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第4回「1969年夏の洪水 青森市内各地で被害」 洪水に見舞われた青森市内の様子(阿部秀正氏撮影) 青森市は過去に何度も洪水の被害にあっていますが、昭和44年夏にも荒川・駒込川流域を 中心に大きな被害に見舞われました。北上していた台風9号の影響で青森県内は8月23日午後 から暴風雨が吹き荒れていました。 青森市内では23日夜11時頃、荒川が野沢集落付近で決壊し、また、駒込川も11時30分 頃、鳴沢取水口付近で決壊しました。水は下流の桜川団地や花園町一帯も襲い、特に、荒川 と駒込川の合流地点にある桜川団地は、浸水家屋が250戸余りにも及びました。 写真は一夜開けた24日に、旧東北本線敷地上から雲谷方面を撮影したもので、中央が青森 市松原にある現在の中央市民センターです。10月1日に竣工してい るので、完成直前に水害 を受けたことになります。右端に写っている白い建物は、勤労青少年ホームです。著名な建築 家生田勉の数少ない作品であることは、残 念ながら青森市民には殆ど知られていません。 (2010.8.26)  「写真で見る あおもり あのとき」 2

第4回「1969年夏の洪水 青森市内各地で被害」komakino.jp/sample.pdf今回は昭和30年代前半の青森県人がどのような方法で、暖をとり寒い冬を乗りきっていたの

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第4回「1969年夏の洪水 青森市内各地で被害」

洪水に見舞われた青森市内の様子(阿部秀正氏撮影)

 青森市は過去に何度も洪水の被害にあっていますが、昭和44年夏にも荒川・駒込川流域を

中心に大きな被害に見舞われました。北上していた台風9号の影響で青森県内は8月23日午後

から暴風雨が吹き荒れていました。

 青森市内では23日夜11時頃、荒川が野沢集落付近で決壊し、また、駒込川も11時30分

頃、鳴沢取水口付近で決壊しました。水は下流の桜川団地や花園町一帯も襲い、特に、荒川

と駒込川の合流地点にある桜川団地は、浸水家屋が250戸余りにも及びました。

  写真は一夜開けた24日に、旧東北本線敷地上から雲谷方面を撮影したもので、中央が青森

市松原にある現在の中央市民センターです。10月1日に竣工してい るので、完成直前に水害

を受けたことになります。右端に写っている白い建物は、勤労青少年ホームです。著名な建築

家生田勉の数少ない作品であることは、残 念ながら青森市民には殆ど知られていません。

(2010.8.26) 

「写真で見る あおもり あのとき」

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第7回「青森の桜川団地で大規模な団地造成」

 青森市東部を

流れる荒川と駒

込川に挟まれた

桜川地区は、永

らく一面の田園

地帯でした。昭

和37年

(1962)に市中

心部に近いこと

から、大規模な

団地造成 が始ま

りました。上の

写真はその頃

に、今の桜大通りから北側(青森テレビ方向)を撮影したものと思われます。ダンプカーが

動きまわり、工事が急ピッチで行 われています。昭和41年には分譲が始まり、翌年には団地

町会も発足します。

 そして、昭和

44年(1969)8

月、大洪水に襲

われま す。下の

写真はその時の

様子を七丁目の

大通りから南側

を撮影したもの

です。道を歩く

男の人の膝あた

りまで水が上

がっています。

左側に見える白

壁が會田家で

す。団地の南北で、土地の高低差がかなりあり、この付近では、土台を高くしている家は、

かろうじて、床上浸水を免れました。この時の教訓はその後の家屋建 設に活かされ、今も土

台の異常に高い家として散見できます。(撮影:會田秀明氏/2010.9.16)

「写真で見る あおもり あのとき」

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第10 回「映画全盛のころ 観客あふれる劇場」

 昭和34年(1959)新春、人々は青森市

古川にある奈良屋劇

場(現在のシネマディ

クト)の前に大挙

し、行列を作るーそ

のような光景が実際

に見られました (写

真上 提供:シネマ

ディクト)。劇場の前

は冬にもかかわらず、

きれいに雪切がされ、

また、「謹賀新年」の看板共々、観客を迎える準備ができています。                              

 主役は正月映画の

「隠密七生記」を初め

とする、三本立の東映

スコープと呼ばれたワ

イドスクリーンの映画

でした。ワイドスク

リーンは昭和31年

(1956)に新東宝が

初めて採用し、その後

映画各社が競って導入

しました。

 最盛期の映画館は、

昭和35年(1960)で全

国に7457館、観客動員数は同年、年間で十一億二千万人余でした。同時期、青森県内では

153館もの映画館がありました。

 このような中、奈良屋劇場では多くの観客席を確保するため、なんと天井裏を観客席に急

遽、改造したそうです(写真下)。スクリーンを食いるように見つめる観客の目は、真剣そ

のものです。ほら、あなたも写っていますよ!

(写真提供:「シネマディクト」さん/2010.10.7) 

「写真で見る あおもり あのとき」

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第16 回「寒い冬の洗濯 干すのも屋外で」

 上の写真は「冬の洗

濯」と題され、昭和31

年1月に弘前市狼森

(おいのもり)で故

佐々木直亮弘前大学医

学部教授(東京都出

身)によって撮影され

たもので す。「寒い冬

に外で洗濯をしている

のをよくみかけた。洗

濯をしている当の本人

は、つめたいと思って

いないのだと生理学的に考察した。しかし軒下にほした洗 濯物はいつ乾くのだろうとも思っ

た。」と公衆衛生学者としてのコメントが添えられています。恐らくは井戸水を使っての洗濯

なので、冬の水道水よりは多少温 かかったとも想像できますが、夏に比べて冷たいことには

変わりありません。

 冬の洗濯を屋外に干

すのは、街中も同じで

した。下の写真は、 弘

前市若党町にあった市

営住宅を同じ頃に撮影

したものです。2階のベ

ランダに洗濯物が干し

てあります。当時を知

る人の話だと、洗濯物

はカチンカチンに凍っ

ていることもあったと

いいます。屋外に干し

た洗濯物は、最後は屋内の薪ストーブやコタツで乾燥され再使用されました。

 このような光景はわずか半世紀前には極普通に見られましたが、今の若い人達が知ってい

るはずもありません。佐々木先生の写真は時代を切り取った貴重な映像記録であり、青森県

民への「贈り物」です。(2010.12.2) 

「写真で見る あおもり あのとき」

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第22回「サンパチ豪雪 交通網も大混乱」

 今年は卯年です

が、今から48年前の昭和38年(1963・卯年)の1月から2月にかけて新潟県から京都府北部にかけての日本海側を記録的な豪雪が襲いま

した。いわゆる、「サンパチ豪雪」です。新潟県長岡市では積雪318cm

を記録しました。雪は九州地方も襲

い、鹿児島県でも30cm以上の積雪を観測する という異常な年でした。 青森県も例外ではなく、1月5日には正午まで新たに降り積もった雪が69cmに達し、新積雪としては戦後三番目の記録になりました。このため、青森駅構内は完全にマヒ状態になり、東北・奥羽・津軽の各線は大混乱となりました。

  この豪雪により、例年でも青森市に比べ積雪がおよそ半分ほどの弘前市内でも、写真上のように道路端に積み上げられた雪が屋根のヒサシに届く位でした。写真 下は、豪雪も一段落した2月の青森市新町通りの様子ですが、アーケードが隠れるほど雪がうずたかく積み上げられています。道路にはワダチができて、車が大 渋滞をきたしています。 今年の卯年は、山陰地方が記録的な豪雪に襲われました。偶然なのでしょうか。(写真上撮影:佐々木直亮氏/

2011.1.20) 

「写真で見る あおもり あのとき」

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第24回「気候を利用して天然の氷づくり」

 青森県立郷土館の近くに、大正9年に設立された古い歴史を持つ青森製氷株式会社がありま

す。残された資料の中に、昭和29年(1954)2月に撮影された、青森市三内にある笹森沼で

行われた天然氷の製造工程を記録した貴重な写真がありました。

 工程の最初は、雪踏みです。ワラグツを履いて、降り積もった雪を踏み固めます(写真

1)。この上に水をまいて凍らせカンナがけで表面を平らにし、また水を まくという作業を

繰り返します(写真2)。氷が規定の厚さ(約30cm)になったら、特殊なノコで機械氷と同

じ大きさ(112cm×55cm)に切ってい きます(写真3)。そして、簡単なやぐらを組んで

切った氷を沼から引き上げます。一塊の氷は、人力ソリで近くの馬ソリやトラックまで運ば

れ(写真4)、最 後は青森市本町の貯氷庫に納められたそうです。

 このような天然氷は「雑氷」と呼ばれ、人間の体内に入るような用途には使われず、もっ

ぱ ら、漁船での冷蔵や貨車でのリンゴ輸送の際の冷蔵に使われたそうです。機械氷の製造が

間に合わないほどの需要があった時代の事とはいえ、自然の気候をうま く活用した製造方法

だったといえます。(2011.2.3)

「写真で見る あおもり あのとき」

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第25回「昭和30年代前半寒い冬の暖房は」

 火の利用は人間と他の動物を区分けする大きな要素の一つといわれています。食べ物を料理したり、暖をとったり、明かりとして利用したりと人間の生活にはなくてはならないものです。 今回は昭和30年代前半の青森県人がどのような方法で、暖をとり寒い冬を乗りきっていたのかを当時の写真で探ってみましょう。 写真1は昭和33年頃に下北地方で撮影された学校の薪ストーブと薪の様子です。教室の一隅にまで薪が高く積み上げられています。 写真2は昭和31年に弘前市内で撮影された丸い炭俵です。アパートの2階ベランダに山と積まれています。火鉢に使ったのでしょうか。 写真3は昭和31年の弘前大学医学部教授室の石炭ストーブです。火をつけるのが大変だったようです。 写真4は昭和33年に五所川原市内で撮影された「サルケ」と呼ばれた泥炭を乾燥させた燃料です。囲炉裏(いろり)で燃やすとすごい煙が出て難儀したようです。 このように、先人達は身近にある燃料となるものなどを利用しながら、長い冬を乗りきっていたのです。(写真はいずれも、佐々木直亮氏が撮影したものです。) (2011.2.10)

「写真で見る あおもり あのとき」

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写真1

写真2

写真3写真4

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第28回「昭和30年代の角巻 着こなし自在で流行」

 写真上は、昭和33年2月に尾上町(現平川市)金屋で撮影された

ものです。わだちのできた雪道を

雪ゲタを履いて五人のお婆さんが

かっ歩しています。金屋 会館で行

われる集団血圧測定に着飾って向

かっているものと思われます。防

寒着は示し合わせたように、皆さ

ん角巻です。当時、一番流行した

防寒着だったので しょう。

 写真下は、昭和31年12月に弘前

市禅林街付近で撮影された露天で

の買い物風景です。近郷からきた

箒(ほうき)売りから次の年 に使う

分を買い求めているところのよう

です。買い物かごを背負っている

ご婦人方は、ほとんどが防寒着に

角巻を使っています。背中の状態

にあわせて、自在に 着こなせるの

が角巻の利点でした。

 下図は当時の新聞に掲載された角

巻の広告角巻の広告(「日刊弘前新聞」昭和

32年11月5日)です。「軽くて強く温かい 

角巻界の最高峰 ニチリン角巻」当時、求め

られていた角巻の品質を如実に示していま

す。

 角巻の写真はいつしか、青森県近代文学館に展示されている蘭繁之氏の「早春(はるさぎ)の

雪(ゆぎ)(津軽方言詩)」という詩に誘ってくれました。

「赤(あげ)エ角巻すっぽらど かぶて なンぼ 可愛(めごい)バ 津軽のあねこ」(『新茶渋

茶』昭和20年6月所収)と方言詩に歌われるほど一般的だった角巻も、今では「地吹雪ツ

アー」でしか目にしないのも時代の流れなのでしょうか。

(写真はいずれも、佐々木直亮氏が撮影したものです。/2011.3.3) 

「写真で見る あおもり あのとき」

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