5
宮井敏先 先生は様々な異領域に生息して 領域でも専門家と評価されていた 令夫人以外には、先生を全的に語り ひとはいまい。私などが指名されて恐縮 だが、お許しを乞うと同時に、一面的で あることはやむを得ないと開き直る。 先生のマルチタレントの異才と誇りは 他人が許容するハイレベルにあった。文 にも講演にも堪能で、ある時一種の才能 だと評したら、いや、これが才能そのも ) のだと一言われたことがある 一局商以来商学部に長く深くコミットさ れたことから、この組織の生き字引でも あられたが、その逆影響もあったかと思 われる。なかでも、北山講とそのりーダ ーであった安岡教授との関係が最も密だ つたであろうが、先生は安岡教授を無類 のサタイヤリストと高く評価されて、メ ンバーともども、死の直前まで山行をと もにされた。「登りの西口下りの敏」とい う名句もうまれたが、登りも 程の難所以外は、先生の博識はと ことなく吐露され続けた。 私事、アーモスト・スクールへの同行 をはじめ、長大な時間をご一緒させても らう幸運に預かったが、興趣は尽きなか つた。先生の突然の死にょり、私の楽し みが取り上げられて、やるかたない。風 俗綴論の故山本明教授は「この人(鶴 見教授)の雑談ほど有意義なものを、ぽ くは知らない」と口っておられたが、私 にとっての先生は、まずはそんな感じの 存在だった。人生の機微のあらゆること を教えられた。 あるとミ私から孔子の陸沈の思想を 論じたら、それは俺のことかと西われた。 そう、だぶらした積もりだった。そんな 具合で、私は無数の質問を先生に仕掛け てきたが、いよいよこれから、受けてい ただくに値する質問を発し続けたいと考 西田芳次郎(大学商学部教遥 宮井敏氏略歴 ^^し^^^・・^^ まれ し.」、ド、」 " ノノ'ノ」 ーノ ^、^^田レ^^^一, 畷.ん八徒誘桜人L 競仟九 ^^^^介.U水^ Lト えていた矢先であった。神仏 私などを相手に何を考えておられ 今は知るよしもないが、淫 邪教だ しながら、この世界にも実に深い理解を 持っておられた。 先生の思想はイギリスのユートピア思 想、功利主義新教それに新島先生をふ くむ日本の諸思想の不思議な混成であっ たが、この混成を統べる人間宮井先生の コアを確認しきれなかった思いが残って る。先生にはシニシズムやニヒリズム は陰さえなかった。先生の高等快楽計算 は単なる計算ではなく、些事を快楽に変 換する戦術を内蔵していた。要するに、 人生を楽しんでおられた。それだけに自 他に無念が残ると思う。

宮井敏先生を偲んで宮井敏先生を偲んで 先生は様々な異領域に生息して、どの あることはやむを得ないと開き直る。だが、お許しを乞うと同時に、一面的でひとはいまい。私などが指名されて恐縮令夫人以外には、先生を全的に語りうる領域でも専門家と評価されていたから、

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Page 1: 宮井敏先生を偲んで宮井敏先生を偲んで 先生は様々な異領域に生息して、どの あることはやむを得ないと開き直る。だが、お許しを乞うと同時に、一面的でひとはいまい。私などが指名されて恐縮令夫人以外には、先生を全的に語りうる領域でも専門家と評価されていたから、

宮井敏先生を偲んで

先生は様々な異領域に生息して、どの

領域でも専門家と評価されていたから、

令夫人以外には、先生を全的に語りうる

ひとはいまい。私などが指名されて恐縮

だが、お許しを乞うと同時に、一面的で

あることはやむを得ないと開き直る。

先生のマルチタレントの異才と誇りは

他人が許容するハイレベルにあった。文

にも講演にも堪能で、ある時一種の才能

だと評したら、いや、これが才能そのも

)し

のだと一言われたことがある

一局商以来商学部に長く深くコミットさ

れたことから、この組織の生き字引でも

あられたが、その逆影響もあったかと思

われる。なかでも、北山講とそのりーダ

ーであった安岡教授との関係が最も密だ

つたであろうが、先生は安岡教授を無類

のサタイヤリストと高く評価されて、メ

ンバーともども、死の直前まで山行をと

もにされた。「登りの西口下りの敏」とい

う名句もうまれたが、登りも下りも、余

程の難所以外は、先生の博識はとどまる

ことなく吐露され続けた。

私事、アーモスト・スクールへの同行

をはじめ、長大な時間をご一緒させても

らう幸運に預かったが、興趣は尽きなか

つた。先生の突然の死にょり、私の楽し

みが取り上げられて、やるかたない。風

俗綴論の故山本明教授は「この人(鶴

見教授)の雑談ほど有意義なものを、ぽ

くは知らない」と口っておられたが、私

にとっての先生は、まずはそんな感じの

存在だった。人生の機微のあらゆること

を教えられた。

あるとミ私から孔子の陸沈の思想を

論じたら、それは俺のことかと西われた。

そう、だぶらした積もりだった。そんな

具合で、私は無数の質問を先生に仕掛け

てきたが、いよいよこれから、受けてい

ただくに値する質問を発し続けたいと考

西田芳次郎(大学商学部教遥

宮井敏氏略歴

^^し^^^・・^^^.^.」"^ノ^^{^^一^^

まれ

し.」、ド、」

"

ノノ'ノ」

ーノ

^、^^田レ^^^一,〔^f^^^とし^^^ h "小^、:・^^^一^.・^^^、'^^^^^

畷.ん八徒誘桜人L轆競仟九匂●纏

^^^^介.U水^ Lト

えていた矢先であった。神仏混渚信者の

私などを相手に何を考えておられたか、

今は知るよしもないが、淫祠邪教だと評

しながら、この世界にも実に深い理解を

持っておられた。

先生の思想はイギリスのユートピア思

想、功利主義新教それに新島先生をふ

くむ日本の諸思想の不思議な混成であっ

たが、この混成を統べる人間宮井先生の

コアを確認しきれなかった思いが残って

る。先生にはシニシズムやニヒリズム

しは陰さえなかった。先生の高等快楽計算

は単なる計算ではなく、些事を快楽に変

換する戦術を内蔵していた。要するに、

人生を楽しんでおられた。それだけに自

他に無念が残ると思う。

Page 2: 宮井敏先生を偲んで宮井敏先生を偲んで 先生は様々な異領域に生息して、どの あることはやむを得ないと開き直る。だが、お許しを乞うと同時に、一面的でひとはいまい。私などが指名されて恐縮令夫人以外には、先生を全的に語りうる領域でも専門家と評価されていたから、

「慈なり故に能く勇なる実践人」

1大塚達雄先生を偲んで

大塚先生は同志社大学文学部で社会福

祉学の研究教育に三十八年間に渡って携

わられ、その後、花園大学が社会福祉学

部を創設するにあたり、請われて学部長

に就任し、四年間を務められた。また、

社会福祉法人京都障害児福祉協会を設立

し、理事長として障害をもつ人たちの療

育に一生をささげられた。

一昨年九月、大塚先生は自伝的内容を

『福祉の心との出会い 1社会福祉実践

)し

の歩みから1』(ミネルヴァ圭旦房)にまと

められた。この中でご自身のあゆみを次

のように語っておられる。

1障害をもつ人たちにかかわって、私

はボランティアとして、専門ワーカーや

スーパーバイザーあるいは理事理事長

の立場で、半世紀近く(四十四年)を過

ごした0 さまざまなことで、苦しみ悲し

み悩む人たちとのかかわりを体験し、多

くのことを学んだ。

大学教員としては、「社会福祉とりわ

け「ケースワーク」を専攻することで人

問の問題にかかわっていたし、社会福祉

実践者としても、理論と実践を関連づけ

ることの必要性を痛感していた。一般に

「二兎を追う者は一兎をも得ずしと言われ

たりする。たしかに福祉実践に長時間を

費やすため、机上での研究はかなりの時

問が削減されたしかし、相手を中心に

感じることで、人間として成長するよう

促され助けられた。そして、それが実践と

理論の研究にも役だったといぇよう。

存在感のある先生であった。ダンディ

で物静かな先生であったが、学生・院生

を大切にし、酒を飲みながら共晶るこ

とを楽しみにしておられた。実践では先

頭に立って障害をもつ人のみならず、す

べての人々の生活者としての視点を忘れ

黒木保博(大学文学部教授)

大塚述雄氏歴

一九二四年四拘一四日生まれ四九年月同志社大

学法経〕需を卒業後五凶圷同志社大学・X添助手

として入社。五五年専任講帥、 hL年同助教授

六四

年教授、九二年名誉教授。

一九九九年七同二六日永眠 L十五歳

ず粉骨砕身して働き続けた。車イスの人

とともに誰もが利用できる地下鉄建設を

めざしての街頭デモでも先頭に立って歩

た。まさに「慈なる人」であった。

そして「勇なる人」でもあった。若き

日の海軍主計少尉としての「志」を生か

すために、神は二っの戦いの場を与えた。

障害をもつ人とともに社会の差別や偏見

と闘った。また体育会ヨット部部長とし

て「海」の上での戦いの場に挑んだ。ニ

十五年問の在任中に、全日本学生ヨツト

選手権でヨット部は十二回の総合優勝

.

クラス優勝を遂げてぃる。毎年の年賀状

にはヨット部の戦築詳しく報告されて

いた。病床にあっても最後までファイト

溢れる一生であった。

『Φ0こ一Φヨ

83

Page 3: 宮井敏先生を偲んで宮井敏先生を偲んで 先生は様々な異領域に生息して、どの あることはやむを得ないと開き直る。だが、お許しを乞うと同時に、一面的でひとはいまい。私などが指名されて恐縮令夫人以外には、先生を全的に語りうる領域でも専門家と評価されていたから、

渡邊英一先生追悼

m

私が渡邊英一先生に始めてお目にかか

つたのは、先生が同志社大学心理学同窓

会の初代会長の時だが、女子大学に奉職

してから親しくして頂いた。始めは同じ

研究室同居であったが後先生は家政学

科に移られ楽真館四階の児童心理学研究

室に落ち着かれた。先生はまことに温厚

で、口数は少なかったが、私が述べる教

育論、最近読んだ図書の紹介等には耳を

傾けて下さり、質問と批評をされた。人

は読んだ事を忽ちスラス驫せる訳では

ない。私はそこ需義の予行演習をさせ

て頂いていた様に思う。先生はタバコが

お好きだったが私には「コーヒーか紅茶

と聞かれてから、それを出して下さ

)力」

つた。

先生と私が学生主任であった頃、三時

のお茶の時問には学生課で職員と共に団

¥し、学生の問題、報告や意見等、多々

e.ーUqer

聞いた。先生はいつも穏やかな意見を述

べられた。先生は研究熱心で多くの報告

を学会、研究会で発表されていたがそれ

を私に吹聴される事は無かった。

先生は時に三人のお嬢さん方の曹幸

せそうになさった同志社幼稚園通いの

すえのおじょうさんの手を引いて,やつ

での並木道0 を歩まれた様子は今も目に

浮かぶ。告別式の時、成長された往年の

オチビサンを見て私は咸無璽であった。

後年先生は同志社幼稚園長を二期勤めら

れ「今日は幼稚園の運動会でね」とごき

げんの日があった

先生の定年退職後私は先生の居られ

た研究室に移り児童心理学研究ゼミを担

当したので、先生は長年の古い住まいに

度々来られた。その四年後には私も退職、

非常勤講師として、デントン館の名誉教

授室にいた頃、先生が立ち寄られ「これ

L L L.1 L」

ノノノノE /」

深田尚彦(大阪芸術大学・浪速短期大学学長

渡邊英氏略歴

^U註ま^。^.、寸^^^L^^^一〆^^^^」一^^^^

L

"

ノノ.

,Π心帝熨γ豐撃゛究一リυ下・ι・,"川"立い広児笊杣庚リなとをゑてん

川如川Ⅱ川'村女大効教授として人礼人Ⅱ製授に就任八h.匂弔

"教受この岡弌小教剖k、幻杣川kを雁任ま九ノL"には勲四紛旭H

小綬駈耆筆

から京都市の三歳児検診に行く」(多年こ

の検査をされていた)と園われるのを聞

き、長年ご勉強の日仏学館のフランス語

学習に行かれる姿を度々拝見した。

大学卒の昭和十八年から二十一年迄、

先生は名古屋航空研究所航空医学研究

室、名古屋帝国大学の航空医学研究所と

環境医学研究室に勤められた。戦後長

崎外国語短大、広島県の労働科学研究所

や中央児童誤所勤務を経て同志社女子

大に就任された。日本心理学会、日本教

育学会等多くの学会に属して心理学と教

育に精進され平成九年四月には勲四等旭

日小綬章を受けられた。ほっそりとされ

てはいたが健康そうであった先生を思う

時、突然の計報を悲しく思う。

H永岻 L卜九歳

84

オ P、

Page 4: 宮井敏先生を偲んで宮井敏先生を偲んで 先生は様々な異領域に生息して、どの あることはやむを得ないと開き直る。だが、お許しを乞うと同時に、一面的でひとはいまい。私などが指名されて恐縮令夫人以外には、先生を全的に語りうる領域でも専門家と評価されていたから、

山本明さんを偲ぶ

先生が亡くなられてから四力月がたっ

た。こう靈国いてから思い返すと、私はい

つも「山本さんと呼んでいて、「先生」

とは呼んだことがなかったのに思い至っ

た。私が同志社に入学した九六0年当

時山本さんは専任誰師になったぱかり

で、二同生になって、私は「世論・・亘伝」

と他に「英書聾肌」の単位をとっている。

本来ならぱ、素直に「先生」と呼ぶのが

当たり前なのだが、いつまでも「山本さ

)し

んがしっくりくるのである。

当時の新聞学専攻は伝統的にデモクラ

ティックな雰鬮気があり、学生の問でい

わゆる先生を呼ぶときも「さん」づけが

当たり前であった。山本さんは当時二十

代の最後の年、学生との年の差もあまり

なく、やんちゃな兄貰分の役割を演じて

いた。

当時、山本さんの文体は非常に正統的

で、後の分かりやすいアイデア編ちた

語り口訓の文体から織像できない硬質

な印象を与えるものだった。私個人とし

てはこの当時の仕事が好きである内容

も、編集権や戸坂潤゛ど影響を受けた

ム叟がある。特に後者の戸坂湘論」は

戦後の再評価の口火を切った論文として

現在でも重要な役割をになっている。

九六一年四月編見俊輔さんが教授

として着任されてから、山本さんの仕事

が大きく変化した。鶴見さんは人を育て

る名人であり、山本さんも鶴見さんとの

出会いで関心が多彩に、豊かになった。

私が大学院に在籍中にお手伝いしたこと

がある「メディア史研究会は示大人文

研の加藤秀俊さん、多田道太郎さん、関

学の津金沢聡広さん等を加え、それが「現

代風俗研究会」に発展したこの研究会

は山本さんの関心をマス・カルチャー諭

に向けた。この頃から新聞や一般雛艸、

ブレビなどに露出することが多くなり、

九八六年には『朝日新聞』の「私の紙

面評」を担当し、その活躍は学界を越え

て、全国区的な広がりを持つようになっ

たそれが『社会的広告史』『現代ジャー

ナリズム』『戦後風俊』『カストリ雛

研究』など数多くの精力的な作品に結実

した。一

九八八年ご一月のある夜出版"念

会の保途に倒れ、以来十一年間の闘病牛

活を送った。実質的に仕事ができたのは

五十代の前半まで、その短い人生を気

飯け抜ける勢いで大量の仕事を成し遂

げた人であった。

山本吻氏略歴

月九県まれ hし年三月同志社火

人1陟法学W究季を修r後岡ザ同志社大学文学

部幼チとして人社六年同山任訥帥、六三年同助教

L 圷杯教授鉦任九什退幟。

技ノノ九ーナヨト\Π、氷如,、ー"、戚

山口功二(大学文学部教握

『Φ0仁一Φヨ

85

Page 5: 宮井敏先生を偲んで宮井敏先生を偲んで 先生は様々な異領域に生息して、どの あることはやむを得ないと開き直る。だが、お許しを乞うと同時に、一面的でひとはいまい。私などが指名されて恐縮令夫人以外には、先生を全的に語りうる領域でも専門家と評価されていたから、

志途上で逝った先輩を悼む

1清水さん、さよ,つなら

研究室にはいつも数篇の書きかけ原稿

がつるされていた。しかしそれらはつい

に完成稿にならなかった。

「八月末には原稿を持ち寄るように」と

いう電話がかかったのは春頃だったか。

七月に見錘ったときも念を押された。「フ

アシズムを育てるデモクラシー(清水)」

と私はメモしている。生死の境で宙づり

になりながら清水さんが熱っぽく語って

いたのは学生時代以来の「反戦反ファシ

ズム」という視点だった。

二十九年前の論文「戦後法学の原点と

実証主義的思考方法に関する一考察」を、

清水さんは次の文章で締めている。「全て

の法理曹、戦争とファシズム否定とい

う政治的立場といかなる関連に立ってい

は、戦争とファシズムへの急傾斜だった。

その分析と地告をなんとか法哲学・法社

会学の領域で形あるものにしたいと、清

水さんは最後まで仕事への熱意を持ち続

けていた。「これをやらないと死んでも死

にきれないしと電話口で絞り出すように

語った。しかし時問は残されていなかっ

た。生きて仕事をしたいと一心に念じて

いるのに肉体は容赦なく死に向かって急

いでいるという窮極の自己分裂残酷だ

と思った。しかし清水さんは最後まで気

力を保ち、己を奮い立たせ、崩れること

はなかった。清水さんはこんな恰恰たる

最期を私たちに見せた。

清水さんの生きザマを貫いていたもの

は何であったかと考える。ロマンチスト

であったことは疑いがない。そして自分

を偽ることをしなかった。というよりで

きなかった。だから思わぬ対立や葛藤も

るか、今厳しく問われているといぇよ

日本の現下の政治情勢に見えていたの

清水征樹氏歴

九四年四月日生まれ六九年月同志社大学大学

院事研舞修上雜修f後覽島大瓢斈部助乎を

経て、七四年同郡李季畿任沸として入社七六年

同助教授八八年同教授に就任

九九九年月一九日畿五十復

あったろうと思う。学生時代に好きだっ

た言葉に「真理似寒梅敢仮番開」があ

る。私はこの一言葉に清水さんの生き方を

見る。また新島と同じようにょく後輩に

訓戒をたれ激励した十二年前に赤線

を引いて読んだ『新島襄書簡集』(岩波文

庫)がある。学生達に語る新島と清水が

いかに重なり△口うかを私は今はっきり了

解する。清水さんもまた篤実であった。

だから彼の病室は友人達で埋まって

た。ロマンと誇りと篤実と、それが清水

さんだった。

志半ば五十六歳で逝った先輩と残され

た私たちが共に有する感情、それは「無

念」につきる。最後の入院直前に撮った

笑顔の清水さんと六人の同志の写真、と

めどない温もりが哀しい。

舟越耿一長崎大学教抵

L"。

86