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Meiji University Title �-�- Author(s) �,Citation �, 18: 295-306 URL http://hdl.handle.net/10291/11668 Rights Issue Date 2003-02-28 Text version publisher Type Departmental Bulletin Paper DOI https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/

災異瑞祥記事を中心として 「斉明紀」における歴史 …...いきほひ記事が集中し、百済滅亡という東アジアの軍事的混乱の最中において、では特に、皇極紀と斉明紀のみに絞って論ずることとしたい。災異瑞祥

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Page 1: 災異瑞祥記事を中心として 「斉明紀」における歴史 …...いきほひ記事が集中し、百済滅亡という東アジアの軍事的混乱の最中において、では特に、皇極紀と斉明紀のみに絞って論ずることとしたい。災異瑞祥

Meiji University

 

Title「皇極紀」「斉明紀」における歴史叙述の方法-災異

瑞祥記事を中心として-

Author(s) 山田,純

Citation 文学研究論集(文学・史学・地理学), 18: 295-306

URL http://hdl.handle.net/10291/11668

Rights

Issue Date 2003-02-28

Text version publisher

Type Departmental Bulletin Paper

DOI

                           https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/

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文学研究論集第18号m.2

「皇極紀」

「斉明紀」における歴史叙述の方法

災異瑞祥記事を中心として

》ヨ①些&○{ぼω8ユo巴9ωo同昼江8厳..國2讐o屏午匹.、きα、.ω巴ヨΦ幣霞、、

    ζ巴巳《ぎωo旨Φ帥a9Φω帥9暮8什餌ω爲8冨き住磐ω且oδ岳臨σqげ

問題の所在

 『日本書紀』は中国の史書を模倣した「編年体」という直線的な時系

列を歴史叙述の方法としていながら、読者を任意の認識に到達させよう

と操作する部分がある。本稿ではその役割を負っている機能のひとつと

して、推古紀以降に頻出する災異瑞祥記事を考察する。

 単に災異瑞祥記事が述作に携わった史官の造作潤色であるとか、記事

の歴史的事実性に疑問を呈しているわけではない。『日本書紀』に記述

される歴史的出来事を、それらが秩序化されている編年体という直線的

                         (1)

時間軸から分解し、仮想された無時間の平面上に構造化する。するとそ

博士前期課程

日本文学専攻

山  田

二〇〇一年度修了

      純

団≧≦》U》言旨

・こには一回起性の特殊な歴史的出来事が直線的に秩序化されるという編

年体的叙述だけでなく、何らかの演出を含んだ普遍的な歴史解釈が「歴

                        (2)

史的事件」という仮面を被って登場していることに気づく。

 『日本書紀』は東アジア全体で通用する漢文体と編年体によって、天

皇権力が古代日本を支配する正当性を、その歴史によって保障する。こ

れにより、天皇権力は国際的にその正当性をアピールする。しかし歴史

の持つ容赦ない不動性-過去に事実が固定されるーと、律令が要求する

歴史には乖離がある。実際にあった天皇と、律令体制が要求する理論的

天皇像には大きな隔たりがある。彼らは律令が要求する「あるべき」理

想と「実際にあった」現実との隔絶を埋めるために「あったはず」の歴

一295一

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史を書き始めた。机上の造作や潤色といったネガティブな視点や編年体

という制約から仮に離れれば、史官が歴史的出来事を時系列だけでな

い、独自の関連性で語り出していることが見えてくるだろう。彼らが主

体的に何を描きたかったのかを考えることによって、本稿は主体的動機

を歴史学の領域に持ちながらも、文学の領域に踏みとどまり、批評する

ことができる。本稿はこの地点において論考を進めてゆきたい。

 その端緒とするのは推古紀以降に頻出する災異瑞祥記事である。災異

瑞祥記事のほとんどがこの時期に現れるのは、災異を観て未来を予知す

る知が、推古朝に中国から伝播し、やがて陰陽寮創設という律令のシス

テムにまで発展してゆく起源が語られているからである。災異の予兆を

正しく解くシステマティックな知とは、「天人感応」という、天が君主

の治世に対して与える警告であり、災異の意味するところの「象」を解

き、来るべき不幸な「果」を未然に防止する知の体系のことである。

『日本書紀』においては、このような知を抱えた災異瑞祥記事が史官に

                           (3)

よって意図的に配置されていることは既に指摘のある通りである。

 しかし推古紀以降の、全ての災異記事を論考するわけではない。本稿

では特に、皇極紀と斉明紀のみに絞って論ずることとしたい。災異瑞祥

記事が集中し、百済滅亡という東アジアの軍事的混乱の最中において、

    いきほひ

一方で「至徳まします天皇なり」と賞賛されつつ、他方で「天皇の治ら

す政事、三つの失有り」と批判されるこの天皇は、いったいどのような

天皇だったのか。最も明示的に本稿の主題と関わっている可能性があ

る。皇極・斉明天皇がどのような歴史叙述によって歴史たりえているの

か、その分析をすることとしたい。

二 血縁と神託

 天文気象などの災異瑞祥記事が頻出し始めるのは推古紀以降だが、そ

れ以前の『日本書紀』における歴史叙述の方法を確認しておきたい。

 『日本書紀』の素材となった史料は、歴史学的、神話学的、民俗学的

な研究がそれぞれ精緻な考証を挙げている。その提供する歴史的出来事

を、『日本書紀』述作に携わった史官がどのように関連付けていったか、

                     (4)

その方法論を問うことが本稿に課された主題である。その際、「編年体」

という第一の方法論を除外する。

 編年体という枠を外すと、歴史的出来事の前後連関の必然性は「血

縁」によって示されていることがわかる。神代紀を除いてそれぞれの紀

の書出しが血縁関係であることは、それが単発的な天皇の伝記ではな

く、一連の繋がりを持つ「系統」であることを構造的に保障する。これ

らは改めて述べるまでもない。

 次に「神託」が重要な方法となる。神託は政治的に重要だと描かれて

いるだけでなく、『日本書紀』が歴史を描く上で必要な方法論であった。

             えのやまい

例えば崇神紀五年に「国内に疾疫多くして、民死亡れる者有りて、

なかばにす

且大半ぎなむとす。」とある。翌六年「百姓流離へぬ。或いは背叛くも

の有り。其の勢、徳を以て治めむこと難し。」これは災異記事だが、気

象天文の類ではない。これらは後でわかるように神による崇りである。

この事態を受けて崇神天皇は「是を以て、農に興き夕まで場りて、神祇

 のみまつ

に請罪」り、神の真意を訊こうと努力する。すると「是より先に」と、

過去において起ったことを語り始める。この条の所属は崇神六年条には

一296 一

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ない。編年体という方法においてはどこにも属すことができない。時系

列的な所属を問えない記事に関しては、その機能によって前後との関連

性を考えるべきである。この条の機能は災異の原因を説明することにあ

る。つまり崇りの原因は、過去に天照大神と倭大国魂の二神を天皇の大

殿に並び祭っており、それらの神の勢いを畏れて宮殿から出した事にあ

ると、暗に本文にて内在的に示しているのだ。しかしこれを原因とする

断定的な判断は内在的には示されていない。そのように読むことができ

ると、あるいはそのように読むように『日本書紀』に要求されている。

そういえるだろう。

 翌七年になると、天皇は神託を請う。「恐るらくは、朝に善政無くし

て、各を神祇に取らむや。」という疑問は、天皇による政治に過失があ

ったため、神による災異が現れたのだ、ということを意味している。す

     みをぱ   

やまとととびももそひめ

ると天皇の姑である倭  日百襲姫に神がかって、大物主神を祭れば国

の災異が鎮まるとの託宣があった。宗教的祭祀によって国家的災異が治

まるということだ。しかし託宣の通りにしてもまだ国は治まらない。さ

らに天皇自身が斎戒沐浴して夢を請うと夢の中に大物主神が現れて、国

の混乱は神意であり、大物主神の子孫である大田田根子をもって祭司と

すれば国は治まると説く。つまり神の「意」によって災異が起り、神を

「祭祀」することで災異が鎮まるという構造である。この間に神の意を

伺う「神託」が存在する。この構造を経て、「是に、疫病始めて息みて、

国内漸に論りぬ。五穀既に成りて、百姓饒ひぬ。(七年十一月上)」とな

る。 

崇神紀にはもうひとつ、似た構造をもつ記事がある。十年九月、天皇

が将軍を四方に派遣すると「みまきいりびこはや おのがをを、しせむ

と ぬすまくしらに ひめなぞびすも」と歌う童女がいて、その歌を先

                しるし

出の百襲姫が武埴安彦による謀反の「表」であると解く。この百襲姫の

解によって、叛乱に対して十分備えることができた。これもまた謀反の

予兆があり、その予兆を解く者がいて、実際に予兆が意味するところの

ものが実現するという時間経過の構造になっている。そしてこの百襲姫

は後段の、いわゆる「箸墓」起源謳で「大物主神の妻」となる女性であ

る。つまり予兆ー神託-祭祀という構造には、神霊と交通可能な人物と

いう要因も重要だと考えられるのである。

 これは、続く垂仁紀における狭穂彦の叛乱で、天皇が夢見た内容を皇

后狭穂姫が解明し、叛乱に対して先手を打った構造を想起させる。語り

のパターン、というだけではない。歴史叙述の方法がこのような「災異

の予兆・神託による解明」という構造で、それに従い祭祀や征討という

「歴史的事実」が関連づけられているのである。またそれが政治手法と

も密接に関わっている点に注意が必要である。疫病の流行や百姓の叛乱

を鎮めるための政治的手法が天皇自ら斎戒沐浴して神託を請うことであ

ったことは崇神紀の示すところであり、さらに垂仁紀では二十五年二月

の詔勅のなかで、遍く神祇を良く祭ったという理由で崇神天皇の善政を

褒め、自分の治世に怠慢があってはならない旨を語る。善政は国内の神

を過失無く祭ることであり、不足があってはならない。祭りそびれた神

は祭祀を要求し、何らかの災異をもたらす。仲哀紀八年九月に「我を祭

                みおやすめらみことたち

れ」という神託があったとき、「我が皇祖諸天皇等、尽に神祇を祭りた

まふ。山豆、遺れる神有さむや。」と天皇が疑問を呈したのは、崇神以来

一297一

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の善政によって国内の神が余すところなく祭られたはずなのに、今さら

祭祀を要求してくる神は誰なのかと怪詔に思っているからなのである。

神だけでなく、景行紀では日本武尊が熊襲征討だけでなく、蝦夷(景行

紀二十七年に武内宿禰により「発見」されている)という国内の蛮族を

も平定し、成務紀によって制度的に行政機構が整備されているのである。

 仲哀天皇の疑問は、続く神功皇后紀の主要部分を為す新羅征討物語の

序となる部分である。神功皇后に神がかって託宣をくだした神は、仲哀

                    (5)

天皇に対して海外領土の存在と可能性を示唆する。

 しかし仲哀天皇は海の彼方に何も見いだせなかったために神に対して

先のような疑問を呈し、そして怪死してしまうのである。これは神託-

祭祀という方法論から外れているように見えるが、神託に逆らい祭祀を

放棄することで災異を招くという逆の論理でしかない。神託を正しく解

き、過失無く祭祀すると、神功皇后紀の新羅征討物語が示すように、神

功皇后は新羅を制すべく制す。そのためには神託に対して慎重であり、

神々を正しく祭祀しなければならなかった。そして神功皇后紀に至って

初めて、『日本書紀』における海外領土が地理学的範疇において把握さ

れたのである。そのように語られているのである。

 いわば崇神紀から神功皇后紀に至る歴史の流れは、国内神を余すとこ

ろ無く祭り、そこから敷術された地理学的海外領土すなわち新羅・百

済.高句麗という三韓半島までを、国土という概念に広げるための過程

であった。神功皇后は神託と祭祀によって、古代日本の最大版図を実現

した存在として、編年体の中に組み込まれているのである。歴史的事実

       (6)

かどうかは問わない。そのような歴史の流れが描かれているのである。

 そして神功皇后紀五年三月、葛城襲津彦が新羅を討ち、このとき連れ

帰った多数の捕虜が、葛城地方の桑原・佐魔・高宮・忍海の四村の始祖

となった、との記述がある。葛城襲津彦の娘の磐之媛は仁徳天皇の皇后

となり、履中・反正・允恭の三天皇を生んだ。雄略紀では葛城円大臣の

娘である韓媛が清寧天皇を産んだとの記述がある。葛城氏が五世紀の天

皇家の外戚となっていたことがわかる。下って推古紀三十二年十月に蘇

我馬子が葛城県を「元臣が本居なり」として下賜するよう推古天皇に要

請した記事が見え、推古天皇が拒否しているが、これは皇極紀元年是歳

条に「蘇我大臣蝦夷、己が祖廟を葛城の高宮に立てて、」天皇しか舞う

ことの許されなかった舞をしたとの記述と相まって、蘇我氏が葛城氏の

                (7)

後継となることを自負した行動ととれる。七世紀末、葛城地方から修験

道の祖と仰がれる役小角が現れる。葛城地方が特殊な地域であることが

伺える。時系列だけではない何らかの関連性が、少なくとも地域的関連

性が、ここにはある。斉明紀元年、ここから竜に乗った者が飛び出すの

である。

三 「皇極紀」における災異瑞祥記事

 皇極天皇は敏達天皇を曾祖父にもつが、皇女ではなく、さらに傍系と

なって三代目であり、野明天皇からも三親等となる。三親等による即位

は、例としては皇極と孝徳のみである。神功皇后を除き、正式に即位し

た女帝に関して言えば推古・持統は皇女であり、一親等である。皇極天

                         (8)

皇は、血統からいえば、特殊な位置にある天皇だと言えよう。

           まむたのいけ

 皇極紀二年七月条に「茨田池の水大きに臭りて、小さき虫水に覆へ

一298一

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り。」とある。茨田池は仁徳紀十一年十月に、耕作地の拡大と氾濫防止

の為に築かれたと記述されている。『日本書紀』において「聖帝」と称

された仁徳天皇の建設事業である。この水が同年八月には「藍汁の如し」

色に変わる。『漢書』五行志によると「流水が赤く染まるのは君主が堕

落し国家が危機」であり、変わった色は藍色だが、流水の色が変わるの

は水の気が乱れているからで凶兆といえる。

 皇極紀は編年的に大意を掴んでゆくと、まず韓半島の情勢が報告さ

れ、天皇の新嘗と紆明天皇の葬儀、蘇我氏の横暴、二年に至って百済大

使訪朝、そして蘇我入鹿による山背大兄王急襲と続き、あけて三年から

中臣鎌足と中大兄皇子の接近から入鹿謙殺、そしていわゆる「大化改

新」へと進んでゆく。茨田池の変異は入鹿による十一月の山背大兄襲撃

の前に位置していたが、水の色が変化した後、紆明天皇を葬り、皇極天

皇自身が最後まで看取った彼女の母を葬ると、水の色に変化が現れる。

大雨が降り、雷が降り、墓が完成したことを以て墓築造の労役をやめる

と、水の色が白くなり、臭いが消える。次いで群臣に自らの職権を守っ

て超えるところがないようにという詔勅を与え、蘇我蝦夷が子入鹿とと

もに朝廷を無視して世に威勢を張り、入鹿が山背大兄皇子の居、斑鳩宮

襲撃の腹を決めたところで、水が澄むのである。これは入鹿による斑鳩

宮襲撃の予兆として読めなくもない記事である。時に童謡があって、こ

                       (9)

れが『日本書紀』における「童謡」の用字の初出となるが、そのあとに

                          ましま

分注で「蘇我臣入鹿、深く上宮の王等の威名ありて、天下に振すことを

     ひところ

忌みて、独り暦ひ立たむことを護る。」とある。この注は入鹿が自ら帝

位に匹敵する権威を望んでいたと説明する。このすぐ後に斑鳩宮襲撃が

続く。山背大兄皇子が滅ぼされたとき、先の童謡が解かれ、歌がこの事

件を予兆したものであったことが語られる。

 皇極紀では気象天文の災異記事だけでなく、童謡も多く掲載されてい

る。これらの記事を通して、歴史が叙述される方法が多用されている、

ということだ。ただし予兆記事が豊富であるということは、「天人感応」

の理論からいえば、君主に問題があるということを意味する。

 例えば皇極元年十一月条「天の暖なること春の気の如し」とあるのは、

気象が自然の運行通りに行かないことを示しており、これは『漢書』五

行志によれば、側近を重用し賢臣を遠ざける堕落政治への警告である

「視」の徴と考えることができる。あるいは同年六月に「大きに旱る」

とある。旱は五行志によると「言」の徴であり、臣下が分を超えた権威

を要求する事への警告と解釈することもできる。これは入鹿の横暴を示

す予兆と考えることができる。同年十月には二日の間に三度地震があっ

たと記される。これは臣下の独断専行を警告する「思」と考えられる。

先の水の変色は水の気が損なわれる「聴」であり、同年七月に「客星月

に入れり」は「星辰逆行」で「皇極(皇の不極)」を示す。ここに、天

文記事が歴史的事実であるかどうかはともかく、皇極紀には五行志が言

うところの「貌」「言」「視」「聴」「思」「皇極」の全てが列記されてい

る、ということになる。災異瑞祥記事のカタログに近い状況であるとい

えよう。

                     から

 ただし皇極二年三月に「霜ふりて草木の花葉を傷せり」とあるが、こ

れはもしも枯れていなければ、霜が降りたのに葉が枯れないという不自

然さのために、「視」の「草木の妖」となる。これは暗愚な君主のため

一299一

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に賢臣が遠ざけられ罪ある悪臣が諜殺されない徴を示すものとなる。し

かし枯れているので逆に謙殺されることを表すものであると思われる。

他に同年二月に「桃の花始めて見ゆ」とあるのは、『漢書』恵帝紀五年

「冬十月雷あり。桃李華さき、廃実る」とあり、「赤祥」となり、「視」

であると考えられるが、これは冬に咲くはずのない桃の花が、あえて咲

くから「妖」なのであり、春二月に桃が咲くのは自然の運行が正常であ

   (ω)

る証である。つまりこれらは入鹿による山背大兄襲撃を予想させる凶兆

なのでなく、その後に起る中大兄皇子らによる入鹿訣殺の予兆としてあ

るのである。

 皇極紀に現れた全ての災異記事を分析するわけではないが、ここまで

みただけでも、予兆が何の事件に関しての凶兆なのか内在的に明示され

ていないことに気づく。凶兆を記述しつつ、それが誰の、何に対してな

のか明示しないし、一見凶兆記事と見せつつも五行志などで照会すると

凶兆でないという場合もある。ここまで五行志によっていくつかの分析

を試みてきたが、そのような照会作業がなければただの気象天文に関す

る災異記事としか読めないというのも問題である。読んでゆく者は編年

体の先の不幸な出来事を予感しつつ読むことになる。皇極二年二月是月

条にある「風ふき雷なりて雨氷ふる。冬の令を行えばなり」はその解釈

が本文で内在的に示された数少ない例である。また四年正月に起きた猿

          あるふみ

の「吟」に関しては、「旧文」「時の人」によって、孝徳朝によって行わ

れる遷都の予兆であることが明かされている。しかしそれでも、予兆を

知り、それを正しく解くことで歴史叙述が行われた神功皇后紀からは大

変な隔絶がある。既に指摘があるように、推古紀以降は気象天文の予兆

                    (11)

に関する「知識」が重要性を持ってくるのである。

 皇極紀前後を慎重に読めば、明示的な解が示してなくても、読めてく

る部分もある。例えば元年八月条に行われた皇極天皇の祈雨記事であ

る。入鹿が手つから発願し、仏法を以て祈雨したところ効果なく、代わ

って天皇が四方を拝して天に祈ったところ天下を潤す大雨が降った。天

下の百姓は「至徳まします天皇」と賛美する。皇極天皇の行った四方拝

は中国式の「天を円形と見なし、地を方形とみなす天円地方」の観念に

従った宗教儀礼であり、天皇の徳に感応した天が示した瑞祥と見るべき

である。さらに、その前段、蘇我入鹿が白雀を献上されるという瑞祥記

事が載せられている。白雀は『延喜式』では中瑞とされる。しかし献上

を受けた蘇我入鹿が請雨に失敗しているところから、この段は仏法に拠

った蘇我入鹿に対する批判として読むべきである。皇極天皇が「古の道

に順考へて、政をしたまふ。」とあるのは、推古天皇が蘇我氏を中心と

した仏法を擁護する勢力と協調したことと同水準で論じるべき問題であ

る。つまり皇極天皇による、仏法擁護派の蘇我氏に対する政治的不支持

を瑞祥として賞賛している場面と見るべきではないだろうかということ

である。

 これは読める一例かもしれないが、以上見てきたように、一方で「至

徳天皇」°と呼びつつ、天皇批判の災異記事が頻発している、あるいは瑞

祥を受けつつ訣殺される入鹿が描かれている皇極紀において、大多数の

予兆は内在的には何も解釈の説明がなされてはいないのである。皇極紀

に記述される災異瑞祥記事は、それ自体では何の解明もされていないた

めに混乱している、としか言いようがない。

一300一

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 つまり気象天文に関しては、重要な事象として記述するという知識は

獲得されつつも、その現象を解釈する段までは発展していない、という

こと示しているのだろうか。そうではない。それだけではない何かが、

斉明紀にいたって、現れてゆくように思われる。少なくとも、皇極四年

正月に現れた、猿による「吟」の怪異は、「時の人」によって「此れは

是、伊勢大神の使なり」と解かれているが、これなどは崇神紀から神功

皇后紀の問においては、天皇が解くべき予兆のレベルであった。明らか

な変遷が、そこにはある。

四 斉明紀における災異記事

  夏五月、庚午の朔に、空中にして龍に乗れる者有り。貌、唐人に似

  たり。青き油の笠を着て、葛城嶺より、馳せて謄駒山に隠れぬ。午

  の時に及至りて、住吉の松嶺の上より、西に向かひて馳せ去ぬ。

 斉明紀では冒頭、即位後すぐにこの記述がある。このような奇妙な書

き出しは斉明紀だけである。ここでも記述のみであり、この怪異に対す

る解説はなされない。ただし時代が下り、『扶桑略記』には解が提示さ

れている。即ち「唐人に似た」者は皇極時代に中大兄らに訣殺された蘇

我入鹿の怨霊であると。後の『廉中抄』『愚管抄』にも似た解があるが、

あるいは『扶桑略記』の記述に拠ったものだろう。『帝王編年記』は

「人多死亡。此霊所為。」とする。

 しかし龍が怨霊の象徴として描かれだしたのは、仏教が浸透した後の

ことである。『漢書』五行志によれば龍や蛇の妖は「皇極(皇の不極)」

により生じる凶兆となる。そして「唐人に似た」者が「西方」に飛び立

っていったのは、五行において戦争を表わす「金」の気が西方に配され

ているためで、西方で唐人と戦争があることを示していると考えられる

が、それでは龍に乗る理由がわからない。『晴書』五行志下に引く『洪

範五行伝』に「龍は陽の類、貴の象なり。上れば則ち天に在り、下れば

則ち地に在り。当に庶人の邑里の室屋に見わるべからず。」とある。つ

まり龍は尊い存在であるのに、それが人界に現れるから、凶兆となるの

である。仏教以前の龍は、中国において麟麟や鳳鳳にならぶ聖獣として

大事にされていた。皇帝の象徴でもあった。『廣雅』釈詰一に「龍、君

也」とある。皇帝の身体は龍体と呼ばれる。膨大な漢籍を参照した史官

である。龍を仏教的に解釈したとは思えない。もちろん、この龍を天皇

そのものと見て、斉明天皇の九州親征を考えるのもどうだろうか。九州

親征は斉明天皇の死によって明確な失敗に終わるのである。龍という

「陽の類」が天を駆けるのは凶兆とは思われない。したがって龍にまた

がる「唐人に似た」老もまた凶兆を示す存在とは考えにくいだろう。い

ずれにしろ怨霊という解は置いておこう。平安時代という時代状況をあ

わせて考えるべきだからである。

 あるいは『住吉大社神代記』において、この「唐人に似た」者は住吉

神社の神であるとされる。『住吉大社神代記』は神と解釈し、その乗る

ところの龍を「御馬」と記した。「龍」は「高さ八尺以上の馬」という

意味も有する。つまり住吉の神は馬に乗って、前述の地を謁見して回っ

たというのである。

 注意すべきなのは、住吉大社は「唐人に似た」者を神と見ていること

である。これは龍の出現を明らかに瑞祥と見ていることを意味する。凶

一301一

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兆に神威を見たりはしない。

 つまり問題は『日本書紀』が凶兆が瑞祥か、どちらともはっきりしな

い立場に自らを置いているところにある。瑞祥とも凶兆とも、どちらと

も解釈可能なのである。斉明天皇の周りには知識人が多数いるはずなの

に、誰一人としてこの怪異の真意を解いたものがいない。この不自然さ

からこの一連の記事を史官による造作潤色と見るべきかもしれないが、

さらに慎重な議論が必要となる。まさか龍の出現が瑞祥か凶兆か見分け

もつかない側近しかいなかったと語ろうとしているわけではないだろ

う。後に「天文遁甲に能し」と評され、道教的知識を良く身につけた天

武天皇(大海人皇子)が傍にいるからである。

 斉明天皇は即位の後十月に瓦葺きの宮殿を建築しようとするが、用材

が朽ちて使用に耐えず、建築を中止したとある。これを災異記事と見る

ならば、木の気が乱れ、木が動いたということになる。過ぎた建築を試

みて農民から農時を奪うと起る。続く「是の冬」条で飛鳥板蓋宮が火災

にあったため、急遽飛鳥川原宮に移り、ついに二年是歳条にて新しい飛

鳥岡本宮(古い飛鳥岡本宮は野明天皇の故宮)を建築した。続いて斉明

天皇が建築を好み、それらの建築が悉く失敗に帰したことを「時の人」

が批判する。

            おこしつくること

 この「時の人」は、「時に 興事 を好む」条に登場するが、「時に」

というのは編年的に所属が曖昧である。天皇批判という機能が考えられ

るが、細字二行の自注にて「若しは未だ成らざる時に拠りて、此の諦を

作せるか」とある。史官が解釈を掲載しているのである。しかしよく見

ると「もしかしたらまだ完成してもいない時期に誹諺しているのか」と

疑問を表していることがわかる。つまり後世には無事完成しているのだ

が、建築途中の事故等を指して誹諺しているのかと、この批判を史官が

疑問に思っているという意味なのだ。そう記述されている。確かに宮殿

以外の建築には、明確な失敗に終わったという記述はない。「時の人」

が「石の山丘を作る。作る随に自つから破れなむ」と言っているのみで

ある。建築の失敗が天皇による政治に対する批判なのではなく、建築の

ために大動員をかけたことが失政なのである。皇極紀では宮殿建築に関

して批判はなかった。

 ついで起ったのが有間皇子の叛乱である。斉明天皇が紀国の温泉に行

幸してる間に、留守官の蘇我赤兄が有間皇子に「天皇の治らす政事、三

つの失有り。」と天皇批判を行う。その内容は「民財の搾取、狂心の渠

建築にともなう浪費、そして石を積んで丘とすること」。この批判を受

けて有間皇子は叛乱を決意するが、事顕れて縛されて処刑されることは

改めて述べるまでもない。特記すべきなのは、有間皇子の叛乱の際、謀

        おしまづき

議の最中に皇子の案机(脇息)の脚が折れた。ここに不吉な前兆を見

て、謀議を中止して解散するが、この夜のうちに皇子は縛されるのであ

る。つまり皇子は先の予兆が示す致命的な危険性を理解することができ

なかったのである。この予兆に対する知識のなさが皇子の敗因のひとつ

                     ひねりぶみ         みかどかたぶ

であると考えられる。あるいは細字二行にて「短籍を取りて、 謀反

けむ事をトふといふ」として、叛乱の行方を占っている記事がある。叛

乱の成否が予兆解釈にかかっていることを示す事件であったといえよ

う。皇極紀ではほとんどなされなかった予兆解釈が、内在的に行われる

ようになっているのである。

一302一

Page 10: 災異瑞祥記事を中心として 「斉明紀」における歴史 …...いきほひ記事が集中し、百済滅亡という東アジアの軍事的混乱の最中において、では特に、皇極紀と斉明紀のみに絞って論ずることとしたい。災異瑞祥

 斉明四年には、是歳条として二つの災異記事らしきものを載せる。ひ

とつは出雲国の注進として「北海の浜に魚死にて積めり。」として、「俗」

の人がそれを雀が海に飛び込んだもので雀魚という、と説明したとあ

る。この後細字二行の自注で二年後の百済における軍事的混乱と日本の

軍事的緊張の予兆として解いたとの考察が掲載される。

 さらに「四年是歳条西海使小花下阿曇連頬垂、百濟より還りて言さ

く、「百濟、新羅を伐ちて還る、時に、馬自つからに寺の金堂に行道る。

聲夜息むこと勿し。唯し草食む時にのみ止む」とまうす。或文に云はく、

庚申の年に至りて、敵の爲に滅さるる鷹なりといふ。」とある。「或文」が百済滅亡

の予兆として解く。

                     つわもの

 六年五月是月条に「国挙る百姓、故無くして兵を持ちて、道に往還

                              しるし

ふ。」とあり、細書き自注で「国の老の言へらく、百済国、所を失ふ相

かといえり。」とある。これは六年十月条「(百済王が捕虜になったこと

は)蓋し是、故無くして兵を持ちし徴か」と、対応する記事を持つ。国

家存亡の重大事の予兆が、「国の老」によって解かれている。同じく駿

河の国に船を造らせて港に引き入れたところ、「夜中に故も無くして、

臆舳相反れり。」という現象が起きた。つまり後で船を出発させやすい

ようにと舳先を海の側に向けて停泊させておいたのが、夜のうちに舳先

が陸の方を向いていた(つまり戦争に敗退して港に帰着したような)状

態になっていたというのだ。これを見た「衆」は敗退することを知った

という。あるいは科野国の注進で、蝿の巨大な群れが西に向かって飛び

去ったとある。これが百済救援の戦争が敗退に終わる予兆であると、こ

れは本文によって解釈が為されている。その後童謡が続いて掲載されて

いるが、この童謡に対する解釈はない。しかし史官が堂々と予兆を解釈

している場面もある。それが斉明五年是歳条「出雲國造 名を關せり に

命せて、神の宮修嚴はしむ。狐、於友郡の役丁の執れる葛の末を喰ひ断

ちて去ぬ。又、狗、死人の手讐を言屋社に喰ひ置けり。言屋、此をば伊浮椰

といふ。天子の崩りまさむ兆なり。」である。これは細字二行の自注において、

天子崩御という重大事の予兆を、史官が堂々と宣言している。そこには

神功皇后紀にあった「天皇かあるいは天皇に近い者による神託の解明」

という歴史叙述の方法は見られない。予兆の解釈が主に「時の人」「国

の老」「或文」「衆」と、天皇の側にいない人々によって為されているこ

とがわかる。

 ただし予兆の解釈が権力者の側によって為されるのでなく、「国の老」

など、比較的一般の人々によって為されていると、そう記述されている

のは、推古紀に伝わった中国式の予兆解釈の知識が広く民衆に浸透して

いることの暗示と取ることができるかもしれないが、有間皇子の叛乱に

際してもそうであったように、予兆の解釈は叛乱のリークとも深く関わ

っている。体制側がいち早く叛乱を察知すれば、先手を打つことができ

る。逆に叛乱者側が天子崩御の予兆解釈に成功したのであれば、危機的

状況が現出する。

 ここに予兆を解釈するための窓口が国家によって独占されて、一本化

                  (12)

される政策が採られる。陰陽寮の創設である。政治批判、叛乱のリーク

と直結する予兆の知が天皇権力に対抗する勢力にわたらないためにも、

律令国家権力はその独占管理を計らなければならなかった。同時に、律

令国家権力が予兆に関する知識を独占管理する理論的・歴史的保障体制

一303一

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が、史官による歴史叙述に求められた。国家権力外で使用される呪術の

類は、皇極紀三年七月の常世神信仰弾圧記事のように、排除されなけれ

ばならなかった。もっともこの事件は民間祭祀の弾圧という面よりも、

仏法支持派の秦造河勝による道教的民間信仰との競合と見る方が適切か

   (13)

と思われる。しかし皇極紀が道教的民間信仰を弾圧したという記事が、

歴史の中にあることが重要なのである。国家による独占管理を外れた呪

術の類は危険そのものであったのである。それは国家によって収奪され

なければならなかった。

 そしてそれは天皇からも取り上げなければならなかったのである。か

つて天皇が保持していた、災異の予兆を知り、神託によって正しく解く

という能力は、すべて律令国家権力に管理運営されることとなったので

ある。天皇家を語る歴史の、叙述の方法の片翼であったこの方法も、

『日本書紀』そのものによって、内在的に収奪されていった。この過程

を、律令国家権力によって、予兆に対する知が独占管理されてゆく、直

線的な発展史観として見るべきではない。その作業は中国式の予兆の知

識を駆使する史官によって象微的に、かつ集中的に、どこかの紀におい

て行われなければならなかった。それがこの皇極紀・斉明紀である。

 神託を解明するという天皇だけの特殊な能力が収奪されたとき、それ

ぞれの天皇が歴代天皇の歴史と、言い換えれば天孫以来の正統と、己を

関連付けられるのは「血縁」だけとなった。しかし皇極天皇に残された

血縁は、弱力すぎる。皇極天皇を天皇たらしめたのは己の血縁でなく、

天智天皇の血ゆえなのである。

 神託も予兆も読めなくなった彼女に残されたのは、自らの帰属すべき

場所を求めた「行動」だけだった。彼女は行動し、機能し、『日本書紀』

の中で自らを歴史のなかに、内在的に根付かせなければならなかった。

そのとき、彼女は天智天皇や後の天武天皇である大海人皇子、そして国

家機能の全てを引き連れて九州親征に臨んだのである。

 斉明朝の出来事が神功皇后紀を夢想したのではない。編年的に『日本

書紀』を読む者にとって、斉明紀は神功皇后紀を背負った紀である。百

済滅亡は古代日本にとって、半島経営の足がかりの消滅であり、神功皇

后紀以来の海外領土領有という可能性の、最終的喪失であった。これを

そのまま描くならば、史官にとって、『日本書紀』は律令国家の建設を

目標とした、下降史観を持った歴史書となったであろう。しかし『日本

書紀』は、律令以前の古代の多様性を次々と奪うことにより、律令とい

う絶対性にまで統一し、自らを豊饒にすることに成功している。

 斉明は失い続ける女である。百済を失い、その救出に失敗しつつも、

「神託」という古代を背負って最大版図を実現した皇后を背にした女が

九州で死んだ。そして律令国家としての日本の版図が確定され、新しい

世界が開かれたのである。『日本書紀』は斉明紀の存在によって、自己

救出に成功したと言える。

五 結 語

 以上、皇極紀と斉明紀が『日本書紀』の歴史叙述の方法において、特

殊な役割を示していたことを見てきた。しかし本稿では皇極紀と斉明紀

に焦点を絞って考察した結果、推古紀から天智紀を経て、天武紀へと突

き抜けてゆく総合的な考察までたどり着かなかった。予兆の知という歴

一304一

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史叙述の方法が、日本書紀の中でどのような機能を持っているか、一度

は総合的に考察されなければならないと考える。また、斉明天皇を「失

う女」と位置づけることにより、建王歌群等のテーマを新たな視点で捉

え直すことができるのではないか。次回別稿を期したい。

注(1) 本稿は歴史的事実の当否を問うのではなく、それらをいったん棚上げ

  し、『日本書紀』が記述する通りの内容を、できる限り内在的に読む方法

  を採る。歴史は歴史的事実の集積ではなく、歴史的出来事を選択し歴史的

  事実として撰述した意味を問うもの、あるいは現在の自己と直面するもの

  として平面に展開されたものだというE・H・カー『歴史とは何か』(一

  九六二年三月、岩波書店)を参照。同時に井筒俊彦が『意識と本質』(一

  九八三年一月、岩波書店)で東洋哲学をマクロに共時的構造化し、時間軸

  や空間軸を理論的に払拭した理念的空間で、思考パターソを抽出した方法

  の影響下にある。ただし『日本書紀』の一部分というミクロな対象に適用

  する場合、よりカーの影響を受けていると考える。

(2) 以下、本稿では、「歴史的事件」を、過去に起きたあらゆる「歴史的出

  来事」の中から、歴史家が特別な関心を持って取捨選択し、意味を付与し

  たものとして取り扱う。つまり歴史とは「歴史的出来事」の集積ではなく、

  それらをどう関連付けるかという判断の問題である、ということだ。歴史

  を問うとは、歴史家が取捨選択の過程で使用した基準と意味を考察し、歴

  史家がおかれていた社会的状況やその制約について理解することにある。

  本稿は常にこのような姿勢を取る。

(3) 推古紀以降、陰陽寮創設まで、この陰陽道に関する知識が発展していっ

  たとする見解は田村圓澄「陰陽寮成立以前」(『陰陽道叢書1』一九九}年

  九月、名著出版)にあり、この時期の歴史はこうした予兆を解く知識が律

  令国家によって独占されていく過程であるとする。これに対し、津田博幸

  「歴史叙述とシャーマニズム」(『日本文学』第四十八号)は予兆を解くた

  めの体系的知識そのものが、『日本書紀』の歴史叙述の方法と深く結びつ

  いていると指摘する。その起源として、推古紀における聖徳太子の存在に

  着目し、太子が開いた知識を、後の史官が継承した事を示唆する。史官が

  災異瑞祥記事を作為的に配置したことに関しては『日本古典文学大系・日

  本書紀』頭注の指摘による。

(4) 本稿は『日本書紀』における総合的な叙述論に対応しているものではな

  い。『日本書紀』が行う歴史叙述の「パターン」を抽出し、その特徴に迫

  ろうとするものである。いったい述作者は神功皇后紀において何を描こう

  と試みていたのか、それを歴史的事実の当否にかかわらず掴みだしてみた

  いのである。

(5) 海外領土に関しては、垂仁紀に新羅の王子天日槍記事があり、任那経営

  の段があるのだが、それらはあくまで「国内記事」扱いだと考えたい。こ

  の「発見できなかった」海外領土が神功皇后によって「西北に山有り。帯

  雲にして、横にわたれり。蓋し国有らむか。」として、新たに「発見」さ

  れたとき、『日本書紀』は海外を領有の可能性として持つステージへと移

  行する。たとえ神功皇后紀以前に海外国家の存在が指摘されていようと

  も、神功皇后紀において改めて発見されたという記事を挿入したと考える

  べきである。この発見が歴史的に三韓半島の発見であるというのではな

  く、『日本書紀』における地理学的三韓半島の成立となるからだ。

(6) 神功皇后紀をはじめ、景行紀など、タラシ系の天皇が七世紀半ば、とく

  に天武朝での史局の仕事であり、おそらく斉明天皇による九州親征、蝦夷

  への関心等が逆照射されてこれらの紀が作られたのではないかとしたのは

  直木孝次郎「神功皇后伝説の成立」(『古代日本と朝鮮・中国』一九八八年

  九月、講談社学術文庫)であった。しかし歴史的事実の当否を棚上げする

  とき、皇極紀・斉明紀は、『日本書紀』を編年的に読む者にとって、やは

  り神功皇后紀を背負っているのである。そして述作側もまた同様となる。

(7) 『新編日本古典文学全集・日本書紀』頭注の指摘。

(8) 皇極天皇は天智天皇の影響力ゆえに、つまり天智天皇の母だからこそ即

  位できたと、河内祥輔(『古代政治史における天皇制の論理』一九八六年

  四月、吉川弘文館)が指摘している。ただし氏は「血統の権威」という見

  解から説いていて、本稿と視点を異にする。

(9) 童謡は『漢書』五行志等にある歴史叙述の一方法であると、『漢書五行

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  志』(一九八六年九月、平凡社。東洋文庫四六〇)の指摘がある。ある事

  件の前兆として童謡が歌われ、事件が起り、その童謡が事件のあらましを

  歌っていたと後で解かれることで、歴史的出来事を関連づけて歴史を編ん

  でゆく方法があるということだ。五行志によると、童謡は詩の妖であり、

  臣下が分を超えて君主を犯す時、前兆として現れるという。

(01) 推古紀三十四年正月、「桃李、華さけり」とある。これは正月に咲いて

  いるので草木の妖であり、凶兆である。この直後に蘇我馬子が死亡する。

(11) 津田博幸前掲論文。

(21) 陰陽寮は天文・暦の機能も付されているにもかかわらず、名称が「陰陽

  寮」となっていることが、陰陽道という知識・技術がいかに重要視されて

  いたかがわかる。唐では天文・暦等を扱う太史局と、占卜・方術を掌握す

  る太ト署は所属が異なっていた。

(13) 『日本古典文学大系・日本書紀』頭注の指摘。

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