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Meiji University Title �-� -suppl?ment��- Author(s) �,Citation �, �: 15-47 URL http://hdl.handle.net/10291/18260 Rights Issue Date 2016-03 Text version publisher Type Departmental Bulletin Paper DOI https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/

快楽と淑徳-『新エロイーズ』に関する試論 -《 URL DOI...快楽と淑徳:r新エロイーズ』に関する試論 して使用する。まず始めに,そもそも「余計なものJ1:

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  • Meiji University

     

    Title快楽と淑徳-『新エロイーズ』に関する試論 -《

    suppl?ment》の概念のプリズムを通して-

    Author(s) 折方,のぞみ

    Citation 人文科学論集, 六十二: 15-47

    URL http://hdl.handle.net/10291/18260

    Rights

    Issue Date 2016-03

    Text version publisher

    Type Departmental Bulletin Paper

    DOI

                               https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/

  • 人文科学論集第62輯 (2016.3)

    快楽と淑徳:r新エロイーズ」に関する試論

    一一の概念のプリズムを通して一一

    折方のぞみ

    Plaisir et sagesse : Essai sur La 1¥Touvelle Heloise - au prisme de la notion de >ー

    Nozomi ORIKATA

    Rousseau est connu pour s・etreoppose a la proposition faite par d'Alembert de !a COll.

    struction du th品trea Geneve. Apres avoir accus長lessciences et les arts comme causes de

    degradation des maurs, commellt a-t-il pu se defendr巴 ausujet d'avoir ecrit un romall

    d'amour,l・undes plus populaires et des plus lus de son siecle, Julie ou la Nouvelle Heloゐe?A partir de cette question fondamentale, nous tenterons de Iire le roman epistolaire au

    prisme de la notion de de l'ouvrage, en comparant ceIles gravees d'apr色sles dessins de Gravelot

    巴tcelles gravees d'apr色sceux de Moreau : le premier suivait bien l'exigence de Jean-JacQues,

    Qui tenait beaucoup aux details des scen巴sainsi qu'au choix des moments representes, tandis

    Que le second choisissait plus librement les sc色neset r白lisaitdes dessins portant plus d'im-

    pact sur les lecteurs.

    Ainsi, nous essaierons de dechiffrer les relations complexes du plaisir et de la sagesse

    dans La Nouvelle Héloi:~e en utilisant le concept du

  • はじめに

    『演劇に関するダランベール氏への手紙.1 (1758)において,J.ーJ.ルソー (1712-1778)は,

    ダランベールが『百科全書Jの項目「ジュネーヴ」の中でルソーの故郷ジ、ユネーヴへの劇場建

    設を促す内容の発言をしたことへの辛練な批判を繰り広げる。ダランベールがjレソーの宿敵

    ヴオ lレテールの意向を項目の内容に反映させたことは明らかであった。ジュネーヴはJレソーに

    とって,祖国である以上に「共和国」の理想を体現するモデルとして重要な共同体である。ル

    ソーによると,ジュネーヴ人が堕落することなく素朴で清貧な習俗を保っているのは,各人が

    日々の仕事に真面目に従事出来る環境のもと,享楽への誘惑から守られているためである。劇

    場が建設されれば余暇の楽しみは増えるかもしれないが,人々は仕事を疎かにしてでも刺激を

    求めて劇場に通うようになり,習俗が忽ち乱れるのは必至である。劇場は,すでに習俗の乱れ

    たパリのような大都会においては人々に悪事を鋤く時間を与えないための対処療法的な処方鐘

    になるかもしれないが,堕落を知らない健康な共同体であるジュネーヴには不要である以上に

    「余計なものJであり,有害な毒にしかなりえないというのが,ルソーの主張の根幹であった。

    自らは演劇を愛し劇場にも足繁く通うだけでなく,音楽家を志した過去を持ちオペラの作曲ま

    でするルソーの矛盾を周囲は意地悪く指摘したが,ルソーはそうした声に対して前述の論理で

    応戦する。そうすることで,自らのアイデンティティの拠り所であり,またその政治理論の原

    型である理想の「共和国」の象徴としてのジ、ユネーヴを,ヴォルテールらの劇場建設計画から

    守ろうとしたのである(1)。

    誘惑と堕落といえば小説の功罪に触れないわけにはいかない。民衆の聞に広まった簡易綴じ

    の読み物である「青本」などにもみられるように(2) 18世紀は書物が広く大衆化していった

    時代であった。そうした現実に呼応するかのように,リベルタン小説に登場するヒロインには

    しばしば恋愛小説を読みふける「堕落の兆し」が見られるが,ルソーは 18世紀後半のフラン

    スで大ベストセラーとなった自らの書簡体小説『新エロイーズ.1 (1761)の第一・第この序文

    において,オウイデイウスさながらに,自らの小説は育ちのよい生娘に向けられたものでは決

    してないということを主張している (3)。とはいえ娘たちの堕落の要因となるような「余計なも

    の」である恋愛小説をあえて自らが執筆することについて,ルソ}はどのような申し聞きをす

    るのであろうか。

    上記の関心を出発点として,本稿では『新エロイ}ズ』における快楽と淑徳の問題を複数の

    視点から読み解く試みを行う。その際,自然的なものと人為的なものとの聞を時にはつなぎ,

    時には脅かすものとしての supplement(追加物/補完・代替物)(4)の概念を分析の切り口と

    16

  • 快楽と淑徳:r新エロイーズ』に関する試論

    して使用する。まず始めに,そもそも「余計なものJ1:有害なもの」と自身が弾劾してきた恋

    愛小説を自ら世に問う ζ との意義についてルソーがどのような見解を述べているのかを検討す

    るO そして彼が, i有害」であるはずの恋愛小説に分類される『新エロイーズJを読むζ とを

    通して読者がどのような効用を得ると考えていたのかを考察する。次に,娘時代の恋を諦めた

    『新エロイーズJのヒロイン「ジュリ」が,ヴォルマールとの結婚後自らの生命の源でもある

    情念をどのような形で補完/代替物 supplementに変換し,また昇華しようとしていたのかを

    検討する。最後に,ルソー自身が特別な熱意と関心、を持って取り組んだ『新エロイーズjへの

    12枚の挿絵の挿入計画に着目する。その際,読者の購入しやすさへの配慮から 1761年の段階

    では別冊で出版された「挿絵集」を取り上げ,そこに掲載されたルソーのj是面選択への拘りと

    その描写への挿絵画家に対する詳細な注文を分析する。そして,ルソーが挿絵を自らの哲学や

    思想をより深〈読者に理解させるための supplementとして捉えており,そこに単なる付属物

    以上の重要性を認めていたことを検証する。『新エロイーズ』におけるこ大テーマである「快

    楽」と「淑徳」の複雑な関係を supplementという分析概念に光を当てて読み解くことで,こ

    の書簡体小説をより深く読解する上での新たな手がかりを提示したい。

    1.なぜ「窓愛小説jを書くのか

    I -1. Supplementの功罪

    Il faut des spectacles dans les grandes villes, et des romans aux peuples corrompus.

    大都会には演劇が必要で、あり,堕落した人民には小説が必要である (5)。

    予想される批判に先手を打つかのように, r新エロイーズ』の第一序文は上記の一文で始まっている。続けてルソーは, 1私は同時代の習俗を見て,これらの書簡を公刊した。なぜ自

    分はこの書簡集を火中に投じるべき時代に生きることが出来なかったのだろうか」ωと付け加

    える。この言い回しは『学問芸術論.J (1750)に続く論争の中で,ルソーがポーランド王スタ

    ニスラスへの回答の形で執筆した公開書簡の以下の内容に呼応している。

    L..J gardons-nous d'en conclure qu'il faille aujourd'hui Q且註.!:toutes les bibliotheques et

    坐主豆旦l出 universiteset les academies. Nous ne ferions que replonger I'Europe dans la

    barbarie, et les mぽ ursn'y gagneraient rien. L..J 0n n'a jamais vu de peuple une fois

    corrompu revenir a la vertu. En vain vひuspretendriez detruire les sources du mal L..J

    Laissons donc les sciences et les arts起型坐 enquelque sorte la飴rocitedes hommes

    17

  • qu'ils ont corrompus; cherchons a faire une diversion sage, et tachons de虫旦立主

    些盟~ a leur passions. Offrons quelques aliments a ces tigres, afin qu'ils ne devorent

    pas nos enfants.

    [.. .Jこの[普よりも多くの悪をもたらすものはすべて禁止すべきという]結論から,我々

    は今日すべての図書館を焼き払い,大学とアカデミーを破壊しなければならないのだ,な

    どという結論を引き出すようなことは慎みましょう。そんなことをしてもヨーロッパは再

    び野蛮の深みに落ち込むだけであり,習俗にとっても何の利益もないからです。[...J一

    度堕落した人民が徳へと戻ったというようなことは未だかつて誰も見たことがありませ

    ん。悪の根源を破壊しようとしても無駄なのです。[…]ですから学問と技芸によって堕

    落させられた人間の凶暴さを,学問と技芸によっていくらかでも緩和させましょう。賢明

    な慰みごとを探して,彼らの情念の注意を[それら代替物で]そらすように努めましょ

    う。猛虎たちが我々の子供を食べてしまわないように,何か食物を与えておきましょ

    且 (7)o

    同じ手紙の中で,学問と技芸はそれ自体悪ではないが現実問題としては人間に悪用・濫用さ

    れて習俗の悪化を促進しているのだから,それは推奨すべきものではなく,むしろ禁止すべき

    なのだとルソーは弾劾する。その上で,上述のようなことを述べる巧みなレトリックは見事な

    ものであるが,学問や技芸が「一般の人間の手に余る」ものであるというルソーの認識は一貫

    している。素朴な習俗を保っている人々にとってはそれは余計な supplement(追加物)とな

    るが,堕落した人民にとっては.選択的に与えることによって,情念を凶暴イじさせないための

    有用な supplement(代替物)となりうるのである。

    『新エロイーズ』は全体で六部構成となっているが,内容的には大きく二部に分けることが

    出来る。スイスの地方貴族デタンジュ男爵の令嬢ジユリとその家庭教師の身分違いの恋物語を

    扱う第一部から第三部までが前半部,過去の恋愛を諦め,父親の友人ヴオ Jレマールと結婚した

    ジュリが夫と共に管理運営する理想の家族共同体クラランの物語を扱う第四部から第六部まで

    が後半部にあたる。ジュリは娘時代に「過ち」を犯すが,恋人との結婚を諦め父親の選んだ相

    手と結婚して家庭に入ったあとは,女主人として家族共同体を切り盛りし,有徳な女性の鏡と

    してその共同体の中心的な存在kなっていくのである。後半部において,回聞生活の牧歌的な

    描写の中で田舎の百姓達の素朴な生活を賛美することで,この小説を読む田舎の人々に己が置

    かれた環境の価債を自覚させ,その幸福を再発見させることを,ルソーはまず小説の教育的効

    果としてあげている。それは,都会での成功を目指して上京した地方出身者が者修と堕落の中

    でより惨めな生活を強いられている現実を憂いたルソーによる, ['田舎の価値の再発見」の勧

    18

  • 快楽と淑徳:r新エロイーズJに関する試論

    めである。

    もうひとつ,女'性への教育的効果に焦点を絞った「釈明」として.r女性に有徳であることの価値を再発見させる」というものがある。前半部から後半部へと移る重要な要因となり,

    ジュリ自身の気持ちの転換点を示す「象徴的な瞬間」として,第三部書簡 18で描かれるジュ

    リとヴォルマールの結婚の瞬間がある。父親であるデタンジュ男爵の命の恩人であり,元戦友

    でもあるヴォルマールはジュリとの年齢差が30歳近くあり 当時で言えば「老齢」に差し掛

    かった男性である(ヴオルマールの年齢が,小説が刊行された 1762年の時点、のルソー自身の

    年齢とほぼ閉じ設定となっている点は興味深い)。神の前に,愛していないヴォルマールとの

    永遠の鮮を誓ったジュリはしかし,密通を持ちかける元恋人/家庭教師の提案を退ける。彼女

    は神の前の誓いの瞬間を,新しい自らの誕生の瞬間と捉える。恋愛に迷う「ジュリ」は死に,

    貞淑な「ヴォルマール夫人」が誕生する。彼女の魂は肉体を超克し,より高次の目的の為に地

    上の愛を象徴的に葬り去るのである。

    「罪」を犯した弱い人聞の迷いと苦しみ.r神」の赦しと救い. r美しい魂」の改懐と再生。まるで聖書の物語のように. r新エロイーズJは徳vertuの教科書として堕落してしまった女性読者に提示される。婚姻前に身分違いの恋人との密通の罪を犯したジュリが,家庭に入った

    のちには妻および母として貞淑に生き,その罪を償って徳へと立ち返る過程は,それを読んだ

    「過去にすでに過ちを犯したかもしれない」女性読者に徳へと立ち戻る希望を与える教育的効

    果がある。このように主張することで,本来「堕落の教科書」として糾弾されるはずの小説

    『新エロイーズ』は,姦通を奨励するリペルタン小説とは一線を画し,堕落した社会の中での

    「病の内なる治療薬」としての効能を持つという存在意義が得られるのである (8)。そのことが,

    第一論文『学問芸術論』で学問技芸の習俗一般に与える悪影響を厳しく糾弾し. r演劇に関するダランベール氏への手紙Jでジュネーヴへの劇場建設に強く反対したルソーが,あえて恋愛

    小説を書くことの一つの申し聞きになっていたともいえる (910

    しかし,事はそう単純ではない。確かに一見この小説のテーマは肉体の欲求である快楽の有

    徳な感情への昇華と堕落した恋人遣の淑徳への回帰であり,美しい魂の融合による理想の共同

    体の実現が後半部のテーマであるようにも見える。だが,そのように結論づけるのは早計であ

    ろう。『新エロイーズ』が掲げているかに見えるそうした「理想」は. r社会契約論.1 (1762) の理想が同書後半部でぼろぼろと崩れ落ちて行くのと同様,小説を読み進むに連れてほころび

    を見せ始め,最終的には実現しえずに終わる。また. r新エロイーズ』に散見される快楽の賛美や,当時の女性読者たちの熱狂と心酔を鑑みても,この小説の結論が表向きに1レソーが主張

    するような,単なる「徳への回帰」であったと結論づけることは難しい。ではルソーはこの小

    説で何を描こうとしたのだろうか。

    19

  • I-2. r娘jへの忠告

    Quant aux filles, c'est autre chose. Jamais fille chaste n'a lu de romans L..J

    だが娘たちに関しては別問題だ。いまだかつて清純な娘が小説を読むなどといったことは

    おこった試しがない L. .J (10)

    上述したように, r新エロイーズ』序文において,ルソーは自らの小説が決して生娘向けに書かれたものではないとと,そのあからさまな題名を見た上でなお小説を聞いてしまった娘た

    ちは「すでに堕落していたJのだから,小説によって堕落させられたわけではないということ

    を主張している。一見するとこの主張は supplementとしての学問技芸の両義性という文脈の

    中で,極めて筋が遇っているようにも見える。だが実は問題はそのように単純なものではない

    ということが,小説本編会詳しく解読する作業の中で明らかになってくる。あまり注目されて

    いない点だが,序文で述べられていることは,第三部書簡 18の次の箇所に見事に呼応してい

    る。

    Au lieu de jeter au feu votre premi色relettre, ou de la porter a ma mere, j'osai l'ouvrir.

    Ce fut la mon crime, et tout le陀 stefut主盟主.Je vひulusm'empecher de repond問主 ces

    lettres funestes que je ne pouvais m'empechel. de lire. Cet affreux combat亘l並旦旦豆

    sante. Je vis l'abime 0也j'allaisme precipiter.

    貴方[サン=ブルー]の最初の手紙を火中に投じるか,お母様に持って行くかするべきで

    したのに,私[ジュリ]はそれを聞いてしまいました。そのこと自体は私の罪ですが,そ

    の後のことはすべて強制されたこと(あらがいきれなかったこと)だったのです。貴方か

    らの数々の制となる手紙には返事をすまい左紙抗を試みましたが,それらの手紙を読まな

    いでいることはどうしても出来ませんでした。こうした恐ろしい闘いが私の健康を損ない

    ました。私は自分が今にも飛び込もうとしている深淵を見たのです(1l)。

    誘惑に負けて知恵、の実を食べてしまった「創世記」におけるエヴァの体験が,ジュリの身体

    を通して繰り返される。本人の強い自覚はなかったとはいえ,ジュ 1Jの心身にはすでに危険な

    「兆しJがあったことは,回顧的にジ、ユリ本人によって分析されてはいる。だが運命の手紙を,

    明らかに中身を予測出来たにもかかわらず,火中に投じることなく「聞きJr読んでJLまったジュリは,すでに健康な心身を失い,治ることのない病に擢思してしまったと解釈出来る。

    「健康を損なう」という表面的には身体症状を表す表現が,意志の力ではあらがいきれない力

    20

  • 快楽と淑徳:r新エロイーズ』に関する試論

    を持って(12)魂を蝕む痛に彼女が感染してしまったことをも暗に表していることを見逃しでは

    ならない。

    序文は明らかにこの箇所の伏線である。なぜなら予めJレソーは,読むべきではない内容が書

    いであると予測されるにもかかわらず小説を「聞いて」しまった娘たちに対して,ある助言を

    与えているのだ。ジュリのように情念の魅力を垣間見てしまった娘が『新エロイーズ』を聞

    き,引き返せない一歩を踏み出してしまった場合,彼女はもうなすすべもないのだろうか。確

    かに純粋な生娘には二度と戻れないであろう。しかしルソーはそうした娘たちに次のように助

    言しているのである。

    Celle qui, malgre ce titre, en osera lire une seule page, est une fille perdue : mais qu'elle

    n'impute point sa perte a ce livre; le mal etait fait d'avance. ruisQu'elle a commence, Qu'elle

    acheve de lir~ : elle n'a plus rien a risquer.

    この題名にもかかわらずあえてこの小説を 1ページでも読もうとする娘は損なわれた娘であ

    る。だが彼女は自らの敗北をこの本のせいにするべきではない。悪はすでになされていたので

    ある。読み始めたのであれば,最後まで読み遂げるがよい。もはや危険は何もないのだか

    ら(1説。

    この箇所は一見すると, Iすでに堕落してしまった娘」はもはや如何ともし難いというメッ

    セ}ジにも読める。だが,すでに堕落した生活を送りつつも徳を愛する良心が残っている女性

    たちへの治療薬となりうるこの小説が誘惑に負けて「すでに読み始めてしまった娘」に対し

    ては本当に害毒にしかならないのだろうか。この疑問を解く補助線として, rエミールj(1762) の有名な冒頭部を引用したい。

    Tout est bien, sortant des mains de l'auteur des choses : tout deg白色reentre les

    mains de l'homme. […] Il [l'homme] bouleverse tout, il defigure ぬut: il aime la diffor-

    mite, les monstres. Il ne veut rien tel que l'a fait la natu陀, pas meme l'homme […] Sans

    cela tout irait plus mal encore, et not児 esp色cene veut pas etre faconne a demi. Dans

    l'etat ou sont desormais les choses, un homme abandonne des sa naissance a lui・meme

    parmi les autres serait le plus defigure de tous.

    万物を創る者の手を離れる時はすべては普であるが.人間の手にうつると全てが臆落す

    る。[…]人聞はすべてを覆し,すべてを歪ませる。人聞は変形した醜悪なもの,怪物を

    好む。自然が創造したままにはなにひとつしておきたくないのであって,それは人間に関

    21

  • しでもそうなのである。[…]しかしそれ[人間の介入]がなければ全てはより悪くなる

    のであって,我々人聞は中途半端に手を加えられることを好まない。今日のような事物の

    状態にあっては,生まれたときから他の人々の聞に丸裸で放り出された人聞は誰よりも歪

    んだ存在となってしまうだろう ([4)。

    自然状態を抜け出した人間の変化は不可逆的であり,それは第二論文『人間不平等起源論J

    (1755)でも明示されている。ルソーはここで,小説を読み始めてしまった娘に対し, ["読み始

    めてしまった以上,読んでも読まなくてもすでに堕落は確実なのだから,結果は変わらない。

    最後まで読み通すがよい」と言っているのでは断じてない。『エミールJ冒頭部をバイアスに

    加えて上記の序文を読み直したとき,ルソーの別の言葉が聞こえてくる。ルソーはここで,

    「読み始めてしまった娘は,中途半端なところで読書を中断することなく,最後まで読み終え

    なければならない」と主張しているのである。

    Quand le mal est incurable, le medecin applique des paliatifs et proportionn巴 les

    remedes, moins aux besoins qu'au temperament du malade.

    悪/病が治癒不可能な時,医者は必要よりもむしろ病人の体質/気質に応じて緩和剤を与

    え治療薬を調合するのです(15)。

    それは, r新エロイーズJの前半部と後半部の一見「断絶」に見える構造とも関係している。前半部で恋人遣の破滅の原因となった「恋=情念の病」を二人はいかにして乗り越えるのか。

    過ちを犯した娘は,結婚後いかなる努力によって徳を取り戻すのか。そもそもこの「病」は治

    癒しうるものなのか。最後まで読み通してこそ,娘たちにとってこの小説は,少なくとも「有

    徳であろう」としたひとりの女性の姿を通して, ["緩和剤」としての意味を持ちうるのだと言

    える。

    だが,ジュリが橿思した病が不治の病なのだとすると,結婚後の彼女の淑徳への努力を我々

    はどのように解釈すべきなのだろうか。また,なぜ『新エロイーズ』の扉には, rエミーJレ』の扉にあったセネカの句, ["我々は治癒し得る病に苦しんでいる。善き者として生まれついて

    いる我々は,自らを矯正しようと望めば自然の助けを借りることが出来るJ(16)ではなく, ["今

    は亡き」美しい魂ジュリを惜しむようなペトラルカの哀惜の詩が載せられているのだろうか。

    22

  • 快楽と淑徳:r新エロイーズ』に関する試論

    n.快楽と淑徳の狭間で

    ll-1圃「不治の病Jの誘惑

    18世紀のリベルタン文学というと,クレピヨン・フィスやドゥノン,ラクロなどの機知と

    快楽を是とする放蕩主義文学が挙げられるが, r新エロイーズ』は反リベルタン文学として,表層的な快楽ではなく真の愛情と徳に基づいた魂の融和を描き出している。だが,ルソーの恋

    愛小説の根底には,快楽を必ずしも断罪せず,むしろその甘美さを肯定する姿勢が随所に見ら

    れることも見過ごせない。

    恋愛小説である以上, r新エロイーズ』は情念を超克して有徳に生きる女性の物語で終わることはない。この小説には Lettresdes deux amants, habitants d'une petite ville au pied des

    Alpes (アルプスの麓の小さな町に住む恋人達の書簡)という副題がついているのだが,それ

    が前半部だけでなく,小説会体の冠としてついていることは示唆的であろう。

    ジ、ユリはサン=ブルーの官能sensの起源である。だがそれを本人は当初自覚していない。夜

    の帳の助けを借りるのが'慣例のリベルタン文学にありがちな「密会J(J7)左は違い, r初めての愛の接吻」は日暮れ間際の木立において,従姉妹で親友のクレールを立会人として,真の愛情

    に基づいた「清らかなもの」としてジュリからサン=ブルーに「与え」られる。それはサン=ブ

    ルーにとって,文字通り surpris巴(不意打ち・思いがけない贈り物)であった(18)。

    この surpriseが青年にどのような影響を与えたのかについては,彼自身の動揺と興奮に満

    ちた手紙(第一部書簡 14)が雄弁に物語っている。彼は「最初の子紙」を「聞いて読んでし

    まった」ジュリ同様,その心身に不可逆的な変化を被ったことを告白するのである。

    Qu'as-tu fait, ah! Qu'as-tu fait, ma Julie? Tu voulais me r邑compenseret 旦旦'asQCI.色.Je

    suis ivre, ou plutot insense. Mes sens sont alter岳s,toutes mes facult白 sonttroublees

    par ce baiser mortel. Tu voulais soulager m笠旦型茎.?Cruelle, tu les aigris. C'est du Q止

    son que j'ai cueilli de tes 1色vres;il fcrmente, il embrase mon sang; il me tue, et ta pitie

    me fait mourir. [...J A peine sais-je ce qui m'est arrive depuis ce fatal moment. L'im-

    pression profonde Que i'aie recue ne peut plus s'effaceI. [...J Un seul, un seul m'a jete

    dans un egarement dont jξne puis plus revenir. J e ne suis plus Ie meme, et ne te vひlS

    plus la mεme.

    ああ,貴女は何をしたのです 1 何をしたのです,ジ、ユリ! 貴女は私にご褒美を下さる

    おつもりで,私を破滅させてしまったのです。私は酔っています,いえ,むしろ狂ってい

    23

  • ます。あの致命的な接吻によって私の官能は悪い変化を被り,すべての能力カ宮混乱してし

    まいました。貴女は私の萱L主ζ盟を緩和しようとしたのですか? 残酷なひと,むしろ

    苦悩は激しくなってしまいました。貴女の唇から吸い取ったものは毒です。その毒は私の

    血を沸き立たせ,燃え上がらせて,私を殺します。貴女の憐れみは私を死なせてしまうの

    です。[…]あの致命的な瞬間のあと,私は自分に何が起きたのかほとんど分かりません。

    私が受けた深い印象/刻印は消すことが出来ないものです。[…]たった一度,たった一

    度だけの接吻が,私を惑わせ,もうその状態からもとに戻ることは不可能になりました。

    私はもはや以前と同じ私ではなく,貴女のことも以前と同じに見ることは出来ないので

    す(1910

    下線部に着目して読めば分かるように.この箇所に出てくる表現はレソーが学問技芸や小説

    の危険性について語った言葉や,サン=ブルーからの最初の手紙を読んで‘しまったジュリ自身

    の言葉の中に見つけられるキーワードを凝縮したものとなっている。学問技芸の魅力に触れて

    しまった現代人 (Jレソ}自身も含め).小説を読む快楽を知ってしまった娘,家庭教師の愛の

    手紙を聞けてしまったジ、ユリ,そして恋する女性の接吻の味を知ってしまったサン=ブルー。

    彼らは皆. I致命的な瞬間」を経験してしまったのであり,その瞬間から不可逆的な質的変換

    を遂げて「堕落」し,もはや二度ともとの「幸福な無垢」の状態に戻ることは不可能となった

    のである。

    その後,未遂に終わった「シャレーでの密会」の誘いも,初めての一夜も,すべてジュリか

    ら恋人の青年に提案きれ,与えられる。ジュリ自身は一方で戸惑いを感じつつも.真に愛する

    男性への愛情に基づく行為の神聖性を疑う様子もない。だが彼女自身にとってもこの接吻は致

    命的なものであり,自らの欲望が自らの意志では制御出来ず,その「一瞬」がジュリ自身の心

    身にも不可逆的な変化を与えてしまったことが,第三部書簡 18の中で告白される (20)。陶酔と

    興奮に満ちたサン=ブルーの手紙へのジ、ユリの短い返信(第一部書簡 15)が非常に事務的な言

    葉で書かれており,内容も恋人を物理的に遠ざけるヴアレー行きの「提案/命令」で、あったこ

    とは,逆にジュリ自身の変化と動橘をも表していたのである。

    このように激しく愛しあった恋人達だが,強権的で貴族的な偏見に凝り固まった父親の意志

    に従い最終的には別の男性と結婚したジュリが,第四部以降,有徳で慈愛に満ちた女神のよう

    な様相で描かれることはどのように説明されるのだろうか。

    II-2.幸福の中の空虚感

    娘時代に情念に負けて「堕落」への道を進んでしまったジユリの情念は,いかにして徳へと

    24

  • 快楽と淑徳:r新エロイーズ』に関する試論

    変換されたのか。結婚後のジュリは過去の過ちを償い貞淑な妻および一家の女主人としての義

    務を果たすため, 自らの情念を識れない愛情と罪のない楽しみへと浄化/昇華するように務め

    る。こうして「ヴオルマール夫人」となったジユリはクララン共同体の愛情の源泉となり,構

    成員すべての「母」として彼らに惜しみない愛情を注ぐ。それは構成員の意志にまで及ぶ「愛

    情による支配と管理」であるが,ただ構成員ひとりひとりの幸福と共同体全体の善を目的とし

    ているがゆえに正当化されるこの支配は,夫でで、あり家長でもあるヴオルマ一ルの支配よりも徹

    底した影響力を持つものなのでで、ある(位伽削2幻初J)

    ジユリはヴオルマ一ル犬人となつたことで, I完壁Jな夫のもとで一見「完全Jな幸福を手

    に入れたかのように見えた。だが奇妙なことに,彼女はのちにその幸福の中で倦怠している自

    分を見出すのである。それは一体どういうことなのだろうか。

    『新エロイーズJ後半部を丁寧に読み解くと,結婚の瞬間に「死んだ」はずのジュリは「神

    の慈悲」によってひっそりと救い出され,生まれ変わった「ヴォルマール夫人」の中に生き続

    けていたことがわかる。娘時代に生まれたサン=ブルーへの愛情こそが結婚後も変わらぬ彼女

    の生の源であり,クララン共同体の生命力でもあったのである。このことは,ルソーの心身二

    元論が単純に魂の純粋きを尊ぴ身体の積れを断罪する類いのもので、はなかったことを雄弁に物

    語っている。

    長い沈黙を破って書かれたかつての恋人に対しての書簡の中で、ジュリは,自分が全てを手に

    入れ幸福の絶頂にありながら,満たされない空虚感 videを持て余していることを告白する (22)。

    Voila ce que j'句rouveen partie depuis mon mariage, et depuis votre retour. J e ne vois

    partout que sujets de contentements, et je ne suis pas contente. Une langueur secr色te

    s'insinue au fond de mon caur; je le sens vide et gonfle, comme vous disiez autrefois du

    並主主;l'attachement que j'ai pour tout ce qui ffi'est cher ne su伍tpa~ pour l'occuper, il

    lui reste une force inutiledρnt il ne sait que faire. Cette peine est bizarre, mais el1e n'est

    pas moins reelle. Mon ami, je suis trop heureuse; le bonheur m'ennuie.

    これが私[ジュリ]が結婚以来,そして貴方のご帰還以来,一部味わっていることなので

    す。どこを見ても満足の種ばかりですのに,私は満足していないのです。密やかな物憂さ

    が私の心の奥底に忍び込んでいます。かつて貴方[サン=ブルー]が自分自身の心につい

    ておっしゃっていたのと同様に,私も私の心が空虚であると同時にいっぱいに膨れている

    と感じるのです。私にとって大切なすべてのものへの愛情も私の心を占めるのに十分では

    なく, どうしていいかわからない無駄な力が私の心に残っているのです。この苦しみは奇

    妙なものですが,だからといって現実味が薄れるわけではございません。貴方,私は幸福

    25

  • 過ぎるのです。幸福が私を倦怠させているのです倒。

    「結婚後」から,そして「サン=ブルーの帰還後から」空虚感を感じ続けているというジュリの

    告白は,第三部書簡 18で「突然の神の啓示によって生まれ変わった」と主張した女性の告白

    としては致命的であろう。完全であるはずのクララン共同体の幸福の本質的な部分にほころび

    が出始めていることが(あるいはほころびは最初から存在しており,修繕しきれていなかった

    とも言える)如実に伺える。「かつてのサン=ブルーと問じように」彼女の心は空虚であると同

    時に膨れ上がっている。溢れる愛情と情念をあらゆる方向に向けて惜しみなく注ぐジュリは,

    それでも溢れ続ける自らの情念をもはや満たす対象を地上に見出せないことに苦悩する。その

    源がサン=ブルーへのかつての恋愛感情であることを鑑みると,これはほとんど(あるいは無

    自覚の)かつての恋人への愛の告白そのものとも取れる。

    そもそもジ、ユリは「聖女」ではない。愛情溢れる感受性の豊かなジ、ユリが,他方では現世の

    享楽には無関心な信心家であるなどということはありえないことを,そしてそれは生/性の根

    源的なところでそうであることを,別の書簡の中でルソーはひっそりと暗示している刷。ク

    レールからジュリへと宛てて書かれた第六部書簡2において,サン=フ。ルーとの再婚の勧めを

    断ったクレールが, 30代の自分がまだ女性として肉体的な快楽への欲求を持っていることを

    かなりはっきりと記している次の箇所に注目したい。

    Oui ch色reamie, je suis tendre et sensible aussi bien que toi; mais je le suis d'une autre

    mani色re.Mes affectio附 sontplus vives; les tiennes sont plus penetrantes. Peut-etre

    avec des sens plus animes ai-je plus d巴 ressourcespour 1eur donner le change, et cette

    meme gaite qui coute l'innocence a tant d'autres me l'a toujours conservee. Ce n'a pas

    toujours邑従 sanspeine, il faut l'avouer. Le moyen de rester veuve a mon age, et de ne

    pas sentir quelquefois que les jours ne sont que la moitie de la vie? Mais comme tu l'as

    dit, et comme tu l'句rouves,la sagesse est un grand moyen dモtresage; c:ar 'avec toute

    ta bonne contenance, je ne te crois pas dans un cas fort di酪 rentdu mien.

    ええ,愛しい貴女[ジュリJ.私[クレール]は貴女と同じくらい愛情探く感じやすいけ

    れど,それは貴女とは別の仕方でなのです。私の愛情はより快活で,貴女の愛情はより深

    く心に染み通ります。私の方がより活発な官能を持っているので,もしかしたら貴女より

    もその官能に代替物を与えて紛らわす手段もより多く持っているのかもしれません。そし

    て他の多くの女性には無垢を損なう原因になる陽気さも,私にとっては常に無垢を守る手

    段でありました。正直にいうと,それには必ずしも背労が伴わなかったわけではありませ

    26

  • 快楽と淑徳:r新エロイーズJに関する試論

    ん。私の年齢で未亡人のままでいて,時折昼間は人生の半分でしかないということを感じ

    ずにいることが出来ましょうか。けれども貴女もおっしゃいましたように,そして現に体

    験してらっしゃいますように,賢明であることは貞淑であるための効果的な手段なので

    す。なぜって貴女は平然としたご様子をきれておりますけれど,貴女だって私とそこまで

    違う立場にいるようには思われませんもの刷。

    女性同士の,離れられない従姉妹同士という親密な間柄の書簡であるにせよ,ルソーがここま

    で直接的に女性の性的欲求の存在とそれを満たす手段の欠如に対するフラストレーションにつ

    いて記していることは驚くべきことである。しかも,快活ではっきりとした物言いをするク

    レールの筆によるとはいえ,未亡人であるクレールのみならず,年の離れた未のいるジ、ユリ

    (ジ、ユリの夫ヴオ Jレマールはジュリへの愛情以外の情念がほとんど存在しない冷たい/冷静な

    froid理性的人聞とちれでいる)にまで自分と同じフラストレーションがあるはずだと指摘し

    ていることは,ジュリの「最後の告白」への伏線としても また 元恋人への愛情令持て余

    し,同時に満たされない心の渇望と闘うジ、ユリの嘗勤を分析する上でも,非常に興味深い。

    ]I-3. 三つの supplements

    ジュリは「ヴォルマール夫人」となってから,かつて元恋人に向けられていた精神的・肉体

    的な快楽への欲求を様々な形の supplementへと変化させ,罪のない形でそれを卒受する術を

    編み出している。サン=プルーへの愛情を転化させる対象として,また自分の中の「満たされ

    ない空虚感Jを埋めるため,ジュリがその情熱を注いだ代替物 suppl邑mentには大きく次の三

    つがあげられる。それらは庭園管理jardinage.食欲gourmandise. そして信仰心 devotionで

    ある(お)。

    『新エロイーズ』における庭園のテーマはあまりにも有名であるが,それはすでにヴォル

    マールとの結婚前.家庭教師との恋愛の障害が増す危機的な状況の中で,ジュリによって造営

    されはじめていた果樹園「エリゼ」をめぐる主題として特に重要である。ヱリゼはヴオルマー

    ルによって妻ジュリの「貞淑と有徳Jを表す場としてサン=ブルーに紹介されるが,それはす

    べてを知るヴオルマールによる巧みな文脈の読み替えでしかない。実際のエリゼは満たされ得

    ない恋人への情念を補完/代替する場supplementとして娘時代のジ、ユリによって創られたも

    のであり,結婚後も果樹園はそうした場として機能し続けている。だが,ヴォルマールはメイ

    ユリの岩場と同様,この果樹園にも新しい意味を付与しようとしたのである。果樹園の名前で

    あるエリゼ(楽園)が,聖書「創世記Jの快楽が罪ではなかった「堕落前の時代jを想起させ

    るものであることは言うまでもない。エリゼは常に鍵で閉ざされており,幾重にも覆うシダや

    27

  • ツタによって外側から内部を見通すのは不可能な状態になっている。ぞれがジ、ユリの心そのも

    のの比職であることは明らかであろう (27)。

    次に食欲であるが,ジュリは節制を重んじつつも,食べることが大好きな「食いしん坊」な

    女性として描かれている。『新エロイーズJには食べものの話題が非常に多く登場するが,食

    のもたらす快楽が性的欲望の代替物 supplementでもあり,また性的欲望そのもののメタ

    ファーでもあることは容易に理解出来るだろう。ジ、ユリはスイス女らしく,活力の源である

    「男性的飲食物」とされるワインや肉は滅多に口に入れないが, r女性や子供の飲食物」とされる乳製品や果物には目がない。男性立ち入り禁止の「育児室Jではお菓子やクリームなどの甘

    いものが女性と子供たちにふんだんに振る舞われるのだが,その様子はジュリの「特別な許

    可」を得て育児室に入ることに成功したサン=ブルーによっていきいきと描き出されている(銘)。

    また,ジュリは劫D~Fを好むが,その摂取回数を自ら管理しており,その節制のおかげでJ})U誹を

    味わう楽しみが何倍にも増すのだと述べている。「ちょっとした感覚的な快楽 unepetite sen-

    sualiteJをもたらす瑚排安味わう楽しみが,ここでもまた彼女の情念の supplementとして機

    能していることが伺われる (29)。

    果樹聞は葡萄畑などと問じく生産と繁栄の場でもあり,自然との共存の場でもある。また,

    食べるととはすなわち生きることに直結しそれはすなわちこの世の生をあまねく享受するこ

    とである。サン=ブルーに宛てた第六部書簡8においてジュリは,親しい友人だけを招いた冬

    の日の「アポロンの間」での夜の食事において味わった「至上の幸福」について感動を込めて

    語っている。「感じることと享受することの一致」による「生の充足」を元恋人に告白したあ

    とのジュリが, rもはや地上に望むものは何もなく,すべてを享受しつくした今,いつ死んで、も構わない」といった主旨の発言をすることは偶然ではない(30)。だがそれが実際は完全な満

    足を表す言葉ではなかったことが,手紙の続きを読むと明らかになる O 地上における supple-

    mentに没頭し, r幸福の絶頂」といえる状態まで味わい尽くしてしまったジュリは,それでも何かを渇望する自らの情念を持て余しているのである。もはや地上ではその渇望を満たすも

    のを見つけられないジュリは,そこで情念をさらに別の方向へと向けることになる O

    そこで信仰心である O ジ、ユリの信仰心は小説を読み進めるにつれて熱心さを増し,深まって

    いく。それは現世の快楽への欲求と渇望からの「最後の逃避場所」としての役割を果たしてい

    るのである。自らの溢れる愛情(情念)と現世におけるその対象の枯渇を満たすものとして,

    ジュリは神への愛に没頭する。

    [...J mon c句 urignore ce qu'illui 旦旦旦旦~; il昼台主主sanssavoir quoi.

    Ne trouvant donc rien ici-bas qui lui型盟笠, mon ame avide cherche ailleurs dequoi

    28

  • 快楽と淑徳:r新エロイーズJに関する試論

    la rem且主;en s'elevant a la回 urcedu sentiment et de l'etre, elle y perd sa secheresse et

    sa langueur : elle y renait, elle s'y ranime, elle y trouve un nouveau ressort, elle y puise

    une nouvelle vie; elle y prend une autre existence qui ne tient point aux passions du

    corps, ou plutot elle n'est plus en moi叩 emeL..J

    [.. .J私[ジユリ]の心は自分に何が不足しているのか知らず,対象もわからずに欲っし

    ているのです。

    私のどん欲な魂は地上でその欲求を満たすに十分なものを何も見つけられなかったの

    で,別の場所に空虚を満たすものを探すようになったのです。感情と存在の根源にまで自

    らを高めることで,そこで渇望と物憂きを失いました。私の魂はそこで再び魁り,生気を

    得,新たな活力を見つけ,そこに新しい命を汲み取りました。また私の魂はそこで,肉体

    の情念にはその根拠を持たない新しい存在を得ました。というよりもむしろ,私の魂はも

    はや私自身の中にはいないのです則。

    ジ、ユリは自分自身のことを語っているはずなのだが,上記の文には奇妙にも,一度も主語と

    しての je 私)が出てこない。ジュリはここで,自分自身のことを主語として語る時はすべ

    てmoncaur / ilとmoname / elleに置き換え,まるで他人のことを話しているかのようで

    もある。最後の一文, r私の魂はもはや私自身の中にはいない」という言葉も大変示唆的で,未だ満たされぬ欲求を持ったジュリの身体が自分自身の「魂」に地上に置いていかれつつある

    のではないか,とも受け取れる。かつての恋人への恋愛感情や,淡白なヴォルマールとの聞で

    満たされない快楽への欲求さえも浄化し,神への祈りへと転化することで,ジュリは地上を生

    き延びるのである。だがその姿はまた,近づく死の影を予感させるものでもある。表面的に主

    張された言葉とは裏腹に,実際のジュリは自らが地上で以前味わっていた喜びへの関心が薄れ

    たことで信心深くなっていったのではなく,むしろ生きることの喜ぴとその魅力を知ってし

    まった自分の「生への執着」から自らを引きはがすために,ますます信心深くなっていくよう

    に見える。かつてヴオルマールとの半ば強制された結婚式において,彼女に突然の光となって

    現れて心の平安をもたらしたはずの「神」は,地上では消化しきれないジュリ=ヴォルマール

    夫人の情念を受けとめ昇華させる最後にして最大の supplementとなっているのである。

    このように,第四部以降,情念はクララン共同体の中で代替物 supplementに不断に転化さ

    れ,過去の恋愛感情は,淑徳へと導くヴオルマーJレの「治療」とジュリ自身の努力によって格

    化され昇華されてきたかのように見えた。だ、がサン=ブルーに宛てられたジュリの最後の手紙

    によって,クラランの生命そのものであるジュリ自身が,実は「病」から少しも癒えていな

    かったことが告白されるのである。この最後の手紙を目の前にして突如.我々は小説全体を別

    29

  • の視点から読み直すことを要請される (32)。つまり,ヴォルマールの「治療J計画は深いヴェー

    ルで覆われたエリゼ、/ジュリの心lこまでは届いておらず, 1恋は消えたJと執捕に繰り返す貞

    淑な「ヴオルマール夫人」の告白は,自分自身の心をもだまし通した「ジュリJの狂言に過ぎ

    なかったとも解釈出来るのである。道ならぬ恋物語の原形としての『クレーヴの奥方Jのよう

    に,修道院に行くのとほとんど同義の「ヴォルマ}ルとの結婚」を選んだジュリ。地上におけ

    る快楽への欲求を捨て,天上へと向かう愛の中でそれでも美しい魂の融合を希求したジュリ

    は,死に行く中で自分自身の肉体の腐敗をも元恋人に予告している。『新エロイーズ』の隠れ

    た主題は,快楽を求める情念の飼いならしの失敗と,毒としての'情念を知ってしまった人聞の

    苦悩と束の間の幸楕,そして淑徳を求めて弱いけれども正しくあろうとした人間への,共感と

    賛美であったのかもしれない。

    そのような視点のもとで『新エロイーズ』を読み直したとき,後半部は情念の浄化と昇華の

    物語であるどころか,むしろ消え去ることのない情念の転化と生き直しの物語であったと解釈

    出来るのではないだろうか。

    ill. 挿絵という supplement

    ill-1. 描かれ得ないものを描く

    18世紀は印刷技術の発達によって読書行為が大衆化し,読者層の拡大とともに鋼板版画に

    よる挿絵が大流行した時代であった。美しい挿絵は読者をより惹き付け,また具体的な場面の

    描写は時によって読者の内容理解を補完する役割をも求められたのである。

    MartinやSeiteも正しく指摘しているように(33) レソーは自身の著作への挿絵挿入に積極

    的であり,また著者としてその内容や挿入箇所にまでこだわり,詳細な指示を出したことで知

    られている (34)。挿絵入りの書物は値段が高くなる為. r新エロイーズ』の挿絵は 1761年当初,別冊として出版された(35)。その挿絵集を見ると,ルソーが挿絵画家の Gravelotに対して,時

    に非現実的と思われるまでの詳細を要求していたことが分かる。ルソーの言い分では,例えそ

    うしたディーテイルが挿絵の中で実際に具体的に描き分けられることが不可能だとしても,挿

    絵画家の想像力によってそれを読者に想起させられなければならない。理想は文章と挿絵が相

    互に補完しあい,読者によりいきいきと物語の場面を思い起こさせることである。

    挿絵は書物にとって,重層的な意味における supplementである。基本的には著作本体の文

    章への追加物であるのだが,時には作品を完成させるのに欠かせない補完物になり,また文章

    に書かれていなことまでをも読者に想起させるという意味で,本文の代替物にさえなりうるの

    である。ルソーが熱意を持って挿絵の詳細の意思決定にかかわっていたことは, r新エロイー

    30

  • 快楽と淑徳:r新エロイーズ』に関する試論

    ズ』の作品全体における挿絵の意味と役割を考える上で重要である。

    一見するとパラドクサルなことだが,自らの恋愛小説を読者に十分に堪能させるために選ん

    だ全部で 12枚になる挿絵の場面として,ルソーは「決定的瞬間」を描くことを慎重に避けて

    いる。挿絵は読者の想像力を刺激こそすれ,邪魔をするものであってはならない。決定的瞬間

    を描いてその視覚的イメージを固定することは,読書行為によって小説の解釈が広がる可能性

    を阻害してしまう危険性を苧んでいる。挿絵は諸刃の剣なのである。むしろルソーが求めたの

    は,その瞬間を「描かれていなくても」読者に想像させること,否,逆説的だが「描かないこ

    とによって」より鮮明に想像させることであり,挿絵画家だけでなく,読者の側にも想像力が

    求められる (36)。以下,具体的に二枚の挿絵を題材にして,その説明文を紐解きながら検討す

    る。

    m-2.不可逆的瞬間

    まず取り上げたいのは,挿絵集の中でも一枚目の挿絵である[以下「挿絵(l)jとする]。そ

    れはルソーにとって思い入れが強いもので,小説においても重要な場面,前の章でも触れた

    「木立の接吻」の場面を描いたものである。『初めての愛の接吻 Lepremier baiser de l'amour.l

    と題されたその掃絵には,以下の通りの説明(挿絵画家 Gravelotに対するルソーの要求)が

    添えられている【図版1]。

    Le lieu de la sc色neest un bosquet. Julie yient de donner a son ami un baiser cosi sapori-

    to, qu'el1e en tombe dans une esp色cede defaillance. On la voit dans un etat de langueur

    se pencher, se laisser couler sur les bras de sa cousine, et cel1e-ci 1a recevoir avec un

    empressement qui ne l'empeche pas de sourire en regardant du ∞in de l' ail son ami.

    Le jeune homme a les deux bras etendus vers Julie; de l'un, i1 vient de l'embrasser, et

    l'autre s'avance pour la soutenil' : son chapeau est a terre. Un ravissement, un transport

    tr白 vifde plaisir et d'alarmes doit regner dans son geste et sur son visage. Julie doit se

    pamer et non s'evanouir. Iout le tableau doit respirer une ivresse de volupte qu'une

    certaine modestie rende encore plus touchante.

    [挿絵で描かれる]場面の場所は木立である。ジュリは恋人にコノヨウニアマイ接吻を与

    えたところであり,そのことである種の失神状態に陥っている。彼女が衰弱した状態で体

    を傾け,従姉妹の腕に倒れ込むままになっているのが見て取れる。従姉妹の方は皇ど主盤

    女を受け止めるが.そのことは片目の端で友人[サン=ブルー]を見ながら微笑むことを

    妨げはしない。若者は二本の腕をジュリの方に伸ばしている。片方は彼女を抱きしめたば

    31

  • 図版 1 r初めての愛の接吻J

  • 快楽と淑徳:r新エロイーズ』に関する試論

    読んで、理解出来る通り,ルソーが描くように求めた場面は正確には「初めての接吻」の場面で

    はなく, I初めての接吻の直後」の場面である。決定的瞬間を避けることで,逆にその瞬間を

    読み手の想像力に喚起させるような作品をルソーは Gravelotに求めている倒。その詳細の描

    写は滑稽なほどに微に入っているが,導入部で語られている通り,ルソーはそのすべてを描き

    出すことを画家に要求しているわけではない。ただ,その筆致を画家と読者双方の想像力に

    よって補うように導く表現力を挿絵画家自身にも求めているのである。

    La plupart de ccs sujets sont detailles pour les iaire entendr'e, beaucoup plus qu'ils ne

    peuvent l'etre dans l'execution : car pour rendre heureusement un dessin, l'artiste ne

    doit pas le voit tel qu'il sera sur son papier, mais tel qu'il est dans la nature. Le crayon

    ne distingue pas une blond巴 d'unebrune, mais l'ima疋inaitonoui le .p:uide doi t les dis-

    出 gu町.Le burin marque mal les clairs et les ombres, si le graveur正也話回 aussiles

    couleurs.

    これらの主題のうちのほとんどは,実際に描かれるであろうよりもずっと詳細にその状

    況を理解きせるために詳述されている。なぜなら絵が成功するには,画家はそれが紙面上

    に搭かれるであろうように見るべきではなく,ぞれが自然のうちにどうあるかを見るべき

    なのである。鉛筆では金髪娘と茶髪娘を描き分けられないが,筆致を導く想像力がそれを

    描き分けられなければならない。彫版師が色彩をも想像するのでなければ,ピュラン彫り

    版画ではその明暗を上手く描き出すことは出来ない(39)。

    またレソーは従来「瞬間を捉える技芸 artJと考えられてきた絵画に対し,挿絵独特の役割

    を求めているのそれは「物語の前後を含めた時間的な流れをも描き込むことjである。ぞうす

    ることで登場人物に命を吹き込み,場面に動きをもたらす効果が得られるのである。挿絵(1)で

    は,サン=ブルーの両腕の動きがその役割を果たしている。「片方の腕」は「彼女を今しがた抱

    きしめたところJ(de l'un, il vient de l'embrasser)であり, Iもう一方Jの腕は「彼女を支え

    ようと伸ばされているJ(I'autre s'avanc巴 pourla soutenir)。一瞬前の出来事を表す近接過去

    形と,次の瞬間に向けての腕の動作を表す s'avancerという動詞の聞の瞬間を捉え,あえて

    「決定的瞬間Jをはずすことによって,ルソーは「初めての愛の接吻」の挿絵で登場人物遣の

    微妙な心の動きまで浮かび上がらせようとするのである刷。

    De meme dans les figures en mouvement, il faut voir ce qui precede et ce qui suit, et

    donner au temps de l'action une certaine latitud巴;sans quoi l'on ne saisira jamais bien

    33

  • l'unite du moment qu'i! faut exprimer. L'habilete de l'artiste consiste a faire imaginer au

    spectateur beaucoup de choses qui ne sont pas sur la planche; et cela depend d'un heu-

    reux choix de circonstances, dont celles qu'il rend font supposer celles qu'il ne rend pas.

    同様に,動きのあるt需給においては,先行する場面とそれに続く場面を見た上で,動きの

    時間にある程度のl隔を持たせなければならない。その幅がなければ表現すべき瞬間の一体

    性を把握することは決して出来ない。芸術家の才能は鑑賞者に挿絵の中に捕かれていない

    多くのものを想像させることにある。そのことは,様々な状況の適切な選択に依るのだ

    が,それは表現されている状況が表現されていない状況を予想させるものとなるような選

    択なのである刷。

    だが,こうしたルソーの要求は本質的に困難なものである。「描かないことで描き出す」とい

    う逆説的な技が効果的に伝わるには,先述したように,読者の側にも行聞を読むそれなりの努

    力が要請される。受動的な読書や挿絵鑑賞ではこうした効果を得ることは難しいのであって,

    読者の能動的な参加が不可欠となるのである。『哲学辞典.1 (1764)序文におけるヴォルテール

    の有名な言葉にもあるように, r最良の書籍はその半分を読者が作るJ(42) ものであるとしても,著者の同時代はまだしも後世の読者にまでその努力を求めることは相当に難易度の高い要求で

    あるといえよう O そのためもあってか,別冊として出版された「挿絵集Jやその後の挿絵が挿

    入された版にはルソーの挿絵画家に対する要求を記した文苧が「説明文」としてそのまま掲載

    され,挿絵を読み解く一助となっている (43)。だが試みのこうした困難さもあり,出来上がっ

    た挿絵の多くはルソーの希望した完成度からはほど速い作品となったようで,書簡には度々不

    満を漏らすルソーの姿が確認されている(叫)。

    1774年版に挿入された別の挿絵画家 Moreauの原画に基づいた同じ場面の挿絵は,上述の

    事情も相まって,著者ルソーの意向をあえて無視して接吻の場面そのものを描いており,主題

    の選択から描き方まで含めて自由度の高いものとなっている[図版2】。官能的場面をより直

    接的に表現したこの挿絵は主題の美しさと解釈の容易さから後々まで読者の心に強い印象を残

    したようで,何度も版を重ねたほか, 1786年, 1837年の版では同じ原画に基づいた別の調版

    師の挿絵が掲載されている。画家や調版師は同じ構図を用いつつもそれぞれ服装や髪型等を時

    代の流行に合わせて変化させており, Martinも指摘するように,このことは挿絵が著作の時

    代設定にかかわらず, しばしば時代状況に呼応する形で「現代化Jを重ねるものであったこと

    を示している制。時代が下り作品が著者の意図を離れるに連れて 基本的には形を変えない

    本文とは違い,その挿絵は作者の当初の意図を超えて変化していく o 1需給開家や調版帥たち

    が,次第に「著者の意図 r 届けたいもの」よりも「読者の要求=受け取りたいもの」を優先す

    34

  • 快楽と淑徳:r新エロイーズ』に関する試論

    図版 2 r初めての愛の接吻J(( Le premier baiser de I'amour )) Dessin de Jean-Michel Moreau le jeune grave par Noel Le Mire

    るようになっていったことが伺われる。

    nr -3_暴力的な涙

    もうひとつ.第三部書館'il8につけられた六枚目の挿絵[以後 「挿絵(6)JJ.r父親の力 Laforce paternelleJの主題を取り 上げたい [図版 310Gravelotはルソーの指示通り ,デタンジ、ユ

    男爵が娘の足下に脆き,家庭教師との結婚を諦めヴォルマールとの結婚を受け入れる ように涙

    を流 して懇願する場面を描いている。これも極めてルソ ー的な場面選択であるが.挿絵(1)同

    様守読者にとっては説明抜きでは容易には解釈困難なものとなっている。デタンジ、ユ男爵は身

    分違いの結婚を認めず,平民のサン=プルーに報酬を支払わなかった(使用人扱いをしなかっ

    35

  • 図版 3 r父のカJ(( La force paternelle >> Dessin de Hubert Gravelot grave par Pierre Du日05

    た)妻を叱責するなど,伝統的な家父長制的価値観に捕われた権威主義的な父親として前半部

    では描かれている。だが,図版3におけるデタンジ、ユ男爵は一見すると威厳に満ちた強権的な

    父親ではなく,単なる娘を愛する年老いた哀れな一人の父親のように見える。挿絵(6)に関する

    Gravelotへの指示文には以下の記述が見られる。

    36

  • 快楽と淑徳:r新エロイーズJに関する試論

    J ulie est assise et pres de sa chaise est un fauteuil vide : ~on pere qui l'occupait est a

    genoux devant elle, lui ~主主主旦 les mains, y型組目 deslarmes, et dans une attitud巳 sup-

    pliante巴tpathetique. L巴 trouble,l'agitation, la douleur sont dans les yeux de Julie. On

    voit, a un certain air de lassitude, qu'elle a fait tous ses efforts pour relever sοn pere ou

    se degager; mais n'en pouvant venir a bout, elle laisse pencher sa tete sur le白sde sa

    chaise, comme une personne prete a se trouver mal;旦国主1盟 sesdeux mains en

    avant portent .

  • Concevez mon saisissement. Cette attitude, ce ton, ce geste, ce discours, cette affreuse

    idee me boulev巴rsentau point que je me laissai aller demi-morte entre s巴sbras, et ce

    ne fut qu'apr色sbien des sanglots dont j'etais oppressee, que je pus lui repondre d'une

    voix alter白 etfaible : 0 mon pere! ravais des armes contre vos menaces, ie n'en ai

    point contre vos pleur::1, C'est vous qui ferez mourir votre fille.

    父は私[ジュリ]が決心を固めており,権威を振りかざす高圧的な態度では私には全く

    勝つことが出来ないことを理解されました。一瞬私は父の迫害から解放されたような気が

    しました。ところが,突然この世で最も厳しい父がほろりとして私の足下に泣き崩れなが

    ら脆いたのを見て,私はどうなったことでしょう! 父は私が椅子から立ち上がることを

    許さず私の膝を抱きかかえ,棋に濡れた両日で私の両日を見据えられながら,今なお私の

    胸の奥底で聞こえる悲痛な声でおっしゃりました。「娘よ! お前の不幸な父親の白髪を

    敬っておくれ。お前を胸に抱いた母がそうであったように,父をも苦悩を抱いたまま慕場

    に行かせるようなことはしないでおくれ。ああ,お前は家族全員を死なせてしまうつもり

    なのか?J

    私の受けた衝撃をお察し下さい。父のその態度,その声音,その動作,その言葉,そし

    てその恐ろしい考えに私は動揺して,半ば死んだように父の両腕に倒れ込んでしまいまし

    た。そして,息も出来ないくらい激しくすすり泣いたあと,ょうやく変わり果てた弱々し

    い声で返事をすることが出来ました。「ああ,お父様! 貴方の脅しに対しては私は武器

    を持っておりましたが,貴方の涙に対しではなす術もありません。お父様こそ娘を死なせ

    てしまわれるのですJとω)。

    挿絵(6)においても, )レソーは一連の時間的流れを描き込むように Gravelotに要求する。「空の

    肘掛け椅子」は娘の前に脆いているデタンジュ男爵が一瞬前まで、座っていたものである。これ

    は,挿絵(1)の「地面に落ちたサン=プル}の帽子」同様,デタンジュ男爵の動作の素早さを暗

    示するとともに,その行為が衝動的なものであったことを示している。また,ジュリの目に窺

    い知ることが出来る動揺や苦しみは,彼女が「父親の顔をあげきせるか,その場から逃れるた

    めにあらゆる努力をしたが無駄に終わった」ことまでを表現しなければならないというのであ

    る。デタンジュ男爵は「娘の手を握り涙を流しながら」脆き,ジ、ユリの父親への想いは,挿絵

    (1)と同じく,相手に対して伸ばされたままの二本の腕によって表されている。

    1774年版の Moreauの原画に基づく挿絵ではルソーの指示は再び、完全に無視され,先述の

    場面よりも前にあった出来事を題材に,デタンジュ男爵の娘に対する暴力的な叱責の瞬間が主

    題として選択されている[図版4]。デタンジュ男爵を伝統的で権威主義的な父親というわか

    38

  • 快楽と淑徳:r新エロイーズjに関する試論

    図版4 r父の力j(< La force paternelle )) Dessin de Jean-Michel Moreau le jeune grave par Noel Le Mire

    りやすい姿で描き出すことで ここでもまた. Moreauの選択は読者に「父の力Jのイメージ

    をより受け入れられやすい形で印象づけることになった。だが「北風と太陽」の逸話を持ち出

    すまでもなく ,実際のジ‘ユリは父の暴力的で高圧的な叱責に対しては屈することなく自らのサ

    ン=ブルーへの愛を守る術を持っており,その決意は叱責や威圧によ って片時も揺らぐことは

    ない。彼女の気持ちを揺さぶりヴォルマールとの結婚を受け入れさしめたのは,すでに病の床

    にあった母が悲しみの中に亡くなったことを自らの責任のように指摘された tで. ['権威主義

    的」なはずの父が涙に暮れて懇願する姿であ った。そのことを考えると.ルソーの意図は

    Moreauによって.挿絵(l)の時よりもさらに決定的な形で踏みにじられてしま ったといえる。

    この Moreauの原画による挿絵はルソーの著作を読者に理解させることをむしろ妨げ,門切り

    型の平凡なイメー ジへと媛小化して曲解させる可能性がある。この挿絵は supplementとして

    39

  • は「余計なもの」として働いていると言えよう O

    『新エロイーズ』は習俗論や教育論,そして政治思想など,多様な問題へと聞かれた旦かな

    書物であり. r社会契約論』と共に革命を超えて読み継がれていった作品である。ルソーが情熱を注いだという『新エロイーズJの挿絵について,当初の企画意図とその時代による変遷と

    いった視点から光を当てて分析を試みることで,この書簡体小説が作者本人の意図を超えて変

    貌・再生していった様子が垣間見えることは大変興味深い。

    結びにかえて

    以上本稿では. supplementの概念を手がかりに『新エロイーズ』を「執筆の意義Jrジユリの恋愛感情の行方Jr掃絵Jといった複数の切り口から読み解く試みを行なった。まず始めに,祖国ジ、ユネーヴへの劇場創設に反対し,学問技芸を厳しく糾弾してきたルソーが,恋愛小説

    『新エロイーズ』を執筆することの教育効果を二つの序文において強調したことを指摘した。

    そして,田舎の農民遠の素朴な生活を賛美することでその価値と喜びを本人たちに自覚させ,

    堕落した生活を送る女性たちの中に生き延びていた「徳を愛する心」に再び生命を吹き込むこ

    とで,この小説は「病の内なる治療薬」としての機能を巣たすことになるというルソーの主張

    を紹介した。他方,誘惑に負けてこの小説を聞いてしまった娘にもルソーが最後まで読み通す

    ことを勧めており,娘はもはや無垢には戻れないとしても.多くのリベルタン小説とは違い,

    『新エロイーズ』については最後まで読み通した方が娘の堕落を防ぐことになるとほのめかし

    ていることを指摘した。次に作品の前半部から後半部への移行に着目し,前半部において家庭

    教師と激しい恋に落ち,不可逆的に無垢な状態を脱して恋の喜びと苦悩とを味わったジュリ

    が,ヴォルマール夫人となってクラランの女主人としての役割を果たす後半部において,この

    激しい情念と快楽への欲求をどのようにして昇華していったのかということ色「庭岡管理」

    「食欲Jr信仰心」という三つの supplementsを切り口に考察した。最後に小説の二つの場面の挿絵を題材にレソーが挿絵を著作に対する重層的な意味での supplementと捉え,挿絵画

    家と読者の双方に,作品自体を補完するような大きな想像力を求めていたことを指摘した。以

    上. suppl白 lentの概念を軸にして多方面からの作品分析を試みることで. r新エロイーズ』の読解に対してひとつの新しい視点を提示出来たのではないかと考える。

    ルソーの自然観というと,未だに「自然に迫れjといった自然至上主義的な誤ったメッセー

    ジが概説書などでは見られることがある。人為的なもの artlartificeに一定の価値を認め,自

    然の意図の遂行・完成のためには人為の補助が必要であると考えるルソーの思想と前述のメッ

    セージが相容れないことは.その著作を正確に読めば容易に理解出来るだろう。他方,消極教

    40

  • 快楽と淑徳:r新エロイーズ』に関する試論

    育や自然の導きを重視する観点から.r自然の意図を妨げないために,自然の本米的な力をよりよく発揮する補助としてのみ人為は加えられるべきであるJといった. rエミールJに代表的な考え方がルソ山の自然観としては知られている。だがルソーの著作をより丁寧に読解する

    作業を通して,我々は随所に,必ずしもこうした解釈に収まりきらない,人為をより積極的に

    関わらせることを是とする自然観が垣間見られることを発見するのである。『学問芸術論Jに

    続く論争や『ナルシス』序文(1752)においてレソー自身は「すでに堕務してしまった現実

    世界」に自らが生きているということを盾にとり,人為的なものへの傾倒と愛着を示してはば

    からない。学問と技芸はそれに触れてしまったものを魅惑し蝕む強い感染力を持つが故に,そ

    れなしでは生きられない休になってしまっている人間社会を保つのもまた学問と技芸の役割で

    あることをルソーは自覚していた。さらにまた,禁忌を趨えて「自然の神秘」を垣間見,あわ

    よくばそれに触れたいという人間の好奇心や願望を必ずしも否定しない姿勢が,そこにはちら

    ついているのである制。

    「自然は人間の手の届くところではその魅力を隠すものだJとジ、ユリは指摘し.r我々が自然の本来の姿にほんの少しでも触れるためには,やむをえずそれに暴力をふるわざ、るを得ない」

    と述べている (51)。ここでジュリが使用する表現reduit(やむをえず~を得ない/~という状

    態に限定される)は,自然を暴力的に変形させることでその力を誇示する人間の「万能性」で

    はなく,自然の本来の姿に触れるためには多少の暴力をふるわざるを得ない人間の「限界」を

    逆説的に示している。自然に人為を加えざるを得ないことは人聞の強さではなくむしろその弱

    さに起因するのだというルソーの逆説的な主張は,作品を理解する上で重要である。『新エロ

    イーズ』が単なる徳への回帰と「淑徳の勝利」の物語ではないことはすでに述べた通りである

    が,だからといってそれは「淑徳の敗北」の物語?もない。主要登場人物たちは,いずれも強

    烈に自然に魅惑きれぞれを欲しながら,他方では自らの破滅を免れ生き延びるためにそのほん

    の一部を媛小化して側に置き 「共存の幻想」に満足するしかない。『新エロイ}ズ』は.rもはや自然に還ることは出来ないがその魅力に少しでも触れていたい」という欲望の飼いならし

    と失敗の物語なのであり またその失敗の中にこそ,官能的な魅力が満ち溢れているのであ

    る。学問技芸を糾弾したルソーがこの小説を書かざるを得なかったのも,読者がルソーの思惑

    を超えてこの小説に魅惑されていくのも. rリベルタン小説」や「反リベルタン小説Jといった枠組みに収まりさらないこの小説の主題の深遠さを物語っている。本質に触れるよ二とを願い

    ながら supplementを無限に増やし欲求を最大限満たそうとしながら空燥感の中に生きる人

    間の愚かながらも真撃な姿に,読者はまた心を打たれるのかもしれない。

    41

  • 《注〉

    (1) 18世紀のフランスの役者comedienの社会的地位は低かった。特に派手な化粧をして舞台に立つ

    女優は蔑まれ.娼婦同様に考えられることも多かったが.美貌や機知に恵まれ運が良ければパトロ

    ンに見出されて高級娼婦の座を射止めることも可能であった。また劇場は貴婦人達が自分自身をお

    披露目する場でもあり,男女が誘惑しあう出会いと密会の場ともなっていた。 1レソーはこうしたこ

    とから,劇場は男女を不用意に集わせ習俗の乱れを促す場となっているとして警鐘をならしたので

    ある。

    (2) r青本」については, Mandr叩の次の研究が古典である。主に宗教的な作品への言及が多いが,恋愛小説を始めとした民衆の「楽しみ」のためのジャンルも紹介されている。 RobertMandrou,

    De la culture populaire aux XVI1' et X円11'siecles. La bibliotheque bleue de Troyes, Paris, Stock,

    1964.

    (3) )レソー自身この二つの序文の中で, Wi寅劇に関するダランベール氏への手紙Jの作者である自分がこの書簡集を発行することへの周囲からの批判に触れている。 Julieou la Nouvelle Heloise [以

    下NHJ,preface, OC, II, p. 6; 2nd preface, ibid., p. 23.また.ルソーは『エミール.1(1762)において,

    エミールにはデフォーの『ロビンソン・クルーソー.1 (1719),ヒロインであるソフイにはフェヌロ

    ンの『テレマークの冒険.1 (1699)以外に読書経験をさせることはない。[OC: CEuvres Completes

    de Jean-Jacques Rousseau, edition publiee sous la direction de B. Gagnebin et M. Raymond, 5 vo・

    lumes, Bibliotheque de la Pleiade, Gallimard, 1959-1995. )レソーの著作からの引用については特に

    記載がない限りプレイアード版全集からのものである。綴りは現代表記に改めた。翻訳は岩波文庫

    版の翻訳があるものは参照しつつ拙訳し,それ以外のものは完全な拙訳である。また,特に指摘の

    ない限り,引用文中の下線による強調,省略, [Jによる内容説明の追加は引用者によるものである。]

    (4) Trevoux辞典によると, 18世紀当時, supplementの語は主に税金に関する専門用語として使用

    されたり,文学の分野では作品の失われた一部を補完することや補完した部分を指していた。動詞

    形の suppleerの項目では, r付け加える」という意味以上に「補完・代替する」といった意味での使用例が多く認められる。 Articles叫 uppl釦lent"et (( suppleer ", Dictionnaire universel Jrancais

    et latin, vulgairement ap'μle Dictionnaire de TrevOlα" Nancy, Pierre-Antoine, 1740.

    ( 5) NH, preface, op. cit., p. 5.

    ( 6 )

  • 快楽と淑徳:~新エロイーズ』に関する試論

    (11) NH, 3eme partie, let廿eXVIII, 0"ρ. cit., p. 341-342.またルソーは『告白.i (1782,1789死後出版)の

    中で,政治的な著作の執築計画を立てていたにもかかわらず, r二人の魅力的な女友達とその男友達」の物語のイメージの魅力にあらがいがたい力によって魅惑され, (世間的評価は低くしばしば

    堕落を招くものとして断罪もされていた)恋愛小説を「あらゆるむなしい抵抗をしたのちに」書か

    ざるを得なくなったという釈明をしている (Confessions,liv. IX, OC, 1, p. 434)。

    (12) ,

  • の善良な人々に自分の愛情を注ぐことで彼らの愛情を得ることです。JIbi,ムlettre10. p. 444.

    (22) この空虚感は,ルソーが『新エロイーズ』を書くきっかけについて『告白』で、綴っている筒所で,

    自らが抱いていたと記した欠如感とも類似している。自らの溢れる愛情を向ける対象に事欠き,そ

    の空虚 videを埋めるもの (supplement)として,怨像上の美しい女性達とその恋人を主人公とし

    た恋愛小説『新エロイ←ズ』を書くことになったのだとルソーは『告白』に記している (C叫冷s-

    sions, liv. IX. OC, I. p.427sqq.)。他方ジュリは,望むもののない平安に退屈を覚えるのである。た

    だジュリのことだけを愛し,その愛情の他にはほとんど情念を感じることのない冷静さと賢明さを

    持つヴオルマールのもとで魂の平安と幸福を約束されているジ、ユリが. ['もはや望むもののない者

    は不幸です」とつぶやくことは. ['完壁Jであるはずだった失ヴォルマールの計画にほころびが出

    始めていることを暗示している。かつて激しい愛を経験した妻ジ、ユリとその元家庭教師の病は癒え

    たように見えたが,元恋人達が無垢を取り戻すことは不可能だったのであり,二人の心身は自らに

    消えない印象/刻印を刻み込んでいることが次第に明らかになっていくのである。

    (23) NH, 6eme partie. lettre VIII. op. cit., p. 694.

    (24) Cf.> ['あれほど感受性豊かな魂の持ち主が,快楽

    』こ無感覚で、あり得ましょうか.反対に,彼女[ジ、ユリ]は快楽を愛し,それを求め,感覚を楽しま

    せるものは何ひとつ自らに禁じることはありません。彼女が快楽を味わう術を知っていることはよ

    くわかります。けれどもそれらの快楽は,ジュリに独特の快楽なのです。JNH, 5eme partie, lettre

    II, ibid., p.531.

    (25) NH, 6èm• partie, lettre II, ibid.. p.642. cf.>i[…]私[ルソー]を破滅させるはずのものがまさしく私を救うものとなった[…JJ Confessions. liv皿,OC, 1. p.l09.

    (26) 女性が満たされない情念を深い信仰心へと転化させる物語は,マリヴォーの『成り kがり百姓』

    (1735-36)やデイドロの『修道女.1(1796)に見られるように.小説の王道でもある。ラファイエツ

    ト夫人の『クレーヴの奥方.1 (1678)からラクロの『危険な関係.1 (1782)に至るまで,現般におけ

    る恋愛の成就を諦めた宕い女性カf修道女として「神と結婚」する物語はあとを断たない。

    この節の分析視点については 2015年度前期に受講したパリ第四大学仏文科大学院の Christophe

    Martin教授のゼミに多くを負っている。感謝とともにここに記したい。

    (27) エリゼの詳細については『新エロイーズ』第四部書簡 11を参照のこと。

    (28) NH, 4èm• partie, lettre X, op. cit., p. 440sqq.次の拙稿の第二節において筆者はこの書簡の「育児

    室でのおやつJのエピソードを取り上げ,元家庭教師が;本来女性しか入室を許可されないこの部屋

    へ巧みに「侵入」しておやつを食する場面について, ['男女の壁の侵犯Jと「サン=ブルーの象徴的去勢」という観点から分析しているo 折方のぞみ m削を破る:自然の秩序と人為的秩序の狭間で 『新エロイ←ズ』におけるサン=ブルーの例外性一一Jr明治大学教養論集Jl466号, 2011年,p.77-98.

    (29) NH, 5畑 epartie, lettre II, op. cit., p. 552

    (30) NH, 6èm• partie, lettre VIII, ibi.ムp.688-689.

    (31) Ibid., p.694凶 695.

    (32) 女性の最後の言葉が作品全体の意味を大きく読み直させる鍵となる構成は,モンテスキューの

    『ペルシャ人の手紙.1 (1721)にその原形が見られる。ユズベクは自分を愛していると信じていた最

    愛の女奴隷ロクサーヌが実はハーレムの別の女性と恋愛関係にあることを彼女が自殺の間際に綴っ

    た手紙で、知るととになる。「一度も貴方を愛したと左はない」と綴られたその手紙の内符を逆転さ

    44

  • 快楽と淑徳:r新エロイーズ』に関する試論

    せる形で,ルソーはジュリに(

  • さを表現する貴重な詳細となっていると考えられる。

    (41) RE, p. 4.

    (42)

  • 快楽と淑徳:r新エロイーズ」に関する試論

    のように「半ば死んだように demi-morteJベニヤミンの男の腕に倒れ込む。ルソーにおける真の

    意味での「父の力」はまさに,自らの弱さを見せることで娘を自分の意志に従わせるカにあるのだ

    といえる (Lelevite d'Eph四伽t,OC, II, p. 1223)。

    (49) NH, 3èm• partie, lettre XVIII, 0.ρ. cit.. p. 348-349.

    (50) Martinもまた,ルソーにおける自然と人為の関係について. ["出来る限り自然の意図に添う形で

    の人為の介入」という消極教育に通じる従来的な考え方の一方で, ["多少の暴力を用いてでも人為

    的なカを介入させてその魅力に触れたい」という人聞の欲求を必ずしも否定していない面があるこ

    とを指摘している。 ChristopheMartinリ