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2 あやふやな 情報 に決着をつける 科学的なよりどころ 疫学研究は、1850 年代のロンドンにおけるコレラ の流行がきっかけだったとされています。麻酔科医の ジョン・スノウが、コレラ死亡者の居住地を地図上に プロットしていき、患者が特定の井戸からの水を利用 していることを突き止めたのです(図 1)。そこで該当 する井戸水の利用を禁止したところ、患者は減ってい きました。さらに 2 社あった水道会社について、供給 人口と患者の死亡率を比較して、特定の水道会社の水 が危険であることも示しました(表 1)。 また日本では、東京慈恵会医科大学の創始者である 高木兼寛の例があります。1882 年(明治 15 年)に海軍 医務局副長に就任した後、高木は、当時日本軍を悩ま 1850 年代のコレラの流行がきっかけで生まれた疫学研究はその後進化を遂げ、多様な情報が飛び交う現 代社会において、事象やリスクに対する科学に則ったよりどころとなっている。特に人間の健康に関して 最も信頼性の高いデータは、人間を対象に調査研究した疫学データだという。疫学は病気の治療や予防、 原因の究明など、人間の健康に大きく寄与している。 せていた脚気の対策に取り組みました。彼は、脚気の 原因が食物にあると考え、海軍の兵士たちを二つのグ ループに分け、一方には肉や野菜などを含む新しいメ ニューを、他方には従来の食事を提供し、その違いを 観察しました。その結果、前者のグループで脚気が激 減したというのは、広く知られているエピソードで しょう。ちなみにこの時、陸軍の軍医だった森林太郎 (森鷗外)は、脚気病原菌説を唱えて、その同定に力を 注いだのですが、もちろん成果は得られず、陸軍の脚 気罹患者が減ることもありませんでした(P18 参照)。 ここで重要なことは、先のスノウの例では、彼が井 戸を封鎖し患者を減らしたのはコレラ菌が発見される 30 年ほども前のことだということです。また脚気の 例でも、当時、高木らは原因がビタミンにあるという ことを知らないままに、脚気を予防したのです。 たとえ原因は分からなくとも、人間の行動とその結 果を観察することによって、病気を防いだというこの 二つの例は、疫学研究を象徴するエピソードと言えま す。 人間の観察から得られるデータが基準 疫学は「人間集団における健康状態の頻度の分布を 観察すること」、そして「頻度の分布の中に曝露があっ 自治医科大学地域医療学センター公衆衛生学部門教授 中村好一 中村好一(なかむら・よしかず) 1957 年福岡県生まれ。82 自治医科大学医学部医学科卒 業後、福岡県職員として保健 所、 県 庁 に 勤 務。89 4 から自治医科大学に勤務。公 衆衛生学講座の教授を経て 2004 年から地域医療学セン ター公衆衛生学部門(組織改 編による)、現在に至る。91 8 The University of Texas Health Science Center at Houston, School of Public Health 入学、92 12 月卒業 Master of Public Health)。 主な著書に『基礎から学ぶ楽 しい疫学』『保健活動のため の調査・研究ガイド』(とも に医学書院)など。 巻頭インタビュー Special Features 1 構成◉ 飯塚りえ composition by Rie Iizuka イラストレーション小湊好治 illustration by Koji Kominato 疫学は語る

中村好一 あやふやな に決着をつける 科学的なより …2 あやふやな「情報」に決着をつける 科学的なよりどころ 疫学研究は、1850年代のロンドンにおけるコレラ

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あやふやな「情報」に決着をつける科学的なよりどころ

疫学研究は、1850年代のロンドンにおけるコレラの流行がきっかけだったとされています。麻酔科医のジョン・スノウが、コレラ死亡者の居住地を地図上にプロットしていき、患者が特定の井戸からの水を利用していることを突き止めたのです(図1)。そこで該当する井戸水の利用を禁止したところ、患者は減っていきました。さらに2社あった水道会社について、供給人口と患者の死亡率を比較して、特定の水道会社の水が危険であることも示しました(表1)。また日本では、東京慈恵会医科大学の創始者である高木兼寛の例があります。1882年(明治15年)に海軍医務局副長に就任した後、高木は、当時日本軍を悩ま

1850年代のコレラの流行がきっかけで生まれた疫学研究はその後進化を遂げ、多様な情報が飛び交う現代社会において、事象やリスクに対する科学に則ったよりどころとなっている。特に人間の健康に関して最も信頼性の高いデータは、人間を対象に調査研究した疫学データだという。疫学は病気の治療や予防、原因の究明など、人間の健康に大きく寄与している。

せていた脚気の対策に取り組みました。彼は、脚気の原因が食物にあると考え、海軍の兵士たちを二つのグループに分け、一方には肉や野菜などを含む新しいメニューを、他方には従来の食事を提供し、その違いを観察しました。その結果、前者のグループで脚気が激減したというのは、広く知られているエピソードでしょう。ちなみにこの時、陸軍の軍医だった森林太郎(森鷗外)は、脚気病原菌説を唱えて、その同定に力を注いだのですが、もちろん成果は得られず、陸軍の脚気罹患者が減ることもありませんでした(P18参照)。ここで重要なことは、先のスノウの例では、彼が井戸を封鎖し患者を減らしたのはコレラ菌が発見される30年ほども前のことだということです。また脚気の例でも、当時、高木らは原因がビタミンにあるということを知らないままに、脚気を予防したのです。たとえ原因は分からなくとも、人間の行動とその結果を観察することによって、病気を防いだというこの二つの例は、疫学研究を象徴するエピソードと言えます。

人間の観察から得られるデータが基準疫学は「人間集団における健康状態の頻度の分布を観察すること」、そして「頻度の分布の中に曝露があっ

自治医科大学地域医療学センター公衆衛生学部門教授

中村好一

中村好一(なかむら・よしかず)1957年福岡県生まれ。82年自治医科大学医学部医学科卒業後、福岡県職員として保健所、県庁に勤務。89年4月から自治医科大学に勤務。公衆衛生学講座の教授を経て2004年から地域医療学センター公衆衛生学部門(組織改編による)、現在に至る。91年 8月 The Univers i t y o f Texas Health Science Center at Houston, School of Public Health入学、92年12月卒業(Master of Public Health)。主な著書に『基礎から学ぶ楽しい疫学』『保健活動のための調査・研究ガイド』(ともに医学書院)など。

巻頭インタビュー

Special Features 1

構成◉飯塚りえ composition by Rie Iizuka

イラストレーション◉小湊好治 illustration by Koji Kominato

疫学は語る

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りするという問題点があります。それ故こうした動物実験の結果として白血病が発生したとしても、それでは週に一回程度ヘアダイを使う人に同じ影響があると判断できるのかという疑問が生じます。ヘアダイの疫学データでは、白血病リスクは皆、陰性でしたので、IARCでも通常の使用状況では、ヘアダイによって白血病になる心配はないとしています。私は動物実験の意義を否定するものではありませんが、例えばピロリ菌が感染するのはヒトとスナネズミだけです。他の動物には感染しません。あるいはハンセン病の病原体はヒトかアルマジロにしか感染しません。ですから種の違いというのは、ある物質、ある状態の影響を測る上で、非常に大きな差となるのです。実験室のマウスやチンパンジーで起こったことがヒトでも起こるかどうかは未知数ですが、ヒトで起こったことは同じようにヒトに起こると考えられるからです。疫学の世界ではこれを、「外部妥当性」と言います。つまり動物実験はヒトに関しての外部妥当性が低いということになるのです。同時に、疫学には人間を対象にしている故の難しさがあります。例えば、ある地域における一定期間の食習慣と血圧の関係を調べたいとしたら、調査対象者には食べたものを記録してもらわなくてはなりませんし、調査が数年にわたるとしたら転居する方もいるでしょう。あるいは、こうしてください、と言ってそれを必ず守ってもらえるという保証もありません。動物実験ならケージに入れておけば済む話です。容易に想像できると思いますが、人間の追跡調査は簡単ではありません。しかし追跡率が低ければ研究の質が下がってしまいます。ですから疫学者は追跡率を上げることに、

て疾病が出てくる。その関係をきちんと科学的に明らかにすること」と定義されています。つまり、動物実験や試験管内で起きた現象ではなく、人間に実際に起きている現象を調査研究の対象としているということなのです。ここに疫学の大きな特徴も、また弱点もあります。例えばIARC(International Agency for Research on

Cancer=国際がん研究機関)というWHOの外部組織では、ヒトに対する発がん性のリスク評価について報告しており、リスクの高い順に1から3までの段階がありますが、1になるためには疫学データが重視されます。動物実験や実験室で変異原性が出てきたといっても、せいぜいレベル2までにしかなりません。ヘアダイ(毛染め)が白血病を起こすと話題になったことがありましたが、いつの間にか耳にしなくなりました。動物実験の結果では、ヘアダイによって確かにがんが発生していたので、その点に注目されたのだろうと思われますが、動物実験には、ポジティブな結果を出したいと思うあまり、人間が使用する一般的な量をはるかに超えた量を与えたり、大量に静脈注射した

ジョン・スノウ(Dr. John Snow 〔1813-1858〕)は1848年にコレラによる死亡者を調査した。上は、地図上にそれをプロットしたもの。「×」は、公共井戸があった場所。Broad St.を中心に患者が発生していることが見て取れる。

スノウはコレラの死亡者を地図上にプロットするのと同時に、ロンドンの水道会社を比較し、特定の会社の水が危険であることを示した。

■表1 水道会社供給地区別コレラ死亡率(スノウ、1854年7月8日~ 8月26日)

供給会社 人口(1851年) 死亡数 死亡率(人口千対)

Southwark& Vauxhall 167,654 844 5.0

Lambeth 19,133 18 0.9

■図1 ジョン・スノウの「コレラ地図」

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予算をかけ、知恵をしぼることになるわけです。

「観察疫学研究」と「介入疫学研究」疫学では、ある事象とそれが生み出す結果を

「exposure=曝露」と「disease outcome=帰結(疾病)」と呼んでいます。曝露は、疫学において疾病発生以前に存在する状態を指します。「特定の状態」という程度に理解してもらえればいいと思いますが、例えば「毎日10時に寝る」などの生活習慣も、あるいは性別、年齢、遺伝的要因も、疫学においては「曝露」と呼びます。この曝露があって起きる結果が帰結(疾病)です。これは「特殊な健康状態」とでも言うべきものです。「胃がんに罹患した」ことも、また「80歳まで自立して生きる」ことも、疫学では「帰結」と言います。現代の疫学では、その対象が病気にとどまらず、例えばある曝露における自殺率の割合や、親の経済的状況における子どもの学歴なども研究の対象となっています。また疫学の調査において重要なことは、帰結(疾病)の定義です。「胃がんに罹患した」としても、では、そう診断されたのは、胃の内視鏡なのかX線写真なのか、あるいは病理組織学的に診断されたのか。同様に、「自立」という概念も何をもって自立とするのかは、それぞれ異なります。疫学調査をする際には、それらの点をしっかりと定義しておくことが重要になってきます。疫学研究は既存のデータをいじって簡単にできると思われている節があるようですが、もちろんそう簡単なものではありません。疫学研究には、大きく「観察疫学研究」と、「介入疫学研究」とがあります(表2)。

まず、未知の事象については「これまで例のないこんな症状の患者が出ました」という症例報告から始まります。HIVなどのケースが当てはまると思います。カリニ肺炎というのはいわゆる日和見感染で、がんの化学療法や免疫抑制療法を受けている患者に発症するのが一般的です。若い男性の患者が出たというのは異常ですから、そうした症例を集めて、まずは「記述疫学研究」という手法を取ります。これは、その病気の患者の特徴、通常は「人・場所・時間」という三つの切り口で特徴を分析するものです。人については、男女比、年齢、人種。場所については、都会に多いか田舎に多いか。地球規模で見るとすれば緯度の高さなどもあります。また時間については、周期性や季節変動、長いスパンでは増加傾向なのか、減少傾向なのかといったことです。この三つの視点で見ていくと、病気の特徴に対する仮説が立てられるのです。HIVの場合で言えば、同性愛者の男性という共通点が見えてきたというわけです。次に仮説を検証するために「生態学的研究」が行われます。これは既存のデータを使って行うもので、最も簡単に着手できる調査です。例えば日本全体で、ある疾患による死亡率を都道府県別に調べ、さらに、関係を疑われる食物の都道府県別摂取量と照らし合わせるのです。それによって食物摂取の多寡と特定の疾病の死亡率の関係が見えてきます。もちろん、法則性が見出せなければ、疾病と食物は関係ないということになります。卑近なところでは、インターネットで公表されている自殺率と完全失業率のデータを都道府県別にプロットしてみると、やはり失業率が高い地域は自殺率も高いことから、失業率と自殺は関連があるという結論を導き出すことができます。図2では、別々に公開されている自動車走行台キロ数と、自動車による死亡事故率のデータを一つの図にプロットしています。こうした作業によって、比較的簡単に、自動車の走行台キロと死亡率が比例関係にあることを導き出すことができます。またこれらの調査は個人を対象にしているのではなく、集団を対象とした調査ということもあって簡単に行うことができます。こうして足固めをした上で、次のステップは個人を

疫学調査の手法にはさまざまあり、目的と、予算、期間といった条件によって適切なデザインを行う必要がある。

1 観察疫学研究

記述疫学研究生態学的研究横断研究コホート研究症例対照研究

2 介入疫学研究 個人割付介入研究集団割付介入研究

表2 疫学研究デザイン分類の一例

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対象にした研究です。「横断研究」は、ある時点での個人の状況を調べるものです。例えば喫煙と心筋梗塞の関連を調べる時には、対象者一人ひとりについて喫煙状態と心筋梗塞の有無を調べます。その結果、喫煙者に心筋梗塞が多ければ、その曝露と心筋梗塞という疾病には関係があるという結論を導き出すことができます。この研究では、1回のデータ収集で一定の回答を出すことができますし、調査時点での曝露の状況ということでは明快です。特に性別など基本的に不変の事柄を曝露としている場合は時間を経ても変化がなく、データとして信頼できるものとなりえます。これを疫学では妥当性が高いと言います。しかしこの研究における欠点もまたそこにあります。時間軸で曝露の環境が変化することを考慮していないことです。例えば、飲酒の調査では実際にしばしば見られるのですが、飲酒群と禁酒群で死亡率の研究を見ると、時折、禁酒群のほうが死亡率が高いという結果が出ることがあります。なぜか。禁煙の圧力があるタバコとは異なり、飲酒の場合は検査の数値が悪かったなど、具体的に何かがあってやめるという方が少なくないので、禁酒をした時点ですでに隠れたリスクがあるのです。実際、禁酒群の死亡率は2倍程度高いといった疫学データが出ることもあり、そこだけを切り取ると、禁酒すると死亡率が高くなるように見えてしまいます。ある一時点を見る横断研究では、時にこうした結果が出てしまうことがあります。

時間の経過による変化を考慮そこで時間の流れを考慮しようというのが、

「コホート研究」です。最初の時点での曝露の有無に従ってグループ分けし、時間の経過を見ながらそれぞれ疾病発生の頻度を見ていきます。頻度が変わらなければ、その曝露は疾病発生に関係していないという結論になります。よく引用されるのが喫煙と肺がんの例です。非喫煙者に比べて喫煙者のほうが肺がんの発生割合が高くなれば、喫煙がリスクになりますと言えるわけです。曝露があって疾病が起こるという視点では、

コホート研究は人間の体に起こる変化の時間的な流れに即した観察方法ですが、曝露から疾病の発生までに時間がかかる場合があるというデメリットがあります。慢性疾患の場合は結果が出るまでに年単位の時間を要するわけです。もっとまれな病気になると観察不能ということもあります。そういった問題を克服するために出てきたのが、「症例対照研究」です。こちらは、疾病の有無を軸に対象を見るものです。対象を、疾病を起こした群と起こしていない群とに分け、過去の曝露を調べます。例えば肺がん群と肺がんでない群で、過去の喫煙の有無を調べると、喫煙が肺がんを起こすとすれば、肺がん群のほうが過去の喫煙の割合が高く出るというわけです。他方、曝露がすでに過去のものであるため、その情報は調査対象の記憶に依存しているなど、情報の妥当性が低いという欠点があります。このように疫学研究の手法には、どれも長所と短所があり、完全なものがありません。今を見ればその前後の影響は分からず、時間の変化を考慮に入れるには、病気が起こったことを確認するために客観的な検査が必要になります。調査対象者を追跡できなくなってしまう場合もあります。また症例対照研究は、基本的に自己申告ですから「喫煙の経験はありません」と言われても、それが本当かどうか、という問題があります。二つ目の大きな軸に、「介入疫学研究」という手法があります。手法としてはコホート研究と同様ですが、決定的な違いは、曝露について研究者が対象者に介入

Special Features 1死亡率は人口動態統計、自動車走行台キロは交通統計による(谷原真一、他:交通事故の疫学、公衆衛生62(4):271-274、1998)。公開されている情報によって、自動車の走行が多いほど、事故による死亡率が高いことを提示することができる。

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図2 自動車走行台キロと自動車事故死亡率の関係(男、1990年)

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するという点です。コホート研究の場合、研究者は喫煙の有無を情報として集めているだけですが、介入研究の場合、喫煙群と非喫煙群を研究者が決定するということです。しかしこれは、非喫煙者を集めて一方には喫煙させ、一方にはそのまま非喫煙状態にして、肺がんが発生するかどうかを調査するようなものになります。そのような調査は当然行うことはできません。そこで例えば禁煙を勧める際、医師が「やめたほうがいいですよ」という程度にとどめるか、パンフレットを示したりして喫煙のリスクを説明するなど、強く禁煙を勧めるといったように、どちらも健康に寄与するが、一方がより積極的というような手法が取られます。

交絡因子の制御が調査結果の価値を左右また疫学に「交絡因子」という用語があります。曝露と帰結の関係の観察に影響を与える背景的要因のことです。例えば、飲酒とタバコと肺がんの関係では、曝露を飲酒とした場合、一見、肺がんの発生率が高くなるように見えることがあります。しかし、お酒を飲むとタバコが吸いたくなってしまうということがありますが、喫煙する人と飲酒をする人は重複することも少なくありません。この場合、喫煙が交絡因子として影響を与えている可能性が少なからずあり、飲酒と肺がんを結びつけられるだろうか、この場合だと真の曝露は喫煙ではないかということです。疫学調査では交絡因子をどのように制御するかが調査結果の価値を左右しますが、介入研究のエビデンスレベルが高いと言われるのは、この交絡因子を考慮することができるからです。とは言え、経済的な環境や学歴といった社会経済因子には介入できません。遺伝的な背景も介入は不可能です。介入研究は、このように介入できる要素が制限されますが、最近、臨床医の間に、介入研究でなくてはエビデンスレベルが低いという誤解があるのではないか、と感じることがあります。例えば、私も含め多くの人が間違いなく有効と信じているAED(自動体外式除細動器)には、介入研究はありません。その理由は容易に想像できますが、それをもってAEDの有効性が損なわれるものではないで

しょう。介入研究が難しい場合には観察研究を行うのですが、それについても、これまでご説明した通り、簡単に行えるものではないですが、エビデンスレベルは一定を満たしています。疫学研究が人間を相手にしているからこそなのですが、これらを熟知した上で、疾病に従って疫学研究を適切にデザインしていくことが重要なのです一方で疫学に対する理解が浸透してきたと感じられる傾向もあります。例えばこの十数年で、食中毒の発生に関しては、保健所の対応に変化が見られます。以前は、食中毒の調査について、保健所は微生物学的調査ばかり行っていましたが、疫学調査も重視されるようになっていることです。今年 1月、浜松市の小学校でノロウイルスによる食中毒が発生しました。その際、浜松市の保健所はきちんとした疫学調査を行って、給食の食パンにノロウイルスが付着していた、という結論を出しました。ところが厚生労働省の委員会での保健所からの報告では、食パンからノロウイルスが検出されなかったためにその報告に疑問があるとしたのです。それに対して、委員の疫学の先生が「それはおかしい。疫学的にはこれだけきちんとした調査を行っているのだし、エビデンスが一番高いのは疫学だ」とおっしゃいました。これは、微生物学的な調査に引っ張られるような結論はおかしいという発言です。その結果、厚生労働省でも食パンが原因であるという発表をしています。食中毒、あるいは食品を介した感染症では、微生物学的な調査で陰性の結果が出ても、それをもってイコール、その物質が原因ではないという結論を出すことはできません。バクテリアであれば火を通せば死滅します。微生物学的に陰性だった事例に対し、発症者と非発症者で何を食べたかを調べる疫学的症例対照研究では、ある食品については圧倒的な有意差があるとします。食べた人たちは発症して、発症していない人は食べていない。逆に、ある食品については全く差がありませんということになれば、何が陽性で何が陰性だという情報を明快に提供しているわけです。微生物学との大きな違いはそこなのです。疫学には、科学的根拠のないあやふやな都市伝説に決着をつけるという役割もあると思います。

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例えば、1990年代、日本で母乳中のダイオキシンが大きな問題となったことがあり測定を始めました。ところが調査を始めてみると、それなりの量は検出されるものの、想定していたような数値ではなく、またヨーロッパなどに比べると日本の値はやや低めだったのです。その時点で、ダイオキシンの含まれる量と母乳栄養の利点とに鑑みて、母乳栄養をやめましょうという結論にはなりませんでした。その後も、問題となった時期に母乳栄養で育ったお子さんの追跡調査をしているのですが、ダイオキシン濃度が高い母乳を飲んだお子さんと低い母乳を飲んだお子さんを比較して、少なくとも健康上の問題に違いはないことを確認しています。さらに母乳中ダイオキシン濃度が年々下がっていることもまた、間違いのない事実です。私が専門としている川崎病はまだ原因が分かっていないのですが、継続している記述疫学研究の結果から、感染症が引き金になっているだろうと考えています。さらにホスト側、つまり子どもによって発症しやすい、しにくいという違いがあることも推測されます。特定の遺伝子が見つかっているなどではありませんが、データの結果からこの二つの要素が絡まって発症するようだと考えています。また川崎病の発症は季節変動が大きいというデータもあります。そこで、私は学会でさまざまに取りざたされている川崎病の原因について、これらの疫学データと矛盾するものは、恐らく原因ではないだろうということで、機会をとらえて反論するようにしています。また最近の疫学では、社会的な問題とリンクすることも多くなりました。疫学が普及している欧米では携帯電話の使用や交通事故に関する問題なども扱っていますが、日本でも社会的格差と健康状態の関連は盛んに言われており、疫学の守備範囲が広がっています。特にアメリカの臨床研究の論文では、臨床専門家だけでの研究は少なく、ほとんど疫学者や生物統計学者が参加しています。日本でもそうした傾向が見られるようになってきました。私が関与している例で言えば、厚生労働省の特

定疾患政策研究の班長会議の中で、疫学を柱に、頻度調査と予防因子と危険因子を解明するための症例対照研究、さらに予後の追跡研究を改めて行ってほしいという依頼がありました。端的に、頻度が分からない病気にやみくもに予算をつぎ込むことはできないし、予防につながるリスクファクターをきちんと解明したい、そして合理的な治療法も確立したいという非常に真っ当な考えに基づいたものだと思います。実は、この疫学研究班は 2年ほど休止していたのですが、先だって再開されたことは、疫学の力を理解されてのことと考えています。福島第一原子力発電所での事故もそうですが、日本の社会ではリスクに対して情緒的に語られることが多く、また雑多な情報に人々が惑わされることも少なくありません。もちろん動物実験や試験管での研究を否定するつもりは毛頭ありません。物事のメカニズムを解明する大切な研究です。ただ、人間の健康に関して最も信頼性の高いデータは、人間を対象に調査研究した疫学データです。これらを補完しながら、さまざまな事象についてきちんと科学に則ったよりどころを提示することも、疫学の役割だと考えています。

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