ、神のみ言葉が神のみ旨を知りたいと願う人々の心に届く。第三天使に加わる天からの御使の大いなる叫びの時に、幾千もの人々が、長年のあいだ世界をとらえてきた麻痺状態から目覚める。

神のみ言葉が研究され、理解され、従われるとき、明るい光が世界に反射する。受けいれられ、実践される新しい真理が、わたしたちを強いきずなでイエスに結びつける。聖書、そして聖書だけが、わたしたちの信条、ただ一つの結合のきずなとなる。この聖なるみ言葉に頭を垂れるすべての者は、調和するようになる。わたしたち自身の見解や考えが、わたしたちの努力を左右してはならない。人間は誤りを犯すが、神のみ言葉は無謬である。互いに論争する代わりに、主を高めなさい。わたしたちはすべての反対に対してわたしたちの主人なるお方がされたように、「こう書かれている」と言って対処しよう。聖書がわたしたちの信仰と規律の規則であると銘(めい)うたれた旗印を掲げよう。(レヒ ュ゙ー ・ アンド・ ヘラルド1885年 12 月15 日)

4 永遠の真理 2015 年 11 月

今月の聖書勉強

一人の神、一人の主、一人の御霊、一つの信仰、一つの希望、そして一つの体だけがあるのですから、新生の始まりと、これらの大いなる面を数々持っているキリスト教と一体となること、またキリストの体である教会に受け入れられることを象徴するしるし(水に沈めるバプテスマの一つのかたち)も一つであるはずです(マタイ3:13–16; エペソ4:3–6)。

バプテスマは内なる霊的な洗い、すなわちイエスを自分の個人的な救い主として受け入れた信徒がすでに経験しているキリストの血による罪からのきよめを指し示す外側の印です。このキリストから離れては、バプテスマは、他の儀式と同様に、単なる意味のない外側の形式に過ぎません。「古き人」の死と埋葬と同様に「新しき人」がキリストと共にこのお方のうちにある新しい命へとよみがえることが、この儀式によって象徴されています(マルコ16:16; 使徒行伝 2:38; 22:16; ローマ 6:3–9; コロサイ2:12, 13; ペテロ第一 3:21; エペソ4:22–24)。

バプテスマは神との契約であり、それによって候補者は公に、自分が世を捨てキリストの王国の臣民となると決心したことを宣言します(エペソ 2:19; コロサイ3:1–3; へブル 8:10–12)。信じ悔い改めた罪人が、御父、御子、聖霊の名によってバプテスマを受けるとき、彼らは闇の王国から光の王国への召しを受け入れたことを示します。彼らの罪は許されました。彼らはキリストを着、自らを聖霊の導きの下におき、地上におけるキリストの目に見える教会と一つになる準備をしたのです。ですから、バプテスマはキリストの霊的な王国に入るしるしです(マタイ28:19, 20; コロサイ1:13; ペテロ第一 2:9; 3:21; ヨハネ第一 1:9; ガラテヤ3:27; コリント第一 12:13; 使徒行伝 2:47)。

聖書は幼児のバプテスマを教えていません。責任のもてる年齢に達し、次の条件を満たした者だけがバプテスマを受けることができます。すなわち、イエス・ キリストを自分の個人的な救い主として信じる信仰(マルコ16:16; ローマ10:13, 14; 使徒行伝 8:12, 36, 37; 18:8)、真理についての徹底的な教え(マタイ28:19, 20; 使徒行伝 8:35)、悔い改め(使徒行伝 2:38)、また改心―神に対

 8 章 バプテスマ

聖書の教えⅪ

5永遠の真理 2015 年 11 月

する明らかな良心(ペテロ第一 3:21)です。「バプテスマは最も神聖で重要な儀式であり、その意味について徹底的な理

解がなくてはならない。それは罪に対する悔い改めとキリスト・イエスのうちにある新しい命に入ることを意味する。この儀式を受けるに当たっては、不当に急がせるようなことがあってはならない」(教会への証 6 巻 93)。

教会の承認後、バプテスマの儀式は、按手を受け認められた福音の働き人によって実施される(マルコ 3:14)。

バプテスマ(ギリシャ語のバプティスマ。漬ける、浸すの意)は、できれば流れる小川やきれいな湖の水に沈めることによってなされます(マタイ3:16; 使徒行伝 8:38, 39; ヨハネ 3:23)。

「キリストはバプテスマをご自分の霊的な王国へ入るしるしとなさった。このお方は、これを御父、御子、聖霊の権威の下にあるものとして認められたいと願うすべての者が応じなければならない明白な条件とされた。人が教会に家庭を見出すことができる前に、神の霊的な王国の敷居をまたぐ前に、彼は神聖な名、『主われわれの正義』の印章を受けなければならない(エレミヤ 23:6)。バプテスマは最も厳粛な世の放棄である。御父、御子、聖霊の三重のみ名のうちにバプテスマを受ける人々は、自分たちがクリスチャン生涯に入ろうとする時に、自分がサタンの奉仕を捨て、王家の一員、すなわち天の王の子となったことを公に宣言するのである」(教会への証 6 巻 91)。

「キリストを離れては、バプテスマは、他の儀式と同じように、無価値な形式である。『御子に従わない(御子を信じない)者は、命にあずかることがない(命を見ることがない)』(ヨハネ 3:36)」(各時代の希望上巻 214, 215)。

弟子としての証拠「だれも自分がキリストと救いのつながりをもっている証拠として自分の信仰の

告白に頼ることはできない。わたしたちは『わたしは信じる』というだけでなく、真理を実践しなければならない。わたしたちがこのお方とのつながりを実証するのは、自分たちの言葉、ふるまい、品性において、神のみ旨に一致していることによる」(教会への証 6 巻 92)。

「〔バプテスマの候補者たち〕が単にセブンスデー・アドベンチストの名を受けようとしているのか、それとも世から出てきて分離し、汚れたものに触れない主

6 永遠の真理 2015 年 11 月

の側に自分の立場を取ろうとしているのかを知らなければならない。バプテスマの前に、候補者たちの経験を徹底的に調べるべきである。冷たくよそよそしいやりかたでなく、親切にやさしく、新しい改心者に世の罪を取り除く神の小羊を指し示しながら調べなさい。バプテスマの候補者たちに課せられる福音の要求を提示しなさい」(同上 6 巻 95, 96)。

「教会にメンバーを受け入れる際に、注意深く祈りつつ念入りな調査が十分になされていない。……わたしたちに与えられていない権利がある。それは他の人の心を判断したり、その人の動機を批判したりすることである。しかし、だれかが教会員になる候補者として自らを示した時には、その人の生活の実をよく吟味し、そして彼の動機は彼の責任として任せなければならない。しかし、教会にメンバーとして受け入れる際には、非常な注意が払われるべきである。なぜなら、サタンは自分の偽りの兄弟を教会の中に押し込み、彼を通して神のみ事業を弱めるためにもっと首尾よく働くことを目的とした巧妙な策略をもっているからである」(レヒ ュ゙ー ・ アンド・ ヘラルド1893 年 1月10 日)。

「だから、悔改めにふさわしい実を結べ」(マタイ3:8)。 「ヨハネはこれら〔パリサイ人やサドカイ人〕に、『だから、悔改めにふさわし

い実を結べ』と訓告した。つまり、自分たちが改心したこと、また自分たちの品性が変えられたことを示しなさい、ということである。……言葉や告白ではなく、実―罪を捨てることと神の戒めへの従順―を、本物の悔い改めと真の改心という現実を示しなさい」(SDA ハ イ゙フ ル゙ ・ コメンタリ [E・G・ ホワイト ・ コメント ]5 巻 1077)。

再バプテスマバプテスマは通常一度だけ行われるものですが、人が背信によって神との契

約を破った時には、悔い改めによって再バプテスマを受けるべきです。また背信以外の別の理由で再バプテスマを受ける場合があります。パウロがエペソに何人かの弟子を見出したとき、彼らはすでに真理を信じ、すでに正しい方法で、正しいバプテスマを受けていました。しかし、彼らがよりはっきりとした真理の知識を受けたときに、彼らは再バプテスマを受けました(使徒行伝 19:1–5)。正直な魂が、現代の真理の知識を知るようになるとき、キリストの霊的な王国に入るために門をくぐる必要を悟るようになります。

「キリストはバプテスマをご自分の霊的な王国へ入るしるしとされた」(教会へ

7永遠の真理 2015 年 11 月

の証 6 巻 91)。「正直に真理を求めて探究する人は、律法を知らなかったことを不法の言い訳

として訴えたりはしない。光は彼の届くところにあった。神のみ言葉は率直であった。そしてキリストは聖書を調べるようにと命じておられた。彼は神の律法を聖にして、正しく、善なるものとして崇敬しており、自分の不法を悔い改める。信仰によって、彼はキリストの贖罪の血を嘆願し、許しの約束をつかむ。彼の以前のバプテスマに彼はもはや満足しない。彼は自らが神の律法によって有罪宣告を受けた罪人であることを見た。彼は新たに罪に対する死を経験し、もう一度バプテスマによってキリストと共に埋葬されることを願う。それは彼が命の新しさに歩むべくよみがえることができるためである。このような行動はパウロがユダヤ人の改心者たちにバプテスマを施した時の例と調和している。この出来事は、教会のために指導的教訓として聖霊によって記録されたのである」(ハ ウ゚ロの生涯からのスケッチ133)。

「もしあなたがたがキリストのかたちを失ったならば、わが兄弟姉妹方よ、あなたがたは再度改心し、再バプテスマを受けるまでは、決して、決して、神との交わりのうちに入ることはできない。あなたは悔い改め、再バプテスマを受け、キリストの愛と交わりと調和に入る必要がある」(説教と講和 1 巻 366)。

「わたしはわれわれの指導的兄弟たち、牧師たち、特に医師たちに語る。あなたがたが自分の心に誇りを許している間は、あなたがたの働きに力が欠乏する。何年もの間、悪い精神、誇りの精神、最高位を求める願望を抱いてきた。これによってサタンが奉仕を受け、神が辱められてきた。主は断固とした改革を求めておられる。そして魂が真に改心した時には、再バプテスマを受けさせなさい。彼に神との契約を新たにさせなさい。そうすれば神は彼とのご自分の契約を新たにして下さる」(原稿リリース 7 巻 262)。

8 永遠の真理 2015 年 11 月

朝のマナ

われらの主よ、きたりませMaranatha

11 月「千年期の間の天と地」

9永遠の真理 2015 年 11 月

朝のマナ 千年期の間の天と地 11月1日

サタンと悪天使の監禁

「主は、自分たちの地位を守ろうとはせず、そのおるべき所を捨て去った御使たちを、大いなる日のさばきのために、永久にしばりつけたまま、暗やみの中に閉じ込めておかれた。」(ユダ 6)

地上は荒れはてて荒野のように見えた。地震で倒れた都市や村々の廃墟がうず高くなっていた。山々がうつり去った跡には、大きな穴が口を開いていた。海からうちよせられたり、地が裂けてころがり出たごつごつの岩石が、あちらにもこちらにもころがっていた。大きな木が根こそぎになって、地面に吹き倒されていた。ここがサタンと悪天使たちにとって、千年間の住居になるのである。

ここに彼は閉じこめられて、その荒れはてた地上をさまよい歩き、神の律法に対する自分の反逆の結果を見せられる。彼は、自ら招いたわざわいの結果を、千年の間、存分に味わうことができる。この地上から外へは出られないサタンは、他世界を飛びまわって、堕落したことのないその住民を誘惑したり、妨害したりすることは許されない。この期間中、サタンは極度に苦痛をおぼえる。堕落して以来、彼の悪の能力はたえず働いていた。しかし今、彼はその能力をとりあげられ、放置されるままに、堕落以来自分の果たしてきた役割について回顧し、また恐怖すべき自分の将来を、恐れとおののきをもって待ちうけねばならない。その恐るべき将来において、彼は自分がこれまでやってきたすべての悪について、さばきをうけ、また彼が人に犯させたすべての罪について処罰をうけねばならないのである。

天使たちと救われた聖徒たちの勝利の叫びが、幾万の楽器を奏する音のようにひびきわたるのをわたしは聞いた。彼らは、これから後サタンに苦しめられたり、誘惑されたりすることはなくなるのである。また他世界の住民たちも、サタンの存在と誘惑から救われるのである。(初代文集 467, 468)

神の民にとってサタンの監禁は、嬉しさと喜びをもたらす。預言者は次のように言っている。「主があなたの苦労と不安とを除き、またあなたが服した苦役を除いて、安息をお与えになるとき、あなたはこのことわざをとりあげて、バビロンの王に向かって言う、『あの、しえたげる者は全く絶えてしまった。……主は悪い者のつえと、つかさびとの笏を折られた。彼らは憤りをもってもろもろの民を絶えず撃っては打ち、怒りをもってもろもろの国を治めても、そのしえたげをとどめる者がなかった。』」(改訳聖書イザヤ14:3 ~ 6)。(各時代の大争闘 660 英文)

10 永遠の真理 2015 年 11 月

11月2日 千年期の間の天と地

わたしたちは自分の守護天使と出会う

「これは主があなたのために天使たちに命じて、あなたの歩むすべての道で、あなたを守らせられるからである。」(詩篇 91:11)

永遠の光の中に神の摂理が明らかにされるまでは、われわれはどんなに天使たちに守られ助けられていたかを知ることができない。天使たちは人間世界のできごとに積極的な役割を果たしてきたのである。光り輝く衣をまとって現われたり、旅びとの服装をした人間となって現われたのである。彼らは人の家庭でもてなしを受けたり、道に行き暮れた旅びとを案内したりしたのである。彼らは敵の意図をくじき、破壊者の手をとどめたのである。

この世の為政者たちはしらないが、天使たちが彼らの会議に発言したことは幾度もある。人間の目に彼らの姿が見え、人間の耳に彼らの訴えが聞こえたのである。会議室や法廷で、天の使者たちは迫害と圧制を受けている者たちのために弁護したのである。彼らは神の子らに災いと苦難をもたらすような目的をくじき、悪をとどめたのである。天の学校では、こうしたすべてのことが、生徒たちに明らかにされるであろう。

あがなわれた者はだれでも、自分の一生における天使たちの奉仕を理解するであろう。生まれたときからわれわれを守ってくれた天使、われわれの歩みを見守り、危険の日にわれわれの頭上をおおってくれた天使、死の陰の谷にあってわれわれとともにいた天使、われわれの最後のいこいの場所に目をとめていてくれた天使、よみがえりの朝まっさきに迎えてくれる天使―この天使と語らい、自分の一生における神の摂理と人類のためのあらゆる働きにおける天の協力について話を聞くことはどんなにすばらしいことであろう。(教育 356)

神のみ言葉である聖書さえ手にあれば、人はどんな境遇に陥っても、自分の好きな友をえらび得るのである。聖書のページを開いて、人類の最も高貴な最もすぐれた人 と々語り、人類に話しかけられる永遠なる神のみ声に聞き入ることができる。

「御使たちも、うかがい見たいと願っている」ほどのテーマを研究し、考えるときに、天使たちを友とすることができる。(同上 136)

11永遠の真理 2015 年 11 月

千年期の間の天と地 11月3日

神の都へ歓迎される

「主人は彼に言った、『良い忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ』。」(マタイ25:23)

ことばに言い表わすことのできない愛をもって、イエスは忠実な者たちを主の喜びに迎え入れてくださる。救い主の喜びは、ご自身の苦悩と屈辱とによって救われた魂を、栄光のみ国において見ることである。そして、贖われた者たちは、この祝福された人々の中に、自分たちの祈りや働きや愛のこもった犠牲によってキリストに導かれた人々があるのを見て、主の喜びにともにあずかる者となる。彼らが大いなる白いみ座のまわりに集まって、自分がキリストに導いた人たちを見、そして、その導かれた人たちがまたほかの者を導き、その人たちがさらにほかの人たちを導いて、すべての者が休息の港に入れられたことを見るとき、彼らは言うに言われぬ歓喜に心が満たされ、自分たちの冠をイエスの足もとに投げ出して、永遠に尽きることのない年月にわたってイエスを賛美するのである。

贖われた人々が、神の都に迎え入れられるときに、喜ばしい賛美の叫びが空に響きわたる。今、二人のアダムが会おうとしているのである。神のみ子は、立って手を広げ、人類の祖先を抱こうとしておられる。神のみ子が、この人を創造された。その彼が創造主に罪を犯した。そして、彼の罪のために、救い主の体に十字架の傷が負わされたのである。アダムは、残酷な釘のあとを見て、主の胸にはよりかからず、恥じいって主の足もとにひれ伏し、「ほふられた小羊こそは……さんびを受けるにふさわしい」と叫ぶのである。救い主は、やさしく彼を抱き起こして、彼が長い間追放されていたエデンの故郷をもう一度見るようにとお命じになる。

エデンを追放されてからの、アダムの地上の生涯は、悲しみに満ちたものであった。木の葉が落ち、犠牲の動物がささげられるのを見、自然の美が傷つけられ、人間の純潔が汚されるのを見るたびに、彼は自分の罪をまざまざと思い出した。彼は、罪悪がふえひろがるのを目撃し、警告の声をあげると、それに答えて、罪の起こりは彼自身のせいであるとののしられて、恐ろしい良心の呵責に悩まされた。彼は千年近くもの間、身を低くして、罪の刑罰を耐え忍んだ。彼は、心から自分の罪を悔い改めて、約束された救い主の功績に信頼し、復活の希望をもって死んだ。神のみ子は、人間の失敗と堕落とを贖われた。そして今、贖罪の働きによって、アダムに最初の主権が返されたのである。(各時代の大争闘下巻 427, 428)

12 永遠の真理 2015 年 11 月

11月4日 千年期の間の天と地

言い表せない喜び

「彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである。」(ヘブル 12:2)

「わたしがこれらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにも宿るため、また、あなたがたの喜びが満ちあふれるためである」と、キリストは言われた(ヨハネ15:11)。

キリストはつねにその使命の結果をご自分の前に見ておられた。キリストの地上における生活は、実に苦労と自己犠牲に満ちたものであったが、こうした苦しみはすべてむだではないという思いに元気をとり戻されていた。人間の生命のためにご自分の生命を与えることによって人間の中に神の姿を回復しようとなさった。彼はわたしたちを土のちりからつくり、ご自分の品性のかたちに似せて、わたしたちの品性をつくりなおし、その栄光をもって美しくしようと思われたのであった。

キリストは自分の魂の産みの苦しみをみて満足された。彼は広大な永遠の果てをながめ、自分の屈辱によって、ゆるしと永遠の生命を受ける人々の幸福をごらんになった。キリストはその人々のとがのために傷つけられ、彼らの不義のために砕かれたのだ。彼は自らこらしめを受けて、彼らに平安を与え、その打たれた傷によって、彼らはいやされた。彼はあがなわれた者の凱歌をきかれた。キリストはあがなわれた者がモーセと小羊の歌をうたうのを聞かれた。彼はまず、血のバプテスマを受けなければならず、世の罪が罪のない彼の魂の上に重くおおいかかり、言い知れぬ苦悩のかげがさしてはいたが、その前におかれた喜びのために、自ら進んで十字架に耐え、恥もおいといにならなかった。

キリストのしもべたちはこの喜びにあずかることになっている。その後に来る報いがいかに偉大で、りっぱであっても、わたしたちの報いは最後の救いの時まで全部保留されるべきものではなく、信仰によってこの地上においても救い主の喜びにあずかるのである。(ミニストリー ・ オブ・ ヒーリング491, 492)

彼は、ご自分を受け入れる者に神の子となる力を与えてくださる。それは彼らがついにこのお方のものとして受け入れられ、またこのお方と永遠にわたって住むためである。もし、彼らが現在において神に忠実なら、ついには彼らは「御顔を仰ぎ見るのである。彼らの額には、御名がしるされている」(黙示録 22:4)。神を仰ぎ見る以外に天でなんの幸福があるだろうか。キリストの恵みによって救われた罪人に、神のみ顔を拝し、この方を御父として知ること以上に大きな喜びがあるであろうか。(教会への証 8 巻 267, 268)

13永遠の真理 2015 年 11 月

千年期の間の天と地 11月5日

贖われた者の感謝

「すると、王は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』。」(マタイ25:40)

神の民を味方にしたわたしたちのすべての行為は、神ご自身になされたものとして報いられる。(今日のわたしの生涯 364)

すべての刈り手は、イエスの澄んだ、音楽のような声が、わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受け継ぎなさい」「主人と一緒に喜んでくれ」と仰せになるのを聞くとき、どれほど満足することであろうか。

贖い主はご自分の死が無駄にならなかったので栄光をお受けになる。神と共に働いてきた者たちはうれしさと喜びにあふれた心で、滅び、死んでゆく罪人のためになした骨折りの結果を見て、満足する。自分たちが過ごした不安な時間、会わねばならなかった困難な状況、ある人々が自分たちの心を平安にする事柄を認めて受け入れることを拒むがゆえに生じた心の悲しみなどは忘れてしまった。また、自分たちがみ働きをささえるために実践した自己否定を思い出すこともない。彼らがイエスへ勝ち取ろうと努めた魂、神の恵みと救い主の愛の記念碑である魂を眺め、彼らが救われたのを、すなわち永遠に救われたのを見るとき、天空に讃美と感謝の叫びが響き渡る。(レヒ ュ゙ー ・ アンド・ ヘラルド1907 年 10 月10 日)

わたしたちの目の前には天がある。そしてそこに住む住民の間には争いはない。……

わたしたちは贖われた聖なる家族に挨拶する。そして「わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい」というキリストのみ声を聞く。わたしたちは自分たちの金の立琴を奏でる。そして全天に豊かな調べが響き渡る。わたしたちは輝く冠をキリストの足元に投げ出し、わたしたちのために勝利されたキリストに栄光を帰す。

この世では、わたしたちには理解できないことがあるかも知れない。聖書に書かれている事がわたしたちにとって、神秘に思えることもある。なぜなら、それらの事柄はわたしたちの有限な理解力を超えたものだからである。しかし、救い主がわたしたちを命の水の川のそばに導かれる時、わたしたちの思いに、以前には、はっきりと理解できなかったことを明らかにしてくださる。(同上 1907 年 8月 8 日)

14 永遠の真理 2015 年 11 月

11月6日 千年期の間の天と地

天国はなんと安いのだろう

「しかも彼を砕くことは主のみ旨であり、主は彼を悩まされた。彼が自分を、とがの供え物となすとき、その子孫を見ることができ、その命をながくすることができる。かつ主のみ旨が彼の手によって栄える。彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する。義なるわがしもべはその知識によって、多くの人を義とし、また彼らの不義を負う。」(イザヤ 53:10, 11)

神の愛は測ることも、比較することもできない。それは無限である。……わたしたちがキリストの尊厳と栄光を瞑想する時、わたしたちは、失われた世界を贖うためにカルバリーの十字架上であのような犠牲を払わせた愛がどれほど偉大なものであったかを知る。この主題は永遠にわたって聖徒を驚嘆と驚きで満たすであろう。そうであれば、わたしたちはこの世界でそれを瞑想すべきではないだろうか。……

神が肉において現れた。なんというその信心の奥義であろう。わたしたちが理解しようとすればするほどこの奥義は増大する。それは理解を超えている。それでいながらなお、死ぬべき人間がイエスとその比類のない愛について得るかすかな見解を、人は世俗的で地につける事柄がさえぎるのを許してしまう。……わたしたちはどうしてこの世のささいなことにひたれるだろうか。この光景、すなわち神のひとり子の死に表されている愛であるカルバリーの十字架に心を打たれずにおられようか。……

この謙遜と苦悩は、さまよい、罪を犯し、感謝しないすべての者をみ父の家に連れかえるために忍ばれたものである。祝福されたもののふるさと―わたしは、それを絶対に失うことはできない。神の御国に救われたなら、わたしは、救いの計画の新しい深さを絶えず理解するようになるであろう。贖われた生徒は皆、天父とみ子の愛を今までにないほど知り、感謝して、不死の唇から、讃美の歌がほとばしり出るであろう。主はわたしたちを愛し、わたしたちのためにご自分の命を与えてくださった。栄化された体と、増大した能力、また清くされた心と清められた唇をもって、贖われた愛の豊かさを讃美する。天では苦しむ者はなく、永遠のことがらの現実を確信させるためにわたしたちが労苦しなければならない懐疑論者もいない。根絶しなければならない偏見もない。すべての者は理解を超えた愛に対して感じやすい者となる。安息、神の民のために安息があることを感謝しよう。そこでは、イエスが贖われたものを緑の牧場に導かれ、神の都に喜びをもたらす生ける水の流れのほとりで神の民は休む。その時、天父に対するイエスの「あなたがわたしに賜わった人々が、わたしのいる所に一緒にいるようにしてください」という祈りが答えられるのである。(手紙 27,1890 年)

15永遠の真理 2015 年 11 月

千年期の間の天と地 11月7日

ついに家郷へ

「主人は彼に言った、『良い忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ』。」(マタイ25:21)

この地上の麗しさに心が魅せられるとき、罪にも死にもむしばまれない来るべき世界のことを考えてみよう。そこにはもはや呪いの影は見られない。さらに、救われた者の家庭を考えてみよう。それは、どんなにか素晴らしい想像も到底描き出すことができないほどの立派なものであることを覚えよう。神は自然界を美しく飾られたが、それでもわたしたちは、神の栄光のほのかな光を見ているに過ぎない。聖書には「目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心に思い浮びもしなかったことを、神は、ご自分を愛する者たちのために備えられた」(コリント第一 2:9)と記されている。(キリストへの道 117, 118)

やがて、天の門が神の子らのために開かれ、栄光の王の唇より、「わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい」(マタイ25:34)という祝福の言葉が豊かな音楽のようにわたしたちの耳に響くだろう。こうして、贖われた者は、イエスが彼らのために準備された住居に迎えられるのである。(同上 176, 177)

それからわたしは、イエスが、救われた人々の群れを、都の門に導かれるのを見た。イエスは門に手をかけて、そのきらめく蝶番のついた扉をさっと開き、真理を守った諸国民に、中に入るように命じられた。都の中には目を楽しませるあらゆるものがあった。彼らは至る所に豊かな栄光を見た。それからイエスは、贖われた聖徒たちをごらんになった。彼らの顔は栄光に輝いていた。イエスは、彼らの上にじっとやさしい目をそそいで、豊かな美しい声でこう言われた、「わたしは、自分の魂の辛苦を見ることができて満足だ。この豊かな栄光は永久にあなた方のものだ。あなた方の不幸は終わった。もはや死もなく悲しみ嘆きもなく、また苦しみもないのだ」。……

ことばというものはあまりに貧弱で、天国の光景を描写することができない。天国の光景がわたしの前に現れるにつれて、わたしはただ驚嘆するよりほかはない。そのすぐれた壮麗さと、そのすばらしい栄光に心を奪われたわたしは、筆を投げて叫んだ。「ああ、なんという愛! なんという驚くべき愛ぞ」と。どんなことばでほめたたえてみても、天の栄光と比類のない救い主の愛の深さを描写することはできない。(初代文集 464 ~ 466)

16 永遠の真理 2015 年 11 月

11月8日 千年期の間の天と地

わたしたちが天国に着いた時の驚き「しかし主はサムエルに言われた、『顔かたちや身のたけを見てはならない。わた

しはすでにその人を捨てた。わたしが見るところは人とは異なる。人は外の顔かたちを見、主は心を見る』。」(サムエル記上 16:7)

しばしばわたしたちはキリストがご自分に引き寄せておられる人びとを、全く見込みのない者だと考える。……隣人たちからは、全然天国にはいれるとは思われなかった人びとが、多く天国にはいることであろう。人は外の形によって判断し、神は心を評価なさるのである。(キリストの実物教訓 49,50)

贖われた者のうちで、ある者は死の直前にキリストをしっかりとつかむ。だから、このような人々には天国で教えがなされる。この人々は死んだ時、救いの計画を完全に理解していなかったからである。(SDA ハ イ゙フ ル゙ ・ コメンタリー [E・G・ホワイト ・ コメント ]5 巻 1124)

十字架上で苦しんでおられるイエスにかすかな慰めの光が一すじさしてきた。それは悔い改めたどろぼうの祈りであった。……打たれ、あざけられ、十字架にかけられているイエスのうちに、彼は、世の罪をとり除く神の小羊を見る。死にかけている無力な魂が、瀕死の救い主に身をまかせると、彼の声には苦悩の中に望みがまじる。「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」と、彼は叫ぶ ( ルカ 23:42)。すぐに応答があった。……今日、よく言っておくが、あなたはわたしと一緒にパラダイスにいるであろう。

(各時代の希望下巻 267, 270)このような信仰は夕方五時から働いて、何時間も働いた労働者たちと同じ報

酬を受け取った労働者にたとえられる。どろぼうは信仰と悔い改めと悔恨のうちに求めた。彼はあたかも、イエスが望まれるなら、自分を救うことがおできになることを完全に自覚しているかのように熱心に求めた。(SDA ハ イ゙フ ル゙ ・ コメンタリー [E・G・ホワイト ・ コメント ]5 巻 1125)

裁きのときに、キリストからほめられる者たちは、神学についてはほとんど知らなかったかもしれないが、彼らはキリストの原則を心に宿していた。……

異教徒の中には、知らないで真の神を礼拝している人たち、すなわち人を通して光を与えられたことのない人たちがいるが、それでも彼らは滅びないのである。彼らは書かれた神の律法については無知であるが、自然を通して語りかける神のみ声を聞き、律法に要求されていることを実行した。彼らのわざは聖霊が彼らの心に触れた証拠であって、彼らは神の子らとして認められる。

諸国民や異教徒の中のへりくだる者たちは、救い主の口から、「わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである」ということばを聞いて、どんなに驚き、よろこぶことだろう( マタイ25:40)。限りない愛であられる主の心は、主に従う者たちがその嘉納のことばを聞いて驚きとよろこびの思いで見上げるとき、どんなにかよろこばれることだろう。(各時代の希望下巻 108, 109)

17永遠の真理 2015 年 11 月

千年期の間の天と地 11月9日

十分な答え

「天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、あなたがたの思いよりも高い。」(イザヤ 55:9)

わたしたちの計画が必ずしも神の計画であるとは限らない。……わたしたちが自分のことを知っている以上にわたしたちをご理解になる神はわ

たしたちを愛し、ご配慮くださるみ心から、しばしば人間が利己的な野心を満足させることを許されず、身近にある、そぼくではあるが、きよい義務をみのがすことをお許しにならない。往々、こうした義務がより高い働きのための重要な準備訓練になる。わたしたちのために立てられた神の計画が成功するために、わたしたちの計画が失敗に終ることがよくある。(ミニストリー ・ オブ・ ヒーリング457, 458)

わたしたちは神の神秘を理解するために、今は霊的な到達点に十分に達していない。しかし、わたしたちが天の家族の一員となるとき、これらの神秘は明らかにされる。……

わたしたちが永遠の神秘について知らされていることを、拾い集めもしないし、感謝もしないために、神が今は沈黙のうちに守っておられる事柄の説明が、その時にはたくさんなされるであろう。み摂理の方法が明白になる。キリストを通してなされた恵みの神秘が、明らかにされる。今は知性が捕らえられないこと、理解しがたいことが説明される。説明できないように見えたことが秩序だっていることを知り、与えられなかったすべての事の中に知恵があったことを知る。教えられたすべての事に善と、思いやりのある恵みを認める。真理は心に明らかにされ、あいまいなことはなくなって、一本道となり、その輝きは耐えられるものになる。心は喜びにあふれて讃美する。争闘は永遠に終わり、すべての困難は解決する。

(SDA ハ イ゙フ ル゙ ・ コメンタリー [E・G・ホワイト ・ コメント ]6 巻 1019)神の摂理によってわたしたちを困惑させていたすべてのことは、来るべき世で

明らかにされる。理解し難い事柄が、その時には説明がつく。恵みの神秘がわたしたちの前に開かれる。わたしたちの有限な心にはただ混乱と破られた約束しか見つけられなかったところに、もっとも完全で美しい調和を見る。もっともつらい試練だと思われた経験も、無限の愛が支配していたことをわたしたちは知る。すべてのことをわたしたちの善のためにしてくださるお方の優しい心づかいに気づく時、わたしたちは言いあらわすことのできない歓喜と讃美にあふれて喜ぶのである。(同上 9 巻 286) 

18 永遠の真理 2015 年 11 月

11月10日 千年期の間の天と地

あなたがたは上にあるものを思うべきである

「 あなたがたは上にあるものを思うべきであって、地上のものに心を引かれてはならない。」(コロサイ3:2)

神の民がこの世の事柄から目をそらし、天と天の事柄に目を据えるとき、彼らは特別な民となる。神が人の子らに示して下さった恵みと善とあわれみを知るからである。神の愛は民から答えを引き出す。そして彼らの生活が神の御霊が自分たちを支配していること、また彼らが上にあるものを思って、地上のものに心を引かれていないことを周りの人々に示すのである。

天のことを考えるとき、わたしたちは最大限度までに想像力を働かせて、自分に考えられる限り気高い思いを抱くかもしれないが、そうしてみても、わたしたちの思考力は、この主題の広さと深さと高さを悟ろうとする努力に限度のあることを知るのである。永遠という偉大な主題を悟るのは、わたしたちの知能には不可能である。善のためにわたしたちの全人格を働かせる努力をし、自分の精神を高める感化を得ないで、これらのことを理解しようと努力することすら、わたしたちには不可能である。キリストが堕落した人間のために死なれるため、この世界にどのようにこられたかをわたしたちが考えるとき、自分たちの贖いのために支払われた価をいくぶんか理解して、神から離れては真の善や偉大さはないことを悟るのである。

カルバリーの十字架から輝く光によってのみ、わたしたちは罪を通して、人類が堕落したその罪と堕落の深さがどれほどのものであるかを知ることができる。わたしたちを引き上げるために天から下ろされた鎖の長さによってのみ、わたしたちは自分が沈んでいる深さを知ることができる。わたしたちが贖いという素晴らしい主題をいくらかでも理解することができるのは、目には見えない現実を見続けることによってだけである。(天国で 368)

わたしたちはほとんど家郷に近づいている。わたしたちはまもなく、どのような調べよりも麗しい救い主の声が「あなたがたの戦いは終った」と言われるのを聞く。主と一緒に喜びなさい。祝福された、祝祷。わたしはその言葉を主の不滅の唇から聞きたいと思う。わたしは主をほめたたえたい。御座に座っておられる主をあがめたい。わたしは天の宮廷に自分の声を繰り返し響かせたい。あなたはそこにいるだろうか。……神はわたしたちを助けてくださる。そして力と豊かさ、すべてでわたしたちを満たしてくださるので、その時わたしたちは来るべき世界の喜びを味わうことができるのである。(同上)

19永遠の真理 2015 年 11 月

千年期の間の天と地 11月11日

贖われた者の報酬

「もしある人の建てた仕事が……残れば、その人は報酬を受ける」(コリント第一 3:14)

忠実な働き人が神のみ座と小羊との周りに集まる時、与えられる報酬は栄光である。ヨハネが死ぬべき人間としての状態で、神の栄光を見たとき、倒れた死人のようになった。その光景に耐えることができなかったからである。しかし、神の子らが不死をまとうとき、彼らは、「そのまことのみ姿を見る」(ヨハネ第一3:2)。彼らはみ座の前に立ち、愛するお方のうちに受け入れられる。彼らの罪はすべて消され、違反も皆取り去られる。今や彼らは、神のみ座のはっきりとした栄光を見つめることができる。彼らはキリストとその苦しみを共にし、贖いの計画でキリストと共に働いた。だから永遠に渡って神を賛美するために、神の王国にいる、救われた魂を見る喜びにも、キリストと喜びを共にする者なのである。(教会への証 9 巻 285)

その日には、贖われた者は、み父とみ子の栄光のうちに輝く。天使たちは、金の竪琴をかなでながら、王と勝利の記念品を歓迎する。……勝利の歌が全天に鳴り響く。キリストは勝利された。主はあがなわれたものたち、ご自分の苦しみと犠牲の使命が無駄にならなかった証である人々につき従われて、天の宮廷に入られる。……

そこは地上の旅人にとっての家郷である。そこには義人のために礼服が、栄光の冠と勝利のしゅろを添えておかれている。神のみ摂理のうちにわたしたちを困惑させていたすべての事は、来たるべき世で明らかにされる。理解しがたかった事柄がその時には説明がつく。恵みの神秘がわたしたちの前に開かれる。わたしたちの有限な心にはただ混乱と破られた約束しか見つけられなかったところに、もっとも完全で、美しい調和を見る。最もつらい試練だと思われた経験も、無限の愛が支配していたことをわたしたちは知る。わたしたちの善のためにすべてのことを共に働いてくださるお方の優しい心使いに気づくとき、わたしたちは言いあらわすことのできない歓喜と讃美にあふれて喜ぶのである。(教会への証 9 巻 285, 286)

天の雲に包まれたキリストの来臨に備えるようにと、わたしはあなたに力説する。……審判のために準備をしなさい。キリストが来られるとき、信じる者すべてのうちで驚嘆されるためである。平和のうちにキリストにお目にかかれる者たちの中にあなたがいることができるように。(同上 285)

20 永遠の真理 2015 年 11 月

11月12日 千年期の間の天と地

目がまだ見ず、耳がまだ聞かず

「しかし、聖書に書いてあるとおり、『目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心に思い浮びもしなかったことを、神は、ご自分を愛する者たちのために備えられた』のである。」(コリント第一 2:9)

真に神を愛する者は、神が与えてくださったタラントを活用したいと熱心に願うので、他の人々への祝福となることができる。やがて、天の門は彼らを通すために広く開かれ、栄光の王の唇から、「そのとき、王は右にいる人々に言うであろう、

『わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい』」という祝福の言葉が、この上なく麗しい音楽のように、わたしたちの耳に聞こえる(マタイ25:34)。このように贖われた者たちは、イエスが彼らのために用意して下さった住居に迎えられる。そこでは、彼らの仲間には地上の卑しさはなく、神の助けによって完全な品性に形づくられている。あらゆる罪深い傾向、あらゆる不完全さはキリストの血によってぬぐわれている。そして、真昼の太陽の明るさをはるかに越えた、キリストの栄光の輝きと、素晴らしさが彼らに分け与えられる。そして、道徳上の美しさ、すなわち、キリストのご品性の完全さが彼らを通して、この外へ向かう輝きを、はるか彼方へと輝かせる。彼らは偉大な白い御座の前に傷のない者であり、天使の高貴さと特権を共有している。

「目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心に思い浮びもしなかったことを、神は、ご自分を愛する者たちのために備えられた」自分のものとなる栄光の相続から考えて「人は自分の魂と引き換えに何を与えると言うのだろうか」(マタイ16:26 英語訳)。彼は貧しいかもしれない。しかし、彼は世が決して授けることのできない富と高貴さを自分のうちに所有するのである。贖われて、罪が清められ、すべての気高い能力が神の奉仕に捧げられている魂には、並外れた価値がある。(天国で 367)

祝福されたこの住居に永遠に住むこと、罪ののろいの痕跡ではなく、わたしたちの創造主の完全な姿を、魂と体と霊に帯びること、絶えず知恵と知識、また聖潔を進歩させること、いつも思いにおいて新しい分野を探り、新しい不思議と栄光を見出し、知ること、楽しむこと、また愛する能力を増してゆくこと、そしてまだわたしたちには分からない無限の喜びと愛と知恵があるということを知ること、これらのことが、クリスチャンの望みの対象である。(両親、教師、生徒への勧告 55)

21永遠の真理 2015 年 11 月

千年期の間の天と地 11月13日

生命を与える実

「都の大通りの中央を流れている。川の両側にはいのちの木があって、十二種の実を結び、その実は毎月みのり、その木の葉は諸国民をいやす。」(黙示録 22:2)

エデンの園にある生命の木の実は驚くべき効能を持っていた。それを食べると永遠に生きるのであった。この実は死から救うものであった。……

罪が侵入して後、天の農夫であられるお方が、天にあるパラダイスに生命の木を移しかえられた。(教会への証 8 巻 288)

神を愛し、この世でその戒めを守った、贖われた聖徒たちは、都の門を通って中に入り、生命の木にあずかる特権がある。最初の両親が堕落する前にしていたように、彼らは実を自由に食べる。枝を広げた不死の木の葉は諸国民をいやす。彼らの苦悩はその時にはすべて消え去る。病気、悲しみ、そして死を彼らは再び感じることはない。生命の木の葉がいやすからである。イエスはその時、ご自分の魂の骨折りの結果を見、満足される。悲しみと苦労と不幸に会い、呪いのもとにうめいていた贖われた者たちは、わたしたちの最初の両親が神の戒めを破ることによって、すべての権利を失った不死の木の実を食べるために生命の木の周りに集められる。彼は再び生命の木に対して、特権を失う必要はない。なぜなら、最初の両親に罪を犯すようにと誘惑したサタンが第二の死によって滅ぼされてしまったからである。(この日のわたしの生涯 355)

神の戒めのすべてに従順であることが、生命の木の実を食べる条件である。アダムは不従順によって堕落した。……

イエス・キリストを通しての従順は人に品性の完全さと、生命の木にあずかる特権を与える。この木の実を再び共有する条件は、ヨハネに与えられたイエス・キリストの証にはっきりと記されている。「いのちの木にあずかる特権を与えられ、また門を通って都に入るために、神の戒めを行う者たちはさいわいである」。(SDAハ イ゙フ ル゙ ・ コメンタリー [E・G・ホワイト ・ コメント ]1 巻 1086)

贖われた者は、長い間失われていたエデンのいのちの木に再び近づくことを許され、最初の栄光に輝く人類の完全な背丈に「成長する」のである(マラキ書4:2 英語訳 )。罪ののろいの最後の痕跡が取り除かれ、キリストに忠実に仕える者たちは、知的にも、霊的にも、身体的にも、主の完全な姿を反映して、「われらの神、主のうるわしさ」を着て現われる。ああ、なんというすばらしい贖いであろう。

これこそ長い間、語り、熱望し、熱心な期待をもって瞑想してきたが、しかし決して十分には理解できなかったことであった。(各時代の大争闘下巻 424)

22 永遠の真理 2015 年 11 月

11月14日 千年期の間の天と地

御座のまわりにある虹

「すると、たちまち、わたしは御霊に感じた。見よ、御座が天に設けられており、その御座にいますかたがあった。その座にいますかたは、碧玉や赤めのうのように見え、また、御座のまわりには、緑玉のように見えるにじが現れていた。」(黙示録4:2, 3)

御座の上にかかっている虹の中には「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」という永遠の証がある。……

空にかかる虹が日光と雨の結合で形作られるように、御座を取り巻いている虹はあわれみと正義の結びついた力をあらわしている。持続されるべきものは正義だけではない。正義だけならば、御座の上にかかる約束の虹の栄光を欠けさせるからである。人は律法の罰ばかり見てしまうことになる。正義も罰もないところには、神の統治の不変性はない。救いを完全なものにするのは、公義とあわれみの混じり合ったものである。……

あわれみはわたしたちに神の門をくぐって入るようにと招く。そして正義は、すべて従順な魂が、王族の一員、天の王の子として、完全な特権に調和することによって満たされる。もしわたしたちの品性に欠陥があれば、あわれみが従順な者に対して開く門をくぐることはできない。正義が門のところに立っていて、神にお目にかかりたい者すべてに聖潔を要求するからである。

正義が消えるなら神の恵みにとって、品性にかかわりなく、全人類に門を開くことが可能になり、全天は、サタンが追放される以前よりも、もっと不忠誠で、反抗的な状態となるであろう。天の平和と幸福と調和は破られる。地から天へ移ることが人の品性を変えるのではない。天における贖われた者の幸福は、この世でキリストの御姿に似たものに、自分の品性を形造った結果である。天に住む聖徒はまず地上で聖徒だったのである。

人間が得られるようにとキリストが犠牲となってくださった救いは、唯一価値のあるものである。なぜなら罪から救うものはこの犠牲だからである。……このように、神の律法は福音によって弱められるのでなく、罪の力が破られ、恵みの笏が深く悔いている罪人に伸べられるのである。……神は、ご自分の民が悪との苦闘のうちにいることを決して忘れたりはなさらない。イエスがわたしたちの瞑想の主題になるようにしよう。(レヒ ュ゙ー ・ アンド・ ヘラルド1892 年 12 月13 日)

23永遠の真理 2015 年 11 月

千年期の間の天と地 11月15日

わたしたちは王を見る

「あなたの目は麗しく飾った王を見、遠く広い国を見る。」(イザヤ 33:17)

もしわたしたちが麗しく飾った王にお目にかかりたいのなら、この世で立派に振舞わなければならない。わたしたちは子供じみた態度を脱しなければならない。挑発される時には、沈黙しよう。沈黙が雄弁な時がある。わたしたちは、自分を神の息子、娘と呼ばれる価値のある者にするために、忍耐と親切、そして慎みをあらわすべきである。神を信頼し、信じ、神に頼るべきである。キリストのみ足の跡に従わねばならない。「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」とキリストは言われる

(ルカ 9:23)。……あなたがたは沈黙を保たなければならない時にそうすることが、重い十字架となるであろう。痛みを伴う試練かもしれない。しかし沈黙は怒りの言葉を浴びせかけるよりも、もっと悪に勝利するという事をわたしはあなたに保証する。

この地上において、わたしたちは天の宮廷で場所を占めるためにはどのような者になるべきかを学ばなければならない。キリストがわたしたちに教えたいと思っておられる教訓を学ぶべきである。そうすれば、天の宮廷での高等学校で学ぶ準備ができる。そこでは救い主がわたしたちを命の川のほとりに導き、この世では理解できなかった多くの事柄を明らかにしてくださる。……そこでわたしたちは、地上では見ることのできなかった神の栄光を見る。わたしたちは主を知ることを切に求めていないので、今はその栄光をおぼろげに見ているだけである。(天国で 365)

地上の学校で学ぶあらゆる正しい原則、またあらゆる真理は、天の学校での学びと同じようにわたしたちを向上させる。キリストは地上での伝道をされた間、弟子たちと共に歩み、語られた。そのように、主は命の水の流れる川のそばにわたしたちを導かれ、また、罪によって損なわれた人間の精神に限界があるために、この世では隠された神秘として残されていた真理を表して、天の学校でわたしたちを教えられる。天の学校でわたしたちは学びの最高の高さにまで、一歩一歩到達する機会がある。そこでは天の王の子としてわたしたちは王族の人 と々共に永遠に住む。そこではわたしたちは麗しく飾った王にお目にかかり、はかり知れないその麗しさに見入るのである。(両親、教師、そして生徒への勧告 208, 209)

わたしたちは長いあいだ待った。しかし、わたしたちの希望は弱まっていない。わたしたちが麗しい王にお目にかかれるなら、わたしたちは永遠に祝福されるのである。(教会への証 8 巻 253)

24 永遠の真理 2015 年 11 月

11月16日 千年期の間の天と地

十四万四千人

「なお、わたしが見ていると、見よ、小羊がシオンの山に立っていた。また、144,000 の人々が小羊と共におり、その額に小羊の名とその父の名とが書かれていた。」(黙示録 14:1)

み座の前の、水晶のように透きとおった海、あの、火のまじったガラスの海―神の栄光でまばゆく輝いているところ―の上に、「獣とその像とその名の数字とにうち勝った人々が」集まっている。シオンの山の小羊とともに、人々の間から贖われた彼ら、すなわち、十四万四千が、「神の立琴を手にして」立つのである。また、大水のとどろきのような、激しい雷鳴のような、「琴をひく人が立琴をひく音」のようなものが聞こえる。そして、彼らは、み座の前で新しい歌をうたう。この歌は、144,000 以外のものは、だれも学ぶことができない。それは、モーセと小羊の歌、すなわち、救いの歌である。十四万四千のほかは、だれもその歌を学ぶことができない。なぜなら、それは彼らの体験―他のどの群れもしたことのない体験―の歌だからである。「小羊の行く所へは、どこへでもついて行く。」彼らは、地上から、生きている者の間から、天に移された者たちで、「神と小羊とにささげられる初穂」とみなされる ( 黙示録 15:2,3;14:1- 5)。「彼らは大きな患難をとおってきた人たちであって」、国が始まって以来かつてなかったほどの悩みの時を通ってきた。彼らは、ヤコブの悩みの時の苦しみに耐えた。彼らは、神の最後の刑罰がくだる中を、仲保者なしで立った。しかし彼らは、「その衣を小羊の血で洗い、それを白くした」ために、救われた。「彼らの口には偽りがなく、彼らは」神の前に、

「傷のない者であった。」「それだから彼らは、神の御座の前におり、昼も夜もその聖所で神に仕えているのである。御座にいますかたは、彼らの上に幕屋を張って共に住まわれるであろう。」彼らは、地上が飢饉と疫病で荒廃し、太陽が激しい熱で人々を焼くのを目撃した。そして、彼ら自身も、苦しみ、飢えかわいたのであった。しかし、「彼らは、もはや飢えることがなく、かわくこともない。太陽も炎暑も、彼らを侵すことはない。御座の正面にいます小羊は彼らの牧者となって、いのちの水の泉に導いて下さるであろう。また神は、彼らの目から涙をことごとくぬぐいとって下さるであろう」( 黙示録 7:14 -17)。(各時代の大争闘下巻 430, 431)

25永遠の真理 2015 年 11 月

千年期の間の天と地 11月17日

贖われた大勢の群衆

「その後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、数えきれないほどの大ぜいの群衆が、白い衣を身にまとい、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立ち、」(黙示録 7:9)

あらゆる階級、国民、部族、国語の者がしみのない衣を着て、宝石で飾られた冠をかぶって、御座と小羊の前に立つ。彼らは大きな患難を通ってきた人たちであって、その衣を洗い、それを白くした人たちである。神を愛するよりも快楽を愛する者、放縦で不従順なものたちはこの世も、来るべき世も失ってしまった。彼らはこの世の生命に関することも永遠の生命も持っていないのである。

冠を被って、竪琴を持ち、勝利の歌を歌っている勝利した者たちは、地上の苦悩という炉が熱せられ、非常に熱かった時に、その恐ろしい試練の中を歩んだ。欠乏、飢え、拷問から、また深い自制心と苦い失望から彼らは勝利する者となった。もう貧しいものではなく、キリストのためにすべての人から憎まれ、悲しみと苦しみのうちにあるのでもなく、今勝利者となっている彼らを見なさい。彼らの天の礼服、どのような王の服よりも素晴らしい白く輝く礼服を見なさい。彼らの宝石で飾られた冠、地上のどの君主の額もこれほどの飾りのついた冠で飾られたことのないほどの冠を信仰によって見なさい。

彼らが大声でホサナと歌い、勝利のしゅろの葉を振る時の彼らの声を聞きなさい。彼らの声が「ほふられて、再び永遠によみがえられた小羊こそは、讃美を受けるにふさわしい、讃美を受けるにふさわしい。御座にいますわたしの神と小羊による救い」と歌う時、豊かな音楽が天を満たす。そして天使の群れとケルビムや栄光に輝くセラピムを加えた天軍が、「アァメン、さんび、栄光、知恵、感謝、ほまれ、力、勢いが、世々限りなく、われらの神にあるように、アァメン」と喜びに満ちた、勝利の歌をくり返してこだまする(黙示録 7:12)。

ああ、その日には義人は賢いものであり、罪深い不従順な者は愚かなものであることが分かるであろう。……恥と不面目が彼らの分け前である。キリストと共労者であったものは、その時、神の御座近くにおり、純潔と永遠の義の衣をまとっている。(天国で 371)

26 永遠の真理 2015 年 11 月

11月18日 千年期の間の天と地

魂を勝ちとる者への報い

「 賢い者は、大空の輝きのように輝き、また多くの人を義に導く者は、星のようになって永遠にいたるでしょう。」(ダニエル 12:3)

ダニエルのこの言葉「 賢い者は、大空の輝きのように輝き、また多くの人を義に導く者は、星のようになって永遠にいたるでしょう」という言葉を考えるとき、わたしは夜中に目をさまして、この聖句を何度もくり返しているのに気づく。天に配列され、それぞれの名前で知られている太陽と星を見てみなさい。主は、多くの人を義に導く者は星のようになって、永遠に至るでしょうと仰せになる。(天国で 364)

魂が誤りから真理へ改心することに対する深い関心が、どれほど大切なことであるかを見分けるために、わたしたちは不死の価値を正しく認めなければならない。第二の死の苦しみがどれほど恐ろしいものであるかをわたしたちは気づかねばならない。贖われた者を待っている誉れと栄光を悟り、人を高め、高尚にするために死なれたお方、勝利者に王冠を与えるために死なれたこのお方のみ前に生きることが何であるかを理解しなければならない。

魂の価値は有限な心には充分評価されない。贖われ、栄化された者は自分の救いの助けとなった人々をどれほど感謝して思い出すであろうか。だれもその時には自分の無我の努力やたゆまない労苦また忍耐や寛容を後悔しない。そして失われた魂に対する切なる思い、熱心な心は自分の義務をおろそかにしたり、善を行うのに倦むことはない。

今、この白い衣を着た人々は大牧者の囲いに集められる。忠実な働き人と、彼の労苦を通して救われた魂は、御座の真中におられる小羊に迎えられ、生命の木のところへ、また命の水の源へ導かれる。キリストの僕はこの贖われた人々をどれほどの喜びをもって見つめることであろうか。彼らは救い主の栄光を分かちあうために贖われたのである。魂を救う働きに忠実であった者にとって、天国ほど尊いところがあるであろうか。「賢い者は、大空の輝きのように輝き、また多くの人を義に導く者は、星のようになる」。(教会への証 5 巻 620, 621)

神と人との協力を通してなされることは決して朽ちることなく、永遠に続く働きである。(クリスチャン教育の基礎 217)

27永遠の真理 2015 年 11 月

千年期の間の天と地 11月19日

天のことを考えなさい

「わたしは彼に答えた、『わたしの主よ、それはあなたがご存じです』。すると、彼はわたしに言った、『彼らは大きな患難をとおってきた人たちであって、その衣を小羊の血で洗い、それを白くしたのである』。」(黙示録 7:14)

幻の中で、ヨハネは白い衣をまとった群れを見た。……彼らは神の宮の中にいるように見えた。これはキリストの功績をしっかりとつかんで、自分たちの衣をキリストの血で洗うすべてのものにとっての結果である。わたしたちがキリストと共に、その御座に座ることができるようにと、あらゆる準備がなされている。しかしわたしたちが神の律法に調和するということがその条件である。……

わたしたちは天国を失うことはできない。天の事物について話すべきである。天には死も苦しみもない。わたしたちはなぜ、これらのことを話すのが、それほど気が進まないのであろうか。どうして地上の事柄を思いめぐらすのだろうか。使徒は、わたしたちが天国について話すようにと勧めている。「しかし、わたしたちの国籍は天にある。そこから、救主、主イエス・キリストのこられるのを、わたしたちは待ち望んでいる。」(ピリピ 3:20)……キリストはまもなく、準備のできたものを集め、この輝かしい場所へつれていくためにこられる。「キリストもまた、多くの人の罪を負うために、一度だけご自身をささげられた後、彼を待ち望んでいる人々に、罪を負うためではなしに二度目に現れて、救を与えられるのである」(ヘブル 9:28)。

わたしたちはこの出来事のことを考えることが好きであろうか、それともこのことを避けたいのだろうか。……わたしたちがイエスのことを話せば話すほど、わたしたちは彼の神としての聖なる形を反映するようになる。わたしたちは見つめることによって変えられるのである。キリストを自分の宗教経験に持ちこむ必要がある。あなたたちが共に集まる時、会話はキリストとその救いに関してであるようにしなさい。……わたしたちがイエスのことを語れば語るほど、そのはかり知れない魅力をますます眺めるようになる。(天国で 370)

この世で神のことを考えたり、語ったりすることを喜ばないものは、来るべき世、そこに神が臨在され、ご自分の民のうちに住まわれるその世での生活を楽しむこともない。しかし、神のことを考えるのが好きな者は、天の雰囲気を呼吸しその環境の中に住む。地上において、天国のことを熟考するのを愛する者は、その聖なる結合と喜びのうちに幸福なものとなる。「のろわるべきものは、もはや何ひとつない。神と小羊との御座は都の中にあり、その僕たちは彼を礼拝し、 御顔を仰ぎ見るのである。彼らの額には、御名がしるされている」(黙示録 22:3, 4)。(同上)

28 永遠の真理 2015 年 11 月

11月20日 千年期の間の天と地

天の世界の栄光

「いにしえからこのかた、あなたのほか神を待ち望む者に、このような事を行われた神を聞いたことはなく、耳に入れたこともなく、目に見たこともない。」(イザヤ64:4)

多くの者が、来るべき世界の栄光に入り、自分たちに永遠の神秘が明らかにされることを切望しているが、その願いはむなしい。あらわされた事はわたしたちと子孫のためのものである。……偉大な啓示者であられるお方は天の魅力を理解して、報酬の報いを尊重することができるために欠くことのできない多くの事柄を、わたしたちの知性に明らかにしてくださっている。……

天の事柄に関してイエスが明らかにしておられることはただ霊的な心が感謝することのできる性質のものである。想像は天国の栄光を描くために盛大な力を奮い起こすかもしれない。しかし「目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心に思い浮びもしなかったことを、神は、ご自分を愛する者たちのために備えられた」(コリント第一 2:9)のである。天軍がわたしたちの周囲に配置されている。……光の天使は魂のそばに天の雰囲気を造り、わたしたちを目には見えない、永遠の世界へと引き上げようとしている。わたしたちは生来の目では彼らを見ることはできない。ただ霊的な目によってのみ、天の事物を認識することができる。わたしたちの人間としての力は、光の天使の、言葉では言い表せない栄光によって消されてしまう。霊的な耳だけに天来の声の調べを聞き分けることができる。見事な記述で感情を刺激させるのは、キリストのご計画ではない。……キリストは、救いが得られるのは唯一の方法を通して、道であり、真理であり、命であるご自身を、充分な明確さをもってあらわしておられる。これ以上求める必要はないのである。

主が人を天国の門口へと連れて行き、開いている戸を通して天の聖所にあふれ、入り口から輝き出ている内部の栄光をわたしたちに見せてくださるのである。しかしわたしたちは生来の目ではなく、信仰の目によって見なければならない。主はわたしたちがご自分の代理人であり、のろいですべてが損なわれ、麻痺した世界で神の働きをなす者たちであることを忘れてはならない。暗きが地をおおい、闇がもろもろの民を覆っているこの世で、わたしたちは、天の光の中を歩むべきである。(天国で 366)

29永遠の真理 2015 年 11 月

千年期の間の天と地 11月21日

永遠の事柄を見なさい

「わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。」(コリント第二 4:18)

教会が世に従うことをやめて、キリストの義の衣を着る時に、教会の前には、輝かしい栄光の日の夜明けがある。教会への神の約束は、永遠に堅く立つであろう。……こうして聖なる力を備えた真理は、どんな堅固なとりでもつきぬけ、どんな障害にも勝利するのである。

骨折りと犠牲のご生涯の間、神のみ子を支えたものは何であったか。キリストはご自分の魂の労苦の結果をご覧になって、満足された。キリストは、永遠をご覧になり、ご自身の屈辱を通してゆるしと永遠のいのちを受けた人々の幸福をご覧になった。キリストの耳は、あがなわれた者たちの歓喜の叫びを聞きとられた。主はあがなわれた人々が、モーセと小羊の歌をうたっているのをお聞きになった。

われわれは、未来の、祝福された天の幻を持つことができる。聖書には未来の栄光の幻、神のみ手によって描かれた光景が示されている。そしてこれらは、神の教会にとって大事なものである。信仰によってわれわれは、永遠の都の入口に立ち、この世の生活においてキリストと協力し、キリストのために苦しむことを名誉とみなしてきた人々に与えられる、恵み深い歓迎のことばを聞くのである。「わたしの父に祝福された人たちよ」ということばを聞くとき、彼らはあがない主の足もとに冠を脱ぎ捨てて、「ほふられた小羊こそは、力と、富と、知恵と、勢いと、ほまれと、栄光と、さんびとを受けるにふさわしい。……御座にいますかたと小羊とに、さんびと、ほまれと、栄光と、権力とが、世々限りなくあるように」と叫ぶ( マタイ25:34、黙示録 5:12,13)。

あがなわれた者たちは、自分たちを救い主に導いてくれた人たちにそこであいさつをし、全員が一つとなって、人間に神のような永遠のいのちを与えるために、ご自分のいのちを犠牲にされたかたを讃美する。闘争は終わる。艱難も争いも終わる。あがなわれた者たちが、ほふられて、勝利の征服者として再び生き返られた小羊こそすばらしい、という喜びの歌をうたいだすと、勝利の歌が全天に満ちる。(患難から栄光へ下巻 310,311)

30 永遠の真理 2015 年 11 月

11月22日 千年期の間の天と地

自分の着物を洗う者たちはさいわいである

「いのちの木にあずかる特権を与えられ、また門をとおって都にはいるために、自分の着物を洗う者たちは、さいわいである。」(黙示録 22:14)

わたしたちは最後には天国に着き、天の聖歌隊に加わることを望んでいるのだろうか。わたしたちの品性は墓に入った時と同じ状態でよみがえるのである。……今は着物を洗い、アイロンをかける時である。……

ヨハネは神のみ座とその周りにいる群れとを見てその人々がだれであるか尋ねた。すると「彼らは……その衣を小羊の血で洗い、それを白くしたのである」という答えが帰ってきた(黙示録 7:14)。キリストは彼らを命の水の源に導く。そこには命の木があり、尊い救い主がおられる。神の命で計る命がここでわたしたちに与えられる。そこには苦しみも悲しみも病も死もない。平安と一致と愛がすべてである。……

今は永遠の命のためにわたしたちが品性を形作ることのできる人間としての努力を、恵みと強さと力とに結合させるために、これらを受けるときである。わたしたちがこのことをする時、神のみ使いがわたしたちに仕え、わたしたちは神の相続人となり、イエス・キリストと共に、共同相続人となる。そして最後のラッパがなり響くとき、死者は捕らわれていた場所から呼び出され、一瞬のうちに変えられて、瞬く間に不死の栄光という冠が勝利者の頭にかぶせられる。真珠の門が、真理を守った人々のために開き、彼らは入る。争闘は終わった。「わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい」(マタイ25:34)。わたしたちはこの祝福を望んでいるのだろうか。わたしは望んでいる。そしてあなたも望んでいるとわたしは信じている。あなたがこの世での戦いをよく戦い、日毎に勝利を得て、最後にはイエスの足元に自分の冠を投げ出して、金の竪琴をかなで、美しい音楽で全天を満たす人々の中にいることができるように、神があなたを助けてくださることを祈る。あなたがわたしのイエスを愛することをわたしは望んでいる。……わたしの救い主を拒んではならない。なぜならイエスはあなたのために無限の価を払われたからである。わたしはイエスに計り知れない麗しさを見る。そしてあなたもその麗しさを見ることを望む。(天国で 369)

31永遠の真理 2015 年 11 月

千年期の間の天と地 11月23日

千年期の審判

「 あなたがたは知らないのか、わたしたちは御使をさえさばく者である。ましてこの世の事件などは、いうまでもないではないか。」(コリント第一 6:3)

第一と第二の復活の間の千年間に、悪人の審判が行なわれる。使徒パウロは、この審判を、再臨に続いて起こる事件として指し示す。「だから、主がこられるまでは、何事についても、先走りをしてさばいてはいけない。主は暗い中に隠れていることを明るみに出し、心の中で企てられていることを、あらわにされるであろう」(コリント第一・4:5)。ダニエルは、日の老いたる者がきて、「いと高き者の聖徒のために審判をおこなった」と言っている(ダニエル書 7:22)。この時義人は、王、また祭司として支配する。ヨハネは、黙示録の中で次のように言っている。「また見ていると、かず多くの座があり、その上に人々がすわっていた。そして、彼らにさばきの権が与えられていた。」「彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストと共に千年の間、支配する」( 黙示録 20:4,6)。パウロが、「聖徒は世をさばく」と予見したのは、この時のことを指しているのである (コリント第一 6:2)。彼らはキリストと共に悪人を裁き、その行為を法規の書すなわち聖書と照らし合わせ、それぞれのなしたわざに従って、すべての者に判決を下す。その時、悪人は、それぞれのわざに応じて、受けねばならない苦しみが定められる。そして、それが、死の書の彼らの名のところに記録される。

サタンと悪天使たちも、キリストとその民によってさばかれる。パウロは、「あなたがたは知らないのか、わたしたちは御使をさえさばく者である」と言っている( 同 6:3)。また、ユダは、「主は、自分たちの地位を守ろうとはせず、そのおるべき所を捨て去った御使たちを、大いなる日のさばきのために、永久にしばりつけたまま、暗やみの中に閉じ込めておかれた」と言っている ( ユダ 6)。

千年の終わりに第二の復活がある。その時に、悪人はよみがえらせられる。そして、「記された審判」の執行を受けるために、神の前に現われる。こうして、黙示録の記者は、義人の復活を描写したあとで「それ以外の死人は、千年の期間が終るまで生きかえらなかった」と言っている ( 黙示録二〇ノ五 )。そしてイザヤは、悪人について、「彼らは囚人が土ろうの中に集められるように集められて、獄屋の中に閉ざされ、多くの日を経て後、罰せられる」と宣言しているのである( イザヤ書 24:22)。(各時代の大争闘下巻 444, 445)

32 永遠の真理 2015 年 11 月

11月24日 千年期の間の天と地

キリストは再び地上に帰ってこられる

「アダムから七代目にあたるエノクも彼らについて預言して言った、『見よ、主は無数の聖徒たちを率いてこられた。それは、すべての者にさばきを行うためであり、また、不信心な者が、信仰を無視して犯したすべての不信心なしわざと、さらに、不信心な罪人が主にそむいて語ったすべての暴言とを責めるためである』。」(ユダ1:14,15)

千年期の終わりに、キリストは再び地上に帰ってこられる。主は贖われた大群衆を伴い、天使たちを従えてこられる。彼は、恐るべき威光をもっておくだりになる時、死んだ悪人たちに、さばきの執行を受けるためによみがえるよう命じられる。彼らは、海の砂のように、無数の大群となって現われる。第一の復活の時によみがえらせられた人たちと比較して、なんという相違であろう。義人たちは朽ちることのない若さと美しさを着せられていた。ところがこの悪人たちは病気と死の跡を帯びている。

この大群衆のすべての眼が、神のみ子の栄光にそそがれる。悪人たちはいっせいに、「主のみ名によってこられるおかたに、祝福あれ」と叫ぶ。このような言葉は、イエスに対する愛から出るのではない。彼らは真理の力に迫られて、この言葉をしぶしぶ口から出すのである。悪人たちは、墓に下った時と同じに、キリストに対する憎悪と反逆精神をもって現われてくる。彼らは、過去の生涯の欠点を除くための新しい恩恵期間を与えられるのではない。たとえ与えられても、なんの益もないであろう。罪の一生は、彼らの心をやわらげなかった。たとえ第二の恩恵期間が与えられたとしても、第一の恩恵期間の場合と同じように、神のご要求を回避し、神に対する反逆を引き起こすだけであろう。

キリストはオリブ山におくだりになる。そこはキリストが復活後昇天された場所であり、また天使たちが、主の再臨について約束をくりかえしたところである。預言者はこう言っている。「あなたがたの神、主はこられる、もろもろの聖者と共にこられる。」「その日には彼の足が、東の方エルサレムの前にあるオリブ山の上に立つ。そしてオリブ山は、非常に広い一つの谷によって、……二つに裂け、」「主は全地の王となられる。その日には、主ひとり、その名一つのみとなる」( ゼカリヤ書 14:5,4,9)。新エルサレムが、目もくらむばかりに光り輝いて天からくだり、きよめられて受け入れ準備の整った場所に落ち着くと、キリストは、ご自分の民や天使たちとともに、その聖なる都にお入りになる。(各時代の大争闘下巻 446, 447)

33永遠の真理 2015 年 11 月

千年期の間の天と地 11月25日

サタンはその獄から解放される

「千年の期間が終ると、サタンはその獄から解放される。そして、出て行き、地の四方にいる諸国民、すなわちゴグ、マゴグを惑わし、彼らを戦いのために召集する。その数は、海の砂のように多い。」(黙示録 20:7,8)

千年の終わりに第二の復活がある。その時に、悪人はよみがえらせられる。そして、「記された審判」の執行を受けるために、神の前に現われる。こうして、黙示録の記者は、義人の復活を描写したあとで「それ以外の死人は、千年の期間が終るまで生きかえらなかった」と言っている ( 黙示録 20:5)。そしてイザヤは、悪人について、「彼らは囚人が土ろうの中に集められるように集められて、獄屋の中に閉ざされ、多くの日を経て後、罰せられる」と宣言しているのである ( イザヤ書 24:22)。(各時代の大争闘下巻 445)

今やサタンは、主権をめざして最後の大いなる戦いの準備をする。力を奪われ、欺瞞の働きができないようにされていた間は、悪の君は、みじめな、意気消沈したありさまであった。しかし今、悪人たちがよみがえり、しもその大群が自分の味方であることを知って、彼は望みをとりもどし、大争闘に負けてはならないと決心する。彼は、滅びる者たちの全軍を自分の旗下に集め、彼らを通して自分の計画を遂行しようとする。悪人たちはサタンのとりこである。キリストを拒んだことによって、彼らは反逆の指導者の支配を受け入れたのである。彼らは簡単にサタンのそそのかしを受け入れ、その命令に従う。しかもサタンは、昔と変わらないずるさで、自分がサタンであるとは認めない。彼は、自分がこの世界の正当な君であるのに無法にもその継承権を奪われたのだと主張する。彼はその欺いた部下に対して、自分が贖い主であると主張し、彼らを墓からよみがえらせたのは自分の力であって、自分は残酷な暴政から彼らを救い出そうとしているのだと言う。キリストのお姿が見えなくなると、サタンはこれらの主張を裏書きするために不思議な業を行なう。彼は、弱い者を強くし、すべての者に彼自身の精神と力を吹き込む。サタンは、彼らを指揮して聖徒たちの陣営を襲い、神の都を占領しようと提案する。彼は悪魔らしい大満悦をもって、死からよみがえらされた無数の大群衆を指さし、その指導者として、聖都を破壊し王座と王国を奪還することが十分できると宣言する。(同上 447, 448)

34 永遠の真理 2015 年 11 月

11月26日 千年期の間の天と地

悪人は新エルサレムを攻撃する

「サタンは……戦いのために召集するため……諸国民を惑わすために出て行く。」(黙示録 20:7, 8 英語訳)

この大群の中には、ノアの洪水前に生存していた長寿の種族がいる。それはりっぱな体格と偉大な知能をもった人たちで、堕落天使の支配に身をゆだねて、あらゆる技量と知識を自分自身を高めるためにだけ用いてきた人たちである。それはまた、すばらしい芸術の作品によって、世の人々からその天才を偶像視されながら、その残酷さと邪悪な発明が地上を汚し、神のみかたちを汚したため、神によって地から一掃された人たちである。そこには、諸国を征服した王侯や将軍たち、戦場においてかつて敗れたことのない勇士たち、近づいただけで諸国を戦慄させた高慢で野心満々たる戦士たちがいる。死によっても彼らは変化を経験しなかった。彼らが墓から出て来たとき、彼らの考えはその停止していたところがら動き始める。彼らは、彼らが倒れた時に彼らを支配していたのと同じ征服欲によって行動する。

サタンは悪天使たちと相談し、それからさらに王侯、征服者、有力者たちと相談する。彼らは、味方の勢力と数をながめて、これにくらべれば聖都の中の軍勢は少数だから打ち負かすことができると断言する。彼らは新エルサレムの富と栄光を手に入れようと計画をたてる。全員は直ちに戦闘準備を開始する。熟練した技術者たちは兵器の製作にとりかかる。作戦成功で有名な軍事指導者たちは、好戦的な群衆を指揮していくつもの軍団に分ける。

ついに進軍命令が出され、無数の大軍が行進を開始する。これは地上のどんな征服者によっても召集されたことのない大軍であり、この地上で戦争が始まって以来各時代の軍勢を合わせてもなお比較することのできないほどの大軍である。最も強力な戦士であるサタンは自ら先頭の軍を率い、悪天使たちもこの最後の戦いに勢力を集中する。王侯や将軍がサタンにつづき、群衆は大軍団となって従い、各軍団にはそれぞれ指揮官が任命されている。密集した部隊は、軍隊らしく秩序整然として、破壊されてでこぼこになっている地上を神の都に向かって進軍する。イエスのご命令によって新エルサレムの門は閉じられ、サタンの大軍は都を包囲して、突撃の態勢をとる。(各時代の大争闘下巻 448, 449)

35永遠の真理 2015 年 11 月

千年期の間の天と地 11月27日

最後の審判

「また、死んでいた者が、大いなる者も小さき者も共に、御座の前に立っているのが見えた。かずかずの書物が開かれたが、……死人はそのしわざに応じ、この書物に書かれていることにしたがって、さばかれた。」(黙示録 20:12)

今、キリストは、再び敵から見えるところに姿を現わされる。聖都の上はるか高く、光り輝く純金の基の上にみ座がある。そのみ座の上に神のみ子が座し、そのまわりを神のみ国の民がかこんでいる。キリストの力と威光は、言葉や文字で描写することができない。永遠にいます父なる神の栄光が、み子をおおっている。その臨在の輝きは聖都に満ち、門の外にあふれ、さらにまた全地にあふれている。

御座のいちばん近くには、かつてサタンの業に熱心であったが、火の中からの燃えさしのように取り出されて、深い熱心な信仰をもって救い主に従ってきた者たちがいる。その次には、虚偽と不信仰のただ中にあってキリスト者の品性を完成した者たち、キリスト教界が神の律法は無効であると宣言した時にも律法を尊重した人たち、さらに、各時代にわたり、信仰のために殉教した無数の人たちがいる。そしてその向こうには、「あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、数えきれないほどの大ぜいの群衆が、白い衣を身にまとい、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に」立っている ( 黙示録 7:9)。……

贖われた者たちは、「救は、御座にいますわれらの神と小羊からきたる」と賛美の歌声をあげるが、それは大空に反響をくりかえす ( 黙示録 7:10)。天使とセラピムとは声を合わせて賛美する。……

天と地の全住民が集合している前で、神のみ子の最終的な戴冠式が行なわれる。そして今や、王の王なるイエスは、最高の威厳と力とをもって、神の政府に反逆した者に宣告をくだし、神の律法を犯し、またその民を迫害した者たちにさばきを執行される。……

記録の書が開かれ、イエスの目が悪人たちの上にそそがれるやいなや、彼らはこれまでに犯した罪の一つ一つを意識する。(各時代の大争闘下巻 449 ~451)

36 永遠の真理 2015 年 11 月

11月28日 千年期の間の天と地

すべてのわざがさばかれる

「 神はすべてのわざ、ならびにすべての隠れた事を善悪ともにさばかれるからである。」(伝道の書 12:14)

個人一人一人の場合においては芸術家のよくみがかれた感光板に姿を映すよりもはるかにまさる、写す働きが行われている。写真家の技術はただ朽ちるものの姿を写し取るだけであるが生涯の記録においては品性は忠実に描写され、この記録はどんなに暗くても、贖いの犠牲になられたお方の血によって以外、決してぬぐい去ることはできない。(レヒ ュ゙ー ・ アンド・ ヘラルド1884 年 11月 4 日)

ちょうど芸術家が人の姿を撮るように、神の天使たちは品性を正確に銀板写真法で撮る。そして……これをもとにして、わたしたちは審判を受けるのである。(同上 1886 年 2 月 2 日)

審判を行うものが席に着き、数々の書き物が開かれるとき、多くの驚くべきことが暴露される。人は、その時には、人の目や有限な判断力に映るようには見られない。秘密にしていた罪がすべての人の目に明らかにされる。心の奥底に隠されていた動機や意図が現れる。(同上 1884 年 1月1日)

すべての生涯がありのままに描写される。(同上 1891 年 1月13 日)この厳粛な恐ろしい時に夫の不貞が妻に、妻の不貞が夫に明らかにされる。

両親はその時初めて子供たちの真の品性がどのようなものであったかを悟り、子供たちは両親の生活を特徴付けていた過失や失敗を知る。偽りの申し立てを通して、隣人をむさぼっていた人は不正な利益をもって逃れることはできない。神はあらゆる不正な会計とずるい行動の正確な記録をご自分の書き物の中にもっておられる。(同上 1888 年 3 月 27 日)

その日に計られて足りなくなった者を罪に定める記録は事実の通りであり、はっきりとしている。思考力はすべての思いと過去の行動を思い出す。全生涯はパノラマの光景のように再現される。(同上 1884 年 11月 4 日)

37永遠の真理 2015 年 11 月

千年期の間の天と地 11月29日

キリストは審判者

「父はだれをもさばかない。さばきのことはすべて、子にゆだねられたからである。」(ヨハネ 5:22)

み教えの中でキリストは、来るべき審判が確実であることと、それが公のものであることを、人々に印象づけようとされた。この審判は少数の個人やある国家のものではなく、知性を持ち、責任を持つ全人類に対するものである。他世界の住民の前で神に対する人間の愛と誠実と奉仕こそ、最も高い名誉を受けるのである。そこには栄光と誉れが満ちている。……神の律法は尊厳をもって示される。そしてその聖なる命令に対し、大胆に反抗して立っていたものは、自分たちが捨てて、軽蔑し、足の下にふみにじった律法が品性を計る神の基準であったことを理解する。……

宇宙はこの地球に最も大きな関心を示す。なぜなら、イエスがこの世界に住む住民の魂のために無限の価を払われたからである。……

神はさばきのことはすべてみ子に委ねられた。なぜなら論争の余地なくキリストは肉において現れた神だからである。

人間として最も苦難に会われたお方が全世界の審判者となるよう神は計画された。人間を永遠の死から救うために天の宮廷から降りてこられたお方、……地上の法廷で罪状の認否を問われ、そして十字架上で不名誉な死を遂げられたお方―このお方だけが報酬か罰かの判決を言い渡すべきである。この地上で十字架の苦しみと屈辱を受けられた方は完全な報酬を受け、聖徒たちの王として全宇宙の前で御座に上げられるように神の会議で決められた。主は救いの働きへの責任を負い堕落しない世界と天の家族の前に、ご自分が始められた働きは完成させることがおできになることを示された。……

最後の罰と報酬の日に、聖徒と罪人は共に、十字架にかかられた方が全人類の審判者であることを認める。……最終決定の日は厳粛である。……恵みの時がわたしたちに許されており、わたしたちの召しと選びを確かなものとするために、機会と特権が与えられている。わたしたちはこの尊い時をどれほど大切にし、神が与えてくださったタラントを向上させるべきであろうか。それによってわたしたちは自分を制して、忠実な家令となることができる。(レヒ ュ゙ー ・ アンド・ ヘラルド1898 年11月 22 日)

38 永遠の真理 2015 年 11 月

11月30日 千年期の間の天と地

報酬と罰

「そのとき、王は右にいる人々に言うであろう、『わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい』。」(マタイ25:34)

救い主はわたしたちに、ご自分の右にいる人たちに報酬が与えられ、左側にいる者に有罪の判決が与えられる最後の審判の光景を示される。義人たちはそれほどまで豊かに報いを受けるほどのことを自分たちがなしたのだろうかと不思議に思っているものとしてあらわされている。彼らの心の中には、キリストの変らない臨在があった。彼らは、自分では無意識のうちにキリストの精神を吹き込まれていた。彼らは聖徒に奉仕することによってキリストに奉仕をしていた。そして、そのことにより確かな報いを受けたのである。しかし彼らは自分たちが受けるべき報酬を心にとめていたのではなかった。奉仕をしていた動機の中には報酬を受けるという期待は少しもなかった。彼らがしたことはキリストと自分たちの同胞に対する愛からであった。そしてキリストはご自身を、苦しんでいる人類と同一のものとみなして、人々に対する同情と思いやりと愛でなされたすべての行為はご自身になされたものであるとみなされる。……

わたしたちはみな、二次的な意味で与えられる報いを尊ぶべきである。しかし祝福の約束を感謝する一方、わたしたちはイエス・キリストに完全に信頼し、このお方が正しくわたしたちの仕業に応じて報いを与えてくださることを信じなければならない。神の賜物は永遠の命である。しかしイエスはわたしたちが報いに関してあまりに切望するのではなく、すべて得るものに関係なく、神のみ旨を行うことが正しいことであるがゆえに、わたしたちがみ旨を行うようにと望んでおられる。……

最も豊かな報いを受ける者は貧しい人、孤児、悩んでいる人、苦しんでいる人に対して、自分の行動と、熱心な、思いやりのある、優しいあわれみとが入り混じっている人である。……わたしたちの周りには、柔和でへりくだり、またキリストの精神をもって、自分のことを考えず、周りの人々を助けるために数多くの小さなことをする人がいる。彼らは落胆した人に話した親切な言葉や貧しい人を救う小さい助けをするための自己否定をキリストがすべてご覧になっていたことを知って、終わりの時に驚く。主は精神を計られる。そしてそれによって報いられる。純潔で謙遜な、子供のような愛の心はその捧げ物を主の御目に尊いものとする。(レヒ ュ゙ー ・ アンド・ ヘラルド1894 年 7 月 3 日)

39永遠の真理 2015 年 11 月

現代の真理

         もうひとりの御使のメッセージ        Part 8

印があるか、印がないか

「彼のあとに従い町をめぐって、撃て。あなたの目は惜しみ見るな。またあわれむな。老若男女をことごとく殺せ。しかし身にしるしのある者には触れるな。まずわたしの聖所から始めよ。そこで、彼らは宮の前にいた老人から始めた。」(エゼキエル 9:5, 6)

「すべての人がなすべき一大決心とは、自分が獣の刻印とその像とを受け入れるのか、あるいは生ける真の神の印を受けるのかということである。そしてまさに永遠の世界の境にいる今、わたしたちにとって、天の神に対して自分たちが忠実で真実であることを見出されることほど価値あることがあろうか。このお方の真理とこのお方の律法以上に尊重すべきことがあるであろうか。『聖書は何と言っているか』という知識ほど必要なものが何かあるであろうか。」(サインズ・ オブ・ タイムズ1910 年 3 月 22 日)

「準備の大いなる働きにおいて、……あなたは何をしているであろうか。世と結合している人々は、世の型を受け、獣の刻印を受ける準備をしているのである。自己に信頼しない人々、自らを神のみ前にへりくだらせ、自分の魂を真理に従うことによって清めている人々――こうした人々は天の型を受け、自分たちの額に神の印を受ける準備をしているのである。法令が発布され、印が押されるときに、彼らの品性は永遠に純潔でしみのない状態を保つようになる。今は準備する時である。神の印は不純な男女の額に押されることは決してない。それが野心的で世を愛する男女の額に押されることは決してない。また偽りの舌や欺瞞的な心

研究 29

三重のメッセージ

40 永遠の真理 2015 年 11 月

をもつ男女の額には決して押されない。印を受ける者はすべて、神のみ前にしみのない者――天への候補者でなければならない。

おのおの個々人の魂は、もし生ける神の印を受けたければ、主のみ言葉を聞き、それを厳密に行わなければならない。もし人が神の家族の一員となりたければ、偶然の宗教などというものはありえない。四人の天使が四方の風を引きとめている今こそ、わたしたちの召しと選びとを確かなものとすべき時である。」(信仰によって私は生きる 288)

「第三天使のメッセージが閉じられると、……一人の天使が地から戻ってきて、自分の働きが終わったことを告げる。すなわち、最後の試みが世界に臨み、神の戒めに忠実であることを示した者はみな、「生ける神の印」を受けたのである。……どの人の判決も、生か死かに決まった。キリストはご自分の民のために贖いをなさり、彼らの罪を消し去られた。キリストの民の数は満たされた。」(各時代の大争闘下巻 385, 386)

「しかし、真理が人の心と良心に明らかに示され、そしてそれが拒否された上でなければ、だれひとりとして神の怒りを受けることはない。現代に対する特別の真理を聞く機会がこれまでになかった者が、大ぜいいる。第四条の戒めに従うべきことの真の意味が、まだ彼らに示されていない。すべての人の心を見ぬき、あらゆる動機を探られるおかたは、真理を知りたいと願っている者をだれ一人として、争闘の論点について欺かれるままにしてはおかれない。法令は、盲目的に人々に強制されることはない。すべての者は、賢明な決断を下すに十分なだけの光が与えられるのである。安息日は、特に論争点となっている真理であるから、忠誠の大試金石となる。最後の試練が人々を襲うとき、神に仕える者と神に仕えない者の区別が明らかになる。第四条の戒めに反して、国家の法律に従って偽りの安息日を守ることは、神に敵対する権力に忠誠を尽くすという表明であり、一方、神の戒めに従って真の安息日を守ることは、創造主に対する忠誠の証拠である。一方は、地上の権力に服従するしるしを受け入れることによって、獣の刻印を受け、他方は、神の権威に対する忠誠のしるしを選んで、神の印を受けるのである。」(各時代の大争闘下巻 374, 375)

大いなる叫びが聞かれるとき

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「そしてこの御国の福音は、すべての民に対してあかしをするために、全世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである。」(マタイ24:14)

「迫害の嵐が実際にわたしたちを襲うとき、真の羊は真の羊飼いの声を聞く。失われた者たちを救うために自己否定的な努力が払われ、そして囲いから迷い出ていた多くの人々が偉大な羊飼いに従うために戻ってくるのである。神の民は互いに近づき、一致団結して敵に当たる。……キリストの愛、わたしたちの兄弟愛が、世にわたしたちがイエスと共にいてこのお方から学んだことを証する。その時、第三天使のメッセージは大いなる叫びへと盛り上がり、そして全地が主の栄光で明るくされるのである。」(教会への証 6 巻 401)

「1844 年の運動において人々をあのように力強く動かした力が、再び表されるようになる。第三天使のメッセージがささやくような調子ではなく、大声で伝えられるようになる。」(教会への証 5 巻 252)

「そして天から大いなる力をもって下り、地をその栄光で明るくするもう一人の御使の働きは、かなりの部分が、わたしたちの印刷所を通して成し遂げられねばならない。」(教会への証 7 巻 140)

「もしわたしたちが神の足許に伏してへりくだり信じるならば、神はまもなくわたしたちのために大いなることをなさる。……まもなく一千人以上の人々が一日のうちに改心するようになる。そして彼らのほとんどはわたしたちの出版物を読んで初めに確信したことに従うのである。」(レヒ ュ゙ー ・ アンド・ ヘラルド1885 年 11月10 日)

「大いなる叫びのあいだ、教会は高められた自分の主の摂理的な介入に助けられ、救いの知識を非常に豊かに普及させるため、光がすべての都市や町々に伝えられるようになる。地は救いの知識で満たされるのである。」(レヒ ュ゙ー ・ アンド・ ヘラルド1904 年 10 月13 日)

サタンはどのようにふるまうか

「第三天使のメッセージも、このようにして宣布される。それが非常な力で伝えられる時が来るならば、主は謙遜な器を通して働かれ、主の奉仕に献身した人々の心を導かれる。……バビロンの罪は暴露される。教会の法令を政権によって強制することの恐るべき結果、心霊術の侵入、法王権のひそかではあるが

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急速な発展などが、みな暴露される。これらの厳粛な警告によって、人々は動かされる。こうした言葉を聞いたことのない者が、幾千となく耳を傾ける。バビロンとは、その誤りと罪のために、また、天からの真理を拒んだために倒れた教会である、ということを聞いて、彼らは驚くのである。人々が、彼らのかつての教師たちのところへ行って、これらのことは真実であるかと、熱心に尋ねるときに、牧師たちは、作り話を語り、耳ざわりのよいことを預言し、彼らの恐怖と目ざめた良心をしずめようとする。しかし、多くの人々は、単なる人間の権威に満足せずに、はっきりした『主はこう言われる』という言葉を要求するので、一般教会の牧師たちは、昔のパリサイ人のように、自分たちの権威が疑われたことを怒って、そのメッセージはサタンから出たものであると非難し、罪を愛する群衆を煽動して、その宣布者たちをあざけり、迫害するのである。」(各時代の大争闘下巻376, 377)

「しかし、驚くには及ばない。サタンも光の天使に擬装するのだから。」(コリント第二 11:14)

「この時代には、反キリストが真のキリストのように現れ、神の律法は世の国々で完全に無効にされる。神の聖なる律法に対する反逆は、完全に熟す。しかしこのあらゆる反逆の真の指導者は、光の天使を装うサタンである。人々は欺かれ、彼を神の地位にまで高め、そして神としてあがめるのである。」(レヒ ュ゙ー ・ アンド・ ヘラルド1893 年 9 月12 日)

「サタンはキリストを欺くために、試みの荒野に光の天使としてやって来た。彼はときに胸が悪くなるような姿で表されることがあるが、そのような姿で人のところに来るのではなく、光の天使として来るのである。彼はイエス・キリストを演じておとずれ、力強い奇跡を行う。そして、人々は地に伏して彼をイエス・キリストとして拝むのである。わたしたちは、世界がキリストとして栄光を帰しているこの存在を拝むように命じられるようになる。わたしたちはどうするであろうか。」(SDAハ イ゙フ ル゙ ・ コメンタリ [E・G・ ホワイト ・ コメント ]6 巻 1105, 1106)

聖霊はどのように働いてくださるか

「ところが、国民全体に尊敬されていた律法学者ガマリエルというパリサイ人が、議会で立って、使徒たちをしばらくのあいだ外に出すように要求してから、一

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同にむかって言った、……そこで、この際、諸君に申し上げる。あの人たちから手を引いて、そのなすままにしておきなさい。その企てや、しわざが、人間から出たものなら、自滅するだろう。しかし、もし神から出たものなら、あの人たちを滅ぼすことはできまい。まかり違えば、諸君は神を敵にまわすことになるかも知れない」(使徒行伝 5:34 ~ 39)

「この世の支配者の多くは、サタンの有力な手下であるが、神もまた国家の指導者たちの中に、ご自分の代表者を持っておられる。敵はそのしもべたちを動かして、神の働きをはなはだしく阻止するような法案を提出するが、主を恐れる政治家たちは、聖天使に動かされて、このような提案に断固として反対する。こうして、数名の者が、悪の強力な潮流を阻止するのである。真理の敵たちの反対は、第三天使の使命がその働きを遂行するために、抑制される。最後の警告が発せられるとき、それは、今主の働きの器になっているこれらの有力者たちの注意をひく。そして、彼らの中のある者は、それを受け入れ、神の民とともに立って、悩みの時を通過するのである。」(各時代の大争闘下巻 381)

「伝道者によって配布された文書は、その感化を及ぼした。しかし、感動を受けた人々の多くは、真理を十分に理解して、それに服従することを、妨げられていた。けれども、今、光は至るところにゆきわたり、真理は明らかにされ、神の忠実な子供たちは、彼らを束縛していたかせを絶ち切るのである。家族関係、教会関係は、もはや彼らを止める力がない。真理は他の何物よりも尊いのである。諸勢力が力を結集して真理に反対するにもかかわらず、多くの者が主の側に立つのである。」(各時代の大争闘下巻 383)

「神の印が押されない」種類の人々

「またわたしの聞いている所で他の者に言われた、彼のあとに従い町をめぐって、撃て。あなたの目は惜しみ見るな。またあわれむな。老若男女をことごとく殺せ。しかし身にしるしのある者には触れるな。まずわたしの聖所から始めよ。そこで、彼らは宮の前にいた老人から始めた。この時、主は彼らに言われた、宮を汚し、死人で庭を満たせ。行け。そこで彼らは出て行って、町の中で撃った。」(エゼキエル 9:5 ~ 7)

「安息日を守ると公言するすべての者が印を受けるわけではない。他人に真理

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を教える人々の中にさえ、自分の額に神の印を受けない人々が多くいるのである。彼らは真理の光を持っており、自分のご主人のみ旨を知っており、わたしたちの信仰のあらゆる点を理解していたが、それに見合ったわざがなかったのである。預言や神の知恵の宝に非常に親しんでいたこれらの人々は自分たちの信仰を行うべきであった。彼らは自分の家族に自分に従うように命じ、こうしてよく秩序立てられた家族によって、人間の心に及ぼす真理の感化力を世に提示することができるようにすべきだったのである。」(教会への証 5 巻 213)

「自分自身の霊的な退廃を悲しく感じることもなく、他人の罪を嘆くこともしない種類の人々は神の印を受けることなく放置される。主はご自分の使命者、すなわち手に滅ぼす武器を持った人々に次の権限をお与えになる。「彼のあとに従い町をめぐって、撃て。あなたの目は惜しみ見るな。またあわれむな。老若男女をことごとく殺せ。しかし身にしるしのある者には触れるな。まずわたしの聖所から始めよ。そこで、彼らは宮の前にいた老人から始めた。」

ここにわたしたちは、教会―主の聖所―がまっさきに神の怒りの一撃を感じるのを見る。老人、すなわち神が大いなる光を与え、そして民の霊的な利益の守り手であった人々がその信頼を裏切ったのである。彼らは、わたしたちが初期の時代のような奇跡や神の力の顕著な表れを期待する必要がないという立場を取ってきた。時代は変った。これらの言葉は彼らの不信を強め、彼らは言う、主は良くも悪くもなさらない、このお方はあまりにも憐れみ深いのでご自分の民に裁きをもって臨まれることはない。こうして、神の民にそのとがを告げ、またヤコブの家にその罪を告げ示すためには、二度とラッパのようにその声をあげようとしない人々より『平安と安全』という叫びが上がるのである。こうした吠えることをしないおしの犬こそ、罪に怒りを発せられる神の正義の復讐を感じる者たちである。男もおとめも小さな子供たちもみな一緒に滅びるのである。」(教会への証 5 巻 211)

「生ける神の印」を受ける種類の人々

「わたしたちの神の僕らの額に」(黙示録 7:2, 3)「生ける神の印は、品性においてキリストに似ている者たちだけに押されるの

である。蝋が印の形をうつすように、魂は神の御霊の印象を受け、キリストのみかたちをとどめなければならない。

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品性を神に似たかたちに従って形づくるのは、神の戒めの原則への服従である。

神の律法の印は第四条のうちに見られる。 十条すべての中でこれだけが、立法者のみ名と肩書きの両方を表示している。……

イスラエル人たちは、自分たちが神の所有であることを示すために、血のしるしを扉の上につけた。それと同様にこの時代の神の子らは、神が定められた署名を帯びるのである。彼らは自らを神の聖なる律法との調和のうちにおく。民を全般的な滅びから守るために、ちょうどヘブル人の住まいの扉にしるしがつけられたのとまったく同じように、神の民の一人ひとりにしるしがつけられる。神は『わたしはまた彼らに安息日を与えて、わたしと彼らとの間のしるしとした。これは主なるわたしが彼らを聖別することを、彼らに知らせるためである』と宣言なさる(エゼキエル 20:12 英語訳)。」(信仰によって私は生きる 278)

「生ける神の印は、主の安息日を良心的に守る人々に押される。」(SDA ハ イ゙フ ル゙・ コメンタリ [E・G・ ホワイト ・ コメント ]7 巻 980)

わたしたちは警告に注意を払っているか

「世の大多数の人々は、神の恵みを拒んで、急速に迫って避けることのできない滅亡にのまれてしまうであろう。しかし、警告に聞き従ったものは、『いと高き者のもとにある隠れ場』に住み、『全能者の陰にやどる。』『そのまことは大盾、また小盾である。』『わたしは長寿をもって彼を満ち足らせ、わが救を彼に示すであろう』との約束が彼らに与えられている ( 詩篇 91:1, 4, 16)。」(人類のあけぼの上巻 176)

「しかし、自分たちの側で罪に打ち勝つための断固とした努力をすることなしに、自分たちの品性に魔法のような変化が起こるのを待っている人々は、失望することになる。イエスを眺めている間は、たしかにこのお方はご自分に来るすべての者を最高に救うことがおできになるのであり、わたしたちには恐れる理由も疑う理由もない。しかし、わたしたちは古い性質がまた至上権をにぎり、敵がまたわたしたちを捕虜にするようなわなを何か仕掛けるのではないかとたえず恐れるべきである。わたしたちは恐れおののいて、自分自身の救いの達成に努めるべきである。なぜなら、あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実

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現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。神がその領域において聖なるお方であられるように、わたしたちは自分たちの限られた力をもって、自分の領域の中で聖なる者でなければならない。自分たちの能力の範囲にしたがって、わたしたちは神のご品性の真理と愛と卓越さとを表さなければならない。蝋が印の形をうつすように、魂は神の御霊の印象をうつして、キリストのみかたちをとどめなければならない。

わたしたちは日ごとに霊的な麗しさに成長しなければならない。わたしたちは神の型をコピーする努力において、しばしば失敗する。わたしたちはしばしば自分たちの欠点や間違いのために、イエスの足許に伏して涙を流さなければならないことであろう。しかし、わたしたちは失望してはならない。わたしたちはもっと熱心に祈り、もっと十分に信じ、そしてわたしたちの主のみかたちに成長するためにもう一度、もっと確固として努力しなければならないのである。わたしたちが自分自身の力を信用しなくなるとき、わたしたちは自分たちの贖い主の力に信頼し、そしてわたしたちの顔色の健やかさであり、わたしたちの神であられるお方、この神に讃美を捧げるようになるのである。」(セレクテッド・ メッセージ1 巻 336, 337)

47永遠の真理 2015 年 11 月

(50 ページの続き)

お母さんはぎゅっと抱きしめてなぐさめてくれました。それから、ゆっくりと聞きました、「でも待って、ジミー。だれがかぼちゃを造ったの?」「ぼくが……あ、そうか、神さまだよね。でも、ぼくは大事な役割を果たしたんだ」。「ジム、あなたのやりきれない気持ちはよくわかるわよ」とお母さんが言いました。「本当にわかるわ。……でも、ちょっと考えてみて。人々がイエス様を創造主として認める代わりに、『ジュニア(こども)』にしようとしたとき、どんなお気持ちだったかしら」。「イエス様が創造主だったの?ぼくは父なる神様が創造主で、イエス様はただ神の御子なんだと思ってた」とジミーは言いました。「聖句を思い出してみて」とお母さんが言いました。「『初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった……そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた』(ヨハネ1:1-3,14)。肉体となられた言は、もちろんイエス様よ。他にもこのお方の創造のみ力について説明している聖句があるわ。たとえば、ヘブル1:1,2とコロサイ1:12-17.さらに、創造の時には、『神の霊が水のおもてをおおっていた』(創世記1:2)ともあるわね」。ジミーはちょっとの間考えて、次のように言いました。「もしイエス様がいつもご自分の働きの功績が認められたわけでないなら、ぼくは仲間だね。神様がすべてを造られたんだ。ぼくはただかぼちゃコンテストで一番の名誉をもらえなかったにすぎない。それはイエス様が経験されたことと比べたら、ぜんぜん文句を言うようなことじゃないね」。「まったくその通りよ、ジミー」とお母さんは続けました。「あなたにそれがわかって本当にうれしいわ。そして物事をそのように考えるなら、あなたはいつももっと幸せで、もっと祝福されるわ。……さあ、あなたが収穫したこの新鮮なかぼちゃでパイを作りましょう!」

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力を得るための食事

麦茶ゼリー

◎材料    (4人分くらい)

水     7CUP••麦茶    3,4パック••黒糖    1CUP••( 砂糖でもできるが黒糖だとコクと色がよい)••アガー   大さじ5••

◎作り方

鍋に水7CUPと麦茶3,4パックを入れて煮立てる。11•十分な濃さで麦茶が出てきたら(約 20 分ぐらい )、麦茶のパックをすべ21•て取り出し、水が減っていたら足す。そして再び2を沸かし、沸騰したら黒糖とアガーを合わせたものを入れ31•る。(注:沸騰しすぎに入れると溢れるので少し火を弱めて入れる)黒糖とアガーを溶かし、沸騰させれば出来上がり。41•後は、あら熱が取れしだい、お好みの型に流しいれ、冷やして固める。51•常温でも固まる。

*黒糖の量や、アガーの量はお好きな甘さや固さで調整してください!え、これが麦茶?という新しいおいしさですよ。

教会プログラム ( 毎週土曜日)

安息日学校:9:30-10:45(公開放送)

礼拝説教:11:00-12:00(公開放送)

午後の聖書研究:14:00-15:00

【公開放送】http://www.4angels.jp

聖書通信講座

※無料聖書通信講座を用意しております。

□聖所真理

お申込先:〒 350-1391 埼玉県狭山郵便局私書箱 13 号「福音の宝」係

是非お申し込み下さい。

書籍

【永遠の真理】聖書と証の書のみに基づいた毎朝のよみもの。

【安息日聖書教科】は、他のコメントを一切加えず、完全に聖書と証の書のみに基づいた毎日の研究プログラムです。

49永遠の真理 2015 年 11 月

50 永遠の真理 2015 年 11 月

 

カウンティーフェア(年に一度のお祭り:農産物の品評会やゲームなどいろいろなイベントを行う)で、だれが一番大きなかぼちゃを育てられるかというコンテストがありました。

若いジミーははりきっていました。なぜって一年中自分の菜園の土地を耕し、肥料をやっていたので、本当にすばらしい結果をもたらすは

ずだったからです。記録では一番大きなかぼちゃは一トンを超えていました。しかし、ジミーは辺ぴな地域の規模の小さい子ども農夫でしたから、もし地元のコンテストで賞を得ることができれば、それだけでうれしいのでした。大いに期待しながら、お父さんに持ち上げるのを手伝ってもらって、自分の一番大きなかぼちゃを木の台車の上にのせ、どろ道の中、カウンティーフェアまでそれを押して行きました。たしかに、ジミーがジャイアントかぼちゃを見せたとき、はかりが傾き、コンテストで一番重いかぼちゃになりました。それなのに、ちょっと待って―ジミーにとってショックなことに、突然、となりのサンドラ・スーが、はかりの上にあるのはジミーのではなくて、自分のかぼちゃだと言い出したのです。ですから、審判者たちは、このかぼちゃが本当にはだれのものかはっきりしなかったものですから、二人を一位にしなければなりませんでした。ジミーの心は折れました。彼はお母さんとそのことについて話しながら、おうちに帰りました。「ぼくがあのかぼちゃを造ったんだよ、サンドラ・スーじゃないよ」とジミーは泣きました。「こんなに一生懸命働いた結果がこんなことになるなんて信じられないよ!」

お話コーナー

  

(47 ページに続く)

だれの功績(こうせき)?