6
3.6 伝統的接合菌門 53 3.6 伝統的接合菌門 接合菌門に含まれる種の菌糸体は一般的に多核で,ほとん ど,もしくはまったく隔壁をもたない,いわば多核管状体であ り,栄養胞子囊(有糸分裂によって胞子を形成する胞子囊)内 に無性胞子を形成する.しかし,接合菌門[Zygomycota,あ るいは俗に接合菌類(zygomycetes)]に固有の特徴は,接合 胞子囊内に有性胞子を形成することである. 接合菌という名称は,これらの有性生殖法に由来している. Zygos はギリシャ語で「融合」もしくは「くびき」(一対のウ シやウマの首につけて,牽引する積荷につなぐ木具)を意味す る.接合菌門に属する菌の有性生殖は,2 本の菌糸枝(配偶子 ,gametangium,複数は -ia)が融合もしくは結合によって 接合子を生じ,これが接合胞子囊(zygosporangium)となり 胞子を作ることによって行われる. ホモタリックな(homothallic)種類では,同一株の菌糸か ら複数の配偶子囊を生じて,これらの間で接合することが可能 である.一方,ヘテロタリックな(heterothallic)種類では, 性的に和合性のある別株に形成された配偶子囊の間で接合す る.接合胞子囊は通常厚壁であり,休眠胞子としての機能も有 している.また接合胞子囊は,実験室内において発芽が困難な ことが広く知られている.接合胞子(zygospore)の細胞壁に は,スポロポレニン(sporopollenin)が含まれている.スポ ロポレニンは花粉のエキシン(exine,外壁)にも含まれ,高 度に架橋重合したポリマーの複合体である.スポロポレニンや メラニン(melanin)が細胞壁に含まれることが,接合胞子が 長命であることの一因である.これらの菌は,長命で耐久性の ある胞子の形で生育に不適な環境中を耐えぬき,時間軸での生 息拡大を可能にしている.一方で,非休眠性の胞子によって分 布を拡大,これらは空間軸での生息拡大を担っている. 接合菌門に属する菌は生態的に非常に多様であり,非常に広 くまた普通に分布するが,見落とされてしまうことも多い.さ まざまな接合菌を図 3.8 に示す. 接合菌は明らかに原始的な菌群であり,菌界において早い時 期に分岐した系統群の 1 つである.原始的な特徴として,「生 活環のすべて,もしくは一部において多核の菌糸をもつ」,「ま とまった組織もしくは複雑な子実体を形成しない」という 2 点があげられる.接合菌は原始的ではあるものの,生息拡大に 成功するとともに,われわれの生活とも密接な関係をもった菌 群でもある.アメビディウム目(Amoebidiales)やエクリナ目 (Eccrinales)などは,伝統的な分類体系においては接合菌にお かれていたが,現在ではむしろ粘菌類に近いことが明らかに なってい 訳注6 る.これらはいわゆる原生生物の一群であり,動物や 菌類がオピストコンタ(後方鞭毛生物,Opisthokonta)の系統 におかれた際に,真菌類から切り離された.さらに,伝統的な 「接合菌門」 (traditional ‘Phylum Zygomycota’) は 多系統群 (polyphyletic)であり,自然分類群たる門として留めることが できない,という問題がある.Hibbett et al. ( 2007)による分 類では,以下の亜門の分類学的位置を未確定としながら,これ らに対して接合菌門の名前を使用している. ケカビ亜門(Mucoromycotina):ケカビ目(Mucorales), アツギケカビ目(Endogonales)およびクサレケカビ目 (Mortierellales)を含む. ハエカビ亜門(Entomophthoromycotina):ハエカビ目(En- tomophthorales)を含む. トリモチカビ亜門(Zoopagomycotina):トリモチカビ目 (Zoopagales)を含む. キクセラ亜門(Kickxellomycotina):キクセラ目(Kickxella- les),ディマルガリス目(Dimargaritales),ハルペラ目 (Harpellales),アセラリア目(Asellariales)を含む. 将来,菌界に含まれる各群の系統関係が明らかになる際に は,「接合菌門」という名前は,おそらく伝統的接合菌類の中 でコアなグループであるケカビ亜門を含む形で,再度有効な形 で用いられるものと考えられる. 接合菌の多くは土壌や糞中で腐生生活を送っている(ケカビ 目,クサレケカビ目,キクセラ目など).その一部(ケカビ目 など)は,培養すると成長速度が非常に速く,カビの生えたパ ンや果物上などに普通に見られる.トリモチカビ目やハエカビ 目は,節足動物,ワムシ類,そしてときにアメーバなどの小型 動物に対する寄生生物として生活している.ディマルガリス目 は絶対菌寄生菌であり,またトリモチカビ目やケカビ目にも, 他の菌類(きのこ類や他の接合菌類など)に寄生する種が含ま れている. ハルペラ目およびアセラリア目(これらは従来トリコミケス 綱とよばれてきた)は,節足動物の腸壁への付着生活に特化し 訳注 6:実際には粘菌類と近縁ではなく,後生動物や襟鞭毛虫を含むホロゾアに含まれると考えられている.

3.6 伝統的接合菌門«無性胞子を形成する.しかし,接合菌門[Zygomycota,あ るいは俗に接合菌類(zygomycetes)]に固有の特徴は,接合 胞子囊内に有性胞子を形成することである.

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Page 1: 3.6 伝統的接合菌門«無性胞子を形成する.しかし,接合菌門[Zygomycota,あ るいは俗に接合菌類(zygomycetes)]に固有の特徴は,接合 胞子囊内に有性胞子を形成することである.

3.6 伝統的接合菌門 53

3.6 伝統的接合菌門

接合菌門に含まれる種の菌糸体は一般的に多核で,ほとんど,もしくはまったく隔壁をもたない,いわば多核管状体であり,栄養胞子囊(有糸分裂によって胞子を形成する胞子囊)内に無性胞子を形成する.しかし,接合菌門[Zygomycota,あるいは俗に接合菌類(zygomycetes)]に固有の特徴は,接合胞子囊内に有性胞子を形成することである.

接合菌という名称は,これらの有性生殖法に由来している.Zygos はギリシャ語で「融合」もしくは「くびき」(一対のウシやウマの首につけて,牽引する積荷につなぐ木具)を意味する.接合菌門に属する菌の有性生殖は,2 本の菌糸枝(配偶子囊,gametangium,複数は -ia)が融合もしくは結合によって接合子を生じ,これが接合胞子囊(zygosporangium)となり胞子を作ることによって行われる.

ホモタリックな(homothallic)種類では,同一株の菌糸から複数の配偶子囊を生じて,これらの間で接合することが可能である.一方,ヘテロタリックな(heterothallic)種類では,性的に和合性のある別株に形成された配偶子囊の間で接合する.接合胞子囊は通常厚壁であり,休眠胞子としての機能も有している.また接合胞子囊は,実験室内において発芽が困難なことが広く知られている.接合胞子(zygospore)の細胞壁には,スポロポレニン(sporopollenin)が含まれている.スポロポレニンは花粉のエキシン(exine, 外壁)にも含まれ,高度に架橋重合したポリマーの複合体である.スポロポレニンやメラニン(melanin)が細胞壁に含まれることが,接合胞子が長命であることの一因である.これらの菌は,長命で耐久性のある胞子の形で生育に不適な環境中を耐えぬき,時間軸での生息拡大を可能にしている.一方で,非休眠性の胞子によって分布を拡大,これらは空間軸での生息拡大を担っている.

接合菌門に属する菌は生態的に非常に多様であり,非常に広くまた普通に分布するが,見落とされてしまうことも多い.さまざまな接合菌を図 3.8 に示す.

接合菌は明らかに原始的な菌群であり,菌界において早い時期に分岐した系統群の 1 つである.原始的な特徴として,「生活環のすべて,もしくは一部において多核の菌糸をもつ」,「まとまった組織もしくは複雑な子実体を形成しない」という 2点があげられる.接合菌は原始的ではあるものの,生息拡大に

成功するとともに,われわれの生活とも密接な関係をもった菌群でもある.アメビディウム目(Amoebidiales)やエクリナ目

(Eccrinales)などは,伝統的な分類体系においては接合菌におかれていたが,現在ではむしろ粘菌類に近いことが明らかになってい

訳注6る.これらはいわゆる原生生物の一群であり,動物や

菌類がオピストコンタ(後方鞭毛生物,Opisthokonta)の系統におかれた際に,真菌類から切り離された.さらに,伝統的な

「 接 合 菌 門 」(traditional ‘Phylum Zygomycota’) は 多 系 統 群(polyphyletic)であり,自然分類群たる門として留めることができない,という問題がある.Hibbett et al. (2007)による分類では,以下の亜門の分類学的位置を未確定としながら,これらに対して接合菌門の名前を使用している.

● ケカビ亜門(Mucoromycotina):ケカビ目(Mucorales),アツギケカビ目(Endogonales)およびクサレケカビ目

(Mortierellales)を含む.● ハエカビ亜門(Entomophthoromycotina):ハエカビ目(En-

tomophthorales)を含む.● トリモチカビ亜門(Zoopagomycotina):トリモチカビ目(Zoopagales)を含む.

● キクセラ亜門(Kickxellomycotina):キクセラ目(Kickxella-les),ディマルガリス目(Dimargaritales),ハルペラ目

(Harpellales),アセラリア目(Asellariales)を含む.

将来,菌界に含まれる各群の系統関係が明らかになる際には,「接合菌門」という名前は,おそらく伝統的接合菌類の中でコアなグループであるケカビ亜門を含む形で,再度有効な形で用いられるものと考えられる.

接合菌の多くは土壌や糞中で腐生生活を送っている(ケカビ目,クサレケカビ目,キクセラ目など).その一部(ケカビ目など)は,培養すると成長速度が非常に速く,カビの生えたパンや果物上などに普通に見られる.トリモチカビ目やハエカビ目は,節足動物,ワムシ類,そしてときにアメーバなどの小型動物に対する寄生生物として生活している.ディマルガリス目は絶対菌寄生菌であり,またトリモチカビ目やケカビ目にも,他の菌類(きのこ類や他の接合菌類など)に寄生する種が含まれている.

ハルペラ目およびアセラリア目(これらは従来トリコミケス綱とよばれてきた)は,節足動物の腸壁への付着生活に特化し

訳注 6:実際には粘菌類と近縁ではなく,後生動物や襟鞭毛虫を含むホロゾアに含まれると考えられている.

Page 2: 3.6 伝統的接合菌門«無性胞子を形成する.しかし,接合菌門[Zygomycota,あ るいは俗に接合菌類(zygomycetes)]に固有の特徴は,接合 胞子囊内に有性胞子を形成することである.

54 第 3 章 菌類の自然分類

た絶対内部共生生物(endosymbiont)である.われわれの身近に見られるほとんどの節足動物の腸内にはこれらが生息しており,普通に見られる菌群である.アツギケカビ目は植物根と外生菌根を形成(グロムス菌門は内生菌根を形成することに注意),あるいは腐生生活を送る(図 3.9).

伝統的接合菌門の無性胞子は単細胞であり,栄養胞子である胞子囊胞子(胞子囊内で形成され,上述の Blastocladiella(図3.6)と同様に,胞子囊細胞質の内部分裂によって形成される)と,真性の分生子[conidium,胞子形成に特化した菌糸である分生子柄(conidiophore)上に形成される]の 2 タイプがあ

る.胞子囊胞子は胞子囊壁の破裂後,風や動物によって散布される.分生子はハエカビ目の菌において形成され,成熟後強制的に射出される.

主要属の 1 つにケカビ(Mucor)属がある.ケカビ属は典型的な糸状のカビであり,土壌や腐った果物,野菜などに生息する腐生菌である.自然界においては,広く多様な環境に生育している.ケカビ属には,ヒト,カエル類や他の両生類,ウシ,ブタなどの病気(接合菌症,zygomycosis)を起こす種も含まれている.通常の菌株は 37℃以上では成長できないが,ヒトに寄生する株は通常耐熱性である.主要種に,M. hiemalis,M.

図 3.8  接合菌類の走査型電子顕微鏡図.有性および無性世代生殖構造の多様な形状を示す.A ~ E,ケカビ目.A,Cokeromyces recurvatus の接合胞子.B,Cunninghamella homothallicus の接合胞子.C,Radiomyces spectabilis の接合胞子.D,Absidia spinosa の接合胞子.E,Hesseltinel︲la vesiculosa の胞子囊.F ~ G,クサレケカビ目.F,Mortierella (Gamsiella) multidivaricata の厚壁胞子.G,クモの巣状菌糸体上に形成された Lobosporangium transversalis の胞子囊.H ~ J,トリモチカビ目.H,Piptocephalis cormbifera の未熟な胞子囊.I,Syncephalis cornu の胞子柄,成熟に伴い消失した胞子囊内に一列に並んだ状態で残る胞子囊胞子.J,Rhopalomyces elegans の成熟した頂囊,一胞子性の胞子囊をもつ.K,Basidiobolus ranarum の一胞子性胞子囊.L,ディマルガリス目.Dispira cornuta の二胞子性胞子囊.M ~ O,キクセラ目.M,Spiromyces minutus の一胞子性胞子囊.N,Linderina pennispora の一胞子性胞子囊.O,Kickxella alabastrina の一胞子性胞子囊.スケールバーは A ~ F,I ~ O = 10 µm,G,H = 20 µm.(写真は Ilinois 州 Peoria 米国農務省農業研究事業団 Kerry O’Donnell 博士.図版は White et al., 2006 を改変.画像ファイル提供,米国 Idaho 州 Boise 州立大学 Merlin White 博士.Mycologia の許可を得て複製.© 米国菌学会)

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3.6 伝統的接合菌門 55

amphibiorum,M. circinelloides や M. racemosus がある.クモノスカビ(Rhizopus)属は成長が非常に速く,菌糸表面

が粗面である.コロニーは匍匐菌糸(基物上を這う気中菌糸)によって広がり,匍匐菌糸が基質に接したところで,着色した仮根状菌糸を形成する.仮根状菌糸のノード上から 1 本,もしくは複数の胞子囊柄を生じる.クモノスカビは腐敗した果実や土壌,ハウスダストなどに普通に見られる.これらは成長が速く,胞子は乾性で容易に空気を飛びやすいことから,短期間で培地上に広がり,微生物研究室ではしばしばやっかいなコンタミナントとなることがある.

Rhizopus oligosporus はアジアにおいて,ダイズからテンペ

(tempeh)を作るのに用いられている.しかし,この菌は有毒なアルカロイドの 1 種アグロクラビン(agroclavine)を産生することでも知られている.Rhizopus oryzae (= R. arrhizus)は接合菌症の原因菌として最も顕著であり,接合菌症の約60%は本菌によるものである.接合菌症は,免疫不全患者に

日和見感染(opportunistic infection)するもので,その症状は深刻でときに致死的である.日和見感染とは,生育旺盛な腐生的生物が,衰弱した宿主に対して優位に立ち,病原体となる現象である.

Rhizopus rot は収穫後や過熟した核果類(ネクタリン,サクランボ,スモモなど)の軟腐朽であり,R. n

訳注7igricans や R. sto︲

訳注 7:Rhizopus nigricans は一般に,R. stolonifer の異名として扱われている.

図 3.9  トリコミケス類の無性および有性生殖器官の生体位相差顕微鏡図.A ~ I,水棲昆虫の幼虫から検出されたハルペラ目菌.A,Orphella cata︲launica,先端に円筒形の無性胞子を形成.B ~ C,Harpellomyces eccentricus.B,生殖細胞内に付属糸を備えたトリコスポアが見られる.C,接合細胞から生じた接合胞子.D,Smittium culisetae.分枝上に形成されたトリコスポア.E ~ F,Capniomyces stellatus.E,双円錐形の接合胞子と未熟なトリコスポア.F,遊離したトリコスポア,多数の付属糸をもつ.G,Furculomyces boomerangus.遊離したブーメラン形の接合胞子,短い襟状部をもつ.H ~ I,Genistelloides hibernus.H,(接合菌における支持柄と類似した)膨潤した接合子柄に形成された二重円錐形の接合子.I,遊離したトリコスポア,2 本の付属糸をもつ.J,アセラリア目,海生節足動物から検出された Asellaria ligiae.菌体は付着細胞によって後腸表皮に付着し,小型で円筒形の分節胞子を離脱させる.スケールバー:A ~ I = 20 µm;J = 100 µm.(White et al., 2006 を改変.画像ファイル提供,米国 Idaho 州 Boise 州立大学 Merlin White 博士.Mycologia の許可を得て複製.© 米国菌学会)

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56 第 3 章 菌類の自然分類

lonifer など数種の本属菌が原因となる.ヒゲカビ属の 1 種 Phycomyces blakesleeanus もケカビ目に属

する糸状菌である.本種は,長年にわたりさまざまな基礎研究のモデル生物として用いられて来たことで知られている.ヒゲカビ(Phycomyces)属は多数の長い胞子囊柄を形成するが,この胞子囊柄は光に対して非常に感受性が高い.ヒゲカビの屈光性に関しては非常に多数の研究が行われているが,さらに重力屈性など他の環境要因に対する感受性についても研究されている.胞子発芽,カロテン生合成,性分化についてはいずれも詳細な研究が行われ,また遺伝子解析が行われている.菌糸には隔壁がなく,このため単細胞の P. blakesleeanus の胞子囊柄は,直径 100 µm(0.1 mm)あり,高さは 60 cm もしくはそれ以上にも成長するということは特筆すべきであろう.実に注目すべき菌である.

Basidiobolus 属は通常ハエカビ目に含められるが(分子系統学的研究には Basidiobolus をツボカビ門においたものもある),AFTOL の研究成果によると,Basidiobolus に含まれる種はツボカビ類の主要グループやハエカビ目とは別の,新規グループに含まれることが明らかになった(White et al., 2006).Ba︲sidiobolus は両生類,は虫類や食虫性コウモリの糞,さらにワラジムシ,植物遺骸や土壌などから分離される.汎分布性であるが,Basidiobolus のヒトへの感染例のほとんどは,アフリカ,南米および熱帯アジアから報告されている.ヒトへの病原性が知られる株は,Basidiobolus ranarum に属している.しかし,本属について最も特筆すべきことは,その菌糸細胞と核の大きさであろう.本種の菌糸細胞の長さは数百 µm(先端の細胞は長さ 300 から 400 µm),また核は長さ 25 µm(ちなみに,酵母の細胞は長径 5 µm 程度しかない)に及ぶ.この菌の核の有糸分裂は,通常の光学顕微鏡でも観察可能であることから,有糸分裂阻害剤の働きを研究する材料として用いられている.このことは,非常に特異な特徴をもつ菌類を用いることで,特定の生物学上の課題を研究できるという好例といえよう.われわれの回りには,このような研究材料となりうる特異な菌類が,多数存在するのである.

加えて Basidiobolus は,菌糸から爆発的に射出される特異な分生子を形成するが,それは「ロケット方式」として知られている.分生子は分生子柄の上部に付着したまま飛ばされるので,無傷のままでいられる.Basidiobolus は細胞周期,有糸分裂,爆発的胞子射出の研究材料として理想的である.

クスダマケカビ(Cunninghamella)属も土壌や植物由来物質上に見られ,特に地中海地域や亜熱帯地域では顕著である.

さらに,動物由来物質,チーズ,ブラジルナッツから分離されたこともある.Cunninghamella bertholletiae,C. elegans および C. echinulata は本属中最も普通に見られる種である.Cun︲ninghamella bertholletiae は本属中唯一,人間や動物の病原菌となりうる種であり,免疫不全状態の宿主に日和見感染を起こすことがある.

クサレケカビ(Mortierella)属は土壌菌として普通に見られ,70 種以上が含まれている.しかし,M. wolfii がおそらく本属では唯一の(やはり日和見感染を起こす)人間および動物の病原菌である.

Entomo + phthora は,ギリシャ語で「昆虫破壊者」を意味する.ハエカビ(Entomophthora)属には,ハエなどの 2 枚の翅をもつ(つまり双翅目の)多くの昆虫に寄生して殺す菌が含まれる.本属の 1 種 Entomophthora muscae はイエバエを殺す菌である.この菌は昆虫の体内で生育し,菌糸はハエの脳のうち,行動を司る領域を侵す.このため,寄生されたハエは近くの物につかまり,可能な限り高くまで這い上がっていく.最終的に菌糸がハエの体全体を侵し,ハエを殺してしまう.菌糸体はハエの体内で急増し,腹節を押し開き,突き破ってハエの体表面に縞模様の菌糸塊を現す.この縞模様は,胞子を形成射出する細胞が密な柱状になった帯状のもので,最終的にはハエの死体をぐるりと取り巻く白い輪状になる.そして,次に犠牲となるハエに感染する機会を窺っているのである.

3.7 子囊菌門

子囊菌門[俗に子囊菌類(ascomycetes)]は菌界で最大のグループであり,これまでにおよそ 64,000 種が知られている.姉妹群である担子菌門と同じく,子囊菌門に含まれる種のほとんどは糸状菌(filamentous fungus)であり,菌糸体は常に隔壁のある(regularly septate)菌糸から構成されている.有性胞子である子囊胞子(ascospore)が子囊(ascus,複数は-ci,ギリシャ語で袋を意味する askos に由来する)という囊状の細胞内に形成されることが,本門に含まれる菌の特徴である.

子囊菌門には多くの重要種が含まれている.特筆すべき名前としては,植物病原菌であるフザリウム(Fusarium),イネいもち病菌(Magnaporthe)やクリ胴枯病菌(Cryphonectria),ヒトに病気を起こす医学的に重要なカンジダ(Candida)やニューモシスチス(Pneumocystis),世界で始めて発見された抗生物質であるペニシリンを産生するアオカビ属の 1 種 Peni︲

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3.7 子囊菌門 57

cillium chrysogenum,今日数百万人に及ぶ患者のコレステロール値管理に有用な,「奇跡的」医薬品の前駆物質を産生することが始めて解明されたアオカビ属の Penicillium citrinum やコウジカビ属の 1 種 Aspergillus terreus(10.13 節参照)などがある.

地衣化した菌類(lichenised fungus)のほとんどは子囊菌門に属する.また,パンの製造やビールの醸造に用いる出芽酵母

(パン酵母,Saccharomyces cerevisiae)も子囊菌門のメンバーである.後(5.2 節)に詳しく述べるが,出芽酵母は 1 世紀以上にわたり,広く科学研究のモデル生物として用いられ,真核生物細胞の中では最良のモデル生物と見なされている.

子囊菌門には,他の食物生産に利用される種も含まれている. ア オ カ ビ 属 の Penicillium camembertii や P. roquefortii はチーズの風味を高め,フザリウム属の Fusarium venenatum はベジタリアン用の代替肉である クォーン(QuornTM)に用いられ る 菌 類 プ ロ テ イ ン を 生 産 す る. さ ら に, ア ミ ガ サ タ ケ

(Morchella esculenta)やトリュフ類,北イタリアの白トリュフ(Tuber magnatum)やフランスペリゴール地方の黒トリュフ(T. melanosporum)は非常に著名な食用菌である(第 11章参照).子囊菌門に属するカビ(特にコウジカビ属)には,食物を劣化させ,あるいはアフラトキシン(aflatoxins)のように非常に毒性の高い代謝産物を産生するものがある(13.4節参照).

有性世代がまだ知られていない菌類の多くも,子囊菌門に含まれている.おもに形態的特徴に基づいた伝統的分類体系においては,こうした無性的菌類は別のグループに含められ,不完全菌綱,不完全菌亜門,もしくは不完全菌門などに分類されていた.こうした呼称の違いは,分類学者がこのランクを綱,亜門,門のいずれに見なすかによって異なる.現在では分子系統学的手法を用いて,核酸の塩基配列を比較することにより,不完全菌に属していた種を有性世代の知られた近縁種群の中に分類することが可能となり,不完全菌として分け隔てる必要がなくなった.

近年,AFTOL による子囊菌門の総説では,子囊菌門は以下の 3 つの大きな進化系統群に分類,亜門として位置づけられている(Blackwell et al., 2006).

● タフリナ亜門(Taphrinomycotina;俗に古子囊菌類としても知られる)

● サッカロミケス亜門(Saccharomycotina;俗に半子囊菌類としても知られる)

● チャワンタケ亜門(Pezizomycotina;俗に真正子囊菌類としても知られる)

タフリナ亜門に含まれる菌は,子実体[fruit bodies;子囊菌門については,子囊果(ascoma,複数は -mata)とよばれる]を形成しな

訳注8い.本亜門には,植物病原性の糸状菌タフリナ

(Taphrina)属など,多様な種類が含まれている.Taphrina de︲formans はモモ縮葉病の,T. betulina はカンバてんぐ巣病の病原菌である.本属菌は他にもナラ類,ポプラ類,カエデ類などさまざまな植物に寄生する.タフリナ属菌は,通常植物組織に感染するまでは酵母の形態を示し,植物組織に感染後,典型的な糸状の菌糸を形成する.最終的にタフリナ属菌は宿主の葉を変形させ,またときに鮮やかな色に変色させる.子囊の層はこうした葉の表面に直接形成される(図 3.10).

分裂酵母の 1 種 Schizosaccharomyces pombe もタフリナ亜目に含まれる.この種類は,東アフリカの雑穀発酵酒(pombeはスワヒリ語で発酵酒を意味する)から 1893 年に分離されたもので,分子生物学や細胞生物学のモデル生物として,50 年以上に渡って用いられている.これらの酵母細胞は,頂端の伸張により成長し,中間部に新たに隔壁が形成されて分裂,同じ大きさの娘細胞が 2 つ形成される.この過程が規則的であることに加え,培養が容易であることから,酵母は細胞周期研究の材料として非常に有用である.

分裂酵母研究者のポール・ナース(Paul Nurse)は 2001年,細胞周期調節におけるサイクリン依存性キナーゼ(cyclin-dependent kinase)に関する研究で,ノーベル医学生理学賞を受賞した.この受賞に際しては,出芽酵母である Saccharomy︲ces cerevisiae の細胞周期に関する遺伝的解析を行い,また細胞周期チェックポイント概念を導入したリー・ハートウェル

(Lee Hartwell),およびウニからサイクリンを発見したティム・ハント(Tim Hunt)の 2 人が共同受賞者となっている

(5.2 節参照).さらに不可解なことに,人間の病原菌であるニューモシスチ

ス(Pneumocystis)属や,各地に広く分布するヒメカンムリタケ(Neolecta)属の 2 属もタフリナ亜門のメンバーである.ニューモシスチスは長く原生動物と考えられていたが,現在では完全に酵母状菌類の 1 群として認められている.ニューモ

訳注 8:後述の通り,ヒメカンムリタケ(Neolecta)属は例外的に子囊果を形成する.

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58 第 3 章 菌類の自然分類

シスチス肺炎は,Pneumocystis carinii(現在では,チェコの病理学者 Otto Jirovec に献名された P. jirovecii が用いられている)によって引き起こされる.ニューモシスチス肺炎は免疫不全患者に最も多く見られる症状である.これはエイズや免疫不全,

ステロイド投与,臓器移植治療,ガンなどの免疫障害により,患者がニューモシスチスに感染しやすくなるためである.

ヒメカンムリタケ属はアジア,南北アメリカおよびヨーロッパ北部に分布しており,樹木下に発生する.子実体はこん棒形

図 3.10 タフリナ亜門の肉眼および顕微鏡写真.その代表種の多様な形状を示す.A,Taphrina wiesneri によるソメイヨシノてんぐ巣病の病徴.B,ソメイヨシノの葉組織上に形成された Taphrina wiesneri の成熟子囊.子囊胞子が発芽している(出芽型分生子形成).C,ジャガイモグルコース寒天培地上での菌叢.D,Taphrina deformans によるモモ縮葉病の病徴.E,ナラ縮葉病の病原菌 Taphrina caerulescens の子実層.F,Pro︲tomyces inouyei によるオニタビラコ浮腫病.G,水中における Protomyces inouyei 厚壁休眠胞子の発芽.H,ジャガイモグルコース寒天培地上での Rhodosporidium toruloides(アナモルフ:Rhodotorula glutinis)(上),Saitoella complicata(右)および Taphrina wiesneri(左)の菌叢.I,Saitoella complicata の透過型電子顕微鏡写真.担子菌酵母によく見られる内生出芽型発芽を示す.J,Saitoella complicata の透過型電子顕微鏡写真.細胞壁は子囊菌型で,薄い暗色層と厚い明色の内層から形成される.K,Schizosaccharomyces pombe.分裂の様子および 4 胞子を含む子囊.L,Pneumocystis jirovecii.被囊内体(内生胞子)をもつ成熟した被囊.M,ヒメカンムリタケ.子実体は鮮黄色で高さ数 cmになる.スケールバー:B,E,G = 20 µm;I = 0.5 µm;J = 0.1 µm;K = 5 µm;L = 1 µm(Sugiyama et al., 2006 を改変.画像ファイル提供,東京都テクノスルガ株式会社杉山純多教授.Mycologia の許可を得て複製.© 米国菌学会).カラー版は,口絵 9 頁参照.