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子供たちに聞かせてあげたいノーベル賞 2019 1 《子供たちに聞かせてあげたいノーベル賞 20192019 年ノーベル化学賞 リチウムイオン電池の開発 2019 年ノーベル化学賞は「リチウムイオン電池の開発」 に対して米テキサス大学のジョン・グッドイナフ教授、米ニ ューヨーク州立大学のマイケル・スタンリー・ウィッティンガム 卓越教授、旭化成株式会社吉野彰名誉フェローに授 与されます。 リチウムイオン電池は軽量で繰り返し充電可能な強力 なバッテリーで、現在では携帯電話からノートパソコン、電 気自動車に至るまで広い範囲で使用されています。また、 長距離走行が可能な電気自動車の開発や太陽光発 電や風力発電などの自然界のエネルギーによって発電し た大量の電力を貯蔵など、化石燃料を使用しない社会 の実現にも寄与するものです。 リチウムイオン電池開発の背景 リチウムは宇宙の誕生直後、ビッグバンで水素、ヘリウム と共に生み出されたもっとも古い元素です。スウェーデンの 化学者ヨハン・オーガスト・アーフェドソンとヨーンズ・ヤコブ・ ベルセーリウスが 1817 年にストックホルムのウテ鉱山の鉱 物から未知の元素としてリチウムを最初に取り出しました。 発見者のベルセーリウスはこの元素に「石」を表すギリシア 語の「リソ」にちなんでリチウムと名付けました。原子番号 3 番ですが、1 番の水素、2 番のヘリウムはいずれも気 体で、固体の中では最も軽い元素でした(図 1 左)。 リチウムイオン電池の開発 ジョン・グッドイナフ教授 スタンリー・ウィッティンガム卓越教授 吉野彰名誉フェロー

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子供たちに聞かせてあげたいノーベル賞 2019

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《子供たちに聞かせてあげたいノーベル賞 2019》 2019年ノーベル化学賞

リチウムイオン電池の開発

2019 年ノーベル化学賞は「リチウムイオン電池の開発」に対して米テキサス大学のジョン・グッドイナフ教授、米ニューヨーク州立大学のマイケル・スタンリー・ウィッティンガム卓越教授、旭化成株式会社吉野彰名誉フェローに授与されます。 リチウムイオン電池は軽量で繰り返し充電可能な強力なバッテリーで、現在では携帯電話からノートパソコン、電気自動車に至るまで広い範囲で使用されています。また、長距離走行が可能な電気自動車の開発や太陽光発電や風力発電などの自然界のエネルギーによって発電した大量の電力を貯蔵など、化石燃料を使用しない社会の実現にも寄与するものです。

リチウムイオン電池開発の背景 リチウムは宇宙の誕生直後、ビッグバンで水素、ヘリウムと共に生み出されたもっとも古い元素です。スウェーデンの化学者ヨハン・オーガスト・アーフェドソンとヨーンズ・ヤコブ・ベルセーリウスが1817年にストックホルムのウテ鉱山の鉱物から未知の元素としてリチウムを最初に取り出しました。発見者のベルセーリウスはこの元素に「石」を表すギリシア語の「リソ」にちなんでリチウムと名付けました。原子番号は 3番ですが、1番の水素、2番のヘリウムはいずれも気体で、固体の中では最も軽い元素でした(図 1左)。

リチウムイオン電池の開発

ジョン・グッドイナフ教授 スタンリー・ウィッティンガム卓越教授 吉野彰名誉フェロー

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図 1 左︓周期表の中のリチウム、右︓リチウム原子

の電子配置と電子放出によるリチウムイオンの電子配置 リチウムは金属です。 最も外側の電子殻に 1 つの電

子があり(図 1右)、この電子は容易に放出されるため、電池に使用するにふさわしい元素でした。純粋なリチウムは余りに反応性が高いため容易に発火し、酸素を遮断する目的でオイルの中に保存する必要があるほどでした。 20 世紀半ば、世界のガソリン自動車の数が大幅に増加し、大都市ではその排気ガスが大問題となりました。また、石油はそう遠くないうちに採掘しつくして無くなってしまうという説も広がりました。これは、自動車メーカーや石油会社などにとっての警鐘となりました。自動車メーカーや石油会社が生き残るには、電気自動車や化石燃料に代わるエネルギー源の開発に投資する必要が生まれたのです。 電気自動車と代替エネルギー源のいずれも、大量のエ

ネルギーを貯蔵できる強力なバッテリーが必要です。当時すでに、19 世紀半ばに発明された鉛蓄電池と 20 世紀前半に発明されたニッケルカドミウム電池が市販されていましたが、これらでは出力が不足し、全く新たな蓄電池の開発が求められました。 石油会社は石油が枯渇するという脅威により、当時の巨大石油会社エクソン社は先頭を切ってビジネスの多様化を決断しました。基礎研究への大規模な投資を行い、一流の研究者を世界中から集めて自由に研究させ、石油に依存しないエネルギービジネスを模索しました。 第一世代リチウム電池の発明 スタンリー・ウィッティンガム卓越教授は、1972 年にスタンフォード大学からエクソン社に入社し、電気を持ったイオンを吸着する固体材料の研究をしていました。やがてウィッティンガム卓越教授は二硫化タンタルが有望であることを発見し、二硫化タンタルに様々なイオンを添加する研

究を行いました。カリウムイオンを二硫化タンタルに添加したところ、カリウムイオンと二硫化タンタルの間に生じた相互作用は、驚くほどエネルギーが豊富であり、数ボルトもの電圧を示しました。これは当時の多くのバッテリーよりも優れた値でした。ウィッティンガム卓越教授はこの技術で、高出力の二次電池を作製することが可能であることにすぐに気づき、将来の電気自動車のエネルギーを貯蔵できる新しい技術の開発に着手しました。ただし、タンタルは重い元素だったため、小型で軽量な電池を発明するため、より望ましい材料として二硫化チタンを採用しました。 電池では、電子は負極(アノード)から正極(カソー

ド)に流れるので、アノードには電子を容易に放出する材料を使用することが必要です。そこで、カリウムに代えてすべての元素の中で、最もよく電子を放出するリチウムが選択されました。 電極にリチウムを採用した結果、室温で動作する大きな可能性を秘めた充電式リチウム電池が完成しました。ウィッティンガム卓越教授が、ニューヨークのエクソン本社でプレゼンテーションを行ったところ、経営層はわずか 15 分の会議でウィッティンガム卓越教授の発見を利用して、商業的に実行可能なバッテリーを開発することを迅速に決断しました。

図2 金属リチウムを用いた最初期のリチウム電池 これ以前の充電式電池は、電極と電解質が化学反

応を起こし、使用するにつれて電池が劣化し、使用できなくなっていました。ウィッティンガム卓越教授のリチウム電池の利点は、電圧が高いだけでなく、バッテリーを使用しても、リチウムイオンが電極間を移動するだけで化学反応

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は起こさないため、電極の劣化がない点も優れていました。 ところが残念なことに、リチウム電池の商業生産を開始する段階になって大きな問題が発生しました。それは、このリチウムイオン電池を繰り返し使っているうちに、針状結晶が金属リチウムから成長し、それがもう片方の電極に達するとバッテリーがショートして爆発につながる可能性があることが分かったのです。リチウム電池の火災は水では消化できないため、大問題となりました(図 3)。

図 3 針状結晶によるショート この問題は、金属リチウム電極にアルミニウムを添加し、

さらに電極間を満たす電解質も変更することによって解決されました。ウィッティンガム卓越教授は1976年にその改良型リチウム電池を発表し、太陽電池式時計で使用したいスイスの時計メーカー向けにバッテリーの小規模生産が行われました。 時計用途の次の目標は、充電式リチウム電池を大型

化して電気自動車で使えるようにすることでした。ところが、高騰を続けていた石油価格は 1980 年代初頭に劇的に下がり、逆にエクソン社はコスト削減を行う必要からリチウム電池の開発を中止してしまいました。リチウム電池の技術は、世界の 3 社にライセンス供与されました。そのうちの一社に授賞者グッドイナフ教授がいたのです。 第二世代リチウム電池の発明 グッドイナフ教授はマサチューセッツ工科大学のリンカー

ン研究所で長年働いていました。そこでは、コンピューターの記憶回路であるランダムアクセスメモリ(RAM)の開発に取り組んでいました。グッドイナフ教授も 1970 年代

当時、ウィッティンガム卓越教授同様に、石油危機の影響を受け、代替エネルギー源の開発に貢献したいと考えていました。 しかし、リンカーン研究所は米国空軍によって資金提供されており、研究テーマを自由に選ぶことができない環境だったため、英国のオックスフォード大学に無機化学の教授として着任するチャンスをつかんでエネルギー研究の世界に飛び込みました。 グッドイナフ教授はウィッティンガム卓越教授の革新的

なバッテリーについて知っていました。無機物質の内部構造に関する高い専門知識を得ていたことにより、これまでの金属硫化物に代えて金属酸化物を使用してバッテリーを組み上げれば、電極の性能が高くなる可能性に気づきました。 グッドイナフ教授は、カソードにリチウムコバルト酸化物を採用し、ウィッティンガム卓越教授のバッテリーの 2倍の 4ボルトの電圧を得ることに成功しました(図 4)。この新電極材料は、軽量でありながら強力で大容量のバッテリーを実現し、ワイヤレス革命に向けた決定的な一歩となりました。

図 4 カソードに酸化コバルトを使用した改良型リチウム電池 リチウムイオン電池の発明 石油危機が通り過ぎ、石油が安くなると、欧米の企業

の代替エネルギー技術への投資と電気自動車の開発への関心は薄れてしまいました。しかし、日本では状況は異なっていました。当時の日本はエレクトロニクス産業において世界の最先端を走っており、関連企業は、ビデオカメラ、

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コードレス電話、コンピューターなどの革新的な電子機器に電力を供給できる軽量で充電可能なバッテリーを切望していました。 このようなニーズを感じた人の 1 人が今回のノーベル化学賞 3人目の受賞者である旭化成株式会社の吉野彰名誉フェローでした。 吉野名誉フェローは、機能性の充電式電池を開発す

ることを決断したとき、カソードとしてグッドイナフ教授のリチウムコバルト酸化物を使用しましたが、アノードの金属リチウムには改善の余地があると考えました。過去の研究で、リチウムイオンがグラファイトの分子層に入り込む実験結果を得ていましたので、炭素材料は電極にふさわしいのではないかと考え、さまざまな試行錯誤の末に、石油産業の副産物である石油コークスにたどり着きました。試みに石油コークスにリチウムイオンを添加すると、リチウムイオンが電極材料に大量に吸着されました。この材料を使用してバッテリーを組み立てたところ、見事電流が流れ高性能なバッテリーとして機能しました。 このバッテリーは、安定しており、軽量で、高容量で、4

ボルトの電圧を生みました。また、電極で化学反応が起きないというリチウム電池の性質も維持され、バッテリーの寿命が長く、何百回も充電できるものと思われました。 何より最大の優れた点は、バッテリーに反応性の高い

金属リチウムが使用されていないことです。吉野名誉フェローはバッテリーの安全性をテストを行い、リチウムイオン電池に大きな鉄片を落下させましたが、事故は起きず、一方で、金属リチウムを使ったリチウム電池で同じ実験を行ったところ、激しい爆発が起きました.

図 5 アノードに石油コークスを使用したリチウムイオン電池

1991 年、ソニーが世界で最初に市販リチウムイオン電池を搭載した 8mmビデオカメラを発売したことをきっかけに技術革新が広がりました。携帯電話は小さくなり、コンピューターはノート型になり、MP3 プレーヤーやタブレット端末が開発されました。 その後、世界中の研究者がリチウムよりも性能の良い

電池を作ることができる物質を探し続けていますが、いまだにリチウムイオンバッテリーの高容量と高電圧、そして高い安全性に勝るものは発明されていません。 他のほとんどすべての省エネルギー製品同様に、リチウムイオン電池も生産するには環境に影響を与えますが、大きな環境上の利点もあります。このバッテリーにより、クリーンエネルギーの蓄電技術と長距離走行が可能な電気自動車の開発が可能になり、温室効果ガスと PM2.5 などの微粒子の排出削減に貢献しています。 受賞者経歴 ジョン・グッドイナフ教授 1922年ドイツ・イェーナ出身。米国の固体物理学者。テキサス大学オースティン校教授。イェール大学の宗教学者アーウィン・グッドイナフを父に持ち、ヴァイマル共和政時代のドイツから移住して米国コネチカット州ニューヘイブン近郊で育つ。ニューヘイブンのイェール大学で数学を専攻し、1944年に卒業。第二次世界大戦後に軍隊に召集され、除隊後、シカゴ大学大学院に進学。1952年に物理学の博士号を取得。 マイケル・スタンリー・ウィッティンガム卓越教授 1941 年英国出身。米国の材料化学者。1968 年に英国オックスフォード大学で博士号を取得した後渡米、博士研究員を米国カリフォルニア州・スタンフォード大学で経た後、1972 年にエクソンリサーチ&エンジニアリング社に入社。1984 年に世界最大の油田探査会社シュルンベルジェ社に転職後、1988年にニューヨーク州立大学ビンガムトン校/ビンガムトン大学教授に就任して現在に至る。2012年からニューヨーク州立大学卓越教授。

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吉野彰名誉フェロー 1948 年大阪府出身。電気化学を専門とする日本のエンジニア。大阪大学で博士号取得後、現旭化成株式会社名誉フェロー。名城大学大学院理工学研究科・教授、九州大学エネルギー基盤技術国際教育研究センター客員教授などを歴任。