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25 京都精華大学紀要 第四十五号 日本アニメの中で、文学作品を原作にしたり、部分的に流用したりするものが、類似するマ ンガより少ないとはいえ、珍しくはない。日本アニメーション株式会社で 30 年間にわたって 制作されていた「世界名作劇場」に属するタイトルや、 1997 年から 1999 年にかけてNHKによっ て放送された『白鯨伝説』、2006 年に人気を博した『時をかける少女』をその例として挙げら れる。しかし、研究においてアダプテーションとしてのアニメが殆ど考察されず、その有り方 と可能性が検討の対象にされない。そのギャップを埋めるために、本稿では『巌窟王』の作品 群(図 1)を、アニメに集中しながら、メディアミックスへのアダプテーションの一例として 考察する。 まず、題名に出る二つの概念の相互関係と相違、そして本論での意味づけについて説明して おこう。「アダプテーション」を、リンダ・ ハッチオンは「特定の作品の公表された包括的な 置換」 1 と定義する。一般的にその「置換」は、物語が諸表現メディアの間を移されること、 コピローワ・オーリガ Kopylova OLGA アダプテーション論から見たメディアミックス ――前田真宏の『巌窟王』を例に―― はじめに 図 1:『巌窟王』メディアミックスとそれに言及される二つの作品

コピローワ・オーリガ - 京都精華大学Kopylova OLGA アダプテーション論から見たメディアミックス ――前田真宏の『巌窟王』を例に――

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― 25 ―京都精華大学紀要 第四十五号

日本アニメの中で、文学作品を原作にしたり、部分的に流用したりするものが、類似するマ

ンガより少ないとはいえ、珍しくはない。日本アニメーション株式会社で 30 年間にわたって

制作されていた「世界名作劇場」に属するタイトルや、1997年から1999年にかけてNHKによっ

て放送された『白鯨伝説』、2006 年に人気を博した『時をかける少女』をその例として挙げら

れる。しかし、研究においてアダプテーションとしてのアニメが殆ど考察されず、その有り方

と可能性が検討の対象にされない。そのギャップを埋めるために、本稿では『巌窟王』の作品

群(図 1)を、アニメに集中しながら、メディアミックスへのアダプテーションの一例として

考察する。

まず、題名に出る二つの概念の相互関係と相違、そして本論での意味づけについて説明して

おこう。「アダプテーション」を、リンダ・ ハッチオンは「特定の作品の公表された包括的な

置換」1 と定義する。一般的にその「置換」は、物語が諸表現メディアの間を移されること、

コピローワ・オーリガKopylova OLGA

アダプテーション論から見たメディアミックス――前田真宏の『巌窟王』を例に――

はじめに

図 1:『巌窟王』メディアミックスとそれに言及される二つの作品

― 26 ― アダプテーション論から見たメディアミックス─前田真宏の『巌窟王』を例に

あるいは「原作」と同じ表現メディアにおいて再現されることを意味する。さらに、アダプテー

ションはその過程と結果の両方を指す。そして、メディアミックスとはコンテンツ 2 産業の概

念であり、「あるコンテンツの世界観を異なるメディア形態において作り直して、複数の流通

部門に配信することで、その世界観からの収益機会を拡大する手法の一つ」3 と定義される。

メディアミックスに含まれる作品は、同じ内容の再現に限らず、スピンオフ作品や同物語の異

なった展開、同作品世界における新しい物語などを含む。アダプテーションに該当する場合は

稀ではないが、メディアミックスはアダプテーションに限らない。

本稿の事例であるアニメ『巌窟王』には、「翻案元作品との広範な間テクスト的繋がり」4 と

いう、アダプテーションの狭義の定義も当てはまる。『巌窟王』は、アレクサンドル・デュマ・

ペールの小説『モンテ・クリスト伯』(1844-45)5 との「対話」でありながら、メディアミッ

クスの核心でもある。しかし、本稿で示すように、この「間テクスト的繋がり」はデュマの小

説と前田のアニメを越え、そのメディアミックスに含まれるすべての作品にわたり、さらにオ

ペラや劇詩などまで及ぶ。こうした『巌窟王』は、単独のアニメの制作にとどまった「世界名

作劇場」と異なり、新しいアダプテーションの戦略として注目に値する。詳述すると、制作過

程がいかに複雑で、また原典が何作あっても、結果として一作品が成り立つという通常のアダ

プテーションに対し、『巌窟王』は一作品ではなく、むしろ作品群を「結果」としている。故に、

受容者は諸作品(テクスト)6 の交錯に注意を引かれ、様々なレベルで類似点や引喩を追求す

るようになる。このような読みこそは「アダプテーションの快楽」7 をなしているのであろう。

しかし、『巌窟王』はアダプテーションとしてだけでなく、日本特有のメディアミックスと

しても新しい可能性を抱えている。従来のメディアミックス論はコンテンツの生産と流通に焦

点を当ててきたが、それに対し、『巌窟王』は、テクストの性質自体、つまり間テクスト性に

よる結合を特徴とするメディアミックスを代表するのである。この新種の結合性は、諸作品が

相互に関係し合うと同時に、メディアミックス外の作品とも「対話」することに基づく。本稿

のこの仮説を裏付けるのは、例えば、『巌窟王』というメディアミックスの全作品が、デュマ

の『モンテ・クリスト伯』に加えアルフレッド・ ベスターの小説『虎よ、虎よ!』(1956)に

言及する事実である。

誤解を防ぐために「間テクスト性」について簡単に説明しておこう。「アダプテーション」

と同様に「間テクスト性」も広義の概念であり、最も一般的には、既存のテクストの断片や痕

跡などによって新しいテクストを構成する過程を意味する。またそれは、どんなテクストにお

いても他のテクストの跡がそもそも無数に存在しているということを指し示している概念でも

ある 8。しかし、どんなテクストでも本来断片の集合、すなわちブリコラージュであるとすると、

特定の原典を優先することは無意味になってしまう。間テクスト性は、作者がそれを意図した

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ものとして受け入れることによってはじめて有意味で、「対話」や「引喩」などを探求させる

ものになる 9。それを念頭に、本稿は、『巌窟王』 の間テクスト性を検討するに当たり、明確に

言及される作品だけを取り上げる。

 本稿の論考は、『巌窟王』の間テクスト性が一番明白であるアニメ版から出発する。まず、

アニメが「対話」する二つの小説について説明し、次に『巌窟王』の『モンテ・クリスト伯』

のアダプテーションとしての特徴を考察する。分析において特に物語の構成と思想内容におけ

る変更に注目する理由は、それが間テクストの引喩を明確にするからである。それに、その変

更は、『モンテ・クリスト伯』に対する独特で新鮮な読みを成り立たせるからでもある。この

独特の読みは今まで提示されてこなかった。例えば、ダーニ・カワラーロはアニメ『巌窟王』

を主題とする論文において、それに潜在する新解釈を認めているが 10、その具体的な分析を行っ

たいないし、デュマの小説とアニメ版以外の作品については一切言及していない 11。さらに、

マーク・スタインバーグの論文 12 のように、『巌窟王』の実験的映像に注目する議論がある。

しかし、『巌窟王』の特徴を考える際、その実験的な映像だけでなく、そのアダプテーション

としての、原作に対する解釈も重視する必要がある。

 以下では、まず『巌窟王』による『モンテ・クリスト伯』 に対する読みに触れておく。そ

の次に、サウンドトラックに見出せる引喩を中心に、アニメ『巌窟王』の間テクスト性を考察

する。最後に、メディアミックスの要素をなす諸作品と、それ以外の作品との交錯を検討する

ことを通して、『巌窟王』においてのメディアミックスとアダプテーションの独特の仕掛けを

説明する。

1.アダプテーションとしてのアニメ『巌窟王』 

『巌窟王』のアニメ版は、当該メディアミックスの核心でありながら、その作品群において

唯一の自立した作品である。その原作に当たるアレクサンドル・デュマの小説『モンテ・クリ

スト伯』はエドモン・ダンテスという船乗りの冒険を叙述している。エドモンは無実の罪で投

獄され、シャトー・ディフ(イフ城)という牢獄で 14 年間を過ごすことになるが、その間、

彼に濡れ衣を着せたフェルナン・モンデゴ (モルセール)とダングラール、そしてジェラール・

ド・ヴィルフォールという三人の悪人が出世し繁栄する。投獄中、エドモンの父が飢え死にし、

彼の婚約者メルセデスがフェルナンと結婚してしまう。あらゆる苦労の末に脱獄したエドモン

は莫大な宝物を手にし、宝が隠されていたモンテ・クリスト島の地名を自分の別名にする。そ

して、モンテ・クリスト伯爵として彼は自分の恩人に褒美、三人の敵に復讐を与える。

『巌窟王』の企画原案を考え出したのは前田真宏監督である。前田監督は『モンテ・クリス

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ト伯』のアダプテーションだけでなく、キャラクターの原案や、テクスチャを採用する独特の

映像効果のコンセプトをも発案した 13。GONZO で制作された『巌窟王』はすぐに人気を博し、

高度に実験的な作品として話題になった。その実験的な要素として第一に挙げられるのは、『巌

窟王』特有の映像効果に違いないだろう。このアニメの創意に富んだテクスチャの採用につい

ては、インタビューや評論の他に、学術論文も詳細に論じている。しかし、デュマの小説を読

んだ視聴者は、物語が SF 的であり、未来の設定に移し替えられたことや、超自然な要素 14 が

導入されたことなど、原作の大胆な変更と解釈に気付がずにいられない。その様々な変更は、

単なる制作者の気まぐれとしては説明しかねるものである。実際は、こうした変更の背後にも

う一つの作品、アルフレッド・ベスターの SF 小説『虎よ、虎よ!』が潜んでいる。『虎よ、

虎よ!』は、『巌窟王』のアニメ版に大な影響を与えているのみならず、該当メディアミック

スを特徴づける引喩や引用の網の中心にある作品でもある。したがって、『巌窟王』とその間

テクスト性を分析する際、ベスターの小説を考慮に入れる必要がある。

1.1. アルフレッド・ベスターの 『虎よ、虎よ!』

『虎よ、虎よ!』の物語は未来を舞台としており、宇宙船や超兵器や不思議な先端技術など

の要素を含め、見世物小屋のように奇妙な人間と団体が登場する。また、ガリヴァー(ガリー)・

フォイルという船乗りの冒険を語り、復讐心に駆られる平凡な人が超人的な人物へと変容する

ことを描いている。ベスター自身は元来アンチヒーローを好み、強迫観念にとらわれたキャラ

クターに惹かれていたことを背景に、『モンテ・クリスト伯』を『虎よ、虎よ!』の主な霊感

の源泉に選んだという 15。しかし、『虎よ、虎よ!』は狭義のアダプテーションではない。『モ

ンテ・クリスト伯』との関係は、むしろ、「相アナローグ

似 16、または 流アプロプリエーション

用 」17 に当てはまる。言い換

えれば、両作の関係は直接的でなく、引喩や相似などによって間接的に成し遂げられる。もっ

とも明白な相似は、復讐心が主人公も物語展開も力強く推進させるという点である。そして、

両作において復讐は、主人公が際限のない全能性へと近づいていく過程の触媒として機能する。

主人公が物語展開に伴い、三つの力を具現化する三人の権力者と対立することも『モンテ・ク

リスト伯』と『虎よ、虎よ!』の共通点に挙げられる。興味深いことには、その力の本質が作

品によって多少異なるものとなっている。デュマの小説における軍事力、資本力、立法力に対

し、ベスターの小説には、法が科学に置き換えられる。このような変更こそが、作品単体を孤

立したものとして考察するに留めるのではなく、その制作の背景と状況とを分析に含める必要

性を示している。例えば、核兵器の開発と冷戦が著しい 1950 年代に執筆されたこの小説に、

放射能を身から放つ学者が登場することも当然であろう。しかし、『虎よ、虎よ!』に小規模

の引喩も見出だせる。例えば、ガリー・フォイルは敵に投獄されるが、そこで自分の知的発展

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を指導してくれる先生と出会うことによって、危機を乗り越えるようになる。「モンテ・クリ

スト」という島は、ベスターの小説においてサーガッソ小惑星に置き換えられるが、この小惑

星は出来事のレベルにおいても象徴的なレベルにおいても島と同等に機能する。両方は、主人

公が見つける莫大な財宝の隠しどころであり、後ほど主人公にとって特別な場所となる。そし

て、両方とも主人公の神聖性の側面を暗示する。モンテ・クリストとはそもそも「キリストの

山」を指す象徴的な名である。そして、フォイルはサーガッソ小惑星で蘇るかのような抽象的

なシーンが二つある。小惑星がフォイルの救世者への最終的な変容の舞台となる二回目のシー

ンは特に重要である。さらに、細部に見出される引喩に触れると、大復讐の実現がカーニバル

から始まるという設定も両作に共通している。

しかし、類似点が多数あるとはいえ、物語展開を考えると、『虎よ、虎よ!』と『モンテ・

クリスト伯』を対置して読むことも充分に可能である。確かに、ガリー・フォイルが苦闘の末、

超越的な存在になるという展開は『モンテ・クリスト伯』の冒頭を連想させる 18。しかし、前

者の場合、復讐は主人公を突き動かす動機に過ぎず、超えるべき段階とされている。後者でも、

主人公はついに復讐を諦め、新しい人生を踏み出すかのようにも読み取れる。しかし、彼が復

讐の計画を徹底的に成し遂げてから、はじめて復讐を後にするということを見逃してはいけな

い。この相違は、『巌窟王』による新解釈に直接繋がるものである。つまり、物語の思想内容

あるいは価値観という観点からは、『虎よ、虎よ!』を『モンテ・クリスト伯』と『巌窟王』

の間に位置づけることができよう。

『虎よ、虎よ!』と(メディアミックスとしての)『巌窟王』との関係に戻ると、前者は「完

全たる大衆文化の成果」19 と評価されるほど SF 文壇に高い位置を占め、英語圏以外にも人気

を博してきた。日本の SF 愛好家も例外ではない。例えば、前田真宏監督は『虎よ、虎よ!』

が大好きで、長い間そのアニメ化を考えていたそうである 20。しかし、著作権関係の問題が生

じ、結局、前田は『虎よ、虎よ!』のアニメ化を諦めざるを得なかった 21。『虎よ、虎よ!』

の権利を獲得できなかった時、前田ははじめてそのいわゆる原作に当たる『モンテ・クリスト

伯』に目を向けたのである。しかし、前田監督も『巌窟王』の制作スタッフもベスターの小説

を決して諦めたわけではない。それは、例えば、『巌窟王』の時代設定に窺える。前田によると、

19 世紀のフランスという設定は、制作者からの説明や視聴者の予備知識などを求め、結果的に、

ストーリーをターゲット層へと届きにくいものにしてしまう 22。しかし、それに対して制作者

が未来の時代やスペーストラベルなど、SF 風の設定を選んだことは偶然ではないと推測でき

る(前田は本来「スペース・オペラ」23 を制作しようと意図していたという。そして、ベスター

の小説はそのジャンルに対して先駆的な作品の一つであると言える)。

メディアミックスとしての『巌窟王』と『虎よ、虎よ!』との関係を、詳細に取り上げる前

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に、以下でまず、『巌窟王』における 、ベスターの影響に由来しない『モンテ・クリスト伯』

の構成的、そして観念に関わる内容的変更に焦点を当る。

1.2.『モンテ・クリスト伯』の新解釈としての『巌窟王』

『モンテ・クリスト伯』24 と『虎よ、虎よ!』、そして『巌窟王』は同様に、それぞれに先行

する作品の物語を捉え直すことによって成り立つ。当然ながら、作者は皆その固有の価値観や

倫理に基づいて解釈を行っている。しかし、『巌窟王』には他の『モンテ・クリスト伯』のア

ダプテーションとの根本的な相違を見出すことができる。そして、この相違は、作者の意図だ

けでなく、表現形式の約束事や発表の場、さらにターゲット層の特徴など、作品外の条件へと

求めることが可能である。

『巌窟王』がデュマの小説とそのアダプテーションから逸脱するように映るのは、おそらく

主人公と価値観の変更に負うところが大きい(図 2)。モンテ・クリストという名前をタイト

ルに採用しないことによってアニメは伯爵自身から焦点を逸らしている。代わりに中心に据え

られるのは、若いアルベール・ド・モルセール、そして彼の親友フランツ・デピネー、さらに

ユージェニー・ド・ダングラールとヴァランティーヌ・ド・ヴィルフォールなどの新世代であ

る。前田と脚本家神山修一はその変更の理由を二つ挙げている。一つは、制作者の価値観と暴

力への態度であり 25、もう一つは生産や流通などのような業界上の理由である。後者の役割が

特に目につきやすいが、前者も無視してはいけないだろう。

前田真宏は、『巌窟王』を特徴づける反復讐の観念が彼自身の読みであると言う。前田によ

ると、視聴者がただ完成した復讐に満足するところで物語を終わらせたくなかったそうである。

図 2:『巌窟王』のキャラクター

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さらに、復讐に関しては無知で、無罪である犠牲者に同情し、彼らの運命を真剣に思いやって

いたようである 26。『モンテ・クリスト伯』においても復讐の公正さ、そして容赦の必要性が

しばしば浮かび上がるが、深刻な問題としては扱われていない。それに対し、前田は「善行を

施せば、復警をしたという事実は相殺されるのか?」と疑問を抱いていた 27。確かに、小説で

はモンテ・クリストは、彼の復讐の被害者であるアルベールとヴァランティーヌを応援するが、

それをアルベールの母メルセデスとヴァランティーヌの恋人マクシミリアン・モレルのための

譲歩とも思われる。さらに、モンテ・クリストが「許し」、慈善を施しているのは、実は彼を

一切不当に扱ったことのない人々に対してである。彼が本当の敵に対して慈悲を垂れるのは、

彼らが既に破滅したときか(ヴィルフォール、ダングラール)、あるいは気息奄々であるとき(カ

ドルッス)だけに限る。その一方、復讐を果たすモンテ・クリストは摂理の道具、あるいは神

の力そのものになっており、それによって牢獄で始まった彼の超越的存在への変容が加速させ

られている。

上述のように、ベスターの小説に既に価値観の変更が窺える。主人公ガリー・フォイルは復

讐心という刺激で上達するとしても、結局彼は復讐を諦めることによって、初めて前進できる

地平に到る。『巌窟王』はより根本的な変更を描き、容赦を中心的なテーマにする。さらに、

容赦と復讐が対比され、二つの集団、すなわち親世代と新世代、そして二人の主人公、伯爵と

アルベールによってその対比が代表される。復讐自体も新しい観点から提示される。『モンテ・

クリスト伯』は復讐を、時に残酷であっても、およそ公正な行為としてとり扱っているのに対

し、『巌窟王』はそれを魅力的であっても、嘆かわしい行動とする。そして、アルベールが容

赦の力を具現化する一方、伯爵は破壊的で、不合理な存在として描かれている。この描写は、『巌

窟王』のアニメ版では、伯爵が新世代に属する登場人物や復讐で被害を受けた無罪の者を手助

けするシーンは全て排除されていることによって裏付けられている。

同時に、社会の法律と習慣を超越する報復の物語である『モンテ・クリスト伯』に対し、『巌

窟王』は、アルベールと伯爵、あるいは他のキャラクターが持つ倫理感の対立に話を限定せず、

その価値観のインパクトを考察しようとする。復讐欲と寛大、憎悪と愛情の対照が、容赦のな

い暴力の対極としての献身に並置され、戦争と平和という広義の対照にも繋がる。したがって、

『巌窟王』は独立した個人の価値観よりも、社会の根本的な原理を重視していると考えられる。

制作者の観念が物語構成において大いに働いたことは明らかであろう。しかし、主人公の入

れ替えに際して、アニメというメディアおよびその業界の要請が同様に決定的であったと思わ

れる。『巌窟王』は何よりも真っ先にアニメであり、そこに特定の約束事が働き、特定の視聴

者層がターゲットとされる。ベスターと同様に、前田は、復讐の残酷さに嫌気を抱きながらも、

モンテ・クリストに惹かれていた 28。故に、最初は、伯爵を中心に据える物語を構成していた 29。

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しかし、『巌窟王』のターゲットは F1 層(20-30 歳までの女性)とされたため 30、この作品を

届けづらい層を魅了する必要が生じた。そのための戦略の一つとして、そうした視聴者にとっ

て最も感情移入しやすく、効果的な主人公を選ばなければならなくなった。

例えば、ベスターのガリー・フォイルのような主人公は主にいわゆる「男の子目線の作品」

に登場するものである 31。また、 デュマのモンテ・クリストはその冷笑的な独白や自己反省な

どに現れる大げさや社会からの逸脱、そして世俗の罪と犯罪を具現化した悪人との戦いによっ

て 19 世紀風のロマン主義的な主人公として特徴づけられる 32。アニメ版にも類似したキャラ

クターは時々登場するが、多くの場合悪役、又は主人公と対立する者である。それに加え、彼

らを、視聴者から多少距離を置いて、他のキャラクターの目線を通して描く傾向も著しい。こ

のようなことを念頭に、アルベールを主人公とする利点が明らかになる。一方で、『巌窟王』

のアルベールはアニメらしい主人公 33 であると言っても過言ではない(そして、その点にお

いてこそロマン主義的主人公像と正反対である)。他方で、アルベールは視聴者と伯爵の間に

置かれ、媒介者の目線を提供する 34。それと同時に、伯爵は「影の主人公」35 として残り、彼

とアルベールとの緊張関係が、作品全体を結合する軸となっている。

ところが、『モンテ・クリスト伯』の解釈とアニメ版の制約が相まって、更なる変更をもた

らしている。主人公がアルベールに入れ替えられる上に、復讐の不公平な面、残酷な面が強調

される限り、物語の焦点は必然的にアルベールの友人であり、復讐の犠牲者でもある新世代に

移動する。『モンテ・クリスト伯』においては視点が様々な登場人物の間を動き、それによっ

て物語の筋が成り立っているが、どんな筋にも潜んでいるモンテ・クリストこそが物語を結合

させている。にもかかわらず、特定の筋において優先的な登場人物を見分けることができる。

モルセール家に関わる出来事はアルベールを中心に語られ、ダングラール家の事情は主にダン

グラール男爵を巡って描写され、そしてヴィルフォール家についての筋はヴィルフォールとそ

の娘ヴァランティーヌに集中する。 しかし、ヴァランティーヌの筋は、彼女とマクシミリアン・

モレルとの恋愛関係(それは小説における主要な恋愛の筋でもある)に集中するものだと考え

ると、アルベールを除き、新世代よりも復讐の主な標的である親世代が優先していることが明

らかになる。

それに対し、アニメ 36『巌窟王』は若い世代に比重をおき、特にアルベール、そしてユージェ

ニーとフランツに注目している。ある意味では、この三人が他の二つのグループに対比されて

いる。その一つは、ダンテスとメルセデスとフェルナン、すなわち新世代によく似た幼馴染の

三人組である。もう一つは、復讐の標的である三人、すなわちフェルナンとダングラール、ま

たヴィルフォールである。前者の対比は、楽観に解釈されうる。すなわち、親世代の三人が嫌

悪や裏切りや虚偽などによって破滅したのに対し、新世代の三人は離れ離れになっても、友情

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の絆を保つ。したがって、エドモンの叶わなかった夢を、アルベールが実現すると結論できる。

その一方、後者の対比は復讐の不公正を問題視する『巌窟王』の傾向に照応し、罪深い悪党と

復讐の付帯的損害とも呼べる無垢な若者たちからなる。「新世代=犠牲者」というテーマは焦

点の移動のみならず、出来事の変更によっても表現される。アルベール達は伯爵の復讐に巻き

込まれ、酷い目に会う上に、大人(特に親)の振るうの暴力の犠牲となる。フェルナンがアル

ベールを撃ち、 ダングラールがユージェニーを閉じ込めたり脅迫したりし、外道のべネデット

と結婚させようとする。そして、一番悲惨な例として、アルベールの代わりに伯爵と決闘した

フランツが容赦なく惨殺されることを挙げられる。

要するに、アニメ『巌窟王』(そして、その結果として当該メディアミックスの総体)は、

アニメというメディアの慣例と約束事、さらに業界上の要請に加え、物語内容とキャラクター

の立場を捉え直す「読み」による。また物語内容については、『巌窟王』は唯一の原典を直接

移し替えるのではなく、お互いに間テクストの関係を持つ二つの小説を採用しているというこ

とが重要である。このように原作と、霊感の源泉となるベスターの小説が、『巌窟王』の制作

者の価値観とアニメ業界に関わる戦略と混合した結果、古い物語の新しく意外な解釈が成り立

つのである。

2.『巌窟王』の間テクスト性とメディアミックス

『巌窟王』の間テクスト性は、二つのレベルで考察できる。独立した作品としてのアニメ版

の間テクスト性がある一方、メディアミックス総体にわたる間テクストの関係もある。明確な

関連のみに焦点を当てる本稿では、『巌窟王』メディアミックスを『モンテ・クリスト伯』と『虎

よ、虎よ!』との関係から検討する。しかし、アニメ版は、その二つの小説に加え、音楽によっ

て更なる他の作品を幾つか引喩する。それゆえ、当該メディアミックスを考察する前に、まず

アニメ版のサウンドトラックに触れ、その物語的な役割を分析する。

2.1. 『巌窟王』の音楽とその意味合い

アニメ『巌窟王』のユニークな雰囲気を醸し出すのは、映像効果だけでなく、クラシック音

楽を採用したサウンドトラックでもある。間テクスト的な読みの上で三つの楽曲が特に興味深

い。その楽曲はガエターノ・ドニゼッティの『ランメルモールのルチア』(1835)でのアリア「優

しいささやきが」(「Il Dolce Suono」)、ピョートル・チャイコフスキーの『マンフレッド交響曲』

(1885)の第 1 楽章と第 4 楽章、そしてジャコモ・マイアベーアのオペラ『悪魔のロベール』(1831)

でのアリア「冷たい石の下に横たわる修道女たち」(「Nonnes Qui Reposez」)である。この楽

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曲が注目を引くのは、それらが『モンテ・クリスト伯』に直接関わっているからである。例え

ば、ドニゼッティとマイアベーアのオペラは話の背景に採用されることがある。そしてマンフ

レッド 交響曲はバイロン卿の劇詩『マンフレッド』(1816-17)に基づいているが、バイロンの

作品は『モンテ・クリスト伯』においてたびたび言及される。デュマにとって、このような言

及は、物語の現実効果を高める手法であったと推測できる。読者達と登場人物に共通する知識 37

を活かすことによって、感情移入を促そうとしていた。しかし、アニメ版ではこうした劇詩や

楽曲が、物語内容と密接に関わる新しい意味を持つようになる。正確に言うと、『ランメルモー

ルのルチア』の内容は『巌窟王』のファブラ 38 の始まりを連想させ、『マンフレッド交響曲』

と『悪魔のロベール』は逆にアニメの結末と意味的な関連がある。この順序に従い、ドニゼッ

ティの作品から考察を始めたい。

『ランメルモールのルチア』の「優しいささやきが」はサウンドトラックの一部分であると

同時に、物語内に演奏される楽曲の一つである。アルベールと伯爵、そしてフランツは、第1

話の前半、すなわちアニメの最序盤でこのオペラを見に行くが、それが暗示する出来事は、ア

ニメの後半まで明らかにならない。ウォルター・スコットの小説『ラマムアの花嫁』(1825)

に基づいているこのオペラは、禁じられた恋や両家の間の確執、主人公の悲劇的な死亡などの

テーマを含んでいる。それを連想させることによってアニメの雰囲気が濃厚なものとなるに違

いない(『巌窟王』における舞台芸術の多用 39 を念頭にその機能が明らかになる)。しかし、『ラ

ンメルモールのルチア』はもっと深い意味合いがある。『モンテ・クリスト伯』にはその題名

しかが出てこないが、ドニゼッティの他のオペラ、『パリジーナ』(1833)がシーンの背景に採

用されている。この『巌窟王』におけるオペラの入れ替えが故意であることは、アニメの文脈

で極めて意味深いものになる「優しいささやきが」の選択にも窺える。女主人公の結婚式が混

沌に陥り、彼女自身が正気を失った悲劇の絶頂で、彼女は「優しいささやきが」を歌う。結婚

式中に起こる悲劇、愛人に奪われた花嫁や愛と希望の破壊など、細部と事情が異なるとしても、

この要素と全体のエピソードはエドモン・ダンテスかつモンテ・クリスト伯爵の物語の開始を

連想させる 40。「優しいささやきが」の演奏は、アルベールが初めて伯爵の姿を見る瞬間に一

致していることも偶然ではないと考えられる。

さらに、オペラの入れ替えからもう一点が推測できる。『ランメルモールのルチア』は、そ

の愛人を憎む兄 41 に騙され、愛人との別れによって台無しにされた可哀想な女性の話である。

それに対して、『パリジーナ』は不倫と嫉妬を語っている。したがって、その入れ替えをメル

セデスとエドモンの状況に繋げると、『巌窟王』はメルセデスに対してより同情的な立場を取っ

ていると言える。すなわち、「優しいささやきが」はキャラクターの事情を反映しながら、そ

れに対する評価も含んでいるものである。これは次の二つの楽曲にも該当している。

― 35 ―京都精華大学紀要 第四十五号

チャイコフスキーの『マンフレッド交響曲』の原作であるバイロンの劇詩はマンフレッドと

いう主人公の末路を描いている。マンフレッドは偉大な知識と技能を持っている雄大な人物で

ありながら、未知の昔の出来事に由来する深刻な悩みを抱いている。絶望に促される彼は魔法

で感情を封印しそこない、自殺に忘却の安らぎを望み、結局は遠い昔に失われた愛人の許しを

追い求める。

言うまでもなく、ロマン主義的主人公の典型であるマンフレッドはモンテ・クリストといく

つかの共通点を持っている。デュマの小説では、バイロンの劇詩がモンテ・クリストを含む何

人かの登場人物によって直接的に言及されている。しかし、『巌窟王』という新しい文脈にお

いて『マンフレッド』は新奇な意味合いを獲得するようになる。ここで特に注意すればよいの

は、マンフレッドが昔去った愛人の魂を探しに訪れる地下の宮殿の主、アリマネスである。ア

リマネスとはアンラ・マンユ(Angra Mainyu)、あるいはアーリマン(Arimanes、 Ahriman)

と呼ぶゾロアスター教の悪神である 42。神力をもって奇怪で、邪悪な者を支配するこの地下(巌

窟)の王者は、伯爵に憑く「巌窟王」を思わせる。その上、マンフレッドの死に際に悪魔の群

れが現れ、マンフレッドの魂を要求するが、彼が大胆に拒絶し、死ぬ直前に悪魔達を追払うシー

ンをアニメ版は、伯爵が亡くなるシーンにおいて再現する。伯爵は、巌窟王という怪物が彼の

身体から離脱してはじめて致命傷を受け、その結果自分の本来の心、すなわちエドモン・ダン

テスの心を最後まで維持できるようになる。この展開は『巌窟王』のサウンドトラックに引用

されるもう一つの作品、『悪魔のロベール』に関連している。

このジャコモ・マイアベーアが制作したオペラは、悪魔のロベールについての中世の伝説に

基づいている。伝説とそれを採用するオペラ両方の中心にロベールという乱暴な若者が置かれ

ている。無法者の人生を送っているロベールはある日、自分の父は悪魔に他ならないことを知

る。オペラでは、悪魔が友達としてロベールへ親しげに接し、自らの「本質」となる悪徳を認

めさせようとする。しかし、結局ロベールは悪魔を拒絶し、道徳の道を選ぶ。友を装っている

悪と対面したとき、主人公が勝利することと、主人公が自分の魂(あるいは心)を悪魔に譲ら

ないことは、アニメ版で展開される巌窟王と伯爵の関係を連想させる。このように『マンフレッ

ド』(特に劇詩はそうである)と、『悪魔のロベール』、そして『巌窟王』 の大団円が関連づけ

られている 43。その上、悪魔がロベールに近づくために友と援助者に化けることが、アニメ版

前半で伯爵のアルベールに対する振る舞いと類似し、さらに作品間の繋がりを強化する。

言うまでもなく、アニメ『巌窟王』の間テクスト性はデュマとベスターの小説、そしてサウ

ンドトラックとして引用される音楽作品に限らない。『巌窟王』は、多数のアニメシリーズや

アニメーションプロジェクト(例えば、前田の『アニマトリックス セカンド・ルネッサンス』

など)と関係がある。しかし、その考察はここで省くことにする。以下では、『巌窟王』メディ

― 36 ― アダプテーション論から見たメディアミックス─前田真宏の『巌窟王』を例に

アミックスにおける作品間の繋がりについて説明することとしたい。

2.2. メディアミックス の間テクスト性

メディアミックスは、日本で特に普及しているマーケティング戦略として、常に欧米に一般

的である「メディア収斂」(media convergence)と対比される 44。後者は統一性の原理に従い、

関連する作品が異なる表現メディアにおいて異なることを語っているとしても、矛盾のない一

作品世界に属するという構造に基づいている 45。初期のメディアミックスも同じ原則で構成さ

れ、シンプルなアダプテーションに依拠していた。そのメディアミックスは「「同一性を保持

したストーリーの他メディアへの移植」にすぎなかった」46 とされる。言い換えれば、作品の、

作品としての目新しさは媒体の変化を上まわるものではなかった。ところが、メディアミック

スは媒体と物語の多様化へと進み、現在は一般的に作品群の拡大に伴う物語の意図的な分岐、

差異化に向かう戦略になっている。作品世界、あるいは物語のおおよその流れが変更されなく

とも、あらゆるレベルに存在する差異と多様性が制作者と受容者双方に歓迎される47。『巌窟王』

メディアミックスもその原理に従っているが、しかし、その典型ではない。いわゆる典型的な

メディアミックスはライトノベルやゲームなどから始まり、作品群が展開するにつれ原作の存

在を隠蔽させる。すなわち、メディアミックスが成立してから、どんな作品でもアクセスポイ

ントとして利用可能になり、「そこには「特権的な原作」は存在しえない」48。それに対し、『巌

窟王』の場合はアニメ版が他の作品群の基礎であるという意味で作品の系図は隠蔽されていな

い(図 3)49。例えば、アニメ版と神山修一によるノベライズは、同じ時間枠において起こる

同じ出来事を語っているが、ノベライズはひたすらアルベールに集中し、出来事を彼の視点か

ら見たものに限定するため、物語の全体像と一貫性は失われていく。さらに、神山作『アルベー

図 3:『巌窟王』の物語内時間内順序と諸作品

― 37 ―京都精華大学紀要 第四十五号

ル外交官日記 』はアニメ版とノベライズの続編であり、独立した作品として成立しているも

のではない。

オーディオドラマ『巌窟王 異形の貴公子』はその逆で、アニメ版の前日譚として、モンテ・

クリストの過去をテーマにしている。そして、前田のマンガ版『巌窟王』と有原由良のライト

ノベル『巌窟王 仮面の貴公子』は特定のキャラクターに関わる筋を抜粋してその展開に専念

しており、大きな物語を再現しようとしない。さらに詳しく述べると、マンガ版はアニメ版お

よびノベライズと同じシーンで幕を開けるが、それから伯爵の内面、また彼に憑く巌窟王に焦

点を移し、アルベール達新世代を無視している。モンテ・クリストの復讐に関しても、マンガ

版は一人の悪人、ヴィルフォールに焦点を絞り、彼の破滅を詳細に描いている。一方、ライト

ノベルは、アニメ版では脇役であったヴィルフォールの落胤、ベネデットのストーリーを語っ

ている。

要するに、アニメ『巌窟王』は大きな物語の終始を全て包括する唯一の作品であり、必然的

にメディアミックスの核心となっている。しかし、他の作品はひたすらアニメ版に依存してい

る寄生的なものだと言えない。他の作品はアニメ版に言及し、あらゆるギャップを埋めるため

にアニメ版に依存しながら、一方では物語の筋や細部、キャラクターの動機や心理描写などを

展開させる変化を導入するのである。そうした変化がもたらす効果の例として、デュマの『モ

ンテ・クリスト伯』に由来し、『巌窟王』のアニメ版と、ノベライズ、そしてマンガ版で再現

されるエピソードを取り上げよう。細部にこだわりすぎる読みに見えるかもしれないが、その

細部の徹底的な説明によって解釈としてのアダプテーション過程とメディアミックスにおける

変形が明らかとなるだろう。

アルベールと彼の親友フランツが初めてモンテ・クリストと出会うきっかけには、彼らが観

客として訪れる公開処刑が影を落としている。これからの展開を予言するこの暗いエピソード

は、作品ごとに描き方が異なるため、その機能も大きく変化する。

デュマの小説では出来事が順序立てて叙述され、モンテ・クリストの事情と動機を読者は最

初から理解することができる。このエピソードは、モンテ・クリストが過去の恩人を救うエピ

ソードと、パリで復讐の計画を実現するエピソードに挟まれている。したがってこのエピソー

ドは、モンテ・クリストが慈悲深い人物から悪意の復讐者へと移行する段階を暗示している。

この曖昧な状態はさらに、モンテ・クリストが自分の影響力と財産をもって、一人の死刑囚を

救い、もう一人を冷徹に見殺しにするという展開によって強調される。一方、『巌窟王』の各

三作はこのエピソードで始まることによって幾つかの効果がある。第一に、デュマの小説を読

んでいない(あるいは、その映画版などを見ていない)者はその時点ではモンテ・クリストに

ついて何も知らないため、彼の目的や立場などが変化していく描写よりも、不吉なキャラクター

― 38 ― アダプテーション論から見たメディアミックス─前田真宏の『巌窟王』を例に

の紹介としてこのエピソードを受け取る。第二に、アルベールとフランツの双方が単なる傍観

者から積極的な参加者になることは、彼らのそれからの立場や態度などを決定する。その上、

アニメ版とノベライズでは、 伯爵は単に死刑囚を救うのではなく、遊興の一環として死刑囚の

どちらが救われるかを決めるためにくじを引くことをアルベールに提案する。

アニメ版において、このゲームは伯爵とフランツがアルベールへの影響をめぐって対立する

きっかけになる。伯爵がメフィストフェレスのように振舞うこの闘争は、対話だけでなく、画

面構成によっても表現される。それに加え、このエピソードは過去の出来事を暗示し、将来を

も予言する。前者に関しては、犯罪者の一人は、彼が恋敵によって濡れ衣を着せられたと主張

し、 それが伯爵の過去と呼応することは、『モンテ・クリスト伯』を読んでいない視聴者にさえ、

伯爵の反応から明らかになる。後者に関しては、伯爵はすべての人が未知の力によって命じら

れた、ゲームにおける手駒に過ぎないと断言し、これからの展開を黙示する。言うまでもなく、

これらの力は伯爵自身のものであり、アルベールとフランツは彼の手駒にあたる。二人の死刑

囚の代わりに三人が並んでいることも予言めいた構図である。この数は、モンテ・クリストの

復讐対象であるモルセール、ヴィルフォール、そしてダングラールの三人に繋がる。当然なが

ら、モンテ・クリストについて予備知識がない視聴者は、このヒントをすぐに理解できず、そ

れを回想的に解釈するしかない。

不吉な予感に満ちたアニメ版に対し、アルベールの視点を取るノベライズでは彼が必然的に

前景化することとなる。すなわち、ノベライズにおける死刑のエピソードは物語の導入として

機能するよりも、アルベールの反省と自己の探求を促し、彼の性格をさらに詳細に描写するきっ

かけになると同時に、死刑の現場におけるアルベールとフランツ、そして伯爵の対話はより大

きな比重を割かれ、ノベライズを他作品に関連付ける要素を含んでいる。この意味で特に重要

なのは、伯爵が、彼の敵は自らの死だけで罪を償えないと断言する部分である。デュマの小説

に遡るこの言葉は、変形されながらもすべての作品に引用されている伯爵の思想についての端

的な宣言である。『モンテ・クリスト伯』へのもう一つの持続的な言及は、伯爵が死を魅力的

に思うという一節である。この一節はアニメ版には見られないが、マンガ版とノベライズ両方

において引用されている。

マンガ版におけるこのエピソードはアニメ版よりもデュマのバージョンに近い。死刑囚の数

は二人であり、伯爵はゲームなどを提案しない。一人の死刑囚が恩赦された途端、もう一人は

荒れ狂い、それを眺める伯爵が人間の惨たらしさを罵る。この展開は『モンテ・クリスト伯』

とほとんど同じであるが、その意味合いが変わり、読者が伯爵の心の闇を垣間見ることができ

る最初のエピソードとなる。さらに、マンガ版でも伯爵は「ただの死など所詮安らぎにしかす

ぎない 50」と主張し、精巧な復讐を唱えるが、彼の相手はもうフランツでもアルベールでもな

― 39 ―京都精華大学紀要 第四十五号

く、巌窟王である。この変化は、アルベール達を無視し、伯爵の内面と苦悩を描くマンガ版に

おける重点の移動に直接関連している。ちなみに、アニメ版のくじに使われた三枚のトランプ

はマンガ版にも現れるが、それは、伯爵が初めて三人の仇と対面するとき、彼らに直接トラン

プを渡すという、文脈も展開もアニメ版とは完全に違うエピソードとなっている。同時に、そ

のエピソードの意味合いがアニメ版を見ていないと見分けにくいということは、意味のレベル

における作品間の繋がりを指し示すものである。

上述の例から明らかになるのは、『巌窟王』の場合、典型的なメディアミックスを特徴付け

る内容の変形は、引用や特定の筋のアダプテーションなどを伴っていることである。そして、

アニメ版に依拠する諸作品は、デュマとベスターの小説からアニメ版に含まれなかった部分を

採用し、それは繁殖する新解釈の根本的な要素となっている。

さらに、『モンテ・クリスト伯』の引用と引喩は例として挙げたような独立したエピソード

だけに限らず、細部や全体の筋もこの作品との交錯に組み入れられている。重大な物語の筋が

変容していく例として、ヴィルフォール家の毒殺事件の連鎖を挙げることができる。デュマの

小説では、伯爵は、ヴィルフォールの妻エロイーズに毒のレシピを提供し、彼女が家人を毒殺

するよう扇動する。エロイーズが狙うのは彼女の義娘、ヴァランティーヌであるが、ヴァラン

ティーヌの祖父母などの数人が彼女の毒で命を落とす結果となる。本来傍観者の立場に立って

いた伯爵は、結局、無実のヴァランティーヌをこのような酷い立場に置くべきではないと認識

するようになる。そして、ヴィルフォールの屋敷から彼女を連れ出し、復讐が終わるまで彼女

の世話をする。しかし、ヴァランティーヌを除いたヴィルフォール家は完全に崩壊し、窮追され

たエロイーズは自分の息子と心中し、ヴィルフォールは度重なる悲劇に耐えられず正気を失う。

『巌窟王』のアニメ版、マンガ版とノベライズは、作品ごとにこの成り行きを変形し、『モン

テ・クリスト伯』を部分的に採用する。例えば、アニメ版とノベライズにおいてはエロイーズ

は狂ってしまうが、その後ヴァランティーヌの代わりに伯爵によって屋敷から連れ出され、結

局息子と共に生き残る。それに対し、マンガ版はヴィルフォールをさらに陥れるよう、彼にエ

ロイーズを自分の手で惨殺させる。このような変更を行うと同時に、作品は全てデュマの小説

に言及する。例えば、ノベライズではヴァランティーヌの祖父母の死亡が語られ、伯爵は彼女

の救出に参加する。他方、アニメ版だけが、ヴィルフォールがエロイーズに自殺を促すシーン

を採用している。マンガ版は、強力な薬かつ恐ろしい毒の両方として機能する奇跡的な薬を導

入する唯一のバージョンである。小説では、この薬が不老不死の薬に喩えられ、伯爵の超人的

な性質を暗示するのに対し、マンガ版ではそれは文字通り死者を蘇らせる薬であり、エロイー

ズの命はそれによって救われる。

このように、全体としてはモンテ・クリストの根本的な新解釈を提示しているマンガ版は、

― 40 ― アダプテーション論から見たメディアミックス─前田真宏の『巌窟王』を例に

部分的に(特に細部のレベルにおいて)アニメ版よりデュマの小説に近い。一例を挙げれば、

マンガ版はアニメ版で語られた宇宙戦争のモチーフを破棄し、『モンテ・クリスト伯』におい

て物語の背景となっている王政復古時代のような「王政復古王党派」と「皇帝過激派」の闘争

を描いている(それは『モンテ・クリスト伯』の「王党派対ボナパルティスト」に該当する)。

オーディオドラマは、中心人物の解釈のレベルでは、マンガ版の正反対として位置づけられる。

伯爵の内面に集中し、彼の悲嘆の根を過去の出来事と親世代の犯罪に見出そうとするマンガ版

に対し、オーディオドラマはアルベールを伯爵の復讐心の主な動機かつ標的にする。オーディ

オドラマと『モンテ・クリスト伯』の繋がりは、伯爵が変装するシーンに見出だせる。デュマ

のモンテ・クリストにおける様々な目的での変装に、アニメ版は一回しか触れないが、オーディ

オドラマではそれは重要なプロットデバイスとなっている。有原のライトノベル『巌窟王 仮

面の貴公子』は本来悪役である脇役べネデットを好意的に描写しながら、伯爵とアルベールを

巡る筋の結末を『モンテ・クリスト伯』から採用している。詳述すると、アルベールは伯爵に

決闘を申し込むが、アニメ版やノベライズと違って、自分からそれをとりやめ、フランツも伯

爵も死なずに済むのである。

これまでデュマの小説との関連だけに触れてきたが、ベスターの引喩も、メディアミックス

のあらゆるところに見出すことができる。例えば、『アルベール外交官日記 』では、蘇った伯

爵がサーカスの団長を装うが、それは『虎よ、虎よ!』の主人公が使った偽の身分である。更

に、マンガ版におけるヴィルフォールへの残酷な懲罰 (伯爵によって生きながら解剖された結

果、恐怖で狂ってしまい、情けない状態で余生を送ることとなる)は『虎よ、虎よ!』の類似

したシーンを連想させる。物語世界の政治的な背景、すなわち「王国」と「帝国」の緊迫した

関係は、ベスターの外衛星同盟と内惑星連合の戦争を思わせる。しかし、何より注意すべきな

のは主人公の様子である。ベスターのガリー・フォイルは、感情の絶頂において顔に現れる、

虎の縞に似た模様に特徴付けられる。『巌窟王』の伯爵も、その現象の説明は異なるが(フォ

イルの場合は消しそこなった刺青だが、伯爵の場合は、それは彼に憑く巌窟王の印である)、

同様である。このように、『巌窟王』の作品間の関係に加え、その作品とメディミックスに属

しない二つの小説の間で様々な関連性の網が成り立っている。

マーク・スタインバーグによると、現代のメディアミックスは二つの特徴がある。その一つ

は「追加と分離」であり、それは、各作品が作品世界を拡大させ、新しい情報を提供すると同

時に様々な物語の変更も含めることによって「多重の平行世界」51 を生み出すことを意味する。

この特徴は前述した『巌窟王』の変更に見られる。もう一つの特徴は、一つの統一したテクス

トが断片化したり、分散したりする結果、多数の破片的なテクストが(作品の形で)成り立ち、

消費者がその作品群を横断させられることである 52。この特徴は、『巌窟王』メディアミック

― 41 ―京都精華大学紀要 第四十五号

スの作品群が独立したものとして機能せずに、アニメ版が提供する設定と枠組みに依存するこ

とに窺うことができる。

『巌窟王』メディアミックスのこのモデルとの相違は、その作品群における統一の多層性に

ある。スタインバーグは大塚英志にならって、メディアミックスを統一する根本的な要素とし

て「世界観」53 を挙げ、それに「キャラクター」を付け加える 54。ある意味で、『巌窟王』メディ

アミックスも同じ原理に基づいて構成されている。すなわち、それに属する作品の背後には同

様の設定が存在し、成り行きや脇役の性格・動機などに変更があっても、中心的登場人物であ

るアルベールと伯爵は殆ど変わらない。さらに、設定の細部が変化しても、世界観は概ね同じ

であるという印象が残っている。故に、ファン達は『巌窟王』のメディアミックスを、キャラ

クターと世界観によって結合される平行世界の連鎖 として受容し、典型的な形で消費したり

楽しんだりすることが可能である。

しかし、『巌窟王』メディアミックスの系図からもう一つの観点を得られる。メディアミッ

クスの作品群を『モンテ・クリスト伯』と『虎よ、虎よ!』のアダプテーションとして受け取

ると、それを統一する要素をキャラクターのみに見出すことができなくなる。代わりに、一つ

一つの作品が言及する二つの小説が統一性の基礎になる。そしてその二つの作品群の関係が打

ち立てられた以上、マンガ版などにおける変更を「追加と分離」のみならず、新解釈として読

むことが可能になる。例えば、上に検討された死刑のシーンは作品によって、暗示に満ちたキャ

ラクターの紹介、成長譚の一段階、あるいは伯爵の内面を描写する場面として機能する。故に

メディアミックスの全体を、作品群の結合からなるアダプテーション、つまり相乗効果

(synergy)の原理に基づく作品の組み合わせとして見ることができる。そしてこれは、典型的

でないメディアミックスと消費者の関係を指し示している。『巌窟王』メディアミックスの作

品群は全てアニメ版に由来しているにもかかわらず、かならず原作としては『モンテ・クリス

ト伯』が記されることや、『虎よ、虎よ!』がインタビューなどでたびたび言及されることも

制作者の意図的な戦略ではないかと考えられる。制作者も、ファンにそのメディアミックスの

新しい楽しみ方を示唆しようとしていたのであろう。

結 論

本稿の背後には『巌窟王』という独特の形を取るアダプテーションに対する関心がある。幾

つかの作品を同時に原作にするアダプテーションはよく見られ、同じ原作の以前のアダプテー

ションから影響を受けたものも珍しくない。そして、人気作品から展開されるメディアミック

ス(あるいは、作品を人気にするために構成されるメディアミックス)も多数存在する。ダーニ・

― 42 ― アダプテーション論から見たメディアミックス─前田真宏の『巌窟王』を例に

カワラーロのように、忠実性を基準にし、アニメ『巌窟王』をデュマの『モンテ・クリスト伯』

の独立したアダプテーションとして検討することが可能である。あるいは、視野を広げ、『虎よ、

虎よ!』やバイロン卿の詩など、題材となった作品との関連性も分析できる。さらに、『巌窟王』

の作品群を、「追加と分離」に基づく一般的なメディアミックスとして受容することも充分可能

である。しかし、『巌窟王』をメディアミックスとアダプテーションの組み合わせとして受け取

ることで、初めてその新規性が明らかになる。『巌窟王』メディアミックスに属する作品と題材

の原点である小説との多数の関連性のために、『巌窟王』を幾つかの作品に渡るアダプテーショ

ンとして見ることができる。このアダプテーションのタイプはまだ人気を得ていないが、そこ

に可能性が秘められていることは疑い得ない。同時に、この特異な例はメディアミックス戦略

の潜在的な可能性を示唆している。アダプテーション論の観点からメディアミックスを考察す

ると、未だに実現されていない多面性が見出される。ジュリー・サンダースによると、アダプテー

ションの快楽は、「作品の相違と類似を意識することと、それに由来する期待と驚きの相互作用」

に基づく「読者あるいは視聴者が間テクストの関係を探り出す過程」、そしてアダプテーション

に「内在する遊びの意識」にある 56。この言葉はメディアミックス戦略の成果にも当てはまる。

そして、『巌窟王』メディアミックスでは、アダプテーションとメディアミックスに共通する快

楽の原理は明白なものとなり、間テクスト的な読みの地平が開かれてゆくのである。

1 “an announced and extensive transposition of a particular work or works.” (Hutcheon, 7; 翻訳版 ,

11 ).

2 「内容、中身という意味の英単語。メディアが記録・伝送し、人間が観賞するひとまとまりの情報、

すなわち、映像や画像、音楽、文章、あるいはそれらの組み合わせを意味することが多い。具体

的には、ニュース、小説、映画、テレビ番組、歌、ビデオゲーム、マンガ版、アニメ版など。」(IT

用語辞典 e-Words).

3 田中、2。「ある作品とそこから派生した作品群(コンテンツ)を、複数のメディア媒体で展開する」

という定義も挙げられる(川崎と飯倉、1)。

4 “an extended intertextual engagement with the adapted work.” (Hutcheon, 7; 翻訳版、11 ).

5 「モンテ・クリスト伯」は 1901 に和訳され、『巌窟王』という題名で出版された。ここでデュマの

小説と前田のメディアミックスに属する作品を区別するために、前者を『モンテ・クリスト伯』、

後者を『巌窟王』と呼ぶ。さらに、「オーディオドラマ」などの付け加え、作品の種類を明確にし

ない場合は、『巌窟王』はアニメ版を示す。

6 「作品」はメディアミックスの構成を議論する際、頻繁に使われる言葉であり、一方で「テクスト」

― 43 ―京都精華大学紀要 第四十五号

はもっと抽象的な意味合いがあり、間テクスト性の理論において使われる。しかし、すべての作

品はテクストであるから、以下では「作品」と「テクスト」を同じ意味で使う。

7 “pleasure of adaptation.” (Hutcheon, 117).

8 Piegay-Gros, 51-53.

9 Piegay-Gros, 81-82.

10 Cavallaro, 60.

11 カワラーロは、『モンテ・クリスト伯』の文学的な読みに焦点を当て、アニメ『巌窟王』を非常に

忠実なアダプテーションとして取り扱う。その結果、後者の具体的な物語内容を無視するほど、『モ

ンテ・クリスト伯』の書かれた 19 世紀初頭のロマン主義の観点からアニメ版を解釈しようとする。

12 Steinberg, II.

13 『アニメーションノート No.2』、13、17;『Comickers コミッカーズ』、99; 氷川 I.

14 その超自然な要素は、まず巌窟王という存在に見出せる。無形の巌窟王は、伯爵に取り憑き、彼

に不思議な力を与える。

15 Bester, “My Aff air with Science Fiction.”

16 Leitch, 113-116.

17 Sanders, 26.

18 しかし、『モンテ・クリスト伯』は、復讐が始まる時に主人公がすでに超越的者へと変容している

という点で、『虎よ、虎よ!』と異なる。

19 “a seamless pop artifact.” (Gibson, “William Gibson on The Stars My Destination.”)

20 『Comickers コミッカーズ』、99;『アニメーションノート No.2』、10;『DIGITAL ANIME

ARTWORK 2』、65。

21 同上。

22 『Comickers コミッカーズ』、38;『巌窟王コンプリート』、100。

23 『Comickers コミッカーズ』、38;『巌窟王コンプリート』、100。

24 デュマは、フランス人の警察官が記した復讐譚と実際の毒殺事件を素材にした。アンドレ・モー

ロワ(André Maurois)『アレクサンドル・デュマ』(1971)を参照。

25 『巌窟王コンプリート』、100。氷川 II。

26 『DIGITAL ANIME ARTWORK 2』、 66.

27 『巌窟王コンプリート』, 100.

28 『巌窟王コンプリート』, 101.

29 Ibid. 『Comickers コミツカーズ』, 39 も参照。

30 『巌窟王コンプリート』(101-102)に掲載されたインタビューでは、 スタッフやプロデューサーと

― 44 ― アダプテーション論から見たメディアミックス─前田真宏の『巌窟王』を例に

話している間、ターゲットを F1 層にするアイデアが出たと前田は説明しているが、それは本来

誰の考えであったかは明記されていない。

31 前田によると、アルベールを主人公にすることにした時点では、「もう半年ぐらいずっと伯爵を主

人公に据えたストーリーを作っていた」(『巌窟王コンプリート』、101)。さらに、山下によると、「最

初の企画が「男」「SF」だった」( 氷川 II)。

32 Terteryan, “Romanticism.”

33 アニメ的主人公の典型的なタイプは以下のように描写できる。自分のことが分からず、多少弱虫

であり迷いがちでもある。悲劇的な要素や天才的な知識などの個性を持たないものではあるが、

他のキャラクターを惹きつける固有のカリスマと純粋な心の持ち主である。そのピュアな心のお

かげで悪徳を乗り越えられるが、ロマン主義の主人公と違って、このタイプは社会と対立しないし、

それから離脱しようともしない。アニメにおける主人公の展開は狭義の「教養小説」

(Buildungsroman)ではないが、一方では自分の場所を探求する話であるため、「成長譚」とみな

すことができる。

34 アルベールの目線を通して伯爵を描くことの利点に関しては『Comickers コミッカーズ』、39、と

『巌窟王コンプリート』、 101、を参照。

35 氷川 II。

36 それはノベライズにも当てはまる。

37 『モンテ・クリスト伯』は 1838 年という設定である。

38 ファブラは物語論の概念であり、時間的順序に並ぶ出来事を意味する。

39 『巌窟王』のデジタルディレクターであるソエジマヤスフミによると、「監督に言われたのは舞台

的なアプローチ。ある種、演劇の世界とか、オペラの世界にあるような舞台としての論法を持ち

込んだ舞台背景」がアニメ『巌窟王』を特徴づけている (『DIGITAL ANIME ARTWORK 2』、

97)。前田の説明に関しては『DIGITAL ANIME ARTWORK 2』、66;『アニメーションノート

No.2』、19 を参照。

40 音楽作品そのものを引用できないノべライズ版では、オペラの内容が明白にダンテスの結婚式の

危機を再現している。

41 ところで、デュマの小説ではフェルナンはメルセデスの従兄弟であり、『巌窟王』では「兄である

かのように親しい」友達である。

42 http://www.pantheon.org/articles/a/angra_mainyu.html

43 この三つのエピソードをファウスト的プロットの変種として読むことができるが、ここで注意す

べきなのは、ロベールについての伝説はヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテの『ファウスト』

に先立っていることである。その一方、ゲーテの悲劇が当時の観客と読者に与えた巨大な影響は、

― 45 ―京都精華大学紀要 第四十五号

マイアベーアにまで及び、オペラの題材の選択を決定した可能性もある。

44 メディアミックスとメディア収斂の相違について、マーク・スタインバーグは論文「Condensing

the Media Mix: Tatami Galaxy’s Multiple Possible Worlds 」(2012) で詳細に論じている。

45 Jenkins, 104, 114.

46 川崎と飯倉、18。

47 松谷、74;廣田、 100。

48 川崎と飯倉、25。Steinberg III, 160, も参照。

49 ここでは、『巌窟王』の諸作品の「原作」となる『モンテ・クリスト伯』と、メディアミックスの

「基礎」であり「核心」でもあるアニメ版との概念的な違いを指摘したい。

50 前田、80。

51 Steinberg I, 87; Steinberg III, 180.

52 Steinberg III, 160.

53 ここでは「世界観」を、作品の背後にある「一つ一つの < 設定 > は全体として大きな秩序、統一

体を作り上げる」ことによって成立する「< 設定 > が積分された一つの全体」だと定義する ( 大塚、

11-12 を参照 )。

54 Steinberg III, 179, 188, 195.

55 Steinberg III, 200.

56 Sanders, 25.

参考文献一覧

( ウェブサイトの最終確認:2014 年 4 月 14 日 )

〈日本語〉

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中村恵美(2006)「エンターテインメントへの意識革命 前田真宏」『アニメーションノート No.2』:

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川崎拓人・飯倉義之(2009)「飯倉義之文化 メディアミックス ラノベキャラは多重作品世界の夢を見

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田中絵麻(2009)「クールジャパンの産業構造-製作委員会方式によるメディアミックスと多様性の並

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氷川竜介「前田真宏と松原秀典とのスペシャル対談」,『巌窟王』公式サイト 

 http://www.gankutsuou.com/staff /interview/01_01.html )

氷川竜介「前田真宏と山下友弘、神山修一、高橋ナツコとのスペシャル対談」, 『巌窟王』公式サイト

 http://www.gankutsuou.com/staff /interview/02_01.html

松谷創一郎(2006)「マンガはどこへ行く 実写映画、アニメ、ドラマとメディアミックスの活況 」『創』

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廣田恵介(2006)「ライトノベルはアニメ界の救世主か」『創』6 月号 : 96-101. 創出版 . 

横濱雄二(2006)「『新世紀エヴァンゲリオン』における物語世界の構成―メディアミックス作品論の

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「前田真宏, 神山修一とのインタビュー」『巌窟王コンプリート』2005, pp. 100-107.メディアファクトリー.

〈英語〉

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‒‒‒ 2008, “Adaptation Studies at a Crossroads,” Adaptation 1.2: 63‒77.Piegay-Gros, Nathalie, 1996

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Digital version: Fundamental Electronic Library “Russian Literature and Folklore.”

 http://feb-web.ru/feb/ivl/vl6/vl6-0162.htm

〈『巌窟王』のメディアミックス〉

『巌窟王』GONZO MEDIA FACTORY, GDH(テレビ朝日)2004 年 10 月~ 2005 年 3 月放送

前田真宏(漫画), 有原由良(原作),『巌窟王〈1〉』『アフタヌーン』2005' 年 5-6 月号 , 8 月号 , 10 月号 ,

12 月号、

 アフタヌーン KC, 講談社 .

 ‒‒‒ 『巌窟王〈2〉』『アフタヌーン』2006 年 1-2 月号 , 4-7 月号、アフタヌーン KC, 講談社 .

 ‒‒‒ 『巌窟王〈3〉』『アフタヌーン』2006 年 8-11 月号 , 2008 年 5 月号 . 単行本:アフタヌーン KC,

講談社 .

有原由良(2008)『ノベルス 巌窟王 仮面の貴公子』講談社 KC ノベルス .

神山修一( 2004.12)『巌窟王〈1〉』メディアファクトリー MF 文庫 .

 ‒‒‒  (2005.02)『巌窟王〈2〉』メディアファクトリー MF 文庫 .

 ‒‒‒  (2005.05)『巌窟王〈3〉』メディアファクトリー MF 文庫 .

 ‒‒‒ (2006)『アルベール外交官日記 』ネット上掲載: 2005 年 7 月―2006 年 7 月 . G クリエイターズ .

 ‒‒‒ (2005)『巌窟王 異形の貴公子 audio drama』ビクターエンタテインメント .

(2014 年 1 月 31 日受稿/ 2014 年 7 月 29 日受理)