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1 神社明細帳による神社合祀の事例研究 京都民俗学会第 38 回年次大会 @京都産業大学むすびわざ館 2019/12/15 由谷裕哉(小松短期大学) 1 発表の趣旨など 神社明細帳;明治12年(1879)「神社寺院及境外遙拝所等明細帳書式」(内務省達乙第 31号)に基づき、明 細帳の記述内容および形式が規定(再調製)された;⇒項目(鎮座地、社格、社名、祭神、由緒、社殿間数、境内 坪数・地種、境内神社<祭神・由緒・建物>、境内遙拝所・招魂社・祖霊社、境外所有地、氏子戸数、管轄庁までの距離) および用紙(美濃 13 行の界紙<罫線を用いた用紙のこと>が指定され、府県別に提出された。神宮および官国幣社 は含まれず。合祀や廃祀は、一般に朱字で追記される。 大正 2 年(1913)に書式の改訂が(内務省令第 6 号);⇒境内地種、境外所有地、管轄庁までの距離などの項 目が割愛。両者のどちらかが 1951 宗教法人法施行まで、神社に関する府県の公簿になったとされる;《refer⇒ 『社寺明細帳の成立』国文学研究資料館,2004;←後述のように、石川県<と茨城県>は事情が異なるかも》 神社合祀;明治 39 年(1906)の 2 つの勅令-96 号「府県社以下神社ノ神饌幣帛料供進ニ関スル」および 220 号「神社寺院仏堂合併跡地ノ譲与ニ関スル件」-により、内務省主導で府県を実施主体に行われた神社の統廃 合を指すことが多い(本発表ではその意味で);⇒森岡清美「明治末期における集落神社の整理」(『東洋文化』 40,1966)が学術的な論考の端緒。歴史学・地理学・宗教学・神道学からも多くの研究が。 {民俗学者の神社合祀研究} ;1960s から萩原龍夫や櫻井徳太郎、原田敏明らが各々の事例研究で神社合祀に 触れていたが、神社合祀専論の事例研究が出始めるのは 1980s以下に若干を参照)。しかし、神社明細帳はほと んど利用されなかった。考えられる理由として...; 〇 神社明細帳の所在が分かりにくい;田中宣一は川崎市の一事例につき、“手を尽くしたが、発見する ことができず”としている(「一村落における明治末期の神社整理」,『成城文芸』103,1983,p.41)。 〇 郡・町村あるいは神社で書式が異なる場合が有る;⇒ある区画における神社整理状況の集計に、使 いづらいと考えられたか;《refer⇒本事例では、同じ旧村内でも神社により書式・記載年が異なる↑しかし、両者とも民俗学固有の問題ではなく、あるいは何か別の背景が;《cf. 例えば、宗教学の華園 とし 麿 まろ は、宮城県の神社明細帳を積極的に活用;⇒「明治期における神社政策の経過と影響」,『日本文化研究所 報告』別巻 25,1988そうした基礎資料の選び方と関係するのか、分析も住民の抵抗(含・旧社への執着)への注目が大。 (例1)鈴木通大「神社合祀後における<分祀>について」,『神奈川県立博物館研究報告』10,1982. (例2)田澤直人「ムラと神社合祀」,『信濃』37-1,1985. (例 3)喜多村理子『神社合祀とムラ社会』岩田書院,1999. ↳ 本発表は、県庁*に所蔵されている神社明細帳を、発表者が一定区域に限定して公開申請して得た白黒複 写に依拠し、神社明細帳を利用することによって神社合祀をどのように明らかにできるか、を検討する;《*エントリーシートには茨城県<具体的には大洗町>と石川県の、と記したが、ここでは石川県の事例を主にとりあげる2 石川県および小松市内の神社合祀概況(+先行研究)および発表者が公開申請した地区の位置づけ 石川県全体の神社合祀概況;『石川県史』第4編(石川県,1931)「神社及び神道」の pp.686ff.に出るM17 (1884)と T1(1912)の神社数が 3186 に対して 2016 なので、約 63.3%;先行研究は、非商業出版の神社誌・ 町村史および発表者の旧稿(後記)の他、歴史学者による次の論文(事例は石川郡)がある;⇒奥田晴樹「地 方改良運動期の住民組織と神社」,『日本海域研究』36,2005。

神社明細帳による神社合祀の事例研究...神社合祀の情報は、上述の拙稿作成に利用した二次文献(『石川県の研究神社編』など)の記載とほとんど

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Page 1: 神社明細帳による神社合祀の事例研究...神社合祀の情報は、上述の拙稿作成に利用した二次文献(『石川県の研究神社編』など)の記載とほとんど

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神社明細帳による神社合祀の事例研究

京都民俗学会第 38回年次大会 @京都産業大学むすびわざ館

2019/12/15 由谷裕哉(小松短期大学)

1 発表の趣旨など

神社明細帳;明治 12年(1879)「神社寺院及境外遙拝所等明細帳書式」(内務省達乙第 31号)に基づき、明

細帳の記述内容および形式が規定(再調製)された;⇒項目(鎮座地、社格、社名、祭神、由緒、社殿間数、境内

坪数・地種、境内神社<祭神・由緒・建物>、境内遙拝所・招魂社・祖霊社、境外所有地、氏子戸数、管轄庁までの距離)

および用紙(美濃 13行の界紙<罫線を用いた用紙のこと>)が指定され、府県別に提出された。神宮および官国幣社

は含まれず。合祀や廃祀は、一般に朱字で追記される。

大正 2年(1913)に書式の改訂が(内務省令第 6号);⇒境内地種、境外所有地、管轄庁までの距離などの項

目が割愛。両者のどちらかが 1951 宗教法人法施行まで、神社に関する府県の公簿になったとされる;《refer⇒

『社寺明細帳の成立』国文学研究資料館,2004;←後述のように、石川県<と茨城県>は事情が異なるかも》

神社合祀;明治 39年(1906)の 2つの勅令-96号「府県社以下神社ノ神饌幣帛料供進ニ関スル」および 220

号「神社寺院仏堂合併跡地ノ譲与ニ関スル件」-により、内務省主導で府県を実施主体に行われた神社の統廃

合を指すことが多い(本発表ではその意味で);⇒森岡清美「明治末期における集落神社の整理」(『東洋文化』

40,1966)が学術的な論考の端緒。歴史学・地理学・宗教学・神道学からも多くの研究が。

{民俗学者の神社合祀研究};1960sから萩原龍夫や櫻井徳太郎、原田敏明らが各々の事例研究で神社合祀に

触れていたが、神社合祀専論の事例研究が出始めるのは 1980s(以下に若干を参照)。しかし、神社明細帳はほと

んど利用されなかった。考えられる理由として...;

〇 神社明細帳の所在が分かりにくい;田中宣一は川崎市の一事例につき、“手を尽くしたが、発見する

ことができず”としている(「一村落における明治末期の神社整理」,『成城文芸』103,1983,p.41)。

〇 郡・町村あるいは神社で書式が異なる場合が有る;⇒ある区画における神社整理状況の集計に、使

いづらいと考えられたか;《refer⇒本事例では、同じ旧村内でも神社により書式・記載年が異なる》

↑しかし、両者とも民俗学固有の問題ではなく、あるいは何か別の背景が;《cf. 例えば、宗教学の華園

聡と し

麿ま ろ

は、宮城県の神社明細帳を積極的に活用;⇒「明治期における神社政策の経過と影響」,『日本文化研究所

報告』別巻 25,1988》

そうした基礎資料の選び方と関係するのか、分析も住民の抵抗(含・旧社への執着)への注目が大。

(例 1)鈴木通大「神社合祀後における<分祀>について」,『神奈川県立博物館研究報告』10,1982.

(例 2)田澤直人「ムラと神社合祀」,『信濃』37-1,1985.

(例 3)喜多村理子『神社合祀とムラ社会』岩田書院,1999.

↳ 本発表は、県庁*に所蔵されている神社明細帳を、発表者が一定区域に限定して公開申請して得た白黒複

写に依拠し、神社明細帳を利用することによって神社合祀をどのように明らかにできるか、を検討する;《*←

エントリーシートには茨城県<具体的には大洗町>と石川県の、と記したが、ここでは石川県の事例を主にとりあげる》

2 石川県および小松市内の神社合祀概況(+先行研究)および発表者が公開申請した地区の位置づけ

石川県全体の神社合祀概況;『石川県史』第 4編(石川県,1931)「神社及び神道」の pp.686ff.に出る M17

(1884)と T1(1912)の神社数が 3186に対して 2016なので、約 63.3%;先行研究は、非商業出版の神社誌・

町村史および発表者の旧稿(後記)の他、歴史学者による次の論文(事例は石川郡)がある;⇒奥田晴樹「地

方改良運動期の住民組織と神社」,『日本海域研究』36,2005。

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小松市(大半が能美郡、一部江沼郡)の同上;能美郡 465に対して 272で約 58.5%、江沼郡 248に対して 158

で約 63.7%;《能美郡の神社合祀は石川県全体よりやや厳格、江沼郡は石川県全体とほぼ同、ということに;能美郡に

関する先行研究として、以下の拙稿が;⇒由谷「地域社会と神社合祀」,『地方史研究』250,1994》

小松市内で発表者が神社明細帳の公開申請をしたエリア;発表者は先に『石川県の研究神社編』(石川県

教育会,1918)や『石川県神社誌』(石川県神社庁,1976)など二次文献に依拠して、同市域 150余りの神社に

関する合祀状況を概観した;由谷「小松市内の神社合祀・序説」,『小松短期大学論集』25,2019;《リサーチマ

ップに pdfデータを公開した;⇒https://researchmap.jp/?action=cv_download_main&upload_id=248570》

それによれば、M39(1906)の県告諭における無格社の整理と一大字一社という原則が尊重されるも、①近

郊村とそれ以外との差異(近郊村では一大字一社になる傾向があるが、中山間地帯はそうではない)、②大字の広

さ狭さ(広い場合、無格社を含み複数社が残ることもある)、③人口の変化(減少すると、村社でも隣の大字に合祀さ

れることがある)、の 3点も考慮されることを導いた。

そこで、①近郊地帯、②平野部が主で大字は広くない、③人口の増減が見られる(現在の JR粟津駅が M40・

1907に誕生、などによる)、の 3点を考慮して、小松市南郊外、JR粟津駅<矢印>周辺を事例として選定した。ま

ず、小松市が 1940年に成立した際の 2 町 6 村のうち、旧能美郡粟津村(15大字)の神社明細帳を夏前に公開

申請し 9 社分の白黒複写を得た。その情報に基づき、本年 8月 24日に“北陸三県民俗の会”年会で研究発表

を行った;《ハンドアウトを下記に公開⇒https://researchmap.jp

/?action=cv_download_main&upload_id=270360》

上記 9 社分の事例では神社合祀の行われた神社数が 4 社

に留まったこともあり、今回はこの旧粟津村より小松市街地

に近く、同じく 1940年小松市成立の際の 2 町 6 村に含まれ

た旧御幸み ゆ き

村(8大字)および旧苗代の し ろ

村(14大字)の神社明細

帳を石川県に公開申請し、それらを本発表の分析対象にする

ことにした。

写真右上は小松市制 60 周年記念誌『元気のでるまち小

松』(同市,2000)より、校下(小学生の通学範囲;石川県

の方言か)に関する地図。先に研究発表した(上記 URL の)粟津村は粟津・木場・符津校下、今回事例とする

御幸村は今江・串・日ひ

末ずえ

校下、苗代村は苗代・蓮代寺・向本折校下と、ほぼ対応する;《なお、この地図の月津つ き づ

よび矢田や た

野の

校下は旧江沼郡に相当し、その神社明細帳も公開申請しているが、今回は取り上げない》

3 神社明細帳に記載された旧御幸村および旧苗代村の神社合祀

発表者が白黒複写を得た能美郡の神社明細帳は、8 大字の旧御幸村が 7 社分、14 大字の旧苗代村が 13 社

分。そのうち、神社合祀の情報があるのは、前者が 4 社、後者が 9 社(後掲の表)。うち、明治 12, 13年銘の

神社明細帳は計 6 社(表のゴチ)で、他は後の年号が記されるか、年不記載で印字されたもの(神社の所在地

が小松市と記載;←1940以降)《cf.茨城県大洗町磯浜町<旧磯浜村>の神社明細帳は、年不記載だが表記はM12

書式で、同年のものと推察される;⇒後述のように計 15社の内、13社分と 2社分とがそれぞれ同一筆跡》

神社合祀の情報は、上述の拙稿作成に利用した二次文献(『石川県の研究神社編』など)の記載とほとんど

が対応するものの、そこで欠落する情報も若干見られた(北浅井神社および幡生は た さ や

神社;←転写漏れか)。

最終的な社格は、幡生神社は県社(S3-)、今江春日神社および向本むかいもと

折お り

白山し ら や ま

神社が郷社、残りは村社。

なお、能美郡については M18(1885)成立とされる皇国地誌が遺されているので(翻刻は『石川県史資料編』(3)

<石川県, 1976>)、下記の表にその対照も付す。

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3

社名 大字 旧村 神社明細帳の合祀情報(M12-13 ゴチ) 皇国地誌能美郡村誌(M18)

今江春日

神社 今江 御幸

M37 境内神社野々宮社および白山社を合併、M41

市美屋社、合場社(白山社伊弉冉神と合霊)、石美屋

社、竹部社を合併、祭神は合祀の 7 神を併記、境内

神社 4 社記載 (年不記載、活字の明細帳)

村社今江八幡神社と境内社 4

社(八幡 X2+少彦社、野野宮

+白山 X2)、無格社石美屋社、

合場社、竹部社、市美屋社

串八幡神

社 串 御幸

T6 大字村松の村社八幡社を合併、S4 現在地へ移

転、境内神社項目無し (⇒S4 神社明細帳)

村社串八幡神社;村松村につ

いては、村社八幡社

八幡神社 日末 御幸 本社ヘ M40 同字の無格社(ママ)と同八幡社を合併

と追記;境内神社の項目無し

村社八幡神社と無格社八幡社

X2

佐さ

美び

神社 佐さ

美み

御幸 本社ヘ M40 同字無格社白山社 X2 を合併と追記;

境内神社の項目無、白山社を佐美神社と改称

村社佐美神社と無格社白山社

X2

三谷さ ん だ に

白山し ら や ま

神社 三谷 苗代

祭神に天照大神追記、“合併神社”M40 同字の巌之

御魂社、境内神社項目無 (年不記載、活字の明細帳)

村社白山社と無格社巌之御魂

八幡神社 本江ほ ん ご う

苗代

祭神に追記無し、“境内神社”の由緒として、M40 巌

之御魂社が移転、同年春日社 2 社が移転、T2 春日

社 2 社を 1 社に合併 (⇒T2 明細帳)

村社八幡社と無格社春日社、

巌之御魂社

熊野神社 勘定かんじょ う

苗代

無格社八幡社(本社)へ、M40 同字の村社熊野

社を合併して村社熊野神社と号、と追記、祭神

に素戔嗚尊を追加;境内神社の項目無し

村社熊野社と無格社八幡社

北浅井神

北浅

井 苗代

M13 改称、“境内神社”の由緒として、烽之神社、北

浅井白山神社、東之神社の 3 社が M39 境内神社

に。祭神は八幡三神のみ(年不記載、活字の明細帳)

村社北浅井神社と無格社東之

神社、烽かがり

之神社、北浅井白山

神社、舟津稲荷社

大領神社 大領

苗代

M40 村社白山神社(本社)へ同村の無格社竹部

島社および少彦社を合祀し、村社大領神社と改

称、と追記、祭神に市寸嶋比咩神と少彦名命を

追加;境内神社の項目無し

村社白山社と無格 社竹部島

社、少彦社

諏訪神社 大領

中 苗代

本社ヘ M40 同字の無格社金刀比羅社を合併、と

追記、祭神に大物主命と崇徳天皇を追加;境内

神社の項目無し

村社諏訪社と無格社金刀比羅

幡生神社 吉竹 苗代

M40 本社ヘ、同字の無格社吉竹白山神社と稲荷

社を合祀、と追記、祭神に稲倉魂命・大田神・

大宮媛神・伊弉諾尊・伊弉冉尊・菊理媛尊を追

加;境内神社の項目無し

郷社幡生神社と無格社稲荷

社、白山社

千木野神

千せ

木ぎ

野 苗代

由緒に一時諏訪社と称。M40 無格社八幡神社を合

併;祭神に八幡 3 神を追加+“合併神社”の項目有

り 、境内神社の項目無し(年不記載、活字の明細帳)

村社千木野神社と無格社八幡

神社

向本折白

山神社

向本

折 苗代

M44 大字北浅井の無格社舟津稲荷神社を合併、祭

神に稲倉魂命・大田命・大宮売命を追加+“合併神

社” の項目有り、“境内神社”の情報有り;←2 社とも

正徳年間の勧請と記(年不記載、活字の明細帳)

村社向本折白山神社

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4 神社明細帳の記載(含・追記)と神社合祀との関係

(1)神社明細帳でどのような形で合祀/合併が示されるか

〇{M12,13 の明細帳} 合併 or合祀の追記が社名の上辺りか欄外でなされ、祭神も追加;《←同祭神を合

祀の佐美神社は追加無し*;熊野神社@勘定、大領神社、諏訪神社@大領中、幡生神社で追記》

*日末八幡神社の欄外追記では、無格社の片方の社名が欠落しているが、祭神追記無いので八幡社か。

↑以上、全て“境内神社”項目無し;cf. M12, 13の明細帳で境内神社項目が有るものも(須天す あ ま

熊野神社@須天)

〇{おそらく移転により明細帳が再作成されたと考えられる場合;手書き}

串八幡神社(S4移転に伴い、同年明細帳が再作成か);由緒の一つに T6大字村松の八幡社合併が記載

八幡神社@本江(T2移転に伴い、同年明細帳再作成か);由緒は不詳とされ、“氏子”項目の後に“境

内神社”項目が付され、そこに八幡神社境内社複数の祭神・由緒などが記載(↓画像、詳細後述)。

〇{活字で印刷された明細帳;所在地名が小松市<1940->} 祭神は、合祀された祭神が元

の祭神から 1行空けて記載。“由緒”の一つとして表形式で“合併神社”項目が表記(右

画像<三谷白山神社>*);《例外有り;北浅井神社↓》

[* 三谷白山神社の現在の境内には神明社と鳥居があるので、上の表記法が本社ヘの合併

を示すとすれば、その後に境内社を建造し御神体を移した(分祀)のか]

北浅井神社の場合、“氏子”項目の後に“境内神社”項目が付される。元の祭神の後に

1 行空白により合祀神社の祭神が記されず、“合併神社”項目も無い;《←“境内神社トナ

ル”記載は同社のみ;他に活字の明細帳では今江春日神社✶と向本折白山神社、合祀の記録

が無い日吉神社@蓮代寺にも“境内神社”項目が有り、他項目は北浅井神社と同》;⇒活字の

明細帳では、“祭神”に境内神社の祭神を含まないのでは。

* ✶なお、三谷白山神社は S10 に社殿を新築したと伝わり、今江春日神社は T4全焼した

由であるのに(『今江潟と今江町の歴史』1969)、いずれも活字の明細帳“由緒”に記載無し。

---------------------------------------------

{cf.先行研究}渡部圭一「北武蔵の集落神社と神社明細帳-神社整理とその帳簿管理を中

心に-」(『埼玉民俗』34,2009);民俗研究者としては例外的に、T2書式前後の 2種の神社明細帳により埼

玉県児玉郡上里町の神社合祀を分析。同地区は 16 の近世村(町村制後 4 村)からなり、神社明細帳への掲載

神社数は境内社を含み 210(境内社除くと 86)。本発表では、渡部の神社合祀パターン分類を参考に。

(2) 合祀された御神体がどのような扱いになるか(合祀される場所)

{境外の無格社 3社⇒境内社 3社(?)⇒(移転に伴い?)境内社 2社へ}

八幡神社@大字本江;(T2記銘の神社明細帳)“由緒”項目が不詳、“境内神社”

の項目に、巌之御魂社につき M40八幡神社境内社として移転を終え云々。春日

社につき、同字内の春日社 2社を M40に八幡神社境内社として移転(右写真縦

線⇒)、T2前記の春日社 2社を 1社に合併、と記。明記はされていないが、同

年の移転による同名社の合併か。現在も境内末社 2社が神明社と春日社。

{境外の無格社 3社⇒境内社 3社}

北浅井神社;(活字による神社明細帳)上記のように“合併神社”項目無く、

“境内神社”の項目に、烽之神社・北浅井白山神社・東之神社の由緒として、

各々が M39“北浅井神社ノ境内神社トナル”旨の記載有り。現在も境内社が 3

社だが、S52に移転された際、境内社の祭神に若干の変化があったらしい(白山神社・烽之神社は同)。

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{一社内での境内社 2 社の本社ヘの合祀+境外の無格社 4社の本社ヘの合祀}

今江春日神社;(活字による神社明細帳)上記の通り、“祭神”項目の間に 1行空白で 7神を後記。“由緒”

には T4全焼の記無し。“合併神社”に M37境内神社の野野宮社と白山社(合場社と同霊と追記)を合併、M41

に無格社 市美屋社・合場社・石美屋社・竹部社の 4 社を合併、とある。《“本社”への合併とは明記されな

いが、M37の 2社が境内社の本社への合祀、M41の 4社が境外無格社の本社ヘの合祀であろう;←“祭神”

項目の空白行後の 7神は全てこの計 6社と対応;『石川県の研究神社編』では M41の合併のみ》

他に、神社明細帳に記載されている“境内神社”が 4社(八幡社 X2・少彦社・白山社)。祭神は別記。

↑皇国地誌と完全には対応しない。皇国地誌では八幡社 X2、野野宮社、白山社 X2の計 5社を境内社とし、

市美屋社、合場社、石美屋社、竹部社、の計 4 社を(おそらく境外の)無格社としている;←境外無格社は一致。

《cf. M45(1912) 『明治神社誌料』中巻 p.1600 では、“境内神社”を 6 社としているので、もしかすると御神体だ

けの移動で、野野宮社と白山社の祠は残したのかも?;⇒T4全焼⇒現在は祠 3社+護国神社+神明石祠他》

{境外の無格社⇒本社ヘの合祀・例}

佐美神社@佐美;(M12年神社明細帳、境内神社項目無し)M41同字の白山社

X2 を“本社”へ“合併”と追記。祭神は佐美神社の旧称が白山神社であった為

追記なし。現在の境内 2末社は白山社ではない(松尾神社と神明社)。

大領神社;(M13の神社明細帳、境内神社項目無し)M40竹生島社と少彦社を

“本社”へ“合祀”云々の追記に加え、祭神に市寸嶋比咩命と少彦名命が追記

されている。なお、S39現在地に移転し(鉄筋造り)、境内社無し。

その他、M12-13の神社明細帳では、八幡神社@日末、熊野神社@勘定、諏訪

神社@大領中、幡生神社@吉竹もほぼ類似の追記であり、同様に本社ヘの合祀

か;《←合祀されたと同社名の境内社を現在持つ神社も有り、要再検討》

昭和期と思われる活字の神社明細帳では、三谷白山神社、千木野神社、向本折

白山神社が、“祭神”項目に 1 行空けて合祀された祭神、“合併神社”の項目に合

祀された社名が出、“境内神社”の項目が無い;《←ただし、前プレゼンで検討した

旧粟津村の活字による明細帳で、これと同じ形式ながら、境外無格社を明細帳の合祀

年月に境内社として遷座したとの伝承が地元で確認できた場合もあったので、個々に

要検討; eg.上記のように、三谷白山神社<前頁写真>の現在の境内社は神明社》

----------------------------------------------------

{参考;復祀←いずれも宗教法人法施行後で、神社明細帳には記載無し}

串八幡神社;村松八幡神社が 1965 復祀。村松町の人口増による由(コマツ粟

津工場近く)。村松八幡神社の本殿は新造(離れて、“旧社殿跡”の石碑有り);《←

なお、串八幡神社の S4 銘の神社明細帳で、T6“本社”へ村松八幡社を“合併”と記すので、境内社を作らず本社に

合祀していたと推察される;+境内神社項目も無し》

向本折白山神社;舟津稲荷神社が元の北浅井へ 1997 復祀。ただし、神社本庁所属にはなっていない(同

市内で、神社本庁所属以外の社祠は他にも有り);《←上述のような活字の明細帳の書式から、本社に合祀か》

↑両ケースとも、合祀は他大字からのものであった(旧粟津村の復祀例<2例>も同上)。

5 茨城県庁所蔵の神社明細帳との比較

茨城県東茨城郡磯浜村(現・同郡大洗町磯浜町)の神社明細帳;大洗は発表者が別テーマ(サブカルチャー

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聖地巡礼)でフィールドとしている。S29(1954)磯浜町と大貫町とが合併して誕生した。前者に継承された磯

浜村は近世村で、天保 5(1830)の人口が 3724人(『新編常陸国誌』)。光圀に認可された遊郭を含む海浜の街

で、M22に磯浜町となっても大字を形成せず(なお、アニメに出て来る“大洗”は、多くが旧磯浜村エリア)。

磯浜村エリアには国幣中社大洗磯前神社がある。同神社の境内末社(現在は 11社;以前は 40社余りとも伝える

が、『大洗磯前神社誌』によれば、この数は境外の摂末社も含むらしい)の一部はもと周辺の氏神で、今でもその一

族を中心に盛大な祭祀が営まれるなど、石川県能美郡の村社クラスの神社と大きく異なった環境にある。

同エリア(旧近世村)に相当する茨城県庁所蔵の神社明細帳は 15社

分で、この点も能美郡(本事例では大字数>明細帳数)と大きく異なる。

この 15社は大洗磯前神社以外の無格社で、上記の摂末社かも;《←明細

帳 15社の筆跡が 2つに分かれ、大洗磯前神社の神職 2名が筆記?》

書式は M12のものと思われるが、年不記載。15社全てに“境内神社”

項目無し。うち 3社に廃祀となった旨の記載が有る。2社は T9(1920)

に廃祀(片方は氏神的なもの、もう片方は由緒不詳)、画像右の沖洲神社

は、S17(1943)那珂川の護岸工事により弟橘比売神社が遷座したこと

に伴い(山形雄三『祝町昔がたり』ほか)、本殿に合祀された。つまり、大洗

の旧磯浜村エリアでは、日露戦後の神社合祀は無かった模様。

写真のように欄外と祭神の右の 2 箇所、弟橘比売神社への合併が追

記されている。“由緒”によれば氏神的な神社だったか。

↳ 石川県神社庁所蔵の神社明細帳との顕著な違いは、この 3 社のよ

うに廃祀とされた神社明細帳も所蔵元に残されていること。なお、発表

者が見た限りでも、廃祀された神社の明細帳が残されている場合は他

にもある;《refer⇒『影印本福井県神社明細帳(嶺南編)』若狭路文化研究会,2001》

6 結び;神社合祀研究における神社明細帳利用の意義

日露戦後の神社合祀は、国家神道の一環と位置づけられる場合もあったし(refer;村上重良『国家神道』)、

この分野を牽引してきた森岡清美の著書題名(『近代の集落神社と国家統制』)のように、国家による“統制”

と考えられがちであった。神社明細帳も、そうした明治期の神祇政策の一里程と見なす所から、(氏子・民衆

側の視点に立とうとする?)民俗学者による神社合祀研究―結論として彼らの抵抗を導く―で、ほとんど利用

されなかったのかも;《cf. 周辺領域では上述の華園聡麿論文のように、価値自由な観点からの利用もあるのに》

確かに神社明細帳は、1951 まで府県の公簿として使われてきた。しかし、石川県能美郡で発表者が複写を

取得した神社明細帳のうち活字のもの以外は、(内務省達乙第 31号で指示されない)提出者名が明記されてお

り、それは社掌と氏子惣代の連署;《cf. 大洗の明細帳は無署名》

このことから類推すれば、上記に見てきた追記された合祀情報も、(合祀を要請した根拠は 2つの勅令および

県告諭であったとしても)神職および氏子による合議の結果が県にもたらされたものと考えられる。とくに、合

祀先がどこであるか(本社か境内社 etc.)は、県マターではなかったであろう。

↳ 石川県能美郡の明細帳は、上記のように異なる年代・書式の明細帳が合冊で綴られており、とくに活字で

印刷されたもの(他郡にもある模様)の評価は難しい。しかし、見てきたように個々の書式に即して読み方を

導き、かつ現地の事情も勘案すれば、氏子と神職との相互作用と思われる合祀の実態(とくに御神体の合祀場

所)についての情報を残す、第一級の史料と考えられよう;《←境内社相互の合祀<本江八幡神社>、境内社から

本社への合祀<今江春日神社>、のようにやや複雑な合祀形態も、神社明細帳から把握できた》