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2010年度卒業論文 『権利アプローチによるカンボジア開発の可能性』 国際学部国際学科4年 学籍番号:20627027 岩田慶也 1

2010年度卒業論文 『権利アプローチによるカンボジア開発の可能性』 · 帰国後、あまりにもカンボジアについて知識が乏しい私は、書籍などで調べてみるとカ

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2010年度卒業論文

『権利アプローチによるカンボジア開発の可能性』

国際学部国際学科4年 学籍番号:20627027

岩田慶也

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目次

はじめに …………………………………………………………………………………………….3 第一章 人権に基づく開発アプローチ ………………………………………………………….4 第一節 国際機関による定義……………………………………………………………….4 第二節 開発アプローチの歴史…………………………………………………………….5 第三節 なぜ人権アプローチか?………………………………………………………….7 第二章 カンボジアの開発問題 ………………………………………………………………….9 第一節 カンボジアの歩み………………………………………………………………….9 第二節 カンボジアの復興・開発………………………………………………………...12 第三章 カンボジア開発における都市問題 …………………………………………………...14 第一節 都市移住と貧困…………………………………………………………………...14 第二節 強制立ち退き問題………………………………………………………………...16 第三節 援助 大国である日本の役割…………………………………………………...19 第四節 権利アプローチによるカンボジア開発………………………………………...20 おわりに …………………………………………………………………………………………...21 参考文献 …………………………………………………………………………………………...22 参考 HP …………………………………………………………………………………………….23

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はじめに カンボジアに興味をもったのは、大学三年生の夏休みに一ヶ月訪れたことがきっかけで

ある。そのときの主な活動は CCASVA というストリートチルドレンの保護やその家族の支

援を行っている NGO 先でのボランティアだったのだが、ここ以外でも地雷で片足を失った

人、ゴミ山の少年、スラム居住地の不衛生な場所で生活を強いられている人々など、様々

な不安を抱え生活しているカンボジアの人々と触れ合うことで、「もっとカンボジアについ

て深く知りたい」という興味と「彼らのために何かできることはないだろうか」という思

いが強くなっていった。 帰国後、あまりにもカンボジアについて知識が乏しい私は、書籍などで調べてみるとカ

ンボジアの問題が浮き彫りになってきた。貧困問題では、世界銀行によると、2000 年にお

けるカンボジアの一人当たりのGNPは、260 ドルの低水準で、世界 206 カ国中 186 位とな

っていて、所得貧困1でみた場合の貧困者比率は人口の 3 割を超えている。 また、教育や保健・医療、公共サービスを総合的に見たベーシック・ヒューマン・ニーズ

の視点からみた場合も平均寿命が短く、乳児死亡率が高く、成人識字率も 68.2%と低い水

準であった。 この現状から、カンボジア政府とそれを援助する先進国 NGO、二国間援助を中心に貧困

層が人間として 低限の生活を送るためにどのような対策をとるべきか論じていきたい。

そのなかで今日、新たな開発アプローチとして期待されている権利アプローチの視点から

カンボジアの開発問題を考察していきたい。 筆者はこの論文を通じて、カンボジアについての理解も深めたいと考える。そのために

歴史的背景も重視して論じていく。 第一章 人権に基づく開発アプローチ 本章では、1990 年代から議論され始めた人権基盤型アプローチによる開発についてどの

ような特徴があるのかを紹介したい。そして、今日において、なぜこのアプローチが多く

の国際開発機関や NGO などで積極的に採用されているのかを今までの開発アプローチと

の流れの中で論じていく。 第一節 国際機関による人権に基づく開発アプローチの定義 人権に基づく開発アプローチとは、様々な団体で異なった名称で採用されている。例え

ば、国連の場合は、「人権に基づく開発に対するアプローチ (Human Rights-Based

1 低限の栄養水準と日常生活の基本的必需品を確保できる水準を示す貧困ラインを設定

し、この水準に達しない層を貧困層とする基準。

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approach)」、イギリスの国際開発省(DFID)や多くの NGO は、「権利に基づくアプロー

チ(Rights-Based approach)」と呼ばれることが多い。しかし、ここでの権利というのは、

広い意味での人権を指しており、実践においてこの 2 つが区別されることは少ない。【アジ

ア 2008:9】 したがって、本論では、これらの要因を踏まえた上で、「権利アプローチ」と総称して論

じていく。 そして、国連は、「人権に基づく開発アプローチとは、規範的に国際人権基準に基づき、

実践面で人権の保護につながる人間開発の過程のための概念的枠組み」【OHCHR HP:2008,11.25.】と定義されており、その内容が『人権基盤型アプローチ:共通理解声明』

による 3 つの柱から構成されている。 ① 国際協力、国際政策および技術的援助に関わるあらゆるプログラムにおいて、世

界人権宣言をはじめとする国際人権文書に掲げられた人権のいっそうの実現が目指さ

れるべきである。 ② 世界人権宣言をはじめとする国際人権文書に掲げられた人権とそこから導き出さ

れた諸原則は、すべての部門で、そしてプログラミング過程のすべての段階において、

あらゆる開発協力およびプログラムの立案・実施の指針となる。 ③ 開発協力プログラムは、義務を負う者がその義務を果たす能力と、権利を保有す

る者がその権利を主張する能力の発達に寄与するものである。 この国際機関の『共通理解』によると、権利アプローチは、社会権や市民的政治的

権利も含めた包括的な人権基準を基盤とすること、人権から導かれる原則も開発協力

の手法に組み込むこと、それを状況分析、計画、実施、評価などの側面に活用するな

どの側面を持つ。これは、さまざまな団体の権利アプローチの定義や実践に見られる

共通の要素でもある。【ヒューライツ大阪 2008:12】 第二節 開発アプローチの歴史 1)1950~1960 年代 この時代にかけて主流の開発戦略においては、経済成長が優先された。この背景には当

時、経済成長の恩恵が上から下へ滴り落ちる、トリクルダウン理論が主流となっていたこ

とが挙げられる。しかし、経済成長の恩恵が及ばない高齢者や障害者などの社会的弱者へ

の福祉サービスの提供といった観点から議論されている。このように当時は「大きい政府」

による社会サ-ビスによって、受益者は外部からサービスを与えられる受身のアクターと

して位置づけられていた面が強かった。【国際協力綜合研修所 2003:148】 2)1970 年代 1970 年代には、トリクルダウン理論に対する疑問が生まれ、今までの経済成長優先から

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社会的側面を重視する方向へと大きくシフトする。そして、教育、保健医療、栄養、安全

な水、住居など、人間に必要な基本的ニーズ(Basic Human Needs: BHN)の充足を重視

する BHN アプローチが提唱された。 また、この時代には、現在の「参加型開発」の原型ともいえる「コミュニティ開発アプ

ローチ」が登場した。東西冷戦構造の中で、内政不干渉ともなりかねない被援助国政府の

行政体制・機構への本格的な介入はタブーとなっていたが、一方で援助の実効性や裨益効

果の観点から被援助国政府の非効率な行政機構への批判的な評価もなされるようになった。

このような状況への 1 つの回答として、末端の受益者を直接対象とするコミュニティ開発

アプローチがこの時代にかけて、西側先進国ドナーを中心に推進された。この開発アプロ

ーチでは、非効率な途上国政府の行政機構を通さず、ボランティア派遣や NGO を中心とし

た草の根レベルでの開発事業を実施する試みが多く見られた。この経験が「参加型開発」

アプローチの基礎概念の形成につながった。【国際協力綜合研修所 2003:149-150】 3)1980 年代 国家主導型の開発政策は 1970 年代ごろまでには比較的高い経済成長をもたらし、また

BHN 施策と相まって社会サービスの拡大を可能とした。しかし、援助を含む外国資金や一

次産品の輸出収入に依存したものは持続的な発展を可能にはしなかった。さらに、2 度のオ

イルショックと世界経済の低迷などが契機となり、途上国経済の多くが収支危機に陥り、

膨大な債務と非効率で肥大化した政府を残し事実上破綻した。この後、国際的な開発援助

の焦点は、混乱した途上国のマクロ経済安定化と市場経済化を軸とした世界銀行・IMF 主

導の構造調整政策へと急速にシフトすると同時に、国家の役割をめぐる考え方はそれまで

の「大きな政府」、「福祉国家」から「小さな政府」へと移行する。このような流れを背景

に BHN 戦略も、厳しい途上国財政により、大幅に後退した。 このように 80 年代は、社会開発とっての“冬の時代”であったが、その後の社会開発に

重要な取り組みが始まっていた。その一つが、この時期に提唱され、また農村開発、人口・

家族計画、保健、教育等の分野を中心に導入が進められた参加型開発手法である。その背

景には前述のコミュニティ開発アプローチによる経験蓄積や、トップダウン方式の開発事

業の失敗に対する反省、特に受益者の参加が開発事業の効果と効率をより高めていく上で

重要であるという認識が広まったことがある。 また、1970 年後半から国連が主導した一連の人権擁護の取り組みや、1985 年ナイロビ世

界会議を契機として広まった「開発と女性(Women In Development: WID)」がさかんに

議論されるようになり、その後の社会開発の主流の」考え方につながることとなった。【国

際協力綜合研修所 2003:152-153】 4)1990 年代 1980 年代では、一部の国際機関やドナー、さらには NGO により、現代の「社会開発」

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につながる取り組みが始められたが、これらの取り組みは当時の経済成長優先の国際的な

開発の潮流の中では主流とはならなかった。 しかし、1990 年代に入ると、状況が変化して、社会開発は経済開発と並んで枢要な開発

課題としてクローズアップされるようになる。 このような流れの象徴が、1990 年も世界銀行の『世界開発報告』が「貧困」をメインテ

ーマに取り上げたことである。この報告は、経済成長が必ずしも貧困解消に結びつかなか

ったことの反省に基づき、貧困解消のための「開発の二面的戦略」を提唱した。これは、

貧困解消にとって、経済開発と社会開発が等しく重要であり、相互に強化し合う作用を持

つものであるという認識を明確に打ち出している。構造構成政策をリードしてきた世界銀

行がこのような動きを示したことは、社会開発の主流化が大きく進んだ成果であろう。 この頃、国連においても社会開発をめぐる議論に大きな影響を与えた動きが見られた。

それが、国連開発計画(UNDP)などを中心とした「人間開発」概念の提唱である。これ

はアマルティア・センの「ケイパビリティ2」の概念を基礎とした新たな開発概念として打

ち出された。 「人間開発」は「人間の選択を拡大する過程」と定義されており、その過程を展開させ

るためには、その社会固有の社会的特性への留意と、人々の参加を可能にする社会的環境

の整備が必要であるとする。さらに、このセンの理論に発する「人間開発」の大きな功績

は、それまでの経済成長実現の手段として、また経済開発を補完するものと位置づけをさ

れていた教育や健康の改善を、その実現自体に価値があるものだとして明確に位置づけさ

れるようになったことである。 この時期は、上記で見るように社会開発が注目されているが、この流れをさらに決定的

にしたのが、1995 年にデンマークのコペンハーゲンで開催された国連社会開発サミットで

ある。このサミットにおいて採択された「コペンハーゲン宣言3」では、社会開発と社会正

義、平和と安全保障、さらにすべての人権と基本的自由が相互に関連するものであること

を明らかにし、経済開発・社会開発・環境保全が相互依存的であり、相互強化関係にある

ことを強調している。【国際協力総合研修所 2003:152-153】 5)近年 90 年代初期は、社会開発が経済開発と並ぶ中心的課題として急速に注目を浴びることと

なる。そして、1999 年に貧困削減戦略ペーパー(PRSP)が導入される。PRSP の社会開

発面での特徴は、実施や評価モニタリングの際、受益者の参加とエンパワーメントの重要

2 アマルティア・センにより提唱された概念で、一般的には「潜在能力」と訳されることが

多いが、資質としての能力のみならず、ある個人が有する潜在的な機能を「達成する自由」

までを含む概念である。 3 1995 年に開催された社会開発サミットは、貧困の根絶、雇用、社会統合を不可分な社会

開発課題ととらえ、その達成に向けた取り組みを通じて、社会開発を一層推進していくこ

とを謳っている。その国際的合意には 10 項目の公約にまとめられている。

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性が強調されている。また、政策面では実効性のある貧困削減の観点から、公的サービス

の強化と公共性の確保、セーフティーネット構築、社会的弱者の救援などを含む社会的保

護を重視していることなどが挙げられる。 さらに、近年の動きとして 2000 年に開催された国連ミレニアムサミットにおいて、ミレ

ニアム開発目標(MGDs)が採択された。これは、世界共通の開発目標として経済的貧困なら

びに保健、教育やジェンダーなどの社会開発指標を軸に 8 項目で定められたものである。 PRSP の世界的導入や MGDs の採択は、開発の 優先課題として貧困削減、また、社会

開発の観点からは、人間の権利としてのより良い健康や教育の追求、さらには開発プロセ

スにおける参加やエンパワーメントの重視などの諸点が、NGO や一部のドナーのみになら

ず、あらゆる国際機関で社会開発が重視されてきていることを意味する。【国際協力総合研

修所 2003:154-158】 このように、時代の変化とともに開発アプローチも様々な変化をしている。そして、次

節でなぜ権利アプローチが重視され始めていて、どのような特徴があるのかを述べていき

たい。

第三節 なぜ権利アプローチなのか? 1)人権と開発の融合 近年に入るまで、この両者は別の分野ではないかと考えられてきた。なぜなら、経済開

発こそ目指すべきものであったからだ。しかし、近年になるとミレニアム開発目標などの

社会開発が重視されるようになり、貧困の原因として人権が深い関係にあることが認識さ

れ始める。貧困を生み出す原因は様々だが、社会構造や権力関係、政府の作為・不作為に

よる権利の侵害と関係していることがある。また、国民の教育、医療、住居、水などの基

本的な生活へのアクセスは国家の義務とされているところだが、特定の集団が発展から取

り残されて、開発事業の悪影響を受けて、教育、保健医療などの側面で劣悪な状況に置か

れること、権力者の恣意的な土地の奪取など、開発分野の問題において人権の結びつきは

強さを増してきている。【ヒューライツ大阪 2008:10-11】 2)権利アプローチの特徴

a)援助すべき人たちを見いだす まず、貧困状態や女性の差別などを「権利の剥奪」という視点で見直すことである。こ

れにより、誰が権利の所有者で、誰が債務の担い手にあるのかを明らかにすることができ

る。したがって、ある社会の中でどのような集団が も支援を必要としているのかをより

客観的な方法で明らかにし、開発の優先順位がつけやすくなるのだ。【馬橋 高柳 2007:142-143】

b)権利保有者と債務履行者 権利アプローチにおいてこの両者の関係は、子供の権利を例に挙げると教育、保護、参

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加、生存などの権利を持っているため子供は権利保有者となる。そして国家、自治体、親、

地域社会、教師、保健所など、子供を取り巻く関係者すべてが債務履行者としてこの権利

を守ることが義務づけられている。 c)ニーズから権利へ

また、そのほかの特徴として、これまでの開発協力の現場で見られた、受益者の「ニー

ズ」重視から「権利」へと捉え直すことである。ニーズは、何かが足りないという状況を

示すものであるが、権利は一般的に債務履行者に正当に請求できるものである。何かが欠

如している状態を権利が実現されていないと捉えることは、本来なら、当たり前に得られ

なくてはならないものが奪われていて、権利保有者は債務履行者に正当に要求できるはず

であるということが言える。 また、ニーズならば誰が提供してもよかった。したがって、国家にサービス提供能力が

なければ代わりに NGO を通じて行えばよいと考えられていた。しかし、自発的に活動を行

うNGOが人々に対して国家と同じレベルでの責務や説明責任を果たすことは難しく、NGOが国家の肩代わりをすれば、政府や地方自治体と人々との関係を弱める可能性がある。そ

の一方、国家のみ強化しても権力の濫用につながる恐れもある。したがって権利アプロー

チにおいては、この両者の関係のバランスに注目しながら、何が必要か考えることになる。

【ヒューライツ大阪 2008:13-16】

第二章 カンボジアの開発問題

本章は、筆者が実際に訪れたカンボジアについて述べる。近年、カンボジアは首都プノ

ンペンを中心に目覚しい発展を成し遂げている。しかし、貧困層は未だに苦しい生活を強

いられていて格差は広がる一方である。国家は国民の生活を守る義務があり、国民は守ら

れる権利がある。つまり、権利アプローチからの観点において、どのような人々を守って

いかなくてはならないのかを考察していく。また、歴史上、カンボジアは諸外国の利害関

係の中で、多くの損失を被ってきた。したがって、これらの歴史的背景についても論じて

いく。

第一節 カンボジアの歩み

1)フランス植民地期

プノンペンの市内には、現在もフランス風の建物が残り、市場には多くの所でフランス

パンが売られている。これは 1863 年から 1953 年までのフランスによる植民地化の影響が

今も根強く残っているものである。近年のカンボジアの歴史を語る上で、この植民地時代

の影響は重要である。

19 世紀半ば、フランスはイギリスとの覇権争いのために植民地を求めていた。そこで目

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をつけられたのがカンボジアのあるインドシナ半島である。なぜならメコン川を利用して

巨大な中国市場を手に入れるためだった。【上田 2006:173-174】

また、カンボジアはアンコール王朝が崩壊後、隣国のタイとベトナムと従属関係にあり、

両国の侵略を回避するためにフランスに保護を要請したことが、フランスの介入を容易に

させてしまった要因である。【天川 2001:28】

そして、1863 年「フランス・カンボジア保護条約」1884 年「フランス・カンボジア協約」

が締結され、国家の主権が全面的にフランスに移ってしまった。これにより、農民の税と

賦役の負担は重くなり、一人あたりの税は、インドシナで一番重くなった。さらに、フラ

ンスが第一次世界大戦に参戦したために戦費が上がり、これも負担することとなった。

第二次世界大戦になるとフランスはドイツに敗北し、親独体制のヴィシー政権4となった。

その頃、日本は東南アジア侵攻への足がかりとしてインドシナに目をつけて、ヴィシー政

権との協定のもとにインドシナに進駐した。日本はヴィシー政権崩壊後、カンボジアを独

立させたほうがいいと考えていたので、カンボジアの知識人たちは大いに歓迎した。そし

て、前国王シハヌークは日本の保護監督のもと、フランスの保護条約失効とカンボジアの

独立を宣言した。【上田 2006:178-181】

しかし、1945 年 8 月、日本は連合国に降伏したために独立は取り消された。再びフラン

スの支配下となった。一方で、この時期カンボジアでは初めて、民主党や自民党などの政

党が結成した。民主党は、フランスからの早期独立を掲げ、1953 年まで国民議会の安定多

数を占める政党であった。しかし、ベトナムに始まった第一次インドシナ戦争の拡大によ

って社会経済情勢が不安定になるなかで、民主党は安定的な国政を作り上げることができ

なかった。一方、フランスもこのインドシナ戦争に手を焼いていた。これにより、フラン

ス政府の意向が、フランスの権益と面子を守りつつ、いかにして戦争を終わらせるかとい

う方向になり、カンボジアに独立と主権を認める方向へと政策転換していった。そして、

1953 年 11 月 9 日、シハヌーク国王がカンボジアの独立を宣言した。【天川 2001:34-35】

2)ロン・ノル政権からポル・ポト時代

1960 年代初頭のカンボジアは東西冷戦の 中、政情不安な近隣諸国と異なり、シハヌー

ク国王が中立政策をとって、両陣営から援助を引き出し、農業開発と工業化を促進した。

しかし、この繁栄も長くは続かず、東西冷戦構造のなかでこの中立政策は、次第に立ち行

かなくなっていった。そして、独裁政治、縁故主義、汚職などの様々な問題が浮き彫りに

なった。これに失望した教員や学生、知識人たちは、クメール・ルージュ5が地方の解放区

で展開する活動に参加した。【上田 2006:180-182】

1970 年 3 月 17 日、シハヌーク殿下がパリ、モスクワ、北京を訪問するための出国不在中

4 1940 年 7 月にフランスの中部のヴィシーに誕生した。対独協力政権。 5 赤いクメール。ポル・ポトが率いた、毛沢東思想と文化大革命に心酔した極端な民主主義

的共産主義者の集団。

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をねらって、ロン・ノル首相が無血クーデターを敢行してシハヌーク殿下を追放し、欠席

裁判で同殿下に死刑を宣言。さらに王政を廃して共和制にした。また、反ベトナム感情を

叩きつけた。これは、米国が背後でクーデターを支援していたからといわれていて、ロン・

ノルも親米体制をとっていた。しかし、この政権は長く続かず、ベトナム戦争が過熱化し、

米国の侵略がカンボジアにも及び、国民のロン・ノル政権への不信感が高まった。

そのなか、国外にいたシハヌーク殿下は、「カンプチア民族統一戦線(FUNK)」を結成し

て国民にロン・ノル政権への抵抗を呼びかけ、亡命の政党政権として「カンボジア国民統

一王国政府(GRUNC)」を設立した。こうしてカンボジアは、ロン・ノル政権と民族統一戦線

とに分かれて互いに闘争するようになったが、やがて民族統一戦線は、クメール・ルージ

ュに主導権を握られることとなる。1975 年 4 月 17 日、プノンペンにクメール・ルージュ軍

が入城して、ロン・ノル政権は崩壊した。【今川 2006:206-207】

このとき、一般のカンボジア人は、その後人類史上まれにみる恐怖の歴史が待ち構えて

いることも知らず、むしろポル・ポト率いるクメール・ルージュ軍を歓迎する姿勢を示し

ていた。それは、ロン・ノル政権の失敗に対する批判が強まっていたからである。

まず、クメール・ルージュは、マルクス主義にもとづいて仏教の破壊などカンボジアの

伝統をすべて破壊する運動を開始した。クメール・ルージュの幹部たちはフランスに留学

していてマルクス主義を学習していたためだ。のちに彼らは、このマルクス主義と中国で

災厄を引き起こした毛沢東主義をとりいれて再鋳造し、それをカンボジア社会の現状を考

慮することなく機械的に適用したのである。

この運動の目的を簡潔に言うと、資本主義を廃絶することを掲げ、貨幣を廃止し、中国

の人民公社に範をとる集団農場を社会の基礎的単位にしようとするものであった。そのた

めに、資本主義の基盤である都市を廃絶してその全人口を農村に送るという反都市主義を

政策の柱とした。そして、教育体系は根絶され、教師、専門家、僧侶などあらゆる知識人

は社会の敵とみなされ抹殺の対象となった。また、過去の遺産も破壊しつくしたことから

「カンボジア0年」と呼ばれている。【駒井 2001:36-37】

だが、こうした粛清による人的損失やベトナム軍との国境紛争による打撃などから、ク

メール・ルージュは徐々に体力を落としていき、1979 年 1 月に元東部管区幹部らとベトナ

ム軍が侵攻し、プノンペンを陥落した。そして、新政権を樹立させ、カンボジア人民共和

国となった。

しかし、親政権はヘン・サムリンをはじめとする元東部管区幹部らが指導者となったが、

これはベトナム指導型の社会主義政権であった。そして、20 万人のベトナム兵が駐在し、

政府のあらゆる機関にもベトナム人専門家が派遣され、実質的な権限はベトナムに握られ

ていた。これに対抗するためにシハヌーク派、旧クメール共和国の流れを汲むソン・サン

派、ポル・ポト派が三派連合政府を樹立した。東西冷戦構造にあって、東側陣営がヘン・

サムリン政権を、西側陣営が三派連合政府を支援し、激しい内戦が行われた。これにより

65 万人もの難民が生まれ、国際問題となった。また、現在も国内に多く残る地雷もこのと

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きに埋められたものである。【上田 2006:188-189】

3)現代~和平への道~

1989 年、冷戦が終結。ベトナム軍がカンボジア完全撤退し、カンボジアは国旗と国名を

「カンボジア国」に変更した。1991 年にはカンボジア和平協定(パリ協定)が調印され、国

際社会の復帰を果たした。これにより、シハヌークはカンボジアに帰国し、国民から大歓

迎された。そして、1993 年の総選挙実施に向けての和平樹立計画が国連で作成され、総選

挙までの期間を、シハヌークが議長を務めるカンボジア 高国民評議会(SNC)がカンボジア

の主権を象徴する政治的実体となった。そして、世界中が見守る中、1993 年 5 月に総選挙

が行われた。その結果、9月に新憲法が公布され、シハヌークが王位に再び就き、フンシン

ペック党のノロドム・ラナリットと人民党のフン・センの二人首相制とする連立内閣が成立

した。しかし、この新政権は政治的に非常に不安定であり、政権内での対立や抗争が散発

した。【上田 2006:189-190】

1997 年 7 月には、プノンペンにおいて、ラナリット第一首相側とフン・セン第二首相側で

大規模な武力衝突が起きた。その結果、ラナリット第一首相は国外に脱出を余儀なくされ

た。これにより、国際社会からの信用がなくなり、国際援助も一時中断された。

1998 年に実施された総選挙では、自由で公正な選挙を実施するために、日本や EU が主体

となった国際選挙監視団が設置された。したがって、この総選挙では、おおむね自由公正

に行われ、人民党が過半数の議席を獲得し、第一党となり、二人首相制が廃止され、フン・

センが首相に就任した。また、国際社会の信用も回復した。【廣畑 2004:5】

その結果、近年のカンボジアは政治・治安共に安定しており、マクロ経済についても、

成長率・インフレ率・為替レート等、比較的に安定している。ただし、公共支出管理能力

向上の努力はしているが、税制の不備等のため政府の財政赤字は一向に改善せず、援助依

存の構造は変わらない。

また、制度・ガバナンスにおいては、2002 年に初の地方選挙が実施され、2006 年には上

院選挙が行われる一方、地方分権化が政府主導で進められつつあり、政治制度づくりは安

定している。その一方、ガバナンスは多くの課題を残しており、世界銀行研究所(WBI)の

「ガバナンス指標」では、汚職防止度を世界のワーストグループに位置づけられており、

政権による人権抑圧事例も報告されている。【稲田 2008:131】

本節では、カンボジアの植民地時代から内戦を経て現在に至るまでを述べてきた。その

結果、カンボジアは復旧・復興期を経て持続的な開発段階に入ってきたように思える。し

かし、フン・セン率いる人民党による政治的安定はもたらしているものの、それが政治的

自由につがっている状況とは言い難い。なぜなら、伝統的システムとしての「縁故主義」

による腐敗や汚職がいまだに多く存在しており、3章で述べる「強制立ち退き問題」なども

これにあたる。したがって長期的に見たらカンボジアの今後は楽観視できる状況ではない

だろう。次節では、カンボジア開発が今後、どのような形で行われるべきか、本節を踏ま

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えながら述べていく。

第二節 カンボジアの復興・開発 1)援助体系 前節でも述べてきたが、カンボジアは 1970 年代以降の内戦時代において、政治的要因に

よりさまざまな国から支援を受けてきた。そして現在においては、日本、アジア開発銀行、

世界銀行が援助全体の半分を占め、ほかにもオーストラリア、フランス、アメリカ、EU、

UNDP などが積極的に支援を行っていて、国家歳入の 4 割を外部資金援助に頼っている状

態だ。 そして、カンボジアの開発行政機構は、カンボジア復興開発委員会(援助調整、および返

済義務のない無償援助を担当)、計画省(開発計画および公共投資計画を担当)、経済財務省(予算、および対外借入により返済義務が生じる借款援助を担当)の 3 組織で構成されている。

これらの機関にドナーや NGO は独自に直接コンタクトすることが常態となっている。 ここでの問題点は、カンボジアの復興・開発プロセスはドナーが主導し、カンボジア政

府の主体性(オーナーシップ)は非常に弱い状態にとどまっていることである。また、資金面

のみならず技術援助にも大きく依存しており、政策形態や事業内容の設計において実質的

にドナーが方向付けを行うなど、外部者の影響が大きい。これらの背景には、戦後復興後

期に流入した多額の援助の速さに、国内の制度整備や人材育成が進んでいないことが上げ

られる。また、 初の連立政権のもとでは二大政党間の権力バランスが重視され、政府省

庁の幹部ポストは二大政党に配慮して分配されたため、行政官は自ら政策判断をする代わ

りに外部のドナーに判断を委ねる傾向があった。【下村 2006:203-205】 2)オーナーシップ

上記で述べられているように、カンボジアの開発で政府のオーナーシップが重要になっ

てくることが分かる。オーナーシップは多面的な概念であるが、開発分野では、途上国の

政治指導者の強い開発意思(コミットメント)、そして政府の政策形成および実施・調整能力

を指すものとして使われる。また、オーナーシップを、①改革プログラムの策定・実施に

おいて誰が主導権をとったか(改革イニシアティブの起点)、②主要な政策決定者が経済改革

の必要性をどの程度意識していたか(政策決定者の改革に対する知的確信の度合い)、③政治

指導者が国民に改革の必要性を明確に示したか(政治的意思)、④中央・地方政府、企業、NGO、

住民代表といったさまざまな利害関係者に対して合意形成をしたか(政府内外の利害関係者

から協力を得る努力 )、これらを数値化し、国別比較をする試みもある。【下村

2006:193-194】 しかし、カンボジアは長年の内戦により開発行政機構を含む基層社会が破壊されるなど、

大きなハンディキャップを負っている。このように行政基盤がきわめて脆弱な場合、オー

ナーシップによって援助調整の負担を過度に途上国政府に押し付けるのは望ましくなく、

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ドナー側による調整・連携の努力が不可欠である。また、官僚の育成やドナー側と途上国

側の長期的な信頼関係のもと、対話を中心とした協力が望ましいとされる。 3)マイクロファイナンス これは、バングラデッシュのムハマド・ユヌスにより開発された農村地域の貧困層を融

資の対象にした小規模金融である。このシステムは、全世界で貧困削減に貢献することを

期待されている。 カンボジアでは、全人口の 84.3%が農村地域に居住していて、貧困層の割合も都市居住

者に比べ高くなっている。そして、農村居住者の場合、フォーマルな金融サービスを受け

るのは困難で、金貸し等のインフォーマルな融資を受けている。こうしたケースでは、金

利水準が非常に高く、農村地域のインフォーマル金融は、貧困層に対して負の影響を与え

ている。 カンボジア政府は、こうした状況に対応すべく、1998 年 12 月に開かれたカンボジア閣

僚会議において、貧困緩和を目的とした地方農村地域での金融サービスの創設を、農村開

発の 優先課題とし、フランス協力省の支援を得て、農村地域開発銀行を設立した。同行

は援助資金を原資として、実際にマイクロ・ファイナンスを行う NGO に対して融資を行っ

ている。 カンボジアで 大のマイクロファイナンス機関は 1993 年に設立された ACLEDA で、国

際援助機関の支援を受けながら拡大してきた。2000 年のデータで、国内 12 州に支店を持

ち、340 人のスタッフが、約 6 万人に対し、合計約 1400 万ドルの融資を行っている。融資

の枠組みについては、グラミン型のグループ・レンディングと、通常の銀行型の個人ローン

がある。前者の借り手のほとんどが女性で、平均 100 ドルの資金を元手に、農業、小売業

などを行っている。後者の借り手も女性が多く、平均 800 ドルの元手で、食堂、修理業な

どさまざまな商売を行っている。後者の金利は 20%で、貸し倒れ率は 3%である。【廣畑

2004:84-85】 このマイクロファイナンスは、権利アプローチの視点からも、それまで銀行の融資とい

う権利を剥奪されていた貧困層に融資を行うことで援助すべき人を明確にする役割を担う

ことができる。 本章では、カンボジアが植民地時代や内戦を乗り越えて、他国や国際機関の援助もあり、

現在成長を迎えようとしている様子を述べてきた。しかしながら、保健、人口、ガバナン

スなどの課題もいまだに多く、まだまだ楽観視できる状況ではない。次章では、筆者が特

に問題視している「強制立ち退き問題」にフォーカスを当てて、1 章で述べた権利アプロー

チの可能性と共に論じていく。

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第三章 カンボジア開発における都市貧困 著者は、1 ヶ月間のカンボジア研修に参加した際、プノンペン郊外の川岸にあるスラムを

訪れた。そこは衛生面が劣悪で伝染病などのリスクが高く、電気などの公共サービスも受

けられない環境にあった。このようなスラムはプノンペン市内だけでも数多く存在し、そ

の背景には急激な経済成長によるインフラ開発の影響がある。そして経済発展のツケとし

て土地価格が上昇し、不当な強制立ち退きによって次々と都市部貧困層増加へとつながっ

ているのである。 本章では、植民地、ポルポト時代を経て、今日に至るまで急速に成長をしてきたカンボ

ジアにおいて問題になりつつある強制移住問題による都市貧困を取り上げたい。その中で

なぜこのような問題が起きてしまったのか。また、カンボジア政府、国際機関、NGOは

どういった取り組みを行ってきたのかを論じる。そして権利アプローチを用いて誰のため

の開発なのか述べていく。 第一節 都市移住と貧困 貧困とは、教育、仕事、食料、保健医療、飲料水、住居、エネルギーなど も基本的な

物・サービスを手に入れられない状態のことである。極度の、あるいは絶対的な貧困とは、

生きていくうえで 低限必要な食料さえ確保できず、尊厳ある社会生活を営むことが困難

な状態を指す。世界中では 12 億以上の人々が 1 日わずか 1 ドルで生活しています。20 億

人以上が 1 日 2 ドル未満で生活し、8 億 5,000 万人以上が日々の食べ物にも事欠く毎日を送

っています。【UNDP 2009】 このような状況の中、貧困層の多い農村部から仕事を求め都市部への人口移動がさかん

になっており、開発途上国の都市人口の割合は 1975 年 26.5%に対して 2005 年には 42.7%と増加している。【UNDP 人間開発報告書 2009:283】

急激な都市人口の増加は、人々の雇用機会を失うことの要因となり、スラムや路上生

活者を生み出してしまう。 スラム6というのは、日本語にすると「貧困街」とか「貧困窟」となり、生活に困窮する

人々が集まって暮らす貧しい地区のことを指す。【石井 2009:12】 また、立地や物的環

境が劣悪であり、路上生活者や無権利移住者(以下スクォッター)の地域を多く含む【絵所

2004:80】 今日、途上国の大都市人口増加率は年間 5 パーセントを超えており、一般的にスラムや

不法占拠地域の人口増加率はその 2 倍以上と言われ、すでに約 10 億人がスラムや不法占拠

6 国連専門会議が出した定義では「安全な水や衛生などインフラへのアクセスの悪さ、住宅

の質の貧しさ、過密、不安定な住居条件、のような諸特徴をなんらかの程度に合わせ持つ

地域」とされている。

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地で生活している。【江口 2008:16】 また、対農村比においても次第に割合を増しており、スラムに象徴される都市貧困地区

での社会指標、特に乳児死亡率は、一般農村地域のそれよりも悪い数値を示し、かつジェ

ンダー格差が目立つことが観測されるようになった。【穂坂 2004:79】 不法占拠地域が必ずしもスラムというわけではないが、これらはしばしば重なることが

多い。貧困なるがゆえに不法占拠せざるを得ず、不法であるがゆえに上下水道、電気、道

路、溝などの必要なインフラストラクチャーの整備が政府の手によってはなされない。家

屋も堅固なものではなく、小型で、木造のものが多く、住環境はけっして良くはない。【江

口 2008:19】 一般に、スラムは経済発展過程の初期において首都をはじめとする大都市に増大する傾

向がある。経済発展が生じると企業に都市部への大規模な投資を促し、多くの資源が都市

に集中する。それにより工場などに低賃金労働の需要が急増することにつながる。このよ

うに、都市に農村では実現が困難な現金稼得可能な就業機会が増大すると、農村からの人

口移動が生じ、都市部の人口が急激に増大する。ところが、一連の開発は都市部の土地需

要の増大をもたらすので、地価の急騰が生じる。その結果、大量の低所得層が暮らす廉価

な定住先が希少になってしまうのだ。【東南アジア 2008:229】 一度、定住先を失ってしまうと路上に寝泊りし、やがてバラック7と呼ばれる粗末な小屋

を自分たちで立てて暮らすようになる。こうしたバラックが次々と増えていき形成された

コミュニティがスラムと呼ばれるようになる。また、貧しい人々は好きな場所にバラック

を建てられるわけではない。ここでは代表的なケースを 3 つ挙げたい。 ・危険な場所・・・・・・川べり、土手、鉄道沿い ・不潔な場所・・・・・・ゴミ集積所、下水の近辺 ・目立たない場所・・・・・・人気のない街角、隔離された移住地【石井 2009:15-16】 このように、劣悪な住環境での生活を強いられることとなる。しかし、このような状況に

おいても仕事さえ見つかれば、どんなに単純労働でも農村の 2、3 倍の賃金が得られるため

農村の極端な貧困生活に比べればまだましだという意見もある。【M・モリッシュ 1991:152】 それでも著者は、農村地域での貧困を理解した上で、様々な外部要因が大きく働く都市

貧困にフォーカスをあてて、農村開発同様に課題解決を進めていかなければいけないと考

える。 では、都市部での貧困の特徴とは何かというと穂坂は「都市的脆弱性8」として 5 つの要

因に分類している。 1)労働市場の不安定。自給自足へのアクセスが期待できない都市住民の生存手段の基本は、

7 トタンやベニヤ板などでできた粗末な小屋。 8 都市的な危険に曝されやすく、また貧困に陥るリスクへの対処や貧困からの回復に困難で

あることを示す。

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労働市場での労働力そのものである。 2)商業化・市場化。都市住民は貨幣経済への依存度が大きく、必要物資を現金で、しかも

相対的に高物価で購入しなければならないがゆえに、インフォーマル雇用がもたらす不安

定な所得が貧困に直結しやすい。 3)無権利ないし違法な土地住宅条件。公有地や遊休民有地の無許可占有、宅地法令や建築

基準からの逸脱を含めると、インフォーマルな住居は、途上国大都市住宅数の40%から70%に及ぶ。また無権利であるがゆえに行政サービスが滞り、強制移住の脅威が常にある。 4)劣悪な衛生環境。都市貧困層の住居地は、排気ガスを浴びる路上、汚水の排水路となる

川の河川敷、ゴミ山の上、湿地、崖下、老朽峡小家屋の密集地区等である。 5)社会的分断。家族の解体、コミュニティ組織の解体が、貧困への抵抗力を弱める。また、

都市犯罪や暴力のリスクが伴う。【穂坂 2004】 都市貧困には農村貧困とは異なる性質をもっており、穂坂は自らの著書に「都市的脆弱

性」として所得貧困のほかに難しい問題が潜んでいると伝えている。 このように都市貧困問題には、市場、人口問題、当該国を援助するドナーなど様々な因

果関係があるなかで、カンボジアではどのような開発が行われるべきかを次節以降で述べ

ていきたい。 第二節 カンボジア強制立ち退き問題 1)人口問題 カンボジアの人口構成は、同国の首都であるプノンペン市と同市を取り囲むカンダール

州、地方の農村地域に集中している。1998 年のデータでは、男女別に見ると女性の割合が

高く、1.07 倍の差がある。さらに若年者の人口比率が高く、15 歳未満が 39.8%、20 才未満

では過半の 51.6%に達している。これらのデータは内戦の影響が主な原因である。【廣畑

2004:137-138】 カンボジアの人口構造についてみると、今後も若年層が増加していくことは明らかであ

り、雇用の拡大が 重要な課題として挙げられる。【石田 2005:95】

カンボジアの人口(1998) (単位:世帯、人)

区分 世帯数 男性人口 女性人口 人口合計 農村人口 同左構成比

プノンペン市 173,232 481,385 516,601 997,986 428,794 43,0% その他 2,014,006 5,027,819 5,400,418 10,428,237 9,203,400 88,3%

合計 2,187,238 5,509,204 5,917,019 11,426,223 9,632,194 84,3%

上記のデータでは、農村人口の比率が高く、カンボジアの貧困層の大部分が農村部であ

る。そして、本章の一節で述べたように、農村地域の住民は就業の機会を求めて都市移住

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を行い、年々、プノンペン市と周辺地域の人口が増加しているのである。しかし、都市部

に莫大な雇用の受け皿はなく、溢れた人々はスラムでの生活を強いられてしまう。さらに、

これらの人々は、インフラ開発、多国籍企業誘致などの影響により、強制的な移住を強い

られ、無権利状態に陥ってしまう。 次項では、実際に近年行われた「強制立ち退き」の事例をいくつか挙げて、カンボジア

政府の問題点や今までのカンボジア開発の問題点を論じていく。 2)強制立ち退き問題

2007 年、開発計画や土地強奪によって数千人が強制的に立ち退かされて土地、住居、生

活手段を失った。適切な家屋に住む権利を保障し、強制立ち退きから住民を守るという国

際法上の義務を当局は果たさなかった。 プノンペン周辺から立ち退かされた地区の住民は、基本インフラ、水道、電気、下水設

備が整っていない地域に再定住した。かつての家にも、市の中心部までも距離があるため、

多くの人々が生活手段を利用できなくなった。【アムネスティ・インターナショナル日本

2008:21】 さらに 2003 年から 2008 年の 5 年間で、強制立ち退きや打ちこわしなどの人権侵害を経

験した住民は 13 州で 5 万 3,758 世帯(約 25 万人)に達している。その中には、警官隊が出動

し催涙ガスやゴム弾が住民に向かって発砲されるケース、妊娠中の女性に電気棒が使用さ

れるケースなど、暴力的な立ち退きも生じている。退きを強制された住民が補償金や代替

地を提供されることもあるものの、たいていの場合、補償は資産の価値に見合わず、住民

はそれでも受け取らざるを得ない状況に追い込まれている。【メコン・ウォッチ 2010.01.13】

カンボジア・プノンペン市における強制立ち退き発生例(2006~2009)

市内地

名 非影響

世帯数 強制立ち

退き発生

開発側が主張し

た土地利用の目

土地利用の

現状 住民の現状

1,367 (持家)

2006 年 5 月 3 日

市街地より 20 キロの地点

に移転 サ ム ボ

ク・チャ

プ 1,380 (借家)

2006 年 6 月 6 日

ショッピングセ

ンター建設 未開発

市街地より 22 キロの地点

に移転 モ ニ ボ

ン病院 168 2006 年

6 月 29 日 不特定の商業目

的 未開発 ( 洗車場として

利用)

市街地より 30 キロの地点

に移転。大半が市街地に戻

りスクウォッター化

チ ョ ン

チロイ 132 2007 年

11 月 2 日 特定されず 高級アパー

ト(建設中) 市街地より 20 キロの地点

に移転

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ダ イ グ

ラホム 1,465 2009 年

1 月 24 日 現地住民用住宅

と商業施設 未開発 市街地より 20 キロの地点

に移転。住民の大半は不十

分な保障条件をのむ ボ ル イ

クイラ 1,400 進行中 現地住民用住

居、商業施設、

教育省建物

住居の一部

が完成。 観光省建物

を建設中

2007 年、42 世帯が市街地

より 20 キロの地点に強制

的に移転

メコン・ウォッチをもとに筆者作成 これらの事例のほかにも現在進行中のケースもあり、これからも新しい開発のために住

民が被害に遭い、プノンペン市周辺がスラム化していくことが予想される。また、開発プ

ロジェクトの中には、日本の ODA が中心になって行われているものもあり、今までの開発

の在り方を見直さなければ行けないだろう。事項では、現在開発中の「国道一号線修復計

画」を取り上げ、論じていく。 3)カンボジア国道一号線修復計画 カンボジア国道一号線は、プノンペンとベトナム国境バベットを結ぶ、カンボジアの

優先道路の 1 つであると共に、ベトナム商都ホーチミンへと接続する国際幹線道路でもあ

る。しかし、同道路プノンペンからネアックルン区間(約 55 キロ)はメコン川に平行して横

たわる氾濫原に位置しており、損傷が著しく、現在平均時速 30 キロ程度の走行しかできな

い状況にある。(国道一号線は全長約 160 キロだが、ベトナム寄りの残り 105 キロ地点は、

アジア開発銀行9の融資によって終了している) このプログラムは、2005 から現在にかけて 3 期間で、総事業費約 82 億円を費やして行

われており、プノンペンからベトナム国境までの走行時間を大幅に縮小し、幹線道路の機

能向上を通じて、物質・人的交流が促進されて、経済・社会活動の発展に資することが期

待される。【外務省 2009.01.13】 しかし、同道路の道幅を拡張するに当たり、多くの問題点も懸念されている。 ・道路沿いに住む人たちの約 2100 軒の移転を伴う ・過去の道路改修事業における深刻な立ち退き(アジア開発銀行の融資による国道一号線改

修事業) ・カンボジア政府の弱い行政能力と政治的意思 これらの懸念の背景には、1999 年に起きたアジア開発銀行の融資による国道一号線修復

9 略称 ADB。アジア・太平洋地域の経済開発の推進を目的とした投融資や技術支援を行う

地域開発銀行として、1966 年 12 月に設立された。日本は設立当初から 大の出資国で、

歴代の総裁もすべて日本人である。

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計画の影響が大きい。1999 年末から始まった約 1100 世帯の立ち退きでは、多くの住民が

もらえるはずの額よりも低い保障費を受け取り、中には保証を全くもらえなかった住民も

いた。さらに住民は、自らの権利である立ち退きや保障内容への説明を受けることはなく、

カンボジア政府に強要された事例が確認されている。土地や資材、生活手段、社会的なつ

ながりを奪われ、不十分な補償額しか受け取れなかった住民の多くは、生活を再建するこ

とは困難な状態になった。また、本事業での住民移転に伴う計画の立案、実施を担当した

のは、カンボジア政府の省庁間移転委員会(IRC)10によるもので、日本政府が援助するプノ

ンペンからネアックルン区間の住民移転においても、同じこのIRCが担当する。 カンボジアは、立ち退きや土地収用に関する法的枠組みが未整備である。これにより、

土地を奪われた住民の生活再建を確保できず、保障の基準も明確に定められていない。し

たがって、立ち退きを強いられる住民は、生活再建のために自らの権利を参照し守る手段

を持てない状況にある。【メコンウォッチ 2010.01.14】 過去の援助事業の教訓を得て、日本 ODA 支援区間では、カンボジア政府に対して、住民

に合意を強要しないことや移転地を用意すること、苦情処理委員会に IRC を入れないこと

などを求め、行政能力の弱い IRC による住民の資産評価を支援し、カンボジア政府から独

立したモニタリングも行い、現地の NGO から指摘のあった合意取得方法の不備についても

再調査を行い、課題は残るものの問題回避に努めていった。 一方で、補償内容の妥当性については、十分な検証や議論がなされないまま、本事業へ

の無償資金協力は決定されてしまった。これにより、妥当性が明らかでない補償内容(再取

得費用11)のまま住民移転が始まることに、強い懸念の声も上がっている。【メコンウォッチ

2010.01.14】 この事例よって、いかにカンボジア行政が弱く、開発事業を進めるのに困難であるのか

がわかる。インフラ整備によって都市が発展しても社会的弱者は、開発の恩恵を受けるこ

となく、富裕層との格差拡大につながり、さらに脆弱してしってしまう。したがって、援

助国や国際機関は、「内政干渉」と言われようが、強い姿勢で強制立ち退きと向き合ってい

かなければならないだろう。また、法整備ついても対話を通じて発展させなければ、この

問題は解決しないだろう。 次節では、対カンボジア経済協力においてトップドナーである日本が、どのような立場

でカンボジア政府と向き合っていかなければならないか論じていく。 第三節 援助 大国である日本の責任

10 カンボジア政府の中には、住民移転の実施を担う常任の部署がなく、今まではその時々

の実施機関が自らの裁量によって、十分な知識や経験を持たない職員が担当してきた。こ

れを問題視したアジア開発銀行よって、1997 年 3 月に設置された。 11 市場価格などによって、損失を受ける資産の回復にかかる費用を算出し、運搬・再建や

登録・登記に要する費用を加えた総額。

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日本の対カンボジア経済協力は、1969 年に開始されたが、1974 年を 後に資金協力は中

断された。内戦を経て、資金協力が再開されたのは 1991 年で、国内避難民救済のための災

害緊急援助として、無償資金協力が実施された。カンボジアに対する資金協力額の水準で

は、二国間援助、および国際機関による資金供与のなかで、日本はトップ・ドナーの位置

を占めている。 日本のカンボジアに対する無償資金協力は、食糧援助、難民救済、保健・医療関連など

のベーシック・ヒューマン・ニーズを充足するための援助や、道路、橋梁、港湾、電力、

下水道などのインフラ整備を中心として実施されてきた。【廣畑 2004:169‐170】 現在の重点分野においても、ハード面とソフト面での均衡のとれた支援を行うこととし

ており、具体的支援内容は次の通りである。 ・ 持続的経済成長と安定した社会の実現(諸改革支援、経済インフラ、農業・農村開発等

貧困対策) ・ 社会的弱者支援(教育、医療分野等) ・ グローバルイシューへの対応(環境保全、薬物対策等) ・ ASEAN 諸国との格差是正(含むメコン地域開発)【外務省 2010.01.14】

諸外国の対カンボジア経済協力実績 (単位:百万ドル)

暦年 1 位 2 位 3 位 合計 2002 年 日本 98.52 米国 44.40 フランス 24.64 272.75 2003 年 日本 125.88 米国 51.22 フランス 25.76 319.20 2004 年 日本 86.37 米国 48.14 フランス 25.64 297.41 2005 年 日本 100.62 米国 70.36 フランス 30.12 347.29 2006 年 日本 106.25 米国 57.87 オーストラリア 33.10 347.51

外務省データをもとに筆者作成 諸外国と比較をしても、日本の対カンボジア経済協力実績は圧倒的であり、大きな影響

力を持つ。したがって、顕在化している移転問題を日本政府の主導のもと、直ちに解決す

べきである。その際には、カンボジア政府の協力は不可欠なので、当面、大規模な住民移

転を伴う新規開発事業を見合わせて、カンボジア政府と、どうすれば移転問題に対処でき

るようになるか議論していかなければならないだろう【ヒューライツ大阪 2010.01.15】 第四節 権利アプローチによるカンボジア開発 第一章でも触れたように、開発と人権は結びつきが強いものと考えられる。カンボジア

開発において強制立ち退きは大きな問題になっているが、権力者(カンボジア政府)による恣

意的な土地奪取にあたるだろう。したがって本節では、カンボジア開発と権利アプローチ

20

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のつながりと可能性について論じていく。 すべての人権を保障し、その実現を促進するという国家やその他の債務履行者の義務が

担架されるような政策や制度を強化する。【ヒューライツ大阪 2008:14】 これを、カンボジア開発に当てはめると、人権の中には居住の権利があり、その実現が

債務履行者であるカンボジア政府によって妨げになっていることは、義務に反することと

なるため、立ち退きをする際は、基本的人権として適切な保障をしなければならないだろ

う。 また、権利アプローチでは、移転問題において、債務履行者の説明責任が義務付けられ

る。したがって、権利保有者である住民に対し、説明責任がなされなければ、立ち退きを

実施することはできなくなるだろう。 しかし、権利アプローチは、これまでの国際開発によっても様々な概念や手法(ベーシッ

ク・ヒューマン・ニーズ、参加型開発、人間の安全保障)をとられていたように、キャッチ

フレーズとして使われるが、本質的な変化を及ぼさないのではないかという疑問もある。

【ヒューライツ大阪 2008:24】 したがって、権利アプローチを中心にカンボジア開発することは、まだ議論が必要だが、

筆者はその可能性を信じ、これからも注目していく。 終章 本論では、筆者が 1 ヶ月間滞在したカンボジアに焦点を当てて、開発における住民の強

制立ち退きを事例に挙げ、権利アプローチの可能性について論じてきた。 第一章で取り上げた権利アプローチは、あまり議論が進んでおらず、不透明な点も多々

あったが、モノ(所得、インフラ)の欠如が貧困という考え方を、自由の欠如が貧困であると

いう考え方に転換することができ、開発の価値観を新しくするものだと考え、カンボジア

開発においてモノの充足よりも自由の充足のほうが必要であると確信する。 また、権利アプローチは、子どもの権利条約やジェンダー開発の議論においても用いら

れており、今後の可能性に期待する。 カンボジアは、内戦からわずか 30 年で、経済成長の安定期に入り、首都プノンペンは目

覚しい発展を遂げてきた。しかし、この背景では強制立ち退きや都市と農村の不均衡など

多くの新しい問題が浮かびあがっており、今までの開発を見直さなければならないと考え

る。とくに強制立ち退きでは、本当に援助を必要としている社会的弱者が犠牲になり、富

裕層との格差拡大の手助けをしているようにも見える。これらの問題には、法整備や行政

が不安定であることが、背景にあることから、トップドナーである日本は、今までのイン

フラ整備のようなハード面主体の開発援助を一度改めて、カンボジアの法整備やガバナン

ス支援のようなソフト面に着目して援助を進めていくべきだろう。 第三章の第二項で述べた「日本融資区間の国道一号線修復計画」は現在も進められてい

ることもあり、今後の進展について注目しなければならないだろう。

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Page 22: 2010年度卒業論文 『権利アプローチによるカンボジア開発の可能性』 · 帰国後、あまりにもカンボジアについて知識が乏しい私は、書籍などで調べてみるとカ

論文を書き終えて、カンボジアの都市部の開発を中心に論じてきたが、多くの文献を通

じて、カンボジアの貧困層の大半が農村部の人々であり、農村開発の重要性も再認識した。

国連の世界食糧計画(WFP)の調査によると、カンボジアはいまだに、食料不足、栄養失調で

苦しんでいる人口の 35%(460 万人)が1日 1 ドル以下で生活する貧困層であり、そのうち

90%が農村部に住んでいる。【インターネット新聞 JanJan 2010.01.15】 したがって、都市化による人口爆発を未然に防ぐには、農村開発にも着目して行わなけ

ればならないだろう。 また、本論では触れることがなかったが、スラムにおいてもエイズなどの保健問題が深

刻であり、総合的に見てカンボジアは発展途上国であり、日本や諸先進国、国際機関によ

って多面的にサポートしていかなければならないだろう。 参考文献 アジア・太平洋人権情報センター(ヒューライツ大阪)(2008) 『アジア・太平洋人権レビュ

ー2008』 現代人文社 天川直子(2001) 『カンボジアの復興・開発』 アジア経済研究所 アムネスティ・レポート(2008) 社会法人アムネスティ・インターナショナル日本 (2008) 『東南アジアを知る辞典 2008』 石井光太(2009) 『絶対貧困』 光文社 石田正美(2005) 『メコン地域開発 残された東アジアのフロンティア』 アジア経済研究

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明石書房 下村恭民(2006) 『アジアのガバナンス』 有斐閣 ジョン・フリードマン(2000) 『市民・政府・NGO~「力の剥奪」からエンパワーメント

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