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「香りの迷宮を訪ねて」 (神秘の国 - インドに咲くピンク口ータスの香り) 山本芳邦 太鼓の神々が宿る国、インドには更に奥深い香りの迷宮が私を待ち受けていた。 スパイスのメッカ。香料のるつぼ。香りを崇める何億の人々が、時の流れを超えて大切に 育んできた香りの王国がそこにはあった。歴史に裏打ちされた確かな証として、幾千年 の時を濃縮したかのような、強烈な香りが私を瞬時にして虜にした。それはコーチン( Cochin)の空港に降り立つたところから始まったのである。 インドの東南海岸にあるコーチンはケララ州の商業の中心として地域の経済を支える 港町である。歴史を物語るかのように、コーチンにはダスコ・ダ・ガマを祀るキリスト教会 やシアンゴースの中心にあるユダヤ教会、ポルトガル人が築いたヨーロッパ風の町並み も見られ、インドとは思えない不思議な雰囲気をかもしだす。ケララ州の北にはフランシ スコ・ザビエル終焉の地として有名なゴアというポルトガル人が築いた植民地もあり、マ ラバール海岸一帯は500年前から東洋と西洋を結ぶ、特に香料の貿易で栄えてきた地域 なのである。また、北東の高原地域カルナータ州には白檀油の生産地としても有名なマ イソールやバンガロ-ルという美しい古都が控えており、南部インドの香り文化は奥深 く、計り知れない多様性を持つ。 コーチンはスパイスの集積地として有名であり、私もこの地に点在するオレオレジン(香 辛料の溶媒抽出物)や天然精油を製造する巨大な香料会社を3社訪れた。ナツメグやメ ース、ブラッグペッパーやジンジャーといったあらゆるスパイスの抽出を行う工場だが、 近代的で広壮な設備には驚いた。これからもスパイスのメッカとしての地位は揺るぎな いであろう。 インドではまた美しい花々の栽培が盛んである。異なる宗教の祭事には髪飾りや献花と して生の花が大量に使われる。バラやジャスミン、シャンパカやチュベローズといった優 美で香り豊かな花々が特に好まれる。ジャスミンの種類もサンパック、グランディフロー ラム、オーリキュレータムといった種類があり、香りも微妙に異なる。いずれも香りがコン クリートやアブソリュートとして抽出されており、高級香水にはなくてはならない香料原 料である。珍しい花の香料としてはショウガ科の植物でジンジャーリリーの花からとった アブソリュートがある。ジャスミンを少しフルーティーにした様な香りが何とも可憐な白 い花に似つかわしい。量的にはわずかしか採れない為、まだそれほど香水に用いられて はいないようだが貴重な香料である。そして、インドの花の中で最も崇拝されている花 からも香料が採取されている。ロータス(蓮)の花である。特にピンクロータスはヒンドウ ー教の美と豊穣の女神ラクシュミの花として愛されている。そのかぐわしい香りは極楽争 土を満たす香りとして仏教でも珍重され崇拝されている。アブソリュー卜の香りは力強く 重厚で、グリーンな中にすこし土臭い香りがして、まさにインドの歴史と文化を象徴する かのような神秘的な匂いがする。寺院の中で香を焚きしめ、かすかに揺らめくロウソク の光の中でじっとこの香りをかいでいると突如女神ラクシュミの化身が現れてくるような 気がしてきた。シタールの調べにうっとりと、しばし陶酔のひと時が過ぎてゆく。 山本香料株式会社 代表取締役社長(薬学博士)

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「香りの迷宮を訪ねて」(神秘の国 - インドに咲くピンク口ータスの香り)

山本芳邦

太鼓の神々が宿る国、インドには更に奥深い香りの迷宮が私を待ち受けていた。スパイスのメッカ。香料のるつぼ。香りを崇める何億の人々が、時の流れを超えて大切に育んできた香りの王国がそこにはあった。歴史に裏打ちされた確かな証として、幾千年の時を濃縮したかのような、強烈な香りが私を瞬時にして虜にした。それはコーチン(Cochin)の空港に降り立つたところから始まったのである。

インドの東南海岸にあるコーチンはケララ州の商業の中心として地域の経済を支える港町である。歴史を物語るかのように、コーチンにはダスコ・ダ・ガマを祀るキリスト教会やシアンゴースの中心にあるユダヤ教会、ポルトガル人が築いたヨーロッパ風の町並みも見られ、インドとは思えない不思議な雰囲気をかもしだす。ケララ州の北にはフランシスコ・ザビエル終焉の地として有名なゴアというポルトガル人が築いた植民地もあり、マラバール海岸一帯は500年前から東洋と西洋を結ぶ、特に香料の貿易で栄えてきた地域なのである。また、北東の高原地域カルナータ州には白檀油の生産地としても有名なマイソールやバンガロ-ルという美しい古都が控えており、南部インドの香り文化は奥深く、計り知れない多様性を持つ。コーチンはスパイスの集積地として有名であり、私もこの地に点在するオレオレジン(香辛料の溶媒抽出物)や天然精油を製造する巨大な香料会社を3社訪れた。ナツメグやメース、ブラッグペッパーやジンジャーといったあらゆるスパイスの抽出を行う工場だが、近代的で広壮な設備には驚いた。これからもスパイスのメッカとしての地位は揺るぎないであろう。

インドではまた美しい花々の栽培が盛んである。異なる宗教の祭事には髪飾りや献花として生の花が大量に使われる。バラやジャスミン、シャンパカやチュベローズといった優美で香り豊かな花々が特に好まれる。ジャスミンの種類もサンパック、グランディフローラム、オーリキュレータムといった種類があり、香りも微妙に異なる。いずれも香りがコンクリートやアブソリュートとして抽出されており、高級香水にはなくてはならない香料原料である。珍しい花の香料としてはショウガ科の植物でジンジャーリリーの花からとったアブソリュートがある。ジャスミンを少しフルーティーにした様な香りが何とも可憐な白い花に似つかわしい。量的にはわずかしか採れない為、まだそれほど香水に用いられてはいないようだが貴重な香料である。そして、インドの花の中で最も崇拝されている花からも香料が採取されている。ロータス(蓮)の花である。特にピンクロータスはヒンドウー教の美と豊穣の女神ラクシュミの花として愛されている。そのかぐわしい香りは極楽争土を満たす香りとして仏教でも珍重され崇拝されている。アブソリュー卜の香りは力強く重厚で、グリーンな中にすこし土臭い香りがして、まさにインドの歴史と文化を象徴するかのような神秘的な匂いがする。寺院の中で香を焚きしめ、かすかに揺らめくロウソクの光の中でじっとこの香りをかいでいると突如女神ラクシュミの化身が現れてくるような気がしてきた。シタールの調べにうっとりと、しばし陶酔のひと時が過ぎてゆく。

山本香料株式会社 代表取締役社長(薬学博士)