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NTT技術ジャーナル 2015.9 13
特集
未来への羅針盤としてのコミュニケーション科学
「聞こえ」を測る
「音がどのように聞こえているのか」「どのように脳内で処理されているのか」を知ることは,聴覚の基礎的なメカニズムを理解するうえで欠かせないだけでなく,効果的な情報提示技術の設計,音響 ・ 補聴技術の評価のためにも重要です.「聞こえ」を調べるためには,聞き取りテストのようなものがよく用いられますが,それが適用できる範囲には限界があります.はっきりした正解がなく,言葉やボタン押しなどで回答できない聞こえについては,聴取者が的確に知覚内容を報告できるとは限りません.同じ人が同じ音を聞いていたとしても,聞こえ方がそのときそのときで変化することもあります.さらに,どのような生体 ・ 神経メカニズムの働きによってその知覚が生じているのかを,聞き取りテストの結果から直接知ることはできません.
聞き取りテストに替わる計測方法として,生体計測に対する期待と注目が高まってきています.生体計測に関する研究は古くからありますが,計測技術の高度化 ・ 簡便化と認知神経科学的知見の蓄積が進んだおかげで,「何がどのように聞こえているのか」を知る
ための技術として,近年,急速に道が拓けてきました.生体計測では,聴取者に知覚について明示的な回答を要求することなく,知覚を生じさせる生体 ・ 神経メカニズムの働きについての情報もある程度得ることができます.
神経活動から聞こえを読み取る
聞こえを読み取るために,大脳皮質の神経活動に着目した研究がさかんに行われ,重要な発見も相次いでいます.ただ,大脳皮質に現れるのは,感覚系の働きのごく一部であることを忘れてはいけません.情報処理の階層として
「低次」レベルに位置する脳幹も,知覚に重要な役割を果たしています.
NTTコミュニケーション科学基礎研究所では,周波数追従反応(FFR:Frequency Following Response) と呼ばれる脳波の一種に着目しました.FFRは,頭皮に添付した電極で記録される電位で,その記録波形は,呈示された音刺激の波形と相似しており
(図 1(c)),脳幹における音波形の時間構造処理メカニズムの特性を反映すると考えられています.周波数の異なるトーン ・ バーストA,Bを交互に繰り 返 し 呈 示(ABA-ABA-ABA-…)すると(図 1(a)),その聞こえ方のパ
ターンが主に 2 通りあることが知られています(図 1(b)). 1 つは「ABA-」という 1 つの短いメロディが繰り返すパターンで,もう 1 つは「A-A-A-A-…」「-B---B---…」といったように,周波数の同じものどうしが結び付いて2 つのメロディが,並行して鳴っているように聞こえるパターンです.しかも,常にどちらか一方のパターンで聞こえるわけではなく,聞き続けているうちに聞こえ方のパターンが何度もランダムに切り替わります.刺激として呈示されている音列は常に一定ですので,この聞こえ方の変化は,個々の聴取者の脳内で起きている神経活動を反映しているはずです.
私たちの研究グループは,その時々の聞こえ方のパターンとFFRの反応強度とが関連することを発見しました(1)(図 1(d)).用いられた音刺激は単純で抽象的なものですが,この発見の意味は小さくありません.自然な環境の中では,私たちはクリアな音ばかりを聞いているわけではありません.それでも,脳はあいまいな音情報に基づいて,何らかの合理的な解釈を探索する作業を常に行っています.ABAの音列の聞こえ方が自然に切り替わるのは,そのような脳のプロセスを反映し
聴 覚 生体計測 認知神経科学
身体反応に現れる「聞こえ」とそのメカニズム
聴覚にかかわる脳の働きは,身体のさまざまな反応として外に現れてきます.NTTコミュニケーション科学基礎研究所の近年の研究により,脳波だけでなく,瞳孔,耳から放射される音,指のリズミックな運動など,一見聴覚とは無関係に見える身体反応が,聴覚の仕組みや,音の主観的な聞こえ方についての情報を与えてくれることが分かりました.これらの成果は,個人個人に適応した心地良い音の設計,新たな聴覚診断・補償技術の開発に結び付く可能性があります.
古ふるかわ
川 茂し げ と
人 /山やまぎし
岸 慎しんぺい
平
Hsin-I LIAO /米よ ね や
家 惇まこと
大おおつか
塚 翔しょう
/柏か し の
野 牧ま き お
夫
NTTコミュニケーション科学基礎研究所†1
東京工業大学 (NTT連携講座)†2
† 1 † 2
† 1 † 1
† 1 † 1 , 2
NTT技術ジャーナル 2015.914
未来への羅針盤としてのコミュニケーション科学
ているものと考えられます.今回の発見は,音情報を「解釈する」といった
「高次」な知覚情報処理に,「低次」な脳幹がかかわっていることを示すもので,知覚における低次~高次処理レベル間のネットワークの重要性を表す1 つの証拠です.さらに,この研究は,個々人の中で時々刻々と変化する知覚が,(限定された条件ではありますが)脳波としてとらえられることを示した点で,技術的にも重要な示唆を含んでいます.
眼が語る聞こえ
脳の活動を反映するのは,必ずしも神経細胞由来の電気信号だけではありません.私たちのグループでは,
「眼」に着目した聴覚研究も行っています* 1 .
脳幹神経核の 1 つである青斑核は,覚醒レベルの制御や選択的注意とかかわりが深いのですが,その神経細胞活動が瞳孔径に反映されるといわれています(2).これを音の「注意の引付けやすさ」の評価に利用することを考えました.環境音や人工音などさまざまな
音のサンプルを聞かせながら,実験参加者の瞳孔径を記録するほか,別途,これらの音の主観的な「目立ちやすさ」を心理実験で評価しました.その結果,音の呈示に伴って瞳孔径が拡大することが確認できたばかりでなく,反応の強度が主観的な「目立ちやすさ」と相関することが分かりました(3)(図 ₂ ).瞳孔径は,認知的負荷や注意と関連す
ることが,これまでにも多く報告されていますが,音に対する基本的な主観量と瞳孔径との関係を示したのは,私たちの知る限り本研究が初めてです.音の具体的などのような特性が,どのようなメカニズムで瞳孔反応を引き起こすのか,解明しなければいけないことは多く残されていますが,将来的には,眼(瞳孔)を観察することによっ
50
40
30
20
10
0
(a) 実験刺激
(b) 聞こえ方のパターン (c) 刺激音(上)と記録波形(下)の スペクトログラム
(d) 聞こえ方と脳幹反応の 関係
周波数
時間
脳幹反応の振幅
時間
周波数
…
………
……
…
A B A A B A
(Hz)1000
800
600
400
200
0 100 200 300 400 (s)
(nV)
**
図 1 あいまいな知覚を生ずる音刺激と脳幹反応
chirp
瞳孔
↑拡大
目立つ→
r=0.81, p< .01200
150
100
50
0
-50-5 0 5
(au)
瞳孔径変化量
主観的顕著度
beep
scratch noise
dogphone
cryinglaughter
birdtone
図 2 音の顕著度(目立ちやすさ)に関する主観的判断と瞳孔径変化量の関係
*1 総務省SCOPE受託研究(121803022)の成果を含みます.
NTT技術ジャーナル 2015.9 15
特集
て,音への注意の度合いを測ることができるようになるかもしれません.
自らを保護する耳の機構
脳幹は,耳に入ってきた情報を上位レベルの処理へと送るだけではありません.耳をコントロールする「下向き」の処理機構(遠心性メカニズム)も備わっていることも,古くから知られています.しかし,そのメカニズムが,実環境でどのような役割を果たしているのかは,いまだに定見がありませんでした.
内耳は,音信号を単純に伝達 ・ 変換するだけではなく,能動的 ・ 機械的な増幅も行っています.その非線形増幅作用の副次的な効果により,鼓膜が発振し,音が放射(耳音響放射)されることがあります(図 3(a)).それを観察することで,内耳での増幅ゲインについての情報が得られます.強大な音が鳴ると,ゲインは減少します.これは,遠心性メカニズムの作用によるものですが,強大音が内耳に障害を与えるのを防ぐ役割があるのかもしれません.これを確かめるために,バイオリ
ニストに研究への参加協力を求めました* 2 .バイオリニストは,耳元の楽器から発せられる強大な音に日常的にさらされています.実際に,練習の前後で聴力を測定したところ,一過性ではあるものの,有意な聴力低下が認められました.この,聴力低下の程度には個人差がありましたが,その差が,内耳の増幅ゲインの調整量の個人差と相関することが分かりました(4)
(図 3(b)).つまり,この研究により,遠心性メカニズムが,強大音による障害から耳を保護することに役立つことが示されたのです.ヘッドホンによる音楽受聴の広がりに伴って,騒音性難聴(強大音への暴露によって生ずる聴覚障害)は,社会的な問題となっています.本研究のように,遠心性メカニズムの機能評価によって,個人ごとの騒音性難聴のリスクを推定することができれば,難聴予防へとつながることでしょう.
他覚的聴力検査
聴覚医学において,「どこまで弱い
音が聞こえるか」を調べる聴力検査は,単純ではありながら,難聴などの診断の基準となる重要な検査です.しかし,通常の聴力検査は,聞こえに関する本人の報告に基づく「自覚的」検査であるため,自身の聞こえを適切に報告できない(あるいは意図的に誤った報告をする)受検者の能力を正しく評価することはできません.「他覚的」検査(聞こえに関する本人の報告に基づかない検査)もあるのですが,それは内耳や脳幹といった,特定の生理学的メカニズムの良し悪しを判断することはできても,「聞こえる」「聞こえない」といった知覚を判定するものではありません.私たちの研究グループでは,これまでの感覚運動科学研究で得られた知見を活用して,新たな他覚的聴力検査* 1の提案を行おうとしています.
目をつけたのは,一定間隔で明滅する光刺激(フラッシュ)に合わせて指でリズムを刻む(タップする)運動です.この運動は,同時に呈示される音
弱い
(a) 耳音響放射 (b) 耳の保護機能の評価
耳音響放射内耳
刺激音
測定装置:マイク+スピーカ
(dB)
30
20
10
0
-10-6 -4 -2 0 2
R=0.79(p=0.009, N=9)
(dB)劣化
正常
聴力
耳音響放射ゲインの変化量(遠心性投射の強さ)
聴力変化
強い 保護機能
図 3 耳音響放射測定による保護機能の評価
*2 京都市立芸術大学との共同研究.
NTT技術ジャーナル 2015.916
未来への羅針盤としてのコミュニケーション科学
刺激の影響を強く受けることが知られています.光刺激と音刺激を,少しずれたタイミングで呈示すると,本人は光に合わせているつもりでも,実際にタップするタイミングは,音のそれに引きずられてしまうのです(図 4 ).
私たちは,音刺激によるその妨害効果が,検出しきい値に近い弱い音であっても生ずることを定量的に示しました(5).つまり,この妨害効果の有無を調べることによって,受検者に音が聞こえているか否かを,本人の報告によらずに判定できることになります.この原理は,「聞こえないふり」を見破る検査として応用できるだけでなく,既存の聴力検査では十分にとらえることのできなかったさまざまな聴覚障害の診断へと役立つことが期待されています.
今後の展開
本稿で紹介した研究成果は,聞こえを測る新技術を予感させるエキサイティングなものであると同時に,聞こえが感覚系にとどまらず,運動系 ・ 自律神経系 ・ 内分泌系 ・ ・ ・ といったさまざまな生体システムの複雑な相互作
用の中で成立していることを改めて認識させてくれます.こういった複雑なメカニズムを真に理解し,利用していくためには,新たな認知神経科学的なパラダイムが求められます.現在急速に進化しているセンシング技術,機械学習技術は,その要求にこたえるものかもしれません.しかしまた一方で,複雑に絡み合った糸を 1 本 1 本解きほぐすような,基礎的な研究の重要性も失われてはなりません.一見聴覚とは関係なさそうな意外な生体反応によって聞こえを測るアイデアは,さまざまな研究分野における先人の地道な研究のうえに成り立っています.
■参考文献(1) S. Yamagishi, T. Ashihara, S. Otsuka, S.
Furukawa, and M. Kashino:“Neural Correlates of Auditory Streaming in the Human Brainstem,” 36th Annual MidWinter Meeting, Vol.36, pp.84-85, 2013.
(2) G. Aston-Jones and J.D. Cohen:“An integrative theory of locus coeruleus-norepinephrine f unc t ion : adapt i ve g a in and opt ima l performance,” Annu. Rev. of Neurosci., Vol.28, pp.403-450, 2005.
(3) H. I. Liao, S. Kidani, M. Yoneya, M. Kashino, and S. Furukawa: “Correspondences among pupillary dilation response, subjective salience of sounds, and loudness,” Psychonomic Bulletin & Review, DOI: 10.3758/s13423-015-0898-0,2015.
(4) 大塚 ・ 津崎 ・ 園田 ・ 古川:“練習中の楽器音への暴露がバイオリニストの聴覚末梢に与え
る影響,” 日本音響学会春季研究発表会講演論文集,2015.
(5) 古川 ・ 鬼鞍 ・ 木谷 ・ 加藤 ・ 北川:“光同期タッピング課題による客観的可聴閾値推定,” 日本音響学会春季研究発表会講演論文集,2015.
音遅延
(a) 音刺激による妨害効果 (b) 測定結果
0 200 400
200
0
-200
光
音
タップ
時間音遅延
タップも遅延する時間
タップ遅延
(ms)
(ms)
図 4 リズミックな光刺激に対するタッピング
(後列左から) Hsin-I LIAO/ 柏野 牧夫/ 米家 惇
(前列左から) 山岸 慎平/ 古川 茂人/ 大塚 翔
私たちの「聞こえ」は,無意識に行われているさまざまな膨大な情報処理のうえに成り立っています.目に見えないそれらの過程を,明らかにするのは容易なことではありませんが,まさにそこに聴覚の重要な本質が潜んでいます.
◆問い合わせ先NTTコミュニケーション科学基礎研究所 人間情報研究部TEL 046-240-4795FAX 046-240-4716E-mail furukawa.shigeto lab.ntt.co.jp