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社会民主主義の国際連帯と生命力rsquo九四四年ストックホルムの妃録から

加藤哲郎

私はいまや世紀を生きたあるⅡ本人の軌跡を迫って英禍及びH本語のホームページ「ネチズ

ンカレッジ』で悩側提供を呼びかけている瑞前を「崎村伐樹(さきむらしげき)」という

吸鼎で一九九年に生まれ一九八皇年に没した戦ⅢH本で東京帝国大学農学部柵師(農典輔衲専

攻)であったからいくつか学術絢文はある戦後も棚舳大学教授塞恥理科大学敬授をつとめ野

時としては雌先端の正業特許や知的所何椛の研究牧行にたずさわったからその方面で知っている

人はいるかもしれない那岬学の天才でもあった経済学の師は戦時東大経済学部ファッショ化の一塊

を担う荒木光太郎教授であったがドイツ冊は丸山填捌と同じく当時反ナチスで知られた上智大学

ヨハネスクラウス神父に学んだ

とりあえず研究者としての崎村茂樹の概捜とがしておこう以下の資料収築とリスト作成にあた

l崎村茂樹という経済学者を知りませんか

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リベラルデモクラシーとソーシャルデモクラシー

苑肘l昨川一IⅡ初版第rarr刷発行

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崎村茂樹著作論文一覧三三年三一月現在箪者作成)

一九三三年「満州必揺呼物の銀箇金川満紙済発鵬の視点に虻ちて」(『農鎚繩澗研究』鋪九巻旧呼)

一九三五年「農家負仙問題の検肘」(府政繩滴川細』靹砥八冊)

一九三六年「アメリカ銀政簸の発鵬」(呵蚊騨滴胸側』朔瀞巻ザ)

「アメリカ銀政飛の本賀と意錠」(「束蝉鋪八巻し壁

一九三七年「オーブンマーケットオペレーションの矛斫」(一外交時報一節七七七妙)

般信用理論に於ける紺合偏川の地位」(「艦艇報涜研究』第言恐厚)

ヌィェークの最気瑚論と利子説l岐近の新学説(1)I(3ご夛ィ篭ンド」第兀懇

rarr一一号)

ヨハネスラウレス背『スコラ学派の街幣描』(翻訳称挫幽

「農村人側移動の陪級性とその祉御經澗的鵬喫閃福井縣下農村燗査中間報告」(戚野正樹神

件脱論と此將「鵬蝋純榔研究』節心懸鯏Wり)

一九三八年『紺介フリッッノィマルク『細澗政簸の新しきイデオロギー筐(「職砿膳蕊』城八秒隅堕

っては前ベルリン日独センター調査部災桑脈節子氏京都大学文書館助教福家崇洋氏にご協力いた

だいたこのほかの著作倫文ないし消息をご存じの方はぜひ繁者(冨目愚ご胃号)まで連絡し

てほしい

『rsquoンフレーションと鵬業僧川lドイツインフレ-ション下に於ける綴験」《厘興綴淑

研究」節似巻吟)

『北支農村経済の蒲問題」(『北支課済側発の根本間狸江苔睡

「北支の幣制と農民経済」(雨脚農会飢節八巻九甥)

一九三九年報告「邪炎下の農業間剛を主魁し」して」(「木脇学研究細借』節兀細職虹子)

「腿紫政簸の社会価学的雄礎付けへの拭み(此の12)」(『愈畷勝』輔服巻皇l佃砂)

民族主錐と膿民」(rdquo工訓ノミスト』弧卜慰パリ)

『北支の食綱問題」雁雌にて『典臘蔽幣嘩》り)

『労働政筑としての股業政飛三厘粟と紐逝珊ハ瞥一菫号)

一九四年「H本農業技術の発展に関する覚茜(「農政節蓉八号)

「朝鮮農民の内地磯村定蒲」(晃陛踊懇八曇

「稲作に於ける中耕Ⅱ除草技術の発腱過程」(「農梁組済研究」節一六警一量

「北支の食縄問題」東畑秘蒋『米』中央公論祉付壁

「北満における小作形態の汚察」(近蠅砿叫抽湧『雌懲壁附上還暦聾臘業羅衲学強鰻』H本斑鐡祉)

一九四一年「閥印に於けるプランテイションと耕力政簸の問題」(『駈臨細雌」節三巻一号)

「側箪公社と燕聡蝦細符」爾油肥雌犀薬拠叩」恥四蓮ハリ)

側借「澗州側雌披と肚族此馴」$ⅢⅡ騨了阯会蝋チロル)

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ドイツ語著作

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喚閃」などにマルクス稚維のPrime法的影卿を兄川せないわけではない他方で維済内曲主鍵行ハィ

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本経済の岬細成』(巾央公識社一九九年)を想起させる総じて理論細介実証分析が多くなんらか

の思想的立場方法的一俄性は見出しにくいこれらの学術的仕事からの「社会民主主義」への接近

rsquo九五六年「通貨交換性と貿易自由化」(耐殖火学踊悠節言号)

一九五七年「EPUと通貨交換性」(「止押耗滴錨集」節一巻g

「経営パートナーシャフトについて」(屈殖火叢罵』蕊一五号)

フリードリッヒスゴーセンス著『アメリカにおける利潤分配の実際西ドイツの訪米

視察M報告書』葡訳佃従狼魔性本部)

「公正賃金とパートナーシャフトー附独の労使協凋はいかに行われているか三癒済縦

米』爪し年川珊)

一九六年「特杵ライセンス研究序脱アメリカの反トラスト法との側迎において」(「妬欲火学抽鯉鯏

rarr汲叶)

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しかし

しかし崎村茂樹の生涯を追いかけていくと社会民主主義との奇妙な接点が見えてくる以下は

むしろ水苫を通じて梢報提供を求めるための崎村茂樹が節二次世界大職巾のストックホルムで接触

した社会腿脱瓶雑「小インターナショナル」についての覚え背きである

このリストから本諜のテーマである「ソーシャルデモクラシーⅡ社会民主主義」との関係は

崎村茂樹

政論学者で現代政治現代史を「情報戦」の観点から研究してい

る私が関心をもつのは経済学者としての崎村茂樹の業紬や生涯で

はない輔其次仙界大戦期及び戦後占領期の国際情報戦のなかで彼

が果たした数奇な役削である

2戦時在独日本大使館からの「亡命」者崎村茂樹

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それは第一に崎村が第二次世界大戦中の一九四一丁四四年にベルリンの駐独日本大使館砺託で

ありながら中立国スウェーデンに「亡命」し岬時の「rsquo一ユーョークタイムズ」「タイム」等連合

国側メディアで「初めて連合国に加わろうとしたH本人」「枢軸国の敗北を初めて公言したR本人」

と報道された希有な体験の持ち主だからである

箪疋崎村は一九五年には中国雌命直後の北京に住んでおり中国側の資料と当時の日本で

の報道によれば「毛沢東暗殺未遂耶件」に関わったとされる点である

これまで判明している崎村の生涯はおおむね以下の通りである

一 与

一九九年東京に生まれる聞知商等学校珊科乙麺から東京帝大農学部農業綴済学科卒業

rsquo九川六年柾中側災聯米個領耶航に汕択経済分析柧叫で勤務

一九四八年在北京米閣総傾邪飢勤務側北京陥藩米側大使館台漉移維後も北京に残制

一九班年建国世後の中蛾人民共和岡で「米岡経済川牒」として速揃され禁間刑側本では「毛沢

東陥没未遂邸件」に迎座と報道される(「師新聞』几肚rarr年八川rarr輯H)日本の留守家族はこの報道

で初めて崎村茂樹が職後に生きていた澗息を知る

一九正近年拘束を解かれ中国から婦国矢部貞治学壁に調われて拓殖大学経済学部教授

一九Lハー年n本鉄鋼統制会ベルリン事務所時代の上劔八幡製鉄島村哲夫常務に誠われ八幡製鉄嘱

託東京理科大学教授(工業特諦柧当)ただしドイツスウェーデン中国での一五年間の体験に

ついては婦国後家族にもほとんど語らなかった

一九八二年食道ガンで死去

だが崎村茂樹の生涯は謎だらけであるご適族も一九四一年の訪独から五五年の巾伺からの

州仙までの「究白の一通年Ⅲ」について排しいことを知らない私のホームページ「ネチズンカレ

ッジ」には「崎村晩樹の六つの謎」がかかげられ現柾も椚報提供を求めている(言【旦菖勇曽二台

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もともと崎村茂樹というⅢ本人の存征を私が知ったのは》六年叉のことであるドイツのベ

ルリン映剛岬物館から冊独関係史研究を共鵬ドイツ締で発表してきた数人のH本人研究背に宛て

て発せられた三通の唯rメールからであった

それによるとドイツ統一後のベルリンの象徴として作られたポツダム広場の映側博物館が刊行し

ている映卿人シリーズに戦後西ドイツの特糸な女流映画評論家であったカレーナrsquo一Iホップ

(昏罵冨画z菖昌』sect-一雷)の評伝が加えられることになったユダヤ系ドイツ人である彼女の戦時遺品

巾に彼女が一九州《rsquo四剰年にⅢ本鉄鋼統制会ベルリン珊箭所に勤務しユダヤ人川食蜘配給券の

偽迭でナチスゲシュタポに検挙されたさい征独Ⅱ本大使館咽託でH本鉄鋼統制会ベルリン州務所

のアナリストである「崎村茂樹」というⅢ本人の奔走と助命喚願書で生命を救われ戦後に生き残る

ことができたという資料があるその「崎村伐棚」とは何者かを知りたいという問合せであった

洲時ベルリン映画博物鯨から連絡を受けた一機大学勤務の私東京大学継済学部石兇徹教授成

城大学法学部棚嶋僧雄教授ら七人で「崎村茂樹探索ネットワーク」を作り私の個人ホームページ

「ネチズンカレッジ」を使って世界中に情報提供を呼びかけた即座にさまざまな梢報が寄せられ

崎村家ご辿族や東束大学磯学部関係好からもある報喚の愉報が集まった

カレーナニーホッフの梛仏は一七年一川に刊行された崎村の同臘圃H本大使館側の地位

を利川した一九側堂年が叫時の助下1質ャ人女性カレーナニーホッフヘの助命蝋噸併を背いて

の救援はカレーナ自身が戦後に生き残り峨願沸緬や写典を磯したことにより那爽と腿められた

ミルリンの「シンドラーのリスト」「もう一人の杉脈千

①蒲き崎村麓樹はリベラル左派だったのか親ナチ右派だったのか

②崎村茂樹はなぜスウェーデンに「亡命」したのか

③崎村晩樹の一九四玉I川四年「亡命」は迎合側班との「和平正作」を意味するか

④いったん『亡命」した崎村肱樹はなぜベルリンに戻りドイツ敗職をいかに迎えたか

⑤二九叫丘年Ⅲドイツ敗戦で崎村腿樹はなぜⅢ本に戻らず中国に向かったのか

⑥一九W血年九州以降崎村此樹はなぜ中側に幾り何をしていたのか

一 一 四

3崎村茂樹のユダヤ人救出とスウェーデン「亡命」

1ケ

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ただし当初想定したストーリーは狂ってきた私たちは崎村のユヌャ人救援がナチスのゲシ

ュタポににらまれ監視される理山となり在独Ⅱ本大使館の狂信的親独派大島浩大使との関係が悪化

してストックホルムに「亡命」したと考えたのだがどうもこの件で崎村茂樹が処分されたり大使館

に厨つらくなったという形跡はなかった川當年九月のスウェーデン行きは鉄鋼統制会アナリスト

としての「川搬」名目であった

私たちの何人かはドイツスウェーデンの現地調在を行ないドイツ連邦公文曹航外務省史料

航やカレーナrsquo-1ホップ家に残された崎村関係簡料の収無当時の現地新聞妃耶やベルリンスト

ックホルムの住所群橘先の捌在インタビューを進めたあわせて探求を四孔年五月ドイツ敗職

時の崎村のベルリン脱川シベリア鉄道綴曲の満州側への人卿Ⅱ本敗戦後長祥での残刷職後内職

期中国砿命時の活動へと広げていったその中川報告は二七年三月早稲田大学二世紀メ

ディア研究所の公開辮演会で評論家佐藤優氏と共にハワーポイント原稿で行ない「インテリジェン

ス」蝋九号に屑報職のなかの層愈人l鼎定洞から崎村茂樹まで」と題して雲した

(二七年勇言胃壽cョ名畠畠凰辱8昌冨5国囲冨目日言己)

「インテリジェンス」論文発表後公開識減会で一緒に報告した佐藤優氏がそれまで全く証言の得

られなかった職時在独日本大使航関係荷のなかから沁外務省アメリカ局長吉野文六氏に私の描文を

示して碓偲を求め邪実と蝿められた侭鯉擬同家の咄節豊岡ソ連参戦曲役」「現代』O八年八号)さ

らに米国倒立公文譜館(NARA}所厳で現在ではH本の掴会図書館等でも閲覧可能な連合砿押収文

書の在独川本大使館内部記録中に「崎村茂樹問題文蒋而林内傍事務所佐喋彰電作成)」蜀緬8己鰄胃『ョ曾

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中央附州脚CIA)に秘かに紀録され枢軸国ドイツ川本側は否定し沈黙してきた「在独側本大使館側

のスウェーデン亡命と連合側との接触」が史実としてⅢ迎いないものとなった

ところがそれでは終わらなかった「崎村茂樹問題文書」など新たに発見した資料で崎村の

「亡命」の事実関係はかなり明確になったが肝心の「亡命」の動機がはっきりしないのである以

ドは「インテリジェンス」論文のその後の研究にもとづく改訂を兼ねた一九四三年九月ストックホ

ルムでの崎村の「亡命』から四四年五川ベルリンへの強制送還までのスケッチである

崎村娩樹のスウェーデン人凶は一九四三年九七冊で計画的な「亡命』ではなかった前述の

4戦時中立国スウェiデンで亡命者を助けた社会民主主義

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ところが三九四幽年f川崎村の学究的「亡命」生活は職時ヨーロッハの愉報職腱渉き込まれ

中断を余催なくされるきっかけは「インテリジェンス」絢文で細介した「ニューヨークタイム

ズ」一九W四年瓜Ⅱ一Ⅱ付妃叩『Ⅲ本人が大使伽から脱走」「タイム」総六円近日号『抵抗の方法』

という米側メディアの撒遊ではなかったそれは笑側の新聞と戦時の大衆江伝メディアであるラジ

オでのロイター砿報通だった「ニューヨークタイムズ」妃耶はロイター芯をもとにしたものだ

った

j一九山側年凹凡一八Ⅱゴルトルンド猟師の細介状を持って連合国側有力紙イギリス「ディリ

郎雌Iメール』ラルフヘーウィンス特派uがドイツⅡ本の耶悩を執兼してほしいと崎村の淋伏

竹伽先に現われた「亡命」巾とはいえ平隠な学究生活を蝿む崎村は耐絞はしたものの反ナチ愉文

j命の執縦依頼を断った

畦ところがその而縦が「デイリーメール」肛川Ⅱ付の「H本人外交Wがベルリンから逃亡して

1馳縦る」「束條の部下から迎合岡へのアピール」というセンセーショナルな妃邪になるロイター砿で

の世界に配帖されラジオでも放送されたためリスボンの在ポルトガル陸耶武官室や伺阻通備のヨー

印槌剰ロッハ特派側網もスウェーデン政府と在独n本大使館に問い合わせ本格的捜索に動きだす

秘スウェーデン脚本公使館陸瓶武樹小野寺信と同盟通信ストックホルム特派員斉藤正明が崎村の隠れ

家をみつけたらしく崎村は『デイリーメール」記者の狸造記事であると否定したが弁明を迫ら

社rsquoれたナチスのドイツ通偏(DNB)での反論ラジオ悉組がただちに組まれ五月五日にはドイツの新

3 112

ょぅに当初は日本鉄鋼統制会の公務出狼を兼ねた休暇名目で入ったらしいところが九月一日読

売新聞ストックホルム特派員蝉野満洲雄がベルリンに転勤するにあたっての現地日本人による壮行連

動会に参加し偶発的な事故で足の催我をしたそこで入院した病院でレクターサンドベルグ

(rdquo月ざ『勺『mgQg員)というスウェーデン人教師と同霊になったすぐに親しくなり空襲のベルリン

には戻らずスウェーデンに滞在することを勧められ当時ストックホルム大学識師でスウェーデン社

会民稚労働党思想誌「弓昼目」縞集長だったトルステンゴルトルンドが率いる反ナチ知識人亡命者

支援組織に組み込まれた四三年一二月初めからスウェーデン日本公使館にハスポートを取り上げ

られた状態のまま「亡命」生活に入り行方をくらました

一九餌凹年一月には日本外務省嘱託を解任されたが約五人のスウェーデン人一人のドイツ

人人のノルウェー人の支援を受け労働市場調在の仕事も紹介された崎村は戦火を離れ森

と湖に川まれたストックホルムで同年識の経済学行ゴルトルンドや先にドイツから亡命していた

ドイツ社会民主党(SPD)在外ネットワーク組織汁であるユダヤ系教育学者フランッモクラウアー

らの庇俄のもとドイツ語で一九四隼に刊行した『日本経済の新編成』に続く一耐の本『日本の

腱業経済』『H本経済史』を準備していたという

ベルリン日本大使館とストックホルム日本公使航はこの間崎村の行方を捜し求めていたまた

ナチスのゲシュタポとスウェーデン警察それに連合国側の英国情報機関MI6米国悩報機関OS

Sも職時在独日本大使館員の中立国スウェーープンへの「亡命」に注目し秘かに追っていた

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戦後まで生き残り得た理由の一つとなった

一九四四年ⅢⅡ二八冊在独内務邪務耐佐藤彩1は「崎村事件に関する調書」を作り六月一日付

で崎村茂樹は「今回ロイター耶件は其の波紋極めて火きく全く恐縮に堪えず」という「誓約響」を醤

かされた東京の外務省本省参諜本部にはおそらく迎絡されないまま在独日本大使館内で一件落

着がはかられたすでに日本への公篭連絡さえ側雌になった欧州戦線の通信事情もあるが日独同盟

に慨をつけない配虚であったろう

その過程で内務省の佐藤彰三鉄鋼統制会蹄村価夫スウェーデンの陸軍武官小野寺傭同盟通

偲斉藤正恥らの間で崎村の「亡命」を大小にしないための筬略が練られたポイントは崎村「亡

命」時の生活徴の出所(スポンサー)それに崎村の左翼迦動思想歴第三インターナショナル

(共廉脆捉インターコミンーブルンrarr九一九rsquo四年)-との関わりだった

戦時ヨーロッハのⅢ本人特派員の多くは派遮先取材祁手や在外日本人の思想動向を探る諜報員の

役割を果たした斉藤特派員が佐藤彰一一larrにあてた崎村の身上調書が「崎村事件に関する調書」に付

されているそれによると崎村は「初歩的な唯物論の把握」はあるが左翼思想連動歴はなく

「亡命」先のストックホルムでも「第三インター系には現在まで何等交渉なし」スウェーデンの亡命

者支援組織から月一五クローネはどの援助を受けていたがそれは交友関係を含め「第二インター

系統」であるから心配ないむしろ崎村を謹慎させたうえで彼の学識を今後も日独枢軸国の勝利の

lデンの社会民主主義の活動家たちだったじつはこのことが崎村茂樹が「大逆罪」に問われず

剛にも『崎村教授は英米に利川された」という否定記邪が掲峨されたナチ党にとっても砿大耶件だ

ったらしく一九四四年五川初めの『ゲッペルス旧記』には三回も「崎村教授の珈件」が出てくる

ドイツの外筋衙ゲシュタポからは「束唯のゾルゲ邪件への報復」(ドイツ国繍の「ゲルマン人」

であるゾルゲ検挙裁判への膜発)として崎村の身柄引き渡しが漉求され在独日本大使館でも「大

逆卯」の声があがったがどうやらMⅢ皿僻芥藤特派側と鉄鋼統制会ペルリン耶務所奨励村哲夫が脱

得役になり征独内防術州務所休雌彪とベルリン総械耶鯉水太郎がストックホルムに赴いて正月却一

川崎村を拘束拉致ベルリンへの「強制送還」になったそれをスウェーデンの新聞雑総はが

典入りで大々的に扱い「タイム」総六川ⅡⅡ号の紀珈に繋がった

以後ナチスドイツに送り返された崎村がどうなったかはドイツ外務194797史料館所蔵のドイツ政

府と征独Ⅱ本大使館の交渉ファイルや現地捌在から「インテリジェンス」論文に犯した皿りで川本

人仙飢による奇妙な身柄拘束軟恭聴視が州K年孔川ドイツ敗戦まで続いた中剛での崎村の波

淵Prime丈についてはここでは行略する

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村茂樹の戦時スウェーデンE命」を支扱し生活手段まで面倒を見ていたのは中立国スウエ

5プラントらの社会民主主凝「小インターナショナル」

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ために使うべしというものであった

つまり在独日本大使館も在スウェーデン日本公使鮒も崎村の「亡命」の背後に第三インターナ

ショナル系列の共産主義運動があるのではと疑ったが彼は「第二インター系統」の社会民主主義の

方だから人丈夫だというまことに川本的治安維持法的な発想のおかげで崎村茂樹の生命は助か

った小愉の問いはここから始まる「インテリジェンる論文を発表後ドイツ現代史の専門家であ

る水ル消彦氏から新たな价棚が術せられた内分が挑んだヴィリプラントの北欧亡命期の川想巾

にドイツの川本大使館から逃げてきたH本人のことがでてくるそれが「インテリジェンス」鮒文

にある崎村茂樹ではないかというのであるそしてそれは永井氏も佐藤優氏とは別に職時在

独Ⅱ水火仙鮒の生き柾人吉野文六氏に問い合わせⅢ通いないものと確縄された

一九四rsquo四四年当時のストックホルムにはナチスに追われたり戦場占領地から避難した世

界の社会災抜主錠者が多数滞在していたその中心はドイツ社会民主党の亡命者組織でありそ

こから「ストックホルム民主主義的社会主推祥のインターナショナルグループ」が生まれた支扱

するスウェーデン社会民主労働党貝を含め岐大時両人にも満たない小さな国際連帯組織輌溜「ク

ラィネインテルナッィォナーレ』爪インターナショナル』)であつたがドイツオーストリアポーランド

ハンガリーチエコノルウェーデンマークフランススペインハレスチナアイスランド

イギリスアメリカなどからストックホルムに「平和」を求めた社会民主主義者たちが集っていた

それは戦後ヨーロッハ統合と福祉国家いや戦後阯界の「民主主義的な社会主義」「差異のデモク

ラシー」の行方にも大きな意味を持った

中心的指導者は亡命巾のドイツ社会民主党貝ジャーナリストヴィリプラントでありナチス

敗北後関ベルリン市長から西ドイツ筒相までのばりつめた一九七一年のノーベル平和賞受賃者で

ある{プラント『畷Iレジス典ンス』蝋胤祉兀しf一

この組織を共に担ったⅢ友のユダヤ系オーストリア人ブルーノクラィスキーは戦後オーストリ

アで外交Wとなり永世中立国の地位をⅢ拠初のオーストリア社会党政楡の首相となるちょうど

亡命時代の「峨友』プラントが西ドイツで竹川になったころだった

仙界から亡命社会民北主錠将を受け入れ支扱したホスト役はスウェーデン社会民主労働党側のな

かのⅨファシズム側隙主義新たちである巾血悩スウェーデンの知識人や国際活動の経験肴が多く

合まれていたそこにカールグンナーミュルダールとアルバラィマルミュルダール火斐の

船がある夫のカールは当時ストックホルム商科大学の経済学荷で戦後は通商大臣を務めたストッ

クホルム学派の瓶鎮で一九七四年にフリードリヒハィエクと共にノーベル維済学賞を受徹した

菱のアルハもスウェーデン福祉政筑の椎進者でユネスコや国迎軍縮会識で活鍬した一九八皇年

にはノーベル平和徴を受賞し夫と共に終生世界平和の提唱者牽引者となった

そこでは戦後社会民主主鍵労働巡勁の間際組織再建(社会主錠インターナショナル)スター

リン率いるソ連と共産主義への態度戦後国際金融経済秩序や植民地支援の194797想信教の自由と国際

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動乱時に蝋行機那故で亡くなる死後にノーベル平和衝が授与されたから「亡命巻」崎村伐樹のま

わりから職後孔人ものノーベル賞受枇粁がⅢたことになる

ヴイリプラントと社会災脱稚義「小イン投Iナショナル』を細ぺるにはドイツに赴くしかない

ボンのドイツ社公民柑党フリードリヒエーベルト財Ⅲにヴィリプラントアーヵィヴがありそ

こで淵時の肥鍬を閲鷺したが新しい発見はなかったその代わり今Ⅲ北欧社会民主狼捉の脈史

的研究で知られるクラウスミスゲルドの学問的脱点が彼の卿士論文での「クラィネインーアルナ

rdquoツィォナーレ」の研究だったことがわかった(屋画雇いで扁帰江胃蓉鳥昌言E奇昌胃号ミミヘミミ

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Iosect冨品》ぐの『層潔呂の馬駕二段頁昌電毎)またウィーン入学図書館で一九四三年に崎村茂樹と笠備太

加齢郎がウィーン大学での講減会に棚かれたがドイツ政府により許可されなかった記録が見つかった

鍵もっとも私の主要な関心は当時の米国OSSヨーロッパ総局長スイスのアレンダレス(戦後

隙CIA股禰)の戦時諜報ネットワークが「亡命」Ⅱ本人崎村茂樹との接触と共にストックホルムの

巡胸蝿社会民推服錠国際組織にまで及んでいたかどうかにある

郷川本で社会主鍵の刷際辿幣といえば通端「鉄の規神」で結ばれた共産主義のコミンテルンコミ

ンフォルム系列がイメージされる私側身もその系列の歴史と「ソ辿邦防衛」が百人近いⅢ本人瑚

社リー洲に州紬した悲劇を追いかけてきた(加懲『脚鯉を趣える11トピァー圃鵬側潔のエルゴ画ジー』鼎凡祉ライブラリ-

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無総プラントは知らなかったこの日本人の緋い維済学者(当噛孟歳)が生き残り④のちにミュ

ルダールと一緒にノーベル経済学賞を受賞する脱理的自由主義背ハイエクの日本への紹介荷の一人で

面識もあったことをまた当時のスウェーデン政府大蔵次官スウェーデン銀行総裁ダグハマー

ショルドとも会っていたらしいこともハマーショルドは国連事務総長時代の一九六一年コンゴ

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われわれの会合への風変わりな肋間将は一人の端いⅡ本人だった彼はベルリンの川本大使

航で仕邪をしていたがわれわれを見つけだした川本の秘密警察が彼を迫っていたので彼は

ある蛎院に助けを求めたそれから税押されてベルリンに腐ったおそらくは悲劇的結末に

いたったであろう(言与国日冨昌トミ爾震ミ寺鼻一電冨雲釘馬事罵鴬西冒豐旨Q9冒罵》閨い塁肝

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ヴイリプラントの回想

法砿縮と世界平和の将来が討論されていた

そしてこの小規模だが密度の濃い国際社会民主主義の亡

命者組織の例会にただ一人アジアからしかもナチスの同

盟国日本からの亡命者が顔を出した崎村茂樹である一度

だけのことと思われるがよほど印象に残ったのかノーベ

ル平和賞受賞後のヴィリープラントは回想に書き残した

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120生命jj(IIIIMWRM)社会民主主役の旧隙連帯と121

[参考文献]

加藤哲郎『倒境を越えるユートピァー佃民脚家のエルゴロジー』平凡社二二年

加藤哲郎『怖報戦と現代史l日本国惣法へのもうひとつの道』花伝社二七年

二年)

しかしナチスに追われ「亡命」したのはユダヤ人や共産主義者ばかりではない第二次世界人

戦期には社会民主主義者も自由主義春も故旧を追われ世界に分散して緩やかなネットワークを保

っていたストックホルムの「小インターナショナル」もその一つでそこでプラントやミュルダー

ル夫斐がナチズム打倒後の世界を構想していたそれはヨーロッパ統合や平和共存国際通貨体制

貧困国開発援助「持続しうる地球」に連なるものであったに違いない共産主義の「現存した社会

主義」亡きあとそれはある極の社会主義の生命力をぷす邪例でもある

そしてその生命力とは北欧社会民主主推の柵祉脚家に代表される制度設計政策体系はもちろ

んであるが崎村茂樹のような無弔のⅡ本人を「スハイ」と疑うことなく受け入れその後の運命を

心配するような人間へのまなざしとネットワークの開放性「差異のデモクラシー」であった西

欧社会民主唯義の「原子力」観についても「小インターナショナル』関係稀からなんらかの示唆が

得られないか私の探求の旅はなお道半ばである統背の情報提供を再度お願いする(盲目愚

勇墓曇色b『〕も雷まで)

加藤竹郎今井将奴神山仲弘細『挫拠のデモクラシー』Ⅲ本経済評総社二一年

川臘価郎小野一川巾ひかる珈祁孝川細『側艮旧家の境界』旧水経済押鱸社》o一年

加藤価郎冊野洲人細『民碓主錠平和地球政治』Ⅱ本綴済排総社6一年

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年)『近代日本の政治学行群倣--政抽概念抽争をめ〈って』(勁草書房2001年)『Iリl論l却家の拙本柵避術i剛l腿primekのプレリュード』(法抑文化社2002年)『Iリl始鬮説と瑞術典祝』(1bllllトI200II)TIリ1泊維新の思想』(成文堂2005年)『大東猟liMhIWIの蚊捕学』(成文イM2()O7年)rⅡ本の政治文化』(勁草諜腸2008年)rll本政油学の先駆lfj(成文lsquo戦2011年)ほか田中治男(たなかはるお)1935年京都府生まれ束戚大学大学院法学政泊学研究科椰士課程修了成隈大学名汁教授政治思想史呼攻佛杵に『フランス自由主義の生成と展開--l九世紀フランス政流思惣研究』(蝿順大学川版会1970年)『近代政治思想史(4)---産業化と大衆時代の政治思想』(イI斐閣1978年)『西欧

執錐考略服

田中浩(たなかひろし)1926年佐賀鼎生まれ東求文理科大学哲学科卒現在型学院大学大学院教授楠大学躬俳教授政治思想史専攻著菩に『是谷川如雌閑研究序鋭』(未来社1989年)『カールシュミットー魔性の政治学』(未来社1992年)『〔改ir卿補飯〕ホッブズ研究序説一近代掴家趙の生誕』(御茶の水縛脚1994年)『〔新版]l司家と個人一市民碓命から現代まで』(珊波紳店2rdquo8年)ほか典択井にトマスホップズ『リヴァイアサン』(河川稗勝斬11966年)カールシュミット『政治的なものの概念』(未来社1970年)クーペルスカンデル細『EU時代の到来一ヨーロッパ柵祉社会社会lも1sectl錘』(未来社2m9年)THグリーン『イギリス峨命礁蕊一クロムウェルの此和I珂』(未来社2011年)ほか「IIIIII溌築j(f1巻未来社)刊行ln森臣広(しげもりたみひろ)1959年北海迦生まれ111央人学大学院法学研究科1I後期過醐中退現イl立命航大学政爾科学部教授政論思想史専攻此特許に八脚j倣椴rdquordquoノldquo他岫幽eqf彫IM1ksqノセタ施yBef加加(ChuoU1】iversityLibmry1989)択緋にトマスホッブズ『竹学者と法学徒との対船--イングランドのコモンロ-をめくる』(共択鰐披文叩2002年)リツーャードタツ

繩縦政鰐魏職(辮陶鞭W9)ト賢二泌端芽一キン『政治思想のなかの女-その西洋的伝統』(共訳蝦ldquordquo2010年)ほか行安茂(ゆきやすしげる)1931年岡山鼎生まれ1K島大学大学院文学研究科博士課程修了岡山大学洛誉教授倫理学専攻符勘に『トマスヒルグリーン研究-その思想形成と哲学」(理紐社1974年)『デューイ倫理学の形成と展開』(以文社1988年)『近代Ⅲ本の思想藻とイギリス理想主義』(北樹出版27年)ほか錨著岱に『THグリーン研究』(御茶の水書厨1982年)rHシジウイク研究---現代正錠抽への道』(以文社1992年)ほか大塚桂(おおつかかつら)19釦年神奈川鼎生まれ日本大学法学部卒業現在駒椰大学法学郁救授政治思想史国家強専攻蕃密に『政治学原強序説--政治における制腿と行動』(勁蛾緋脚1rdquo4年)『多元的国家強の展開一原鋼瑠崎卯--をめぐって』(法律文化社1999年)『多元的国家讃のI附辺』(1fill1I20IX)

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1951年人阪府1歌れ111稲1I1入学人膿院文細I究科IW土牒程修ro現在H本女f大学人IⅢ社会lsquo液部教授近現代11本史呼攻蒋幣に『シリーズⅡ本近現代史く4〉大11sectデモクラシー』(刑波新18ト2007年)r「戦争経験」の戦後史一一錨られた体験細iIIJ値』(聯波謝Ji2010年)『近現代旧木史と歴史学一背き俳えられてきた過去』(II1公斬1l$2012年)ほか杉田敦(すぎたあつし)1959年群賜県生まれ束來都ffち東附〔大学法学部卒業現在法政大学法学部教授政治理論哩攻蒋祢に『塊界線の政治学』(岩波瞥店2005年)『政治への想像力』(岩波湖01i2Ⅸ19年)『政治的思馳(砦波新書2013年)ほか千葉眞(ちばしん)1949年宮城県生まれプリンストン神学大学PhD(政治倫理学)現在国際基督教大学教義学部牧授内欧政治忠紐山政泊理趙専攻著書に『アーレントと現代一向曲の政論とその鵬躯』(淵波書店1996年)「デモクラシー』(器波書店20M年)『「未光の航命」としての平和遜法』(岩波書店2伽9年)ほか新川敏光(しんかわとしみつ)1956年北海通生まれカナダトロント大学大学院PhD取得現在京都大学法学研究科教授政浦過繩強比絞政治学専攻著符に『日本型稲祉レジームの発展と変容』(ミオルヴフ排j2005年)『幻視のなかの社会民主主義一一「戦後日本政治とl会1ampI_1淡」』(法律文化社2007年)ほか

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加重哲郎(かとうてつろう)1947年岩手県生まれ東j(入学法学部小粟現イIsectIL稲1II大学大学院政治学研究科群間敬授橘大学瑞俳牧授政論学呼攻符蒋に『象徴天皇制の起源一アメリカの心即戦「1Mfi111djj」(平凡社新鶴2005年)『梢報戟の時代一インターネットと劇埋政論』(花仏社2()07年)『ワイマール期べルリンのH本人---洋行知織人のj叉術オツトゾーク』(淵波野店2008年) ぜ _

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社会民主主義の国際連帯と生命力rsquo九四四年ストックホルムの妃録から

加藤哲郎

私はいまや世紀を生きたあるⅡ本人の軌跡を迫って英禍及びH本語のホームページ「ネチズ

ンカレッジ』で悩側提供を呼びかけている瑞前を「崎村伐樹(さきむらしげき)」という

吸鼎で一九九年に生まれ一九八皇年に没した戦ⅢH本で東京帝国大学農学部柵師(農典輔衲専

攻)であったからいくつか学術絢文はある戦後も棚舳大学教授塞恥理科大学敬授をつとめ野

時としては雌先端の正業特許や知的所何椛の研究牧行にたずさわったからその方面で知っている

人はいるかもしれない那岬学の天才でもあった経済学の師は戦時東大経済学部ファッショ化の一塊

を担う荒木光太郎教授であったがドイツ冊は丸山填捌と同じく当時反ナチスで知られた上智大学

ヨハネスクラウス神父に学んだ

とりあえず研究者としての崎村茂樹の概捜とがしておこう以下の資料収築とリスト作成にあた

l崎村茂樹という経済学者を知りませんか

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リベラルデモクラシーとソーシャルデモクラシー

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崎村茂樹著作論文一覧三三年三一月現在箪者作成)

一九三三年「満州必揺呼物の銀箇金川満紙済発鵬の視点に虻ちて」(『農鎚繩澗研究』鋪九巻旧呼)

一九三五年「農家負仙問題の検肘」(府政繩滴川細』靹砥八冊)

一九三六年「アメリカ銀政簸の発鵬」(呵蚊騨滴胸側』朔瀞巻ザ)

「アメリカ銀政飛の本賀と意錠」(「束蝉鋪八巻し壁

一九三七年「オーブンマーケットオペレーションの矛斫」(一外交時報一節七七七妙)

般信用理論に於ける紺合偏川の地位」(「艦艇報涜研究』第言恐厚)

ヌィェークの最気瑚論と利子説l岐近の新学説(1)I(3ご夛ィ篭ンド」第兀懇

rarr一一号)

ヨハネスラウレス背『スコラ学派の街幣描』(翻訳称挫幽

「農村人側移動の陪級性とその祉御經澗的鵬喫閃福井縣下農村燗査中間報告」(戚野正樹神

件脱論と此將「鵬蝋純榔研究』節心懸鯏Wり)

一九三八年『紺介フリッッノィマルク『細澗政簸の新しきイデオロギー筐(「職砿膳蕊』城八秒隅堕

っては前ベルリン日独センター調査部災桑脈節子氏京都大学文書館助教福家崇洋氏にご協力いた

だいたこのほかの著作倫文ないし消息をご存じの方はぜひ繁者(冨目愚ご胃号)まで連絡し

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研究」節似巻吟)

『北支農村経済の蒲問題」(『北支課済側発の根本間狸江苔睡

「北支の幣制と農民経済」(雨脚農会飢節八巻九甥)

一九三九年報告「邪炎下の農業間剛を主魁し」して」(「木脇学研究細借』節兀細職虹子)

「腿紫政簸の社会価学的雄礎付けへの拭み(此の12)」(『愈畷勝』輔服巻皇l佃砂)

民族主錐と膿民」(rdquo工訓ノミスト』弧卜慰パリ)

『北支の食綱問題」雁雌にて『典臘蔽幣嘩》り)

『労働政筑としての股業政飛三厘粟と紐逝珊ハ瞥一菫号)

一九四年「H本農業技術の発展に関する覚茜(「農政節蓉八号)

「朝鮮農民の内地磯村定蒲」(晃陛踊懇八曇

「稲作に於ける中耕Ⅱ除草技術の発腱過程」(「農梁組済研究」節一六警一量

「北支の食縄問題」東畑秘蒋『米』中央公論祉付壁

「北満における小作形態の汚察」(近蠅砿叫抽湧『雌懲壁附上還暦聾臘業羅衲学強鰻』H本斑鐡祉)

一九四一年「閥印に於けるプランテイションと耕力政簸の問題」(『駈臨細雌」節三巻一号)

「側箪公社と燕聡蝦細符」爾油肥雌犀薬拠叩」恥四蓮ハリ)

側借「澗州側雌披と肚族此馴」$ⅢⅡ騨了阯会蝋チロル)

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ドイツ語著作

之留皇昔S億号ごsect負苫厨Ssect二等騒尽為津呼の日の目zい-四富ご⑦『一乏の切臼-固扇后侭言四本維済の新鏑

成』ヴァィマール大学ほか所歳)

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喚閃」などにマルクス稚維のPrime法的影卿を兄川せないわけではない他方で維済内曲主鍵行ハィ

エクの翻択も行なっているドイツ砧将作のタイトル憾執飛当時ドイツで一緒だった擁偲太郎『Ⅱ

本経済の岬細成』(巾央公識社一九九年)を想起させる総じて理論細介実証分析が多くなんらか

の思想的立場方法的一俄性は見出しにくいこれらの学術的仕事からの「社会民主主義」への接近

rsquo九五六年「通貨交換性と貿易自由化」(耐殖火学踊悠節言号)

一九五七年「EPUと通貨交換性」(「止押耗滴錨集」節一巻g

「経営パートナーシャフトについて」(屈殖火叢罵』蕊一五号)

フリードリッヒスゴーセンス著『アメリカにおける利潤分配の実際西ドイツの訪米

視察M報告書』葡訳佃従狼魔性本部)

「公正賃金とパートナーシャフトー附独の労使協凋はいかに行われているか三癒済縦

米』爪し年川珊)

一九六年「特杵ライセンス研究序脱アメリカの反トラスト法との側迎において」(「妬欲火学抽鯉鯏

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しかし崎村茂樹の生涯を追いかけていくと社会民主主義との奇妙な接点が見えてくる以下は

むしろ水苫を通じて梢報提供を求めるための崎村茂樹が節二次世界大職巾のストックホルムで接触

した社会腿脱瓶雑「小インターナショナル」についての覚え背きである

このリストから本諜のテーマである「ソーシャルデモクラシーⅡ社会民主主義」との関係は

崎村茂樹

政論学者で現代政治現代史を「情報戦」の観点から研究してい

る私が関心をもつのは経済学者としての崎村茂樹の業紬や生涯で

はない輔其次仙界大戦期及び戦後占領期の国際情報戦のなかで彼

が果たした数奇な役削である

2戦時在独日本大使館からの「亡命」者崎村茂樹

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それは第一に崎村が第二次世界大戦中の一九四一丁四四年にベルリンの駐独日本大使館砺託で

ありながら中立国スウェーデンに「亡命」し岬時の「rsquo一ユーョークタイムズ」「タイム」等連合

国側メディアで「初めて連合国に加わろうとしたH本人」「枢軸国の敗北を初めて公言したR本人」

と報道された希有な体験の持ち主だからである

箪疋崎村は一九五年には中国雌命直後の北京に住んでおり中国側の資料と当時の日本で

の報道によれば「毛沢東暗殺未遂耶件」に関わったとされる点である

これまで判明している崎村の生涯はおおむね以下の通りである

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一九九年東京に生まれる聞知商等学校珊科乙麺から東京帝大農学部農業綴済学科卒業

rsquo九川六年柾中側災聯米個領耶航に汕択経済分析柧叫で勤務

一九四八年在北京米閣総傾邪飢勤務側北京陥藩米側大使館台漉移維後も北京に残制

一九班年建国世後の中蛾人民共和岡で「米岡経済川牒」として速揃され禁間刑側本では「毛沢

東陥没未遂邸件」に迎座と報道される(「師新聞』几肚rarr年八川rarr輯H)日本の留守家族はこの報道

で初めて崎村茂樹が職後に生きていた澗息を知る

一九正近年拘束を解かれ中国から婦国矢部貞治学壁に調われて拓殖大学経済学部教授

一九Lハー年n本鉄鋼統制会ベルリン事務所時代の上劔八幡製鉄島村哲夫常務に誠われ八幡製鉄嘱

託東京理科大学教授(工業特諦柧当)ただしドイツスウェーデン中国での一五年間の体験に

ついては婦国後家族にもほとんど語らなかった

一九八二年食道ガンで死去

だが崎村茂樹の生涯は謎だらけであるご適族も一九四一年の訪独から五五年の巾伺からの

州仙までの「究白の一通年Ⅲ」について排しいことを知らない私のホームページ「ネチズンカレ

ッジ」には「崎村晩樹の六つの謎」がかかげられ現柾も椚報提供を求めている(言【旦菖勇曽二台

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て発せられた三通の唯rメールからであった

それによるとドイツ統一後のベルリンの象徴として作られたポツダム広場の映側博物館が刊行し

ている映卿人シリーズに戦後西ドイツの特糸な女流映画評論家であったカレーナrsquo一Iホップ

(昏罵冨画z菖昌』sect-一雷)の評伝が加えられることになったユダヤ系ドイツ人である彼女の戦時遺品

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のアナリストである「崎村茂樹」というⅢ本人の奔走と助命喚願書で生命を救われ戦後に生き残る

ことができたという資料があるその「崎村伐棚」とは何者かを知りたいという問合せであった

洲時ベルリン映画博物鯨から連絡を受けた一機大学勤務の私東京大学継済学部石兇徹教授成

城大学法学部棚嶋僧雄教授ら七人で「崎村茂樹探索ネットワーク」を作り私の個人ホームページ

「ネチズンカレッジ」を使って世界中に情報提供を呼びかけた即座にさまざまな梢報が寄せられ

崎村家ご辿族や東束大学磯学部関係好からもある報喚の愉報が集まった

カレーナニーホッフの梛仏は一七年一川に刊行された崎村の同臘圃H本大使館側の地位

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の救援はカレーナ自身が戦後に生き残り峨願沸緬や写典を磯したことにより那爽と腿められた

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①蒲き崎村麓樹はリベラル左派だったのか親ナチ右派だったのか

②崎村茂樹はなぜスウェーデンに「亡命」したのか

③崎村晩樹の一九四玉I川四年「亡命」は迎合側班との「和平正作」を意味するか

④いったん『亡命」した崎村肱樹はなぜベルリンに戻りドイツ敗職をいかに迎えたか

⑤二九叫丘年Ⅲドイツ敗戦で崎村腿樹はなぜⅢ本に戻らず中国に向かったのか

⑥一九W血年九州以降崎村此樹はなぜ中側に幾り何をしていたのか

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3崎村茂樹のユダヤ人救出とスウェーデン「亡命」

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してストックホルムに「亡命」したと考えたのだがどうもこの件で崎村茂樹が処分されたり大使館

に厨つらくなったという形跡はなかった川當年九月のスウェーデン行きは鉄鋼統制会アナリスト

としての「川搬」名目であった

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航やカレーナrsquo-1ホップ家に残された崎村関係簡料の収無当時の現地新聞妃耶やベルリンスト

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時の崎村のベルリン脱川シベリア鉄道綴曲の満州側への人卿Ⅱ本敗戦後長祥での残刷職後内職

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らに米国倒立公文譜館(NARA}所厳で現在ではH本の掴会図書館等でも閲覧可能な連合砿押収文

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中央附州脚CIA)に秘かに紀録され枢軸国ドイツ川本側は否定し沈黙してきた「在独側本大使館側

のスウェーデン亡命と連合側との接触」が史実としてⅢ迎いないものとなった

ところがそれでは終わらなかった「崎村茂樹問題文書」など新たに発見した資料で崎村の

「亡命」の事実関係はかなり明確になったが肝心の「亡命」の動機がはっきりしないのである以

ドは「インテリジェンス」論文のその後の研究にもとづく改訂を兼ねた一九四三年九月ストックホ

ルムでの崎村の「亡命』から四四年五川ベルリンへの強制送還までのスケッチである

崎村娩樹のスウェーデン人凶は一九四三年九七冊で計画的な「亡命』ではなかった前述の

4戦時中立国スウェiデンで亡命者を助けた社会民主主義

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1馳縦る」「束條の部下から迎合岡へのアピール」というセンセーショナルな妃邪になるロイター砿で

の世界に配帖されラジオでも放送されたためリスボンの在ポルトガル陸耶武官室や伺阻通備のヨー

印槌剰ロッハ特派側網もスウェーデン政府と在独n本大使館に問い合わせ本格的捜索に動きだす

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家をみつけたらしく崎村は『デイリーメール」記者の狸造記事であると否定したが弁明を迫ら

社rsquoれたナチスのドイツ通偏(DNB)での反論ラジオ悉組がただちに組まれ五月五日にはドイツの新

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売新聞ストックホルム特派員蝉野満洲雄がベルリンに転勤するにあたっての現地日本人による壮行連

動会に参加し偶発的な事故で足の催我をしたそこで入院した病院でレクターサンドベルグ

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には戻らずスウェーデンに滞在することを勧められ当時ストックホルム大学識師でスウェーデン社

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支援組織に組み込まれた四三年一二月初めからスウェーデン日本公使館にハスポートを取り上げ

られた状態のまま「亡命」生活に入り行方をくらました

一九餌凹年一月には日本外務省嘱託を解任されたが約五人のスウェーデン人一人のドイツ

人人のノルウェー人の支援を受け労働市場調在の仕事も紹介された崎村は戦火を離れ森

と湖に川まれたストックホルムで同年識の経済学行ゴルトルンドや先にドイツから亡命していた

ドイツ社会民主党(SPD)在外ネットワーク組織汁であるユダヤ系教育学者フランッモクラウアー

らの庇俄のもとドイツ語で一九四隼に刊行した『日本経済の新編成』に続く一耐の本『日本の

腱業経済』『H本経済史』を準備していたという

ベルリン日本大使館とストックホルム日本公使航はこの間崎村の行方を捜し求めていたまた

ナチスのゲシュタポとスウェーデン警察それに連合国側の英国情報機関MI6米国悩報機関OS

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で崎村茂樹は「今回ロイター耶件は其の波紋極めて火きく全く恐縮に堪えず」という「誓約響」を醤

かされた東京の外務省本省参諜本部にはおそらく迎絡されないまま在独日本大使館内で一件落

着がはかられたすでに日本への公篭連絡さえ側雌になった欧州戦線の通信事情もあるが日独同盟

に慨をつけない配虚であったろう

その過程で内務省の佐藤彰三鉄鋼統制会蹄村価夫スウェーデンの陸軍武官小野寺傭同盟通

偲斉藤正恥らの間で崎村の「亡命」を大小にしないための筬略が練られたポイントは崎村「亡

命」時の生活徴の出所(スポンサー)それに崎村の左翼迦動思想歴第三インターナショナル

(共廉脆捉インターコミンーブルンrarr九一九rsquo四年)-との関わりだった

戦時ヨーロッハのⅢ本人特派員の多くは派遮先取材祁手や在外日本人の思想動向を探る諜報員の

役割を果たした斉藤特派員が佐藤彰一一larrにあてた崎村の身上調書が「崎村事件に関する調書」に付

されているそれによると崎村は「初歩的な唯物論の把握」はあるが左翼思想連動歴はなく

「亡命」先のストックホルムでも「第三インター系には現在まで何等交渉なし」スウェーデンの亡命

者支援組織から月一五クローネはどの援助を受けていたがそれは交友関係を含め「第二インター

系統」であるから心配ないむしろ崎村を謹慎させたうえで彼の学識を今後も日独枢軸国の勝利の

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剛にも『崎村教授は英米に利川された」という否定記邪が掲峨されたナチ党にとっても砿大耶件だ

ったらしく一九四四年五川初めの『ゲッペルス旧記』には三回も「崎村教授の珈件」が出てくる

ドイツの外筋衙ゲシュタポからは「束唯のゾルゲ邪件への報復」(ドイツ国繍の「ゲルマン人」

であるゾルゲ検挙裁判への膜発)として崎村の身柄引き渡しが漉求され在独日本大使館でも「大

逆卯」の声があがったがどうやらMⅢ皿僻芥藤特派側と鉄鋼統制会ペルリン耶務所奨励村哲夫が脱

得役になり征独内防術州務所休雌彪とベルリン総械耶鯉水太郎がストックホルムに赴いて正月却一

川崎村を拘束拉致ベルリンへの「強制送還」になったそれをスウェーデンの新聞雑総はが

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以後ナチスドイツに送り返された崎村がどうなったかはドイツ外務194797史料館所蔵のドイツ政

府と征独Ⅱ本大使館の交渉ファイルや現地捌在から「インテリジェンス」論文に犯した皿りで川本

人仙飢による奇妙な身柄拘束軟恭聴視が州K年孔川ドイツ敗戦まで続いた中剛での崎村の波

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ショナル系列の共産主義運動があるのではと疑ったが彼は「第二インター系統」の社会民主主義の

方だから人丈夫だというまことに川本的治安維持法的な発想のおかげで崎村茂樹の生命は助か

った小愉の問いはここから始まる「インテリジェンる論文を発表後ドイツ現代史の専門家であ

る水ル消彦氏から新たな价棚が術せられた内分が挑んだヴィリプラントの北欧亡命期の川想巾

にドイツの川本大使館から逃げてきたH本人のことがでてくるそれが「インテリジェンス」鮒文

にある崎村茂樹ではないかというのであるそしてそれは永井氏も佐藤優氏とは別に職時在

独Ⅱ水火仙鮒の生き柾人吉野文六氏に問い合わせⅢ通いないものと確縄された

一九四rsquo四四年当時のストックホルムにはナチスに追われたり戦場占領地から避難した世

界の社会災抜主錠者が多数滞在していたその中心はドイツ社会民主党の亡命者組織でありそ

こから「ストックホルム民主主義的社会主推祥のインターナショナルグループ」が生まれた支扱

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それは戦後ヨーロッハ統合と福祉国家いや戦後阯界の「民主主義的な社会主義」「差異のデモク

ラシー」の行方にも大きな意味を持った

中心的指導者は亡命巾のドイツ社会民主党貝ジャーナリストヴィリプラントでありナチス

敗北後関ベルリン市長から西ドイツ筒相までのばりつめた一九七一年のノーベル平和賞受賃者で

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この組織を共に担ったⅢ友のユダヤ系オーストリア人ブルーノクラィスキーは戦後オーストリ

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亡命時代の「峨友』プラントが西ドイツで竹川になったころだった

仙界から亡命社会民北主錠将を受け入れ支扱したホスト役はスウェーデン社会民主労働党側のな

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合まれていたそこにカールグンナーミュルダールとアルバラィマルミュルダール火斐の

船がある夫のカールは当時ストックホルム商科大学の経済学荷で戦後は通商大臣を務めたストッ

クホルム学派の瓶鎮で一九七四年にフリードリヒハィエクと共にノーベル維済学賞を受徹した

菱のアルハもスウェーデン福祉政筑の椎進者でユネスコや国迎軍縮会識で活鍬した一九八皇年

にはノーベル平和徴を受賞し夫と共に終生世界平和の提唱者牽引者となった

そこでは戦後社会民主主鍵労働巡勁の間際組織再建(社会主錠インターナショナル)スター

リン率いるソ連と共産主義への態度戦後国際金融経済秩序や植民地支援の194797想信教の自由と国際

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ヴイリプラントと社会災脱稚義「小イン投Iナショナル』を細ぺるにはドイツに赴くしかない

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こで淵時の肥鍬を閲鷺したが新しい発見はなかったその代わり今Ⅲ北欧社会民主狼捉の脈史

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Iosect冨品》ぐの『層潔呂の馬駕二段頁昌電毎)またウィーン入学図書館で一九四三年に崎村茂樹と笠備太

加齢郎がウィーン大学での講減会に棚かれたがドイツ政府により許可されなかった記録が見つかった

鍵もっとも私の主要な関心は当時の米国OSSヨーロッパ総局長スイスのアレンダレス(戦後

隙CIA股禰)の戦時諜報ネットワークが「亡命」Ⅱ本人崎村茂樹との接触と共にストックホルムの

巡胸蝿社会民推服錠国際組織にまで及んでいたかどうかにある

郷川本で社会主鍵の刷際辿幣といえば通端「鉄の規神」で結ばれた共産主義のコミンテルンコミ

ンフォルム系列がイメージされる私側身もその系列の歴史と「ソ辿邦防衛」が百人近いⅢ本人瑚

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面識もあったことをまた当時のスウェーデン政府大蔵次官スウェーデン銀行総裁ダグハマー

ショルドとも会っていたらしいこともハマーショルドは国連事務総長時代の一九六一年コンゴ

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いたったであろう(言与国日冨昌トミ爾震ミ寺鼻一電冨雲釘馬事罵鴬西冒豐旨Q9冒罵》閨い塁肝

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ヴイリプラントの回想

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そしてこの小規模だが密度の濃い国際社会民主主義の亡

命者組織の例会にただ一人アジアからしかもナチスの同

盟国日本からの亡命者が顔を出した崎村茂樹である一度

だけのことと思われるがよほど印象に残ったのかノーベ

ル平和賞受賞後のヴィリープラントは回想に書き残した

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120生命jj(IIIIMWRM)社会民主主役の旧隙連帯と121

[参考文献]

加藤哲郎『倒境を越えるユートピァー佃民脚家のエルゴロジー』平凡社二二年

加藤哲郎『怖報戦と現代史l日本国惣法へのもうひとつの道』花伝社二七年

二年)

しかしナチスに追われ「亡命」したのはユダヤ人や共産主義者ばかりではない第二次世界人

戦期には社会民主主義者も自由主義春も故旧を追われ世界に分散して緩やかなネットワークを保

っていたストックホルムの「小インターナショナル」もその一つでそこでプラントやミュルダー

ル夫斐がナチズム打倒後の世界を構想していたそれはヨーロッパ統合や平和共存国際通貨体制

貧困国開発援助「持続しうる地球」に連なるものであったに違いない共産主義の「現存した社会

主義」亡きあとそれはある極の社会主義の生命力をぷす邪例でもある

そしてその生命力とは北欧社会民主主推の柵祉脚家に代表される制度設計政策体系はもちろ

んであるが崎村茂樹のような無弔のⅡ本人を「スハイ」と疑うことなく受け入れその後の運命を

心配するような人間へのまなざしとネットワークの開放性「差異のデモクラシー」であった西

欧社会民主唯義の「原子力」観についても「小インターナショナル』関係稀からなんらかの示唆が

得られないか私の探求の旅はなお道半ばである統背の情報提供を再度お願いする(盲目愚

勇墓曇色b『〕も雷まで)

加藤竹郎今井将奴神山仲弘細『挫拠のデモクラシー』Ⅲ本経済評総社二一年

川臘価郎小野一川巾ひかる珈祁孝川細『側艮旧家の境界』旧水経済押鱸社》o一年

加藤価郎冊野洲人細『民碓主錠平和地球政治』Ⅱ本綴済排総社6一年

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年)『近代日本の政治学行群倣--政抽概念抽争をめ〈って』(勁草書房2001年)『Iリl論l却家の拙本柵避術i剛l腿primekのプレリュード』(法抑文化社2002年)『Iリl始鬮説と瑞術典祝』(1bllllトI200II)TIリ1泊維新の思想』(成文堂2005年)『大東猟liMhIWIの蚊捕学』(成文イM2()O7年)rⅡ本の政治文化』(勁草諜腸2008年)rll本政油学の先駆lfj(成文lsquo戦2011年)ほか田中治男(たなかはるお)1935年京都府生まれ束戚大学大学院法学政泊学研究科椰士課程修了成隈大学名汁教授政治思想史呼攻佛杵に『フランス自由主義の生成と展開--l九世紀フランス政流思惣研究』(蝿順大学川版会1970年)『近代政治思想史(4)---産業化と大衆時代の政治思想』(イI斐閣1978年)『西欧

執錐考略服

田中浩(たなかひろし)1926年佐賀鼎生まれ東求文理科大学哲学科卒現在型学院大学大学院教授楠大学躬俳教授政治思想史専攻著菩に『是谷川如雌閑研究序鋭』(未来社1989年)『カールシュミットー魔性の政治学』(未来社1992年)『〔改ir卿補飯〕ホッブズ研究序説一近代掴家趙の生誕』(御茶の水縛脚1994年)『〔新版]l司家と個人一市民碓命から現代まで』(珊波紳店2rdquo8年)ほか典択井にトマスホップズ『リヴァイアサン』(河川稗勝斬11966年)カールシュミット『政治的なものの概念』(未来社1970年)クーペルスカンデル細『EU時代の到来一ヨーロッパ柵祉社会社会lも1sectl錘』(未来社2m9年)THグリーン『イギリス峨命礁蕊一クロムウェルの此和I珂』(未来社2011年)ほか「IIIIII溌築j(f1巻未来社)刊行ln森臣広(しげもりたみひろ)1959年北海迦生まれ111央人学大学院法学研究科1I後期過醐中退現イl立命航大学政爾科学部教授政論思想史専攻此特許に八脚j倣椴rdquordquoノldquo他岫幽eqf彫IM1ksqノセタ施yBef加加(ChuoU1】iversityLibmry1989)択緋にトマスホッブズ『竹学者と法学徒との対船--イングランドのコモンロ-をめくる』(共択鰐披文叩2002年)リツーャードタツ

繩縦政鰐魏職(辮陶鞭W9)ト賢二泌端芽一キン『政治思想のなかの女-その西洋的伝統』(共訳蝦ldquordquo2010年)ほか行安茂(ゆきやすしげる)1931年岡山鼎生まれ1K島大学大学院文学研究科博士課程修了岡山大学洛誉教授倫理学専攻符勘に『トマスヒルグリーン研究-その思想形成と哲学」(理紐社1974年)『デューイ倫理学の形成と展開』(以文社1988年)『近代Ⅲ本の思想藻とイギリス理想主義』(北樹出版27年)ほか錨著岱に『THグリーン研究』(御茶の水書厨1982年)rHシジウイク研究---現代正錠抽への道』(以文社1992年)ほか大塚桂(おおつかかつら)19釦年神奈川鼎生まれ日本大学法学部卒業現在駒椰大学法学郁救授政治思想史国家強専攻蕃密に『政治学原強序説--政治における制腿と行動』(勁蛾緋脚1rdquo4年)『多元的国家強の展開一原鋼瑠崎卯--をめぐって』(法律文化社1999年)『多元的国家讃のI附辺』(1fill1I20IX)

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加重哲郎(かとうてつろう)1947年岩手県生まれ東j(入学法学部小粟現イIsectIL稲1II大学大学院政治学研究科群間敬授橘大学瑞俳牧授政論学呼攻符蒋に『象徴天皇制の起源一アメリカの心即戦「1Mfi111djj」(平凡社新鶴2005年)『梢報戟の時代一インターネットと劇埋政論』(花仏社2()07年)『ワイマール期べルリンのH本人---洋行知織人のj叉術オツトゾーク』(淵波野店2008年) ぜ _

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社会民主主義の国際連帯と生命力rsquo九四四年ストックホルムの妃録から

加藤哲郎

私はいまや世紀を生きたあるⅡ本人の軌跡を迫って英禍及びH本語のホームページ「ネチズ

ンカレッジ』で悩側提供を呼びかけている瑞前を「崎村伐樹(さきむらしげき)」という

吸鼎で一九九年に生まれ一九八皇年に没した戦ⅢH本で東京帝国大学農学部柵師(農典輔衲専

攻)であったからいくつか学術絢文はある戦後も棚舳大学教授塞恥理科大学敬授をつとめ野

時としては雌先端の正業特許や知的所何椛の研究牧行にたずさわったからその方面で知っている

人はいるかもしれない那岬学の天才でもあった経済学の師は戦時東大経済学部ファッショ化の一塊

を担う荒木光太郎教授であったがドイツ冊は丸山填捌と同じく当時反ナチスで知られた上智大学

ヨハネスクラウス神父に学んだ

とりあえず研究者としての崎村茂樹の概捜とがしておこう以下の資料収築とリスト作成にあた

l崎村茂樹という経済学者を知りませんか

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リベラルデモクラシーとソーシャルデモクラシー

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崎村茂樹著作論文一覧三三年三一月現在箪者作成)

一九三三年「満州必揺呼物の銀箇金川満紙済発鵬の視点に虻ちて」(『農鎚繩澗研究』鋪九巻旧呼)

一九三五年「農家負仙問題の検肘」(府政繩滴川細』靹砥八冊)

一九三六年「アメリカ銀政簸の発鵬」(呵蚊騨滴胸側』朔瀞巻ザ)

「アメリカ銀政飛の本賀と意錠」(「束蝉鋪八巻し壁

一九三七年「オーブンマーケットオペレーションの矛斫」(一外交時報一節七七七妙)

般信用理論に於ける紺合偏川の地位」(「艦艇報涜研究』第言恐厚)

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ヨハネスラウレス背『スコラ学派の街幣描』(翻訳称挫幽

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一九三八年『紺介フリッッノィマルク『細澗政簸の新しきイデオロギー筐(「職砿膳蕊』城八秒隅堕

っては前ベルリン日独センター調査部災桑脈節子氏京都大学文書館助教福家崇洋氏にご協力いた

だいたこのほかの著作倫文ないし消息をご存じの方はぜひ繁者(冨目愚ご胃号)まで連絡し

てほしい

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研究」節似巻吟)

『北支農村経済の蒲問題」(『北支課済側発の根本間狸江苔睡

「北支の幣制と農民経済」(雨脚農会飢節八巻九甥)

一九三九年報告「邪炎下の農業間剛を主魁し」して」(「木脇学研究細借』節兀細職虹子)

「腿紫政簸の社会価学的雄礎付けへの拭み(此の12)」(『愈畷勝』輔服巻皇l佃砂)

民族主錐と膿民」(rdquo工訓ノミスト』弧卜慰パリ)

『北支の食綱問題」雁雌にて『典臘蔽幣嘩》り)

『労働政筑としての股業政飛三厘粟と紐逝珊ハ瞥一菫号)

一九四年「H本農業技術の発展に関する覚茜(「農政節蓉八号)

「朝鮮農民の内地磯村定蒲」(晃陛踊懇八曇

「稲作に於ける中耕Ⅱ除草技術の発腱過程」(「農梁組済研究」節一六警一量

「北支の食縄問題」東畑秘蒋『米』中央公論祉付壁

「北満における小作形態の汚察」(近蠅砿叫抽湧『雌懲壁附上還暦聾臘業羅衲学強鰻』H本斑鐡祉)

一九四一年「閥印に於けるプランテイションと耕力政簸の問題」(『駈臨細雌」節三巻一号)

「側箪公社と燕聡蝦細符」爾油肥雌犀薬拠叩」恥四蓮ハリ)

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ドイツ語著作

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本経済の岬細成』(巾央公識社一九九年)を想起させる総じて理論細介実証分析が多くなんらか

の思想的立場方法的一俄性は見出しにくいこれらの学術的仕事からの「社会民主主義」への接近

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一九五七年「EPUと通貨交換性」(「止押耗滴錨集」節一巻g

「経営パートナーシャフトについて」(屈殖火叢罵』蕊一五号)

フリードリッヒスゴーセンス著『アメリカにおける利潤分配の実際西ドイツの訪米

視察M報告書』葡訳佃従狼魔性本部)

「公正賃金とパートナーシャフトー附独の労使協凋はいかに行われているか三癒済縦

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一九六年「特杵ライセンス研究序脱アメリカの反トラスト法との側迎において」(「妬欲火学抽鯉鯏

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は離しい

しかし

しかし崎村茂樹の生涯を追いかけていくと社会民主主義との奇妙な接点が見えてくる以下は

むしろ水苫を通じて梢報提供を求めるための崎村茂樹が節二次世界大職巾のストックホルムで接触

した社会腿脱瓶雑「小インターナショナル」についての覚え背きである

このリストから本諜のテーマである「ソーシャルデモクラシーⅡ社会民主主義」との関係は

崎村茂樹

政論学者で現代政治現代史を「情報戦」の観点から研究してい

る私が関心をもつのは経済学者としての崎村茂樹の業紬や生涯で

はない輔其次仙界大戦期及び戦後占領期の国際情報戦のなかで彼

が果たした数奇な役削である

2戦時在独日本大使館からの「亡命」者崎村茂樹

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それは第一に崎村が第二次世界大戦中の一九四一丁四四年にベルリンの駐独日本大使館砺託で

ありながら中立国スウェーデンに「亡命」し岬時の「rsquo一ユーョークタイムズ」「タイム」等連合

国側メディアで「初めて連合国に加わろうとしたH本人」「枢軸国の敗北を初めて公言したR本人」

と報道された希有な体験の持ち主だからである

箪疋崎村は一九五年には中国雌命直後の北京に住んでおり中国側の資料と当時の日本で

の報道によれば「毛沢東暗殺未遂耶件」に関わったとされる点である

これまで判明している崎村の生涯はおおむね以下の通りである

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一九九年東京に生まれる聞知商等学校珊科乙麺から東京帝大農学部農業綴済学科卒業

rsquo九川六年柾中側災聯米個領耶航に汕択経済分析柧叫で勤務

一九四八年在北京米閣総傾邪飢勤務側北京陥藩米側大使館台漉移維後も北京に残制

一九班年建国世後の中蛾人民共和岡で「米岡経済川牒」として速揃され禁間刑側本では「毛沢

東陥没未遂邸件」に迎座と報道される(「師新聞』几肚rarr年八川rarr輯H)日本の留守家族はこの報道

で初めて崎村茂樹が職後に生きていた澗息を知る

一九正近年拘束を解かれ中国から婦国矢部貞治学壁に調われて拓殖大学経済学部教授

一九Lハー年n本鉄鋼統制会ベルリン事務所時代の上劔八幡製鉄島村哲夫常務に誠われ八幡製鉄嘱

託東京理科大学教授(工業特諦柧当)ただしドイツスウェーデン中国での一五年間の体験に

ついては婦国後家族にもほとんど語らなかった

一九八二年食道ガンで死去

だが崎村茂樹の生涯は謎だらけであるご適族も一九四一年の訪独から五五年の巾伺からの

州仙までの「究白の一通年Ⅲ」について排しいことを知らない私のホームページ「ネチズンカレ

ッジ」には「崎村晩樹の六つの謎」がかかげられ現柾も椚報提供を求めている(言【旦菖勇曽二台

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もともと崎村茂樹というⅢ本人の存征を私が知ったのは》六年叉のことであるドイツのベ

ルリン映剛岬物館から冊独関係史研究を共鵬ドイツ締で発表してきた数人のH本人研究背に宛て

て発せられた三通の唯rメールからであった

それによるとドイツ統一後のベルリンの象徴として作られたポツダム広場の映側博物館が刊行し

ている映卿人シリーズに戦後西ドイツの特糸な女流映画評論家であったカレーナrsquo一Iホップ

(昏罵冨画z菖昌』sect-一雷)の評伝が加えられることになったユダヤ系ドイツ人である彼女の戦時遺品

巾に彼女が一九州《rsquo四剰年にⅢ本鉄鋼統制会ベルリン珊箭所に勤務しユダヤ人川食蜘配給券の

偽迭でナチスゲシュタポに検挙されたさい征独Ⅱ本大使館咽託でH本鉄鋼統制会ベルリン州務所

のアナリストである「崎村茂樹」というⅢ本人の奔走と助命喚願書で生命を救われ戦後に生き残る

ことができたという資料があるその「崎村伐棚」とは何者かを知りたいという問合せであった

洲時ベルリン映画博物鯨から連絡を受けた一機大学勤務の私東京大学継済学部石兇徹教授成

城大学法学部棚嶋僧雄教授ら七人で「崎村茂樹探索ネットワーク」を作り私の個人ホームページ

「ネチズンカレッジ」を使って世界中に情報提供を呼びかけた即座にさまざまな梢報が寄せられ

崎村家ご辿族や東束大学磯学部関係好からもある報喚の愉報が集まった

カレーナニーホッフの梛仏は一七年一川に刊行された崎村の同臘圃H本大使館側の地位

を利川した一九側堂年が叫時の助下1質ャ人女性カレーナニーホッフヘの助命蝋噸併を背いて

の救援はカレーナ自身が戦後に生き残り峨願沸緬や写典を磯したことにより那爽と腿められた

ミルリンの「シンドラーのリスト」「もう一人の杉脈千

①蒲き崎村麓樹はリベラル左派だったのか親ナチ右派だったのか

②崎村茂樹はなぜスウェーデンに「亡命」したのか

③崎村晩樹の一九四玉I川四年「亡命」は迎合側班との「和平正作」を意味するか

④いったん『亡命」した崎村肱樹はなぜベルリンに戻りドイツ敗職をいかに迎えたか

⑤二九叫丘年Ⅲドイツ敗戦で崎村腿樹はなぜⅢ本に戻らず中国に向かったのか

⑥一九W血年九州以降崎村此樹はなぜ中側に幾り何をしていたのか

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3崎村茂樹のユダヤ人救出とスウェーデン「亡命」

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ただし当初想定したストーリーは狂ってきた私たちは崎村のユヌャ人救援がナチスのゲシ

ュタポににらまれ監視される理山となり在独Ⅱ本大使館の狂信的親独派大島浩大使との関係が悪化

してストックホルムに「亡命」したと考えたのだがどうもこの件で崎村茂樹が処分されたり大使館

に厨つらくなったという形跡はなかった川當年九月のスウェーデン行きは鉄鋼統制会アナリスト

としての「川搬」名目であった

私たちの何人かはドイツスウェーデンの現地調在を行ないドイツ連邦公文曹航外務省史料

航やカレーナrsquo-1ホップ家に残された崎村関係簡料の収無当時の現地新聞妃耶やベルリンスト

ックホルムの住所群橘先の捌在インタビューを進めたあわせて探求を四孔年五月ドイツ敗職

時の崎村のベルリン脱川シベリア鉄道綴曲の満州側への人卿Ⅱ本敗戦後長祥での残刷職後内職

期中国砿命時の活動へと広げていったその中川報告は二七年三月早稲田大学二世紀メ

ディア研究所の公開辮演会で評論家佐藤優氏と共にハワーポイント原稿で行ない「インテリジェン

ス」蝋九号に屑報職のなかの層愈人l鼎定洞から崎村茂樹まで」と題して雲した

(二七年勇言胃壽cョ名畠畠凰辱8昌冨5国囲冨目日言己)

「インテリジェンス」論文発表後公開識減会で一緒に報告した佐藤優氏がそれまで全く証言の得

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らに米国倒立公文譜館(NARA}所厳で現在ではH本の掴会図書館等でも閲覧可能な連合砿押収文

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中央附州脚CIA)に秘かに紀録され枢軸国ドイツ川本側は否定し沈黙してきた「在独側本大使館側

のスウェーデン亡命と連合側との接触」が史実としてⅢ迎いないものとなった

ところがそれでは終わらなかった「崎村茂樹問題文書」など新たに発見した資料で崎村の

「亡命」の事実関係はかなり明確になったが肝心の「亡命」の動機がはっきりしないのである以

ドは「インテリジェンス」論文のその後の研究にもとづく改訂を兼ねた一九四三年九月ストックホ

ルムでの崎村の「亡命』から四四年五川ベルリンへの強制送還までのスケッチである

崎村娩樹のスウェーデン人凶は一九四三年九七冊で計画的な「亡命』ではなかった前述の

4戦時中立国スウェiデンで亡命者を助けた社会民主主義

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ところが三九四幽年f川崎村の学究的「亡命」生活は職時ヨーロッハの愉報職腱渉き込まれ

中断を余催なくされるきっかけは「インテリジェンス」絢文で細介した「ニューヨークタイム

ズ」一九W四年瓜Ⅱ一Ⅱ付妃叩『Ⅲ本人が大使伽から脱走」「タイム」総六円近日号『抵抗の方法』

という米側メディアの撒遊ではなかったそれは笑側の新聞と戦時の大衆江伝メディアであるラジ

オでのロイター砿報通だった「ニューヨークタイムズ」妃耶はロイター芯をもとにしたものだ

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郎雌Iメール』ラルフヘーウィンス特派uがドイツⅡ本の耶悩を執兼してほしいと崎村の淋伏

竹伽先に現われた「亡命」巾とはいえ平隠な学究生活を蝿む崎村は耐絞はしたものの反ナチ愉文

j命の執縦依頼を断った

畦ところがその而縦が「デイリーメール」肛川Ⅱ付の「H本人外交Wがベルリンから逃亡して

1馳縦る」「束條の部下から迎合岡へのアピール」というセンセーショナルな妃邪になるロイター砿で

の世界に配帖されラジオでも放送されたためリスボンの在ポルトガル陸耶武官室や伺阻通備のヨー

印槌剰ロッハ特派側網もスウェーデン政府と在独n本大使館に問い合わせ本格的捜索に動きだす

秘スウェーデン脚本公使館陸瓶武樹小野寺信と同盟通信ストックホルム特派員斉藤正明が崎村の隠れ

家をみつけたらしく崎村は『デイリーメール」記者の狸造記事であると否定したが弁明を迫ら

社rsquoれたナチスのドイツ通偏(DNB)での反論ラジオ悉組がただちに組まれ五月五日にはドイツの新

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ょぅに当初は日本鉄鋼統制会の公務出狼を兼ねた休暇名目で入ったらしいところが九月一日読

売新聞ストックホルム特派員蝉野満洲雄がベルリンに転勤するにあたっての現地日本人による壮行連

動会に参加し偶発的な事故で足の催我をしたそこで入院した病院でレクターサンドベルグ

(rdquo月ざ『勺『mgQg員)というスウェーデン人教師と同霊になったすぐに親しくなり空襲のベルリン

には戻らずスウェーデンに滞在することを勧められ当時ストックホルム大学識師でスウェーデン社

会民稚労働党思想誌「弓昼目」縞集長だったトルステンゴルトルンドが率いる反ナチ知識人亡命者

支援組織に組み込まれた四三年一二月初めからスウェーデン日本公使館にハスポートを取り上げ

られた状態のまま「亡命」生活に入り行方をくらました

一九餌凹年一月には日本外務省嘱託を解任されたが約五人のスウェーデン人一人のドイツ

人人のノルウェー人の支援を受け労働市場調在の仕事も紹介された崎村は戦火を離れ森

と湖に川まれたストックホルムで同年識の経済学行ゴルトルンドや先にドイツから亡命していた

ドイツ社会民主党(SPD)在外ネットワーク組織汁であるユダヤ系教育学者フランッモクラウアー

らの庇俄のもとドイツ語で一九四隼に刊行した『日本経済の新編成』に続く一耐の本『日本の

腱業経済』『H本経済史』を準備していたという

ベルリン日本大使館とストックホルム日本公使航はこの間崎村の行方を捜し求めていたまた

ナチスのゲシュタポとスウェーデン警察それに連合国側の英国情報機関MI6米国悩報機関OS

Sも職時在独日本大使館員の中立国スウェーープンへの「亡命」に注目し秘かに追っていた

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戦後まで生き残り得た理由の一つとなった

一九四四年ⅢⅡ二八冊在独内務邪務耐佐藤彩1は「崎村事件に関する調書」を作り六月一日付

で崎村茂樹は「今回ロイター耶件は其の波紋極めて火きく全く恐縮に堪えず」という「誓約響」を醤

かされた東京の外務省本省参諜本部にはおそらく迎絡されないまま在独日本大使館内で一件落

着がはかられたすでに日本への公篭連絡さえ側雌になった欧州戦線の通信事情もあるが日独同盟

に慨をつけない配虚であったろう

その過程で内務省の佐藤彰三鉄鋼統制会蹄村価夫スウェーデンの陸軍武官小野寺傭同盟通

偲斉藤正恥らの間で崎村の「亡命」を大小にしないための筬略が練られたポイントは崎村「亡

命」時の生活徴の出所(スポンサー)それに崎村の左翼迦動思想歴第三インターナショナル

(共廉脆捉インターコミンーブルンrarr九一九rsquo四年)-との関わりだった

戦時ヨーロッハのⅢ本人特派員の多くは派遮先取材祁手や在外日本人の思想動向を探る諜報員の

役割を果たした斉藤特派員が佐藤彰一一larrにあてた崎村の身上調書が「崎村事件に関する調書」に付

されているそれによると崎村は「初歩的な唯物論の把握」はあるが左翼思想連動歴はなく

「亡命」先のストックホルムでも「第三インター系には現在まで何等交渉なし」スウェーデンの亡命

者支援組織から月一五クローネはどの援助を受けていたがそれは交友関係を含め「第二インター

系統」であるから心配ないむしろ崎村を謹慎させたうえで彼の学識を今後も日独枢軸国の勝利の

lデンの社会民主主義の活動家たちだったじつはこのことが崎村茂樹が「大逆罪」に問われず

剛にも『崎村教授は英米に利川された」という否定記邪が掲峨されたナチ党にとっても砿大耶件だ

ったらしく一九四四年五川初めの『ゲッペルス旧記』には三回も「崎村教授の珈件」が出てくる

ドイツの外筋衙ゲシュタポからは「束唯のゾルゲ邪件への報復」(ドイツ国繍の「ゲルマン人」

であるゾルゲ検挙裁判への膜発)として崎村の身柄引き渡しが漉求され在独日本大使館でも「大

逆卯」の声があがったがどうやらMⅢ皿僻芥藤特派側と鉄鋼統制会ペルリン耶務所奨励村哲夫が脱

得役になり征独内防術州務所休雌彪とベルリン総械耶鯉水太郎がストックホルムに赴いて正月却一

川崎村を拘束拉致ベルリンへの「強制送還」になったそれをスウェーデンの新聞雑総はが

典入りで大々的に扱い「タイム」総六川ⅡⅡ号の紀珈に繋がった

以後ナチスドイツに送り返された崎村がどうなったかはドイツ外務194797史料館所蔵のドイツ政

府と征独Ⅱ本大使館の交渉ファイルや現地捌在から「インテリジェンス」論文に犯した皿りで川本

人仙飢による奇妙な身柄拘束軟恭聴視が州K年孔川ドイツ敗戦まで続いた中剛での崎村の波

淵Prime丈についてはここでは行略する

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村茂樹の戦時スウェーデンE命」を支扱し生活手段まで面倒を見ていたのは中立国スウエ

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ために使うべしというものであった

つまり在独日本大使館も在スウェーデン日本公使鮒も崎村の「亡命」の背後に第三インターナ

ショナル系列の共産主義運動があるのではと疑ったが彼は「第二インター系統」の社会民主主義の

方だから人丈夫だというまことに川本的治安維持法的な発想のおかげで崎村茂樹の生命は助か

った小愉の問いはここから始まる「インテリジェンる論文を発表後ドイツ現代史の専門家であ

る水ル消彦氏から新たな价棚が術せられた内分が挑んだヴィリプラントの北欧亡命期の川想巾

にドイツの川本大使館から逃げてきたH本人のことがでてくるそれが「インテリジェンス」鮒文

にある崎村茂樹ではないかというのであるそしてそれは永井氏も佐藤優氏とは別に職時在

独Ⅱ水火仙鮒の生き柾人吉野文六氏に問い合わせⅢ通いないものと確縄された

一九四rsquo四四年当時のストックホルムにはナチスに追われたり戦場占領地から避難した世

界の社会災抜主錠者が多数滞在していたその中心はドイツ社会民主党の亡命者組織でありそ

こから「ストックホルム民主主義的社会主推祥のインターナショナルグループ」が生まれた支扱

するスウェーデン社会民主労働党貝を含め岐大時両人にも満たない小さな国際連帯組織輌溜「ク

ラィネインテルナッィォナーレ』爪インターナショナル』)であつたがドイツオーストリアポーランド

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イギリスアメリカなどからストックホルムに「平和」を求めた社会民主主義者たちが集っていた

それは戦後ヨーロッハ統合と福祉国家いや戦後阯界の「民主主義的な社会主義」「差異のデモク

ラシー」の行方にも大きな意味を持った

中心的指導者は亡命巾のドイツ社会民主党貝ジャーナリストヴィリプラントでありナチス

敗北後関ベルリン市長から西ドイツ筒相までのばりつめた一九七一年のノーベル平和賞受賃者で

ある{プラント『畷Iレジス典ンス』蝋胤祉兀しf一

この組織を共に担ったⅢ友のユダヤ系オーストリア人ブルーノクラィスキーは戦後オーストリ

アで外交Wとなり永世中立国の地位をⅢ拠初のオーストリア社会党政楡の首相となるちょうど

亡命時代の「峨友』プラントが西ドイツで竹川になったころだった

仙界から亡命社会民北主錠将を受け入れ支扱したホスト役はスウェーデン社会民主労働党側のな

かのⅨファシズム側隙主義新たちである巾血悩スウェーデンの知識人や国際活動の経験肴が多く

合まれていたそこにカールグンナーミュルダールとアルバラィマルミュルダール火斐の

船がある夫のカールは当時ストックホルム商科大学の経済学荷で戦後は通商大臣を務めたストッ

クホルム学派の瓶鎮で一九七四年にフリードリヒハィエクと共にノーベル維済学賞を受徹した

菱のアルハもスウェーデン福祉政筑の椎進者でユネスコや国迎軍縮会識で活鍬した一九八皇年

にはノーベル平和徴を受賞し夫と共に終生世界平和の提唱者牽引者となった

そこでは戦後社会民主主鍵労働巡勁の間際組織再建(社会主錠インターナショナル)スター

リン率いるソ連と共産主義への態度戦後国際金融経済秩序や植民地支援の194797想信教の自由と国際

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動乱時に蝋行機那故で亡くなる死後にノーベル平和衝が授与されたから「亡命巻」崎村伐樹のま

わりから職後孔人ものノーベル賞受枇粁がⅢたことになる

ヴイリプラントと社会災脱稚義「小イン投Iナショナル』を細ぺるにはドイツに赴くしかない

ボンのドイツ社公民柑党フリードリヒエーベルト財Ⅲにヴィリプラントアーヵィヴがありそ

こで淵時の肥鍬を閲鷺したが新しい発見はなかったその代わり今Ⅲ北欧社会民主狼捉の脈史

的研究で知られるクラウスミスゲルドの学問的脱点が彼の卿士論文での「クラィネインーアルナ

rdquoツィォナーレ」の研究だったことがわかった(屋画雇いで扁帰江胃蓉鳥昌言E奇昌胃号ミミヘミミ

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Iosect冨品》ぐの『層潔呂の馬駕二段頁昌電毎)またウィーン入学図書館で一九四三年に崎村茂樹と笠備太

加齢郎がウィーン大学での講減会に棚かれたがドイツ政府により許可されなかった記録が見つかった

鍵もっとも私の主要な関心は当時の米国OSSヨーロッパ総局長スイスのアレンダレス(戦後

隙CIA股禰)の戦時諜報ネットワークが「亡命」Ⅱ本人崎村茂樹との接触と共にストックホルムの

巡胸蝿社会民推服錠国際組織にまで及んでいたかどうかにある

郷川本で社会主鍵の刷際辿幣といえば通端「鉄の規神」で結ばれた共産主義のコミンテルンコミ

ンフォルム系列がイメージされる私側身もその系列の歴史と「ソ辿邦防衛」が百人近いⅢ本人瑚

社リー洲に州紬した悲劇を追いかけてきた(加懲『脚鯉を趣える11トピァー圃鵬側潔のエルゴ画ジー』鼎凡祉ライブラリ-

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ルダールと一緒にノーベル経済学賞を受賞する脱理的自由主義背ハイエクの日本への紹介荷の一人で

面識もあったことをまた当時のスウェーデン政府大蔵次官スウェーデン銀行総裁ダグハマー

ショルドとも会っていたらしいこともハマーショルドは国連事務総長時代の一九六一年コンゴ

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航で仕邪をしていたがわれわれを見つけだした川本の秘密警察が彼を迫っていたので彼は

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いたったであろう(言与国日冨昌トミ爾震ミ寺鼻一電冨雲釘馬事罵鴬西冒豐旨Q9冒罵》閨い塁肝

油啄氏捌仙)

ヴイリプラントの回想

法砿縮と世界平和の将来が討論されていた

そしてこの小規模だが密度の濃い国際社会民主主義の亡

命者組織の例会にただ一人アジアからしかもナチスの同

盟国日本からの亡命者が顔を出した崎村茂樹である一度

だけのことと思われるがよほど印象に残ったのかノーベ

ル平和賞受賞後のヴィリープラントは回想に書き残した

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120生命jj(IIIIMWRM)社会民主主役の旧隙連帯と121

[参考文献]

加藤哲郎『倒境を越えるユートピァー佃民脚家のエルゴロジー』平凡社二二年

加藤哲郎『怖報戦と現代史l日本国惣法へのもうひとつの道』花伝社二七年

二年)

しかしナチスに追われ「亡命」したのはユダヤ人や共産主義者ばかりではない第二次世界人

戦期には社会民主主義者も自由主義春も故旧を追われ世界に分散して緩やかなネットワークを保

っていたストックホルムの「小インターナショナル」もその一つでそこでプラントやミュルダー

ル夫斐がナチズム打倒後の世界を構想していたそれはヨーロッパ統合や平和共存国際通貨体制

貧困国開発援助「持続しうる地球」に連なるものであったに違いない共産主義の「現存した社会

主義」亡きあとそれはある極の社会主義の生命力をぷす邪例でもある

そしてその生命力とは北欧社会民主主推の柵祉脚家に代表される制度設計政策体系はもちろ

んであるが崎村茂樹のような無弔のⅡ本人を「スハイ」と疑うことなく受け入れその後の運命を

心配するような人間へのまなざしとネットワークの開放性「差異のデモクラシー」であった西

欧社会民主唯義の「原子力」観についても「小インターナショナル』関係稀からなんらかの示唆が

得られないか私の探求の旅はなお道半ばである統背の情報提供を再度お願いする(盲目愚

勇墓曇色b『〕も雷まで)

加藤竹郎今井将奴神山仲弘細『挫拠のデモクラシー』Ⅲ本経済評総社二一年

川臘価郎小野一川巾ひかる珈祁孝川細『側艮旧家の境界』旧水経済押鱸社》o一年

加藤価郎冊野洲人細『民碓主錠平和地球政治』Ⅱ本綴済排総社6一年

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年)『近代日本の政治学行群倣--政抽概念抽争をめ〈って』(勁草書房2001年)『Iリl論l却家の拙本柵避術i剛l腿primekのプレリュード』(法抑文化社2002年)『Iリl始鬮説と瑞術典祝』(1bllllトI200II)TIリ1泊維新の思想』(成文堂2005年)『大東猟liMhIWIの蚊捕学』(成文イM2()O7年)rⅡ本の政治文化』(勁草諜腸2008年)rll本政油学の先駆lfj(成文lsquo戦2011年)ほか田中治男(たなかはるお)1935年京都府生まれ束戚大学大学院法学政泊学研究科椰士課程修了成隈大学名汁教授政治思想史呼攻佛杵に『フランス自由主義の生成と展開--l九世紀フランス政流思惣研究』(蝿順大学川版会1970年)『近代政治思想史(4)---産業化と大衆時代の政治思想』(イI斐閣1978年)『西欧

執錐考略服

田中浩(たなかひろし)1926年佐賀鼎生まれ東求文理科大学哲学科卒現在型学院大学大学院教授楠大学躬俳教授政治思想史専攻著菩に『是谷川如雌閑研究序鋭』(未来社1989年)『カールシュミットー魔性の政治学』(未来社1992年)『〔改ir卿補飯〕ホッブズ研究序説一近代掴家趙の生誕』(御茶の水縛脚1994年)『〔新版]l司家と個人一市民碓命から現代まで』(珊波紳店2rdquo8年)ほか典択井にトマスホップズ『リヴァイアサン』(河川稗勝斬11966年)カールシュミット『政治的なものの概念』(未来社1970年)クーペルスカンデル細『EU時代の到来一ヨーロッパ柵祉社会社会lも1sectl錘』(未来社2m9年)THグリーン『イギリス峨命礁蕊一クロムウェルの此和I珂』(未来社2011年)ほか「IIIIII溌築j(f1巻未来社)刊行ln森臣広(しげもりたみひろ)1959年北海迦生まれ111央人学大学院法学研究科1I後期過醐中退現イl立命航大学政爾科学部教授政論思想史専攻此特許に八脚j倣椴rdquordquoノldquo他岫幽eqf彫IM1ksqノセタ施yBef加加(ChuoU1】iversityLibmry1989)択緋にトマスホッブズ『竹学者と法学徒との対船--イングランドのコモンロ-をめくる』(共択鰐披文叩2002年)リツーャードタツ

繩縦政鰐魏職(辮陶鞭W9)ト賢二泌端芽一キン『政治思想のなかの女-その西洋的伝統』(共訳蝦ldquordquo2010年)ほか行安茂(ゆきやすしげる)1931年岡山鼎生まれ1K島大学大学院文学研究科博士課程修了岡山大学洛誉教授倫理学専攻符勘に『トマスヒルグリーン研究-その思想形成と哲学」(理紐社1974年)『デューイ倫理学の形成と展開』(以文社1988年)『近代Ⅲ本の思想藻とイギリス理想主義』(北樹出版27年)ほか錨著岱に『THグリーン研究』(御茶の水書厨1982年)rHシジウイク研究---現代正錠抽への道』(以文社1992年)ほか大塚桂(おおつかかつら)19釦年神奈川鼎生まれ日本大学法学部卒業現在駒椰大学法学郁救授政治思想史国家強専攻蕃密に『政治学原強序説--政治における制腿と行動』(勁蛾緋脚1rdquo4年)『多元的国家強の展開一原鋼瑠崎卯--をめぐって』(法律文化社1999年)『多元的国家讃のI附辺』(1fill1I20IX)

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1951年人阪府1歌れ111稲1I1入学人膿院文細I究科IW土牒程修ro現在H本女f大学人IⅢ社会lsquo液部教授近現代11本史呼攻蒋幣に『シリーズⅡ本近現代史く4〉大11sectデモクラシー』(刑波新18ト2007年)r「戦争経験」の戦後史一一錨られた体験細iIIJ値』(聯波謝Ji2010年)『近現代旧木史と歴史学一背き俳えられてきた過去』(II1公斬1l$2012年)ほか杉田敦(すぎたあつし)1959年群賜県生まれ束來都ffち東附〔大学法学部卒業現在法政大学法学部教授政治理論哩攻蒋祢に『塊界線の政治学』(岩波瞥店2005年)『政治への想像力』(岩波湖01i2Ⅸ19年)『政治的思馳(砦波新書2013年)ほか千葉眞(ちばしん)1949年宮城県生まれプリンストン神学大学PhD(政治倫理学)現在国際基督教大学教義学部牧授内欧政治忠紐山政泊理趙専攻著書に『アーレントと現代一向曲の政論とその鵬躯』(淵波書店1996年)「デモクラシー』(器波書店20M年)『「未光の航命」としての平和遜法』(岩波書店2伽9年)ほか新川敏光(しんかわとしみつ)1956年北海通生まれカナダトロント大学大学院PhD取得現在京都大学法学研究科教授政浦過繩強比絞政治学専攻著符に『日本型稲祉レジームの発展と変容』(ミオルヴフ排j2005年)『幻視のなかの社会民主主義一一「戦後日本政治とl会1ampI_1淡」』(法律文化社2007年)ほか

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加重哲郎(かとうてつろう)1947年岩手県生まれ東j(入学法学部小粟現イIsectIL稲1II大学大学院政治学研究科群間敬授橘大学瑞俳牧授政論学呼攻符蒋に『象徴天皇制の起源一アメリカの心即戦「1Mfi111djj」(平凡社新鶴2005年)『梢報戟の時代一インターネットと劇埋政論』(花仏社2()07年)『ワイマール期べルリンのH本人---洋行知織人のj叉術オツトゾーク』(淵波野店2008年) ぜ _

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一九三三年「満州必揺呼物の銀箇金川満紙済発鵬の視点に虻ちて」(『農鎚繩澗研究』鋪九巻旧呼)

一九三五年「農家負仙問題の検肘」(府政繩滴川細』靹砥八冊)

一九三六年「アメリカ銀政簸の発鵬」(呵蚊騨滴胸側』朔瀞巻ザ)

「アメリカ銀政飛の本賀と意錠」(「束蝉鋪八巻し壁

一九三七年「オーブンマーケットオペレーションの矛斫」(一外交時報一節七七七妙)

般信用理論に於ける紺合偏川の地位」(「艦艇報涜研究』第言恐厚)

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一九三八年『紺介フリッッノィマルク『細澗政簸の新しきイデオロギー筐(「職砿膳蕊』城八秒隅堕

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だいたこのほかの著作倫文ないし消息をご存じの方はぜひ繁者(冨目愚ご胃号)まで連絡し

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研究」節似巻吟)

『北支農村経済の蒲問題」(『北支課済側発の根本間狸江苔睡

「北支の幣制と農民経済」(雨脚農会飢節八巻九甥)

一九三九年報告「邪炎下の農業間剛を主魁し」して」(「木脇学研究細借』節兀細職虹子)

「腿紫政簸の社会価学的雄礎付けへの拭み(此の12)」(『愈畷勝』輔服巻皇l佃砂)

民族主錐と膿民」(rdquo工訓ノミスト』弧卜慰パリ)

『北支の食綱問題」雁雌にて『典臘蔽幣嘩》り)

『労働政筑としての股業政飛三厘粟と紐逝珊ハ瞥一菫号)

一九四年「H本農業技術の発展に関する覚茜(「農政節蓉八号)

「朝鮮農民の内地磯村定蒲」(晃陛踊懇八曇

「稲作に於ける中耕Ⅱ除草技術の発腱過程」(「農梁組済研究」節一六警一量

「北支の食縄問題」東畑秘蒋『米』中央公論祉付壁

「北満における小作形態の汚察」(近蠅砿叫抽湧『雌懲壁附上還暦聾臘業羅衲学強鰻』H本斑鐡祉)

一九四一年「閥印に於けるプランテイションと耕力政簸の問題」(『駈臨細雌」節三巻一号)

「側箪公社と燕聡蝦細符」爾油肥雌犀薬拠叩」恥四蓮ハリ)

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ドイツ語著作

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本経済の岬細成』(巾央公識社一九九年)を想起させる総じて理論細介実証分析が多くなんらか

の思想的立場方法的一俄性は見出しにくいこれらの学術的仕事からの「社会民主主義」への接近

rsquo九五六年「通貨交換性と貿易自由化」(耐殖火学踊悠節言号)

一九五七年「EPUと通貨交換性」(「止押耗滴錨集」節一巻g

「経営パートナーシャフトについて」(屈殖火叢罵』蕊一五号)

フリードリッヒスゴーセンス著『アメリカにおける利潤分配の実際西ドイツの訪米

視察M報告書』葡訳佃従狼魔性本部)

「公正賃金とパートナーシャフトー附独の労使協凋はいかに行われているか三癒済縦

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一九六年「特杵ライセンス研究序脱アメリカの反トラスト法との側迎において」(「妬欲火学抽鯉鯏

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しかし崎村茂樹の生涯を追いかけていくと社会民主主義との奇妙な接点が見えてくる以下は

むしろ水苫を通じて梢報提供を求めるための崎村茂樹が節二次世界大職巾のストックホルムで接触

した社会腿脱瓶雑「小インターナショナル」についての覚え背きである

このリストから本諜のテーマである「ソーシャルデモクラシーⅡ社会民主主義」との関係は

崎村茂樹

政論学者で現代政治現代史を「情報戦」の観点から研究してい

る私が関心をもつのは経済学者としての崎村茂樹の業紬や生涯で

はない輔其次仙界大戦期及び戦後占領期の国際情報戦のなかで彼

が果たした数奇な役削である

2戦時在独日本大使館からの「亡命」者崎村茂樹

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それは第一に崎村が第二次世界大戦中の一九四一丁四四年にベルリンの駐独日本大使館砺託で

ありながら中立国スウェーデンに「亡命」し岬時の「rsquo一ユーョークタイムズ」「タイム」等連合

国側メディアで「初めて連合国に加わろうとしたH本人」「枢軸国の敗北を初めて公言したR本人」

と報道された希有な体験の持ち主だからである

箪疋崎村は一九五年には中国雌命直後の北京に住んでおり中国側の資料と当時の日本で

の報道によれば「毛沢東暗殺未遂耶件」に関わったとされる点である

これまで判明している崎村の生涯はおおむね以下の通りである

一 与

一九九年東京に生まれる聞知商等学校珊科乙麺から東京帝大農学部農業綴済学科卒業

rsquo九川六年柾中側災聯米個領耶航に汕択経済分析柧叫で勤務

一九四八年在北京米閣総傾邪飢勤務側北京陥藩米側大使館台漉移維後も北京に残制

一九班年建国世後の中蛾人民共和岡で「米岡経済川牒」として速揃され禁間刑側本では「毛沢

東陥没未遂邸件」に迎座と報道される(「師新聞』几肚rarr年八川rarr輯H)日本の留守家族はこの報道

で初めて崎村茂樹が職後に生きていた澗息を知る

一九正近年拘束を解かれ中国から婦国矢部貞治学壁に調われて拓殖大学経済学部教授

一九Lハー年n本鉄鋼統制会ベルリン事務所時代の上劔八幡製鉄島村哲夫常務に誠われ八幡製鉄嘱

託東京理科大学教授(工業特諦柧当)ただしドイツスウェーデン中国での一五年間の体験に

ついては婦国後家族にもほとんど語らなかった

一九八二年食道ガンで死去

だが崎村茂樹の生涯は謎だらけであるご適族も一九四一年の訪独から五五年の巾伺からの

州仙までの「究白の一通年Ⅲ」について排しいことを知らない私のホームページ「ネチズンカレ

ッジ」には「崎村晩樹の六つの謎」がかかげられ現柾も椚報提供を求めている(言【旦菖勇曽二台

『一口云2吊函士門目①いず宮口一)

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もともと崎村茂樹というⅢ本人の存征を私が知ったのは》六年叉のことであるドイツのベ

ルリン映剛岬物館から冊独関係史研究を共鵬ドイツ締で発表してきた数人のH本人研究背に宛て

て発せられた三通の唯rメールからであった

それによるとドイツ統一後のベルリンの象徴として作られたポツダム広場の映側博物館が刊行し

ている映卿人シリーズに戦後西ドイツの特糸な女流映画評論家であったカレーナrsquo一Iホップ

(昏罵冨画z菖昌』sect-一雷)の評伝が加えられることになったユダヤ系ドイツ人である彼女の戦時遺品

巾に彼女が一九州《rsquo四剰年にⅢ本鉄鋼統制会ベルリン珊箭所に勤務しユダヤ人川食蜘配給券の

偽迭でナチスゲシュタポに検挙されたさい征独Ⅱ本大使館咽託でH本鉄鋼統制会ベルリン州務所

のアナリストである「崎村茂樹」というⅢ本人の奔走と助命喚願書で生命を救われ戦後に生き残る

ことができたという資料があるその「崎村伐棚」とは何者かを知りたいという問合せであった

洲時ベルリン映画博物鯨から連絡を受けた一機大学勤務の私東京大学継済学部石兇徹教授成

城大学法学部棚嶋僧雄教授ら七人で「崎村茂樹探索ネットワーク」を作り私の個人ホームページ

「ネチズンカレッジ」を使って世界中に情報提供を呼びかけた即座にさまざまな梢報が寄せられ

崎村家ご辿族や東束大学磯学部関係好からもある報喚の愉報が集まった

カレーナニーホッフの梛仏は一七年一川に刊行された崎村の同臘圃H本大使館側の地位

を利川した一九側堂年が叫時の助下1質ャ人女性カレーナニーホッフヘの助命蝋噸併を背いて

の救援はカレーナ自身が戦後に生き残り峨願沸緬や写典を磯したことにより那爽と腿められた

ミルリンの「シンドラーのリスト」「もう一人の杉脈千

①蒲き崎村麓樹はリベラル左派だったのか親ナチ右派だったのか

②崎村茂樹はなぜスウェーデンに「亡命」したのか

③崎村晩樹の一九四玉I川四年「亡命」は迎合側班との「和平正作」を意味するか

④いったん『亡命」した崎村肱樹はなぜベルリンに戻りドイツ敗職をいかに迎えたか

⑤二九叫丘年Ⅲドイツ敗戦で崎村腿樹はなぜⅢ本に戻らず中国に向かったのか

⑥一九W血年九州以降崎村此樹はなぜ中側に幾り何をしていたのか

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3崎村茂樹のユダヤ人救出とスウェーデン「亡命」

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ただし当初想定したストーリーは狂ってきた私たちは崎村のユヌャ人救援がナチスのゲシ

ュタポににらまれ監視される理山となり在独Ⅱ本大使館の狂信的親独派大島浩大使との関係が悪化

してストックホルムに「亡命」したと考えたのだがどうもこの件で崎村茂樹が処分されたり大使館

に厨つらくなったという形跡はなかった川當年九月のスウェーデン行きは鉄鋼統制会アナリスト

としての「川搬」名目であった

私たちの何人かはドイツスウェーデンの現地調在を行ないドイツ連邦公文曹航外務省史料

航やカレーナrsquo-1ホップ家に残された崎村関係簡料の収無当時の現地新聞妃耶やベルリンスト

ックホルムの住所群橘先の捌在インタビューを進めたあわせて探求を四孔年五月ドイツ敗職

時の崎村のベルリン脱川シベリア鉄道綴曲の満州側への人卿Ⅱ本敗戦後長祥での残刷職後内職

期中国砿命時の活動へと広げていったその中川報告は二七年三月早稲田大学二世紀メ

ディア研究所の公開辮演会で評論家佐藤優氏と共にハワーポイント原稿で行ない「インテリジェン

ス」蝋九号に屑報職のなかの層愈人l鼎定洞から崎村茂樹まで」と題して雲した

(二七年勇言胃壽cョ名畠畠凰辱8昌冨5国囲冨目日言己)

「インテリジェンス」論文発表後公開識減会で一緒に報告した佐藤優氏がそれまで全く証言の得

られなかった職時在独日本大使航関係荷のなかから沁外務省アメリカ局長吉野文六氏に私の描文を

示して碓偲を求め邪実と蝿められた侭鯉擬同家の咄節豊岡ソ連参戦曲役」「現代』O八年八号)さ

らに米国倒立公文譜館(NARA}所厳で現在ではH本の掴会図書館等でも閲覧可能な連合砿押収文

書の在独川本大使館内部記録中に「崎村茂樹問題文蒋而林内傍事務所佐喋彰電作成)」蜀緬8己鰄胃『ョ曾

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中央附州脚CIA)に秘かに紀録され枢軸国ドイツ川本側は否定し沈黙してきた「在独側本大使館側

のスウェーデン亡命と連合側との接触」が史実としてⅢ迎いないものとなった

ところがそれでは終わらなかった「崎村茂樹問題文書」など新たに発見した資料で崎村の

「亡命」の事実関係はかなり明確になったが肝心の「亡命」の動機がはっきりしないのである以

ドは「インテリジェンス」論文のその後の研究にもとづく改訂を兼ねた一九四三年九月ストックホ

ルムでの崎村の「亡命』から四四年五川ベルリンへの強制送還までのスケッチである

崎村娩樹のスウェーデン人凶は一九四三年九七冊で計画的な「亡命』ではなかった前述の

4戦時中立国スウェiデンで亡命者を助けた社会民主主義

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郎雌Iメール』ラルフヘーウィンス特派uがドイツⅡ本の耶悩を執兼してほしいと崎村の淋伏

竹伽先に現われた「亡命」巾とはいえ平隠な学究生活を蝿む崎村は耐絞はしたものの反ナチ愉文

j命の執縦依頼を断った

畦ところがその而縦が「デイリーメール」肛川Ⅱ付の「H本人外交Wがベルリンから逃亡して

1馳縦る」「束條の部下から迎合岡へのアピール」というセンセーショナルな妃邪になるロイター砿で

の世界に配帖されラジオでも放送されたためリスボンの在ポルトガル陸耶武官室や伺阻通備のヨー

印槌剰ロッハ特派側網もスウェーデン政府と在独n本大使館に問い合わせ本格的捜索に動きだす

秘スウェーデン脚本公使館陸瓶武樹小野寺信と同盟通信ストックホルム特派員斉藤正明が崎村の隠れ

家をみつけたらしく崎村は『デイリーメール」記者の狸造記事であると否定したが弁明を迫ら

社rsquoれたナチスのドイツ通偏(DNB)での反論ラジオ悉組がただちに組まれ五月五日にはドイツの新

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ょぅに当初は日本鉄鋼統制会の公務出狼を兼ねた休暇名目で入ったらしいところが九月一日読

売新聞ストックホルム特派員蝉野満洲雄がベルリンに転勤するにあたっての現地日本人による壮行連

動会に参加し偶発的な事故で足の催我をしたそこで入院した病院でレクターサンドベルグ

(rdquo月ざ『勺『mgQg員)というスウェーデン人教師と同霊になったすぐに親しくなり空襲のベルリン

には戻らずスウェーデンに滞在することを勧められ当時ストックホルム大学識師でスウェーデン社

会民稚労働党思想誌「弓昼目」縞集長だったトルステンゴルトルンドが率いる反ナチ知識人亡命者

支援組織に組み込まれた四三年一二月初めからスウェーデン日本公使館にハスポートを取り上げ

られた状態のまま「亡命」生活に入り行方をくらました

一九餌凹年一月には日本外務省嘱託を解任されたが約五人のスウェーデン人一人のドイツ

人人のノルウェー人の支援を受け労働市場調在の仕事も紹介された崎村は戦火を離れ森

と湖に川まれたストックホルムで同年識の経済学行ゴルトルンドや先にドイツから亡命していた

ドイツ社会民主党(SPD)在外ネットワーク組織汁であるユダヤ系教育学者フランッモクラウアー

らの庇俄のもとドイツ語で一九四隼に刊行した『日本経済の新編成』に続く一耐の本『日本の

腱業経済』『H本経済史』を準備していたという

ベルリン日本大使館とストックホルム日本公使航はこの間崎村の行方を捜し求めていたまた

ナチスのゲシュタポとスウェーデン警察それに連合国側の英国情報機関MI6米国悩報機関OS

Sも職時在独日本大使館員の中立国スウェーープンへの「亡命」に注目し秘かに追っていた

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戦後まで生き残り得た理由の一つとなった

一九四四年ⅢⅡ二八冊在独内務邪務耐佐藤彩1は「崎村事件に関する調書」を作り六月一日付

で崎村茂樹は「今回ロイター耶件は其の波紋極めて火きく全く恐縮に堪えず」という「誓約響」を醤

かされた東京の外務省本省参諜本部にはおそらく迎絡されないまま在独日本大使館内で一件落

着がはかられたすでに日本への公篭連絡さえ側雌になった欧州戦線の通信事情もあるが日独同盟

に慨をつけない配虚であったろう

その過程で内務省の佐藤彰三鉄鋼統制会蹄村価夫スウェーデンの陸軍武官小野寺傭同盟通

偲斉藤正恥らの間で崎村の「亡命」を大小にしないための筬略が練られたポイントは崎村「亡

命」時の生活徴の出所(スポンサー)それに崎村の左翼迦動思想歴第三インターナショナル

(共廉脆捉インターコミンーブルンrarr九一九rsquo四年)-との関わりだった

戦時ヨーロッハのⅢ本人特派員の多くは派遮先取材祁手や在外日本人の思想動向を探る諜報員の

役割を果たした斉藤特派員が佐藤彰一一larrにあてた崎村の身上調書が「崎村事件に関する調書」に付

されているそれによると崎村は「初歩的な唯物論の把握」はあるが左翼思想連動歴はなく

「亡命」先のストックホルムでも「第三インター系には現在まで何等交渉なし」スウェーデンの亡命

者支援組織から月一五クローネはどの援助を受けていたがそれは交友関係を含め「第二インター

系統」であるから心配ないむしろ崎村を謹慎させたうえで彼の学識を今後も日独枢軸国の勝利の

lデンの社会民主主義の活動家たちだったじつはこのことが崎村茂樹が「大逆罪」に問われず

剛にも『崎村教授は英米に利川された」という否定記邪が掲峨されたナチ党にとっても砿大耶件だ

ったらしく一九四四年五川初めの『ゲッペルス旧記』には三回も「崎村教授の珈件」が出てくる

ドイツの外筋衙ゲシュタポからは「束唯のゾルゲ邪件への報復」(ドイツ国繍の「ゲルマン人」

であるゾルゲ検挙裁判への膜発)として崎村の身柄引き渡しが漉求され在独日本大使館でも「大

逆卯」の声があがったがどうやらMⅢ皿僻芥藤特派側と鉄鋼統制会ペルリン耶務所奨励村哲夫が脱

得役になり征独内防術州務所休雌彪とベルリン総械耶鯉水太郎がストックホルムに赴いて正月却一

川崎村を拘束拉致ベルリンへの「強制送還」になったそれをスウェーデンの新聞雑総はが

典入りで大々的に扱い「タイム」総六川ⅡⅡ号の紀珈に繋がった

以後ナチスドイツに送り返された崎村がどうなったかはドイツ外務194797史料館所蔵のドイツ政

府と征独Ⅱ本大使館の交渉ファイルや現地捌在から「インテリジェンス」論文に犯した皿りで川本

人仙飢による奇妙な身柄拘束軟恭聴視が州K年孔川ドイツ敗戦まで続いた中剛での崎村の波

淵Prime丈についてはここでは行略する

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村茂樹の戦時スウェーデンE命」を支扱し生活手段まで面倒を見ていたのは中立国スウエ

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ために使うべしというものであった

つまり在独日本大使館も在スウェーデン日本公使鮒も崎村の「亡命」の背後に第三インターナ

ショナル系列の共産主義運動があるのではと疑ったが彼は「第二インター系統」の社会民主主義の

方だから人丈夫だというまことに川本的治安維持法的な発想のおかげで崎村茂樹の生命は助か

った小愉の問いはここから始まる「インテリジェンる論文を発表後ドイツ現代史の専門家であ

る水ル消彦氏から新たな价棚が術せられた内分が挑んだヴィリプラントの北欧亡命期の川想巾

にドイツの川本大使館から逃げてきたH本人のことがでてくるそれが「インテリジェンス」鮒文

にある崎村茂樹ではないかというのであるそしてそれは永井氏も佐藤優氏とは別に職時在

独Ⅱ水火仙鮒の生き柾人吉野文六氏に問い合わせⅢ通いないものと確縄された

一九四rsquo四四年当時のストックホルムにはナチスに追われたり戦場占領地から避難した世

界の社会災抜主錠者が多数滞在していたその中心はドイツ社会民主党の亡命者組織でありそ

こから「ストックホルム民主主義的社会主推祥のインターナショナルグループ」が生まれた支扱

するスウェーデン社会民主労働党貝を含め岐大時両人にも満たない小さな国際連帯組織輌溜「ク

ラィネインテルナッィォナーレ』爪インターナショナル』)であつたがドイツオーストリアポーランド

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イギリスアメリカなどからストックホルムに「平和」を求めた社会民主主義者たちが集っていた

それは戦後ヨーロッハ統合と福祉国家いや戦後阯界の「民主主義的な社会主義」「差異のデモク

ラシー」の行方にも大きな意味を持った

中心的指導者は亡命巾のドイツ社会民主党貝ジャーナリストヴィリプラントでありナチス

敗北後関ベルリン市長から西ドイツ筒相までのばりつめた一九七一年のノーベル平和賞受賃者で

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この組織を共に担ったⅢ友のユダヤ系オーストリア人ブルーノクラィスキーは戦後オーストリ

アで外交Wとなり永世中立国の地位をⅢ拠初のオーストリア社会党政楡の首相となるちょうど

亡命時代の「峨友』プラントが西ドイツで竹川になったころだった

仙界から亡命社会民北主錠将を受け入れ支扱したホスト役はスウェーデン社会民主労働党側のな

かのⅨファシズム側隙主義新たちである巾血悩スウェーデンの知識人や国際活動の経験肴が多く

合まれていたそこにカールグンナーミュルダールとアルバラィマルミュルダール火斐の

船がある夫のカールは当時ストックホルム商科大学の経済学荷で戦後は通商大臣を務めたストッ

クホルム学派の瓶鎮で一九七四年にフリードリヒハィエクと共にノーベル維済学賞を受徹した

菱のアルハもスウェーデン福祉政筑の椎進者でユネスコや国迎軍縮会識で活鍬した一九八皇年

にはノーベル平和徴を受賞し夫と共に終生世界平和の提唱者牽引者となった

そこでは戦後社会民主主鍵労働巡勁の間際組織再建(社会主錠インターナショナル)スター

リン率いるソ連と共産主義への態度戦後国際金融経済秩序や植民地支援の194797想信教の自由と国際

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動乱時に蝋行機那故で亡くなる死後にノーベル平和衝が授与されたから「亡命巻」崎村伐樹のま

わりから職後孔人ものノーベル賞受枇粁がⅢたことになる

ヴイリプラントと社会災脱稚義「小イン投Iナショナル』を細ぺるにはドイツに赴くしかない

ボンのドイツ社公民柑党フリードリヒエーベルト財Ⅲにヴィリプラントアーヵィヴがありそ

こで淵時の肥鍬を閲鷺したが新しい発見はなかったその代わり今Ⅲ北欧社会民主狼捉の脈史

的研究で知られるクラウスミスゲルドの学問的脱点が彼の卿士論文での「クラィネインーアルナ

rdquoツィォナーレ」の研究だったことがわかった(屋画雇いで扁帰江胃蓉鳥昌言E奇昌胃号ミミヘミミ

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Iosect冨品》ぐの『層潔呂の馬駕二段頁昌電毎)またウィーン入学図書館で一九四三年に崎村茂樹と笠備太

加齢郎がウィーン大学での講減会に棚かれたがドイツ政府により許可されなかった記録が見つかった

鍵もっとも私の主要な関心は当時の米国OSSヨーロッパ総局長スイスのアレンダレス(戦後

隙CIA股禰)の戦時諜報ネットワークが「亡命」Ⅱ本人崎村茂樹との接触と共にストックホルムの

巡胸蝿社会民推服錠国際組織にまで及んでいたかどうかにある

郷川本で社会主鍵の刷際辿幣といえば通端「鉄の規神」で結ばれた共産主義のコミンテルンコミ

ンフォルム系列がイメージされる私側身もその系列の歴史と「ソ辿邦防衛」が百人近いⅢ本人瑚

社リー洲に州紬した悲劇を追いかけてきた(加懲『脚鯉を趣える11トピァー圃鵬側潔のエルゴ画ジー』鼎凡祉ライブラリ-

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ルダールと一緒にノーベル経済学賞を受賞する脱理的自由主義背ハイエクの日本への紹介荷の一人で

面識もあったことをまた当時のスウェーデン政府大蔵次官スウェーデン銀行総裁ダグハマー

ショルドとも会っていたらしいこともハマーショルドは国連事務総長時代の一九六一年コンゴ

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いたったであろう(言与国日冨昌トミ爾震ミ寺鼻一電冨雲釘馬事罵鴬西冒豐旨Q9冒罵》閨い塁肝

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ヴイリプラントの回想

法砿縮と世界平和の将来が討論されていた

そしてこの小規模だが密度の濃い国際社会民主主義の亡

命者組織の例会にただ一人アジアからしかもナチスの同

盟国日本からの亡命者が顔を出した崎村茂樹である一度

だけのことと思われるがよほど印象に残ったのかノーベ

ル平和賞受賞後のヴィリープラントは回想に書き残した

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[参考文献]

加藤哲郎『倒境を越えるユートピァー佃民脚家のエルゴロジー』平凡社二二年

加藤哲郎『怖報戦と現代史l日本国惣法へのもうひとつの道』花伝社二七年

二年)

しかしナチスに追われ「亡命」したのはユダヤ人や共産主義者ばかりではない第二次世界人

戦期には社会民主主義者も自由主義春も故旧を追われ世界に分散して緩やかなネットワークを保

っていたストックホルムの「小インターナショナル」もその一つでそこでプラントやミュルダー

ル夫斐がナチズム打倒後の世界を構想していたそれはヨーロッパ統合や平和共存国際通貨体制

貧困国開発援助「持続しうる地球」に連なるものであったに違いない共産主義の「現存した社会

主義」亡きあとそれはある極の社会主義の生命力をぷす邪例でもある

そしてその生命力とは北欧社会民主主推の柵祉脚家に代表される制度設計政策体系はもちろ

んであるが崎村茂樹のような無弔のⅡ本人を「スハイ」と疑うことなく受け入れその後の運命を

心配するような人間へのまなざしとネットワークの開放性「差異のデモクラシー」であった西

欧社会民主唯義の「原子力」観についても「小インターナショナル』関係稀からなんらかの示唆が

得られないか私の探求の旅はなお道半ばである統背の情報提供を再度お願いする(盲目愚

勇墓曇色b『〕も雷まで)

加藤竹郎今井将奴神山仲弘細『挫拠のデモクラシー』Ⅲ本経済評総社二一年

川臘価郎小野一川巾ひかる珈祁孝川細『側艮旧家の境界』旧水経済押鱸社》o一年

加藤価郎冊野洲人細『民碓主錠平和地球政治』Ⅱ本綴済排総社6一年

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年)『近代日本の政治学行群倣--政抽概念抽争をめ〈って』(勁草書房2001年)『Iリl論l却家の拙本柵避術i剛l腿primekのプレリュード』(法抑文化社2002年)『Iリl始鬮説と瑞術典祝』(1bllllトI200II)TIリ1泊維新の思想』(成文堂2005年)『大東猟liMhIWIの蚊捕学』(成文イM2()O7年)rⅡ本の政治文化』(勁草諜腸2008年)rll本政油学の先駆lfj(成文lsquo戦2011年)ほか田中治男(たなかはるお)1935年京都府生まれ束戚大学大学院法学政泊学研究科椰士課程修了成隈大学名汁教授政治思想史呼攻佛杵に『フランス自由主義の生成と展開--l九世紀フランス政流思惣研究』(蝿順大学川版会1970年)『近代政治思想史(4)---産業化と大衆時代の政治思想』(イI斐閣1978年)『西欧

執錐考略服

田中浩(たなかひろし)1926年佐賀鼎生まれ東求文理科大学哲学科卒現在型学院大学大学院教授楠大学躬俳教授政治思想史専攻著菩に『是谷川如雌閑研究序鋭』(未来社1989年)『カールシュミットー魔性の政治学』(未来社1992年)『〔改ir卿補飯〕ホッブズ研究序説一近代掴家趙の生誕』(御茶の水縛脚1994年)『〔新版]l司家と個人一市民碓命から現代まで』(珊波紳店2rdquo8年)ほか典択井にトマスホップズ『リヴァイアサン』(河川稗勝斬11966年)カールシュミット『政治的なものの概念』(未来社1970年)クーペルスカンデル細『EU時代の到来一ヨーロッパ柵祉社会社会lも1sectl錘』(未来社2m9年)THグリーン『イギリス峨命礁蕊一クロムウェルの此和I珂』(未来社2011年)ほか「IIIIII溌築j(f1巻未来社)刊行ln森臣広(しげもりたみひろ)1959年北海迦生まれ111央人学大学院法学研究科1I後期過醐中退現イl立命航大学政爾科学部教授政論思想史専攻此特許に八脚j倣椴rdquordquoノldquo他岫幽eqf彫IM1ksqノセタ施yBef加加(ChuoU1】iversityLibmry1989)択緋にトマスホッブズ『竹学者と法学徒との対船--イングランドのコモンロ-をめくる』(共択鰐披文叩2002年)リツーャードタツ

繩縦政鰐魏職(辮陶鞭W9)ト賢二泌端芽一キン『政治思想のなかの女-その西洋的伝統』(共訳蝦ldquordquo2010年)ほか行安茂(ゆきやすしげる)1931年岡山鼎生まれ1K島大学大学院文学研究科博士課程修了岡山大学洛誉教授倫理学専攻符勘に『トマスヒルグリーン研究-その思想形成と哲学」(理紐社1974年)『デューイ倫理学の形成と展開』(以文社1988年)『近代Ⅲ本の思想藻とイギリス理想主義』(北樹出版27年)ほか錨著岱に『THグリーン研究』(御茶の水書厨1982年)rHシジウイク研究---現代正錠抽への道』(以文社1992年)ほか大塚桂(おおつかかつら)19釦年神奈川鼎生まれ日本大学法学部卒業現在駒椰大学法学郁救授政治思想史国家強専攻蕃密に『政治学原強序説--政治における制腿と行動』(勁蛾緋脚1rdquo4年)『多元的国家強の展開一原鋼瑠崎卯--をめぐって』(法律文化社1999年)『多元的国家讃のI附辺』(1fill1I20IX)

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ドイツ語著作

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の思想的立場方法的一俄性は見出しにくいこれらの学術的仕事からの「社会民主主義」への接近

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一九五七年「EPUと通貨交換性」(「止押耗滴錨集」節一巻g

「経営パートナーシャフトについて」(屈殖火叢罵』蕊一五号)

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「公正賃金とパートナーシャフトー附独の労使協凋はいかに行われているか三癒済縦

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一九六年「特杵ライセンス研究序脱アメリカの反トラスト法との側迎において」(「妬欲火学抽鯉鯏

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しかし崎村茂樹の生涯を追いかけていくと社会民主主義との奇妙な接点が見えてくる以下は

むしろ水苫を通じて梢報提供を求めるための崎村茂樹が節二次世界大職巾のストックホルムで接触

した社会腿脱瓶雑「小インターナショナル」についての覚え背きである

このリストから本諜のテーマである「ソーシャルデモクラシーⅡ社会民主主義」との関係は

崎村茂樹

政論学者で現代政治現代史を「情報戦」の観点から研究してい

る私が関心をもつのは経済学者としての崎村茂樹の業紬や生涯で

はない輔其次仙界大戦期及び戦後占領期の国際情報戦のなかで彼

が果たした数奇な役削である

2戦時在独日本大使館からの「亡命」者崎村茂樹

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それは第一に崎村が第二次世界大戦中の一九四一丁四四年にベルリンの駐独日本大使館砺託で

ありながら中立国スウェーデンに「亡命」し岬時の「rsquo一ユーョークタイムズ」「タイム」等連合

国側メディアで「初めて連合国に加わろうとしたH本人」「枢軸国の敗北を初めて公言したR本人」

と報道された希有な体験の持ち主だからである

箪疋崎村は一九五年には中国雌命直後の北京に住んでおり中国側の資料と当時の日本で

の報道によれば「毛沢東暗殺未遂耶件」に関わったとされる点である

これまで判明している崎村の生涯はおおむね以下の通りである

一 与

一九九年東京に生まれる聞知商等学校珊科乙麺から東京帝大農学部農業綴済学科卒業

rsquo九川六年柾中側災聯米個領耶航に汕択経済分析柧叫で勤務

一九四八年在北京米閣総傾邪飢勤務側北京陥藩米側大使館台漉移維後も北京に残制

一九班年建国世後の中蛾人民共和岡で「米岡経済川牒」として速揃され禁間刑側本では「毛沢

東陥没未遂邸件」に迎座と報道される(「師新聞』几肚rarr年八川rarr輯H)日本の留守家族はこの報道

で初めて崎村茂樹が職後に生きていた澗息を知る

一九正近年拘束を解かれ中国から婦国矢部貞治学壁に調われて拓殖大学経済学部教授

一九Lハー年n本鉄鋼統制会ベルリン事務所時代の上劔八幡製鉄島村哲夫常務に誠われ八幡製鉄嘱

託東京理科大学教授(工業特諦柧当)ただしドイツスウェーデン中国での一五年間の体験に

ついては婦国後家族にもほとんど語らなかった

一九八二年食道ガンで死去

だが崎村茂樹の生涯は謎だらけであるご適族も一九四一年の訪独から五五年の巾伺からの

州仙までの「究白の一通年Ⅲ」について排しいことを知らない私のホームページ「ネチズンカレ

ッジ」には「崎村晩樹の六つの謎」がかかげられ現柾も椚報提供を求めている(言【旦菖勇曽二台

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もともと崎村茂樹というⅢ本人の存征を私が知ったのは》六年叉のことであるドイツのベ

ルリン映剛岬物館から冊独関係史研究を共鵬ドイツ締で発表してきた数人のH本人研究背に宛て

て発せられた三通の唯rメールからであった

それによるとドイツ統一後のベルリンの象徴として作られたポツダム広場の映側博物館が刊行し

ている映卿人シリーズに戦後西ドイツの特糸な女流映画評論家であったカレーナrsquo一Iホップ

(昏罵冨画z菖昌』sect-一雷)の評伝が加えられることになったユダヤ系ドイツ人である彼女の戦時遺品

巾に彼女が一九州《rsquo四剰年にⅢ本鉄鋼統制会ベルリン珊箭所に勤務しユダヤ人川食蜘配給券の

偽迭でナチスゲシュタポに検挙されたさい征独Ⅱ本大使館咽託でH本鉄鋼統制会ベルリン州務所

のアナリストである「崎村茂樹」というⅢ本人の奔走と助命喚願書で生命を救われ戦後に生き残る

ことができたという資料があるその「崎村伐棚」とは何者かを知りたいという問合せであった

洲時ベルリン映画博物鯨から連絡を受けた一機大学勤務の私東京大学継済学部石兇徹教授成

城大学法学部棚嶋僧雄教授ら七人で「崎村茂樹探索ネットワーク」を作り私の個人ホームページ

「ネチズンカレッジ」を使って世界中に情報提供を呼びかけた即座にさまざまな梢報が寄せられ

崎村家ご辿族や東束大学磯学部関係好からもある報喚の愉報が集まった

カレーナニーホッフの梛仏は一七年一川に刊行された崎村の同臘圃H本大使館側の地位

を利川した一九側堂年が叫時の助下1質ャ人女性カレーナニーホッフヘの助命蝋噸併を背いて

の救援はカレーナ自身が戦後に生き残り峨願沸緬や写典を磯したことにより那爽と腿められた

ミルリンの「シンドラーのリスト」「もう一人の杉脈千

①蒲き崎村麓樹はリベラル左派だったのか親ナチ右派だったのか

②崎村茂樹はなぜスウェーデンに「亡命」したのか

③崎村晩樹の一九四玉I川四年「亡命」は迎合側班との「和平正作」を意味するか

④いったん『亡命」した崎村肱樹はなぜベルリンに戻りドイツ敗職をいかに迎えたか

⑤二九叫丘年Ⅲドイツ敗戦で崎村腿樹はなぜⅢ本に戻らず中国に向かったのか

⑥一九W血年九州以降崎村此樹はなぜ中側に幾り何をしていたのか

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3崎村茂樹のユダヤ人救出とスウェーデン「亡命」

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ただし当初想定したストーリーは狂ってきた私たちは崎村のユヌャ人救援がナチスのゲシ

ュタポににらまれ監視される理山となり在独Ⅱ本大使館の狂信的親独派大島浩大使との関係が悪化

してストックホルムに「亡命」したと考えたのだがどうもこの件で崎村茂樹が処分されたり大使館

に厨つらくなったという形跡はなかった川當年九月のスウェーデン行きは鉄鋼統制会アナリスト

としての「川搬」名目であった

私たちの何人かはドイツスウェーデンの現地調在を行ないドイツ連邦公文曹航外務省史料

航やカレーナrsquo-1ホップ家に残された崎村関係簡料の収無当時の現地新聞妃耶やベルリンスト

ックホルムの住所群橘先の捌在インタビューを進めたあわせて探求を四孔年五月ドイツ敗職

時の崎村のベルリン脱川シベリア鉄道綴曲の満州側への人卿Ⅱ本敗戦後長祥での残刷職後内職

期中国砿命時の活動へと広げていったその中川報告は二七年三月早稲田大学二世紀メ

ディア研究所の公開辮演会で評論家佐藤優氏と共にハワーポイント原稿で行ない「インテリジェン

ス」蝋九号に屑報職のなかの層愈人l鼎定洞から崎村茂樹まで」と題して雲した

(二七年勇言胃壽cョ名畠畠凰辱8昌冨5国囲冨目日言己)

「インテリジェンス」論文発表後公開識減会で一緒に報告した佐藤優氏がそれまで全く証言の得

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示して碓偲を求め邪実と蝿められた侭鯉擬同家の咄節豊岡ソ連参戦曲役」「現代』O八年八号)さ

らに米国倒立公文譜館(NARA}所厳で現在ではH本の掴会図書館等でも閲覧可能な連合砿押収文

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中央附州脚CIA)に秘かに紀録され枢軸国ドイツ川本側は否定し沈黙してきた「在独側本大使館側

のスウェーデン亡命と連合側との接触」が史実としてⅢ迎いないものとなった

ところがそれでは終わらなかった「崎村茂樹問題文書」など新たに発見した資料で崎村の

「亡命」の事実関係はかなり明確になったが肝心の「亡命」の動機がはっきりしないのである以

ドは「インテリジェンス」論文のその後の研究にもとづく改訂を兼ねた一九四三年九月ストックホ

ルムでの崎村の「亡命』から四四年五川ベルリンへの強制送還までのスケッチである

崎村娩樹のスウェーデン人凶は一九四三年九七冊で計画的な「亡命』ではなかった前述の

4戦時中立国スウェiデンで亡命者を助けた社会民主主義

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1馳縦る」「束條の部下から迎合岡へのアピール」というセンセーショナルな妃邪になるロイター砿で

の世界に配帖されラジオでも放送されたためリスボンの在ポルトガル陸耶武官室や伺阻通備のヨー

印槌剰ロッハ特派側網もスウェーデン政府と在独n本大使館に問い合わせ本格的捜索に動きだす

秘スウェーデン脚本公使館陸瓶武樹小野寺信と同盟通信ストックホルム特派員斉藤正明が崎村の隠れ

家をみつけたらしく崎村は『デイリーメール」記者の狸造記事であると否定したが弁明を迫ら

社rsquoれたナチスのドイツ通偏(DNB)での反論ラジオ悉組がただちに組まれ五月五日にはドイツの新

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ょぅに当初は日本鉄鋼統制会の公務出狼を兼ねた休暇名目で入ったらしいところが九月一日読

売新聞ストックホルム特派員蝉野満洲雄がベルリンに転勤するにあたっての現地日本人による壮行連

動会に参加し偶発的な事故で足の催我をしたそこで入院した病院でレクターサンドベルグ

(rdquo月ざ『勺『mgQg員)というスウェーデン人教師と同霊になったすぐに親しくなり空襲のベルリン

には戻らずスウェーデンに滞在することを勧められ当時ストックホルム大学識師でスウェーデン社

会民稚労働党思想誌「弓昼目」縞集長だったトルステンゴルトルンドが率いる反ナチ知識人亡命者

支援組織に組み込まれた四三年一二月初めからスウェーデン日本公使館にハスポートを取り上げ

られた状態のまま「亡命」生活に入り行方をくらました

一九餌凹年一月には日本外務省嘱託を解任されたが約五人のスウェーデン人一人のドイツ

人人のノルウェー人の支援を受け労働市場調在の仕事も紹介された崎村は戦火を離れ森

と湖に川まれたストックホルムで同年識の経済学行ゴルトルンドや先にドイツから亡命していた

ドイツ社会民主党(SPD)在外ネットワーク組織汁であるユダヤ系教育学者フランッモクラウアー

らの庇俄のもとドイツ語で一九四隼に刊行した『日本経済の新編成』に続く一耐の本『日本の

腱業経済』『H本経済史』を準備していたという

ベルリン日本大使館とストックホルム日本公使航はこの間崎村の行方を捜し求めていたまた

ナチスのゲシュタポとスウェーデン警察それに連合国側の英国情報機関MI6米国悩報機関OS

Sも職時在独日本大使館員の中立国スウェーープンへの「亡命」に注目し秘かに追っていた

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戦後まで生き残り得た理由の一つとなった

一九四四年ⅢⅡ二八冊在独内務邪務耐佐藤彩1は「崎村事件に関する調書」を作り六月一日付

で崎村茂樹は「今回ロイター耶件は其の波紋極めて火きく全く恐縮に堪えず」という「誓約響」を醤

かされた東京の外務省本省参諜本部にはおそらく迎絡されないまま在独日本大使館内で一件落

着がはかられたすでに日本への公篭連絡さえ側雌になった欧州戦線の通信事情もあるが日独同盟

に慨をつけない配虚であったろう

その過程で内務省の佐藤彰三鉄鋼統制会蹄村価夫スウェーデンの陸軍武官小野寺傭同盟通

偲斉藤正恥らの間で崎村の「亡命」を大小にしないための筬略が練られたポイントは崎村「亡

命」時の生活徴の出所(スポンサー)それに崎村の左翼迦動思想歴第三インターナショナル

(共廉脆捉インターコミンーブルンrarr九一九rsquo四年)-との関わりだった

戦時ヨーロッハのⅢ本人特派員の多くは派遮先取材祁手や在外日本人の思想動向を探る諜報員の

役割を果たした斉藤特派員が佐藤彰一一larrにあてた崎村の身上調書が「崎村事件に関する調書」に付

されているそれによると崎村は「初歩的な唯物論の把握」はあるが左翼思想連動歴はなく

「亡命」先のストックホルムでも「第三インター系には現在まで何等交渉なし」スウェーデンの亡命

者支援組織から月一五クローネはどの援助を受けていたがそれは交友関係を含め「第二インター

系統」であるから心配ないむしろ崎村を謹慎させたうえで彼の学識を今後も日独枢軸国の勝利の

lデンの社会民主主義の活動家たちだったじつはこのことが崎村茂樹が「大逆罪」に問われず

剛にも『崎村教授は英米に利川された」という否定記邪が掲峨されたナチ党にとっても砿大耶件だ

ったらしく一九四四年五川初めの『ゲッペルス旧記』には三回も「崎村教授の珈件」が出てくる

ドイツの外筋衙ゲシュタポからは「束唯のゾルゲ邪件への報復」(ドイツ国繍の「ゲルマン人」

であるゾルゲ検挙裁判への膜発)として崎村の身柄引き渡しが漉求され在独日本大使館でも「大

逆卯」の声があがったがどうやらMⅢ皿僻芥藤特派側と鉄鋼統制会ペルリン耶務所奨励村哲夫が脱

得役になり征独内防術州務所休雌彪とベルリン総械耶鯉水太郎がストックホルムに赴いて正月却一

川崎村を拘束拉致ベルリンへの「強制送還」になったそれをスウェーデンの新聞雑総はが

典入りで大々的に扱い「タイム」総六川ⅡⅡ号の紀珈に繋がった

以後ナチスドイツに送り返された崎村がどうなったかはドイツ外務194797史料館所蔵のドイツ政

府と征独Ⅱ本大使館の交渉ファイルや現地捌在から「インテリジェンス」論文に犯した皿りで川本

人仙飢による奇妙な身柄拘束軟恭聴視が州K年孔川ドイツ敗戦まで続いた中剛での崎村の波

淵Prime丈についてはここでは行略する

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村茂樹の戦時スウェーデンE命」を支扱し生活手段まで面倒を見ていたのは中立国スウエ

5プラントらの社会民主主凝「小インターナショナル」

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ために使うべしというものであった

つまり在独日本大使館も在スウェーデン日本公使鮒も崎村の「亡命」の背後に第三インターナ

ショナル系列の共産主義運動があるのではと疑ったが彼は「第二インター系統」の社会民主主義の

方だから人丈夫だというまことに川本的治安維持法的な発想のおかげで崎村茂樹の生命は助か

った小愉の問いはここから始まる「インテリジェンる論文を発表後ドイツ現代史の専門家であ

る水ル消彦氏から新たな价棚が術せられた内分が挑んだヴィリプラントの北欧亡命期の川想巾

にドイツの川本大使館から逃げてきたH本人のことがでてくるそれが「インテリジェンス」鮒文

にある崎村茂樹ではないかというのであるそしてそれは永井氏も佐藤優氏とは別に職時在

独Ⅱ水火仙鮒の生き柾人吉野文六氏に問い合わせⅢ通いないものと確縄された

一九四rsquo四四年当時のストックホルムにはナチスに追われたり戦場占領地から避難した世

界の社会災抜主錠者が多数滞在していたその中心はドイツ社会民主党の亡命者組織でありそ

こから「ストックホルム民主主義的社会主推祥のインターナショナルグループ」が生まれた支扱

するスウェーデン社会民主労働党貝を含め岐大時両人にも満たない小さな国際連帯組織輌溜「ク

ラィネインテルナッィォナーレ』爪インターナショナル』)であつたがドイツオーストリアポーランド

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イギリスアメリカなどからストックホルムに「平和」を求めた社会民主主義者たちが集っていた

それは戦後ヨーロッハ統合と福祉国家いや戦後阯界の「民主主義的な社会主義」「差異のデモク

ラシー」の行方にも大きな意味を持った

中心的指導者は亡命巾のドイツ社会民主党貝ジャーナリストヴィリプラントでありナチス

敗北後関ベルリン市長から西ドイツ筒相までのばりつめた一九七一年のノーベル平和賞受賃者で

ある{プラント『畷Iレジス典ンス』蝋胤祉兀しf一

この組織を共に担ったⅢ友のユダヤ系オーストリア人ブルーノクラィスキーは戦後オーストリ

アで外交Wとなり永世中立国の地位をⅢ拠初のオーストリア社会党政楡の首相となるちょうど

亡命時代の「峨友』プラントが西ドイツで竹川になったころだった

仙界から亡命社会民北主錠将を受け入れ支扱したホスト役はスウェーデン社会民主労働党側のな

かのⅨファシズム側隙主義新たちである巾血悩スウェーデンの知識人や国際活動の経験肴が多く

合まれていたそこにカールグンナーミュルダールとアルバラィマルミュルダール火斐の

船がある夫のカールは当時ストックホルム商科大学の経済学荷で戦後は通商大臣を務めたストッ

クホルム学派の瓶鎮で一九七四年にフリードリヒハィエクと共にノーベル維済学賞を受徹した

菱のアルハもスウェーデン福祉政筑の椎進者でユネスコや国迎軍縮会識で活鍬した一九八皇年

にはノーベル平和徴を受賞し夫と共に終生世界平和の提唱者牽引者となった

そこでは戦後社会民主主鍵労働巡勁の間際組織再建(社会主錠インターナショナル)スター

リン率いるソ連と共産主義への態度戦後国際金融経済秩序や植民地支援の194797想信教の自由と国際

lⅡⅡⅡⅡg凸口Ⅱ1ⅡⅡⅡⅡU1凸U凸7100Ⅱ00401Ⅱ86J岳且日日B9凸i巳日亡qP壱日qⅡ5g8qP凸9ⅡL9浬119Ⅱ甲凸q8Q8911垂GB9rl可

動乱時に蝋行機那故で亡くなる死後にノーベル平和衝が授与されたから「亡命巻」崎村伐樹のま

わりから職後孔人ものノーベル賞受枇粁がⅢたことになる

ヴイリプラントと社会災脱稚義「小イン投Iナショナル』を細ぺるにはドイツに赴くしかない

ボンのドイツ社公民柑党フリードリヒエーベルト財Ⅲにヴィリプラントアーヵィヴがありそ

こで淵時の肥鍬を閲鷺したが新しい発見はなかったその代わり今Ⅲ北欧社会民主狼捉の脈史

的研究で知られるクラウスミスゲルドの学問的脱点が彼の卿士論文での「クラィネインーアルナ

rdquoツィォナーレ」の研究だったことがわかった(屋画雇いで扁帰江胃蓉鳥昌言E奇昌胃号ミミヘミミ

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Iosect冨品》ぐの『層潔呂の馬駕二段頁昌電毎)またウィーン入学図書館で一九四三年に崎村茂樹と笠備太

加齢郎がウィーン大学での講減会に棚かれたがドイツ政府により許可されなかった記録が見つかった

鍵もっとも私の主要な関心は当時の米国OSSヨーロッパ総局長スイスのアレンダレス(戦後

隙CIA股禰)の戦時諜報ネットワークが「亡命」Ⅱ本人崎村茂樹との接触と共にストックホルムの

巡胸蝿社会民推服錠国際組織にまで及んでいたかどうかにある

郷川本で社会主鍵の刷際辿幣といえば通端「鉄の規神」で結ばれた共産主義のコミンテルンコミ

ンフォルム系列がイメージされる私側身もその系列の歴史と「ソ辿邦防衛」が百人近いⅢ本人瑚

社リー洲に州紬した悲劇を追いかけてきた(加懲『脚鯉を趣える11トピァー圃鵬側潔のエルゴ画ジー』鼎凡祉ライブラリ-

118

無総プラントは知らなかったこの日本人の緋い維済学者(当噛孟歳)が生き残り④のちにミュ

ルダールと一緒にノーベル経済学賞を受賞する脱理的自由主義背ハイエクの日本への紹介荷の一人で

面識もあったことをまた当時のスウェーデン政府大蔵次官スウェーデン銀行総裁ダグハマー

ショルドとも会っていたらしいこともハマーショルドは国連事務総長時代の一九六一年コンゴ

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われわれの会合への風変わりな肋間将は一人の端いⅡ本人だった彼はベルリンの川本大使

航で仕邪をしていたがわれわれを見つけだした川本の秘密警察が彼を迫っていたので彼は

ある蛎院に助けを求めたそれから税押されてベルリンに腐ったおそらくは悲劇的結末に

いたったであろう(言与国日冨昌トミ爾震ミ寺鼻一電冨雲釘馬事罵鴬西冒豐旨Q9冒罵》閨い塁肝

油啄氏捌仙)

ヴイリプラントの回想

法砿縮と世界平和の将来が討論されていた

そしてこの小規模だが密度の濃い国際社会民主主義の亡

命者組織の例会にただ一人アジアからしかもナチスの同

盟国日本からの亡命者が顔を出した崎村茂樹である一度

だけのことと思われるがよほど印象に残ったのかノーベ

ル平和賞受賞後のヴィリープラントは回想に書き残した

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120生命jj(IIIIMWRM)社会民主主役の旧隙連帯と121

[参考文献]

加藤哲郎『倒境を越えるユートピァー佃民脚家のエルゴロジー』平凡社二二年

加藤哲郎『怖報戦と現代史l日本国惣法へのもうひとつの道』花伝社二七年

二年)

しかしナチスに追われ「亡命」したのはユダヤ人や共産主義者ばかりではない第二次世界人

戦期には社会民主主義者も自由主義春も故旧を追われ世界に分散して緩やかなネットワークを保

っていたストックホルムの「小インターナショナル」もその一つでそこでプラントやミュルダー

ル夫斐がナチズム打倒後の世界を構想していたそれはヨーロッパ統合や平和共存国際通貨体制

貧困国開発援助「持続しうる地球」に連なるものであったに違いない共産主義の「現存した社会

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執錐考略服

田中浩(たなかひろし)1926年佐賀鼎生まれ東求文理科大学哲学科卒現在型学院大学大学院教授楠大学躬俳教授政治思想史専攻著菩に『是谷川如雌閑研究序鋭』(未来社1989年)『カールシュミットー魔性の政治学』(未来社1992年)『〔改ir卿補飯〕ホッブズ研究序説一近代掴家趙の生誕』(御茶の水縛脚1994年)『〔新版]l司家と個人一市民碓命から現代まで』(珊波紳店2rdquo8年)ほか典択井にトマスホップズ『リヴァイアサン』(河川稗勝斬11966年)カールシュミット『政治的なものの概念』(未来社1970年)クーペルスカンデル細『EU時代の到来一ヨーロッパ柵祉社会社会lも1sectl錘』(未来社2m9年)THグリーン『イギリス峨命礁蕊一クロムウェルの此和I珂』(未来社2011年)ほか「IIIIII溌築j(f1巻未来社)刊行ln森臣広(しげもりたみひろ)1959年北海迦生まれ111央人学大学院法学研究科1I後期過醐中退現イl立命航大学政爾科学部教授政論思想史専攻此特許に八脚j倣椴rdquordquoノldquo他岫幽eqf彫IM1ksqノセタ施yBef加加(ChuoU1】iversityLibmry1989)択緋にトマスホッブズ『竹学者と法学徒との対船--イングランドのコモンロ-をめくる』(共択鰐披文叩2002年)リツーャードタツ

繩縦政鰐魏職(辮陶鞭W9)ト賢二泌端芽一キン『政治思想のなかの女-その西洋的伝統』(共訳蝦ldquordquo2010年)ほか行安茂(ゆきやすしげる)1931年岡山鼎生まれ1K島大学大学院文学研究科博士課程修了岡山大学洛誉教授倫理学専攻符勘に『トマスヒルグリーン研究-その思想形成と哲学」(理紐社1974年)『デューイ倫理学の形成と展開』(以文社1988年)『近代Ⅲ本の思想藻とイギリス理想主義』(北樹出版27年)ほか錨著岱に『THグリーン研究』(御茶の水書厨1982年)rHシジウイク研究---現代正錠抽への道』(以文社1992年)ほか大塚桂(おおつかかつら)19釦年神奈川鼎生まれ日本大学法学部卒業現在駒椰大学法学郁救授政治思想史国家強専攻蕃密に『政治学原強序説--政治における制腿と行動』(勁蛾緋脚1rdquo4年)『多元的国家強の展開一原鋼瑠崎卯--をめぐって』(法律文化社1999年)『多元的国家讃のI附辺』(1fill1I20IX)

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加重哲郎(かとうてつろう)1947年岩手県生まれ東j(入学法学部小粟現イIsectIL稲1II大学大学院政治学研究科群間敬授橘大学瑞俳牧授政論学呼攻符蒋に『象徴天皇制の起源一アメリカの心即戦「1Mfi111djj」(平凡社新鶴2005年)『梢報戟の時代一インターネットと劇埋政論』(花仏社2()07年)『ワイマール期べルリンのH本人---洋行知織人のj叉術オツトゾーク』(淵波野店2008年) ぜ _

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それは第一に崎村が第二次世界大戦中の一九四一丁四四年にベルリンの駐独日本大使館砺託で

ありながら中立国スウェーデンに「亡命」し岬時の「rsquo一ユーョークタイムズ」「タイム」等連合

国側メディアで「初めて連合国に加わろうとしたH本人」「枢軸国の敗北を初めて公言したR本人」

と報道された希有な体験の持ち主だからである

箪疋崎村は一九五年には中国雌命直後の北京に住んでおり中国側の資料と当時の日本で

の報道によれば「毛沢東暗殺未遂耶件」に関わったとされる点である

これまで判明している崎村の生涯はおおむね以下の通りである

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一九九年東京に生まれる聞知商等学校珊科乙麺から東京帝大農学部農業綴済学科卒業

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東陥没未遂邸件」に迎座と報道される(「師新聞』几肚rarr年八川rarr輯H)日本の留守家族はこの報道

で初めて崎村茂樹が職後に生きていた澗息を知る

一九正近年拘束を解かれ中国から婦国矢部貞治学壁に調われて拓殖大学経済学部教授

一九Lハー年n本鉄鋼統制会ベルリン事務所時代の上劔八幡製鉄島村哲夫常務に誠われ八幡製鉄嘱

託東京理科大学教授(工業特諦柧当)ただしドイツスウェーデン中国での一五年間の体験に

ついては婦国後家族にもほとんど語らなかった

一九八二年食道ガンで死去

だが崎村茂樹の生涯は謎だらけであるご適族も一九四一年の訪独から五五年の巾伺からの

州仙までの「究白の一通年Ⅲ」について排しいことを知らない私のホームページ「ネチズンカレ

ッジ」には「崎村晩樹の六つの謎」がかかげられ現柾も椚報提供を求めている(言【旦菖勇曽二台

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もともと崎村茂樹というⅢ本人の存征を私が知ったのは》六年叉のことであるドイツのベ

ルリン映剛岬物館から冊独関係史研究を共鵬ドイツ締で発表してきた数人のH本人研究背に宛て

て発せられた三通の唯rメールからであった

それによるとドイツ統一後のベルリンの象徴として作られたポツダム広場の映側博物館が刊行し

ている映卿人シリーズに戦後西ドイツの特糸な女流映画評論家であったカレーナrsquo一Iホップ

(昏罵冨画z菖昌』sect-一雷)の評伝が加えられることになったユダヤ系ドイツ人である彼女の戦時遺品

巾に彼女が一九州《rsquo四剰年にⅢ本鉄鋼統制会ベルリン珊箭所に勤務しユダヤ人川食蜘配給券の

偽迭でナチスゲシュタポに検挙されたさい征独Ⅱ本大使館咽託でH本鉄鋼統制会ベルリン州務所

のアナリストである「崎村茂樹」というⅢ本人の奔走と助命喚願書で生命を救われ戦後に生き残る

ことができたという資料があるその「崎村伐棚」とは何者かを知りたいという問合せであった

洲時ベルリン映画博物鯨から連絡を受けた一機大学勤務の私東京大学継済学部石兇徹教授成

城大学法学部棚嶋僧雄教授ら七人で「崎村茂樹探索ネットワーク」を作り私の個人ホームページ

「ネチズンカレッジ」を使って世界中に情報提供を呼びかけた即座にさまざまな梢報が寄せられ

崎村家ご辿族や東束大学磯学部関係好からもある報喚の愉報が集まった

カレーナニーホッフの梛仏は一七年一川に刊行された崎村の同臘圃H本大使館側の地位

を利川した一九側堂年が叫時の助下1質ャ人女性カレーナニーホッフヘの助命蝋噸併を背いて

の救援はカレーナ自身が戦後に生き残り峨願沸緬や写典を磯したことにより那爽と腿められた

ミルリンの「シンドラーのリスト」「もう一人の杉脈千

①蒲き崎村麓樹はリベラル左派だったのか親ナチ右派だったのか

②崎村茂樹はなぜスウェーデンに「亡命」したのか

③崎村晩樹の一九四玉I川四年「亡命」は迎合側班との「和平正作」を意味するか

④いったん『亡命」した崎村肱樹はなぜベルリンに戻りドイツ敗職をいかに迎えたか

⑤二九叫丘年Ⅲドイツ敗戦で崎村腿樹はなぜⅢ本に戻らず中国に向かったのか

⑥一九W血年九州以降崎村此樹はなぜ中側に幾り何をしていたのか

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3崎村茂樹のユダヤ人救出とスウェーデン「亡命」

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してストックホルムに「亡命」したと考えたのだがどうもこの件で崎村茂樹が処分されたり大使館

に厨つらくなったという形跡はなかった川當年九月のスウェーデン行きは鉄鋼統制会アナリスト

としての「川搬」名目であった

私たちの何人かはドイツスウェーデンの現地調在を行ないドイツ連邦公文曹航外務省史料

航やカレーナrsquo-1ホップ家に残された崎村関係簡料の収無当時の現地新聞妃耶やベルリンスト

ックホルムの住所群橘先の捌在インタビューを進めたあわせて探求を四孔年五月ドイツ敗職

時の崎村のベルリン脱川シベリア鉄道綴曲の満州側への人卿Ⅱ本敗戦後長祥での残刷職後内職

期中国砿命時の活動へと広げていったその中川報告は二七年三月早稲田大学二世紀メ

ディア研究所の公開辮演会で評論家佐藤優氏と共にハワーポイント原稿で行ない「インテリジェン

ス」蝋九号に屑報職のなかの層愈人l鼎定洞から崎村茂樹まで」と題して雲した

(二七年勇言胃壽cョ名畠畠凰辱8昌冨5国囲冨目日言己)

「インテリジェンス」論文発表後公開識減会で一緒に報告した佐藤優氏がそれまで全く証言の得

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らに米国倒立公文譜館(NARA}所厳で現在ではH本の掴会図書館等でも閲覧可能な連合砿押収文

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中央附州脚CIA)に秘かに紀録され枢軸国ドイツ川本側は否定し沈黙してきた「在独側本大使館側

のスウェーデン亡命と連合側との接触」が史実としてⅢ迎いないものとなった

ところがそれでは終わらなかった「崎村茂樹問題文書」など新たに発見した資料で崎村の

「亡命」の事実関係はかなり明確になったが肝心の「亡命」の動機がはっきりしないのである以

ドは「インテリジェンス」論文のその後の研究にもとづく改訂を兼ねた一九四三年九月ストックホ

ルムでの崎村の「亡命』から四四年五川ベルリンへの強制送還までのスケッチである

崎村娩樹のスウェーデン人凶は一九四三年九七冊で計画的な「亡命』ではなかった前述の

4戦時中立国スウェiデンで亡命者を助けた社会民主主義

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j命の執縦依頼を断った

畦ところがその而縦が「デイリーメール」肛川Ⅱ付の「H本人外交Wがベルリンから逃亡して

1馳縦る」「束條の部下から迎合岡へのアピール」というセンセーショナルな妃邪になるロイター砿で

の世界に配帖されラジオでも放送されたためリスボンの在ポルトガル陸耶武官室や伺阻通備のヨー

印槌剰ロッハ特派側網もスウェーデン政府と在独n本大使館に問い合わせ本格的捜索に動きだす

秘スウェーデン脚本公使館陸瓶武樹小野寺信と同盟通信ストックホルム特派員斉藤正明が崎村の隠れ

家をみつけたらしく崎村は『デイリーメール」記者の狸造記事であると否定したが弁明を迫ら

社rsquoれたナチスのドイツ通偏(DNB)での反論ラジオ悉組がただちに組まれ五月五日にはドイツの新

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ょぅに当初は日本鉄鋼統制会の公務出狼を兼ねた休暇名目で入ったらしいところが九月一日読

売新聞ストックホルム特派員蝉野満洲雄がベルリンに転勤するにあたっての現地日本人による壮行連

動会に参加し偶発的な事故で足の催我をしたそこで入院した病院でレクターサンドベルグ

(rdquo月ざ『勺『mgQg員)というスウェーデン人教師と同霊になったすぐに親しくなり空襲のベルリン

には戻らずスウェーデンに滞在することを勧められ当時ストックホルム大学識師でスウェーデン社

会民稚労働党思想誌「弓昼目」縞集長だったトルステンゴルトルンドが率いる反ナチ知識人亡命者

支援組織に組み込まれた四三年一二月初めからスウェーデン日本公使館にハスポートを取り上げ

られた状態のまま「亡命」生活に入り行方をくらました

一九餌凹年一月には日本外務省嘱託を解任されたが約五人のスウェーデン人一人のドイツ

人人のノルウェー人の支援を受け労働市場調在の仕事も紹介された崎村は戦火を離れ森

と湖に川まれたストックホルムで同年識の経済学行ゴルトルンドや先にドイツから亡命していた

ドイツ社会民主党(SPD)在外ネットワーク組織汁であるユダヤ系教育学者フランッモクラウアー

らの庇俄のもとドイツ語で一九四隼に刊行した『日本経済の新編成』に続く一耐の本『日本の

腱業経済』『H本経済史』を準備していたという

ベルリン日本大使館とストックホルム日本公使航はこの間崎村の行方を捜し求めていたまた

ナチスのゲシュタポとスウェーデン警察それに連合国側の英国情報機関MI6米国悩報機関OS

Sも職時在独日本大使館員の中立国スウェーープンへの「亡命」に注目し秘かに追っていた

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戦後まで生き残り得た理由の一つとなった

一九四四年ⅢⅡ二八冊在独内務邪務耐佐藤彩1は「崎村事件に関する調書」を作り六月一日付

で崎村茂樹は「今回ロイター耶件は其の波紋極めて火きく全く恐縮に堪えず」という「誓約響」を醤

かされた東京の外務省本省参諜本部にはおそらく迎絡されないまま在独日本大使館内で一件落

着がはかられたすでに日本への公篭連絡さえ側雌になった欧州戦線の通信事情もあるが日独同盟

に慨をつけない配虚であったろう

その過程で内務省の佐藤彰三鉄鋼統制会蹄村価夫スウェーデンの陸軍武官小野寺傭同盟通

偲斉藤正恥らの間で崎村の「亡命」を大小にしないための筬略が練られたポイントは崎村「亡

命」時の生活徴の出所(スポンサー)それに崎村の左翼迦動思想歴第三インターナショナル

(共廉脆捉インターコミンーブルンrarr九一九rsquo四年)-との関わりだった

戦時ヨーロッハのⅢ本人特派員の多くは派遮先取材祁手や在外日本人の思想動向を探る諜報員の

役割を果たした斉藤特派員が佐藤彰一一larrにあてた崎村の身上調書が「崎村事件に関する調書」に付

されているそれによると崎村は「初歩的な唯物論の把握」はあるが左翼思想連動歴はなく

「亡命」先のストックホルムでも「第三インター系には現在まで何等交渉なし」スウェーデンの亡命

者支援組織から月一五クローネはどの援助を受けていたがそれは交友関係を含め「第二インター

系統」であるから心配ないむしろ崎村を謹慎させたうえで彼の学識を今後も日独枢軸国の勝利の

lデンの社会民主主義の活動家たちだったじつはこのことが崎村茂樹が「大逆罪」に問われず

剛にも『崎村教授は英米に利川された」という否定記邪が掲峨されたナチ党にとっても砿大耶件だ

ったらしく一九四四年五川初めの『ゲッペルス旧記』には三回も「崎村教授の珈件」が出てくる

ドイツの外筋衙ゲシュタポからは「束唯のゾルゲ邪件への報復」(ドイツ国繍の「ゲルマン人」

であるゾルゲ検挙裁判への膜発)として崎村の身柄引き渡しが漉求され在独日本大使館でも「大

逆卯」の声があがったがどうやらMⅢ皿僻芥藤特派側と鉄鋼統制会ペルリン耶務所奨励村哲夫が脱

得役になり征独内防術州務所休雌彪とベルリン総械耶鯉水太郎がストックホルムに赴いて正月却一

川崎村を拘束拉致ベルリンへの「強制送還」になったそれをスウェーデンの新聞雑総はが

典入りで大々的に扱い「タイム」総六川ⅡⅡ号の紀珈に繋がった

以後ナチスドイツに送り返された崎村がどうなったかはドイツ外務194797史料館所蔵のドイツ政

府と征独Ⅱ本大使館の交渉ファイルや現地捌在から「インテリジェンス」論文に犯した皿りで川本

人仙飢による奇妙な身柄拘束軟恭聴視が州K年孔川ドイツ敗戦まで続いた中剛での崎村の波

淵Prime丈についてはここでは行略する

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村茂樹の戦時スウェーデンE命」を支扱し生活手段まで面倒を見ていたのは中立国スウエ

5プラントらの社会民主主凝「小インターナショナル」

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ために使うべしというものであった

つまり在独日本大使館も在スウェーデン日本公使鮒も崎村の「亡命」の背後に第三インターナ

ショナル系列の共産主義運動があるのではと疑ったが彼は「第二インター系統」の社会民主主義の

方だから人丈夫だというまことに川本的治安維持法的な発想のおかげで崎村茂樹の生命は助か

った小愉の問いはここから始まる「インテリジェンる論文を発表後ドイツ現代史の専門家であ

る水ル消彦氏から新たな价棚が術せられた内分が挑んだヴィリプラントの北欧亡命期の川想巾

にドイツの川本大使館から逃げてきたH本人のことがでてくるそれが「インテリジェンス」鮒文

にある崎村茂樹ではないかというのであるそしてそれは永井氏も佐藤優氏とは別に職時在

独Ⅱ水火仙鮒の生き柾人吉野文六氏に問い合わせⅢ通いないものと確縄された

一九四rsquo四四年当時のストックホルムにはナチスに追われたり戦場占領地から避難した世

界の社会災抜主錠者が多数滞在していたその中心はドイツ社会民主党の亡命者組織でありそ

こから「ストックホルム民主主義的社会主推祥のインターナショナルグループ」が生まれた支扱

するスウェーデン社会民主労働党貝を含め岐大時両人にも満たない小さな国際連帯組織輌溜「ク

ラィネインテルナッィォナーレ』爪インターナショナル』)であつたがドイツオーストリアポーランド

ハンガリーチエコノルウェーデンマークフランススペインハレスチナアイスランド

イギリスアメリカなどからストックホルムに「平和」を求めた社会民主主義者たちが集っていた

それは戦後ヨーロッハ統合と福祉国家いや戦後阯界の「民主主義的な社会主義」「差異のデモク

ラシー」の行方にも大きな意味を持った

中心的指導者は亡命巾のドイツ社会民主党貝ジャーナリストヴィリプラントでありナチス

敗北後関ベルリン市長から西ドイツ筒相までのばりつめた一九七一年のノーベル平和賞受賃者で

ある{プラント『畷Iレジス典ンス』蝋胤祉兀しf一

この組織を共に担ったⅢ友のユダヤ系オーストリア人ブルーノクラィスキーは戦後オーストリ

アで外交Wとなり永世中立国の地位をⅢ拠初のオーストリア社会党政楡の首相となるちょうど

亡命時代の「峨友』プラントが西ドイツで竹川になったころだった

仙界から亡命社会民北主錠将を受け入れ支扱したホスト役はスウェーデン社会民主労働党側のな

かのⅨファシズム側隙主義新たちである巾血悩スウェーデンの知識人や国際活動の経験肴が多く

合まれていたそこにカールグンナーミュルダールとアルバラィマルミュルダール火斐の

船がある夫のカールは当時ストックホルム商科大学の経済学荷で戦後は通商大臣を務めたストッ

クホルム学派の瓶鎮で一九七四年にフリードリヒハィエクと共にノーベル維済学賞を受徹した

菱のアルハもスウェーデン福祉政筑の椎進者でユネスコや国迎軍縮会識で活鍬した一九八皇年

にはノーベル平和徴を受賞し夫と共に終生世界平和の提唱者牽引者となった

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加齢郎がウィーン大学での講減会に棚かれたがドイツ政府により許可されなかった記録が見つかった

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ヴイリプラントの回想

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そしてこの小規模だが密度の濃い国際社会民主主義の亡

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だけのことと思われるがよほど印象に残ったのかノーベ

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[参考文献]

加藤哲郎『倒境を越えるユートピァー佃民脚家のエルゴロジー』平凡社二二年

加藤哲郎『怖報戦と現代史l日本国惣法へのもうひとつの道』花伝社二七年

二年)

しかしナチスに追われ「亡命」したのはユダヤ人や共産主義者ばかりではない第二次世界人

戦期には社会民主主義者も自由主義春も故旧を追われ世界に分散して緩やかなネットワークを保

っていたストックホルムの「小インターナショナル」もその一つでそこでプラントやミュルダー

ル夫斐がナチズム打倒後の世界を構想していたそれはヨーロッパ統合や平和共存国際通貨体制

貧困国開発援助「持続しうる地球」に連なるものであったに違いない共産主義の「現存した社会

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得られないか私の探求の旅はなお道半ばである統背の情報提供を再度お願いする(盲目愚

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加藤竹郎今井将奴神山仲弘細『挫拠のデモクラシー』Ⅲ本経済評総社二一年

川臘価郎小野一川巾ひかる珈祁孝川細『側艮旧家の境界』旧水経済押鱸社》o一年

加藤価郎冊野洲人細『民碓主錠平和地球政治』Ⅱ本綴済排総社6一年

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年)『近代日本の政治学行群倣--政抽概念抽争をめ〈って』(勁草書房2001年)『Iリl論l却家の拙本柵避術i剛l腿primekのプレリュード』(法抑文化社2002年)『Iリl始鬮説と瑞術典祝』(1bllllトI200II)TIリ1泊維新の思想』(成文堂2005年)『大東猟liMhIWIの蚊捕学』(成文イM2()O7年)rⅡ本の政治文化』(勁草諜腸2008年)rll本政油学の先駆lfj(成文lsquo戦2011年)ほか田中治男(たなかはるお)1935年京都府生まれ束戚大学大学院法学政泊学研究科椰士課程修了成隈大学名汁教授政治思想史呼攻佛杵に『フランス自由主義の生成と展開--l九世紀フランス政流思惣研究』(蝿順大学川版会1970年)『近代政治思想史(4)---産業化と大衆時代の政治思想』(イI斐閣1978年)『西欧

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加重哲郎(かとうてつろう)1947年岩手県生まれ東j(入学法学部小粟現イIsectIL稲1II大学大学院政治学研究科群間敬授橘大学瑞俳牧授政論学呼攻符蒋に『象徴天皇制の起源一アメリカの心即戦「1Mfi111djj」(平凡社新鶴2005年)『梢報戟の時代一インターネットと劇埋政論』(花仏社2()07年)『ワイマール期べルリンのH本人---洋行知織人のj叉術オツトゾーク』(淵波野店2008年) ぜ _

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のアナリストである「崎村茂樹」というⅢ本人の奔走と助命喚願書で生命を救われ戦後に生き残る

ことができたという資料があるその「崎村伐棚」とは何者かを知りたいという問合せであった

洲時ベルリン映画博物鯨から連絡を受けた一機大学勤務の私東京大学継済学部石兇徹教授成

城大学法学部棚嶋僧雄教授ら七人で「崎村茂樹探索ネットワーク」を作り私の個人ホームページ

「ネチズンカレッジ」を使って世界中に情報提供を呼びかけた即座にさまざまな梢報が寄せられ

崎村家ご辿族や東束大学磯学部関係好からもある報喚の愉報が集まった

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の救援はカレーナ自身が戦後に生き残り峨願沸緬や写典を磯したことにより那爽と腿められた

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①蒲き崎村麓樹はリベラル左派だったのか親ナチ右派だったのか

②崎村茂樹はなぜスウェーデンに「亡命」したのか

③崎村晩樹の一九四玉I川四年「亡命」は迎合側班との「和平正作」を意味するか

④いったん『亡命」した崎村肱樹はなぜベルリンに戻りドイツ敗職をいかに迎えたか

⑤二九叫丘年Ⅲドイツ敗戦で崎村腿樹はなぜⅢ本に戻らず中国に向かったのか

⑥一九W血年九州以降崎村此樹はなぜ中側に幾り何をしていたのか

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航やカレーナrsquo-1ホップ家に残された崎村関係簡料の収無当時の現地新聞妃耶やベルリンスト

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ところがそれでは終わらなかった「崎村茂樹問題文書」など新たに発見した資料で崎村の

「亡命」の事実関係はかなり明確になったが肝心の「亡命」の動機がはっきりしないのである以

ドは「インテリジェンス」論文のその後の研究にもとづく改訂を兼ねた一九四三年九月ストックホ

ルムでの崎村の「亡命』から四四年五川ベルリンへの強制送還までのスケッチである

崎村娩樹のスウェーデン人凶は一九四三年九七冊で計画的な「亡命』ではなかった前述の

4戦時中立国スウェiデンで亡命者を助けた社会民主主義

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の世界に配帖されラジオでも放送されたためリスボンの在ポルトガル陸耶武官室や伺阻通備のヨー

印槌剰ロッハ特派側網もスウェーデン政府と在独n本大使館に問い合わせ本格的捜索に動きだす

秘スウェーデン脚本公使館陸瓶武樹小野寺信と同盟通信ストックホルム特派員斉藤正明が崎村の隠れ

家をみつけたらしく崎村は『デイリーメール」記者の狸造記事であると否定したが弁明を迫ら

社rsquoれたナチスのドイツ通偏(DNB)での反論ラジオ悉組がただちに組まれ五月五日にはドイツの新

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売新聞ストックホルム特派員蝉野満洲雄がベルリンに転勤するにあたっての現地日本人による壮行連

動会に参加し偶発的な事故で足の催我をしたそこで入院した病院でレクターサンドベルグ

(rdquo月ざ『勺『mgQg員)というスウェーデン人教師と同霊になったすぐに親しくなり空襲のベルリン

には戻らずスウェーデンに滞在することを勧められ当時ストックホルム大学識師でスウェーデン社

会民稚労働党思想誌「弓昼目」縞集長だったトルステンゴルトルンドが率いる反ナチ知識人亡命者

支援組織に組み込まれた四三年一二月初めからスウェーデン日本公使館にハスポートを取り上げ

られた状態のまま「亡命」生活に入り行方をくらました

一九餌凹年一月には日本外務省嘱託を解任されたが約五人のスウェーデン人一人のドイツ

人人のノルウェー人の支援を受け労働市場調在の仕事も紹介された崎村は戦火を離れ森

と湖に川まれたストックホルムで同年識の経済学行ゴルトルンドや先にドイツから亡命していた

ドイツ社会民主党(SPD)在外ネットワーク組織汁であるユダヤ系教育学者フランッモクラウアー

らの庇俄のもとドイツ語で一九四隼に刊行した『日本経済の新編成』に続く一耐の本『日本の

腱業経済』『H本経済史』を準備していたという

ベルリン日本大使館とストックホルム日本公使航はこの間崎村の行方を捜し求めていたまた

ナチスのゲシュタポとスウェーデン警察それに連合国側の英国情報機関MI6米国悩報機関OS

Sも職時在独日本大使館員の中立国スウェーープンへの「亡命」に注目し秘かに追っていた

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戦後まで生き残り得た理由の一つとなった

一九四四年ⅢⅡ二八冊在独内務邪務耐佐藤彩1は「崎村事件に関する調書」を作り六月一日付

で崎村茂樹は「今回ロイター耶件は其の波紋極めて火きく全く恐縮に堪えず」という「誓約響」を醤

かされた東京の外務省本省参諜本部にはおそらく迎絡されないまま在独日本大使館内で一件落

着がはかられたすでに日本への公篭連絡さえ側雌になった欧州戦線の通信事情もあるが日独同盟

に慨をつけない配虚であったろう

その過程で内務省の佐藤彰三鉄鋼統制会蹄村価夫スウェーデンの陸軍武官小野寺傭同盟通

偲斉藤正恥らの間で崎村の「亡命」を大小にしないための筬略が練られたポイントは崎村「亡

命」時の生活徴の出所(スポンサー)それに崎村の左翼迦動思想歴第三インターナショナル

(共廉脆捉インターコミンーブルンrarr九一九rsquo四年)-との関わりだった

戦時ヨーロッハのⅢ本人特派員の多くは派遮先取材祁手や在外日本人の思想動向を探る諜報員の

役割を果たした斉藤特派員が佐藤彰一一larrにあてた崎村の身上調書が「崎村事件に関する調書」に付

されているそれによると崎村は「初歩的な唯物論の把握」はあるが左翼思想連動歴はなく

「亡命」先のストックホルムでも「第三インター系には現在まで何等交渉なし」スウェーデンの亡命

者支援組織から月一五クローネはどの援助を受けていたがそれは交友関係を含め「第二インター

系統」であるから心配ないむしろ崎村を謹慎させたうえで彼の学識を今後も日独枢軸国の勝利の

lデンの社会民主主義の活動家たちだったじつはこのことが崎村茂樹が「大逆罪」に問われず

剛にも『崎村教授は英米に利川された」という否定記邪が掲峨されたナチ党にとっても砿大耶件だ

ったらしく一九四四年五川初めの『ゲッペルス旧記』には三回も「崎村教授の珈件」が出てくる

ドイツの外筋衙ゲシュタポからは「束唯のゾルゲ邪件への報復」(ドイツ国繍の「ゲルマン人」

であるゾルゲ検挙裁判への膜発)として崎村の身柄引き渡しが漉求され在独日本大使館でも「大

逆卯」の声があがったがどうやらMⅢ皿僻芥藤特派側と鉄鋼統制会ペルリン耶務所奨励村哲夫が脱

得役になり征独内防術州務所休雌彪とベルリン総械耶鯉水太郎がストックホルムに赴いて正月却一

川崎村を拘束拉致ベルリンへの「強制送還」になったそれをスウェーデンの新聞雑総はが

典入りで大々的に扱い「タイム」総六川ⅡⅡ号の紀珈に繋がった

以後ナチスドイツに送り返された崎村がどうなったかはドイツ外務194797史料館所蔵のドイツ政

府と征独Ⅱ本大使館の交渉ファイルや現地捌在から「インテリジェンス」論文に犯した皿りで川本

人仙飢による奇妙な身柄拘束軟恭聴視が州K年孔川ドイツ敗戦まで続いた中剛での崎村の波

淵Prime丈についてはここでは行略する

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村茂樹の戦時スウェーデンE命」を支扱し生活手段まで面倒を見ていたのは中立国スウエ

5プラントらの社会民主主凝「小インターナショナル」

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ために使うべしというものであった

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ショナル系列の共産主義運動があるのではと疑ったが彼は「第二インター系統」の社会民主主義の

方だから人丈夫だというまことに川本的治安維持法的な発想のおかげで崎村茂樹の生命は助か

った小愉の問いはここから始まる「インテリジェンる論文を発表後ドイツ現代史の専門家であ

る水ル消彦氏から新たな价棚が術せられた内分が挑んだヴィリプラントの北欧亡命期の川想巾

にドイツの川本大使館から逃げてきたH本人のことがでてくるそれが「インテリジェンス」鮒文

にある崎村茂樹ではないかというのであるそしてそれは永井氏も佐藤優氏とは別に職時在

独Ⅱ水火仙鮒の生き柾人吉野文六氏に問い合わせⅢ通いないものと確縄された

一九四rsquo四四年当時のストックホルムにはナチスに追われたり戦場占領地から避難した世

界の社会災抜主錠者が多数滞在していたその中心はドイツ社会民主党の亡命者組織でありそ

こから「ストックホルム民主主義的社会主推祥のインターナショナルグループ」が生まれた支扱

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イギリスアメリカなどからストックホルムに「平和」を求めた社会民主主義者たちが集っていた

それは戦後ヨーロッハ統合と福祉国家いや戦後阯界の「民主主義的な社会主義」「差異のデモク

ラシー」の行方にも大きな意味を持った

中心的指導者は亡命巾のドイツ社会民主党貝ジャーナリストヴィリプラントでありナチス

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リン率いるソ連と共産主義への態度戦後国際金融経済秩序や植民地支援の194797想信教の自由と国際

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加齢郎がウィーン大学での講減会に棚かれたがドイツ政府により許可されなかった記録が見つかった

鍵もっとも私の主要な関心は当時の米国OSSヨーロッパ総局長スイスのアレンダレス(戦後

隙CIA股禰)の戦時諜報ネットワークが「亡命」Ⅱ本人崎村茂樹との接触と共にストックホルムの

巡胸蝿社会民推服錠国際組織にまで及んでいたかどうかにある

郷川本で社会主鍵の刷際辿幣といえば通端「鉄の規神」で結ばれた共産主義のコミンテルンコミ

ンフォルム系列がイメージされる私側身もその系列の歴史と「ソ辿邦防衛」が百人近いⅢ本人瑚

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118

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ルダールと一緒にノーベル経済学賞を受賞する脱理的自由主義背ハイエクの日本への紹介荷の一人で

面識もあったことをまた当時のスウェーデン政府大蔵次官スウェーデン銀行総裁ダグハマー

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ヴイリプラントの回想

法砿縮と世界平和の将来が討論されていた

そしてこの小規模だが密度の濃い国際社会民主主義の亡

命者組織の例会にただ一人アジアからしかもナチスの同

盟国日本からの亡命者が顔を出した崎村茂樹である一度

だけのことと思われるがよほど印象に残ったのかノーベ

ル平和賞受賞後のヴィリープラントは回想に書き残した

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120生命jj(IIIIMWRM)社会民主主役の旧隙連帯と121

[参考文献]

加藤哲郎『倒境を越えるユートピァー佃民脚家のエルゴロジー』平凡社二二年

加藤哲郎『怖報戦と現代史l日本国惣法へのもうひとつの道』花伝社二七年

二年)

しかしナチスに追われ「亡命」したのはユダヤ人や共産主義者ばかりではない第二次世界人

戦期には社会民主主義者も自由主義春も故旧を追われ世界に分散して緩やかなネットワークを保

っていたストックホルムの「小インターナショナル」もその一つでそこでプラントやミュルダー

ル夫斐がナチズム打倒後の世界を構想していたそれはヨーロッパ統合や平和共存国際通貨体制

貧困国開発援助「持続しうる地球」に連なるものであったに違いない共産主義の「現存した社会

主義」亡きあとそれはある極の社会主義の生命力をぷす邪例でもある

そしてその生命力とは北欧社会民主主推の柵祉脚家に代表される制度設計政策体系はもちろ

んであるが崎村茂樹のような無弔のⅡ本人を「スハイ」と疑うことなく受け入れその後の運命を

心配するような人間へのまなざしとネットワークの開放性「差異のデモクラシー」であった西

欧社会民主唯義の「原子力」観についても「小インターナショナル』関係稀からなんらかの示唆が

得られないか私の探求の旅はなお道半ばである統背の情報提供を再度お願いする(盲目愚

勇墓曇色b『〕も雷まで)

加藤竹郎今井将奴神山仲弘細『挫拠のデモクラシー』Ⅲ本経済評総社二一年

川臘価郎小野一川巾ひかる珈祁孝川細『側艮旧家の境界』旧水経済押鱸社》o一年

加藤価郎冊野洲人細『民碓主錠平和地球政治』Ⅱ本綴済排総社6一年

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年)『近代日本の政治学行群倣--政抽概念抽争をめ〈って』(勁草書房2001年)『Iリl論l却家の拙本柵避術i剛l腿primekのプレリュード』(法抑文化社2002年)『Iリl始鬮説と瑞術典祝』(1bllllトI200II)TIリ1泊維新の思想』(成文堂2005年)『大東猟liMhIWIの蚊捕学』(成文イM2()O7年)rⅡ本の政治文化』(勁草諜腸2008年)rll本政油学の先駆lfj(成文lsquo戦2011年)ほか田中治男(たなかはるお)1935年京都府生まれ束戚大学大学院法学政泊学研究科椰士課程修了成隈大学名汁教授政治思想史呼攻佛杵に『フランス自由主義の生成と展開--l九世紀フランス政流思惣研究』(蝿順大学川版会1970年)『近代政治思想史(4)---産業化と大衆時代の政治思想』(イI斐閣1978年)『西欧

執錐考略服

田中浩(たなかひろし)1926年佐賀鼎生まれ東求文理科大学哲学科卒現在型学院大学大学院教授楠大学躬俳教授政治思想史専攻著菩に『是谷川如雌閑研究序鋭』(未来社1989年)『カールシュミットー魔性の政治学』(未来社1992年)『〔改ir卿補飯〕ホッブズ研究序説一近代掴家趙の生誕』(御茶の水縛脚1994年)『〔新版]l司家と個人一市民碓命から現代まで』(珊波紳店2rdquo8年)ほか典択井にトマスホップズ『リヴァイアサン』(河川稗勝斬11966年)カールシュミット『政治的なものの概念』(未来社1970年)クーペルスカンデル細『EU時代の到来一ヨーロッパ柵祉社会社会lも1sectl錘』(未来社2m9年)THグリーン『イギリス峨命礁蕊一クロムウェルの此和I珂』(未来社2011年)ほか「IIIIII溌築j(f1巻未来社)刊行ln森臣広(しげもりたみひろ)1959年北海迦生まれ111央人学大学院法学研究科1I後期過醐中退現イl立命航大学政爾科学部教授政論思想史専攻此特許に八脚j倣椴rdquordquoノldquo他岫幽eqf彫IM1ksqノセタ施yBef加加(ChuoU1】iversityLibmry1989)択緋にトマスホッブズ『竹学者と法学徒との対船--イングランドのコモンロ-をめくる』(共択鰐披文叩2002年)リツーャードタツ

繩縦政鰐魏職(辮陶鞭W9)ト賢二泌端芽一キン『政治思想のなかの女-その西洋的伝統』(共訳蝦ldquordquo2010年)ほか行安茂(ゆきやすしげる)1931年岡山鼎生まれ1K島大学大学院文学研究科博士課程修了岡山大学洛誉教授倫理学専攻符勘に『トマスヒルグリーン研究-その思想形成と哲学」(理紐社1974年)『デューイ倫理学の形成と展開』(以文社1988年)『近代Ⅲ本の思想藻とイギリス理想主義』(北樹出版27年)ほか錨著岱に『THグリーン研究』(御茶の水書厨1982年)rHシジウイク研究---現代正錠抽への道』(以文社1992年)ほか大塚桂(おおつかかつら)19釦年神奈川鼎生まれ日本大学法学部卒業現在駒椰大学法学郁救授政治思想史国家強専攻蕃密に『政治学原強序説--政治における制腿と行動』(勁蛾緋脚1rdquo4年)『多元的国家強の展開一原鋼瑠崎卯--をめぐって』(法律文化社1999年)『多元的国家讃のI附辺』(1fill1I20IX)

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1951年人阪府1歌れ111稲1I1入学人膿院文細I究科IW土牒程修ro現在H本女f大学人IⅢ社会lsquo液部教授近現代11本史呼攻蒋幣に『シリーズⅡ本近現代史く4〉大11sectデモクラシー』(刑波新18ト2007年)r「戦争経験」の戦後史一一錨られた体験細iIIJ値』(聯波謝Ji2010年)『近現代旧木史と歴史学一背き俳えられてきた過去』(II1公斬1l$2012年)ほか杉田敦(すぎたあつし)1959年群賜県生まれ束來都ffち東附〔大学法学部卒業現在法政大学法学部教授政治理論哩攻蒋祢に『塊界線の政治学』(岩波瞥店2005年)『政治への想像力』(岩波湖01i2Ⅸ19年)『政治的思馳(砦波新書2013年)ほか千葉眞(ちばしん)1949年宮城県生まれプリンストン神学大学PhD(政治倫理学)現在国際基督教大学教義学部牧授内欧政治忠紐山政泊理趙専攻著書に『アーレントと現代一向曲の政論とその鵬躯』(淵波書店1996年)「デモクラシー』(器波書店20M年)『「未光の航命」としての平和遜法』(岩波書店2伽9年)ほか新川敏光(しんかわとしみつ)1956年北海通生まれカナダトロント大学大学院PhD取得現在京都大学法学研究科教授政浦過繩強比絞政治学専攻著符に『日本型稲祉レジームの発展と変容』(ミオルヴフ排j2005年)『幻視のなかの社会民主主義一一「戦後日本政治とl会1ampI_1淡」』(法律文化社2007年)ほか

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加重哲郎(かとうてつろう)1947年岩手県生まれ東j(入学法学部小粟現イIsectIL稲1II大学大学院政治学研究科群間敬授橘大学瑞俳牧授政論学呼攻符蒋に『象徴天皇制の起源一アメリカの心即戦「1Mfi111djj」(平凡社新鶴2005年)『梢報戟の時代一インターネットと劇埋政論』(花仏社2()07年)『ワイマール期べルリンのH本人---洋行知織人のj叉術オツトゾーク』(淵波野店2008年) ぜ _

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に厨つらくなったという形跡はなかった川當年九月のスウェーデン行きは鉄鋼統制会アナリスト

としての「川搬」名目であった

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航やカレーナrsquo-1ホップ家に残された崎村関係簡料の収無当時の現地新聞妃耶やベルリンスト

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時の崎村のベルリン脱川シベリア鉄道綴曲の満州側への人卿Ⅱ本敗戦後長祥での残刷職後内職

期中国砿命時の活動へと広げていったその中川報告は二七年三月早稲田大学二世紀メ

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「インテリジェンス」論文発表後公開識減会で一緒に報告した佐藤優氏がそれまで全く証言の得

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のスウェーデン亡命と連合側との接触」が史実としてⅢ迎いないものとなった

ところがそれでは終わらなかった「崎村茂樹問題文書」など新たに発見した資料で崎村の

「亡命」の事実関係はかなり明確になったが肝心の「亡命」の動機がはっきりしないのである以

ドは「インテリジェンス」論文のその後の研究にもとづく改訂を兼ねた一九四三年九月ストックホ

ルムでの崎村の「亡命』から四四年五川ベルリンへの強制送還までのスケッチである

崎村娩樹のスウェーデン人凶は一九四三年九七冊で計画的な「亡命』ではなかった前述の

4戦時中立国スウェiデンで亡命者を助けた社会民主主義

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ズ」一九W四年瓜Ⅱ一Ⅱ付妃叩『Ⅲ本人が大使伽から脱走」「タイム」総六円近日号『抵抗の方法』

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j命の執縦依頼を断った

畦ところがその而縦が「デイリーメール」肛川Ⅱ付の「H本人外交Wがベルリンから逃亡して

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の世界に配帖されラジオでも放送されたためリスボンの在ポルトガル陸耶武官室や伺阻通備のヨー

印槌剰ロッハ特派側網もスウェーデン政府と在独n本大使館に問い合わせ本格的捜索に動きだす

秘スウェーデン脚本公使館陸瓶武樹小野寺信と同盟通信ストックホルム特派員斉藤正明が崎村の隠れ

家をみつけたらしく崎村は『デイリーメール」記者の狸造記事であると否定したが弁明を迫ら

社rsquoれたナチスのドイツ通偏(DNB)での反論ラジオ悉組がただちに組まれ五月五日にはドイツの新

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売新聞ストックホルム特派員蝉野満洲雄がベルリンに転勤するにあたっての現地日本人による壮行連

動会に参加し偶発的な事故で足の催我をしたそこで入院した病院でレクターサンドベルグ

(rdquo月ざ『勺『mgQg員)というスウェーデン人教師と同霊になったすぐに親しくなり空襲のベルリン

には戻らずスウェーデンに滞在することを勧められ当時ストックホルム大学識師でスウェーデン社

会民稚労働党思想誌「弓昼目」縞集長だったトルステンゴルトルンドが率いる反ナチ知識人亡命者

支援組織に組み込まれた四三年一二月初めからスウェーデン日本公使館にハスポートを取り上げ

られた状態のまま「亡命」生活に入り行方をくらました

一九餌凹年一月には日本外務省嘱託を解任されたが約五人のスウェーデン人一人のドイツ

人人のノルウェー人の支援を受け労働市場調在の仕事も紹介された崎村は戦火を離れ森

と湖に川まれたストックホルムで同年識の経済学行ゴルトルンドや先にドイツから亡命していた

ドイツ社会民主党(SPD)在外ネットワーク組織汁であるユダヤ系教育学者フランッモクラウアー

らの庇俄のもとドイツ語で一九四隼に刊行した『日本経済の新編成』に続く一耐の本『日本の

腱業経済』『H本経済史』を準備していたという

ベルリン日本大使館とストックホルム日本公使航はこの間崎村の行方を捜し求めていたまた

ナチスのゲシュタポとスウェーデン警察それに連合国側の英国情報機関MI6米国悩報機関OS

Sも職時在独日本大使館員の中立国スウェーープンへの「亡命」に注目し秘かに追っていた

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戦後まで生き残り得た理由の一つとなった

一九四四年ⅢⅡ二八冊在独内務邪務耐佐藤彩1は「崎村事件に関する調書」を作り六月一日付

で崎村茂樹は「今回ロイター耶件は其の波紋極めて火きく全く恐縮に堪えず」という「誓約響」を醤

かされた東京の外務省本省参諜本部にはおそらく迎絡されないまま在独日本大使館内で一件落

着がはかられたすでに日本への公篭連絡さえ側雌になった欧州戦線の通信事情もあるが日独同盟

に慨をつけない配虚であったろう

その過程で内務省の佐藤彰三鉄鋼統制会蹄村価夫スウェーデンの陸軍武官小野寺傭同盟通

偲斉藤正恥らの間で崎村の「亡命」を大小にしないための筬略が練られたポイントは崎村「亡

命」時の生活徴の出所(スポンサー)それに崎村の左翼迦動思想歴第三インターナショナル

(共廉脆捉インターコミンーブルンrarr九一九rsquo四年)-との関わりだった

戦時ヨーロッハのⅢ本人特派員の多くは派遮先取材祁手や在外日本人の思想動向を探る諜報員の

役割を果たした斉藤特派員が佐藤彰一一larrにあてた崎村の身上調書が「崎村事件に関する調書」に付

されているそれによると崎村は「初歩的な唯物論の把握」はあるが左翼思想連動歴はなく

「亡命」先のストックホルムでも「第三インター系には現在まで何等交渉なし」スウェーデンの亡命

者支援組織から月一五クローネはどの援助を受けていたがそれは交友関係を含め「第二インター

系統」であるから心配ないむしろ崎村を謹慎させたうえで彼の学識を今後も日独枢軸国の勝利の

lデンの社会民主主義の活動家たちだったじつはこのことが崎村茂樹が「大逆罪」に問われず

剛にも『崎村教授は英米に利川された」という否定記邪が掲峨されたナチ党にとっても砿大耶件だ

ったらしく一九四四年五川初めの『ゲッペルス旧記』には三回も「崎村教授の珈件」が出てくる

ドイツの外筋衙ゲシュタポからは「束唯のゾルゲ邪件への報復」(ドイツ国繍の「ゲルマン人」

であるゾルゲ検挙裁判への膜発)として崎村の身柄引き渡しが漉求され在独日本大使館でも「大

逆卯」の声があがったがどうやらMⅢ皿僻芥藤特派側と鉄鋼統制会ペルリン耶務所奨励村哲夫が脱

得役になり征独内防術州務所休雌彪とベルリン総械耶鯉水太郎がストックホルムに赴いて正月却一

川崎村を拘束拉致ベルリンへの「強制送還」になったそれをスウェーデンの新聞雑総はが

典入りで大々的に扱い「タイム」総六川ⅡⅡ号の紀珈に繋がった

以後ナチスドイツに送り返された崎村がどうなったかはドイツ外務194797史料館所蔵のドイツ政

府と征独Ⅱ本大使館の交渉ファイルや現地捌在から「インテリジェンス」論文に犯した皿りで川本

人仙飢による奇妙な身柄拘束軟恭聴視が州K年孔川ドイツ敗戦まで続いた中剛での崎村の波

淵Prime丈についてはここでは行略する

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村茂樹の戦時スウェーデンE命」を支扱し生活手段まで面倒を見ていたのは中立国スウエ

5プラントらの社会民主主凝「小インターナショナル」

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ために使うべしというものであった

つまり在独日本大使館も在スウェーデン日本公使鮒も崎村の「亡命」の背後に第三インターナ

ショナル系列の共産主義運動があるのではと疑ったが彼は「第二インター系統」の社会民主主義の

方だから人丈夫だというまことに川本的治安維持法的な発想のおかげで崎村茂樹の生命は助か

った小愉の問いはここから始まる「インテリジェンる論文を発表後ドイツ現代史の専門家であ

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にドイツの川本大使館から逃げてきたH本人のことがでてくるそれが「インテリジェンス」鮒文

にある崎村茂樹ではないかというのであるそしてそれは永井氏も佐藤優氏とは別に職時在

独Ⅱ水火仙鮒の生き柾人吉野文六氏に問い合わせⅢ通いないものと確縄された

一九四rsquo四四年当時のストックホルムにはナチスに追われたり戦場占領地から避難した世

界の社会災抜主錠者が多数滞在していたその中心はドイツ社会民主党の亡命者組織でありそ

こから「ストックホルム民主主義的社会主推祥のインターナショナルグループ」が生まれた支扱

するスウェーデン社会民主労働党貝を含め岐大時両人にも満たない小さな国際連帯組織輌溜「ク

ラィネインテルナッィォナーレ』爪インターナショナル』)であつたがドイツオーストリアポーランド

ハンガリーチエコノルウェーデンマークフランススペインハレスチナアイスランド

イギリスアメリカなどからストックホルムに「平和」を求めた社会民主主義者たちが集っていた

それは戦後ヨーロッハ統合と福祉国家いや戦後阯界の「民主主義的な社会主義」「差異のデモク

ラシー」の行方にも大きな意味を持った

中心的指導者は亡命巾のドイツ社会民主党貝ジャーナリストヴィリプラントでありナチス

敗北後関ベルリン市長から西ドイツ筒相までのばりつめた一九七一年のノーベル平和賞受賃者で

ある{プラント『畷Iレジス典ンス』蝋胤祉兀しf一

この組織を共に担ったⅢ友のユダヤ系オーストリア人ブルーノクラィスキーは戦後オーストリ

アで外交Wとなり永世中立国の地位をⅢ拠初のオーストリア社会党政楡の首相となるちょうど

亡命時代の「峨友』プラントが西ドイツで竹川になったころだった

仙界から亡命社会民北主錠将を受け入れ支扱したホスト役はスウェーデン社会民主労働党側のな

かのⅨファシズム側隙主義新たちである巾血悩スウェーデンの知識人や国際活動の経験肴が多く

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リン率いるソ連と共産主義への態度戦後国際金融経済秩序や植民地支援の194797想信教の自由と国際

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加齢郎がウィーン大学での講減会に棚かれたがドイツ政府により許可されなかった記録が見つかった

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隙CIA股禰)の戦時諜報ネットワークが「亡命」Ⅱ本人崎村茂樹との接触と共にストックホルムの

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郷川本で社会主鍵の刷際辿幣といえば通端「鉄の規神」で結ばれた共産主義のコミンテルンコミ

ンフォルム系列がイメージされる私側身もその系列の歴史と「ソ辿邦防衛」が百人近いⅢ本人瑚

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118

無総プラントは知らなかったこの日本人の緋い維済学者(当噛孟歳)が生き残り④のちにミュ

ルダールと一緒にノーベル経済学賞を受賞する脱理的自由主義背ハイエクの日本への紹介荷の一人で

面識もあったことをまた当時のスウェーデン政府大蔵次官スウェーデン銀行総裁ダグハマー

ショルドとも会っていたらしいこともハマーショルドは国連事務総長時代の一九六一年コンゴ

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われわれの会合への風変わりな肋間将は一人の端いⅡ本人だった彼はベルリンの川本大使

航で仕邪をしていたがわれわれを見つけだした川本の秘密警察が彼を迫っていたので彼は

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ヴイリプラントの回想

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そしてこの小規模だが密度の濃い国際社会民主主義の亡

命者組織の例会にただ一人アジアからしかもナチスの同

盟国日本からの亡命者が顔を出した崎村茂樹である一度

だけのことと思われるがよほど印象に残ったのかノーベ

ル平和賞受賞後のヴィリープラントは回想に書き残した

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[参考文献]

加藤哲郎『倒境を越えるユートピァー佃民脚家のエルゴロジー』平凡社二二年

加藤哲郎『怖報戦と現代史l日本国惣法へのもうひとつの道』花伝社二七年

二年)

しかしナチスに追われ「亡命」したのはユダヤ人や共産主義者ばかりではない第二次世界人

戦期には社会民主主義者も自由主義春も故旧を追われ世界に分散して緩やかなネットワークを保

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貧困国開発援助「持続しうる地球」に連なるものであったに違いない共産主義の「現存した社会

主義」亡きあとそれはある極の社会主義の生命力をぷす邪例でもある

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加藤竹郎今井将奴神山仲弘細『挫拠のデモクラシー』Ⅲ本経済評総社二一年

川臘価郎小野一川巾ひかる珈祁孝川細『側艮旧家の境界』旧水経済押鱸社》o一年

加藤価郎冊野洲人細『民碓主錠平和地球政治』Ⅱ本綴済排総社6一年

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年)『近代日本の政治学行群倣--政抽概念抽争をめ〈って』(勁草書房2001年)『Iリl論l却家の拙本柵避術i剛l腿primekのプレリュード』(法抑文化社2002年)『Iリl始鬮説と瑞術典祝』(1bllllトI200II)TIリ1泊維新の思想』(成文堂2005年)『大東猟liMhIWIの蚊捕学』(成文イM2()O7年)rⅡ本の政治文化』(勁草諜腸2008年)rll本政油学の先駆lfj(成文lsquo戦2011年)ほか田中治男(たなかはるお)1935年京都府生まれ束戚大学大学院法学政泊学研究科椰士課程修了成隈大学名汁教授政治思想史呼攻佛杵に『フランス自由主義の生成と展開--l九世紀フランス政流思惣研究』(蝿順大学川版会1970年)『近代政治思想史(4)---産業化と大衆時代の政治思想』(イI斐閣1978年)『西欧

執錐考略服

田中浩(たなかひろし)1926年佐賀鼎生まれ東求文理科大学哲学科卒現在型学院大学大学院教授楠大学躬俳教授政治思想史専攻著菩に『是谷川如雌閑研究序鋭』(未来社1989年)『カールシュミットー魔性の政治学』(未来社1992年)『〔改ir卿補飯〕ホッブズ研究序説一近代掴家趙の生誕』(御茶の水縛脚1994年)『〔新版]l司家と個人一市民碓命から現代まで』(珊波紳店2rdquo8年)ほか典択井にトマスホップズ『リヴァイアサン』(河川稗勝斬11966年)カールシュミット『政治的なものの概念』(未来社1970年)クーペルスカンデル細『EU時代の到来一ヨーロッパ柵祉社会社会lも1sectl錘』(未来社2m9年)THグリーン『イギリス峨命礁蕊一クロムウェルの此和I珂』(未来社2011年)ほか「IIIIII溌築j(f1巻未来社)刊行ln森臣広(しげもりたみひろ)1959年北海迦生まれ111央人学大学院法学研究科1I後期過醐中退現イl立命航大学政爾科学部教授政論思想史専攻此特許に八脚j倣椴rdquordquoノldquo他岫幽eqf彫IM1ksqノセタ施yBef加加(ChuoU1】iversityLibmry1989)択緋にトマスホッブズ『竹学者と法学徒との対船--イングランドのコモンロ-をめくる』(共択鰐披文叩2002年)リツーャードタツ

繩縦政鰐魏職(辮陶鞭W9)ト賢二泌端芽一キン『政治思想のなかの女-その西洋的伝統』(共訳蝦ldquordquo2010年)ほか行安茂(ゆきやすしげる)1931年岡山鼎生まれ1K島大学大学院文学研究科博士課程修了岡山大学洛誉教授倫理学専攻符勘に『トマスヒルグリーン研究-その思想形成と哲学」(理紐社1974年)『デューイ倫理学の形成と展開』(以文社1988年)『近代Ⅲ本の思想藻とイギリス理想主義』(北樹出版27年)ほか錨著岱に『THグリーン研究』(御茶の水書厨1982年)rHシジウイク研究---現代正錠抽への道』(以文社1992年)ほか大塚桂(おおつかかつら)19釦年神奈川鼎生まれ日本大学法学部卒業現在駒椰大学法学郁救授政治思想史国家強専攻蕃密に『政治学原強序説--政治における制腿と行動』(勁蛾緋脚1rdquo4年)『多元的国家強の展開一原鋼瑠崎卯--をめぐって』(法律文化社1999年)『多元的国家讃のI附辺』(1fill1I20IX)

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加重哲郎(かとうてつろう)1947年岩手県生まれ東j(入学法学部小粟現イIsectIL稲1II大学大学院政治学研究科群間敬授橘大学瑞俳牧授政論学呼攻符蒋に『象徴天皇制の起源一アメリカの心即戦「1Mfi111djj」(平凡社新鶴2005年)『梢報戟の時代一インターネットと劇埋政論』(花仏社2()07年)『ワイマール期べルリンのH本人---洋行知織人のj叉術オツトゾーク』(淵波野店2008年) ぜ _

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という米側メディアの撒遊ではなかったそれは笑側の新聞と戦時の大衆江伝メディアであるラジ

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の世界に配帖されラジオでも放送されたためリスボンの在ポルトガル陸耶武官室や伺阻通備のヨー

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家をみつけたらしく崎村は『デイリーメール」記者の狸造記事であると否定したが弁明を迫ら

社rsquoれたナチスのドイツ通偏(DNB)での反論ラジオ悉組がただちに組まれ五月五日にはドイツの新

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売新聞ストックホルム特派員蝉野満洲雄がベルリンに転勤するにあたっての現地日本人による壮行連

動会に参加し偶発的な事故で足の催我をしたそこで入院した病院でレクターサンドベルグ

(rdquo月ざ『勺『mgQg員)というスウェーデン人教師と同霊になったすぐに親しくなり空襲のベルリン

には戻らずスウェーデンに滞在することを勧められ当時ストックホルム大学識師でスウェーデン社

会民稚労働党思想誌「弓昼目」縞集長だったトルステンゴルトルンドが率いる反ナチ知識人亡命者

支援組織に組み込まれた四三年一二月初めからスウェーデン日本公使館にハスポートを取り上げ

られた状態のまま「亡命」生活に入り行方をくらました

一九餌凹年一月には日本外務省嘱託を解任されたが約五人のスウェーデン人一人のドイツ

人人のノルウェー人の支援を受け労働市場調在の仕事も紹介された崎村は戦火を離れ森

と湖に川まれたストックホルムで同年識の経済学行ゴルトルンドや先にドイツから亡命していた

ドイツ社会民主党(SPD)在外ネットワーク組織汁であるユダヤ系教育学者フランッモクラウアー

らの庇俄のもとドイツ語で一九四隼に刊行した『日本経済の新編成』に続く一耐の本『日本の

腱業経済』『H本経済史』を準備していたという

ベルリン日本大使館とストックホルム日本公使航はこの間崎村の行方を捜し求めていたまた

ナチスのゲシュタポとスウェーデン警察それに連合国側の英国情報機関MI6米国悩報機関OS

Sも職時在独日本大使館員の中立国スウェーープンへの「亡命」に注目し秘かに追っていた

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戦後まで生き残り得た理由の一つとなった

一九四四年ⅢⅡ二八冊在独内務邪務耐佐藤彩1は「崎村事件に関する調書」を作り六月一日付

で崎村茂樹は「今回ロイター耶件は其の波紋極めて火きく全く恐縮に堪えず」という「誓約響」を醤

かされた東京の外務省本省参諜本部にはおそらく迎絡されないまま在独日本大使館内で一件落

着がはかられたすでに日本への公篭連絡さえ側雌になった欧州戦線の通信事情もあるが日独同盟

に慨をつけない配虚であったろう

その過程で内務省の佐藤彰三鉄鋼統制会蹄村価夫スウェーデンの陸軍武官小野寺傭同盟通

偲斉藤正恥らの間で崎村の「亡命」を大小にしないための筬略が練られたポイントは崎村「亡

命」時の生活徴の出所(スポンサー)それに崎村の左翼迦動思想歴第三インターナショナル

(共廉脆捉インターコミンーブルンrarr九一九rsquo四年)-との関わりだった

戦時ヨーロッハのⅢ本人特派員の多くは派遮先取材祁手や在外日本人の思想動向を探る諜報員の

役割を果たした斉藤特派員が佐藤彰一一larrにあてた崎村の身上調書が「崎村事件に関する調書」に付

されているそれによると崎村は「初歩的な唯物論の把握」はあるが左翼思想連動歴はなく

「亡命」先のストックホルムでも「第三インター系には現在まで何等交渉なし」スウェーデンの亡命

者支援組織から月一五クローネはどの援助を受けていたがそれは交友関係を含め「第二インター

系統」であるから心配ないむしろ崎村を謹慎させたうえで彼の学識を今後も日独枢軸国の勝利の

lデンの社会民主主義の活動家たちだったじつはこのことが崎村茂樹が「大逆罪」に問われず

剛にも『崎村教授は英米に利川された」という否定記邪が掲峨されたナチ党にとっても砿大耶件だ

ったらしく一九四四年五川初めの『ゲッペルス旧記』には三回も「崎村教授の珈件」が出てくる

ドイツの外筋衙ゲシュタポからは「束唯のゾルゲ邪件への報復」(ドイツ国繍の「ゲルマン人」

であるゾルゲ検挙裁判への膜発)として崎村の身柄引き渡しが漉求され在独日本大使館でも「大

逆卯」の声があがったがどうやらMⅢ皿僻芥藤特派側と鉄鋼統制会ペルリン耶務所奨励村哲夫が脱

得役になり征独内防術州務所休雌彪とベルリン総械耶鯉水太郎がストックホルムに赴いて正月却一

川崎村を拘束拉致ベルリンへの「強制送還」になったそれをスウェーデンの新聞雑総はが

典入りで大々的に扱い「タイム」総六川ⅡⅡ号の紀珈に繋がった

以後ナチスドイツに送り返された崎村がどうなったかはドイツ外務194797史料館所蔵のドイツ政

府と征独Ⅱ本大使館の交渉ファイルや現地捌在から「インテリジェンス」論文に犯した皿りで川本

人仙飢による奇妙な身柄拘束軟恭聴視が州K年孔川ドイツ敗戦まで続いた中剛での崎村の波

淵Prime丈についてはここでは行略する

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ショナル系列の共産主義運動があるのではと疑ったが彼は「第二インター系統」の社会民主主義の

方だから人丈夫だというまことに川本的治安維持法的な発想のおかげで崎村茂樹の生命は助か

った小愉の問いはここから始まる「インテリジェンる論文を発表後ドイツ現代史の専門家であ

る水ル消彦氏から新たな价棚が術せられた内分が挑んだヴィリプラントの北欧亡命期の川想巾

にドイツの川本大使館から逃げてきたH本人のことがでてくるそれが「インテリジェンス」鮒文

にある崎村茂樹ではないかというのであるそしてそれは永井氏も佐藤優氏とは別に職時在

独Ⅱ水火仙鮒の生き柾人吉野文六氏に問い合わせⅢ通いないものと確縄された

一九四rsquo四四年当時のストックホルムにはナチスに追われたり戦場占領地から避難した世

界の社会災抜主錠者が多数滞在していたその中心はドイツ社会民主党の亡命者組織でありそ

こから「ストックホルム民主主義的社会主推祥のインターナショナルグループ」が生まれた支扱

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ラシー」の行方にも大きな意味を持った

中心的指導者は亡命巾のドイツ社会民主党貝ジャーナリストヴィリプラントでありナチス

敗北後関ベルリン市長から西ドイツ筒相までのばりつめた一九七一年のノーベル平和賞受賃者で

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この組織を共に担ったⅢ友のユダヤ系オーストリア人ブルーノクラィスキーは戦後オーストリ

アで外交Wとなり永世中立国の地位をⅢ拠初のオーストリア社会党政楡の首相となるちょうど

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そこでは戦後社会民主主鍵労働巡勁の間際組織再建(社会主錠インターナショナル)スター

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加齢郎がウィーン大学での講減会に棚かれたがドイツ政府により許可されなかった記録が見つかった

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社リー洲に州紬した悲劇を追いかけてきた(加懲『脚鯉を趣える11トピァー圃鵬側潔のエルゴ画ジー』鼎凡祉ライブラリ-

118

無総プラントは知らなかったこの日本人の緋い維済学者(当噛孟歳)が生き残り④のちにミュ

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航で仕邪をしていたがわれわれを見つけだした川本の秘密警察が彼を迫っていたので彼は

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油啄氏捌仙)

ヴイリプラントの回想

法砿縮と世界平和の将来が討論されていた

そしてこの小規模だが密度の濃い国際社会民主主義の亡

命者組織の例会にただ一人アジアからしかもナチスの同

盟国日本からの亡命者が顔を出した崎村茂樹である一度

だけのことと思われるがよほど印象に残ったのかノーベ

ル平和賞受賞後のヴィリープラントは回想に書き残した

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120生命jj(IIIIMWRM)社会民主主役の旧隙連帯と121

[参考文献]

加藤哲郎『倒境を越えるユートピァー佃民脚家のエルゴロジー』平凡社二二年

加藤哲郎『怖報戦と現代史l日本国惣法へのもうひとつの道』花伝社二七年

二年)

しかしナチスに追われ「亡命」したのはユダヤ人や共産主義者ばかりではない第二次世界人

戦期には社会民主主義者も自由主義春も故旧を追われ世界に分散して緩やかなネットワークを保

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ル夫斐がナチズム打倒後の世界を構想していたそれはヨーロッパ統合や平和共存国際通貨体制

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主義」亡きあとそれはある極の社会主義の生命力をぷす邪例でもある

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んであるが崎村茂樹のような無弔のⅡ本人を「スハイ」と疑うことなく受け入れその後の運命を

心配するような人間へのまなざしとネットワークの開放性「差異のデモクラシー」であった西

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執錐考略服

田中浩(たなかひろし)1926年佐賀鼎生まれ東求文理科大学哲学科卒現在型学院大学大学院教授楠大学躬俳教授政治思想史専攻著菩に『是谷川如雌閑研究序鋭』(未来社1989年)『カールシュミットー魔性の政治学』(未来社1992年)『〔改ir卿補飯〕ホッブズ研究序説一近代掴家趙の生誕』(御茶の水縛脚1994年)『〔新版]l司家と個人一市民碓命から現代まで』(珊波紳店2rdquo8年)ほか典択井にトマスホップズ『リヴァイアサン』(河川稗勝斬11966年)カールシュミット『政治的なものの概念』(未来社1970年)クーペルスカンデル細『EU時代の到来一ヨーロッパ柵祉社会社会lも1sectl錘』(未来社2m9年)THグリーン『イギリス峨命礁蕊一クロムウェルの此和I珂』(未来社2011年)ほか「IIIIII溌築j(f1巻未来社)刊行ln森臣広(しげもりたみひろ)1959年北海迦生まれ111央人学大学院法学研究科1I後期過醐中退現イl立命航大学政爾科学部教授政論思想史専攻此特許に八脚j倣椴rdquordquoノldquo他岫幽eqf彫IM1ksqノセタ施yBef加加(ChuoU1】iversityLibmry1989)択緋にトマスホッブズ『竹学者と法学徒との対船--イングランドのコモンロ-をめくる』(共択鰐披文叩2002年)リツーャードタツ

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一九四四年ⅢⅡ二八冊在独内務邪務耐佐藤彩1は「崎村事件に関する調書」を作り六月一日付

で崎村茂樹は「今回ロイター耶件は其の波紋極めて火きく全く恐縮に堪えず」という「誓約響」を醤

かされた東京の外務省本省参諜本部にはおそらく迎絡されないまま在独日本大使館内で一件落

着がはかられたすでに日本への公篭連絡さえ側雌になった欧州戦線の通信事情もあるが日独同盟

に慨をつけない配虚であったろう

その過程で内務省の佐藤彰三鉄鋼統制会蹄村価夫スウェーデンの陸軍武官小野寺傭同盟通

偲斉藤正恥らの間で崎村の「亡命」を大小にしないための筬略が練られたポイントは崎村「亡

命」時の生活徴の出所(スポンサー)それに崎村の左翼迦動思想歴第三インターナショナル

(共廉脆捉インターコミンーブルンrarr九一九rsquo四年)-との関わりだった

戦時ヨーロッハのⅢ本人特派員の多くは派遮先取材祁手や在外日本人の思想動向を探る諜報員の

役割を果たした斉藤特派員が佐藤彰一一larrにあてた崎村の身上調書が「崎村事件に関する調書」に付

されているそれによると崎村は「初歩的な唯物論の把握」はあるが左翼思想連動歴はなく

「亡命」先のストックホルムでも「第三インター系には現在まで何等交渉なし」スウェーデンの亡命

者支援組織から月一五クローネはどの援助を受けていたがそれは交友関係を含め「第二インター

系統」であるから心配ないむしろ崎村を謹慎させたうえで彼の学識を今後も日独枢軸国の勝利の

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剛にも『崎村教授は英米に利川された」という否定記邪が掲峨されたナチ党にとっても砿大耶件だ

ったらしく一九四四年五川初めの『ゲッペルス旧記』には三回も「崎村教授の珈件」が出てくる

ドイツの外筋衙ゲシュタポからは「束唯のゾルゲ邪件への報復」(ドイツ国繍の「ゲルマン人」

であるゾルゲ検挙裁判への膜発)として崎村の身柄引き渡しが漉求され在独日本大使館でも「大

逆卯」の声があがったがどうやらMⅢ皿僻芥藤特派側と鉄鋼統制会ペルリン耶務所奨励村哲夫が脱

得役になり征独内防術州務所休雌彪とベルリン総械耶鯉水太郎がストックホルムに赴いて正月却一

川崎村を拘束拉致ベルリンへの「強制送還」になったそれをスウェーデンの新聞雑総はが

典入りで大々的に扱い「タイム」総六川ⅡⅡ号の紀珈に繋がった

以後ナチスドイツに送り返された崎村がどうなったかはドイツ外務194797史料館所蔵のドイツ政

府と征独Ⅱ本大使館の交渉ファイルや現地捌在から「インテリジェンス」論文に犯した皿りで川本

人仙飢による奇妙な身柄拘束軟恭聴視が州K年孔川ドイツ敗戦まで続いた中剛での崎村の波

淵Prime丈についてはここでは行略する

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ショナル系列の共産主義運動があるのではと疑ったが彼は「第二インター系統」の社会民主主義の

方だから人丈夫だというまことに川本的治安維持法的な発想のおかげで崎村茂樹の生命は助か

った小愉の問いはここから始まる「インテリジェンる論文を発表後ドイツ現代史の専門家であ

る水ル消彦氏から新たな价棚が術せられた内分が挑んだヴィリプラントの北欧亡命期の川想巾

にドイツの川本大使館から逃げてきたH本人のことがでてくるそれが「インテリジェンス」鮒文

にある崎村茂樹ではないかというのであるそしてそれは永井氏も佐藤優氏とは別に職時在

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一九四rsquo四四年当時のストックホルムにはナチスに追われたり戦場占領地から避難した世

界の社会災抜主錠者が多数滞在していたその中心はドイツ社会民主党の亡命者組織でありそ

こから「ストックホルム民主主義的社会主推祥のインターナショナルグループ」が生まれた支扱

するスウェーデン社会民主労働党貝を含め岐大時両人にも満たない小さな国際連帯組織輌溜「ク

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それは戦後ヨーロッハ統合と福祉国家いや戦後阯界の「民主主義的な社会主義」「差異のデモク

ラシー」の行方にも大きな意味を持った

中心的指導者は亡命巾のドイツ社会民主党貝ジャーナリストヴィリプラントでありナチス

敗北後関ベルリン市長から西ドイツ筒相までのばりつめた一九七一年のノーベル平和賞受賃者で

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この組織を共に担ったⅢ友のユダヤ系オーストリア人ブルーノクラィスキーは戦後オーストリ

アで外交Wとなり永世中立国の地位をⅢ拠初のオーストリア社会党政楡の首相となるちょうど

亡命時代の「峨友』プラントが西ドイツで竹川になったころだった

仙界から亡命社会民北主錠将を受け入れ支扱したホスト役はスウェーデン社会民主労働党側のな

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合まれていたそこにカールグンナーミュルダールとアルバラィマルミュルダール火斐の

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クホルム学派の瓶鎮で一九七四年にフリードリヒハィエクと共にノーベル維済学賞を受徹した

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にはノーベル平和徴を受賞し夫と共に終生世界平和の提唱者牽引者となった

そこでは戦後社会民主主鍵労働巡勁の間際組織再建(社会主錠インターナショナル)スター

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ボンのドイツ社公民柑党フリードリヒエーベルト財Ⅲにヴィリプラントアーヵィヴがありそ

こで淵時の肥鍬を閲鷺したが新しい発見はなかったその代わり今Ⅲ北欧社会民主狼捉の脈史

的研究で知られるクラウスミスゲルドの学問的脱点が彼の卿士論文での「クラィネインーアルナ

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Iosect冨品》ぐの『層潔呂の馬駕二段頁昌電毎)またウィーン入学図書館で一九四三年に崎村茂樹と笠備太

加齢郎がウィーン大学での講減会に棚かれたがドイツ政府により許可されなかった記録が見つかった

鍵もっとも私の主要な関心は当時の米国OSSヨーロッパ総局長スイスのアレンダレス(戦後

隙CIA股禰)の戦時諜報ネットワークが「亡命」Ⅱ本人崎村茂樹との接触と共にストックホルムの

巡胸蝿社会民推服錠国際組織にまで及んでいたかどうかにある

郷川本で社会主鍵の刷際辿幣といえば通端「鉄の規神」で結ばれた共産主義のコミンテルンコミ

ンフォルム系列がイメージされる私側身もその系列の歴史と「ソ辿邦防衛」が百人近いⅢ本人瑚

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無総プラントは知らなかったこの日本人の緋い維済学者(当噛孟歳)が生き残り④のちにミュ

ルダールと一緒にノーベル経済学賞を受賞する脱理的自由主義背ハイエクの日本への紹介荷の一人で

面識もあったことをまた当時のスウェーデン政府大蔵次官スウェーデン銀行総裁ダグハマー

ショルドとも会っていたらしいこともハマーショルドは国連事務総長時代の一九六一年コンゴ

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われわれの会合への風変わりな肋間将は一人の端いⅡ本人だった彼はベルリンの川本大使

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ヴイリプラントの回想

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そしてこの小規模だが密度の濃い国際社会民主主義の亡

命者組織の例会にただ一人アジアからしかもナチスの同

盟国日本からの亡命者が顔を出した崎村茂樹である一度

だけのことと思われるがよほど印象に残ったのかノーベ

ル平和賞受賞後のヴィリープラントは回想に書き残した

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120生命jj(IIIIMWRM)社会民主主役の旧隙連帯と121

[参考文献]

加藤哲郎『倒境を越えるユートピァー佃民脚家のエルゴロジー』平凡社二二年

加藤哲郎『怖報戦と現代史l日本国惣法へのもうひとつの道』花伝社二七年

二年)

しかしナチスに追われ「亡命」したのはユダヤ人や共産主義者ばかりではない第二次世界人

戦期には社会民主主義者も自由主義春も故旧を追われ世界に分散して緩やかなネットワークを保

っていたストックホルムの「小インターナショナル」もその一つでそこでプラントやミュルダー

ル夫斐がナチズム打倒後の世界を構想していたそれはヨーロッパ統合や平和共存国際通貨体制

貧困国開発援助「持続しうる地球」に連なるものであったに違いない共産主義の「現存した社会

主義」亡きあとそれはある極の社会主義の生命力をぷす邪例でもある

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田中浩(たなかひろし)1926年佐賀鼎生まれ東求文理科大学哲学科卒現在型学院大学大学院教授楠大学躬俳教授政治思想史専攻著菩に『是谷川如雌閑研究序鋭』(未来社1989年)『カールシュミットー魔性の政治学』(未来社1992年)『〔改ir卿補飯〕ホッブズ研究序説一近代掴家趙の生誕』(御茶の水縛脚1994年)『〔新版]l司家と個人一市民碓命から現代まで』(珊波紳店2rdquo8年)ほか典択井にトマスホップズ『リヴァイアサン』(河川稗勝斬11966年)カールシュミット『政治的なものの概念』(未来社1970年)クーペルスカンデル細『EU時代の到来一ヨーロッパ柵祉社会社会lも1sectl錘』(未来社2m9年)THグリーン『イギリス峨命礁蕊一クロムウェルの此和I珂』(未来社2011年)ほか「IIIIII溌築j(f1巻未来社)刊行ln森臣広(しげもりたみひろ)1959年北海迦生まれ111央人学大学院法学研究科1I後期過醐中退現イl立命航大学政爾科学部教授政論思想史専攻此特許に八脚j倣椴rdquordquoノldquo他岫幽eqf彫IM1ksqノセタ施yBef加加(ChuoU1】iversityLibmry1989)択緋にトマスホッブズ『竹学者と法学徒との対船--イングランドのコモンロ-をめくる』(共択鰐披文叩2002年)リツーャードタツ

繩縦政鰐魏職(辮陶鞭W9)ト賢二泌端芽一キン『政治思想のなかの女-その西洋的伝統』(共訳蝦ldquordquo2010年)ほか行安茂(ゆきやすしげる)1931年岡山鼎生まれ1K島大学大学院文学研究科博士課程修了岡山大学洛誉教授倫理学専攻符勘に『トマスヒルグリーン研究-その思想形成と哲学」(理紐社1974年)『デューイ倫理学の形成と展開』(以文社1988年)『近代Ⅲ本の思想藻とイギリス理想主義』(北樹出版27年)ほか錨著岱に『THグリーン研究』(御茶の水書厨1982年)rHシジウイク研究---現代正錠抽への道』(以文社1992年)ほか大塚桂(おおつかかつら)19釦年神奈川鼎生まれ日本大学法学部卒業現在駒椰大学法学郁救授政治思想史国家強専攻蕃密に『政治学原強序説--政治における制腿と行動』(勁蛾緋脚1rdquo4年)『多元的国家強の展開一原鋼瑠崎卯--をめぐって』(法律文化社1999年)『多元的国家讃のI附辺』(1fill1I20IX)

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ショナル系列の共産主義運動があるのではと疑ったが彼は「第二インター系統」の社会民主主義の

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合まれていたそこにカールグンナーミュルダールとアルバラィマルミュルダール火斐の

船がある夫のカールは当時ストックホルム商科大学の経済学荷で戦後は通商大臣を務めたストッ

クホルム学派の瓶鎮で一九七四年にフリードリヒハィエクと共にノーベル維済学賞を受徹した

菱のアルハもスウェーデン福祉政筑の椎進者でユネスコや国迎軍縮会識で活鍬した一九八皇年

にはノーベル平和徴を受賞し夫と共に終生世界平和の提唱者牽引者となった

そこでは戦後社会民主主鍵労働巡勁の間際組織再建(社会主錠インターナショナル)スター

リン率いるソ連と共産主義への態度戦後国際金融経済秩序や植民地支援の194797想信教の自由と国際

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動乱時に蝋行機那故で亡くなる死後にノーベル平和衝が授与されたから「亡命巻」崎村伐樹のま

わりから職後孔人ものノーベル賞受枇粁がⅢたことになる

ヴイリプラントと社会災脱稚義「小イン投Iナショナル』を細ぺるにはドイツに赴くしかない

ボンのドイツ社公民柑党フリードリヒエーベルト財Ⅲにヴィリプラントアーヵィヴがありそ

こで淵時の肥鍬を閲鷺したが新しい発見はなかったその代わり今Ⅲ北欧社会民主狼捉の脈史

的研究で知られるクラウスミスゲルドの学問的脱点が彼の卿士論文での「クラィネインーアルナ

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Iosect冨品》ぐの『層潔呂の馬駕二段頁昌電毎)またウィーン入学図書館で一九四三年に崎村茂樹と笠備太

加齢郎がウィーン大学での講減会に棚かれたがドイツ政府により許可されなかった記録が見つかった

鍵もっとも私の主要な関心は当時の米国OSSヨーロッパ総局長スイスのアレンダレス(戦後

隙CIA股禰)の戦時諜報ネットワークが「亡命」Ⅱ本人崎村茂樹との接触と共にストックホルムの

巡胸蝿社会民推服錠国際組織にまで及んでいたかどうかにある

郷川本で社会主鍵の刷際辿幣といえば通端「鉄の規神」で結ばれた共産主義のコミンテルンコミ

ンフォルム系列がイメージされる私側身もその系列の歴史と「ソ辿邦防衛」が百人近いⅢ本人瑚

社リー洲に州紬した悲劇を追いかけてきた(加懲『脚鯉を趣える11トピァー圃鵬側潔のエルゴ画ジー』鼎凡祉ライブラリ-

118

無総プラントは知らなかったこの日本人の緋い維済学者(当噛孟歳)が生き残り④のちにミュ

ルダールと一緒にノーベル経済学賞を受賞する脱理的自由主義背ハイエクの日本への紹介荷の一人で

面識もあったことをまた当時のスウェーデン政府大蔵次官スウェーデン銀行総裁ダグハマー

ショルドとも会っていたらしいこともハマーショルドは国連事務総長時代の一九六一年コンゴ

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われわれの会合への風変わりな肋間将は一人の端いⅡ本人だった彼はベルリンの川本大使

航で仕邪をしていたがわれわれを見つけだした川本の秘密警察が彼を迫っていたので彼は

ある蛎院に助けを求めたそれから税押されてベルリンに腐ったおそらくは悲劇的結末に

いたったであろう(言与国日冨昌トミ爾震ミ寺鼻一電冨雲釘馬事罵鴬西冒豐旨Q9冒罵》閨い塁肝

油啄氏捌仙)

ヴイリプラントの回想

法砿縮と世界平和の将来が討論されていた

そしてこの小規模だが密度の濃い国際社会民主主義の亡

命者組織の例会にただ一人アジアからしかもナチスの同

盟国日本からの亡命者が顔を出した崎村茂樹である一度

だけのことと思われるがよほど印象に残ったのかノーベ

ル平和賞受賞後のヴィリープラントは回想に書き残した

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120生命jj(IIIIMWRM)社会民主主役の旧隙連帯と121

[参考文献]

加藤哲郎『倒境を越えるユートピァー佃民脚家のエルゴロジー』平凡社二二年

加藤哲郎『怖報戦と現代史l日本国惣法へのもうひとつの道』花伝社二七年

二年)

しかしナチスに追われ「亡命」したのはユダヤ人や共産主義者ばかりではない第二次世界人

戦期には社会民主主義者も自由主義春も故旧を追われ世界に分散して緩やかなネットワークを保

っていたストックホルムの「小インターナショナル」もその一つでそこでプラントやミュルダー

ル夫斐がナチズム打倒後の世界を構想していたそれはヨーロッパ統合や平和共存国際通貨体制

貧困国開発援助「持続しうる地球」に連なるものであったに違いない共産主義の「現存した社会

主義」亡きあとそれはある極の社会主義の生命力をぷす邪例でもある

そしてその生命力とは北欧社会民主主推の柵祉脚家に代表される制度設計政策体系はもちろ

んであるが崎村茂樹のような無弔のⅡ本人を「スハイ」と疑うことなく受け入れその後の運命を

心配するような人間へのまなざしとネットワークの開放性「差異のデモクラシー」であった西

欧社会民主唯義の「原子力」観についても「小インターナショナル』関係稀からなんらかの示唆が

得られないか私の探求の旅はなお道半ばである統背の情報提供を再度お願いする(盲目愚

勇墓曇色b『〕も雷まで)

加藤竹郎今井将奴神山仲弘細『挫拠のデモクラシー』Ⅲ本経済評総社二一年

川臘価郎小野一川巾ひかる珈祁孝川細『側艮旧家の境界』旧水経済押鱸社》o一年

加藤価郎冊野洲人細『民碓主錠平和地球政治』Ⅱ本綴済排総社6一年

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年)『近代日本の政治学行群倣--政抽概念抽争をめ〈って』(勁草書房2001年)『Iリl論l却家の拙本柵避術i剛l腿primekのプレリュード』(法抑文化社2002年)『Iリl始鬮説と瑞術典祝』(1bllllトI200II)TIリ1泊維新の思想』(成文堂2005年)『大東猟liMhIWIの蚊捕学』(成文イM2()O7年)rⅡ本の政治文化』(勁草諜腸2008年)rll本政油学の先駆lfj(成文lsquo戦2011年)ほか田中治男(たなかはるお)1935年京都府生まれ束戚大学大学院法学政泊学研究科椰士課程修了成隈大学名汁教授政治思想史呼攻佛杵に『フランス自由主義の生成と展開--l九世紀フランス政流思惣研究』(蝿順大学川版会1970年)『近代政治思想史(4)---産業化と大衆時代の政治思想』(イI斐閣1978年)『西欧

執錐考略服

田中浩(たなかひろし)1926年佐賀鼎生まれ東求文理科大学哲学科卒現在型学院大学大学院教授楠大学躬俳教授政治思想史専攻著菩に『是谷川如雌閑研究序鋭』(未来社1989年)『カールシュミットー魔性の政治学』(未来社1992年)『〔改ir卿補飯〕ホッブズ研究序説一近代掴家趙の生誕』(御茶の水縛脚1994年)『〔新版]l司家と個人一市民碓命から現代まで』(珊波紳店2rdquo8年)ほか典択井にトマスホップズ『リヴァイアサン』(河川稗勝斬11966年)カールシュミット『政治的なものの概念』(未来社1970年)クーペルスカンデル細『EU時代の到来一ヨーロッパ柵祉社会社会lも1sectl錘』(未来社2m9年)THグリーン『イギリス峨命礁蕊一クロムウェルの此和I珂』(未来社2011年)ほか「IIIIII溌築j(f1巻未来社)刊行ln森臣広(しげもりたみひろ)1959年北海迦生まれ111央人学大学院法学研究科1I後期過醐中退現イl立命航大学政爾科学部教授政論思想史専攻此特許に八脚j倣椴rdquordquoノldquo他岫幽eqf彫IM1ksqノセタ施yBef加加(ChuoU1】iversityLibmry1989)択緋にトマスホッブズ『竹学者と法学徒との対船--イングランドのコモンロ-をめくる』(共択鰐披文叩2002年)リツーャードタツ

繩縦政鰐魏職(辮陶鞭W9)ト賢二泌端芽一キン『政治思想のなかの女-その西洋的伝統』(共訳蝦ldquordquo2010年)ほか行安茂(ゆきやすしげる)1931年岡山鼎生まれ1K島大学大学院文学研究科博士課程修了岡山大学洛誉教授倫理学専攻符勘に『トマスヒルグリーン研究-その思想形成と哲学」(理紐社1974年)『デューイ倫理学の形成と展開』(以文社1988年)『近代Ⅲ本の思想藻とイギリス理想主義』(北樹出版27年)ほか錨著岱に『THグリーン研究』(御茶の水書厨1982年)rHシジウイク研究---現代正錠抽への道』(以文社1992年)ほか大塚桂(おおつかかつら)19釦年神奈川鼎生まれ日本大学法学部卒業現在駒椰大学法学郁救授政治思想史国家強専攻蕃密に『政治学原強序説--政治における制腿と行動』(勁蛾緋脚1rdquo4年)『多元的国家強の展開一原鋼瑠崎卯--をめぐって』(法律文化社1999年)『多元的国家讃のI附辺』(1fill1I20IX)

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加重哲郎(かとうてつろう)1947年岩手県生まれ東j(入学法学部小粟現イIsectIL稲1II大学大学院政治学研究科群間敬授橘大学瑞俳牧授政論学呼攻符蒋に『象徴天皇制の起源一アメリカの心即戦「1Mfi111djj」(平凡社新鶴2005年)『梢報戟の時代一インターネットと劇埋政論』(花仏社2()07年)『ワイマール期べルリンのH本人---洋行知織人のj叉術オツトゾーク』(淵波野店2008年) ぜ _

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わりから職後孔人ものノーベル賞受枇粁がⅢたことになる

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加齢郎がウィーン大学での講減会に棚かれたがドイツ政府により許可されなかった記録が見つかった

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巡胸蝿社会民推服錠国際組織にまで及んでいたかどうかにある

郷川本で社会主鍵の刷際辿幣といえば通端「鉄の規神」で結ばれた共産主義のコミンテルンコミ

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無総プラントは知らなかったこの日本人の緋い維済学者(当噛孟歳)が生き残り④のちにミュ

ルダールと一緒にノーベル経済学賞を受賞する脱理的自由主義背ハイエクの日本への紹介荷の一人で

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ある蛎院に助けを求めたそれから税押されてベルリンに腐ったおそらくは悲劇的結末に

いたったであろう(言与国日冨昌トミ爾震ミ寺鼻一電冨雲釘馬事罵鴬西冒豐旨Q9冒罵》閨い塁肝

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ヴイリプラントの回想

法砿縮と世界平和の将来が討論されていた

そしてこの小規模だが密度の濃い国際社会民主主義の亡

命者組織の例会にただ一人アジアからしかもナチスの同

盟国日本からの亡命者が顔を出した崎村茂樹である一度

だけのことと思われるがよほど印象に残ったのかノーベ

ル平和賞受賞後のヴィリープラントは回想に書き残した

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120生命jj(IIIIMWRM)社会民主主役の旧隙連帯と121

[参考文献]

加藤哲郎『倒境を越えるユートピァー佃民脚家のエルゴロジー』平凡社二二年

加藤哲郎『怖報戦と現代史l日本国惣法へのもうひとつの道』花伝社二七年

二年)

しかしナチスに追われ「亡命」したのはユダヤ人や共産主義者ばかりではない第二次世界人

戦期には社会民主主義者も自由主義春も故旧を追われ世界に分散して緩やかなネットワークを保

っていたストックホルムの「小インターナショナル」もその一つでそこでプラントやミュルダー

ル夫斐がナチズム打倒後の世界を構想していたそれはヨーロッパ統合や平和共存国際通貨体制

貧困国開発援助「持続しうる地球」に連なるものであったに違いない共産主義の「現存した社会

主義」亡きあとそれはある極の社会主義の生命力をぷす邪例でもある

そしてその生命力とは北欧社会民主主推の柵祉脚家に代表される制度設計政策体系はもちろ

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得られないか私の探求の旅はなお道半ばである統背の情報提供を再度お願いする(盲目愚

勇墓曇色b『〕も雷まで)

加藤竹郎今井将奴神山仲弘細『挫拠のデモクラシー』Ⅲ本経済評総社二一年

川臘価郎小野一川巾ひかる珈祁孝川細『側艮旧家の境界』旧水経済押鱸社》o一年

加藤価郎冊野洲人細『民碓主錠平和地球政治』Ⅱ本綴済排総社6一年

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年)『近代日本の政治学行群倣--政抽概念抽争をめ〈って』(勁草書房2001年)『Iリl論l却家の拙本柵避術i剛l腿primekのプレリュード』(法抑文化社2002年)『Iリl始鬮説と瑞術典祝』(1bllllトI200II)TIリ1泊維新の思想』(成文堂2005年)『大東猟liMhIWIの蚊捕学』(成文イM2()O7年)rⅡ本の政治文化』(勁草諜腸2008年)rll本政油学の先駆lfj(成文lsquo戦2011年)ほか田中治男(たなかはるお)1935年京都府生まれ束戚大学大学院法学政泊学研究科椰士課程修了成隈大学名汁教授政治思想史呼攻佛杵に『フランス自由主義の生成と展開--l九世紀フランス政流思惣研究』(蝿順大学川版会1970年)『近代政治思想史(4)---産業化と大衆時代の政治思想』(イI斐閣1978年)『西欧

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田中浩(たなかひろし)1926年佐賀鼎生まれ東求文理科大学哲学科卒現在型学院大学大学院教授楠大学躬俳教授政治思想史専攻著菩に『是谷川如雌閑研究序鋭』(未来社1989年)『カールシュミットー魔性の政治学』(未来社1992年)『〔改ir卿補飯〕ホッブズ研究序説一近代掴家趙の生誕』(御茶の水縛脚1994年)『〔新版]l司家と個人一市民碓命から現代まで』(珊波紳店2rdquo8年)ほか典択井にトマスホップズ『リヴァイアサン』(河川稗勝斬11966年)カールシュミット『政治的なものの概念』(未来社1970年)クーペルスカンデル細『EU時代の到来一ヨーロッパ柵祉社会社会lも1sectl錘』(未来社2m9年)THグリーン『イギリス峨命礁蕊一クロムウェルの此和I珂』(未来社2011年)ほか「IIIIII溌築j(f1巻未来社)刊行ln森臣広(しげもりたみひろ)1959年北海迦生まれ111央人学大学院法学研究科1I後期過醐中退現イl立命航大学政爾科学部教授政論思想史専攻此特許に八脚j倣椴rdquordquoノldquo他岫幽eqf彫IM1ksqノセタ施yBef加加(ChuoU1】iversityLibmry1989)択緋にトマスホッブズ『竹学者と法学徒との対船--イングランドのコモンロ-をめくる』(共択鰐披文叩2002年)リツーャードタツ

繩縦政鰐魏職(辮陶鞭W9)ト賢二泌端芽一キン『政治思想のなかの女-その西洋的伝統』(共訳蝦ldquordquo2010年)ほか行安茂(ゆきやすしげる)1931年岡山鼎生まれ1K島大学大学院文学研究科博士課程修了岡山大学洛誉教授倫理学専攻符勘に『トマスヒルグリーン研究-その思想形成と哲学」(理紐社1974年)『デューイ倫理学の形成と展開』(以文社1988年)『近代Ⅲ本の思想藻とイギリス理想主義』(北樹出版27年)ほか錨著岱に『THグリーン研究』(御茶の水書厨1982年)rHシジウイク研究---現代正錠抽への道』(以文社1992年)ほか大塚桂(おおつかかつら)19釦年神奈川鼎生まれ日本大学法学部卒業現在駒椰大学法学郁救授政治思想史国家強専攻蕃密に『政治学原強序説--政治における制腿と行動』(勁蛾緋脚1rdquo4年)『多元的国家強の展開一原鋼瑠崎卯--をめぐって』(法律文化社1999年)『多元的国家讃のI附辺』(1fill1I20IX)

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120生命jj(IIIIMWRM)社会民主主役の旧隙連帯と121

[参考文献]

加藤哲郎『倒境を越えるユートピァー佃民脚家のエルゴロジー』平凡社二二年

加藤哲郎『怖報戦と現代史l日本国惣法へのもうひとつの道』花伝社二七年

二年)

しかしナチスに追われ「亡命」したのはユダヤ人や共産主義者ばかりではない第二次世界人

戦期には社会民主主義者も自由主義春も故旧を追われ世界に分散して緩やかなネットワークを保

っていたストックホルムの「小インターナショナル」もその一つでそこでプラントやミュルダー

ル夫斐がナチズム打倒後の世界を構想していたそれはヨーロッパ統合や平和共存国際通貨体制

貧困国開発援助「持続しうる地球」に連なるものであったに違いない共産主義の「現存した社会

主義」亡きあとそれはある極の社会主義の生命力をぷす邪例でもある

そしてその生命力とは北欧社会民主主推の柵祉脚家に代表される制度設計政策体系はもちろ

んであるが崎村茂樹のような無弔のⅡ本人を「スハイ」と疑うことなく受け入れその後の運命を

心配するような人間へのまなざしとネットワークの開放性「差異のデモクラシー」であった西

欧社会民主唯義の「原子力」観についても「小インターナショナル』関係稀からなんらかの示唆が

得られないか私の探求の旅はなお道半ばである統背の情報提供を再度お願いする(盲目愚

勇墓曇色b『〕も雷まで)

加藤竹郎今井将奴神山仲弘細『挫拠のデモクラシー』Ⅲ本経済評総社二一年

川臘価郎小野一川巾ひかる珈祁孝川細『側艮旧家の境界』旧水経済押鱸社》o一年

加藤価郎冊野洲人細『民碓主錠平和地球政治』Ⅱ本綴済排総社6一年

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年)『近代日本の政治学行群倣--政抽概念抽争をめ〈って』(勁草書房2001年)『Iリl論l却家の拙本柵避術i剛l腿primekのプレリュード』(法抑文化社2002年)『Iリl始鬮説と瑞術典祝』(1bllllトI200II)TIリ1泊維新の思想』(成文堂2005年)『大東猟liMhIWIの蚊捕学』(成文イM2()O7年)rⅡ本の政治文化』(勁草諜腸2008年)rll本政油学の先駆lfj(成文lsquo戦2011年)ほか田中治男(たなかはるお)1935年京都府生まれ束戚大学大学院法学政泊学研究科椰士課程修了成隈大学名汁教授政治思想史呼攻佛杵に『フランス自由主義の生成と展開--l九世紀フランス政流思惣研究』(蝿順大学川版会1970年)『近代政治思想史(4)---産業化と大衆時代の政治思想』(イI斐閣1978年)『西欧

執錐考略服

田中浩(たなかひろし)1926年佐賀鼎生まれ東求文理科大学哲学科卒現在型学院大学大学院教授楠大学躬俳教授政治思想史専攻著菩に『是谷川如雌閑研究序鋭』(未来社1989年)『カールシュミットー魔性の政治学』(未来社1992年)『〔改ir卿補飯〕ホッブズ研究序説一近代掴家趙の生誕』(御茶の水縛脚1994年)『〔新版]l司家と個人一市民碓命から現代まで』(珊波紳店2rdquo8年)ほか典択井にトマスホップズ『リヴァイアサン』(河川稗勝斬11966年)カールシュミット『政治的なものの概念』(未来社1970年)クーペルスカンデル細『EU時代の到来一ヨーロッパ柵祉社会社会lも1sectl錘』(未来社2m9年)THグリーン『イギリス峨命礁蕊一クロムウェルの此和I珂』(未来社2011年)ほか「IIIIII溌築j(f1巻未来社)刊行ln森臣広(しげもりたみひろ)1959年北海迦生まれ111央人学大学院法学研究科1I後期過醐中退現イl立命航大学政爾科学部教授政論思想史専攻此特許に八脚j倣椴rdquordquoノldquo他岫幽eqf彫IM1ksqノセタ施yBef加加(ChuoU1】iversityLibmry1989)択緋にトマスホッブズ『竹学者と法学徒との対船--イングランドのコモンロ-をめくる』(共択鰐披文叩2002年)リツーャードタツ

繩縦政鰐魏職(辮陶鞭W9)ト賢二泌端芽一キン『政治思想のなかの女-その西洋的伝統』(共訳蝦ldquordquo2010年)ほか行安茂(ゆきやすしげる)1931年岡山鼎生まれ1K島大学大学院文学研究科博士課程修了岡山大学洛誉教授倫理学専攻符勘に『トマスヒルグリーン研究-その思想形成と哲学」(理紐社1974年)『デューイ倫理学の形成と展開』(以文社1988年)『近代Ⅲ本の思想藻とイギリス理想主義』(北樹出版27年)ほか錨著岱に『THグリーン研究』(御茶の水書厨1982年)rHシジウイク研究---現代正錠抽への道』(以文社1992年)ほか大塚桂(おおつかかつら)19釦年神奈川鼎生まれ日本大学法学部卒業現在駒椰大学法学郁救授政治思想史国家強専攻蕃密に『政治学原強序説--政治における制腿と行動』(勁蛾緋脚1rdquo4年)『多元的国家強の展開一原鋼瑠崎卯--をめぐって』(法律文化社1999年)『多元的国家讃のI附辺』(1fill1I20IX)

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1951年人阪府1歌れ111稲1I1入学人膿院文細I究科IW土牒程修ro現在H本女f大学人IⅢ社会lsquo液部教授近現代11本史呼攻蒋幣に『シリーズⅡ本近現代史く4〉大11sectデモクラシー』(刑波新18ト2007年)r「戦争経験」の戦後史一一錨られた体験細iIIJ値』(聯波謝Ji2010年)『近現代旧木史と歴史学一背き俳えられてきた過去』(II1公斬1l$2012年)ほか杉田敦(すぎたあつし)1959年群賜県生まれ束來都ffち東附〔大学法学部卒業現在法政大学法学部教授政治理論哩攻蒋祢に『塊界線の政治学』(岩波瞥店2005年)『政治への想像力』(岩波湖01i2Ⅸ19年)『政治的思馳(砦波新書2013年)ほか千葉眞(ちばしん)1949年宮城県生まれプリンストン神学大学PhD(政治倫理学)現在国際基督教大学教義学部牧授内欧政治忠紐山政泊理趙専攻著書に『アーレントと現代一向曲の政論とその鵬躯』(淵波書店1996年)「デモクラシー』(器波書店20M年)『「未光の航命」としての平和遜法』(岩波書店2伽9年)ほか新川敏光(しんかわとしみつ)1956年北海通生まれカナダトロント大学大学院PhD取得現在京都大学法学研究科教授政浦過繩強比絞政治学専攻著符に『日本型稲祉レジームの発展と変容』(ミオルヴフ排j2005年)『幻視のなかの社会民主主義一一「戦後日本政治とl会1ampI_1淡」』(法律文化社2007年)ほか

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加重哲郎(かとうてつろう)1947年岩手県生まれ東j(入学法学部小粟現イIsectIL稲1II大学大学院政治学研究科群間敬授橘大学瑞俳牧授政論学呼攻符蒋に『象徴天皇制の起源一アメリカの心即戦「1Mfi111djj」(平凡社新鶴2005年)『梢報戟の時代一インターネットと劇埋政論』(花仏社2()07年)『ワイマール期べルリンのH本人---洋行知織人のj叉術オツトゾーク』(淵波野店2008年) ぜ _

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田中浩(たなかひろし)1926年佐賀鼎生まれ東求文理科大学哲学科卒現在型学院大学大学院教授楠大学躬俳教授政治思想史専攻著菩に『是谷川如雌閑研究序鋭』(未来社1989年)『カールシュミットー魔性の政治学』(未来社1992年)『〔改ir卿補飯〕ホッブズ研究序説一近代掴家趙の生誕』(御茶の水縛脚1994年)『〔新版]l司家と個人一市民碓命から現代まで』(珊波紳店2rdquo8年)ほか典択井にトマスホップズ『リヴァイアサン』(河川稗勝斬11966年)カールシュミット『政治的なものの概念』(未来社1970年)クーペルスカンデル細『EU時代の到来一ヨーロッパ柵祉社会社会lも1sectl錘』(未来社2m9年)THグリーン『イギリス峨命礁蕊一クロムウェルの此和I珂』(未来社2011年)ほか「IIIIII溌築j(f1巻未来社)刊行ln森臣広(しげもりたみひろ)1959年北海迦生まれ111央人学大学院法学研究科1I後期過醐中退現イl立命航大学政爾科学部教授政論思想史専攻此特許に八脚j倣椴rdquordquoノldquo他岫幽eqf彫IM1ksqノセタ施yBef加加(ChuoU1】iversityLibmry1989)択緋にトマスホッブズ『竹学者と法学徒との対船--イングランドのコモンロ-をめくる』(共択鰐披文叩2002年)リツーャードタツ

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1951年人阪府1歌れ111稲1I1入学人膿院文細I究科IW土牒程修ro現在H本女f大学人IⅢ社会lsquo液部教授近現代11本史呼攻蒋幣に『シリーズⅡ本近現代史く4〉大11sectデモクラシー』(刑波新18ト2007年)r「戦争経験」の戦後史一一錨られた体験細iIIJ値』(聯波謝Ji2010年)『近現代旧木史と歴史学一背き俳えられてきた過去』(II1公斬1l$2012年)ほか杉田敦(すぎたあつし)1959年群賜県生まれ束來都ffち東附〔大学法学部卒業現在法政大学法学部教授政治理論哩攻蒋祢に『塊界線の政治学』(岩波瞥店2005年)『政治への想像力』(岩波湖01i2Ⅸ19年)『政治的思馳(砦波新書2013年)ほか千葉眞(ちばしん)1949年宮城県生まれプリンストン神学大学PhD(政治倫理学)現在国際基督教大学教義学部牧授内欧政治忠紐山政泊理趙専攻著書に『アーレントと現代一向曲の政論とその鵬躯』(淵波書店1996年)「デモクラシー』(器波書店20M年)『「未光の航命」としての平和遜法』(岩波書店2伽9年)ほか新川敏光(しんかわとしみつ)1956年北海通生まれカナダトロント大学大学院PhD取得現在京都大学法学研究科教授政浦過繩強比絞政治学専攻著符に『日本型稲祉レジームの発展と変容』(ミオルヴフ排j2005年)『幻視のなかの社会民主主義一一「戦後日本政治とl会1ampI_1淡」』(法律文化社2007年)ほか

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加重哲郎(かとうてつろう)1947年岩手県生まれ東j(入学法学部小粟現イIsectIL稲1II大学大学院政治学研究科群間敬授橘大学瑞俳牧授政論学呼攻符蒋に『象徴天皇制の起源一アメリカの心即戦「1Mfi111djj」(平凡社新鶴2005年)『梢報戟の時代一インターネットと劇埋政論』(花仏社2()07年)『ワイマール期べルリンのH本人---洋行知織人のj叉術オツトゾーク』(淵波野店2008年) ぜ _