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―現代哲学の視 自我は存在するか? もし自我が恒常不変のatmanを 現代の分析哲学者の多くは仏教とともに否! と答えるだろう。 (mamakara)の存在を否定しない立場は十分に成立の余地があ 「私はスイッチをひねり、明りをつけ、部屋を明るくする。

―現代哲学の視点から― - jacp.org · 研 究 論 文 7 〉 無 我 説 と 行 為 主 体 の 問 題 ―現代哲学の視点から― 自我は存在するか? もし自我が恒常不変のatmanを意味す

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〈研

文7

無我説と行為主体の問題

―現代哲学の視点から―

自我は存在するか? もし自我が恒常不変のatmanを意味す

るなら

、それはデカルトのいう精神

なる実体に比せられるから、

現代の分析哲学者の多くは仏教とともに否! と答えるだろう。だ

が、もし自我

が自我意識を意味するなら話は違

ってくる。この乖

は唯識学派

でも認

めるこ

とで、同日目

的自

我の問

は無我

立場

ら、自

意識

(ahamkara)、

(mamakara)の存在を否定しない立場は十分に成立の余地があ

る。小論

では

まず、9ヨ目

的自我

の有無

の問題

を現

の分析

学がどのように考える

かを概観する。次

に行為

主体の問題を、主

が変化

しつつも一貫して有する自我意識

の観点から検討し、

空的

な因果

的積聚物が、自己同定という営み

の基盤

、自我

意識

基盤であ

って、逆ではな

いこ

と、その意

味でperson

なる日常的

な社会的概念

は二次的であることを明らかにした

い。比較

の接点

槻 木   

として現代

の行為

論に着目するのは、有我か無我

かと

いう仏教の

問題

にお

いて中心

をなす

のは業

(karman)

の生起と滅却の問題

であり、業と

は、心的行為も含めて「行為と

その影響」のことで

ある

から、と

いう理由を前置き

しておく。

無我

現代

の行

現代の分析哲学

の行為論の一つの頂

点をなす

のはG

・E

・M

アンスコ

ムからD・デイヴィドソンに連

なる考えである。両者

多様な行為記述の同定基準を物質的な

一連の身体運動におき、後

者はさらにこれを心身問題

に結び

つけた。

「私はスイッチをひねり、明りをつけ、部屋を明るくする。

はまた自分の知らな

いうちに、主人の在宅という警告を空

巣ね

らいに与

えている。このとき

、私

は四

つのことをする

い。

って

の一

のこ

に四

にす

い」。

(referent)、即ち、この私のそのときの大脳の化学反応を含む身

「私

(そ

=②

「私

つけ

た行

=③

「私

部屋

=④

「私

(意

せず

空き

る。

、別

、「金

「宵

「暁

と同

る。

注意

べき

記述

って

は、

に同

る時

を許

ッチ

った

るこ

い。

って

るの

る。

ーグ

効果

ねて

に至

らし

たと

か後

っても

、「私

はそ

なけ

い。

るこ

るこ

ると

ーデ

ンに

る。

の方

われ

るこ

原因

方向

いて

立す

る。

ァー

わろ

った

照明

つけ

た行

わゆ

「表

」、

つけ

とし

をし

てから①と振舞ったのでない以上、「⑤=①―……」が成立してい

。内

①以

から

⑤の

は、

い副

なも

こと

でき

「私

々と

為」(=

―①

…)において、「煌々と」なる副詞が単独で何か独立の事物を指

る必

いの

じで

る。

。語

は副

るsyncategorematic

って

、「意

機」

「精

(的

我)」

ると

る必

い。

「会社

たく

ァー

に急

いで横たわろうと思ったので、私が照明をつけた行為」のように、

でき

る。

るも

①以

一連

(大

って

んで

ると

考え

必要

はな

ーデ

ィオ

ひき

のば

信念

全体

い行

に考

がで

る。

して

は物

のみを認

める唯物論で

いいが、言葉として

は、今

のところわれ

れは大脳の化学反応を含む身体変化を適確に言い表す言語をもち

あわせておらず、言語としては自然言語中

のいわゆる心的言語を

認めざるをえない【唯物論、しかし言語としては二元論的】。

行為の因果性を説くデイヴィドソソの行為論は、その因果性が

法則にまで昇華されない個別的因果性をいうことに特徴があり、

の汎

的世

観と

的で

る。

し、

(citta)を物質または物質現象と別立し、唯物論とは見えない。

かし

、心の存在

を認

めると

いっても

、心は縁起性のも

のであり

断じて恒常なものとされていな

かった。それ

に唯物論

にし

たとこ

ろで、物質からの派生物として

の心の存在

は認

める。いずれにせ

よ二元

論的な区別

は、近

代以

前にあ

ってはそれほど確然としたも

ので

ない。だから、身業と口

(言語的振舞

い)の一般的原因と

される意業(心的振舞い)

に関する語句が、身業や口業の表す振

いと因

果的に結ばれ

一括されて、大脳の化学反応を含む一連の

物質

的振

舞いを指示す

ると見

なしうるなら。汎因果的世

界観を支

持す

る現代

的な論拠とも

なる。

現代の行為論と無我説の関連

につ

いて

、もう一つ注目す

べき

とがある。

スイ

ッチをひねり、部屋を明

るくしたのは意図

的行為

であ

ったと解することができるが、④

の「私

が空き巣ねら

いに警

告を与

えた行為」

は意図せざる行為であ

った。鈴木大拙

は陶淵明

の『帰

去来の辞』

の一部

「雲無心にして岫を出て、鳥飛ぶに倦

で還

るこ

とを知る」を引用

して、「雲が何

の意

図も持た

ぬに山の

洞穴

のような所

から湧

いて出る」ような心持

ちをも

って

『無心と

は何

か』と

いう話題を切り出している。通常

、無心とは、存在論

に無我であることを踏まえて、それを認識的振舞いの(あらゆ

る)場で完全に実施し

た心の相のあ

り方であろう。「雲無心」

境地は究極的な無我の実践の境地であるから、そこに至

るには努

力が必要である。しかし

また、この心的努力は無心ということ

反するものである。それ

ゆえ無心

とは。

いったん立て

た無心

たろ

うとすること(目的)が自ずと忘れられて、結果としてそうな

たと言わざるをえ

ないような境地である。われ

われ

はこのような

理想

的な無

心の行為の代表例を、菩薩が業の止滅を最終的にめざ

ながら、業

の発動を恐れず、利他的精神(意業の一種)を発揮

して

、すす

んで衆生世界に身を投じ、結果的

に大乗仏となるとい

う移り

ゆき

の過程のなかに考えることができよう。「私は悟ろう」

との彼

の発菩提心

は、(社会

的)修養を重ね

る、時の経過の

なか

で自ずと変異

(pannama)し、無心状態に至

ったと考えられ

る。

このような心のあり方は、修養

を重ね

た上で、意図の非

意図的滅

却という成りゆきにまかせるに対

して、④の行為は状況

に関す

認識の欠落からたまたま帰

結し

たもの

にすぎず、開きがありすぎ

ると思われるだろうが、それでも無意図的に達成されるという点

では共

通す

るので

ある。あとで述べるように、④のような「無心

の行為」も

、一連

の因果積聚物の上のさまざまな自我の投影

に関

連す

るゆえに重要である。

は自

凡人

にと

って

、偉大な菩提の無心の境地はそう簡単に

は達成で

きな

い偉大

な理想の境地で

ある。しかしそれ

は、存在論的

には無

我で

あることを認めつつも、無我と実践的

に認識す

ることがむず

かし

いこと、したが

って自我意識が存在すること

を認

めることで

ある。これが示唆することは、アリ

ストテ

レス的な真

理の対応

が、認識と

いう営み

にお

いて或る実践的規

範性

を帯びるに至

ということであ

る。し

かし世界が素粒子

から

構成されて

いるから

とい

って、素粒子

から構成されて

いるさま

をつぶさに認

識でき

ければなら

ないとしたら、ことであろ

う。認

識に関する真理対

は真諦

と俗諦とで

も区別し

なけれ

ば、凡

人には実践で

きない。

つま

り、存在のありさまが無我だからというので、自我意識を迷

と断じ、認識を存在のありさまに合わせるよう努力し

なければ

ならな

いとす

る仏教

は、認識的な無我

・無心

の実

践に価

値をおく

規範的

に特異

な一

つの立場なのであ

る。即

ち「自我

意識を存続

せる

べき

か?」

が、有我

か無我

かに代

わる新たな争点として浮上

してくる。それゆえ、存在論的にはatman的自我の存在を否定

ながらも、自我意識の存在を認める現代人の概念機構のあり方

問題になる。ところがこれこそ、因果的には不断に変化するこ

とを認めつつも、それでも変わらず「私」として同定すること

一種のatman論が含まれているのではないかという疑問、反論

って

「行

感覚論的経験主義の濃厚な口ックは、「意識は、どんな過去の

」、「人

、「

(factual memory)

(event memory)

照的な自我意識(reflexive self-consciousness) が自己同定の

についても基本的に問題がある。バトラー司教(一六九二-一七

五二)は「私の記憶」ということ

にすで

に私の同一性が前提され

ており、循環論にな

っていると反論し

た。即ち「主体S

は行為A

をしたことを思

い出

す」は、「S

は、S

自身

がA

をし

たことを、

思い出す」の省略形であり、それゆえ人間の同一性の十分条件と

して「S

がAをしたことを思

い出す

ならば、SはAをし

た人と同

一である」を立て

たとしても、前件

に後件が含意されて

いるので

あるから、ロックの基準は循環

にすぎな

いというのである。バ

ラーの狙いは、人間の同一性が分析不可能な無前提概念であるこ

とを示すことによって、自我が恒常的実体であることを言うこと

にあったと思え

るから

、その意味で、自我意識の存在を盾にして

無我説を批判した正統イ

ンド哲学諸派の考え方と重なってくる。

の批判

は次のよう

な形で

も提起される。真諦として

は無我で

あるのに自我を施設す

るのは、われわれのもつ統括的理解能力の

産物と言

い換えてもよ

いもので

ある。われわれは、時空の次元

らす

ると無数と考えら

れるものを、色、形、機能などの種々の次

元から一つ、二つ……とまとめて理解する。無数の分子から成る

の手を「一つ

の手」、あ

るい

は「脂肪」と「蛋

白質」

々とし

て理解する。種

々の理解

の次元

を実体化したのがプラトンのイデ

アであり、それは究極的

にはパル

メニデスの「有」

なる一者に行

きつく可

能性がある。認識対象

はあたかも反

転図形

のよ

うで

て、認識次元の選

択はその都度

の関

心に応じて

なされ、どの次元

からす

る統括的

理解が真

かと

いうも

ので

い。

自我

いう

「対

象」もま

た、こ

のような反転図形だと考えることができる。時空

な連続性を基本

にし

た次元

からす

れば「単一の我」、連

続の裏

の質的非連続の次元

からすれば無数の構成要素、人生観などの信

(些細な信念で

よい)を理解の次元とすれば、「かつて

の私」、

「今の私」と

いう複数

の「私」

が現れる。ここで

注意す

べき

は三

番目の多我論であ

って、この説では単一の恒常な自我を否定し。

「かつて

の私」、「今

の私」

と二

つ (以

上) のま

まり

に分

「私」を捉えながらも、「かつての私」

は「彼」でなく、相変わら

「単一的な同じ私」に属するものとして同定されていることが

問題である。これこそが、反照的な自我意識を伴

った記憶でもっ

て人間の同一性を特徴づけようとした口ックに対して、バトラー

が持ち出した循環性であり、単一の自我の存在主張の論拠にほか

ならない。しかし

、「私

の(反照

的な)記憶」

にす

でに自己同

性が論理的

に含意

されているとのバトラーの主張は実は成立しな

い。

のこ

すで

告し

たこ

があ

るが、

(split

brain)や脳移植

、あ

るいは

アミ

ーバーのよう

に分

裂したり

融合

したりする人間を考え

ることに論理的矛盾

がな

い以上

、「S

は、

でない主体がAをしたことを思

い出す」ことは論理的に考えう

ることだから、「S

は、自らがA

をしたことを思

い出

す」はや

り自己同一性をいうための十分条

件と見なしていい。

ン概

の基

して

の因

トラ

ーの議論

のよう

な微妙

な反

論を招いたのは、

ロックが反

照的な自我意識

のみ

に頼

って

、人間の同

一 性を論じたからで

いだろ

うか。

ここで

もう一

度デイ

ヴィ

ドソンの、「存在

に関

ては一元論、言葉に関しては二元論的」という考え方と、「私は

結果

的に空き

巣ねらいに警

告を与えた」と

いう④のような無意図

的行為

を思い起こそう。反照

的な自我意識を伴わぬこのような行

為も

、それが業で

あるかぎり「私」を形成する素材であろう。一

応口ックは、自己を同定するさいに、実体的自我に頼らず、反照

的な

自我意識に頼ったが、われわれはこの意識

(意業)も基本的

には一種の物質

現象と見なしたのである。さら

に。無意図的行為

が、同じく一種の物質

現象として「私」

の同定

に関係しな

いわけ

はない。部屋を明るくすることが電力消費で、二酸化炭素の排出、

地球温暖化

に一枚かんで

いると

いう意識

はなくとも。十分そ

の種

の行為者として「私」を述定

(同定)し

うる。

この

ことを劇

的に例解す

るために

『オイディプスの悲劇』

に材

をとろ

う。

オイ

ディプ

スの自己理解

(の次元)

は、かつて

は「諸

国を放

浪する風

来坊」であ

ったが

、このところ

の自己理解

は「テ

ーベ市

民のために善政を施して

いる王」

である。この自己理解

一のものというより

。先王

殺しの犯人を憎悪

し、テーベ市

民に

いをもたらした犯人の捜索を叱咤するなど

によ

って

、繰り返し

自覚される類同的な自己理解(述定)の折り重なりで

あって

、こ

の捉えなれた自己理解によ

って、そのようなものとして(ここの

ところの)自己が同定されている。一般に、反照的な自己同定意

識を伴

った「私」という言葉には、同定ミスを犯しようがないと

いう特殊性があるとされ

る。第三者で

ある行為主体を同定するに

は、それなりの証拠

に基づ

かね

ばならな

いが、「私」を同定

する

に証拠

は不要だ

からである。しかし、これはあくまでも反照的

な自己同定意識が伴

って

いる限りにおいて

成立することであろう。

オイ

ディプ

スの場合、も

うと

っくにこの種の自己理解とそれに基

いた自己同定が大きく反転する素地が、ほかならぬ「自己」の

うち

に蓄えられて

いたのである。

いま

オイディプ

スに

は、

いきなり殴りかかってきた男を殴り返

したことの記憶があるが、結果的にその男が死んでしまったとは

知ら

ないと

仮定しよ

う。そうす

ると彼に

は、「昔ある男

を殴

った

ことのある私」と

いう自

己理解がある

にはあるが、こ

の反照的な

自己

認識

は、「正義

の王」

いう一

連の自己認識、統括

的な自己

理解のも

とに無視

され

るか、そ

の自己理解の次元

の埒外

に放擲さ

れる

かして

いた

わけで

る。

その記憶が

ぱっと息

を吹き

返し、

「呪

われた運命

の男」

という自己

理解のもとに、「諸国

を放浪し

自己」、「正

義の王」

などの諸々の自画像が一瞬のうちに配置

しな

おされ、描き

なおされ

たのであ

る。

一般

的要

点は、反

照的な自我意識を伴って

いる限りの自己同定、

自己理解

がど

んなに確実に思えようが、因

果的な物的出来事の積

聚物として

の「自己」

と齟齬をき

たす可

能性をはらんでいるとい

うことで

あり

、大き

く齟齬をきたしたと

自覚されるに至

った自己

理解は、因果

の連鎖体に基づいて

改めら

れるべきだということで

ある。こ

の因果

(的な業)

の連鎖体こ

そ、「私」と

いう言葉

の正

い外延

的指示

基盤で

あろう。このさい「自己

を認識する(理解

る)」も

「同定す

る」

も心的行

為で

あり、

それら

がど

んなに無

意図的、習慣的

に営まれて

いようと、仏

教で

は「意業」とされて

きたこと

に改

めて注目す

べきであ

る。意業

、身

業、口

業の積聚物

がいわゆる自己

にほ

かなら

ない。前述のよう

にわれわれは心的行

為を一種の物質現

象と翻

訳するが、「自己

を同定

する」、「自己

して認識する」と

いう行為

を含めた、意図

的行為

や無意図的行為

が織りなす時空的な因

果連

鎖のひと束

(「ひと束」

と言

って

も、

の束

と入り

組んで

いな

いということで

ない)

が、

いわゆ

「自己」であ

る。そして

、指示

物とし

ての存

在基盤で

るこ

の因

果連鎖体

に基づ

いて、

さま

ざまな自己理解

、自己

同定の営みがあ

り、逆で

ない限

りに

おいて

person

とは、言葉

の指示

物と意

との区別

における「意味」

に相当す

る概念であ

ることが見えてき

たと思われる。因果積聚物を

ベースにして、これ

を表示

しようと

するさま

ざまな言葉があり、その言葉に相応して

さま

ざまの意味

が考えら

れる。第三者が私を「槻木裕」や「

いま目

の前で発

表し

無 

) 

D.

 

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so

n,

 

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P.,

198

0, p.

4.

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Joe

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 D

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iv. 

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1970

, p.

34

) 

宿

と言ったりするが、「腹の虫」というものの存在にコミッ卜してい

) 

店,

一二五頁

(6) Jon Elster, Sour Grapes, Cambridge Univ. Press, 1983.

ha

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稿

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第24

) 

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6)

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 II 

, 2

7, 

9.

(8) 事実の記憶が、「私はシーザーがルビコン河を渡ったと学んだの

f., 

C.

 

B.

 

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bering", in The philosophical Review, 75, 1966.

) 

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