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1囃 :罐 ■■ ■■■■ 1■ 1111■ 轟鷲 1毒 ‡罐鰺 ||■ ■■ |1筆 = 西 :磯 筆罐菫隆赳 -34-

‡罐鰺 筆罐菫隆赳 - Livedoorimage01.wiki.livedoor.jp/i/i/iidamati/9f83c06041879f2a.pdf · 2017. 9. 30. · 海 に よ く 似 合 う 塩 浜 が あ る 。 そ の 塩

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1囃:罐骰■■■■■■1■1111■轟鷲

1毒‡罐鰺||■ ■■|1筆

=

今、珠洲外浦の海岸を巡ると、清水町から大谷町

にかけて、県指定角花家

・塩田村

・珠洲製塩

・のと

珠洲塩などの塩田風景を見ることが出来る。天然塩

・にがリブームに乗

って生産が追いつかない程の盛

況を呈しているという。能登の塩が復活され、さら

に飛躍を迎えていく、そんなことが予想される景観

であると共に、何よりも、海によく似合う塩浜があ

る。その塩浜が生き、そこに働く人がいる。それは、

西

■郷

一史

命のかがやきが溢れる懐かしい風景である。

藩政期の塩作り

かつて奥能登

一帯は塩浜に満ちていた。そこでの

生産量は、最盛期の天保三年

(一人三二)を例に取

ると、五斗入俵で三十

一万俵余もの塩が作られてい

たのである。その頃は、藩の専売制が敷かれていた。

この制度は、塩業者に

一定の食糧米を確保せしめて :磯筆罐菫隆赳

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製塩に従事させ、藩はその産塩を

一手に掌握するも

ので、仕入米、塩手米が支給されていた。塩と米の

精算比率は、米

一石に対し、塩九俵ないし十

一、二

俵がおおよその目安であ

った。塩の生産のうち八七

禰が奥郡、その内の八〇ぢが旧珠洲郡で生産されて

いたのである。

ところが、明治新政府の元で、能登の塩田は壊減

的な打撃を受ける。

明治五年

(一八七

一)塩手米制度の廃上により、

生活のかなりの部分を塩生産に頼

っていた奥郡、特

に珠洲郡では、

「妻子離散するものおびただし」

翁珠洲郡誌L

という窮状に陥

った。この時、打開

策に乗り出したのが藻寄行蔵だ

った。

藻寄行蔵

行蔵

の生涯を、

いく

つかの書物を参考

にまとめて

おく。

行蔵は、文政三年

一月

(一八二〇年)、北方村

(現、

珠洲市上戸町北方)で藻寄隆平の長男として生まれ

た。幼名は秀、字は子賞、号を玄岳と称した。藻寄

家は馬

(現、珠洲市馬鰈町)から北方村に出

た家で、行蔵が生まれた当時は、三四石六斗三升

合の高を持つ豪農だ

った。隆平は医師であるととも

に儒学者の面も併せ持ち、広く学者、知名人との交

遊も多かったという。そういう中で、行蔵が十五才

の時、当時の最高学府であ

った江戸

・神田昌平費に

入学させ、三年後には、医師であるとともに国学者

として有名であ

った京都

・小石玄瑞の門に学ばさせ

た。行蔵は、上戸に帰

ってから父の跡を継ぎ医師と

ったが、人物を買われ、明治三年

(一八七〇)に

は鳳至郡河原田郷

(輪島市)の里正

(十村の後身)、

翌年には輪島町町長を兼任する。さらに珠洲郡戸長

となり、明治七年には広国村(珠洲市宝

町柏原)

加志波良比古神社の祠官となり、明治八年には石川

縣吏とな

った。

明治五年の専売制廃止は、官吏として華々しい活

躍をしていた頃に起こったのである。窮状に陥

った

地域の人々を見た行蔵は、七尾県参事兵頭正諮に陳

情し、大蔵省から製塩救済資金の借り入れを願う。

行蔵の情熱と無理のない返済計画案に動かされた兵

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頭は、大蔵省に上申し、それを受けた大蔵省は、明

治五年九月、能登四郡

一九四カ村の貢粗米三五、三

二六石五斗六合に相当する資金五二、四二四円四

銭七厘を五ケ年賦償還の約束で貸し出すことを決定

した。その間、塩専売法の制定で製塩は官営となり、

全国的に塩田整理が進められたが、行蔵の働きで、

能登の塩田は廃止を免れる。その後、行蔵は鵜川の

多田六蔵や飯田の八木又作のなどの大地主と相談し、

製塩御貸資金仕方書、製塩仕方規則を定め、自らが

製塩総締役とな

って、明治十年には政府からの借り

入れた資金の全額を償還。さらに利益を割いて貯蓄

し、製塩資本金三〇、二七二円

一一銭二厘の蓄えを

持つに至

った。

製塩業の再興を成し遂げ、将来

への備えも定ま

たのを機に、行蔵は

一切の公職を辞して、医業にも

どり、郷土振興と青少年の指導育成に努める。

これらの功績により、明治十

一年の天皇行幸の折

には褒書、同十六年には藍綬褒章を賜わっている。

その他、福岡県の農業技師林遠里を招いて農事改良

に当たらせたり、

『貢塩論』を表すなど数多くの業

績を残し、六十七才の明治十九年

(一人八六)十月

十日、この世を去

った。

行蔵の跡を継いだ鉄五郎

行蔵の後、藻寄家を継いだのは慶応二年

(一八六

六)に生まれた四男の鉄五郎だ

った。鉄五郎は、二

十五歳で県会議員となり、三十歳で衆議院議員に初

当選。三十二歳、東京法律学校に学び、榊原謙吉の

門に入って剣術を修めた。身長は六尺に近か

ったと

いう。衆議院議員当選四回。自由党に属し、星亨に

愛され、

「藻鉄」と呼ばれて勇名をはせた。のち、

満鉄総裁早川千吉郎の顧間とな

って満州にも渡

って

いる。 一方、行蔵の意志を継いで塩業の振興に力を

つくし、明治四十

一年

(一九〇八)には福井県大野

郡に桂島炭鉱を開発。身延山鉄道の創立にも関わっ

た。地元においては大正七年

(一九

一八)に、若山

村中田の石膏鉱業をはじめるなど、政財界で活躍し、

昭和十

一年

(一九三六)、東京で亡くな

った。

行蔵の死後二年目に、行蔵の徳

・業績を偲ぶ

「能

登國塩田再興碑」が上戸町に立てられたが、それか

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ら百二十年近くの年月が発ち、鉄五郎代の大正初年

には藻寄家そのものが東京に転出したこともあ

って、

藻寄行蔵の名や業績を知る人は、地元でもそう多く

はない。

珠洲で六〇年近く住んでいる私も、

『珠洲市史』

を編纂した間谷庄太郎さんから、行蔵の話を聞いた

りして、その名を知

ってはいたが、塩田再興に尽力

した藻寄行蔵という人がいた、という程度の、昔話

に近い認識でしかなか

った。ところが、二年前、藻

寄行蔵を身近に感じる出来事が起こったのである。

の出

『珠洲市史』第四巻

(昭和五十四年刊)に

「義経

・阿部判官伝説」を書いたことがある。有名な義経

はいいとしても、

「阿部判官」には説明がいるかも

知れない。

珠洲の最高峰宝立山

(四七

一屑)は三山形式の山

で、その

一つの嶺である黒峰

(四四四、五屑)に、

上杉勢、あるいは前田勢によって落城したと伝承す

る黒峰城があった。その城の城主とされたのが阿部

判官義宗で、輪島市町野から珠洲市若山町

一帯にか

けて、多くの判官伝承が伝わ

っている。中世から続

く名を姓とする家のかなりが判官の家臣だ

ったと伝

承し、伝阿部判官の守り神、三社託宣、系図、ある

いは墓など、判官にまつわる物も多い。それらの中

でも出色なのが、伊豫家に伝来する伝阿部判官筆「珠

・鳳至郡境文書」、伝霊姐筆

「一杯

一杯又

一盃」

軸、および伝天国作太刀の、判官三点セットと呼ば

れる物である。このうち、霊姐筆軸は第十代加賀藩

主重教、刀は十

一代治脩、十二代斉広の上覧の栄に

浴している。

その内の

「珠洲

・鳳至郡境文書」を石川県立歴史

博物館の特別展で展示したいとの要請を受け、

『珠

洲市史』以来、二十五年が発ち、実物があるのかと

うかを伊豫内科医院

(飯田町)に聞きに窺

った。平

成十二年二月六日のことである。御当主の太郎氏は、

「郡境文書」が伝わ

っているという話は聞いている

し、上戸町北方の家にあるはずだが未だ見たことが

ないとのこと。医院が休みの日曜日に

一緒に調べま

しょうと別れたのだが、行き違いがあ

って、先にお

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調べにな

った伊豫さんから、いずれもちやんと保管

されている旨の電話連絡が入った。この北方の家が

かつての藻寄家で、太郎氏の祖父が行蔵の子供だっ

たのである。

伊豫家は、南

方村

(現、上戸町南方)にあ

った

豪農三盃助兵衛家の分家、三盃助太郎家が元で、そ

こに藻寄行蔵の三男、すなわち鉄五郎の兄である勇

が明治初年に養子に入った。藻寄家が東京に転出し

た際、生家である家屋敷を買

って北方に移り住んだ

のである。三盃家の先祖が四国の伊豫国から来たと

の伝承があることと、三盃姓が多いことから、明治

二十七年

(一人九四)に伊豫姓を名乗

った。伊豫家

では、明治二十二年頃に北海道に移住した助兵衛家

や藻寄家に伝わる行蔵関係の文書も継承した。太郎

氏は伊豫家の三代目にあたる。

勇も村長や県会議員などを務めるが、医学の研究

のためドイツのベルリン大学に留学し、新しい医術

を駆使して故郷の人々の医療にあたり、当時特に多

くの人々が苦しんでいたトラコーマの予防のため、

「手を洗うこと」「手拭いを共用しない」などの運

動を広めた。

太郎氏に出会

って、はじめて間谷さんが藻寄行蔵

の素晴らしさを情熱をこめて語

ってくださつたわけ

が理解出来た。間谷さんは、おおらかな中に誠実さ

と厳しさを兼ね備えた素晴らしい人で、あの時、「君

が阿部判官伝承で取り上げた伊豫家が、藻寄行蔵の

縁者にあたるんだよ」、と語

っておいでたのだ。様々

な行蔵のエピソードの中でも、特に好まれたのが親

孝行の話だ

った。間谷さんは、その話を

『ふるさと

の人物』に執筆されている。

「行蔵の母は

「なを」と言

った。賢母の誉れ高く、

長命で、行蔵より後るること三年、明治二十二年に

九十四才で没している。

産業の振興や社会公共の奉仕のために席の温まる

間もなかった行蔵だが、旅から帰った時には必ず母

の前に正座し、旅先の出来ごとや珍しい話を聞かせ

て母を喜ばせたという。

しかし、その母も年をとり、老もうのいろが見え

はじめた。そしてある初夏の暑い日、帰

ってきた行

蔵に、

「今日は寒いから羽織を着なさい」といった。

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それでも行蔵は、

「ハイ」と答えて羽織を着て母を

安心させたといつ。」

特別展も終わり、平成十二年十

一月二十六日にお

借りした資料を返しにお窺いしたとき、太郎氏は、

判官三点セットをいつか珠洲市に寄付しようと思っ

ている、とおっしゃった。太郎氏は、節度ある振る

舞いが自然と身についておられ、実に柔らかい素敵

な人だ

った。親孝行話に出てくる行蔵とどこかで重

なるのを感じながら、お話を窺

つた。三点セットに

は刀剣も混じっている。登録がなされているのかど

うかを警察で確かめ、

「戦後間もなく登録は終わっ

ていますよ」、と電話連絡したのが、太郎氏とお話

しした最後だった。平成十四年

一月十日、太郎氏は

息を引き取られた。寄付の話をなさった頃には、治

らぬ病に罹

っておいでることを知

っておられたよう

った。そんな素振りを全く見せず、最初に尋ねた

ときと変わらない様子で、淡々と皆のお役に立てて

欲しい、とおっしゃっていたあの端正さは、どこか

ら生まれたのだろう、と、僅かしか話す機会を持て

なか

った伊豫さんのことを思

った。

その後、奥さんと話し合い、これまでに記したほ

とんどが含まれている伊豫家の文書も判官三点セッ

トと共に珠洲焼資料館に移すことにな

った。その後、

伊豫さんを偲びながら文書を眺めていると、藻寄有

隣の旅日記に出会

った。

藻寄有隣の旅

有隣はおそらく雅号であり、有隣が二十

一歳の時

に行蔵が生まれている。しかし、旅日記には行蔵に

ついて触れておらず、有隣は隆平の弟と見るのが自

然である。

旅日記は文政十

一年

(一八二八)正月三日から始

っている。文政の日記は六冊。痛めた体を治すた

め、温泉を訪ね、伊勢参宮をし、京都の蘭医新官涼

庭に病気を診てもらいながら医術を学ぶのが目的の

旅である。天保の旅日記は七冊。松前

(北海道)江

への見間である。旅先で聞いた世間話、怪異諄、

人々との対話など、当時を知る上で

一級資料となる

旅日記であるが、有隣の人柄が窺える

一つのエピソ

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―ドのみを記しておく。

栗崎

(金沢市)近くの湖水を船で渡

っているとき

天下に知られた木屋、島崎両家が見えてきた。思い

のほか質素な造りに

「予思ラク彼吝

ニシテ然ルヤ

先祖ノ遺訓アッテ倹徳ナルヤ 抑上ノ収飯恐テ然ル

ヤ」との感想を述べ、とはいえ、両家を羨ましいと

思わぬ者はあるまい。ところで、食さえ満たされぬ

者が多い中で、三十過ぎまで父母のおかげで食に貧

したことはない私を、貧しい人々はおそらく両家に

抱く思いと同様に見るに違いない、と自分の姿を客

観的に捉え、考えるのである。有隣が隆平の雅号で

あるにしろ、叔父であるにしろ、行蔵は諸国を見聞

してきた人と幼いときから接し、他を見て自らを省

みる考えに触れていく。それが、行蔵の、奢らず、

人を感動させずにはおかない孝行の人となりを形作

っていく。そういう行蔵を生むべき環境があ

ったこ

とを、この日記は語りかけてくる。

そして、これまで、三盃姓のいわれが、先祖が山

姥に会

って

「一杯

一杯又

一盃」の軸を貰

ったことに

よるとされ、そのことがあ

ってから財をなしたと伝

えられていたが、その軸に「庖清之守二相成り申由」

との文書が添えられていたことが新たに判明したこ

とで、藻寄と繋がる三盃家が古くから医の道を求め

てきた家であ

ったことも見えてきた。

成人した行蔵が、政治、産業社会で華々しい活躍

した後で医業に戻り、後身の育成にあた

つた、とい

うのも、藻寄家が長年に亘って育んできた生き方に

自ずから従

ったものなのだろう。行蔵の塩田復活に

かけた情熱は、医者として地域の人々の病気を治す

「医は仁術」がしみ通った、その延長線上にあ

つた

のだ。

三盃、藻寄、伊豫家に伝わ

った、社会の様々な様

子を語る文書や手紙は、資料館に移り、彼らの願い

を聞いてくれる人々が、読み解いてくれるのを待

ている。そして、塩のふるさとが、天然塩を誇らし

く高々とアピールする条件が整

ってきた今、ようや

く、最後まで塩田を残そうと奔走した行蔵の願いが

届いたのだ、そんな、感慨を抱いている。

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能登國塩田再興碑

東京學士會院學士従五位三島毅撰文

富國之術在殖産之利在得土宜哉我邦四彊皆海其土宜製塩而

能登州斗出北海尤宜製塩加賀藩主前円微妙公有見之此教珠

洲鳳至鹿島羽昨四郡之民墾塩田先貸米数萬石資之獲塩償還

又納其租更貸米如前循環因襲三百年民得食而藩入不欠明治

四年藩廃貸米制徒罷四郡民

一朝失食珠洲多塩戸窮困尤甚時

藻寄行蔵篤郡匠長深憂之屡建白県庁請借資縣申之大蔵省既

而省令縣貸四郡税金五萬回期五年折償然五年之後民将復失

業行蔵又建議設資金生息之方欲偉官恩於久遠縣允之命行蔵

督珠洲鳳至二郡塩務行蔵日夜拮据増殖資金猶不足因典八木

又作等謀共典田産借義倉金式萬五千園以資之至十年償官私

負債猶扁弐萬餘金於是資足民勤万竃煙畑製塩不減菖行蔵更

欲精製方弘販嵩射蓋痒不惜而天不似之年十九年十月十日以

病没年六十有七方是時四郡資金積至五萬回蓋皆行蔵経豊之

功也郡民深惜其死又恐其功之埋没将樹碑表之遠徴余文余謂

能之宜塩微妙公知之三百年前然公有大封資力創業不甚難行

一郡吏百方経豊再興之最難且夫方今萬國競富饒我邦介立

其間殖産互市営務之急而塩梢輸出海外郡民益殖資金多製塩

則可助国家富饒以報官貸之恩行蔵建策之意蓋亦在此行蔵講

秀字子賞琥玄岳藻寄氏珠洲郡北方村人篤人雄偉沈毅快辮動

人少牡遊昌平費又學讐於京都既蹄遠近乞治者常盈戸庭明治

之初藩聞其才幹篤鳳至郡河原田郷里正尋篤珠洲E長八年石

川縣吏無幾辞之督塩務如故十

一年車駕北巡縣令奏

(其功岩

倉右大臣奉勅賜褒書十六年)水産博覧會授四等賞牌賞勲局

賜藍綬褒章既没縣知事追賞賜金若干

(蓋可以知其)功徳之

在民不少実乃篤之銘日、

匪君継述 藩澤

(局延 匪君)建議 朝恩局宣

維新豊碑 勒君偉

(績) 

黎庶不誠 朝恩藩澤

明治二十

一年十

一月 石川縣知事従四位勲三等岩村高俊蒙

額 市川三兼書

※筆写注 ( )内は碑石剥落のため『珠洲郡誌』より補った。

西山 郷史

Eしやま

さとし

昭和二十一年^生まれ。大谷大学大学院修

士課程修了。羽昨工業、宇出津、飯田高

各教諭。珠洲市立珠洲焼資料館長。現在

真宗大谷派西勝寺住職、加能民俗の会副

会長など。珠洲市在住。

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